関連
堕女神「私を、『淫魔』にしてください」【前編】
五日目
食堂
勇者「……今朝も、起こしに来てくれたな」
朝の支度を終えた勇者が、大食堂で隣女王を待つ。
紅茶の香りが朝の澄み渡った空気と溶け合い、差し込む朝日は室内を明るく照らした。
卓上の燭台や壁面の絵画、すでに並べ終えた食器らが日を浴びて輝く。
堕女神「昨日も今朝も、朝食の準備が早めに済んでおりましたので」
勇者「いつもの事じゃないのか?」
堕女神「…………陛下、お注ぎいたします」
上座に座って待つ勇者に、間を誤魔化すようにして堕女神が茶を注ぐ。
雲のように真っ白なティーポットから、カップに明るい琥珀色の液体が滑り込んだ。
ふわりと広がった香りが鼻腔をくすぐり、既に一杯を飲み終えたというのに、すぐに手が伸びた。
勇者「……落ち着くよ」
堕女神「恐れ入ります」
勇者「…ところで、ふっと気になったんだけど」
堕女神「何でしょうか」
勇者「……俺が来るまで、女王の代理を務めてたと聞いた」
堕女神「はい」
勇者「その間、隣の淫魔国との付き合いはなかったのか?」
堕女神「10年強ほど前まで。先代の隣国女王が伏せるまでは」
勇者「…ちなみに、こういう事を訊くと誤解されそうだけど……隣国と付き合うメリットは何だ?」
堕女神「織物と、それと上質な薬草類と鉱石が豊富に手に入ります。噂では隣国領内でオリハルコンの大鉱脈もいくつか見つかったとか」
勇者「なかなか恵まれた国じゃないか」
堕女神「はい、食料事情にさえ目を瞑れば、国力自体は侮れません」
勇者「……侮ってた。すまん」
堕女神「私に申されても」
勇者「それにしても、遅いな隣女王」
堕女神「誰か、様子を見に遣りましょうか?」
勇者「……これを飲み終えても来ないようなら」
堕女神「かしこまりました」
隣女王「お……おはようございます……」
カップの中身が半分を切った頃、隣女王が、側近達を伴って現れる。
後には彼女の小さな衛兵たちが続き、思い思いの席についた。
隣女王「申し訳ありません……寝心地が良いもので、つい……」
勇者「それはどうも。……堕女神、朝食にしてくれ」
堕女神「はい、少々お待ちください」
メイドが幼い客人達に朝の茶を淹れるのと時を同じくして、
彼女は折り目正しく一礼し、朝食を供するべく厨房へと去った。
勇者「…変な事を聞いていいかな」
隣女王「何でしょうか」
勇者「隣女王だけに訊く訳じゃないけれど……皆、嫌いな食べ物は無いのか?」
側近A「…陛下…何故、そのような事を?」
勇者「いや、皆子供の姿だから。何となく……好き嫌いが多そうで」
隣女王「……私は、特にありません」
側近A「私も、思いつきません」
側近B「私も特に」
勇者「……まぁ、好き嫌いが無いのはいい事だよ」
側近A「精液が飲めれば、たいていのものは平気になります」
側近B「ですね。最初は『こんな苦いもの、何故みんな平気なのだろう?』と思いましたもの」
側近C「ありましたね~。最初はついつい、飲み下す前に隠し持ってたお砂糖をサラサラっとお口に入れて~」
側近A「ええ。そのうち『生』のままグイッといけるようになって」
側近C「で、慣れてくるとお砂糖の甘さが邪魔に感じるんですよね~」
側近B「……こちらの淫魔の皆さまはどうでした? そちらのメイドの方は?」
メイド「私も、幼い頃は鼻をつまみながら無理やり飲み下しましたが……慣れてくると、香りも含めて楽しめるように……」
側近C「あるある~」
隣女王「……?」
勇者「…こほん。それはそうとして、今日帰ってしまうのか?」
隣女王「ええ……お昼前には。残念です…もっと、皆さんとお話したかったのですが」
勇者「…また、いつでも遊びに来てくれ。サキュバスBも会いたがってる」
隣女王「………っ」
勇者「?」
隣女王「す、すみません…! 何だか、急に……何故でしょう……?」
勇者「…もしそちらの国に行くとしたら、Bも連れて行く。約束するよ」
隣女王「…………はい」
勇者「さ、そろそろ朝食が来る。今日は何かな」
メイド「……暗い室内で間違って女性を襲ってしまうと気まずいですよね」
側近A「私達は『どちらにも』なれますが、なんとなくガッカリはしますね。もう口とお腹の中が『精液』用にできあがってしまってて」
側近B「ええ。手探りで相手の股間に触ると膨らみがなくて、『え!?』となりますね」
側近C「ほんとビックリするよね~……あるある」
メイド「あ、それと……窓が無い時って、どこから侵入するか悩みます。普通に扉を開けて入るのは、何か違う気が」
側近C「やっぱり、お月様をバックに窓開けてカーテンがふわふわ~ってなってないと、雰囲気がね~」
勇者「『淫魔あるある』はもういい!」
前日の晩餐に引き続き、賑やかな朝食を終え、少し経った頃に隣の国からの客人達は帰って行った。
見送りには小さな女王に一時の歓談を楽しませたサキュバスの姿もあった。
彼女もどこか名残惜しそうな表情を見せて別れを惜しんだものの、再会の約束を交わした後は、
澄み渡るような微笑みとともに、去っていく馬車に手を振り、その姿を見送った。
彼女を含めた使用人達は仕事に戻り、勇者と堕女神はその場で今日の予定を確認する。
堕女神「本日は、城下町の視察に赴いていただきます」
勇者「……そういえば、城下町をきちんと見た事は無かったな」
堕女神「馬車をご用意いたしました」
勇者「…………馬車?」
堕女神「…何か?」
勇者「自分の足で歩きたいな」
堕女神「……しかし…」
勇者「歩いて、町の活気や空気を感じたい。……言っておくが、これは命令じゃないよ」
堕女神「……かしこまりました」
勇者「ありがとう」
堕女神「それでは、しばしお休みになってください。ご出発の際にお呼びいたします」
寝室で一時の休息を取り、シャツの上から薄い外套を羽織り、エントランスを出て馬蹄形の階段を下りる。
彼の希望通り、そこに馬車はなく――代わりに、堕女神が立っていた。
堕女神「……陛下? もうよろしいのですか?」
黒鳥の羽色のドレスの上に同色のショールを纏う姿は、勇者でも、息を呑むほどに美しかった。
陽光の下で見ると、そのドレスには若干の青みを帯びている。
今朝に見たものとは細部が異なり、両側のスリットは浅く、膝上の十センチほどから切れ込んでいた。
胸元の開きも少なく、代わりに形の浮いたバストの上に載せられるように黒百合のコサージュが輝く。
長い黒髪は後ろで結い上げられ、すっきりとした首から顎のラインと、横顔の物憂げな美しさを強調していた。
勇者「着替えた?」
堕女神「ええ。畏れ多くも陛下と共に行くのですから、普段着という訳には……」
勇者「……あれで普段着?」
堕女神「無頓着すぎるでしょうか……申し訳ありません。明日からは注意いたします」
勇者「い、いや……いい。というか、一緒に来るの?」
堕女神「自ら歩きたいとの事でしたので。あまり物々しく衛兵を連れ歩くのはお嫌かと思い、私一人で」
勇者「ありがとう。………似合うよ。綺麗だ」
堕女神「……畏れ入ります、陛下」
城を正門から出て少し歩くと、大きな通りに出た。
行き交う民は様々な姿の淫魔ばかりで、その誰もが、見目麗しい美女の姿をしていた。
青肌のサキュバスから、何本ものふさふさした尾を生やした見慣れぬ衣服の半獣の淫魔、
舞い躍る羽衣で乳房や秘所を最低限に隠した、堕女神にも似た印象を受ける、どこか神々しい者まで。
彼女らには、人種どころか、「種族」という概念すらも無いように見えた。
サキュバスも、半獣の淫魔も、果ては大人の手のひらほどしかない妖精のような姿の種族も、皆が屈託なく笑って過ごしていた。
勇者「あんまり騒がれないな。国王が歩いてるってのに」
堕女神「一昨日の内に根回し致しました。視察の折は、不要に騒ぎ立てぬようにと」
勇者「好都合だけど……なんだか、それはそれで寂しい」
堕女神「……差し出がましい事をいたしました」
勇者「いや、謝らなくて……って、あれは?」
??店主「はい、見てってねー! 新作が入荷したわよー! 安いよー!」
「サキュバス」の店主が、店先に立って呼び込みをしていた。
肌の色は青ではなく人間に近い白色で、角と翼、そして長い尾が、かろうじて淫魔の面影を保たせている。
最も目を引くのは、その身に纏った――革と金属の鋲であつらえた面積の小さな、下着のような衣類。
堕女神「ああ、淫具店ですね。夜伽用のマジックアイテムを豊富に取り揃えております」
勇者「へー、淫具…………ってこんな表通りで!?」
堕女神「淫魔の国ですので」
勇者「…そうだった」
堕女神「確か、ここは四代続く由緒ある店です。入られますか?」
勇者「入ってみようか」
淫具店主「…あら、噂の国王陛下。それに堕女神様まで。いらっしゃいませ」
勇者「ちょっと視察でね。……見ても?」
淫具店主「ええ、勿論。何でしたら、お試しなさいますか? 私で」
勇者「……いい」
石造りの大きな建物内へ、店主に導かれるままに扉をくぐる。
内部は淫具店と聞いて想像するような、暗く濁った様子ではない。
近い例を探すのなら、勇者が旅の最中に訪れた、錬金術師の薬店に似ていた。
しかしそれよりも店内は広く、何より開け放たれた窓から差し込む陽気のおかげで、空気が澱んでいなかった。
勇者「……これは何だ? 何に使えるんだ」
入ってすぐの棚に置かれた、不格好な木の人形を眺めながら訊ねる。
大きさは手に収まる程度で、全体に、魔力の紋様が刻まれているようだ。
淫具店主「さすが陛下、お目が高い! その『人形』は人間界でも大好評ですよ!」
勇者「……人間界で取引を?」
淫具店主「はい。大っぴらにはやれませんが……ある魔術師と取引して、彼の店に特別に卸しているのです」
勇者「で、これはどう使うんだ」
淫具店主「使い方は簡単。ただ口づけするだけで、想いのままの姿に変化! そして、その後は……ふふっ」
勇者「把握した」
淫具店主「思うようなシチュエーションを楽しめますよ。奉仕させて良し、本気で抵抗するのをねじ伏せ犯すも良し、犯されて良し、俺に良しお前に良しみんなに良し」
勇者「……売れてるの?」
淫具店主「大ヒットセラーです」
勇者「…………」
淫具店主「お一ついかがですか? 何でしたら、満足いただけないようでしたらお代はお返しいたしますよ?」
勇者「遠慮しとくよ。………これは?」
人形を置いて、次に向かったのは、木箱に収められた、何の変哲もない真っ白な手袋。
肩近くまで届く、一見してどこにでもありそうな品だ。
淫具店主「それは『搾取の手袋』ですね。その手袋をはめると、まさに歴戦の淫魔の如き指業が身に付きます」
勇者「何に使うんだよ」
淫具店主「使い方は無限です。自慰してよし、パートナーへ手淫してよし、小さな淫魔の手コキの練習にもよし」
勇者「…ちなみにこれ、人間界で売るとしたらどれぐらいになる?」
淫具店主「以前、一足だけ競売に掛けましたが……金貨200枚で落札されました」
勇者「すご!」
淫具店主「落札したのは地方領主の奔放なバカ息子で、その手袋で遊び呆けて最期は女の一人に刺されて死にました」
勇者「……同情しづらい」
淫具店主「これは不味いと思って回収しました。二度と人間界には流さないようにいたします」
勇者「頼むぞ。……しかし堕女神、さっきから静かだな………って、何見てるんだ? それは?」
堕女神「………こんな物、いつ仕入れたのですか?」
視線の先には、頑丈な縄で宙吊りにされた大きなビンの中に、うねうねと蠢く太い肉片がのたくっていた。
瓶の中にさらに小さな瓶が入っており、肉片は、その中に二重に「密封」されている。
外側の瓶には何十枚もの呪符がべたべたと貼られ、そのオブジェは特に、店内でも異質な雰囲気に支配されていた。
淫具店主「とある筋から入手しました。私も最初疑ったのですが、未だに枯れぬ所を見ると……どうやら、本物です」
勇者「…おい、それは何だって訊いてるだろ」
堕女神「……『伝説のローパー』」
勇者「え?」
淫具店主「不死と言われる『伝説のローパー』の触手の欠片です。……軽く二百年は経つのに、未だに、その切断された末端が生きているのです」
勇者「冗談なんだろ?」
堕女神「私も見るのは初めてですが、これは本物です。間違いありません」
勇者「ぶら下げてるからには、これも売り物なのか」
淫具店主「……オススメはしませんがね。以前、これが盗難に遭ったことがあります。犯人は、近所に住む手癖の悪さで評判の『猫又』でした」
勇者「どうなったんだ?」
淫具店主「探して、彼女の家に踏み込んだ時には……精神崩壊寸前までイカされ続け、心臓が止まりかけていました」
勇者「こんな小さな欠片に? 淫魔が?」
淫具店主「彼女の精気を吸って、質量を増大させていました。私が見た時には枝分かれした蚯蚓のような姿でしたよ」
堕女神「それで、どうしたのですか?」
淫具店主「五人がかりで引き離してこの様に二重に密封して。『魔女』の呪符で魔力を吐き出させております。まぁ、休眠するまであと十年は必要かと」
勇者「こんな目立つところにそんな危ない物置くな」
淫具店主「なかなかいい宣伝になるのですよ。……さて、他に気になった品物などは? お試しになりますか? 奥にベッドがございますよ」
勇者「だから、それはいいっつってんだろ!」
淫具店主「……もう。でしたら、『インスタント触手』はいかがですか? お湯を注いで三分で触手が飛び出し、ねっとりと二時間は楽しめますよ」
勇者「いったい何入ってんの?」
淫具店主「秘密です。それならば、こちらの『ローパー化ポーション』はいかがです? 体の末端が枝分かれした触手に変化して媚薬も出せます」
勇者「いや、それ軽く人間やめる薬だよね」
淫具店主「では、この『聖なる極太張り型』は? どんな不感症でもまさしく『昇天』―――」
勇者「枕詞がおかしいわ!」
淫具店主「もう、激しい方ですね」
勇者「……邪魔したな。他にも見て回りたいから、今度ゆっくり来るよ。……行こうか」
堕女神「はい、陛下」
淫具店主「…まだまだ紹介したいオモチャがございますのに。必ず来てくださいね!」
勇者「……まぁ、楽しい店ではあったな」
堕女神「この国でも屈指の大店です。彼女の店で揃わぬものはありません」
勇者「次行こう、次。……あの看板は、書店か?」
堕女神「そうですね。入られますか?」
勇者「ああ、勿論」
次に、軒先に本の形をした金属のプレートをぶら下げた店に入る。
少し軋んだ音を立ててドアが開くと、いささか埃臭さも偲ばせる、「書庫」に独特の香りを吸い込ませてくる。
広い店内にはありとあらゆる書物が本棚に並べられ、判型は不揃いであっても、きっちりと分類されていた。
丸めた地図や、占術に用いる図版などが紐でまとめられて壺に立てて陳列され、
少し広く取られた空間には、暖炉を囲むようにふかふかと座り心地の良さそうな長椅子や、ロッキングチェアが備わっている。
書店主「……ふわ~ぁ……お客様かしら…?」
カウンターに伏していた妙齢に見える淫魔が、気配を感じて顔を上げ、扉の前に立つ二人の来客を見た。
眠たげな潤んだ眼差しはいかにも柔和で、ゆるく巻き癖のある髪も相まって、どこか気だるげな雰囲気を醸し出す。
肉体はかっちりとした衣服の上からも分かるほどにむちむちと豊満で、指先に至るまで何処に触れても柔らかそうだ。
優しく包み込む薄絹のような声にどこか安堵しながら、勇者が話を切り出した。
勇者「…すまないが、客じゃない。新しく国王になって、今日は城下の視察に……」
書店主「え……? 本日は遠い所をわざわざどうも~。……ところで、どこの国から参られました?」
勇者「いや、この国だよ! 王様だよ!」
書店主「は~……そうだったんですかぁ……遠い所からお疲れ様です……」
それだけ言うと、書店主の瞼は少しずつ落ちていき、閉じる寸前になり、再び薄目に開かれた。
書店主「…あら。堕女神様~……国王陛下まで、ご一緒に……何の御用件でしょうか?」
勇者「だから、視察だって言ったよね!? 話聞いてた!?」
堕女神「……お変わりないですね」
書店主「それはそれは、ありがとうございます~……何かお役に立てます?」
勇者「…調子はどうなんだ?」
書店主「まぁ、普通ですねぇ。あ、でも最近はお子様向けの童話本がよく売れますよ~」
勇者「…どんな?」
書店主「やっぱり、鉄板はこれですね。……『マッチ買いの少女』」
勇者「……タイトルがおかしくない?」
書店主「いやいや、合ってますよぉ。さわりだけお読みしますか?」
勇者「頼むよ」
書店主「……ごほん。昔々、あるところに、貧しいけれど、とても優しくてきれいな少女がおりました」
勇者「…普通だな」
書店主「継母にいじめられており、お金を稼いで帰らないと、ひどいお仕置きをされてしまいます」
勇者「ここまでも普通だな」
書店主「……そこで彼女は、道行く男の人にこう言います。『ねぇ……私のここ、寒くて凍えそうなの……』」
勇者「んん……?」
書店主「『あなたの熱くて立派なもので…暖めて下さい……』そう言うと彼女はスカートをめくり上げ―――」
勇者「ストップ。やっぱりな、やっぱりこういう展開だ」
書店主「ここからがいいところなんですよぉ」
勇者「どうなるんだよ」
書店主「最後は異国から来た旅人に見初められ、一緒に旅立ちます。感動のシーンですよ」
勇者「一応ハッピーエンドなのな」
堕女神「その前に一度、騙されて悪趣味な富豪のもとに売り飛ばされる場面がありますが」
勇者「子どもに聞かせる話かよ」
堕女神「淫魔の国ですから」
書店主「いえ、最近のはその場面はカットされてますよぉ。流石に不適切だって事で」
堕女神「そうなのですか?」
書店主「代わりに、少女が常連客のおじさまに徹底的にお尻を開発される場面が入ってますねぇ」
勇者「もっと酷いわ!」
書店主「これでも最近のは、かなりソフトな描写になったんですよ?」
勇者(……書庫に原典あるかな)
書店主「あぁ、あとこれですね。『淫魔と七人の穴兄弟』」
勇者「タイトルだけで中身が分かるぞ」
書店主「『淫魔と野獣』」
勇者「濃厚そう」
書店主「『精かぶり姫』はどうです? 主人公は、継父と二人の義兄にいじめられ―――」
勇者「読むまでもない感じ」
書店主「『女盗賊強制異種姦ボテボテ孕ませ産卵地獄』」
勇者「え?」
書店主「あ……間違えた。これは人間界で買ってきたやつでした~」
勇者(…………どっちもどっち……)
書店主「せっかく来てくれたんですから、お茶でも淹れますねぇ。色々見ててください」
そう言って、書店を営む淫魔は奥へと引っ込んでしまう。
残された二人のうち、勇者は何気なく店内を歩き、つぶさに見て回る。
魔道書や学術書など、いわゆる「お堅い」本はあまり置いていない。
人間の作家の書き記した文学作品をはじめ、様々な「物語」に重点を置いて揃えているようだ。
もう一人―――堕女神もまた店内を流していたが、ひたと立ち止まり、本棚に手を伸ばす。
薄く積もった埃を舞わせて、革で装丁を施された一冊の古めかしい本を手に取り、めくる。
それは、人類の歴史の中に現れ、崇められた神々を書き記した書物だった。
世界を作った女神に始まり、人類を見つめ、加護し、時には正しい方向に導いてきた神々達。
文字通りの神代だが――今、手に取っている者は、それを知る者だ。
気が遠くなるような大昔に、人類を見つめてきた、正真正銘の元「女神」なのだ。
なれば、その本に描かれているのは、かつての「同族」達の姿に他ならない。
しばらくぱらぱらとめくっていると、ひとつのページに行き当たり、動きを止めた。
そこに描かれていたのは――――。
堕女神「……」
唇を震わせながら、彼女にしてはあまりに粗暴な動作で本が閉じられる。
幾分か頭が冷えた後に棚へと戻すと、棚の隙間から、ちょうど向かい側にいる勇者の口元が見えた。
引き結ばれた口元は思索にふけっているようでもある。
堕女神「……陛下?」
棚を迂回して、横から問いかける。
垂れた髪で眼元の様子は伺いしれず、恐らくは視線の先にある一冊の本に集中している。
横から覗けたのは、挿絵から見て……子供向けの、おとぎ話。
勇者「…ん、何だ?」
顔を上げ、本に集中していた視線を堕女神に向ける。
その目には憂いがあり、まかり間違えば―――柔弱、とも表現できてしまいそうな危うさにも近い。
堕女神「何を、お読みに?」
勇者「……この本、ここにもあったんだな」
彼が読んでいたのは、人間界ではありふれて、誰しも一度は読んだことのある……『勇者』の物語。
『勇者』が仲間たちと旅をして、最後は憎き『魔王』を討ち果たす、英雄譚。
彼自身も例外ではなく、この物語に聞き入り、憧れた事があった。
――――その憧憬が、叶う事を知らなかった頃に。
勇者「……読んだ事、あるか?」
堕女神「…いえ、残念ながら」
勇者「……世界を滅ぼそうとする『魔王』。倒して平和を取り戻そうとする『勇者』の話さ」
堕女神「………どうなるのです?」
勇者「何の事も無いさ。仲間と旅をして、『魔王』を倒して―――それで、オシマイ」
堕女神「おしまい……」
勇者「ああ。……この物語は、そこで終わっているんだ。『勇者』が『魔王』を倒して終わり。そこから先はない」
堕女神「………?」
勇者「なぁ、堕女神」
堕女神「はい」
勇者「……このあと、『勇者』はどうなったんだろうな?」
先ほどの堕女神とは対照的に、ゆっくりと本を閉じ、そのまま……自らの胸に押し付け、目を閉じる。
さながら聖職者がそうするかのように、穏やかな動作で。
勇者「……『魔王』を倒した『勇者』は、その後……どうなったのかな」
堕女神「……世界を救ったのですよね?」
勇者「…………ああ、救った」
堕女神「それならば……持て囃され、幸せに暮らしたのではないでしょうか」
勇者「俺も、そう思ってた。……きっとそうなんだろうな、って」
堕女神「…違うと?」
勇者「……この話さ。本当に、『魔王』を倒した場面で終わってるんだ。その後の事は、一行たりとも触れられてない」
堕女神「その……つまり?」
勇者「別に。ただ、それだけさ。……この後、『勇者』はどこに行くんだろうって」
堕女神「どうなされたのですか?」
勇者「……さぁ。忘れてくれ」
堕女神「……」
半ば強引に話に区切りをつけた頃に、書店主が嗅ぎなれない香りを放つ飲み物を盆に載せて運んできた。
目の覚めるような香ばしい薫りがたった三杯のそれによって店内へ広がり、勇者と堕女神とを、カウンターへと引き寄せる。
書店主「お待たせしました~。さる筋から手に入れた、確か…『コーヒー』という飲み物です」
勇者「……真っ黒だな。大丈夫なのか? これ」
堕女神「良い香りではありますが……毒見いたしましょうか」
書店主「大丈夫ですよぉ。既に私が何杯も飲んでますから」
勇者「それじゃ、いただこうかな」
カウンターに置かれたカップを取り、恐る恐る口をつけ、湯気を吸い込むように啜り込む。
焦るように堕女神も同じくカップを取って、口に含む。
勇者「っ……苦いな」
堕女神「…………え、ええ…」
書店主「匂いはいいんですけどねぇ。何か足してみるといいのかも。お砂糖とかミルクとか……?」
勇者「……でも、気に入った。またご馳走してくれるかな」
書店主「ええ、大歓迎です。堕女神様もいつでもどうぞ」
堕女神「ありがとうございます」
勇者「…飲み終えたら、行こうか。まだ見たい場所があるんだ」
堕女神「はい」
書店主「あぁん、もう。ゆっくりして下さればいいのに……」
「コーヒー」の薫りと古いインクと紙の匂いに包まれ、時計の秒針と分針を取りさってしまったような。遅く流れるような時間。
カップを空にするまで、この一時に……勇者は、身を任せて過ごした。
勇者「……なんか、行く先々でおちょくられてる気がするんだけど」
堕女神「は……そうでしょうか?」
その後覗いた鍛冶屋では悪趣味な鎧と到底振り回せなさそうな大剣を勧められ、
酒場では昼間にも関わらずしつこく酒を勧められ、
花屋では鉢植えの中でうごめく肉食の巨大花を勧められた。
勇者「最初の淫具屋からして、もう……何か」
堕女神「……私から、厳重に注意しておきます。申し訳ありません」
勇者「いや、いいってば。……あまり真面目に取るなよ」
堕女神「……お言葉ですが、陛下の言葉はすなわち、『国王』の一声なので」
勇者「軽口もうかつに叩けないな。……ん?」
???「あー! 王さまだっ!」
???「え…王さま……?」
二人の小さな子供が、街を歩く国王につられて寄ってくる。
人間の子と変わらない屈託のない笑顔を向けるが、もちろん、人間ではない。
その子供達は、下半身が尾に向かって先細る、蛇の形をしていた。
腰を境に一メートル半ほど伸び、短めの巻きスカートで臍から下数十センチを覆い隠している。
髪は黒く、肌は浅黄色、茶色い瞳に光を宿らせ、音も立てずに近づいてきていた。
そう、彼女らは―――蛇の半身を持つ、「ラミア」と呼ばれる種族。
勇者「やぁ。……というか、何故王さまだって……」
ラミア子A「だって、男の人なんて王さましかいないもん!」
ラミア子B「…うん。王さましかいない」
勇者「ははっ……まぁ、そうか」
ラミア子A「王さま、何してるんですか!?」
勇者「街を見て回ってるのさ。君たちは?」
ラミア子B「お母さんに言われて……おつかいしてきたの」
見ると、やや物静かな方は、小さなバスケットを下げていた。
その中には、恐らく「おつかい」を命じられた品物が入っているのだろう。
勇者「…そっか、偉いな。ところで、何のおつかいかな?」
ラミア子A「今日のお夕飯! コカトリスのもも肉のロースト! だいすきなのー!」
勇者「コっ……!?」
ラミア子B「王さまはたべたことありますか? コカトリス……」
無言のまま、それでいて弾かれるようにどこか怯えた疑いの目を堕女神へ。
思い返せば――今日までの食事で、「鳥肉」と思しき物も、何度か出ていた。
堕女神「……これまでコカトリスの肉は使っておりません、ご安心ください」
勇者「そ、そう……か……」
堕女神「あ、いえ……卵は使いました。今朝のプディングに」
勇者「えっ」
堕女神「お嫌いでしたか?」
勇者「い、いや……美味しかったけど……うん」
ラミア子A「あれー? 王さま、あついの?」
ラミア子B「汗、出てる」
勇者「……ハハハハ。それより、おつかいなら早く帰らなきゃ」
ラミア子A「えー……」
ラミア子B「あのね……王さま。おねがい、あるの」
勇者「ん?」
ラミア子B「……こんど、ね」
勇者「今度?」
ラミア子B「ふぇ、ふぇらちおのれんしゅうさせてください!!」
ラミア子A「あ、ずるい! わたしも! わたしにもさせて!」
勇者「いや、待てよ。待て。待ちなさい」
ラミア子B「お母さんはまだだめっていうけど……やってみたいの!」
堕女神「犯罪ですよ、陛下。この国では―――」
勇者「知ってるよ!」
ラミア子B「おねがいします! ふぇらちお、させてください!」
勇者「やめなさい、大声で言うんじゃありません」
ラミア子A「ふぇらちお! ふぇらちおー! 王さま、ふぇらちおー!」
勇者「あああああ面白がって連発する! 子供か!」
堕女神「子供です」
勇者「……あのね、君たち。大人になるまで、そういう事はしちゃダメだから」
ラミア子B「えー……」
ラミア子A「待てないよう」
勇者(……普通、こういうのって『大人になったら王さまと結婚するー』とかじゃないの?)
