1 : 以下、名... - 2016/08/06 21:39:37.47 8onyAH8e0 1/304

 けいおんの田井中律の誕生日SSです。
本日から律の誕生日である8月21日にかけて、毎日更新で投下していきます。
(最終日は0時を跨いで迎えたいので、実質的には20日深夜までの予定です)

 なお、タイトルは2014年に投下したかったネタだけど2016年になってしまった、という自省です。
特に意味等はございません。


注意事項及び補足は下記

・直接的な性交渉はありません。
但し、マニアックな描写や際疾い描写が一部にありますので、念の為にSS速報Rに投下しております。
閲覧の際はご注意下さい。

・地の文有り。

・長いです。

・全17章構成ですが、日に2章分投下する事もございます。



 その他、所謂「何でも許せる人向け」の内容ではございますが、ご海容頂ける方は高覧下さると幸いに存じます。
 以下より本文です。

元スレ
田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1470487177/

2 : 以下、名... - 2016/08/06 21:40:49.54 8onyAH8e0 2/304

1章

 この順番も彼女、田井中律で最後だった。秋山澪は興味ない風を装って、昔日から愛用している白いバラへと目を落としたまま聞いた。だが、田井中律の明かしたスリーサイズは、彼女の体躯と照らして納得できる値ではない。澪は手に持ったバラの白い花弁から、律の身体へと視線を移す。そして上から下へ、続いて下から上へと、切れ長の瞳を往復させた。

 改めて見ても、自分の抱いた感覚に自信を深めただけだった。やはり律の体型は、彼女が自ら申告した値を備えているようには見えない。夏休みの部室に集う面々も、思いを同じくしているようだった。澪を含む四人の視線が一点、律の胸部へと注がれる。

「何処見てんだよぉっ。言っとくけど、脱ぐと凄いんだからぁー」

 集った視線の意味を悟ったのか、律が喚いた。スリーサイズを打ち明け合った場では、律の大胆な物言いも自然と溶け込む。学期内とは異なる雰囲気が、話題にも口走った言葉にも見て取れた。

 夏休み前と今で違うのは、唯の席の斜め後ろの窓周辺だけではない。休暇入りの直後に工事が行われたその窓は、見目に目立って装いを一新していた。伴って、その周辺の家具の配置も僅かに動いている。だが、インテリアの変化など些事に思える程、夏休みが彼女達の精神に与えた影響は大きかった。

 夏季休暇に入って十日以上過ぎ、暦は八月に突入している。多感な年頃にある彼女達の話題を夏休みが毒すには、充分な時間だった。長期休暇は気分に開放を齎し、人気の少ない学校は部活に閉鎖性を齎す。その双糸が、彼女達を際どい会話に導いたのだろう。

「そんな、ムキにならなくてもいいじゃないですか。私達だって正直に言ったんだから、律先輩も本当の事を言っていいんですよ?」

 澪達が属する軽音部の中で、唯一の後輩である中野梓が苦笑交じりに言った。部員五人の中で一人だけ色違いの赤いタイが、律と同じくらいにしか見えない胸元で結ばれている。

3 : 以下、名... - 2016/08/06 21:42:12.48 8onyAH8e0 3/304

「嘘なんかじゃないっ。澪やムギ、唯はともかく、梓には負けないんだからな。りっ」

 そう言って律が胸を突き出した。胸に二つ尖る円錐の鋭角は、専ら梓のみへと向いている。胸に鈍角の膨らみを盛り上がらせた紬や唯とは、張り合おうなどとしていなかった。律も見目に明らかな分の悪さを理解しているのだろう。

 一方で、同程度の胸囲と思しき梓に対しては、対抗意識を剥き出している。先輩としての矜持も透けて見えるようだった。彼女に勝りたい気持ちが、律を詐称に走らせたのかもしれない。

「そぉ?ていうか、あずにゃんの方が少しだけ、大きく見えるような気もするけど。少しだけ、ね」

 律や梓を構う好機と見たのか、平沢唯が茶化すような声音で割り込んだ。唯は普段から、この二人へと頻繁に絡んでいる。虐めと弄りは違うという思考の透けた、彼女なりの可愛がり方だ。

「もう。少しだけ、ってそんなに強調しなくてもいいじゃないですか」

 からかわれた梓が、棘のない穏やかな声音で唯に返す。言葉とは裏腹に、律より上と認められた事で気を良くしているらしかった。一方の律は不満露わに頬を膨らませ、唯と梓の胸部に険しい視線を送っている。

「駄目よー、身体の事をからかったりしたら。りっちゃんに謝らないと、ね?」

 琴吹紬が唯を窘めた。元々、律に甘い紬だが、それだけが擁護の動機ではないだろう。紬自身、心無い人間から肥満だと嘲られる事が少なくない。紬は虐めと弄りを同一視するらしく、そういった揶揄を許していないのだと推せた。

「えーっ?からかったりなんか、してないよー」

 唯が口を尖らせた。まだ、と頭に付ければ、その通りの発言ではある。体型の事で茶化そうとしている態度を察せられ、紬が機先を制した。それくらい、澪にも分かる。

4 : 以下、名... - 2016/08/06 21:43:28.87 8onyAH8e0 4/304

「律も意地を張るなよ。大きければ良いって訳じゃないんだから」

 公平を期す訳ではないが、澪も律を諭しておいた。唯は不満気だが、甘い物でも与えれば機嫌は直る。だが、律は根に持つ性格だった。紬の擁護を受けた今もまだ、瞋恚に燃えた瞳で唯と梓の胸を睨んでいる。自分の主張が通らない事で、拗ねているのだ。

「意地なんて張ってないし。本当の事だもん」

 律は澪に対しても口を尖らせ反駁してきた。反抗的な語勢が癇に障った澪は、バラの切っ先で律の口を指しながら睨み付ける。生意気な態度も躾けてやらなければならない。

「まー、でも、大きければ良いって訳じゃないのは、その通りだけどー」

 途端に律は態度を軟化させ、澪の言を援用してきた。惚れた側の弱みに違いないと、澪は所期の効果に内心で笑んだ。付き合ってこそいないが、律は自分に惚れているという自信があった。惚れた相手を前にして、真っ向から反目する度胸など律にはないだろう。

 それでも胸囲以外の事で迎合の姿勢を示すあたり、律は主張の本旨を覆してはいなかった。

「あれー?りっちゃん、負け惜しみー?」

 唯は席を立って窓の前へと移動し、挑発的に胸を揺らしながら煽った。

 部室の窓枠のほぼ全てには、奥へスライドする方式の小窓が六つ装着されている。唯の後方の窓も、夏休みの前までは例外ではなかった。六つの小窓を一つの片開きの窓へと統合したのが、この夏休み初頭の工事である。工事した窓の周辺は赤いビニールテープで囲まれており、唯はそのビニールテープの作る四角い空間の中に位置を占めていた。

 目立つ場所に立ってまで律を挑発する唯の姿に、澪も呆れざるを得ない。そこまでして、律に構ってもらいたいのだろうか。

5 : 以下、名... - 2016/08/06 21:44:24.74 8onyAH8e0 5/304

「違うっての。事実じゃん。大きいからって、唯は見せる相手も揉ませる相手も居ないじゃんかぁ。サイズじゃないっていう、いい証拠だよ」

 律も唯の挑発を捨て置けば良いのに、彼女の掌の上で吠え立てていた。自分の横槍が唯に付け入る隙を与えてしまっただろうか。紬に任せておけば良かったかもしれないと、澪は思わないでもなかった。

 だが、律の胸は澪の肉欲をそそるに十分な用を為している。自分に惚れているのなら、自分に対してだけ扇情的であれば良い。婉曲であっても、その思いを宣せずには居られなかったのだ。

「そうだねぇ。でも、りっちゃんも居ないでしょ? どうせ居ないなら獲得に有利な方、つまりは胸の大きい私の勝ちですなーあ」

 勝ち誇った笑みを唯が見せる。対照的に、律の顔には悔しさが滲んでいた。

 そろそろ、唯の方を咎めるべきだろうか。律を諭した所で、唯を調子に乗らせるだけだろう。

「もう。駄目よ、唯ちゃん」

 唯を叱ろうとした矢先に、紬が先行していた。澪は出かけた言葉を、喉の奥へと押し戻す。こういう役は、自分よりも紬の方が向いているとの判断からだ。万事淑やかな彼女なら、場を荒立てずに唯も律も収められる。そう思い、澪は黙って紬の次の言葉を待つ。

「居るもん」

 だが、澪の鼓膜を叩いた声は、穏やかな紬の声ではなかった。激しい感情の籠もった、律の声音だ。

6 : 以下、名... - 2016/08/06 21:45:35.83 8onyAH8e0 6/304

 紬と梓と唯の三様に呆けた顔が、一様に律へと向く。彼女達と同じ表情を浮かべている自分の顔が、澪の脳裡を過ぎった。律の言った事が理解できない。それどころか、幻聴との区別さえ曖昧だった。

「彼氏、居るもんっ」

 呆けた澪達に突き付けるように、律が叫んだ。それは空気を震わせて迫り、容赦なく鼓膜に叩き付けられる。澪の中で現実と幻聴の区別が、別たれた。

「冗談、ですよね?」

 未知の物に触れるような口振りで放たれた梓の問いは、取りも直さずに澪の嘆願を代弁していた。

 律が今まで自分に対して取ってきた、行動や言動の一つ一つが脳裏を巡る。そこから恋情を汲み取っても、不自然ではないと思えるものばかりが。

「あーら、失礼な事言っちゃってぇ。私にだって彼氏くらい居るし」

 だが、眼前の律は、澪の見通しを木端微塵に粉砕する発言ばかり続けている。律から感じていた好意は、勘違いに過ぎなかったのだろうか。或いは、勘違いさせられていたのか。澪の自信が揺らぎ、変わって怒気が腹の底から湧いてくる。

「りっちゃんたら、逸早く抜け駆けしてたのね。いいなぁ」

 憧憬を滲ませた声音で紬が言う。律を見つめる彼女の眼差しも、羨望に満ちていた。澪には紬同様の態度で、律の発言を遇する事などできない。落胆と怒りが視線に籠もらないよう、自分を抑えるだけで精一杯だった。

7 : 以下、名... - 2016/08/06 21:46:48.73 8onyAH8e0 7/304

「えーっ?りっちゃんは私より先に彼氏を作ったりしないよねぇ?」

 唯が眉根を寄せて、律に問う。

「ふーんだ。胸ばっかり出てて度胸を出さずに、のろのろしてるからだ」

「りっちゃんの癖に」

 唯は頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。拗ねた態度を隠そうともしていない。唯にせよ紬にせよ、素直な反応だった。

「いや、やっぱりおかしいですって。何で彼氏が居るって事、隠してたんですか?」

 梓も倣うかと思いきや、正面切って疑問を浴びせていた。言われてみれば、と澪も胸中で同意する。もし、律が恋人を作っていたのならば、自分が気付いているはずだ。

「隠してた訳じゃないって。別に訊かれてもいないのに、自分から言う事でもないからさ」

 梓に対しては、そうかもしれない。自慢のように聞こえて、宣する事は憚られるだろう。だが、澪に対して一言も相談しないとは考えづらかった。些細な事でさえ、律は澪の意見を求めてきている。異性との交際など、澪に頼り切りの律が一人で処理できる事柄ではない。

 それ以上に、恋愛の当事者という重要な変化を遂げておきながら、いつも傍に居る自分に勘付かれなかった事が不自然だ。一体何時、逢瀬の刻を持ったと言うのだろう。

「隠れてなければ、気付くと思うんですけど。そうだ、澪先輩。律先輩から彼氏が居るような素振りを感じたりしてました?」

 梓もそこに思い至ったらしい。自分達はまだしも、澪には勘付かれるはずだ、と。

8 : 以下、名... - 2016/08/06 21:47:44.51 8onyAH8e0 8/304

「おいおい、私に聞くなよ。別に律なんかの一挙手一投足に注意を払ってる訳じゃないんだからさ。どっかで男を誑してても、気付きやしないよ」

 澪は突き放すような語勢で答えた。不自然な点を見つけたからと言って、澪の怒りは収まっていない。

「ほーら、澪先輩だって気付いていないみたいですよ。で、何で隠してたんですか?それとも」

 梓は意味深に言葉を切ると、細めた目で律を見つめた。律の事など興味がないと澪は言った積もりであったが、梓の受け取り方は異なっている。自説に有利な部分だけ抽出し、律への詰問に充てていた。

 律に恋人ができると、梓にとって不都合な事でもあるのだろうか。そう思わせる必死さが、彼女の論法に見え隠れしている。

「いいじゃない、きっと恥ずかしかったのよ。大丈夫よ、りっちゃんの彼氏さんなんですもの。いい人、なのよね?」

 浮かれていた調子から一転、紬が声を引き締めて問うた。同時に、梓の瞳が真剣さを帯びる。澪も梓の真意を理解した。それは間を置かず、共感へと変わる。

 梓は律が悪い男に誑かされていないか、心配なのだ。箱の外に疎い律が男を選るに当たり、自衛まで見据えられるとは考えづらい。逆に、甘言に釣られてしまう危うさがあった。

「うん。いい人だよ。ダァったら、恰好良くって、頭も良くって、スポーツも得意なんだ。優しくて甘やかしてくれるし、お姫様みたいに扱ってくれるんだけど、でも、恥ずかしい事もやらせてきたりして。うん、辱めてきたりもする、サディスティックな面も持ってて。りーっ」

 言っているうちに恥じ入ったのか、律は赤く染まった顔を両手で覆って呻く。

9 : 以下、名... - 2016/08/06 21:48:38.43 8onyAH8e0 9/304

「それ、りっちゃんの願望?そんな都合の良い人、居ないよねぇ」

 唯にしては珍しく、世間の人間像に拠った意見だった。だが、当事者の心理状態にまでは寄り添っていない。痘痕も笑窪。欠点が多く長所の少ない相手でも、強烈に惚れてしまえば完璧な人間像をそこに見る。

「そうですか?なんか聞いてて、澪先輩みたいな人だなって思いましたけど。律先輩には、澪先輩みたいな人が似合うかもしれませんね。実際、似ているんですか?」

 邪気のない梓の声に、澪の心臓が跳ねた。自分だけが律に似合っている。それは、澪が長らく確信してきた命題だ。

「はぁ?全っ然っ違うし。何を聞いてたんだよぉ」

 律は梓の謳ったテーゼに、偽と回答するらしい。殊に、喚き散らす強い語勢が、澪の癇に障った。そこまで嫌なのか、と詰め寄りたくなる。澪の気分をこの上なく害す、生意気で反抗的な態度だ。

「ああ、全く以って似てないな。大体、私がこんなのをお姫様扱いするか。優しくする気にも、甘やかす気にもなれないな」

 澪は怒りの侭に言い放つ。尖る言葉も刺す語調も構わずに突き放してやった。律の強張る顔を見ても、溜飲は下がらない。その頬を張ってやったら、少しは怒気も収まるだろうか。このバラの白い花弁が赤く染まるまで傷付けてやったら、気も晴れるだろうか。いっそ、押し倒してしまおうか──

10 : 以下、名... - 2016/08/06 21:49:45.50 8onyAH8e0 10/304

「いや、あの。似てるって言っても、完璧な所が、って意味で。澪先輩、恥ずかしい事とかはやりたがらないし、やらせたりもしませんものね」

 律と澪の反論の勢いが予想外だったらしく、梓は慌てたように言い繕っていた。悪意のない軽口を咎めた形になって、澪も決まりが悪い。

「ああ、分かってるよ、冗談だって事くらい。第一、私は完璧じゃないからな」

 澪は朗らかに笑って、詫びに代えた。反面、笑顔の裏に隠した心中で呟く。唯の言うように律の願望であるならば、恥ずかしい振る舞いを強要するに吝かでない、と。

 一方の律は発言を繕う事なく、黙ったままだった。自然、話の流れに間が訪れる。

「ねー、りっちゃん。その彼氏とは、いつデートしてるの?」

 話の切れ目に唯が割り込んで、話題を変えてくれた。尤も、雰囲気の軟化に加勢した訳ではないだろう。間が空く機を見計らうかのように、唯は律から視線を逸らしていなかったのだから。

「いつって。そりゃ、時々、としか。学校も部活も、唯達との約束もない時にしてるんだよ」

「ははぁ。ヤリ目ですなぁ。遊ばれてたりして?」

 唯の言葉に、特徴的な紬の眉根が眉間に寄る。そして梓と律の反応は、殊に顕著だった。

「唯先輩っ?」

「はぁっ?どういう発想だよぉっ。信っじらんないっ。唯ったら何なのよ、もー」

 梓は唯の名を叫んで固まり、律は忙しく言葉を並べて抗議している。

11 : 以下、名... - 2016/08/06 21:51:14.79 8onyAH8e0 11/304

「いやぁ。だって、私達と居ない時って言うと、夜でしょ? その時間なら、やる事は決まってるよねー? 脱いだら凄いんだもんね?」

 唯は律と梓の反応を楽しむように、二人を窺いながら言った。唯は本当に、恋人が居るという律の話を信じていないようだ。故に、恋人が居るように繕う律と、それに釣られて右往左往する梓が愉快で堪らないらしい。

「何言ってるんだよ。部活だって毎日ある訳じゃないし。そういう時に毎回、澪と会ってる訳じゃないんだよ。空いた日にデートしてるのっ」

 律も唯から信じられていない事を認識したのか、返す言葉に苛立ちが篭っている。

「夏休みはいいけど。学期中は大変だったよねー。私達と会わない休日の日中に、誰の目にも付かずにデート、だもんね」

 唯が楽しげな笑みを崩さぬまま言った。唯は虚言を証す材料を、一つ明かした気で居るらしい。

 だが、決して白昼に逢瀬を重ねられる日がなかった訳ではない。第一、唯の推量は、昼の逢瀬の困難さを指摘しただけに終わっている。唯が冗談交じりに言及した、夜に会って褥を共にしている可能性は残り続けるのだ。

「あーら、仰る通り、大変でしたのよーだ。でももう、周知の話になっちゃったから、予め言わせてもらうからね。今月の私の誕生日だけど、部活休む。ダァとデートするんだもん」

 皮肉の込もった声音で唯の言葉を肯んじた後、律は一転させた毅然たる声調で逢瀬を宣していた。嘘を尤もらしく見せる方便かもしれないし、本当に恋人と誕生日を共に過ごすのかもしれない。澪は判断の量りを一方に傾かせる事ができぬままだ。

12 : 以下、名... - 2016/08/06 21:52:24.25 8onyAH8e0 12/304

「あっ、やっぱり誕生日は彼氏とだよねー。いいなー。そうだ、りっちゃんや、周知になった序に、一つお願ーい」

 唯が勿体ぶった声音を靡かせ、律の顔を覗き込んだ。唯は愉快な事を思い付いたらしく、口元が緩んでいる。推量を働かせるまでもなく、唯にとって”は”愉快な事に違いない。

「お願いって、どんな?」

 唯の口から何を頼まれるのか。律は慎重な口調で問うていた。眇めた目と引いた顎にも、律の警戒が表れている。

「そのデート、私達も影から見てていい?」

 大胆な要求に、澪は呆れる外なかった。恋人の存在が偽であれ真であれ、律が呑むはずなどない。偽にベットしている唯は、不可能な要求で律を困らせたいのだ。そこは澪も理解しているが、唯の戯れは度を越しているとも思う。

「まぁ、素敵ね。私もりっちゃんの彼、見たいなー」

 律が言葉を失くしているうちに、紬も便乗の声を上げていた。唯が律の身体面の特徴を笑いの種にしていた時とは違い、彼女の過ぎた戯れを叱ろうとはしていない。それどころか、加勢さえしている。厳格な道徳心を所作で示す事はあっても、紬も年頃の少女なのだ。同級生の浮いた話に、無関心で居られるはずもない。

「ええ。私も見に行きたいです。勿論、ちゃんとした方だとは思っていますけど」

 梓までも同調を示した。紬を向こうに回した痛手の律に、包囲となって襲い掛かる。

13 : 以下、名... - 2016/08/06 21:53:22.68 8onyAH8e0 13/304

 尤も、二人とも律の敵ではない。紬は律の話を信じており、そして梓は律を心配している。律に対する害意は欠片もなく、好意から出た言動に他ならなかった。ただ、好意が必ずしも本人の意向に沿うとは限らない。目下の律を見舞う四面楚歌も、そこに列せられた一例に過ぎないのだ。

「いやいや。普通に考えて、変だって。普通、デートなんて友達に見せるものじゃないよ」

 律は常識を盾として、彼女達の要求に抗っていた。だが、便乗した二人はともかく、発端の唯は始めから理不尽な強請りだと分かっている。からかう事が目的なのだから、正論で構えても引き下がらせる効果は期待できない。

「えー?りっちゃん、あんなに自慢してたじゃんかー。自慢のダァ……プッ、を見せびらかす良いチャンスだよ? それともまさか、嘘って事はないもんねー」

 唯が意地悪く煽る。嘘である可能性に言及した辺り、追い込みの段階に入っているのだと察せられた。

 ここが正念場だと、澪は固唾を呑んで見守る。もし律が唯の要求に従うのなら、自分の負けだ。

「嘘ならまだいいんですが……」

 語尾を濁していても、梓の言いたい事は察せられた。自分達を心配させないが為、不幸な恋愛を隠そうとしている。そう懸念しているのだろう。

14 : 以下、名... - 2016/08/06 21:54:33.79 8onyAH8e0 14/304

「りっちゃん、嘘なんかじゃないわよね? 本当に居るもんね。見せて、安心させてあげましょうよ。それに」

 紬が律を励ますように言った。その口は、まだ閉じていない。

「見返してあげないとね」

 続け様、紬は唯を一瞥して付け加える。察するに、唯に反発を感じていたらしかった。恋愛への興味を捨てきれないが、さりとて律をからかう唯も捨て置きたくない。その二つの思いが胸裏で鬩ぎ合った結果。律の逢瀬を見物するという結論で止揚したのだろう。

 三人が三様の感情を込めて、律へと迫る。澪は無関心を装いながらも、律の言葉を待っていた。律が応じれば敗北だ。否んでくれれば、嘘の可能性に縋る事ができる。

 嘲笑と心配と激励。源は異なっていても、律に向けられた要求は一つだ。その単純な問いを受けた律の口が、開いた。声が、唇の隙間から漏れ出て、澪の鼓膜に、届く。

「いいよ、いいじゃないの。見せてやろうじゃないの。そんなに見たいなら、後学に供してあげる。私達のデート、見せ付けてやるんだから」

 鼓膜を叩いた振動が増幅されて、澪の回路を伝動する。脳に収める事のできなかった大きな衝撃は、胸にまで突き抜けて澪の願いを無残に破壊した。

 居ない相手との逢瀬を見せる事はできない。見せると宣言した以上、律には恋人が居るという事だ。第一波を取り乱さず凌いだ澪に、その思考が追い討ちを掛ける。受けた驚愕が大きかっただけに、論理による理解が後を追っていた。

15 : 以下、名... - 2016/08/06 21:55:48.79 8onyAH8e0 15/304

「ええっ?ほんとにほんと?本当に、りっちゃん、彼氏居るの? で、しかも見せてくれるの?楽しみー」

 唯の変わり身は早い。律に彼氏など居ないと決め付け、からかった事を恥じ入りもせず、律の逢瀬に期待を膨らませている。澪は呆れる反面、唯の気持ちの切り替えの早さが羨ましくもあった。

「ほら御覧なさい、私の言った通りでしょう? でも、私も楽しみよ。りっちゃん、勉強させてもらうわね」

「期待ばかりもしていられないですよ。本当に律先輩に相応しいかどうか、見極めなきゃいけないんですから」

 紬の声は緩んでいたが、追う梓の声には気負いが篭っている。梓の言う通りだ。落胆ばかりもしていられない。律に値する人間か否か、律の恋人を見定めなければならない。

 分かっている、なのに──。それが自分の最後の役目だと言い聞かせても、気力が湧いてこない。

「あっ。言っとくけど、邪魔は駄目だからな。見せるって言っても紹介とかしないし、陰に隠れて遠くから見てるんだぞ。それが条件だもん」

 澪が黙っている間に、律は話を進めていた。提示された条件に、唯が真っ先に胸を反らして開口する。

「勿論だよ、分かってる分かってる。りっちゃんの邪魔なんて、野暮な事しないよ」

「唯が一番心配なのっ。不自然っていうか不審なんだから、ダァに見付からないようにしてろよ。知り合いだと思われたくないし」

16 : 以下、名... - 2016/08/06 21:57:10.62 8onyAH8e0 16/304

「酷いー、りっちゃんが私をお荷物にするー。あんなに仲良かったのにー。あずにゃんや、りっちゃんは男が出来て変わったねぇ。友情よりも男なのかねえ」

 律に要注意を宣された唯が、芝居掛かった声音で戯けた。

「もうっ、ふざけないで下さい。でも、同性の交友関係にまで口出しするような人なんですか?」

 梓が眉を顰めて問う。

「違うっての。たださ、まだ皆に紹介とかは早いと思うし。だから、観察されてる所を見付かると、言い訳が利かないんだよねー。大体皆、見た目は、いいからなー。心移りされたくないし」

 律こそ”見た目は”佳い。だが、過度に我儘で極度に依存症な彼女の内面を、自分以外に包容できる人間が居るとは思っていなかった。否、今も思っていない。──だから別れろ今すぐに。

「見た目は、って何ですか。何でそこ、強調するんですか」

 梓は怒ったような顔をしているが、見目をそやされて悪い気はしていないのだろう。澪とは対照的な垂れ気味の目元が緩んでいる。

「その見た目にしても、りっちゃんより上なんて存し得ないと思うの。でも、お邪魔はしないから安心してね。見つからないように、彼とのデートを眺めてるから。あ、そうだ、まだ伺っていないんだったかしら。その人のお名前は?」

 前置きした言葉に遠慮の心を代弁させて、紬が問う。恋愛の話に最も目を輝かせていた彼女の事だ、本心では万に渡る質問を向けたいに違いない。

「え?名前?名前はー」

17 : 以下、名... - 2016/08/06 21:58:33.37 8onyAH8e0 17/304

 焦らすように、律は間を置いた。「勿体ぶるな」と怒鳴りたくなるが、澪は堪える。

「さんぅ゛だよ」

 苛立っていたせいか、澪には律の返答の一部が不明瞭に聞こえていた。う段の濁音だと当たりが付いたものの、意味する一語に辿り着けない。だが、言い直すように求めて、関心があるように思われる事も癪だった。

「サンジュ?」

 唯も聞き取り辛かったらしく、図らずも訊き返してくれていた。聞く側の問題ではなく、律の発音からして不明瞭だったのかもしれない。

「違うよ、サングだよ、サング。漢数字の三に旧字の玖を書いて、三玖」

 今度は聞き取れたが、姓名のどちらかまでは分からない。

「へー。変わった名前だねぇ。で、そのサング君とのデートなんだけど、私達は何処に何時頃に行ったらいいの?」

 唯は呼び名が付いただけで満足したらしく、具体的な計画へと話を進めている。唯はより興味を惹く対象がある限り、些事には頓着しない。それは集中力を一方向に傾けられる長所である反面、注意が散漫という短所でもあった。

「まだデートの行き先さえ決めてないよ。香港行けたらなー、とは思うけど。絶佳の夜景を眼下に、ダァと恥ずかしい事しちゃったりとか。おかしぃし、りーっ」

 律は願望を並べた挙句、勝手に恥じ入って顔を真っ赤に染め上げてしまった。いつもなら愛でられる律の仕草も、今となっては癇に障る。律を茹でている者が、自分ではないからかもしれない。

18 : 以下、名... - 2016/08/06 21:59:40.80 8onyAH8e0 18/304

「りっちゃん、乙女ねー」

 上気した頬に手を添えて、紬が呟く。

「で、現実は?」

 対して、梓は容赦がない。ロマンチシズムには目も呉れず、プラグマティックに有用な情報だけを求めていた。

「ん、国内のそんなに遠くない所だと思うよ。ダァに決めてもらうんだ。でも、映画みたいなデートにはしたいな。誕生日なんだし」

 現実的な答えを返しつつも、恍惚の念が抜け切った訳ではないらしい。映画を模したいという望みに、理想への未練が透けていた。

「じゃあ、りっちゃん。こうしよう。プランが決まったら、私達に連絡頂戴ね。私達も二十一日は空けておくから。それでいいよね?」

 惚気るばかりの律に痺れを切らしたのか、唯が音頭を取って提案した。唯は遊ぶ段になると手際がいい。マイクパフォーマンスにも活かして欲しいと、澪は度々思ってきている。

「うん、それがいいと思う。詳細が決まり次第、改めて連絡するね」

 律は素直に頷いた。紬と梓も唯々諾々と頭を縦に降っている。提案への応否を確認する唯の視線が、その三人の頭上を当然のように通過して──一人、追従の動作を取らなかった澪の前で止まる。

「澪ちゃんも来るよね?」

19 : 以下、名... - 2016/08/06 22:00:48.13 8onyAH8e0 19/304

「澪は来ないよ」

 澪が口を開くよりも早く、律が唯に答えた。

「澪、私なんかに関心ないもん」

 無関心な澪に拗ねているような口振りで、律が付け足した。澪は律のこういった態度に、今まで幾度も遭遇してきている。そしてその度、自分に気がある素振りだと解してきた。だが、他に彼氏が居る以上、単なる我儘でしかなかったらしい。律は興味のない相手からでさえ、常に注目されていないと気が済まないのだ。度を越した主我の強さに、腸が溶鉱炉の如く煮え滾る。

「ああ。律のデートなんかに関心はないな。その日は、家でロメロゾンビでも観賞しているよ。よっぽど有意義だ」

 澪は誰とも目を合わさずに吐き捨てる。逢瀬への同行に気乗りしなかった事は確かだが、律への怒りが澪の態度をより硬化させていた。裸に剥いた律を磔刑に処し、遍く衆人に公開してやりたい。

「澪先輩?何かあったんですか?」

 梓が不審そうに訊ねてきた。目敏い彼女は、澪の放った棘のある言葉を見逃してはくれない。

「別に、何もないよ」

 努めて穏やかに澪は返す。笑みも添えてやった。梓に罪はないのだから。

「そうですか」

 納得した訳ではないだろうが、梓は引いてくれた。澪が律を突き放す事など、茶飯事ではないが初めてでもない。不審は買っても追及まではされない、その程度には些事でもあった。

