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屋上に昇って【1】
屋上に昇って【2】
屋上に昇って【3】

685 : 以下、名... - 2016/02/14 19:52:55.09 96KcGAnmo 533/1065




 意味があったんだかなかったんだか分からない勉強会が終わって、一応の達成感に包まれながら、みんなはるーの家を出た。

「また来てくださいね」とるーはにこにこしていたが、背景の家屋全景は俺にはどことなく厳つく見えた。

 夕方になったとはいえ、この頃は随分明るくて、日もまだ出ている。
 よだかは俺の隣を歩いている。前方に、高森、佐伯、ゴローの影。少し離れて、部長が黙りこんだまま歩いていた。


 俺自身、よだかの来訪やすず姉との再会でなかなか気付かなかったけど、勉強会の途中ころから、彼女が妙に沈んでいるように見えた。
 訊ねようか訊ねまいか迷って、結局口に出す。

「どうかしたんですか?」

「……え? なにが?」

 自分に言われたものだと思わなかったのか、部長が反応するまで、少し間があった。

「なんだか、浮かない様子ですね」

 まさか勉強が思うように進まなかったから、というわけでもないだろうが……。

「あ、うん……まあちょっと。いろいろ考えてたらさ」

「テストのことですか?」

「ううん。部誌のこと」

「……次に作るの、夏休み明けですよね? もう考えてたんですか?」

 部長はごまかすみたいに笑った。なんとなく俺はよだかの方を見たけど、彼女は薄紫に染まりつつある東の雲を見ていた。


686 : 以下、名... - 2016/02/14 19:53:23.14 96KcGAnmo 534/1065



 何かを、訊くべきだという気がした。
 もちろんそんなのは俺の錯覚で、本当は訊くべきことなんてひとつもないけど。
 今ここで、彼女に何か、訊くべきことがある気がした。

 なんだったろう。

「……部長、そういえば気になってたんですけど」

「なに?」

 部長はもう、いつもどおりを装った笑みをたたえていた。俺を振り向いたとき、髪がかすかに夕陽で光った。

「及川さんって、一年のとき、こっちの文芸部に所属してたんですか?」

 部長の表情が、一瞬途切れた。

 凍りついた笑みはすぐに元通りになった。彼女は「そうだよ」と当たり前みたいに言った。

「でも、どこで知ったの? そんなこと」

「一昨年の部誌に、及川さんの名前が載ってたんで」

「あ。そっか。そうだよね。そう考えたら、いまさらだね。何度も読んだことあるでしょ?」

「あんまり、気に留めてなかったんです。知らない先輩の名前は全部、卒業した人たちだと思ってたから」

「……そっか。だよね」

 そこから部長は、息を微かにためて、今度はあきらめたみたいに笑った。

 よだかは高森に呼ばれて、前方の影に混ざった。どんな話をしているのか、こっちには分からない。


687 : 以下、名... - 2016/02/14 19:53:52.30 96KcGAnmo 535/1065


「どうしていま、そのことを聞いたの?」

「……どうしてですかね。なんとなく、このあいだ、知ったので」

「そうなんだ」

「……こんなこと聞いていいかわからないですけど、部長と及川さんって、何かあったんですか?」

「なにかって……それはたとえば、付き合ってたりしたかってこと?」

「そういうのだけじゃなくて、なんだか……」

「べつに隠すようなことじゃないから、質問されれば答えるよ、タクミくん」

 部長の笑顔は自然だったから、俺は少しだけほっとした。
 懐かしい道を歩きながら、前の方から聞こえる部員たちの話し声を聞きながら、どこか神妙な気持ちになる。

 前にも、こんな景色を見たことがあるような気がする。

「及川くんとはさ、喧嘩しちゃったんだよ、一年のときに」

「喧嘩? 部長と及川さんが?」

「想像できない?」

「正直言って」

「正直でよろしい」と部長は笑った。


688 : 以下、名... - 2016/02/14 19:54:23.57 96KcGAnmo 536/1065


「今思うと、喧嘩ってほどのことじゃなかったのかもしれない」

「……」

「あれ、でも部長、及川さんが前に部室に来たとき……」

 ――どちらさま?

「いろいろあったんだよ」

 部長はそっけなくそう言った。

「喧嘩って、でも、何が原因で……」

「小説」

「……小説?」

「わたしの小説、なのかな。及川くんは、怒ってた。でも、わたしはわたしの勝手だって思う。今でもそうだと思う」

 でも、及川くんが正しかったのかもしれない。
 部長はそう呟いた。

 彼女は道の先を見つめていた。あるいは、前を歩く三人を見ていたのかもしれない。

「……書けなくなっちゃったの」

「……え?」


689 : 以下、名... - 2016/02/14 19:54:59.00 96KcGAnmo 537/1065


「最初にわたしが書いたのはね、すごく楽しい話だった、と思う。 
 そうしようと思ったんだよ。そう思って、書けて、みんなにほめてもらえた。
 でもね、何か足りないような感じがしたんだ」

「……自分の書いたものに、ですか?」

「うん。それでね、自分なりにいろいろ考えたんだよ。何が足りないのか。
 要素を分解して、効果を言語化して、演出を意識して……自分の書いたものを解体したの」

「……解体?」

「うん。解体。人物とテーマの連関、素材の取り扱い方、出来事と出来事の繋がり方。
 いろんなものを分解して、いったいなにが足りないのかを、確認しようとしたの」

「……」

 言いたいことが、よくわからなかった。
 
「次に試したのはね、再現だった。素材と組み合わせ方がわかれば、また似たようなものを作れるはずだから。
 ちょっとだけ素材を入れ替えて、人物の立ち位置を変えたりしてみたり、演出の仕方をいじってみたりもしたけど……。
 でもね……書けなかったの」

「どういう意味ですか?」

「最初に書いたようなものは、二度と書けなかったの」

「……」

「一作目のテーマはね、"とにかく楽しい"だった。それを実現するために、わたし、どうしたと思う?」

「……どうした、って」

「"覆い隠した"んだよ。わたしもともと、暗い話しか書けないんだ。だからね、登場人物にはみんな、裏側があったの。
 悲しみとか、やるせなさとか、そういうものがあったの。でも、思弁的なところや、苦悩の描写や、重い設定なんかは全部隠した。
"信頼できない語り手"。現在進行形、一人称だったけど、主人公の認識はかなりいじってたんだ」

 ただ楽しいだけの話を書くために、そうまでするものなのか?


690 : 以下、名... - 2016/02/14 19:55:27.90 96KcGAnmo 538/1065


「同じようにしようとしても、無理だったの。隠せない。どこかから、噴き出してくる。
 何かが部屋の隅から、自分の背中を見つめてるみたいに。
 そうなってしまってからは、その"隠したもの"を掘り下げる作業をはじめた」

 噴き出した登場人物たちの暗闇を掘り下げ、そこに含まれているものを"浄化"しようとした。

「つまりね、隠蔽することによって手に入れた幸福は、他の人からどう見えたとしても、本人にはどこか嘘くさいってわかってるんだよ」

「……」

「だから、それを一旦、明るい場所にさらけ出して、弔ってあげないといけなかった。
 わたしのせいで抑圧された、わたしのせいで押し殺されていた、"楽しいだけの話"の暗がりに潜んでいた魔物みたいなものを」

「……そうやって、どうなりました?」

 部長は首を横に振った。

「いつのまにか、捕まっちゃってた。
 抜け出せないの。わたしは、暗闇に手を突っ込んでかき回すことで、自分がもっといいものを書けるようになるはずだって信じてた。
 及川くんはそれを、露悪趣味だって責めた。でも、わたしはそうすることが、物語に対する誠実さだと思ったのね。
 自分のせいで隠されたものを、わたしが弔わなければ、誰も弔ってくれない」

 でも、

「間違いだったのかもしれない。いまでも、書けないまま。どんどん深みにはまっていくんだ」

「……」

「わたしは、自分は自分なりの物語を書けばいいんだと思ってた。それがキャッチーである必要も、ポピュラーである必要もない。
 ただぶつかっていけば、前みたいな偽物じゃない、本当に楽しいだけの話が書けるようになると思ってたんだよ」

 甘かったかな、と部長は呟く。


691 : 以下、名... - 2016/02/14 19:55:56.23 96KcGAnmo 539/1065



「……方向性が変わってから、及川くんはわたしのことを心配した。たしかに、傷口を自分でいじくりまわすみたいな話ばかりだったから。
 でも、わたしはそれが書きたいんだって言った。だから放っておいてって、及川くんに言ったんだ。
 でもね、本当は違うの」

「……」

「強がってたの。わたしは、楽しい話を書かなくなったんじゃない。
 他の話が書きたくなったんじゃない。……楽しい話が書けなくなったんだよ」

 俺は部長の顔を覗き見る。何を言えばいいのかはわからないし、どう反応するのが正解なのかも分からない。

「まあ、それで……及川くんは一年のうちにこっちをやめちゃって、あっちに移ったんだよ。
 わたしのことだけが原因とは思わない。ほかにもいろいろあったし……でもわたしは、本当は……」

 何の為に、文章なんてものを書くんだろう?

 俺はときどき、その理由がまったくわからなくなる。

 文章を書くことの効用は何か?

 そんなことを言い出してしまう奴は、きっと文章を書くことに向いていない。


692 : 以下、名... - 2016/02/14 19:56:28.74 96KcGAnmo 540/1065


 誰かに認められるため、褒めてもらうため……。
 でもそれは、たぶん、それだけなら、他の何かでもいいのだ。

 なぜ文章なのか? なぜ、文章でなければ駄目なのか?

 絵とは違うのか? 音楽とはどうなのか? 陶芸や彫刻ではどうか? 
 映画はどうか? 家具作りやガラス工芸のようなものとは何が違うのか?
 
 文章は文章でも、なぜ物語なのか?
 詩やエッセイではいけないのか? 日記や評論では?
"物語"の意義とは何か?

 なぜ、手にとった武器が文章だったのか。

 部長は、それを求めた。文章を書くことの意義ではなく、文章で書くことの意義を求めた。
 
"文章である必要がある文章"。写真とも、絵とも、映画とも、伝わり方が違う文章。
 絵が文章と異なる訴求力を持つように、写真が絵とは違う伝達力を持つように、映画が写真とは違う見せ方をするように。
 
 ――だから書くんだろ。誰にも耳を傾けてもらえないだろうことを、文章にして、残しておきたいんだろ?

 いつか、誰かが俺に言った言葉。それを思い出す。
 部長の態度に比べれば……俺の目的の、なんて邪なことか。


693 : 以下、名... - 2016/02/14 19:56:56.48 96KcGAnmo 541/1065


 日常生活を営むうえで、多くの人間は小説のような文章を必要としない。
 新聞でニュースを知り、テレビのテロップで速報を知り、業務連絡を印刷物で知り、書類として情報を残す。

 役に立つ文章、便利な文章、必要な文章。

「……物語なんて、本当は書かなくてもいいんだよ」

 部長は静かに、そう言った。

「必要もなければ、何かの役に立つわけでもない。嫌だったら、やりたくなくなったら、いつやめたって、本当は誰も困らない」

 なのに……。

「不思議だよね? 思う通りのものが書けないだけで、どうしてこんなに苦しいんだろう……」

 喉の奥に詰まるみたいな、
 ささくれの痕が痛むような、
 もどかしさ。

 その、奇妙な熱。
 
 ――もう、書けないかもしれない。

 部長はそう言った。 

 俺は何も言わなかった。

 書けなくなった文章、失われた書くことの楽しさ。 
 使われなかったエピグラフ、増えていく偽物の装飾。
 たくさんの歌枕と引用で上げ底した、裸になれば退屈なだけの物語。
 
 手段と目的が入れ替わり、虚仮威しの技法や表現にばかり意識がいく。

「何が書きたかったのか?」

 それが思い出せれば苦労しない。


694 : 以下、名... - 2016/02/14 19:57:52.15 96KcGAnmo 542/1065


 部長は笑った。

「そういえば、及川くんの妹さんも、あっちの文芸部にいるらしいんだよね。タクミくんと同じ学年だと思うけど、見たことある?」

「……及川さんの、妹さんですか?」

 急な話題の変化に、俺は置いてけぼりにされた。
 どうしていま、そんな話になったんだろう。……話を変えてしまいたかったのか。

「そう。たしか及川くん、嵯峨野くんと仲が良かったらしくて、なんでも嵯峨野くんと及川くんの妹同士が――」

 そこで、部長の言葉は途切れた。
 何かに驚いたみたいな顔で、道の先を見ている。

「……あの、部長?」
  
「……嵯峨野くんと……」

 部長はそれ以降、何も言わずに黙り込んでいた。
 俺は不審に思ったけれど、なんとなくそれ以上何かを訊く気になれず、ひとりで言葉の意味を探り当てようとする。

 及川さんは、嵯峨野先輩と仲が良い?
 嵯峨野先輩と及川さんの妹?

 それがどうしたんだろう。

 嵯峨野……。

 ――悪いのは嵯峨野先輩でしょ? なんで黙って受け入れるの?
 
 嘉山が“受け入れている”こと。
 ……単純に想像すれば、例の焼却炉の騒動を起こしたのは……嵯峨野先輩、ということになるのか?


695 : 以下、名... - 2016/02/14 19:59:31.71 96KcGAnmo 543/1065


 今頃そんなことを考えてどうなる?
 
 俺は首を横に振った。
 別に気にしたって仕方ない。話は終わった。もう誰も気にしてない。

 そんなことより今考えなきゃいけないのは、テストのこと。よだかのこと。そのふたつだ。

 それから部長と俺は、別れるまで何の話もしなかった。
 
 駅でみんなと別れたあと、よだかとふたりで静奈姉の部屋までの道を歩く。
 何か話したいような気もしたけど、黙っていた。

 額の奥をさすような頭痛が疼いた。

 それは一瞬のことだったけど、そのかすかな痛みのせいで、少しずつ意識が現実の出来事から浮かび上がっていくのが分かる。
 

696 : 以下、名... - 2016/02/14 20:00:15.13 96KcGAnmo 544/1065




「どうしてこう、急なのかな」

 静奈姉は慌てた様子で夕飯の用意をしている。エプロンをつけて、髪をうしろでまとめていた。

「ごめんなさい」とよだかは謝った。

「今回限りにします。本当にすみません」

 前とはちょっとだけ、静奈姉に対する接し方も違う。
 静奈姉もちょっと毒気を抜かれたみたいだ。

「まあいっか」と困ったみたいに笑っていた。
 本当はもっと、気になることとか、心配なことがあるんだろう。
 それでも静奈姉は何も言わない。

「よだかちゃん、ちょっと夕飯の準備手伝ってくれる?」

「わかりました」

 ふたりはキッチンに並んで料理をはじめた。静奈姉と並ぶと、よだかの表情にも歳相応の女の子らしい子供っぽさが宿ってみえる。

「あ、タクミくん、ドレッシングない」

「……買ってきます」

「お願い」

 そんなわけで、おつかいだ。


697 : 以下、名... - 2016/02/14 20:02:01.06 96KcGAnmo 545/1065


 扉をしめてすぐ、なんとなく溜め息が出た。一日でたくさんのことがあって、疲れたのかもしれない。
 空を見上げるともうすっかり夕暮れだ。

「……日が暮れると、ちょっとは涼しいかな」

 今日は風もある。七月上旬とはいえ、だいぶ過ごしやすい。
 財布だけを持って道を歩く。ずいぶんと、このあたりの土地にも慣れてきた、ような気がする。

 ……でも。

 どうするのだろう、俺は。

 静奈姉は、大学を出たらどうするのだろう?
 俺は、どうするのだろう?

 いつまでも静奈姉と暮らせるわけじゃない。
 
 高校を出たら、俺は……。

 あの家に帰るのか、それとも、こっちで暮らせる方法を探すか。

 いずれにせよ、避けては通れない。
 両親と、ちゃんと話をしなければいけない。

 俺はそれが憂鬱だ。

 父さんと、面と向かって話ができる気がしない。
 
「……どうすればいいんだろう」


698 : 以下、名... - 2016/02/14 20:13:01.00 96KcGAnmo 546/1065


 瓶入りのドレッシングを買ってコンビニを出ると、軒先の灰皿の傍で、私服姿の鷹島スクイが堂々と煙草を吸っていた。

「……おまえ、平気なの?」

「なにが?」

「こんなとこで、堂々とさ」

「さあ、どうかな」

 どうかなって。
 まあ、大通りに面した店ではないし、車や人の通りもそう多くはない。
 怪しむ奴はいても、通報したりする奴はそうそういないかもしれない。
 
 俺も疑われそうだから一緒にいたくはないが。

 スクイは煙を吐き切ってから、灰を落とした。

「最近の調子はどうだい?」

 スクイはそう訊ねてきた。
 俺は、どう答えようか迷う。

「……特段、悪くはないな」

 そういえば、と俺は思う。

「おまえ……小鳥遊こさちって女子、知ってるか?」

「……小鳥遊?」

 意外な反応だった。小鳥遊の口ぶりは、スクイのことを知っているようだったから。

「小鳥遊、こさち」

「知らない?」


699 : 以下、名... - 2016/02/14 20:13:30.10 96KcGAnmo 547/1065


「知らない。知らないが……どういう奴かは、たぶん分かる」

「どういう意味?」

「あんまり気にするな。深い意味なんてねえよ」

「……仲良いのかと思った」

「名前については、確実に、とはいえないが、俺のせいだろうな」

 とスクイは言う。俺はその言葉の意味がつかめずに問い返す。

「誰の名前?」

「小鳥遊こさちのさ」

「……」

 また、よくわからないことを言っている。俺はその言葉を無視する。


700 : 以下、名... - 2016/02/14 20:14:04.60 96KcGAnmo 548/1065


「よだかのことは、どうだい?」

「……たぶん、大丈夫だと思う」

「そうかい」

 スクイはどうでもよさそうに笑ってから、煙草に口をつけて、

「――疚しさは消えたかい?」

 そう訊ねてきた。
 俺は答えに詰まる。

「……どうしろっていうんだよ」

「俺が知るかよ」とスクイは言う。
 それはそうだ。俺は聞く相手を間違えた。

「もう夏だな」

 何かを思い出したみたいにスクイは顔をあげる。
 つられて俺も空を見る。


701 : 以下、名... - 2016/02/14 20:14:54.97 96KcGAnmo 549/1065


 夏だ。
 それは分かってる。

「夏は終わるぜ」

 とスクイは言った。

「夏は終われば秋が来る」

「……だからなんだよ」

「深い意味なんてねえよ。秋は好きか?」

「べつに、好きでも嫌いでもない」

「疚しさは消えたかい?」

 スクイは同じ質問をもういちど繰り返した。
 
 俺は答えない。

 夏が終われば秋が来る。
 夏が本番を迎える前に、そんなことばかり考えてしまうから、俺はいつだってこうなんだ。



702 : 以下、名... - 2016/02/14 20:16:16.98 96KcGAnmo 550/1065


 スクイはイヤホンを取り出して、俺に差し出した。

 俺は差し出されるままに受け取って、それを耳につける。

 音楽が流れ始めた。

 知っている曲だ。昔聞いていたバンドだ。
 中学の時に好きだったバンド。そういうバンドっていうのは、音楽の好みが変わっても嫌いになれない。
 今聞いてもきっと好きじゃなかっただろう、そんな印象さえ覚える。
  
 でも好きなのだ。まるでその音楽を通して、あの時期を生きていたような気さえする。
 あの頃聴いていた音楽たちが、今の俺を形作っているような気さえする。

  “Friends are alright
   There's nothing so sad
   And the foods are good today
   It looks like things are going right
   But I feel I'm all alone”

 俺は、こさちの言っていたことを思い出す。
 スクイと話してばかりいても、擦り切れるだけだ、と彼女は言う。
 そうなのかもしれない、と俺は思った。

 イヤホンをはずしてスクイに返す。俺はそのまま、彼に背中を向けた。

「またな」とスクイは言う。

 俺は応えなかった。
 それなのに、さっき聴いた曲のメロディーが頭から離れない。

 目を閉じて振り払おうとする。額を抑えてイメージを追いだそうとする。
 効果はない。それだって分かってる。

 “You said today is not the same as yesterday
   One thing I miss at the center of my heart”

 当たり前みたいな顔でドレッシングを買って帰って、当然みたいに三人で夕飯を食べたあと、よだかと少しだけ話をした。
 悪いことなんて起こってない。俺は俺の中の澱みを、少しずつ振り払いつつあったのに。

 よだかが来た。すず姉と会った。みんなで勉強して、ばかみたいな話をしたりした。るーの家は大きくて綺麗だった。
 不自由はない。退屈でもない。

 それなのにどうしてこんなに胸が騒ぐんだ?



703 : 以下、名... - 2016/02/14 20:16:55.24 96KcGAnmo 551/1065




 夕飯を終えて部屋でテスト勉強をしていたら、文芸部のグループトークが通知を鳴らした。

「せっかく第二文芸部になったことだし、文化祭のステージでバンドでもやらねえ?」

 と、ゴローからのメッセージ。

「どこが“せっかく”なのかわかんないよ」と高森。

「俺ギターやるから」

「弾けるの?」

「先月買った」

「おー、見して見して」

 高森の食いつきの数分後、ゴローが画像を送ってくる。赤いストラトキャスター。

「高森ボーカルな」

「なんでわたし!」

「歌上手いから」

「しょうがないなー。曲は何やる?」

 と高森はさりげなくノリノリだった。
 

704 : 以下、名... - 2016/02/14 20:17:23.90 96KcGAnmo 552/1065


「いぬのおまわりさん」とゴロー。

「いいね!」と高森。

 正気かよこいつら。

「正気?」と沈黙を守っていた佐伯がさすがにツッコミを入れた。

「佐伯はいいよ。タンバリンで」

「やらないし」

「タクミはベースな」

「持ってないし」

「買えよ」

「いやだよ」

「うちのお姉ちゃん、ベースやってますよ。言えば貸してくれるかもですし、教えてくれるかも」

 るーがトークに参加してくる。

「じゃあタクミは決定だな」

「いや……高森が弾きながら歌えば?」

「そんな器用なことできないよ、わたし」

「ギターボーカルの方映えるだろ」

「……え、みんな本気なの?」

 佐伯の問いかけには誰も応えなかった。俺もどこまで本気なのか知りたい。


705 : 以下、名... - 2016/02/14 20:17:52.41 96KcGAnmo 553/1065


「ドラムがいないな。タクミ、知り合いでドラムやってる奴いねえの?」

「……待て。正気かおまえら」

「正気なんかとうに捨てた」

「みんな勉強はいいの?」

 部長のそのメッセージを境に、トークが途切れる。

 俺も携帯を放り出して、勉強に戻ろうとしたけど、なんとなく集中できなくてベッドに倒れ込む。
 よだかは静奈姉と一緒に何かを話しているらしい。何を話しているかは、俺の知ったところではない。
 たぶんもう、心配もいらないだろう。何か話したとしても、それはよだかのことだ。

 俺はスクイに聞かされた曲のことを思い出す。あの曲の入ったCDはどこに置いたっけ?
 好きだったマンガは? 友達と一緒にやったゲームは? 家族で旅行にいったときのおみやげの置物は?
 
