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321 : 以下、名... - 2015/02/01 23:58:32.23 j7AyPAqVo 284/442


第5部

 僕と明日香の仲は最初はうまくいっていたのだ。僕が明日香の全てを引き受けると言ったその日から。でも、僕の脳裏からはそう都合よくは奈緒に関する悩みは消えてくれなかった。だから僕は表面上は明日香と仲よく付き合いながらも、心の中では奈緒との関係について悩み続けていた。

 僕と偶然に再会した奈緒は無意識に僕に惹かれたのだと言う。ずっと兄である僕を忘れられなかった彼女は、兄以外の男性に惹かれたことに対して罪悪感まで感じていた。そして、そこが僕と奈緒の決定的に違うところでもあった。

 奈緒はずっと思い続けてきた兄に再会したことを素直に喜んだ。自分の初めての彼氏が消滅してしまうのにも関わらず。僕も妹に再会できたことは嬉しかったのだけど、時間が経つにつれ奈緒の中で彼氏としての自分が消滅してしまうことに焦燥を覚えた。客観的に見れば奈緒は実の妹だ。そして彼女は素直に、昔引き剥がされた大好きな兄である僕と再会したことを喜んでいる。そんな奈緒の気持ちに僕は飽きたらない感情を抱いてしまった。

 今にしてみればわかる。

 奈緒がこんな冴えない男を好きになって彼氏にしようとしたその意味が。奈緒は最初から無意識のうちにかつてつらい別れかたをした兄貴を求めていたのだろう。実の兄貴になら高スペックを求めるまでもない。矛盾するようだけど僕が奈緒の兄貴でなかったら、奈緒は僕なんかを恋愛の対象と考えることすらなかったはずだ。



「お兄ちゃん?」

「うん」

「お兄ちゃんは誰を選ぶの?」



 あのとき明日香は震える声で聞いた。

 こいつの僕への愛情だけはもう疑う余地はない。答えなんか初めから決まっていた。玲子叔母さんも、そして多分僕の父母も、僕と明日香の仲がうまく行くことだけを望んでいる。奈緒は今では僕のことを奇跡的に再会できた、大好きな実の兄としてしか考えていない。もちろん有希さんは僕にとってそういう対象ですらない。

「何度も言わせるなよ」
 僕は明日香に言った。「ずっと一緒にいるんだろ?」

「はっきり言って。それでもう二度とうるさく言わないから」

 明日香がくぐもった声でそう言ったのだった。

「明日香のことが一番好きだよ。ずっと一緒にいようよ。父さんと母さんと四人だけで」

 明日香が再び僕に抱きついてぐずりだしたので、僕は明日香の顎に手をかけて彼女にキスした。

「ありがと」

「礼なんか言うなよ」

 もうこれでいいのだと僕は考えた。

「でもさ、ずっと四人なの?」

「何が?」

「・・・・・・家族って増えるもんじゃないの」

「何なんだ」

「お兄ちゃん?」

「うん」

「ごめんね。あたしもう迷わないし不安に思わないから」

「よかった。明日香、愛してるよ」

「あたしも」

 スマホをぽいと机に置いて明日香が抱きついてきた。

 僕たちは抱き合った明日香のベッドにもつれ合うように倒れ込んだ。

322 : 以下、名... - 2015/02/01 23:59:05.10 j7AyPAqVo 285/442


 翌日、いつもの時間にいつもの車両に乗り込むと、富士峰の制服姿の奈緒が僕を見つけて微笑んだ。

「おはようお兄ちゃん」

 それは今朝ベッドの中で僕に呼びかけた明日香の屈託のない、でも少しだけ顔を赤くした声とそっくりだった。

「先週の土曜日はごめんね。ピアノ教室まで迎えに来てくれたんでしょ」

「うん。インフルエンザだたって? もう大丈夫なの」

「うん、もう平気。ほんとにごめん。無駄に迎えに来てもらちゃって」

「いいよ、そんなの。病気なのにいちいち迎えに来なくていいとか連絡なんてできるわけないじゃん」

「だって・・・・・・」

 そう言ってちょっと不満そうに口ごもる奈緒の容姿ははやはり可愛らしかった。自分の妹の容姿をちらちらと盗み見る兄ってどうなんだろう。今は僕は明日香の彼氏として誰にも恥じることのない行動を取るべきなのに。

「あたしのこと心配だった?」

 突然、奈緒が微笑んで悪戯っぽく聞いた。

「・・・・・・心配したよ。あたりまえだろ」

 実の妹なんだからと言おうとしたけど、その言葉は胸に秘めておいた。

「心配させちゃってごめんね。でも奈緒人さん・・・・・・じゃなかった、お兄ちゃんがあたしのことを心配してくれるなんて嬉しい」

「僕のこと、そんなに薄情な兄だと思ってたの」

 一々、兄とか妹とか口にする僕の感覚が異常なんだ。僕はそう思った。それに僕には今でも昨晩の明日香の表情が胸の中に残っている。

 僕ももう迷わないと決めたのだ。こんなにふらふらしている僕だけど、昨日抱きついてくる明日香を抱いたことへの責任は取らなきゃいけない。それに今では僕の心の中には、今朝、恥かしそうな表情でおはようお兄ちゃんと言って僕を起こしてくれた明日香に対する愛情がこれまでにないくらいに満ち溢れていた。

 改めて考えると、僕のために自己犠牲を厭わずに尽くしてくれていたのは明日香なのだ。彼氏と別れたり自分の仲間と縁を切って、僕の好みの容姿になってくれたり。そして、それ以上に本当に僕がつらかったときに僕を抱きしめて慰めてくれたのは明日香だけだった。

 もういいじゃないか。この先奈緒のことを考え悩んだりフラッシュバックを起こしたとしても、きっと僕の恋人の明日香が僕を支えてくれるだろう。そのことに僕は今では何の疑い抱いていなかった。

 そのときの僕の夢見がちなうつろな態度に奈緒は少し不満のようだった。

「お兄ちゃん、今誰か他の女の子のことを考えたでしょ」

 実際、明日香のことを考えて少しだけ幸せな気分になっていたのは事実だったから、僕は奈緒の追及に狼狽した。

「あたしと一緒にいるのに、誰のことを考えてたの?」

「そうじゃないよ」

「じゃあ、何考えてたのよ」

 奈緒が僕の腕に抱きつきながら不満そうな様子で聞いた。

「別に何でもない。おまえがよくなってよかったなって」

 どういうわけか奈緒が少し顔を赤くして照れた様子で答えた。

「おまえって・・・・・・。お兄ちゃん、こないだまで奈緒ちゃんって呼んでたのに」

「馴れ馴れしいかな? 奈緒ちゃんって呼んだ方がいい?」

「やだ」

 奈緒はいたずらっぽく笑った。

323 : 以下、名... - 2015/02/01 23:59:36.49 j7AyPAqVo 286/442


「何なんだよ」

「お兄ちゃんこそ、話題が逸れてほっとしたでしょ」

「何の話だよ」

「お兄ちゃんが考えていた女の子の話だよ。でもいいよ、おまえでも奈緒でもお兄ちゃんがそう呼びたいなら」

 奈緒が笑って言った。それ以上僕を追及する気はないようだった。

「明日は迎えに来てくれる?」

 奈緒が言った。

「あ、土曜日のピアノ教室の日だっけ? うん、いいよ」

「よかった。・・・・・・明日もお昼ごはんに連れて行ってくれる?」

 もちろんと言いたいところだけど、今では前とは状況が異なる。奈緒が僕の彼女だったときのように振舞っていいのか僕には判断できなかった。それに今は少しでも長く明日香のそばにいたい。明日香に告白してお互いに恋人同士になってから、明日香に対してこんな気持になるのは初めてだった。最初は消去法で明日香の告白に答えたことは自分にも否定できない事実だった。でも今ではそうじゃない。昨晩、明日香を抱いたのは決していい加減気持ちではなかった。玲子叔母さんのことや奈緒のことも含めて悩んだ末の結論だった。

 だから、たとえ奇跡的な再会を果たした妹とはいえ、これ以上曖昧に自分の彼女のことを奈緒に隠すわけにはいかないと僕は思った。

「それはちょっと無理かも。ごめん」

 奈緒の表情が曇った。

「え、何で? あたしお兄ちゃんと明日はずっと一緒にいられるんだと思ってたのに。奇跡的に再会できたんだよ? あたしたち」

「それはそうなんだけど・・・・・・。僕も今は彼女がいるし、あいつを寂しがらせるわけにはいかないし」

 僕の言葉を聞いて奈緒の顔が一瞬で真っ青になった。

「え? 何よそれ。お兄ちゃんとあたしは兄妹ってわかるまでは付き合っていたんでしょ? まさか、その頃から二股かけてたの」

「そんなことないよ。でもおまえは僕の実の妹だし、もうおまえのことは彼女とは言えないじゃんか」

「それってついこの間にわかったことじゃない。それなのに何でもうお兄ちゃんにあたし以外の彼女がいるわけ? ついこないだまであたしと付き合っていたくせに」

 奈緒の表情がいつものような穏かな微笑みを浮べていた今までと一変している。

「違うよ。話を聞けって。おまえが実の妹だって聞いて僕だって悩んだんだよ。この間まで女性として好きだったおまえとはもう恋人同士でいられなくなったわけで。そんなとき」

「明日香ちゃんか」

 今までの照れたような好意的な態度からひどく醒めた表情に変わった奈緒が言った。

「え? おまえ何で知って」

「明日香ちゃんなんだ。何で知っているって? バカなこと言わないでよ。お兄ちゃんには昔の記憶がないのかもしれないけど、あたしは全部覚えてる」

 僕は言葉を失った。では奈緒は明日香とのことを知っているのだ。

「お兄ちゃん、明日香ちゃんのこと好きなの」

 そう言った奈緒は僕が初めて見るような暗い表情だったかもしれない。過去の記憶があまりない僕にとって、奈緒はいつも礼儀正しくて自制できる女の子だった。恋人になったときその自制が崩れて混乱した表情で僕に抱きついてきたことはあった。でも今の奈緒は僕が初めて見るような暗く重い感情をその顔に宿していた。

「うん。明日香は僕の彼女だよ」

 僕は奈緒にそう答えた。奈緒がどう思ってもしかたない。僕にとってこれまでの明日香の僕への献身はそれくらい重いものだった。そして僕はそういう明日香に応えたのだからここで迷うわけにはいかなかったのだ。

324 : 以下、名... - 2015/02/02 00:00:14.39 Rlpo3dNSo 287/442


 せいぜい奈緒が再会した兄貴にできた彼女に嫉妬して悲しむくらいに僕は考えていた。それでも奈緒と僕は再会した仲のいい兄妹でい続けられるだろうと思っていた。なにより、奈緒は僕のことを兄貴として割り切っていたようだったから。

 でもそれは僕の誤解、僕の思い込みに過ぎなかったのかもしれない。

「そういうことなんだ」

 奈緒が言った。これまで優等生的な優しい美少女だった彼女の印象が覆るくらいに冷たく他人行儀な表情で。

「奈緒?」

「奈緒じゃないでしょ」

 奈緒が切り捨てるように言った。

 僕は本気で狼狽した。明日香との仲を奈緒に怒られたからとかそういう意味ではない。目の前にいる奈緒の豹変に驚いたからだ。これが兄妹の再会に涙を流して僕に抱きついてきた奈緒とは思えないし、付き合っていた頃のような一見控え目だけど実は積極的で明るい印象の奈緒でもない。それに一度有希とメアドを交換したとき、付き合い出して初めて奈緒は僕に嫉妬したのだけど、そのときだって彼女は俯いて涙を浮べて黙っていたのに。