20 : 以下、名... - 2016/08/06 22:02:02.75 8onyAH8e0 20/304

「じゃあ、話も付いた事だし。そろそろ練習しようか」

 気持ちを切り替えようと、澪は立ち上がった。先程、澪が同行に同調しなかった仕返しではないだろうが、誰も倣おうとはしない。

「えー。今日はもう、帰ろうよー。いっぱいお話して、衝撃的な事実を聞いちゃったから、疲れちゃったよ」

「インパクト、大きかったですものね」

 怠惰な唯が口を尖らせただけではなく、勤勉な梓までも帰宅に与する声を上げていた。確かに、澪も気疲れしている。

 加えて。律へと棘のある声音を向けた直後だけに、周囲と態度を違える事は憚られた。立て続けば、不審は追及に至る。

「しょうがないな」

 澪も周囲に合わせ、ティーカップを手にシンクへと向かった。

*


24 : 以下、名... - 2016/08/07 21:15:12.92 KqyK4dU00 21/304


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2章

 澪は唯達とは横断歩道で別れた。紬は先に駅で見送っている。ここから先は、律と二人きりだった。

 先程とは打って変わって、律は黙りこくって歩いている。皆で歩く帰路の途中、唯に囃されて喧しく応じていた姿はもうなかった。

 澪も倣って、律に話し掛ける事はしなかった。聞きたい事なら山ほどある。だが、自分から話し掛ける事は、焦らし合いに負けるようで嫌だった。澪は律の方を見ようともせず、手に携えた白いバラばかりに焦点を置いて歩く。反面で、律の傍を離れて一人で帰る事もできなかった。

 無言のままで帰路の道程を消化し、家が近付いてきた。この気詰まりする関係を、明日の部活に持ち越したくはない。意地など張らずに譲歩して、何か話し掛けるべきだろうか。

「ねえ」

 言葉を探していた澪に、律が話し掛けてきた。視線を向けると、弱気な表情を浮かべた律が映る。いつも澪の譲歩を引き出してきた、見捨てる事のできない顔だ。

「今からうち、来てくれない? どうしても澪にしておきたい話があって」

「ああ。このまま行くよ」

 律に対する怒りが収まった訳ではないが、突き放せぬままに澪は諾した。加えて。何時になく真剣な表情の律が言う、話の内容も気になっている。深刻な問題を抱えていなければいいが、と思わずには居られなかった。
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25 : 以下、名... - 2016/08/07 21:16:07.07 KqyK4dU00 22/304

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 澪を部屋に招じ入れた律の瞳が潤んでいる。深刻な話なのだろうか。梓の危惧した通り、サングとの関係は不幸な恋愛なのかもしれない。

 澪は身構えながら問い掛ける。

「で。話ってのは、何なんだ?」

「実は……みーおー」

 律は澪の名を叫びながら、飛び付いてきた。澪は小さなその身体を受け止め、髪を撫でてやる。彼女の一部に触れた指を優しく動かすだけで、落ち着きを取り戻していく律が愛おしい。自分が守ってやらなければならないと、澪の使命感を改めて呼び起こす反応だ。

「何があったんだ?もう怖がる必要はないから、言ってごらん? サングとか言う野郎に、何か不本意な事でもされているのか?」

 律を安心させるよう努めて穏やかな声で、それでもサングに対する怒りを隠す事なく。澪は律を促した。

 澪に導かれ、律は意を決したようだった。埋めていた顔を上げ、口を開く。

「実はね。その話なんだけど……私の嘘なの。彼氏なんて、本当は私、居ないの」

「えっ?」

26 : 以下、名... - 2016/08/07 21:17:17.86 KqyK4dU00 23/304

 澪は自身の耳を疑い、次に自分の正気を疑った。律を独占したい欲心が産んだ、幻聴だろうか。現実の律の声ではなく、願望の律の言葉を聞いたのではないか。

 胸を引く小さな力が、澪を正気に引き留める。律が澪の胸部を引っ張ったのだ。まだ聞いて欲しい話があると、非力な律が健気にも澪の関心を引いている。澪は確かに現実の律の声を聴いていたと、その小さな動作が証していた。

「居ないのに、居るって言っちゃって。どうしよう。デートなんて、見せられないのに」

 律はそれ以上を口にせず、涙ぐんだ瞳で澪を見上げてきた。察して欲しいと、甘えている。

 後を引き取って、澪は言う。

「じゃあ、何で約束なんてしちゃったんだよ。唯もムギも、楽しみにしていたぞ。梓なんて、本当に心配ちゃってたし」

 安堵が声に出ぬよう、澪は詰責の体で言葉を紡いだ。嘘との報に胸を撫で下ろした反面、律に踊らされた憤りもある。心労を費やさせた虚言に、全面的な擁護の姿勢で臨みたくはなかった。

「だって。唯が意地悪ばっかり言うんだもん。サイズも信じてくれないし。それで意地張っちゃって、後に引けなくなってって。りー」

 律は尖らせた口で言い募ると、頬を膨らませて唸った。

 一つの嘘を取り繕う為には、更に多くの嘘を要する。そうして気付いた時には、雪だるまのように膨らんでしまっているものだ。律も虚言を通そうと詐言で膨らませた結果、吐いた本人のコントロールを離れてしまったらしい。

27 : 以下、名... - 2016/08/07 21:18:28.16 KqyK4dU00 24/304

「どうだか。本当は居るんじゃないのか? 今更怖気付いてないで、見せてやれよ」

 事情は呑み込めたが、ここでも澪は突き放した。嘘であっても、恋人が居るなどと口走った罪は重い。自分への恋情を隠している事と併せれば、許し難いものだ。律が潔白を証さずして、澪も安易に協力などできない。

「居ないっ、私、本当に彼氏なんて居ないのっ。澪まで私の事、虐めないでよ」

 涙交じりに喚く律の必死な姿を、澪は冷めた目で遇してやった。煽る意図を零下の視線に隠している。自分に信じてもらう為、狂乱の醜態を晒す事さえ厭わない律が愛おしい。貪欲にそして冷酷に、澪は律から必要とされる実感を欲していた。

「やだ、やだ、やだっ。みーおー、どうして?どうして?どうして? どうしてそんな意地悪するの?見捨てないでよ、みーおー。そうだっ。携帯っ、メールの受信フォルダ見てよ。通話ログもアプリの履歴もLINEのログも」

 律はスマートフォンを差し出してきたが、澪は受け取らなかった。必要ない。もう充分、否──やり過ぎだ。

 代わりに澪は、涙に濡れた律の頬をハンカチで拭ってやった。目元も軽く抑えてハンカチに吸水し、霞んだ視界に自分の姿を取り戻させてやる。明瞭となった律の瞳に映す顔は、穏やかな微笑だ。

「ごめんな。律の言う事を信じてるから、泣かないで。それに私、初めから分かってたんだ。律に男なんて居ないって事」

 優しく言ってやると、律も安心したらしくスマートフォンを引っ込めた。澪も倣ってハンカチを仕舞うと、空いた手で律の髪を撫でてやる。

28 : 以下、名... - 2016/08/07 21:19:34.30 KqyK4dU00 25/304

 本当は、分かってなどいなかった。事実、部活中は律の恋人の有無を判じかねて、苦しい時を過ごしている。その鬱憤も相俟って律に意地悪く当たったのだが、度を越していたと澪は自省していた。

 どうせ律を見捨てられないのなら。自分の怒りなど度外視して、始めからこう言ってやれば良かったのだ。

「明日、一緒に梓達に謝ってあげるから。それで、デートの話は無かった事にしてもらおうな。もし唯が笑ったりしたら、私が怒ってあげるから」

 用意していた言葉を、そして恐らくは律が最も欲しているであろう言葉を、澪は告げてやった。律が安堵し歓喜する顔を、脳裏に浮かべながら。

 だが、眼前の律の表情は、予想と異なっていた。満足していないように、首を振っている。

「どうした?律。私と一緒に謝るのは嫌なのか?」

 心外な律の態度に戸惑いながら、澪は問い掛ける。一人で決着を付ける積もりなのだろうか。律にその度胸がない事くらい、澪は知悉している。現に、嘘だと言い出せないからこそ、ここまで話が大きくなってしまったのだ。

「違うの。唯達に、嘘だってバレちゃうのは嫌なの。馬鹿にされるに決まってるもん」

 律は唯の態度に怒り心頭らしく、すっかり臍を曲げていた。

29 : 以下、名... - 2016/08/07 21:20:35.01 KqyK4dU00 26/304

「おいおい。かと言って、このまま誤魔化せはしないぞ? それとも、今からデートを見せない方向に持って行くつもりか?」

 それが難しい事くらい、発言した澪自身も分かっている。紬は兎も角、心配する梓を納得させる事は骨が折れそうだった。唯も律の恋人の不在を再び疑い出すかもしれない。素直に虚言だと認めて謝ってしまう事が、最上の策なのだ。

「んーん。デートだって見せるよ」

「どうするんだよ。だって、男なんて居ないんだろう? 見せようがないじゃないか」

 不安に駆られながら、澪は言う。嘘を本当にしてしまわないか、心配だった。今からでも恋人を作ってしまえば、誕生日のデートに間に合わせる事ができる。それだけは、何としても阻止しなければならない。

 その時、律の指が動いた。拳の中で人差し指だけが立って、澪を向く。

「りっ」

 澪を指し示すと同時に、律が短く鳴いた。澪の心臓が跳ね上がり、胸板を内側から激しく叩く。間違いなく律は、自分を指名している。

 告白、なのだろうか。追い詰められての事とはいえ、遂に告白する勇気を律が持ったのだろうか。澪は確認の意を込めて、自分を指差しながら言う。

「私?」

 肯んずるのか、逃げるのか。緊張を体の中に抱え込んで、返答を待つ。

30 : 以下、名... - 2016/08/07 21:21:40.24 KqyK4dU00 27/304

「そう、みぃお。お願ーい、みーおー。男装して、私の彼氏の役やってよー」

 素早く答えた律の言葉は、澪の期待を瞬時に剥落させた。脱力と落胆に苛まれながら、澪は律を見遣る。

「何言ってるんだよ」

 緊張の反動は大きく、返す澪の声調を無愛想に染めていた。

「だって、そうするしかないじゃん。他に頼める人居ないんだから。澪って丁度、その日、私のデートを見に来ない話になってるし」

 丁度、などと偶然であるかのように律は表現しているが、澪が見に来ないと初めに宣した者は紛れもなく律だった。思えば、律はこの策を実行する為に、澪を唯達との同行から遠ざけたのかもしれない。

「策士だな。でも、バレると思うぞ」

 生半可な変装で、唯達の目を誤魔化せるとは思えない。それだけの日々を、彼女達とも過ごしている。

「大丈夫だよ。長髪で胸板の厚い彼氏、って事にしておくから」

 律は甘い見通しを述べているが、決して楽天家ではない。澪ならどのような無理難題でも叶えてくれる、という信頼の表れなのだ。否、信頼の表れと繕うよりも、過度の依存の結果だと換言した方が正鵠を射る。

「乳房まで筋肉で出来てる訳じゃないんだぞ」

 澪は呆れながら言う。固い筋組織で構成されているのではなく、柔らかい脂肪だ。だが、柔らかいからこそ、コルセットで締められる。その外観は筋肉に似るだろうか。

31 : 以下、名... - 2016/08/07 21:22:41.84 KqyK4dU00 28/304

 気付けば、律の望みを叶える方向で考えていた。澪は流されそうな自分を取り戻すべく、自論を述べ直す。

「正直に謝った方がいいと思うよ。さっきも言ったけど、私も一緒に謝るからさ。梓は安心するだろうし、ムギだって許してくれるよ。唯が笑うようなら、きつーく叱り付けてやるし」

「嫌っ」

 澪が全面的に助勢すると宣しても、律は強情な姿勢を崩さなかった。

「何で、そんなに意地を張るんだ? 元はと言えば、嘘を吐いたのはお前の方なんだぞ?」

 唯に誘導されていった以上、全面的に律を責める気にはなれない。それでも結果として、律が嘘を吐いた事実は存するのだ。責任は取らねばならないだろう。

「だって。ムギの言う通り、失礼な唯を見返してやりたいもん」

 律が眦を決して言う。唯に対する憤りの念は、澪にも共感できた。調子に乗る唯を看過して、剰え勢い付かせてしまった責も感じている。律がそこまで言うのなら、意思だけでなく行動も同じくして良いかもしれない。何より、偽装とは言え律と同伴できるのだ。考えてみれば悪くはない。

32 : 以下、名... - 2016/08/07 21:24:01.94 KqyK4dU00 29/304

 いや。考えて、澪は気付いた。仮に成功した所で、その結果は軽視できないものになる。澪にとって、致命的な不都合が生じてしまうのだ。否んでしまおうと、自身の心が呟いた時。別の声が、鼓膜を叩いた。

「ぐすっ、みーおー、お願いだよー。こんな我儘な事頼めるの、みぃおだけなの。助けてよ、みーおー」

 瞳の端に涙を溜めた律が、澪の名を連呼して嘆願していた。振り切る事など、出来やしない。ましてや、意地の悪い問いを放って虐めてしまった負い目もある。詫びも兼ねて、律の我儘は極力叶えてやりたい。致死に等しい不都合を承知で、澪は言う。

「分かったよ。当日はお前の男を装って、エスコートするよ」

 律の表情が翻った。

「ほんとっ?みぃお、引き受けてくれるの? わっ。みぃおが男装するなら、すっごいイケメンになれるよ。ふふーん、唯を見返して、羨ましがらせてやるんだから」

 顔を嬉笑に綻ばせた律が、悦喜の言を連ねて舞う。泣き顔から一転した燥ぎように、澪は苦笑せざるを得ない。

「浮かれるのもいいが、バレないように気を付けろよ。デートする時の私は澪じゃなくて、サングだからな?」

「分かってるよ。みぃおの方こそ、バレないように気を付けてよ? 髪とか胸とかの、男子にしては不自然な容姿は、予め私の方で言い繕っておくけど」

 律は乗り切れる目算を立てているようだが、澪には露見の可能性を軽視しているように思えてならない。楽観は禁物である。入念に準備を整える必要があるのだ。

33 : 以下、名... - 2016/08/07 21:25:14.83 KqyK4dU00 30/304

「律の狙いは分かるよ。不利な事は先回りして言っておく事で、言い訳が利くように仕向けたいんだろ? でも、言を弄して策する段階で襤褸が出たら、元も子もないぞ。彼氏の容姿には言及しない方がいい。梓が言った事、忘れたのか?」

「梓?私が心配みたいで、色々言ってたけど」

 律は梓の放ったどの言葉を澪が指しているのか、判じかねているようだった。

「私みたいな人を想像した、とか言っていただろ? それは軽口だったんだろうけど、連想する種はあるんだ。下手に私に近い外見を上げてしまうと、軽口が疑いに育ちかねない。分かるな?」

 梓が言い放った直後、当の律が否定した発言だ。
躍起になった激しい応酬は、今でも鮮明に思い出せる。

「そっか。策の段階で下手を踏んだら、余計に危なくなるもんね。その場で詰問されるにしても、疑いの目でデートの見物に臨まれるにしても。分かったよ。自分からは言わないし、もし唯達から彼氏の外見に質問されても、当日のお楽しみ、って答えておくね」

 律は納得したらしく、澪の論を咀嚼の後に嚥下していた。

「その当日にしても、過度の心配はするな。幾らでも誤魔化せる。髪形を変えるだけでも、印象は随分と変わるからな」

 澪はそこまで言うと、笑みを浮かべて付け加える。

「前髪を下ろしたお前みたいにな」

34 : 以下、名... - 2016/08/07 21:26:07.88 KqyK4dU00 31/304

「もうっ。澪だって髪を結んだら、別人みたいになるくせに。大体、気を付けるのは髪だけじゃないんだからねっ。その大きな胸を抑える事を考えてよ」

 拗ねたように噛み付いてくる律の頬が、仄かな恥じらいの色に染まっている。律が髪を女の命と見立てている事は、友人として過ごしてきた時間の中で澪も気付いていた。それだけに、髪が関わると律は繊細な反応を見せる。今も証した通りだ。

「分かってる、これだって抜からないよ。律も当日、襤褸を出すなよ」

「澪の方こそ、当日はロサ・ブランコを手に持ったりしないでよ? 白いバラを持ち歩いているのなんて澪くらいなんだし、澪だってバレちゃうからね」

──ロサ・ブランコ

 バラの種名である。普段から携えているほど、澪はこの白い薔薇を気に入っていた。強靭かつ高貴で気高い特性が、花弁の美しさと相俟って澪を惚れ込ませている。

 非常に硬い茎に有した鋭利な棘は、ダンボールさえも容易に貫いてしまう。柔肌で棘に触れようものなら、一溜まりもなく皮膚を切り裂いて流血に至る。花弁も強靭であり、生半可に力を加えても形が崩れる事はない。花弁の白色は多色に馴染み易く、浸す染料の色を忠実に映す。

 そして花言葉は『道無き道』。鋭い棘々の屹立する険しき茎を登れる者だけが、美しく香り高い花弁に辿り着ける。転じて、掲げたる高き目標に向かい、困難でも怯まずに立ち向かって行く勇士を称揚するモチーフとしても名高い種だった。

35 : 以下、名... - 2016/08/07 21:27:03.03 KqyK4dU00 32/304

「言われるまでもないよ。サングの正体が私だと簡単に看破されちゃう材料からな。大丈夫、私は上手く演じ切ってみせる。だから律はいつも通りに私を信じていればいい」

 律が恥じらいの冷めやらぬ顔色で頷く。それでも、澪に協力を嘆願していた時に比べれば、落ち着いて見えた。交渉は律の望む形で妥結したのだ、その安堵が影響しているに違いない。

 意地を張っている点も、勇気がない点も自分達は同じかもしれない。そのシンパシーもまた、澪が律の提案に乗る一つの動機となっている。だが、澪に生じた深刻な不都合を、律は共有していないらしい。自分達二人に関わる事だというのに、だ。目先の危機を乗り切る事に腐心するあまり、そこまで頭が回っていないのだろう。

 律は急迫する問題に目途を付けて、一息吐いている。その眼前に立つ澪は、新たに生じる問題と併せて準備に付いて思考していた。即ち、律の恋人を装う準備の事だ。

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36 : 以下、名... - 2016/08/07 21:29:00.08 KqyK4dU00 33/304


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3章

 夏休みも終わりに近づき、律の誕生日も明日に迫っている。澪の準備も後一つを残すのみだった。それを終わらせる為に、今日もファッション街へと足を運んだのだ。

 澪の労など露知らず、今日の部活でも唯達は律を囃し立てていた。律が逢瀬を見せると宣して以来、その有様で彼女達は部活を過ごしてきている。当の律も澪の援けを取り付けて気が大きくなったのか、調子に乗った態度で唯達と接していた。特に三日前の事は目に余り、目の裏に焼き付いてしまっている。
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 律が見せびらかしてきた手帳には、予定が一切書き込まれていなかった。月別カレンダーの日付の下に、丸印とハートマークが記されているのみである。春から始めて今月までのページを捲った後で、唯が口を開いた。

「何これ?ハートマークがデートの日なの?」

 唯の言った通りの意味で律は記号を書いたのだろうと、澪も思った。その律の本意は、恋人が居るよう装う為に違いない。

 それにしては、稚拙な工作だと思わざると得なかった。丸印にせよハートマークにせよ、連続してしまっている。また、平日にも遠慮なく書き込まれ、学校や部活、そして自分達と遊んだ日々とも重なっていた。幾ら架空の予定だとは言っても、以前の自分の話と整合性を持たせようとはしなかったのだろうか。これでは、逆効果だ。

37 : 以下、名... - 2016/08/07 21:30:13.01 KqyK4dU00 34/304

「そんなに連日、デートしていたんですか? 平日とか、やっぱり夜だったんじゃないですか」

 梓がその矛盾を見逃すはずもなく、口を尖らせて律に噛み付いた。だが、律に慌てる様子は見えない。

「違うっての。これはサングとのデートを記した方の手帳じゃないよ。私の身体の管理を記した手帳だよ」

 一同の瞳が、律に向いた。その視線を一身に受けて、律が得意気に説明する。

「丸印が安全日なんだ。そして、ハートマークがねー」

 律はそこで自分の身体を掻き抱くと、両目を強く閉じて甲高い声で叫んだ。

「危険日っ。りぃーっ」

 身体を悶えさせて一人で興奮している律に、澪は呆れる外なかった。見れば律の誕生日の日付にも、一際目立つ形でハートマークが記されている。桃色の波線に囲まれたそれは、周囲に小さなハートマークまで靡かせていた。
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38 : 以下、名... - 2016/08/07 21:31:35.29 KqyK4dU00 35/304

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 思い出すだけで口元へと込み上げて来る溜息を、澪は吐かずに堪える。確かに、律は調子に乗ってこそいた。だが、澪の言い付け通り、サングの容姿を唯達に教えてはいない。加えて、自分と打ち合わせた事も、唯達との間で合意に至らせている。そこは評価すべきだろう。

 上手に唯達を騙す為には、彼女達の動きを制御下に置かなければならない。律に場所や時間といった当日の逢瀬の予定を話させるとともに、唯達が観察する時間や取るべき距離まで言い含めさせた。

 その中に、唯達は逢瀬を始めから見るのではなく、途中から見るという合意も含まれている。内幕の露見を避ける為には、暗くなってから短時間だけ見せた方が都合はいい。サングに見つからないよう最高潮の場面だけ見せる、というのが口実だ。その為、場所は横浜のみなとみらい、時間は夕方を指定させている。

 今度こそ、澪は溜息を堪えられなかった。致死的な不都合を負ってまで、計画を事細かに練る自分が滑稽に思えてならない。そう、この芝居の結果、律と恋仲になるという希望は潰えてしまうのだ。

 そう、律は既に恋人が居るという事を、唯達に証明する事となる。律の恋人の席は架空の男で埋められ、澪が座を占める余地はなくなってしまう。律はこの事に気付いていないのか、或いは澪と交際する希望を諦めてしまっているのか。何れにせよ、澪は望まぬ結末に至ると知っていながら、律の詐称に手を貸す事となった。

39 : 以下、名... - 2016/08/07 21:32:47.35 KqyK4dU00 36/304

 こうなる前に、自分から告白してしまえば良かった。この三週間近い日々、その後悔に苛まれなかったとは言うまい。だが、それでは上手くいかないと見越したからこそ、見送ってきたのだ。臆病な律では澪に告白されてなお、幸福からさえ逃げた事だろう。律の殻を破る為には、澪に惚れていると自認させなければならない。その上で、偕老同穴の道程で生じる全てのリスクを、澪と共に背負うと覚悟させる必要があった。律に告白させるという或る種の荒療治は、どうしても避けられない。

 だが、澪はまだ諦めてはいなかった。律が唯達に本当の事を話して自分への告白に踏み切る、そのシナリオを捨てていない。律に今まで持った事のない勇気を強いる策が、澪の頭部にはあった。否、策ではない。賭けだ。

 けれども、賭ける価値ならある。義務もあった。律が勇気を持てるまで、待つ身に甘んじてきた自分にも責任があるのだから。だからこそ、此処に来た。これが、最後の準備である。そして最後の準備はデートの前日でなければならなかった。明日になるまで、唯達に見せられないのだから。

「Our Splendid Songs」

 私達の勇気の歌を。長く美しい自慢の黒髪を靡かせ、澪は律を手に入れる為の一歩を踏み出した。『ハーゲンタフ』と描かれた看板が目立つ店、ここに用がある。その扉を潜り、律の勇気にベッドした。

 律を手に入れる為ならば、女の命さえ惜しくはない。

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40 : 以下、名... - 2016/08/07 21:36:50.06 KqyK4dU00 37/304

>>24-39
 本日はここまでです。余談ですが、サングという偽名は澪が「さんかれあ」に少し似ていたので、サンゲリアより拝借しました。ハーゲンタフはバタリアンです。

 また明日よろしくお願いします。

42 : 以下、名... - 2016/08/08 21:36:59.14 F8PqAWbf0 38/304


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4章

 律の乗る電車は、横浜駅からみなとみらい線に直通した。そして律は、みなとみらい駅を電車に乗ったまま通過する。夜になれば、唯達はこの駅で降りるのだろう。まだ午後になったばかりの今、律の目的地は此処ではなかった。

 終点の元町・中華街駅で降りた律は、長い地下道を一人で歩く。澪と待ち合わせている場所は、中華街東門を正面に据えた出口だった。恋慕の情が細い足を急かすが、期待は禁物だと自分の胸に言い聞かせる。これは、偽装の逢瀬でしかないのだ。少なくとも、澪にとっては。

 事実、この時間帯に律が此処に来た理由も、唯達を騙す為の打ち合わせと練習を兼ねたものだ。夜の時間帯に見せる逢引で、唯達を騙し切らなければならない。当日の打ち合わせや練習は不可欠だと、澪に言われていた。

 本当のデートなら良かったのに。と、家を出てから何度も胸中で呟いている。だが、演出された偽りの逢瀬であれ、恋情を抱く相手と恋人のように振る舞える好機には違いない。律は無理矢理に自分を奮い起こすと、地上へと出た。

 律の瞳に、入口となる中華街の壮麗な東門が映る。前途の多難を示すような曇天が恨めしかったが、眼前の門は太陽光などには頼っていない。薄い光の中でさえ、雅の凝らされた装飾が輝いて律を迎えていた。仮の装飾でしかない澪との逢引も、この街でなら優雅に映えるかもしれない。禁物だと分かっていながらも、希望を抱かずにはいられなかった。

「律。ここからはエスコートするよ。今日の私は彼氏らしいからな」

 門に向かって歩こうとした律の足を、聞き覚えのある声が止めた。一瞬のうちに、律の胸が興奮で沸騰する。飼い主を見つけた子犬のようだと自覚しながらも、勢いよく振り向く首を止められない。

43 : 以下、名... - 2016/08/08 21:38:09.35 F8PqAWbf0 39/304

「澪っ……っ?」

 だが、振り向いた先の人物を見て、律は絶句してしまった。澪であるはずなのだが、律の記憶にある彼女の容姿と一致しない。勿論、変装して来る事は分かっていた。それを織り込んでいても、俄かには信じ難い。この目に映している者は、秋山澪なのだろうか。

「こら、律。彼氏の名前を間違えるなよ。サング、だろ?」

 律の内心の問いに呼応したかのように、澪が間違いを正してきた。その通りではある。そうであるように、変装して来たのだから。

 化粧だけ見ても、随分と印象は変わっている。だが澪が見せた変貌は、そういった可逆的な装いに留まっていない。それだけならば違いに驚く事はあっても、律とてここまでの動揺はしなかっただろう。

 律は息を急き切らせ、何とか言葉を紡ぐ。

「そうなんだけど。えっとぉ……どうしたの、その、髪」

 昨日見た時は、澪の美しい黒髪は腰に届く程の長さを誇っていたはずだ。なのに、眼前の澪の黒い髪は、輪郭の縁を覆う程度の長さにカットされている。もみあげは顎の下にこそ突き出ているが、首の付け根には達していない。後頭部の髪も項が覗ける長さだった。

「どうしたって、髪形を変えるって言っただろ?」

 澪は周知した事だと言わないばかりの、当然のような口振りだった。失った髪に対して、執心を片鱗さえも見せていない。

 確かに律は、澪が変装の為に髪形を変えると聞いていた。ただ、大胆な散髪まで伴う処置になるとは思ってもいなかった。元の長さには手を加えず、あくまで髪の纏め方を変える程度に留まるのだろうと認識していた。命と同視し得る大切な髪を、一時を凌ぐ為だけに切るなど律には発想もできない。

44 : 以下、名... - 2016/08/08 21:39:30.34 F8PqAWbf0 40/304

 当の澪が無頓着な様子を見せているのに対し、律の方が未練を感じていた。律も見惚れていた立派な黒髪が、恋しくて惜しくて切ない。

「何で、そこまでするの?」

 自然と、問う声にも惜しげが込もる。

「この方が、私だって事がバレないからな。だから昨日、最後の準備に切ったんだ。唯達と鉢合わせしないように、いつもの所じゃなくって、ちょっと遠出してな。サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見た事あるだろ? そこ使ってみたんだ」

 やはり澪は、何でもない事のように言った。切る前にも葛藤なく、些事を処理する調子で決断したのだろうか。もしかしたら、その決断も早い段階で下されていたのかもしれない。律が澪に偽装の恋人役を頼んだ、その日の内に。

 律は澪から、サングの容姿を唯達に伝えるなと言い付けられていた。あれはこの為の指示だったのだと、今となっては律にも推せる。

「変か?」

 澪の目には考え込んでいる律の姿が、似合わないと言いたげに映ったのかもしれない。今日の装いの評価を訊ねてきていた。

45 : 以下、名... - 2016/08/08 21:40:39.42 F8PqAWbf0 41/304

「んーん」

 反射的に答えてから、律は改めて澪を眺めた。髪が短くなった事で、澪の端正な顔立ちが前面に出てきている。毛先にジャギーが入っている為に、ボブのような緩さはない。逆に、剣の切っ先を長短交えたように、毛の束が鋭く連なっている。初見では戸惑いが大きく熟視する余裕もなかったが、落ち着いた今なら確信を持って言える。澪に似合う、鋭利な印象を際立たせる髪形だ、と。

 顔にも見惚れてしまう。化粧とはいっても、目元以外は大して手を付けていない。心持ち、普段より白く見える程度だ。勿論それだけでも、印象の変化に大きな寄与をしているのだろう。だが、目元に走るアイシャドウは、別人と為り遂せる装いに決定的な役割を果たしていた。

 眼孔を覆う赤紫のアイシャドウの細いラインが、目尻を越えて引かれている。醸し出されるエスニックな色気は、中華街の雰囲気に合っていた。また、鋭い目付きと相俟って、妖艶でサディスティックな色香をも漂わせている。澪の瞳から、別世界の色を流したようだった。

「カッコいいよ、似合ってるし。それに、知人が見ても、パッと見じゃ気付かないよね」

 律でさえ、澪なのか俄かには判じかねた程なのだ。他者が判別を付けるには、凝視が必要だろう。

「ああ。最初は、サングラスやマスクが必要かと思ったけどな。でも、日焼けした梓や、すっぴんのさわ子先生の例もあるから。それに、ごつい恰好した奴と歩くなんて、嫌だろ?」

 澪の言葉で、引かれた二つの例を思い出す。部活の顧問である山中さわ子の時は、暗闇から急に灯が点った時だった。明順応していない瞳孔も相俟って、化粧をしていないさわ子が普段とは別人のように見えていた。思わず「すっぴんのさわちゃん怖い」と言ってしまい、頬を抓られたものだ。

46 : 以下、名... - 2016/08/08 21:41:51.19 F8PqAWbf0 42/304

 海で日焼けした梓の例は、更に顕著だった。クラスメイトの平沢憂や鈴木純までもが、初見では誰だか分からなかったらしい。そう妹の憂から聞いたと、部活のティータイムで唯が話していた。

 それらを思い出すまで、律もサングラスやマスクが必要だと思っていた。比して、想起の早い澪は逢瀬の雰囲気を壊す事なく、洗練された対応で解決してくれている。

「嫌だなんて、無理なお願いした私に言えるのかな。でも、マスクとかで変装されるより、今の方が素敵だよ。それより、髪まで切っちゃって、本当に良かったの?」

 律は感じ入る反面、澪を巻き込んでしまった自責の念も胸に兆している。澪の黒髪には、自慢に供しても恥じない美麗さがあった。もし律が唯達と出来ない約束さえしなければ、今も美しく靡いていたに違いない。

 本当のスリーサイズを明かしたのに、嘘だと扱われた事が悔しかった。この日の発端となった八月初旬の、あの日の出来事が律の胸に蘇る。

 意地悪く煽ってきた唯に立腹して、意地になって誇大な話を繰り広げた。勿論、その後先を考えない反射的な対応が、此処に至った最大の原因ではある。だが、律が自分の嘘に固執した理由は、それだけではない。澪の反応が見たかったのだ。