勇者「……とにかく、大人になるまで待ちなさい。分かったね?」
ラミア子A「はぁーい……」
ラミア子B「……はい」
勇者「よし。それじゃ、もうそろそろ日も暮れるし、帰るんだ」
ラミア子B「…ふぇらちお……」
勇者「諦めなさい。……それじゃ、気を付けて帰るんだぞ」
どこかしょんぼりとした様子で、二人の小さな魔物は家路に着いていく。
蛇のように体をくねらせ、音もなく石畳の上を滑り、何度も振り返り、手を振りながら。
勇者「…ところで、あれって『淫魔』なのか?」
堕女神「『ラミア』は違います。魔の眷属でさえなく、『魔物』に近いかと」
勇者「なのに、『淫魔』の国に?」
堕女神「……来たる者は拒みません。それに、この国で二代も家系を伸ばせば、『淫魔』のような体質になります」
勇者「…確かに、『魔物』の環境適応力は恐ろしいものな」
堕女神「そういう事です」
勇者「……そろそろ夕暮れかな」
堕女神「はい。お身体を冷やすといけませんので、お戻りになられては」
勇者「…そうだな、帰ろう」
堕女神「………?」
勇者「どうかしたのか?」
堕女神「あ、いえ……気のせいか、向こうが騒がしく……」
勇者「喧嘩か? ……確認してから帰ろうか。その為の『視察』でもある」
そう言って、勇者は堕女神が目を向けた方角――城下と外界を結ぶ城門へと、早足に向かう。
後ろに侍る彼女に配慮し、気にかけつつも、できる限りに速く。
気のせいではない。
確かに城門へ向かうに従って城下の民のざわつきが大きくなり、城門前広場に辿り着いた時には、
人だかりが出来上がっており、その中心に何があるのか、一目で知る事はできなかった。
怒号や野次は、聞こえてこない。
少なくとも、喧嘩といったものではない。
むしろ――――煽り立てるような動揺の色を、彼女らは表情に浮かべているように見えた。
勇者「……通せ。何があった?」
町民「…こ、国王陛下!? 何故こんな所に」
勇者「後だ。……何があるのか、説明してくれ」
町民「は……。隣国からの使節団が、昼前頃に隣国へ向けて出発したのですが……。今、治癒を行ってます」
勇者「……治癒? 何故だ」
町民「ご覧になるのが早いです」
勇者「…………」
堕女神「道を開けてください! 国王陛下が通ります!」
凛とした一声を合図に、その声に振り返った者達が驚きとともに人ごみを真っ二つに割り、道を作る。
ざわめきさえも聞こえない。
ただ、堕ちた女神を従者として侍らせ、人垣の中を堂々と歩く新たな王に、視線が注がれる。
どことない好奇の視線も雑じり、淫魔達はただ見続ける。
勇者もまた無数の目に籠められる思惑を感じながらも、その足に迷いは無かった。
人垣の中心へと辿り着くと、そこには、幼い姿の………隣国の淫魔が一人、倒れていた。
土埃で薄汚れてはいるが、今朝送り出したばかりの隣女王の護衛に違いない。
彼女を囲み、二人の淫魔が回復呪文を施しているが、その小さく華奢な体は、小さくわずかに身じろぎするのみ。
勇者「何があった!?」
隣国衛兵「……女王、さま……」
ようやく薄目を開けた彼女を見て、回復にあたっていた淫魔達は安堵の息を吐き、立ち上がり、離れる。
目立つ外傷は無いか、それともすでに彼女らによって回復され、傷が塞がっていたのか。
勇者「…隣女王は? なぜ、戻ってきたんだ?」
隣国衛兵「…トロール……が……」
堕女神「トロール……」
そのモンスターの名を聞き、二人は同じ結論に達したようだ。
勇者「……例のトロールか?」
堕女神「…………」
隣国衛兵「……お願……し…ます……女王、さま……を……」
震える声とともに弱々しく虚空へ伸ばされたその手は、とても細かった。
ひどく青ざめた顔と薄く開かれた目は、眼前の相手が何者であるかを認識できない。
ただ、心からの願いを―――誰かに、託そうとしている。
勇者はその手を取り、力強く、そして優しく握り締めた。
古めかしい英雄譚の色褪せた挿絵に描かれた、あの「男」のように。
後世に描かれるのかもしれなかった、「自分」のように。
勇者「……俺にまかせろ」
――――気付けば、そこは薄暗い森の中だった。
木々の切れ間から夕闇に近づく茜色の空が見える以外、情報は無い。
両手足を毛羽立った荒縄できつく縛られ、感覚がマヒしかけていた。
ふと顔を左右に振れば、同じようにして、同族の――――少女の姿の淫魔達が、
乱暴に、無造作に折り重ねられるように縛められていた。
隣女王「……ここ…は……?」
後ろ手に縛られたまま木にもたれていると、背後に―――木の幹を隔てて、大きな呼吸が聞こえた。
逸った獣のような、その「息」が回り込んでくる。
身体は硬直し、凍りついた神経は、震える事さえも忘れた。
耳元に不快に生暖かく、荒い息が吹きかかる。
隣女王「…ひっ……!」
油の切れた歯車のようにぎこちなく、首を回して吐息のした側を見る。
ゆっくりと―――ゆっくりと視界に木々の緑とは違う、脂が浮き、生々しく沈んだ凹凸の激しい暗い緑の「肌」が映る。
つぶれた鼻と、ぎょろりとした目、禍々しく尖った歯列と、目まいのするような青紫色の舌。
覗きこんでくるその顔の持ち主は、いつか図鑑で見た事がある。
しばらくの間そうしていると、怪物は野太い声で「クウ」とだけ鳴いて、どこかへ去って行った。
重い足音とともに大地が揺れ、隠れていた体躯の巨大さを想像させた。
隣女王「……誰か…起きて、いますか?」
「怪物」が去ったのを確認し、できるだけ小声で呼びかける。
薄暗いが、どうにか二十人ほどの姿が確認できた。
三人の従者の姿を見つける事ができ、衛兵達は武器を取り上げられていた。
隣女王「……誰か…?」
側近B「…う……」
隣女王「……聞こえますか?」
薄闇の中から帰ってきた声は、襲ってきた非日常への恐怖を幾分か忘れさせてくれた。
縋るように、それでいて彼女らを動揺させないよう、つとめて平静を振舞おうと試みる。
側近B「…ここは……何処です…?」
隣女王「…………分かりません。恐らくは森の中でしょうけれど…」
側近B「…そうだ、トロール……トロールが、襲って……っ!」
隣女王「……大丈夫。今はここにいません。それより……この縄を……」
側近B「………そうですね、何とか…解いて……」
ずぐん、ずぐん、と、森の奥から重い足音がいくつも響く。
揺れた木々から木の葉が落ち、近づく震動に、他の者達も目を覚まし始めた。
彼女らもまた状況を把握しきれぬのか、困惑した顔を突き合わせるのみ。
隣女王「…戻ってきましたか」
足音の主―――おそらくはトロール達は、木を挟んで後ろに集まり、何かを行っている。
トロール達が群れる事が出来るという事は、恐らく広いスペースがあるのだろう。
何かを軋ませ、積み上げるような作業を行っているのかもしれない。
状況を把握するべく身をくねらせて倒れ込んだ拍子に、頬が木の根に当たり擦り?けた。
隣女王「…つっ……!」
頬に走った鋭い痛みに耐え、どうにか、トロール達が行っている「作業」の様子が見えた。
薪を積み上げ、焚き火の準備をしているようだ。
しかし、不自然なほどに大きく広い。
傍らには、彼らの腕のように太い丸太と、荒縄がとぐろを巻く蛇のように積み重なっていた。
十体ほどいたトロールの一体が、気配を感じたのかこちらに目を向ける。
先ほどとは別の個体らしく、興味深げにしげしげと見つめてくる。
隣女王「……?」
トロール「……クウ」
にんまりと嗤い、先ほどのトロールと同じように鳴き、作業に戻っていく。
その後も、同胞の視線につられたのか、何体かのトロールが彼女を振り返り、眺め、時には舌なめずりし―――同じ鳴き声を聞かせた。
彼らがだらしなく涎を落としているのに気付き――――――ようやく、気付けた。
鳴き声じゃない。
彼らはずっと、「言葉」を発していたのだ。
「食う」と。
トロール達は、嬉々として、積み上げた焚きつけの上に種火を投げ込む。
獣脂でも撒かれていたのか、火は勢いよく燃え広がり、周辺を明るく照らし出した。
隣女王「そん…な………」
焚き火の周りには、少なく見ても20体強のトロールが集まっていた。
揺れる炎に照らされた顔は必要以上に恐ろしく、獰猛に見えた。
隣女王「……そんな……わたし……私、達……本当に……」
その先は、言葉にできなかった。
考えるごとに喉の奥が窄み、いがいがと不快感が押し寄せ、胸が圧迫されたように苦しくなる。
恐ろしい未来に、焚き火とトロール達によって生々しい現実感が注ぎ込まれている。
足の付け根が、じわじわと生暖かくなる。
戦慄のあまりに、それが自らの尿だと気付く事に時間がかかった。
充分に火の勢いがついたのを確認したか、一体のトロールが、丸太と縄を取り出す。
傍らには、石を乱暴に削り出してつくった、どす黒く変色した大ぶりの刃物が突き立っていた。
トロールA「……ドレカラ、イク」
トロールB「…ノゾイテル、ヤツ」
二体のトロールの視線に誘われるように―――トロール達はいっせいにこちらを見た。
隣女王「い、いや……そんなの…いや……です……」
逃げようにも、手足をきつく縛られたままでは這う事さえままならない。
トロールが近寄り、足首を無造作に掴まれ、引っ立てられるまで―――何も、できなかった。
乱暴に剥ぎ取られた服は、焚き火の中に放り込まれた。
靴さえも脱がされ、トロール達の視線が遮るものの無くなった体に突き刺さるが、羞恥心は湧かなかった。
何故ならば、彼らの目には、血走った肉欲など欠片も無い。
吊るされた肉の塊を見るような。
そう……新鮮な肉、としか認識していないようだから。
おもむろに、両手足を拘束していた縄が引き千切られる。
手足に血流が戻り、ぴりぴりと痺れさせながらも、ともかく、手足は自由になった。
隣女王「…え……?」
トロールA「…逃ゲタラ、他ノ……生キタママ、タベル」
トロールB「……コッチニコイ、肉」
トロールC「…久シブリノ、肉」
トロールD「久シブリダ」
もはや―――魔族としても、淫魔としても認識などされていなかった。
文字通りの、隠喩でも何でもない、「肉」でしかなかったのだ。
恐ろしさと、いよいよ逃れられないと悟った恐怖で、歯の根が合わない。
がちがちと奥歯が震えて、その場にへたり込んだまま、立ち上がる事さえもできなかった。
しっとりと濡れた太ももに風が当たり、寒気が更に加わる。
この場にいるトロール達から逃げる事ができるとしても、側近と忠実な衛兵達がその代わりになるだけ。
そもそも―――逃げるのは、無理だ。
少女の脚では、巨体を誇るトロールを振り払って逃げる事などできはしない。
そして生きたまま四肢を裂かれ、臓腑を引き出され、弄ぶように貪られるだけだ。
その未来を胸に―――止め処なく震える足に力を籠め、立ち上がる。
トロール達をまっすぐに見つめ返す瞳に、迷いは無い。
隣女王「…………私からに、しなさい」
背には、二十の従者達が拘束されて横たわっている。
彼女らは家臣である前に―――「民」、なのだ。
淫魔ではあっても、この身に魔力は無い。
魔族の一柱に属していても、迫りくる低級の獣人一体とて、倒せはしない。
恐らく、この小さな体についた僅かな肉では、このトロール達を満足させることなどできはしない。
それでも、逃げる事などできなかった。
臣民が生きながらにして貪られ、末摩を断つ叫び声を背に森の中を逃げ回る事が、恐ろしかった。
もはや、この身には彼女らを救う手だてなどない……と、思っていた。
ほんの少し前に、気付いていた。
辺りを見回し、従者を一人ずつ顔を確認して数え上げていったが―――足りなかった。
最後方の馬車についていた衛兵の一人が、いなかったのだ。
加えて、トロールは「久しぶりの肉」と確かに言った。
恐らく、彼女だけは逃れる事に成功している。
距離から言って、ここはまだ、淫魔の大国の領内。
まだ本国へは距離があるのだから、彼女は近くの村にでも、助けを呼びに行っているはずだ。
すでに殺されている、という可能性は薄い。
何故ならば、繰り返すが、トロール達は「久しぶりの肉」と言った。
この獣人達は、たとえ殺してしまっても、お構いなしに食らうはずだ。
救援が来るまでに、恐らくこの身は間に合わないだろう。
その間に火にくべられ、全身を焼かれ、炎の中で苦悶し、その悲鳴さえも焼き尽くされる。
喉が焼け、胸の中が焼け、それでも一瞬に死に切る事はできない。
焼けて弾けた肺胞が呼吸を止め、炎の海の中で溺れ死ぬのだ。
しかし必ず、救援は来てくれる。
――――たとえ、私には…間に合わなくても。必ず、来てくれる。
――――あの陛下は、約束してくれた。
――――ならばできる事は、ただひとつ。
――――この身を差し出して……トロール達の胃袋から、少しでも時間を稼ぐ。
覚悟を決め、焚き火へと進み出ると、トロールの腕がそれ以上進まぬようにと制した。
そして別の一体が、傍らのものとは別の、細く削った丸太を持ってきた。
細く、と言ってもその径は人間の大人の腕ほどはある。
特に先端が尖らされており、それはもはや、丸太ではなく、即席の「槍」と言ってもよい。
隣女王「――――かはっ!」
不意に後ろから引き倒され、背中に衝撃を感じる。
息を詰まらせ、事態を把握しようと努めるが―――その試みは、秘所へちくりと感じた痛みに、妨げられた。
木製の槍を手にしたトロールは、倒されて露わになった股間の、
ひたと閉じた割れ目と、小さな桃色の窄みを、何度も串の先端で引っ掻く。
隣女王「う、嘘……」
串刺しに、するつもりだ。
尻から口までを一直線に貫き、火にくべて食らうつもりだ。
魚にでもそうするかのように、容赦なく。
隣女王「や、やだ…やめて……やめてぇぇ!!」
口をついて出たのは、既に「女王」の声ではなかった。
裏返った声は、無力な「少女」の懇願―――いや、命乞い。
狙いを定めたトロールは、柔らかく小さな肛門へと、串の尖端を押し付ける。
隣女王「いやっ! いやぁ…! ……助けて! 誰か、助けてくださいっ!!」
トロール達は獲物の鳴き声に満足し、その光景をぎらぎらと目を輝かせて愉しむ。
来る筈の無い助けを請い、威厳も霧消させ、その身をばたつかせる、その姿を。
「串」の先端が、肛門を押し広げ、数ミリほど沈み込む。
いよいよ逃れられない、惨すぎる恐怖は――――
隣女王「ひっ……! いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
至近に聞こえた、雷鳴の轟きが拭い去った。
小さな体を押さえつけていたトロールも、串を手に取っていたトロールも、動揺とともに周囲を見回す。
振り返れば―――同胞がぷすぷすと黒煙を上げ、倒れる事さえできずに絶命していた。
???「……間に合ったようです。陛下」
???「彼女らは任せた。奴らは俺がやる」
???「……僭越ではありますが、私が……」
???「…これは、俺が受けた依頼(クエスト)なんだ」
直後、「串」を手にしていたトロールが吹き飛ばされ、焚き火の中へと叩き込まれる。
雷に一瞬で焼かれた焦げ臭さとはまた違う、じわじわと肉が焼ける、不快な匂いが立ち込めた。
当のトロールが炎の中でもがき、断末摩の声を上げると同時に、隣女王の身体を押さえつけるトロールも離れた。
恐れた。
目の前にいる「男」を。
淫魔の国の王となった、ただ一人の人間を。
勇者「…遅くなって、すまなかった」
彼は周囲のトロール達の動向など気にも留めずに跪き、裸体を晒す隣女王へ、自らの外套を羽織らせる。
勇者の体温で暖められた重厚な絹の外套は、彼女の身体を優しく、暖かく包み込んだ。
その暖かさに、彼女の目からは涙がこぼれ―――しゃくり上げるように、泣き出してしまう。
垂れ落ちる洟さえ気にせず、安堵と、今までに起こった恐怖の連続とを思い、とめどなく涙を溢れさせて。
隣女王「…っく……ひっく……。う、…うぇぇ……」
ぼろぼろと泣き続ける彼女の頭を、勇者は優しく、胸に抱き締める。
不思議と、彼女は……周囲を取り囲むトロールの殺気など、もはや微塵も気に留めてはいない。
圧倒的な安心感と、抱き締めた男の胸から伝わる静かな命の鼓動が、何よりも力強かった。
隣女王「…あり…がとう…ございます……」
勇者「……礼は早いな。それに、俺は――――」
二人へ向けて、トロールが棍棒を振り下ろす。
狙いは後ろから、勇者の脳天―――否、その棍棒は、二人をまとめて血のシミへと変える質量を持っていた。
しかしその棍棒は、届くことは無かった。
二人を取り囲むように半球形の結界が現れ、まるで鋼の壁のように、岩石から削り出した棍棒が逆に弾き折られた。
衝撃でトロールの鎖骨がへし折れ、反吐をまき散らしながら、苦悶とともに二人から離れる。
勇者「……この中にいれば、大丈夫だ。長くはもたないが……切れる前に、終わらせるよ」
不破にして不可侵、超硬度の結界を内側からすり抜け、彼女を結界の中に残し、無造作にトロール達と対峙する。
未だに数は20を数え、手に手に石斧、棍棒、丸太といった雑多な武器を携えている。
それに対し勇者は徒手空拳。
腰に提げた剣は抜かれず、構えさえも取らず、勇者は獣人達の包囲のただ中へと進み出る。
勇者「…手垢まみれの『金』も、貴様らから得る『経験』も、いらない」
拳の中に紫電を握り締め、雷雲にて鎧われた拳を突き出して呟く。
勇者「――――逃げるなら、今のうちだ」
前進し、得物を振りかぶった二体のトロールを雷が灼く。
雷撃は一撃で二つの命を刈り取り、振りかぶったままの姿勢で息絶えた。
眼前の男の睨みつける眼差しにトロール達は怯むが、それでも退く事は無い。
食欲のままに、あるいは嗜虐心のままに、「結界」の中で震える少女を見やる。
仲間が減った事さえも、彼らは悲しんでなどいない。
むしろ、その逆………「分け前が増えた」以上の意味を見出していない。
証拠に、彼らは、嗤っていた。
とがった小石を適当に散らしたような歯並びの悪い口腔を見せつけるように、顔を歪めていた。
そして、おぞましい事に―――その顔は、勇者と隣女王にだけ向けられてはいない。
雷に打たれ、焼け焦げた亡骸となったトロール達へも向けられていたのだ。
もし、仮に目の前の男を倒す事ができたとしたら……小さな淫魔達を喰い殺し、
足りぬ分は、自らの同胞達の肉をも喰らうつもりだ。
勇者「………来い」
哀しみさえ宿した声で、呟く。
トロールの内には、「仲間」という概念さえ無かった。
同じ種族の群れ、というだけで、「仲間」ではない。
勇者「……『逃げない』んだろ?」
半球の結界の内側から、彼女はずっと見ていた。
雷の音が聞こえるたびに耳を塞ぎ、轟音に身を竦ませる。
トロール達の武器が地を叩き、そして木をへし折る度に伝わる大地の揺れにも同じく。
「彼」は振り下ろされた棍棒を避け、腕を駆けのぼり、渾身の拳をトロールの顔面に叩きこむ。
異常な重さに牙がへし折れ、たたらを踏んで後退するところへ、追い打ちの膝を喰らわせ、沈ませる。
人間の膂力をはるかに超えた威力は、トロールの頭蓋を砕き、眼球と脳漿、頭蓋骨の破片をまき散らした。
そこから先は、彼女からは見えなかった。
トロールの頭から飛び散った鮮血が結界を覆い、うすぼんやりと見えていた「外側」の景色が遮られたからだ。
ただ、結界を通しても聞こえる雷鳴と叫び、そして数え上げる事さえできない衝撃だけが内側へ伝わる。
いつしか、耳を塞ぎ、目を閉じ、ぎゅうっと体を小さくして、震えていた。
脚が、背中が、尻が、雑草の縁で切れている。
ひりひりとした痛みがあちこちから届き、今頃になって痛みを感じさせる。
同じくして、股間へ突き刺さる木の杭の感触までも、蘇る。
突き刺さりかけていた「死」の矛先が、今だからこそ、最中よりも鮮明に蘇る。
隣女王「……かえり、たい……かえりたい…よぉ……」
涙をぽろぽろと零し、泣き崩れる。
「女王」としてではなく、「幼子」としての性質から、一刻も早く―――安心できる場所へ、戻りたいと願う。
気付けば、一切の音も、声も、衝撃も……聞こえなくなっていた。
隣女王を護っていた防御結界が溶け消え、結界内で澱んでいた空気が、一気に薄れる。
代わりに飛び込んできたのは、肉の焦げる匂いと血の香り。
たおやかな隣女王には堪えられない程の、修羅場の悪臭。
勇者「……怪我は?」
嗅ぎなれぬ悪臭の中、勇者が、隣女王の正面に立って声をかける。
顔をぐしゃぐしゃにしたまま、ゆっくりと上を向き―――潤んだ視界に、その男の姿を映す。
涙がこぼれていき、鮮明な視界を取り戻した時、彼女は言葉を失った。
白い服には血糊がこびりつき、袖は裂けて、上腕の傷から血が滴っていた。
精悍な顔にも疲れの色が見え、それでも、優しく……微笑みかけていたからだ。
隣女王「へいか……? お、お怪我を……?」
勇者「……はは。流石に……素手じゃ、無理があった。何発か貰ってしまったよ」
笑い飛ばすが、時折顔を引きつらせる。
トロールの爪で負った腕の切傷以外にも、ダメージがあり、加えて―――雷撃呪文の連撃が、精神を疲弊させていた。
堕女神「……女王陛下以外の全員を、城へ移動させました。遅くなって申し訳――――!?」
勇者「…ありがとう。さぁ、一旦帰ろうか」
堕女神「お怪我をなされたのですか……!?」
勇者「……カッコ悪いな。さすがに、この格好じゃ問題があった」
堕女神「剣を、お使いになられたのでは?」
勇者「……使えないんだよ、これ」
抜き出し、鍔から十数cmほどしか残っていない刀身を、二人に見せる。
輝きは未だ、色褪せたままだ。
もはや、『神から賜った剣』でさえ、その輝きを取り戻す事は、無かった。
堕女神「っ!?」
隣女王「えっ……?」