「浮気していたくせに、偉そうにあたしを呼び捨てにしないでよ。明日は絶対に迎えに来て」

 奈緒は激情を抑えて、そして冷たいといっていいほど冷静に僕に言った。そういう奈緒の表情を見るのは初めてだった。

「浮気って・・・・・・してないよ。迎えには行くけど」

「一緒に食事してくれないならそれでもいいけど、話がしたいんで時間だけは空けておいて」

「奈緒、おまえさっきから何言ってるんだ」

「あたしのことを奈緒って言わないで! おまえって呼ぶのもやめて」

「じゃあ、何て呼べば」

「うるさい、死ね!」

 奈緒は僕が初めて見た鬼のような形相のまま、まだ駅に着く前の電車の中で僕から離れていった。これではまるで仲直りする前の明日香のようだ。



 奈緒を見失った僕は仕方なくそのまま登校した。今週休んだことへ渋沢と志村さんの追求を交わした僕は、奈緒の突然の豹変振りに悩みながら帰宅した。

 帰宅すると驚いたことに父さんと母さんがリビングで明日香と一緒にいた。珍しいこともあるものだ。たまたま両親が二人とも仕事が早く終ったのだろうか。

「おかえりなさい」「おかえり」「おかえりお兄ちゃん」

 父さんと母さんと明日香の声が同時に僕を迎えてくれた。でもそ明日香の声は不自然なものだった。僕はすぐにそのことに気がついた。

「父さんたち何でこんな時間に家にいるの」

 僕が戸惑って質問すると母さんが微笑んだ。

「ほんとに偶然なのよ。あたしも帰ってパパがいたからびっくりしちゃった」

「僕も驚いたよ。こんな早い時間にママがいるなんてな」

 どういうわけか父さんと母さんはいつもと違って白々しいというか棘のある口調で言った。いつもこっちが恥かしくなるほど仲がいいのに。

「お兄ちゃん、二階に行こうよ」

 明日香が僕の袖をそっと引いた。

「でも・・・・・・」

「夕食の支度ができたら呼ぶからね」

 母さんが僕の方を見ないで小さく言った。

325 : 以下、名... - 2015/02/02 00:02:03.82 Rlpo3dNSo 288/442


 明日香に手を引かれるようにして僕は彼女の部屋に連れて行かれた。

「いったいどうしたんだよ」

 明日香を見ると彼女も戸惑っているような心配そうな表情を浮かべていた。

「ママが怒ってるの。何でいつまでもあたなはマキちゃんのことを気にするのよって」

「何だそら。マキって誰?」

「お兄ちゃんの本当のお母さん」

「・・・・・・どういうこと?」

「わかんないよ。学校から帰ったらパパとママが喧嘩してたの」



 明日香が帰宅したときには珍しくもう父さんと母さんが帰宅していて、リビングで口論している声が聞こえたのだという。明日香はしばらくリビングの前で二人の口論を聞いていた。

『・・・・・・何でいつまでもあたなはマキちゃんのことを気にするのよ。離婚して何年経っていると思っているの。それなのにいったいいつまであなたはマキちゃんの言動に振り回されれば気が済むの!』

『そんなんじゃないよ。僕はただ珍しくマキからメールが来たからそれを君に相談しただけだろ』

『だってあなたはメールの内容を気にしてるじゃない』

『それはするに決まっているだろ。子供たちのことなんだ』

『あたしにはあなたが何でこんなに神経質になってマキさんの言うことに反対するのかわからないよ。マキさんにまだ反感があるからあえて彼女の言うことに反対しているんじゃないの? 逆に言うとそれってまだマキちゃんのことを気にしてるからでしょ』

『そんなわけあるか。でも奈緒人たちが自然に知り合ったのに会うことを制限するなんてあり得ないだろ』

『あなたの態度は支離滅裂だよ。今になって二人を会わせてもいいなんていい出すくらいなら、何であのときに奈緒ちゃんを手放したりしたのよ。あれで周りの人のほとんどを敵に回したくせに』

『そうじゃないって。君は何か誤解してるよ』

『あたしはマキちゃんのこと嫌いだよ? でも今回だけは彼女の言うことも理解できるよ。だってお互いに交渉せずにそれなりにうまくやってきていたんじゃない。今さら過去を蒸し返してどうなるっていうのよ』

『過去のことなのは僕たち大人のことだろ。あいつたちにとっては現在進行型の話だろう。奈緒人が妹と出会って仲良くすることのどこがいけないんだ』

『繰り返すようだけど、あたしにとってはレイナさんのほうがマキちゃんより脅威なの。マキちゃんの気持もわかるよ。やっぱり奈緒人君に注意すべきだと思う。彼にはむしろ明日香ともっと仲良くなってもらいたいの』

 このあたりで明日香はリビングの前に立っていることを母さんに気が付かれたのだという。

「いったいどういうこと?」

「あたしにだってわからないよ」

 明日香も混乱しているようだった。父さんと母さんの言い合いなんて珍しい。確かに両親ともに多忙な仕事をしているせいもあって家族が揃うことは珍しかった。でも今まで父さんと母さんが仲違いしているところなんか見たことがなかった。

 マキという女の人のメールが両親の喧嘩の発端らしいけど、明日香によればマキという人は僕を産んだ本当の母親らしい。

 奈緒と出会って仲良くするとか、いったいどうしてマキさんはそのことを知っているのだろう。奈緒が告白したのだろうか。

「レイナって誰だろう」

「わかんないよ。玲子叔母さんなら知っているかもしれないけど」

 昨日の今日で玲子叔母さんにそんな質問ができるはずもない。

326 : 以下、名... - 2015/02/02 00:02:35.29 Rlpo3dNSo 289/442


「ママとパパって離婚しちゃうのかな」

 明日香が不安そうに言った。

「何でそうなるんだよ。喧嘩なんてしない夫婦の方が珍しいだろ。僕とおまえだってそうじゃん」

「それはそうだけど・・・・・・。今までパパとママがあんな風に言い合っていたことはなかったし」

「大丈夫だよ」

「あたし、お兄ちゃんと離れさせられちゃうの嫌だよ」

「何でいきなりそうなるんだよ」

「だってありえない話じゃないじゃん。パパとママが離婚すれば」

「考え過ぎだって」

「でも実際、お兄ちゃんと奈緒ちゃんは引き離されたんでしょ?」

 僕は言葉を失った。そうだ。僕と奈緒は両親の離婚によって引き離されたのだ。身近にそういう例がある以上、明日香が不安に思ったとしても無理はないのだ。

 僕は泣きそうな顔をしている明日香を思わず抱き寄せた。

「あ・・・・・・」

 抱き寄せた明日香の体が震えた。

「僕とおまえは一生一緒だよ」

「だって」

「おまえが嫌だといっても僕は明日香を離さない。たとえおまえが迷惑に思っていたとしても僕はおまえから離れないよ」

「迷惑なんて思うわけないじゃん。でも、あたしずっとお兄ちゃんにひどい態度を取ってきたのに」

「僕が一番つらかったとき、僕を支えてくれたのはおまえだから。奈緒とのことで僕は傷付きそうなことを理解して、彼氏と別れてまで僕のことを守ろうとしてくれた」

「・・・・・・お兄ちゃん」

「好きだよ明日香。今にして思えば多分、前みたいにケバイ格好をして僕のことを虐めていた頃から、僕はおまえのこと好きだったのかもしれないね」

「・・・・・・うん」

 明日香は泣きながら僕の胸に顔をこすり付けた。

「父さんたちは大丈夫。でも万一、父さんたちが離婚したとしても僕と明日香はずっと恋人同士だよ」

「・・・・・・うん」

「大学を卒業してさ、将来就職できたら僕と結婚してくれないか」

 明日香が泣き止んで僕の胸から顔を上げた。

 一瞬だけ時間が止まった。

「喜んで。この先もずっと一緒にお兄ちゃんといられるのね」



 しばらくして母さんが階下から声をかけた。夕食の時間だった。

 家族四人で食卓を囲むのは久し振りだったけど、いつものような自然な雰囲気は望むべくもなかった。

 それでも明日香は僕のプロポーズの余韻が残っていたのか、やたらに僕を構いたがった。皿に料理を取ってくれるとか、飲み干したコップに冷水を注いでくれるとか。

 父さんと母さんはお互いに気まずい表情だったけど、僕たちを意識しているのかなるべく普通に会話しようと努力しているようだった。

327 : 以下、名... - 2015/02/02 00:03:04.44 Rlpo3dNSo 290/442


「お兄ちゃん」

「何」

「口に玉子の黄身が付いてるよ」

 明日香がテーブルの上のティッシュを取って僕の口を拭った。

 母さんが嬉しそうに微笑んだ。

「明日香はお兄ちゃんのことが大好きなのね」

「うん。そうだよ」

 明日香は以前とは違って真顔で母さんに答えた。

「うふふ。奈緒人君はどうなの? 明日香のこと好き?」

 母さんが僕たちが結ばれることを望んでいることは明日香からも叔母さんからも聞いてはいたけど、ここまで露骨に聞かれるのは初めてだった。僕は赤くなった。

「うん」

 僕は母さんではなく明日香を見てそう言った。そのとき、母さんの嬉しそうな微笑みとは真逆なような父さんの暗い表情に僕は気がついた。



 夕食後、明日香と一緒に二階に上がった僕は、明日の土曜日に奈緒をピアノ教室に迎えに行ってもいいか聞いた。彼女が嫌がるようなら、奈緒と約束してしまったので明日だけは許してもらってそれでもうお迎えは終わりにしようと思ったのだ。きっと嫌がるだろうなと僕は思っていた。だから明日香が迎えに行くだけならいいよってあっさっりと言ったときは少し驚いた。

「僕と奈緒と会うの嫌なんじゃないの?」

 僕は明日香の部屋で彼女の隣に座って聞いた。明日香はカーペットの上にぺたんと座り込んで隣にいる僕の顔を見上げた。

「喜んで行ってらっしゃいと言えるほど心が広い女じゃないんだけどさ」

 明日香は笑った。「でもまあ、お兄ちゃんにはプロポーズされたばっかだし、こんなときまで嫉妬してお兄ちゃんを信じられないなんて、あたしの方が嫌だもん」

「無理してない?」

「してない。お兄ちゃんを信じてるよ。でもこれからは奈緒ちゃんを送ったらなるべく早く帰ってきてね」

「うん。わかってる」

 僕だってそのつもりだった。奈緒からは話があるとは言われていたのだけれど、一緒に昼食をとることは断ったのだし、食事抜きで何時間も話をしているわけではないだろう。それにいくら兄妹とはいえ、今では僕の婚約者である明日香を放って毎週奈緒を迎えに行くわけにもいかない。奈緒の機嫌次第だけど、一応もう迎えにはいけないと言ってみよう。

「明日はなるべく早く明日香のところに戻ってくるよ」

 それを聞いて明日香が黙って僕に身体を預けたので、僕は明日香の肩を抱いた。華奢な感触が手に伝わった。そういうこと考えるべきじゃなかったけど、その感触は奈緒を抱き寄せたときの記憶を思い起こさせた。僕は少し狼狽して明日香の顔を覗ったけど、明日香はもう別なことを考え始めていたようだった。

「ねえ・・・・・・」

 明日香が素直に僕に抱き寄せられながら言った。

「うん」

 僕は自分の思いを悟られなかったことにほっとした。そして少し罪の意識を感じて、それを誤魔化すために明日香の肩を抱く手に力を込めた。

「ちょっと強く抱きしめすぎだよ。変な気持になっちゃうじゃん」

「だめ?」

「今日は下にママたちがいるんだよ」明日香が笑って僕をたしなめた。「だからお兄ちゃんも我慢して。そうじゃなくて、やっぱり夕食のときのパパとママの様子って変だったよね」

328 : 以下、名... - 2015/02/02 00:03:35.78 Rlpo3dNSo 291/442


 確かにそうだった。食卓を囲んだときの父さんと母さんの様子には、明日香が帰宅したときのような二人のいさかいの片鱗もなかった。子どもたちを気にしてお互いへの態度や言葉を取り繕っていたのだろう。それでも母さんが親密な明日香と僕の様子に喜んでいたのに対して、父さんはほとんど反応を示さなかった。よく考えてみれば不思議なことではあった。以前玲子叔母さんから聞いた話だと、母さんだけでなく父さんも僕と明日香が仲良くすることを望んでいるということだったから。

 僕はさっき明日香から聞いた父さんと母さんの会話、というかいさかいの内容を思い出した。



『そんなわけあるか。でも奈緒人たちが自然に知り合ったのに会うことを制限するなんてあり得ないだろ』

『あたしはマキちゃんのこと嫌いだよ? でも今回だけは彼女の言うことも理解できるよ。だってお互いに交渉せずにそれなりにうまくやってきていたんじゃない。今さら過去を蒸し返してどうなるっていうのよ』

『過去のことなのは僕たち大人のことだろ。あいつたちにとっては現在進行型の話だろう。奈緒人が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだ』

『繰り返すようだけど、あたしにとってはレイナさんのほうがマキより脅威なの。マキちゃんの気持もわかるよ。やっぱり奈緒人君に注意すべきだと思う。彼にはむしろ明日香と仲良くなってもらいたいの』