 澪に恋情を抱いていた律は、澪が律の嘘に動揺してくれる事を望んでいた。だが、律の期待に反して、澪は無関心な様子しか見せてくれない。それでも恋人の話を続けたが、当の澪から冷淡な態度で遇されてしまった。律も乙女心に応えようとしない澪に苛立ち、先鋭化させた発言を向けてしまっている。そうして意固地になった律は、到底果たせられない約束を唯達と交わす羽目に陥ってしまった。

47 : 以下、名... - 2016/08/08 21:43:05.49 F8PqAWbf0 43/304

 追い込まれた律は澪に縋り付く以外、進路も退路もなくなっていた。苛立って反発した相手に泣き付くなど、本来なら屈辱極まりない事である。律とて澪以外ならば、意地でも助けを求めなかっただろう。それが澪に対する、度を越した甘えであるとの自覚はある。だが──

「ああ。前も言ったけど、そっちは髪を下ろしたお前に着想を得たんだよな。ヒントをありがとな。それと、恋人から似合っているって言って貰えて、きっとサングも冥利に尽きているよ」

 澪はこうして、律の我儘全てを許すかのように微笑んでいた。だから律は自立心を堕す事になっても、澪に依存してしまう。田井中律という一個の人権主体が壊されて猶、律は澪が好きだった。恋人に、なりたかった。

 律はこの恋の勝算を、皆無と見立てている訳ではない。澪の自分に対する態度を思い返せば、好意の表れではないかとさえ思えてくるのだ。

 だが、踏み切れない。勇気がなかった。もし澪の態度に対する自分の読みが、勘違いだったら立ち直れない。同性愛に対する唯達の目も怖かった。先日は律の恐怖を裏付けるように、彼女達の異性愛に対する憧憬を見てしまっている。澪との関係性が変わる事も、未知への不安があった。

 何より。正式な恋人となると、甘えに正当性が付されてしまうのだ。それは、澪に淫する依存の歯止めが、本当に無くなってしまう事を意味している。その状態に至ってしまえば、もう自分自身の所有者を自らに留めては置けまい。比喩ではなく、澪が所有者だ。田井中律に属する権利の行使を全て、彼女に委ねる形となるのだから。主体的な自意識を完全に放棄して、戻れなくなるほど壊れてしまう自分が怖かった。

「私だけじゃないって。誰に見せても似合うって言うよ。きっと、唯達に見せても」

 自分を壊す決断に至れないまま、律は前言を他者の評価へと一般化して逃げた。そうして自らの言葉で気付く。澪の散髪は、今日を凌ぐだけの逃げ道しか提供していない事に。

48 : 以下、名... - 2016/08/08 21:44:16.89 F8PqAWbf0 44/304

「あっ。そうだ、唯達だよ。今日は誤魔化せると思うよ? でも、明日以降どうするの?」

 律は続け様に訊ねた。明日も部活がある。そこで髪の短くなった澪を見れば、今日の相手が彼女だったと唯達に気付かれてしまう。

「そのくらい、考えてから髪を切ってるよ。明日以降を乗り切る策くらい考えた上での行動だから、心配するな」

 澪も当然、その程度の事には気付いていた。策まで用意しているとは頼もしいが、具体的にはどう対処するつもりなのだろう。

「どうするつもりなの?」

「後で話すよ。それより今は、目の前の中華街に行こう。おいで。本番のつもりでエスコートするよ」

 澪は空腹らしく、食事を優先していた。律も食い下がる事なく、素直に従う。もう髪が切られてしまっている以上、澪の見せる自信を信じる外ない。

 第一、美食の地を目前に置いて、垂涎の思いを留める事も憚られた。今に至るまで、中華街の前に留まり話し込んでしまっている。その間にも、大食の澪の胃は食欲で疼いていたに違いない。

「うんっ、そうだね。私も何か、胃に入れておきたいよ。美味しい物、案内してよ。みぃ」

 澪の表情に気付き、律は言い直す。

「サングッ」

 澪は満足そうに頷くと、律を先導するように緩やかに歩き始めた。肩紐で脇に垂らしている澪のボストンバッグが、歩みに沿って揺れる。逢引に用いるよりも、小旅行で使うような大きなバッグだ。バスドラムの幅を狭めて、奥行きを伸ばした形相が最も近いだろうか。律は自分が部活で担当しているパートから、サイズに大凡の当りを付けた。

49 : 以下、名... - 2016/08/08 21:45:39.74 F8PqAWbf0 45/304

 そのバッグが翻り、澪の全身も回った。直後、中華街の東門を背に屹立する澪が、律の瞳に映る。澪の普段着とは違うコーディネートも相俟って、別世界への案内人のようだった。澪が夏に長袖を着ている姿など、サマージャケットであっても見た事はない。

 澪は白と黒のボーダーが入ったシャツの上に、細く青いストライプが施されたジャケットを着用していた。襟の巾が大きく、縁全体に白いラインが走っている。そしてボトムはジャケットと同色のスラックスだった。そのモッズスーツ風の服装の中、目元に走るアイシャドウがエスニックなインパクトを添えている。

「ようこそ。律がお姫様で居られる時間へ」

 確かに律は、別世界へと案内された。導かれるままに、律は澪の手を取る。或いは、サングの手を取った。

*


52 : 以下、名... - 2016/08/09 21:22:12.22 NAPwLUtio 46/304


*

5章

 中華街の大通りに入って、すぐに澪は左に曲がった。手を引かれるまま、律も従う。上海路と呼ばれる道だと、澪が教えてくれた。

 大通りに比して、人の往来は少ない。飲食店も大型の店舗が数軒構えているだけだった。右手側は大通りと遜色のない綺麗で立派な店構えだが、熱気には欠けている。左手側に至っては、工事中と思しき建物があった。

「こっちは人通りが少ないんだね」

 律は後方の大通りを一瞥して言った。寂しい道よりも、殷賑の渦中を共に歩んでみたい。澪が手を引いてくれている限り、人混みの中でも逸れる事はないのだ。

「上海路、市場通り、それと更にその奥の通り。折角だから、その三つを全て、見せてやろうと思ってな。安心しな、そっちの二つは賑やかだから」

 律は一言口にしただけだが、澪には十分だったらしい。律の気持ちを汲み取って、繁華の路にも後で寄ると教えてくれた。

 澪の気の回りように、本当の逢瀬のように錯覚しそうになる。偽装の逢引を練習しているという、程遠い状況であるにも関わらず、だ。付言すれば、練習や食事だけを目的として、ここ中華街に寄った訳ではない。食事をしながら、この後の段取りの最終的な確認を行うのだ。

53 : 以下、名... - 2016/08/09 21:23:34.01 NAPwLUtio 47/304

「本当?ありがと、早く見たいな。でも、人通りが多いなら、澪と逸れないようにしないと」

「不要な心配だな」

 澪が、握る手に力を込めてくれた。律は忘我の心地で澪の手を握り返す。

「それに。目立つから大丈夫だよ」

 律が呆けて我を忘れているうちに、澪が続けて言った。熱の消えない耳に届いた言葉を、思わず律は反芻する。

「目立つ?」

 直後、澪が進路を変えた。気付けば、上海路は三叉路に突き当たっている。

「こっちだ」

 澪は質問に答えないまま、右の道へと律を誘導した。犇めく店舗を挟んで大通りと平行している道である。こちらは関帝廟通りと言うのだと、澪が教えてくれた。沿って二人は、中華街を奥へと進む。

 曇天に阻まれて日光の直射こそ避けられているが、季節は夏である。肌も汗ばみ始めていた。

「暑そうだな。でももうそこの通りだよ、律。後少しの辛抱だ」

 澪の励声を受けて進んだ先、右側に道があった。この道が澪の言っていた市場通りなのだと、門に掲げられた文字が教えている。

 市場通りは、上海路に比して狭い道だった。見通す限りでは並ぶ店構えも小さく、絢爛さでは見劣りしている。だが、盛況ぶりや熱気は比べものにならなかった。行き交う人で混雑した道に、軒を連ねた店舗から威勢のいい声が響き渡っている。

54 : 以下、名... - 2016/08/09 21:24:45.84 NAPwLUtio 48/304

 澪が言っていた通りの殷賑に迎えられ、律は門を潜った。この通りを先に進めば、再び大通りへと出る事になる。澪は大通りと関帝廟通りの間でコの字を描きながら、中華街を進んでいくつもりらしい。

 食事も話し合いも、もう一つの通りも見物した後だろうか。中華街に寄った目的を思い起こす律の傍らで、澪が歩みを止めた。まだ、市場通りの門を潜ってから、然したる距離を歩いていない。

「ここだ。ちょっと寄り道するぞ」

 澪に連れられた店は、飲食店ではなかった。土産物を扱う店らしく、龍やパンダを象った造形品が並べられている。今居る一階だけでも品揃えは豊富だが、二階に続く階段も見えた。上階にも、商品が溢れているのだろう。

「ああ、良かった。貴方が居てくれたとは、話が早くて助かります。え?そうだったんですか?態々すみません」

 舶来の品々に没頭していた律だが、澪が女の店員と話している事に気付いた。知り合いなのか、澪はこの時間帯に此処に来る予定を告げていたらしい。澪の反応から察するに、店員の方もその時間帯に合わせ店番をしていたようだった。

「ええ、早速。おいで、律」

 何かの話が合意に達したのか、澪の言葉を受けた店員が二階へと上がっていく。間を置かず、澪は律の手を引いてきた。

「何?どうしたの?」

 訝しく質しながらも、律は招じられるまま澪に身を委ねた。澪は店員の後を追うように、階段を上っている。それでも律を慮ってか、足取りは緩やかだった。

55 : 以下、名... - 2016/08/09 21:25:30.86 NAPwLUtio 49/304

「来れば分かるよ。楽しみにしてな。誕生日、だろ?」

 澪が微笑の浮かぶ横顔を向けてくれた。律も理解する。誕生日プレゼントを貰えるのだ、と。去年までも、毎年欠かさず貰っている。偽装のデートの道中であっても、澪は律儀に例年通り踏襲してくれるらしい。

 ならば、中身に対する質問は野暮だ。贈る側もまた、受け手の喜ぶ反応を楽しみにしている。そして、それは口頭で先行して見るより、現物の披露と同時に見たいものだ。律とて理解している。

「うんっ。楽しみにしてるね」

 だから今は、表情と言葉で期待を示すに留めておく。内心でも喜んでいたから、自然に表出させる事ができた喜色と声色だ。

 澪はまた横顔を向けただけだったが、律の気持ちは伝わっているらしい。相好を崩してこそいないが、頬の緩みは微笑の度を越えていた。

「ああ、すいません。お待たせしました」

 二階で出迎えてくれた先程の店員に、澪が一礼しながら言った。会釈を返した店員に誘導され、二人は壁際へと進む。歩きざまに見回した所、二階では中華風にデザインされた生地を扱っているらしい。一階に比べて人の入りは少ないが、律達の他にも生地を物色する客の姿が見えた。

「ええ、間違いないです。オーダー通りです。ああ、はい」

 澪は生地を予め注文していたようだった。店員から受け取った品物を確かめた後、受領書にサインをしている。この店員と知り合いらしいのも、単に注文時に会話をしたからなのだろう。

56 : 以下、名... - 2016/08/09 21:26:24.59 NAPwLUtio 50/304

 ただ、この店員は懇意にも、澪の来店する時間帯に店で構えて居てくれている。また、澪の口振りから推しても、事務的な会話のみ交わした間柄とは考えづらかった。こうもコミュニケーションが深まる手順を要する注文で、澪は何を贈ってくれるのか。澪の背を見つめながら、明かされる時を律は大人しく待った。

「律、待たせたな。早速着てみてくれ。折角のデートだ、律もおめかししないとな」

 受領書を受け取った店員が去ってから、澪が手渡してくれた。手元に渡ったそれを、律は両手で広げてみる。黄を基調とした布地に華の柄がデザインされた、チャイナドレスだった。

「いいの?嬉しいけど、高かったんじゃない?」

 生地の手触りが合成繊維などではなく、絹だと教えている。

「別に。大したものじゃないさ。ただ、律には似合うと思う。人通りの少ない上海路は終わったんだ。大勢の人に、お披露目してやりな。唯達にも、な」

 近くにある試着室を指差して、澪が言った。

「これ着てデートなんて、唯も羨ましがるね」

 唯達に見せ付ける姿を想像しただけで、胸が弾んだ。

「ああ、間違いない。そうだ、着替えは私が持つよ。ほら、バッグに余分なスペースがあるからさ」

 試着室の前まで付いてきた澪が、ボストンバッグの口を広げながら言った。澪は余分なスペースと言ったが、空きを用意する為に大きなバッグを持って来たに違いない。逢引には不釣り合いなサイズのバッグだと思っていたが、澪は荷物が増えると分かっていたのだ。

57 : 以下、名... - 2016/08/09 21:27:34.36 NAPwLUtio 51/304

「もうっ、手際がいいんだから。似合うかどうか分からないけど、着てみるね。一度、着てみたかったんだ」

 律はチャイナドレスを手に、試着室へと上がる。そのままカーテンを閉じようとしたが、澪に抑えられた。

「待った。律ってチャイナドレスは初めて着るんだよな?」

「そうだけど」

 律はチャイナドレスに目を落とした。着物と違い、着用がそう難儀とは思えない。

「じゃあ、言っておく事がある。大事な事だ。いいか、全部脱いでから着るんだぞ」

 澪が真面目な顔で当たり前の事を言うので、律は笑い声を漏らしてしまった。

「分かってるよ。その分、澪には迷惑を掛けるけど」

「ブラジャーやショーツもだぞ?」

「えっ?ええっ?」

 澪の発言の意味が分かり、律は仰け反ってしまった。笑顔から驚愕へと変わる表情を制御できない。熱を帯びて赤くなる顔色も、制御できなかった。

「やっぱり知らなかったか。身体のラインが出ちゃう服なんだよ。ブラジャーやショーツの形が出ると、見栄えに影響する。それに、スリットも深いから、横からショーツが見えかねないぞ」

 下着の形が浮き出るという説は、律にも真贋を判じかねる話だ。ただ、襟は閉じても、直下の胸元が菱型に開けている。ブラジャーはそこから見えかねない。

58 : 以下、名... - 2016/08/09 21:28:45.74 NAPwLUtio 52/304

 加えて、スリットからショーツが見える事も心配だった。艶やかなランジェリーではあるが、ティーバックのようにサイドが極細という訳ではない。素直に澪の忠言を容れるべきだろう。

「うん、分かった。何だか恥ずかしーしっ」

 律は含羞に衝き動かされるように、カーテンを勢いよく閉じた。人前に顔を晒す事さえ憚られる程、今の顔色は羞恥で茹っているだろう。この後は多くの人前の中を、外気に性器を触れさせながら歩く事になる。その意味を考える程に、身体が火照って律の内から体液を湧き出させた。汗が、滲んでいる。そう律は自分へと言い聞かせた。

「着替るまで待ってるから、ゆっくりでいいぞ」

 カーテンの向こうから、澪の落ち着いた声が聞こえてきた。澪は急かしていないが、いつまでも悶えている訳にもいかない。律は覚悟を決めると、脱衣に取り掛かった。

 メッシュ状の黄色いケープも、ベージュのキャミソールも律から容易に離れた。赤を基調としたチェック柄のフレア状スカートにも手間取りはしない。次いで、フリルの付いた靴下に取り掛かる。上下で色合いをアシンメトリックに着こなしていた服が剥がれると、律を覆うものは白で統一された下着のみとなった。

 否、もう一つあった。律は時間稼ぎでもするかのようにカチューシャも外す。額に落ちた髪を梳くと、律は深く息を吸った。

 胸を覆うブラジャーは、深呼吸の勢いを借りて取り払った。円錐の双丘を為す乳房が、鏡にも映る。

「りぃ」

 初めて訪れた店で裸になるという実感が、改めて律を襲った。店内の衆目から律を隔絶するものは、カーテン一枚でしかない。──否、違う。

59 : 以下、名... - 2016/08/09 21:29:43.68 NAPwLUtio 53/304

 律を守るベールは、カーテンなどという布一枚だけではないのだ。その前には、姫を守る騎士の如く頼もしい澪が居る。そうして律は兆した怖気と抵抗を取り払い、ショーツに手を掛けた。隔壁が、落ちる。

 途端。新鮮な蜜柑の皮を剥いた時、飛散して鼻腔を衝く鮮烈な香り。その柑橘の甘酸っぱい匂いを、嗅覚が捉えたような気がした。澪にも、嗅ぎ取られただろうか。

 律は蓋でもするかのように、慌ててチャイナドレスに肌を通した。初めて着る衣装、着用の手順などは分からない。ただ、飛散の門を覆いたい一心で、下腹部から服を身体に合わせてゆく。股を基点に据えた着衣だったが、それでも腕を通す所まで着こむ事ができた。

 興奮と羞恥から、手付きは覚束ない。律は手子摺りながらも、背中のファスナーと襟元の赤いボタンも閉じた。

「うー」

 鏡に映る自分の姿に、律は声を震わせる。襟の下、胸元が菱形に開いている事には、チャイナドレスを拡げた時から気付いていた。ボタンに手間取っている時には、そこから胸が覗けてしまう事も察している。だが、実際に目にしてしまうと、恥ずかしさも一際だった。閉じられた襟の下に開く菱形の空間は、これ見よがしに胸の谷間を露出させている。直上の装飾を携えた赤いボタンも目立って、開きに注目してくれと言わないばかりだった。

 律は全体的に痩身だが、胸を中心に服が窮屈に感じられる。澪のオーダーしたサイズが小さかったのだろう。身体の曲線を映すチャイナドレスの特徴も相俟って、律の身体の線が競泳水着のように強調されていた。

 尤も、服のサイズを目測でオーダーしたのだとすれば、その精度は決して低くはない。胸の大きさを過小評価した程度には、収まっているだろう。装飾の腕輪を二の腕に通しながら、律は澪の眼力を内心で擁護した。

 付属された装飾は、もう一つあった。腕と脚に一つずつの輪、左腕には通したので後は足輪である。それを太腿に通して、目視で具合を確かめた時──気付いてしまった。顔へと走る朱の線を、抑える事ができない。

60 : 以下、名... - 2016/08/09 21:30:52.94 NAPwLUtio 54/304


 律は立ち見で、下へと長く伸びた裾の上部を凝視する。脚に嵌めた輪から、斜め上へと視線を転じた場所だ。土嚢でも積み上げたかのように、恥丘が堆く隆起していた。

「っ」

 意図せず、荒い呼気が漏れる。自分の身体の特徴は知っていたが、裸の時よりも目立って見えた。突き出たそこから、匂いも放たれているように思えてならない。視覚では勿論、嗅覚でも注意を惹き付けそうな有様だった。

 露わに突き付けて、人前を闊歩する。考えただけで、胸に火が付いて全身を火照らせた。体内の熱が逃げ場を求めて、肌を汗ばませる。胸の鼓動と連動して、呼気も荒くなった。切なくて、息苦しい。

 律は興奮に指を震わせながらも、ショーツを手に取った。自分が残した温度も湿気も、未だに残っている。淡く色付いてもいた。これをそのまま、澪に渡す訳にはいかないだろう。律は畳んだ服の間に、ショーツとブラジャーを挟み込んで隠した。

 ここまで終えると、もう試着室に用はなかった。安全への名残を振り切って、律はカーテンに指を掛ける。掛けた指が、震えた。血液を打ち出す心拍の震動も胸板に響いて、心臓がポンプ機関であると実感させられる。身の内奥から滾り噴くこの狂熱は、含羞だけが生み出せる情動ではない。自分の身体の変化が、律に教えていた。──澪に、見て欲しいのだと。皆に見せ付けたいのだと。秘していたものを明かして、解放の悦びに浴したい。いっそ、淫したい。羞恥と不安の先にある悦びを求めて、律はヴェールを捲った。

61 : 以下、名... - 2016/08/09 21:32:09.18 NAPwLUtio 55/304

「おかしーし」

 素直な一言は出てこなかった。羞恥に押され、右手が胸の谷間を庇う。それでも、恥丘に手は添えなかった。左手が腹部にまで動いたが、そこで留め置く。情動を燃え盛らせるこの一線だけは、含羞を御して死守できた。

「ああ、似合うよ」

 律の口が逃げていても、澪は言って欲しかった言葉を口にしてくれた。聞いた途端、律の目元に朱の縞が走る。鏡も見ずに自覚できる程の熱を、律は顔に感じていた。

「これっ、着替えたのっ」

 喜色ばむ自分から注意を逸らすべく、律は畳んでおいた服を渡した。受け取った澪はバッグに収める間も、そして仕舞ってからも、律の全身を舐めるように眺め回している。

「サング?あんまり見られると、恥ずかしぃし」

「ああ、済まない、見惚れていた。ところで、律」

 澪の手が、律の右手を掴んだ。強引とも言える力で、胸部を隠していた手が退かされる。乱暴には感じたが、律は抵抗などせずにエスコートされるが侭に任せた。

「確かに、着痩せするタイプかもな。こういう身体のラインが出る服だと、胸がそこまで小さくないって分かるよ」

 澪の視線が、律の胸に注がれている。そう意識すると、余計に気恥ずかしさが増した。連鎖して深まる自意識が止まらず、吐息が荒くなる。

62 : 以下、名... - 2016/08/09 21:33:34.42 NAPwLUtio 56/304

「でも。身体は本当に細いよな。ウエストなんて、ほら、こんなに括れて、綺麗な弧を描いている」

 澪の両手が律の腋に入れられ、側面を腰に向けて滑る。澪の掌に肋骨を撫でられ、柔らかい横腹にも触れられた。

「ん、ひゃぁんっ」

 堪え切れなかった声が、喘ぎとなって律の口から漏れ出た。澪の手に刺激され、身体が奥から疼く。

 腰骨まで撫で下ろされてから、律は澪の侵略から漸く解放された。澪の手は緩慢な動きだったが、それでも十秒とは経っていないだろう。だが律には、長時間に渡って愛撫されているような気分だった。今も腰骨には、澪の手によって加えられた圧力の名残が燻っている。

「綺麗な身体のラインがくっきりだ。ただ、そこは想定していなかったよ。隆起が目立って、不躾な視線を引くかもな」

 澪の視線が、律の堆い恥丘を射抜く。律は恥じらいに身を捩らせ、気付けば太腿を閉じて擦り合わせていた。逃げる一方では、不審ばかりが目立ってしまう。蹂躙される侭の我が身を叱咤して、律は話の矛先を転じるべく開口した。

「服がちょっと小さくて、ピッチリしてるからだし。でも、見た目でサイズを判断したなら、かなり合ってる方だと思うよ。見た目からサイズを推すのって、自信ある方?それとも、賭けだった?」

 話を変える意図こそ含めているが、目測の精度に対する礼賛は本心でもある。サイズの規格で選ぶ既製の服とは違い、オーダーメイドは店側にサイズを伝える必要があるのだ。実測に依らずここまで適合させたのなら、それは称揚に値するだろう。

「いや、自信はないし、かと言って賭けでもない。忘れたか?自分の身体のサイズ、皆で言い合ったじゃないか」

「あっ」

63 : 以下、名... - 2016/08/09 21:34:37.27 NAPwLUtio 57/304

 律の口から、意図せず声が上がった。この逢瀬の端緒である、スリーサイズを明かし合った日が蘇る。すぐに恋人の有無へと場の関心が移ってしまった為、澪の印象からも薄れていると思っていた。それだけに、律は驚きを隠せない。

「あの時に言ったサイズ、憶えてたのっ?」

「ああ、記憶力はいい方だからな」

 澪は何でもない事のように言った。律とて澪のスリーサイズは憶えているが、他の部員の細かな数値までは思い出せない。張り合った梓のサイズさえ、律はもう忘れてしまっている。澪にとっては記憶力の問題でしかないのなら、律と違い彼女達のサイズも憶えているのだろう。

「ただ、私も唯達と同じで、見栄を張っているものだと思っていたよ。そのチャイナドレスがタイトなのも、その所為だ。済まないな」

 澪の謝る声が、律の耳に降りかかる。

「別に、謝る事なんかじゃないよ、サング。だって、ほら、実際に、恋人が居るなんて、嘘だった訳だし。それが原因で、こうして嘘のデートに付き合ってもらってる訳だし」

「しおらしいな。でも、確かに謝る事じゃなかったかもな。タイトになった分、強調された綺麗なボディラインを唯達に見せ付けてやれるよ。ほら、次はその打ち合わせに行こう」

 澪が促すまま試着室から出ようとして、律は気付いた。履いてきた黒いローファーブーツの代わりに、ドレスと同色のチャイナシューズが揃えられている。律は思わず、澪を見上げた。

「ああ、いいよ。チャイナドレスには、これの方が似合う。こっちは既製品だけどな。サイズは下駄箱を覗かせてもらったけど、合うか?」

「ありがとう」

64 : 以下、名... - 2016/08/09 21:35:42.61 NAPwLUtio 58/304

 礼を言いながら、律はチャイナシューズに足を通した。大きさに過不足は感じない。

「うんっ、大丈夫っ」

「良かった。そうだ、その服。唯達にはサングからのプレゼントだって言っていいよ。どうせ恋人から何を貰ったのかとか、明日は色々と訊かれるだろうからな」

 確かに、明日は今日の事で、数多の質問を受けるだろう。解答を用意できたと言うのは、心強かった。そして、目立つ服で関心も引けるのだから、話題の集中も図れる。襤褸が出るような質問を封じる効果も期待できるのだ。

「み……サングには頭が上がらないな。私の所為でこうなったのに、何から何まで」

「気にするな。この服に付いては、あの件は関係ない。プレゼントは毎年上げているし、私も貰っている。サングからって言うのも、唯達向けの対策なだけで。友人としての毎年恒例のプレゼントだと、気楽に思ってなよ」

 澪はそう言うが、例年よりも明らかに値が張っている。ただ、指摘はしなかった。律に気を遣わせまいとする澪の配慮を、無下に扱いたくはない。

 それを踏まえて澪に報いたいのなら、行為で示せばいい。

「じゃあ、プレゼントのお返しは、サングの誕生日にさせてもらうね」

 その意気込みを律は宣した。

 願わくば。偽装の逢瀬を演出してもらう礼もしたい。それは誕生日と言わず、機を捉え次第、今日にでも。口には出さない思いも、律は自分の胸に宣した。

65 : 以下、名... - 2016/08/09 21:36:51.64 NAPwLUtio 59/304

「期待しているよ」

 澪は言葉だけではなく、笑みも添えて返してくれた。律の宣言が口先だけのものではないと、伝わったようだ。

 歩き出す澪の背を律は追って、そして並んで歩く。店を出ると、また澪が手を取ってくれた。

「何処に行くの?計画とか、話すんでしょ?」

 市場通りも終わりに近づき、大通りも見えてきていた。だが澪は、立ち並ぶ店舗の何れにも入ろうとしていない。食事を摂りながら、最後の打ち合わせをする予定にも関わらず、だ。

「何処かって?勿論、律の行きたい所。連れて行ってあげるから、安心して付いてきな」

 市場通りの出入口を左に曲がりながら、澪が言う。新しい景色が開けた。澪に伴われた律は、中華街の大通りを東門から遠ざかって奥へと進んでゆく。

 このチャイナドレスを受け取る時、澪は代価を支払っていなかった。キャンセルの利かないオーダーメイドなのだから、前払いしていたのだろう。サイズや意匠を指図した、その時に。併せて、本日辿る道筋の下見も済ませていたに違いない。澪の慣れた足取りが、不案内の地ではない事を教えている。

66 : 以下、名... - 2016/08/09 21:37:47.39 NAPwLUtio 60/304

「うんっ。任せるから、連れてって」

 行きたい所など頭に浮かんでいないが、律は大船に乗った心地で行先を澪へと委ねた。些事から要事まで、澪が備えを欠く事はない。これから向かう先が何処であれ、期待が裏切られる事はないだろう。

「すぐ、そこだ」

 左手には、律も知っている有名な焼売屋が店舗を構えている。店舗の角に、上海路や市場通りと平行する道があった。焼売屋もこの道に渡って、二面に展開している。──そして。

「ここだよ」

 澪に声を掛けられる前に、律は理解していた。自分の行きたい場所とは、此処の事だったのだと。道の出入口に設えられた門が、律にそれを教えている。

*


69 : 以下、名... - 2016/08/10 20:52:21.58 u9YDDC8ko 61/304


*

6章

 門は質素な造りだった。壮麗を極めた東門や、華やかな彩を放つ市場通りの門とは対照的である。それでも律は望外の喜びを胸に感じていた。この門の上段の看板に記された文字が、見目の飾り気以上に乙女心を擽ってくる。律の願望に沿おうという、澪の砕心が読み取れるからだ。

 そこには、こう記されていた。香港路、と。

「屁理屈というか、子供騙しで済まない。流石に海を越えた香港は敷居が高くてな。ここで満足してくれるか?」

 澪は負い目を感じさせない声で言う。それは代替を最上の形で提案した者だけが取れる態度だ。そして、澪にはその資格があると、律の乙女心も認めている。

 あの日、律が勢いに任せて並べた願望を、澪は憶えていてくれたのだ。この誕生日に香港で逢引など無理な話であると、言い放った律自身も承知している。それでも澪は、夢想から零れた一言すらも大切にしてくれていた。

「過分のエスコートだよ。軽く行きたいなんて言っちゃって、無責任な言葉だったのに、こんな形で叶えてくれるなんて。夢みたい」

「律こそ言い過ぎだ。あくまで、強引なこじつけさ。今は此処で満足して貰うしかないけれど、本物の香港は本物の彼氏に連れて行ってもらいなよ」

 澪は夢のような舞台を提供してくれても、共有はしてくれないのだろうか。どちらに掛かろうとも、”本物の”などという言葉で醒まされたくはない。

70 : 以下、名... - 2016/08/10 20:53:20.66 u9YDDC8ko 62/304

「あーらサングったら、本物の彼氏だなんて、おかしな事言っちゃってぇ。唯達が聞いてたらどうするのさー」

 律は口を尖らせ抗議する。唯達が偶然通り掛かる可能性など、ほぼ零に等しい。あくまで、牽強付会だ。

「これは一本取られたな。店に入るまでは、私も気を付けよう」

「いや、まあ、大丈夫だろうけど。じゃなきゃ、此処で今夜の最終確認ができないし」

 難癖に近い抗議に澪が真摯な対応を見せたので、律は思わず擁護の弁を放っていた。直後、自分の抗議の正当性を守るべく、慌てて付け加える。

「でも、万が一って事もあるから、お店に入っちゃおうよ。ほら、唯ってば食い意地が張ってるから、デートを見る前に中華街で暴食、なんて可能性もあるでしょ? お店に入って見通しが利く席を確保しちゃえば、万が一唯達と遭遇しても危険な話をすぐ止められるし」