勇者「見ての通り。……まぁ、折れていなかったとしても……使わなかったな」
堕女神「……畏れながら、無謀に過ぎます。万が一、御身に何かあったら……」
勇者「負けはしないさ。……ただ、少し疲れたかな。早く城へ帰ろう」
隣女王「……私の側近と衛兵達は……」
勇者「俺の城に先に戻っている。……さぁ、戻ろうか」
堕女神「街道に残っていた馬車を『修復』しておきました。さぁ、女王陛下。こちらへ」
隣女王「……はい」
隣国衛兵「女王陛下!!」
今朝出たばかりの城の前へと帰り着き、隣女王が馬車を下りた瞬間に駆け寄ってきたのは、城門前に倒れていた隣国の従者。
今か今かと女王の帰還を、外で待っていたという。
供された茶にも手を付けず。
暖かい室内に籠る事もなく。
隣女王「無事でしたか。……よかった」
裸体の上に、勇者がかけてくれた外套のみという姿で、心からの安堵の表情を見せる。
泣き腫らした顔ではあっても、それは、はっきりと切り替えられた――「女王」の顔だ。
隣国衛兵「……ありがとうございます、陛下……女王陛下を……お助けいただいて……!」
勇者「俺じゃない」
隣女王「え…?」
勇者「……助けたのは、君だ。君が、傷ついた体を引きずって……戻ってきてくれたからだ」
隣国衛兵「い、いえ……私などは……女王陛下を見捨て、むざむざと……!」
隣女王「……陛下…」
勇者「……誇っていいんだ。君は、女王を助けるために、来てくれたんだ。……俺なんかには、とてもできない事を」
隣国衛兵「……でき、ない……?」
勇者「そう、できない。…………俺には、できないんだよ」
隣女王「……クシュッ!」
堕女神「隣女王陛下、お身体に障ります。まずは沐浴なさっては」
勇者「そうだな。……着替えの準備もな」
堕女神「はい、畏まりました。さぁ、こちらへ。陛下もお召し物を……」
勇者「…そうだな。俺は、風呂は後でいいよ」
隣女王「……それでは……失礼いたします。あの…陛下」
勇者「…ん」
隣女王「……あ、い……いえ……何でもありません!」
その後は、彼女らを再び浴場に案内させ、身体を暖めたところで、暖かい食事を振舞った。
食事の最中、彼女らに起こった事の詳細を聞き出す。
街道を通っていると、何の前触れもなく、岩や丸太が飛んできたのだ。
それによって魔族としての力を持っていた側近達や数少ない衛兵が負傷し意識を失い、トロール達に連れ去られた。
最後列の馬車に乗っていた衛兵は見落とされ、潰れた馬車の下から何とか這い出て、残されていた馬に乗って、来た道を戻り、救援を求めた。
大掴みな概要は、こうだ。
淫魔と言えども、不意打ちでは力を発揮できなかった。
問答無用の暴力は、時として全てを奪い去っていく。
今回は特に、無事に新国王への挨拶を終えて帰る途上であったために、気の緩みも出たのだろう。
結局、隣国からの一行の滞在は、一日延期となった。
明日、改めて――隣国領内まで、この国から護衛を出して、送る事となる。
内訳は、その気にさえなれば人間界の小国を丸ごと一つ壊滅できるほどのサキュバスが二十人。
今度こそ確実に問題は無く、彼女らは隣国へ送り届けられる。
勇者「それにしても……やけに懐くな、城下の淫魔達は」
食事を終え、眠る前の入浴に向かう途上、サキュバスA、Bと出くわした。
二人もまた一日の仕事の疲れを癒すために、入浴に向かう所だったという。
同じ行き先へと向かう道連れに、言葉を交わす。
サキュバスA「城下の視察に行ってらしたのに……随分と遠出をしたとか?」
サキュバスB「…血だらけで帰ってきたから、びっくりしちゃいましたよ」
勇者「ほとんど俺の血じゃない。……それで、どうなんだ」
サキュバスA「それは、まぁ……『淫魔』はもともと人間好きですもの」
勇者「その割に夢枕に立って色々するだろ」
サキュバスA「あら、それで苦しむ殿方がおりまして?」
サキュバスB「うんうん。『やめてください』なんて言わないよねー」
サキュバスA「『やめないでください』なら何度も」
勇者「………」
サキュバスA「要するに、私達淫魔は人間なくして存在できない種族です。『人間』に惹かれるようにできているのです」
勇者「……そうなのか?」
サキュバスA「……遠い昔、人類が古の『魔王』に滅ぼされかけた事をご存じでしたか?」
服を脱ぎ、身体を流して、浴槽に浸かりながらも話は続く。
二人のサキュバスを両脇に侍らせる姿は、「淫魔の王」として堂に入ったものだった。
勇者「『魔王』……」
サキュバスA「その時は……『魔王』は冷徹にも、魔界の氏族を幾つも従えて人界を襲ったと」
勇者「……それで、どうなったんだ?」
サキュバスA「人間界の九割が『魔王』の手に落ちた時……『淫魔』達が、人類の側に立ったのです」
勇者「えっ……?」
サキュバスA「魔界の氏族の中でも、唯一淫魔だけは人類の味方となり、『魔王』と戦った……と記録されておりますわ」
勇者「淫魔が……人間と?」
サキュバスA「申したでしょう。淫魔は他の魔族と違い、人類が大事。……正しくは、『人類の精気』ですわね」
勇者「……色気の無い話」
サキュバスA「ともかく、淫魔と人類は手を取り合い、『魔王』を倒しましたと。めでたしめでたし」
勇者「興味深いな」
サキュバスA「そもそも、淫魔は人と近い種族です。人の子を孕む事が出来るのが、その証拠」
サキュバスB「…そんな事、あったんだ……」
勇者「……ひとつ、謝らなきゃいけない事がある」
サキュバスAを見て、おもむろに口を開く。
気まずく視線を逸らしたまま、しばし水面を見つめて押し黙り―――
数秒して、ようやく決心を固め直して、続けた。
勇者「……『もう傷は増えない』と言ったのを、覚えているかな」
サキュバスA「………ええ」
勇者「…すまない、破ってしまった」
サキュバスB「?」
サキュバスA「ふふっ……そんな事。お気になさらずともよろしいのに。ところで……」
サキュバスA「……町では、どんな所をご覧になったのかしら?」
唇の粘膜の触れ合う音と絡められた、甘い囁きが耳元へ注がれる。
唾液の絡む歯切れ良い音と、低く落ち着き韻律までもが魔力を伴うような「声」はもはや、魅了の呪文だった。
久しく忘れていた、脊髄の疼きが、勇者を襲った。
サキュバスA「淫具屋に? まさか……あのお人形なんて、買ってませんわよね? 私たちがいますのに……」
勇者「やめろよ、もう。サキュバスなんだから、洒落になって――――!?」
サキュバスB「……Aちゃんだけじゃなく、わたしにも……かまって……」
反対側の鎖骨に舌が這わせられ、腕にも、二つの柔肉が押し付けられる。
勇者「………からかうなよ、頼むから」
サキュバスA「……ふふふ、冗談ですわよ。ほらほらB、やめなさい」
サキュバスB「…むー……」
勇者「………さて、のぼせるから俺はもう上がるよ」
サキュバスA「あら、残念」
サキュバスB「また一緒にお風呂…入ってくれます?」
勇者「ああ、勿論。……それじゃ。」
サキュバスB「Aちゃん?」
サキュバスA「…………ちょっとだけ本気で、『チャーム』をかけたのに……効き目無し、なんてね」
浴場を後にし、自室へ戻る。
部屋着に着替え、剣をサイドテーブルに立てかけ、いつものように眠りの準備をする。
眠る時間自体はいつもよりも早いが、町を歩いた心地よい疲労と、久方ぶりに戦いに身を置いた、重い疲れによる。
ベッドの上に身を投げ出そうと、ブーツを脱ぎかけるが、ノックの音で中断される。
堕女神「よろしいでしょうか?」
勇者「ん? ……入れ」
扉を開け、入ってきたのは―――いつものドレスに着替えた堕女神と、少し前に眠りについたはずの、寝間着姿の隣女王。
勇者「…どうしたんだ?」
堕女神「……隣女王陛下が、御用があるとの事で」
隣女王「………」
一歩進み出た隣女王の頬には、赤みが差していた。
唇はぎゅっと閉じられ、それでいて、ときおり、何かを伝えようとするように僅かに開き、波打つ。
小さな手は寝間着の裾を握り、開きしている。
勇者「……どうしたのかな」
隣女王「あっ……あのっ……」
勇者「うん」
隣女王「わ、私と……その…寝て、くれませんか……?」
勇者「はっ!?」
堕女神「えっ……?」
隣女王「す、すみません! い、いきなり……。ですが……その……」
勇者「…………何で?」
隣女王「……ひとりで、寝るのは……怖く、て……」
勇者「……あぁ、うん……分かった。いいよ」
隣女王「わ、わがままを言って……申し訳ございません、陛下」
堕女神「……それでは、私はこれで失礼を」
ほんの少しだけ、心臓に、ちくりと苦みの針を通される感覚が彼女を襲った。
何故なのかは、分からない。
ただ―――ほんの少しだけ、息を忘れ、唇が引きつれるような思いが。
その正体のわからぬまま、一礼して立ち去る。
隣女王「あ……」
堕女神「?」
隣女王「……堕女神、様も。……ありがとう、ございました。私達を、お城へと……」
堕女神「……いえ、陛下の……ご命令でしたので。それでは、失礼いたします」
正体不明の胸のざわつきを押し殺し、平静に務めて―――彼女は、寝室を去った。
勇者「……寝る前に少し、話そうか?」
彼女の手を取り、重厚な天蓋付のベッドへ導く。
遠慮がちに靴を脱ぎ、少しずつ体重を預けてベッドの上を這い進む様は、どこか小動物めいた可愛げがあり、
白いレースのついたワンピースタイプの寝巻もまた、彼女の褐色の肌と、白銀の髪に良く似合っていた。
勇者「………」
隣女王「あの……私は、どこで……眠れば……」
勇者「ん? 真ん中でいいんじゃないか」
隣女王「よろしいのでしょうか……」
勇者「俺がいいと言ってるんだから、いいだろ」
勇者がベッドの縁に腰かけてサイドテーブルの上の背の低い燭台に火を灯すと、
寝室のシャンデリア、および壁面の燭台の火が一斉に消えた。
今や室内を照らすのは、ベッド側の三本の蝋燭、そして、窓から差し込む月明かりのみ。
隣女王「…えっと……」
勇者「……大丈夫、目が覚めるまで、ずっと傍に居る」
隣女王「……この御恩は、必ずお返しします」
勇者「え?」
隣女王「…救っていただき、ありがとうございました」
ベッドの中心でぺたんと座ったまま、彼女は礼を述べる。
勇者「…謝るのはこちらだ。……領内で、君達を危ない目に遭わせてしまった。……許してくれ、この通りだ」
対して、勇者は一度立ち上がり―――膝をつき、深々と頭を下げた。
勇者「……全て、俺のせいだ」
隣女王「そ、そんな! 陛下のせいでは……頭をお上げになって!」
勇者「…………本当に、すまなかった」
ようやく頭を上げると、隣女王も落ち着きを取り戻す。
隣女王「……それにしても……『人間』というのは……皆、あれほど強いものなのですか?」
勇者「…いや、そんな事はないよ」
隣女王「……すると、陛下はいったい」
勇者「もうその話はやめないか? ……思い出してしまう、だろ? 楽しい話をしよう」
隣女王「……そうですね」
勇者「…ところで、その寝巻は?」
隣女王「サキュバスB……さんが、貸してくれました」
勇者「…あいつ、寝巻なんか持ってたのか。俺には見せてくれなかったのに」
隣女王「え?」
勇者「いや……。似合ってる。可愛いよ」
隣女王「…や、やめてくださいまし!」
勇者もベッドに上がり、隣女王の右手側に位置し、ヘッドボードに寄り掛かる。
その後は、他愛無い話を続ける。
サキュバスBの話をしていると、彼女はどこか、子供らしい笑顔を見せた。
勇者は、その笑顔に見覚えがある。
かつて人間の世界の小さな村に住まい、「勇者」になる前の事。
幾つか下の妹が、新しい友達をつくると、そんな風な笑顔で帰ってきた。
貧しくも幸せな食卓で新しい友達の話をするとき、その顔は、咲き誇る大輪のように輝いていた。
新しい「友達」の話をする、小さな女王は。
その瞬間だけは―――「少女」の顔を見せてくれていた。
気付けば、彼女は眠ってしまっていた。
つられて横になっていた勇者のガウンの裾を優しく握り、その寝姿は、まがりなりにも「淫魔」と思えぬほどに、儚く触れがたいものがある。
すぅすぅと寝息を立てる小さな女王は、安心しきった寝顔を浮かべていた。
見れば見る程に、彼女は、危うげなほどに美しい。
鼻筋はすっと通り、桃色の唇にはつやがあり、銀の睫毛は長く、くるりと巻いている。
指は小枝のように細く、血色の良い小さな爪は、さながら花びらのようだ。
白銀の毛髪に埋もれた短い角は、魔族というよりも――――寝巻の色とも相まって、ふわふわの「羊」を思い起こさせる。
勇者「………『淫魔』だっていうのが、ウソみたいだ」
その手で彼女の頭を撫で、さらりと指の間を通り抜ける感触を楽しんでいるうちに、眠気がやってくる。
もしかすると、無意識のうちに彼女の寝息に調子を合わせていた為かもしれない。
勇者「……あ、……トイレ、行きたい……ような気がする」
それでも、離れない。
離してはくれなかったから。
勇者「…………久々に、疲れたな……今日……」
瞼の裏の追憶の中で、「彼女」と伴に城下へ踏み出したと同時に……眠りへと、落ちる。
時は遡り、夕刻前、城下町にて
―――――城門前広場に集まった淫魔達が、一斉にざわめく。
―――――開きかけた城門を前に、騎乗した「王」を引き留める者がいた。
堕女神「陛下っ! どうかお下りください! 捜索隊を編成いたします!」
馬を引かせて、一人で隣国の一行を探しに向かおうとする勇者を、堕女神は必死に制する。
淫魔達は、それを遠巻きに眺めるのみ。
止めようとする意思、以前に―――その行動が、果たして本気なのかさえ疑っている。
隣国の使節が消息を絶ったのは、確かに非常の事態だ。
だが、それでも―――「王」が自ら探しに行く、などとは莫迦げていた。
心配するしないの問題ではなく、本気に思えないのだ。
堕女神「今すぐ向かわせますから、どうか……馬を下りてください!」
勇者「………約束したんだ。必ず助けるって」
堕女神「…ですから、何も自ら……!」
勇者「…そうだな、確かにそうだ」
堕女神「……お分かりいただけたのなら、下馬を」
制止が聞き入れられたと思ったのも束の間。
勇者は手綱を操り、馬首を、城門の外へと向けた。
堕女神「陛下っ!!」
勇者「……これが、俺の就任演説だ」
堕女神「え?」
彼は、背中越しに淫魔の国の民達と、自らの侍従に語り続ける。
その決意は金剛石の如くに固く、今眼前にある聳える城壁の如く、揺らぎは無い。
――――「女王」を、助けに行く。
――――その一点に。
勇者「皆。……『俺』を、見ていてくれ。必ず、帰ってくる。……その時は、俺を―――もう一度だけ、『歓迎』してほしい」
西の空に沈む夕日が、振り返った勇者の顔を照らした。
彼は、柔らかな微笑みを浮かべ、それでいながら、緩みのない……かつての称号を偲ぶような顔を、淫魔達に向ける。
凛と立つその姿を以て、
幾万の魔獣の群れにも斬り込むその強さを以て、
世界の終りが目前にあろうと絶やさないその笑顔を以て、人々に、己が生を戦う「勇気」を分け与える者の。
――――『勇者』の称号を持つ者の、微笑を。
六日目
小鳥の囀りの中で目を開くと、まず、無垢な少女の寝顔が目に入った。
寝息を立てるごとに身体が揺れ、微かに開いた唇からは、かわいらしい前歯が覗けた。
彼女を朝の明かりの中で見ると、昨夜燭光の中での印象とは、また違ったものがある。
気付けば、右腕の上に、彼女の頭が載っていた。
そのまま抱き締め、寝息が当たり、くすぐったささえ感じる距離で眠っていたようだ。
勇者「………起きるんだ」
隣女王「……ン…」
勇者「朝。……いい加減、俺も用足しに行きたいんだけど」
隣女王「ん……あ、え……?」
ようやく薄目を開けるが、意識はまだ伴っていない。
勇者「…起こしに来るよ?」
隣女王「陛…下……? え……?」
昨夜から続く状況をようやく認識し、明確な言葉が紡がれた。
そして今、頭を預けているものが―――何なのかを、悟った。
勇者「そうだよ、一緒に寝たんだよ。……起きないか、ほら」
隣女王「……すみません……もう少し、だけ」
隣女王「……もう少し……だけ……このままに、させてくださいまし……」
堕女神は、起こしに来なかった。
代わりにメイドが三人、うち一人は、女王の為の着替えを手にしていた。
勇者が先にメイドの一人に手伝わせて着替えを終え、寝室を出て、そのまま、小用を足しに足を伸ばした。
寝室前に戻り、十数分経つと着替えを終えた隣女王が出てくる。
寝乱れた髪は丁寧に梳かれ、朝の光を浴びて、艶めいた輝きを見せる。
細い肩が露わとなる白のドレスもまた良く似合っており、袖口のレースの装飾は、たおやかな手指を引き立てていた。
隣女王「お、お待たせいたしました。……その……似合い、ますか?」
勇者「……女王様、というより『お姫様』」
丈の長いスカートに慣れないのか、足取りは覚束ない。
一歩ずつ探るように歩く、その危なげな所作は見ていて肝を冷やしそうになる。
不慣れな様子を見られ、彼女は恥ずかしそうに頬を染めながらも、ゆっくりと、勇者の許へと歩いてきた。
勇者「似合うけど……その服、どこから?」
隣女王「お城の使用人の方が、仕立ててくれたとの事です」
勇者「そっか、仕立て……って、一晩で!?」
隣女王「えっ」
勇者「…いや。とにかく、朝食にしよう」
勇者が彼女へ手を差し伸べると、いささか戸惑うような態度が見られた。
恥じらうような仕草とは裏腹に、その表情はほころび、口端が僅かに上がる。
小さく震える手をおずおずと伸ばし、彼女は勇者の手を取る。
そのまま引き寄せ、手を繋ぎ直し、隣へ寄り添い―――
彼女の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩を進めた。
ほんの一歩を進めるだけにも三秒ほどかけ、窓から差し込む朝日と風の音、小鳥の歌を楽しみながら。
広い廊下に絨毯を踏みしめる音が歯切れよく響き渡る。
メイド達の姿は無く、まるで、城内に二人きりとなってしまったような錯覚まで覚えるほど。
隣女王「陛下」
きゅっ、と握り手に力を込めながら、隣を行く男に語りかける。
隣女王「………助けていただき、ありがとうございました」
勇者「言っただろう。助けたのは、俺じゃなく―――」
隣女王「それでも、助けに来てくれたのは陛下です」
勇者「忘れていいよ。そもそも、我が国の領内で危ない目に遭わせた事自体が恥なんだ」
隣女王「……陛下のせいでは、ありませんよ」
勇者「そう言ってくれると嬉しいけれど……」
隣女王「それより、何故…陛下はあんなに、お強いのですか?」
勇者「……淫魔達より、堕女神よりは弱いさ」
隣女王「…雷を操る事ができる人間など、聞いた事が……」
勇者「…………なんで、まだ使えたんだろう」
――――零して、彼女の手を握る利き手とは反対側の掌をじっと見つめた。
勇者「……どうして、俺は……『雷撃』を使えるんだ」
あの日、”魔王”とともに”勇者”もいなくなった。
それなのに……”勇者”だけが扱える、雷撃の力は失われていない。
いや、それに留まらず、更に精細に放つことができていたように、勇者は感じた。
隣女王「―――陛下?」
彼方へと思索の糸が伸びかけた頃に、怪訝な声で引き戻される。
勇者「……ん、いや……何でもない」
眼前に大食堂の扉が見えた頃に、ふと、隣女王が歩みを止め、俯く。
付き合って勇者も足を止めて、隣を行く少女の顔を、じっと見下ろした。
何かを言おうとしているのか、開きかけた唇が震え、消え入りそうな声が、吐息と混じって呟かれる。
慎重に言葉を選んでいる様子が見て取れた。
隣女王「……陛……下。その……ひとつ、だけ……」
足を止めた事で引っ込みが付かないと思ったか、ようやく、言葉が続いた。
勇者は、彼女の顔を見ながら、決して急き立てるような仕草はせず、声も発しない。
ただ―――彼女の言葉を、最後まで聴こうとしていた。
隣女王「…わ、我が儘……ばかり……申して、しまいますが……その……」
太ももをもじもじと擦り合わせながら、林檎のように顔から首筋までを紅に染め、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
緊張のあまりか若干舌足らずな発音が混じり、幼さが覗かせた。
隣女王「私……に……」
隣女王「私に、口付けを……し、て……いただけ、ません……か……」
言い切ったと同時に、彼女は顔を上げる。
本当ならば俯いて塞いでしまいそうなほどに、気恥ずかしく感じていた。
しかし、彼女は、顔を背けられなかった。
目を潤ませながら、ほんのり上気させながら、唇を震わせ、心臓を早鐘が如く脈打たせ。
彼女は答えを、永遠を待つが如くに待ち続けた。
答えの、言葉を。
あるいは―――「行い」を。
勇者「………口付け」
勇者が鸚鵡返しに口にすると、彼女の身体がびくりと震えた。
自らの発した言葉、その意味を改めて認識させられて。
隣女王「…………」
勇者「……隣女王」
優しげな言葉とともに、繋いでいた手を放し、互いの体温で温まった右手を、彼女の頬に添える。
彼は、彼女の頬の熱に。
彼女は、彼の手の暖かさに。
少しびっくりしながら、しばしの沈黙を守る。
勇者「……ごめん。………俺には、できない」
隣女王「…………」
頬に添えられたままの右手を、彼女は、両手で取り、首元で、握り締める。
期待とともに見上げていた顔を、ゆっくりと俯かせて。
勇者は、彼女を抱き締めるでもなく―――同じく俯き、眼下に肩を小刻みに震わす、小さな少女の姿を見た。
隣女王「ごめん、なさい……」
彼女の震えた喉が、何にともなく謝る言葉を告げた。