 僕が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだと父さんは言っていたそうだけど、その妹とは状況から考えると明日香ではなく奈緒のことだろう。つまりマキさんという僕の実の母らしい人から父さんにメールが来た。そしてそのメールは、僕と奈緒が知り合って仲良くしているのでそれを止めさせて欲しいという内容だったのかもしれない。何でマキさんが僕と奈緒を会わせたくないのかその理由は不明だった。そして父さんは僕と奈緒が仲良くすることのどこがいけないんだといい、母さんは僕には奈緒より明日香と仲良くなってほしいと主張しているらしい。

 僕の母親からのメールの内容に対して反対しているのが父さんで、賛成しているのが母さんだと言うことになる。それでいてどうやら母さんは、父さんがマキという人を気にしていると言って非難しているようだ。

 なかなか複雑で一概には理解できない。

「母さんは僕が妹の奈緒と仲良くするのがいやなんだろうか」

「お兄ちゃんもそう思う?」

「そういうふうに聞こえるよね」

「逆に考えるとさ。パパってあたしとお兄ちゃんが仲良くするの内心では喜んでないのかなあ」

 明日香が不安そうに言った。

「・・・・・・前に玲子叔母さんから聞いた話だと、父さんも母さんも僕と明日香が仲良くするのを望んでいるみたいなことを言ってたよね」

「うん。あたしもそれ覚えている。つうかあのときは嬉しかったし」

「じゃあ、何であんな言い争いをしてたんだろう。マキっていう人からのメールには何て書いてあったんだろうな」

「マキさんってお兄ちゃんの本当のお母さんだってば」

「それは聞いたけど」

 本当の母親と言われても全く実感がわかない。マキという人から父さんにメールが届いた自体が問題なのだろうか。でもそれだけではないような気もする。

 明日香の不安にも根拠がないとは言えなかった。母さんは僕と明日香の仲のいい様子を見て喜んでいる様子だったけど、それに対して父さんはそのことにさほど乗り気な様子を見せていない。

「でもさ。僕と奈緒は兄妹なんだし、普通に考えれば父さんが僕と奈緒が仲良くすることを応援していたとしてもさ、それが僕と明日香が付き合うことに反対しているっていう意味にはならないと思うけどな」

「それはそうかも。じゃあ、パパもママもあたしとお兄ちゃんが付き合うこと自体を問題にしているんじゃないのかな」

329 : 以下、名... - 2015/02/02 00:04:06.61 Rlpo3dNSo 292/442


「多分ね。玲子叔母さんが言っていたことが正しいなら。むしろ僕と明日香のこととは関係なく、僕が妹と仲良くするのがいいことなのかどうかで喧嘩してたんじゃないのかな」

「奈緒ちゃんに嫉妬していたあたしが言うのも何だけど・・・・・・。ママはもうあたしたち家族を放って置いて欲しいんじゃないかな。マキさんにも奈緒ちゃんにも」

 再婚家庭なんだから、元の奥さんやその子どもとは関わりたくないという母さんの気持も理解できるような気はするけど、何となくそれだけじゃないような予感がしていた。父さんとマキさんが再び仲良くなるのとは話が違う。僕が知っている母さんは、確かに僕の本当の母親ではないけど、かつて悲劇的に引き離された仲の良い兄妹の再会にまで文句を言うような人ではないと思う。

「明日、奈緒に聞いてみるよ。奈緒の家庭でなんかあったのかどうか」

「うん。あたしもお兄ちゃんが奈緒ちゃんを迎えに行っている間、叔母さんに話を聞いてみる。レイナさんという人のことはこれまで聞いたことがなかったし」

 レイナって誰なんだろう。母さんがマキさんよりも脅威だとかいうほどの人らしいけど。

「お兄ちゃんさ、奈緒ちゃんを送ったら自宅じゃなくて叔母さんのマンションで待ち合わせしよ」

「え」

「えじゃない。あたしと叔母さんはお兄ちゃんの不誠実な浮気くらいで壊れるような仲じゃないし」

「不誠実な浮気って。僕はそんなつもりは」

 なかったとは言い切れなかった。でも明日香は笑った。

「冗談だって」

 明日香と叔母さんの仲よりも、どちらかというと僕と叔母さんが気まずい雰囲気になるんじゃないかと心配したのだけど、それは明日香には言いづらい。

「それにいつまでも叔母さんとお兄ちゃんと三人で過ごせないなんて嫌じゃん。こういうことは早く解決しちゃった方がいいよ。心配しなくていいから。お兄ちゃんが叔母さんの部屋に来る頃までには、今までどおりの三人の仲に戻しておいてあげるよ」

 僕は付き合うようになって初めて、明日香の中に今まで僕が知らなかった面がいっぱいあることを思い知らされていた。きつい性格で僕を罵っていた明日香が仲直りして泣き虫で甘えん坊な側面を見せた。でも彼女はそれだけじゃない面を持っているようだ。実の妹と付き合い出してしまった僕を黙って救おうとしてくれた明日香や、奈緒が実の妹だと知ってフラッシュバックに悩んでいた僕を黙って根気強く支えてくれた明日香。

 そして今では僕をリードして積極的に疑問を解決しようとしている。そんな僕が知らなかった明日香の姿に僕は密かに萌えていた。あのまま付き合っていれば奈緒も礼儀正しく優しく、でも積極的な女子だけではない顔を見せてくれていたのだろうか。僕はさっき初めて見た奈緒の冷たい態度を思い出した。

「パパとママって今は静かだよね」

 そんな僕の感慨を断ち切るように明日香が階下を気にして言った。

「うん。狭い家だから喧嘩していればここまで聞こえるだろうしな」

「仲直りしたのかな」

「かもしれない」

 明日香の部屋から様子を覗おうとしても階下からは何の気配もしない。

「・・・・・・ちょっと偵察に行ってこようかな」

「マジで? 僕も行こうか?」

「お風呂に行くついでなんだけど。まさかついて来るつもり?」

「んなわけないだろ。おまえが風呂出るまで自分の部屋にいるよ」

「またエロゲ?」

「してないってそんなもん」

「まあいいや。ちょっと偵察してくるよ。また後でね」

 明日香は僕に軽くキスしてから僕の腕から抜け出した。

330 : 以下、名... - 2015/02/02 00:04:55.91 Rlpo3dNSo 293/442


 明日香のスマホを元通りに置いて部屋に戻ったとき、明日香がラフな姿でバスタオルで髪を拭きながら僕の部屋に入ってきた。

 僕はぎりぎりのところで明日香が部屋に入ってくる前にブラウザの画面を切り替えることに間に合った。

「お風呂のついでにリビングの様子を覗ってきたんだけど」

「うん」

「二人とも声を低くして話をしてたんでよく聞き取れなかったんだけど、レイナさんっていう人のことを二人で話しているみたい」

「そうか」

 僕の脳の容量はもうこれ以上の情報に耐えられそうもない。奈緒と会うことへの母さんやマキさんの反対のことが気になるけど、それにしても僕には父さんと今の母さんの諍いの内容すら理解できていない。それどころか、僕と奈緒の過去に何が起きたのかだって、本当に把握できているわけではないのだ。結局蘇った記憶は断片的な光景でしかない。

 とりあえず明日は奈緒の話を聞こう。そして僕と奈緒の母親であるマキさんの意図を探ってみよう。奈緒ならばレイナさんという人のことも知っているかもしれない。僕はそう考えた。今はもうこれ以上は何も思い浮ばなかった。

「明日、奈緒に聞いてみるよ。今はもう考えても仕方ないだろ」

 僕は明日香にそう言った。明日香は僕のベッドに腰かけていたけど、すぐに納得したようにうなずいた。

「そうだね。あたしも明日は叔母さんにレイナさんのこととかマキさんのこととか聞いてみるよ」

「まあ、直接父さんたちに問い質すという手もあることはあるけどな」

「それはよそうよ」
 明日香は少し不安げな表情をした。「何かこわい。それで万一離婚するとか言われたら嫌じゃない」

「そんなことはないと思うけどな」

 僕はPCの電源を落として明日香の隣に座った。

「今日はここで一緒に寝てもいい?」

 明日香が上目遣いで言った。

「だって、おまえが今日は我慢しろと言ったんじゃん。下に母さんたちがいるからって」

「一緒に寝るだけなら別に平気でしょ? ママたちは普段は二階になんか来ないんだから。それに一緒に寝るだけなのに何を期待してたの」

「わざと言ったろ?」

 ふふっていう感じの微笑をわずかに顔に浮べた明日香が僕をベッドから立ちあげるようにした。

「早くお風呂に入ってきて。あまり遅いとあたし先に寝ちゃうからね」

 次の日は土曜日だった。僕は佐々木ピアノ教室の前で午前のレッスンの終了時間を待っていた。堂々と入り口前で待っていようかとも考えたけど、奈緒より先に有希に顔をあわせるのが恐かったので、僕は最初と同じく少し離れた場所で入り口を覗うようにして奈緒が出てくるのを待っていた。今日も冬の曇り空が広がり肌寒い。早めに着いてしまったせいで体が冷え切っている。

 やがてようやく扉が外側に開き、女の子たちが固まって教室の外に出てきた。それはいつ見ても華やかな光景だった。最初に出てきた一団の子たちの中には奈緒の姿も有希の姿もない。それでも間断なく教室から吐き出される生徒たちをじっと見守っていると、やがてその中に奈緒の姿が見えた。

 奈緒は前にも見かけた眼鏡をかけた高校生の男と何か話しながら教室の外に出てきた。幸いにも有希の姿はまだない。奈緒が僕の姿を探すようならわかりやすい場所に移動して姿を見せようと思ったのだけど、奈緒は周囲を見渡したりしなかった。彼女は一緒にいる男が自分に話しかける言葉に笑顔で応えていて、僕のことを探す素振りさえない。

 そういう奈緒の笑顔はすごく可愛らしかったけど、今の僕にはそんなことはどうでもよかった。そのときの僕は心底から腹を立てていたのだ。僕は寂しそうな様子を隠そうと笑顔で送り出してくれた明日香を放ってここに来ている。妹との約束を優先したためだ。それなのにその妹の反応はどうだ。迎えに来いって高飛車に僕に要求したくせに、その兄を探すようもなく男といちゃいちゃしている。

331 : 以下、名... - 2015/02/02 00:05:37.23 Rlpo3dNSo 294/442


 大人気ないと思いつつ僕は奈緒の前に姿を晒した。さすがに奈緒は僕に気がついたようだけど、それでも彼女はすぐに僕の方に来るでもなく男と話を続けた。それでも僕は奈緒と一瞬だけ視線を合わせることができた。彼女はすぐに僕から目を逸らしたけど、これで僕が約束を守ったことは彼女にもわかったはずだ。これ以上、奈緒からこんな態度を取られるいわれはない。

 僕は踵を返して駅に向かって一人で戻り始めた。

 ・・・・・・何かこういうことが前にもあった気がする。さっきの奈緒の様子に苛立ちながらも僕は思った。あれは確か有希とメアドを交換したことに奈緒が嫉妬したときのことだ。あのときもわざと僕の側に近寄らないようにしていた奈緒を置いて、僕は一人で駅に向かっていたのだ。あのときは結局改札の前で、背後から駆け寄ってきた奈緒に抱きつかれて謝罪された。でも今日は違うみたいで、背後には自分の態度を後悔して駆け寄ってくる奈緒の気配はしない。それならそれでいいと僕は思った。どうせ今日で迎えは最後にしようと奈緒に言う予定だったのだし。

 そう思いながら駅の改札まで来てしまった僕が改札をくぐろうとしたとき、携帯が鳴った。メールだ。

『すぐに行くから前に入ったファミレスで待ってて』

 短い無愛想なメールは奈緒からだった。

 ふざけるな。僕はそう思ったけど、どいうわけか数分後には僕はファミレスの席に収まっていた。結局、奈緒がそこに姿を現したのは三十分も過ぎたときだった。

 奈緒は僕が座っている席を見つけると、微笑みの欠片すら浮べずにむすっとした顔で黙って向かいの席に座った。あの眼鏡の男と一緒だったらどうしようと思ったのだけど、奈緒はどこかで彼とは別れてきたみたいだった。