 糊塗すべく口から出た言葉は、悉くが言い訳のようだった。

「鉢合わせ云々は置いといても、その意見に賛成だ。私も唯と同じで、食い意地が張ってるからな。空腹を早く満たしたいんだ。行こう」

 澪は律の物言いに怪訝を見せず、空腹を理由に急かしてきた。有り難いと胸を撫で下ろし、律も澪の言に続く。

「あ、私も。お腹空いてる」

 律が言い終わるのを待たず、澪は動き出していた。澪に手を引かれた律も、一歩遅れて門を潜る。

71 : 以下、名... - 2016/08/10 20:54:17.46 u9YDDC8ko 63/304

 香港路は市場通りに比べれば、狭い道だった。行き交う人で溢れた路に、通行人を招く声が飛び交っている。律は歩きながら視線を右に左に、両側に並ぶ店舗を眺めた。それらは外装や内装ではなく、あくまで料理で勝負する矜持を漂わせている。上海路や大通りに比べれば店構えこそ小さいが、醸す熱気は勝るとも劣らずだ。提供するメニューを壁面に貼り出して覆い尽くし、空腹の律を目移りさせる。だが、澪は既に店を決めているのか、数多の誘引を無視して歩いていた。

「どの店に」

 入るの、と続けようとした所で、澪が足を止めた。律は澪の顔を一瞥した後、視線を澪の眼差しの向きに沿わせて動かす。視界を共有した事で、澪が入店を考えているらしい店が映った。

「此処?」

「ああ。いいか?」

 一見しただけでは、他の店との違いは分からない。初見の地で店毎の差異を見分けられない以上、澪のエスコートだけが決定打だった。期待はあっても、異議などあろうはずもない。

「うんっ。私も此処がいいなって、思ってたんだ」

 律は同意のみならず、共感も付して澪に阿った。店の前に出ていた従業員も律達の視線に気付いたのか、コースの貼られた看板を指差しながら声を掛けてくる。

「セット、ありますよー。二人様、こちらお勧めです。おいしですよー。どですかー」

 此処では聞き慣れた発音の日本語だ。律は澪と目を合わせてから首肯し、店員に従って入店する。空調で冷やされた空気が、律の汗ばんだ肌を心地好く覆った。

72 : 以下、名... - 2016/08/10 20:55:27.60 u9YDDC8ko 64/304

「二名様、入られましたー。どぞ、空いてる席にー」

 店員は店内に向けて日本語で客の来訪を告げてから、律と澪に空席を一つ一つ指し示しながら続けて言った。彼女が言い終わる前に、澪は既に動いていた。奥の席に座った澪に従って、律も腰を下ろす。澪がジャケットを脱いでいる間に、店員が大きなティーカップを運んできた。

「飲茶セットを二名分」

 澪はメニューも見ずにそう告げると、律の顔を窺ってきた。律は首肯で追認を示す。

 注文を復唱した店員が去ると、澪はティーカップを口元で傾けた。律も倣って、喉を湿らせる。冷たいジャスミン茶が、人混みの熱気で茹っていた身体に染み渡った。

「うー、生き返るー。暑かったよね」

「ああ、夏だからな」

 季節を一つ違えたような恰好をしていたのに、澪は然して堪えた様子を見せていない。思えば、部活でも澪は猛暑の中、凛とした姿勢を崩していなかった。それどころかダイエットの為と、紬と共に着ぐるみを着込んだ事もある。暑気で唯とともに身心を緩ませる律とは、対照的な強さだった。

「どぞー。なくなったら、言って下さい」

 暑がる律に気を遣ったのか、店員がポットを二つ机に置いてくれた。律は姿勢を正すと、澪に小声で言う。

「私、そんなに暑がっちゃったかな? 気を遣って貰っちゃったみたい」

「この店はな、セットメニューを頼むと、ウーロン茶がお替わり自由になるんだ。ジャスミン茶だけなら、無料で供する店もあるんだけどさ」

73 : 以下、名... - 2016/08/10 20:56:27.31 u9YDDC8ko 65/304

 澪が机に置かれたポットを指差しながら言った。見れば、各々のポットにラベルが貼られている。澪の言う通り、ジャスミン茶とウーロン茶だった。気遣われた訳ではなく、仕様だったらしい。

「良い店を選んだね」

 入念な下調べの苦労を想いながら、律は澪を労う。澪は得意気な顔を浮かべ、身を乗り出してきた。

「律もそう思うか? 評判の良い店やコスパに優れる店なら、他にあるんだろうけど。私達にとって一番大事なのは、やっぱりこれだからな」

 澪が両手で、各々のポットを軽く持ち上げた。

「そこなの?まぁ、計画とか色々話したり、時間までの暇を潰すには、飲み物お替わり自由の方が良いけど」

 言った後で、律は澪の意図を読み違えたらしい事に気付いた。澪が唇の前に人差し指を立て、片目で律を見ている。

「何だ、そういう意味で良い店って言ったのか。いいか。私達は飲茶セットを頼んだよな? で、中国茶を飲みながら点心を食べる事を、香港とかでは飲茶って言うんだ。それを踏まえて、飲茶を英訳してみな?」

「Tea Time.あっ」

 答えて、律は澪の意図に気付いた。同時に、胸の奥から共感の念が溢れてくる。間違いなく、自分達にとって最も大切な要素だ。

「確かにね。やっぱり私達には、これだよね」

 上辺ではなく心底から、律は澪を肯んじた。放課後TeaTimeというバンドの名に負わず、律達は部活動で茶を飲みながら談笑して過ごしてきている。紅茶から烏龍茶に変わろうと、英語から中国語に変わろうと、変わらない象徴なのだ。

74 : 以下、名... - 2016/08/10 20:57:40.95 u9YDDC8ko 66/304

「そう。何があろうと、私達はこれで繋がってるよ」

 澪が律のティーカップに、烏龍茶を足してくれた。律が一息に飲み干すと、今度はジャスミン茶が注がれる。ジャスミン茶にも口を付けた時、最初の料理が運ばれてきた。

「ワンタンスープと春巻です」

 机の中央に春巻きの載った皿が配され、律と澪の前にスープと小皿が置かれた。

「二本だから、一本ずつみたいだね。サング、足りる?」

 律は澪を仰ぎ見ながら言う。セットと云うのだから多種運ばれてくるのだろうが、大食の澪を満たすには心許ない量だ。

「私の事は心配するな。油分が多いから、見た目よりはボリュームがあるぞ」

「もしかして、私の為に、少ない店を選んだの?」

 小食の自分に配慮してくれたのだろうか。律はそう思ったが、当の澪は首を振っている。

「いやいや、飲茶セットなんて何処もこんなものさ。少量ずつ多種食べたい人用のセットなんだから、一種に付き一個で理に適う。寧ろだ、サイズを見る限り、此処は多い方じゃないのか?」

「言われてみれば、脂っこいものを沢山は、私じゃなくても胃に重いかも。でも色々な物は食べたい、そういう時に重宝するよね」

 澪の気遣いもあるのだろうが、飲茶セット自体も律に向いたメニューらしかった。量は食べられないが種類は食べたい、律の適性に合っている。

75 : 以下、名... - 2016/08/10 20:58:43.97 u9YDDC8ko 67/304

「ああ。それに油分が多いとは言っても、利点だってあるぞ。茶が進む。特に、烏龍茶がな」

 澪が律のティーカップを指差して、空けるように促してきた。澪が注いでくれたジャスミン茶は、カップの半分も満たしていない。折角だから給しただけで、メインは烏龍茶で考えていたのだろう。

 律はジャスミン茶を飲み干して、ティーカップを空にした。代わって容れてもらった烏龍茶と併せ、春巻きを口に運ぶ。澪の言う通りだった。脂っこさが烏龍茶の苦みと調和して、味わいに深みが出ている。

「おいしー。最近は紅茶ばっかりで、他のお茶はご無沙汰だったけど。烏龍茶って、こんなに深い味があったんだね」

 律は感想を漏らす事で、澪への感謝を伝えた。

「中華料理との相性が良いからな。油分の吸収も抑えるし、黄金の組み合わせさ。ほら、次の料理が運ばれてきたみたいだぞ。普段とは違うティータイムだ、楽しむといい」

 澪の指差す方向に視線を向ければ、こちらに向かって盆を運んでくる店員が見える。食欲を醸す匂いとともに近付いて来て、律達の机の前に止まった。

「韮饅頭と翡翠焼売、エビ蒸し餃子です」

 律と澪の前に置かれた蒸籠の中で、三種の点心が湯気を立てている。律が始めに口へと運んだ韮饅頭は、味も風味も香味も濃かった。だが、対処する術は知っている。烏龍茶を間に挟む事で、癖の強い味を楽しむ事ができた。

「お醤油とかの調味料、要らない感じだよね」

 鮮やかな緑色の映える翡翠焼売を食みながら、律は言う。

76 : 以下、名... - 2016/08/10 20:59:43.68 u9YDDC8ko 68/304

「スーパーとかで売ってる惣菜との違いだよな。味が濃いから、ゆっくりと烏龍茶を飲みながら食べるといい」

 そう返す澪は、運ばれた点心を既に平らげている。口の小さい律とは違い、澪は一口に頬張っていったようだ。部活のティータイムでも、食べ終わる速度は澪と唯が最も早い。

「話でもしながら、な」
 
 続けて放たれた一言に、律は顔を上げて応じた。その話も兼ねて、中華街まで来ているのだ。

「うん、今夜の事とか、話さないとね。今はまだ唯達も、横浜には着いていないはず」

 律は周囲を見回してから言った。唯達が居る訳ないとは分かっている。それでも身体が勝手に動いていた。

「指定時間まではまだ大分あるからな。まぁ、早く来て時間まで観光してる、とかも考えられるけど、唯の事だ。早く来る可能性より、遅刻する可能性の方が高いだろう」

 澪が含み笑いを漏らした。律も釣られて笑う。

「小龍包とゴマ団子です」

 店員の声を機に、律と澪は笑声を落とした。小龍包の蒸籠とゴマ団子の皿が机に配されてから、律は澪に改めて問う。

「唯達のウォッチポイントって、ワールドポーターズの屋上だよね? サングに貰ったメールは、指示通りに唯達三人に転送しておいたけど。あそこから、私達って見えるのかな?」

 唯達のウォッチポイントは、澪が決めていた。律は澪から、位置や視点まで細かく指定されたメール文面を貰っている。一昨日、律はそれを転送しただけだ。だから、具体的に自分達がどのようなデートコースを辿るのかまでは分かっていない。

77 : 以下、名... - 2016/08/10 21:01:02.53 u9YDDC8ko 69/304

「律は分かっても私は分からない、くらいの見え方にしなきゃいけないのさ。そういう風に行動するよ。ああでも、今日の律は分からないかもな。自撮りしてLINEに画像を流しておきな」

「自分で撮るの?」

「ああ、その方が自然だ。唯達がデートを見物する事なんて、彼氏は知らない設定なんだからな」

 澪は律のカップに烏龍茶を足しながら答えた。食べる随に烏龍茶を飲もうとも、澪が機敏に注ぎ足してくれる。お蔭で、ティーカップが空になる事はなかった。

「うー、そうだね。撮って部活のグループに送信しておくよ。で、実際に見せる時の、私達の行動のプランなんだけど。私達がどういうルートを辿って、どう行動するのか、教えてもらってもいい?」

 唯達をどう誘導するかの指示は受けていても、自分達が動く時の委細は教えてもらっていない。

「憶える事なんて何もないよ。だから、教える程の事じゃない。律はただ、私と一緒に行動して、私に付いて来ればいいだけだ」

 澪は豪快に小龍包を口に詰め込んだ。詰まる様子も見せずに咀嚼して嚥下する、咽喉の動きが見えた。

「うー。それは頼もしいけど。演技するんだから、私も少しは知っていたいよ。じゃないと、尤もらしく振る舞うポイントが」

「そこがいけないんだよ」

 律の言葉は、澪の喝破するような声に遮られた。

78 : 以下、名... - 2016/08/10 21:01:53.10 u9YDDC8ko 70/304

「演戯しようと意識し過ぎると、却ってあざとい挙動になって、不審だぞ。いっそ、知らない要素があった方が自然に振る舞える。唯達にどう見せるかじゃなく、彼氏にどういう自分を見せたいか、に専念しろ」

 澪の指示に、律は顎を落として肯った。澪をここまで巻き込んでおいて、自分の失態で計画を台無しにしたくはない。何より。澪にどういう自分を見せたいのか、実践してみたくなっていた。

「五目炒飯です」

 目の前に五目炒飯が置かれた。店員は空いた皿を手に、厨房へと戻ってゆく。澪の前には五目炒飯だけが残ったが、律の前には未だ食べ終えていない料理が留まっていた。

 それでも澪に急かす様子はなかった。律のティーカップに何度も烏龍茶を注ぐ行為が、無言のメッセージを表している。ゆっくりとティータイムを楽しめ、と。

「デザートのー、杏仁豆腐です」

 澪が五目炒飯を食べ終わった頃合いに、デザートが運ばれてきた。これで最後だろう。律はゴマ団子を嚥下すると、五目炒飯へとレンゲを伸ばした。澪は杏仁豆腐には手を付けずに、待っていてくれている。

「サングも手伝って?」

 律は五目炒飯を卓の中央に寄せ、援けを乞うた。食べ切れそうにもない。澪もこの事態を見越して、素早く食べ進めていたのかもしれなかった。遠慮する事なく、空になった皿を差し出す事で応えてくれている。

 五目炒飯が終わると、飲茶のメニューも残りは一品である。二人同時に、杏仁豆腐の一片をスプーンに乗せた。油分を多量に摂った直後だけあって、甘さと爽やかさが口中で際立つ。二片目、三片目と、滑らかに食べ進めてゆける。そうして、二人同時に食べ終わった。

79 : 以下、名... - 2016/08/10 21:02:52.88 u9YDDC8ko 71/304

「少しは香港気分を味わって頂けたかな?」

 口元を紙ナプキンで拭きながら、澪が問う。 

「充分だよ。香港でティータイムが出来るなんて、思ってもみなかったし。今までで最高の誕生日だよ」

 口にした後で、律は”未来も含めて”最高の誕生日だと気付いた。胸に兆した寂しさを追い払う為にも、目先の事に没頭してしまいたい。その効果を求めて律は、問いを付け加えた。

「まだ唯達とのデートまで随分と時間があるけど、この後はどうしよう?」

 店の時計を見るに、十四時にもなっていない。

「考えてあるよ。会計を済ませて来るから、その間に自撮りして唯達に送信しておきな」

 澪が会計に向かった後で、律は指示された通りの行動に移る。立ち上がって携帯電話を頭上に構え、全身が映るように斜め上から撮った。人前で自分を撮る事に羞恥の念はあるが、嘲る者は澪に言い付ければ捨て置かないだろう。勇を得た律は、顔、胸部、腹部から腰回り、太腿と、正面からの角度の写真も撮っていった。それら五枚の画像とメッセージを唯達に向けてグループ送信し終えた頃、会計を済ませた澪が声を掛けてきた。

「お待たせ。そっちの首尾はどうだ?」

「今、送信した所だよ。今日のりっちゃんのファッション、って感じの簡単なメッセージを添えてね。サングにも通知行ってるでしょ? ねーね、ところでサング。幾らだったの?」

 律は自分の分は自分で出すつもりだったが、澪は首を振っている。

「いい。律は気にするな。今日はお前の誕生日なんだしな」

80 : 以下、名... - 2016/08/10 21:04:00.06 u9YDDC8ko 72/304

「えーっ?悪いよー、悪いー。誕生日って言っても、こんな素敵な服までプレゼントしてもらったんだし。この上、料理まで御馳走してもらうなんて」

 律が恐縮しても、澪は奢る姿勢を頑として崩そうとはしない。

「私にも見栄があるんだよ。今日の私はサングとして、律の彼氏役なんだろ? 偽装とは言え、彼女に甲斐性無しのように扱われるのは屈辱的だ。だからお姫様はこの程度の金の心配を一切するな。生々しい現実の処理は一切を私が請け負う。今日は私に恰好付けさせてくれ」

「っ」

 短い息が空を切る。声を出そうとしても、舌が痺れて発声できなかったのだ。澪の凛々しい態度に、芯から感電してしまっている。

「出よう。次の場所へ攫って行くよ」

 棒立ちしている律の腰に、澪の右腕が回された。その侵略の早さは、驚きの声を上げる暇すらも与えてくれない。右側に突き出た腰骨が、早々と澪の右手に掌握されていた。

「っ」

 変わらず、口唇から声は出ない。荒い吐息が、断続的に漏れるだけだ。

「おいで」

 律の腰部を抱く澪の腕に、力が籠もった。前へと促す圧力が、律の足を動かす。そうして腰を澪に抱き支えられたまま、律は店を出た。

81 : 以下、名... - 2016/08/10 21:05:04.82 u9YDDC8ko 73/304

 退店しても、澪に律を解放する様子は見えない。腰部に回った澪の右腕に歩みを操られたままだ。律もまた、熱が滾って発汗する身体を澪へと押し付ける。掌握されて蕩けてしまった今、支えを失っては歩けそうにもない。

 多くの人が行き交う雑踏を、澪に連れられて歩いた。注がれる多くの視線が、律を火照らせる。自意識過剰なのだと自分に言い聞かせても、身に受ける注視の圧力は消えない。大通りに入ると、より多くの目が律を迎えた。

「ほら、律が綺麗なものだから。皆が一瞥しちゃうよな」

 澪が耳元で囁く。自分の思い過ごしではなく、本当に注目されていたのだ。店内で自分を撮った時よりも、胸が含羞に疼く。一人で自分をカメラに映した時よりも、二人で居る今の方が面映ゆい。

「もー、サングったら、何を言うのかしらー。サングが恰好良いからでしょ」

 羞恥を糊塗するように戯けた態度で返したが、言葉自体には本音も含まれている。今の澪こそ、衆目を振り向かせるに足る凛々しさがあった。

「いーや、律だな」

「んーん、サングだよ」

 言葉を交錯させてから、律は笑みを零した。梓あたりが見ていれば、『バカップル』と形容するに違いない遣り取りである。傍から見て呆れられるような言葉の応酬を、澪と交わせる事が嬉しかった。

「何笑ってるんだよ。全く、律は強情だな」

 そういう澪も微笑を浮かべている。律の笑みに釣られただけなのだろうが、この気分を共有しているのだと錯覚していたい。

82 : 以下、名... - 2016/08/10 21:06:08.39 u9YDDC8ko 74/304

「これだけは退かないもーん」

 律は言って、澪の胸元に頭を寄せた。曇天とはいえ、密着すれば暑さも増す。それでも離れるつもりはなかった。茹だる暑気さえ、寄り添う悦びの前では障害にもならない。

「いや、でもやっぱり律だよ。ほら、皆そこに目が行っちゃってる」

 耳元で囁く声に衝かれ、律は澪の瞳の先へと視線を沿わせた。途端、反論しようもない物証が、目に飛び込んでくる。布地を盛り上げる、隆起した恥丘。本当に、見せ付けているかのようだ。

「なっ、馬鹿ぁっ」

 律は八つ当たりの怒声を上げてから、衆人の投げる一瞥の焦点を窺ってみた。澪の指摘を裏付けるように、”そこ”一点に注がれている。自分の身体の一番熱い所を見透かされているかのようだった。意識すればするほどに、衆目から放たれる熱線が威力を猛らせて襲ってくる。

 だが、その視線に、もう圧されはしなかった。羞恥が消えた訳ではない。羞恥を乗り越えただけだ。感情同士の鬩ぎ合いで、喜悦が羞恥を打ち負かしたのだから。

83 : 以下、名... - 2016/08/10 21:07:14.26 u9YDDC8ko 75/304

 気付けば、中華街の東門が間近に迫ってきていた。中華街に入った時と同じ門なのに、違う自分になったような心持で潜る。確かに別世界へと案内された気分だ。そして自分がお姫様で居られる時間は、まだ終わっていない。ゲートを潜ってもなお、律は別世界に生きていた。

「次は何処に攫っていってくれるの?」

 東門を出て真っ直ぐ歩きながら、律は首を傾げて問う。

「すぐ、そこだよ」

 律が澪の答えを聞いて、前方へと目を向けた時。元町・中華街駅の出入口が、後方へと過ぎていった。

*


87 : 以下、名... - 2016/08/11 20:36:22.19 2B6vRpJ6o 76/304


*

7章

 本当に時間は掛からなかった。東門から直進して、五分も経っていない。それだけの時間で中華の雰囲気から一転、緑葉茂る木々を散在させた公園に着いていた。入ってすぐの噴水を迂回して進んだ先では、アスファルトの道が横長に伸びている。その向こう側は、海だった。向かい風が海水を擽って、律の鼻に潮の匂いを届けてくる。波が岸壁に当たって砕ける音も空気を震わせ、律の鼓膜を叩いた。

 右に目を動かせば、鎖で岸壁に繋ぎ止められた船が映った。そして道の手前側、即ち海の対面にはベンチが並べられている。だが、そこに腰掛けて海を眺めている人は少なかった。活発に道を往来する人の多さとは対照的である。どちらにも属さない律は、澪の隣に立って瞳を右往左往させていた。

「山下公園だよ」

 海に沿って展開するこの公園の名前を、澪が教えてくれた。律とて、名前くらいは知っている。みなとみらい21や中華街に比して知名度でこそ劣るが、それでも有名な場所だ。観光の名所として、或いはデートのスポットとして。

 事実、中華街ほどの密集ではないにせよ、団体客、親子連れ、そして恋人と思しき男女の組が視界に絶えない。観光名所の名に負わず、写真を撮る人の姿も目立つ。

「此処が、あの山下公園。人気のデートコースだよね」

 律は声に出して、自分へと言い聞かせる。そうする事で、デートスポットに澪と一緒に訪れられた喜びを胸へと浸透させた。

88 : 以下、名... - 2016/08/11 20:37:44.29 2B6vRpJ6o 77/304

「そうだな。アリバイ作りには丁度いいだろ?」

「アリバイ?」

 律は澪の言葉を反復した。澪の発言の意図自体は、聞いた瞬間に理解できている。ただ、気分を壊された不満が、衝動的に口から漏れてしまっただけだ。

「ああ。夜、唯達に見せるのは、デートの途中から、って設定だろ? だったら当然、その前にも私達はデートしているはずだよな。明日、自分達が見る前は何処で何をしていたのかって、唯達から訊かれるかもしれない。こうして事実を作っておけば、中華街と山下公園に行ってましたって、答え易くなるぞ。実際に訪れているんだから、襤褸は出にくい」

 分かり切った説明が、律に現実を突き付ける。デートスポットに立ち寄った事も、唯達を騙す策の一環でしかないのだ。勿論、澪の気遣いに感謝はしている。律の頼みを周到な計画と入念な準備で先導している上、魔法に掛かったような夢の舞台まで演出してもらっているのだ。一日限りの夢とはいえ、忘恩に等しい不満を抱くべきではない。

 そして、明日になれば魔法は解け、自分達の関係も友人でしかなくなる。

「じゃあ、デートっぽい事をしておかないとね。唯達に言っちゃった大言壮語、実現するくらいにさ」

 ならば、せめて魔法が掛かっている今を、精一杯に享受しよう。律は明るい声を出すと、岸壁へと走り寄った。

 足を運ぶごとに、右手に見えていた船が正面へ近付いていく。船の舳先を真向かいに捉えた所で、律は立ち止まって手摺に手を置いた。眼下に収めた海面と陸地の境界面では、小波がコンクリートに当たって弾けている。その度、水飛沫とともに潮の匂いが飛散した。

「あっ、律」

 人の間をすり抜けながら、澪も追い付いてきた。

89 : 以下、名... - 2016/08/11 20:38:45.30 2B6vRpJ6o 78/304

「まだ、航行している船なの?」

 鎖で繋がれた船を見上げて、律は呟く。

「いや、昔の船だ。運航から引退して、もうそれなりの年数が経ってる。展示されているだけだよ」

 隣に並んだ澪が教えてくれた。船首の下の船体には、この船の名称が書かれている。一瞬、いつもの癖で『丸川氷』と読んだが、右から左に『氷川丸』と読むのが正しいのだろう。横文字が逆に流れている所にも、この船が経てきた長い年月が表れている。

「外観だけじゃなく、中も見れるけど。入るか?」

 澪の指に沿って右方へと目を向けると、船の側面へと続く足場が洋上に設けられていた。その上では、入場する者と退場した者が擦れ違っている。足場の更に右方に、チケットの売り場らしき窓口も視認できた。

「デッキには出れないんだよね?」

 船の舳先に目を転じて、律は澪へと問い掛けた。出られたとして、やろうか、やるまいか。律は迷う。やるとしても、澪の協力は不可欠だ。

「ああ。デッキが開放される日もあるけど、平日は立ち入れないな」

 澪の返答を聞いた律は、落胆と同時に安堵も感じていた。デッキに出る事が出来たとしても、実践には羞恥の壁がある。ましてや海の方向は、ここから視認のできない船尾だ。恥じらいを忍んでも、律の望みが叶うとは限らない。

90 : 以下、名... - 2016/08/11 20:39:32.26 2B6vRpJ6o 79/304

「じゃ、私はいいや。でも、サングが見たいなら、私も付いていくよ」

 律は辞する意思を見せつつ、最終的な決断を澪に委ねた。本音を言えば、デッキに出られないのであれば踵を返したい。願望を諦めた律の内部で、別の焦燥が疼き始めている。飲茶で大量に飲んだ烏龍茶が響いて、膀胱が尿意を訴え始めたのだ。内装を見学するだけでも興味はあるものの、こちらの鎮静化が先決に違いない。船中にも手洗いはあるのだろうが、事は急を要するだけに手間の少ない方を選びたかった。

「いや、私もいいよ。でも、ここで他にやりたい事もないなら、中の展示物だけでも見てみるか?」

 律の内心の焦燥を組んだ訳ではないだろうが、澪も乗り気を見せなかった。入船すると言ったなら、先に手洗いだけ行かせてもらおうか。そう対策も思い付いていたものの、不要となった。

「ベンチに座って、海を眺めていたいな」

「夏の海も、そろそろ見納めだしな」

 律の提案を容れた澪が、手を握って先導してくれた。二人、船から遠ざかる方向へと、海の際に沿って山下公園を進んでゆく。噴水のある広場が左手に見えた。自分達が入園してきた場所である。そこを通り過ぎた辺りで、澪が足を止めた。背の高い澪の目線が落ちて、背の低い律の瞳に向く。

「ここでいいか?」

「うん。丁度、ベンチも空いてるし」

 目を合わせて問う澪に、律は即答した。見晴らしだけで言うなら、ベンチに座るよりも手摺の前で立っていた方がいい。殊に噴水の前の歩道では、バルコニーのような扇形の突端が海側に設けられている。反面、ベンチは舗道の緑地側に据えられており、眺望で劣る事は避けられない。

 だが、律は体力がなく、澪は軽くない荷物を持っている。落ち着いて海を観賞するには、座っていた方が良かった。

91 : 以下、名... - 2016/08/11 20:40:30.55 2B6vRpJ6o 80/304

「じゃあ、ここにするか」

 律の返答を確認した澪がベンチに腰掛けたが、当の律は座らなかった。落ち着いて海を鑑賞するには、下腹部で疼く焦燥を鎮めなければならない。

「律?」

 澪の首が怪訝そうに傾ぐ。座る素振りを見せない律に、不審を抱いているらしい。

「えーとね。ちょっと、席外すから。ここで待っていてくれる?」

 顎の前で両手の指を合わせ、恥じらいが伝わるように言った。澪ならば仕草だけで、律の意図を察してくれるだろう。

「場所は分かるか?何なら、連れて行こうか?」

 律の期待した通り、澪は理解してくれた。のみならず案内まで申し出てくれたが、律は両手を振って遠慮する。

「えっ?いいよ。サングには、荷物と場所の番を頼みたいし。だから、場所を教えて?何処が一番近いの?」

 途端、澪の眉根が不愉快そうに歪んだ。表情の変化は一瞬だったが、見間違いという事はないだろう。素直に教えてくれると思っていただけに、意外な反応が網膜に焼き付いて離れない。

「場所って、何の場所だ? それを伝えてくれなきゃ、私も教える事ができないな」

 分かっているくせに。意地悪く惚ける澪に、律は口を尖らせた。

「何のって、分かってるじゃんかー」

92 : 以下、名... - 2016/08/11 20:41:20.29 2B6vRpJ6o 81/304

「ああ、自動販売機の場所か?曇天とはいえ、夏だもんな。じゃあ、私が買って来てやろうか? 五百ミリの冷たい缶ジュース、一気飲みさせてやるよ」

 澪は言って、嬲るように笑う。尿意もいよいよ激しさを増した今、五百ミリもの冷水を一気に飲ませられたら堪ったものではない。澪は間違いなく、分かっていて律を虐めているのだ。気に触る事をした覚えのない律は、涙声になって訴える。

「虐めないでよ。何処の場所を聞いているかなんて、言わなくても分かってるくせに。どうしてそんな」

──意地悪言うの。と、続ける事はできなかった。代わりに「りっ」と、短い声が律の口から走り出る。澪に腕を掴まれ、強引に彼女の太腿の上に座らせられたのだ。驚きと身体に掛かる引力が、律の言葉を奪っていた。

「言わないと分からないのは、お前も同じだと思うけどな」

 耳元で囁かれ、律は心臓を掴まれたような気がした。心の奥底まで抉り取っていく刃が、澪の声に乗せられている。言わないと伝わらない。その事実が、澪の言葉とともに重く重く圧し掛かる。感じ取らせるだけでは、圧倒的に不足だ、と。

「ほら、言ってごらん?取り返しが付かなくなる前に」

 今度は圧力を心ではなく身体に感じた。律は堪らず、身を捩らせる。澪の指に下腹部を押されたのだ。強い力ではない。だが、尿意が迫り上げている今は、脅威の衝撃となって律を見舞った。

「ん?」

 澪は急かすような声とともに、無慈悲にももう一押し加えてきた。先程よりも、強い力で。

93 : 以下、名... - 2016/08/11 20:42:18.78 2B6vRpJ6o 82/304

「んっ」

 滴が零れそうになり、律は慌てて下腹部に力を込めた。猶予はない。意地を張っていれば、沈黙は致命傷に至ってしまう。

「お手洗いっ。私、お手洗いに行きたいの。だから、お手洗いの場所、教えて」

 澪は満足したような顔を浮かべると、律を解放してくれた。

「良く出来ました。まぁ、あれだけ烏龍茶を飲めば、そうなるよな」

 飲ませた張本人に言われたくなかったが、抗議などせずに言葉を待った。時間が惜しい上に、機嫌を損ねたくもない。

「この角を真っ直ぐ行くだけだよ。そこにある小さい建物がトイレだ」

 澪が腋の角度を狭めて指差した道は、たった今通り過ぎたばかりの道だった。噴水の脇を通る道のすぐ横に、平行した道が通っている。続いて澪が指差した先に、律は確かに屋根の姿を認めた。眼前の角を曲がって直進するだけの道程である。一聴と一見に留めても、迷いようがなかった。