 みんなどこにいったんだ?


711 : 以下、名... - 2016/02/16 23:43:03.94 o4C3muj1o 554/1065




 そんな気分だって翌朝になれば消えてしまっていて、窓から七月の朝日が俺の部屋を照らしていた。

 眠気と戦いながら昨日のことやテストのことを思い出して、顔を洗って制服を着替えて朝食をとった。
 日々はあくまで過ごしやすい。

 いい気分も、悪い気分も、一晩眠れば全部リセットだ。
 
 そう思って、居直りかけて、やっぱりやめた。

 リビングにいくと既によだかが起きていて、静奈姉とふたりで朝食をとっていた。

「おはよう、たくみ」

「おはよ」

 返事をしてからあくびをすると、よだかはちょっとうれしそうに笑った。

「……なに」

「べつに、なんでもないよ」

 そう言ってまた笑う。
 なんだっていうんだ。

「タクミくん、今日はバイト?」

「……いや、今日は、ないはず」

「そっか」

 静奈姉はそれだけ訊くと、よだかとの話を再開してしまった。


712 : 以下、名... - 2016/02/16 23:43:29.80 o4C3muj1o 555/1065


「今日の夕方に、帰ることにしたから」

 よだかはそう言って、また笑う。
 なんだか変だ。こんなに笑う奴じゃなかったのに。

 俺はなんとなく狐につままれたような気持ちのまま、朝の支度を済ませた。
 
「見送りは、いけないかもしれないよ」

「いいよ、べつに」

 また、よだかは当たり前みたいな顔で頷く。
 ご機嫌は悪くはないみたいだ。

「じゃあ、いってきます」という段になっても、よだかはにこにこ顔で、「いってらっしゃい」を言うだけだった。



713 : 以下、名... - 2016/02/16 23:44:08.03 o4C3muj1o 556/1065




 及川ひよりが俺のクラスを訪ねてきたのはその日の朝のことだった。
 俺はその出来事に至るまでの連綿たる経緯について考えると、気が遠くなるような思いになる。

 まず、高森蒔絵が俺のクラスに来ていなければ、及川ひよりは俺と会っていなかった。

「聞いてよたっくん、昨日の話、ゴロちゃん本気で言ってたみたいなんだよ!」

 と高森が俺のクラスに駆け込んできたのがその日の朝のはじまりだった。

「このままじゃ全校生徒の前でにゃんにゃんにゃにゃんとか歌うハメになる」と嘆く高森は、前日のゴローとのやりとりが原因でこの教室へ来ていたわけだ。
 そしてゴローがバンドなんて言い出したのは、どうも「第二文芸部になったから」らしい。

 第二文芸部になってしまったのは例の部誌対決が決行されたからだ。
 その部誌対決の決行は及川さんが言い出したことだ。

 及川さんが部誌対決なんてものを持ちかけてきたのは、おそらくは部長とのことが原因だ。それがどんなことなのかは分からない。

 付け加えれば及川ひよりは、この間屋上で高森と顔を合わせていなかったら、高森のことなんて考えもしなかったに違いない。
 あの日高森は、偶然俺を屋上まで迎えにきた。そして及川ひよりと嘉山孝之は、嵯峨野先輩について話をしていた。

 もしも及川ひよりが変な気を起こさずにまっとうな原稿を例の部誌対決に提出していたら、
 あるいは嵯峨野連理が及川ひよりの原稿を見逃していたら、
 焼却炉の騒動なんてものは起きなかっただろうし、その場合は彼らは屋上で何かの話をすることもなく、
 そうなっていたら及川ひよりは高森蒔絵にまったく会わずにいたかもしれない。

 そして及川ひよりが変な気を起こすことになった間接的な原因は、高森蒔絵でもある。
 高森蒔絵が嵯峨野連理に出会っていなかったら、焼却炉騒動なんてものは起きなかったかもしれない。

 嵯峨野連理が高森蒔絵に会ったのは、悪ふざけで作った部員募集のポスターの回収のとき。
 考えてみれば不思議なものだ。あのポスター作りがなければ、俺だってるーに会っていなかったかもしれない。
 高森は嵯峨野先輩と出会わず、その結果及川ひよりは妙な文章を書かずに済み、例の焼却炉騒動も起きなかったかもしれない。

 でも、そのときの俺は何も知らなかったから、及川ひよりがやってきたとき、ただ怪訝に思っただけだった。


714 : 以下、名... - 2016/02/16 23:45:00.83 o4C3muj1o 557/1065




 るーは、妙によだかに興味を持っているように見えた。
 
 ひとなつっこい奴だけど、そういう態度は子供の頃以来見たことがなかったから、意外に思ってなんとなく訊ねてみたことがある。

「どうして、よだかをそんなに気にかけるの?」

 俺の質問に、るーはちょっとだけ困った顔をして考えこんだ。さて、どうしてだろう、と自問しているみたいに見えた。

 それから思いついたように、何度か頷いて、呟いた。

「たぶん、似てるんです」

「似てる?」

「はい。よだかさんは」

「誰に?」

「……あの頃の、ちい姉です」

「……そうかな」

「タクミくんは、知らないから、わからないかもしれない」

「似てるから、気になるの?」

「……はい。変でしょうか」

「……べつに変とは思わないけど、やっぱりよくわからないな」

「きっと、そうなんでしょうね」

 でも、似ているから気になるんです。とてもよく似ている気がして、気になるんです。
 るーはそう言っていた。



715 : 以下、名... - 2016/02/16 23:45:36.08 o4C3muj1o 558/1065




 及川ひよりがその日、高森蒔絵に会おうとしたのだって、別に深い意味があったわけじゃないだろう。
 ただなんとなく、その顔をもういちど確かめておきたかっただけに違いない。

 それでも及川ひよりは「わんわんわわん」と騒いでいた高森蒔絵の背中に声をかけた。
 たぶん、どれが高森かなんて確認する必要もなかったんだろう。

「ちょっといいかな」

 と、そう声をかけた及川ひよりの声にはかすかな緊張が含まれていた。

「ん?」と振り返った高森の顔はこっちからは見えなかったけど、その顔を見て及川ひよりが息を呑んだのは分かった。

「……」

 しばらくの沈黙。

「えっと……誰?」

 高森は忘れていたけど、俺は覚えていた。もっとも、彼女の方は俺が分からなかったろう。
 
 このあいだ、嘉山とふたりで話をしていた女子。「悪いのは嵯峨野先輩」と言っていた女。
 何かを知っているかもしれない生徒。

 俺は口を挟まなかった。

「……高森蒔絵、さん?」

「……はい?」

 名前を呼ばれて、高森は怪訝な顔をする。向かい合う女子生徒はただ、彼女の顔を見つめている。

「突然だけど、親戚に嵯峨野って苗字の人がいたりする?」

「……いません」

「……だよね」
 
 彼女はそう言って、自嘲気味に笑った。


716 : 以下、名... - 2016/02/16 23:46:03.12 o4C3muj1o 559/1065


「ごめんなさい、わたし、二年の及川ひよりって言います。第一文芸部の。ちょっと気になったことがあって。ただの気にしすぎだったみたいだけど」

「……及川?」

 俺の疑問符に、及川ひよりは反応した。

「あなたも第二文芸部?」

「ああ、まあ」

「第一の部長の及川は、わたしの兄です」

 何となく、丁寧で几帳面な口調だったが、話し方自体は柔らかい。

 警戒するような距離を感じるのは、どうしてだろう。

「……嵯峨野、って苗字、珍しいよな」

 俺はそう声をかけてみた。及川ひよりは、「そうかも」と頷く。
 まあ、そんなことを言ったら、浅月だの秋津だの藤宮だのって苗字も、十分珍しいかもしれないけど。

「知り合いにいるんです」

「その知り合いにさ、妹っていたりする?」

 昨日の部長の言葉を、俺はそのとき思い出していた。
 嵯峨野先輩と及川先輩の妹同士が……、と、彼女は言っていた。

 悪趣味な言い方だったかもしれない。それでも及川ひよりは、あからさまな反応を示した。

「……あなた、誰?」

 敵意とすら呼べそうな鋭い視線を俺に向けてくる。

「ただの質問だよ」と俺はごまかした。

「なんとなく、そんな気がしたんだ」

 とは言っても、俺はその質問の答えを得て、自分がどうするつもりなのか、よくわからなかった。


717 : 以下、名... - 2016/02/16 23:47:29.69 o4C3muj1o 560/1065


「……あなた、なにか知ってる?」

「……なにかって」

 そうだ。
 たとえば前日のうちに、部長がひとりごとのように二人の妹の存在を漏らしさえしなければ、
 俺だって、及川ひよりをただ通り過ぎるだけの存在として扱えていたかもしれない。

「きみこそ、何を知ってるの?」

 俺はそう訊ねた。
 どうしようか、迷ったけど。

 でも、けっきょくこうなる運命だったのかもしれないと考えることにした。

 何度忘れようとしても、何度遠ざけようとしても、迂回して近付いてくる何か。

 嘉山たちのことは、俺にとってそれだったのかもしれない。

 知らない方が幸せってこともある。この場合がどちらだったのかは分からない。
 いずれにしても、知ってしまったことを知らなかったことにはできない。

「……来て」

 と及川ひよりは言った。
 俺と高森は顔を見合わせてから、彼女のあとを追った。一番戸惑っていたのは、高森だったかもしれない。


725 : 以下、名... - 2016/02/18 22:25:47.75 KEibpffgo 561/1065




 及川ひよりは、当たり前みたいに屋上に繋がる扉を開けた。
 彼女の背を追いながら、俺と高森は黙り込んでいる。
 
 屋上に昇って、俺たちは辺りを見る。

 本校舎の屋上に、人影はない。

 見下ろす街、鳥の影、夏の雲、穏やかな夏の日の朝。

 ゆるやかな風に髪をなびかせながら、及川ひよりは振り返った。

「あなた、どこまで知ってるの?」

「どこまでって、何について?」

「……嵯峨野先輩に、妹がいるかって」

「いや、そんな気がしただけだって」

 俺のごまかしを、及川ひよりは厳しげな視線で暴こうとする。そこに高森が口を挟む。

「……えっと、さっきから話に出てる嵯峨野先輩って、嵯峨野連理先輩?」

「……そう」

「それであなたは、及川さんの妹さん、なんだよね?」

「……そう。及川ひよりって言います」

 及川ひよりは真剣な顔で高森を見つめた。射すくめるような視線に、高森は居心地悪そうに背中を丸めた。


726 : 以下、名... - 2016/02/18 22:26:22.58 KEibpffgo 562/1065


「嵯峨野先輩が……どうかしたの?」

 高森は、少し慎重な口ぶりで、及川ひよりに訊ねる。

「……あなたたち、本当に何か知っているわけではないの?」

「なんにも」

 と高森が答えた。

「何かって、嘉山のこととか?」

 俺はまた、カマをかけてみた。
 このあいだ、屋上で盗み聞きした、嘉山とこの子との会話。

 そこで嵯峨野先輩の名前が出ていたんだから、何かしらの繋がりがあるのかもしれないと踏んだ。

 案の定、及川ひよりは警戒心を強めたようだった。

 スクイやこさちはこんな気持ちだったのかもしれない。

「ねえ、あなた……名前は?」

「浅月拓海」

「浅月くんは、孝之……嘉山と嵯峨野先輩の関係を知ってるの?」

 さて、困った。

「知らない」

「……本当に?」

「本当に」

「だったらどうして、そこで孝之の名前が出てきたの?」

727 : 以下、名... - 2016/02/18 22:26:51.34 KEibpffgo 563/1065



「……逆に質問したいんだけど、いいか?」

「……なに?」

「おまえたちは、どうして高森を気にするんだ?」

 高森と及川が、そろって言葉をなくした。
 高森は、自分が急に話に出てきたからだろう。だとしたら、及川の方は、図星をつかれたからか。

「嘉山もそうだった。高森を見て、驚いてた」

「……浅月くん、孝之の知り合いってわけじゃ、ないんだよね?」

「ああ」

「嵯峨野先輩と嘉山のこと、どこまで知ってるの?」

「ふたりが知り合いだとすら思ってなかった」

「……そうなんだ」

 及川ひよりは、戸惑ったような顔で、高森の方をちらりと見た。
 高森は高森で、居心地悪そうに足をゆらゆらさせている。


728 : 以下、名... - 2016/02/18 22:27:18.34 KEibpffgo 564/1065


「俺や高森が嘉山のことを知ったのは、例の焼却炉騒動の件で、第一と第二の部員が全員集まったとき。あの視聴覚室の集会のときだ」

「……それ以前のことは?」

「俺たちは、それ以前も以降も、嘉山と話したことはない。……高森もそうだよな?」

「うん……。あ、このあいだ屋上で、ちょっと顔は合わせたと思うけど」

「……嵯峨野先輩のことは?」

 俺たちは答えなかった。

「……そっか。ありがとう。ごめんね。知らないならいいんだ」

 そう言って、及川ひよりは俺たちに背を向けようとした。

「待って」
 
 と声をかけたのは高森だった。

「……どうして、わたしに声をかけたの?」

 及川は、立ち去ろうとした姿勢のまま、何も答えなかった。

「嵯峨野先輩がわたしに声を掛けてきたのは、ひょっとして、何か、理由があるの?」


729 : 以下、名... - 2016/02/18 22:28:32.16 KEibpffgo 565/1065


 その問いかけはたぶん、すごく切実なものだった。
 切実で、純粋だ。おそるおそる、という響きだった。

 その切実さが届いたわけではないだろう。
 ただの気紛れか、他の意図があったのか、及川ひよりは容易く答えた。

「似てるからだよ」と及川ひよりは言う。

「高森蒔絵さん。あなたは、そっくりなの。瓜二つ。葉羽に、そっくり」

「……はばね?」

「嵯峨野先輩の妹で、わたしと孝之の幼馴染だった」

「……」

「あなたの顔が、嵯峨野葉羽にそっくりなの。理由はきっと、それだけ」

 高森の表情が色を失ったように見えた。
 たぶん、傷ついたのだと思う。深く、深く。
 無理もない。俺だって、あんまりだと思った。

 だって高森は傷ついていたのだ。
 悩んで、必死に考えて、落ち込んでいたのだ。

 一生懸命に、嵯峨野先輩に対して、彼女なりの誠実さをもって接しようとしていた。

 その全部が、彼にとってはどうでもいいものだったのかもしれない。
 彼が興味を持っていたのは、ただ、高森の顔だけ、だったのかもしれない、なんて。


730 : 以下、名... - 2016/02/18 22:29:07.89 KEibpffgo 566/1065


「……いや、待て。意味わかんねえよ」

 言葉を失った高森の代わりに、俺が会話を引き継ぐ。
 このまま話を終わらせては駄目だ、と思った。

「妹に似てるからって、なんで……」

 ――嵯峨野先輩の妹で、わたしと孝之の幼馴染だった。

 ……“だった”?

「死んじゃったの」

「……」

「二年前の夏。川で溺れて。連理さんと葉羽は、ほんとうに仲の良い兄妹で……。
 だから、連理さんは、葉羽にそっくりな高森さんを無視できなかったんだと思う」

 何を考えてるんだ、こいつ。
 自分が何を言っているのか、わかってるのか?

 死んだ妹そっくり? だから無視できなかった? 
 そんな話を、今生きている高森が聞かされて、勝手に重ねられて、どう感じると思ってるんだ?
 満面の笑みで光栄ですとでも言うと思ってるのか? それはぜんぶ、おまえらの事情じゃないか。 

 俺は一呼吸置いて、冷静さを取り戻すよう努めた。

 訊いたのは高森と俺だ。こいつは質問に答えただけだ。
 腹が立つのは俺の都合だ。
 

731 : 以下、名... - 2016/02/18 22:29:36.13 KEibpffgo 567/1065


「……だからって、それが高森に何の関係があるんだよ」

 苦し紛れのような、俺のそんな言葉に、及川ひよりは、少し気の毒そうな……どうでもよさそうな声で、

「ないよ」

 と言った。

「ごめんね」

 とさらに、あっさり謝る。
 
 あなたはある人の死んだ妹そっくりなのです。
 だからあの人はあなたに近付いたのです。
 でもその話はあなたには関係ありませんでした。ごめんなさい。

「……おまえさ」

「そうだったんだ!」

 言いかけた俺の言葉を遮るみたいに、高森がことさら明るい調子で声をあげる。

「だから嵯峨野先輩、わたしにやたら絡んできたんだ。なるほどー、そういうことだったのか」

 それからうんうん頷いて、

「そりゃ仕方ないよね、亡くなった妹さんそっくりだったら、たしかに気になっちゃうもんね」

 なんてことを言う。
 俺は何も言わないことにした。 
  
 何で腹が立つんだ。高森は笑ってるのに。


732 : 以下、名... - 2016/02/18 22:30:49.04 KEibpffgo 568/1065


「それじゃ、わたし行くね。なんか、ごめんなさい」

 そう言って去ろうとした及川ひよりを、今度は俺が呼び止める。

「部誌を燃やしたの。……嵯峨野先輩なのか?」

「……わたしは、そうだと思ってた」

「……思ってたって?」

「孝之は、自分が燃やしたんだって言ってた。意味もなく。でも、絶対に嘘。連理さんが、孝之に何かしてるんだ」

「わかんねえな。なんで嵯峨野先輩がそんなことをするって話になるんだ?」

「……分からない。たしかなのは、どちらかが部誌を燃やしたってことだけ。
 連理さんが燃やしたのか、孝之が燃やしたのかは分からない。でも、どちらかがたしかに燃やした」

「なんで、そんなことが分かるんだよ」

「燃やす理由が、わたしの原稿だったから」
 
 どういう意味、と問いかけるより先に、及川ひよりは言葉を続けた。

「連理さんは孝之に暴力を振るってる。日常的に。毎日みたいに。
 わたしは、それを告発しようとした。わたしは告発文を書いた」

 先生に言ったって、呼びだされて話をきかれて、場合によっては注意されて終わり。 
 誰かに相談したって簡単には信じてもらえない。
 だから、大勢の人に、疑ってもらおうと思った。そうすれば簡単には、手出しできなくなるから。
 
 疑いの目を向けてもらうために、大勢の人に、告発文を読んでもらおうとした。

「……部誌になんか載せたって、誰も読まないだろ」

「普段だったら、そうだよね」


733 : 以下、名... - 2016/02/18 22:31:46.06 KEibpffgo 569/1065


 ……例の部誌勝負。
 
 投票、勝負という形にしたせいで、普段は文芸部に興味もない奴らが、手にとって目を通していた。
 反響は、俺たちが思った以上だった。意外なほど、生徒たちは対決に興味を持った。

 言い出したのは誰だ?
 及川さんだ。

「最初からそのつもりだったわけじゃないよ。兄さんが部誌勝負なんて言い出したときは、馬鹿みたいって思った。
 でも、五月の終わり頃から、連理さんは孝之に暴力を振るうようになった。
 あの人、外面は優等生だから、誰に言っても信じてもらえない。部誌は告発するには絶好の機会だった」

「……五月の、終わり頃?」

 繰り返したのは、高森だ。

「……そう。何か知ってる?」

 俺には分かった。
 高森と嵯峨野先輩との間に何かがあって、彼が部室に来なくなった。ちょうどその頃だ。
 
 誘いを断られただけだ、と嵯峨野先輩は言っていた。
 本当にどうだったのか、俺には分からない。

「……嵯峨野先輩は、それ以前に、嘉山くんに暴力を振るってたり、した?」

 問いを重ねたのは、高森だ。
 俺は止めたかったけど、止めなかった。

 及川ひよりは、少し怪訝そうにしながらも、答えてくれる。


734 : 以下、名... - 2016/02/18 22:32:16.31 KEibpffgo 570/1065


「つらくあたることはあったけど、直接的に暴力を振るうようになったのは、わたしが知る限りは、それ以降だと思う。
 そうじゃなかったら、わたしはずっと前に、連理さんを止めようとした」

「……そう、なんだ」

 高森が何を考えているのか、俺には簡単に分かった。
 
「高森」

 名前を呼ぶと、彼女ははっとしたように俺の方を振り向いて笑った。

「なに?」

「そろそろ教室、戻んなきゃだよ」

「あ、だね……」

 それじゃ、と及川ひよりは、最後にもう一度謝った。「ごめんなさい」と。
 ふざけんなと俺は思ったけど、そんな気持ちだって、俺の都合といえば俺の都合でしかなかった。

「高森」

「なに、たっくん」

「バンド、どうする?」

「あ、どうしよう、ね」

 困ったように、高森は笑った。
 俺はそれ以上何も言わないことにした。


740 : 以下、名... - 2016/02/21 16:57:16.45 clH3fxGvo 571/1065


◇[Moor]


「不自然なところがいくつかあるよな」

 鷹島スクイは、昼休みの東校舎の屋上で、煙草を吸いながら、そう呟いた。

「高森蒔絵のことが原因かどうかはさておき……話を総合すると、嵯峨野連理が嘉山孝之に暴力を振るうようになったのは五月の終わり頃だ」

 スクイはそこで言葉をくぎって、俺の顔を見た。俺は何か返事をするべきかどうかを考えて、考えるのがばからしくなる。

「部誌の発行は六月の半ばだった。焼却炉での騒動が起こったのは配布の一週間前だ。単純に考えて、六月上旬ってことになる」

 一週間から、長くても二週間。

 嵯峨野連理が暴力を振るうようになり、及川ひよりがそれに気付き、告発文を書き、どちらかがそれを燃やすまでの期間。

「早すぎる。暴力に気付くまではともかく、そんなタイミングで、告発文なんて回りくどい手段を真っ先に採用するか?」

「及川ひよりが、嘘をついてるってこと?」

「どうかな」

「……他の、不自然なところって?」

「今も言ったが、告発文だな。話の内容が内容だ。手段として間違ってるだろ。誰かの目に止まったとしても、悪ふざけにしか見えない」

「……」

「告発したのが、嘉山孝之ではなく及川ひよりだっていうのも、変だ。なぜ及川ひよりがそんなことをする?
 幼馴染だから? 友人だから? でも、嘉山はそれを公にされることを望んでいたのか?」

「……」

 俺は黙りこむ。


741 : 以下、名... - 2016/02/21 16:57:43.43 clH3fxGvo 572/1065


「処分の方法も妙だ。もしその内容が不都合なものだったからという理由で処分したなら、どうして部誌を燃やしたりする?」

「……」

「原稿のデータを消す。印刷された部誌を処分する。だったら持ち帰って捨てちまえばいい。
 誇示するように焼却炉で燃やしたのもおかしいし、問題部分は燃えていたにしても、全部燃やしてしまわない理由も分からない」

「……」

「何か、隠してるのは間違いないだろうな」

 及川ひよりは、嵯峨野先輩の妹のことについて、あっさりと俺たちに話した。
 普通なら、話すのを躊躇しそうなものだ。内容が内容だけに、簡単に誰にでも話すようなことではない。

 すべてを疑うわけではない。
 でも、あそこまで饒舌だったのは、何かを隠すためだったのかもしれない。

「……だったとして」とスクイは続けた。

「それを知ろうとしたところで、何もできやしないけどな」

 たしかに、と俺は頷く。


742 : 以下、名... - 2016/02/21 16:58:20.24 clH3fxGvo 573/1065


「難儀な奴だな、おまえも」

 鷹島スクイは、そう言って煙草に火をつける。

「おまえには関係のない話だ。気にしても仕方ない、無関係の出来事だ。
 頭を悩ませて、及川にカマをかけてまで、どうしてそんなことを知ろうとした?
 結果はどうだった? 気分が悪くなるだけだっただろ。及川ひよりのせいでもない。高森蒔絵のせいでもない」

 おまえのせいさ、とスクイは言った。

「おまえが知ろうとしたから、そんなことになったのさ」

 俺は否定できない。

「関係ないのさ、本当は」

 俺たちには、ぜんぜん、ちっとも、これっぽっちも、関係ないんだ。

 俺は溜め息をつく。

743 : 以下、名... - 2016/02/21 16:59:04.53 clH3fxGvo 574/1065


「……教えてやるよ」

 煙を吐き出しながら、スクイは言う。

「本当は知ってるんだ、俺は。嵯峨野連理が、嘉山孝之を憎む理由。
 燃やされた部誌の、問題の原稿の内容も。俺は、それを読んだんだ。
 ……燃やした犯人だって、俺は知ってる」

「……え?」

「告発文なんかじゃない。嵯峨野連理の暴力についてなんか、一言も書かれてない。
 及川ひよりの文章は、おそらく、嵯峨野連理と、嘉山孝之にしか伝わらないように書かれていた」

「知りたいか?」と鷹島スクイは言う。

 知ってしまったら、戻れないとしても?