「奈緒人さんって煙草吸うの」

 相変わらず不機嫌そうな声で奈緒が言った。

 煙草って何だ? というか奈緒人さんって・・・・・・。

「何言ってるの?」

「ここ煙いよ。何で喫煙席なんかにいるのよ」

「あ・・・・・・悪い。禁煙席が三十分待ちだって言われたから」

「あたし煙草って大嫌い・・・・・・。それくらい気を遣ってくれるかと思ったのに。それで何か頼んだの?」

 奈緒は相変わらず醒めた冷たい表情のままそう言った。

「ドリンクバーだけ先に頼んだ」

「・・・・・・お腹空いてるのに。あ、あたしもドリングバーをお願いします」

 不機嫌な感情を全開にした奈緒が席を立って飲み物を取りに行った。このとき僕は切実にこの場から消え去りたかった。こんなことなら明日香と二人きりで過ごしていた方がよかった。明日香だってその方が喜んでくれただろうし。

 うまく行けばマキさんのメールの内容とかその背景とかを奈緒に聞き出そうと思っていたのだけど、彼女の様子はそういう感じじゃない。自分に非があるなら責められても仕方ないのだけど、どう考えても僕に彼女ができたことが実の妹にこれほど責められることとは思えない。

 奈緒が飲み物の入ったコップを持って席に座りなおした。しばらく沈黙が続いた。

 奈緒がドリンクなんてどうでもいいというようにテーブルに置いて僕の方を見た。

「何でそんなに居心地が悪そうなの? あたしと一緒にいるのがそんなにいやなの?」

「そんなことないよ」

 僕は奈緒に嘘を言った。以前の奈緒ならともかくこれだけ敵対心を丸出しにしている彼女と一緒にいることはいやだった。早く明日香に会いたい。とにかく明日香なら僕を安心させてくれる。今の奈緒が僕に強いているように落ち着かない感覚を思いをさせるなんてあり得ない。

「適当なことを言わないで」

「嘘じゃないよ・・・・・・」

「有希ちゃんの言っていたとおりだった。奈緒人さんって不誠実だよね」

332 : 以下、名... - 2015/02/02 00:06:18.37 Rlpo3dNSo 295/442


 僕が実の妹に対する恋心を諦めて、明日香を彼女にしたことはそんなにひどいことなのか。僕の方もだんだんとイライラしてきた。

「あのさ、ファミレスに来る必要なんてなかったんじゃないの。奈緒ちゃんを教室から家まで送っていくだけなら」

 そこまで言うつもりはなかったけど、奈緒のひどい態度に心を傷つけられていた僕は思わずそう言ってしまった。

「何であたしのことを奈緒ちゃんって言うのよ。昨日は奈緒とかおまえとか偉そうに呼んでたくせに」

「それは・・・・・・そう呼ぶなって言ったから」

「嘘つき」

 え? 今、奈緒は何て言った?

「お兄ちゃんの嘘つき」

 奈緒は僕を睨みながら再びそう言った。いつの間にか再び奈緒人さんではなくてお兄ちゃんと呼びかけられていることに、僕はしばらく気が付かなかった。

「約束したのに。パパもママもいらないって・・・・・・奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? ってあのときお兄ちゃんは言ったのに」

 そのことは玲子叔母さんの話を聞いてから常に心の中で思い起こしていたことだった。奈緒と引き離されたときの胸を引き裂かれたような痛みとともに。

「そうだよじゃないでしょ! あたしと二人でずっと一緒にいる気なんて今のお兄ちゃんにはないじゃない。お兄ちゃんはずっと明日香ちゃんと一緒にいる気しかないじゃない」

 奈緒が泣き出した。追い詰められた僕はついに今までは言わないでおこうとした言葉を口にしてしまった。

「あのときの気持には嘘はないよ。でも、おまえは僕の妹じゃん。何よりも大切な妹だけど、それでもおまえは僕の彼女にはなれないだろそれに奈緒だってさっき眼鏡をかけた先輩と仲良くしてたじゃんか。僕のことなんて無視して」

「あんなの・・・・・・。お兄ちゃんに嫉妬させようと思ってしたことに決まってるでしょ。そんなことはお兄ちゃんだってわかってたんじゃないの」

 迎えに来た僕を放っておいて他の男の言葉に笑顔で応えていた奈緒に対して、僕は嫉妬を覚えたのだった。それは確かな事実だったけど、本気であいつと奈緒の仲に嫉妬したかというとそれは疑わしい。それはきっと奈緒の嫌がらせだろうと僕は内心ではそう考えていたのだ。そしてその想いは僕の顔に出てしまっていたみたいだった。

「わかってたみたいね。それなら答えてよ。ずっとあたしと二人で生きるって言ってくれたんでしょ? 何でそこに明日香ちゃんが割り込んでくるの?」

「奈緒は僕の妹だし明日香は僕の彼女だから。二人とも僕にとって大事な女の子だよ」

 僕は精一杯心を込めて今の僕の内心を吐露したのだけど、奈緒の表情には納得した様子は覗えなかった。

「お兄ちゃん・・・・・・。あたしがお兄ちゃんと別れてから今までどんな気持で生きてきたのか知らないでしょ」

「それは正直に言えば知らない。でもおまえだって僕のことなんかちゃんとは理解していないだろ」

「少なくともお兄ちゃんはこれまでのあたしよりは全然幸せに暮らして来たんでしょ。それにお兄ちゃんにはあまり過去の記憶がない。全部覚えているのに、そのうえ余計な話をママに教えられて今まで暮らしてきたあたしの気持を少しは考えてよ。ずっとお兄ちゃんのことを想い続けてきたあたしの気持なんかお兄ちゃんは理解していないでしょ」

 奈緒は何を言っているんだ・・・・・・。幸せにって、それは僕と奈緒の父親のことだろうけど、少なくとも奈緒は本当の母親とは一緒に暮らしてきたわけで、そういう意味では僕と奈緒はイーブンの関係じゃないか。

「今日は話があるって言ったでしょ」

「あ、うん。明日香を待たせているんであまり遅くはなれないけど」

「そんなこと知らない。遅くなっても付き合って」
 奈緒が冷淡な表情で僕の答えを切り捨てた。「全部話すよ。あたしの話を。だからお兄ちゃんももう逃げないで一緒に考えて」

 奈緒が恐い顔でそう言った。

333 : 以下、名... - 2015/02/02 00:06:49.70 Rlpo3dNSo 296/442


「何を言ってるのかわかんないよ。それにそんなに時間はないんだ。僕は早く明日香のところに」

「そんなに明日香ちゃんといつも一緒にいなきゃいけないの? 今までずっと明日香ちゃんとは一緒に暮らしてきたじゃない。ようやく会えたあたしよりもいつも一緒の明日香ちゃんと少しでも一緒にいたいくらいにあの子のことが好きなの?」

「・・・・・・何言ってるの」

「お兄ちゃんの嘘つき」

「嘘じゃないって。でも一緒にいるっていろんな形があるだろう。奈緒と僕は兄妹としてずっと一緒にいようって・・・・・・」

「誤魔化さないで。お兄ちゃんの一番大切な女の子は明日香ちゃんなんでしょ」

 いい加減にしろ。僕は本気で思った。人が一生懸命に考えないでいようと思って、ようやく決心したことを今さら蒸し返すなんて。たとえ僕と奈緒がその気になったとしてもどうしようもないことはこの世の中にはあるのだ。僕はもう自分を抑えられなかった。

「じゃあ聞くけどさ」

 僕はこのとき泣きたい気持だったのだけど、外見はさぞかし冷たい笑いを浮かべているように見えたに違いない。

「じゃあ聞くけど。奈緒、おまえは僕の彼女になってくれるのか? 僕とエッチしてくれるのか。ずっと一緒にいるのはいいけど、僕の奥さんになって僕の子どもを産んでくれるのか。実の妹のおまえには全部できないだろう。明日香とは違ってさ」

 僕は口にした途端にそのことを後悔した。奈緒にそういう思いをさせたくなくて彼女を冷たく振ったというのに。そして奈緒と僕の関係は今では実の兄妹とだということに奈緒だって納得しているのだ。今さらそれを蒸し返してどうする。

 奈緒の表情が固まった。でもその表情は、春の風に少しづつ溶けていく庭に積もった雪のように柔らかく消えていった。

「ごめん。ひどいこと言っちゃった」

 僕は伝票を掴んで立ち上がった。

「お兄ちゃん」

 奈緒はさっきまでの不機嫌そうな感情を突然どこかに捨ててきてしまったかのように微笑んだ。まるで兄妹であることを知らないで仲良く付き合っていた頃のようだ。

「お兄ちゃんはそんなこと考えていたんだ」

「何が」

 僕は奈緒の豹変に戸惑った。

「お兄ちゃん、あたしのこと好きでしょ?」

「な、何だよ。いきなり」

 奈緒は相変わらず微笑んだままだ。

「お兄ちゃんに嫉妬させちゃってごめんね。あの人とは何でもないから」

 そんなことはどうでもいい。

「本当にさ、いったいどうしたんだよ。いきなり怒り出したりいきなり笑ったりしてさ」

 僕は思わず自分が口走ってしまった恥かしい言葉を棚に上げてそう問い質した。

「お兄ちゃんってそんなこと考えてたんだ。でも気持ちはよくわかるから恥かしがらないで。正直に告白するとあたしだって同じこと考えて悩んでたんだから」

 奈緒の意外な言葉に僕は再び腰をおろした。でも、奈緒は僕が本当の兄だと発覚したときは泣き出しながら抱きつくほど喜んでいたのではなかったか。

「・・・・・・悩むって何で」

「お兄ちゃんと一緒。あたしが本当に悩まなかったって思ってたの? 一時は本当に好きだった人が恋人にできないってわかったのに」

 でもあのときの奈緒は純粋に昔離れ離れにされた兄との再会に感激していたとしか思えなかったのに。僕は今でもそのときの奈緒の言葉は一言一句思い出せる。

334 : 以下、名... - 2015/02/02 00:07:30.58 Rlpo3dNSo 297/442


『お兄ちゃん会いたかった』

『ずっとつらかったの。お兄ちゃんと二人で逃げ出して、でもママに見つかってお兄ちゃんと引き離されたあの日からずっと』

『もう忘れなきゃといつもいつも思っていた。お兄ちゃんの話をするとママはいつも泣き出すし、今のパパもつらそうな顔をするし』

『あたしね。これまで男の子には告白されたことは何度もあったけど、自分から誰かを好きになったことはなかったの』

『そういうときにね、いつもお兄ちゃんの顔が思い浮んでそれで悲しくなって、告白してくれた男の子のことを断っちゃうの』

『それでいいと思った。二度と会えないかもしれないけど、昔あたしのことを守ってくれたお兄ちゃんがどこかにいるんだから。あたしは誰とも付き合わないで、ピアノだけに夢中になろうと思った』

『でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。あたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこんなに惹かれるなんて』

『奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて告白して付き合ってもらえてすごく舞い上がったけど、夜になるとつらくてね。あたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに奈緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって』

『それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ないと思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから』

『でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。あたしがこれだけ好きになった男の人はやっぱりお兄ちゃんだったんだ』



「あのとき、おまえはそう言ってたよな」

「うん」

「あのときのおまえは僕が兄貴だって知って喜んでいたじゃんか」
 僕はこのときは混乱していたので考えなしに喋ってしまっていたかもしれない。「無理矢理引き離された兄貴の僕と再会できて嬉しかったんだよな? そのせいで自分の彼氏と付き合えなくなるってわかっていても」

「うん」

 躊躇することなく奈緒は返事をした。

「嬉しかったに決まっているでしょ。昔から夢にまで出てきたお兄ちゃんと、もう一生会えないかもって諦めていたお兄ちゃんと再会できたんだから」

「・・・・・・じゃあ」

「でも、それとこれは違うよ。お兄ちゃんと会えたことは確かに嬉しかった。でもあの後お兄ちゃんと別れて学校で考えたら、ついこの間まであんなにラブラブだった彼氏が消えてしまうんだって気がついたの。これだって失恋でしょ? あたしはあの日、あんなに会いたかったお兄ちゃんに再会したんだけど、同時にあんなに好きだった奈緒人さんに失恋したんだよ」

 奈緒はもう微笑んでいなかった。綺麗な目に大粒の涙が浮かんでいた。

「おかしいでしょ? 嬉しくて仕方がないのに悲しいんだよ。こんなことって普通ある? お兄ちゃんだってあのときはただ妹に会えて嬉しいだけみたいだった。お兄ちゃんと付き合っていた彼女の奈緒が消えちゃうのに何も悩んでいないみたいだったし」

「そんなわけあるか」
 僕はつい大声を出してしまった。「僕だって悩んだよ。でも、兄貴との再会に喜んでいる奈緒に、もう恋人同士には戻れないんだなとか言えないだろうが。だから我慢したんだよ。家で一人で悩んだんだよ」