勇者「俺には、この世界で……やらなきゃいけない事があるんだ」
隣女王「………っ」
彼女の肩の震えが大きくなり、しゃくり上げるような、怯えるような声が聞こえた。
勇者「………だから、君に……今、口付けする事はできない」
その言葉に、彼女の嗚咽は少し治まった。
思いが、全く自らに向いていない訳では無い。
勇者の言葉に少しの慰めを見出し、崩れ落ちそうだった膝に、再び力が入った。
勇者「信じてほしい事がある」
俯いていた顔を上げ、勇者を見上げる。
目から幾筋かの涙が零れ落ち、顎先に雫をつくっていた。
勇者「………俺は、間違いなく……君に逢う為にも、この世界に来たよ」
そして、隣女王の涙を拭い、落ち着くまで待ち、大食堂への扉を開けた。
隣国の淫魔達は既に席に着き、二人の「王」を待っていた。
詫びの言葉を告げて着席すると、すぐに朝食が運ばれた。
パンを数種類の野菜とともに煮込んだ、優しい味わいの、粥にも似た料理をメインに、いくつかの副菜とスープ。
特にメインのそれを、小さな淫魔達は何皿か「おかわり」を頼んだ。
体に優しく沁み込むような、とろとろとした食感の中に野菜の風味と滋養が溶け込んだ、
勇者にとっても、初めて食べる美味さを持つ料理だった。
暖かみに溢れ、まるで、母の手になる料理を食するような思いがした。
隣女王でさえも、その皿の虜になっている。
スプーンで一口、また一口と進める内に、すっかりと空になってしまう。
メイドに半皿の追加を申し出たほどだ。
食事を終えると、少しの休息を挟み、日が高い内にと、隣国の淫魔達を送る馬車が準備された。
同時に城前には道中の護衛を務める淫魔達が揃い、張り詰めた空気を漂わせる。
彼女らは正真正銘の精鋭であり、人間界であれば、小国の軍隊に匹敵するほどの力を持つ。
発つ間際、隣女王は微笑みを取り戻し、勇者、そして遅れて現れた堕女神に深く一礼を送り。
そのまま振り返る事無く、窓から覗く事もなく馬車へと乗り込み、帰途に就いた。
――――こうして、隣国からの客人達は、今度こそ、無事に国へと帰り着いた。
隣国の淫魔達が帰った頃、賑わいの消えた城内、その厨房を堕女神が片付けていた。
すでに八割方の食器類は洗われ、作業台の上に水分も拭き取られ、あとはしまうだけの状態で積まれていた。
厨房には、誰もいない。
かちゃ、かちゃと音を立てる食器の泡を水で落とし、傍らに積み上げる。
ひたすら、手元だけを見て彼女はそうしていた。
心のざわめきは、今も尚落ち着いていない。
落ち着かないままだから、今朝は、王の顔を見に行けなかった。
その顔を、見る事ができる自信が無かった。
彼女は、「淫魔」ではない。
自分の事を、神位を失い、淫魔の国へと落ち延びた―――「よそ者」に過ぎないと、思っていた。
それ故に淫魔達とは最低限にしか触れ合わず、ひたすら、この国の女王へと尽くす事で心を保っていた。
女王が崩御し、百年。
新たな王が現れ、この国を統治する。
役割は――――変わらない。
鋭い音が彼女の鼓膜へ切りつけるように、意識を引き戻させる。
流し台には、大皿の破片が散らばっていた。
堕女神「あっ……」
漏れ出た声は、彼女の声とは思えない程に弱々しい。
ただ考え事をしてうっかり皿を割ってしまっただけの事が無性に、哀しく感じた。
手を伸ばして破片を拾おうとするも、その行動にも、注意が伴わなかった。
その断面が鋭利である事をも、迷った心が忘れさせてしまった。
危うげな手つきのまま、指先が破片に触れる間際。
下を向いた視界に、別の……優しくしなやかでありながら、精悍な右手が映り込んだ。
堕女神「え……?」
驚いて手を引っ込めると、いくつもの傷痕を残したその手は、流し台に散らばる破片を取り除いていった。
彼女の手を仕草で引っ込めさせ、断面に触れないように注意深く拾い集め、
既に彼女が洗い終えた皿に混じらぬように、流し台の縁に置いた。
一連の動作が済んで初めて、「手」の持ち主の声が聞こえた。
勇者「…怪我してないか? 大丈夫?」
堕女神「陛下…!?」
勇者「……ん、大丈夫みたいだな、よかった」
彼の視線が堕女神の二つの手を往復し、怪我の無い事を見て取ると、ようやく安堵の吐息を漏らす。
その間にも彼は水洗いを終えた食器の水分を拭い、作業台の上に移す事を続けていた。
堕女神「い、いけません……陛下! 私が片付けますので……!」
勇者「別にいいだろ。これぐらい」
堕女神「しかし……!」
勇者「……手伝いたいんだ」
そうとまで言われると、彼女に拒む術は無い。
ついに覗きこんでしまったその目は、どこまでも優しげな本心を物語っていたから。
それ以上何も告げずに、彼女は皿洗いの作業へと戻る。
一枚、また一枚。
洗い終えた皿を勇者が拭き上げ、作業台へ重ねる。
堕女神「……申し訳ありません」
勇者「ん?」
堕女神「………手が滑ってしまいました」
勇者「……皿ぐらい割るだろ。それより、怪我しなくてよかったよ」
堕女神「……女王陛下の様子は、どうでしたか?」
勇者「…元気そうだったよ」
堕女神「………」
勇者「ところで、今日の予定は?」
堕女神「は……。南方の砦から書簡が。詳しくは執務室にて」
勇者「そうか、分かった」
堕女神「……それと……」
勇者「何かな」
堕女神「あ、いえ……何でもありません」
勇者「……午後、城を案内してくれないか?」
堕女神「え……?」
勇者「城の設備を、もうちょっと詳しく知っておきたくてさ」
食器の片づけを終えると、二人と――否、一人と一柱は、城内を連れ添って歩いた。
どちらから意識したともなく歩みはゆっくりとしたものだった。
ぐずついた空が水の飛礫で窓を叩き、それが不思議と、落ち着くような自然の旋律を奏でる。
勇者「……久しぶりだな」
窓へと視線を向け、流れ落ちる水の筋を目で追いながら呟いた。
曲がりくねり、蛇のように流れる水は、硝子越しの水面の外へと消えて行った。
堕女神「はい…?」
勇者「雨」
堕女神「確かに…陛下がお出でになられてからは、初めてです」
勇者「……もう一度、見られるのかな」
降り続く雨の奥へと見通すように、どこか期待を込めた、儚げな視線を投げかける。
傍らの彼女の怪訝な様子を意にも介さず、雨の上がりとともに訪れる、あの空にかかる七色の弓へと思いを馳せて。
勇者「……行こうか。まず、宝物庫へ案内してくれ」
エントランスから、地下へ。
幾つかの扉を抜け、煌びやかに装飾された廊下を歩き、行きついた先に、ひときわ頑丈そうな大扉があった。
扉全体がまるで金属細工の芸術のように、絡みもつれる茨の壁を模した意匠となっている。
進み出た堕女神が鍵を取り出して、大扉の中心にある細工へと差し込むと、扉の装飾が鈴のような音とともに蠢き、
続けて、錠前の開く音がいくつも重なり合い、数十秒してようやく扉が開いた。
堕女神「どうぞ、陛下」
宝物庫の中は、予想していたよりもこぢんまりとしたものだった。
壁面にはいくつかの展示箱が並び、その中には、大きな宝石がベルベットの台座の上で輝いていた。
扉の大仰さに比べてさして広くも無い宝物庫の中心には、質素な飾り気のない宝箱が、ぽつりと置いてある。
勇者「もっと、色々置いてあるものだと思ったけど」
堕女神「…あの宝箱の中には、我が国の富の全てが詰まっております」
勇者「……どういう事だ?」
堕女神「はい。確か……中には、現在およそ六億三千万枚の金貨が封じられております」
勇者「気が遠くなるような額だな。……何か魔法でもかかってるのか? あの箱」
堕女神「ですので、大袈裟な空間は必要無いのです」
勇者「……なるほど」
しばし、勇者は質素な宝物庫の中を見回して―――おもむろに、腰に下がる剣を帯から外し、眺める。
鞘にはいくつもの傷が刻まれ、握り手の革は手垢と血にまみれて、竜の翼を象った鍔は、欠けていた。
勇者「……あそこの展示箱、空いてるのかな」
奥にある展示箱を差して堕女神へ訊ねる。
堕女神「はい。その剣を納めるのですか?」
勇者「……もう、役目は終わったから。俺も、こいつも」
堕女神「………かしこまり、ました」
彼女が鍵を取り出し、展示箱のガラス蓋を開ける。
勇者がその前へ進み、中を覗き込むと―――年季の入った黒ずんだ木製の底板は、古めかしい芳香を放っていた。
ゆっくりと、別れを惜しむようにして、展示箱へと「救世の剣」を沈めていく。
そして――――勇者自身も驚くほどに、簡単に……手を、離れてしまった。
勇者「……共に戦ってくれて………ありがとう」
閉じられていく、長く残るきしんだ蝶番の音が、”戦い”の終わりを告げた。
―――――そして、地下牢、倉庫、食料庫。
拾い集めるように城内の部屋を巡り、最後に、エントランスから続くひとつの部屋へと案内された。
扉を開け、目についたのは無数の肖像画だった。
他にも壁面にはいくつもの肖像画が掲げられ、そのどれもが、王冠を戴いた、歴代の女王。
中でも特に存在感を放っているものがあった。
その髪は白というよりは―――もはや、透明。
肌は血管が透けるほどに白く、そのあまりに優しい彫刻のような面立ちは、どちらかと言えばサキュバスではなく。
”勇者”の力を目覚めさせた、女神と同じ印象さえ抱かせた。
堕女神「……先代の、女王陛下です」
その肖像画に目を奪われたままの勇者へ、堕女神が問わず語りに絵の主の名を告げる。
勇者「…彼女が」
再び、肖像画に目を凝らす。
額縁の中で微笑む彼女の顔は、今まで、人間界で見た誰の笑顔よりも、心を惹きつけるものがあった。
人外の者の、魔性がそうさせるのではない。
血の通わぬ肖像画を通しても尚、彼女の暖かみが滲み出るから。
堕女神「……陛下」
肖像画の間の扉が閉じられ、前に進み出た堕女神が、しばし、先代女王の面影に目を向ける。
赤い瞳が眩しげに瞬き、潤み揺らめく目が、ややあって後、体ごと勇者へ向けられた。
堕女神「………貴方は、何者なのですか」
沈黙に包まれた肖像画の間で、二人は向かい合う。
勇者「……何者、か」
堕女神「…畏れながら、どうかお答えください。……陛下のお力は……人を、超えております」
勇者「…………堕女神から見ても、か」
堕女神「…それとも、今の『人間』は、雷をも制しているのですか?」
勇者「………隠すつもりはない。だが……俺も、教えてほしい事があるんだ」
堕女神「え?」
勇者「堕女神は、何故……『淫魔の国』に?」
堕女神「私の話……ですか?」
勇者「……聞かせてくれないか。君の話を」
堕女神「…………はい」
――――そして、堕ちた女神は、語り始めた。
――――自らの身に起こった事、見守っていた人間達の結末。
――――淫魔の国と、その女王との邂逅を。
遥か遠き時、人々と神々は、もっと近くに在った時の事。
神殿には、いつも活気があった。
荘厳な大理石の回廊の奥には神像が祀られ、捧げ物が絶える事は無かった。
手塩にかけた作物の場合もあれば、小さな子が両手いっぱいに野花を抱えてくる場合もある。
時折、小さな子供は、神殿内で"彼女"の姿を見る事が出来る場合もあった。
純白の衣を装い、秋の収穫を待つ葡萄畑のような黄金の髪をたなびかせ、
目には蒼海のように輝く慈愛を湛えた、"彼女"の姿を。
そんな時、"彼女"は……決まって微笑みを浮かべ、その場に消えて見せて、
呆気にとられた子供の横を通り抜け、頭をふわりと撫でた。
"彼女"は、神殿にいる事が好きだった。
他の神々といるよりも、神殿で、人間たちの姿を見ている方が、好きだった。
幸せそうな恋人達。暖かい家族。神殿内を走り回る無邪気な子供。
毎日のように足を運ぶ精悍な若者に、優しげな少女。そして、いつもしかめっ面の神官でさえも、たまらなく好きだった。
神像に傅いて祈りを捧げる姿を見ているよりも、
駆け回り、大人たちの制止をするするとかわしていく元気な男の子達の姿を見るのが、好きだった。
神殿全体に薫る、花と焚かれた香の匂いが好きだった。
神官の説教も、子供たちの内緒話も、仲睦まじい者達の忍び笑いも、優劣なく好きだった。
――――ひとびとの声を聴き、活きる姿を見ているのが大好きだった。
――――"愛の女神"は、人間たちを分け隔てなく、愛していた。
神域にてある日、他の神々がいつになく剣呑な空気を漂わせている事に気付いた。
聞けば、人間界にても―――不穏な空気が、流れ始めているという。
具体的な行いを目にした訳では無いが、"戦神"も、"狩猟の神"も、どことなく落ち着かないような、苛立った様子で話していた。
"愛の女神"は、それを思い過ごしと信じて、その場にいた神を諌め、落ち着かせた。
そして、いつものように神殿へと降りて幾日か過ごした時、何かが違っている事に気付いた。
神官が、一度も姿を見せない。
日参する恋人達も、その姿を減らしていった。
あの熱心な若者の供えた果実は、日ごとに萎れて、小蠅がたかるようになった。
更に、数週間。
供え物は、もはや朽ち果て見る影も無い。
子ども達がときおり訪れて小さな木の実や野花を供えてくれるが、すぐに神殿を出て行ってしまった。
一度、その姿を子供達に見せ、微笑みかけてみた事がある。
"彼女"の姿を認めた子供は、照れ臭そうな表情を浮かべたが――――どこか、陰りがあった。
後ろめたい事を隠すような、そんな、偽りの愛想。
また、一月ほどが経つ。
とうとう、子供達の姿さえ見かけなくなった。
かさかさに乾涸びた供え物の花を、”彼女”が手に取ろうとすれば、砕けてしまった。
反面、神殿内の中庭は、雑草の背が高くなり始めた。
よく手入れされていた頃と違い、伸びるに任せた草は、今となっては大人の腿ほどまである。
神像前の枯れた花と、見下ろす限りに天を目指すように伸び放題の草。
再び神域へと戻れば、神々の顔にはさらに厳めしいものがある。
"戦神"はもはや憤怒の形相を隠さず、"狩猟神"は静かな、それでいて吹きこぼれるような怒りを湛え、
"豊穣の女神"は悲しそうな表情を浮かべたままだった。
そして、神々の会合が開かれる事となり、そこで初めて、”愛の女神”は全てを知る事となった。
人は、神への崇敬を忘れていた。
既に戦神や狩猟の神、海神は信徒を失い、その者達は、神へと挑もうと準備をしていた。
かつて神からもたらされた力を使い、神域へと届く塔を築き、
神になり代わろうと、牙を研いでいた。
人は神に愛され、その加護にて生きた。
狩猟の神の加護により、不猟は無かった。
豊穣の女神の祝福により、不作は無かった。
それ故に、人間は――――思い上がってしまった。
何より神々を落胆させ、激怒させたのは、その増上慢だけではない。
それでも神々への敬いを持ち続けた者への、所業。
彼らは、神への敬いを持つ老人を、神殿へと通う子供たちを、厳しく詰った。
神前へ捧げるべく刈り集めた麦の穂を抱えた老人を、
小さな木の実と草花の環を抱えた幼子を、
容赦なく殴りつけ、そのささやかな供物を奪い取るでもなく踏みにじった。
狩猟の神も、豊穣の女神も、海の神々も、既に、神殿を失っていた。
打ち壊され、火を放たれ、それでも焼け残った神像は引き倒され、見るも無残に砕け、
収穫祭でも神々に感謝をささげる事が無かった。
"最高神"の神殿も、例外ではない。
その中でも、"愛の女神"の神殿だけは、今も残っていた。
――――最後の神殿が、残っていた。
そして神々は決めた。
今在る人間を全て滅ぼし。
もう一度人間を、作り直そうと。
再び、一そろいの男女をつくり……「人類」の歴史を、作り直す事に決めた。
その決定に唯一異を唱えたのが、"愛の女神"だった。
"最高神"をはじめとした何百もの神々に、"彼女"だけが、逆らった。
その抗弁は、何時間、何日にも渡った。
人類への鉄槌を止めるべく、不休で慈悲を求めた。
――――確かに、人間たちの行いは目に余る。
――――しかし、しかし……滅ぼし、やり直すのは行き過ぎていると。
――――どうか、考え直してほしいと。
――――どうか、人類に……もう一度だけ、機会をと。
その、"愛の女神"の涙を浮かべた懇願には、さしもの"最高神"も、抗えなかった。
だが、もしも……もしも、"彼女"の神殿をも失った時は、人間の歴史を一度終わらせる。
その約束を取り付ける事となった。
その決定に、"彼女"は涙を流し、跪き、懇ろに礼を述べた。
人間たちへの希望を繋ぐ事ができた事が、何よりも、嬉しかった。
他の神々もその裁きに同意し、その場を去った。
"愛の女神"にああまでされては、異議を唱えられるものなどいなかった。
彼女は、人々のみならず……"神々"にも、愛されていたのだ。
そして彼女は、神殿に戻る。
相変わらずに荒れ果て、中庭の草は更に背が高くなっていた。
神像には苔が生し、つる草が神像の足元へ伸びていた。
吹き抜けの天井からは青空が覗かせるが、それを望む"彼女"は、憂えていた。
あの空の向こうには、もはや神殿を失った神々がいる。
彼ら、彼女らは、既に人類への望みを失っている。
いつか、時が来れば――――神々の怒りが、人類を焼き尽くす。
もしそうなれば、女神である"彼女"にも止められない。
怒り狂った戦神の鉄槌を、最高神の雷を、誰が止められるのだろう。
胸が張り裂けそうな不安と恐怖が、"彼女"を責め苛む。
人類は、未だ自らの命運を知らない。
神々は、"彼女"の言葉に思い留まりはしたが、その実、時間稼ぎにしかならないとも思っていた。
いつか必ず、人間は"彼女"の神殿を焼くと、確信していたのだ。
人々は、その命運を分ける鍵が"彼女"の神殿にある事をまだ知らない。
もしも人間たちが最後の神殿を焼けば、その炎は、自らを嘗め尽くし、骨さえ―――魂さえ、残さない。
神々への"愛"と、人間への"愛"。
その狭間に、"愛の女神"の心は……さながら、鎖で巻かれ、両側から引かれているかのようにおそろしく痛んだ。
神像の前に座り込み、眠れぬ夜を何度も過ごした。
"女神"の身は、人間のいかなる手段を以てしても、殺す事はおろか、傷付ける事もできはしない。
神像を蝕む緑の苔も、中庭の緑も、日が増すごとに濃くなっていった。
既に訪れる者も祈りを捧げる者も、ましてや供物を捧げる者もいない。
あるのは既に土と化しつつある花と、形を失った果実、虫の湧いた木の実。
かつて人が祈った、残滓。
にも関わらず、思い出されるのは、神殿が活気に溢れていた頃の記憶。
目を閉じるたびに、思い出された。
子供たちの歓声と足音、声も立てずに祈る老人の姿、寄り添い祈る恋人や夫婦の、心の声。
おそらく、それはもはや帰ってこないのだろう。
あのひと時は、もう帰ってこないのだろう。
だが、それでもいいと思っていた。
"彼女"にとっては、もはやどうでもよかった。
神殿に帰ってこないというのなら、それも良い。
ただ、人間たちが――――健やかであるのなら。
便りの無きを良い報せと信じて、日々緑に侵食される神殿で、時を過ごした。
人間達へと変わらぬ祝福を与えながら、神への崇敬を取り戻してくれる事を信じた。
―――――"彼女"の祈りが砕かれる、その日まで。
神域の会合から数ヶ月が経ち、あの約束を忘却しつつある頃に――――彼女は、目を覚ました。
神像の前で眠りについていた時に、夜中にも関わらず紅く光る空が瞼を照らした。
目が覚めてみれば………神殿の周りを、炎が取り巻いていた。
内部にまで火は届いていないが、おそらくは、神殿の外縁部は既に炎に包まれている。
とうとう――――その日が、やってきてしまった。
神殿の外部に火の手が上がり、その火は、風に煽られるままに神殿へと近づく。
背の伸びた草は縒り紐のように炎を導き、内部にまで、容易く届いてしまった。
炎で、"彼女"の身が傷つく事は無い。
だが、しかし……身が焼けるような哀しみと、狂おしいまでの恐怖が、"彼女"を襲った。
これで……もう、人間たちの滅びは避けられない。
神殿の外側へと炎の中を駆け、取り囲む者達を見やる。
かつて足を運んでいた、勤勉で、精悍な若者がそこにいた。
炎を点した松明を手にして、罪悪感の欠片も無く、焼け落ちる"愛の女神"の神殿を目にしていた。
"彼女"の心が軋みを上げ………直後に、神殿内から、かすかな声が耳に届いた。
再び炎の舌が伸びる神殿を駆け、声が聞こえた神像前へと戻る。
広く取られた供物の祭壇前は、石造りの為に火は届いていない。
真新しい手作りの白い花環と、瑞々しい小さな林檎が一つだけ、ぽつりと置かれている。
そして傍らには……小さな女の子が独り、倒れていた。
駆け寄って見れば、華奢な体のあちこちが煤でまみれている。
彼女が眠っている間に、独り、忘れられつつある神殿へと訪れたのだろう。
地上に最後に残った神殿に、たった一人で。
抱き起こして呼吸を確かめるが、どこまでも弱々しい。
灼けつくような煙をまともに吸い、少女の喉は焼け爛れてしまっていた。
少女の身体を癒す事は、容易い。
しかし、神殿に火が放たれてしまった今、永らえさせたとしても――――運命は、変えられない。
見上げた夜空は、どこまでも赤い。
神像を取り巻き同化しつつある蔦にも、弾けた火花から燃え移っていた。
祭壇の前で、一人と一柱が、最後の供物とともに寄り添い合う。
ふと、夜空に雷が見えた。
一筋ではない。
雷が夜空を青白く染め上げ、その向こうでは……神々の鉄槌が振り上げられているのを、感じた。
ゆっくりと、息を引き取る少女を看取った後に。
神像が焼け落ち、崩れるのを感じながら、"愛の女神"は、涙を零しながら、請う。
――――――誰か
――――――誰か、助けてください
――――――誰か、人間たちの世界を――――
ほどなくして、雷撃の鉄槌が世界を、砕いた。