744 : 以下、名... - 2016/02/21 16:59:53.19 clH3fxGvo 575/1065





 風が吹く。
 煙に巻かれて、スクイの姿はいつのまにか消えていた。

 いつもそうだ。
 
 いつのまにか現れて、いつのまにかいなくなっている。
 偏在する風みたいに。

 示し合わせたみたいに、鳥の影が落ちる。

 扉の開く音がした。

 嘉山孝之が、そこに立っていた。

 どこか透徹した瞳、何かを諦めたような表情。
 礫岩を思わせた。
 
 削られ、侵食され、角を失っていったような、不思議な印象。
 
 彼は鼻をスンと一度鳴らして顔をしかめると、

「煙草の匂いがする」

 と静かに呟いた。

 それから俺をまっすぐに見据えて、

「はじめまして。浅月拓海」

 笑いもせずに、俺をまっすぐに見据え、そう言った。
 
「はじめまして。嘉山孝之」

 俺もまた、それに答えた。

 嘉山はかすかに笑う。


745 : 以下、名... - 2016/02/21 17:01:08.65 clH3fxGvo 576/1065


「俺を知っているんだな」

 嘉山は、そう言った。俺は頷いた。

「視聴覚室?」

「そうだな。そっちも俺を知っているみたいだ。視聴覚室ってわけでも、ないんだろ?」

 嘉山もまた、頷いた。

「……不思議な奴だな、おまえは」

 そう声を掛けると、嘉山は鼻で笑う。
 べつに、問い詰めようと思ったわけじゃない。でも、疑問は口から、自然と溢れだしていた。

「嵯峨野連理に本当のことを話さないのは、やさしさのつもりなのか?」

 余裕ぶった表情に、少し違う気配が混ざる。
 含まれているのは驚きと、
 予感が確信に変わったような、不自然な動揺。

「豪雨の日の河川敷で、嵯峨野葉羽とおまえは一緒にいた。嵯峨野葉羽は濁流に呑まれて死んだ。
 彼女は、氾濫しそうな川辺りに近づいたおまえを止めようとして、流された。それで合ってるか?」


746 : 以下、名... - 2016/02/21 17:01:37.45 clH3fxGvo 577/1065


「踏み込んでくるね、浅月くん」

「……及川ひよりと、俺は同意見だな。どうして、嵯峨野を庇う?」

「……」

「おまえが理由もなく川に近付いた。そういうことに、おまえはした。
 でも違うんだろ? 嵯峨野葉羽は探しものをしてたんだ。嵯峨野連理からの贈り物だった腕時計だ。
 なくすことをおそれて、嵯峨野葉羽は落とした腕時計を探していたんだ。そうだろ?」

 嘉山は静かに笑った。礫岩のような笑み。棘も毒もない。

「どうして、自分のせいってことにした? 俺にもまったく、理解できない。
 嵯峨野連理に憎まれてまで、どうしてあいつに本当のことを隠したんだ?」

「……今となっては、俺にだって分からないよ」

 嘉山はまた笑った。

「高森蒔絵の顔を見て、びっくりした。連理兄も動揺したんだろうな。いまさらまた俺を責めはじめた。
 あんまり酷い言い草だったもんだから、ひよりもさすがに、連理兄に本当のことを教えようとした。
 そういう結果が、例の騒動の……半分だ」

 半分、と、嘉山は言う。

「でも、今日話したいのは別のことなんだ」

「……話したい? それは、俺とか?」

「ああ。どうしておまえは――『それ』を知ってるんだ?」

 一瞬答えに窮した俺に、嘉山は言葉を続ける。


747 : 以下、名... - 2016/02/21 17:02:34.50 clH3fxGvo 578/1065


「なあ浅月。現第一文芸部の部員に、鷹島スクイという男子生徒がいるのを知ってるか?」

 俺は、
 なぜだろう、少し驚いてから、

「……知ってる」

 と、そう答えた。

「どうして知ってる?」

「どうして、って」

「誰も見たことがないんだ」と嘉山は言った。

「部誌を作る時期になると、いつのまにかそいつの名前で原稿が提出されている。
 でも、普段そんな奴が部室に来たことはないし、名簿を見ても、そんな名前の奴はいない。
 きっと、名前を知られたくない奴が筆名を使ってるんだと、気付いた奴らはそう思ってた」

「……『思ってた』?」

「該当者がいないんだ。部誌を出すごとに、毎回何人か原稿を書かない奴はいるが、
 全部の時期を見てみると、一応全員が、バラバラにではあるけど、提出してるんだ。
 鷹島スクイは去年の春以降、ずっと原稿を提出してる。二本、名義を分けて提出してる可能性もないではない。
 でも、どうしてそんな名前なんて使う?」

「……」

「『鷹島スクイとは、誰か?』」

 なんだ、こいつは。
 どうして俺は、こんな話を今、されているんだ?


748 : 以下、名... - 2016/02/21 17:03:01.27 clH3fxGvo 579/1065


「鷹島スクイの小説には、いつも屋上が登場する。屋上と煙草と飛び降り自殺。
 虚無的で厭世的な言葉の羅列。あれは、ほとんど呪詛だ」

「……」

「ずっと気になってたんだよ。そんな文章を書く奴が、いったい誰なのか。
 あんな内容だったら、たしかに本名をさらしたくないのは納得がいく。
 べつにたいした理由があったわけじゃない。誰にも言ってなかったけど、俺はそいつが誰なのか、ずっと調べてた」

 鷹島スクイとは、誰か?
 鷹島スクイは、鷹島スクイだ。

 他の誰かじゃありえない。

「屋上によく出入りしている生徒を調べた。本校舎の方じゃない。スクイの小説に登場する屋上は、あっちじゃない。
 こっちだ。東校舎の屋上が、明らかにモデルになってる」

「……」

「ここで煙草を吸ってる奴がいるって噂、浅月は知ってるか?」

「……聞いたことはあるな」

「部誌の第一稿のデータを消したのは俺だ。ひよりは、葉羽が死んだ理由を、連理兄に明かそうとした。
 俺はそれを止めたかった。でも、部誌を燃やしたのは俺じゃない。あれは、俺が処分するまえに、部室からなくなってたんだ」

「……」

「焼却炉は以前から使用不可になっていた。火を持ってる奴じゃないと、燃やすなんてことはできない」

「……」

「火なんて誰でも用意できる。ライターだろうがマッチだろうがその辺で売ってるし、誰にでも手に入れられる。
 わざわざ部誌を燃やすために火を用意するっていう不自然さを棚上げするならな」

「……」

「犯人はたぶん、文芸部の関係者だろ。あいつらは基本的に真面目な奴らばかりだから、火も使わないし、煙草も吸わない。
 心当たりがあるとすれば……ひとりだけ。鷹島スクイだけだ」


749 : 以下、名... - 2016/02/21 17:03:39.91 clH3fxGvo 580/1065


 嘉山は、また笑った。

「……奇妙な名前だよな。鷹島スクイ。つじつま合わせみたいだ」

「鷹島 スクイ」と、彼はずっと前、俺に名乗った。

 ――変な名前。

 ――俺のせいじゃない。

 ――親のせい?

 ――いや、おまえのせいさ。

「なあ浅月……制服の内ポケット、膨らんでないか?」

「……」

「――煙草じゃないのか、それ?」

 ―― 不安ならページをめくらなければいい。その先に何があるのかなんて誰にも分からないんだから。
 ―― ひょっとしたら、知ってしまったら後悔することになるのかも。何もかも、台無しになってしまうかも。
 ―― それでもどうしても"つづき"が知りたいなら、"その後"を知りたいなら、それなりの覚悟をしなきゃいけないよね。


750 : 以下、名... - 2016/02/21 17:04:49.95 clH3fxGvo 581/1065


 俺は、

 右手をあげて、左胸の内ポケットのあたりに触れる。
 かすかに硬い感触。

 覚えは――ない。

 鷹島スクイ。
 タカジマスクイ
 takazimasukui

 ――アナグラムってなんですか?

 ――暗号みたいな奴だよ、文字入れ替えて別の文つくったりする奴。

 ――よくあるんだよな。ある人物の名前を入れ替えると別の言葉になったりするの。あとは別の名前になったり。

 takazimasukui
  a azi s ku
 t k ma u i

 ―― 一作目のテーマはね、"とにかく楽しい"だった。それを実現するために、わたし、どうしたと思う?

 ――"覆い隠した"んだよ。

「――はじめまして、だな。鷹島スクイ。部誌を燃やしたのは、おまえなのか?」


759 : 以下、名... - 2016/02/28 20:48:47.88 YoF9tIJYo 582/1065




 ――カメラのシャッター音が聞こえた。

 直前まで居た場所を引き剥がされたあと、奇妙な浮遊感とともに運ばれ、地面に叩きつけられた、ような、錯覚。
 そんな目覚め。

 瞼を、開きたくない、と思った、のに、開いてしまった。
 
 俺は、硬いコンクリートの上に寝そべって、空を仰いで寝そべっていた。
 七月の青空は高く澄んでいて、俺はいろいろなことを忘れてしまいそうになる。

 ――どうして捨てたの?

 いや、違う、逆だ。
 忘れていたことを、思い出しそうになったんだ。

 ――他にどうしようがあった?

「起きました? せんぱい」

 声の方に、目を向ける。動かしたのは、肩かもしれないし、首かもしれないし、目かもしれない。
 小鳥遊こさちが、こっちを見て笑っていた。
 
 真昼の太陽を浴びて、彼女の髪は白い光をまとって透けている。

 空に近い場所なのに、妙に暗い。そう思ってふとあたりを見ると、給水塔の影に入り込んでいた。
 いつのまに、こんな場所に来たのだろう。

「はやく起きてください。こんな機会、なかなかないんですから」

 言われるままに、俺は体を起こす。
 妙な倦怠感、虚脱感。

 給水塔のスペース、梯子を昇った先、屋上の、さらに上。


760 : 以下、名... - 2016/02/28 20:49:23.60 YoF9tIJYo 583/1065


 見下ろす屋上には、嘉山孝之と、鷹島スクイが立っていた。

「逆にひとつ、訊ねたいことがあるんだ」

 と、スクイは言う。

「訊ねたいこと?」

 嘉山は、怪訝そうに眉をひそめる。

 ふたりのやりとりを、俺は見下ろしている。

 この、不自然な視座。
 自分の立ち位置に対する違和感。

 現実と結びついていないような浮遊感。
 身体から切り離されたような、欠落感。

「残念ながら、こさちは性格があんまりよろしくないので、分かりやすい解説なんてしてあげないです」

 そう言って、彼女は携帯をポケットにしまう。さっきのシャッター音は、どうやらまたこれだったらしい。

「……どうなってるんだよ。俺、さっきまで嘉山の前に」

「そ、ですね」


761 : 以下、名... - 2016/02/28 20:50:11.69 YoF9tIJYo 584/1065


「スクイはいつのまに戻ってきたんだ? どうしてあいつがあそこにいる」

「不思議ですね」

「こさちは、いつからここにいた?」

「こさちは、いつでもせんぱいを見守っているのですよ」

「……」

「なぜならこさちは、せんぱいの守護霊だからです。あ、うそです」

「……せめて信じるか疑うかの反応をうかがってから否定してくれ」

「ちょっとは和みました?」

「うざい」

「あは、案外平気そうですね」

 こさちはからから笑う。


762 : 以下、名... - 2016/02/28 20:51:32.75 YoF9tIJYo 585/1065


 そんな俺達の声がまるで聞こえないみたいに――聞こえていないのだろうか――下のふたりは、話を続ける。

「部誌を燃やしたのは、おまえじゃない。だったら、どうして犯人だと名乗り出るような真似をした?」

「本当にわからないのか?」

「ただの確認だよ」

「……タチが悪いな」

「そういう役割なんだ」

「……おまえたちが、部誌が燃やされた理由を、調べようとしたからだ」

 部誌。……そうだ。部誌を燃やしたのは、スクイだったかもしれない。嘉山はそう言っていたんだ。
 どうして忘れていたんだろう。どうしてスクイが、部誌を燃やしたりするんだ?

「ありゃ、やっぱそうなっちゃってましたか」

 こさちが俺の顔を見てそう呟いた。

「なに?」

 首をかしげると、彼女は「なんでもないです」と顔の前で手を振った。


763 : 以下、名... - 2016/02/28 20:52:23.30 YoF9tIJYo 586/1065


「ところでせんぱい、こさちがひとつお話をしてあげましょう」

「……なに」

「分離脳って言葉をご存知です? 左右の脳をつなぐ脳梁って奴をズパッと切っちゃうやつです」

「はあ」

「まあ、ちょろっと知ったかぶりしたいだけの知識なんで、詳しくは知らんですけど、てんかんとかの治療に行われたりするらしいですね」

「実際に行われてるの?」

「そんなん知りませんよ。こさちは神様ですか?」

「……」

「あ、神様じゃないですよ。神様じゃないです」

「どうでもいいよ」

「ま、そんなこんなで、脳をまっぷたつにしちゃうわけです。どうなると思いますか?」

「どうなるって……」

「……」

「どうなるの?」

「素直でよろしいですね。分離脳になっちゃうと、たとえば左目で見た絵に描かれているものがなんなのか、答えることができなくなります」

「なんで?」

「めんどくさいんであとでウィキペディア見てください。言葉とかそこらへんを司ってるのが右脳なんじゃないんですか」

「いや、言語はたしか左脳だし……ていうかそもそも左目とか右目じゃなくて、両目の右視野と左視野で分かれてるんじゃ……」

「じゃあそれでいいです! どうでもいいんで水差さないでください!」

 どうでもよくはないと思うし、あんまりな付け焼き刃だとも思う。



764 : 以下、名... - 2016/02/28 20:53:06.07 YoF9tIJYo 587/1065


「それで、いいですか。分離脳の人の左目に「立ち上がれ」と書いた紙を見せるとですね……」

「左視野な」

「うるさい人ですね! 本が間違ってたんです! どうなると思います?」

「立ち上がるんだろ」

「そう! それで……」

「『どうして立ち上がったのか』と訊ねても、『紙で命じられたから』とは言わない」

「……知ってたんですか。なかなかに性格悪いですね」

「作話だろ。それらしい理由を、脳は勝手にでっちあげる。本人はそれが真実だと思い込む」

「そうです。なので、気付いたら突然さっきまでと別の場所にいても、人間の脳は合理的な理由をでっちあげるのかもしれないですよね」

「……」

「『夢でも見てたんだな』、みたいな」

「……で?」

「なんでもないですよ。なんでもないです。せんぱいのこと嫌いになってきました」


765 : 以下、名... - 2016/02/28 20:53:56.66 YoF9tIJYo 588/1065


「……何が言いたいんだよ」

「認識も記憶も、けっきょくのところ、事後的なつくりものなのかもしれないですよね」

「……」

 何が言いたいのか、さっぱり分からない。

 嘉山とスクイの話は続いている。

「おまえたちが……第二の奴らが、部誌を燃やした犯人を調べ始めた。佐伯と、林田。
 データは処分できたけど、部誌を燃やしたのは俺じゃない。もし燃やした奴が、ひよりの書いた原稿部分を切り取って燃やしてたら……。
 もちろんそんなことをする理由はないけど、何かの拍子で、連理兄の目にもとまるかもしれない。それは避けたかった」

「火消しってわけか」

「まあ、そうだな」

「なるほどね……そのせいで、第一の連中に疎まれるはめになってまで、わざわざ」

「……」

 鷹島スクイは、制服の内ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。
 嘲るように笑う。
 
 嘉山は挑発的な態度を取り合わず、質問を繰り返す。

「それで……部誌を燃やしたのは、おまえか?」

 鷹島スクイは、それがまるで、たいしたことではないというふうに、

「そうだよ」

 と肯定した。

 俺は、その言葉に烈しいショックを受けた。
 なぜかは分からない。だってスクイは、関係がないと言っていたのだ。

 俺たちには関係のないことだと、俺にはそう言っていたのだ。


766 : 以下、名... - 2016/02/28 20:54:25.47 YoF9tIJYo 589/1065


「……どうして、そんなことをした?」

「どうしてだろうな?」

「……」

「知りたいか?」

 スクイのその言葉を聞いて、俺はまた何かを思い出しそうになる。
 ……逆かもしれない、何かを忘れようとしているのかもしれない。

「せんぱい、ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は読んだんでしたよね?」

「……また、話題の変化が唐突だな、おまえ」

「おまえじゃないです。こさち、です」

 ふてくされたみたいに、こさちはそっぽを向く。結ばれた後ろ髪が子猫みたいに揺れ跳ねた。

「どんな話だか、覚えてます?」

「……記憶の話だったと思う。それが?」

「でしたね。べつになんでもないです」

「……なんなんだよ、おまえ」

 俺たちの会話なんて存在しないみたいに、ふたりの会話は続いている。
 映画の観客にでもなった気分だった。自分の発言や行為が、まったく現実に影響を与えていないような、感覚。


767 : 以下、名... - 2016/02/28 20:55:17.68 YoF9tIJYo 590/1065


「残念だけど、口止めされてるんだよな」

 スクイは、そう呟いた。嘉山は、苛立ったようにスクイに詰め寄る。

「誰に?」

「知ったところで、意味なんてないと思うよ。おまえや及川には、関係のない相手かもしれない。  
 そいつが何の関係もなく、部誌を燃やしたい理由があったのかもしれない。
 なんなら、俺が『ストレス解消に燃やしました』ってことにしてもいい」

「……いいから言えよ」

 嘉山の声は低く震えた。

「関係ないなんてわけ、あるかよ。なんで燃やした。誰が、口止めなんかするんだ?」

 嘉山の腹立たしそうな声を、スクイはあっさり受け流して、

「心当たりがあるから、問い詰めるんだろ?」

 そう言って笑う。

「スクイはホント、性格が悪いですねえ」

「ホントにな」

「他人事みたいに言いますね?」

 こさちは俺の肩をぱしぱし叩いた。


768 : 以下、名... - 2016/02/28 20:55:50.41 YoF9tIJYo 591/1065


「……連理兄か?」

 嘉山は、震える声で、スクイに訊ねる。
 スクイは肯定も否定もしない。

「連理兄は、あれを読んだのか?」

「……さあ?」

「答えろよ」

「……何か勘違いしてないか、おまえ。部誌を燃やしたのは、おまえってことになってる。なにせ自白したんだからな。
 いまさら俺がやったなんて言っても、誰も信じない。仮におまえが俺を告発したところで、俺はぜんぜん、困らない。
 おまえは優位者じゃないんだ。おまえの問いに親切に答えてやる義理が、俺にあるか?」

「……」

 嘉山は黙りこむ。

「スクイは悪役が似合いますね」とこさちは言う。

「……悪役」

 その言葉に、ちくりと胸が痛む。
 

769 : 以下、名... - 2016/02/28 20:56:56.69 YoF9tIJYo 592/1065


「しいていうなら」とスクイは言う。

「手段は指定されなかった。だから燃やした」

「……『指定』。頼まれて、燃やしたのか」

「オイディプス王がどうして盲いたかを知ってるか?」

「……何?」

「……本当のことなんて知ってどうする? 知ったらろくでもないことなのかもしれないぜ。
 いいんじゃないのか、おまえの行動には理由があって、俺の行動はそれとは関係ない。それでいいだろ」

「いいから答えろ!」

「そんなに心配なら、嵯峨野連理に直接訊けばいい」

「……」

「答えてくれるかもしれない」

 俺はなんとなく、怖くなる。 
 鷹島スクイ。怪物のようだと、ぼんやり思う。這いうねる影のように、ゆっくりと首筋に手を伸ばし、静かに締めていく、そんな。

「嘉山、勘違いするなよ。俺はおまえのことなんて、どうでもいいんだ」

「……」

「俺はおまえのことなんてどうでもいい。だから本当は、教えてやってもいい。
 約束はしているが、知らずにいるのも哀れな気もするし、知ってしまうのも哀れな気もする。
 だからいくつかヒントはやった。あとはおまえ次第だろ。知ろうとするのも、知らずにいるのも勝手だ。
 どうしても気になるなら、心当たりに訊いてみろよ。あたりかはずれか、話してもらえるかどうかは、俺の知ったことじゃない」

 嘉山はしばらく黙りこんだまま俯いて、じっと何かを考えているようだった。

 それから静かに踵を返し、屋上を去っていく。

 扉を出る瞬間、わずかに立ち止まって、

「俺は、おまえが嫌いだ」

 と、そう呟く。俺は不思議と傷ついた。


770 : 以下、名... - 2016/02/28 20:57:23.88 YoF9tIJYo 593/1065


「……こさち、前に『あれはあれでいいやつ』って言ってたっけか?」

「今のやりとりを見ると、前言撤回したくなりますね。さすがに好き放題です」

「……敵に回したくはないな」

「でもま、スクイにもいいところはあるんですよ。定期テストを真面目に受けてたときは、ちょっと笑っちゃいましたけど」

「……定期テスト?」

 ほら、と言って、こさちは携帯を俺に差し出してくる。
 画面に映っているのは、教室だ。生徒たちが席について、机にかじりついている。
 問題用紙と答案用紙。いつかの、試験の写真。

「こんなのどうやって撮ったんだよ」

「そんなの、気にしたってしゃーないです。ほら、ここ」

 といって、こさちは画面に映っている生徒の一人を指す。
 それは、俺の姿だった。

「……これが、なに」

「記憶にありますか?」

「……記憶にもなにも」

 ――六月に部誌出すっていったって、もう再来週には定期テストが始まるわけじゃない?