「あたしだってそうだよ」
 奈緒も大声を出して言った。「お兄ちゃんの態度にあたしも傷付いていたんだよ。この間まで腕を組んだりキスしたりする恋人同士だったのに、何で平然とあたしのことを妹扱いできるのよって」

 奈緒も僕とほぼ同じような悩みを抱えていたようだった。

335 : 以下、名... - 2015/02/02 00:08:02.83 Rlpo3dNSo 298/442


「・・・・・・でも、おまえは僕の妹だよな」

「・・・・・・うん。あたしはお兄ちゃんの妹。それも明日香ちゃんみたいに血縁じゃない義理の妹じゃなくて、実の妹だよ」

「じゃあ、やっぱり結論は変わんないじゃないか」

「お兄ちゃん?」

「うん」

「お兄ちゃんは明日香ちゃんのこと本当に好き?」

「好きだよ」

 僕は即答した。明日香の僕への献身を裏切ることはできない。

「もしもだよ? もしもあたしが本当の妹じゃなくてあのままあたしと奈緒人さんがお付き合いしていたとしたら」

「何を言いたいの」

「そういうときに明日香ちゃんがお兄ちゃんに告白してきたら、お兄ちゃんはどうする?」

 考えるまでもないことだったから僕は即答したのだけど、今にして思えばもう少し考えるべきだったかもしれない。僕は明日香のことが好きだ。今では自分の彼女として他の女の子なんか考えられないし、プロポーズだってしたばかりだった。でも、奈緒が妹ではなくて僕の彼女のままだったとしたら、僕が奈緒以外の女の子に目を向けるはずがない。だから、僕は正直に答えた。

「今となっては仮定の話だけど・・・・・・。あのときの僕は奈緒以外は目に入っていなかったから、奈緒が僕の彼女だったら明日香の告白は断っただろうね」

 奈緒はまた微笑んだ。

「お兄ちゃん、やっぱり今でもあたしのこと好きなのね」

「何言ってるの。今は僕は明日香のことが・・・・・・」

「もういいよ。今日はあたしの家族の話とかしたかったんだけど、お兄ちゃんの気持ちはわかったからもう今日は開放してあげる。明日香ちゃんのところに行かなきゃいけないんでしょ?」

「・・・・・・いいのか」

「いいよ。これからも朝一緒に登校してくれる?」

「ああ。でも土曜日はもう迎えに来れない。明日香を放っておけないから」

「仕方ないか。じゃあ土曜日は許してあげるよ。あたしは有希ちゃんと一緒に帰ればいいし。でも平日は、いつもの電車に乗ってよね」

 明日香は徒歩通学だったので、これくらいはいいだろう。正直に言うと僕だって奈緒と接点がなくなるのは寂しかったし。でもそれが再会した妹への気持のせいなのか、この間まで彼女だった奈緒への想いのせいなのかは自分でも判然としなかった。

 とりあえず僕は奈緒を送っていくことにした。最初からそれだけはするつもりだったし。このときのファミレスでの話し合いでは、奈緒もまた初めてできた彼氏が実の兄だったということに悩んでいたことがわかった。

 僕は複雑な気持だった。恋人だった奈緒が実の妹だと知って苦しんでいた僕は、奈緒もまた同じ悩みを持っていたことを聞くことができた。つらい別れ経て再会してた兄に対して無邪気に喜んでいた奈緒の態度に、僕は嫉妬じみた感情を抱いていたのだからそのこと自体は嬉しかった。

 でも、よく考えると何も解決はしていない。奈緒の告白が、これまで抱いていた奈緒の気持に対して僕が抱いていた理不尽な嫉妬心を宥めてくれたことは確かだった。でも今では僕には明日香がいる。多分、今では誰よりも大切な女の子が。ようやく恋人として奈緒のことを考えなくなるようになり、本気で好きだと思えるようになった明日香には話せないような内容の話し合いになってしまった。

 明日香と付き合う前なら僕だって今日の奈緒の態度を喜んだかもしれない。でも今では僕の彼女は明日香なのだ。今の僕は文字どおり身も心も明日香と結ばれている。それに奈緒の本当の気持は理解できたような気はするけど、依然として彼女が僕の実の妹であることには変りはない。奈緒が僕のことを男性として好きでいてくれたとしても、僕と奈緒の関係にこの先の未来はないことは変わらない。

 駅のホームでやたらに寄り添ってくる奈緒を拒絶もできずにいた僕は、今日彼女に聞いてみようとしたことを思い出した。

336 : 以下、名... - 2015/02/02 00:08:34.15 Rlpo3dNSo 299/442


「なあ」

「なあに、お兄ちゃん」

「実はさ・・・・・・。母さんから父さんにメールが来たみたいでさ。今の母さんと父さんが揉めているみたいなんだけど」

「母さんって? あたしたちのママのこと?」

「うん。詳しくはわからないけどさ、母さんっていうか奈緒の母親が僕の父さんにメールで、僕と奈緒が仲良くしているのをやめさせろみたいなことを言ってきたみたいなんだ。そのせいで父さんと今の母さんが喧嘩しちゃってさ」

 それを聞いても奈緒の表情には驚いた様子は見られなかった。

「そうか。ママらしいね」

「家で何かあったの?」

 奈緒はそれには答えずに、僕の腕にしがみつくような仕草をした。

「お兄ちゃんって、あんまり昔の記憶がないんでしょ?」

「うん。この間までは小学校低学年の記憶は全くなかったよ。だから去年父さんに聞かされるまでは今の母さんが本当の母親だと思っていたくらいだし」

「あたしのことも覚えてないの?」

「おまえと別れさせられた記憶とか、公園で鳩を追い駆けているおまえを見守ってた光景とかは少しづつ心に浮かぶようになったよ」

「そうか」

 奈緒がぽつんといった。

「まあ、記憶が戻ったっていう感じじゃないんだよね。むしろ、ある短い光景だけ思い出せたっていう感じかなあ。つらい記憶を自己ブロックするような病気らしいんだけど」

 確か解離性健忘とかいうらしかった。

「お兄ちゃん、ママのことは覚えているの」

「・・・・・・前にさ、おまえと二人きりで自宅で過ごしていた記憶があるんだけど、そのとき突然帰宅してきた女の人がいたような。多分、それが本当の母親なんだと思う」

「あたしはね、そのあたりのことは全部記憶にあるの。しかも鮮明に。今日はその話とか、今のママとかあたしの家庭の話とかしようと思っていたんだ」

 奈緒が昨日話があるからと言っていたのはそういうことだったのだ。奈緒との仲がどうなったのかが未だに自分でもよくわかっていなかったけど、昔の話を聞けるようなら聞いてみたい。父さんと今の母さんとの仲違いの原因がつかめるかもしれない。それに今の僕は昔の話を聞かされることに恐れを感じていなかった。一番つらかった奈緒のことを聞かされて、自分でもその思い出の一部を思い出した以上、もうこれ以上のショックは受けないだろうと僕は思った。過去の話については玲子叔母さんからいろいろと聞かせてもらってはいたけど、当時は叔母さんもある意味部外者で傍観者の立場だったから、叔母さんの知識にも限りがあった。

「教えてもらえるなら聞きたいな」

 僕は真面目に奈緒に言った。

「うん。話すのはいいけどあまり時間はないよね」

 一瞬、早く僕に会いたがっているだろう明日香の顔が浮かんだ。でも、自分の過去をはっきりと知りたいという欲望に僕は負けた。

「奈緒さえいいなら時間がかかってもいいよ。だから、全部教えてほしい」

 結局その方が僕と明日香のためにもなるのだと、僕は自分に言い聞かせた。

 奈緒の自宅の最寄り駅で降車して、駅前にあるドトールに僕たちは入ることにした。スタバと違って年配の人が多いし、パーテーションで区切られているだけの喫煙スペースからは煙草の煙が洩れて漂っていたけど、もう奈緒は文句を言わなかった。

 駅から出たとき一応僕は明日香に電話してみたのだけど、コール音だけがむなしく繰り返されるだけで明日香は電話に出なかった。もう仕方がない。明日香にはあとで謝ろう。

 再び飲み物を前に向かい合った僕たちはしばらくは黙ったままだった。明日香は目の前のコーヒーに砂糖を入れて延々と掻き回していた。でもやがて奈緒がゆっくりと話を始めた。

337 : 以下、名... - 2015/02/02 00:09:04.84 Rlpo3dNSo 300/442


「あたしね、今まで大切にしてきたものが二つあるの」

「うん」

「一つはピアノ。あたしにとってはピアノを弾いている時間が一番充実しているの。お兄ちゃんというか奈緒人さんを好きになるまでは」

 それには何と答えていいのかわからない。ひょっとしたら答える必要もないのかもしれない。

「・・・・・・最初はママに勧められてそれほど関心もなく始めたんだけど、弾くことによって普段は出せない感情表現ができるとか、それが聞いている人たちに思っていたよりはっきりと伝わることがわかってからは、自分からのめり込んでいったの」

「そうか」

「でも演奏が感情表現に至るまでの距離って意外と遠くてね。やっぱり技術も必要なのよ。正確に演奏するとかそういうテクニックがあって、その次に初めて感情表現が来るって感じかな。それでもピアノが好きになって必死に練習しているうちに段々と技術の方は身に付いてきたんだけど、そうなってみると逆に何を聞いている人に伝えたいんだかわからなくなっちゃったのね」

 ピアノの話にはそれほど関心がなかった僕だけど、そのとき父さんの書いた記事を思い出した。



『中学生離れした正確でミスタッチのない演奏だが感情表現の乏しさは、まるでシーケンサーによる自動演奏を聴いているかのようだ。同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏の感情表現に関しては彼女の方が将来に期待を持てるかもしれない』



 奈緒が自分の娘だと知っていながら父さんはあの記事を書いたのだ。そのときの父さんはいったい何を考えながら記事を書いたのだろう。

「最近までそれで悩んでいたの。行き詰まりっていうのかなあ。佐々木先生にはそんなにあっけからんと弾かないでもっとしっとりと情感を込めて弾きなさいって言われるし」

 指導されている先生にまで言われているなら父さんの感想も的外れなものではないのだろう。

「ピアノの話はもうそこまでにするけど、結局あたしは失ってしまった大切なものをずっと求めすぎていて、そのほかのこと、家族への愛情とか友情とか将来への希望とか普通なら心の中に自然に溢れている前向きな感情が他の人より希薄だったのね。ある意味感情面で欠陥があると言ってもいいのかも。そんなあたしには人に伝えたい気持ちなんかろくになかったから、演奏時の感情表現が下手というより人に伝えたい感情そのものが希薄だったんだと思う」

 何だか難しい話になってきた。

「まあ、ピアノの話はそこまで。もう一つあたしが大事にしてきたことがあるの。何だかわかるよね」

「・・・・・・僕か」

「正確に言うと希望かな。いつか絶対にお兄ちゃんと再会できるんだっていう望み。そして、ただ待っているだけじゃその希望だって実現しないってことはあたしにもわかっていた」

 奈緒が今までで一番と言っていいほど真剣な表情で僕を見た。

「お兄ちゃん?」

「うん」

「あの雨の朝、お兄ちゃんと出会ったことだけど。あれは偶然っていうかあり得ないくらいの奇蹟だったよね」

「そうだな。あの雨の日に奈緒は高架下で傘がなくて立ち往生していたよね」

「そうだよ」

「あのときは家庭でいろいろトラブルもあって、僕は珍しく早く家を出たんだ。そんな偶然もあって僕はおまえとあの高架下で出会ったんだもんな」

「あれはお兄ちゃんが思っている以上にすごい偶然だったんだよ」

 奈緒がそう言った。

338 : 以下、名... - 2015/02/02 00:09:35.96 Rlpo3dNSo 301/442


 あのとき明日香とのトラブルを避けるために僕が早く家を出なければ、そしてあの朝突発的な雨が降って奈緒が高架下で立ち往生しなければ僕たちは再会することすらなかったはずだ。そういう意味では奈緒の言うようにすごい偶然と言えるだろう。

「あたしは毎年パパと面会していたから、お兄ちゃんがどこに住んでいてどこの学校に通っていたかなんてパパから聞いて知っていたんだよ」

 僕は虚を突かれた。玲子叔母さんの話で、実の両親と離れ離れになっている子どもたちとの面会権のことは聞かされていたけど、これまで僕はそのことをあまり真剣に考えたことはなかった。とりあえず僕の方は母親と面会した記憶はないのだから。

