1 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/18 02:33:57.95 w6oP1aHdo 1/310このスレは、
魔王「世界の半分はやらぬが、淫魔の国をくれてやろう」
http://ex14.vip2ch.com/news4ssnip/kako/1321/13213/1321385276.html
の後日談です
以下、簡単な登場人物紹介
勇者:魔王を倒し、魔王に導かれて淫魔の王になった。
堕女神:元は人間界を見守る愛の女神。城の使用人の長で、料理上手。
サキュバスA:お姉さん肌のサキュバス。つかみどころが無いが、意外な性癖がある。
サキュバスB:外見も性格も子供っぽい。人懐っこいが、そそっかしい。
隣女王:子供の姿で成長する種族の淫魔。隣国の女王で、真面目だが背伸びしがち。
※R-18描写があります
それでは、しばしお付き合いください
元スレ
堕女神「私を、『淫魔』にしてください」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1355765637/
【関連作品】
魔王「世界の半分はやらぬが、淫魔の国をくれてやろう」【前編】
http://ayamevip.com/archives/46610128.html
魔王「世界の半分はやらぬが、淫魔の国をくれてやろう」【後編】
http://ayamevip.com/archives/46610131.html
勇者「淫魔の国の王になったわけだが」
http://ayamevip.com/archives/46610263.html
ある日
勇者の寝室
勇者「……懐かしいな」
堕女神「はい?」
サキュバスB「……どうしたんですかぁ?」
勇者「あれから、三年だ。……懐かしいと思わないか」
堕女神・サキュバスB『…………』
勇者「おい、何だよ」
堕女神「お言葉ですが……三年前を、懐かしいと思う感覚が……よく……」
サキュバスB「うーん。私はちょっとだけ懐かしいなーって思いますよ。堕女神さんは何万年も――」
堕女神「黙りなさい」
サキュバスB「…っ…ご、ごめんなさい」
勇者「……人間の時間軸にしたら、懐かしく感じるんだよ」
堕女神「まあ、そうなのでしょうけれど」
サキュバスB「あれですね。『淫行矢の如し』でしたっけ?」
勇者「可愛くない間違いすんな」
勇者「とにかく。……三年前と比べて変わったなって話だ」
サキュバスB「そうですか?よくわかんないです」
勇者「お前だけは三年前からこうだったよ」
サキュバスB「ち、ちゃんと迷わなくなりました!道は覚えてます!」
勇者「そいつは大したもんだ」
堕女神「そうですね。……昨日、北棟二階廊下の花瓶を割りましたね?掃除中に倒して。聞きましたよ」
サキュバスB「……ごめんなさい」
堕女神「…次からは気を付けなさい。怪我はありませんでしたか?」
サキュバスB「は、はい…大丈夫です!」
勇者「……アイテムでも探してたのか?それとも給金に不満があるのか?」
サキュバスB「あうぅ……。か、体で払います!体で払いますから!」
勇者「それじゃいつも通りだろ」
堕女神「話が逸れましたが……何故、三年前の話を?」
勇者「そうだったな。……いや。何故って事もないんだ」
堕女神「……懐かしい、というのでも無いのでしょう?」
勇者「…区切り、だからかな」
堕女神「区切り?」
勇者「今日で、ちょうど三年。……ここから、なんだ」
三年前。
勇者が魔王を倒し、魔王が勇者を「救った」日の事。
扉をくぐれば、そこは、玉座の間だった。
七日間を過ごした記憶とそう変わりは無く、居並ぶ顔ぶれも、同様に。
ただ――その関係を、除いては。
勇者「……他に、何かあるのか?」
堕女神「戴冠の儀を終えましたので、今日は何も。明日より、学んでいただきたい事がございます」
玉座の間を出て、彼女とともに城内を回りながら言葉を交わす。
頭上に戴いた冠は、まだ外していない。
これは、証だ。
彼が、これから、この淫魔の国とともに在ろうという決意の証。
彼女から儀式を終えたので外して良いと言われたが、少なくとも、今日一日はつけたままでいることにした。
勇者「…学ぶ?」
堕女神「恐れながら。この国、いえ、この世界を取り巻く全てを知っていただく必要が。貴方は、『王』なのですから」
勇者「成程」
堕女神「明日からは忙しくなりますので、本日は、疲れを癒してくださいませ」
勇者「……分かった、そうする」
堕女神「はい。何か御希望があれば、何なりと」
勇者「……ちょっと、いいかな」
堕女神「何か?」
勇者「この国の、前の王は?」
堕女神「疑問として、当然かと思われます。ですが、詳しくは明日以降」
勇者「それもそうか。……だが、一つだけ、今教えてほしい」
堕女神「何でしょう」
勇者「前の王は、『人』だったのか?それとも……」
堕女神「……『魔族』でした。もうよろしいでしょうか?……それと」
勇者「……?」
堕女神「この国を治めていたのは『女王』です」
勇者「…女王」
堕女神「それでは、城内を案内いたします。こちらへついて来てください」
勇者はどこか、違和感を覚えた。
堕女神の口調が堅いのは、よく知っている。
しかし、素っ気なく、どこか刺々しいのだ。
七日間『彼女』と在ったからこそ分かる、違い。
自分と彼女は事実上の初対面であるし、王と、その側近であるという関係を殊更に重く見ているのも理解できる。
自分に対して、不服があるというふうではない。
むしろ――壁を築き、自分からは近寄らないようにしているような。
そんな印象を、勇者は受けた。
勇者「……なぁ」
堕女神「何でしょうか。手短に」
勇者「…こっちを向いてくれないか」
ヒールの音も高く、足早に先導していた彼女へ声をかける。
ぴたりと止まり、振り返って勇者を見る彼女の眼には、冷たいものだけがある。
勇者「……城の案内はいい。少し、自分で歩きたい」
堕女神「…お言葉ですが」
勇者「迷う心配はない。最悪、近くにいる奴に聞くさ」
堕女神「……はい、仰せのままに。それでは、私は失礼致します。夕刻には、大食堂へ」
勇者「ああ。……また後で」
堕女神と別れて、一人で歩を進める。
先んじて七日間の経験があるため、迷うことは無い。
足が向いたのは、中庭。
この時間であれば、良く知る二人の淫魔が庭仕事へかかっている筈だ。
勇者「(やりづらいな。……にしても、堕女神は……あんなに、取っ付きづらかったか)」
歩みを進めながら、ぼんやりと思考を巡らす。
事実上の初対面とはいえ、ああも刺々しかったか、と。
勇者「……しかし、女王?」
唐突に語られた真実は、ある意味では自然だった。
隣国、幼い姿の淫魔の国は、女王が治めている。
彼女らがみな女性型の魔族という点から見ても、その方が納得できる。
もし男性の「王」が治めているというのなら、その「王」は何処から来るというのか。
そんな事を考えていると、勇者はだんだんと自分が不自然な存在に思えてきた。
人間である、という点は差し置いても。
何故、自分は「王」として君臨するに至ったのか。
魔王の力、とも思ったが、勇者は以前にそんな事を口にすれば、否定を受けた。
曰く、「魔王は全能ではなく、不死でもない」と。
魔王によって見せられたものは、いわば、違う可能性を持った『世界』だった。
平行世界を知覚し移動する事はできても、世界を書き換える事は、魔王にもできはしないのだろう。
だとすれば、現状は、因果律を操作するような理解不能な大それた力によってもたらされたものではない。
何かしらの、この世界においては現実的な作用によってのものだろう。
それだけに――謎は複雑に、それでいて計算された意地悪な「もつれ」を形成していった。
勇者「まぁ……いいか。謎解きは嫌いじゃない」
煌びやかな城内を歩いていると、おもむろに―――何かが割れる音が聞こえた。
長い廊下に反響する、首をすくめてしまうような、鋭く澄んだ、砕けるような音。
勇者「…何だ?」
目前の角を曲がり、音の発生源と思われる場所へ。
そこには、布巾を手にしたまま割れた花瓶を前に硬直する、一人の見慣れたサキュバスがいた。
七日間で目にした時より――気持ち程度、幼く見えた。
勇者「……おい」
サキュバスB「ひぁっ!?」
勇者「何を、してる?」
サキュバスB「あ……え、陛下……?こ、これ……は……!」
彼女は気の毒な程に、分かりやすく震えていた。
花瓶を割ってしまった現場を、もっとも見られてはいけない相手に見られてしまった。
誤魔化す言葉も、謝罪の言葉も、出てはこない。
怯えきった眼差しは花瓶と、勇者の口元あたりを何度も行き来する。
勇者「……怪我は、無いか?」
サキュバスB「えっ……」
勇者「怪我は無いか、と訊いているんだ」
サキュバスB「は……はい、大丈夫です」
勇者「…そうか、よかった」
サキュバスB「あ、あの……陛下…何故、ここに……?」
勇者「何故って……ここは、俺の城だろ?」
サキュバスB「そ、そうですけど……お一人、ですか?」
勇者「ああ。……それで、何をしてた?」
サキュバスB「お、お掃除……です」
勇者「…掃除?」
サキュバスB「………ごめんなさい…」
勇者「次からは気をつけろ、危ないからな。……さ、掃除に戻れ」
サキュバスB「え…?」
勇者「掃除」
サキュバスB「あの…怒らない、んですか?」
勇者「誰だってミスはあるだろ。それに花瓶を割ったからって、誰かが死ぬわけじゃない」
サキュバスB「…………」
勇者「どうした?」
サキュバスB「い、いえ…何でもありません」
勇者「ところで、城に勤めるようになってどれぐらいだ?」
サキュバスB「…今日で、二週間です」
勇者「新人か。……いや、『先輩』か。何せ、俺は今日入ったばかりだから」
サキュバスB「陛下……」
サキュバスA「……何をしているのかしら?」
勇者「……サキュバスA?」
先ほど勇者が曲がった角から現れた、声の主。
勇者は、その声に、……声だけに反応して、名前を言い当てた。
そう―――振り向きも、せずに。
サキュバスA「…あなたは……なぜ、こんな所で……。それに、何故私の名を?」
勇者「あ、いや……」
サキュバスB「……Aちゃん」
サキュバスA「あなたは、ここで何をしているの?」
サキュバスB「えっと……その……」
勇者「…………俺が、花瓶を割ってしまったんだ」
サキュバスA「何と?」
勇者「つい見とれて、手に取ろうと思ったら落としてしまった。それで、近くにいた彼女に片づけてもらおうと思ったんだ」
サキュバスB「……!?」
サキュバスA「本当なのですか?」
勇者「……すまない、仕事を増やしてしまった」
だめ押しの一言で、疑いを更に晴らすように仕向けてまっすぐに彼女を見る。
紫水晶のような瞳も、角も、何もかも、覚えているままの彼女の姿だ。
強いて挙げるなら、髪が『七日間』に比べてやや短いだろうか。
魅了するような眼差しも、若干抑え目となっているのもある。
サキュバスA「分かりました。それでは、お片付けいたします」
勇者「ああ、頼んだぞ」
サキュバスA「………畏れながら一つだけお訊ねしたいのですが」
勇者「何だ?」
サキュバスA「何故、私の名を?……それに、振り向きもせずに……」
勇者「…引っかかるのか?」
サキュバスA「初対面です。それに……言葉を交わした事もございませんし、顔合わせさえ」
勇者「……そっか。そう、なんだよな」
渇いた笑いが、喉奥に燻った。
――――そうだ。
――――彼女らと、自分は。
――――今日が、『初対面』だったんだ。
サキュバスA「?」
勇者「いや、なんでもない。……顔と名は知ってたんだ。そこの額縁に映って見えたんだよ」
サキュバスA「……そう、でしたか」
勇者「……他に、何か聞きたいか?」
サキュバスA「…いえ。それでは失礼ですが、お掃除に戻らせていただきますわね」
勇者「そうしてくれ。……破片で、手を切るなよ?」
サキュバスA「お気遣いいただき、ありがとうございます」
勇者「じゃあ、また。……お前も、きちんと働けよ」
サキュバスB「は、はい!」
その場を後にして、長い廊下を、一人歩く。
誰ともすれ違う事なく、時が止まったかのような、大きな窓から昼下がりの光の差し込む廊下を、ただ歩く。
ぽかぽかと暖かい陽気は、今の勇者には、素通りしてしまうように思えた。
全てを承知で、この世界へと渡った。
戦火の中に再び叩き込まれる世界で、その戦端を開く役目から逃れて。
『勇者』を終えて、残りの人生を『英雄』として過ごすという重責から逃れて。
救った世界に生きる人々を、その手で殺める事を強いられる宿命から逃れて。
彼女らの名前も声も肌も温もりも、覚えているのは自分だけ。
彼女らは、勇者の事を覚えていない。
―――否、『知らない』。
自分は、彼女らの事をよく知っている。
身体を重ね、語らい、夜が明けるまで同じ夢を見た。
しかし、彼女らは勇者を知らない。
肌を重ねる事もなく、語った事もなかった。
一種の孤独を感じながらも、勇者の胸中には、一本のたいまつが投じられたようだった。
―――これは、寂しさなどではない。
―――新たな物語が始まり、その物語のさわりを、『少し知っている』だけなのだ。
―――何もかもが整った『七日間』で終わりではない。
―――今度は、最初から始まり……最後まで、進める事ができる。
絶望でも、寂寥感でも、孤独感でもない。
胸の奥に灯った炎の名は、「未来」という名の、確かな期待だった。
夕食の準備が整い、大食堂へと赴く。
どこか馴染みのある香りに包まれたその食卓には、鏡のように磨かれた銀食器が並んでいる。
メイドの一人が椅子を引き、勇者を座らせる。
艶やかなクロスが敷かれた、一人には持て余すほどの大きな食卓。
頭上に輝くのは、数十本の蝋燭の光を散らばせ、隅々までも明るく照らすシャンデリア。
そしてほのかに香る、漂ってくるだけでも強烈に口内を潤わせる暖かな芳香。
まるで―――何年ぶりかのように、感じた。
勇者「………」
メイド「お待たせいたしました、陛下。……前菜でございます」
勇者「堕女神は?」
メイド「はい、厨房におります。御呼びでしょうか?」
勇者「………いや、いい。ありがとう」
供された前菜を口に運び、噛み締める。
春の芽吹きのような、野菜をふんだんに用いた蒸し物は、口の中に甘やかな滋養をほどけさせるようだった。
それなのに、気付けば、勇者の首は傾いていた。
勇者「……?」
確かに、美味だ。
待ち望んだ瞬間であったはずなのに。
なのに。
―――美味しく、感じない。
メイド「……お下げしてもよろしいでしょうか?」
勇者「ん?……あ、ああ」
メイド「すぐにスープをお持ちします。本日のメインは、上質な鴨肉が入っております」
勇者「……頼むよ」
その後、スープに続いて、魚料理。
メインディッシュ、そしてデザートを平らげる。
どれも、確かに美味だった。
そして―――どこか、物足りなかった。
舌が鈍った、という事ではない。
施された丁寧な仕事が、風味を通じて伝わるようだった。
最上にして良く知る、『彼女』の料理だった。
なのに、……素直に、美味と評する事ができなかった。
堕女神「……お口に合いましたでしょうか?」
勇者「……ああ。美味かったよ」
堕女神「恐れ入ります。……陛下、お伺いしたい事がございます」
勇者「何だ?」
堕女神「…夜は、どうなさいますか?」
勇者「夜?」
堕女神「寝所には、誰を?」
勇者「……いや。今夜は一人で眠るよ」
堕女神「かしこまりました。寝室の準備は整っております」
勇者「ああ、分かった。……だが、まだ寝るには早いな」
堕女神「それでしたら、書庫をご覧になってはいかがでしょうか?人界、魔界から様々な貴重な文献を取り揃えております」
勇者「…ふむ。見てみるかな。ご馳走様。……美味かったよ」
その後、一時の休みを経て、書庫へ入った勇者は圧倒された。
何という事のない扉をくぐれば、そこは、冗談のように大きな書架の迷宮だった。
いや、大きいという程度のものではない。
間取りから考えても、到底不可能な程に広く、複雑怪奇そのものだった。
天井は冗談のように高く、壁面に並んだ書物の数々は、瑞々しく芳醇な知識の香りを漂わせていた。
重力を無視して騙し絵のように張り巡らされた階段とフロア、天地をまるで気にもしてないような配置の書架は、
ことさらに異様な光景を演出していた。
床から伸びた階段は数階上の壁面に続き、さらに壁面に、まるで生えているかのように書棚が規則的に立ち並んでいる。