「ありがと。ここからなら、そんなに遠くないね。じゃあ、すぐに戻ってくるから」

 礼だけ言って、律は爪先を手洗いに向けた。

「待て」

『マテ?』

 澪に留められては、急く足も止まる。律は躾けられた犬のように、飼い主の指示を待った。

94 : 以下、名... - 2016/08/11 20:43:20.48 2B6vRpJ6o 83/304

「もし野郎から声を掛けられたら、大声を出して私を呼べ。この距離なら必ず聞き届けて、仕留めてやるよ」

 切れ長の目で律を見据え、澪が言い切った。自分を独占するかのような言葉に、律は蕩けた瞳を澪へと向ける。本当に、嫉妬深い恋人であるかのようだ。

「勿論、本当の彼氏ができてお役御免なら、唯達との問題は一番スマートに解決するけどな」

 だが、その感覚も直後の言葉で途切れた。律が錯覚を起こす度、常に現実が突き付けられる。目の前に居る恋慕の対象は、本当の恋人ではない。窮地を脱する為に協力してくれている、親友なのだ。

 だからこそ、律は疑問だった。此処で都合良く異性から求愛されて付き合えば、唯達との約束は嘘ではなくなる。本当の彼氏として、逢瀬を披露できるのだ。それを否む理由など、協力者の澪にはないはずである。

「でもな。そんな恰好している女に声を掛けてくるのは、どうせ下心がある奴だけだ。その程度の野郎じゃムギや梓が心配するから、付いて行くなよ? もっと落ち着いた時に、信頼できる相手を選べ」

 律の疑問を先取りした訳ではないだろうが、澪が噛んで含めるように言った。言うまでもなく、この艶美な服をプレゼントした者は当の澪である。それだけに、色欲が目当ての輩を追い払う義務も感じているのかもしれない。

 そして律は、先ほど行先を暈して一人でトイレに行こうとした際、澪が怒っていた理由も分かった気がした。だが、可能性としては有り得るというだけで、当て推量の域を出てはいない。律は”他に思い付けなかった”という理由だけで、自信がないままに問い掛ける。

「もしかして、だけど。サングがさっき怒っていたのって、私が無警戒だったから、なの?」

 護衛が含意された同行の申し出を、律は遠慮してしまっている。澪の義務感を尊重せず、扇情的な恰好で一人歩こうとした格好だ。澪が怒りを覚えても不思議ではない。

95 : 以下、名... - 2016/08/11 20:44:33.06 2B6vRpJ6o 84/304

「怒ってないよ」

 律の問いを否定する澪は、涼しい顔を見せている。だが、澪の言葉を額面の通りには受け取れない。問い掛けた推測が間違っていたとしても、或いは本当に怒っていなかったとしても。澪は間違いなく、律に対して尋常ならざる厳しい態度で臨んでいた。

 尤も、律にこれ以上追及する余裕などなかった。膀胱が限界を訴えている。額から脂汗を滲ませる程に、身を捩りたい程に、耐え難い衝動だ。

「なら、いいんだけど。ごめん、サング。もう私、耐えられそうもなくて。行っちゃうけど、いい?」

 太腿を忙しく擦り合わせ、態度でも限界を訴えた。排泄さえ管理されている我が身が、飼い犬のようにも思えてくる。そのような自分を、惨めだとは思わなかった。いっそ、本当に飼われて、調教して欲しいと願っている。

「ああ、行っていいぞ。引き留めてごめんな。今も言ったけど、気を付けろよ」

 許可の出た律は、教えられた道を小走りに進んだ。それでも履き慣れないチャイナシューズが、急く足の動きを抑えている。肌に当たる向かい風も鬱陶しかった。背に腹は代えられない。律は行儀の悪さを承知で、足を大股に動かした。慣れない靴で無理に走っては転びかねないが、大きな歩幅で移動するなら安全に距離を稼げる。そう、思っていた。

 だが、注がれる無遠慮な視線が、律に失態を気付かせる。大股で歩き始めた時は、然程気に留めていなかった。下心のある者から見られているだけだろう、程度の認識でしかなかった。しかし、歩を進めるうち、視線の主に同性も含まれている事を看取した。自分の身体に何か付いてでもいるのだろうか。地を大きく跨ぎながら、律は自身の肢体を見下ろした。そして、頭に上る熱い血の気とともに、理解へと至る。

96 : 以下、名... - 2016/08/11 20:45:41.43 2B6vRpJ6o 85/304

 深いスリットが入っている為に、脚の動きに裾も連動して靡いている。その服を着て大股で動くとどうなるか、律の瞳は捉えていた。太腿の上に載った裾は脚の動きに沿って滑り、脚の付け根をほぼ露見させてしまっている。股さえ晒しかねない、際どい位置だ。

 知覚によって生じた夥しい感情の氾濫を、脳は慌ただしく処理している。それが故、歩幅を縮めろという、脚部に発するべき脳の指令は間に合わなかった。もう一歩を踏み出す動作が、始まってしまっている。折り悪く、前方から一際強い風が吹いた。太腿の内側へと滑った裾が強風に煽られ、横へと靡く。澪にさえ見せた事のない花冠が、手折られる危機を迎えて──

「っ」

 無意識に裾へと手が伸び、赤裸々な露出は免れた。裾の端に掛かった指が、際どい所だったと教えている。律は裾を掛け直すと、顔を俯かせて歩き出した。此処に留まって居られない。

 露出は免れたと言っても、正面からの話だ。観測者の立ち位置次第では、網膜に収められたかもしれない。考えてみれば、危機を自覚した今に限った話ではないのだ。大股で歩き始めた時から、強風は幾度か受けている。その間、性器を露出させかねない足取りで歩いていた。視座によっては、覗けた者が居ても不思議ではない。自分を見ていた周囲は、どのような感想を抱いただろうか。考えれば考える程、頭が茹って赤面してしまう。

 幸いにも、手洗いは眼前に迫っていた。律は顔を伏せたまま、視線の追跡から逃れるように突進してゆく。晒した痴態を人目から隠したい一心が、律の足を動かしている。そうしてコンクリートの壁を迂回すると、俯かせた瞳が灰色の四角い入口を視認した。あの中に逃げ込めば、衆目を遮る事ができる。お化け屋敷の出口に駆け込む童女のように、律は入口に身を躍り込ませた。入った途端、安堵の吐息が込み上げてくる。律は憚る事なく相好を崩し、喉に迫り上げた息を吐き出した。

97 : 以下、名... - 2016/08/11 20:46:45.41 2B6vRpJ6o 86/304

「えっ?」

 顔を上げた律は、目に移る信じ難い光景に短い声を漏らす。律を迎えたのは、男性たちの驚いた顔だった。何故ここに律が居るのか分からない、彼等の顔にそう書いてある。そしてその疑問が当然だと、律も瞬時に気付く。忘我に飛び込んだ先は、男性用の手洗いだったのだ。

「りっ」

 謝る事さえ忘れて、律は飛び出した。顔が熱い。直後に、隣接する女性用の手洗いに入ろうとしていた同性と目が合った。男性用の手洗いから飛び出した律を見て、彼女の顔が驚愕に見開かれる。そして間を置かずに表情が軽蔑へと変わり、彼女は足早に手洗いの中へと消えて行った。

 折悪しく、気まずい所を目撃されてしまった。その上で軽蔑を隠さなかった彼女と、同じ場所に入りたくはない。だが、膨張した膀胱が律の選択肢を奪っている。律は息を詰まらせる思いで、彼女の後を追って女性用の手洗いへと入った。

 先程の女性は、折好く個室の中に身を収めた所だった。変質者に向ける視線で遇されずに済み、律は胸を撫で下ろす。しかし、安堵は束の間だった。見回す目には扉の閉まった個室が飛び込むばかりで、不運を嘆息せずにはいられない。

 早く何処か空かないだろうか。脂汗を滲ませながら、祈るような気持ちで律は待った。太腿を擦り合わせて踵で足踏みし、身を捩らせて必死に耐える。蹲りたい衝動は抑えられても、尿意に悶える身体を鎮める事は容易でない。個室から聞こえる衣擦れの音にも、用を終える兆候であって欲しいとの祈りを乗せた。手洗いの中では、音姫であろう擬音だけが絶えずに響く。

「澪の馬鹿ぁ、私の馬鹿ぁ」

 思わず澪を詰ってしまっていたが、間髪を置かずに言い直した。直後に轟いた浄水の音が、律の思考を押し流す。一日千秋の思いで待った扉が、遂に開くのだ。

98 : 以下、名... - 2016/08/11 20:47:58.31 2B6vRpJ6o 87/304

 実際には、然したる時間は経っていないのだろう。後続の者は誰も入ってきていないのだ。だが、待つ身の苦しみの上では、秒針でさえもが緩慢に動く。今も律は衣擦れの音に耳を傾けながら、穴を穿たんばかりに扉を見つめている。もうすぐだと分かっているのに、一秒一秒が長く遠く遅い。

 焦らすような間を置いて、漸く先客が扉から出てきた。待ちに待った瞬間だが、律は下腹部に刺激を与えないよう慎重に歩く。歩く際の震動さえもが、響いて疼痛のように沁みた。

 個室に入って鍵を掛けた律は、便器の形状を改めて見遣る。腰掛けずに済む和式である事に、安堵の吐息を漏らしていた。抗菌スプレーの入ったバッグは、澪の鞄の中に預けたままである。律は排泄の欲求に急く緊急時でも、衛生面への留意を忘れてはいなかった。仮に洋式であっても、便座クリーナーやシートがあるなら我慢できる。それさえなかったら、トイレットペーパーを便座に敷くという窮余の策に出ざるを得なかった。

 これで安心して、身体の切なる訴えの通りに行動できる。限界との戦いから開放されるという軽やかな安堵からか、便座へと踏み出す足取りは軽い。だが、便座の脇に足を置こうとして、律の身体は電流が走ったように強張った。

 律は顎を引いて、身に纏う被服の長い裾を見遣る。排泄など日常的な生理現象であるにも関わらず、実際に直面するまでこの問題が頭に擡げる事もなかった。律は眼球だけを動かして、何度も便座と裾を往復させる。理解した事態ではあるが、悪足掻きの確認をせずには居られない。

「汚しちゃう」

 往生際の悪い作業を打ち切る為に、律は疾うに確かめ終わっている事を口にも出した。裾の長いチャイナドレスでしゃがみ込めば、裾が便器の中に落ちて水で汚してしまう。後方の床や前部の凸部に裾を流す等、方策を頭の中に浮かべてはみた。だが、僅かな動きで、裾が便器の中に落ちる危険性を排除できない。加えて、澪から貰ったドレスである。乾いた床であれ、不浄の場で服を地に付けたくはない。

99 : 以下、名... - 2016/08/11 20:49:13.48 2B6vRpJ6o 88/304

 裾を持ち上げればいいのだろうか。足首にまで伸びる裾の長さを考えれば、非現実的な案だ。裾を折り畳む事にも思慮を馳せたが、前方のみならず後方も同様の処置を施さねばならない。二本しかない手で、上手くできるとは思えなかった。ましてや、事後に拭く事ができない。

 考え付く案が悉く不採用になる中、無情にも尿意は激しく募る。膀胱に膨満する尿が波を打って、下腹部を内部から圧しているようだ。もう、猶予はない。

 律は背中のファスナーに手を回した。これから行なう事を思えば耳が熱くなるが、葛藤している時間はない。膀胱が破裂せんばかりに膨張しているのだ。律はファスナーを下限まで下ろすと、袖から両腕を抜いた。乳房を露わにして、布が地に付かぬよう慎重にチャイナドレスから両足も抜く。裾を汚さずに排尿するには、チャイナドレスを脱ぐしかない。

「きゃはっ」

 ドレスを畳んだ律が放った吐息は歪んで、笑い声のように弾けていた。視界には、裸の我が身を映している。公共の場で胸部も性器も晒して裸になるなど、我が身ながら変態に思えてならない。この手洗いの壁を隔てた場では、多くの人が文明的な恰好で行き来しているのだ。思えば思う程に、心臓が激しく波打って呼吸を乱す。律の吐く息を、歪ませてしまう。

 淫猥な姿に堕したものの、これで漸く目的を果たす事ができる。律は畳んだドレスを胸に抱えて、便座に就いた。余裕はなくとも音姫のセンサーに指を近付け、作動させる事も怠らない。そして川の流音の響く中、耐えてきた堰を切った。

「うわ」

 排出された液体の不規則な軌道に、律の口から呻きが漏れる。予期した直線を描かずに、出ると同時に弾けて飛沫を散らしたのだ。飛散は花火のように一瞬で終わったが、直後の軌道は安定していない。水溶性の膜に覆われた蛇口から、水を放ったかのような動態が辿られていた。通り道を邪魔する膜が流水に払われてしまえば、軌道も安定に至る。事実、律の下腹部が楽になるに連れて、軌道も直線へと転じていった。

100 : 以下、名... - 2016/08/11 20:50:36.05 2B6vRpJ6o 89/304


 律は初め驚きこそしたが、原因に付いては瞬時に察しが付いている。相次ぐ興奮に見舞われる中で、性器から分泌された粘液が尿道口にも被さったのだろう。流水を弾いて散らした膜の正体は、それに違いない。

 自覚とともに、性的な含羞を抱いた事象の一つ一つが思い出される。中華街でチャイナドレスに身を纏った時から、律の身体を刺激して止まないものだ。ここ、山下公園に着いても、興奮と羞恥は律の身から離れていない殊に、澪と離れて手洗いに向かった時からは、その連続だった。

「うー」

 胸に抱えていたドレスへと顔を埋めて、律は唸った。身を焼くような記憶が脳裏に巡って、顔を上げてなど居られない。痴女に思われても仕方がないくらい、媚態を晒してきたのだ。澪に告白できなかった小心者のくせに、と、律は胸中で呟く。臆病者らしく、晒した痴態を恥じて落魄に窶していれば釣り合うのだ。なのに身体は、身の程を弁えていない。晒した痴態を悦ぶかのように、粘つく体液を分泌して生理現象の軌道さえ変えていた。

 顧みているうちに、用は終わっていた。腹部の疼きも消えている。律は顔を上げると、トイレットペーパーホルダーへと手を伸ばした。早く拭いて、服を着てしまおう。公共の場で裸身を晒して興奮する淫奔の沙汰から、早く脱したい。そう思って伸ばした指は、手応えなく空振りしていた。勢い、指と指が柔らかく当たり合う。

「えっ?」

 律は拍子の抜けた声を漏らした。衝かれたように、ホルダーへと首ごと視線を振り向ける。頭を垂れて謝するようなホルダーの蓋に、律は絶句する他なかった。ホルダーの蓋を持ち上げてみるが、紙も希望も見当たらない。律は忙しく個室内に視線を走らせたが、予備のトイレットペーパーが瞳に飛び込む事はなかった。

101 : 以下、名... - 2016/08/11 20:51:38.00 2B6vRpJ6o 90/304

「りー」

 律は弱々しい鳴き声を、唇の隙間から零した。こればかりは、工夫や知恵で乗り切れる類のものではない。壁越しの個室に話を通して、予備のペーパーを投げ入れてもらえないだろうか。その案が脳裡を過ぎった直後に、自分へと軽蔑の眼差しを向けた女性の顔が蘇る。頼める訳がない。自分の痴態で頭が一杯になり、隣室の挙動など感知する余裕もなかった。まだあの女性が隣の個室に居る可能性は、決して低くはない。只でさえ、見知らぬ人にデリケートな儀を頼む事には抵抗があるのだ。自分を蔑視で遇した人間に懇請するなど、律の弱い心が許容できる事態ではない。

 律は胸に抱くチャイナドレスを見遣った。このまま、着るしかないのだろう。理解はしていても、抵抗の念は消えずに残っている。だからこそ、採り得ない解決策にさえ思いを巡らせたのだ。貰ったばかりの服に、不浄の跡を付けたくはない。排尿自体が綺麗に行えた訳ではなかった事も、律の葛藤に拍車を掛けている。陰部に塗れる粘液が尿を爆ぜさせた際、全ての雨滴が便器へと散っていった訳ではない。その粘液自身に吸着した尿が、今も律の陰部で泥濘んでいる。染みや匂いを遮断する下着がない以上、布地や空気が泥濘へと直接触れてしまう。そうなれば、他者の視覚に嗅覚に、赤裸々な主張を突き付ける惨事へと至りかねない。

 だが。こうしている間にも、澪が律の身を案じて待っている。悪い男に絆されないよう、念を押して諭してくれた友人だ。早く戻って、安心させてやりたい。どうせ選ぶ余地のない懊悩なら、時間を空費しているに過ぎない。逡巡を経た所で一本道は変わらず、通る時が今か後かの違いでしかないのだ。結論の出ている事なのに澪を待たせる訳にはいかない。澪を不安の渦中に置いて、焦らして煩悶させる訳にはいかない。律は、覚悟を決めた。羞恥が何だというのだ。

 律は立ち上がりざま、チャイナドレスを広げた。裾が床に付かないよう、そして布地が湿地に付かないよう、慎重に足を通す。両腕も袖に通してチャックを締めると、僅かに姿勢を前傾させた。腰を支点に、裾が下へと真っ直ぐに伸びる。律は裾の具合を確認しながら、緩やかに背筋を伸ばしてゆく。裾の布地が恥丘に触れたが、滲み出してはいない。背筋が伸びきっても、染みが布地に浮き出る事はなかった。

102 : 以下、名... - 2016/08/11 20:52:47.59 2B6vRpJ6o 91/304

 律は心労を押し出すように、長く息を吐き出す。幸いにも、布地が触れる個所の大部分は、体液の付着の具合が少なく済んでいた。直下に濃く塗れたゾーンがある以上、楽観まではできない。それでも気を付けて歩けば、惨事には至らないだろう。

 たかが排尿に、多くの時間と労力を割く羽目になったものだ。律は疲弊の我が身に呆れながら個室を出た。入れ替わるように、律の出た個室へと人が吸い込まれてゆく。待たせてしまった相手は、澪だけではなかったらしい。自身の優柔不断を省みながら、律は両手を洗う。

 無手の律はドライタオルに濡れた手を翳すに留め、トイレを後にした。せめてハンカチだけでも持ってくれば良かったと思う。言うまでもなく、手を拭く為ではない。染みて匂って悟られないかとの懸念を、粘って纏わる液もろともに払拭する為だった。

 澪の下へと戻る道は険しさを増して、辿る律を苛んでいる。風で煽られる度、痴態が露わになってしまいそうだった。今や、太腿を滑るスリットだけが脅威なのではない。風や動作で匂いが飛散して、往来する人の鼻腔に痴女の存在を宣していないだろうか、と。律は頻りに周囲を気にしながら歩いた。

103 : 以下、名... - 2016/08/11 20:53:57.96 2B6vRpJ6o 92/304

 四方へと張り巡らせた律の意識も、愛しき者の姿を捉えては一点へと収まる。無遠慮な視線に犯され続けた律を、澪は抱擁で迎えてくれた。腰と肩に回された澪の手も、耳元で囁かれる澪の声も、律は多淫に仕上がった一身で受け入れる。澪が、欲しい。生殺しにされた性が疼いて、澪を欲している。

「やはり今のお前は、一際目を引いているな。命知らずな野郎に絡まれたりしなかっただろうな?」

 言った後で、澪が威嚇するように鋭い瞳を左右に振った。獲物の横取りを許さぬが如き澪の剣幕に怯んだのか、律に注いでいた不躾な視線の群れが一様に伏せられる。いつになく激しい澪の態度が、自分が掛けてしまった心配の大きさを物語っているようだった。律が葛藤に費やした時間を、澪は心労に費やしていたに違いない。自分が彼女の下を離れて手洗いへと行く時から、澪は律を案じていたのだから。

 もし、これが唯ならば、と律は思う。「遅いよー。あ、もしかして。りっちゃん、うんこ?」などとデリカシーの欠片もない問いで、律の乙女心を踏み躙っていたに違いない。脳裡には、嘲弄的な笑みを浮かべた唯の顔が蘇っている。彼氏の有無で揉めた先日、律を煽ってきた時に見せた笑みだ。

 澪ならば、思っても口にはしないだろう。現に、心配の言葉だけを掛けてくれているのだから。

 そこまで考えて、律の胸が焦燥に急いた。澪には、野卑な想像さえも避けて欲しい。

「うん、大丈夫。でも遅くなって、心配掛けちゃったよね。ただ、お手洗いで順番待ちしちゃって。紙もなかったし」

 言い訳でもするかのように、言葉が自然と口を衝いていた。

「紙がなかったのか?それで、どうしたんだ? ティッシュも何も持って行ってないだろう?」

104 : 以下、名... - 2016/08/11 20:55:35.98 2B6vRpJ6o 93/304

 澪がその疑問を口にするのも当然ではあるが、答えるには躊躇する。抱いて当然の疑問だけに、問われるとの予期もあった。そして、紙がなかったなどと余計な事は言わず、手洗いが混んでいたとだけ伝えていれば、受けずに済んでいた問いでもある。にも関わらず正直に告げたのは、澪を心配させた負い目があるからに他ならない。答えも正直を貫いてこそ、責を果たした事になるのだろう。加えて、澪に確認しておきたい事もあった。律は逡巡を押し遣って、重い口を開く。

「拭いてないの。それでね、本当のこ」

「えっ?拭かずに出たのか?どうりで強い匂いが」

 律が言い切らないうちに、驚いた様子の澪が声を割り込ませていた。

「ええっ?」

 律も澪にみなまで言わせていない。受けた衝撃の大きさ故、最後まで口を閉じている事ができなかったのだ。──本当の事を言って欲しいんだけど──などと前置きして、澪に問うまでもなかった。

「うっ、嘘っ?やっぱり匂うの?分かっちゃうの?」

 瞳の奥から滲んでくるものを感じながら、律は半狂乱に問う。羞恥のあまり、泣き出してしまいそうだった。

「ごめんな、冗談だよ。律からはいい匂いしかしないよ。いや、冗談というよりは、いつも以上に快い香りがするように感じるよ」

 柔らかく告げる澪の声が、取り乱していた律の鼓膜を叩く。律は潤んだ瞳で澪を見上げながら、瞬きを繰り返した。そうして、澪の言葉を咀嚼して遅い理解に至った律は、抗すべく口を尖らせる。言いたい事ばかりが脳裏を巡るが、喘ぐような呼気に阻まれて声が上手く出せない。唇の隙間から短く一言漏らすだけで、精一杯だった。

「意地悪」

105 : 以下、名... - 2016/08/11 20:56:52.82 2B6vRpJ6o 94/304

「ごめんな」

 澪がハンカチで律の目元を優しく叩いてくれた。ただそれだけの動作で、あれだけ取り乱していた律の心が落ち着きを取り戻してゆく。動から静へと至る過程すら、律の心それ自身を以って感じ取れる。意地悪をされても優しくされると許してしまう。自分の心は澪に掌握されて為されるがままだと、諦めにも似た気持ちで律は思った。

「でも。正直な所は、どうなの?本当に冗談で言ったの? 匂ったりしてない?」

 落ち着いたところで、律は改めて問い直した。冗談と言う澪の発言を信じ切る事ができない。本音を零してしまったが、律の取り乱した態度を見て繕った。その疑念が、頭に擡げている。

「言ったろ?律からはいい匂いしかしない、って」

 澪は先程と同じ答えを繰り返した。即ち、澪は今も先程も、無臭だとは言っていないのだ。そこに律は拭い切れない疑念を抱いている。

「つまりそれって、匂うって事じゃ」

 律は確認するように言うが、口から漏れる声は細く弱く消え入ってゆく。

「そんなに心配なのか?なら、確かめてやるよ」

「えっ?あっ」

 律の了解を待たず、澪が顔を律の首筋に沿わせてきた。頬に当たる澪の髪の感触が擽ったい。

「ちょっとっ、みっ」

 首の付け根に呼気を感じ、律は堪らず声を上げた。吸音まで聞いては冷静で居られるはずもないが、それでも”澪”と叫びかけた声は途中で押し留める。

106 : 以下、名... - 2016/08/11 20:57:52.26 2B6vRpJ6o 95/304

「うん。いい匂いだ。律が気にするような匂いは一切ないよ」

 律の首に顔を埋めていた澪が、表情を持ち上げて耳元に囁いてきた。

「なっ、何言ってるんだよぉ。そんな事してくれなんて、私言ってないし」

 自分の身体を嗅ぎ取られた律は、恥辱で息も絶え絶えに抗言を張った。だが、澪に気にした様子は見られない。

「律がしつこく気にしているから、確かめてやってるってだけだろ? それに。お前、いつから私に命令できるようになったんだ? 私はお前に何を言われようと、お前の身体を好きなように扱うよ。お前が私に出来るのは、お願いとおねだりだけだ」

 硬直して言い返せない律を眼前に置いて、澪は一呼吸だけ置いて付け加えた。

「だって今日の私は、お前の彼氏役なんだろ? 恥ずかしい事をやらせてきたりする、サディストな彼氏なんだろ?」

 高圧的に振る舞う澪を、律は拒めなかった。田井中律を所有している者は、自分ではない。澪の言う通り自分に許されている事など、赦しを乞うように懇願する事だけだ。

「お願い、サングー。熱くて蒸しちゃって、汗とかもいっぱい掻いてるから。だから」

「だから、匂わないか心配なんだろ?だから、確かめて欲しいんだろ?」

107 : 以下、名... - 2016/08/11 20:59:11.59 2B6vRpJ6o 96/304

 澪が後を引き取って言った。律が言わんとしていた内容とは正反対である。だが、律が訂正をする前に、澪は動き出していた。律の髪の毛に、早くも澪の鼻腔が埋まっている。

「サンッ、うー」

 律は頭に熱気を上らせながら耐えた。澪の放つ呼気が髪の中で燻り、痒みのような疼きが首筋に走る。

「うん、いい香りだ。ん?暑いのか?耳まで真っ赤だぞ」

「熱いんだよー」

 律は身体の状態を答えたが、澪は同音異義を聞き分けられただろうか。尤も、問うた澪とて、気温だけが原因だとは思っていまい。恥ずかしがらせると宣していたのだから。

「みたいだな。そのせいで今日はいっぱい汗をかいているだろうから、入念にチェックしてやるよ」

 律の襟元から胸部へかけて、澪の鼻が黄色いシルクの上を滑ってゆく。執拗に嗅ぎ取る吸音を、間断なく響かせながら。

「やっ」

 乳首を鼻の頭で擦られた律は、短い声とともに背を仰け反らせた。

「逃げるなよ。ここは特にいい匂いがするんだ」

 澪の強い力に引き寄せられては、律も抗いようがない。そう、圧倒的な膂力に屈しただけだ。澪の甘い言葉に擽られたせいではないと、律は自分に言い聞かせる。

 その間にも澪の鼻梁が、無抵抗な律の胸部を蹂躙していく。双の房の合間、露出した谷間も、澪に容易く侵略された。

108 : 以下、名... - 2016/08/11 21:00:24.58 2B6vRpJ6o 97/304

「堪能したよ。芳しかった」

 律の身体から顔を話した澪が、満足を表情に浮かべて言った。律は解放感に全身を弛緩させ、口を尖らせる。

「もー、強引なんだから。じゃあ、もうお終いっ。休も休も」

「いーや、お腹や背中も確かめて欲しいだろ?」

 澪の手に力が籠もり、律も再び身体を強張らせた。

「いっ、いいよ。そんな事しなくて」

「遠慮するなよ、お前らしくない。あっ、そうか。こっちの方が気になるもんな。こっちを確認して欲しいって事か」

 澪は慌てて拒む律を意に解していなかった。一方的に納得して、律の左腕を持ち上げている。

「あっ、こらっ、だめっ」

 腰を屈めた澪の姿勢に、律も彼女の意図を察して喚く。急いで腕を閉じようとするが、澪の腕力には適うはずもない。

「ねっ、そこだけは、めっ、なのっ。許してよ」

 律の懇願は、無情にも聞き入れられなかった。澪の端正な顔が、律の腋へと埋められてゆく。そして、吸音が、響いた。

「やぁっ」

 顔を反らして呻く律に、自分達へと視線を注ぐ衆人の姿が映った。一様に軽蔑が顔へと浮かんでいる。

「っ」

109 : 以下、名... - 2016/08/11 21:01:45.40 2B6vRpJ6o 98/304

 込み上げる激しい恥辱が行き場を求めて、瞳から雫となり滴り落ちた。唐突に学校での平穏な日々が思い出され、皆の笑顔が脳裏を巡る。あの日々の自分と、大衆から蔑みに満ちた視線で遇される自分が、同じ存在だとは到底信じられない。隔世の感だ。あの日々を恋しがれば恋しがる程に、涙が溢れて止まらない。

「許してよぉ……恥ずかしくって死んじゃうよぉ」

 涙声を喉の奥から絞り出し、律は必死の思いで嘆願した。それが通じたのか、単に目的を果たしただけなのか。澪の顔が律の腋から離れた。

「発汗が他より多い部位だからな。律の甘酸っぱい香りが濃厚で、病み付きになりそうだよ」

「馬鹿っ。止めてって言ったのに」

 律は濡れた瞳で澪を睨みつけた。

「悪かったな、焦らしたりして。怒るのも分かるよ。だって、律が嗅いで欲しかったのって、こっちなんだもんな」

 澪の視線が落ちて、律の恥丘へと注がれた。律は慌ただしく手を当てがって、澪の視線を遮り喚く。

「やぁっ、ここは駄目っ。絶対の絶対の絶対駄目っ」

「匂わないか私に聞いてきたのは、律の方だぞ。拭いてないんだろ? だから周囲に匂いを撒き散らしていないか、気になって仕方がないんだろ?」

 澪の言う通りだった。始めに自分から質問している事に違いない。髪にも首にも胸にも腋にも言及はしていなかったが、今澪の視線が注がれている局部には言及していたのだ。そこばかりは、逃れようがない。そして、強引に蹂躙の限りを尽くした澪が、逃してくれるはずもない。

110 : 以下、名... - 2016/08/11 21:02:49.72 2B6vRpJ6o 99/304

「いやっ。ひっく、ぐすっ、えぐぅっ」

 反論も許容もできない律は、泣きじゃくる事しかできなかった。そこを許してしまえば、往来する人も蔑みの色が強まった目線で律を糾弾してくるだろう。耐えられない。

 だが、無慈悲にも澪は動いていた。衣擦れの音が、彼女の息遣いが、人に篭る温度が、律へと迫りながら危機を告げている。

「ひぐっ」

 澪の指が自分へと触れて、律は強く目を瞑った。涙の粒が、瞼から振り落ちる。だが、吸音は聞こえてこない。澪が触れた場所も恥丘ではなく、頭頂の髪だった。優しく髪を撫でる澪の仕草に、律は促されたように感じてゆっくりと目を開いた。その指使い同様に優しく微笑む顔が、霞んだ視界の向こうに映っている。ぼやけていても分かる、律を甘やかしてくれる時の顔だ。

「悪かったよ。律がそんなに嫌がるなら、やらないよ。それに。やるまでもなく、分かってる。何をした後の何処を嗅いだって、律からはスウィーティーな匂いしかしないって事」

 律を気遣う澪の舌は、喋って慰めるだけの用で終わっていない。律の眼窩の直下に伸びて、零れた涙を舐め取ってくれた。律は潤んだ瞳で澪を見上げ、顔に這う愛撫を受け入れる。