「お兄ちゃんの家とか最寄り駅なんか全部パパから聞いてたもん。あたしはお兄ちゃんのことが気になっていたから、面会するたびにお兄ちゃんのことをパパに聞いたの。そしてお兄ちゃんと会いたいとも。でも、パパはお兄ちゃんのことは何も教えてくれないし、会わせてもくれなかった。お兄ちゃんには昔の記憶がないから、あたしとお兄ちゃんが会ったらお兄ちゃんが混乱するからって」

 父さんは奈緒にそんなことを言っていたのか。僕のことを心配してくれてのことなのだろうけど、父さんが邪魔しなければ僕と奈緒はもっと早くに再会できていたのかもしれない。

「でもね。あたしはパパの家を知っていた。そしてお兄ちゃんがそこに住んでいることも。だからパパに黙ってお兄ちゃんと会おうと思えばいつでも会えたの。本当にあたしがその気にさえなればね」

「じゃあ、おまえはずっと僕に会いたくて、しかも会おうと思えば会えたってこと? そして父さんに言われたこと、僕の記憶喪失のこととかを気にしたからおまえは僕に会いに来なかったってことなのか?」

「それだけじゃないの。ママにも釘を刺されていたからね。ママはパパに会う日は必ずこう言うの。『約束だから奈緒がパパに会うことは止められないけど、奈緒人に会っちゃだめ。会うと奈緒と奈緒人が二人とも不幸になるから』って」

 何で僕と奈緒が再会すると不幸になるのだろう。それに父さんも奈緒を僕に会わせなかったという。僕の実の両親が離婚してそれぞれ再婚家庭があって、それを守るために今さら昔の付き合いを蒸し出したくなかったからなのだろうか。それにしてもお互いの家庭ののことだけが問題なら、僕と奈緒が不幸になるとは言い過ぎのような気がする。

 あれ? ふと僕は気がついた。奈緒は僕の家や最寄り駅を知っていた。そして会おうと思えばいつでも僕を探し出せる状態だった。

 このあたりで僕はだんだんと奈緒が何を言いたいのかわからなくなってしまっていた。いや、わからないというより考えたくないと言う方が正しいのかもしれない。マキさんは何で奈緒と僕が再会すると、お互いが不幸になるなんて考えたのだろうか。何より、奈緒と僕のあの朝の出会いは偶然ではなかったのだろうか。

「あの朝ののこと、あれは偶然の出会いじゃなかったのか」

 僕は震える声で奈緒に聞いた。

「自分から行動しなきゃいつまでも望みはかなえられないって思ったし、このままじゃもう一つの大切な夢の方も叶わないかもしれないって考えるようになったから。そう思っていたのは本当だよ」

「じゃあ、おまえがあんな早い時間に駅前の高架下にいたのは、自分の兄と・・・・・・僕と会うためだったの?」

「そうじゃないの。あの朝は本当に偶然だったの。あの日は学校の課外学習の日で、あそこで有希ちゃんと待ち合わせしてたのね。そしたらいきなり雨が降って来て、おまけに有希ちゃんから電話が来て急用が出来たから今日は課外学習休むって言われてどうしようかと思っていたの。そしたら知らない年上の男の人が傘に入らないか? って聞いてきた」

「・・・・・・僕のこと待っていたんじゃないのか」

「違うよ。もうそろそろ自分でお兄ちゃんに会いに行くべきだとは考えていたけど、あのときは完全に偶然だよ。だからあれはすごい偶然だって言ったんじゃない。あたしは今のお兄ちゃんの面影なんか知らなかったから、それがお兄ちゃんだとは思わなかった。駅前で立っていたくらいで簡単にお兄ちゃんと再会するなんて思ってもいなかったからね。ただ、傘に入れてもらって駅まで送ってくれた男の人が気になって・・・・・・、自分でも惚れっぽいなって思ったけど、その時にはもうその人のことが、奈緒人さんのことが好きになってしまってたんだよ」

 奈緒が本当のことを話しているとすれば、僕と奈緒はやはり凄いくらいの偶然のおかげで再会したのだ。それに奈緒はさっき僕と付き合い出したあとに僕が兄であることを知って悩んだと言っていた。最初から兄に会うためにあそこにいたのならそんなことに悩むわけはないし、第一僕に告白なんかするわけがない。

「お兄ちゃんの思っているとおりだよ」

 奈緒は僕の表情から僕の考えていることを読み取ったようだった。

339 : 以下、名... - 2015/02/02 00:10:09.32 Rlpo3dNSo 302/442


「ただね、お兄ちゃんは勘違いしていると思うんだけど」

「それって何? まだ何かあるの」

「あたしはね。お兄ちゃんより早く奈緒人さんとあたしが兄妹だって気がついていたの」

「どういうこと」

 僕は唖然とした。

「最初はわからなかった。でも一目ぼれしちゃって次の日も奈緒人さんを高架下で待ち伏せして」

「そうだったね。あのときは驚いたよ」

「そこでお互いに自己紹介したじゃない?」

「うん・・・・・・あ」

 僕はそのことに気がついた。



『そう言えばお名前を聞いていなかったですね』

 あのとき奈緒はそう言ってから自己紹介したのだ。

『あたしは、鈴木ナオと言います。富士峰女学院の中学二年生です』

 僕のそのとき鈴木奈緒という名前に何も反応しなかった。記憶もなかったから反応するはずもない。でも奈緒は僕の名前も通っている学校も知っていただろう。

『僕は結城ナオト。明徳高校の一年だよ』



「うん。結城ナオトって聞いたとき、奈緒人さんがお兄ちゃんだってすぐに気がついたよ」

 奈緒が言った。

「・・・・・・何でそのときにそう言わなかったの」

「お兄ちゃんには過去の記憶がないってパパから聞いていたから。あたしが勝手に話しちゃっていいかわからなかったし。それにあのときはすぐに明日香ちゃんが・・・・・・お兄ちゃん?」

 目の前が真っ暗になっていく。体から力が抜けこのまま座っていることすらできそうもない。フラバとは少し違う感覚。むしろ絶望感が暗雲のように突然心を外部から切り離したような感覚だ。奈緒は再会した次の日の出会いのときから、僕が兄貴であるあることに気がついていた。

 それでいてその後も平然とそれを隠して、僕に告白したり僕に寄り添ったり僕に嫉妬したり僕とキスしたり・・・・・・。最初から奈緒は僕と本気で付き合う気などなかったに違いない。なぜなら僕が実の兄貴であることを彼女は知っていたから。僕がそれを知ったのは正月のことだったけど、奈緒は僕と付き合う出す前からそのことを知っていたのだ。

 やはり明日香が言っていたことは正しかったのだろうか。最初の出会いこそ偶然にしても、奈緒は僕が兄だと気がついていたにも関わらず僕に告白したのだ。



 やがて意識が覚醒した。フラッシュバックのときのような大袈裟な発汗や頭痛などは感じない。そして奈緒は戸惑いながらも僕を冷静に見ているだけのようだ。明日香が自分を見失ったときの僕を抱きしめてくれたような素振りはない。

「大丈夫?」

「うん。何とか」

「最初からあまり驚かないで。これじゃ最後まで話せないじゃない」

「大丈夫だよ。ちょっと慌てただけだ」

 僕は気を取り直した。奈緒の言葉にどんなにショックを受けたとしても、今では明日香がいてくれる。

「あたしにとってはね、奈緒人さんは始めて本気で好きになった人だったの。だから告白してOKをもらって付き合うことになったときは本当に嬉しかったな」

340 : 以下、名... - 2015/02/02 00:10:40.09 Rlpo3dNSo 303/442


「それは・・・・・」

「そう。だから有頂天になった瞬間、お兄ちゃんの名前を聞いたときあたしは凄くショックだった。地の底に突き落とされたようだった」

「さっきの話、あたしが彼氏がお兄ちゃんだと知って悩んだ話ね、嘘じゃないの。お兄ちゃんと同じくらいにあたしはショックを受けて悩んだ。ただお兄ちゃんと違うのは、お兄ちゃんより大分早く、というか付き合ってもらえたその直後からあたしは間違っていたことに気がついた。お兄ちゃんがあたしのことを付き合い出したばかりの彼女だと思ってくれていたとき、もうあたしは出来立ての自分の彼氏が付き合ってはいけない自分のお兄ちゃんだってわかっていた」

「兄貴だって気がついていたのなら、何でそのまま付き合うような真似を・・・・・・・」

 これは本当にきつかった。初めてのキス。初めての嫉妬。初めての諍い。

 それは僕は初めてできた彼女との大切な思い出だった。奈緒が実の妹だって理解した後でさえ、未練がましい自分に自己嫌悪に陥りながらも大切にしていた記憶なのだ。

「そうね」

 奈緒が僕から視線を外した。

「ごめん」

「何がごめんなの」

「だから・・・・・・。あのときあたしがやめておけばお兄ちゃんだってあんなに苦しくならなかったのにね」

「どういう意味だよ」

「一応考えたんだ。お兄ちゃんに自分が妹だって言おうかって。あたし・・・・・・何で黙っていようなんて、このまま黙っていればお兄ちゃんの彼女になれるかもなんて考えちゃったのかな」

「本当にさっきから意味わかんないよ」

「・・・・・・」

「告白後にしたって僕のことが兄貴だって気がついたんでしょ」

「うん」

「じゃあ、何でそのまま付き合う振り、つうか僕の彼女でいるような振りをしたんだよ。今さら言い難かったのか?」

「ううん。あのときは、嬉しいけどつらくて。つらいけど再会できたのは嬉しくて。それで、自分の中でもよくわかんなくなちゃって。でも落ち着いて考えてみたの。自分が今本当にしたいことは何かって。そしたら簡単だった」

「簡単?」

「うん。考えてみたら、あたしは奈緒人さんと別れるのなんて絶対に嫌だったの。奈緒人さんが自分のお兄ちゃんだったにしても。そして彼氏とじゃなくて本当のお兄ちゃんに再会したい気持も嘘じゃなかった。しばらく悩んでたんだけど、あるときふっと簡単に結論が出ちゃった」

 奈緒が吹っ切れたように淡々と喋る様子に僕は何だか嫌な予感がした。

「お兄ちゃん、あたしを嫌いにならないで」

「何だよいったい」

「聞いたら絶対気持悪いとか思われるもん」

「え」

「あたし・・・・・・。奈緒人さんが実のお兄ちゃんでもいいと思ったの。こんだけ好きになった人があれだけあたしが求めていた人だったのなら」

「・・・・・・奈緒」

「気持悪いでしょ。でもあたしはあのときそう決めたの。そしてその後、お兄ちゃんと手を繋いで抱き合ってキスもしたけど、後悔なんかしてないよ」

 僕はもう何も言えなかった。

341 : 以下、名... - 2015/02/02 00:11:11.96 Rlpo3dNSo 304/442


「世間じゃ近親相姦とか言われるんだろうけど。でも、あたしは本当のお兄ちゃんのことが好き。恋人としても兄としても。だから悩んだけど何も気がつかない振りをして、お兄ちゃんと付き合ってたの。お兄ちゃんには何も言わなかった。っていうか言えなかったけど」

 僕は妹の告白に唖然とした。

「・・・・・・言っちゃった。お兄ちゃんには気持悪いって思われるよね」

 それでも奈緒はようやく心の重荷を降ろしたように見えた。一番最初に高架下で出会ったときのような少しよそよそしい、でも綺麗な微笑を彼女は浮べた。

 結局、明日香が正しかったのだ。奈緒は僕を兄だと知って僕と付き合っていたのだから。ただ、奈緒の言葉を信じるなら、それは僕を苦悩させようという彼女の悪意から起こした行動ではない。そういう意味では明日香は間違っていたということもできた。今の僕にとってどちらの方がより心が休まるかという問題になると、必ずしも奈緒の善意が判明したことの方が僕の心が休まるかというと、そうではない。

 明日香は僕とは血縁関係にはないけど、それでも彼女と付き合い出すときには兄妹の関係であることにだいぶ悩んだ。玲子叔母さんも僕とは血が繋がっていしない、本当の叔母ではないのだけど、明日香は僕と叔母さんが関係したとしたら世間体が悪いと言った。

 奈緒に悪意がないにしても、本当の兄貴だと知りながらもなお僕の彼女になろうとした彼女の心の動きは、今の僕には理解できなかった。僕だって奈緒が本当の妹だと知ったときには悩んだし、無邪気に兄との再会を喜ぶ彼女の心情に嫉妬だってした。でも、どんなに悩んでもどんなに奈緒を恋しく思っても、実の妹だとわかった奈緒をそのまま黙って彼女と付き合うなんていう考えは思いつきもしなかった。それは真実を知った奈緒が僕自身がそうであったように傷付くことを恐れたせいだけど、それだけでなく実の兄妹が恋人同士になれるなんて思いもしなかったということもあったのだ。