「……」

 ……定期テスト?
 俺は……受けたか?

 いや、思い出せないだけで、受けたんだろう、きっと。どうして覚えていないかはわからないけど。


771 : 以下、名... - 2016/02/28 20:57:54.41 YoF9tIJYo 594/1065


 ――浅月、聞いてる?

 ――ついさっきまで話してたでしょ。なんで急にわかんなくなるの?
 ――上の空って感じじゃなかったし……まあ、いいんだけど。

「……」

「とはいえ、そういうことが起きるようになったからこそ、こういう事態になったんでしょうけどね」

「……何を言ってるんだ? もっと分かりやすく言ってくれないか」

「べつに、無理して分かる必要もないと思いますよ? それでもべつに、生きてはいけますし」

「……」

「でも、そうですね。スクイも、悪い奴じゃないってだけで、良い奴じゃないかもです」

 ほら、とこさちは新しい画像を俺に差し出す。

 写っていたのは、コンビニの店内だ。カウンターに立っているのは、俺のように見える。

「そりゃ、そうですよね。年齢確認で身分証の提示を求められたら、学生の身分で煙草なんて買えないです。
 でも、自分が売る側なら、タイミングを見て買うことなんていつだってできますよね。
 たとえば、ほら。誰かひとりが裏で在庫の整理をして、もうひとりがトイレ掃除にでも行ったら、カウンターに残されたひとりは買おうが盗もうが自由です」

「……」

「防犯カメラはありますけど、何かないかぎり頻繁に確認なんてしませんし、買うにしてもお金をレジに入れとけば違算にもならないです。
 盗むにしても、会計を立てなければレジ金のチェックだけじゃ分かりませんからね。棚卸しで同一商品だけがマイナスなら、おかしいと思われるかもしれませんが」

 まあ、ちゃんとお金を払うのがスクイの律儀さですよね、と、こさちは付け加えた。

 画像のなかに客はいない。俺はひとり、手のひらで覆った何かをレジに通している。
 それが何なのかは、俺にはよく思い出せない。


772 : 以下、名... - 2016/02/28 20:58:28.48 YoF9tIJYo 595/1065


「こさちは、ときどき考えるんです」

 隣で、彼女はそう呟く。

「さっき、スクイも言っていました。知ってしまうことは、必ずしも幸福ではないかもしれない。
 オイディプス王は、知ってしまったからこそ盲になってしまったんです。
 でも、だからといって、知らずにいて、それで幸せになれたんでしょうか?」

 いつだったか、スクイが言っていた。

"幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。"

「知らずにいたところで、オイディプスは幸福にはなれなかったと思う。
 何かを覆い隠して、ごまかして、見ないふりをして手に入れた幸福は、その見ないふりをした何かに、やっぱり食い殺されてしまうんだと思う」

 こさちの言葉は、たぶん俺に何かを伝えようとしているんだろう。
 それは俺にだって分かる。

「テイレシアスの言葉がオイディプスを苦しめたのではないはずなんです。それは、オイディプスの内側に、すでに巣食っていたものなんです」

「……」


773 : 以下、名... - 2016/02/28 20:58:59.70 YoF9tIJYo 596/1065


 高森が、"続き"を書くのを嫌がっていたことを思い出す。

 求められるのは反復で、続きじゃないから、と彼女は言った。
 
 人も、景色も、変わっていって、前のままではいられない。

 俺だって、そうだ。
 
 るーに会うのが怖かった。
 昔の自分のことなんて、もうろくに覚えてないけど、
 その自分との違いに、がっかりされたら、うんざりさせたら……。

 今の俺を知ることで、るーががっかりしたら、
 俺は、

 だから、るーに会いたかった。
 るーに会いたくなかった。

 今の自分を知られたら、きっと失望させるだけだから。
 退屈させるだけだから。

 世の中には俺よりまともな奴がたくさんいて、俺より優れた奴も、楽しい奴も、優しい奴も、たくさんいて。
 年を取れば取るほど、誰だって、世界にはたくさんの人がいることがわかってくる。
 
 そんななかで、俺みたいな奴と一緒にいてくれる奴なんて、よっぽどの変わり者だけだ。
 そんな変わり者がそばにいることを期待するほど、俺は無邪気じゃない。

「だから隠した」とこさちは言う。
 俺は分からないふりをする。

「本当にそうなんでしょうか?」とこさちは言う。
 その言葉がどこに掛かっているのか、俺には分からない。


774 : 以下、名... - 2016/02/28 20:59:29.15 YoF9tIJYo 597/1065


「隠されたものは、でも、なくならないんです。ずっと奥の方で、機会を待っている。
 堆積して、鬱積して、それが重ければ重いほど、強ければ強いほど、
 見えないところで、勝手に歩き始める。誰かがそれを、影と呼んでいました」

 そう言って彼女は笑う。

「でも、それもおしまいですね」

「なにが、おしまい?」

「聞こえませんか?」と彼女は言う。

 俺は耳を澄ます。

「もうすぐですよ」

「……なにが」

「ほら」

 ――扉が開く音。


775 : 以下、名... - 2016/02/28 21:00:15.06 YoF9tIJYo 598/1065




「タクミくん、ここにいたんですね」

 その声が聞こえたとき、俺の隣にこさちはいなかった。
 スクイの姿も消えていた。俺は給水塔のスペースではなく、屋上の中央に立っている。
 変わらない真昼の太陽が、なぜかさっきまでより肌に突き刺さる。

 俺は、
 振り返る。

 るーがそこに立っているのが、分かる。

 指先にも、唇にも、煙草の感触はない。でも、口の中に気持ち悪い味が残っている。

「……」
 
 抜けるような青空。
 日差しはもう、夏のものだ。
 蝉の鳴き声がどこかから聞こえる。

 俺は死んだような顔をしている。 
 きっと。

「タクミくん?」

 どこか、怯えたような顔を、るーはした。


776 : 以下、名... - 2016/02/28 21:00:42.28 YoF9tIJYo 599/1065


 足元に落ちた吸い殻のせいじゃない。
"目"のせいだ。

 俺はそれを知っている。

 鷹島スクイの目。

 彼の目が、他人にどういうふうに見えるのか、俺は知っている。
 だから、前髪で隠していた。見えないように、気付かれないように、嫌われないように。

"続き"なんて、失望させるだけだ。
 めでたしめでたしで物語が終わったのなら、その先なんて知ろうとするべきじゃない。

 るーは、いつもみたいに笑おうとして、失敗していた。ちょっと、驚いて、動揺していた。
 俺はその動揺が分かるのが嫌だった。

「来るなよ」

 と、そう言った。初めてかもしれない。

「それ以上、近付くな」

 るーは、そこで立ち止まった。
 俺は彼女に背を向けて、フェンスの方に近付いていく。

 見下ろす街には、ひとびとが暮らしている。
 何を考えて、何を思っているのかは、ここからじゃ分からない。


777 : 以下、名... - 2016/02/28 21:01:08.66 YoF9tIJYo 600/1065


 彼女のことが好きだ。

 会いたかった。会いたくなかった。話したいことがたくさんある。知られたくないこともたくさんある。

 本当のことなんて、隠したままで、本当の気持ちなんて、知られないままで。
 そのままぼんやり、へらへら笑ったって、本当は、それでもいいはずなんだ。

 でも、誰かの目に映っている自分と、自分で思う自分が乖離していって、まるで、
 騙しているような気分になる。

 俺が彼女に求めているものを、彼女はきっと俺には与えてくれない。
 彼女が俺に求めているものを、俺はきっと彼女に与えられない。

 るーは、立ち止まる。
 それでいいんだ。

 適当にごまかして、それらしい言い訳をして、今日みたいな日は隠しきればいい。
 いつか彼女も、俺のことを忘れる。

 それでいい。

 近付くのは怖いから、知られて軽蔑されるのは嫌だから、落胆されるのは嫌だから。
 

778 : 以下、名... - 2016/02/28 21:02:08.14 YoF9tIJYo 601/1065


 るー、俺は変な奴なんだよ。

 逃げて、怯えて、隠れてるくせに、それがバレるのが嫌だから、強がって、当たり散らして、見下してるふりをしてるんだ。
 ちっぽけな自分を知られるのが嫌だから、飾り立てて、ごまかして、底上げしたつもりになってる。

 どうしてみんな、笑いながら生きていられるのか、俺にはそれがよくわからないんだ。

 どうしてみんな、あんなふうにすいすい言葉が出てくるんだ?
 どうしてみんな、あんなふうに笑っていられるんだ?

 俺にはそれが、ひどく恐ろしいことのように思えるんだよ。
 真似事を、してきたけど、そこそこ楽しんでもきたけど。

 本当は、根っこの部分じゃ、分からないままなんだ。

 そんなことを知ったらおまえだって俺のことが嫌になるだろう。

 だから、どっかに行けよ。

 そう思った。


779 : 以下、名... - 2016/02/28 21:02:38.83 YoF9tIJYo 602/1065


「人に迷惑をかけちゃ駄目だよ」「ちゃんと言うことを聞きなさい」
「聞き分けがないと置いていくよ」「いいから我慢しなさい」「よくできたね」
「おまえには向いていないよ」「どうせ続かないだろう?」「いつもそうなんだから」
「人には向き不向きってものがあるのさ」「あの子とはあまり遊ばない方がいい」
「買ったってどうせすぐ飽きるだろう?」「いいから勉強しなさい」「おまえのことはちゃんと分かっているよ」
「そんなことをやってどうする?」「そんなことを言っていいと思っているのか?」
「そう言って続いたことが一度でもあったか?」「自分の意見というものがないのか?」「ちゃんと返事をしなさい」
「同い年くらいの子は、そんなことは当たり前にできるんだぞ」「その程度で満足するな。出来て当たり前なんだ」
「今度の連休は旅行にでも行くか。どこがいい?」「あれなら捨てておいたよ。どうせ使っていなかっただろう?」
「ああ、いたのか」「そんなに勝手なことばかり言うな。こっちだって仕事で疲れてるんだ」
「成績上位なんだって? 誇らしいよ」「何かしたいこととかないのか?」「つまらない奴だな」
「おまえが何も言わないから、いつも俺が決めてやっていたんじゃないか」「つまらないことばかり言ってないで、勉強しろ」
「それしか取り柄がないんだからな」「いったい誰に似たんだ?」「何か熱中できるものとか、ないのか?」
「おまえはいつもどこか冷めた感じだな」「ときどき心配になるよ」「頭が良いからなんだろうな」
「そんなことを言ったって仕方ないだろう?」「他にどうしようがあった?」「俺だってやりたくなかったさ」
「よし、母さんは出掛けてるし、ふたりで外食でもいくか」「俺は、あんまり好きじゃないな、これ」
「酒を飲むのは、おまえにはまだ早いさ」「あんまり悪いことはするなよ」「遊馬くん、だったか? 騒がしい子たちだったな」
「あんなふうにはなるなよ」「いいか、タクミ」
「人を裏切るようなことだけは、するな」


780 : 以下、名... - 2016/02/28 21:03:07.99 YoF9tIJYo 603/1065


 どうせ俺のことなんて、みんな嫌になる。
 楽しいことがわからない。自分がしたいことがわからない。
 何を望んでいるのか、何がしたかったのか、何が楽しいのか、分からない。

 子供の頃は、分かっていたのか? 
 それさえ分からない。

 隠していたもの、見ないふりをしていたものが、頭の奥から噴き出してくる。
 わけもわからずに、叫びだしたくなる。

 よだかのことだって、全部、俺は本当はどうでもよかったのかもしれない。

 父を得られず、母を亡くしたあいつが不幸なら、
 父と母が生きている俺は幸福なのか?

 誰か俺に教えてほしい。みんなどうして生きていくんだ?
 何が支えになってるんだ? 何を拠り所にしてるんだ? 

 俺にはまったくわからないんだ。

 俺なんて、誰にとっても換えのきくどうでもいい存在で。
 いなくなってもかまわないがらんどうで。
 タチの悪いだけのまがいものだ。自分ってものが、まったくどこにもないんだ。

「本当にそうなんでしょうか?」と、こさちは言った。
 
 背中が、
 掴まれた。


781 : 以下、名... - 2016/02/28 21:03:33.83 YoF9tIJYo 604/1065


「……俺は、来るなって」

 そう言った、と、言おうとしたけど、心臓がうまく動いている感じがしなくて、続く言葉が出なかった。

「……はい」

 と、すぐうしろから声が聞こえた。

「逆らっちゃいました」

 あんまり、あっけなく言うものだから、言葉を返すつもりにはなれなかった。

「煙草くさいです、タクミくん」

「……うん」

「何か、あったんですか?」

「何もないよ。何もない」

「……」

 俺のことなんて、気にするなよって。
 気にかけてもらえるような人間じゃないんだって。
 
 そう言いたかったけど、そんなことを言ったら逆効果だろうから、言わなかった。


782 : 以下、名... - 2016/02/28 21:04:36.03 YoF9tIJYo 605/1065


「……そうですか」

 と、るーはそれきり、黙りこんでしまった。
 こんなことばかりだ。

 本当に不思議なんだ。
 愛想を尽かされてもいい頃なんだ。
 
 なんでいなくならないんだ?

 予鈴が鳴ったのが聞こえた。

 背中に、トン、と何かが当てられる。

 首だけで振り返ると、るーが、俺の背中に額を押し付けていた。

「じゃあ、わたしも、なんでもないです」

「……」

「……話してくれても、いいです」

「……」

「話してくれなくても、べつにいいです。笑ってなくても、いいです」

 この子は、どうして、
 俺のことを嫌がらないんだろう。


783 : 以下、名... - 2016/02/28 21:06:02.96 YoF9tIJYo 606/1065


「不思議ですか?」

「……うん」

「教えてあげません。きっと、信じないだろうから」

「……信じないって」

「うん。今のタクミくんは、きっと、信じてくれないだろうから」

 だから言いません、と彼女は言う。

「いつか、そのときが来たら、全部話します」

「……」

「今は、そんなの、いいですから。もうすぐテストで、終わったら夏休みで、夏休み明けには文化祭で」

「……」

「楽しいこと、たくさん、するんですよね?」

 本当に、そうできたら、どれだけいいだろう。
 
 鷹島スクイは、俺だ。
 俺のなかに住んでいる。さっきまで、分からなかった。追い出して、吐き捨てたものが、人の形になって歩き回っていた。
 あれは俺だ。俺のなかの泥濘だ。

 その処置に、俺は迷う。

 この高校を卒業するとなったとき、俺はどこに行けばいいんだろう。
 誰が、俺と居てくれるんだろう。

 そんなことばかりを、俺は考えてしまう。
 

784 : 以下、名... - 2016/02/28 21:06:45.61 YoF9tIJYo 607/1065


「タクミくんの、ばか」

 考えごとの最中に、そんな声が聞こえて、

「ばか」

 聞こえて、

「ばーか」

 くすぐるような甘い声が、
 考えごとをやめさせた。

「なんだよ急に」って振り返ったら、るーは「してやったり」って顔で、へへっと笑った。

 猫みたいだと思った。
 
 嘉山のこと。スクイのこと。こさちのこと。嵯峨野連理のこと。
 あまりに未整理で、混沌としている。
 
 よくわからないことの連続。

 どうするべきかは、今は分からない。
 よくわからないことだらけだ。

 それを俺は、どうするべきなんだろう。
 
「……たばこくさい、です」

 るーが、そう呟く。
 そうなんだろうな、と俺は思う。

792 : 以下、名... - 2016/03/02 00:47:18.07 UrspAWm1o 608/1065




「あ、そうだ。タクミくんに話があって探してたんですよ、わたし」

 と、さっきまで俺の背中に額を当ててたことなんてなかったみたいな当たり前の顔で、るーは口を開く。
 予鈴がとっくに鳴り響いたあとの廊下を、俺たちはゆっくりと歩いていた。

「話?」

「すず姉に、タクミくんがバンドやるかもって話をしたんです」

「するなよ」

 しねえぞ。

「そしたらすず姉乗り気で、『なんならベース教えるよ』って」

「……はあ」

「ということを話すためにタクミくんを探して教室に向かったところ、ゴロー先輩がいたので先にそっちに話したんです」

 余計なことを。

「と、ゴロー先輩、ノリノリでして」

「だろうね」

 俺は溜め息をついた。
 タチが悪いのは、すず姉やゴローだけじゃなくて、るーもけっこう乗り気だってことだろう。
 じゃなきゃ、そんな話をすず姉にしたりしない。


793 : 以下、名... - 2016/03/02 00:47:48.66 UrspAWm1o 609/1065


「まずかったですか?」

「まずいとは言わないけれど」

 うまいとも言えないのが困ったところだ。

「嫌ですか?」

「嫌ってわけじゃ……」

「……」

「……まあ、正直」

「どうして?」

「文化祭は夏休み明けすぐで、俺は初心者、ゴローもほぼ初心者、ドラムはいない」

「はあ」

「無理があるだろう」

「そうですかね?」

 そうだろ。


794 : 以下、名... - 2016/03/02 00:48:53.91 UrspAWm1o 610/1065


 階段を降りていくるーについていきながら、俺は話を続ける。

「恥をかくか、真面目にバンドやろうとしてる奴に水を差すだけだよ」

「恥をかくか水を差すかって、語呂いいですね」

「聞けよ」

「タクミくんの言いたいことも分かりますけど……」

 と、るーは俺の顔を見上げながら不満気に続ける。

「試しにちょちょっと触ってみて、悪乗りだけでバンドやったって、別に怒られはしないと思いますよ」

「どうかな。ステージ発表を募集してるっていっても、やりたがる奴の中から選考されるんだろ」

「発表に堪えないレベルならふるい落とされるんですから、なおのことやってみてもいいんじゃないですか?」

「……」

「タクミくんは口を開くとやらない言い訳ばっかりですねー」

 るーは拗ねたみたいに、おどけたみたいに、からかうみたいにそう言った。
 まあ、図星だ。


795 : 以下、名... - 2016/03/02 00:49:48.99 UrspAWm1o 611/1065


 るーは階段を降りていく。

「とにかく、すず姉が乗り気だったんです。それで、よかったら今日うちに連れて来てって」

「今日?」

「すず姉、暇してるみたいなので。ゴロー先輩も来たいって言ってました」

「あいつ、調子がいいときはフットワーク軽いよな。でも、俺ベースとギターの違いも弦の数くらいしか知らないし」

「タクミくんは乙女心がわからないひとですね」

 となぜか乙女心を説かれる。

「なんのかんの理由をつけて、すず姉はタクミくんに会いたいんですよ。タクミくんが懐かしいんです」

「……や。なことないと思うけど」

「そうなんです!」

「……ホントにすず姉?」

「なにがですか?」

「なんのかんの理由つけて俺を呼ぼうとしてるの、るーじゃないの?」

「……ど、どーしてそう思うんです?」


796 : 以下、名... - 2016/03/02 00:50:28.21 UrspAWm1o 612/1065


「るー、おまえ、すず姉が会いたがってるとかどうとか言って……」

「……」

「俺にバンドやらせたいだけだろ」

「……はい?」

「違うの?」

「……あ、はい。それでいいです」

 微妙な反応だ。

「……まあとにかく、タクミくんに乙女心は分からないということで」

「さっぱり納得のいかない結論だな」

「まあまあ、いいじゃないですか。ちょろっと触ってみるだけでも。すず姉のベースすごいですよ。アンプとかすっごいでっかいですよ」

「言われてもすごさが分からんしな」

「ちなみにアンプとベースを繋ぐ線のことをシールドと呼ぶそうです。コードと言ったらまぎらわしいらしいです」

「ああ、和音をそう呼ぶからだろ?」

「……なんでそんなこと知ってるんです?」

「前に本で」

「タクミくんのそういうところ、ときどきすごいと思いますよ」

 とるーは呆れ口調で笑う。


797 : 以下、名... - 2016/03/02 00:51:01.65 UrspAWm1o 613/1065


「……ところで、俺たちはどこに向かってるの?」

「はい?」

「教室、過ぎてるよな」

「え? 体調を崩したわたしのために保健室まで付き添ってくれたから、タクミくんは午後の授業に遅刻したんですよね?」

「……いや、なんだそれ」

「ごほっ、ごほっ」

 わざとらしい咳をし始めた。

「あー、体調悪いなー、誰かが保健室まで付き添ってくれないかな―」

 猿芝居だ。

「……サボるなよ」

「サボりじゃないですよ。ちょっと熱っぽいんです。ホントですよ。無理をしてテスト本番に影響しても困るんです」

 戦略的撤退です、とるーは真顔で言った。
 俺はためしにるーの額に手のひらを当ててみる。


798 : 以下、名... - 2016/03/02 00:51:28.76 UrspAWm1o 614/1065


「……熱はなさそうだけど」

「……た、タクミくんの手が熱いのでは?」

「否定はできないけど」

 るーは、バレバレの嘘を叱られると思ったのか、俺と目が合わないように視線を泳がせている。
 ちょっと緊張した素振りが、なんとなく新鮮だ。

「……まあ、本人が体調悪いって言ってんだから仕方ないよな」

 それに、遅刻の理由は俺だ。たぶん。そう言っていいのか、いまいちわからないけど。
 なんだか、俺のせいで遅刻したって思うのは、内心だけでも、なんとなく傲慢な気がする。
 
 思い上がっているという気がする。

「と、とにかく!」

 と、るーは頭を揺すって俺の手を振り払って、怒ったみたいに顔をそむけた。気安く触れられたのが気に入らなかったのかもしれない。

「保健室! です!」

「……あ、うん」

 まったくもう、とどこか困った調子でつぶやきながら、るーは俺の少し前を歩く。
 こんなに元気な病人がいるもんか。俺は少し溜め息をついて、それから内心で感謝した。
 言葉にしたら無碍にしてしまう気がして、言わなかった。

「俺もさ」

 声を掛けると、「なんですか?」とるーが振り返る。
 
「るーのそういうところ、すごいと思うよ。ホントに」

 彼女は一瞬、怯んだように口を「むっ」と結んでから、慌てたみたいに前に向き直る。
 
「なんですか、そういうところって!」と不満気に呟く彼女の困った声がおもしろくて、俺は少しだけ笑ってしまった。


802 : 以下、名... - 2016/03/04 23:09:47.43 iGqfryU8o 615/1065




 るーの証言と俺の証言に食い違いを生むわけにはいかなかったから、俺は「体調を崩した後輩に付き添って保健室に行った」と報告した。疑われなかった。
 自分の身体がなんとなくタバコ臭いような気がして気になったけど、周囲は特に反応しなかった。

 俺は自分の制服の内ポケットに触れてみる。そこにはたしかに何かがある。四角い箱と丸みを帯びた楕円柱。煙草とライターだ。確かめなくても分かる。
 テスト前の授業なんて出題範囲についての解説だ。聞いておくに越したことはないけど、まあ今はいいだろう。

 ちょっと考えてみよう。

 俺は記憶を手繰る。嘉山孝之と遭遇した昼休みのこと。そこで俺は鷹島スクイを見た。小鳥遊こさちに会った。
 大丈夫、そこまでは覚えている。記憶がまがい物でないなら。

 鷹島スクイは部誌を燃やしたという。嘉山孝之は俺が鷹島スクイだという。俺の制服には覚えのない煙草が入っている。
 小鳥遊こさちは?
 彼女は何かを言っていた。何かを俺に見せた。……そうだ、写真だ。俺が定期テストを受けている場面、煙草を買っている場面。
 
 燃やした覚えはあるか? ――ない。
 定期テストを受けた覚えは? ――ない。
 煙草を買った覚え。 ――ない。

 にもかかわらず、俺はそれを行っている。

 ……いや。
 でもそれはあくまで、こさちや嘉山の言ったことだ。

 こさちの写真だって、どこまで信用できるかわからない。
 そもそも彼女自体、不自然なところしかないのだ。

 スクイが俺であるという証明は、されていない。 
 しいて言えば、この煙草だけ……。


803 : 以下、名... - 2016/03/04 23:10:13.89 iGqfryU8o 616/1065


 でも、そもそも、どうして俺はこれまでこの煙草の存在に気付かなかった?
 誰かが制服に勝手に入れていた? 着替えか何かのタイミングがあれば不可能じゃない。

 それでも再び着替えた段階で気付かないのは、ありえないとは言わないが簡単ではない。

 こさちの写真は加工、煙草はスクイが勝手に入れた、こさちと嘉山とスクイは三人で俺をはめようとしている。
 ……通らない筋じゃないが、大掛かり過ぎる。

『鷹島スクイとは、誰か?』

 煙草、画像、名前。物的証拠も情況証拠も揃っている。
 嘉山の言うことを信じるなら、俺だ、と考えるのが、他人から見れば正解だろう。

 問題は……。

 鷹島スクイが俺だとして、『鷹島スクイがとったとされる行動』のほとんどすべての記憶が、俺には存在しない、という部分だ。

 ……解離性同一性障害。
 多重人格?