永い時を挟み、彼女が再び認識を取り戻した時。
神殿のあった場所は、緑の丘となっていた。
草が生し、木々が聳え、虫たちが飛び交い、暖かな陽光が差している。
見れば、神殿の名残はわずかに残っていた。
ほんの些細な、大理石の破片として。
立ち上がり、見渡す限りの緑の中に――――かつて愛した、"人間"の姿も、気配も無い。
空に浮かぶ雲、青空、青空を渡る鳥たち。
神殿跡地近くを流れる川、ときおり跳ねる魚。
野を駆ける獣、碧野、遠くには続く山脈。
その雄大な光景の中に……人間は、存在しなかった。
神域で聞いた話が事実だとすれば、すでに、新しき人類が生まれている。
だが、かつての"人間"は、もういない。
未だ、その手に抱いた、最後の小さな信徒の感触が残っている。
とうとう……助ける事が、できなかった。
たった一人が心を忘れなかったとしても、
九十九人が心を失ったがために……人間は、滅びてしまった。
"彼女"自らと同じ眷属が、滅ぼしてしまった。
涙は流れなかった。
丘の上で何日も、何日も……ただ、作り変えられた世界を微動だにせず眺めて過ごしていた。
月と太陽が幾度入れ替わっても、目の前に、かつて愛し愛された者達がやって来る事は無い。
ある日、灰色の空が、彼女の瞳に代わるように水のつぶてを大地に放った。
責め苛むような涙雨が容赦なく風とともに吹きつけ、丘の上の"女神"を襲う。
風鳴りが声となり、責められているような錯覚を起こす。
雨の音は、人間たちの怨み言にも聞こえてしまった。
なおも、責められるような幻聴は続く。
耳を塞ぎ、その場に伏せても、変わらない。
呵責と錯覚の最中に、ついに彼女の胸中に、思ってもいけない言葉が産まれてしまった。
――――――私は、"女神"じゃない。
――――――私は、"女神"などではない。
「"愛の女神"など、もういない!」
胸中での叫びが、あふれて声となった時。
声とともに、熱い血の塊が喉から流れ落ちた。
細い体の血潮を全て吐き尽くすかのように、緑の丘を余り無く真っ赤に染め抜くほどの血が吐かれた。
次に彼女を襲ったのは、髪を力任せに毟り取られるような痛み。
吐き尽くされない血反吐が邪魔をし、叫ぶ事さえできない。
美しかった金髪は根元から全て抜け落ち、直後、闇のように黒い髪が、先ほど以上の痛みとともに、ぞろぞろと生えてきた。
激痛と毒の針が皮膚を突き破るような痛みは、人であれば、狂気に逃げ込む事もできたであろう。
しかし、"神"の身体は、死ぬことも、狂う事もままならない。
ようやく吐血が止まり、頭部の痛みが治まれば、次は、爪。
桃色の爪は、すべて苦痛とともに根元から腐り落ちた。
代わりに生えてきたのは、凶鳥の鉤爪のように、真っ黒な爪。
"彼女"は、自らの身体が作り変えられていくのを感じた。
"女神"の身体は、"女神"ではなくなってきていた。
そして、苦痛の進軍の最後に――――眼球が溶け落ちた。
空っぽの眼窩に生まれたのは、黒水晶のような、新しい眼。
中心には血の色が集まり、漆黒と真紅の眼球が生じた。
最後に……黒い眼球のその中心にある真紅の領域に細い切れ込みが入り、そこでようやく、彼女は視界を取り戻す事ができた。
苦痛の尾を引く体を引きずり、川へと這い寄り、そこでようやく、水面にうつった自らの姿を、"彼女"は見た。
おぞましく変化した、"女神"であった者の姿を。
――――――――
時は、再び淫魔の城、肖像画の間に戻る。
堕女神「……私は、あの時に"愛の女神"を辞めました。私に……"愛"を司る資格など、もはや無かったのです」
勇者「…………」
堕女神「私は、人間達を救えませんでした。……世界が砕かれるその瞬間を、指をくわえて見ている……しか……」
勇者「……堕女神」
堕女神「なのに。……なのに……何故、ですか」
勇者「え……?」
堕女神「……何故、現れてしまったのですか」
震え、定まらない声質が一転し、勇者へと叩きつけられる。
力任せにではなく、冷静でもなく、弱々しく泣き伏せる子供の手のように、勇者には感じられた。
堕女神「……陛下を、"人間"を見ていると……」
伏せられた顔は、彼には見えない。
堕女神「あの晩の無力を……思い出して、しまいます」
今でも、彼女は思い出す。
何十万年を数えようとも、あの晩の無力感と、雨の中の堕天の苦痛を。
人間を愛していたがために、"愛の女神"でいられなくなった。
"愛の女神"である事をやめてしまえば、惨めな無力感を味わう事もない、そう思っていた。
しかし、終わらない。
ただ、募っただけだった。
――――――人間の世界を一度終わらせてしまった事を、今でも、気負っていた。
堕女神「………申し訳、ございません。話しすぎてしまいました」
勇者「一つ、訊いていいかな」
堕女神「何なりと」
勇者「……今でも、人間達を愛しているのか?」
堕女神「…………分かりません」
唇を噛み締めるとともに、彼女の手がぎゅっと閉じられる。
答えを絞り出すかのように、しばしそうしたまま、時が過ぎる。
堕女神「……私には、もう……何も、分かりません」
勇者「……話に戻らせてくれ。その後、君はどうなったんだ」
堕女神「………覚えていません」
勇者「覚えていない……?」
堕女神「私は、神々の国には戻れませんでした。そして……人間界にいる事もまた、辛かったのです」
――――――――
どれだけの時が過ぎたか、分からない。
気付けば、その不吉な"闇の女神"は、魔界を歩いていた。
幽鬼のごとく、いくつもの次元を彷徨った。
そして、行き着いたのは――――かつての人間界にも似た、魔界の次元。
暖かな空気と豊かな四季、すでに帰れない故郷にも似た、美しく囀る小鳥が飛び交う世界。
彼女はそこが最初、「魔界」であると気付かなかったほどに美しかった。
澱んだ肺が浄化されるような、爽やかな緑の香りが鼻腔をくすぐる。
木々から吐き出された新鮮な空気は、彷徨の中で吸った魔界の瘴気とは似ても似つかない。
整備された道を歩き続けていると、視界が開けた彼方に、都市が見えた。
その中心には遠目にも見て取れるほど巨大な建造物があり、更に見ると、高い壁のようなものに都市全体が囲まれていた。
自然と、足はそちらへ向いていた。
この世界には、果たして何があるのか。
あの建物は、いったい何なのか。
そもそも、ここは……本当に、魔界なのか。
疲れ切った足は、何度ももつれて転んだ。
消耗しきった体には、せめて頭をかばう事しか許されていない。
いや、疲れていたのは、体ではない。
心が――――魂が、擦り減り、今にも千切れそうだった。
そして、壁の間近に辿り着き、その根元に大きな扉がある事を知った時。
張り詰めていた糸を切られるように、その場に彼女の身体は、崩れ落ちた。
遠ざかる意識の中で、重く響く音を彼女は聞いた。
目が覚めると、久しぶりに、「天井」が見えた。
高い石造りの、冷たく荘厳な、最後に見た天井とは違う。
きれいな木目の刻まれた、低い天井。
彼女の体を包むのは、暖かな毛布と、起毛のシーツの温もり。
初めての感触だった。
冷え切った体を温め、その体温が二つの布を温め、体を優しく包んでくれている。
体を起こし、今その身が置かれた狭い空間を見渡す。
彼女が今横たわっている台は、その中心に、頭側を壁に接して配置されている。
右側数歩の所には木の扉があり、手が届く距離には、引き出し付の小さなテーブルがある。
左を見れば、透明の板が嵌まった木枠があり、そこから、外の風景が覗けた。
見えるのは、別の建物の石壁と屋根。
それとともに、外から、活気のある声が聞こえていた。
透明板の嵌まった枠へと近づこうと立ち上がった時、扉の向こうから足音が聞こえた。
木製の床がぎしぎしと音を立て、とん、とんという足音と交ざり合い、近づいてくる。
慌てて寝床へ戻り、足音の主を待つ。
扉が内側に開くと、すぐに、その足音の正体が見えた。
その、姿は――――
外観は人間と酷似した、翼と青い肌を持つ、若い女性のものだった。
???「……あら、目が覚めたのね。よかった」
微笑みながら近づく青い肌の女性は、桶の載った盆を持っていた。
見れば見る程に、彼女の細部は、人間とは違っており―――そして、削ぎ落とせば限りなく人間に近かった。
頭部に生じた二つの角、コウモリの翼、先端が鏃のように尖った、床につくほど長い尻尾。
青い肌と、そして首元に刻まれた赤く光る紋様。
太腿から胸までを隠す一つなぎの紫の服は、それでも彼女の肢体の悩ましさを押さえていない。
怖くは、なかった。
むしろ、興味さえ湧いた。
彼女が、果たして何者なのか。
ここは、何なのか。
???「…ごめんなさいね。勝手に服、脱がせちゃったけど……大丈夫、何もしてないわ」
言われて初めて、"闇の女神"は気付く。
今、自分が――何一つ、纏ってなどいない事に。
慌てて毛布を手繰り寄せ、胸元までを覆い隠すと、訪れた女性は苦笑を漏らしてその盆をベッド脇のテーブルに置いた。
???「…私は、この宿屋の主よ。昨日のお昼、あなたが倒れてるのを偶然見つけて、連れて来たの」
彼女の尻尾が木製の簡素な椅子を引き寄せ、腰掛けた。
宿屋主「それで、あなたは? 見たところ、サキュバスじゃないみたいだけど………堕天使? それなら、羽があるはずだから……違うか」
聞き慣れない言葉が飛び出て、思わず目が丸くなった。
その様子を酌んでくれたのか、眼前の"サキュバス"は、更に言葉を付け足す。
宿屋主「…ひょっとして、サキュバスを見るの、初めて?」
声が出ない代わりに、こくり、と首が前に倒れる。
宿屋主「……この国は、『淫魔の国』よ。私の種族が一番多いけど、他にも色々いるわよ」
そして、彼女は様々な種族の名前を上げて聞かせてくれた。
人間と神、その二つしか知らない身には、分からない事ばかりだった。
途中で何度も彼女は補足を挟みながら、この国について教えてくれた。
気の遠くなるほど昔、最初の「人間」が生み出されて数日経った頃に、「最初の女」が魔界へと追放された事。
彼女は幾つもの魔族と交わり、数々の「淫魔」を生み出した事。
そしてこの国が建国されると、女性型の魔物、堕天した神々や異国の精霊や天上の存在。
そういった者達が寄り集まって来て、いまやこの国は、魔族にさえも畏怖されるほどの大国へと成長した事。
宿屋主「で、何か質問とかあるかしら」
今度は、首を横に力無く振るう。
声は出ず、仕草もうまく力が籠もらない。
それでも回復し、受け答えをできる事に、彼女は安堵した様子だった。
宿屋主「待っててね、食べ物を持ってくるから。最初はスープからにしましょう」
そう言うと彼女は扉を出て、しばらくしてから、今度はスープの載った皿を盆に載せて運んできた。
最初の一口をほんの少しだけ、冷ましながら口中に流し入れる。
ほのかに甘い香りの中に、塩気も含んだ液体を、ごくりと喉を鳴らして、飲み込む。
―――――ただ、それだけの事なのに。
―――――飲み込んだスープのひと口と引き換えるように、涙がこぼれた。
その後、彼女の厚意に甘えて宿屋で何日かを過ごした。
数日して食事に胃が慣れて、ようやくパンを食べられるようになった頃、ようやく、声の出し方を思い出せた。
さらに数日後の朝、訪ねてくる者があった。
彼女の「宿」を、ではなく。
淫魔の国へ行き倒れ、迷い込んだ"元女神"へ。
宿屋の主人以外の淫魔を見るのは、初めてだった。
初めて見た時―――――直感した。
この客人こそが、「淫魔の国」を治める者だと。
古びた扉を押し開け、さしたる足音も立てずに、彼女は現れた。
色を失ったかのように美しい、夜空の大河にも似た髪。
同じく、真っ白で、青い血管までも透けて見える肌。
反して唇の血色は良く、その瞳はどこまでも柔らかで、磨き上げられた鏡のような、美しい光が宿っていた。
角は、前髪をかき分けて一角の神馬のように立っている。
そして、彼女は名乗った。
自分は、淫魔の国を治める……「女王」だと。
淫魔女王「……お初にお目にかかります。城壁の外に倒れていたとのことですが……どちらから?」
「……もう、分かりません」
淫魔女王「…お名前を頂いてもよろしいでしょうか?」
「……ありません。なくなってしまいました」
淫魔女王「まぁ……。……しつこいと思われるでしょうが、貴女は……何という種族でしょうか」
「………『女神』だった事があります」
淫魔女王「そうなのですか。……色々と探って申し訳ありませんでした。貴女に、ひとつお話があって参りました」
「…何でしょうか?」
淫魔女王「……私のお城へ、参りませんか?」
「え?」
淫魔女王「………この国の、住民として。私に、力を貸していただけないでしょうか」
「……私、が………?」
淫魔女王「ええ」
「…………」
――――――――――
勇者「…………」
堕女神「そして私は、女王陛下とともに、この城へ。………使用人として」
そう言って、彼女は、体ごと肖像画の前へ向き直る。
背筋を正し、身の上を話す中で潤んだ瞳で、肖像画に眠る「先代の女王」の瞳を見つめて。
堕女神「城での暮らしは、上手くいかない事ばかりでした。庭の手入れも、洗濯も、埃をはたき落とすだけの事でさえも私は不器用で」
堕女神「でも、私は、それを通して少しずつ……少しずつ、自らを取り戻し。……いや、形作っていく事ができました」
堕女神「……思い出深い事はあれど、全てを語り尽くす事は、到底できません」
目を閉じるたびに、彼女は思い出すのだろう。
女王に尽くした、あの遠き永き日々。
我武者羅に積み重ねていった、第二の生き方を培う日々を。
勇者「……人ではなく、淫魔達を見守る事に生きる意味を?」
堕女神「……女神が『人』を見守るというのなら、堕ちた女神が、『堕ちた人』を見守る事があっても良い筈です」
勇者「…………」
堕女神「私の話は、これにて終わります。………陛下、どうか……どうか、教えてください」
堕女神「……あなたは――――――」
問いかけを再び発しようとした時、入り口の扉が重い音を立てて開かれた。
メイド「失礼いたします、こちらへいらっしゃると聞いたもので……」
堕女神「何事か起こりましたか?」
メイド「……本日の夜のメインに届く筈の肉が、手違いで遅れております。どういたしましょう」
堕女神「……すぐ参ります。厨房でお待ちください」
メイド「はい、かしこまりました」
堕女神「………申し訳ありません、陛下。残念ですが―――」
勇者「……夜だ」
堕女神「はい…?」
勇者「今日の夜、全てを話す。……俺が、何者なのか」
堕女神「……かしこまりました」
勇者「少し……頭の中を整理したくもあるんだ」
堕女神「はい。……それでは陛下、失礼いたします」
雨は、降り続いていた。
勢いは少し弱まっているものの、尚も、止む気配は覗かせない。
晩餐は、喉を通らなかった。
空腹の筈の胃が、縮まっているようだった。
残さず平らげはできても、前菜も、主菜も、デザートも、素通りするようだった。
あまりにも、哀しい物語が――――彼女の影には、あったのだ。
彼女に、どう答えればよいのか。
人間を救えずに、哀しみと絶望のうちに世界を去った、非業の女神に。
人間を救ったが、それでも居場所を失って世界を去った、『勇者』が。
何をどう答えれば良いのか。
正体を明かせば、彼女の傷を広げるだけではないのか。
人間を救っても、結局世界は救えなかった。
人間達は争いに溺れて、結局は、憎み合う道を選んでいた。
雨足が再び強まった頃、彼女は、勇者の寝室を訪れた。
明かりを最低限まで落とした室内で窓辺に佇み、外を眺めていると、風雨の音に負けないやや強めのノックがされた。
普段なら声だけで答えたが、今日は、自ら扉を開けて――――訪れた彼女を、迎え入れた。
勇者「……早いね」
堕女神「陛下をお待たせしてはと思いまして。……私も、逸っているのかもしれません」
勇者「それは?」
堕女神「……食後酒をお飲みにならなかったので、代わりにとお持ちしました」
彼女が持ってきた円形の盆の上には、細長い脚付きのグラスが一つと、霜のおりた酒瓶が載っている。
勇者「…それじゃ、貰おうかな。入ってくれ」
彼女を室内に招き入れると、真っ直ぐにベッド脇のテーブルへと向かい、盆を置く。
そのまま手慣れた動作でゆっくりと、音も無くコルクを抜き、グラスへと静かに注いだ。
グラスの縁から流れ込むように、黄金の液体が細かな泡とともに満ちていく。
七割ほどまで注がれると、彼女は勇者にグラスを差し出した。
それを手に取り、まずは一口、口をつける。
堕女神「……お口に合いましたでしょうか?」
勇者「うん。……ほら、堕女神も」
言うと、そのグラスを彼女へと返す。
堕女神「私……ですか?」
勇者「無理にとは言わない。……一人で味わうのも、気が引けるから」
堕女神「……かしこまりました、それでは……」
返杯を受け取ろうと伸びた白い手が、稲光で照らされる。
とっさに彼女が身を強張らせながら手を引っ込め、グラスに指先がかすり、液面が僅かに揺れた。
雷鳴が聞こえたのは、その三秒ほど後。
堕女神「あ……」
勇者「……これは、まだしばらくは降るかな」
堕女神「申し訳ありません、陛下」
勇者「……雷は、苦手なのか?」
堕女神「………はい、その通りです」
勇者「まぁ、雷が得意な奴なんてのもいないか」
堕女神「…陛下は」
勇者「ん」
堕女神「………陛下は、『得意』なのでは?」
勇者「ある意味では」
彼女は窓辺へと一度近寄り、そして、数歩ほど下がり、外を見つめた。
窓に叩き付ける雨粒、遠くから聞こえる轟きと、彼方の山脈に走る稲妻が、終末の風景にも似たものを演出する。
――――遠い昔、実際に見たものを。
堕女神「……陛下は、何故……『雷』を……」
勇者「…使えるのか、か」
差し出したままだったグラスを再び引き寄せ、一気に半分ほどを空にする。
喉の奥にしゅわしゅわと泡が弾けて、奥に忍んだ爽やかな酸味が、甘い後味とともに喉を滑り降りた。
堕女神「……不思議だった事がございます」
勇者に背を向け、窓の外を眺めながら、彼女は独白するように語り始めた。
堕女神「………陛下の『雷』は、怖くはありませんでした」
勇者「え……?」
堕女神「…分からないのです。何故なのか」
勇者「…………」
堕女神「……陛下は、何者だったのですか?」
再びの問いかけに、勇者はグラスを持ったまま、項垂れながらベッドに腰を下ろす。
窓の外を見たままの彼女に背中合わせになるような形で、応えるように彼もまた独白する。
かつて人間界で、何も知らない子供だった頃の事を。
長閑な農村で、牛の世話をしたり、薪を割ったり、小さな畑を耕していた幼少の頃を。
十世帯ほどしかないがその全てが顔見知りで、暖かく素朴な、ちっぽけで穏やかな村だった。
牛のお産の手助けをした事、薪割りを父親がなかなかやらせてくれなかった事。
村の教会の裏にある白い花畑で、村の子供達と遊んだ事。
晩には、家族とともに食べる焼きたてのパンと、暖かく湯気を立てる野菜のスープが美味しかった事。
屋根裏の小さな子供部屋の天窓から望む星空は、どれだけ見ていても飽きなかったこと。
夜空を眺めて夜更かしをしていると、たまに母が温めてくれたミルクの味が、今でも忘れられていない事。
父が語り聞かせてくれた「勇者」の童話に、心を昂らせていた事。
――――そして、ある晩……夢に「女神」が現れ、力を授かった事を。
堕女神「……『女神』と申されましたか?」
勇者「ああ。……目が覚めれば、俺は『雷』を操れるようになっていたのさ」
堕女神「…………つまり…」
勇者「…雷を操り、歴戦の将軍より力強く、影に溶ける暗殺者より速く、凶悪な魔物を物ともしない。そんな存在に、翌朝にはなっていた」
堕女神「そんな人間が、いるのですか?」
勇者「ああ」
勇者「――――『勇者』と呼ばれる存在に、俺はなっていたんだ」
堕女神「『勇者』……!?」
振り返った彼女は、勇者の後ろ姿へ丸くなった目を向ける。
彼は話に間を置き、グラスを傾けていた。
その言葉は、城下の書店で聞き覚えがあった。
世界を救い、魔王を打ち倒し、闇を打ち払う希望の存在。
童話では、その後は描かれていないと―――彼は、そう語っていた。
勇者「……俺の見た夢を話し、実際に『雷』を使ってみせると、村の人たちは、沸き立ったよ」
空になったグラスを弄びながら、尚も言葉を続ける。
勇者「……その時聞かされたんだが、村の大人たちは、『魔王』の出現を知っていて、子供達には黙っていたんだ」
堕女神「……子供らを不安にさせぬため、ですか?」
勇者「そう。……魔物の群れを率いて世界を喰らう、『魔王』と呼ばれる伝説の存在の復活を、知っていて」
勇者「……それでも、子供らに余計な心配をかけないために、田舎の農村の日常を守っていた」
勇者「………まぁ、流石に村の子供から『勇者』が生まれるとは思わないな、普通は」
勇者「それでも、父さんと、母さんと……小さな妹は、俺を送り出す事に抵抗があったみたいだ」
堕女神「……でしょうね」
勇者「……それでも結局は、村の鍛冶屋の爺ちゃんが、剣と防具を拵えてくれて、それを持って旅に出たよ」
勇者「ああ、なけなしの金と、簡単な傷薬に使える薬草も少し持たせてくれたな」
堕女神「……その後は?」
勇者「何年かは、一人旅さ。……魔物を退治し、少しずつ、少しずつ力をつけて、使い方を覚えていって」
勇者「穏やかで優しいけど、頑固な僧侶。強者で有名だった戦士、そして、勝ち気だけど寂しがりなところがある魔法使い」
勇者「……その三人と出会い、俺達は、本格的に世界を救う旅を始めたんだ」
堕女神「旅は、辛いものでしたか?」