その間に据え付けられた机は、当然かのように、「壁」に据わる。
空中に浮かんでいる大小無数の「球形」の書棚までもが、星々のように漂っていた。
勇者「……すごいな、これは」
扉をくぐると、言葉をほとんど全て失ってしまった。
ひどく単純な感嘆の言葉しか出て来ず、その視線は、書庫の中を泳ぎまわる。
冒険の旅で散々に非現実的な光景を見てきたとはいえ、ここまでのものは見た事が無い。
いかなる魔力を用いて作り出されたものだろう。
少なくとも、人間界では到底拝めないのは間違いない。
勇者「…すごい、が……」
すぐに、勇者は踵を返して、口元を押さえながら廊下へ出た。
勇者「……うっ……!」
胸中が激しく痙攣し、ぎゅっと窄まった胃袋が、食べたばかりの夕食を押し戻してくるような感覚を覚えた。
深く、ゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻そうと試みる。
口中に溢れた塩気の多い唾液を飲み下し、再び胃袋を膨らませようと。
勇者「………む、ぅ…」
身を折って胸元に強く指を立て、気を紛らわしていた時。
下を向いた視界に、誰かの脚が見えた。
サキュバスA「…お具合でも悪いのですか?」
顔を上げれば、気遣いの言葉をかけてくれる、彼にとって見慣れたサキュバスがいた。
勇者「…少し、な」
サキュバスA「どうなさったのですか?」
勇者「……書庫を見回していたら、気分が悪くなっただけだ」
サキュバスA「……人類には『刺激』が強過ぎましたか」
勇者「……?」
サキュバスA「…お気を悪くされたなら、申し訳ありません。慣れないものをご覧になれば、当然の事です」
そこで、真っ直ぐに彼女の目を見る。
秘められた魅了の魔力は抑えられ、彼女もまた、真っ直ぐに勇者を見ていた。
まるで――変哲のない『人類』を見るような目で。
勇者「…そうか、そうなんだな」
サキュバスA「?」
勇者「……何でも。……ところで、サキュバスBは?」
サキュバスA「彼女は他の仕事を。何か御用でしたか?」
勇者「いや、別に」
サキュバスA「……お気分の方は、どうですか?」
勇者「だいぶいい。心配をかけたな」
サキュバスA「………」
勇者「俺は、少し早いが寝室へ行くよ。堕女神に会ったらそう伝えてくれ」
サキュバスA「はい、仰せの通りに」
寝室へ入ると、ひと心地ついたような気持ちだった。
―――考えてみれば、今日は、何もかもが。
『勇者』は『魔王』を打ち倒した。
三人の仲間たちとともに協力し、それでようやく倒せた世界最大の『強敵』を。
その前は魔王城を探索して悪辣な罠を乗り越え、屈強な魔物たちと、魔王の副官との戦いまでもあった。
そして魔王の前に対峙し、そこで―――『三年目の七日間』を体験した。
堕女神は、片時も離れずにいてくれた。
サキュバスAは、初日の夜を終えると、途端に妖艶で挑発的、それでいて憎めない性格を見せた。
サキュバスBは、天真爛漫でありながら、どこか少女のような恥じらいを見せるようになった。
しかし、『今』は。
堕女神は、ろくに顔を合わせようともしない。
サキュバスAは、どこか彼に対してよそよそしく、棘さえも見受けられる。
サキュバスBは……そう変わらない。裏表のない性格は、恐らく生来なのだろう。
勇者「……『人類』か」
勇者はサキュバスAの言ったことを反芻し、心の中で重く噛み締める。
彼は『人類』で、彼女らは『魔族』。
隔たりがある事は、疑う余地がない。
だが、それでも―――
勇者「言葉にする事は、ないだろうに」
ぽつり、と呟くと、その言葉は、思った以上に重かった。
彼自身もまた、ここまでの疲れた重みが言葉に宿ると思わなかった。
勇者「……でも、俺は……『人類』、なんだな」
投げ出すようにベッドに横になり、天蓋を見つめて一人ごちる。
ふかふかとした感覚が背中を優しく包み込み、彼の身体を受け止めた。
瞼を閉じれば、いくつもの事が思い出された。
およそ人の身には受け切れられない程の膨大な事象を孕んだ一日が、今終わろうとしていたのだ。
魔王城での戦い、凝縮された七日の記憶、魔王との決着に、そして現在へ至った選択。
思い出せば思い出すほどに、疲労が重くなり―――勇者の身体を、ベッドへと押し付ける。
もはや、指先一つ動かす事さえできない。
肉体は最後の最後、魔王に癒されたとはいえ。
「精神」の疲弊はたとえ魔王とて癒せない。
勇者「……とりあえず……眠り……たい、な」
彼は、そこで思考を一度やめる。
そして―――『勇者』は、段々と呼吸を長く静かに移していきながら。
眠りの世界へと、落ちて行った。
23 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/18 02:50:34.22 w6oP1aHdo 24/310今日の分、投下終了です
間が空いてしまい、申し訳ありません
宣言した以上、この就任直後のエピソードだけは投下しようと書き溜めました
それでは、また明日
37 : VIPに... - 2012/12/18 23:47:12.44 8OAykntAo 25/310魔王を倒した後に行った淫魔の国は勇者が3年間過ごした後の淫魔の国?
それとも人間として王に就任した直後の淫魔の国?
読むのが久々で色々忘れてる…
39 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/19 01:34:10.80 p0mf0x9Go 26/310>>37
後者です
それでは投下します
二日目
朝
いつまでも続く聞き慣れないノックの音が、ようやく勇者を起こした。
雲の上のようなベッドのおかげで、体力は万全に回復し、すっきりとした目覚めを提供してくれた。
眠る時に感じた、鉛を全身に詰められたような疲労は既に無い。
窓から刺す暖かな朝日が、室内の落ち着いた金色の装飾に映えて、眩しく目に突き刺さる。
窓の外へ視線を向けても、尚も、ノックの音は途切れない。
こつこつ、こつこつ、と。
一定のリズムを保ったまま、ときおり、扉の向こうへ呼びかける声が聞こえた。
勇者「……堕女神?……じゃない、な」
メイド「…陛下、お目覚めですか?陛下?」
勇者「ああ、入ってくれ」
メイド「失礼いたします。朝食の準備が整いました。それと、お召し換えのお手伝いをいたします」
勇者「…頼むよ」
またしても、堕女神は姿を見せなかった。
あの七日間を知る彼にとっては、それだけがずっと引っかかる。
メイドに着替えを手伝わせながら、その事だけを考えていた。
勇者「……何故、だろうな?」
メイド「?」
勇者「……いや、何でもない。気にしないでくれ」
大食堂
勇者「……ご馳走様。美味しかったよ」
堕女神「恐れ入ります。本日の予定をお伝えしても?」
勇者「ああ、頼むよ」
堕女神「それでは。……少し休みましたら、書庫へ」
勇者「……その事、なんだが」
堕女神「何か?」
勇者「書庫の、あの捻じ曲がった変な空間はどうにかならない?……妙な気分になる」
堕女神「はい。それでは只今、直して参ります。御希望などございますか?」
勇者「ああ、きちんと天地をはっきりと……って、今?」
堕女神「はい、今すぐ配置を変えて参ります。五分ほどお待ちいただきますが」
勇者「五分!?」
堕女神「……申し訳ありません、どうしても五分ほどかかってしまいます」
勇者「……いや、うん……分かった。頼む」
堕女神「それでは、失礼いたします。後ほど迎えをやりますので、こちらでごゆるりとなさっていてください」
勇者「…分かった」
書庫
勇者「……本当に五分でやっちまった」
堕女神「はい。人間界の物理法則に準じて模様替え致しました」
勇者「…………」
堕女神「……さて、始めましょう」
勇者「分かった」
堕女神「……まず、この国の成り立ち、体制から」
勇者「頼む」
堕女神「建国の時期は……少なくとも、20万年以上前」
勇者「……なんか、最近の事に感じるな」
堕女神「この国は女性型の淫魔のみで構成されております。……ただ、その種族は多岐に渡ります」
勇者「…具体的には?」
堕女神「まず、一般に『サキュバス』と呼称されている種族。蝙蝠のような翼と様々な形状の角を持つ者達です」
勇者「ああ、人間界の絵画にもよく描かれていたな」
堕女神「正式には彼女らの種族名は『リリム』ですが、『サキュバス』と呼んだ方が通りが良いので、半ば定着しております」
勇者「……肌の色は?」
堕女神「はい。一般には青みを帯びておりますが、ごく稀に白や浅黒。一説では、人間界で宿した子種の『主』の肌が反映されているとか」
勇者「……ふむ」
堕女神「平均寿命は5万年ほど。『成長』はしますが、『老化』はしません。成熟した外見のまま、死すまで固定されます」
勇者「………(いちいち数字が凄すぎて、もう驚けない)」
堕女神「幾分駆け足の説明でしたが、ここまでで、ご質問は?」
勇者「いや、今は無い。……他にはどんな種族が」
堕女神「全てを挙げる事は難しいです。あまりに多くて」
勇者「へぇ」
堕女神「加えるなら、……私のように、神位を失った『女神』や『精霊』、堕天した『天使』も多数。淫魔へと転化した『魔女』も」
勇者「…………」
堕女神「この国を構成する者達は、そのようなところです。……続けても?」
勇者「ああ」
堕女神「昨日も触れましたが、基本的に、この国は『女王』が治めております」
勇者「……そうだ、先代の女王はどうしたんだ?」
堕女神「崩御なさったのは、ちょうど100年前です」
勇者「継承者はいなかったのか」
堕女神「女王陛下は生涯、子を生しませんでした。……100年間、私が代行としてこの国を保ちました」
勇者「何故、他の者を代理にしなかった?」
堕女神「私も考えておりましたが、女王陛下が『予言』を残したのです。息を引き取る直前に」
勇者「予言だって?」
堕女神「……『この国に、新たな王がやってくる。100年後の今、玉座の間に扉を開いて』と」
勇者「…………それが俺か?」
堕女神「ええ、そうなりますね」
勇者「……お前たちは、その予言を信じたのか?」
堕女神「女王陛下が、死の間際に残した言葉です。私達には、疑う事などできません」
勇者「……すまない、そういうつもりじゃなかったんだ」
堕女神「淫魔の国の女王が、最後の力で残した予言。それはもはや予言ではなく、『未来予知』と言って差し支え無いのです」
勇者「…………女王は、なぜ死を?」
堕女神「……病に倒れたのです」
勇者「淫魔をも、死に至らしめる病か?」
堕女神「例え『淫魔』であろうと、『魔王』であろうと。生命力が尽きれば死ぬでしょう」
勇者「……そう、だな」
堕女神「……ともかく、女王の遺言のままに、陛下は現れました。淫魔の国の、新たな王として」
勇者「…………ああ」
堕女神「何か御不明な点はございますか?」
勇者「……いや、今はない。……というか、ありすぎて、とても質問しきれないよ」
堕女神「そうですか。いつでも、お答え致します」
勇者「ありがとう。……俺がこの国に迎え入れられた理由は、とりあえず分かった」
堕女神「予言の言葉自体はもっと長く詩的なものでした。後ほど、全文をお届け致します」
勇者「頼む」
堕女神「それでは、引き続き……この国を取り巻く地理について。こちらの本をご覧になってください」
勇者「……どれ」
堕女神「我が国は、極めて恵まれた気候が特色です。四季がハッキリとしており、冬には、ほぼ全土が白く覆われます」
勇者「雪が降るのか」
堕女神「西方には広大な牧草地、その向こうには海が存在し、農業、漁業ともに盛んです。東方には隣国との国境が」
勇者「幼形成熟の淫魔の、か」
堕女神「そうですが、何故ご存じなのですか?」
勇者「……昨日、少しだけ本を読んだのさ」
堕女神「それでは、隣国の説明は省かせていただきます。……南方には砦を隔て、オークの群生地がございます」
勇者「ああ、それも知っているよ」
堕女神「そして我が国はるか北方の森には、コボルトの群生地が」
勇者「魔物が多いな」
堕女神「『魔族』にとっては、野鼠のようなものです。彼らもそれを知っていますから、我が国に侵入する事はありません」
勇者「そこまで言うのか」
二時間後
堕女神「……陛下。そろそろご昼食の準備をいたしますので、私は少し外します」
勇者「うん、ありがとう。……準備ができたら呼びにきてくれ。ここにいるから」
彼女が出て行った後、再び、机の上に広げられた無数の書物と資料に目を落とす。
机の上には、地図が大判の羊皮紙に記されていた。
若干色あせてはいるが、読み取るのに不自由する事は無い。
地図を見る限りでも、この国はずいぶんと恵まれた場所にあるようだ。
北方と南方には森林地帯があり、西には広い牧草地、その先には山脈を挟み、さらに先を辿ると海に面した港町がいくつか。
東に隣接している別種の淫魔の国は、かつての堕女神の言葉を裏付けるように、小さくまとまっていた。
勇者「……本当に、小さい国なんだな」
思い出されるのは、女王の幼い姿。
しかし、幼い、と言うには語弊がある。
それが、彼女らの、成熟した姿なのであり、最終形なのだから。
勇者「……よく今までもってたもんだな」
地図に目を落とす。
領土は、この国の半分ほどしかない。
オークの群生地とも近すぎるし、色分けされた地図の、かの国を取り巻く茶色と肌色の多さ。
それはすなわち、緑地の少なさだ。
勇者「……だから、か?」
勇者の脳裏に、ひとつの仮説が思い浮かぶ。
隣国の淫魔が幼い姿で固定されるのは、食料事情の不遇さからなのだろうか。
食料があまり取れず――――行き届かないゆえに、その肉体は摂るべき栄養の少ない幼い姿のままで成熟する。
性欲の強さも、少しでも多く子を為そうとする、動物の本能故か。
その後、昼食を摂った後も、書庫での講義は続いた。
淫魔の国の人口、特産、祝祭日、社会体制等。
特に社会体制は王、もしくは女王を頂点として、一般的な王国とそう違いはなかった。
差違があるとすれば、軍を除いては厳格な階級制度のようなものは、存在しない。
貴族と平民のような、ありがちな構図はない。
まして奴隷などというものはこの王国の、最も古い文献にすら姿を現さない。
「王」以外は、全国民が平等と言っても良い。
人間の真似をして貴族のように振る舞う享楽を好む者もいるが、それすらも半ば冗談の「趣味」に過ぎないという。
何万年も生きる彼女らには、当たり前の常識となっているのだ。
たとえ農業に従事する者も、酒場を営む者も、国を守る兵士も、城へ勤める侍従も。
全ての者が同じ国に属する「仲間」であり、上下の関係ではないと。
最低限度として、執政の職もあるにはある。
だが、彼女らは決して、その権威を振りかざす事は無い。
この国に、指導者たる「王」を除き、「身分」の差など無い。
それは、勇者が――――否、すべての人間が思い浮かべた、遥か遠き理想郷の姿だった。
淫魔たちは、すでにそれを、完成させていたのだ。
夕食前、城内廊下
勇者「…………」
サキュバスB「陛下?」
勇者「お前か」
サキュバスB「どうしたんですか?」
勇者「……考え事」
サキュバスB「そうなんですか。……昨日は、ありがとうございました」
勇者「気にするなよ」
サキュバスB「気にしますよ。庇っていただいたんですから」
勇者「…………なぁ」
サキュバスB「はい、何でしょうか?」
勇者「……何で俺にそう接してくれる?」
サキュバスB「えっと……?」
勇者「いきなり『王』として現れた、人間に対してだ。警戒してないのか?」
サキュバスB「……本当は、ちょっとだけ、怖いです」
勇者「怖い?」
サキュバスB「…………」
勇者「質問を、変えよう」
サキュバスB「え?」
勇者「お前達にとって、淫魔にとって、『人間』はどういう感覚なんだ?」
サキュバスB「うーん……人それぞれ、だと思いますけどー……」
勇者「お前は?」
サキュバスB「……やっぱり、ちょっとだけ人間は怖いです」
勇者「……でも、人間よりずっと強いんだろう?」
サキュバスB「そうなんですけど……あの、陛下」
勇者「?」
サキュバスB「今度は、陛下にお訊きしていいですか?……ずっと、人間の事で、不思議だった事があって……」
勇者「答えられるかどうかは分からないけど、何だい」
サキュバスB「はい、それでは………」
サキュバスB「――――どうして、人間は。ほかの人を殺せるんですか?」
勇者「…………?」
サキュバスB「あの、えっと……うまく説明できないかもですけどっ……」
勇者「構わないから、続けてくれ」