「泣かせてごめんな。瞳まで涙に濡れてる。ちゃんと、拭ってやるからな」

 澪の舌は休む暇もなく動いた。口内に引っ込んで謝罪の言を繰り出した直後には、再び口唇から飛び出て律へと伸びてきている。澪の赤い舌先が、明瞭となった視界の中で大きくなってゆく。

111 : 以下、名... - 2016/08/11 21:04:31.23 2B6vRpJ6o 100/304

「えぅっ」

 澪の舌先が瞳に触れた途端、律は反射的に瞼を閉じて背も仰け反らせた。眼を衝いた生暖かい感触が、遅れて瞼の裏で走っている。

 開いたままの右目で見遣った澪は、律の顔を覗き込んでいた。嫌か?と視線で問うてくる澪に、律は閉じていた瞼を開いて答えに代える。泣いた自分を慰撫してくれる、澪の愛撫に浴していたい。

 もう一度伸びてきた澪の舌を、律は左目を開いたままで受け入れた。瞳の上で舌先が転がり、間断なく痛みと違和を律に走らせる。閉じそうになる瞼を意志で抑える度、異常を訴えるように目の回りの筋肉が痙攣した。

 目の中に入れても痛くない、その思いで澪を見てきた。だが実際には、慣用句では収まらない思いを抱いていたらしい。今や、目の中に入れる痛みを受忍してでも、澪を求めてしまう。

「あっ、はぁっんっ」

 深く侵入してくる澪の舌に、律は耐え切れずに声を漏らした。瞼の裏側が攻められ、眼球の上部曲面に海鼠のような舌が這ってきている。澪に塞がれて、瞼は閉じられない。瞬きの自由さえも奪われていた。瞬きせずとも、瞳は乾く暇がない。澪の唾液が、律の眼に塗り付けられてゆく。

 視界が揺れ動く。否、何も映っていないのに、視界が揺れている。酔ったように気持ちが悪い。嘔吐しそうな感覚が、澪が舌を置く奥の奥の脳から放たれている。唾液か涙か、眼窩の縁に水気が堪り、自重で頬を伝っていった。

「うえぇ……み、おぉ」

 堪えた嘔吐に代わって、澪を呼ぶ声が口から漏れ出ていた。サング、などと繕う思考の余裕はない。瞼に始まった痙攣は全身に回り、立っている事にさえ限界が訪れている。下半身の力が抜けて、腰から崩れていってしまいそうだった。膝が、折れる。

112 : 以下、名... - 2016/08/11 21:05:26.84 2B6vRpJ6o 101/304

 律が崩れ落ちるよりも早く、澪が機転を利かせて動いていた。立つ事も侭ならない律の腰に手を回して、身体を支えてくれている。膝を折ったまま、律は顔を上方へと向けた。そこに澪の口唇が降りかかってくる。頭から食べられるような心持ちで、律は澪の唇を眼に受け入れた。優しい口付けにも、違和に敏い瞳が瞬きの欲求に疼く。

 重力に逆らえないほど身体が困憊していても、律に休む間は与えられなかった。澪の口唇から這い出た舌先の表面が、律の瞳に覆い被せられる。澪の味覚を担う器官が、口中の飴玉を転がすように上下に動く。それは緩慢に始まり、往復を重ねるうちに激しさも伴っていった。そうして、澪の味蕾を気にしていた律から、それだけの思考の余裕が奪われてゆく。

 目が回る、脳が回る。眩暈と吐き気に現実感を奪われる中、鋭い痛みだけが律に現実味を与えている。制御できない涙液が涙腺を通って鼻に落ち、喉にも流れ込んでゆく。揺らされる視覚を通じて脳が犯され、身体の末端が小刻みに震えた。汗が、涙が、涎が、自律を保てない身体から流出してゆく。自我も、保てない。自分が壊れる。

「み……お……」

 壊れてしまう前に、と。律は荒い息と嘔吐の欲求の間隙から、愛しき者の呼声を喘がせた。

113 : 以下、名... - 2016/08/11 21:06:54.43 2B6vRpJ6o 102/304

 直後、空いていた方の目が、愛しき者の姿を捉える。律の眼窩に被さっていた口唇も間近に見えた。その隙間に覗く舌先から、細い糸が自分へと落ちている。唾液が引いた糸だと理解する間に、それは澪の唇の中へと吸い上げられていった。吸い込んだ澪の喉が鳴り、嚥下を知らせる。

「大丈夫か?」

「うん。ちょっと、くらくらするけど」

 澪の問いに答えるも、呂律の回らない舌が”ちょっと”どころではないと告げてしまっていた。舐められた側の目にも痛みの余韻が燻り、閉じた瞼を開ける事ができない。

「だろうな。綺麗にしたら、少し休もうか」

 澪がポケットから取り出したハンカチで、唾液と涙に塗れた律の目元を拭いてくれた。律は異物感が緩和された左目を、緩慢な動作で開く。視力が完全には回復していない為か、視界には霞んだ輪郭ばかりが映る。それも衝撃が齎した一時的なもので、直に戻ってくるだろう。脳が揺れたような眩暈もまた、少しずつ落ち着いてきている。

 同時に、自分の身体の状態を把握する余裕も戻ってきた。全身の肌から滲んだ汗で、身体全体が湿気を纏って蒸れている。吸汗性に優れているシルクの素材の内側にも、高温多湿の熱気が籠もって肌を沸かせていた。だが、蒸気に似た湿気が纏わりつく肌よりも、一段と律の注意を引く局所があった。

「おいで、律」

 ベンチに座った澪が、隣の席へと手招いていた。誘われるままに澪の隣席に座すべきか、律は局所の状態を知覚しながら迷う。そこを湿らせる液体は、粘液だけではない。澪に狂わされて制御の効かない身体は、膀胱の隅々からも液体を絞り出していたらしい。感覚的な濡れ具合が、それを律に教えている。幸いにも手洗いに行った直後だからか、極めて少ない量で済んでいた。膀胱の内部に堪った状態であったのならば、失禁する様をライブで人々に露呈していた事だろう。

114 : 以下、名... - 2016/08/11 21:08:08.34 2B6vRpJ6o 103/304

 一方で、同時に湧いた粘液は、夥しい量を律の局所に塗りたくっていた。溢れた液が脚の付け根を越えて垂れ、性器の真下にある太腿の内側までも濡らしている。服に染みが浮き出て、淫らな形跡を赤裸々に晒していないだろうか。恐れながら目を向けた律は、布地が恥丘に貼り付いてしまっている事に気付いた。局部の形状を、委細隈なく明晰に浮き上がらせている。目立たないだけで、滲み出た染みも見えた。だが律は、形跡よりも形状を浮き上がらせる事の方が、遥かに恥ずかしい。堆い恥丘が布地を突き上げていただけの時とは、含羞の深刻さが違う。律は慌てて裾を摘むと、布地と性器を引き剥がした。そうして律は布が肌から離れた開放感の直後に気付く。蓋を開けて、抑えられない且つ止まらない漏出を招いてしまったのだと。

 酸味の強い匂いが弾け、律の鼻腔を衝いた。爆ぜた液も地に落ちて、落下地点に染みを増やしてゆく。地を彩る飛沫の跡から察するに、眼球を舐められている最中にも垂れていたらしい。

「変態」

 澪の口から発せられた罵声に、律は身を震わせた。だが、目を向けて映る澪の顔に、軽蔑の色は浮かんでいない。茶化すような笑みが浮かんでいるだけだ。澪から蔑まれなかった事に、律は胸を撫で下ろす。澪は律が口にしていた彼氏の像を演じているだけなのだ。

「何をポタポタと漏らしてるんだよ。真性だな。目を舐められて感じちゃったのか?」

 律は小さく顎を引いて頷くと、小走りで澪の下へと向かった。まだ脳の奥に残る眩暈が、足元を覚束なくさせている。それでも転ぶ事なく澪の前まで辿り着ける程度には、回復してきていた。

 迷っていた事に決断を下した律は、澪の眼前に立って口を開こうとする。だが、言おうとしていた言葉が口中で絡んで出てこない。先程は恥ずかしさから逃げてしまった事を、頼む決心が漸く付いたというのに。

115 : 以下、名... - 2016/08/11 21:09:19.55 2B6vRpJ6o 104/304

 口に出せないのなら、態度で示せばいい。律は座ったままの澪へ向かって、歩みを進めた。澪の顔と律の服が触れ合える距離まで、深く狭く近付く。そうして澪の鼻先へと、恥丘を突き出した。

「何だよ?」

 対する澪の口調は、突き放すように冷たい。軽蔑するような視線も、律の熱く溶ける局所を突き刺している。

「トイレの時に躾けたはずなんだけどな。私に何か伝える事があるなら、言葉にしてみろよ。ここを、どうして欲しいんだ?」

 澪は”ここ”の指し示す部位を、中指の先端で以って強烈に弾いた。中指の先端を親指で抑えてから弾き出すこの動きは、所謂「でこぴん」と呼ばれるものではある。だが、今その呼称を用いるのは相応しくないだろう。律が打ち込まれた箇所は、額ではないのだから。

「んぅっ」

 固い爪の背が過敏な場所へと叩き込まれた律は、堪らず苦悶の呻きを上げていた。同時に、打たれた部位が重く湿った音を上げる。そこに多く含まれた水気が防音材の用を為し、衝撃の齎す轟音を鈍らせたのだろう。鋭い痛みに息を荒げながらも、部活の成果なのか音に対しては敏感だった。

 打擲の爪痕は、音と痛みだけではない。地に落ちた飛沫も、澪が与えた一撃の強烈さを物語っていた。滴を零すほど激しく陰唇が震えたのなら、体液だけではなく匂いも撒き散らされたに違いない。だが、澪の嗅覚に届いた程度では、律の本願を満たすには至らないのだ。

116 : 以下、名... - 2016/08/11 21:10:35.43 2B6vRpJ6o 105/304

「で、何だ?」

 悶える律に澪は容赦がない。再び指を構えながら、問いの文句を繰り返していた。

 一方の律も、腰を引きはしない。澪の眼前に構えたまま、躾けられた通りに口を開く。

「嗅いで?」

 泣いて逃げた時よりも艶やかに塗れて匂いの濃くなった性器が、澪の目先に布一枚を挟んで蕩けて泥濘んでいる。

「それでいい」

 応えた澪の鼻梁が、突き出した律の恥丘を布越しに弄った。粘つく糊を捏ねるような音に交じって、澪の鼻の鳴らす吸音が響く。

「どうかな? 汗とか……色んな液とかで、凄い事になっちゃってると思うんだけど」

 性感と含羞に身を上気させながら、律は問い掛けた。

「ああ、堪らない。お前の雌の匂いに、脳が犯されてるみたいだ。こんな垂涎の上物、お行儀良く嗅いでられるかっ」

 前から後ろへと回された澪の大きな両手に、律の臀部が鷲掴みに抱かれる。そして逃場を失った律の下腹部に、澪の顔が強く強く押し付けられた。比例して澪の吸音も、強く大きく荒々しくなってゆく。

「もー、飢えちゃって。乱暴なんだからー」

 律は口を尖らせるが、内心は満更でもなかった。澪は律の香を獰猛に貪るほど、甚く気に入ってくれたらしい。衆人の中で性的な羞恥を強いられる行為であっても、惚れた相手に強く求められて悪い気はしなかった。

117 : 以下、名... - 2016/08/11 21:11:44.27 2B6vRpJ6o 106/304

「もっと乱暴に扱ってやるよ。私は恥ずかしい事をやらせる彼氏、だったよな?」

 顔を上げた澪が、確認するような口振りで同意を求めてきた。間違いなく自分が口にしていた言葉なので、否めはしない。だが、不要な発言で言質を取られたなどと、嘆ずる念も湧いてはこなかった。唯達に語った彼氏の像は虚栄ではなく、唯の指摘した通りに願望だったのかもしれない。と、今更ながら、律は気付いた。

「うん。恰好良くって頭も良くてスポーツも得意で、優しくて甘やかしてくれてお姫様みたいに扱ってくれて、でも辱めてきたりもするサディスティックな彼氏、だよ」

 本心だから、だろうか。律は澪の言葉に、弁も滑らかに同調する事ができた。

「なら、遠慮なく。もう後悔しても遅いから、覚悟だけしろ」

 傲然と言い放って立ち上がる澪を、律は一歩も場を譲らずに迎えた。元から詰めていた距離である。澪と律の間で、互いの衣や肉が擦れ合った。そうして後、二人は互いの肌を向かい合わせて圧し合う体勢となる。間を置かず、澪の胸の中で律の身体が回り、澪の胸に背を預けて止まった。

「鼻を直接宛がって確かめるだけじゃ不十分だ。匂いが周りに霧散しないかも、確認しないとな」

 律を後ろから抱き支える澪が、耳元で囁いた。耳朶に被る息と低い声が、擽るように律の耳小骨を愛撫して響く。堪らず顔に朱の線を走らせながらも、律は首を縮めて耐えた。

118 : 以下、名... - 2016/08/11 21:12:56.71 2B6vRpJ6o 107/304

「それに、濡れて漏れて蒸れちゃってるぞ。だから、そこの風通しも良くしてやるよ」

 澪は継いだ言葉で律を嬲ってから、左腕を同じ側にある律の膝下へと添えてきた。そして右腕で律の腰部を支えながら、律の左脚を上方へと引っ張って伸ばす。右脚との角度が広がるにつれて、股に疼痛が募ってゆく。左脚が腰と水平になる頃には、裂かれるような苦しみに喘いでいた。股関節にも強い負荷を感じ、堪らず右脚を跳ねさせて足掻く。澪に支えられていなければ転倒してしまうだろうが、転んで地へと逃れた方が如何に楽か知れない。

 一方の澪は、残酷なまでの徹底ぶりで応じている。自身の右脚を律の股下に割り込ませる事で、拘束の度合いを強めてきていた。澪の逞しい右脚が、律の右脚に当て木のように添えられる形となる。これではもう、足を跳ねさせて逃げる事も適わない。その上で、澪は無慈悲にも左腕に込める力を増していた。

「外れちゃうよお」

 律は息も絶え絶えな口から、泣き言にも似た声を漏らした。軋む脚の付け根が、股関節の脱臼の危機を告げている。骨の継ぎ目が擦れる音さえ、腰の奥から響いてきそうだった。身体が解体される痛みに、律の口から苦悶の吐息が漏れ出る。

 その吐息を限界の合図と見たのか、澪が動きを止めた。右脚から頭頂部を真っ直ぐに結んで直立する幹の横に、斜め上へと向けて左脚が伸びている。爪先の高さと肩の高さが水平に近い律の姿は、正面から見た者には片仮名のトの字を逆さにしたように映る事だろう。

 尤も、律は記号や象形文字の類ではなく、生身の体を持った人間である。開脚が止まっても、無理な姿勢で留められた身体は苦痛に軋んだ。吐く息も荒く、湿り気を帯びている。

119 : 以下、名... - 2016/08/11 21:14:11.33 2B6vRpJ6o 108/304

「辛いか?痛いか?苦しいか?」

 問い掛けてくる澪に、律は肯んずる態度と言葉を繰り出そうと思う。実際、喉元にまで言葉を上らせ、声に出しかけていた。

「私から解放されたいか?」

 だが、続けて放たれた澪の問いを、律は肯んずる事ができなかった。

「どうなんだ?」

 黙した律に、澪が答えを迫ってくる。そうなのだ。澪は明言を求めている。全てはお前次第だ、と突き付けられているのだ。

 律は首を振った。仕草だけでは足りないと思い、言葉も態度に追わせて放つ。

「んーん、解放、しなくていい」

 律の口から出た答えに、脚の付け根が痛みで不満を訴えている。反面、そのすぐ傍にある律の性の象徴は、口から出た回答を歓迎していた。律の”ここ”は痛みでさえも甘受して、女としての幸せに変えてしまう。さながら、出産のように。

「そこは全開の寸前まで開放しかけてるけどな」

 律の腰を抑えていた澪の右手から、発話に合せて中指が伸びる。指し示す先を目で追うと、斜め上に張られ続けている左脚の根が映った。左脚の傾斜に沿って裾が肌の上を滑り、大きく開いたスリットが律の太腿を付け根まで余さず露出させている。そして、露見は太腿に留まっていない。下腹部の縁の際どい所まで覗けていた。堆い恥丘が引っ掛かりとなって、滑る裾を極限の所で堰き止めたようにも見える。危うい縁の差の死守だった。

120 : 以下、名... - 2016/08/11 21:15:37.09 2B6vRpJ6o 109/304

「ね、サング。それで、どうかな? ここまで開放しちゃうと、やっぱり霧散しちゃってるかな? 匂い、撒き散らしちゃってる?」

 全壊の寸前まで開放しかけた股が、絶え間のない激しい痛みを走らせる。それに発声のテンポを乱されながらも、律は問い掛けた。付け根付近に湿潤して放たれる艶が、目に付いて離れない。眼球を舐められて感じ入った際の跡に違いなかった。ここまで濃く多くの体液を溢れさせてしまった身が、蓋を極限まで取り払った状態で往来に晒されている。激痛を押してでも、匂いの程度を訊ねずにはいられなかった。

「誘因されるようだよ。覆うもの何もなく、ヴェール一枚で視覚だけ遮って、大開脚だもんな。強烈鮮烈峻烈。この匂いだと、風向き次第で十メートル越えた所の人間まで振り向かせるんじゃないか?」

「大袈裟、だよ。桁が違うし」

 喘ぐ呼気の合間に言葉を割り込ませ、律は反駁を試みる。

「あながち、大袈裟とは言えないな。ほら、ご覧? 皆、お前に注目してるぞ。放つ香りに誘因されてるんじゃないのか?」

 澪が指摘する通り、今の律は衆目を一身に集めている。だが、嗅覚に訴えて集客の功を為した訳ではない。今始まった事ではないのにと、律は口を尖らせた。

「前から、じゃん。さっきから、恥ずかしいかっこ、してるからぁ。きっと皆、私の事、淫らな女だって思ってるんだ」

 否定できない痴態が、隠せない滴となって股下から落ちている。下着を剥いだ身では、自重に耐えかねて滴る体液を堰き止められない。大きく開脚した姿勢も、垂水の湧出に拍車を掛けていた。

121 : 以下、名... - 2016/08/11 21:16:46.93 2B6vRpJ6o 110/304

「ああ、そうか。言われてみれば。さっきからずっと、お前見られてたもんな。遠近を問わず、皆見てから通り過ぎてったっけ。淫らな、今自覚してるまんまな見目のお前をね」

 今気付いたかのように澪は言うが、白々しい振る舞いを隠そうとはしていない。説明するような口調にも、態とらしさが染み出ている。だが、むくれる律に構う事なく、澪は言葉を続けた。

「でも匂いが拡散されているのも事実だよ。お前が放っているんだって、気付いている者もいるはずだぞ」

「そんなぁ」

 喉から漏れる恥じ入った声を、自分でも白々しく思う。匂うとの蓋然性を股の具合から自覚して、澪に嗅ぐよう頼んでいたのだ。澪の物言いを態とらしいなどと詰れた筋合いではない。

「分かってたくせに」

 律の胸の内を透かしたように、澪が追い討ちを掛けてくる。耳を嬲る言葉に対し反論できず、律は耳朶に熱を篭らせる一方だ。自身の顔色を視認できずとも、耳まで赤くなる自分が鏡像を通したように自覚できている。

122 : 以下、名... - 2016/08/11 21:17:39.11 2B6vRpJ6o 111/304

 行き交う人々も律の羞恥を煽って止まない。痴態を晒す律の姿は、好奇と下心が込められた視線の的となっている。勿論、瞥見に留めるだけの理性を持った者が過半ではあるが、無遠慮に眺めてくる者も少なからず居た。通りすがりにスマートフォンを構えて、撮影や録画を行う者も散見できる。大胆にも、デジタルカメラで堂々と撮影及び録画を行っている者さえ居た。観光地だけあって、デジタルカメラを持ち込んでいる者も少なくはないのだ。鮮明に、克明に、律の晒す痴態がメディアへと巻き取られてゆく。

 メディアに記録された淫縦な姿は、動画サイトやSNSにもアップロードされるかもしれない。田井中律という個人の特定に至るだろうか。知り合いの目に留まって軽蔑されてしまうだろうか。そして、ネットを通じて全世界の人々の目に留まり、この地球という星に生きるありとあらゆる人種から変態のレッテルを貼られてしまうだろうか。或いは、ワールドクラスの変態として淫祀されるのだろうか。

 視線に犯される状況下で、律の想像が暴走してゆく。股を裂く鋭い痛みも、自我を保つ用は為していない。逆に脳から冷静に思惟する余裕を奪う形で、妄想の誇大化に与してさえいた。

「り?」

 その時、母親と手を繋ぎながら歩く子供が律の目に止まった。小学生くらいだろうか。律の正面前方を通り過ぎようとする彼は、聡よりも幼く見える。だが、律の方を盗み見る視線に、彼の男性性が萌芽を覗かせていた。

123 : 以下、名... - 2016/08/11 21:18:45.73 2B6vRpJ6o 112/304

「あはっ」

 盗み見る彼と目が合った拍子に、律は笑いかけてみた。言語を絶する痛みの中でも、表情を攣らせる事なく笑顔が作れたと思う。初体験の最中で彼氏に笑い掛けている気分だった。

「っ」

 反射的に顔を伏せる彼の初々しい姿が可愛らしい。息を呑んだ少年の吸音まで聞こえてくるようだった。そして、伏せったまま時折向く横目も、律の悪戯娘としての性を刺激していた。

「えへへ」──ませた子供に悪戯しちゃおうかな。

 律は右手を伸ばすと、左側の下腹部に掛かる裾を摘まんだ。

──いいもの、見せてあげるね。

 痴女の目が我が子へと向いている事に、母親も気付いたらしい。『見てはいけない』と言う間も惜しんだ母親の手が、我が子の目元へと伸びる。間に合わない、という焦燥が彼女の顔に表れていた。

 そう、間に合わない。裾を摘まんだ律の右手が、右側へと動く。そうして晒される生殖器は、間違いなく少年の視界へと飛び込むはずだった。

「こらっ、律っ」

 だが、少年の目は、淫猥な光景に当てられずに済んでいた。『見てはいけない』と我が子を守る母が居るように、『見せてはいけない』と律に躾ける存在が居る。その存在たる澪が、怒声を放ちながら自身の右手で律の右手を払い除けたのだ。同時に、律の左脚を掴んでいる澪の左手が、戒めるかのように上げる力を増す。

124 : 以下、名... - 2016/08/11 21:19:48.79 2B6vRpJ6o 113/304

「痛ぁっ」

 股に掛かる負荷が増して、律は堪え切れずに悲鳴を漏らした。律は激痛に悶えながらも、少年の母親が自分へと向けた表情は捉えている。嫌悪と軽蔑と怒りを隠す事なく、眉間も頬も口元も歪めていた。穢らわしい”忌き物”に向ける表情そのものだった。それは決して”人”に向けて良い表情ではない。顔に唾を吐かれた気分で、律は親子の後姿を見送った。もし射程の範囲内に居たならば、本当に吐き掛けられていたに違いない。

「誰彼構わず、場所も弁えずか?このド淫乱が。幼い男の子にそんなものを見せて、トラウマになったらどうするんだよ?」

 無言で侮蔑の表情だけ残して去った母親に代わり、澪が怒気を露わに耳元で凄んでいる。

「ごめんなさい。でも、トラウマは人聞きが悪いもん。そんなグロテスクじゃないし。あ、確かめてみる?」

 弁解の途中で浮かんだ思い付きを口にして、律は裾を摘んで見せた。

「確かめるついでにね。直接、嗅いでみたらどうかなって。さっきは、生地を間に挟んでたし」

 誘う律の脳裏では、スリットから両肩を露出させて裾に潜り込む澪の姿が浮かんでいる。そこで律の陰唇に鼻を押し付けて、存分に匂いを吸引するのだろう。生地を通した匂いでさえ、澪の見せた興奮は常軌を逸していた。ならば、嗅覚と対象が密着した状態で直接嗅いだのならば、澪はどんな反応を見せてくれるのだろうか。悦びを先取りした心が逸って止まない。

125 : 以下、名... - 2016/08/11 21:20:58.24 2B6vRpJ6o 114/304

「いーや、私は確かめないよ。私なんかが、そんな事しちゃ駄目だろ?」

 勇む姿を想像していた律にとって、澪の返答は慮外のものだった。今更、何を言っているのだろう。澪にブレーキなど存在しないはずだと、律は詰め寄る語勢を強めた。

「今更、じゃんかー。焦らさないでよー。ここまでやっておいて、そんな事も、駄目も、ないよ」

 股が裂かれる、恥骨が外れる。律の声を喘がせるその痛みも、抗議の弁に加勢していた。

「あるよ。これ以上は資格がないんだよ。さっきだって、幼い子供のメンタルヘルスだけが問題なんじゃない。資格も問われている。いいか?そこをどうこうしていいのは、お前の恋人だけだ。そういう存在が本当に現れる時まで、勿体振って取っておけ」

 人の身体を支え続ける事は重労働のはずだが、澪の長広舌は一糸たりとも乱れていない。

「その恋人が、サングじゃんかー。それに、今更だよ。人前で、こんなに私の身体を辱めておいて」

「だから。サングにその資格がないんだって、お前も分かってるはずなんだけどな」

 耳元で囁く澪の声が、律の意識に冷たい氷を落とす。

「サング如き架空の存在に、お前に関わる全権限を委ねるのは、本物の彼氏に失礼なんだよ」

 澪は言葉を続けながら、律の左足を吊り上げる力も強めていた。痛覚を強烈な波が走り抜け、律の股下から脳へと突き抜ける。それは澪の言葉が巡る脳に理解を齎す一撃となった。ここまでの痛みも、今までの恥辱も、澪が与えるものだから享受できるのだ、と。余の者では、甘受さえできない。痛みも恥辱も拒んで、悲鳴を上げてでも逃避していただろう。それは、律の願望を集めて作り上げた彼氏の虚像でシミュレートしたとしても同じだった。このサディスティックな彼氏を本心からサングとして扱っていたのなら、耐えられはしなかった。──況や悦びの享楽をや。

126 : 以下、名... - 2016/08/11 21:21:51.47 2B6vRpJ6o 115/304

「本物の彼氏は……。彼氏なんて、居ないし」

 律は言い淀んで、言い直した。胸の奥で痞える本心は、喉元まで擡げても口外には至らない。

「それはこれから作れ。度胸か覚悟か勇気か、足りないものを充たしてからな。取り敢えずは目先の、唯達を騙す事に集中していればいいさ」

 澪の手が、律から離れた。律を苛んでいた過度の負担が緩和され、身体が軽くなる。反動からか、律は身体の平衡を失してしまった。律の肢体が、重力のまま澪へ向かって撓垂れ掛かる。受け止める澪は、律が左足を地に着けるまで支えてくれた。

「いい子だ、良く耐えて頑張った、偉いぞ。似合っていたよ、律」

 澪は律を解放すると、ベンチに腰を下ろす前に褒めて労ってくれた。

「おいで、律。好きな所を貸してあげる。私の身体で休め」

 ベンチの右側に腰掛けた澪が、左手で手招きして律を隣席へと誘う。

「うん」

 律は小さく頷いた。眼球を舐められて回した目が、思い出したように吐き気を再来させている。痛みに意識を取られていた時は、眩暈も忘れていた。今になって頭を預けて休みたいと、揺れる脳が訴えている。

127 : 以下、名... - 2016/08/11 21:22:46.65 2B6vRpJ6o 116/304

 律は覚束ない足取りで、澪の隣へと向かう。脳や目の調子だけが問題なのではない。無理な開脚も確実に足取りを蝕んでいた。脚の付け根から股に掛けて、痺れるような疼痛が残っている。それが眩みと相俟って、数歩の距離を天竺への険路に変えていた。

「大丈夫か?」

 蹣跚の体で隣席に辿り着いた律を、澪が労わってくれた。

「大丈夫、じゃないかも」

 律は苦笑を浮かべて返答した。姿勢を反転させる時も、座す為に腰を下ろす時も、鼠蹊が鈍痛に軋んでいる。何より、脳に擡げる吐き気は着座した今も収まっていない。目立った外傷がないだけで、律は満身創痍の体を抱えていた。

「無茶しちゃったもんな。眠ると良い。唯達との約束には間に合うよう、ちゃんと起こすから」

「そっちが本番だもんね。じゃあ、お言葉に甘えて、ここ借りるね」

 律は澪の肩に自身の頭を預けた。極度の疲労と酔ったような吐き気が、律から遠慮する余裕を奪っている。

128 : 以下、名... - 2016/08/11 21:23:38.39 2B6vRpJ6o 117/304

「肩でいいのか?何処でも貸してやるぞ?」

「んー、肩でいい」

 律は首を小さく左右に動かした。律が頭を預け眠る先として、澪の胸部も太腿も申し分のない魅力を擁している。だが、疼痛の残る股や脚に配慮するなら、首だけ傾ければ済む肩が最も楽だった。

「確かにそこが、一番お行儀は良いかもな。何処でもいいさ、律が休み易い所なら。今は眠って、しっかりと身体を休めておけ」

 律の髪の毛を右手で撫でながら、その手付きと変わらぬ優しい声音で澪が囁く。そう、今は身体を休めねばならない。目が覚めた後は、唯達の前で逢瀬を演じ切らねばならないのだ。律は今日の使命を胸中で反芻し、重くなる瞼に逆らわず瞳を閉じた。身心の疲羸の所為か、間を置かずに意識が離れてゆく。

「今夜は長くなるぞ」

 眠りに落ちる一瞬、律は五感も曖昧な夢現の中で、澪の声を聴いた気がした。

*


131 : 以下、名... - 2016/08/12 21:03:54.97 Hh3tvLiko 118/304


*

8章

 未来を名に冠する港の地に、梓は唯とともに来ていた。今夜、此処みなとみらいで、律とその恋人の逢瀬を見る為に。

 コーヒーショップに入る前に、梓はスマートフォンに表示される時刻を確かめた。液晶には15時4分と表示されている。律に指定された時刻までは、まだ猶予があった。アナログ時計ならば、長針を三周は回せるだろう。だが、それを以って時間に間に合ったと言う事はできない。律の他には誰とも約束していない事が条件となるからだ。

 彼女ならば、出先でも時刻を確認するのに携帯端末は使うまい。恐らくはアナログ式の腕時計、仮にデジタルだったとしてもウェアラブル型の端末が手首に嵌まっているはずだ。梓は確信に近い思いを抱きながら、コーヒーショップに入店する。

「あっ、居た。ムギちゃーん」

 入店するや否や店内を見回した唯が、目敏く紬を見付けて呼び掛ける。手を振る唯に、紬も手を振って応えていた。その手首には、想像通りにアナログ式の腕時計が嵌められている。待たせている間、時計の針と店の出入口の間で瞳を往復させてしまっただろうか。梓は挨拶に代えて謝罪の言葉を口にしながら、紬の席へと近付いてゆく。