勇者「斬られて刺されて射られて殴られて、たまには毒まで受けた。病気に伏せる事もあったよ」
堕女神「…愚問でした」
勇者「……そして、俺達はようやく……『魔王』を、倒したんだ」
堕女神「……世界は、救われたのですか?」
体を勇者の方へ向けても、ベッドを挟み反対側に座る本人は、背中を向けたまま、押し黙る。
サイドテーブル上のボトルに手を伸ばし、手酌でグラスへ注ぎ、元の場所へ戻す。
舌先を湿らせるように一口だけ含み、ようやく、語り始めた。
勇者「……分からないんだよ」
堕女神「え……?」
勇者「………俺の国と、隣の国は、魔王のいなくなった後でまた、覇権を争う準備を進めていたんだ」
堕女神「………何故?」
勇者「『敵の敵は味方』と言うけれど、共通の敵が消えたらどうなる? 数年は平和だとしても、数十年後にはどうなる?」
堕女神「……それは……」
勇者「俺は、『世界』を救ったのかもしれない。……だけど」
勇者「……『人間』を救う事は、できなかった」
堕女神「…陛下」
勇者「……湿っぽくしてごめん」
堕女神「……ありがとうございます」
勇者「え――――?」
堕女神「…隣に、よろしいでしょうか」
いつの間にか、彼女は隣へと座っていた。
半身ほどの距離は空けているが、勇者から見て左手側に、彼女の暖かな気配が、在った。
勇者「『ありがとう』とは、何に対して……?」
堕女神「……いくつも、です」
勇者「…………」
堕女神「……陛下の『雷』が怖くないその訳が、分かりました」
勇者「え?」
堕女神「……いえ。それより……どうやって、この世界に参られたのですか?」
勇者「……魔王が、俺をこの世界へ導いてくれたんだ」
堕女神「魔王、が……?」
勇者「…………俺は、魔王を倒したら死のうと思っていた」
いきなりの告白に堕女神の肩が揺れ、緩みかけた表情が凍りついた。
それでも、黙って次の言葉を待つ。
勇者「……魔王を倒せてしまう男を、俺の国は放っておくはずがない。政略に組み込まれて、隣国との戦争に放り込まれる所だったんだ」
堕女神「そんな……」
勇者「だが、俺は……救った世界の人々に、剣を向けたくなかった。……だから、魔王と相討ちになってもいいと思ってたんだ」
勇者「……ところが、魔王は俺を救ってくれた」
勇者「……『淫魔の国』の、王の座へと導いてくれたんだ」
堕女神「……魔王とは、何者なのですか? 何故、そのような事まで……」
勇者「もう分からない。……だが、魔王は……最後まで、『魔王』だった」
堕女神「…………」
勇者「その他の事は何もかもが俺の理解を超えていて、手が届かない。……ともかく、これが……俺の話さ」
締め括るように、グラスに残った酒を飲み干す。
溜めを作ってから長く息を吐き出すと、弾ける炭酸か、あるいはすべてを吐き出した事からか、
胸の中に溜まっていた重りが全て抜け落ちたような思いがした。
勇者「……さて、何か訊きたい事はあるかな」
堕女神「………それでは、一つだけ」
勇者「うん」
堕女神「……私にお訊ねになられましたが、陛下は……人間を、今でも愛しておられますか?」
勇者「……そうだな」
顔を上げ、天蓋を見つめる。
僅かな燭台の光に照らされた顔は、晴れ渡っていた。
勇者「……愛しているかは分からないけど……俺は、信じている」
勇者「どんなに愚かでも、どれだけ迷っても。人間は……必ず変わる事ができる。そう信じたい」
雷雨は、すでに止んでいた。
気付けば窓を叩く雨の音も、彼方に響く雷鳴も、聞こえない。
嘘のように澄み渡った夜の静寂が取り戻されていた。
堕女神「………ありがとうございました、陛下」
勇者「…………」
堕女神「……一杯、頂いてもよろしいでしょうか」
勇者「…あぁ」
勇者は残っていたボトルを取り、未だちりちりに冷えた残りの酒をグラスへと注ぐ。
それを堕女神に渡すと、彼女はグラスを回しながら、しばし見入っているような仕草を取った。
堕女神「……では、いただきます」
一息に。
本当に一息で、グラスを満たしていた黄金の酒が魔法のように飲み込まれた。
そして、空になったボトルとグラスを盆に載せ、来た時を逆へ辿るように、扉へと向かった。
堕女神「……本日は、ありがとうございました。おやすみなさいませ、陛下」
勇者「……部屋に、戻るのか?」
堕女神「…………はい。少しだけ片付けなければならない仕事が残っておりますので」
勇者「……わかった。おやすみ」
彼女が背中を見せたまま、ドアノブに手を添え―――顔を見せずに、廊下へと消えて行った。
その姿を見送ると、勇者もまた、ベッドへ戻り―――しばらく天蓋を見つめた後、ゆっくりと目を閉じた。
七日目
洗われた空が、淫魔の住まう国に朝日を導いていた。
明け方の空には、未だ月が姿を残している。
勇者は目を覚まし、自らカーテンを開き、光を室内に取り入れた。
燦々と輝く太陽が目に飛び込み、それにより、一気に目が覚める。
薄目を開けて少しずつ慣らして、窓越しに庭園を見下ろす。
使用人達が、露に濡れた庭園の掃除をしていた。
風に煽られ落ちた葉を掃き集め、乱れた植え込みを直し、小枝を拾い集めるその中には、二人のサキュバスの姿もある。
サキュバスAは植え込みを、まるで髪の寝乱れを梳き解すように丹念に直していた。
サキュバスBは散らばった小枝を拾い、蔦を編み込んで作った籠へと片端から放り込む。
しばらく庭園の様子を眺めていると、扉が叩かれた。
普段は声だけで済ませていたが、今朝は、自ら扉へ近づき、返事をする代わりに開ける。
朝を告げに来た堕女神が、驚いた様子でそこにいた。
そしてすぐに一歩引き、挨拶に続けて詫びた。
堕女神「おはようございます、陛下。朝食の準備は出来ております」
勇者「その前に……少しだけ、庭を回りたいんだが、いいかな」
堕女神「はい、かしこまりました」
勇者「ところで」
堕女神「……はい」
勇者「……昨日は、よく眠れた?」
堕女神「……ええ、すっきりと」
勇者「それは良かった。……庭を一回りしたら食堂へ行くよ。勝手を言ってすまない」
堕女神「いえ。どうぞ、ごゆっくり」
彼女が立ち去ると、勇者は着替えを始める。
クローゼットから取り出した金色の糸で縁どりされた青い絹のシャツは、空を写し取って煮詰めたように青く、存在感を放っていた。
ベルベット地のやや暗く沈んだ色合いのズボンと合わせて、最後に、履き慣れたシンプルなブーツに足を通す。
部屋を出ると、朝の澄んだ空気が、未だ城内だというのに肺腑に沁みた。
見渡せば、廊下の彼方に三人のメイド達が見えた。
山のようにシーツを抱えて、洗濯場へと運ぶ最中のようだ。
スカートの裾から伸びる尾は、絨毯につかないようにギリギリで鉤のように丸められている。
メイド達のいる方向へと歩いて行き、階段を下り、庭園へと続く扉を開けた。
その瞬間に、湿った緑の香りと、夜通しの雨で洗われた風の匂いが、爽やかに胸の中へと飛び込んできた。
すぅっと大きく息を吸い込み、ゆっくりと、深く吐く。
それだけで細胞が一気に目覚め、すっきりとした気分になった。
使用人達が働いている庭へ、踏み出す。
靴底が敷き詰められた石畳にぶつかり、やや湿った感触とともに、靴音が庭園に響いた。
彼女らの仕事を妨げないように庭を歩き続けると、何人かは主の存在に気付き、会釈をして手を休めた。
その度に勇者は軽く手を挙げ、気にせずに続けるように、と勧めた。
作業着をまとった淫魔の園丁達が、植木に鋏を入れる。
メイド達が、テラスの手すりを拭い、テーブルも同様に掃除していた。
庭を歩きたいと思ったのは、朝食までの時間つぶしと、新鮮な空気を吸いたいと思ったのと、もう一つの理由がある。
それは――――彼女らの働く姿を、間近で見たいと思ったから。
人間など遥かに及ばないはずの力と、人間とは明らかに違う姿をした彼女ら。
なのに、今この空間では、額に汗を浮かべながら、働いていた。
堕女神の語った回想を、思い出す。
そして「七日間」に聞いたサキュバスAの話をも、同時に。
堕女神によれば―――否、彼女を最初に受け入れた淫魔によれば、人間と淫魔は、根源を同じくする。
人間は、人間として神々の祝福の許に生き、その結果破滅を招き、そして再び新たな人間が生まれた。
淫魔は、生み出されてすぐに悦楽に走った結果、楽園を追放された「人間」の女だった。
奇妙な事に、人間から離れたはずの淫魔達は、人間へ限りなく近いのだ。
人間のように働き、食べ、眠り……時が来れば、人間の精を求めて人界へ降りて、子を宿す事さえある。
そこに、勇者は……言い知れぬ想いを浮かべずには、いられなかった。
サキュバスB「陛下? どうしたんですか、こんな所で」
庭園中央の噴水へと近づいたころ、サキュバスBと鉢合わせた。
背負った籠は中ほどまで小枝や葉がつまり、手にはゴミを挟んで取るための道具が握られていた。
メイドの衣装の裾は、土と草の緑が染み付き、靴にも泥が跳ねている。
勇者「いい天気だからさ。朝の散歩だよ」
サキュバスB「なるほどー。……晴れてよかったですねー」
勇者「……それにしても、精が出るな」
サキュバスB「えへへ。慣れてくると、お仕事も楽しくって」
勇者「あぁ、サマになってる。えらいな、『お手伝い』して」
サキュバスB「『お手伝い』じゃないですっ! もう!」
勇者「それはそうと……雷、凄かったな」
サキュバスB「……そ、そうですね」
勇者「……いや、もうやめる」
サキュバスB「え?」
勇者「からかってると楽しくてキリが無いから」
サキュバスB「か、からかってたんですか?」
勇者「つい」
サキュバスB「……遊びだったんですね!」
勇者「いや、変な言い方しないでくれるかな」
サキュバスB「あ、そうだ……陛下。噴水の所のお花、咲いてましたよ」
勇者「咲いたのか」
サキュバスB「はい。ぜひご覧になってください。綺麗ですよー」
勇者「うん、ありがとう、行ってみる。それじゃ、頑張ってお手伝いしろよ」
サキュバスB「ですから、『お手伝い』じゃないですってばっ!」
ぷりぷりと怒りながら仕事に戻る彼女とすれ違い、その後ろ姿を見送った。
背負った籠の重みでよたよたと歩く小さな姿は可愛らしく丸まり、見ていて落ち着かない所もある。
彼女には、無意識に嗜虐を煽るような節がある。
それと同時に、庇護欲をそそるような幼さも、同時に掻き立てる。
そういった性質もまた、淫魔としては天性に属するのだろうと考えていると、噴水に辿り着いた。
――――満開の白い花が、勇者を出迎えた。
噴水を取り囲んでいた蕾は、その全てが咲き誇っていた。
いや、もはや花畑の中心に噴水がある、と言った方がよいだろう。
その花には、見覚えがあった。
かつて勇者である前に村に広がっていた、花畑と同じものだった。
花弁の色も形も違わない。
茎も葉も、違わない。
寸分違わず、人間界で見たものと――――同じ、だった。
奇妙な感覚だった。
建国から数十万年経つ、魔界の中の「淫魔の国」に。
少年の頃の記憶に残る、小さな農村に咲き誇っていた花が咲いていた。
あの七日間で、何故気付かなかったのだろう。
故郷に咲いていた花が、ここにも咲いている事に。
しばらく目を奪われていると、背後から、一人のメイドに声をかけられた。
朝食の準備が済んだらしく、大食堂へと呼んでいた。
名残惜しくもあるが、懐かしい白い花から目を離し、城内へと戻る。
この世界と昔日の記憶を結ぶ花は、運命じみた偶然、あるいは偶然に化けた運命か。
その真実は―――誰にも、分からない。
朝食の支度を終えて、彼女は大食堂で勇者を待つ。
大テーブルの最上の座に、一筋の皺もない、真っ白いナプキンが彼の席を示していた。
その傍らに、落ち着かない様子で彼女は立っていた。
心までも映し込みそうなほどに磨き抜かれた銀食器の配置に、何度も手を入れる。
真っ直ぐに並んでいる食器が、傾いているような錯覚を覚えて―――何度も、何度も。
そわそわとした仕草を続けているうちに、ようやく、その座につくべき男が姿を見せる。
彼は扉を開け、まっすぐに、自らの席へと向かってきた。
彼女が椅子を引けば、勇者はゆっくりと深く腰掛ける。
すぐに朝食が運ばれ、いつものように、パンを一口齧ってから食べ始める。
堕女神は、傍らに立ち、じっと、眺めていた。
ただ飢えを満たすためだけにではなく、一口一口を噛み締める食べ方は、見ていても心地よかったのだ。
スープを掬う仕草も、パンを千切る仕草も、魚の切り身を口に運ぶ仕草も。
先代の女王ほど洗練されてはいなくとも、気品では負けていない。
彼が食べ終え、少し間を置いてから、目の前で白磁のカップに茶を注ぐ。
レモンをくぐらせてある紅茶は、その香りを更に際立たせる。
飲み終え、今日の予定について二言三言交わして、いつものように、彼は食堂を後にする。
――――いつもの事が、今日は、ことさらに……何故か、寂しくも感じた。
朝食後、書庫で、勇者は調べ物をしながら堕女神による報告を聞いていた。
堕女神「―――国境付近で使節団と別れたとの事です。無事に、彼女らは我が国の領内を抜けました」
勇者「よかった。また何かあったら、それこそ……」
堕女神「…面目が、立ちませんね」
勇者「いや。……顔向けできないと思った」
堕女神「?」
勇者「この国とあっちの国、二人の先代女王にさ」
堕女神「…………」
勇者「他に何か変わった事は?」
堕女神「陛下の支持率が急上昇しました。……城下の花屋から、立派な『花』が献上品として届きましたよ」
勇者「……参考までに聞いておくけど、どんな?」
堕女神「……全高およそ4m、蔓の長さは10mまで自在に伸び、『何でも溶かすかもしれない液』を生成でき、主食は虫と小型の動物」
勇者「どう考えてもモンスターじゃないか!」
堕女神「そうおっしゃると思いまして、気持ちだけ受け取っておきました」
勇者「ありがとう。本っ当にありがとう。……と、済まないが……ちょっと外すよ」
勇者が用足しに出てから、彼女はその間にもと手元の数十枚の紙束に目を落とす。
各砦からの定期報告、領内各地で起こった事件など、様々な事柄が書き連ねられていた。
普段は朝の十数分で全て目を通し、理解できていたはずの事が――――頭に、入らない。
100年間の積み重ねが、たった六日の「思い出」に重ね塗られてしまっていた。
城下で起こった事件の報告を見ても、憂慮など生まれなかった。
彼と共に城下町を歩いた記憶ばかりが思い出される。
書店で飲んだ、あの苦い飲み物の事、鍛冶屋を営む四本腕の女魔族と勇者が、笑いながら雑談を交わしていた事、
市場を回っていると燻製の試食を勧められた事。
隣国の衛兵の助けに応じて、共に駆け、隣国の淫魔達を助け出した事。
――――城門の前へ戻ると、開門を命じた門番の声が浮き立ち、その目が輝いていた事。
――――城門をくぐり、隣女王を載せた馬車が城下町へと戻ると。
――――まるで祝祭の花火のように、城下に住まう淫魔達が歓声を挙げ、凱旋する"王"を迎えた事。
つくった料理を美味そうに食べる、彼の笑顔。
最初の二日、自分はその笑顔を知らずにいた事。
「人間」とどう接すれば良いのか分からずにいて、冷たくしてしまった良心の呵責。
神位を失った彼女の話を聞き、彼自身もまた、悲劇に終わりかけた半生を語り聞かせてくれた事。
心は、とうに奪われていた。
昨夜に、仕事など残ってはいなかった。
ただ、怯えた。
――――自分などが、彼と同じ夜を過ごして良いものなのか。
昼食の準備をして、夕飯の準備をしても、その疑念は離れない。
自分は―――人類を救う事ができなかった、「神の出来そこない」なのだから、と。
夕食に出す予定の仔羊肉の下拵えをしていた時、厨房へと踏み入るサキュバスAと、偶然に目が合った。
サキュバスA「……お手伝いできる事はありますでしょうか?」
堕女神「……それでは、前菜の貝の蒸し煮を……お願いします。それと、温野菜を」
サキュバスA「ええ、かしこまりましたわ。……それでは、調理台をお借りいたします」
夜の準備にはやや早く、夕方にやや届かない程度。
メイド達が手伝いにくる時間までは、今少し時間がある。
その間にも勇者は書庫へ籠もりきり、淫魔の国のすべてを、余すところなく吸収しようとしていた。
堕女神「……あの……」
サキュバスA「ん……? 私に、何か?」
堕女神「……不思議、なのですが……」
サキュバスA「何ですの?」
堕女神「…あなたは……いえ、淫魔達は……何故、陛下にあれほどまで惹かれるのですか?」
サキュバスA「私はともかく……淫魔達、というと?」
堕女神「……城下町の、です」
サキュバスA「あぁ……。それはまぁ、自然ですわよね」
堕女神「……淫魔は、人間の『精』にだけ興味があるのでは?」
サキュバスA「……豚の生きる姿を見て、愛情の湧かない者がおりまして? 屠場を見れば心は痛むでしょう?」
堕女神「………っ」
岩塩を振っている指先が強張り、塩の粒が指先にめり込んだ。
ちくりとした痛みが走るが、覚えた苛立ちの方が勝った。
サキュバスA「…というのは冗談でして。………実の所、淫魔にさえ分からないのです」
背中合わせのまま、サキュバスAはナイフを指揮棒のように虚空に遊ばせながら、あっさりと前言を撤回する。
サキュバスA「……面白い事を考えた者と、会った事がありますわ」
堕女神「……面白い事?」
サキュバスA「淫魔は、元々を辿れば『人間の女』。……でも、人間の精を吸い取り、人間の子を孕む行いは、よくよく考えるとおかしくはありませんか?」
サキュバスA「男性型の魔族と交われば、更に強い子を生す事ができる。魔力も、その能力も。……なのに、何故? 何故……」
サキュバスA「……何故、『弱い』存在である人間の子を宿すのか? と、彼女は言っておりました」
サキュバスA「……いや。そもそも……昔、人間界にかつてないほど強力な『魔王』が侵攻した時の事」
堕女神「…そういう事も、ありましたね」
サキュバスA「何億騎もの魔界騎士、残忍な獣人族、人間をペットにする魔界貴族。他にもいくつもの魔界の氏族を引き連れて人界に降り立った」
堕女神「確か、あの時は……」
サキュバスA「酷いものでした。……いえ、あの惨状は……人間界が、『魔界』そのものに変じてしまったようで」
語り続ける彼女の手は、止まった。
いや――――微かに、小刻みに、震えていた。
サキュバスA「……淫魔達は、人間界へと下り―――人間達と手を取り合い、『魔王』を倒すための力添えをした」
堕女神「…………」
サキュバスA「…結局、あの戦争で魔界騎士は一騎残らず死に絶えて。男性型淫魔『インキュバス』も、人間に味方した僅か数人を残してほぼ絶滅」
サキュバスA「勿論私達も、無傷とはいかず。……何故命を懸けてまでして人間を守りたかったのか、淫魔達にも、分からないのです」
サキュバスA「でも、最近……ようやく、分かりかけてきたのです」
サキュバスA「……『淫魔』は、『人間』とともにありたい」
堕女神「……人間から離れたはずなのに、『淫魔』は、また人間を求めていると?」
サキュバスA「『淫魔』は元来、寂しがり屋ですもの」
堕女神「………『淫魔』…」
サキュバスA「ともかく、城下町の者達が陛下に惹かれるのは、当然という事です。人間だという事、それと――――」
堕女神「?」
サキュバスA「………いえ、止めましょう。さぁ、こちらの準備は終わりましたわ」
命じられた下拵えを全て終えた彼女は、調理台から離れる。
サキュバスA「……それでは、私はこれにて。……貴女に、ひとつだけ」
堕女神「……え?」
サキュバスA「…『自分』の声を、聴いてあげなさいな」
それだけ告げて、彼女はその場を去る。
堕女神は、その後ろ姿を見ずに―――彼女の言葉を噛み締めながら、作業を続けた。
――――――――書庫から出てきた勇者は、凝り固まった首を解しながら廊下を見渡す。
既に日は落ちかけて、薄紫の空が窓の外に広がっていた。
地平の彼方に沈む太陽はその一角のみを赤く染めている。
廊下の燭台にはまだ火が灯されておらず、慣れた城の廊下が、薄暗く寒々しく思えた。
勇者「………あの日も、こんな空の色だったな」
あの決戦を控えた夕暮れの空と、奇妙にも同じ色。
薄紫の空を残して沈みゆく太陽と、その周りにある飛び散った血のような朱。
予言のような空の色は、『七日間』の終わりに見たものと同じだった。
手近な窓からしばらく空を見ていると、溜め息とともに、微笑み。
にわかに視界が滲んだ時、廊下の端から光が迫ってきているのに気付く。
窓辺に向かう勇者の右側の廊下から、順番に、壁面の燭台に勝手に火が灯ってきた。
点灯の時間が、訪れたようだ。
空の彼方に日が沈むのを見届け、未だに紫紺の色が残る空を望みながら、炎で明るく暖かくなった廊下を歩く。
その途上でメイドと会い、彼女から―――晩餐の準備が整った旨を、告げられた。
晩餐に並んだ食事は、どれもが素晴らしいものだった。
前菜の殻付きの貝の蒸し煮、太刀魚のスープ、温野菜を添えた白身魚。
骨付きの仔羊肉を少量の岩塩のみの味付けで焼き上げたメインディッシュ。
デザートのシャーベットまでを食べ終えて待つと、いつものように、堕女神が食後の茶を淹れる。
堕女神「……ご満足、いただけましたでしょうか?」
勇者「…満足できなかった事なんて無いよ」
堕女神「………身に余る言葉です、陛下」
勇者「大袈裟だな」
堕女神「…………いえ」
勇者「……どうかしたのか?」
堕女神「……食後の一時に、お訊ねする無礼をお許し下さい」
勇者「……何かな」
堕女神「………陛下は。何故……『淫魔の国』に来ようと、思ったのですか」
堕女神「……何故、あなたは……淫魔の国の王になろうと?」