 まさか。

 そんな症状を起こすような心当たりなんてない。

 ……ない。


804 : 以下、名... - 2016/03/04 23:10:46.61 iGqfryU8o 617/1065


 ない、が……。
 
 離人感、記憶の虫食い……。

 そもそも、「心当たりがない」というのは、こういう場合はあんまり参考にはならないか。

「……」

 でも、どうして煙草に気付かなかったんだ?
 気付かないふり、知らないふり、『認識』……。

 気付いたとしても意識から追いやられていた。これもまあ、ない話じゃなさそうだ。

「……」

 ――良い子だからだよ。
 ――おまえは自分の声を聞き流しすぎたのさ。
 
 ……さすがに、ないと思うんだけど。

 手持ちの知識だけだと、心当たりがある部分が多すぎる。


805 : 以下、名... - 2016/03/04 23:11:12.08 iGqfryU8o 618/1065


 ……いや。

 情況証拠だけ見れば、たしかに疑わしいかもしれないが、俺は鷹島スクイと顔を合わせて、対話したことがある。
 あいつはたしかに存在する人間、のはずだ。

 ……でも、どうだろう?

 俺は、俺以外の前にスクイが姿を現すところを見たことがあっただろうか。
 誰かが来た途端姿を消したり、していなかっただろうか。

 かといって、あんなふうに他の人格をはっきりと人間のように感じられたりするものなのか?

 それに関しては……まあ、なってみないと分からなそうだけど。

 通常は、存在に気付かないものではなかっただろうか。

 とはいえ、まあ、似たような存在なら聞いたことはある。
 イマジナリーフレンド……。

 こさちは、そういえばなんて言っていた?
 
“影”と、そう言っていた。

 思いつくのは、ユングの元型。

 でも、それを言ったのはこさちだ。

 こさちは、何なんだ?

 ……アニマ?
 でも、元型論ってそもそも夢の話だったような……。

 ……駄目だな。
 妙な知識ばっかり集めたせいで、変な方向にばっかり頭が冴える。

 今俺が考えなくちゃいけないのは、俺の身体に別の人格がいて、そいつが俺の身体を勝手に動かしてるなんていうのは、“気持ち悪いし考えにくい”ってことだ。
 スクイとこさちが協力して俺を担ごうとしてるだけかもしれない。
 
 嘉山が俺をスクイと呼んだあとの記憶は、俺にはない。
 そのあいだに、俺の知らない何かがあって、こさちは俺をからかっただけなのかもしれない。

 いずれにしても……気になることは気になるけど……気にしても仕方ない。

 俺が今考えなきゃいけないのは目前のテストのこと。
 それから……なんだっけ?


806 : 以下、名... - 2016/03/04 23:11:48.47 iGqfryU8o 619/1065




「そういうわけで、わたしの家に行きましょう」

 と、放課後になると同時にるーとゴローが俺の教室にやってきた。

「テスト期間だけど」

「ご心配なく。わたしは勉強しますから」

「いやそうではなくてね」

「タクミ、おまえ冷静になれよ」

「……何がだ」

 呆れ風味の溜め息をついて、ゴローはやれやれと肩をすくめた。こいつの妙に芝居がかった仕草を誰かにどうにかしてほしい。

「文化祭まで、夏休みがあるっていってもそう期間はないんだぜ。事態は一刻一秒を争うんだ」

「誰もやるって言ってねえよ」

「ま、ま。とりあえずすず姉に会うと思って」

「……それに関しては、異論はないんだけどな」

 うまいこと丸め込まれる自分が目に見えるようで、なんとなく嫌だ。


807 : 以下、名... - 2016/03/04 23:12:16.14 iGqfryU8o 620/1065


 なんてことを話しているうちに、廊下から軽い足音が聞こえてきて、教室の入り口ががたっと揺れた。

「たっくん! ゴロちゃんから招集メッセージだよ! たぶん例のアレだよ! 早く逃げよ!」

 高森だった。こっちを見た瞬間、「うっ」となってる。
 自分に届いたメッセージの内容を見れば、俺にも届くって分かりそうなものだ。 
 わざわざ教えに来ずに素直に逃げればいいものを。

「飛んで火に入る夏の虫だな」

「ゴロー、おまえ火でいいのか」

「誰が虫か!」

「……テスト期間なのに、先輩がたはみんなげんきですね」

 るーの呆れた溜め息が、なんとなく納得いかなかった。


810 : 以下、名... - 2016/03/08 00:09:11.13 In4DJ8ILo 621/1065




「それじゃ、わたしの家に行きましょう!」

 と、そんなわけで、ノリノリとるーとゴローに連行されて、俺と高森は彼女の家へと向かうことになった。
 さすがに俺だってテスト前ともなれば勉強がしたかったけど(内容どうこうではなく、静奈姉が心配するから)、そこはそれ、でもある。

 俺だって勉強なんかするよりみんなと遊んでいる方が楽しい。
(そうなんだよな)

 相変わらずの懐かしい道は、それでもどこか遠い感じがした。
 いつもよりどこか。視界に膜が張ったみたいに。

 それが何のせいなのか、誰のせいなのか、俺にはよく分からない。 
 きっと俺自身のせいだ。

「バンドやるのはいいけどさ」と高森が言う。いいのか。

「ドラムはどうするの?」

「心当たりは一応あるんだ」

 ゴローはそう答えながら、ポケットからブラックガムを一枚出して噛み始めた。

「いる?」

「いらない」

「わたしもいらないよ」

 高森の言葉に、「おまえには最初からやらん」とゴローは拒否の姿勢を示す。

「うん、いらない」と高森ははっきりと頷く。


811 : 以下、名... - 2016/03/08 00:09:43.95 In4DJ8ILo 622/1065


「いい天気ですね」って、ぐーんと伸びをしながらるーが言う。
 彼女は楽しげに、ステップでも踏むみたいに路上を歩いていく。

 どうしてだろう?

 見惚れる。
 それはたぶん、似たような景色を見たことがあるからだ。

 目が離せない。

 俺が見ていることに気付いて振り向くと、るーはちょっと恥ずかしそうにむっとした顔をつくって、なんですか、と呟く。

 なんでもないよ、と俺は目をそらす。

 いつもそうだ。俺は大事なことから目を逸らしている。
 自分でも分かってる。
 
 本当に俺がすべきなのはきっと、

 ――にゃー。

 と、猫の声がした。

「……」

 振り返ると、一匹の白い猫が向こうの角で立ち止まっている。


812 : 以下、名... - 2016/03/08 00:10:11.10 In4DJ8ILo 623/1065


「タクミくん、どうしたんですか?」

「猫だ」

「どこですか?」

 るーが俺の視線の先を追う。

「もういっちゃいました?」

「……ああ」

 猫はもういなかった。

「ざんねん」とるーは言う。

「いたら、どうするつもりだったの?」

「べつに、どうもしませんよ。好きなんです。猫」

「そう」

「タクミくんは、犬派ですか? 猫派ですか?」

「……どうかな」

「俺は断然猫派だ」

 とゴローが言う。

「なにせ飼ってるからな」

「……」

 猫。猫。猫のことばかり考えてしまう。忘れるなって言ってるみたいだ。
 

813 : 以下、名... - 2016/03/08 00:10:38.05 In4DJ8ILo 624/1065


 俺はそんなことを考えるのをやめてしまうべきなんだろうか。
 ただ楽しそうに笑っていれば、それを幸福と呼べば、それだけでいいんだろうか。

 ふと、思い出して、俺は携帯を開く。
 
 よだかから、連絡はない。

 俺は彼女に電話を掛けてみる。

 数コール待つと、彼女は出た。

「なに?」

 俺は、自分がどうしてよだかに連絡しようと思ったのか、それがわからなかった。

「いまから、るーの家に行くんだ」

「そうなの?」

「うん。……来るか?」

「でも、今日帰るし、わたしが行っても仕方ないでしょ?」

「うん。俺もそう思う」

「それに、他の人たちもいるんでしょう?」

「うん。そうだよな」

「……どうしたの、たくみ?」

「分からない」

「……わからないって」

「ずっとそのことを考えてたんだ」

 よだかは電話の向こうで押し黙る。


814 : 以下、名... - 2016/03/08 00:11:08.61 In4DJ8ILo 625/1065


「……行かない」

 とよだかは言う。

「ね、たくみ。わたしのことは、もう気にしなくて大丈夫だよ」

「……」

「……ありがとう。助かった」

「よだか、俺は」

「たくみがいてくれて助かった。たくみには感謝してる。たくみのことが好きだよ。
 でも、ごめんね。たくみ、わたし、“かわいそうな子”の役は、いやだよ」

「――」

「わたしはもう、わたしをかわいそうとは思わない。たくみが、そう思わせてくれたんだよ。
 だからもう、たくみもそれをやめていいんだよ」

 電話が切れて、
 俺は七月の路上に放り出される自分を見つける。

 見限られた、と思った。

 音が遠くなる。
 血の気が引くのを、本当に感じた。

 何かがさっと切り替わって、意識が急に身体を取り戻す。

 心臓がバクバクと動くのが分かる。

 よだかの言葉は、俺の何かを言い当てた。
 たぶん、俺のいちばん醜い部分を、彼女は言い当てた。


815 : 以下、名... - 2016/03/08 00:11:36.41 In4DJ8ILo 626/1065


「……タクミくん?」

 るーが、立ち止まったままの俺を振り返る。

 気付かれてしまった。
 慌てて電話をかけ直しても、よだかは出てくれない。

 動悸にとらわれて、頭がうまく働かない。
 どうしてそうなったのかすら分からない。

“かわいそうな子”。

“かわいそうな子”としての、よだか。

 俺はそれを、

「――なあタクミ、おまえ、ベースだよ」

「……え?」

 見ると、前方で立ち止まっていたゴローが、こっちを見ていた。

「おまえはベースで、俺がギターで、高森がボーカルだよ」

「……いや、だからそれは」

 何かを言おうとして、何を言おうとしたのか忘れてしまった。

「もうさ、面倒なのはやめにしようぜ。おまえが何かに囚われてることなんてみんな分かってる。
 藤宮だって、高森だって、佐伯だって、たぶん部長だって、みんなみんな気付いてる。おまえ、ちょっと変だから」

「……変、って」


816 : 以下、名... - 2016/03/08 00:12:30.79 In4DJ8ILo 627/1065


「だからさ、おまえベースやれよ」

「……話の繋がりが」
 
 まったくわかんねえよ、と、言ったら声が震えていて、自分でもびっくりした。

「忘れろとか、今を楽しめとか、そういう都合のいいだけのことなんて言わねえよ。
 だから、言いたいことがあるなら、思いっきりベースを鳴らせよ」

「……」

「誰にも、おまえの気持ちなんてわかんねえよ。だから口ごもるのも言いかけてやめるのも、終わりにしろよ。
 抱えてるものを忘れることも捨てることもできないなら、抱えたまんまで騒いで踊ろうぜ」

「……」

「それが、ロックンロール、なんだぜ?」

 ゴローはくいっと眼鏡の位置を直す。

 俺は、こらえようとしたけど、

「……意味がわかんねえよ!」

 気付いたら怒鳴り声をあげていた。


817 : 以下、名... - 2016/03/08 00:12:57.40 In4DJ8ILo 628/1065


「意味がわかんねえ! なんで俺がそんなことしなきゃいけねえんだよ! 誰もそんなこと頼んでねえ!」

「たっくん、」

 高森が何かを言いかけたのがわかってるのに、

「知るかよそんなの! けっきょくおまえの都合じゃねえかよ! ベースなんて他に探せよ!」

 言葉がとまらなくて、

「わけわかんねえんだよ全部! 意味がわかんねえ! なんでこんなことになったんだ?」

 俺のせいじゃない……。
 俺のせいじゃない!

 そう思い切り怒鳴ったとき、るーの、心配なのか不安なのか、よくわからない悲しげな表情が見えて、
 余計に抑えがきかなくなった。

「わけがわかんねえんだよ! なんでこうなんだよ! 何がどうなってこうなったんだよ!
 嫌なんだよ全部! どうしてみんな楽しそうなんだよ! なんでみんな、平気そうなんだよ!」

“かわいそうな子”が、
 どこかで悲しんでいるのに、
 どうして平気で笑っていられるんだ、と。

 そう思ったときに、気付いてしまった。
 俺はどこかで、“かわいそうな子”としてのよだかを、必要としていた。

 憐れむために。
 その子のために何かをするために。
 死んでしまった猫を必要としていた。


818 : 以下、名... - 2016/03/08 00:13:24.76 In4DJ8ILo 629/1065



「“それ”だよ」とゴローは言った。

「おまえに足りねえのはそれだよタクミ。いいあぐねて口ごもって言葉に詰まって言いたいことを言わない。
 どうせ分かってもらえねえって思ってるんだろ? その通りだよ。拗ねた子供かよおまえは。
 おまえの考えてることなんて、口酸っぱく説明されたって誰にもわかりゃしねえんだよ」
 
 拗ねた子供、と、
 俺はそれを否定できなかった。

「おまえのせいじゃねえよ」とゴローは続けた。
 俺は何かを言いたくなったけど、途中でやめてしまった。

「おまえのせいでもないし、他の誰かのせいでもない。世の中の大半のことなんてだいたいそうだ。
 責任なんて言葉は、本当はどこにもふさわしい場所なんてねえんだよ。
 生まれる前に、“こんなふうになりますけど、いいですか?”って誰かに訊かれて、“いいですよ”って答えたわけでもない。
 自分が自分であることは、今がこんなふうであることは、基本的に不条理と理不尽でできてるんだよ。誰のせいにもできない」

 だから、とゴローは言った。

「文句をつけろよ」

「……なんだ、それ」

「どうせ分かってもらえない。誰のせいでもない。みんな平気な顔で、それでも受け入れて生きてる。
 消化するのがうまいんだよ、みんな。でも、おまえはそうじゃないんだろ?」

「……」



819 : 以下、名... - 2016/03/08 00:13:54.26 In4DJ8ILo 630/1065


「だったら騒げよ」

 俺は納得がいかないんだって、俺のせいでもないし、誰のせいでもないけど、黙って受け入れるのは嫌だって、騒げよ。
 ゴローはそう言った。

「重ねて言うが……それがロックンロール、なんだぜ?」

 さっき直したばかりの眼鏡の位置を、ゴローはまた直した。
 俺は急に恥ずかしくなって、俯いた。

「……ごめん」

「そうさ。あんまり騒ぐなよタクミ。赤ん坊が昼寝をしてるかもしれないんだぜ」

「……」

 そのとおりだな、と一瞬うなずきかけて、

「いや、おまえ今騒げって言ったじゃねえか」

 思わずツッコミを入れると、ゴローは平気そうにからから笑って、

「比喩だよ、比喩」

 と言った。


820 : 以下、名... - 2016/03/08 00:14:23.19 In4DJ8ILo 631/1065




 触れたこともないベースにちょっと触る気になったのは、たぶんゴローの言葉のおかげなんだと思う。
 よだかのこと、嘉山のこと、死んでしまった猫のこと。
 
“それはもういいのだ”と、俺は言いたくなかった。

“そんなことよりも”とか、“考えても仕方ないから”とか、思いたくなかった。

 ゴローも、よだかも、まるで見えてるみたいに、簡単そうに俺の心のありようを言い当てる。
 それが少し恥ずかしい。

 でも、そんなことこそ、それこそ、仕方ないことだ。

 るーの家は以前みた通りの大きな建物だった。

「どうぞ」と通されてリビングらしき部屋に入ると、すず姉が麦茶を飲んでいた。

「来たね」

 ソファにもたれて足を組んだまま、グラスの中の氷をくるくる揺らしながら、すず姉は麦茶を飲んでいた。

「バンドやるんだって?」

「……どうも」

 とりあえず頭をさげると、すず姉はちょっとさびしそうに微笑んだ。


821 : 以下、名... - 2016/03/08 00:15:00.81 In4DJ8ILo 632/1065


「そうなんです」とゴローは言った。

「文化祭でやるの?」

「はい」

「へえ。何やるの?」

「考えてません!」

「……文化祭、いつだっけ?」

「九月ですかね」

「……あ、みんな楽器そこそこできるとか?」

「素人です」

「……」

 すず姉はちょっと戸惑ったみたいだった。

「……え、ホントに?」

「はい」

「……きみたちは、あほか」

 と、すず姉の呆れたような笑いをあえて無視するみたいに、

「どうせならオリジナル曲とかやりたいっすね!」

 とゴローは強気だった。
 そこで奥の扉が開いた。


822 : 以下、名... - 2016/03/08 00:15:49.48 In4DJ8ILo 633/1065


 美人が奥から出てきた。

 すらっとした身体が薄手のシャツとスウェットで包まれている。 
 眠たげにあくびをしてから、台所へ向かって、水道の水をグラスに汲んでから一気に飲み干した。

 長い睫毛、細い指先。線の細い印象があるのに、張り詰めたような強い存在感がある。

「ちい姉、お客さん」

 とすず姉は言った。

 ああ、ちい姉だ、と俺は思う。

「……ん」

 と頷いて、彼女は俺たちを見た。

「ちい姉、寝てたの? ていうか、いたの?」

「うん」

 見た目とはあんまりそぐわない、眠たげで甘ったるい声が、ゆったりとした話口調が、なんとなく意外に思える。
 あの頃、遊馬兄や静奈姉と話していたときは、もっと緊張感のある話し方だった気がする。どこか切羽詰まったみたいな。

 家族に見せる顔は、また別だということだろうか。
 それとも、彼女も変わったのか。


823 : 以下、名... - 2016/03/08 00:16:28.82 In4DJ8ILo 634/1065


「今日、デートって言ってなかった?」

「明日。今日は午後までバイトなんだって。そのあと、市内のコンビニめぐってディズニーの一番くじ見てくるって言ってた」

「……なんで?」

「ティーポッドがほしいんだって」

「……なんでまた」

「いま、ほしいものランク一位なんだって、ティーポッド。B賞」

「あいかわらず先輩は意味わかんないなあ……」

「美咲ちゃんがほしがってたみたい」

「あいかわらず先輩はシスコンだなあ……」

「ほら、もうちょっとで誕生日だから」

「なるほど」


824 : 以下、名... - 2016/03/08 00:16:56.81 In4DJ8ILo 635/1065


 ちい姉のことは、なぜだろう、よく覚えていない。
 あんまり話さない人だった、という印象がある。
 
 口数が少なくて、表情もあんまり動かなくて、正直、少し怖かったような気がする。
 帰る頃には、多少話すようになって、細やかな気遣いとか、気づきにくい優しさとか、そういうものが分かるようにはなったけど。

 そんなに話をしなかったから、どんな人なのか、今でも分からない。
 つかめない。

「ね、ちい姉。気付かない?」

「ん」

 何が、という顔で、あたりをちい姉は見渡す。
 俺達がいると分かったあとも、ずいぶん自然体だ。

「いらっしゃい」、と、落ち着いた声で俺とゴローの顔を見たあと、こっちに再び視線を寄せて、

「あ」

 と声をあげた。


825 : 以下、名... - 2016/03/08 00:17:23.84 In4DJ8ILo 636/1065


「……タクミ、くん?」

「……あ。おひさしぶりです」

 声を掛けると、ちい姉は急に顔を赤くして、ばたばたと扉を出て行った。

「着替えてくる!」

「いってらっしゃい」

 すず姉がくすくす笑う。

「……なんで急に」

 戸惑いながらつぶやくと、すず姉が説明してくれた。

「知ってる人だと思ったら、気の抜けた格好が恥ずかしくなったんじゃない?」

「……そういうもんですか?」

「わかんない。ちい姉、ちょっと特殊だから」

 るーの方を見ると、彼女は困ったみたいに、呆れたみたいに笑った。
 そんな顔を、あの頃のるーは、ちい姉にはしなかった。
 いつもちい姉に気を使ってるみたいに見えた。