「ごめんなさい、遅れてしまって。待ちましたよね?」

132 : 以下、名... - 2016/08/12 21:05:05.62 Hh3tvLiko 119/304

 テーブルには、既に梓と唯の分のコーヒーも用意されていた。蓋にストローが刺さった容器なので、紬のコーヒーの残量は分からない。

「いいのよ。ちゃんと連絡してくれたじゃない。それに5分程度、気にしなくていいわ。時間はまだたっぷりあるんだし」

 彼女の本心なのだろう。鷹揚に振る舞う紬から、不満な様子は感じられない。思い返してみても、梓は紬から怒られた事はなかった。それだけに以前、唯が体型や彼氏の件で律をからかった時、紬が唯に取った窘める態度には一驚を喫したものである。

「ごめんねぇ。普段乗らない電車だと、乗り換えとか戸惑っちゃてさー」

 唯も遅刻には申し訳なく思うのか、紬へと素直に謝っていた。

「分かるわ。私も来る事自体久し振りだし、一人でなんて初めてだったから。結局、唯ちゃん達は東急から来たの?」

 紬の言う通り、東急みなとみらい線みなとみらい駅が、梓達が下車した駅だった。出口を出てからは、南側の高層ビル群を左手に南西へ向かい歩いている。そのビル群の中でも、交差点へと突き当たる南端に際立つ高さで聳える建物が、ここランドマークタワーだった。交差点を左折した先、梓達が居るコーヒーショップも、ランドマークタワーの一階の一角を成している。

「うん。ムギちゃんはJRだっけ?海の方?」

 頭の中で地図を広げている梓の横で、唯が応答した。

 みなとみらい駅の出口同様、ここからでも海は見えない。海はもう一つ交差点を左折し、みなとみらい駅から高層ビル群を跨いだ道路の側だった。だが、JRで降りていた紬は、ここに来る途中で海を目にしていただろう。

「ええ、桜木町駅」

133 : 以下、名... - 2016/08/12 21:07:27.67 Hh3tvLiko 120/304

「私達もそっちを使えば良かったですね」

 梓は自省を込めて呟く。JRから私鉄に乗り換えたのは、地名が冠された駅を利用してみたかったからだ。お上りさん根性で余分な料金を払い、遅刻までしているのだから世話はない。結果も、メトロよりは瀟洒な地下鉄である事を確認できたに過ぎなかった。

「でも、二手に分かれてから集合って言うのも、何かのミッションみたいでいいわね。そっちの首尾はどうだったかしら?なんて」

「へい、みなとみらい駅の先に、中華街がありやした。ムギちゃん隊長、今度は中華街にも行ってみたいです」

 冗談めかして戯れる紬に、唯が本音を織り交ぜながら合わせた。梓は唯の希望を、電車の中で繰り返し聞かされている。みなとみらい駅で降りる時も、唯は元町・中華街駅に未練を見せていた。

「唯先輩ったら。色気より食い気なんですね」

 呆れる梓に、唯が色を成して論駁してきた。

「色気の方を優先したから、ちゃんとこっちに来たんじゃんかー。それに、りっちゃん達だって、中華街でご飯食べてたかもしれないよ? あのまま中華街まで行ってたら、一足早くりっちゃん達を観れたかも」

「何言ってるんですか。自分が食べたいだけのくせに。大体、遅刻でムギ先輩を待たせておいて、自分達だけ抜け駆けなんて許されませんからね」

 梓は腰に手を当て、眦も吊り上げてみせた。

134 : 以下、名... - 2016/08/12 21:08:50.55 Hh3tvLiko 121/304

「まぁまぁ、梓ちゃん。私は気にしてないわ。それに、唯ちゃんじゃなくても、中華を意識しちゃうのは無理ないと思うの。二人も見たのよね?綺麗な装いをしたりっちゃんの画像」

 取り成す紬が言い添えた画像の件とは、律の写真が送られたLINEトークの事で間違いないだろう。『今日のりっちゃんのファッション』とのメッセージが付されたその画像は、部活のグループに向けて送信されていた。冒頭に付されたメッセージに背かず、チャイナドレスを着た律の画像が五枚貼付されている。トークを読むに、自分自身で撮影したものらしい。カメラ視点で映る画像のアングルも、律の言葉通りだと裏付けている。

 中華のシンボルであるチャイナドレスを見たから、唯が中華料理を意識してしまうのも仕方ない事だと紬は言いたかったらしい。だが、梓はその説に賛同できない。チャイナドレスを纏った律は、露出が多いだけでなく身体のラインも浮き彫りになっている。律の肢体の際どい所が、まるで見せ付けるように強調されて映ったのだ。この律のチャイナドレス姿から惹起される欲求は、食欲ではなく肉欲の方だろう。

「ええ、見ました。何というか、凄い大胆な恰好をしていましたね。あれなら、見間違いようがありません」

 脱いだら凄い、と律は自称していた。画像を見た今となっては、それが満更の嘘でもなかったらしいと分かる。決して豊満な肉体ではなく、寧ろ全体的に小振りで華奢な肢体だ。ただ、身体のパーツは形が良く、それが薄い生地と露出の多い服の下で晒されている。撫で回してみたい衝動に駆られる曲線美を、律の肢体は備えていた。

「一目見たら忘れられないもの。りっちゃんたら、彼氏の前だとあんなに大胆なのかしら。綺麗で色っぽくて、可愛かったわね」

 頬を上気させて述べる紬の口上に、梓は顎を引いて肯う。黄を基調としたチャイナドレスは綺麗で、纏う律の肢体も色香を放っていた。一方で、律の顔に浮かんでいた表情は、少女のものだった。目元に朱の筋を走らせながら、はにかんだ笑みを口元に浮かべている。好きな人の前で少女が背伸びして、綺麗で色っぽい恰好をしているように見えた。

135 : 以下、名... - 2016/08/12 21:10:15.76 Hh3tvLiko 122/304

「大胆っていうか、あれじゃ変態さんだよねぇ。特に下なんて、服を突き上げちゃってて目立ち過ぎ。まるで見て欲しいみたいじゃん。あれってりっちゃんの性癖?それともやっぱり、彼氏の趣味なの?」

 ──恥ずかしい事もやらせてきたりして。唯の言葉に触発されるようにして、彼氏を評していた律の言葉が脳裡に蘇る。サディスティックな彼氏であるらしい。バンドの大切な仲間である律が、梓の知らない所で彼氏の好む変態へと染め上げられていたのだろうか。考えただけで、頭を振りたくなる。

「いいじゃない、似合っていたわ。あのくらい攻撃的じゃないと、恋愛の戦場では勝ち残れないのね。それに、羨ましいわ。あんな服が着れて」

 自分の体型を見下ろして、紬が溜息を洩らした。私だって身体のラインが出る服を着てみたいわ。”お嬢様”ではなく”女の子”としての紬の本音が、拗ねた仕草から漏れ出てくるようだ。

「まぁでも、これだけ目立っていれば、私達としてはウォッチしやすくて助かりますけどね。それが目的、って訳じゃないんでしょうけど」

「そうだねぇ、偶然擦れ違っても、あれなら見落としようがないね。偶然、こっち来ないかなぁ」

 そうしたら楽なのに、と唯が顎を手に載せて言う。逆に梓は、弾かれたように顔を上げていた。

「そう言えば。律先輩って、今どこに居るんでしょうね。もうこっちに着ているんでしょうか」

 梓達は夜を指定されているが、律達の逢瀬がその時刻に始まる訳ではない。自分達は律が過ごす逢瀬の時間のうち、切り取られた一部の時間へと触れるに過ぎないのだ。律は既に横浜へと到着しているかもしれない。それどころか、彼氏とのデートをさえも始めているかもしれない。

136 : 以下、名... - 2016/08/12 21:11:34.41 Hh3tvLiko 123/304

「そりゃ着いて、デートを始めているんじゃないの? 今日の部活、丸一日中止にしてたし。って事は、りっちゃんはあんな恰好しながら、外で自撮りしてたのか。ますます露出狂じみてきたね」

 唯が可笑しそうに口元へと手を添えた。

「部活の中止は唯先輩がくっ付いて来ないように、って警戒もあると思いますよ。でも確かに、用もない時間から、あんな恰好しませんよね。もうどっかでデートしているか、こっちに向かってきている可能性は高いでしょうけど」

 出掛ける直前に着替えたのだろうと梓は読んでいた。まさか家でまで、あの恰好で過ごしてはいまい。律には多感な年頃の弟が居ると聞いているのだから、尚の事だ。家族、ましてや思春期に差し掛かった弟に破廉恥な姿を見られるくらいなら、まだ現地で着替える事の方がハードルは低いだろう。

「案外、このランドマークタワーに居たりしてね。最上階の展望エリアはほら、デートスポットだから」

 紬が天井に指を向けて言った。梓も横浜を訪れる前に、観光名所くらいは予習して来ている。山下公園や赤レンガ倉庫も律のデート候補として挙がるだろうが、ランドマークタワー最上階の展望エリアからの絶佳の眺望も恋人達にとって捨て難いものだろう。

137 : 以下、名... - 2016/08/12 21:12:44.87 Hh3tvLiko 124/304

 ただ、それがどれ程有名なスポットだったとしても、魅力を存分に享受するには満たすべき条件というものがある。その条件とは、時間であったり天候であったりするのだ。

「ああ。でも、この時間で、この天気ではどうでしょうか。煌めく夜景は見れませんし、街並みを見通すにも曇っていますし」

「ぷぷぷ、そんなの関係なく居るかもよ? りっちゃんたら、高い所とか好きそうだし」

 澪が居れば、お前が言うなと窘めていただろう。姉と敬う彼女が居ない時は、自分が手綱を締めなければならない。梓は使命感を滾らせて、唯と相対して言う。

「律先輩だって、唯先輩には言われたくないと思いますよ。何なら、上って来ればどうですか? 唯先輩のお頭なら、きっとお気に召すはずですよ」 

「いやぁー、私はほら、そこまで馬鹿になれる程、本気の恋に頭を茹らせてはいないんだよね。まぁあずにゃんよりは先に、馬鹿になるつもりだけど。クールに気取ってると置いてかれちゃうよ?」

 皮肉を込めた梓の諫言など、唯は気分を害した風も見せずに軽く躱していた。やはり自分は澪のようにはいかない。

「置いていかれたというなら、私達皆がそうでしょ。りっちゃんたら、知らない間に先に行ってたものね。さて、私達も片付けて、そろそろ出ましょうか。今日は勉強させてもらわないといけないわ」

 紬がコーヒーの入った容器を手に取った。梓も唯も倣って手を伸ばす。今に至るまで、ストローにさえ口を付けていなかった。忘れていた訳ではない。食指が動かなかっただけだ。

138 : 以下、名... - 2016/08/12 21:13:47.75 Hh3tvLiko 125/304

 喉を鳴らして嚥下した紬が、苦笑交じりに口を開く。

「駄目ね、締まらないわ。やっぱり私達は」

「お茶、ですよね」

 紬の声に割り込んだ梓は、後を引き取って言った。

「だよねー」

「ええ」

 唯が同調の声を響かせ、紬も我が意を得たりと満足そうに笑んでいた。偶には紅茶でなくとも構わない。だがコーヒーは違う。

 場所代として払ったに過ぎないコーヒーを、梓達はそれ以上無理に飲む事はなかった。飲み残しと容器を片付けた三人は、そのまま店を後にする。空調の効いた一室から一転、多湿の暑気が肌に纏わり付いた。

「やっと冷房から解放されたよ。効かせ過ぎ、エコと私の敵だよねぇ」

 冷房を嫌う唯の声が、夏の空気の中を弾んでいく。夏に怯んでなどいられない。唯に触発されるように、梓は背筋を伸ばした。
.

139 : 以下、名... - 2016/08/12 21:14:53.01 Hh3tvLiko 126/304

 出たばかりのランドマークタワーを左方に沿って歩きながら、梓は頭上を見上げた。曇天の空へと繋がっているような高層ビルを、再び眼中に収める。

「でも確かに、高層階からの景色は壮観でしょうね。展望エリア以外だと、やっぱりオフィスとかの入居が多いんですかね」

「そうみたいね。でも低層階にはショッピングエリアもあったはずよ。後はホテルとかもあるわ。真中くらいの階層にもあったけど、高層階、それも展望エリアの直下くらいまでの所にもあったかしら」

 梓は質問ではなく話題を振ったに過ぎなかったが、同調に留まらない回答を紬が返してくれた。唯も感心したらしく、丸くした目を紬に向けている。

「ムギちゃん、詳しいねー。そういえば、来た事あるんだっけ?」

「ええ、家族と一緒に、ここは二度くらいかしら。オフィスフロアには勿論足を踏み入れていないし、泊まったホテルもランドマークタワー内じゃないんだけどね。でもここでショッピングくらいはしたわ」

「展望台は?そこからの景色、眺めてみたの?」

 梓も気になっていた事を、唯が訊いてくれた。

「ええ。とは言っても、子供の頃の話よ。夜遅くなる訳にはいかず、夕方くらいだったから、夜景を堪能するにはベストのシチュエーションではなかったわ。いえ、雨天じゃなかっただけ、マシと思うべきね」

140 : 以下、名... - 2016/08/12 21:16:16.77 Hh3tvLiko 127/304

「時間は兎も角、天気だけは選べませんからね。子供の頃にこの高さだと、展望台まで行くのも大変だったでしょう。やっぱり直通エレベーターとかあるんですか?」

 高層ビルでは停止する階層ごとにエレベーターが別れている事くらい、梓とて知っている。況してや、展望台のように目的がはっきりしているエリアともなれば、そこにだけ直通するエレベーターが用意されていても違和感はない。

「直通というか、専用のエレベーターね。展望台は有料だから。そこは今も変わっていないわ」

 復習したのよ、と紬が赤い舌を出した。過去に体験した記憶だけではなく、事前調査もして来ているらしい。事前調査は梓とて行っているが、経験がある分だけ紬の方が広く深くこの地に知見を有していた。

「あっ、船が止まってると思ったら、展示用なんだねぇ。へー、中も入れるんだ」

 横断歩道を渡って少し歩いた辺りで、唯が前方を指差して言った。今もランドマークタワーを左手に歩いているが、横断して歩道を移れば右手に海が見下ろせる。その海に浮かぶ帆船へと、唯の視線も指先も向けられていた。

 日本丸、と言うのだと、船の名称を紬が教えてくれた。

「展示用の船で、動いてはいないんですね。まぁ、こんなビル街の近くまで、船が航行したりはしないですよね」

「いえ、遊覧目的のクルーザーや、宴会用途の屋形船なら走っているわ。この向こう側、汽車道の辺りね。りっちゃん達に指定された場所から見えるはずよ」

 言いながら、紬が指を日本丸の側面へと向けた。今は船と平行して歩いているが、この先では右折して橋を渡る事になっている。その先に、ウォッチスポットとして指定されたワールドポーターズがあるのだ。そこからなら、紬の言う船が走る海も見渡せるのだろう。

141 : 以下、名... - 2016/08/12 21:17:57.13 Hh3tvLiko 128/304

「りっちゃん達、お船に乗って登場したりしてね。でもクルーザーや屋形船じゃねぇ。きっとこういう船だったら、りっちゃんタイタニックとかやったよ。間違いないね」

 唯が鼻息を荒げるが、梓に言わせれば当の唯もそのポーズを取りそうだった。今思い付いたイメージではない。前に合宿で海へと行った時に、クルーザーの上でタイタニックのポーズを取る唯と律の姿が梓の脳裡に巡っている。それは想像でしかなかったものの、少なくとも梓は唯をそういう役回りだと見立てていた。

「タイタニックかー、憧れよねー。りっちゃんたら、映画みたいなデートにしたいって言ってたし」

 恋愛映画の名作であるタイタニックに、紬は憧憬を抱いているらしい。船の舳先に両手を広げて立つローズと、それを支えるジャック。あの有名すぎるポーズには、紬のみならず律も憧れているのだろうか。

「乙女だねー、ムギちゃんもりっちゃんも」

 唯が肩を竦める頃には、ランドマークタワーも帆船日本丸も後方に位置していた。代わって左手にはクイーンズタワーが聳え、右手側には遊園地らしき一角が覗けている。そして前方に、右折するポイントである国際橋が見えてきていた。

「唯先輩も見習って、少しは乙女らしく振る舞うべきです。唯先輩は即物的過ぎるんですよ」

「えー、そんな事ないよー」

 当の国際橋までの距離も、唯と論駁を重ねているうちに終わっていた。右折して橋を渡る頃には、歩道の右手に隣接する遊園地へと唯の興味は移っている。コスモワールドと言うのだと、またも紬が教えてくれた。唯の一定しない話題に、紬も梓も慣れている。そしてコスモワールドを通過した先、横断歩道の向かいに目的地であるワールドポーターズが見えていた。

142 : 以下、名... - 2016/08/12 21:19:14.69 Hh3tvLiko 129/304

「おおっ」

 横断歩道で歩行者用の信号が青に変わるまで待っていると、唯が不意の発声で梓達の注意を引いてきた。目を向けると、唯は興奮しながら道路の向こう側を指差している。

「あれ見てよ、あれっ。カップヌードルミュージアムだって」

「ああ、そうですか」

 梓は淡白に答え、喚き立てる唯から視線を逸らした。食べる事ばかりに興味が向く姿は、乙女から程遠い。即物的との評価を唯は言下に否定していたが、態度は言葉よりも正直に彼女の本性を表していた。

「あーっ。あずにゃん何それぇ。食べ物に興味がないって言うの? そんなだから、あずにゃんは色々とちっちゃいままなんだよ」

 相手にされていない事に腹を立てたらしく、唯が口を尖らせながら貶してくる。聞き捨てならない言葉に、梓も色を成して応じた。

「なっ。大きければいい訳じゃないって、律先輩にも言われたじゃないですか。大体、唯先輩は食べる事ばっかりなんです。横浜まで来てそんなのばっかりだと、今度は、食い意地が張ってる、とか律先輩に言われちゃいますよ」

「むむっ、それは言われてそうだねぇ」

 唯は腕を組み、眉間に皺を寄せて唸った。

「そうね。私も摘み食いの事がバレたら、言われちゃうかも」

「摘み食い?」

143 : 以下、名... - 2016/08/12 21:20:10.77 Hh3tvLiko 130/304

 何の事?と、紬の言葉を反復した唯が問い掛けている。紬は曖昧な笑みを浮かべただけで答えなかったが、梓には既知の話だった。ティータイム用の茶請けを摘み食いする紬に、偶然にも出会してしまった事がある。実際の所は、紬が食べている場面を直接目にした訳ではない。だが、梓の出現に慌てている紬を不審に思って問い質した所、摘み食いの事実を白状されたのだった。

 紬が隠れて摘み食いしていると可愛く思え、唯が食べ物に執着していると卑しく思える。口に出せば唯がまた文句を言うに違いないので、気付いても梓は黙っていた。恥じらいや気品の違いが齎す差異だと教えた所で、唯が自省する事はないだろうから。

「ほら、前見て下さい。信号が変わりますよ」

 代わりに、信号が青に変わる事を告げてやった。信号が変わる兆しは、自動車の流れを見ていれば分かる。

 それでも律に恋人が居る予兆を感じ取る事は出来なかった。自分達のうち、澪を含めた誰一人も、だ。

 横断歩道を渡り終えた直後に、ワールドポーターズの入口が構えている。幾つもある入口の一つであり、そしてまた、施設内のウォッチスポットへ向かう道順も複数あるのだろう。辿る全ての先で同じ解答の用意された阿弥陀籤のようだと、梓は思った。

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146 : 以下、名... - 2016/08/13 21:01:17.73 fx1PVUDlo 131/304


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9章

 優しく揺れた。朧な意識の中、自分を呼ぶ声も聞こえる。伴って、緩やかに覚醒してゆく脳が、少しずつ現実を把握し始めていた。

「澪?」

「起きたか?ゆっくりでいい、身を起こせ。そろそろ移動しよう」

 澪に声を掛けられている内にも、律の意識は現状を思い出せる程度には回復してきていた。澪、との呼び名も間違っている事も思い出す。今の相手はサングなのだ。

「すっかり眠っちゃってた。今、何時くらい?」

 曇天なので分かり辛いが、眠る前に比べて辺りは暗くなってきたような気がする。それでも、焦るような時間帯の暗さでもなかった。夕方の手前くらいだろうとの見当は付く。

「16時過ぎくらい。唯達との約束まで、時間はまだあるけどな。どうだ?もう歩けそうか?」

 律の読みと、然したる乖離を来たしていない時間帯だった。この分なら、寄り道する時間くらいはあるだろう、と。下腹部を軽く撫でてから頷いた。

「うん、お蔭様で大分楽になったみたい。行こ?」

 疲労が完全に癒えた訳ではなく、脚の付け根にも疼痛が残っている。それでも、自力で歩けるくらいには回復していた。眩暈も感じない。眼の痛みも気にはなるが、邪魔にならない程度には緩和されている。

147 : 以下、名... - 2016/08/13 21:02:50.23 fx1PVUDlo 132/304

「とは言え、女の子の身体に過度の無理をさせちゃったからな。支えは必要だろう?」

 立ち上がった律の腰に、澪の右手が回ってきた。中華街から山下公園へと来る時にも、この姿勢で二人連れ添って歩いている。

「ありがと」

 律は引き寄せられるままに受け入れて、澪の胸に頭を委ねた。そのまま二人、眼下の海を右手側に、歩道を真っ直ぐ北西へと歩いていく。首だけ小さく振り向けて右目で瞥見すると、後方に遠ざかった氷川丸の側面が映る。振り向く度、小さくなってゆく。

 歩道が突き当りを迎える直前に、澪は左へと進路を変えた。澪と同じ方角を向く律の目にも、山下公園の出口が見えてきている。公道まで、もうすぐだ。

「そうだ。水分を摂らないとな。自販機で冷たいものでも買おう」

 公道に出た直後、澪が律の顔を覗き込みながら言った。

「えっ。私はいいよう」

 咄嗟に遠慮したが、澪に提案を引っ込める気配はない。

「何を言ってるんだ。喉が渇いていないつもりでも、夏は気を付けなきゃいけないんだぞ。曇っているから直射はないけど、だからといって水分補給の重要さまで翳る訳じゃない。第一、さっき寝てた時だって、火照って寝汗かいてたぞ?」

 寝汗の感触は微かながら残っているし、喉が全く乾いていない訳ではない。加えて、夏場は水分補給が重要であるとの主張は、幾度となく耳にしてきている。だから澪の言う事こそ正しいとは理解していた。だが、今はより緊迫した要求が、律の身体に再来している。

「うん、分かってるんだけど。また、ね、お手洗いに行きたくなってきちゃってるから」

148 : 以下、名... - 2016/08/13 21:04:03.06 fx1PVUDlo 133/304

 寝ている間に体内で処理された水分が、下腹部に溜まって寝起きの身体を疼かせている。

「あれだけ飲んで、一度のトイレで済む訳もないか。さっき、トイレに行かなくて大丈夫か聞いておくべきだったな。律も言ってくれて構わなかったんだぞ。どうする?戻るか?」

 律は首を振った。

「いいの。公園のお手洗いは、もう嫌だったから。さっき、大変な目に遭ったし。それよりね、この先の何処かに、お手洗いがないかなーって。ね、それくらい、寄り道する時間はあるでしょ?」

 澪の表情に、余裕を漲らせた笑みが走る。

「ああ、好都合だ。始めからさ、寄り道、するつもりだったんだよ。トイレだってちゃんとある。そこの交差点を右だ」

 突き当たった広い交差点を右に折れると、前方に上り坂が見える真っ直ぐな道に出た。その上り坂を歩いて行くうちに分かったのだが、客船の泊まる埠頭に通じているらしい。

「船に乗るの?」

 道中の自動販売機でペットボトルを購入する澪に、律は訪ねてみた。

「それも良かったけどな。目的と時間帯を考えたら、そぐわなかったんだ。それに、だ。乗ったとしても、現実問題、律の好みに添えそうもなかった」

 ペットボトルをバッグに収めた澪の手が、再び律の腰へと伸びてくる。その手を受け入れながら、律は澪の言葉を反復した。

「私の好み?」

149 : 以下、名... - 2016/08/13 21:04:56.91 fx1PVUDlo 134/304

「ああ、お前の好み。それを実現する為の船に代替する手段も、ちゃんと用意済みさ。お前は私に連れられるがまま、付いて来ればいい。おいで」

 動き出す澪に、律は腰を委ねて歩く。自分の好みとは何を想定しているのか、そしてどのような手段を以って応えるのか、律は問わなかった。委ねているのは身や心だけではない。降りかかる結果の全てだ。

 この客船ターミナルを擁する埠頭は、大さん橋と言うのだと澪が歩きながら教えてくれた。屋上には散歩や遠望に最適な歩道が左右に展開しており、そこを自分達は歩くらしかった。車道を挟んで歩道の右側を歩いている律達は、大桟橋の屋上も右側を歩くことになる。そして澪の意図として、降りる時は左側を使うのだろうと律は察した。先程の交差点を横断した場合と同じ道へと、自分達は出る事になる。

 澪の説明を咀嚼しているうちに、ターミナルの屋上部分へと足は進んでいた。眼下に海を置いて、澪に伴われた律は坂を上ってゆく。華奢な体にとって、決して楽な行程ではなかった。海上を突き抜けて勢いの増した強風が、海原に突端した埠頭を吹き抜けてくる。その度、律は何度も裾を押さえねばならなかった。

 正面から叩き付けてくる風が絹の生地を肌に張り付かせ、体のラインをより鮮明に主張させている。そして、律の肌を撫でた風が、後方へと吹き抜けていた。後ろを歩く者に淫靡な香を届けてしまったかもしれない。そう考えて興奮する身体が、自分の物ではないみたいに感じられた。少なくとも、昨日までの自分では考えられない。澪と過ごした今日という日が、自分の新しい嗜好を開発してしまったのだろうか。或いは、埋もれていた性癖が、熱された事で目覚めて表出しただけなのかもしれなかった。さながら、冬眠していた生物が、暖気で目覚めて土から這い出してくるように。

150 : 以下、名... - 2016/08/13 21:06:15.12 fx1PVUDlo 135/304

「ご覧。さっきまで居た山下公園だ。私達が居たのは、あの辺りだったかな。お前、大胆だったよな」

 澪の指し示す先に合わせ、視線を右手側の後方へと流した。澪の言う通り、海を挟んで山下公園の遠景が映る。自分達が座っていたベンチまでは見えないが、澪の指の先で間違いないような気がした。この指の先で、自分は変わったのだ。否、山下公園に入る前、中華街で既に変化の萌芽は訪れている。

 そして、正鵠を期すならば、きっと今も。今も自分は、変化の過程に身を置いているような気がして止まない。

「サングのせいだよ」

 律は澪を軽く上目に睨み付けてから、はにかんだ笑みを漏らして続ける。

「大胆って言えば、あそこのお手洗いで大変な目に遭ったんだった。でね。今も、大変な事になっちゃいそう。お手洗い、こっちにあるんだよね?それとも、まだお預け?」

 律は腰を落とした姿勢から、内股を擦り合わせてみせた。仕草にも表さなければ気が済まない程、身体の切なる訴えは急迫を告げている。膀胱が熱を持ったように疼き、下腹部には鈍痛も兆し始めていた。

「もう見えてるよ。そこに、右に逸れていく道があるだろ?あそこから屋内に入って、中にすぐあるよ」

 澪の指差す先を目で追うと、建物内部へと通じる道が律にも見えた。ただ、真っ直ぐな道で見通しが良いから視認できるだけで、近いとは思い難い。焦眉の事態に急く律にとっては、十メートルの距離でさえが天竺への険路だ。

151 : 以下、名... - 2016/08/13 21:07:33.19 fx1PVUDlo 136/304

 埠頭の突端に近付くに連れて増す風の強さが、ここでも律を苛んだ。足を重くさせる上りの坂道と相俟って、律の身体を容易には前方へと運ばせてくれない。澪が腰を押し出してくれていなければ、より遅々とした行程となった事だろう。加えて、強風に煽られて身体が揺れる度、膀胱に震動の波が伝わって尿意を刺激している。それもまた、律を悩ませた。

「ふぅー、やっと、だね」

 艱難の道程を終えて手洗いに通じる小道へと入った律は、大きく息を吐いた。ここならば、風も建物に遮られて煽ってはこない。

「切羽詰ってたみたいだな」

 澪が苦笑しながら、ハンカチで額を拭ってくれた。気付かないうちに、脂汗を滲ませていたらしい。

「うん。もー限界」

「ほら、行っておいで。一応、これ持っていくか?」

 ハンカチをポケットティッシュに持ち替えて、澪が言う。

「大丈夫、だと思う。持って行くにも、収めておくポケットとかないし」

 律はチャイナドレスを眺め下ろしながら答えた。

「まぁ、流石に大丈夫だろうな。公園の屋外トイレとは違うんだし。そこは安心か」

 澪は無理強いする事無く、ポケットティッシュも引っ込めた。

 律にとって、持っていく事なら造作もない。ポケットが服に付いていなくとも、荷物と手間が少し増えるだけの事だ。ただ、荷物と手間の双方ともが、少なければ少ないほど良いものである。もっと言えば、少ないよりも無い方が好ましかった。

152 : 以下、名... - 2016/08/13 21:08:33.20 fx1PVUDlo 137/304

「でも、気持ちは嬉しいよ。それに、万が一、また無かったとしてもどうせ」

 言いかけて、律は口を噤んだ。独り言でも零すかのような自然な口舌で、何を口走ろうとしたのか。そこに思考を馳せるよりも先に、怪訝な様子の澪が律の目に飛び込んできた。

「どうせ、あるに決まってるよ。屋上とはいえ、客船ターミナルなんでしょ? 大丈夫、大丈夫。じゃ、行ってくるね」

 律は早口に言い繕うと、逃げるように屋内へと入っていった。澪も呼び止めることはしなかった。

 屋内の通路は狭いながらも、瀟洒な装いで律を迎えてくれた。壁には流線形のタイルが幾重にも編まれ、その光沢のあるダークグレーが照明と相俟って落ち着いた高級感を演出している。そして入ってすぐのタイルに、手洗いへ案内する銀のプレートが埋め込まれていた。急く心のまま、矢印の示す先へと律は進む。

「ふー」

 悶える身を抱いて手洗いに到達した律は、長息して我が身を労った。尤も、この手洗いを一見するだけで、ここまで我慢した甲斐も認められる。床や壁の清潔さも、個室の数も、山下公園の屋外トイレとは雲泥の差で優位していた。

 手洗いを中央まで進んだ律は、空いている個室へと無造作に身を収める。入ってすぐ目を走らせたのは、トイレットペーパーだった。澪も律も揃って楽観していた通り、ホルダーに装備されて先端を垂らしている。予備もホルダー上部の籠に充填されている様子が伺えた。個室の中に構えている便器は洋式である。律の選んだこの一室だけではない。全ての空室を覗き見た訳ではないが、少なくとも目に入った範囲では全て洋式の便器が鎮座していた。和式とは違い、工夫次第でドレスを汚さずに済ます事もできそうだった。