サキュバスB「えーと……人間って、好きになった人と結婚して、赤ちゃんを産んで一緒に育てるんですよね?」
勇者「一般的にはそうだな」
サキュバスB「それで、兵隊さんをやってる人だっていますし、その人も、結婚して赤ちゃんを抱きますよね?」
勇者「……たいていはな」
サキュバスB「……でも、赤ちゃんを抱っこしたその手で、剣を持つんですよね」
勇者「…………」
サキュバスB「……命の大切さを知っても、なんで、人を殺せるんですか?」
勇者「……家族を護る為、養う為、じゃないのか」
サキュバスB「敵の兵隊さんも、そうじゃないですか?大切な人がいて、赤ちゃんもいて、ひょっとしたら大きくなってるかもしれなくて……」
勇者「…………」
サキュバスB「命の大切さを知ってるのに、命を大切にしてる兵隊さんを殺すのって……おかしい、ですよ」
勇者「……なるほど、な」
サキュバスB「……だから……よく分かんなくて。……人間が、怖いんです」
勇者「……参ったな」
サキュバスB「え?」
勇者「どうも、いい答えが思い浮かばない。……鋭すぎてさ」
サキュバスB「……ご、ごめんなさい……変なこと聞いちゃって」
勇者「答え、もう少し待ってくれるか?」
サキュバスB「……はい」
勇者「そうだな、明日の夜にでも。……さて、仕事があるんじゃないのか?」
サキュバスB「あっ……、そうでした!」
勇者「今度は物を壊すなよ?」
サキュバスB「も、もう大丈夫ですっ! 失礼します!」
勇者「……かわいいヤツ」
その日の夕食にも――――堕女神が姿を現す事はなかった。
調理は彼女が行った。
それは、舌ですぐに分かる。
しかし、給仕するのはメイドであり、料理の説明さえもメイドに任せた。
前菜の、スモークサーモンを添えた野菜のテリーヌも。
胡瓜を用いた冷製のスープも。
主菜の、ふんだんに胡椒を用いた牛肉のローストも。
ラズベリーをたっぷり使ったデザートも、食後の茶も。
全てが美味ではあっても、素通りするような感覚だった。
胃が膨れても、どこか、物足りなささえ覚える。
彼女の表情が、見えない。
彼女が、どのような顔で調理していたのか。
どのような顔で盛り付けていたのか。
――――そもそも、彼女は、勇者の反応をどう受け止めているのかさえも分からない。
濃い靄の中で食べているようで、味さえもぼやけるようだった。
結局、彼女が食堂へ姿を現したのは、食後の茶をほぼ飲み終えてから、だった。
堕女神「……本日の夕食はいかがでしたでしょうか」
勇者「ああ、美味しかったよ。特に肉料理が良かった」
堕女神「…………お口に合ったようで、何よりです」
勇者「……反応薄いな」
堕女神「……それはそうと、近日中に、隣国の女王がやって参ります」
勇者「え?」
堕女神「最近王位を継いだばかりです。この度の陛下の就任に従って、一度お会いしたいとの事で」
勇者「……ほう」
堕女神「……それと、明日は予定は特に無しです」
勇者「『勉強』はどうしたんだ?」
堕女神「陛下のご理解が思いの外早くて……今日一日で、ほぼ済んでしまいましたので」
勇者「堕女神の教え方がいいのさ」
堕女神「……明日は午前中は座学、午後からはお好きなようにお過ごしを。……それと、入浴の準備を済ませております」
勇者「有難う。……少し休んだら、風呂に入るよ」
脱衣場
勇者「……変わってないなぁ」
足を踏み入れるなり、脱衣場を見回して顔を綻ばせる。
「三年後」の七日間と、全く違わない。
美しいモザイクの床も、壁面の彫刻も、何も変わってはいない。
―――いや、三年後まで、変わらないのだ。
浴場から流れ込む、暖かく鼻腔を満たす湯の香りは、ほのかに甘みを感じさせた。
水面に浮かべた花の香りだろうか。
薔薇のようなニュアンスを感じさせながら、沁みこむように肺へと入り込む、円やかな芳香。
すぅ、っと花の香りが溶け込んだ、暖かい空気を吸い込む。
サキュバスA「……どうしたのですか?」
勇者「…こんな所で何をしてるんだ」
サキュバスA「はい。沐浴のお手伝いを」
勇者「……じゃぁ、脱ぐのを手伝って貰おうかな」
サキュバスA「はい、かしこまりました」
勇者「……それで、この匂いは何だ?」
サキュバスA「匂い?」
勇者「さっきから漂ってるだろ。浴場からか?」
サキュバスA「ああ、お風呂に垂らしたオイルですね。この国に代々伝わるものですよ」
勇者「へぇ」
サキュバスA「魔界産のバラに、何種類だったか……様々な花のエキスを混ぜて、最後に、とある獣人型淫魔の愛液を少々」
勇者「おい待て」
サキュバスA「はい……?」
勇者「花はいい。だけど最後のは何だ、一体」
サキュバスA「動物の腹部を抉って取る香料も、あるではありませんか」
勇者「…………」
サキュバスA「それに、お肌にも大変よろしいのですよ。たったの数滴を肌に伸ばすだけで、保湿効果が一週間は続きます」
勇者「……丸めこみやがった」
サキュバスA「それはそうと、お体をお流しいたしますので、浴場へどうぞ」
勇者「……お前は、共に湯に浸からないのか?」
サキュバスA「私が?」
勇者「……すまない、困らせた。まぁ……話し相手にはなってくれよ」
サキュバスA「はい、私で良ければ、喜んで」
大浴場
サキュバスA「……あの」
勇者「ん」
サキュバスA「…………お一つ、お訊きしたいのですがよろしいでしょうか」
勇者「何だ、いきなり……」
サキュバスA「……何故、こんなに傷ついているのですか?」
勇者「…酷使したからな」
背中を洗わせていた勇者は、おもむろに、指先が背筋を這うのを感じた。
艶気のある夢魔が、誘う風な仕草ではない。
口を割って荒く息をつく老馬の首を撫でるような、確かな労わりがあった。
背を重ね塗る泡の下には、いくつもの傷がある。
小さなものでは糸くず程度のものから、大きなものでは十数cmに渡るいくつもの切創。
数個の刺し傷は、矢によるものだろうか。
傷口周辺の肉が盛り上がり、塞がった今でも、指先でなぞれば硬い。
サキュバスA「……戦傷ですね」
勇者「俺に自傷癖があるように見えるかな?」
サキュバスA「……いえ、そんな…滅相も……」
勇者「……もう、傷は増えないさ」
その言葉が誰に向けたものなのか、勇者は分からなかった。
傷を見て、言葉を失う彼女に向けてなのか。
「勇者」を終えて、もう戦いの場に立つことは無い自らに向けてなのか。
――――それとも、どちらでもないのか。
勇者「……気を使わなくていいよ。泡がしみるような事は無い」
サキュバスA「……はい」
勇者「……今度は、俺が訊いていいかな?」
サキュバスA「なんなりと」
勇者「サキュバスBとは、どういう関係なんだ?」
サキュバスA「……三千年ほど前に知り合いました。近所に住んでまして。再会したのはつい最近です」
勇者「……『淫魔』的には、最近ってどのぐらいまで?」
サキュバスA「あくまで感覚的なものですが、三百年ぐらいまではまず『最近』と言ってよいかと」
勇者「………………」
サキュバスA「そして、数週間前にこの城で働くことを勧めて、今に至ります」
勇者「なるほど」
サキュバスA「……しかし、何故そのような事を?」
勇者「別に。ただ気になっただけだよ」
サキュバスA「……泡を、お流ししますね」
勇者「ああ」
サキュバスA「……ところで、明日はご予定などございますか?」
勇者「午前中は勉強だ。……午後からは特にないよ」
サキュバスA「……でしたら、遊戯などは」
勇者「遊戯?」
サキュバスA「はい、この国にも様々な遊戯がございまして。知っておく事も必要かと存じます」
勇者「……なるほど、面白そうだな」
サキュバスA「では、明日。昼食を終えたらサロンでお待ちしております」
勇者「……淫魔のゲームのルールを、俺が理解できるかな」
サキュバスA「人間界のものとそう違いはありません」
勇者「……だといいが」
サキュバスA「さて、終わりました。どうぞ、浴槽へ。……私は、お召し換えの準備をいたします」
勇者「頼んだよ」
サキュバスA「はい。……失礼いたします」
入浴を終え、待っていたサキュバスAに着替えを手伝わせ、廊下へ出る。
すでに日は暮れて、窓の外には、星明かりに飾られた夜空が広がっていた。
勇者「……当たり前だけど、星の並びも全然違うな」
風呂上がりの心地よく火照った身体を冷ますように、しばしぶらぶらと城内をうろつき回る。
足は、気付けば無意識に庭園へ向いていた。
夜風を求めて行き着いたのか、その手はゆっくりと扉を押し開けて、その体を庭園へと案内した。
勇者「ふぅ。いい風だ」
扉から庭園へと躍り出ると、涼しい風が熱を持った体を撫でる。
外気は冷え込む事もなく、庭園全体の緑の匂いが、爽やかに体を包んでくれた。
勇者「……流石に、庭園は変わってるか。季節は同じみたいだけれど……」
庭園迷路はそのままでも、やはり、あの「体験」とは異なっていた。
あの時、庭園の中心、噴水周辺に咲いていた白い花は未だ蕾で、木々の背丈も違う。
更に変化を見つけ出そうと目を輝かせて庭園を見回していると―――
勇者「……堕女神?」
良く知る、彼女の姿を見つけた。
一人きりで、手入れを施している様子でもない。
何かを探している様子でもない。
うつむき加減のまま、庭の一角を目指して、そろそろと歩いていた。
その歩みには、どこか、急いでいるようなものさえ勇者には感じられた。
静かに、堕女神の後を追って歩を進めた。
彼女は警戒している様子も無く、後ろを振り返る事無く歩き続けた。
――――辿り着いたのは、庭の端にある、背の高い木の下。
彼女はそこでようやく立ち止まり、俯き―――震え始めた。
勇者は彼女に気取られぬように気配を隠しながら、少し離れた木陰に身を隠す。
太さを考えれば、もし彼女がこちらを向いても、姿を見られる事はない。
身を隠して、耳をそばだてて、堕女神の方へ意識を傾ける。
月明かりの照らす庭園の一角で。
人目を忍び、大きく育った木に身を任せて。
彼女は、泣いていた。
ぐずぐずとしゃくり上げる事もなく、一筋、また一筋と、流れる涙が月光に煌めきながら零れ落ちる。
手がかりになりえるような言葉は、漏れてこない。
それは―――彼女の涙が、言葉に換える事さえできないような、深い哀傷によるものだという事を示していた。
勇者(……戻る、か)
勇者は胸に締め付けられるものを憶えながら、そっと木陰から離れて、城内へと踵を返した。
とても、声をかけられる雰囲気ではない。
あの彼女がたった独り、庭園の隅で泣いていた。
それは――――どうしようもなく、哀しくて。
かける言葉の一つも見当たらないまま、勇者は、彼女を残して寝室へと帰った。
三日目
朝
今日は、早くに目が覚めた。
あの堕女神を見た後では眠れないと思っても、湯浴みで温まった体は、意外にもあっさりと眠らせてくれたようだ。
時刻は、日の出より少し早い。
まだ空は薄暗く、雲の切れ間から覗く空は暗青だった。
まどろみを楽しもうとも逡巡したが、目覚めはすっきりとしていて、体は嘘のように軽かった。
ベッドから起き上がり、裸足のまま、窓辺へ近づく。
敷き詰められた絨毯の重厚な質感が、足裏から伝わる。
踏みしめられる事で味わいを重ねた絨毯は硬く、それでいて確かな歴史を感じさせた。
勇者「…………」
窓から下を見れば、庭園が一望できた。
しかし、昨夜の、彼女のいた場所は死角になっていた。
城の上階に位置する勇者の寝室からも、庭園につながる扉からも、見えはしない。
樹が邪魔になり、どうしても見えないのだ。
勇者「……俺に隠れて、何を泣いていたんだ」
呟き、暗い空の下、遠方に広がる城下を更に眺める。
驚いた事に、明かりのついた建物が多い。
何かなどは到底見えまいが、彼の視力には、通りを行き交う人々が、塩粒ほどに見て取れた。
勇者「……流石は淫魔。まだ夜か」
自嘲とともに微笑み、ベッドへ振り向く。
勇者「……何だ、あれ?」
サイドテーブルに、水差しとともに皮ひもでくくられた一巻きの羊皮紙が置かれていた。
古ぼけてはいるが、読むのに差し支えはなさそうだ。
勇者「……そうか。持ってきてくれたのか」
堕女神と交わした口約束を思い出して、巻かれた羊皮紙を手に取る。
意外にも傷みは少なく、しっかりとしていた。
水差しからグラスに水を注ぎ、口へ運ぶ。
若干温まった水を飲み下すと、机へと向かい、ランプをともして羊皮紙を広げた。
勇者「…………何者なんだ。先代の女王」
細かな文字で書かれていたのは、まさしく予言と言うに値する、婉曲な文章の群れだった。
だがそれでも、読み進めるごとに、拍子抜けな程に染み入り、脳での理解を超え、心で全てを氷解できてしまう。
それは、もしかすると……先代の女王がこの文字に込めた、魔力の御業なのかもしれない。
――――後世現れる、新たな指導者へ向けた、メッセージなのかもしれない。
――――先代の女王は、自らの死期を悟り、この予言詩をしたためた。
――――いつ生まれたのかすら忘れ、いつまで生きるのかも分からず。
――――永すぎる時でようやく訪れた、『死に至る病』は、彼女にとって、光でさえあった。
――――幾百年かけてじわじわとその身を蝕まれ。
――――幾千度目の発作の中、彼女は、見たのだ。
――――この国へ訪れる、100年後の「王」の姿を。
昼食後
勇者「……それにしても」
堕女神「はい」
勇者「国を治めるからには、もっと色々知らなきゃならないのかと思ったが」
堕女神「基本的な事は全てお教えいたしました。……それと、些か不適切な言い方になってしまうのかもしれませんが」
勇者「言ってくれ」
堕女神「……何十万年もの、『この国』の歴史と背景を、一からお教えする時間は無いのでは」
勇者「…………ああ、そうか」
堕女神「人間に―――いや、魔族であっても、果たして全てを理解できるのかどうか……分かりません」
勇者「……まぁ、そうだな」
堕女神「ですが、御心配は要りません。何かあれば、私が力になりますので」
勇者「……ありがとう、助かる」
堕女神「それが、私の役目です。礼を述べられる事では決して」
勇者「……さてと、これで今日は終わりか?」
堕女神「はい。午後はお休みになってください。……それと、明日の昼頃には隣国の女王陛下がいらっしゃいます」
勇者「意外と早いな」
堕女神「……『魔界』の馬は、人間界のものとは比べものになりませんので」
勇者「……もっと、こう、すごい乗り物があるのかと思ったんだけど」
堕女神「一ヵ月間不休で最高速度を保って走り続ける事ができる『馬』が、すごくないと?」
勇者「いや、そんな……一ヶ月? 丸ごと!?」
堕女神「はい。……『馬』というよりは、『馬と同じ姿をした魔物』と言うのが正確ですが」
勇者「……もしかして、この国の馬もまた『夢魔』なのか?」
堕女神「その通りです。悪夢を引き起こす魔界の馬、『ナイトメア』」
勇者「………ナイトメア」
堕女神「姿は人間界の馬と違いはありませんが」
勇者「……なるほど」
堕女神「余談ですが、淫魔の国がそうであるように、ナイトメアは全て『牝馬』です」
勇者「それはそうと、一つ訊きたいんだけど」
堕女神「何なりと」
勇者「……その、何だ。何か、困ってる事は?」
堕女神「……と申しますと」
勇者「…………少し、目が腫れているな」
堕女神「……?」ピクッ
勇者「……よく眠れなかったのか?」
堕女神「はい……お見苦しい所をお見せしました。昨夜は、遅くまで書庫で調べものを」
勇者「何を?」
堕女神「い、いえ……その……本当に、取るに足らない事なのです」
勇者「夜遅くまで調べていたのにか?」
堕女神「…………」
勇者「……すまない、問い詰めるつもりは無い。……夜は、ちゃんと眠ってくれ」
堕女神「……ご命令ですか?」
勇者「いや、『お願い』かな。……無理をしないでくれ」
堕女神「………はい、ありがとうございます」
勇者「頼む。……さて、ご馳走様。何かあったら、サロンにいると思うから」
堕女神「はい、畏まりました」
城の一角に、特に採光用の窓が広く開けられた空間がある。
昼下がりに最も明るさを増すように作られた、簡単な応接の際にも用いられる「サロン」。
簡素な、それでいてしっかりとしたつくりのテーブルセットがいくつか並び、
壁面には、柔らかな色彩で描かれた絵画が隙間なく並んでいた。
息を呑むような風景画、草原を駆ける魔界の馬の群れを描いた躍動感ある絵。
ひとつひとつが、王の城に飾られるべき「名画」である。
サロンの中心、大きめのテーブルに、白黒の盤が据えられていた。
そこにあるべき「駒」は載らず、その盤を前にして―――淫魔の一人が、王を迎えるべく立っていた。
サキュバスA「お待ちしておりました」