「お願いだからあまり悩まないで。お兄ちゃんが明日香ちゃんのことを好きになったのならそれでもいいから。さっきお兄ちゃんが言ってたじゃない? あたしが妹だとわかる前だったら明日香ちゃんのことは振っていったって。あたしにはそれだけで十分だから。これ以上お兄ちゃんに何かしてほしいとか望まないから」

 ここまで比較的冷静に話してきた奈緒は今では必死の表情で僕に言った。

 僕は奈緒に何と言っていいのか言葉が見つからなかった。しばらく沈黙が続いた。

「この話はとりあえずおしまい」

 奈緒が俯いたままで言った。

「そうだね」

 僕には他に言うべき言葉は見つからなかった。

「でも、お兄ちゃんには悪いけど自分の気持ちには嘘はつけないから」

 僕は黙ったままだった。

「だって好きなんだもん。お兄ちゃんが・・・・・・奈緒人さんのことが好きなんだもん。お兄ちゃんに駄目って言われたって自分ではどうしようもないの」

「・・・・・・実の兄妹なんだぜ」

「わかってる。さっきお兄ちゃんが言ったとおりだよね。あたしはお兄ちゃんとは結婚もできないし子どもだって産んであげられない。そんなことはわかってる」

「奈緒・・・・・・」

「いくら話してたって解決するようなことじゃないね。もうおしまい。それに今ではお兄ちゃんには明日香ちゃんがいるんだし」

「奈緒」

 僕は呆けたように繰り返して彼女の名前を呼んだ。

「じゃあ、約束どおり我が家の歴史をお兄ちゃんに説明しますか」

 奈緒は明るく言ったのだけど、彼女が無理をしているのは明らかだった。

「麻季さんのこと、あたしたちのママのことを話そうか」

347 : 以下、名... - 2015/02/04 23:59:27.47 VBPJyus0o 305/442


 不思議なことに、あれだけ心を傷つけられるくらいにつらい別れを経験したはずの奈緒だったけど、その後の生活は不思議と穏かなものだった。自分と兄を家に放置したママ。自分だけを引き取ることを主張して、自分と兄を引きはがしたママ。何よりも雨の夜に手を取り合っておじいちゃんたちの家から脱走した自分を、そこには自分と兄の二人がいたのに、自分だけを車に乗せて兄を置き去りにしたママ。そう考えると冷たい雨の降りしきる夜道を疾走する車内で、奈緒は怯え、身を固くしてママから距離を置こうとすることしかできなかったのだ。

 それでもママは奈緒に優しかった。二人を放置したり引きはがしたりした同じ人とは思えないほど。どこかわからないけど、斜面の中腹に建っている一軒家に連れてこられた奈緒は、ここがこれから自分が暮す新しい家だと告げられた。そして、車を運転していた人が、新しいパパなのだと。

 今まで自分のそばにいた優しいパパは消えていなくなってしまった。新しいパパも不器用そうに、それでいて精一杯の笑顔を奈緒に見せて「よろしくね」と言ったけど、奈緒は身を固くして俯いていただけだった。

「もう遅いわね」
 ママが以前のとおり優しくゆったりとした口調で奈緒に言った。「濡れた服を脱いだらお風呂に入りましょう。ママが洗ってあげる」

 その家のお風呂は真新しかった。そういえばこの家自体が新しい家の香りがする。おじいちゃんたちの家はもちろん、以前に住んでいたマンションに比べてもそのお風呂は少しの汚れもなかった。体を洗ってもらいパジャマに着替えさせられた奈緒に、ママが微笑んだ。

「おなか空いてるでしょ。夕ご飯にしましょう。そしたら奈緒ちゃんはもうお寝んねしなさいね」

 ママに連れられて新しい自分の部屋のベッドに寝かされたとき、兄と別れさせられてからこれまで、自分が一言も声を発していないことに、奈緒は気がついた。もう、このまま一生声を出せないのかもしれない。少なくともお兄ちゃんに再会できるまでは。極度の疲労から眠りに落ちるとき、彼女はそんなことを考えていたのだ。

 翌日、奈緒が目覚めたときには、部屋の中には部屋の二面にある窓から穏かな日差しが差し込んでいた。

348 : 以下、名... - 2015/02/05 00:00:07.47 Y6vtNOm7o 306/442


 奈緒は最初、自分がどこにいるのかわからなかった。この部屋は暖かく居心地がいい。壁紙も新たらしく可愛い色で彩られているし、部屋の中に置かれている家具も落ち着いた色調で、眺めているだけで楽しい気持ちになるような可愛らしい動物の絵も壁に掛けられている。それでも奈緒はこの部屋と、ふかふかしたベッドの上で目覚めた自分に違和感を感じた。そして、次の瞬間、彼女は自分が兄を失ったことを思い出したのだ。

 火がついたような幼児の鳴き声を聞きつけたママが、階下から奈緒の部屋に文字どおり飛んできた。ママは横になったまま泣いている奈緒を抱き起こし、ぎゅっと抱きしめた。

「ごめんね、ごめんね。奈緒ちゃん、泣かないで」

「お兄ちゃんは? お兄ちゃんはどこなの」

 この家に来てから初めて奈緒が口にした言葉がこれだった。ママはそれには答えずに奈緒を抱きしめる手にそっと力を込めたようだった。

「もう大丈夫だよ。これからはずっとママが奈緒ちゃんと一緒だからね」

「お兄ちゃんがいい。お兄ちゃんがいいよ」

「これはちょっとやり過ぎだったんじゃないの」

 部屋に入ってきた男の人がママにそっと話しかけた。昨日の夜、新しいパパと紹介された男の人だ。

「そんなことはないよ。この子のことはあたしが絶対に幸せにしてみせる」

「僕にはこういうことを言う権利はないのかもしれないけど、少なくとも結城が帰国してからはこの子はそれなりに幸せだったんじゃないのかな。本当にこれでよかったのか」

 ママが奈緒の身体を抱きしめたままきつい視線でその男の人を睨んだことが、どういうわけか奈緒にはわかった。

「あなた、それでも本当の」

「今、それを言うなよ。それはもう散々話し合ったじゃないか」

「今さら何言ってるの。あなただって同意したでしょ」

「同意っていうか、あれは脅迫だよ。この子を引き取ることが僕と再婚する条件とか言うし」

「それだけじゃないわ」

「この子を心から大切に扱い育てることだろ? それくらいはわかってるよ。だからこそ言ってるんだ」

「どういうことよ」

「本当に奈緒ちゃんを大切に扱うなら、結城と理恵ちゃんに任せた方がいいんじゃないかな。あの二人、再婚するんだろ」

「あんな女に大切な娘は任せられないに決まってるでしょ」

「君の大切な息子は任せることにしたのにか?」

「あの子のことは口にしないで」

「・・・・・・わかったよ。もう始めちゃったんだ。君の好きなようにするしかないか」

「いい? あなたは最大限の愛情をこの子に注ぐのよ。そうじゃないと怜菜に申し訳ない。博人にだってそう約束したんだから」

「ああ。怜菜の忘れ形見だしな。大切にするけど」

「わかってくれているならいい。そろそろ出かけるんでしょ」

「ああ。ザルツブルグには半年は滞在するからね。途中で一時帰国はするけど」

「気をつけていってらっしゃい」

「・・・・・・半年も不在なのに言うことはそれだけかよ」

349 : 以下、名... - 2015/02/05 00:00:38.66 Y6vtNOm7o 307/442


 このときの両親の話を後になるまで奈緒は覚えてはいたけど、そのときは何を話しているのかさっぱりわからなかった。奈緒人と会えなくなったことが実感されてパニックになっていたこともあるし、当時は今ほど自分の中で情報が不足していたこともある。とにかく、その朝、ようやく奈緒が泣き止んだときには新しいパパはこの家から消えていた。奈緒は、ママと二人きりでこの家で暮らすようになったのだ。

 子どもは大人が考えているより環境に対する順応が早い。奈緒人やパパを失った奈緒も、しばらくしてこの家での生活に慣れてきた。慣れざるを得なかった。ママは、以前とは別人のように奈緒に優しかった。この家に来てからのままの態度を見る限り、彼女の奈緒に対する愛情を疑うことは不可能だったくらいに。

 ママは奈緒を甘やかしはしなかった。生活習慣やすべきこと、してはいけないことについては厳しいくらいに奈緒を躾けようとした。声を荒げたり手を上げたりはしなかったけど。そして、それ以外の場合、ママは奈緒に対して真摯に、そして愛情を持って接してくれていた。それについては、中学生になった今でも奈緒はそう考えていた。

 ママと二人きりで自宅で過ごす生活はすぐに終わりを告げた。奈緒は、富士峰女学院の付属幼稚園に入園することになったのだ。奈緒の入園はきりのいい四月からだったけど、その前に彼女はママに連れられてその幼稚園の編入面接に出かけていったのだ。この頃になると奈緒は奈緒人と別れてから閉ざしていた心をママに対して開き始めていた。奈緒人との別れはまだ幼い心に激しい痛みともに記憶されていたけれど、ママが、自分たちに対してあれほどひどいことをしたママが、いいお母さんに変貌していたことも事実だった。最初はママを疑った奈緒も、さすがにそれは認めることになった。それほど、今のママは奈緒にとっていいママだったのだ。だから、彼女はママに対して普通に振舞えるようになった。わがままを言ったり甘えたりできるようになった。新しいパパとやらは、ヨーロッパで仕事をしているとかで、全く姿を見せようとしなかったので、奈緒は今ではママと二人きりだった。奈緒人を失った喪失感はまだ奈緒の心の中に深く沈潜していたけれど、普段はその姿を見て悩むことすらなくなっていた。このまま過ごしていれば、ひょっとしたら奈緒人のことを忘れていたかもしれなかった。それでも、彼女にとって幸か不幸かそういうことにはならなかったのだ。

「この子には才能があると思いますね」

 ママにそう言ったのは、ボランティアで幼稚園にピアノを教えに来ていた、昔の卒園生の女性だった。東洋音楽大学でピアノ専攻だという若い女性だった。ピアノに触ってみようという幼稚園のそのイベントで、既にピアノを習い始めていた子たちを尻目に、奈緒は後年明らかになるその才能の片鱗を見せたのだ。

「そんなわけないでしょ。この子にはピアノは習わせてないんだし」

 その女性が東洋音大の後輩だと知っていたママも、その言葉には驚いたように言った。

「不思議はないかもしれませんよ。麻季先輩の演奏を生まれてからずっと聞いていたのなら」

 そんなはずはない。博人と離婚する前は、博人のせいとは言わないけれど二人の小さなマンションにはピアノはなかったし、奈緒と二人で暮らし始めた今は旦那のレッスン用の防音のスタジオがあってそこにピアノはあるけれど、麻季は奈緒をそこに入れてピアノを弾いたことはない。

「きらきら星変奏曲を耳コピしたんですよ。弾かせたら途中まで綺麗に弾けたし。奈緒ちゃん、一度佐々木先生に預けてみたらいいんじゃないですか」

 彼女が微笑んでそう言った。

350 : 以下、名... - 2015/02/05 00:01:33.17 Y6vtNOm7o 308/442


 それで、奈緒はママに連れられて佐々木先生の教室に向うことになったのだ。

 佐々木先生は、麻季が教室をやめた後の離婚と再婚をしていたらしいけど、別にそのことに関しては何も言わなかった。ただ、目を眇めたように奈緒を眺め無愛想に麻季に言った。

「あなたの子どもならあたしが聞くから。あなたはそこで待っていなさい」

 佐々木先生も大分年を取ったみたいで、麻季が覚えている背筋の伸びたしゃんとした姿ではなかったけど、それでもよたよたと自分のデスクから立ちあがった先生は、奈緒の方に手を差し伸べた。