「それにしても」、とるーは言った。

「ちい姉、タクミくんのこと、すぐにわかっちゃいましたね」

「……」

 俺も、それがいちばん意外だった。
 すず姉だって名前を言うまで気づかなかったし、るーに至っては何日も経ったあとにようやく確認したのに。

「そういう人だからね」

 というすず姉の言葉に、るーはちょっと複雑そうな顔をしていた。


831 : 以下、名... - 2016/03/11 23:27:47.89 pZZx+2x0o 637/1065




「さて、じゃあとりあえず特訓しよっか」

 と、すず姉は立ち上がった。

「特訓?」

「ベースの」

「……いや、すず姉、あの」

「なに?」

「俺、やるなんて一言も……」

「ここまで来てガタガタ言わない! 男の子でしょ! 楽器のひとつくらい弾けなくてどうする!」

 こんな強引な人だっただろうか。

「……ていうか、さっきの会話に気になるところがあったんだけど」

「そっちのふたりも来て。ギターもちょっとなら教えられるから」

「了解っす。お願いします」

 俺と高森は目を合わせて「どうしよう」という顔をしあった。

「るー、飲み物」

「どこでやるんですか?」

「離れ」


832 : 以下、名... - 2016/03/11 23:28:20.05 pZZx+2x0o 638/1065


 そんなわけですず姉はちい姉が戻ってくるよりも先にパタパタと歩き始めた。
 宣言通り離れ座敷に連れ込まれた俺達は、その部屋の様子にまず唖然とした。

「うわ、なんすかこれ」

「アンプ」

「このちっこいのは……」

「エフェクター」

「この機械は?」

「マルチエフェクター」

「こっちは」

「そっちはギター用のアンプ」

「このちっこいのは」

「それもアンプ」

「これは……ギターですか?」

「ベース」

「こっちは」

「弦四本がベース、弦六本がギター。ベースの方が一回り大きい」

「おお……」

 ゴローとすず姉の会話を横目に、俺と高森は黙りこむ。
 テスト期間なんだけど、とか、よだかが帰るところなんだけど、とか。
 そういうことを考えていた。


833 : 以下、名... - 2016/03/11 23:29:00.01 pZZx+2x0o 639/1065



 部屋にあふれる機材、キーボードにパソコン、ところどころに熊のぬいぐるみが置かれていた。

「タクミ」

「はい」

「とりあえずベース教えるけど……」

 と、彼女は二本並べられたエレキベースのうちの一本をスタンドから持ち上げた。

「はい、これ」

 俺はひとまずそれを受け取る。片手で受け取ると、ずしりと重い。

「ぶつけないように気をつけてね。まあ、安い奴だからいいけどさ」

 それでも平気で万を超えるのだろう。

「とりあえずストラップついてるから、首にかけて」

「ストラップ?」

「それ」

 言われた通り、俺は楽器につけられているベルトみたいなものを首から下げてみた。
 やっぱり重い。

「ちょっと長いかな。立って演奏するんだろうし、最初から立って弾く練習した方いいね」

「はあ」

「これピック」

 と、小さなツメみたいなものを渡される。

「好みはあるけど……まあスタンダードに。指弾きって手もあるけど、うーん……まあ、やってみてかな」

 すげえ。何言ってるのかわかんねえ。


834 : 以下、名... - 2016/03/11 23:29:26.19 pZZx+2x0o 640/1065


「ひとまずピックで弦弾いてみて」

「弾くって……」

「手首ではじくイメージ」

 言われた通り、俺は弦を弾いてみる。……鳴らない。
 何度かためしてみると、ボーンという低い音が響くのが分かった。

「意外と音小さいね」

「そのままだとね」

 と言って、すず姉は機器同士をつなぐコードみたいなものを引っ張り出してきた。

「これシールド。で、とりあえずアンプにつなぐね」

「はあ」

 彼女は言葉の通り、俺からぶら下がったベースの下方の穴にシールドの端子を差し込んだ。
 そのもう一方を、さっきアンプと呼んでいたスピーカーみたいなものに繋いでいく。

「電源入れるよ」

 と、言うと同時、アンプの電源を示す赤色の光が灯った。

「鳴らしてみて」

「……」
 
 さっきと変わらない。

「だよね。ちょっといじるよ」

 彼女は楽器についているツマミのひとつをひねった。
 それからアンプも同様に。

「鳴らしてみて」

 俺はピックで弦を弾いた。


835 : 以下、名... - 2016/03/11 23:29:52.13 pZZx+2x0o 641/1065


 低い音が響く。

「……おお?」

「たっくん、うるさい」

「俺のせいじゃない……」

「ま、ベースもギターも、こういうふうにアンプに繋いで音をおっきくするわけ。大雑把に言うと」

「はあ……」

 俺はひとまず、テレビや写真で誰かがしていたように弦を抑えながら、弾こうとしてみる。

「……指、痛いんだけど」

 しかも音が鳴らない。

「うん。そういうもんだから。ちょっと貸して」

 と言って、すず姉は俺に向けて手を差し出す。
 
 俺はストラップを首から外して、ベースをすず姉に手渡す。


836 : 以下、名... - 2016/03/11 23:30:26.23 pZZx+2x0o 642/1065


 すず姉はストラップを首にかけてすぐ、ピックももたずに弦を押さえた。
 右手の指が弦の上を滑るように弾くのと同時に、音がうねりはじめた。

 波濤の壁が部屋を押し広げた。
 右手の指がさらりさらりと簡単そうに動くのとほとんど同時に、左手の指はうねうねと指板の上を這いうねる。

 そのたびにアンプは音を伝える。

 すげえ。
 すごすぎて何をやってるのかも分からないし、そもそも本当にすごいのかどうかも分からねえ。

「……と、とりあえずこんな感じで」

「……はあ」

 俺たちは言葉を奪われた。

「で、タクミにはこのくらいできるようになってもらうから」

「……え? いや……」

「ちなみにベースはあんまり存在感がないわりにミスるとすぐにバレるパートだから」

「え、なにそれ……」

「ま、特訓ね」

 そして俺の頭は無駄な思考を働かせる余地を奪われた。


837 : 以下、名... - 2016/03/11 23:30:51.88 pZZx+2x0o 643/1065




 次に窓の外を見た時には日が沈みかけていた。

「……指痛い」

「練習!」

 すず姉のやる気のボルテージはまったく衰えなかった。
 ゴローはゴローで高森にギターを教えていて、すず姉はそっちの様子を見ながら俺にベースを教えてくれたけど、成長できたとは言いがたい。

「まあでも、初日にしては弾けるようになったよ」

 と彼女は慰めてくれた。

「簡単な曲なら、がっつり練習すれば一、二週間で弾けるようになると思う。簡単な曲ならね」
 
 ホントかよ、と思った。
 ようやく弦を押さえながらピックを動かすのにも慣れてきたけど、押さえる場所が変わるときにいちいち動きが止まってしまう。
 とてもじゃないけど、まともに弾けるようになる気になんてならない。

 左手の指が赤くなっている。
 
 なんで俺はこんなことをやってるんだろうなあ、という気分になる。
 

838 : 以下、名... - 2016/03/11 23:31:18.54 pZZx+2x0o 644/1065


 ずっと横で様子を見ていたるーが、ここに来てようやく口を開いた。

「そういえば、タクミくん、さっき何か言ってませんでした?」

「……なにか?」

「はい。気になることがどうとか……」

「気になること……」

 ああ、そうだ。言われるまで忘れていた。

「さっき、ちい姉がデートするとかなんとかって……」

「ちい姉だって年頃の女の人なんだから、彼氏くらいいるよ」
 
 すず姉はスポーツドリンクで喉を潤しながらそう言った。

「すず姉は?」

「わたしはいいの」

 いいのか。

「いや、気になるのはそこじゃなくて、さっき、美咲って名前が」

「覚えてない? 美咲ちゃん」

「……美咲姉のことなの、やっぱり」

「うん」

 と、いうことは。


839 : 以下、名... - 2016/03/11 23:32:07.93 pZZx+2x0o 645/1065


「ちい姉の彼氏って、ひょっとして……」

「はい」とるーは頷いた。

「お兄さん……遊馬さんですよ」

「あ、タクミは知らなかったんだ」

 すず姉は平気そうな顔をしている。
 ちょっと待て。
 
「いや、でもすず姉」

「なに?」

「すず姉って……」

「タクミ」

 すず姉は、ゆっくりとペットボトルの蓋を締め直したあと、口の前に人差し指を立てて笑った。

「まあ、生きてればいろいろあるもんだよね。歳を取るってこういうことなんだなあ」

 そう言ってすず姉は、部屋の隅のテーブルの上においてあった一対の熊のぬいぐるみを見つめた。
 その意味は俺にはよくつかめない。

「……遊馬兄とちい姉が」

 じゃあ、静奈姉は……。

 ……ちい姉?
 よりにもよって、と言ったら、ちい姉に失礼なのかもしれない。
 
 でも、俺には……その選択がよくわからないものに思えた。


840 : 以下、名... - 2016/03/11 23:32:46.98 pZZx+2x0o 646/1065


「さて、じゃあタクミ、ベースとアンプと教本は貸してあげるから、家に帰っても練習すること。夜はあんまり音出しちゃ駄目だよ。ヘットホンつけてね」

「……あ、うん」

 と、練習することに、なぜか同意してしまった。

「よろしい。蒔絵ちゃんの方も、ギターは貸してあげる。ゴローくんは、思ってたよりできるから大丈夫」

「ありがとう……ございました?」

 なし崩し的に参加を余儀なくされていた高森と俺は疲れきっていた。
 ゴローはひとり元気で、「あとはドラムを揃えれば完璧だな!」とか言ってる。

「そういえばゴロー、ドラムの心当たりって誰のことだ?」

「あ、うん。声かけてみてから紹介する。おまえも知ってるやつだよ」

 知ってる奴……。

「とりあえず荷物も多いだろうし、今日はわたしがみんな車で送ってってあげる」

 すず姉はそう言って立ち上がる。
 俺達も疲れていたから、遠慮もせずに申し出を受け入れることにした。

「るーは乗れないから、お留守番」

 すず姉の言葉に、「えー」とるーは子供みたいな声をあげた。
 それでもしぶしぶ頷いて、玄関まで不服そうな顔で見送ってくれた。


841 : 以下、名... - 2016/03/11 23:33:22.97 pZZx+2x0o 647/1065


「誰の家が一番近い?」

「俺の家かな」とゴローは言う。

「わたしの家が一番遠いと思います」と高森。

「そっか。じゃあ、ゴローくんおろして、高森さんち」

「……俺んち、中間地点だよ」

「タクミは最後。今、静奈先輩のところにいるんでしょ?」

「……あ、うん。聞いてたの?」

「るーから、ちょっとね。わたしも静奈先輩と久しぶりに会いたいし」

「……うん」

 何を考えればいいのかわからなくなってしまって、俺は助手席に乗せられてから、ずっと窓の外を眺めていた。
 高森やゴローは、練習をしている間に思いの外すず姉になついたらしくて、今となっては俺よりも彼女に馴染んだ口調で話しかけていた。

 すず姉の受け答えは「こども」に対する「おとな」の口ぶりで、それはあの頃、俺に接していたものよりもずっと遠く感じた。


842 : 以下、名... - 2016/03/11 23:33:52.12 pZZx+2x0o 648/1065


 宣言通り高森とゴローを送り静奈姉の部屋に向かう頃には、あたりは暗くなりだしていた。

「学校で、るーはどう?」

 すず姉はふたりきりになった途端、そんな話を振ってきた。ずっと訊きたかったのかもしれない。

「どうって?」

「友達とか?」

「さあ。学年違うから」

「ま、そりゃそうか」

 そこで一度話が終わって、すぐに話題が変わった。

「ねえ、タクミ、あんたはどうしてこっちに来たの?」
 
 そんなことを訊かれると思わなくて、俺は言葉に詰まってしまった。
 夏の日暮れはほのかに明るくて、街の影は長い。あの頃みたいに、夕焼けはオレンジ色だ。
 昔はそれを赤一色に感じたものだったけど、今の俺は、そこに混じっている紫や濃紺の色合いを見つけられる。

 歳を取るってこういうことなんだなあ、というすず姉の言葉が、不意に耳に蘇った。

「あ、答えたくないことなら、いいよ。もっと単純な理由かと思ってたけど、思ったより複雑みたいだね、その顔を見るに」

 俺はちょっと笑った。

「どんな理由だと思ってたの?」



843 : 以下、名... - 2016/03/11 23:34:22.55 pZZx+2x0o 649/1065


「ほら、るーとの約束があったからかなって」

 ……約束?

「あのとき、別れ際に、言ってたんでしょう? わたしたちは知らなかったけど。
 るーが嬉しそうに言ってたよ。タクミくんはまた来るって言ってた。そして本当に来てくれた、って」

「……」

 そういえば、言ったような気もするけど、そんなこと、彼女は忘れているものだと思ってた。

「……あれ、ひょっとして、わたし今、言わなくていいこと言った?」

「いえ……」

 だとしたら、会ってすぐ声をかけようとしなかった俺に、るーが怒ったのも無理はないのかもしれない。

「覚えているものなんですね。忘れられてると思ってた」

「……それは、約束のこと?」

「他の、いろんな人も。すず姉も、ちい姉も、俺のことなんて覚えてないと思ってた」

「あのね、わたしたちがそんなに薄情な人間に見えた?」

「……そういうわけじゃないけど、でも」

 俺にとって大事なことが、他の人にとってどうかはわからない。
 俺にとって重大なことは、他の人にとってはたいしたことではないかもしれない。

 そんな不安……それともそれは、傷つかないための予防線だったのだろうか。

 考えごとをしながら、帰り際にすず姉に手渡された缶コーラに口をつける。


844 : 以下、名... - 2016/03/11 23:34:48.45 pZZx+2x0o 650/1065


「ね、タクミ、訊いていい?」

「なんですか?」

「るーのこと、好き?」

 俺はむせた。

「あは、いい反応」

 すず姉はあくまでクールだった。

「あの。好きとか、いや、好きっていえば好きですけど」

「……ふうん?」

「……好きですよ、たぶん」

「ほー」

 楽しげに、すず姉は頷いた。

「いいね、若いって」

「……」

 あんたも十分若いだろう、と言いたいのを飲み込んだ。


845 : 以下、名... - 2016/03/11 23:35:17.78 pZZx+2x0o 651/1065


「……好きですよ。でも、なんだか申し訳なくて」

「申し訳ない? って?」

「なんだか、うまくいえないんですけど……」

「小難しいこと、考えてるわけだ」

「……」

「先輩も、そうだったんだろうなあ、たぶん」

 ……。

「……遊馬兄のことですか?」

「うん。あのひともきっと、そうだったんだろうね」

「どういう……」

「全部想像だし、無責任なことは言えないけど。でも、とても臆病な人だったんだろうなって思う」

「……すず姉は」

「なに?」

「すず姉は、遊馬兄のことが好きだったんじゃないの?」


846 : 以下、名... - 2016/03/11 23:36:00.13 pZZx+2x0o 652/1065


 彼女はハンドルを握ったまま、少し黙った。

「それが難しいところなんだよね」とすず姉は言った。

 難しいところなんだよ、と彼女は繰り返す。

「ちい姉はさ、小さい頃、わたしたちとは別の街で暮らしてたんだよ」

「……そう、なの?」

「うん。聞いてなかった?」

「なにも」

「そっか。でも、わたしたちとるーの血が半分しかつながってないのは知ってるでしょ?」

「……なんとなく、そうなのかなって」

「うん。異母姉妹なんだよ、わたしたち」

「……」

「お父さんが前結婚してた人が、わたしたちの母親で、再婚相手が、るーの母親。今のお母さん。
 小さい頃のことだから、わたしも自分のお母さんの顔はよく覚えてない。ちい姉は、覚えてるかもしれないけど。
 お母さん、おばあちゃんとの折り合いが悪かったらしくてね。お父さん、気の弱い人だったから、いろいろ大変だったみたい」

 ……。


847 : 以下、名... - 2016/03/11 23:36:40.29 pZZx+2x0o 653/1065


「よっぽど、嫌いだったみたいで。おばあちゃんがほとんど追い出すみたいに……って言っても、喧嘩別れだったみたいだけど、
 お母さんとお父さんが別れちゃって。それで、おばあちゃん、お母さんがいなくなったあと、ちい姉に手をあげるようになったんだって。
 お父さんは弱い人だから……おばあちゃんには逆らえなくて、家を出ることも、できなかったみたい。見た目通り、ちょっと厳格な家だから」

「……」

「それで、仕方なく、遠くの親戚の家に、ちい姉を預けることになったんだ」

「……どうして、ちい姉だけ?」

「……不思議だよね? わたしは、おばあちゃんには嫌われてなかった。むしろ大事にしてもらった記憶だってある。
 小さい頃から別の家で暮らしていたちい姉を、遠い親戚のお姉さんみたいに感じることはあったけど、おばあちゃんはわたしにとっておばあちゃんだった」

「……」

「顔が、似てたんだって」

「……顔?」

「うん。お母さんに、ちい姉はそっくりだったんだって。それにきっと、ちい姉はお母さんのこと覚えてたから、お母さんを泣かせてたおばあちゃんが嫌いだったのかもしれない。
 だからおばあちゃんは、ちい姉につらくあたってたんだって。わたしはそんなこと、なにひとつ知らずに生活してた」

「……どうしてそんな話、俺にするの」

「わかんない」

 俺は少しだけ、今聞いた話の意味について考えようとして……やめた。

「お父さんは、ちい姉を親戚の家に預けたあと、すぐ再婚しちゃった。あのひともあのひとで、傷ついてたんだろうけど……。
 それで、すぐにるーが生まれて……」

「……」

「ごめん、なんか余計な話してるよね」

「……うん。たぶん」

「ごめんね」

「いいよ」


848 : 以下、名... - 2016/03/11 23:37:32.71 pZZx+2x0o 654/1065


 よだかは、ちい姉に似ている。
 そう言っていたのは、るーだった。

 るーはきっと、両親の祝福を受けて、暮らしていた。
 ちい姉は、それを得られずに暮らしていた。

 その形は、たしかに、重なっているような気がした。
 勝手な思い込みかもしれない。それはすこし、俺とよだかの境遇に、似ているような気がした。

「……でも、るーは、楽しそうですよ」

 すず姉は、きょとんとした顔で俺を見た。

「きっと、すず姉のこともちい姉のことも大好きなんだと思う」

 どうしてなんだろう、と俺は思った。
 彼女は本当に楽しそうに笑うのだ。

 笑えずにいる自分が恥ずかしくなるくらいに。

「すごいでしょ?」

「……うん」

「なにせ、自慢の妹だからね」

 すず姉はにっこり笑った。


853 : 以下、名... - 2016/03/15 00:57:58.46 D5zp7PClo 655/1065


◇[sting]


「タクミくん、よだかさんの見送りいかなくてよかったの?」

 俺がすず姉の車に送られて部屋に戻ると、静奈姉はまっさきにそのことを訊ねた。
 痛いところをつかれたと思って俺が黙ったとき、すず姉がうしろから「どうも」と入っていった。

「お久しぶりです、静奈先輩」

「ひさしぶり」

 静奈姉は当たり前みたいな顔ですず姉を受け入れた(電話してたんだから当たり前だけど)。

「タクミがこっちに来てるって、どうして教えてくれなかったんですか?」

「だってすずちゃん、連絡しても見ないし」

「そりゃ……鳴らない携帯なんて持ち歩きませんし」

「ね」

 いや、鳴っても見ないなら鳴らさないだろう、誰も。


854 : 以下、名... - 2016/03/15 00:58:33.15 D5zp7PClo 656/1065


「お酒買ってきました」

「……すずちゃん、今日何で来たんだっけ?」

「車です。泊まってっていいですか?」

 静奈姉はくすくす笑った。

「変わらないね、その、なし崩し的に泊まろうとする癖」

「性分なんです」

「ていうか……まだ十九じゃないっけ?」

「そうでしたっけ?」

 すず姉は平気な顔で靴を脱いであがりこむと、ダイニングテーブルの上にコンビニ袋を置いて腰を下ろした。

「ちょっと疲れました」

 とすず姉は笑った。
 静奈姉は「いつぶりだっけ?」なんて言ってる。


855 : 以下、名... - 2016/03/15 00:58:59.38 D5zp7PClo 657/1065


「いつでしたっけ? 静奈先輩がこっちに来てから、一回は来てるはずですけど」

「あ、だよね。調子はどう?」

「普通ですかね。先輩は?」

「普通かな」

 まったりしながら、すず姉はチューハイを取り出した。

「グラス用意するね。タクミくんは?」

「俺、明日も学校なんだけど」

「ちょっとなら平気でしょ?」

「いや、でも……」

 ……『駄目だ』と誰かが言う。

「はい、グラス」

「……そもそも俺、ハラ減ったんだけど」

「仕方ないなあ」

 といって、静奈姉は立ち上がった。

「ご飯作るから、そのあと付き合ってよ」

「……」
  
 しぶしぶ、俺は頷いた。


856 : 以下、名... - 2016/03/15 00:59:34.98 D5zp7PClo 658/1065




「静奈先輩、遊馬先輩とは会ってるんですか?」

 グラスに口をつけながら、すず姉がそう訊ねると、静奈姉は「ぜんぜん」と言った。

「連絡も来ないよ。前から、そういうところあったけど」

「そうなんですか?」

「もともと、メールのやりとりとか電話とかするような仲じゃなかったし。ほら、なにせ……」

「……学校いけば、会えましたもんねえ、そりゃ」

「あ、でも、お母さんとはたまに会ってるみたい」

「静奈先輩のお母さんと? 先輩が? ですか?」

「うん。お母さんはおかまいなしだから」

「あはは」

「ちひろちゃんは元気?」

 あ、そうだった、と、話を聞いていた俺は思う。
 ちい姉の下の名前、ちひろだった。

 すず姉は一瞬ためらうみたいに間を置いてから、視線を泳がせて、

「元気ですよ」

 という。


857 : 以下、名... - 2016/03/15 01:00:01.45 D5zp7PClo 659/1065


「……そのさあ」

 と静奈姉はけだるげに首をかしげた。

「いいかげん、振られた女に対する妙な気遣いやめてよー」

 と言って、静奈姉がすず姉の頭をわしゃわしゃ撫でた。すず姉は「あはは」とまた笑う。

「何年経ったと思ってるの?」

「えっと……何年ですかね? 五年?」

「そう。そんくらい?」

「たぶん。どうかな」

「……なんていうか、すごいよね」

「なにが?」

「なんで別れないんだろう」

「……すごいですよねえ、あのふたり」

「なーんか、付き合い始めの頃、すぐに別れちゃうことを期待してた自分の性格の悪さだけが、こう……」

「わかります、わかります」

「悲しくなるくらい、あのふたり、まっとうなんだよねえ」

 静奈姉は一杯目のチューハイですでにぽやぽやした顔をしていた。
 
「だからわたし、だめだったんだろうなあ」

 そう呟いた静奈姉は、小さな子供みたいに見えた。


858 : 以下、名... - 2016/03/15 01:00:28.30 D5zp7PClo 660/1065


 こうして話をしていると不思議なのだが。
 ……遊馬兄って、なんでモテたんだ?