それは、昨夜の続きに当たる質問だった。
役目を果たした「勇者」が、淫魔の国の「王」になる事を決意した、その理由。
勇者「………そうだな」
目を閉じ、勇者はあの時の事を思い出す。
両断された魔王が、最後の力でもう一つの世界への扉を開いた時の事を。
瓦礫の中で、扉の向こうに願った―――最後にして、最初の気持ちを。
勇者「……俺は、生きたかったんだ」
生への渇望。
「勇者」の任を解かれて「人間」へと戻った時、最初に芽生えた、その感情。
勇者「…そう、俺は生きたかった。……淫魔達と。この国と。……そして何より」
続く言葉の先頭に付け足そうとした言葉を飲み込む。
そして、素直な―――最大の気持ちを、舌に乗せた。
勇者「………堕女神に、逢いたかった」
心からの気持ちを乗せた言葉は、時として、抑揚無く吐き出される場合がある。
あまりに静かに呟かれた言葉は、少しの時を挟み―――そして、熱した鉄板にバターを乗せたように、一気に溶け流れた。
堕女神「っ……へ、陛下……!?」
唐突な告白に、彼女の喉は追いつかない。
何かを言おうとしても、熱く痺れたかのように、頓狂な声にしかならなかった。
堕女神「……あ………」
心臓の鼓動が高鳴り、際限なく熱が籠もり、熱くなった顔が涙腺を緩ませた。
石膏のように白い肌がぼうっと赤く染まるが、勇者はテーブルに向かっているため、見えない。
見えないが―――勇者は、彼女の様子に気付いていた。
勇者「……俺は。君がいたから―――生きようと思ったんだ」
勇者「君は……俺を、助けてくれたんだ」
彼女の手は、まるで意識から離れたかのように―――テーブルの上にある、勇者の手へ重なった。
自分でも、何故そうしたのか分からなかった。
――――まるで、自分の中の何かが。
――――長く逢瀬を待った恋人のように。
――――意思を離れ……"彼"の手を、求めたかのように。
堕女神「……あ、れ……?」
――――頬を伝ったのが涙であると、気付けなかった。
――――気付けても、その理由は分からなかった。
涙は、止まらない。
頬から、顎へ。顎から、"彼"の腕へしたたり落ち、シャツの袖に染みを作る。
堕女神「………どう、して……涙が……止ま……ら……」
横隔膜の引きつりも、つられて鼻が詰まる感覚も、無い。
ただ、涙だけが……血と闇に染まった眼を潤し、清流のようにただただ流れる。
そして、彼女の口が。心が。
理由など分からないままに、意思を離れた言葉になる。
その言葉が何故口から出たのか、分からなかった。
堕女神「……おかえり……なさい……」
二つの魂が気付いた頃には、夜の帳の下りた寝室で、見つめ合っていた。
燭台の光すら差さず、ただ月光のみが窓から覗いている。
堕ちた女神の瞳からは、今なお、大粒の涙が溢れていた。
堕女神「……陛……下……」
彼女の顔が、勇者の胸元へと小鳥のように沈んだ。
その手は未だ握ったまま、同じように胸元へ添えられて。
勇者「………いいんだ」
彼の腕も、堕ちた女神を抱き締める。
――――暖かかった。
――――沁み込み、胸へと届く涙の温もりも。
――――指先から届く、ようやく触れる事ができた、彼女の肌も。
――――何もかもが暖かく、そして……久しぶり、だった。
堕女神「陛下………」
胸元に飛び込んだ小鳥が力無く囀るように、彼女が囁く。
涙は、未だ止まらない。
何処からか湧き出る泉のように。
詰め込まれた幾つもの感情が、その流れに乗せられて、目を伝ってようやく外へと流れている。
堕女神「……私を、『淫魔』にしてください。……あなたと、あなたの国と……ともに、あるために」
その言葉に勇者は、暗闇の中で黙って頷き―――ゆっくりと、腕の中の彼女の瞳を見つめる。
顔を上げた彼女の瞳は、月光を浴びて輝く紅玉のようだ。
勇者が彼女の肩を抱く右手の位置を上げ、うなじを摩り、彼女の頭に、髪をかき上げながら添えられる。
さらさらとした黒髪が指の股を通り抜け、清らかな川の流れにも似た、恵みのような感触が伝わった。
顔を近づけると、彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
涙の名残が閉じられた瞼の端に溜まり、長い睫毛に雫が纏い、宝石の粒のように輝いていた。
――――彼女が思い起こしたのは、埃を被った、古臭く……それでも澄み渡る、宝石のような記憶。
――――焦がれる恋人達が交わし、結ばれた夫婦が交わし、絆によって生まれた子供達とも交わしていた、あの行い。
唇の先が触れ、彼女は身を震わせる。
それでも、逃れようとする素振りは無い。
堕女神「……ん……っ……」
更に進み―――ふたつの唇が、重なる。
離れていた貝殻が再び閉じるかのように、自然に……ふたつが、「ひとつ」になった。
窓から見つめる月は、七色の衣をまとっていた。
空から流れる涙に映り、現れる七色の弓を、花のように咲かせていた。
夜魔の国に咲き誇る、大輪の月虹が――――「ひとつ」を見つめていた。
――――どれだけの時間、そうしていたのか分からない。
――――唇を触れ合せたままの時間が、永遠に感じる。
――――否。……永遠に続いてほしいと、彼女は思っていた。
瞼の端に溜まった涙が流れ落ちる。
唇を離された彼女の目に映ったのは、勇者の顔。
互いに声を発することなく、天蓋付の寝台へと、身を寄せる。
最初に彼女の身体がふんわりとした寝床へ、横たわった。
堕女神「………脱がせて、くださいますか……?」
彼女は言い、自らに纏う黒の行方を、勇者へ委ねる。
頷く事も無く、その指は、白肌を覆う黒衣へと伸ばされる。
胸を覆う部位が下へとずり下ろされ、二つの、大粒の果実のような双丘がまろび出た。
横たわった姿でもなお、目を奪うほどに実っていた。
たぷたぷと、まるで心臓の鼓動を映すかのように揺れる乳房。
まっ白く、その頂にある色づきと突端は、その質量に見合わぬほど小さな蕾のようだった。
尚も彼女を包む喪の黒衣は引き下ろされ、続いて、柔らかそうな腹。
小さな切れ込みのような臍、腰骨、その先へと纏う、黒い下着を境に、更に下りる。
雪のように白く眩しい太腿。
膝、脛、そして指先までも小さく整った、足。
爪先にある夜色の爪は、むしろ―――彼女の美しさを、引き立てるだけのものだった。
秘所を隠す下着のみ。
彼女はそれを除く全身に感じる涼しさと、抑え込むような暖かさを感じて―――胸の前で不器用に手を組み、せめて隠そうとした。
堕女神「……殿方に……晒せる、姿でしょうか……?」
迷いを持った瞳が、下から勇者を覗き込む。
答えるように……勇者の唇が、彼女の首筋へ、蛭のように張り付き、吸う。
堕女神「…あっ……ん……!」
首筋から上る快感に悶え、受けた刺激がそのまま声となって声帯を震わせた。
声は彼女自身が思うよりも遥かに甘くかすれて、淫靡な嬌声に化けた。
奇妙な昂揚感が、堕ちた女神を支配する。
純白のシーツの上で、ほぼ裸の状態で―――首筋を嘗められ、吸われ、その間にも指先は頭を撫でている。
月明かりの中に相手を見る度に、今行って……行われている事を認識し、その度に背筋に氷柱から垂れた雫を受けたように、ぞくりと震えた。
―――――今、自分は抱かれている。
―――――男に。
―――――"愛"する者に、全てを委ねている。
認識するたびに下腹の奥に熱が籠もり、その先にある未だに黒に覆われたままの秘所に、甘い疼きを覚えた。
彼女は誤魔化すように、あるいは探るように、何度も、もじもじと脚を艶めかしくくねらせる。
堕女神「っ……陛、下……その…」
息を切らせながら、彼女はすぐ側にある勇者の耳へ、囁きかけた。
堕女神「……お体、に……触れさせて……ください……」
勇者「……そうだった」
一度体を起こし、勇者はシャツを脱ぎ去る。
月明かりの下、彼女が見たのは――――細く締まった、戦傷だらけの体躯。
彼女は華奢な体を起こし、ベッドの上に座る勇者に、向かい合う。
そのまま、ゆっくりと膝だけで這い寄り、雲のように白い背を、勇者の胸へと預けた。
ふたつの心臓が、重なる。
勇者は、彼女の薄い背を通して―――鼓動を、感じる。
彼女も、張り出てはいても分厚くは無い勇者の胸板を通して―――同じく、熱さを感じる。
ふたつの命が、重なり合う。
堕女神「……しばらく……このままで……いさせてください」
勇者「……いいよ」
しばらく、そのまま―――互いの心を暖め合うように、堕女神を後ろから抱き締める形で、天蓋の下で過ごす。
そして、彼女は……隠していた胸から腕を下ろし、その手をベッドの上に置いた。
堕女神「……どうぞ……お好きに……して、ください。私を……」
彼女の魂が"それ"を許した時、勇者の手が、ゆっくりと……背越しにも見える、柔らかな二つの果実を目指す。
まず、ゆっくりと……下から、持ち上げるように、指先を乳房の下へと滑らせる。
堕女神「んぅっ……!」
ただ、それだけの事で―――彼女の身体は跳ね、くぐもった喘ぎが漏れた。
さらに乳房を下から持ち上げ、ゆっくりと指先を蠢かせる。
見た目だけではなく、内部まで肉がみっちりと詰まったような、重みを感じた。
それでいて張りもあり、張り詰めた風船のように、一分の遊び無く、末端まで瑞々しく詰まっていた。
常人を離れた肉体を持つ勇者でさえ、その手首に疲労を感じる程――――重い。
乳房と、その下の肌との触れ合う部分には僅かに汗をかき、手に張り付くような感触を届ける。
更に、その手を上へとなぞり上げていくと―――触れているだけでも天へと昇るようだった。
堕女神「あっ……は……ぁぁ………!」
汗をかかずとも、その柔い乳房は―――どこまでも、手に貼りつくようにもっちりと柔らかい。
力を込めれば込めるほど指先が埋まり、その度に彼女の身体は強張り、跳ね、そして艶めいた声が漏れ出した。
そして、更に上を目指した手が―――頂にある、重量に見合わぬほど小さく、尖端が僅かに窪んだ、乳首へと触れた。
堕女神「きゃぅっ……!」
指の腹が、乳首の周りにある桜色をした麓を滑る。
その彼女の声に意地悪く諧謔をそそられた勇者は、それぞれの丘に宛がった人差し指を起こし―――乳首の周りを、指先でなぞり回した。
堕女神「あっ…ぅ……!」
螺旋を描くように、爪の先が桜色の乳輪を撫でて―――また、離れる。
中指から小指までは彼女の乳房に強く押し当てられ、むにむにと揉み解す。
堕女神「何、で……こんな……あぁぁぁん!!」
乳首の横腹に指先が掠めると、ひときわ大きな声が上がる。
勇者「……感じるのか? ……こう、か……?」
人差し指の爪が一度に、彼女の乳首の周りを、甘くこするように掻く。
その度に彼女の喉は震え、途切れた吐息を何度も、甘さを伴って吐き下した。
同時の勇者の口が彼女の右耳に添えられ、吐息を沁み込ませるように、耳朶へと囁く。
それだけで彼女は狂ったかのように体を震わせ―――びくびくと、何度も引きつり震えた。
堕女神「……や、……いや……ぁ……!」
震えた身体は、乳房と耳から伝わる心地よさにさらに震えて―――秘所を熱く痺れさせる。
何度かそうして、彼女を油断させて。
何の前触れも無く――――その頂を飾る、桃色の突端を、指先で摘み上げた。
堕女神「ひあぁぁぁぁっ!」
陸に上がった魚のように、ともすれば勇者の腕を振り解くような勢いで―――甘い叫びとともに跳ねる。
逃さぬよう、勇者の手にいっそう力が籠もり。
それに伴い、さらに指先にも力が入れられる。
摘んだだけの乳首に、さらに、こしこしと扱くような愛撫を加える。
その度に、彼女の背筋は伸び、爪先までにも神経が凍りつき、そして溶け行くようなものに悶える。
彼女が初めて知る……"快感"だった。
勇者「……すごく敏感なんだな」
かりかりと乳首の尖端を掻きながら、耳元で囁く。
堕女神「んっ……! ふぅ……ぁ……!」
反り返り、全身に快楽を走らせ、それでも勇者の腕から離れぬように悶える体。
乳房を揉まれ、なぞられ、摘まれ―――ついには、口の端から唾液が垂れ落ちる。
――――答えも返せぬほどに極まった神経は、熱い糖蜜とすり替えられたように、身体を走り抜ける。
――――ただ、乳房を弄ばれるだけで。
だめ押すように、首筋へと甘噛みを加え―――吸血鬼がそうするように、吸う。
堕女神「あぁぁっ!! 」
――――インクの瓶を落とし割ったように、身体を、快楽がさらに荒々しく駆け廻り。
――――緩んだ膀胱が、下着に包まれたままの秘所を滲ませた。
勇者「……脱がせても、いいかな」
――――彼女が最後に纏ったままの、秘所を隠す黒の布へ、親指をかけ―――勇者は、問う。
――――その先には、堕ちた女神の、神聖な場所が隠れている。
――――最後の聖所が、漆黒の喪の中に残っていた。
彼女は、頬を染めたまま。
ゆっくりと………頷いた。
姿勢を変え、最初にそうしたように、彼女の身体をベッドへ横たえる。
全身から力を抜き、甘い快楽の余韻に打ち震える寝姿は、比類なく美しかった。
腰骨を指先が横切ると、ぴくりと震えた。
更に下着の両端に指をかけると、彼女の身体は強張る。
しっとりと濡れた布を、ゆっくりと引き下ろす。
勇者は、それに包まれていた部位を見ないようにしながら引き下ろしていく。
太腿。
膝。
脛、指先。
順番に、彼女を包む最後の黒が滑り落ち。
彼女の体は――――"白"になった。
そこでようやく、勇者は、全てを含めた彼女の、まっさらな寝姿を見た。
隠されていた秘所は、産毛すら生えず、ひたと閉じていた。
少女のように肉厚な割れ目の上には、外気を浴びてひくひくと震える陰核が、その存在を主張する。
堕女神「…いい、ですよ」
シーツをきゅっと掴み、彼女は言う。
堕女神「……触れて……ください………」
最初にまず、指を這わせる。
月光を浴びてぬめぬめと光っているそこに、指先を重ねる。
堕女神「あっ……!」
右手の中指をゆっくりと、割れ目を塞ぐように沈み込ませる。
既にぬるぬると粘つく湿り気を纏っていた秘裂は、その指を容易く挟ませた。
指先で秘裂をなぞるのと同時に、彼女の身体に静かに覆いかぶさる。
膝を立てた姿勢で、彼女の顔を間近に覗きこみながら、秘裂に挟み込んだ指を動かし始めた。
堕女神「やっ…ぅ………」
最初はゆっくりと、上下させる。
動かすたびに湿った音を立て、秘裂は指先を一定の周期を保ったまま、甘く締め付ける。
悶える彼女の顔を見て、我慢しきれず―――やや荒々しく、唇を奪う。
堕女神「んっ……ふぅ……!」
そうすると彼女の腕が伸び、勇者の首に回され、引き寄せられた。
秘所を何度も擦り上げられる快感の行き場を求めるように、彼女の唇が蠢く。
――――本能が為したものなのか、分からない。
――――自分の中の何かに突き動かされるように、重ねた唇を割って、舌が伸びる。
――――今目の前にいる"彼"の唇を割り、その中へと滑り込む。
二つの水音が、間断なく響き続ける。
下の水音と、上の水音は呼応するようになっていた。
少し指先に勢いをつければ、彼女の燃える口づけはさらに勢いを増した。
堕女神「…だ……め……」
秘所にある指を丸め込み、濡れそぼった秘所へ突き立てようとすると、口づけが遠のく。
唇がわずかに離れた合間に、彼女の濡れた唇が、意味を込めた言葉を紡いだ。
堕女神「……さいしょ……は……あなたの……で……」
勇者「……分かった」
堕女神「……でも……その前に……」
勇者「ん……?」
堕女神「…確かめさせて……ください……おねがい……」
勇者「……あぁ、いいよ」
静かにズボンと下着を同時に下ろし、足でそれを追いやり、ようやく……勇者も、生まれたままの姿へ。
彼女の目は下へと行き、逞しく反った"もの"を見つめた。
堕女神「……大きい…」
――――それを見つめているだけで、目まいがした。
――――淫魔達がそうしていたような、ひどく淫らな事をこれから、するのだ。
――――自分は、これから……「淫魔」となるのだ。
堕女神「……さわり……ます……」
――――初めて握る男性のモノは、熱く滾っていた。
――――剣の握り手のように固く、燃えるように熱く、心臓のように脈打って。
――――握り込んだ指先がぎりぎりで触れ合わない。
――――太さは子供の腕程もあるだろうか。
――――それを、これから迎え入れる。
――――迷いは、なかった。
堕女神「……これほど……大きい、ものなのですか……? 殿方は……」
勇者「………分からない。子どもの頃……父さんのを見たきりだ」
堕女神「………その…力の、加減が分からなくて……いたく、ないです……か……?」
勇者「いや。……いいよ」
やさしく握っていた指先が解かれ、勇者自身が再び自由になる。
彼女の閉じていた脚もまた、ゆっくりと……開く。
堕女神「……おねがい、します……私に……」
大きく足が開かれると、言葉に次いで、彼女の両手が自らの秘所へと、腿の上から伸びた。
そして、指先が割れ目の両側を捕らえ……左右に、自ら開いて見せた。
内側に忍んでいた薄いピンク色の肉が、ようやく見えた。
充血しきった陰核を乗せ、朱色に染まった割れ目に挟まり、その中にある部位を、見せつけるように。
彼女の乳房と同じように、みっちりと張り詰めた桃色の柔肉が、そこにはある。
気恥ずかしさにか、ひくひくと震えながら―――彼女の秘部は、とろりとした湿り気をまとい、その時を待つ。
堕女神「私に……入ってきて……ください」
勇者はモノに手を宛がうと、そのまま、彼女が自らの手で開いている秘所へ、先端を押し当てた。
ぴとりと亀頭の先端が粘膜に触れると、彼女は堪え切れずに甘く鳴いた。
堕女神「んぅっ……!」
勇者「……行くよ」
勇者は、「いいのか」と問う事はしなかった。
もはや、彼女の意思は全て受け止めていた。
故に、ただ……これからする事を、そのまま、舌に乗せるだけ。
彼女がこくんと頷いたのを合図に、"それ"を始める。
堕女神「は…ぅ……!」
先走った汁と、彼女のぬめった愛液が交ざり合い、潤滑液となった。
それでも、勇者のモノは大きく―――彼女は、苦悶に喘いだ。
堕女神「痛っ……! いた、い……ぃ…」
――――涙が滲んだ。
――――望んだ事のはずなのに、その決意まで引き戻されるような、裂かれる痛み。
――――それでも、「やめて」という言葉は出なかった。
――――どうしても。
――――どうしても、今夜……結ばれなければいけない気が、していたから。
歯を食いしばり、ときおり深呼吸を挟みながら、彼女は破瓜の痛みに耐える。
口元から流れる唾液も気にする余裕はない。
背筋が反り、体が浮き上がり、その手はシーツを強く握り締めて。
堕女神「くぁっ……はっ……!」
――――ぎちぎちと侵入するそれに、痛みは感じても、嫌悪は無い。
――――迎え入れているのは、彼の「心」そのものなのだから。
――――だから、拒絶の意思など、芽生えない。
勇者「……もう、少し……」
堕女神「おね、が……い……」
――――痛みが、このままじわじわと続くよりは。
堕女神「…おねが…い……ひと、おもいに……」
――――絶え絶えの言葉に乗せられたのかは、分からない。
――――ほんの一瞬、不安に感じたその直後。
――――侵入の速さが上がり、痛みとともに。
――――深い部分へ、届いた。
勇者「……全部……入った、よ」
堕女神「はぁっ……はぁ……」
――――言葉と体で、それを悟った時。
――――破瓜の痛みとは別の心地が、涙となって流れた。
堕女神「……口づけを……ください、ますか……?」
問い返す事など、しない。
勇者はただ、彼女が求めたように、そして自分が求めたように、口づけを交わす。
小鳥がついばむように、軽い口づけ。
何度も離れてはくっつき、寄り添い合う比翼の鳥のように。
口づけは、血の味を届けた。
今モノに絡みつき、柔襞との隙間から流れ、シーツを染めているものと同じ、彼女の血。
噛み締めるあまりに切れた唇から垂れるそれに気づくと、勇者は舌をほんの少し伸ばして、嘗め取った。
堕女神「……私……これで……」
痛みは、心地よいものだった。
彼女を堕としたあの雨の丘でのものとは、違う。
髪を失った時、爪を失った時、目を失った時とは、違う。
最後に残った"堕天"の散華が、口と、脚の付け根にある聖所から、今、ようやく―――血となって、流れ落ちる。
堕女神「……動いて……ください……ませ…」
勇者「……うん」
――――キスに、不自然な程に苦痛が紛れた。
――――喉までも引き裂けそうだった痛みが、もはや名残すらない。
――――痛みが引くと―――じわじわと、秘所の中が暖まってきた。
勇者が少しずつ腰を引くと、ぴったりと貼りつく肉の襞が、別れを惜しむ。
振り解くように、雁首まで引き抜くと―――再び、ゆっくりと中へ押し込んだ。
堕女神「あっ……ん…!」
勇者「…痛いのか?」
堕女神「……いえ……不思議な…ほど……」
勇者「なら……よかった」
抽挿を、再開する。
あまりにきつく締め付けるような圧迫感は、もう無い。
代わりに―――こなれた、というにはあまりにも早く、あの淫魔達のような甘締める感覚がある。
試すかのように、一気に抜き―――そして、亀頭の尖端が子宮口に行き当たるまで、一息に突き込む。
堕女神「ひゃんっ……!!」
堕女神「気持ちいい……です」
勇者「……もう……立派な、"淫魔"だ」
堕女神「あ…そ、……その……」
勇者「ん…?」
堕女神「き……き、騎乗位……と、いうのを……して、みたい……のですが……」
勇者「……」
堕女神「…きゃっ!」
おもむろに彼女の腰へ両腕を回し、引き抜くように体を起こす。
そのまま、繋がったままの状態で体勢を入れ替え――逆に、勇者が横になり、その上に彼女が跨るような格好へ。