153 : 以下、名... - 2016/08/13 21:09:40.83 fx1PVUDlo 138/304

 律は備え付けの除菌クリーナーをトイレットペーパーに吹きつけ、便座を拭う。次いで、便座の後方に据えられたタンクに目を向けた。タンクのトップに吐水口はなく、陶器製の板が平面を形作っている。ここに背面の裾を後方へ流して載せる方法も考えてみたが、不精せずに片手で持ち上げていた方が確実だろう。正面の裾は、両の腿の上へと流しておけば良い。これでも片手は空くのだ。拭く段になっても難儀はすまい。

 そう考え、律は背面の裾を片手で持ち上げながら、便座へと腰を下ろそうとした。だが、動きは止まる。背中の長い裾を持ち上げる為には、手を背へと回さねばならない。実際に手を回してみるまで楽観していたが、実践してみると想像していたよりも大変な姿勢となった。背と腕に攣りそうな程の負担が掛かり、柔軟体操でもしているかのような気分に襲われる。この姿勢を保ったままの排尿は、不可能とは言わないまでも大仕事だとは思う。

 答えが出てからの決断は早かった。脱いでしまえばいい。一度行っているのだ、抵抗など薄れている。もし昨日までの、即ち未経験の自分なら躊躇っていただろう。否、着衣したまま頑張っていただろう。

 律はタンクのトップの平面を除菌クリーナーで吹いた上で、トイレットペーパーも敷いた。手間を重ねる内にも尿意は募るが、怠れない手順である。澪から貰った大切な服を載せる場所になるのだから。

 そして服を脱ぐ段になって、尿意は最高潮に達した。開放の時を間近だと感じた膀胱が暴れ、律を身悶えさせる。律は身体を捩じらせながらも、服を慎重に脱いで丁寧に畳んだ。

「はぁっ」

 ここまで終えた律の口から、大きな吐息が漏れ出る。我慢が齎す身の緊張のあまり、呼吸さえも忘れていた。便座に腰掛けた律は音姫に手を伸ばしかけ、触れる事無く引っ込める。一糸纏わぬこの大胆さを、今日は持ち続けていたかった。澪の彼女として過ごす一日を、淑女らしさに縛られて終わらせたくはない。

154 : 以下、名... - 2016/08/13 21:11:11.35 fx1PVUDlo 139/304

「ふー」

 開放された心地良さに、律は長い息を吐いた。同時に、排尿の音が音姫の擬音に邪魔される事無く響く。擬音装置の付いていないトイレであっても、律は必ず水を流しながら事に及んでいる。そんな律にとって、初めてとも言える体験だった。少なくとも、恥じらいを覚える齢となって以降では、音のケアを怠った記憶はない。弟が居る以上、家でさえ欠かした事のない習慣である。

 誰に聞かれているか知れない。その羞恥は排尿が終わるまでの間、律を存分に焦らしながら続いた。個室の外に人の気配を感じる度、律の視線は音姫へと向く。そうして未練がましく音姫を睨み付けながら、膀胱が楽になる時を待った。

 排尿を終えた律は開口一番、ここでも大きな息を吐き出した。緊張を強いられただけに、精神を見舞った疲労は大きい。身体にも汗が滲んでいた。

 ただ、山下公園の時ほどには、消耗も疲弊もしていない。ならば直ちに後処理も済ませ、澪の元へと戻るべきだろう。そう思い、律はトイレットペーパーホルダーに目を向けた。前の使用者が律儀なのか、掃除の人が回って以降で初めての使用だったのか、トイレットペーパーの先端が行儀良く三角に折られている。だが、矢印のようなトイレットペーパーに、律の指が触れることは無かった。

「いいよね」

 個室に響いていた排尿の音よりも小さい声で、律は一人呟いて立ち上がる。律がトイレットペーパーの代わりに手にしたものは、タンクのトップに畳んでおいたチャイナドレスだった。

「えへへっ」

 誰に見られている訳でもないのに、律は照れたように笑った。はにかみながら、ドレスに肌を通してゆく。

155 : 以下、名... - 2016/08/13 21:12:38.19 fx1PVUDlo 140/304

 拭くべきだとは分かっている。良識的に考えても、そして何より、衛生的に考えても、だ。かぶれてこそいないが、痒みは感じ始めている。無理もない。澪と合流してから、幾度となく液体を纏う羽目になった箇所なのだ。汗、尿、そして粘液と。肌に貼り付いて蒸れるそれらが、痒みを誘発する刺激となったとしても不思議はなかった。

 だが、良識も衛生観念も押し流すだけの強い動機が、律を動かしている。澪が褒めてくれた自分の匂いを、濃く保っていたい。溢れて塗れる体液がフェロモンの用を成すならば、このまま被服を纏う事も吝かではなかった。

 律は誰に命じられた訳でもなく、拭かぬままの身にドレスを着込んだ。身体も音も匂いも、遍く衆人の面前で白日のもとに晒してやる。──願わくば、心も。

 水を流して個室から出た律は、手を洗ってドライタオルに翳して乾かした。不潔が好きな訳ではないのだから、水は流すし手だって洗う。最低限の措置に過ぎないが、それが不浄と淫縦の間で律なりに画した一線だった。

 律が戻ると、澪はバッグからペットボトルを取り出して迎えてくれた。

「さっきも言ったけど。喫緊の欲求を片付けたなら、飲んでおいた方がいいよ」

 差し出された飲料を、律は素直に受け取った。トイレが近くなるからと嫌がっていては、熱中症は防げまい。

「そうだね。またトイレに行きたくなると困るけど。熱中症の方が、困るから」

 倒れてしまえば、澪にも迷惑が掛かるだろう。唯達に見せ付ける事もできなくなる。何より、折角の逢瀬を半端な形で切り上げたくはない。

 律はペットボトルを咥えると、首とともに上方に傾けた。そうして喉に落ちる冷たい水を、目を細めて嚥下する。気付けば、渇きを癒すのではなく、涼を得たいが為の吸水となっていた。熱中症対策の度を超えた水分の摂取は、手洗いを近付ける原因になってしまう。夏場の冷水に名残惜しさはあったものの、律はペットボトルを口から離した。見ると、既に半分近くを空けてしまっていた。

156 : 以下、名... - 2016/08/13 21:13:52.56 fx1PVUDlo 141/304

「ご馳走様。ね、サングはお手洗い、大丈夫なの? 行ってくるなら、私ここで待ってるよ?」

 澪にペットボトルを返しながら、たった今湧いた疑問を律は問い掛けた。

「ああ、平気さ。律ほどには水を飲んでいないからな。それに、この暑さでこの格好だからな。余分な水分は汗で排出されていったよ」

 男装している澪は、夏にしては着込んでいる。豊満な胸を隠さなければならないという体型上の都合も、厚着の傾向に拍車を掛けたに違いない。

 だが、排泄は他の器官からの水分の排出によって、完全に代替し切れるものではない。現に律とて、汗を掻いた程度では、排尿の欲求は消えずに自身を苛んでいた。また排尿の欲求を抱えていても、身体は吸水の必要を喉の渇きで訴えていた。

 人の身体には、完璧な物流網など備わっていない。不足する水分と過剰する水分を、器官の間で調節できる仕組みにはなっていないのだ。尿の形で膀胱に溜まった水分を、喉に回し渇きを癒やす事も、また肌から汗の形で水分を出して、排尿の欲求を取り去る事も、どちらも不可能な話である。

「本当?無理してない?」

「無理してないよ」

「でも、私と合流してから、お手洗いに行ってないよね?」

 自分が寝ているうちに、用を済ませていたとは考え辛かった。眠る時、澪の肩を借りていたのだから。

157 : 以下、名... - 2016/08/13 21:15:23.95 fx1PVUDlo 142/304

「合流する直前には行ったけどな」

 澪はそこで言葉を切ると、指の腹で律の頭頂部を軽く叩いてくれた。

「心配してくれてありがとな。でも、本当に今は大丈夫だ。それに、向かいの通路にもトイレはあるから、そっちで済ませるよ。したい、したくないに関わらず、初めからそのつもりだったんだよ」

 澪の腕が律の腰に回り、歩みが再開した。

「そうなの?」

「ああ。ここを過ぎれば、みなとみらい21、唯達のウォッチスポットに直行するからな。その直前に、さ」

 言われて、律は納得した。今日の澪は彼氏役なのだから、女子トイレに入る所を見られては不味い事になる。事情を知らない赤の他人には、澪が男装の麗人に映るに違いない。手洗いの中のような狭い空間で間近に彼女を見るならば、澪が女性であって変質者の類でないとの判別は誰にでも付く。よって、澪が男に間違えられてトラブルに至る心配はなかった。

 だが、距離を取って眺める唯達は、律と行動を共にしている者は男だと思っている。澪が女子トイレに入る所を目撃されれば、嘘が露見しかねなかった。

 自分が如何に大変な事を澪にお願いしたのか、そして澪が如何に無理な難題を引き受けてくれたのか、身に染みて分かった。自身の排泄欲を満たす事しか考えていなかった自分の厚顔さが、今となっては許せない。

「大丈夫か?風が強くなってきたから、気を付けてな」

 気遣うような澪の声で、律は我に返った。澪は律の裾が捲れてしまわないように、下腹部に空いた方の手を添えてくれていた。

158 : 以下、名... - 2016/08/13 21:16:56.31 fx1PVUDlo 143/304

「確かに強いね。サングが抑えてくれていなかったら、私まで飛んで行っちゃう所だったよ」

 軽口を返して、律は自分の手で下腹部を押さえた。臀部の押さえは歩き始めた時から、澪に任せてある。

 押さえていても、長い裾は強風にはためいて風切り音を響かせていた。布地は視界を遮る用は成していても、股下を擽って吹き抜ける風までは防げていない。性器に風圧を感じる度、拭き取らなかった尿の残滓が風に飛ばされてしまわないか心配だった。後方で歩いている人も居るのだ。雫の直撃に至らずとも、匂いくらいは鼻腔に届けてしまっているかもしれない。

 律は後方に歩く人の表情を伺おうと、首だけを振り返らせて見た。十メートルほどの距離を置いて歩く男性と目が合ったが、彼は慌てて視線を逸らしてしまった。気まずさの漂うその仕草から察するに、後方から律を凝視していたのだろう。運良く裾が派手に捲れて、臀部や生殖器を目に出来ないかと期待していたのか。或いは、このままでも眼福に値するものと評価してくれていたのか。そこまで考えて、律は自分が前面ばかり意識していた事に気付いた。

「ん?どうかしたのか?律?」

 背面に首を振り向けている律に、訝しんだらしい澪が尋ねてきた。

「この格好なんだけど。やっぱりお尻の形とかも、服の上から分かっちゃってるよね」

 布地を突き上げる堆い恥丘や、空いた胸元、深く際どいスリットばかり気に掛けていた。だが、チャイナドレスがラインの出易い服だというのなら、背にも注意を向けて然るべきだった。臀部の形も、赤裸々になっていたに違いないのだから。

159 : 以下、名... - 2016/08/13 21:18:11.80 fx1PVUDlo 144/304

「ああ、余計な肉がないから、割とくっきり映っていたと思うぞ。今日はあまり律を後ろから見る機会なくて、チラ見した感じだけど、ちっちゃくて形が良いよな。羨ましいよ」

 そうだった。言われて、改めて実感する。澪は今日ずっと、律の隣に寄り添ってくれていた。後ろから眺める機会など、あまりなかっただろう。

「ありがと。サングだって、引き締まったお尻と身体してて、格好良いよ。でも、私のお尻、他の人にも見られちゃってる、かな」

 少なくとも、律達の後方を歩いている男は、それらしき仕草を見せていた。ここに来るまでも自分が気付いていないだけで、数多の視線に晒されていたのかもしれない。

「見せ付けてやれよ、お前は美しいんだから。第一、今更だろ? こっちの方が過激で、余っ程目立って、遥かに注目を集めていたよ」

 澪の目が、下腹部に聳える恥丘を射抜いてくる。

「うーっ。じゃあ、前も後ろも見られちゃってるって事じゃんかー」

「その通り。何度でも繰り返すけど、それだけお前が美しいって事だ」

「審美の目を向けてきてるんじゃんなくて、どうせ下心だよ」

 律は赤くなった顔を俯かせて言い放つ。耳元で美しいと連呼されては、顔を隠さずには居られない程に顔色が染まってしまっている。

「ほら、顔を上げて。先端に着いたぞ」

160 : 以下、名... - 2016/08/13 21:19:57.29 fx1PVUDlo 145/304

 足を止めた澪が、律を促してきた。言われるがまま従って、律は顔を上げる。先端と言うよりも、上端と言った方が正鵠を射る地形だった。この突き出たエリアの直下に海がある訳ではなく、船の乗り場と思しき土台が下部を囲んでいる。ただ、大さん橋のここ最上部から海を見渡す限りでは、土台は視界にほぼ入ってこない構造にもなっていた。

 前方にある柵の奥に、目を向けてみる。遠く小さく映る向こう岸まで、海が広がって見えた。曇という天候と夕方という時刻が影響してか見通しは良くないが、晴天時の昼間ならば向こう岸の建造物も明瞭に映った事だろう。或いは今よりも周囲が暗くなれば、向こう岸に灯る明かりの束が夜景となって目に届いていたかもしれない。今は向こう岸が、隆起する霞の連なりとなって見えている。

 それでも柵の前に設置された望遠鏡に指定の硬貨を投じれば、向こう岸を微細かつ明瞭に見通す事ができるのだろう。だが、律に望遠鏡を覗き込む積もりはなかった。眼下に広がる海を眺めるに支障はない。ならば、海を眺めれば良いだけだった。何を見るかよりも、誰と見るかの方が、律にとって重要なのだから。

 右方へと目を転じれば、長く東南へと伸びる山下公園が視界に入る。前方の陸地と違って距離が短い為、この時間帯のこの天候であっても、奥の氷川丸までも見晴らす事ができた。

──映画みたいなデートにしたい

 彼氏が居るなどと嘘を吐いてしまったあの日、零した言葉の全てが嘘だった訳ではない。恋愛映画を見て胸に響く場面に出会う度、こういうデートがしたいと憧れてきた。数多の映画の無数のお気に入りのシーンが、カタログのように頭に仕舞われている。今日、氷川丸を間近に見た時、そのカタログの中の一ページが脳裏に開かれていた。だが、開かれただけで、実践には至っていない。こうして遠ざかってから見返すと、胸を焦がすような未練の念が湧いてきた。

161 : 以下、名... - 2016/08/13 21:21:23.71 fx1PVUDlo 146/304

「律」

 未練がましく見ていても切なさが募るだけだと、律が無理矢理にでも視線を氷川丸から引き剥がそうと思った時、澪が呼び掛けてきた。渡りに船と、律は目を首ごと澪へと向ける。

「おいで」

 澪は言いながら、突端の手摺の前に立って手招いている。

「なぁに?」

 律が歩み寄りながら問うても、手招く澪はもう片方の手で隣を指差すだけだった。仕草で促されるまま、律は澪の隣へと身体を収める。と、同時に、澪が勢いを付けた大股で前に動いていた。落下防止の柵が眼前にあっても勢いを削がない澪の動きに、律は目を瞠る外ない。必然、澪の体重が柵に圧し掛り、衝撃で大きく揺れた。

 衝突の直後なのか、或いは同時だったのか。拳の形に握られた澪の右手が、斜め前方へと掲げられていた。

「I'm the king of the world!」

 衆目に怯む様子など微塵も見せず、澪が堂々とした声を海に響き渡らせた。その姿に見覚えがある。何より、言葉に聞き覚えがある。律の頭に仕舞われているカタログが、烈風に煽られたように猛烈な勢いでページを捲り始めた。そして頁を繰る風は、氷川丸を見た時にも開かれた頁を指して止まる。

──タイタニックだ。

 海に向けた澪の叫びは、あの映画の序盤のワンシーンを模したものに他ならない。そして、同タイトルは、恋愛映画史上で律が最も憧れるシーンも擁している。

162 : 以下、名... - 2016/08/13 21:22:51.75 fx1PVUDlo 147/304

「あれをやりたいんだろ?お前の好みに沿うと約束した通りだよ。代替であったとしても、な。だから、目を閉じて。大丈夫、私を信じろ」

 惚けている律の耳を、澪の声が擽った。忘我に浸っていた直後だけに、律の反応は鈍い。澪の指示に対して、脳内で咀嚼する手間を踏まねばならなかった。

「Close your eyes.Believe me」

 続け様、澪が言語を変えて、指示を繰り返していた。その二言が、律に移るべき行動を理解させる。落ち着いた心地で律は目を閉じ、澪のリードを待った。

「触るぞ」

 目を瞑っている律が怯えないようにとの配慮からだろう。澪が一声掛けてきた。相手が見えぬとも、澪の感触とそれ以外の触感を触覚で判断できるだけの自信はある。だが、律の心に無用の不安を抱かせぬよう、気を配ってくれた心持は嬉しかった。澪の紳士的な態度に、律は淑女らしからぬ奔放な許可を与えて応える。

「Please, Touch me」

「仰せのままに。My fair lady」

 律の後ろに立つ澪は右手を律の腰に回すと、空いた左手を律の左手と重ね合わせてきた。互いの指の股に指を通し合って握り込み、左腕を伸ばして真っ直ぐに張る。そのままの姿勢で、澪が律を伴って歩き出した。ダンスのステップでも踏んでいるようだと、自分達の重なる体勢を脳裏に浮かべながら律は思った。

 ステップが終わると、ターンが律を見舞う。律の肢体は澪の腕の中で回されて、胸に両手を添えられる事で止まる。乳房が圧され、先端の突起が布地と擦れた。身体が敏く仕上がっているせいで、律の口から荒い呼気が漏れ出る。その間にも、澪の両手は律の両腋の下に回っていた。澪の両手が、律の両腋の下から手首へかけて各々滑ってゆく。そうして澪の手が淀みない滑走を終える頃には、律の両腕は水平に伸ばされていた。

163 : 以下、名... - 2016/08/13 21:24:06.90 fx1PVUDlo 148/304

 そこまで終えた澪の両手が、左右から挟みこむように律の脇腹へと添えられる。正面から強風が唸りを上げて煽ってきているが、澪に力強く支えられている為か姿勢を崩さずに済んだ。律を守る澪の膂力が頼もしい。思えば、ステップもターンも強風に乱されていなかった。

「Open your eyes」

 風の齎す轟音に邪魔されぬよう、澪が律の耳介に唇を挿し入れるようにして囁いてくれた。律は促されるままに、両目を開く。

「わぁっ。あは」

 律は声とも息とも付かぬ空気を喉から漏らして、眼下の海に見入った。海の色は濃さを増して、空から零れた橙を海面に映している。雲の向こうで、太陽が傾いているのだろう。

 前方から吹き寄せる風は、空気抵抗のような圧力を律の身体に与えてゆく。埠頭の側へと連なって押し寄せる漣と相俟って、空でも飛んでいるような錯覚に包まれた。自らの身体で海上を飛んだ時、こういう光景が目に映るのだろうか。頬に胸部に下腹部に風圧を感じながら、後方へと流れてゆくような海の漣を見ていた。

 空を飛ぶ、鳥になる、何れも自由の象徴だ。あの映画のヒロインであるローズも、不自由を強いる周囲に翻弄されて自由に憧れていた。自分も周囲を気にして自由な恋愛さえできない小心者だと、ローズに感情移入してしまう件の映画でローズを救い、自由へ導いた者はジャックだった。ならば自分は──

 海を眼下にそこまで考えた時、両の手に重ねられるより大きな手の存在を感じた。振り向かずとも分かる。澪が両手を重ね合わせてくれたのだ。気付けば、脇腹を挟み込む圧力も消えている。

164 : 以下、名... - 2016/08/13 21:25:37.94 fx1PVUDlo 149/304

 律は首を捻って背に立つ澪を見遣った。澪の顔が見たいと、切実に視覚が欲している。海上で風を切って飛ぶ感覚も捨て難いが、この体験を演出してくれた澪への愛しさが募って止まない。律の顔の真横に、澪も顔を迫り出し近付けていた。接吻でもするかのような至近に顔を置いて、律は口を開く。

「有難う」

 時間では換算できない満足を感じ、律は心からの礼を言う。

「こんなのでごめんな。本当は、船に乗せてやりたかったんだけど。この後、唯達にお披露目する予定が控えているからな。それに乗ったとしても、客船じゃ甲板部分、特に船首や船尾には出られないんだよ」

 律と重ねていた姿勢を解きながら、澪が言葉を返してきた。

「自家用クルーザーでもあれば、な。香港にせよタイタニックにせよ、甲斐性のなさが恥ずかしいよ」

 と、澪は苦笑いで続けている。

「んーん、ここまでしてくれて、嬉しかったよ」

 ここまで尽くされて、不満などあろうはずもない。律は胸中で澪の対応に満点を付けてから、二人で歩き出した。

 直後、律は自分達へと注がれる視線の群れに気付く。これだけの人通りの多い中でタイタニックを模せば、注目を集めてしまう事など分かり切っている。理解した上で及んだ行為だったが、実際に無遠慮な注視を全身に受けてしまうと含羞で頬が火照った。

「でも、ちょっと、恥ずかしいね」

 律ははにかんだ笑みを澪に向けて、小さな声で言った。

165 : 以下、名... - 2016/08/13 21:26:27.46 fx1PVUDlo 150/304

「それはそうだろう。だって私、律に恥ずかしい事をやらせちゃうサディスティックな彼氏なんだろ? 望むままに、だよ」

 澪は見下ろすような笑みと共に言葉を浴びせてから、唇を律の耳元に近付けてきた。唇と耳朶が密着して、澪の言葉が鼓膜を叩いてくる。

「もっと恥辱を与える仕打ちだって企んでいる。覚悟しろって、言ったよな?」

 首筋を縮めたくなるような震えが律の項に走る。怯え故の戦慄ではない。期待が故の武者震いだった。

 心臓の鼓動が早まってゆく。呼応して、息遣いも荒くなりそうで、このままでは澪に興奮が伝わりかねない。

「でも、よく分かったね。私がタイタニックごっこしたいって」

 マゾヒスティックな興奮を気取られないよう、律は平静を装って問い掛けた。

「だってお前、言ってたろ?映画みたいなデートにしたいって」

 何でもない事のように澪が答える。

「覚えててくれたんだね」

「ああ。それに律、氷川丸を見てたから。それで」

「それで推測したら、偶然当たったんだね。運命みたいー。って、こんな所から遠くの船見てたら、船に興味あるって分かっちゃうか」

 思えば、大さん橋の先端に到着した時、律は右手側の海の向こうにある氷川丸を見ていた。未練の念で眺めている最中に澪から呼び掛けられ、タイタニックのポーズへと誘われている。澪は律の口惜しげな視線の先に、氷川丸を認めたに違いなかった。それが澪の中で「映画みたいなデート」と繋がって、タイタニックが連想されたとしても不自然はない。律自らが否んだ通り運命ではなく、蓋然的と思われる選択を澪が行った結果に過ぎないのだろう。

166 : 以下、名... - 2016/08/13 21:27:44.93 fx1PVUDlo 151/304

 そう考えて納得しかけた律の目に、澪の浮かべる呆れたような表情が映る。誤謬を犯したのだと悟った直後、自身の行った推理に猛烈な違和感が湧き上がってきた。

 そうだ、この推理ではおかしい。何かを見落としているのだ。確か、澪に何かを言われていたはずである。それが引っ掛かっているのだと気付いたが、何を言われたのかが思い出せない。どのタイミングだったか。埠頭の先端に来た後なのか、否、トイレから帰ってきた時か。再び否、もっと前だ。ここ大さん橋を上り始めた直後、三度否、直前だ。確かあの時、澪が自動販売機でペットボトルを──

「何を言っているんだよ、律。こんな遠くじゃなくって、近くで見てたろ? 山下公園で船の舳先を間近に眺めながら、デッキに出られないかって訊いてきたじゃないか。今日は出れないって言ったら、律がっかりして船から興味を無くしてた。あれだけ露骨に興味の対象が偏っているなら、簡単に分かるよ」

 律が思い出すべき澪の発言を手繰り寄せる前に、当の澪が口を開いていた。澪は律が推理したような、大さん橋での律の振舞いからタイタニックを連想した訳ではない。山下公園で初めて氷川丸を見た時から、彼女は律の希望に気付いていたのだ。

 船の中身でも背景でもなく、デッキ、それも舳先にしか興味を示さないのなら、律の希望がタイタニックのポーズであると判断するのは容易だっただろう。寧ろ自分が、態とらしく伝えたような気分にさえなってくる。

 そして此処まで分かれば、自分が見落としていたものも簡単に見つけ出す事ができる。思い出してみれば、自分の問い掛けが発端だったのだ。『船に乗るの?』と、大さん橋の入り口付近でペットボトルを買う澪に問い掛けている。それに対する澪の返答こそが、律が見落としていたものであり、引っ掛かりを覚えていた正体だったのだ。

「疲れて寝てた律を半端な時間に起こして、ここに寄る時間を作ったのも、その為だよ」

 澪が丁寧に言い足した言葉も、律の思考と符号している。

 澪は始めから、此処に寄るつもりだった。遅くとも、律を起こした時には。恐らくは、律が氷川丸から興味を失した時に。

167 : 以下、名... - 2016/08/13 21:28:54.38 fx1PVUDlo 152/304

 だからこそ澪は、”律の好みに沿えない”という理由で乗船しないと答え、”律の好みに適う代替の手段を用意してある”と宣言したのだ。故に、タイタニックのポーズは、此処大さん橋の最先端部に到達してからの思い付きではない。入り口の段階で言質を残しているのだから。

 確かに運命が導いた解答ではなかった。だが、蓋然的な選択の結果でもない。澪が律を観察してくれていたから辿り着けた、必然的な境地だった。

「運命なんかじゃないんだね。サングが叶えてくれたんだもん」

 だから有難うと、律は澪に告げた。人の力は運命の力よりも強い引力で、願いを成就へと引き寄せる。それを教えられた思いだった。

「そんな大袈裟なものでもないだろう。香港を中華街で代替し、豪華客船の船首を埠頭の突端で代替するような、妥協の産物だからな」

「妥協なんかじゃないよ。私の我侭を叶える為に工夫して作り出してくれた、夢みたいな時間だよ」

 例え澪本人の言であれ、澪の行為を妥協の一言で済ませる積もりはなかった。律の望みを極力叶えんとする澪の徹底ぶりは、長く美しい黒髪さえも供した散髪にも表れている。

168 : 以下、名... - 2016/08/13 21:30:11.51 fx1PVUDlo 153/304

「お気に召してくれたのなら、自分に及第点は与えられるよ。でもな、まだこれはオープニングに過ぎない。後に控えるは本番、もうすぐだ。ご覧?」

 澪が律の頭の後ろに、指と視線を向けた。示す先へと首を振り向けた律は、目に飛び込む光に息を飲んで魅入る。そこでは、氷川丸がライトアップされて、光を海に零していたのだ。零れて海面に映る光は、光源たる船を下方からも煌かせている。光の循環が生み出す海上の壮観に、律は感嘆の声を上げる事で精一杯だった。

「わぁっ」

「ほら、もうこんな時間だ。暗くなってきているんだよ。唯達との約束の時間が迫ってきている。憶えているな?それが今日の、本番だ」

 気の引き締まる真剣な声音で、澪が言う。海上のオブジェがライトアップされるような時間帯なのだ。それは沈みゆく夕日も示している。忘れてなどいない、意図的に意識しないよう振舞っていただけだ。だが、目は逸らせない。今日の主目的である、唯達を偽の逢瀬で欺く時間が迫っているのだ。

「憶えているよ、手順もウォッチスポットも。何度も打ち合わせしたもんね」

「上出来。じゃあ、行こうか」

 上って来た時とは逆側の通路へと、澪が腰を取って導いてくれた。下半身を支配される感覚に、律は足取りをすら澪のリードに任せてゆく。

 こうして恋人として扱ってくれる時間も、終わりに近付いていた。赤く傾いた太陽に、ライトアップされゆく街に、澪の言葉に、律はその事を敏く感じ取る。だが、その前に訪れるひと時こそが、この恋人のような関係性のクライマックスだった。本物の恋人として、澪を唯達に披露する瞬間こそが。

169 : 以下、名... - 2016/08/13 21:31:18.66 fx1PVUDlo 154/304

 最高潮のひと時に焦がれる思いはあれど、それで終わると思うと牛歩に伸ばしたくもなる。律は細やかな時間稼ぎにと、一箇所だけ寄ってから目的地に向かうよう言い添えた。

「あ、でも、唯達の所に向かう前に。サング、お化粧室に寄って行くんでしょ?」

「ああ。さっきは、念の為に搾り出しておくノリだったんだけど。緊張のせいか、近くなったみたいだ。普通に行けそうだよ」

「良かったぁ。私ばっかりお化粧室行くの、本当はちょっと恥ずかしかったんだぞー。でも、サングが緊張なんてしてるの?」

 冷静かつ余裕の振る舞いを見せる彼女から、張り詰めた空気は感じ取れない。

「当たり前だろ。学園祭でボーカルやるのも揉めたし、目立つのだって恥ずかしくって嫌いだし。幼い頃の作文だって、ほら」

 冗談めかして澪が笑った。

「あー、目立つのは嫌いだったね。格好悪い事が、誰よりも許せない人だった。でも本当は度胸がない訳じゃないよね? 胆力は私達の中で、一番備わっていると思うし」

 唯も大胆な女ではあるが、羞恥心が薄いだけだと律は内心で評した。半面、澪は常識的な羞恥心を備えた上で、必要とあらば最前線に立つ事を厭わない。今日だってそうだ。普段は目立つ事を厭う澪も、律の為にと衆目を集める行為に興じてくれていた。このモードへとスイッチを入れた澪に緊張する心があったとは、意外な発見である。

「するさ、するよ。律の名誉の懸かった、大事な日なんだろ? 責任重大だからな」

 発声した後の澪の口から漏れた吐息に、力が篭っている。緊張しているという発言は、本心から出たものらしかった。

170 : 以下、名... - 2016/08/13 21:32:20.58 fx1PVUDlo 155/304

「そっか。じゃ、向こうでもお手洗い、行きたくなっちゃうかもね。その時、無理して我慢したら駄目だからね。約束っ」

 律は強引に澪と小指で契った。元を辿れば、原因も責任も自分にあるのだ。澪に無用の負担を掛け、挙句に健康や精神を害させる訳にはいかない。例え、露見の危険を冒すことになったとしても、だ。

「大丈夫だよ。緊張したら毎度、ってタイプでもないから。今日はあまりトイレに行ってなかったっていう事情と、相乗しただけだ。新陳代謝の周期を少し早められただけさ」

 律の剣幕を往なすように、澪が苦笑しながら言う。確かに、大一番の前で澪が尿意を訴えた事など、記憶を探っても思い当たらない。ここで済ませておけば、唯達の前で再度催すという事態にはならないだろう。

 一方で、珍事であるが故に、本心から律の懇願を重視する澪の真剣さも伝わってくる。それは澪が我が事では見せて来なかった姿なのだ。必ず行為で示す形で、澪に報いようと。澪の隣を歩く律の胸中で、チャイナドレスを貰った時の決意が繰り返されていた。

*



続き
田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)【後編】

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