勇者「ああ。……って、何だ、その大量の菓子は」
サキュバスA「頭を使うゲームですから、甘いものが必要かと。……お掛け下さい、お茶をお淹れします」
勇者「……それで……何をやるんだ?」
サキュバスA「見ての通り。人間界にも同じゲームがあるとか」
勇者「チェス、か?」
サキュバスA「そうです。……基本的には駒の動きも、ルールも同じです。……あなたは、『黒』を使っていただけますか?」
勇者「……? ああ、いいが……駒はどうした?」
サキュバスA「すぐに、『出て』参りますよ。……先手は頂いてよろしいですか?」
勇者「うん」
サキュバスA「……それでは、盤に手をかざしてください。……そして、駒の『色』を唱えてください」
勇者「……? 良く解らないけど……」
サキュバスA「きっと驚くかと。……人間には」
勇者「………『黒』」
盤上に手をかざし、唱えた瞬間。
空気が揺れ、盤面の白のマスは輝き――黒のマスは、黒煙を立ち上らせた。
勇者はおもわず顔を背けてしまいそうになるが、目を離すまいとこらえた。
光と影の躍る盤面の向こうに、「彼女」の微笑を覗きながら。
二つの色が踊り、混沌の色を描いた後―――すぐに、彼は気付く。
何もなかったはずの盤面に、白の軍勢と黒の軍勢が。
――――『人間』と、『魔族』を精巧に模した駒が、睨み合っている事に。
勇者「……どういう事だ?」
サキュバスA「見ての通りです。駒の構成も動きも、人間界の『チェス』と同じ。ただ、違うのは……」
勇者「…………『駒』の形状」
サキュバスA「ええ。それでも分かりやすいと思います」
彼女が、自軍の駒に目を落とす。
前列を構成するポーンは、馬鍬や鋤、鉈などを備えた、素朴な風貌の「村娘」だ。
垢抜けない継ぎ接ぎのボロをまとい、顔には雀斑までも浮かせてはいるが、どれも、それなりに麗しい少女の姿をしていた。
しかも――――ひとつひとつ、姿が違う。
後列両端のルークは、精悍な「女戦士」に見える。
不自然な程に露出した肌からは、しなやかに無駄なく鍛えられた筋肉が覗けた。
手に備えた剣や斧はポーンと違い、鋭く研がれている。
一つ内側のナイトは、隣の女戦士とは違い、輝く甲冑をまとった、凛とした「女騎士」。
肌の露出はなく、勇者から見て右のナイトは、金髪を肩まで垂らして、盾と剣を手にしている。
左側のナイトは黒髪を後ろでまとめ、長剣を鞘に納めたまま。
更に内側のビショップは、黒衣に身を包んだ「シスター」だ。
どちらも楚々とした幼い顔立ちで、穏やかに祈るような仕草をしていた。
キングの横に身を寄せていたのは、ティアラを戴きドレスをまとう、「女王」そのものだった。
腰まで伸びた金髪、碧に輝く澄んだ瞳、憂いを残した儚い、整った顔。
駒であるのに、見ているだけで惹かれるようだ。
そして――――その横には、凛々しい顔立ちの、青年にも見える王冠をかぶった駒。
勇者「……それ、『キング』?」
サキュバスA「ええ。……見えませんか?」
勇者「…………どこがどう『キング』なのか」
サキュバスA「…巷では、『男装の麗人』とでも言うのでしょうか」
勇者「……なるほど? で、こっちのは」
続けて、勇者が自軍の、黒の駒に目をやる。
まず、ポーンは……飽きる程に見た「オーク」だ。
欠けた斧、錆びついた剣、木を削り出しただけの槍を手にした、醜い豚面の獣人。
勇者「なんで、ルークが『ローパー』なんだ?」
サキュバスA「形状が似ているでしょう、人間界のルークと」
勇者「まぁ、そうかな……?」
後列端のルークは、触手の魔物「ローパー」。
全てを切り裂き貫く、見た目に反して手強い魔物であることを、勇者は知っている。
その内側のナイトは、漆黒の鎧兜に身を包んだ、「暗黒の騎士」。
殺気を充満させ、仮にゲームのプレイヤーであっても不用意に手を伸ばせば、指を切り落とされそうにも感じる。
ビショップはフードを目深にかぶっているため、一体何なのか判別がつかない。
魔界に属するモノである事は確かだが―――ひたすら、不気味に見えた。
クイーンは、もはや見慣れた、蝙蝠の翼と青い肌を持つ「サキュバス」そのもの。
長い黒髪を持つ、魅惑的な肢体を持つ成熟した淫魔の姿。
そして、キングは――――プレイヤーと、勇者と同じ姿をしていた。
勇者「……どうして――『俺』の姿なんだ」
サキュバスA「黒は、思い描く『王』の姿が反映されるのです。つまり、それが―――あなたの思い描くキングなのです」
勇者「…………」
サキュバスA「ここで、相違点を説明させていただきますが……よろしいですか?」
勇者「頼む」
サキュバスA「ルールは人間界のチェスと同じ。大きな違いは、『駒』はみな、生きているという事」
駒たちは皆、小刻みに忙しく動いていた。
白のナイトは武器に目を落とし、黒のポーンは前方に見える白のポーンに下卑た視線を送り、
黒のクイーンはくすくすと上品な仕草で笑い、白のクイーンは、ただ――凛として、背を伸ばして立っていた。
何よりも、駒たちはみな、白や黒の単色ではない。
肌には暖かな血色を感じるし、もはや駒というよりは、人間や魔物に「魔法」をかけて小さくしただけにしか見えぬほどだ。
勇者「……やりづらいな」
サキュバスA「そして、ここが最大の相違点ですが―――このチェスに、チェックメイトは存在しません」
勇者「何?」
サキュバスA「チェックメイトではなく、相手の『キング』を取る事でのみ勝ちになります」
勇者「ほう」
サキュバスA「ここまでで、何かご質問は?」
勇者「……駒を動かす時は、手で?」
サキュバスA「それもよろしいですが、念じるだけで動きますよ。……それでは、先手ですので、手本を」
言って、彼女が指先で右端のポーンを指さし――次いで、二マス先にその指を向ける。
すると、村娘を模したポーンが自ら歩き、指定されたマスへと歩いて行った。
――――前方に見える魔の軍勢に怯え、足を震わせながら。
勇者「ふむ、なるほど。……だが、何だか……気の毒だな」
サキュバスA「大丈夫、単なる駒です。この弱々しいポーンでもそちらのナイトやルークを取れますので、ご安心を」
勇者「……そう言われると少し楽になる。……ともかく、触れなくても動かせるのか」
言って、勇者もまた、ポーンを一つ選び、一マス前進させる。
豚面の獣人がドスドスと足を踏み慣らし、きっちりと意図した場所へと進んだ。
サキュバスA「ゲームについて、もうひとつだけよろしいですか」
勇者「ん?」
サキュバスA「チェックメイトはございませんが、『投了』はございます」
勇者「『降伏』と『王の死』のどちらかでしか勝負はつかないという事か」
サキュバスA「はい、その通り。……そして、事実上の『チェックメイト』をかけられたら、投了はできませんよ」
勇者「いいだろ、望む所だ。……手加減するなよ?」
サキュバスA「勿論です」
戦況は、一進一退。
交互に駒を動かすたびに当初整っていた戦列が乱れ、よく見られる「チェス」の風景と化していた。
未だ互いに駒を失う事無く、相手の手筋を見極めんと、牽制を重ねる。
勇者「……なるほど、本当に、普通のチェスと同じだな」
サキュバスA「……そう、思われますか?」
勇者「…………え?」
サキュバスA「すぐに分かります」
勇者「……ところで、何故だ?」
サキュバスA「何でしょうか」
勇者「……何故、俺にゲームを持ちかけた?」
サキュバスA「ご説明した通り。この国の文化を知っていただくためです」
勇者「…………それだけか?」
サキュバスA「……ならば―――この手をもって、答えといたしましょう」
触れることなく駒を扱っていた彼女が、指先を伸ばし……ビショップを掴み取る。
白のビショップはその身を硬直させ、宙吊りにされながら、盤上を彷徨う。
そして、降り立つ。
――――敵陣の直前へ、ポーンを取りながら切り込んで。
勇者は、駒を下ろされると同時に「それ」を感じた。
純然たる殺気でもなく、棘をまとった敵意でもない。
蛇に、体の半ばまで咥え込まれるような―――息苦しさ。
勇者「…………」
サキュバスA「…どうでしょうか?」
勇者「……ああ、分かったよ」
黒のナイトが、そのビショップを討つ。
眼前の差し手を倣って、勇者自らの手で動かされた、暗黒の騎士が。
勇者「……『俺』を見たいんだな」
問いかけに、彼女は答えない。
真顔で、彼の顔を見据えながら……口端だけを、かすかに綻ばせた。
無言で、彼女は再び手を進める。
素直に進めていた序盤から一気に手を返し、容赦のなく、それでいて、蛇が締め付けるような精妙な差し回しを続ける。
勇者は、それを全て凌ぎ続ける。
守勢に回り、白の駒による攻めを受けつつ、それでいて勝負は捨てず、攻め手を組み立てて。
当初は彼女が優勢にも思われていたが、攻めは段々と受け止められ、焦りまでも見えてきた。
涼しげな表情の曇る回数が多くなり、忌々しげに口を歪める事まである。
何よりも決定的だったのは、妙手の攻めに回した白の「クイーン」が、完全に殺されてしまった事。
サキュバスA「……成程。さすがは……一筋縄では行きませんね」
勇者「自分でも驚いてるよ」
これまで一手に三秒ほどで指し続けてきた彼女が、ついに長考に入る。
盤面を見回しながら、ほころびを見つけださんとばかりに、その紫の瞳が輝きを増して。
囲まれ、駒の効きでもはや動く事さえかなわないクイーン。
そこに、再び命を吹き込むための一手を探そうとして。
十秒。二十秒。
未だに、その指先は動かない。
勇者「……焦るなよ?」
サキュバスA「…………それでは、これにて」
勇者「……っ」
打たれたのは、攻めの一手。
白の騎士が、「女王」を救うべく突貫してきたのだ。
その身を省みず、魔軍の群れ成す戦列へと。
心なしか―――いや、気のせいではない。
金髪の女騎士を模した駒は、死を覚悟した裂帛の気に満ちた面持ちで、ただ前を見据えていた。
盾を前面に構えて剣を引き、黒のナイトを、ビショップを、ポーンを睨みつけていた。
勇者「魅せるじゃないか」
サキュバスA「……『騎士』には務めがあるものでしょう」
不敵に笑って見せる彼女は、どこか、誇らしげで―――初めて素直な表情を見せたように、彼には思えた。
サキュバスA「……あの時」
勇者「ん?」
サキュバスA「あの壇上で。玉座の前で。何故私を直視したのですか?」
勇者「………ああ」
サキュバスA「いえ、私だけではありません。……堕女神様にも。Bにも。否、あの場に居た全員を」
勇者「…………さぁ。何故かな」
サキュバスA「あなたは人間で―――私たちは、魔の住人。あんなに愛しげな目を、何故できたのですか」
勇者「……そういえば、そうだったかな」
サキュバスA「真面目な話です」
勇者「……何、言っても、きっと……信じないさ」
サキュバスA「万年を生き、人界へ『色街へ出かける』ように行き来する我々にさえ、信じられない事だと?」
勇者「……まぁ、追々な。手が止まっているぞ」
サキュバスA「…………」
勇者「長考なら、長考と言ってくれ」
サキュバスA「……それでは、これはいかがです」
注意され、手を進める。
その手は―――キングを護るクイーンを討ち取る、一手。
キングを後ろに隠した黒のクイーンの前方にルークが打たれ、更にビショップとポーンが侍る。
クイーンを進めてルークを取れば次の手で取られ、クイーンの盾に成りえる駒は、近くにはない。
勇者「…………しくじったなぁ」
サキュバスA「…さぁ、どうしますか?」
勇者「……」
クイーンを逃せば、キングが討ち取られる。
クイーンで先手を打てば、ルークと交換の形で討ち取られる。
キングを逃せば―――やはり、クイーンが討ち取られる。
サキュバスA「……迂闊ですわね」
挑発するような言葉を発した直後、彼女がゆっくりと口を押さえる。
まるで、見せてはいけない面を見せてしまったかのように、視線を彷徨わせて。
勇者「……こうなったとしたら」
サキュバスA「…………?」
勇者「もしも、こうなったとしたら。……俺は既に、どうするかを決めていたんだ」
言って、その手はクイーンへ、「サキュバス」を模した駒へ延ばされて―――
勇者「………こうする、んだ」
クイーンは――――キングを置いて、数マスほど、横へと逃げた。
サキュバスA「……何のおつもりですか!!」
キングを差し出す行為に、彼女は、初めて怒りを露わにする。
あの余裕ある振る舞いをする彼女の初めて聞く「怒声」に、勇者は、苦笑しながら答える。
勇者「見ての通りだ」
サキュバスA「私に……勝ちを譲ると?」
勇者「いや、違う」
サキュバスA「…でしたら」
勇者「…………取られたくないんだ」
サキュバスA「え……?」
意外にも、そして単純すぎる答えに、垣間見せた怒りが逸らされる。
続ける言葉を見つけようとする彼女に向け、更に、答えが続いた。
勇者「……取られたく、なかったんだよ。……『サキュバス』は、取られたくない」
サキュバスA「……あなたは。何故、そこまで……?」
勇者「…これだけは、取らせる訳にはいかない」
サキュバスA「…………」
勇者「さぁ……『キング』を取ってくれ」
プレイヤーを模した黒のキングは、無防備のままでルークの射線に身を晒す。
自ら王を差し出した手のまま、対手に番を回して。
勇者は、真っ直ぐに盤を挟んだ相手を、見つめていた。
苦し紛れの笑みさえ浮かべていない。
ただ、自らの選んだ一手を、これ以上ないとばかりに見せつけるように。
嘘偽りのない、本心からの一手。
彼は―――たとえ駒だと分かっていても、「サキュバス」の駒を取られたくは、なかった。
取らせるわけには、いかなかった。
――――たとえゲームを一つ差し出す、愚かとすら呼べない手だとしても。
勇者「……俺が、お前達の……『淫魔』の王としてふさわしいかは分からない」
再び、彼が口を開く。
勇者「…………だけど、これだけは言えるんだ」
再び、力の宿った瞳がサキュバスAへと注がれる。
睨みつけ、威嚇するようでもなく、ただ注視したわけでもない。
その目には……確かな信念が、燃えていた。
勇者「俺は、『サキュバス』を、この国の『淫魔』達の平穏を……守りたい」
そのまま、時が過ぎる。
サキュバスAもまた、彼を見つめ続けたままで。
盤上の生きた駒までも、動きを止めたように思える。
ひたすら静寂に包まれた空気のまま、遂に―――彼女が、その手を盤上へ伸べる。
サキュバスA「……見届けさせて、いただきました」
その手は、黒の王を捉えたルークではなく、自陣内の白の王へとかかる。
白の王は、盤外へとつまみ出され、虚空へ溶け消えた。
同時に白の駒は全て消滅し、盤上に残るのは、黒の、魔界の軍団のみ。
白の差し手は―――満ち足りた微笑を浮かべて、勝敗の決した盤上を見つめていた。
サキュバスA「……ふふ。私の『負け』ですわね」
言葉から、表情から、物腰から、一切の堅苦しさが消えていた。
ともすれば無礼とも称されるような、聞き慣れた口調が、勇者へ向けられる。
サキュバスA「……非礼をお許しください、陛下。……今ようやく、あなたを『陛下』と呼べるようになりましたわ」
勇者「ああ、その喋りの方が落ち着くよ」
サキュバスA「そうですか?」
勇者「……ただ、どうもこの決着は気に入らないな」
サキュバスA「こちらこそ。……それでは、楽しむためにもう一度、指しましょう」
勇者「もう一局、か?」
サキュバスA「『淫魔界チェス』の、真価をお見せします。追加ルールで」
勇者「追加ルール?」
サキュバスA「といっても、指し方に変化がある訳ではありません。これは、是非陛下に見ていただきたくて」
勇者「……いいだろ、やろう」
サキュバスA「今度は、こちらが『黒』でよろしいでしょうか?」
勇者「うん」
サキュバスA「…では、参ります。……『黒』『淫魔の進撃』」
今度は、彼女が盤上に手をかざして宣誓する。
駒の色、そして―――追加のルールの名を。
勇者「……駒に変化は無さそうだな」
サキュバスA「ええ、その通りですわ。『駒』の外見に、変化はありません」
勇者「……じゃ、始めるぞ。先手は俺だ」
サキュバスA「はい、陛下」
――――――――
村娘「い、いや……やめて…近寄らないで……!」
オーク「……ブヒッ! ブギィィィ!!」
村娘「嫌ぁっ! 来ないで! 来ないでぇぇ!!」
ガバッ……ギリ、ギリギリ……
村娘「い、痛いっ……折れ、ちゃ…う……!」
オーク「プギィィィィ!!」
村娘「な、何するの……?」
オーク「……ギヒッ」
ビリ、ビリビリ……
村娘「やっ…そんな……まさか……!」
ピトッ……ズッ…メリ、メリメリ……ゴリュンッ! ブチブチブチィ!!