「ま、そうでしょうね」とすず姉はあっさり頷いた。

 静奈姉がむっとした顔をする。

「ちょっと否定してくれたっていいじゃないの!」

 また頭をわしわし撫で始める。すず姉は「あはは」とまた笑う。

「妙な気遣いやめてと言いながら、がっつり引きずってるじゃないですか、先輩」

「引きずってないもん」

「本当ですか?」

「引きずってないもん!」

 ……子供か。

「高校のときのことだよ? 何年前? この歳になって引きずってたらただのイタい人だよ。引きずってませんもん」

「……そーですか?」

「……引きずってません」

「……わたし、イタい人だなあ」

 小さなつぶやきは、たぶん静奈姉の耳にも届いた。
 ……やばい。なんかこの会話、聞いてるのすごいしんどい。


859 : 以下、名... - 2016/03/15 01:01:01.03 D5zp7PClo 661/1065


「すずちゃんと遊馬くんの関係もわたし、よく知らなかったんだよね」

「……わたしと先輩ですか?」

「うん。なんであんなに仲良くなったの?」

「……仲良くなったっていうか。中学のとき、わたし、放課後とか屋上でひとりでいたんですよ」

「……うん」

「そしたら、先輩がよく遊びに来て、いろいろ話したりして」

「……うん」

「……まあ、それだけですかね」

「屋上に昇るのは血筋なの?」

「ど、どうでしょうね……? でも、何回か屋上で人に会ったけど、話しかけてきたのは先輩だけでした」

「……たぶん、ちひろちゃんもそうだったんだろうなあ」



860 : 以下、名... - 2016/03/15 01:01:30.95 D5zp7PClo 662/1065


「……ねえ、あのさ」

 俺はようやく、口を挟んだ。ふたりは、どこかとろんとした目つきでこっちを見た。

「ペース早くない? 酒」

「チューハイなんて、ジュースだよ!」

 と、静奈姉はからっぽの缶をテーブルに叩きつけた。

「でもさ、遊馬くんもひどいよ。『ドラクエファイブでビアンカを選ばない奴は人間じゃない』って豪語してたのに」

「あはは」

「そりゃ、ちひろちゃん、美人だけど。美人だし、お金持ちだけど……」

「リメイク版だと『子供の頃に会ったことがある』って設定らしいですよ」

「なにが?」

「ドラクエファイブのフローラ」

「それずるいよね。ビアンカのアドバンテージがりがり削ってるよね」

「あはは」

 すず姉はさっきから何言われても笑ってるな。


861 : 以下、名... - 2016/03/15 01:02:04.85 D5zp7PClo 663/1065


「そもそもビアンカだって、フローラが登場する前にさっさと告白しちゃえばよかったんですよ」

 と、すず姉は三本目の缶を開けた。
 カルピスサワー美味しい。

「それは、それは……でも、ビアンカにだっていろいろ……」
 
「なんですか?」

「ビアンカだって……パパスさんのこととか気にして、そんなこと言ってる場合じゃないよなって……」

 感情移入しすぎだろ。

「……で、タイミングを逃したと」

「……」

「美咲ちゃんも、いましたもんね」

「……あの兄妹には、割って入れないから」

「……ちい姉も、そう言ってたな」

「ちひろちゃんも?」

「先輩は絶対自分より美咲ちゃんのことが大事なんだって、言ってました」

「……シスコンだもんなあ」

「シスコンですもんねえ……」

 散々だな、遊馬兄。


862 : 以下、名... - 2016/03/15 01:02:43.60 D5zp7PClo 664/1065


「静奈先輩、ちい姉と最後に会ったの、いつですか?」

「……高三のときかなあ」

「まだ喧嘩してるんですか?」

「喧嘩なんてしてないよ。わたしが一方的にちひろちゃんを妬んで恨んでるだけだよ」

 ……潔いんだか潔くないんだかよくわからない言い草だ。
 
「もう、呼んじゃいます?」

「ちひろちゃん? ここに?」

「はい」

「え……」

「気まずいです?」

「そういうわけじゃ、ないけど……」

 俺はちょっとためらったけど、結局口を挟むことにした。

「……ちい姉、明日デートなんでしょ?」

「うぐ」と静奈姉が変な声をあげた。

「すず姉、傷口に塩を塗りこむ気?」

「……わたしがするより先に、タクミが塗りこんでると思うなあ」と苦笑される。
 カルピスサワー美味しい。


863 : 以下、名... - 2016/03/15 01:03:11.07 D5zp7PClo 665/1065


「……呼ぼう! 呼んで! ちひろちゃん!」

「いいんですか?」

「いいんだよ! 引きずってないもん! ひきずってないから、平気だもん!」

「そんじゃ、ついでに着替え持ってきてもらお」

「あー、生まれ変わったら猫になりたいなあ」

 静奈姉はテーブルの上に腕を組んで頭をのせた。

「ちひろちゃん、ひさしぶりだなあ。やだなあ」

「人んちの姉を、やだなあって先輩」

「フローラがうらやましい」

「大丈夫ですよ。周回プレイしてくれる人だっていますって」

「二周目があるといいよね」

「ないんですけどね」

 あはは、と二人は笑ってから、長い溜め息をついた。
 バカなのか、このひとたち。



869 : 以下、名... - 2016/03/18 00:22:32.32 nkDeAzhHo 666/1065




 そしてちい姉は本当にやってきた。
 前みたいにちょっと居心地悪そうに、「どうも」なんて頭を下げて。

「遅いよちい姉!」

 と真っ赤になったすず姉が言う。
 静奈姉は血筋なのか顔には出ないが、やっぱりちょっとほわほわし始めていた。

「いや、急に来てって言われても……」

「ひさしぶりー」

 と静奈姉が手をあげる。

「お邪魔します」とちい姉は居心地悪そうなまま部屋に入ってきた。
 
 そこにもうひとり、後ろから「おじゃまします」と声。

「あれ、るーも来たの?」

 るーがいた。

「わたしだけ仲間はずれはいやです」

「るーちゃんおっきくなったねー!」
 
 と静奈姉が立ち上がってるーに抱きついた。もうテンションが平常通りじゃない。


870 : 以下、名... - 2016/03/18 00:23:15.67 nkDeAzhHo 667/1065


「るー、テスト勉強しなくていいの?」

「お酒飲んでる人に言われたくないです」

 るーはすねたみたいにそっぽを向いた。
 
「るーも飲む? カルピスサワー美味しいよ」

「タクミくん、酔ってます?」

「酔ってないよ。少し気持よくなってるだけだよ」

「それならよかったです」

「こっちおいで」

 壁際に座ったまま、俺は隣の床をぽんぽん叩いた。

「……はあ」

 るーは静かに、足の裏で滑るみたいに俺の隣にやってくると、ちょっと居心地悪そうな顔で座ってくれた。

「よしよし」と俺はるーの頭を撫でた。

「……あの、タクミくん?」

「良い子だるー、おすわり」

「……犬ですか、わたしは」


871 : 以下、名... - 2016/03/18 00:23:41.92 nkDeAzhHo 668/1065


 わしわしと頭を撫でると、彼女は拗ねたみたいな顔のまま目をそらしてされるがままになった。

「よしよし、お飲み」

 俺はグラスを手にとって、新しい缶をあけてカルピスサワーを彼女に手渡した。

「……お酒、あんまり飲んだことないです」

「そう? やめとく?」

「いいです。飲みますよ、もう」

 そういえばさ、とすず姉が口を開く。

「タクミとるーは付き合ってないんだっけ?」

「ないですよー」とるーがいつもみたいに否定する。

「そうだよねえ、子供の頃仲よかったっていっても、所詮それだけだよね」

 静奈姉はテーブルに顔を突っ伏して拗ねたみたいに呟いた。

「しいちゃん、だいぶ飲んだ?」

 しいちゃん、とちい姉は静奈姉をそう呼んだ。

「うん。チューハイなんてジュースだからね。ちひろちゃん久しぶり」


872 : 以下、名... - 2016/03/18 00:24:37.74 nkDeAzhHo 669/1065


「それだけってわけじゃ」

 と、るーは何かを言いかける。

 みんなが黙って続きを待つ。

「……なんでもないです」

「タクミくんはどうなの?」と静奈姉。

「るーちゃんのこと、どう思ってるの?」

 みんながまた押し黙る。
 俺はぼんやりした頭で考える。

 どう思ってる?

「……るーは、かわいいよね」

「はい?」

 と、隣に座ったるーがちょっと怒ったみたいな顔で俺を見た。
 へらへら笑って、彼女の頭をまた撫でた。

「よしよし」

「……」
 
 困った感じのるーの表情がやけに近くて、それが妙に心地よかった。


873 : 以下、名... - 2016/03/18 00:25:09.29 nkDeAzhHo 670/1065


「……タクミ、酔ってるね」

 すず姉。

「酔うとこうなるんだね。……たち悪いね」

 ちい姉。

「遊馬くんもこうだったよね」

 静奈姉。

「……あ、うん」

 何かの心当たりがあるみたいなちい姉の声。
 
「あのときはたしかちひろちゃんに……」

「あの。しいちゃん?」

「……やってらんないですよ」

「しいちゃん、あの。最近どう? 学校とか……」

「普通かな。ちひろちゃんはどう? 遊馬くんと」

「……あ、えっと」

「……」

「普通、かな……」

「酔うとたち悪いのは静奈先輩も同じですね」

「なんだとう!」

「血筋ですかね」、と、るーがぽつりと呟いた。


874 : 以下、名... - 2016/03/18 00:25:35.31 nkDeAzhHo 671/1065


「それでさ、ちい姉」

 と、俺が声を掛けると、ちい姉はちょっと戸惑ったみたいな顔をした。
 そういえばこんなふうに直接ちい姉に話しかけたことなんて、今まであったっけか。

「なに?」

「どうして遊馬兄と付き合うことになったの?」

「え……」

「いいぞいいぞ、もっときけ」と静奈姉。

「そうだそうだ」とすず姉。

 るーが呆れたような溜め息をついたのが分かった。

「俺知らなかったよ。ちい姉と遊馬兄がそんなことになってるなんて。いつから? なんで? どこが好きなの?」

「いや、あのね、タクミ」

「意外って言ったら失礼かもしれないけど、遊馬兄とちい姉けっこうテンション違うように見えたけど、なんでまた?」

「そこらへんはほら、個人的なことだし」

「俺たちだって個人的な付き合いじゃん。話してくれてもいいじゃん。ちい姉は俺のこと嫌いになったの?」

「……あはは、たちわるーい」

 そう言ったのはるーだった。

「なに」と視線を向けると、「なんでもないですよ?」とにっこり笑う。


875 : 以下、名... - 2016/03/18 00:26:10.49 nkDeAzhHo 672/1065


 なんかむかついたのでまた頭をわしゃわしゃ撫でてやると、「やめてくださいよ、もう!」なんて困った声をあげる。

「まいったか」

「まいりません」

 もう一度わしゃわしゃ撫でる。

「まいりました、まいりました」

「ふははは」

「……もう。どうしちゃったんですか、タクミくん」

「それはあれだよ」とすず姉。

「普段抑圧的に生きてる奴ほど、気が緩むと暴走するっていう」

「ああ……」

「でも遊馬くんも飲むと性格変わったよね」

「最近はそうでもないよ」

「昔はあれで、抑圧的だったんじゃないですか?」

 すず姉の言葉に、静奈姉が「えー、そう?」と首をかしげ、ちい姉が「なるほどね」と小さく納得した。
 静奈姉はなんとなくつらそうな顔をした。


876 : 以下、名... - 2016/03/18 00:26:48.31 nkDeAzhHo 673/1065


「そんなのどうでもいいよ。俺はちい姉に質問してるんだよ」

「だから、個人的なことだし」

「そうじゃなくてちい姉は俺のこと嫌いになったの? それとも俺のこと嫌いだったの?
 そうなんだ、そうなのかもしれないよね、なんで俺勝手に好かれてるって思ってたんだろう。ごめん気にしないで。なんでもない」

「めんどくさい人ですね……」

 るーがまた隣でため息をつく。

「そうだよ、俺はめんどくさいんだ。幻滅した?」

「したって言ったら安心しちゃうでしょ?」

「俺のことをなかなかわかってきたじゃないか」
 
 俺はグラスのカルピスサワーを飲み干した。

「おかわり」

「やめときなよタクミくん、明日に響くよ?」

 静奈姉の諫言に耳を貸すつもりはない。
 俺はなんだか急に気分がいいのだ。

 ふう、と俺も溜め息をつく。

「それでちい姉は遊馬兄のどこが好きなの?」

「……しいちゃん、すず」

「そこでわたしの助けを求められてもね」とすず姉は苦笑した。

 うう、と、ちい姉はちいさくうめいた。


877 : 以下、名... - 2016/03/18 00:27:17.61 nkDeAzhHo 674/1065


「分かったよ。じゃあ遊馬兄呼んで。遊馬兄」

「だ、だめだよ!」と静奈姉が言った。

「なんで。俺遊馬兄に会いたいよ。遊馬兄。遊馬兄とまだ会ってないんだ。美咲姉とも。ふたりとも元気?」

「えっと、元気だよ」

 ちい姉は気圧されたみたいに頷いた。

「元気ならいいなあ。元気ならよかったよ。うん。それだけが気がかりだったんだ」

「……って、なんで泣いてるんですか、タクミくん」

 るーが戸惑ったみたいに声をあげた。俺は自分の瞼をこすった。

「元気ならよかった。本当によかった。それだけが本当に気がかりだったんだよ」

 ぽろぽろと涙がこぼれるのを自分では止められなかった。みんなが俺の様子を見て戸惑った顔をしているのが分かる。
 泣きやまなきゃいけない、といつもの俺はそう思う。そんなことしたって困らせるだけだから。

 でもぜんぜん収まってくれなかった。どうしてだろう。わけがわからない昂ぶり。

「アルコールって、すごいね」

 静奈姉がそう言った。

「テスト勉強とベースの特訓の疲れもありそうです」

「ベース? タクミくんバンドでもやるの?」と静奈姉。

「特訓したんですよ、今日」とすず姉。


878 : 以下、名... - 2016/03/18 00:27:48.76 nkDeAzhHo 675/1065



 とまらない涙に俯いて、壁にもたれた。なんだか身体がひどく重かった。

「よしよし」と何かが頭に触れる。

「いいこいいこ」とるーの声がして、頭の上をやさしい感触が撫でていく。

 俺はその感触に頭を揺らされて心地よさの中で瞼を閉じる。
 ゆらゆらとからだがゆれる。

 ゆらゆらと揺れて、瞼が重くなっていく。

 俺の身体は傾いでいく。

 なんで俺は……。

 とても眠くなって、うまくものが考えられない。
 
 大丈夫ですよ、と誰かが言った。
 
 だったらいいか、と、俺は安心して意識を手放した。



883 : 以下、名... - 2016/03/18 23:59:05.82 nkDeAzhHo 676/1065




 瞼が重くて開かなかった。意識は混濁と明鏡止水に綺麗に分かれていた。
 表の方は濁ってわけがわからなかったけど、奥の方の意識はすっと静まり返っていた。水とは反対だ。
 
 だから俺は、その声がはっきり聞こえた。

「るーちゃんはさ、タクミくんのことどう思ってるの?」

 静奈姉の声だ。

「どうって……」

 答えた声は、すぐそばから聞こえた。それも、なんとなく、上の方から。
 意識が沈んでいるからかもしれない。

「好きですよ」

 とるーは言った。

 あー、夢か。
 なるほどな。

「ほお」

 すず姉。

「へえ」

 ちい姉。

「おー」

 静奈姉。


884 : 以下、名... - 2016/03/18 23:59:49.14 nkDeAzhHo 677/1065


 開き直ったみたいに、るーは続ける。

「好きですよ……好きですけど」

「けど……?」

 静奈姉が促す。るーは黙ったまま続けない。

「タクミくんはわたしのこと、なんとも思ってないみたいだから」

「……え、そう?」

 とすず姉。

「そうなんです。きっと」

「……そうなのかな」とすず姉は首をかしげた(と思う。視界がまっくらだからわからないけど)。
 
 どうだろう? と俺は自問した。
 
「訊いてもいい?」と静奈姉の声。

「なんですか?」

「タクミくんの、どこが好きなの?」

「……どこって」

「顔?」

「いや、顔って」

「まあ、我が親戚ながら顔はまあまあのものだと思うし」

 失礼な夢だ(逆だろうか? 夢ならむしろ自己愛的か?)。


885 : 以下、名... - 2016/03/19 00:00:15.57 7uTUbjIMo 678/1065


「それは、まあ、顔も……」

 どういう答えだ。
 
「でも、服装適当なんだよね、いつも……」

「手抜きが多いですよね。改善を要します」

 ……なんて夢だ。

「で、顔以外は?」

「……よくわかんないです」

「わかんないって?」

「わかんないんです」

 と、るーは言う。
 
 そうだな、と俺は思う。
 そりゃそうだ。
 
 好きになれる部分なんて、ないんだから。


886 : 以下、名... - 2016/03/19 00:01:39.16 7uTUbjIMo 679/1065


「ちい姉は」、とるーは言う。

「ちい姉は、お兄さんのどこを好きになったんですか」

 今度は、静奈姉もすず姉も、茶化さなかった。
 それが真剣な声だったからだろうか。

 あるいは、それぞれにまた、その理由に思いを巡らせていたのだろうか。

「……今日は、そんなことばっかり訊かれるなあ」

「どうなんですか」と、るーは問いを重ねる。

「……えっと、さ」

 ちい姉は、少し、迷うみたいに言葉をつまらせたみたいだ。
 かすかな吐息が聞こえる。

「ちょっと、長い話になると思うんだ」

「……うん」

 誰もが話すのをやめて言葉を待った。
 俺の世界には音だけだ。

「遊馬は、きっと、寂しがり屋だったんだよ」


887 : 以下、名... - 2016/03/19 00:02:15.12 7uTUbjIMo 680/1065


 みんなが黙って、続きを待った。

「いつも、置いていかれるのを怖がってた。ひとりになるのを嫌がってた。いろんなことが変わってくのが、怖かったんだと思う」

 静奈姉は。
 どんな思いでこんな話を聞いているんだろう。

 よくわからない。

 ちい姉の語る遊馬兄は、俺の思っていた彼の姿と一致しない。
 でも、
 たしかにどこか、寂しそうだったような気もする。

「ちょっと、話してくれたことがあるんだよ。子供の頃から、美咲ちゃんの面倒見てたんだって」

「……うん」

 静奈姉が頷いた。

「学校からすぐ帰って、おじさんとおばさんの代わりに家事をやって、美咲ちゃんの面倒ばかり見てた」

 そこでちい姉は、少しだけ言葉を止めた。何かを迷うみたいに。

「子供の頃って、放課後毎日友達と遊んだりしたでしょ? 誰かの家にいったり、学校に残ったりして。
 遊馬には、そういうのがなかったから……友達がいなかったわけじゃないけど、“仲の良い友達”はいなかったんだって」

 爪弾きにされるわけじゃない。腫れ物みたいに扱われるわけじゃない。
 距離を置かれるわけでも、避けられるわけでもない。

 それでも、居場所のないような、疎外感。
 誰かと誰かが、仲良くなって、ともだちになって、近付いていって、 
 それを眺めている誰かの、置いてけぼりの気持ち。


888 : 以下、名... - 2016/03/19 00:02:47.70 7uTUbjIMo 681/1065


「小学生の男の子がさ、みんなが放課後に缶蹴りとかして、誰かの家に集まってゲームとかして、
 そういうときに、家に帰って洗濯物を取り込んで、夕飯の買い物をして、準備をして、妹の勉強を見て……」

 それって、どんな気持ちなんだろう、って、ときどき思うんだ。

「でも、遊馬は美咲ちゃんのことが大好きだから、きっとあの子の前では楽しそうに話をするんだよ。
 学校でこんなことがあったとか、クラスの誰々がどうこうだとか、そういう話を。きっと、そういう癖がついてたんだよね」

 両親は仕事で帰ってこなくて、甘えたり弱音を吐いたりしたいときがあったって、誰にも甘えられない。
 それでも平気でいないと、妹が不安になるから。

「先輩の、両親って」

「遊馬は、そんなことないってずっと否定してたけど。忙しいだけって、ずっと言ってたけど。
 たぶん、それは半分なんだと思う。いくら仕事が忙しいからって、子供をずっとほったらかしなんて、ありえないもん」

「……おじさんとおばさん、美咲ちゃんが高校に上がる年に、離婚しちゃったんだよね」

「うん。たぶん遊馬は繋ぎとめようとしたんだよ。それだってきっと、自分のためだけじゃないと思う」

「……美咲ちゃんのため?」

「美咲ちゃんの誕生日は、毎年必ず家族が全員揃うんだって、遊馬は言ってた。忙しくても、子供のことをちゃんと考えてくれてるって。
 でも、遊馬の誕生日は揃わないんだ。それって、きっと、遊馬が頼んだんだよね」

 せめて、と。

「本当のことは、わからないけど。でもきっと、遊馬は寂しがり屋で、甘え下手で、つよがりだったんだと思う。
 ……たぶん、だからだと思うんだ」

「だから、って?」

 すず姉の問いかけに、ちい姉は言葉を探るような沈黙を置いたあと、返事をする。

「寂しそうだったから、好きになったんだと思う」

 そんな、堂々とした言葉に、みんな口ごもる。

「……なんか照れるね」と、静奈姉が笑う。


889 : 以下、名... - 2016/03/19 00:04:39.71 7uTUbjIMo 682/1065


「でも」、とすず姉が言う。

「それって、同情ってこと?」

「違うよ」と、ちい姉が言う。

「たぶんわたしは、自分と同じような寂しさを抱えてる人のことを、好きになったんだよ」

 同じような寂しさ。
 同じくらいの寂しさ。
 よく似た寂しさ。

「……遊馬は、最初、わたしのことが苦手だったんだって」

 ちい姉はそう続けた。

「どうして?」と静奈姉が問う。

「強そうだったから、って言ってた」

「“強そう”?」

「ひとりでも、平気そうだったから。責められてるみたいな気分になったんだって」

 ひとりぼっちが寂しくて、悲しくて、もがいている自分。
 ひとりぼっちでも強くて、平気そうな誰か。

「今にして思えば、遊馬は、ひとりでいる人にばっかり声を掛けてた。
 男友達だってちょっと浮いてるような人が多かったし、あの頃の文芸部の部長さんとかも、あんまり人と交流しない感じだったし」

「……わたしも、そうだったのかな」

 すず姉が、そう言う。「たぶん、わたしも」、とちい姉が言う。


890 : 以下、名... - 2016/03/19 00:05:06.92 7uTUbjIMo 683/1065


「誰かの輪の中にいると、自分が余計ものみたいに思えるから、ひとりでいる人にばかり声を掛けてたんだ、って」

 声を掛けたのは、きっと、ちい姉が言うとおり寂しかったからで。
 そういう自分の弱さを、たぶんどこかで遊馬兄は責めていた。
 だから、ちい姉が苦手だった。

「しいちゃんには感謝してるって、遊馬、言ってた」

「……遊馬くんが?」

「うん。しいちゃんがいなかったら、自分はとっくにダメになってたかもって」

「……」

「いつも助けられてたんだって、言ってた。
 それと同じくらいの焦りがあったんだと思う。周りは楽しそうに笑って遊んでて、自分は自分のことに必死で、誰ともつながってなくて。
 だから、追いつかなきゃって、思ってたんだと思う。自分だって誰かと繋がって、誰かにとっての何かにならなきゃって」