重力に従って彼女が腰を落とすと、必然、奥にまで勇者のモノが押し込まれ、快感に全身の力が抜け出た。
堕女神「んぅっ…あぁぁぁぁんっ!!」
立てていた膝からも力が抜け、更に、体の奥にまでモノを受け入れながら、砕けそうな腰が落ちる。
それによって更に膣壁が擦られ、更に力が抜け、更に――――いたちごっこのように、根元まで深々と咥え込むまで続いた。
堕女神「はっ……ぁぁ……」
脚がだらしなく開かれ、ぺったりと座るような姿勢で背を反らせながら、彼女は喉から声を漏らす。
勇者「……動くんじゃ、ないのか」
堕女神「む…り……無理……です……こんな……きもち、よすぎ……て……」
身の震えを増幅するようにたぷたぷと揺れる二つの果実へ、勇者の手が、盗人のようにそろそろと伸びた。
そして、前触れも無く―――その頂にある、桃色の"へた"を同時に思い切り摘み上げる。
堕女神「っ……やめ……やめて……! あ、あぁぅ……!」
彼女はびくん、びくんと反れたままの身体を震わせ、天蓋へと顔を向けながら、唾液の糸を舞わせる。
大きさに比例するように敏感な、淫らな果実の中でも――特に強い部分を、執拗に責められて。
彼女の下腹から、力が――――致命的な程に、抜け落ちてしまった。
堕女神「や、やだ……こんな…の……! 見ないでっ……見ないでください!」
液体のほとばしる音に続き、勇者の腹部へ、放物線を描いて黄金色の水が降り注ぐ。
腹筋はそれを跳ね返し、ベッドの上へ飛沫となって飛び散った。
堕女神「っ……嫌…! とまら、な……ぁ……」
勢いは止む事無く―――むしろ、増すばかり。
強烈な解放感に襲われた彼女は、勇者自身をきゅんきゅんと締め付けながら、
膀胱の中身をすべて吐き出す。
その間にも乳房への愛撫は止む事無く、何度も達してしまう。
体液を全て吐きだしたのではないかと思えるほど長い失禁が終わると、彼女は、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、懸命に言葉を紡ぐ。
堕女神「ご…めん……なさ…い……! こん、な……はした、ない……こんな……!」
勇者「…謝る事なんて、無いさ」
慰めの言葉とともに、勇者は、彼女の腰に手を添えながら、起き上がり。
跨られる姿勢から、向かい合った座位へと変えて、緩く抱き締めながら囁く。
勇者「……少しずつ、少しずつでいい。……俺は、ずっと……どこにも行かないよ」
堕女神「…ずっと……?」
勇者「……いつまでも……一緒にいる。……どこにも、行くものか」
堕女神「………」
勇者「……だから、今日は……俺に」
彼女の四肢が、勇者に絡みつくと同時に――続きの言葉を、語りかける。
勇者「…『俺に、任せろ』」
向かい合い、互いを貪り合うように何度も。
息が切れ、どちらかが唇を離すまで、我慢比べのように何度もキスを重ねる。
互いの舌を唇でしごき合い、唾液を何度も入れ替え、互いの歯を拭い清めるように、何度も、何度も。
その間にも勇者は腰を動かせ、突き上げる。
淫靡な水音と、甘ったるい喘ぎ声が響き渡り―――寝室全体が、淫魔の国を象徴するかのように染められていく。
堕女神「ひんっ…! あぁ、ぁぁぁ! あ、た…てる……奥にぃ……あた……て……ぇ…!」
彼女の腕も、脚も。
目の前にいる勇者の身体へ絡みついて、離れようとはしない。
奥を突かれるたびに、あやまって彼の舌を、自らの舌を、噛んでしまいそうになる。
唾液腺がまるで壊れてしまったかのように、無限とも思える程に撒き散らす。
しつけのなっていない犬のように―――際限なく。
勇者「んっ……くぅ……! 出す……! もう、我慢……できな……!」
彼も、七日間をため込んだ反動ゆえか、もう自制は効かない。
焦がれる恋人そのもののように甘く締め付け、揉み解すように蠢く柔肉の刺激に、耐えられない。
堕女神「…出し、て……ぇ……! わたしの……中に……子胤……出して、くださいぃ……!!」
びくん、びくん。
男根が彼女の中で脈打った時、とっさに、彼女は全身に残されていた力すべてを使い、勇者の身体を抱き締める。
下腹の奥で勇者のモノが弾けた時、彼女の意思もまた、白く飛び散った。
堕女神「あ……は……ぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
くたりと脱力した彼女の身体が、勇者の身体へもたれる。
しばし彼女を抱き締め―――少ししてから、白に一点の赤が加わったベッドへ、横たえる。
ゆるんだ秘所から男根を抜くと、こぷこぷと七日分の精液が垂れ落ち、シーツの白に交ざり込む。
泡立った精液にはわずかに赤が忍び、薄桃に交ざり合い、更に彼女自身の愛液も織り込まれていた。
彼女は、失神したまま、眠りへと遷っていた。
秘所から抜け落ちた時には身を震わせるものの、ぴくぴくと時おり痙攣しながら、眠っていた。
熱い精は彼女の腹腔に満ち、それでもあふれ出た精液を、柔襞を呼吸するかのように蠢かせて吸い込む。
勇者「堕女神……」
彼女は、すぅすぅと寝息を立てるだけ。
今勇者が見下ろすのは、堕ち、淫魔へと変わる事を望んだ、"女神"の裸身。
シーツをめくり上げ、彼女の秘部から流れる、淫らな白濁を拭い―――終えると、自らも彼女の横へ、臥せる。
勇者「……どこにも、行かない」
枕に頭を乗せ、彼女の類無く美しい寝顔を望みながら、沁み込ませるように呟く。
勇者「………俺は、"もう"……どこにも行かない」
その言葉とともに、彼女の閉じた瞼から―――涙が、一筋だけ流れた。
そして、"八日目"の翌朝。
勇者の目が覚めると、彼女の姿は無かった。
ぬるまったシーツの感触は、ほんのりと暖かく―――。
その時、こんこんと、聞き慣れたノックの音が聞こえた。
魂に導かれるままに、勇者は入室を許す。
"彼女"は、漆黒のドレスではなく、純白のドレスを着ていた。
連綿と降り続く雪のような―――どこまでも白い、ドレスを。
彼女は、ゆっくりとベッドの上の勇者へ近寄り、深々と、礼を送る。
シーツには赤の点が残り、昨夜が夢でなかったことを、示す。
勇者「………堕女神……?」
呼びかければ、まるで――――昔日の"愛の女神"そのものの微笑みが、返ってきた。
――――もしも、もしも……あの"七日目"に続きがあるとすれば、彼女はこんな微笑みを見せてくれたに違いない。
堕女神「……おはようございます。陛下。朝食の準備が出来ておりますよ」
終
406 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/26 02:06:50.79 NbAuxdhZo 291/310これにて投下は終了です
質問、感想など頂けましたら幸い
半年も行方を晦ませ、申し訳ありませんでした
それでは、お粗末さまでした
425 : VIPに... - 2012/12/26 10:04:55.55 iCg14ceAO 292/310ポチとの出会い
ワルキューレのその後
ヴァルハラや主神との絡み
戦士僧侶魔法使いのその後
コーヒーの伏線
隣国関係
などなどまだまだ読みたい物がたくさんあるのにな
まぁまた半年、一年後にでも書いてくれたら嬉しい
433 : VIPに... - 2012/12/26 19:16:04.43 iXd/m8kIO 293/310待て、>>1は>>189でワルキューレについては一応完結したが、それは後ほど
と言っている。
つまり... どういうことだってばよ
446 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/27 02:10:32.22 M3W3QwLVo 294/310こんばんは
>>433の質問というか、お答えすると
ワルキューレ編とポチ編はどうも、見切り発車で書き始めて各キャラを掴めて無かった感があって……。
なので、あれらは個人的には「外伝」扱いにしたいところがあります。
読んで下さった皆さまには頭が上がらない思いがありますが……どうにも、納得できなくて。
勝手ながら、今回投下分『以降』を、正式な「後日談」にしたいと思います。
ポチは色々ともったいないので、 絶 対 に使いますが、ワルキューレは未定です。
455 : VIPに... - 2012/12/27 07:07:42.65 cFnmgjjwo 295/310新しいポチさん書くとしても
ポチさんの何とも言えない無双感は残して欲しい
でもちょっとチートキャラっぽいから修正されちゃうのかしら
460 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/27 19:50:54.17 M3W3QwLVo 296/310>>455
あの無敵感はどうにか残したまま調理しようと思います
それでは、おまけをちょっとだけ投下して、年を越えたらHTML化の依頼を出しますね
また半年待たせるような事はない……と思います。
では、ちょっとだけですが。
おまけ
就任から八日目、朝食後
堕女神「……ふふっ…」
鼻歌を交えながら、朝食の後片付けを行っていた。
二人きりの時間を思い起こし、口づけの感触を思い出し―――ときおり、指先で唇をなぞる。
唇に触れる度に心の奥から温もりがあふれて、一人きりの厨房で、思わず浮かれた表情をしてしまう。
勇者は執務室にて書類に目を通しながら、待っているはずだ。
今朝の報告を聞かせに行くのが、楽しみでたまらない。
なんでもないような会話をするのが、楽しみで仕方がない。
もしかするともう一度、キスをしてもらえるかもしれない。
ふと、その時―――戸口に気配を感じて、何気なく振り返る。
サキュバスB「あっ……!」
堕女神「……? どうしたのですか?」
サキュバスB「い、いえ…何でも……ない、です…よ……」
彼女はそれだけ言うと、さっと顔を引っ込め、走り去ってしまう。
堕女神「妙に、顔が赤かったような……?」
――――白い服を着て歩いている事で、ここまで視線を集めるものでしょうか?
朝から今までに、湧いた疑問はそれだ。
確かに喪に服すような黒衣を何十万年も着回してはいても。
ただ、それが白になったというだけでここまで使用人達が注目するものだろうか?
「何故白い服を着るようになったのですか」とも訊ねてはこない。
少しだけ、惚気るような返答を用意してはいるのに。
――――むしろ、その答えを誰かに教えたくて、仕方がないのに。
堕女神「うーん………?」
頭を捻って見ても、まるで分からない。
見られている事に気付いてそちらへ向いても、見つめてくる使用人はさっと目を逸らすだけ。
堕女神「……ひょっと…して……服の合わせ方が、おかしいのでしょうか……?」
靴も、きちんと合わせて……ぴかぴかに白くて、指先が覗くタイプのものを履いている。
おかしいとは、思えない。
サキュバスA「……あら、堕女神さん。どうかしましたの?」
角を曲がってすこし歩いた時、彼女とばったり出くわす。
考え事をしながら歩いていたのを、見つかったようだ。
気付いた時には、こちらより少しだけ背が高い彼女が、紫の瞳で間近に見つめていた。
堕女神「……私の、服……おかしい……ですか……?」
サキュバスA「?」
堕女神「その……似合って、いないのでしょうか」
サキュバスA「…いえ、よくお似合いですわ。……私でも、ちょっと"味見"したくなりそうなほど」
舌をぺろりと嘗め上げた彼女に気付くと、尻に、彼女の手が回され―――撫でられてしまう。
堕女神「やっ……!」
サキュバスA「ふふ、かわいい……。どうかしら? お庭に、誰も来ない場所がございますのよ……?」
顎先を優しく持ち上げながら、彼女はこちらを覗きこんでくる。
紫の瞳に怪しげな光が灯り、吸い込まれかけ―――その時、はっと意識が取り戻された。
堕女神「かっ……からかわないでください!」
サキュバスA「御冗談ですってば。勤務中です。……ですが、もしもその気なら……いつでも、私の部屋に来て下さいね?」
堕女神「……失礼します!」
――――彼女に聞いたのが、間違いだった。
足早に執務室へと向かい、ドアを開け――窓辺の机で厚めの台帳を開いて目を落とす"彼"の傍へ。
勇者「…遅かったな。何かあったのか?」
堕女神「いえ、何も」
勇者「なら、いいんだ」
堕女神「……あの、陛下………」
勇者「ん?」
堕女神「……つかぬ事を伺いますが、朝から……使用人達に、変な目で見られる事は?」
勇者「そんなの無いけど。変な目?」
堕女神「…その……もしかして……昨日の声が、漏れていた……とか」
結ばれた喜びと、淫らな言葉をいくつも吐き出して乱れた痴態を思い出し、喉が震えてしまう。
頬といわず首といわず、体全てが熱に浮かされ、火がついてしまいそうだ。
勇者「………いや、ないだろう。扉も壁も厚いし、使用人の部屋から俺の寝室はかなり離れてる。窓も二重だ」
その言葉に得心して、少し経ち―――執務室から離れて、昼食の準備をするべく、厨房を目指した。
考えれば考える程―――使用人たちの態度の理由が、全く分からない。
堕女神「…服でも、……声でも、ない?」
厨房に着き、下味をつけておいた薄切りの牛肉を取り出しながら、更に考える。
並行して他の品目の準備をしていると、覚えのある気配を、またしても戸口に感じる。
サキュバスB「………!」
堕女神「…サキュバスB。こちらへ来なさい」
サキュバスB「えっ!?」
名を呼ぶと、彼女はいたずらを見つかった子供のように、おずおずと厨房へ入り、目の前に来た。
堕女神「……別に、怒ったりとかそういう事はしません。……何故、皆は私を見て、どこかよそよそしい態度を?」
サキュバスB「…………」
堕女神「…教えてください。お願いします」
サキュバスB「……じゃ、言います……ね……」
堕女神「……それでは、どうぞ」
サキュバスB「んー……お肌、出すのも……場合によるって……いうか……」
今まで見た事の無いような困った顔をしながら、小さなサキュバスは、一所懸命に言葉を選んでいるように続けた。
堕女神「……いまいち、掴めないのですが?」
サキュバスB「…えっとえっと……その、"痕"になるって……知ってました?」
堕女神「"痕"?……私の身体に、傷でもありましたか?」
サキュバスB「傷っていうか……その……ちょっとだけ、違う……ような……」
持って回った言い回しに、苛立ちが募る。
それでもつとめて冷静に、委縮させないように言葉を選び、問う。
堕女神「……率直に言って下さい。怒りませんから」
サキュバスB「え、えっと……それじゃ……」
堕女神「はい」
サキュバスB「…お胸とか、首のとことか……"ちゅー"された痕、いっぱい残ってます」
堕女神「…はっ……!?」
気付いた時には駆け出し―――ぽかんと口を開けたサキュバスBをその場に残したまま、廊下へ出ていた。
手近な壁にかかった鏡を探し当て、その中に身を映す。
堕女神「っ……! こ、こんな……に……!」
首筋にいくつも。乳房から鎖骨にかけても。二の腕、肩にまでも。
彼の唇で吸われた痕が赤く、いくつも、いくつも。
堕女神「も、もしかして……このせいで……?」
何故、気付かなかったのか。
ひとえに―――初めての、夜だったから。
自室で鏡に映りながら服を着たのに、気分のせいで目が曇っていた。
堕女神「……」
サキュバスA「…ひょっとして、気付いていませんでしたの?」
堕女神「な、何故……教えてくれなかったのですか!!」
サキュバスA「いや、あまりにも堂々としてらしたので、見せびらかしているものとばかり」
言うと、彼女は―――白地に、舞い飛ぶ蝶が刺繍されたストールを差し出してきた。
堕女神「これは…?」
サキュバスA「………着替えるのも、お嫌でしょう?」
堕女神「…………」
見透かされているようだが、不快では無かった。
彼女は、微笑みながら、ストールを巻いてくれた。
その世話焼きな姿は、初めて出会った"サキュバス"に―――とても、よく似ていて。
サキュバスA「……はい、よくお似合いですわ。これで、大丈夫。見えません」
堕女神「…お気遣い……まことに、ありがとうございます」
サキュバスA「これぐらい、気遣いにも入りませんことよ。…さ、それは差し上げますから、昼食の準備に」
堕女神「……そうでしたね。それでは、失礼いたします」
昼過ぎ、洗濯場
サキュバスB「……ねぇ、Aちゃん」
サキュバスA「なぁに?」
サキュバスB「本当は気付いてたんでしょ? ちゅーマーク」
サキュバスA「あんなの気付かない訳ないじゃない」
サキュバスB「じゃ、なんで教えてあげなかったの?」
サキュバスA「なんだ、そんな事?」
サキュバスB「わたしが言う事になったんだよ。何で教えたげなかったのさ?」
サキュバスA「……そんなの、面白いからに決まってるじゃない」
終わり
490 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/29 01:19:42.42 lxWS8y9/o 306/310おまけのおまけに
サキュバスAと遊んだチェスと、
Bと隣女王がやってたカードゲームの設定だけ投下しておきます
"淫魔式チェス"
淫魔の国で盛んに遊ばれているボードゲームの一種。
ルールや駒などはチェスのそれと同一だが、黒と白で駒の形状が違う。
ゲーム中の駒には意思があり、手で指さずとも、命令するだけで自分で動く事も可能。
白は人間世界を現しており、黒は魔界の存在を現す。
たとえば白の「ナイト」は清廉な女騎士の姿をしているが、
黒の「ルーク」はローパーの姿をしている。
このチェスの駒は地方ごとに特色があり、同じ駒でも外見が違う場合があり、このローカル性も流行の一因である。
例えば一般的なルールでは黒のポーンはオークだが、ある地方では数匹で固まったゴブリンであったりする。
特異な点として、相手の駒を奪った場合、駒同士が邂逅し、様々な寸劇が繰り広げられる。
白が黒を奪った場合は、苦戦の末に相手の駒を討つ。
その逆なら、黒が白を蹂躙、凌辱する。
それも毎回パターンがランダムな為、淫魔達はお茶を飲みながらこれを観察するのが好きである。
チェックメイトは存在せず、キングを取る事でゲームが完結する。
投了する事は可能。
・駒の形状(基本)
白
ポーン=蜂起した素朴な村娘 ナイト=女騎士 ビショップ=シスター クイーン=ドレスに身を包んだ気品ある女王
ルーク=豪放な女戦士 キング=男装の麗人
黒
ポーン=悪辣なオーク ナイト=暗黒騎士 ビショップ=魔族の魔術師 クイーン=典型的なサキュバス
ルーク=ローパー キング=差し手によって変化
黒→白の基本的なパターンは
ポーン
・普通にレイプ。周囲に他のポーンがある場合はレイプに参加し、終了と同時に配置に戻る。平均所要時間10~30分
ナイト
・相手の服を剥ぎ取り無理やり犯す。顔面を殴りつけたり首を絞めたり、暴力的で凄惨。平均所要時間15分前後
・アナル専門
ビショップ
・魔術をかけ、相手に自慰行為をさせる。そのままエスカレートし、64分の1の確率でローブ内から無数の蟲を召喚、産卵。
・平均所要時間25分前後
クイーン
・ねっとりどっぷり
・平均所要時間40分前後
・超低確率で、凌辱した駒に魔族の紋章が浮き上がり、淫魔として転生する演出が起こる
ルーク
・説明不要
・平均所要時間10~35分
・レアパターンとして「脳姦」を行う
キング
・プレイヤーにより違い、勇者の場合は不明
"淫魔のカードゲーム"
淫魔の国で広く流行している、カードを用いた遊び。
三万種類以上が存在し今も尚新しいカードが続々と登場している。
サキュバスBをはじめ、城内で働く者達にもプレイヤーは多い。
雑貨屋、書店などありとあらゆる場所で購入でき、城下町には対戦スペースを備えた専門店もある。
基本的には10枚一組で外袋に入って売られており、子どもの小遣いでも手が届く。
淫魔式チェスと違って視覚的な盛り上がりは無いが、その戦略性と高次でまとまったゲームバランスは奥深く、
デッキ一つで行うオーソドックスなゲームから、
最大四十個のデッキを同時に使って特殊な結界内で行う超エキスパートルールまでがあり、
このゲームのために千年単位を費やす者も少なくはない。
カードは特殊な材質で作られており、防水・防炎・折れにも強く、さすがに数千年経つと劣化はするものの、
簡単な魔法をかけ直す事で再び輝きを取り戻す事ができる。
基本の構成は、ユニット(駒)として扱う様々な能力を秘めた"モンスターカード"、
モンスターやフィールドに対してさらに多様な影響を与える"マジックカード"、
相手の行動に対してカウンターとして発動する"トラップカード"の三種からなり、
その他にもさまざまな種類のカードが存在する。
余談としてサキュバスBの所有する「触手王キング・ローパー」のカードは超レアカードであり、
広大な淫魔の国にすら片手の指程度しか存在せず、手に入るのなら全財産払おうという者も珍しくない。
ちなみにサキュバスAは十年ほど前に急に熱が冷め、全てのカードを売り払って辞めた。
494 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/29 01:27:21.17 lxWS8y9/o 310/310以上です
続きの具体的な構想はまだですが、とりあえずは今いるキャラを掘り下げたいと思います
それでは、また次回会いましょうー
重ね重ね、愛読いただきいつもありがとうございます
続き
魔法使い「勇者がどうして『雷』を使えるか、知ってる?」