村娘「い、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
オーク「ブヒィ! ブヒ、ブヒ……」
村娘「痛っ……痛いぃぃ! やめてぇぇぇぇ!」
――――――――
勇者「…………おい」
サキュバスA「はい?」
勇者「何、これ?」
サキュバスA「何って、私が陛下のポーンを取っている『最中』ですわ」
白黒二色の盤上で、黒のポーン……オークが、農民の娘の姿をした白のポーンを激しく凌辱していた。
継ぎ接ぎだらけの衣服を剥ぎ取り、組み伏せ、ばたつかせる手足を押さえつけ、正面から。
素朴な少女の姿をした『小人』は、小さな『オーク』に為す術なく、その身を貪られる。
よく目を凝らせばことさらに小さな結合部からは、血の筋までもが流れていた。
盤上の凄惨な凌辱劇をそれでも食い入るように眺めながら、勇者が言葉を続ける。
勇者「………つまり、駒を取る度に『これ』があるのか?」
サキュバスA「ええ、そうです。……ポーン同士の場合は、10分ほどかかりますわね」
勇者「…………長くね?」
サキュバスA「そうでもありませんわ。これを見ながらティータイムを愉しむのが、私達の嗜みですもの」
勇者「……ま、いい。正直、予想できてた。……茶をくれ」
サキュバスA「はい、陛下」
勇者「……ついでに、ずっと気になってたんだけどさ」
サキュバスA「何でしょう?」
勇者「そっちのビショップ。いったい、何がモチーフなんだ?」
サキュバスA「魔族の術師ですわ。ちなみに、この駒でそちらのナイトを取るとかなり見ごたえがありますわよ」
勇者「一体何がどうなるんだ」
サキュバスA「……ふふ、それはお楽しみに」
勇者「……その場合、いったい何分かかる」
サキュバスA「たっぷり二時間」
勇者「長ぇよ!」
サキュバスA「ですから、基本……このルールは、たっぷり丸三日ほどかけて楽しむものですわ」
勇者「だから、長いってば!!」
サキュバスA「あ、それと……各駒には、低確率の追加演出がありまして」
勇者「今度は何!?」
サキュバスA「例えば黒のクイーン、つまり『サキュバス』の場合……取った駒が、魔族の刻印に支配され、転化して『淫魔』となる演出が」
勇者「…………(ちょっと見たい)」
サキュバスA「毎回プレイ内容も変わりますし、私達『淫魔』でさえも飽きません」
勇者「………さて、そんな事を話してる間に」
サキュバスA「あら」
村娘(ポーン)『…ぁ……うぅ…』
勇者「レイプ目でこっち見んなっ!」
サキュバスA「あらあら、陛下ったら……」
勇者「で、取られた駒はどうなる?」
サキュバスA「盤上から消えて、盤外に出現します。犯された状態のまま。ほら」
勇者「……それで」
村娘(ポーン)『うっ……ひぐっ……う、うぇぇぇぇ……』
サキュバスA「そして通常のチェスと同様に、私の駒は、そのコがいたマスへと移動します」
勇者(やりづれぇ……)
サキュバスA「純潔を奪われて、あそこからオークの精液を泡立たせて吐き出しながら泣きじゃくるなんて……ああ、素敵」
勇者「……ドMが」
サキュバスA「へっ!?」
勇者「……何でも。それより、続けるぞ」
サキュバスA「は、はい…」
村娘(ポーン)『う、ぅ……酷いぃ……酷いよぉ……こんなの……』
そして、夕方少し前
勇者「…………これ、いつ終わんだよ………」
サキュバスA「ですから、投了かキングが取られるまで」
勇者「……あれから、全然進んでないんだけど」
サキュバスA「陛下が、うかつな場所にナイトを置くからですわ」
勇者「だからって……これは……いつ終わるんだ」
――――――――
女騎士(ナイト)『う……ふ、ぁぁ……やめ……ろぉ…そんな、ところ……』
サキュバス(クイーン)『ふふふ……ここ? 本当に、やめちゃっていいのかしらねぇ?』
女騎士(ナイト)『ひっ……! 嫌、だ……そんなに、した……ら……!』
サキュバス(クイーン)『ほぉら、気持ちいいでしょう? ……大丈夫、時間はまだたっぷりあるわよ』
――――――――
勇者「……終わる気配が無い」
サキュバスA「確かに、これほど長引くのは久しぶりですわ。きっと、私のクイーンも陛下を歓迎していらっしゃるのです」
勇者「かれこれ一時間は経ってる」
サキュバスA「……でも、見応えはありますでしょう?」
勇者「まぁ、そうだけど」
サキュバスA「ちなみに、私の知る限りで一番長いパターンだったのは」
勇者「何だ」
サキュバスA「何十年か前、黒のクイーンが、白のクイーンを取った時です。あの時は、七十六時間もひたすらネチネチと」
勇者「途中で飽きない?」
サキュバスA「いえ、全然」
勇者「流石は淫魔」
サキュバスA「それよりも。……出てきたら?」
勇者「……え?」
サキュバスA「影が見えてるのだけれど?」
サキュバスB「……見えてた?」
サキュバスA「ええ。それで、何をしていたの」
サキュバスB「……何となく、気になっちゃって。それに……いい匂いがしたから……」
サキュバスA「サボりかしら? ……いけない子ね」
勇者「お前はどうなんだお前は」
サキュバスA「私はいいのです。陛下の御為に、淫魔の国のゲームを――――」
サキュバスB「………」
きゅるる、と場に沿わぬ音がかすかに、それでいて確かに聞こえる。
勇者「?」
サキュバスB「はぅっ……ち、違います! わたしじゃ……」
勇者「……腹が空いてるのか?」
サキュバスB「え、えっと……」
勇者「座れよ。……この大量の菓子を何とか減らそう。手伝ってくれ」
サキュバスA「そういえば、全然手をつけていませんでしたわね」
サキュバスB「それじゃ、失礼しますっ」
勇者「どの道、…………まだ、『こっち』はかかりそうだからな」
――――――――
サキュバス(クイーン)「うふふ……貴女ってば、お胸が弱かったのねえ。ほら、こうかしら?」
女騎士(ナイト)「や……! ちく…び……抓っ……ちゃ……!」
サキュバス(クイーン)「ずいぶん可愛い声ねぇ。『殺してやる』なんて言ってたのは誰だったかしら?」
女騎士(ナイト)「ひぃぁぁぁぁ! 取れ、る……ちくび……取れ、ちゃうぅ……!」
――――――――
サキュバスA「おやおや。絶好調ですわね」
勇者「そもそも、この場合どこまでやれば『終わり』なのかが分からん」
サキュバスA「…少なくとも、まだせいぜい折り返し点ですわ」
勇者「……スキップできないのか、これ」
サキュバスB「…………♪」
その後、すっかり日が暮れて、晩餐の準備が整うまで―――結局、勝負は進む事はなかった。
最終的に、ナイトへ対する凌辱をスキップし――手番を一つ進めてから、勝負は次回に持ち越された。
用意された菓子の大半はサキュバスBが処理し、残ったものは、二人に分け与えた。
勇者「……しかし、すごいゲームだったな」
大きすぎる食卓で、食前酒を傾けながら、「淫魔のチェス」を思い出す。
魔物を模した駒が、人類を模した駒を激しく凌辱する、歪んだゲーム。
まっとうに考えれば、確かにおぞましく悪趣味には違いない。
泣き叫ぶ農民の少女を、凛とした女騎士を、楚々としたシスターを、勇敢な女戦士を、気品ある女王を。
低劣なオークが、暗黒の魔騎士が、魔族の僧正が、醜いローパーが、妖艶なサキュバスが――――穢す。
それなのに―――楽しかった。
勇者「…………もしかして、俺……人間、嫌いなのかな」
食前酒が半ばほどまで残った細長いグラスを持ち上げ、燭台の火に透かし見る。
薄く黄金に色づいた液体の中を細かな泡が上っていき、液面にしばし留まった後、弾けた。
勇者「……イヤ、違うか」
言って、グラスに口をつけ――視線を自らの身体の下方まで滑らせる。
勇者「……三日目だしなぁ」
夕食を終えた後、いつものように城内を散歩する。
なんとなしに身についた習慣は、腹ごなしの意味もあるが、何より―――身体が、鈍るのだ。
死闘に次ぐ死闘、危険に次ぐ危険、無限の業にさえ感じた日々を潜り抜け、務めを果たした彼にとっては。
危険も無く、死の恐怖も無い日々は、逆に居心地が悪い。
あの「七日間」は全てが新鮮であり、そういった体の心地悪さは感じなかった。
今はなまじ慣れてしまっているために、どうしようもなく体が鈍る感覚が、強い。
彷徨う内に夜も深くなり、勇者は寝室へと戻った。
庭園には、行けなかった。
もしも―――もしもまた、「彼女」の涙を見てしまったら。
どうすればよいのか、分からなかったからだ。
彼は、恐れたのだ。
昨夜だけならば、「彼女」の涙は偶然だという事になる。
だが、もしも今夜もまた、人知れず涙を零していたとしたら。
自分に、一体何ができるのだろうかと。
彼女の涙を、はたして拭ってやれる言葉が見つかったのだろうかと。
彼女にかける言葉を見つけてやれない事が、たまらなく恐ろしかったからだ。
昼にも、涙の理由を問う事ができなかった。
未だに距離を縮めきれず、よそよそしさを残したままの彼女が、答えてくれるかは分からないから。
答えてくれたとして―――それは、癒せるものなのか。
サキュバスB「あ、陛下!」
溜息とともに寝室の扉を開けると、待ちかねたような歓声が聞こえた。
勇者「え……? 何でここに?」
サキュバスB「何でって……え? 陛下が……昨日……」
勇者「…………あぁ」
サキュバスB「わ、忘れてたんですか!?」
勇者「いや……うん、軽く」
サキュバスB「…酷いです」
勇者「……悪かったってば」
サキュバスB「…………」
勇者「まぁ、楽にしてくれ。何か飲むか?」
サキュバスB「……ミルクを」
勇者「………………『隠語』? いや、『淫語』か?」
サキュバスB「ち、違いますからね!? 『熱々のたんぱく質』じゃなくて『カルシウム』ですからね!?」
勇者「変な言い回しをするな!」
サキュバスB「へ、陛下こそっ!?」
勇者「……全く、ほら。適当に座れ」
サキュバスB「ありがとうございます」
勇者「……酒は飲めないのか?」
サキュバスB「えっと……飲めなくはないですけど……」
勇者「嫌いなのか」
サキュバスB「ワインは好きですけどあまり飲めなくて……ビールは苦いし……」
勇者「お子様」
サキュバスB「こ、これでも三千歳超えてるんですからねっ!」
勇者「牛乳飲みながら言う台詞か?」
サキュバスB「………」
勇者「……ごめん、からかい過ぎた」
サキュバスB「……意地悪です」
勇者「それで、何の話だったかな」
サキュバスB「……『どうして、人間は互いを殺し合えるのか』です」
勇者「…昨日は立ち話だったからな。どうして、そういう疑問を持ったのか……話してくれるか?」
サキュバスB「……わたし、人間の世界に長くいたんですけど、不思議だったんですよ」
勇者「…………」
サキュバスB「……人が人に命令して、違う国の人を、まるでモンスターを狩るみたいに殺しちゃうんです」
勇者「……モンスター」
サキュバスB「殺された人は、もう家族に会えなくなっちゃって。殺した人は、生きて家族に会えて。……帰って、また子どもを抱いて」
サキュバスB「赤ちゃんを抱いて、幸せそうに笑って、……でもまた、時が来たら人を殺しに行って」
サキュバスB「……王さまの命令で、何千人の兵隊さんが……大好きな人たちと、会えなくなっちゃうんです」
サキュバスB「…………だから、わたしは……その……」
彼女の声は、震えていた。
彼女が人間界で目にしたのは、人の王が戦を命じ、人を人とも思わず殺し合う無限の連鎖。
勇者が人間界で見たものより、更に長く密度の濃い、人類の罪。
勇者もまた、彼女の言葉で思い出せた。
過ぎ去りし日々、自らの国をさえ省みず、民を無碍に死なせた愚かな王達の姿を。
砂漠の国の王は、魔王軍との戦いの次は、その勢いのまま隣国へ攻め寄せる事を決意し―――国を、亡くした。
エルフの王は、古い戒律に縛られて、ダークエルフの存亡の危機を知りながら―――見捨てた。
―――ある国の王は、世界の危機に直面しながら、世界が救われた後に、再び隣国と殺し合うための準備をしていた。
それでも、戦そのものを好んで行う王など、存在しないのかも知れなかった。
領土を拡張する為、資源の為、ひいては、自国民の為なのかも知れなかった。
勇者「…………民の為に、民を死なせる、か」
「国民の為」に、国民に危険を強いる。
家族を護る為と言って、「家族を護っている」敵兵を死なせる。
まるで―――人類は、この世界にひとつしか椅子が存在しないかのように、殺し合う。
勇者「……確かに、怖いよな。……そんな『人間』が、『王』になったんだから」
サキュバスB「い、え……そんな事、ない……です…」
勇者「……もしも俺が、逆の立場だったのなら……やはり、怖いよ」
言葉を続けて、サイドテーブルから水差しを取り、銀製の杯に注ぎ、口を湿らせるように傾ける。
勇者「見てきてしまったんだろ? ……そういう、莫迦らしい行いを」
不思議な程に冷たく保たれた水が、喉を滑り降りるのを感じた。
喉から胃までを冷まし、頭の先までも染み入るような冷たさが、勇者の思考を更に鮮明にする。
そして、立て続けに思い出したのは――――
勇者「……俺にも……そんな未来が、あったんだよ」
サキュバスB「え……?」
暴君と化した、未来であり、過去でもある、七日間の追憶。
淫魔の王であるという権威に酔い、淫魔達の肢体を食い漁り、堕ちし女神を甚振り、思いのままに生きる。
そんな唾棄すべき「王」になってしまう未来さえも、勇者は見ていた。
勇者「…………頼みが、ある」
サキュバスB「はい、何でしょうか……陛下」
彼女は、飲み干したグラスをスカートの布越しに腿の間に挟むようにして、隣に座る勇者の顔を見た。
勇者「……三年後。もしも、俺が……『ダメな王様』になっていたら、殺してくれ」
サキュバスB「えっ……!?」
勇者「……淫欲に溺れて、そして……『堕女神』を傷付けて憂さを晴らすようになっていたら」
サキュバスB「へ、陛下……!?」
勇者「頼むから……殺して、くれよ」
勇者が伸ばした左手は、彼女がベッドに置いた右手を、がっちりと掴まえていた。
奇妙な程低く落ち着いた声は、彼女の異議を差し挟む余地さえも備えてはいない。
ただ―――彼女へ、力強く願うだけだった。
サキュバスB「陛…下……痛い、ですっ……」
勇者「……ごめん」
小さな抗議で解かれた彼女の右手には、赤く痕が残っていた。
彼女は、その手の痛みで―――「王」の言葉の重さと、本気を知った。
サキュバスB「……どうして……そんな事、言うんですか」
勇者「……どうしても、そんな未来だけは避けたいんだ。………心配しなくてもいい。遺言は残して、お前に咎が及ばないようにする」
サキュバスB「……説明になってませんよっ!!」
彼女は、叫ぶ。
茫洋とした一方的な懇願を受けて、耐えきれないとばかりに。
大声を張り上げたためか、部屋の扉を、メイドが叩く。
何事も無い、と勇者が返してメイドを仕事に戻らせるまで、ほんの数秒。
その間――――彼女は、顔を紅くして、じっと勇者を見つめていた。
勇者は、試みても苦笑すらできなかった。
一方的な、酷薄な頼みをして―――相手は、取り乱して叫ぶ。
ほんの数日前に起こった、『今生の別れ』を、胸中に再生させた。
勇者「…………俺には、間違いなくその未来も存在した……いや、今も存在するんだ」
サキュバスB「…………」
勇者「だから……もしそうなっていたら、俺を殺してほしい。……『暴君』と化した未来を、終わらせてほしいだけなんだ」
サキュバスB「……約束、します」
彼女が呟き、それに対して礼を言おうとした時――続く言葉が、告げられる。
サキュバスB「……陛下も、約束してください」
勇者の顔を覗き込むその瞳は、一切の曇りなく、黄金に輝いていた。
魔族である事を疑うような、至上の輝きと、はにかんだ笑顔を湛えて。