 それは、どこかで聞いたような話。
 
「そういうものを必死に築き上げて、ようやく親友って呼べる誰かができて、そんなときに……」

「そんなときに?」と静奈姉。


891 : 以下、名... - 2016/03/19 00:05:46.53 7uTUbjIMo 684/1065


「……言ってもいい?」

「……どうぞ」と静奈姉は少し緊張したような声。

「そんなときに、ずっと一緒にいてくれると思っていた幼馴染が、離れていく素振りを見せたんだそうな」

「……」

 うわ、と俺は思う。夢とはいえ、容赦無い。

「だから遊馬は、誰かともっと繋がりたくなったんだと思う。変わっていくのは仕方ないことだから、って。
 それが寂しいから、それでも誰かに傍にいてほしいって。……しいちゃんにはこの話、いつか、しようと思ってたんだ」

 静奈姉は、ちょっと他人事みたいに、

「……わたし、完全に墓穴掘ってたんだね」

 と言った。


892 : 以下、名... - 2016/03/19 00:07:29.91 7uTUbjIMo 685/1065


「でも、でもね、わたしにとって遊馬くんは、普通の男の子だったんだよ。
 家族思いで、大人みたいに家のことに責任感を持ってて、面倒見がよくて、勉強ができて、 
 周囲から一目置かれてて、気取ってなくて、ちょっとばかみたいにはしゃいだりして、
 そんな、かっこいい、あこがれの人だったんだよ」

 ――でも、それってやっぱり、わたしが遊馬くんのこと、ちっともわかってなかったってことなのかなあ。

 静奈姉がそう言ったあと、少しの沈黙が、何かを埋め合わせるみたいに流れた。

「ごめんね」とちい姉が言う。
 きっとその言葉を静奈姉に向けることを、ちい姉はずっと避けてきたんだと思う。
 なんだか、傲慢に聞こえそうだから。
 
「ううん」、と静奈姉は言う。声は少し震えていた。

「ありがとう」と彼女は言う。

 泣いているみたいな声で。
 きっと、泣いているのだと思う。
 わからないけど、たぶん。


893 : 以下、名... - 2016/03/19 00:15:25.05 7uTUbjIMo 686/1065


 同じくらいの寂しさを抱えた人を、
 似たような痛みを知っている人を、
 人は好きになる。
 
「……寂しさ」、と、すぐ近くでるーが呟いたのが分かった。
 小さい声だったから、俺以外の誰も気付かなかったかもしれない。

 静かに、俺の手の甲に、何かが触れる。 
 
 きっと、指先だったのだと思う。

「……寂しそうだから、好きになる」

 小さな声で、るーは言う。

「……ひょっとしたら、これも血筋なのかな」

 自問のような声には、敬語はついていなかった。
 血筋、とるーは言う。
 
 半分だけの繋がりを、それでも彼女は血と呼んだ。
 
 その言葉の自然さに、俺はなんだか泣き出したくなった。
 あまりにあたりまえみたいに言うから。
 彼女はきっと、本当にそれをあたりまえに思っているから。

 そのことが嬉しい。
 どうしてなのかも、わからないけど。

 彼女が、そのようにあることを、俺は途方もなく嬉しいと思う。
 そういう子でよかった、と思う。

「ほっとけないって、そう思います。でも……同情なんかじゃ、ないみたいですよ」

 また、そう小さく呟いて、
 るーは、
 俺の手を覆うように握った。


894 : 以下、名... - 2016/03/19 00:16:02.61 7uTUbjIMo 687/1065


 包み込むように、寄る辺を求めるように。
 これは夢だ、と、俺は思う。

 夢だから。
 俺は彼女の手を、握り返してしまった。

 寄る辺を求めるように、包み込むように。

「――え?」
 
 と、るーの手がこわばる。

「あ、れ……タクミくん?」

 るーの緊張した声に、俺の意識は急に浮かび上がる。
 現実感。

「どしたの、るー?」と、すず姉の声。

「タクミくん、あの、ひょっとして……起きてませんか?」

 気だるい瞼を、俺は開いてみる。
 真上から、るーがこちらを覗き込んでいる。

 俺の頭は、どうやらるーの膝の上にあるみたいだ。

 俺は手を伸ばして、るーの頬に触れた。
 さかさに見える彼女の表情は、あっというまに赤く染まった。

「あ……う」

 と、変な声をあげる。

 俺はからだを起こそうとして、
 鋭い頭痛に力を奪われた。

「……あ、はは」

 思わずごまかし笑いが出る。

「……あたま、ズキズキする……」

「……の、飲み過ぎですよ!」と、るーは慌てた声でそう言った。

898 : 以下、名... - 2016/03/23 00:02:05.31 GUkSZoj/o 688/1065



 
 それからも、女たちの話は途切れなかった。
 あちらにいったりこちらにいったりさまざまな変化をたどりながら、そのうち何の前触れもなくみんな話さなくなった。
 
 最初に眠ってしまったのはすず姉で、次に静奈姉が意識を失った。

 ちい姉とるーはふたりで片付けを始めた。

「いいよ、あとで俺やっとくから」

 と声を掛けると、

「おじゃましてるのはこっちだから」

 とちい姉はそっけない顔で言った。

 声をかけたくせに、俺は立ち上がる気にはなれなかった。からだがひどく重くて、頭がひどく痛かった。


899 : 以下、名... - 2016/03/23 00:02:37.12 GUkSZoj/o 689/1065


「タクミくん、大丈夫?」

 そう訊いてきたのもちい姉だった。

「うん……。大丈夫だと思う」

「普段、お酒飲むの?」

「あんまり。たまに、こういうときだけ」

「そっか。休んでた方がいいよ。明日も学校でしょ?」

「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 今日のことを思い返す。
 
 嘉山と話をした。るーの家で、すず姉とベースの練習をした。よだかと電話した。彼女は帰ってしまった。
 そして今、ここでこうしている。

 たった一日でさまざまなことが起きるものだ。
 あの頃も、こんなふうだったかもしれない。


900 : 以下、名... - 2016/03/23 00:03:25.25 GUkSZoj/o 690/1065


「ちい姉」

 と、俺は声を出して彼女を呼んだ。
 ちい姉は不思議そうな顔でこちらを振り向いて、「なに?」というふうに首をかしげた。

「ちい姉はさ」

 何かを訊こうとしたのに、何が訊きたいのか、わからなくなってしまった。

「ちい姉は……」

 そうだ。
 よだかに似てたって、るーが言ってたんだ。

「ちい姉は……自分が不幸だって思ったこと、ある?」

「……」

 俺の唐突な質問に、ちい姉は黙りこんだ。
 彼女のとなりで洗い物をしていたるーもまた、こっちを見て怪訝そうな顔をする。

 考えこむように、ちい姉は黙った。

「……ごめん」

 と俺は謝った。
 
 怒ったふうでもなく、ちい姉は呆れた感じに溜め息をついた。


901 : 以下、名... - 2016/03/23 00:03:52.59 GUkSZoj/o 691/1065


「どうしてそんなことを訊くの?」

「……わからない」

「……そっか」

 ああ、今日は楽しかったな、と、そう思った。
 そう思ったら、急に寂しくなった。

 またこれなんだ。

 寂しさが強烈な痛みを伴うのは、祭りの後、パーティーの後、馬鹿騒ぎの後、耳鳴りのしそうな沈黙と静寂が訪れたときだ。

 だから、楽しいことは苦手なんだ。

「幸せって、なんだろう」

 問いのかたちを、そう変えてみた。


902 : 以下、名... - 2016/03/23 00:04:22.27 GUkSZoj/o 692/1065


「解釈だよ」

 と、ちい姉は言った。

 思わず、俺は聞き返した。

「え……?」

「幸福と不幸は、解釈だよ」

「……えっと、どういう意味?」

「出来事それ自体に、『幸福値』みたいなのが設定されてるわけじゃない。
 だから、ほら、人生はプラスマイナスゼロだって、言うでしょ。あんなの、うそだよ」

「……」

 よだかが、いつか、そんなことを言っていた。

「ある出来事はある人にとって不幸で、ある出来事はある人にとって幸福で、でもそれが本当かどうかなんて、わからない」

 俺は黙って続きを待ったけど、ちい姉は言葉を探すように黙りこんだあと、詳しい説明もせずに、別の言葉を続けた。

「……あるよ」と、静かに彼女は言う。

「……なにが?」

「不幸だって、思ったこと」


903 : 以下、名... - 2016/03/23 00:04:59.14 GUkSZoj/o 693/1065


 るーが、何かをうかがうように、俯いた。

「でもさ、それが本当に、ただの不幸かなんて、わからないんだよ」

「どういう、意味?」

「……帳消しになることが、あるんだよ。不幸も、幸福も」

「……」

「どうしてこんな目に合うんだろうって、つらくなったこともある。
 拗ねたことも、嫌になったこともある。寂しくて、悲しくて、やめにしたいって思ったことも、ホントはあるよ」

「……」

「なかったことにしたいことも、やり直したいことも、たくさんあった。
 言わなくていい言葉とか、したくなかった失敗も、たくさん」

 でも、さ。

 言葉を探すみたいに、とぎれとぎれに、ちい姉は言う。

「一度、何かに出会ってしまったら、それを嬉しく思ってしまったら、もう、不幸せは、不幸せのままじゃないんだよ」

「……」

「出来事と出来事は、つながってるんだ。
 だから、わたしの失敗も、わたしの不器用さも、わたしの臆病さも、ぜんぶ、経路になっちゃったんだよ」

「……経路?」


904 : 以下、名... - 2016/03/23 00:05:28.42 GUkSZoj/o 694/1065


「わたしが、もしも、もう少し強かったら、もう少し器用だったら、もう少し周囲に溶け込めてたら……。
 そう思うときもあるけど、もしそうだったらわたし、きっと……遊馬に会えてなかったんだよ」

「……」

「遊馬に会えたから、わたしにとって、わたしの失敗も、不器用さも、臆病さも、嫌いな思い出も、意味が反転したんだ」

 経路。反転。

「ひとつでも欠けたら遊馬に会えてなかったなら、わたしはこんなふうでよかったって思えた」

「……」

「禍福は糾える縄の如し、人生万事塞翁が馬、終わり良ければすべてよし」

「……」

「もちろんだからって、つらいことのあとに必ず良いことがあるとか、そんなふうに思うわけじゃない。
 でも、何かが起こって、全部のことの意味が変わってしまうことが、ときどき、あるんだよ。
 その幸運に恵まれて、それを嬉しく思えたら、それを幸福と呼ぶんだと、わたしは思う」

「……」

「大嫌いな自分が、思い出したくない過去が、『だからこそ』に繋がったら、もうそれは受け入れがたいものじゃなくなるんだ」

「……」

「だからきっと、わたしは不幸じゃなかったんだよ」


905 : 以下、名... - 2016/03/23 00:06:18.88 GUkSZoj/o 695/1065




 ちょっと散歩してくる、とそう言って部屋を出た。
 
 何かを考えようとした。
 何かを考えようとしたのにうまくいかない。
 
 ――世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。

「……」

 ――"かわいそうな子"の役は、いやだよ。

 何かが分かりそうだと思った。
 
 何かが繋がりそうになっている。ずっととぎれとぎれで、うまくつかめなかったもの。

 何を考えていたんだっけ? 
 よく思い出せない。

 何が引っかかっていたのか。何が気になっていたのか。
 

906 : 以下、名... - 2016/03/23 00:06:49.95 GUkSZoj/o 696/1065


 携帯を取り出して、ラインの画面を呼び出した。
 少しだけ迷って、意外とまだ早い時間だということに気付いて、コールした。

 よだかはすぐに出た。

「もしもし?」

「もしもし。よだか、もう着いた?」

「うん。けっこう前に」

「そっか。ならよかった」

「何かあったの?」

「……何かなくちゃ、連絡しちゃダメなのか?」

「ううん。うれしいよ」

 ちょっと、不自然なのかもな。
 あらかじめ態度を言明しようとするところとか。
 るーたち姉妹と比べると。


907 : 以下、名... - 2016/03/23 00:07:54.09 GUkSZoj/o 697/1065


「なあ、よだか、俺は、何か間違ったのかな」

「どしたの、たくみ?」

「変なことを言ってもいい?」

「たくみはいつも変なことしか言わないよ」

「俺は、おまえのために何かしたかったんだよ」

 よだかは返事をしなかった。
 そう思っていた。そういうつもりだった。

 腹を立てていた。
 そんな馬鹿な話があるかと、そんな身勝手が許されるか、と。

 そうやってきっと、俺はいつのまにか、彼女を閉じ込めていた。
「かわいそうな子」として。

 それもまた、軽蔑されてもしかたないくらいの、身勝手だったのかもしれない。
 

908 : 以下、名... - 2016/03/23 00:08:23.24 GUkSZoj/o 698/1065


「もっとできなきゃだめだ、とか、どうしてこんなにできないんだって思うのはさ、たくみ。
 それは、もっとできるはずだっていう自信とか、傲慢さとセットなんだと思うよ」

「……」

「たくみ、たくみが思うほどではないかもしれない。それでもたくみは、わたしにとってひとつの救いだったよ」

「……」

「話してくれるだけで、よかったんだ」

 夏の夜の空気は少し湿っていた。雨が降りそうな気がした。
 
「たくみは、誰かのために何かをするってことを、少し難しく考えすぎだよ」

「……」

「言ったって、たぶんわかんないだろうけど。でも、そういうの、わかってる人もいるはずだよ」

「……」

「たくみは、いろんなものに苛立ってて、腹を立てて、斜に構えてる。
 わたしは思うんだけど、それはたぶん、たくみのやさしさの裏返しなんだよね」

「……やさしさ?」

「誰かの不幸せ、誰かの無神経さ、誰かの迂闊さ、どこにでもある不条理。
 そういうものに苛立つのは、きっと、たくみがやさしいからだよ」

「……」


909 : 以下、名... - 2016/03/23 00:08:56.10 GUkSZoj/o 699/1065


「世界はもっと公平で、うつくしくて、やさしくあるべきだって、そう思うから、
 たくみはそういうものに苛立つんだと思う」

 やわらかい夜風が火照った頬を撫でていく。

「ふつうはさ、納得しちゃうんだよ。そういうもんだって。
 仕方ないじゃない。仕方ないことは、、どうしようもない。
 とにかくそういうものなんだ、そういうふうにできてるんだって、受け入れちゃうんだよ」

「……」

「でもね、それはそれでいいんだよ、たくみ」

「どういう意味?」

「誰かと繋がっているってわかれば、それだけで、少しだけ、がんばれるんだ」

 だからさ、とよだかは、

「だからさ、たくみはそれでいいんだよ」

 本当にそれでいいんだろうか、と少しだけ思って。
 でも俺もきっと、よだかがいることに、救われていたのだろうから。

「……うん」

 頷いた。
 遊馬兄が、静奈姉が、ちい姉が、すず姉が、美咲姉が、るーが、
 一緒にいてくれただけで楽しかったあの夏。

 世界はきっと、その頃からずっと変わらない仕組みでできている。


910 : 以下、名... - 2016/03/23 00:09:32.56 GUkSZoj/o 700/1065


「どうかな」とよだかは言った。

「なにが?」

「お姉ちゃんっぽいこと言えた? わたし」

「どうかな」と俺は笑った。
 
 本当の姉弟なら、そんなこと気にしないし、口に出さない。
 るーやちい姉とは、やっぱり俺たちは違う。

 それでも、それもひとつの形だといえる。
 俺たちなりの形。

「助かったよ」と俺は言った。

「うん。甘えていいよ。わたしも甘えるから」

「ありがとう」

「こちらこそありがとう」


911 : 以下、名... - 2016/03/23 00:09:59.52 GUkSZoj/o 701/1065




 酔っぱらった頭のなかで、いろんなことがぐるぐると巡っていた。

 いい加減認めるべきかもしれない。

 夜風に吹かれながら見慣れてしまった道を歩いている途中で、彼は待ち構えるみたいに立っていた。

「やあ」

 ずいぶん久しぶりだという気がする。
 立っていたのは鷹島スクイだった。

「ずいぶん酔ったみたいだな」

「どうも、そうみたいだ」
 
 俺はもう、彼がそこにいることを不思議とは思わなくなっていた。
 どこにでもあらわれる。
 俺がいるところなら、いつでも、どこでも。

「なあ、スクイ。おまえは結局、誰なんだ?」

 そう、訊ねてみた。答えらしい答えを期待したわけじゃない。

「鷹島スクイ」と、彼は案の定、答えになっていない答えを返してきた。
 でも、それが正解なのかもしれない。


912 : 以下、名... - 2016/03/23 00:10:52.24 GUkSZoj/o 702/1065



「おまえは、それでいいのかもしれないな」

 スクイは不意に、そんなことを言う。
 俺は頷いた。

「たぶん、そうなんだと思う」

 なんとなく、今の俺には分かる。
 スクイはきっと、俺自身が受け入れることのできなかった、俺の一部分だ。

 苛立ち、怒り、憤り。
 力を持たない正しさを、公正であることの報われなさを、
 許すことのできなかった俺の姿だ。
 
 俺はそれを、認めたくなかった。引きはがした。

 それがたぶん、鷹島スクイの正体だ。


913 : 以下、名... - 2016/03/23 00:11:18.45 GUkSZoj/o 703/1065


「藤宮ちはるといると、楽しいかい?」

 いつかした、そんな問いかけを、スクイは俺に向ける。

「楽しいよ」と俺は頷く。

「るーだけじゃない。高森も、佐伯も、ゴローも、部長も、すず姉もちい姉も静奈姉も。
 俺は、みんなのことが好きなんだよ」

「知ってるよ。楽しいかい?」

「楽しいよ」

 たとえ、その裏側で、誰かが苦しんでいても、悲しんでいても。
 その人のために何もしてやれなくても。
 俺はやっぱり、楽しんでしまう。

 何もできないこと、何もしていないこと。
 危害を加えているわけじゃない。

 それでもいつも、影のように張り付いたままのうしろめたさ。

 何もしないことの、有責性。


914 : 以下、名... - 2016/03/23 00:12:09.71 GUkSZoj/o 704/1065


「最初からわかってたことだよな」

 そう、スクイは言う。

「腹を空かせた熊を殺して、魚の卵を食べて、家畜を飼い殺して、生きてるんだ」

「……」

「誰かの悲しみを食べながら、俺たちは生きてる」

 その神経質さ、潔癖さを、本当にやさしさと呼んでいいのか、俺には分からない。

「生きることは、食べることだ」

 不運を、非業を、不満を、不幸せを、食べることだ。
 
「おまえは食べたくなかったんだろ」

 スクイの問いかけに、どうだろう、と首をかしげる。


915 : 以下、名... - 2016/03/23 00:12:40.97 GUkSZoj/o 705/1065


 たぶん。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

 そう言った。

「本当にそうだと思ったんだ。誰かがその裏で悲しんでいるなら、
 楽しいと思うことにはいつもうしろめたさが付きまとう」

 だから、誰かが不幸でいるうちは、幸福なんて感じられない。

 幸福なんてものは、ありえない、とスクイはいつか言っていた。
 
「でもさ、そうやって俺がつまらない顔をすることで、誰かが嫌な気分になるなら、
 結局俺は、誰かの幸せの邪魔をしてるだけだ」

「たしかに」とスクイは言う。


916 : 以下、名... - 2016/03/23 00:13:12.28 GUkSZoj/o 706/1065


「要するに俺は、目標の達成を急ぎすぎたんだな」

「急ぎすぎた」

「誰もが急にやさしくなって、みんなが急に幸せになるような、そんな展開。
 そういうのを探してたんだよ」

「へえ」

「でも、そんなの無理だ。だから、不平を漏らすくらいのことしかできなかった」

「おまえらしいといえば、おまえらしい」

 そうかもしれない。

「でも、よだかは、もう大丈夫だ」

「……」

「ちい姉だってるーだってすず姉だって静奈姉だって、遊馬兄だってきっと、いろんなものを消化して生きてるんだよな」

「……」


917 : 以下、名... - 2016/03/23 00:13:38.94 GUkSZoj/o 707/1065


「かわいそうな子の役は嫌だってよだかに言われたとき、俺はぎくりとしたんだ」

「……」

「よだかは救われなきゃいけないって思ってた。何か、きれいな形で。
 でも、あいつはもう、食べたんだ。何の救いもなくたってさ」

「……」

「そういうことなんだよな、たぶん。誰かの手で救われるわけじゃない。
 みんな、理不尽を、不条理を、食べて、強くなっていくんだ」

 そういうものなんだって、受け入れて。

「つまりさ、余計なお世話なんだよ。俺があれこれ頭を悩ませることなんて」

「……」

「俺にできることなんて、知れてるんだ。
 困ってる人の手伝いをして、そばにいたい相手のそばにいて、
 その人たちの幸せを願うしかない。だったらもう、考えることなんて無駄だ」

「そうみたいだな」とスクイは言った。


918 : 以下、名... - 2016/03/23 00:14:05.22 GUkSZoj/o 708/1065


「じゃあ、仲直りだ」

 そういって、スクイは俺に手を差し出した。

 俺はその手を握った。

 誰かが悲しんでいる。誰かが苦しんでいる。誰かが泣いている。
 だから俺は、自分だけ幸せになるなんて許されないと思った。

 その気持ちは、今でもなくなったわけじゃない。

「捨てられた猫、死んでしまった猫は、どうする?」

 俺は、やっぱり答えに窮したけど、

「それでも俺は、幸せなんだ」

 そう答えた。

 スクイは最後にポケットから煙草の箱とライターを取り出して、俺に差し出した。

「捨てといてくれ。もういらないから」

 俺が頷くと、スクイの姿は消えた。

 そうして彼は、二度と俺の前に姿を現さなかった。


919 : 以下、名... - 2016/03/23 00:14:32.46 GUkSZoj/o 709/1065


 俺はその場で蹲って呼吸を整えた。
 
 何かが溢れ出しそうだった。
 それがなんなのかもわからないまま、意識がたくさんの言葉の渦に呑まれる。
 
 俺の身体に何かが入り込んでいきたような気分にさえなる。

 俺はそれを、どうにか身体の中で受け止めようとする。
 
 しばらくしてから、俺はどうにか立ち上がった。

 シャッター音が聞こえた。

 小鳥遊こさちが立っていた。


920 : 以下、名... - 2016/03/23 00:15:03.20 GUkSZoj/o 710/1065


「和解ですか?」

「……」

「あら、しんどそうですね」

「……きみも、どこにでも現れるね」

「こさちは神出鬼没ですから。神でも鬼でもありませんが」

「じゃあ、なに」

「そんなに警戒しないでください。こさちはせんぱいとお話をしにきたんです」

「話……?」

「そろそろこさちもお役御免、といった具合のようなので」

「どういう意味……」

「ところでせんぱい、猫のことを覚えていますか?」

「……なに、それ」

「せんぱいが捨てた子猫のことですよ」とこさちは笑った。

 どうしてそれを知っているのか、と、そう問うことも無駄だという気がした。
 たしかに俺は子猫を捨てた。それは間違いない。

「こさち、せんぱいのことがだいすきですよ。今度は、嘘じゃないです」

「……」

「だから、もうこさちのことは忘れてください。お別れです」

 ――シャッター音。



続き
屋上に昇って【5】

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