サキュバスB「……優しくて、カッコよくて、みんなが大好きな『王様』になるって。約束してください」
勇者「…………」
サキュバスB「……約束、し合いましょうよ」
すっ、と彼女が小指を立てた右手を、勇者の胸の前に突き出す。
いかにも子供じみた約束の所作が、羊皮紙の血判よりも重く、そして厳かで、優しいものに勇者には思えた。
しばしの逡巡の後、勇者は、その小指へ、自らの小指も絡める。
「約束」を交わす文句の代わりとして―――時間にして数十秒ほど、互いの目を見つめ合って。
勇者「……俺が、良い『王様』になれなかったら……頼む」
サキュバスB「その時は針千本、飲んでくださいね?」
勇者「分かった、飲むよ」
サキュバスB「じゃ、……指切ーったっ、と」
勇者「……ところで、眠くないのか?」
サキュバスB「やだなぁ、もう。サキュバスは夜型ですよ?」
勇者「……早寝早起きする淫魔の方がおかしいよな、そりゃ」
サキュバスB「堕女神様は規則正しいですよ」
勇者「『淫魔』じゃないからか?」
サキュバスB「はい。……きちんと夜寝て、朝早く起きてお仕事してますー」
勇者「……なぁ」
サキュバスB「はい?」
勇者「……その、堕女神について、何か知らないか?」
サキュバスB「何か?」
勇者「……何でもいいんだ。普段の態度でも、何でも」
サキュバスB「んーっと…………お料理は上手です」
勇者「知ってる」
サキュバスB「あとは……『愛の女神』だったそうです。前の女王様のお手伝いをしてて、100年間代わりをしてたとか」
勇者「それも知ってる」
サキュバスB「……もうっ! それじゃ、いったい何が知りたいんですかっ!」プンプン
勇者「……『女神』じゃなくなってしまった理由」
サキュバスB「…………理由、ですか?」キョトン
勇者「……『愛の女神』が、『女神』じゃなくなる理由」
サキュバスB「んー……『愛の女神』じゃなくなるって事だから……?」モヤモヤ
勇者「……いや、止めよう」
サキュバスB「えっ?」
勇者「…………彼女から、聞くよ。……そうすれば、きっと……分かる、はずだよな」
サキュバスB「……でも、何でそんなに堕女神様を気にするんですか?」
勇者「気にしてる、というか……ちょっとな」
サキュバスB「…っていうか、陛下」
勇者「何だ、いきなり」
サキュバスB「えっと……わたしと一緒にいるのに、ちがう人の事考えるのって……失礼ですよ?」
勇者「……ごめん」
サキュバスB「……なにも、しないんですか?」
勇者「何を?」
サキュバスB「もう、サキュバスとする事なんて決まってるじゃないですか~」
勇者「……そうだな、寝るか」
サキュバスB「はい、寝……って、えぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
勇者「もう、夜も遅いからな。明日は隣国の女王が来るんだ」
サキュバスB「ちょ……陛下!? ね、寝るって……そっち? ホントに!?」
勇者「………ん」
サキュバスB「だ、ダメですって! 起きて! 起きて下さい、陛下っ!」
勇者「…………」
サキュバスB「はぁ……分かりましたよ、もう」
勇者「…………」
サキュバスB「……今日だけ、ですからね。次は、わたしが襲っちゃうんですからっ」
勇者「…………Zzzzz」
四日目 朝
勇者「んー………」
サキュバスB「朝ですよ、陛下~」
勇者「………」
サキュバスB「もう、起きないんなら脱がせちゃいますよ~?」
勇者「……分かった、起きるよ」
サキュバスB「起きちゃうんですか。こんな立派になってるのに、もったいないですよ……お鎮めします?」
勇者「くぉっ……な、撫でんな!!」
サキュバスB「あはははっ! 朝から元気さんですね!」
勇者「エロい事すんな、朝から!」
サキュバスB「サキュバスがえっちな事して何が悪いんですか?」
勇者「ぐっ」
サキュバスB「そろそろ、誰か起こしに来ると思うので……お着替え、します?」
勇者「……ああ、手伝ってくれ」
勇者「……よく考えると、おかしくないか?」
サキュバスB「どうしたんですか?」
勇者「先代は、『女王』だったんだろ? ……なら、何で男モノの衣服がこんなに揃ってるんだ?」
サキュバスB「んーっと……何で、でしょーね?」
勇者「……まぁ、どうでもいいんだけどさ。……お前、今日の仕事は?」
サキュバスB「午前中は玄関と庭園の掃除です。丁寧にやらないと、今日は隣国の女王……様……が……お見えにっ!?」
勇者「今思い出したのかっ!? っていうか寝る前に言っただろ!!」
サキュバスB「へ、陛下! ごめんなさい、お着替えの途中で! ししし失礼しますっ!!」
勇者「いい、いい! 早く行け、早くっ!!」
サキュバスB「そ、それじゃ……行ってきます!!」
勢いよく扉を開け、飛び出して行った拍子に、彼女は扉の前に居た者とぶつかり、突き飛ばしてしまう。
???「いたっ……!」
サキュバスB「ご、ごめんなさい! い…急いでるのでっ!!」
???「……サキュバスB? どうして……?」
勇者「……堕女神?」
堕女神「……!」
勇者「……その、大丈夫か? 立てる?」
堕女神「…………え、ええ……」
勇者「大丈夫そうだな、ほら」
堕女神「……結構です、一人で立てますので」
勇者「…そっか。良かった」
堕女神「何故、彼女が陛下の寝所に?」
勇者「何故って言われても……」
堕女神「…………」
勇者「堕女神こそ、なんで今日は直接起こしに来たんだ」
堕女神「……お言葉を返すようですが……何故、と申されましても」
勇者「………ちょ、朝食の支度は?」
堕女神「はい、万事整っております。……大食堂へお越し下さい」
勇者「(え……これ、ひょっとしてかなり気まずい?)」
食後
勇者「……女王は、昼ごろに到着するはずだったな」
堕女神「はい、陛下。謁見の間にてお迎えし、その後は、会食。一日滞在いただき、明日の朝にご出発の予定です」
勇者「滞在するのか?」
堕女神「はい」
勇者「……流石に、平服じゃまずいな」
堕女神「はい、礼装の準備をいたします。対面の際は、王冠もお忘れなきよう」
勇者「そうだな」
堕女神「ときに、陛下」
勇者「何だ、今度は」
堕女神「……この国では『1800歳以下』は禁止ですが、隣国では『15歳以下』は禁止です」
勇者「知ってる」
堕女神「……どちらの法に従うとしても、禁止です。たとえ、国王陛下と言えども」
勇者「公平なのは結構だけど変な心配はやめてくれ」
正面玄関
サキュバスA「……ねぇ、B」
サキュバスB「なぁに?Aちゃん」
サキュバスA「あの花瓶、割ったの貴女よね?」
サキュバスB「な、何の事………?」
サキュバスA「陛下は庇ってたみたいだけれど……普通、活けてある花瓶を手に取って見るなんてしないわよ?」
サキュバスB「…………ごめんなさい…」
サキュバスA「落ち着いて行動しなさい。ほら、手が止まってるわよ。掃除掃除」
サキュバスB「う、うん……」
サキュバスA「……B」
サキュバスB「…今度はなに?」
サキュバスA「『陛下のお味』は、いかがだったかしら?」
サキュバスB「え、Aちゃんっ!?」
サキュバスA「隠さないで教えなさいな。……どう? 濃かった? 量は?」
サキュバスB「の、飲んでないもん!/////」
サキュバスA「そーぉ? それじゃ、下のお口でたっぷり味わったの?」
サキュバスB「そ、それもしてない!//////」
サキュバスA「……じゃ、何したのよ」
サキュバスB「うっ………」
サキュバスA「まさか……手を繋いで一緒に寝ました、なんて言わないわよね」
サキュバスB「………………」
サキュバスA「……『据え膳食わぬは淫魔の恥』よ」
サキュバスB「……わたしも、したかった……けど……」
サキュバスA「けど、何?」
サキュバスB「へ、陛下……すぐ寝ちゃって……」
サキュバスA「………それで、お手々つないで朝までグッスリ?」
サキュバスB「違うもん! 『抱っこ』だもんっ!!」
サキュバスA「………うわぁ……」
サキュバスB「『うわぁ』って何さっ!」
サキュバスA「はいはい、Bは抱っこされるの大好きだものねぇ」
サキュバスB「ち、違うってば!」
サキュバスA「そうだったわね。撫でられるのも、後ろから抱っこされてうなじの匂いをくんくんされるのも好きだし、甘えんぼなのよね」
サキュバスB「それ言ったらAちゃんだってこの前……!」
サキュバスA「ふふ……私? 私が何かしたかしら?」
サキュバスB「目隠しされて縛られてお尻叩かれながらえっちするのを思い浮かべて、ひとりでしてたくせにーーっ!!」
サキュバスA「ちょ、ちょっと! 声が大きいわよっ!?」
サキュバスB「わたし、知ってるもん! お部屋に、女の人がひどい事される本たくさん隠してるでしょ! 机の引き出しの下から二番目に――――」
サキュバスA「静かに……! やめなさい、分かったわ、私が悪―――」
ザワザワ
エ? ウソー……サキュバスAサン、ソンナコト……
イガイネー……クールナフリシテ
ワカンナイワヨ? アアイウヒトニ カギッテ……
ヒソヒソ
サキュバスB「やめないよ! それにAちゃん、お尻に――――」
サキュバスA「くっ……! 翼の付け根が弱いくせにっ……」
勇者「……大声で何やってんだよ、お前らは」
サキュバスA・B『 ! ? 』
勇者「掃除サボって暴露大会とは、中々やるなぁ。………知ってたか? 今日は、隣の国の女王様が来るんだが?」
サキュバスA「陛下……どの辺りから……?」
サキュバスB「……うぅぅ」
勇者「Bはともかく、……お前は仕事中は真面目だと思ってたのに」
サキュバスA「(き、聞かれた……聞かれてしまいましたわ……!)」
サキュバスB「……へ、陛下……違いますからね? わたし、全然……」
勇者「……いいから、仕事しろ仕事。時間押してる」
サキュバスA「……さ、さぁ……庭の手入れに入りましょうか」
サキュバスB「そ、そうだね……私、鋏持ってくるね!」
勇者「……ったく」
???「………陛下?」
勇者「何だ。お前もさっさと仕事――――」
???「え?」
勇者「え?」
振り向けば、そこにいたのは―――銀髪を肩で揃えている、褐色の肌のあどけない少女だった。
小さめの角がこめかみの辺りから髪を分けながら覗かせ、背からは小悪魔のような可愛らしい翼が生えている、紛れもない「淫魔」の姿。
彼女は、ときおり目を切りながら、頭二つ分ほど離れた、勇者の顔を見上げていた。
勇者「女王……?」
ぽつりと、自然に勇者の唇が動いた。
「更に」幼くなってはいるが―――彼女の姿は、間違えようがなかった。
隣女王「……あ、の……陛下、ですよね?」
勇者「あ、あぁ……いかにも、俺が……」
言葉を交わそうとすれば、慌ただしく、玄関ホールの階段を下りてくる足音が割って入った。
堕女神「…女王陛下! お出迎えが至らず、誠に申し訳ありませんでした!」
隣女王「い、いえ……すみません、私こそ……他国への訪問は初めてで、勝手に入ってしまいました。お許しください」
堕女神の謝罪に対し、彼女は―――隣国の淫魔を統率する「女王」が、深々と頭を下げる。
本来は歓迎と労いの言葉を交わし、城内へと案内する手はずだった。
それを潰してしまったとはいえ……女王が、自ら頭を垂れてしまった。
堕女神「…いえ、私の不手際です。お許しを頂くのは私の方です。どうか……」
負けじと片膝を折り、頭を下げる彼女に、更に女王が何かを言おうとした時。
勇者が、諌めるように口を開く。
勇者「……一国の元首が頭を簡単に下げるもんじゃない。彼女を困らせないで欲しいな」
隣女王「……も、申し訳ありません。……それでは、この件は不問にいたしましょう」
勇者「そうしてくれ。……というか、こちらも謁見の間で初めて顔を合わせるつもりだったんだけど」
堕女神「……それでは、予定を少し早めて参ります。陛下、よろしいでしょうか?」
勇者「ああ。それじゃ、正装するから、後ほど謁見の間で」
隣女王「……重ね重ね、誠に申し訳ありません」
堕女神「女王陛下、お部屋をご用意させていただきましたので……そちらで、準備が整うまで旅の疲れを癒してくださいませ」
隣女王「はい、ありがとうございます。……それでは、陛下」
勇者「また後で。……どうか、くつろいでいてくれ」
隣女王「……では、後ほど」
堕女神「お部屋にご案内させていただきます。こちらへ」
数十分後
謁見の間
勇者「今さらカッコつけて王冠かぶっても、遅くないか?」
堕女神「…………まぁ、それでも儀礼です。さぁ、女王陛下が参ります」
勇者「あ、あぁ……」
表情を引き締めると同時に大扉が開き、同じように礼装に身を包んだ小さな女王が姿を見せた。
傍らに従者を引き連れるその物腰は、幼さの割りに、板についたものだ。
隣女王「………陛下、この度は……」
勇者「いや、そういうのはいい」
隣女王「え……?」
勇者「顔を上げてくれ。……堅いのは苦手でね、楽にしてくれ。それより、遠路はるばる、来てくれてありがとう」
隣女王「いえ、陛下の御即位をお祝い申し上げるためですので……」
勇者「無事に到着してくれて何より。……ところで、女王陛下」
隣女王「はい」
勇者「……歳は?」
隣女王「12歳です」
勇者「……その、何だ」
隣女王「?」
勇者「何かあれば、いつでも言ってくれ。可能な限り、貴国の力になりたいと思う」
隣女王「…え……?」
勇者「必ず助ける。……何もない事を祈るけれど」
隣女王「陛下……。勿体なきお言葉、誠にありがとうございます」
勇者「……改めて自己紹介するよ。この度、俺が『淫魔の国』の国王になった。以後、お見知り置きを」
隣女王「私は、半年ほど前より隣国を治めております。隣女王と申します」
勇者「半年?」
隣女王「はい。……半年と少し前、母が……先の女王が、崩御いたしまして」
勇者「…………そうか」
隣女王「拙く、至らない所ばかりと存じますが……どうぞよろしくお願いいたします」
勇者「こちらこそ。よろしく頼むよ」
堕女神「……それでは、ご昼食の準備を致します。大食堂へお越し下さいませ」
勇者「もうそんな時間か。……それでは行こうか、隣女王」
隣女王「はい」
大食堂
堕女神「……お口に合いますでしょうか?」
隣女王「はい。この白身魚のお料理など絶品です」
勇者「……そちらは、普段どういう食事をしてるんだ? 女王もだが、何より民衆は?」
隣女王「肉も魚も獲れますし、麦も育ちますけれど……量が少なくて。国民も、『外食』に行ければ楽なのですが……」
勇者「…『外食』? なんか話の流れ、おかしくないか?」
隣女王「あ、い……いえ……えぇと……」
堕女神「…………陛下、お耳を」
勇者「?」
堕女神「(人間界に出向いて……精を……)」
勇者「把握」
隣女王「…………////」
隣女王「コホン……ですが、人間界に出入りできる力を持つ国民は、きわめて少なくて……」
勇者「結局、『食料』は必要なんだな」
隣女王「私も含めて、国民はみな少食なのが救いです。……飢饉さえ来なければ、やってはいけるのですが」
勇者「…………フラグ立てやがって」
隣女王「?」
勇者「いや、何でも。……そうだ、酒は大丈夫なのかな?」
堕女神「陛下。恐れながら、まだ日は高く―――」
勇者「堅い事言うなよ。せっかく、傍に堕女神が居るおかげでいつもより美味く感じるんだから」
堕女神「えっ…!?」
隣女王「あ、あの……私は、お酒は………」
勇者「飲めないのか?」
隣女王「未成年ですので、お気持ちだけ頂戴いたします」
勇者「……そういえば、そうだったな。…………どうした、堕女神」
堕女神「……つ、次の皿をお持ち致します。少々お待ちを」
隣女王「……少し、安心しました」
勇者「安心? 何に?」
隣女王「……『人間』と話すのも、この国へ訪れるのも、初めてだったので。実を言うと、緊張しておりました」
勇者「……別に、取って食いやしないぞ」
隣女王「陛下には……気品とも違う、何かが感じられます。穏やかで、どこか力強くて……澄んだ雰囲気まであって」
勇者「褒めるな」
隣女王「偽らざる本心です。……初めてお会いする『人間』が、陛下でよかった」
勇者「…………」
隣女王「……きっと、人間界は素晴らしい所なのでしょうね。陛下のような方が―――」
勇者「…………だったら、良かったんだけどな」
隣女王「え……?」
勇者「人間の世界に、夢を見ない方がいい。……自分で言うのも妙だけど、俺は……人間でも、特殊な存在なんだ」
隣女王「特殊…ですか?」
勇者「ああ。世界に一人だけの存在だった。……自惚れと受け取ってくれてもいいよ」
隣女王「……詳しく……いえ。お訊きするのは控えます、ごめんなさい」
勇者「…………」
隣女王「……それより、別の話をいたしましょう」
勇者「女王がそう言うのなら……」
隣女王「私の従者達は今どちらに?」
勇者「もう一つの食堂にいるはずだよ。今頃、同じく食事中の筈だ」
隣女王「そうですか。ありがとうございます」
勇者「ところで、何人連れてきたのかな」
隣女王「側近は信頼のおける者を、三人ほど。護衛は二十人程度です」
勇者「三人……」
堕女神「お話中、失礼いたします、メインをお持ちしました。………陛下? 私の顔に何か?」
勇者「……今回は何もないといいな」
堕女神「は……?」
食後
勇者「さて、どうもてなしたものか……」
隣女王「……あの…よろしいでしょうか」
勇者「何かな」
隣女王「庭を歩いてみたいのですが……ご迷惑でしょうか?」
勇者「いいよ。行こうか」
隣女王「ありがとうございます。……でも」
勇者「でも?」
隣女王「……あのサキュバスさん達……間に合ったのでしょうか」
勇者「……大丈夫。もう手入れは終わってる」
隣女王「まぁ……。流石ですね」
勇者「…………それじゃ、行こう」
隣女王「………わぁ…!」
城内を歩き、庭園に繋がる扉をくぐった彼女が、思わず声を上げる。
女王という位は得ても、短命ではあってもそれでもヒトの二倍の寿命を持つ彼女が、子供のように目を輝かせて。
きっちりと手入れされた薔薇のアーチ、キラキラと硝子片のように水を噴き上げる大理石の噴水、
整えられた幾種類もの庭木と、雑草一本も挟ませない、年季の入った石畳の通路。
そして――勇者自身も今初めて見た、ステンドグラスのように水色や翡翠色に透き通る羽を持つ、蝶たちの舞い姿。
勇者「(……本当に手入れ、済ませてやがった)」
隣女王「きれいです。まるで……」
勇者「…『お城みたい』?」
隣女王「あっ……えっと……!」
勇者「……しばらく、見て回ると良いよ。俺は、そこのテラスにいるから」
隣女王「もし、よろしければ……共に、歩いていただけませんか?」
踵を返しかけ、投げかけられた声に再び振り向く。
勇者「え? ……ああ、勿論」
返事をすれば彼女の微笑みは更に深まり、晴れ渡るような、「笑顔」へと変わった。
石畳を、二つの足音が並んで歩む。
ひとつは、硬いブーツの底が石畳を打つ、硬質でありながら、耳に心地よいリズム。
ひとつは、皮革を縫って作った靴の、沈み込むように柔らかな、またも心地よく衣擦れのような音を立てる小さな足音。
真逆の足音が、時折ペースを崩しながら、美しく整えられた庭園に響く。
隣女王「……夢みたいです。流石は、陛下のお城ですね」
勇者「……それは、どうも」
短く返し、硬い足音の主は、はしゃぎ気味の柔らかい足音の主を追う。
彼女の視線は、次々に移り変わる。
庭木にとまる、ルビーのように輝く真紅の甲虫、翡翠色を基調としたグラデーションを羽に宿した蝶。
あまたの美しい虫や、絶妙に計算された剪定を施され、枝葉を誘導された植木、色とりどりの花。
そして、彼女が次に目に留めたのは―――。
隣女王「……庭園迷路、ですか? 噂には聞いておりましたが……見るのは初めてです」
勇者「見ての通り」
隣女王「入っても?」
勇者「迷わないのなら」
隣女王「……迷わぬ迷路を、『迷路』と呼べますか?」
勇者「…いや、全くだ」
一階廊下
サキュバスB「……ふぅ、どうにかなったねー」
サキュバスA「……はぁ…」
サキュバスB「………どうしたの?」
サキュバスA「『どうしたの』じゃないわ。全く……貴女ってコは……」
サキュバスB「陛下?」
サキュバスA「…そうよ。あんな風にバラされるなんて……」
サキュバスB「やっぱり、陛下だ」
サキュバスA「だから、そうだと言っているでしょう。……って、どこを見ているの?」
勇者「……お疲れ様」
隣女王「お疲れ様です」
サキュバスA「!?」
サキュバスB「陛下。こっちのちっちゃい子は?」
勇者「どの口で言ってる、どの口で」
サキュバスA「っ……女王陛下、非礼をお許し下さい」
サキュバスB「えっ!?」
隣女王「……お初にお目にかかります。隣女王と申します。お見知りおきを」
サキュバスB「……ご、ごめんなさい!」
隣女王「いえ、良いのです。顔を上げてください、お二方」
サキュバスA「………」
隣女王「我が儘で庭園を見させていただきましたが、素晴らしかったです」
サキュバスB「……えへへ」
隣女王「……それで、その……お願いがありまして」
勇者「ん」
隣女王「……お庭でこの虫を見つけまして。……我が国に、連れ帰ってよろしいでしょうか?」
サキュバスA「…カメムシの一種ですわね。赤く輝く羽が趣深いでしょう」
勇者「えっ…カメムシ?」
サキュバスA「御心配なさらずとも、悪臭を発する事はありません」
隣女王「……綺麗なので……つい……」
勇者「……この虫って、ひょっとして貴重なのか?」
サキュバスA「いえ、我が国ではよく見る部類ですが……」
勇者「毒か何かあるのか?」
サキュバスB「毒なんて無いですよ。きれいだし、飼いやすいし、それに……」
勇者「それに?」
隣女王「他に何か?」
サキュバスA「驚かせると霧状にフェロモンを分泌するのですが、淫魔に対して強烈な催淫作用が。特に幼い者には効果覿めn」
勇者「捨てろォォォォォォォ!!!!」
その頃、厨房では堕女神と侍女達が後片付けと並行して、晩餐の下拵えをしていた。
常より多い洗い物は用人達に任せて、堕女神は晩餐の準備を。
洗われる皿が触れ合う音から少し離れて、メインディッシュ用の肉に下拵えを施す。
牛の肉……それも、硬く締まった肉質のテールを煮込む予定のため、丹念な仕込みは欠かせない。
彼女は答えを欠いた自問を繰り返す。
会食の最中に、「彼」からかけられた言葉が、胸中にこだましていた。
あの一瞬の胸の高鳴りは、果たして何だったのか。
あの言葉の真意は、果たして何なのか、と。
あの一節を、噛み締めるように、無意識に何度も再生する。
その度にトクトクと心臓の鼓動が際立ち、毛穴が浮かされて開くような感覚まである。
頬に暖かい血が集まり、ほのかな赤みさえも見てとれるようになる。
「人間」に優しい言葉をかけられたのは、何千、何万年の昔だったろうか。
いやそもそも、最後に「人間」を見たのは、果たしていつだったのか。
彼女が最後に振り返って見た人間達は、果たして――――知ある「人間」に見えたのか。
もはや過去と言うにも遠すぎる、果てしない彼方の、埃にまみれた記憶と化していた。
人間界に…もう、彼女の痕跡は無い。
神殿はとうの昔に無くなり、神像は粉々に砕かれてしまった。
堕女神「………」
メイド「どうかなさいました?」
堕女神「……いえ、別に。それより、晩は大食堂に隣国の皆さんをお招きしましょうか」
メイド「女王陛下と、従者の方々をご一緒に?」
堕女神「はい。……両陛下が良いと言って下されば、ですが」
メイド「かしこまりました。デザートはどうしましょうか」
堕女神「種類を多めに作りましょう。材料はありますね?」
メイド「届いております。今朝摘んだばかりの果物が豊富に」
堕女神「心配はありませんね。……それでは、少しの間失礼いたします。時間になったら、メインの調理を。教えた通りの分量で煮込んで下さい」
メイド「はい。お任せ下さい」
厨房から出てすぐに、彼女は一人のサキュバスに出会った。
サキュバスA「晩餐の準備は済んでしまいましたの? 手が空いたので来ましたのに」
堕女神「仕込みは済みましたので、後は任せる事にしました。デザートはこれから取りかかります」
サキュバスA「……それでは、あとは私がお作りしてよろしいかしら?」
堕女神「…構いませんが、どうなさったのですか? それと、両陛下は……」
サキュバスA「『あちら』の陛下は、二階のサロンにてBと遊んでおりますわ。どうも、気が合う所があったようですわね」
堕女神「こちらの陛下は?」
サキュバスA「寝室にて、お召し替えを。どうにも、礼装は堅くて息苦しいようでしたわ」
堕女神「…ありがとうございます。それでは、後の事は全てお任せします」
一礼して去った彼女の背を、残された淫魔は見続ける。
大きく開いた、雪原のようにまっさらな背が、角を曲がって――見えなくなるまで。
サキュバスA「………少し、話しやすくなったかしら…?」
小首を傾げ、考え込むように指先を遊ばせながら、彼女は、厨房に入っていった。
堕女神は、隣女王とサキュバスBが遊戯に興じているサロンを迂回し、邪魔をしないようにして王の寝室へと向かう。
その足取りは一定ではなく、早まり、遅くなり、まるで揺れ動くようにも見えた。
早く着こう、という焦りに似た感覚。
着いたらどうしよう、という心の底から湧く迷い。
二つの感情を秘めながらも、彼女は、気付けば寝室の前に辿り着いた。
堕女神「……陛下、御在室でしょうか?」
平素より更に控えた声が、扉へと吸い込まれる。
答えを待つ間、彼女の視線はただ、扉を何度も眺めて廻るだけ。
三、四日前にそうした時とは違い、目の行き場が定まらない。
伏せる事も、閉じる事もできないまま、何度も、何度も往復する。
「落胆」と「安心」の両方が心に覗かせ、どちらともとれるため息が漏れた。
扉を叩いてから二分ほど経つ頃、ようやく彼女は踵を返そうとする。
その瞬間に扉が開き、平服姿の主が顔を出した。
勇者「すまない、手間取って……どうしたんだ?」
堕女神「…陛下?」
勇者「ベルトが見つからなくて。それで、何の用だ?」
堕女神「その……夕食の事ですが」
勇者「何だ」
堕女神「大食堂に、隣国の皆さんをお招きしようかと思うのですが。念の為に両陛下の許可を」
勇者「ああ、勿論いいよ。隣女王も快く応じてくれた」
堕女神「えっ……?」
勇者「俺が伝えに行こうかと思ってたんだが……同じことを考えてたんだな」
堕女神「……それでは、席を整えますので、後ほど」
勇者「……あ、ちょっと」
堕女神「何でしょうか?」
勇者「サキュバスBと隣女王の様子を見に行こうと思うんだが、一緒に行かないか」
堕女神「私が……ですか?」
勇者「気が進まないのか?」
堕女神「……いえ、ご命令とあらば」
勇者「Bの奴、隣女王と遊ぶって言ってたけど……何してるんだろうな」
堕女神「…………」
勇者「女王というか、『隣国の淫魔』と二人きりにする時点で割と危な………どうしたんだ?」
堕女神「え?」
勇者「行かないのか?」
堕女神「陛下の御意志とあらば、同行いたします」
勇者「うん。……じゃ、行こう」
堕女神「……はい」
連れ添って、二人がサロンへと向かう。
共に歩むその間隔は、どこか近づいて見えた。
勇者は、堕女神に気を使うようにしてゆったりと歩んでいく。
踵の高い靴を履いた彼女へ合わせるように、ゆっくりと絨毯を踏みしめる。
さく、さくと小気味よく音を立てて沈む絨毯は、さながら浅く積もった雪の庭のように、静謐を湛えていた。
勇者「……堕女神」
先を行く勇者が、数歩後ろへ侍る彼女へ呼びかける。
堕女神「はい」
勇者「近隣で、亜人種の活動はどうなっているんだ?」
堕女神「……南方のオークの族長が、またも代替わりしたようです。これはもう、報告する事さえ億劫な程に頻繁です」
勇者「…何て落ち着きの無い奴らだか」
堕女神「それと、我が国と隣国の境で、中型のトロールが数頭目撃されております。賞金をかけましょうか?」
勇者「……賞金?」
堕女神「『淫魔』にとっては指先一つで片付くものです。まぁ、彼らとて我が国に手出しするほど愚かでは無いでしょうが」
勇者「……整えておいてくれ。隣国との境に、というのが気になる」
堕女神「はい。それでは直ちに」
二階 サロン
サキュバスB「……罠カード発動! 『壁尻』! これで女王さまの『ダークエルフの暗殺者』を捕縛します!」
隣女王「……やりますね」
サキュバスB「更に『ローパーの苗床職人』を召喚してターン終了です。次のわたしのターンで、この二つを生贄に『触手王キング・ローパー』を召喚しますよ!」
隣女王「それでは……場の『オークの偵察兵』を取り除いて、『巨木のミノタウロス』を召喚。能力を使用し、『壁尻』と捕われたモンスターを破壊します」
サキュバスB「えっ……!?」
隣女王「更に、魔法カード『買われし歳月』をこちらの『白百合のエルフ』に装備。『邪淫なる妖精女王』へと進化させます!」
サキュバスB「えぇぇぇぇぇ!?」
隣女王「そして、『ローパーの苗床職人』に対して、『邪淫なる妖精女王』の攻撃が通ります。……私の勝ちですね」
サキュバスB「…ま、負けました……!」
勇者「……いったい何やってんだ! 大声で!!」
サキュバスB「わっ……!!」
勇者「…それ、何?」
堕女神「我が国で流行しているカードゲームの一種ですね。奥深い戦略性と、実に3万種以上のカードが存在するのが特徴です」
サキュバスB「だ、だって………女王さまがぁ……」
隣女王「へ、陛下! やってみたいと言ったのは私ですので!」
勇者「何で?」
サキュバスB「この国で、どんな遊びが流行ってるかってお話になって……」
勇者「……で、これをやってたと」
隣女王「はい」
勇者「…………例のチェスよりはマシか」
堕女神「…………そうですね」
勇者「まぁ、それはともかく、随分と打ち解けてるな」
隣女王「はい。歳が近いからでしょうか……話しやすくて」
勇者「いや、それは無いと思う」
隣女王「え?」
サキュバスB「ですねー」
隣女王「えっ? ……失礼ですが、その……お幾つなのですか?」
サキュバスB「3415歳です。わたしの方がちょっとだけ『お姉さん』ですね」
勇者「ケタ二つ差が『ちょっとだけお姉さん』って……あのさぁ……」
サキュバスB「でも、Aちゃんと比べたら全然年近いですよ?」
勇者「あぁ、成程。確かに近いな」
隣女王「…………」
勇者「……まぁ、楽しんでくれているのなら良いさ。邪魔をした」
サキュバスB「あっ……折角ですから、陛下もいかがですか?」
勇者「いや、遠慮しておくよ」
サキュバスB「……Aちゃんとは、遊んでたのに」
勇者「また今度、改めてな」
サキュバスB「えー」
勇者「それより、粗相の無いようにな。隣女王も何かあったら言ってくれ」
隣女王「はい。……それでは、もう一戦」
堕女神「夕食の準備が整ったらお呼びに参ります」
勇者「じゃ、また後で」
サキュバスB「はーい」
二人の淫魔が遊びに興じる場を後に、勇者と、堕女神は去る。
山札を切る音が広めに取られたサロンに小気味よく響き渡り、少しずつ、それは遠くなっていく。
勇者「……そういえば、サキュバスAはどうした?」
堕女神「夕食の支度を任せております。各種仕上げと、デザートを一から」
勇者「…できるのか?」
堕女神「菓子作りでは、私も一歩譲らねばならないかもしれません」
勇者「意外な一面だな」
堕女神「特に、果物の扱いが得意なようです」
勇者「ちなみに……サキュバスBはどう?」
堕女神「……ここだけの話になりますが」
勇者「うん」
堕女神「彼女には、厨房では食器洗いしかさせないようにしております」
勇者「把握した」
堕女神「名誉の為に言いますが、彼女は味覚は至って正常です。……ただ、作る側には向いていないというだけで」
勇者「……世の旦那も、あれ相手じゃ正直に言いづらいだろうなぁ」
堕女神「…………」
勇者「それと、これは隣女王からの要望なんだが」
堕女神「何でしょうか」
勇者「……今日の夕食。堕女神にも、席をともにして欲しいそうだ」
堕女神「私が?」
あまりに意外な申し出に、声の調子が若干外れて響く。
隣国の女王が、今や侍従に過ぎない自分に、ともに食卓に着くようにと申し出たのだから。
勇者「話したい事、聞きたい事があるらしい。女王不在の間、ずっとこの国の留守を守った、お前に」
堕女神「……私は、大したことはしておりません」
勇者「隣女王を助けると思ってさ。頼む」
堕女神「…仰せの通りに」
勇者「……訊こうと思ってた事があるんだ」
堕女神「何でしょうか」
勇者「……先代の女王は、どういう人……いや、淫魔だったんだ?」
その問いかけに、彼女の身体は僅かに波打つ。
唇には一瞬だけ力が籠もり、その喉は震えた。
思いもかけない質問に細い瞳がわずかに膨らみ、明確な反応を示す。
堕女神「……優しく、聡明な方でした。……この、私にさえも」
勇者「…『さえも?』」
堕女神「『淫魔』ではない私にさえ、微笑みを向けて下さりました。」
勇者「…………堕女神」
堕女神「私は、先代の女王陛下の愛したこの国を、命ある限り守りたいのです」
勇者「……そう、か」
堕女神「……もはや、私の望みはそれだけです。それだけしか……私は、生の意味を持ちません」
勇者「………」
夕食の席は、賑わっていた。
普段は一人しかつかない食卓には、隣国の女王とその側近、そして護衛兵までが着いた。
加えて堕女神も席に着き、優艶な仕草で食事を進める。
隣女王「…美味しいです。特に、このお肉……お口の中で溶けるようで……」
堕女神「お気に召していただけて、何よりです」
勇者「相変わらずだな」
ナイフが不要なほどにやわらかく煮込まれた、牛肉を使った主菜に皆が舌鼓を打つ。
見慣れない白身魚のスープも、露が滴るほど新鮮な野菜のサラダも、
馥郁とした甘い麦の香りをまとったパンも、その場にいる誰もが、笑顔とともに食していた。
隣国からの客人達が、顔を綻ばせて食する姿を見て、堕女神はどこか照れ臭そうな素振りを見せる。
無邪気な賞賛の声が上がる度に赤みが差すようだ。
勇者「……実はかなり照れやすいだろ?」
堕女神「…いえ、そのような事はありません」
勇者「いや、照れてる」
堕女神「で、ですから……! 照れてなど!!」
張り上げられた声の主に、視線が集まる。
口の周りをソースで汚し、パンを頬張ったまま、あるいは肉片を口に運ぶ動きの途中で、
幼い淫魔達、更には給仕をするメイドまでもが堕女神を振り返った。
堕女神「……も、申し訳ありません。お騒がせいたしました……」
ばつが悪そうに、それでいて更に染まった顔色を誤魔化すように、ワインに口をつける。
隣女王「………ふふっ」
勇者「……? どうしたんだ」
隣女王「あっ……いえ、すみません。ただ……お会いした時とは、印象が違うので」
勇者「イメージ?」
隣女王「玄関では落ち着いた方だな、と思ったのですが……とても、感情が豊かな方なのですね」
堕女神「……どうか、からかわないで下さいませ」
勇者「……まぁ、この話はもうやめようか。二人がかりで苛めてるようになる」
隣女王「いえ、私は本当に、本心から…」
勇者「ともかく、話題を変えよう」
晩餐会のその後は、つつがなく進んだ。
隣女王は堕女神に「女王」としての教えを請うように、幾度も質問を重ねた。
熱心なその瞳に炎を揺らがせながら、隣国を治めていくために必要な、あらゆる事を。
政治上の方策をはじめ、内政、外交、飢饉への対処、その全てを学び取ろうとするように。
勇者では、それらに答える事は確かにできなかった。
王になり日が浅いというのもあるし、知識と経験の面で代行とはいえ、淫魔の国を治めた堕女神には勝る筈も無い。
堅苦しい話を続けているうちに、食卓の全員が皿を空けて、デザートが運ばれてくる。
台車に乗って運ばれてくる、塔のように積み上げられた色とりどりのデザートが、場の全ての目を釘付けにした。
ひとつのグラスに数種類盛られた柑橘類のシャーベット、生クリームをふんだんに用いた苺を載せたケーキ、
ビスケットにバニラアイスを載せてブルーベリーをトッピングした、一口サイズの菓子。
その他、隣国の淫魔はもちろんの事、勇者でさえも見た事の無い菓子が、まるできらめく宝石のように、シャンデリアの灯りの下に現れた。
隣女王「……凄いです。こんなに……」
隣国側近A「…あの……本当に、食べてもよろしいのですか?」
勇者「……え? あ、ああ……勿論。好きなのを……遠慮なく」
隣国衛兵A「…じゃ、私はこれを」
隣国衛兵B「私はこのケーキと、これと、これと……」
隣女王「あっ…! お、落ち着いて…!」
隣国の淫魔達があどけなく顔を輝かせて様々な菓子を頬張るのを見て、彼女はどこか奇妙な表情を浮かべる。
微笑むように緩めるでもなく、その振る舞いに苛立ち歪めるでもなく、どこか楽しげでありながら、視線は定まらない。
勇者「どうした」
堕女神「いえ……取るに足らない事、ですので」
勇者「気になるだろ」
堕女神「……初めて、なのです」
勇者「?」
堕女神「この大食堂に、笑い声が響き渡るのは……初めてで」
勇者「…………そうなのか?」
堕女神「私の知る限りは」
勇者「…悪くないだろ?」
堕女神「……分かりません。ですが………」
勇者「?」
堕女神「……いえ、何でもありません」
――――――――
いつになく賑やかな晩餐を終えて、大食堂から少女の姿の淫魔達が姿を消す。
ある者は用意された部屋に戻って満腹に任せて眠り、
ある者は仲間と城内を歩き回り、食後の一時を思い思いに過ごしていた。
ただ二人だけが、閑散とした大食堂に残っている。
勇者「……入浴の準備は?」
堕女神「はい、整えましたが……よろしいのですか?」
勇者「何?」
堕女神「…隣女王陛下の側近はともかくとして……衛兵までも、陛下の浴場に通して」
勇者「構わないさ。だいたい一人じゃ持て余すよ、あの広さは」
堕女神「陛下がそう仰るのなら……」
勇者「そのついでに、一つ」
堕女神「はい」
勇者「……俺以外の……淫魔達にも、浴場を使わせてやりたいと思うのだけど」
堕女神「……陛下以外の者にも開放する、と?」
勇者「駄目かな」
堕女神「差し支えなければ……理由をお訊きしても?」
勇者「理由というほどはないよ」
堕女神「……陛下がそうお決めなのでしたら。分かりました、明日より、城内の淫魔達にも開放いたしましょう」
勇者「ありがとう。……それと、今日は風呂には入らない事にする」
堕女神「どうなされました」
勇者「……何となく、不穏な予……あ、いや。本当に何でもないから」
堕女神「……陛下? 昼食の時から、何か御様子が……」
勇者「いや、本当に何でもない。深い意味は無い」
堕女神「は、はぁ……」
勇者「……それと、できるだけ浴場に近づかないようにした方がいい。少なくとも今日は」
堕女神「………? 分かりました」
サキュバスB「ふぃー。大変だったねぇ、こんなにたくさん」
厨房では、サキュバスA、Bを含め、メイド達が総出で片づけを行っていた。
使い終わったシルバーも、皿も、グラスも、目を回すほどに膨大な量だ。
サキュバスBは洗い終えた食器から水分を拭き取り、作業台の上に片端から積み上げていく。
サキュバスAはその中から銀食器を取り、磨き、曇りを残さぬよう丹念に仕上げる。
サキュバスB「……わたしも食べたかったなぁ。Aちゃんのお菓子……」
サキュバスA「心配しなくても、ちゃんと取ってあるわよ。あとで一緒に食べましょうね」
サキュバスB「えっ……本当に!?」
サキュバスA「……それより、気になったのだけれど」
サキュバスB「え、……何?」
サキュバスA「…貴女、城内での私への態度が急に変わったわね。どうして?」
磨き終えたナイフを置き、やおら真剣な目を、Bへと向ける。
その目には有無を言わさぬ迫力があるものの、威圧するかのようではない。
単純な――疑問に由来している。
サキュバスA「別に責めているんじゃないのよ。私と貴女の仲だし、不愉快でも無いもの」
サキュバスB「……Aちゃん」
サキュバスA「…そう。貴女が陛下に抱かれ―――じゃなかったわね。抱っこされて撫でられて一緒に眠ってから」
サキュバスB「なんで言い換えたの!?」
サキュバスA「物事は正確に言い回さないと」
サキュバスB「……間違ってないけど……間違ってないんだけど……うーん」
サキュバスA「それで、どうなの?」
サキュバスB「うーん……何だろ? 何か、変わったのかなぁ。っていうかAちゃんだって……」
サキュバスA「…私かしら?」
サキュバスB「陛下が最初に来た日、『はたして人間に務まるのかしら?』とか言ってたよね?」
サキュバスA「…あ」
サキュバスB「それが今だと、何だか陛下に絡みたがってない? 」
拭き上げたグラスを作業台に載せ、はたはたとナプキンを振って見せる。
黄金の瞳に、どこか意地の悪い光を宿らせて。
サキュバスB「……さぼって陛下と遊んでた時から? それとも、お身体洗った時?」
サキュバスA「………さぁ、……どうかしら」
サキュバスB「ごまかしてるー」
サキュバスA「……ごまかしてなんか。ただ……何となく、思ったのよ」
サキュバスB「何を?」
サキュバスA「……『ああ、この人になら……任せられるな』と」
サキュバスB「んー……わかる、かも……?」
サキュバスA「……手が止まってしまったわね。あとでお茶の時に続けましょう」
サキュバスB「はーい」
食堂に続き大浴場でも、普段とは違った賑わいがあった。
湯煙の中に、さながら妖精郷のように、少女達が過ごしている。
おしなべて背は小さく、捩れた小さな角と申し訳程度に生えた翼を持つ、一糸まとわぬ「淫魔」達。
もっとも外見年齢の高いものでも、せいぜい十四歳程度。
褐色の肌に、膨らみ始めた乳房。
ゆるやかどころか、「なだらか」と言って差し支えの無い、小さくまとまったヒップ。
腰が細く括れはじめて、いよいよ咲き誇る予兆を感じとらせながら、
決して花開く事の無い『永遠』を閉じ込められた、凍てついた「蕾」。
それが、「隣国の淫魔」の身体。
「大人」の姿には、なれない。
背を伸ばす事も、男性の視線を集めるように肉体を実らせる事も、できない。
少女そのものの姿は、たとえ老衰で死のうとも変わらない。
その肉体は、決して「女性」になる事はない。
彼女らは、その一生を――――「少女」のままで、終える。
女王と、側近の一人が、浴槽の縁に腰かけながら、話している。
女王の体は、勇者のみが知る「三年後」よりは、やや小さい。
結い上げた銀髪はやや短く、まとめ切れない髪がぱらぱらと顔にかかる。
小さな胸とほっそりとした体のラインはそのままに、薄い桃色の乳首が肌の色によって強調されていた。
隣女王「……明日、帰らなければならないのですね」
側近A「…は……」
隣女王「…いえ、良いのです。私は、女王。悠々としてはいられません」
側近A「……女王陛下」
隣女王「何でしょうか?」
側近A「……私達を、頼ってくださいね」
隣女王「はい、それは勿論」
側近A「お母上の……先代からお仕えしている私達が、女王陛下をお支えいたします」
隣女王「…ありがとう、心強いです」
側近A「…どうか、気負わずに。私達がついております」
彼女が即位したのは、半年前。
魔族の身とはいえ、若干12歳で――彼女は、「母」を失った。
父は同国の淫魔ではなく、先代の女王が人間界へ降り立ち交わった、年若い兵士だったという。
もとより体が強くはなかった女王は、人間界へ下り、慣れぬ人間界で人と交わり、
子を宿して戻ってきた時にはすでに呼吸もままならなかった。
それでも、宿した子の――娘のために、彼女は回復した。
慣れない人間界の空気を吸い、魔力を振り絞って魔界へと帰りつき、そして、一人の子を産んだ。
娘に物心がつく頃には、すでに彼女は病床から離れる事ができない身体となってしまっていた。
あと数年もすれば自らの娘に外見の年齢では追い越されてしまうだろう、
幼気な少女の姿のままで……彼女は日ごとに、弱っていく。
心臓が鼓動を刻む回数も安定しない。
呼吸が弱く、少なくなっていく。
弱っていく、足腰の筋肉。
銀髪からは段々と輝きが失われ、「白髪」へと変わっていった。
しかし、彼女は最期の瞬間まで「女王」であり、「母」だった。
床についたまま、女王としての職務を果たした。
床についたまま、自らの娘に口づけを与え、頭を撫で、たわいもない話に頬をゆるめた。
その時だけは――――彼女自身も彼女の側近も侍医も、病を忘れ、その先に近づく死の影を忘れる事ができた。
――――――――
隣女王「……おかあさま」
隣女王母「…はい。何かしら?」
隣女王「おかあさまのおびょうき、なおる?」
隣女王母「………そうね。治らないとね」
隣女王「……わたしね。おかあさまといっしょに、おさんぽしたい」
隣女王母「…ごめんね。絶対、絶対……良くなるから。そうしたら……っ」
喉に痛みが走り、咳き込む。
あわてて抑えた手に少量の血が付着し、彼女は、それを娘に見せないようにシーツの中へ手を差し入れ、拭った。
隣女王母「……大きくなったわね。ほら、こちらへ……来て」
隣女王「うん…」
おずおずと進み出た娘の背に、彼女の手が頼りなく回される。
娘が感じたのは、風に吹かれた枯れ葉が背に当たるような―――弱々しい感触。
それが、「母」の試みた、精一杯の………娘へ与える、「抱擁」だった。
隣女王「……おかあさま、くるしいの?」
隣女王母「………もうすぐ、私に追いついてしまいそうね」
部屋の中には、側近も侍医も、世話役もいない。
彼女らは、気付いていたからだ。
もはや、女王には回復の見込みがない事を。
彼女が、娘とともに歩く事は……できない事を。
回復の呪文は、もはや効き目はない。
できたとしても死期を少し伸ばすだけであり、死神の足にしがみつく程度にしかならなかった。
窓から差す光は、少女の姿の「親子」を暖かく包んでいた。
彼女の手が「抱擁」であると気付いた娘は、ベッドへよじ登り、「母」の胸に顔を埋める。
娘が頬を通して感じるのは、かつて一年近くもの間、ずっと聴いていた、命の音。
痩せさらばえた主に、それでも命を繋ぎ止めるために休まず働く、命の機関。
その熱さと、音に思いを馳せているうちに、娘は、寝てしまった。
それから三年、四年。
驚異に値する精神力で、彼女は生きて、国を想い続け、一人遺される運命にある娘を想い続けた。
そして……娘が自分よりも「年上」に見えた頃。
「彼女」は―――娘よりも小さな姿で、眠りについた。
176 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/21 03:33:35.33 IAYWe2woo 139/310今日の分、終了です
おやすみなさい、また明日
185 : VIPに... - 2012/12/21 21:19:30.69 vVP3/qHIO 140/310前のヴァルキリー的なのはどうなったんだろ
189 : ◆1UOAiS.xYWtC - 2012/12/22 01:25:24.55 5XcExnPco 141/310>>185
一応それは完結して投下しましたが、それは後ほど
投下しますー
続き
堕女神「私を、『淫魔』にしてください」【後編】