「一緒にいらっしゃい」

 二十分くらいしてレッスン室から出てきた先生は、相変わらず無愛想に麻季に言った。

「明日から、幼稚園が終ったら毎日ここに連れてきなさい。あと、あなたは家でこの子を教えちゃだめよ」

「ここに通わせるのはいいんですけど、何であたしが教えたらだめなんですか」

「だめだからだめなのよ」
 先生がにこりともしないでそう言った。「変な演奏の癖をつけるべきじゃないわ。あなたはこの子の送り迎えだけしなさい」

「あたしは別にこの子にピアノを習わせようと決めた訳じゃないんですけど」

「あなたがどう考えようとどうでもいいのよ。とにかく明日からここでレッスンね。あたしが教えるから」

「先生がご自分で?」

「そうよ」



 あのとき。ママから離され無愛想な老女の前で、ピアノの前に座らされたとき。奈緒は萎縮しながら、一生懸命にきらきら星を弾いた。何でもいいから弾ける曲を弾きなさいと言われたからだ。奈緒の演奏を黙って聞いていた佐々木先生は、最後には微笑んだ。この人も笑うことがあるんだ。幼い奈緒はそう思って少し驚いた。

「間違いだらけね」

 そう言って、奈緒を椅子から下ろすと先生はピアノに向った。その日、午後の斜めの光線がレッスン室に降り注いでいたその日。その日の先生の演奏が奈緒の人生を変えたのだ。

「何泣いているの」

 演奏を終えた先生が奈緒に微笑んだ。

「何で奈緒の演奏と音の色が違うの? 同じところを同じように押さえてるのに」

「・・・・・・音の違いがわかるのね」
 今度はその顔から微笑みを消した老婆は、真面目な顔で奈緒を見つめたのだ。「教えてあげる」

「うん」

「あの音を出したい?」

「うん」

「頑張ってピアノの練習できる?」

「うん。奈緒できる」

 奈緒のピアニストとしての人生はここから始まったのだ。

353 : 以下、名... - 2015/02/16 23:35:53.13 ql4S9ZmWo 309/442


 翌日、ママの車で佐々木先生の教室につれられてきた奈緒は、もうあまり気後れや人見知りをしなかった。

「ママは車の中で待っているからね。終ったら車に来なさいね」

「うん」

 ママは奈緒の方を心配そうに見た。

「ピアノが嫌だったり佐々木先生が怖かったらちゃんとママにそう言うのよ。ピアノなんか無理に習わなくてもいいからね」

「うん」

「あら。ちゃんと来たわね」

 昨日ピアノの前で見せた優しい笑顔が嘘のような怖い表情で先生が奈緒に言った。

「はい」

「じゃあ、こっちにおいで」

 先生に後について奈緒が着いた先の小さな部屋にはピアノがなかった。奈緒は周囲をきょろきょろと見回した。

 居心地の良さそうな部屋ではある。暖色系の壁紙と壁全面を覆っている本棚。そこにはいろいろな色の本が納められている。でも、あの綺麗な音の出し方を教えてくるのに必要なはずの楽器は、ピアノだけでなく何もこの部屋にはない。

「じゃあ、じゃあ始めましょうか」

 佐々木先生が言った。

 知識の技術も十分に身に備わった今ならわかるけど、佐々木先生の教え方は初めて音楽や楽器に接する幼児に対する一般的なメソッドに基づくものではなかった。奈緒は、リトミックとか音符の色塗りとか、そういう導入的な教育は全く受けなかった。まだ、幼稚園児だった奈緒は、一見、もう引退してもおかしくないような外見の、老いた佐々木先生から楽典と実技を徹底的に叩き込まれたのだ。それでも、奈緒にとっては佐々木先生のレッスンは大事な時間だった。大切なお兄ちゃんを自分から引きはがしたはずのママは、どういうわけか一緒に暮らすようになってからはすごく優しいいいママだ。辛かった出来事をも忘れさせてしまうほど。奈緒は、自分がママを嫌いなままかどうかまだ幼い自分の胸に問いかけてみては、混乱することになったのだった。

 そういう悩みは、ピアノを弾いているときだけは忘れることができた。自宅でも、家にいない新しいパパのレッスン室が奈緒に開放された。ママは複雑な表情をしながらも、奈緒がピアノの練習をすることについて咎めようとしなかった。だから奈緒は、自宅でもかなりの時間をピアノを弾いて過ごし、佐々木先生の教室でも、そのレッスンに集中して向き合った。

354 : 以下、名... - 2015/02/16 23:38:03.59 ql4S9ZmWo 310/442


 奈緒の生活は少しづつ落ち着いてきていた。それは彼女が奈緒人のことを少しづつ忘れ始めていることと同義だった。兄を失った心の穴を埋めたのはやはりピアノだった。このまま過ごしていれば、奈緒も奈緒人と同様に過去の記憶を失って、かつての仲のいい家族を忘れ、新しい人生を歩んでいたかもしれない。それでも結局そうはならなかったのは、博人の妹、あの辛い時期に奈緒と奈緒人を救ってくれた唯の贈り物のおかげだった。

 奈緒人と家出した奈緒はろくな荷物を持っていなかったし、所持していたわずかな荷物でさえ全てママがチェックしていたのだったけど、ママに連れられて新しい家のお風呂に入れられる前、奈緒はわずかな時間一人で放置された。奈緒は自分のソックスの中に押し込んでいたキッズ携帯を取り出し、タオルが積み重なっている収納スペースに隠した。お風呂から出された奈緒は、やはりママの目を盗んで隠した携帯を左腕の脇の下に挟んだ。結局、その携帯は奈緒にあてがわれた子ども部屋の隅に隠されたのだ。

 それでもその携帯はしばらくは何の役にも立たなかった。唯お姉ちゃんに言われたとおり携帯はマナーモードにしていたけれど、それが振動することは全くなかった。それでも奈緒は、携帯のインジケーターが赤くなるたびに別に隠し持っていた充電器で携帯を充電した。佐々木先生にピアノを教わりだして、人生に唯一つだけ集中したいことがおこったあとも、奈緒は携帯を充電し続けるその習慣を続けたのだ。それだけが今の奈緒にとって、奈緒人とパパを忘れないですむ唯一つだけの手段だったから。

 幸い、その習慣はママに発覚することなく続けることができた。奈緒が佐々木先生の教室に通いだして半年もした頃、レッスンを終えた奈緒はママの車に乗って帰宅した。

「お風呂に入っちゃいなさいね。出てきたら夕ご飯だからね」

「はあい」

 この頃になると、もうすっかりママのせいで辛い思いをしたことは奈緒の記憶からは失われようとしていた。ママが誠心誠意奈緒に優しく接したこともあるだろうけど、やはりそれはピアノのおかげ、もっと言えば佐々木先生のおかげだったと思う。奈緒は自分に対して新しい世界が目の前に開かれ、この先に進みたい景色が提示されていることを知った。まだまだ、追いついてはいけないけど、自分もいつかはこういう演奏がしたいと思えるような演奏家のことも知ったのだ。だから、兄を失ってあれだけ傷付いた奈緒を癒したのは、佐々木先生が無愛想ながらも自分の目の前に開いて見せてくれた、音楽の世界だったのだろう。

355 : 以下、名... - 2015/02/16 23:38:46.66 ql4S9ZmWo 311/442


「譜面どおりに弾いても、譜面の指示を少しだけはずして弾いてもどっちでもいいのよ」
 佐々木先生はレッスンでそう言う。「大切なのは演奏を聞いている人に、ああ、この曲ってこの演奏っていいなあって思わせることなの」

 次第にそんな当たり前の感想しか、先生は行ってくれなくなった。更に言えば。

 富士峰女学院小学校に進級する頃になると、先生の話は妙に抽象的になってきた。正直、まだ奈緒にはその教えを受け止めるだけの準備はなかったのだ。それでも奈緒が受け止めようが受け止められなくてもお構いなしに、佐々木先生は奈緒に対して一方的なレッスンを続けた。今にして思えば多分、佐々木先生にはもう残された時間がなかったのだろう。実質的に、奈緒は佐々木先生の最晩年の最後の弟子だったのだ

「麻季ちゃんは指を折り曲げて弾いていたけど、あなたは指を真っ直ぐに伸ばして鍵盤を叩くのね。でも、今のままでいいから」

 先生はあるとき珍しくずいぶん具体的な奏法のことを言った。抽象的ではないテクニカルなアドバイスについては、もう奈緒が小学生になる頃にはほとんどしなくなっていたので、それは技術面での久し振りの先生の教えだった。

「・・・・・・怜菜と似てるわ」

 佐々木先生が呟いた。

「それ、誰ですか」

「あなたの知らない人。でも、不思議ねえ。弾き方とか譜面の解釈とか怜菜そっくりなのね。有希とは違うのね」

 知らない人に弾き方が似ていると言われても困る。

「ママは指を曲げるの?」

「うん。曲げた方が早く弾きやすいから。でも、あなたはそのままでいいよ」

「それはホロヴィッツとかがそうなのよ」
 自宅で佐々木先生に言われたことをママに報告したとき、ママはそう言った。「指を伸ばして弾くのはね、速度より音色重視の場合が多いの」

「早弾きとかしなくてもいいってこと?」

「昔のフランスではそういう弾き方を教えていた時代があったのね。逆にドイツでは指を曲げて弾くように教えられるんだけどね」

「先生はこれでいいって」

「今でも指を伸ばす人はいるのよ。でも、奈緒ちゃんの場合は不自然に伸ばしすぎかな。佐々木先生がいいって言うならいんでしょうけど」

「レイナさんっていう人もフランスの人なのかなあ」

 そのとき、奈緒の言葉を聞いてママの顔色が変った。

「奈緒ちゃん・・・・・・」

 誰からレイナさんの名前を聞いたの。ママは青い顔で奈緒の顔を真っ直ぐに見た。

「佐々木先生から聞いたんだよ」

 ママの真剣な表情に驚きながら奈緒は答えた。

356 : 以下、名... - 2015/02/16 23:39:20.07 ql4S9ZmWo 312/442


 小学校に入学すると、奈緒はママの送迎なしで佐々木先生のレッスンに通うようになった。家から最寄り駅まで歩き。電車で数駅の佐々木先生の教室まで通う。駅から佐々木先生の教室までは、住宅地として造成されたなだらかな丘を十分ほど登る。奈緒は富士峰女学院小学校に進学するようになってから、他の同級生たち同様送迎なしで電車通学をするようになっていたので、小学校が終った後に佐々木先先生の教室に電車で通うようになったのも自然なことだった。ただし、当時小学生低学年だった奈緒が一人で教室の最寄り駅から佐々木先生の教室まで赴くことがまれだった時期が、一時期だけだけどあったのだ。

 奈緒が小学校に入学してまもなく、その日は訪れた。

 その日は小学校の入学式が終った日だった。入学式に一緒に来たママは夕食の準備をしている。奈緒は夕食に呼ばれるのを待ちながら、今日もらった教科書のページをわくわくしながら眺めていた。そのとき、部屋の隅からかすかな振動がした。最初、何かわからないまま奈緒は振動のする方を眺めた。

 隠していた携帯が振動している。唯から渡されたその携帯は、奈緒人と別れさせられる直前に渡されたものだったけど、ここで暮らすようになるまでの間、一度だって鳴ることはなかったのだ。それでも奈緒はその携帯をママに隠しながら、密かに充電し続けていた。その携帯が、唯に渡されて初めて反応したのだ。

 奈緒は振動する携帯を手に取り、恐る恐る通話ボタンを押した。

『奈緒?』

 携帯の向こうで、ひどく懐かしい声が響いた。


『奈緒。いるの』

 その声は奈緒を、かつて今までで一番幸せだった頃に連れ戻した。優しいママとの二人きりの生活や、佐々木先生のピアノ教室での最近の生き甲斐や小学校でできた友だちとの生活をいっきに忘れさせるほどの勢いで。

『・・・・・・お兄ちゃん?』

『奈緒。奈緒、奈緒は大丈夫なのか』

 電話の向こうで奈緒人の声が響く。ママに放置され、食事もできずお風呂にも入れずただマンションの横に力なく横たわっていたときの記憶が奈緒の心に蘇った。



『ママなんか嫌いだ。奈緒と一緒じゃなければどこにも行かない』

 あのとき、奈緒は奈緒人に初めてキスされたのだった。口をふさがれるような、大人のするようなキスだ。そのときの、体は衰弱しているけど心は震えるようなその瞬間の心の動きは、今でも覚えている。幼い奈緒にとってそのキスは、将来に向けた永遠の約束と同じったのだ。



『奈緒なんだろ? 返事してよ』

 電話の向こうでは、奈緒がこれほど追い求めていた奈緒人の切迫した声が聞こえていた。

357 : 以下、名... - 2015/02/16 23:40:58.42 ql4S9ZmWo 313/442


『お兄ちゃん?』

『奈緒』

 たったそれだけのやりとりで。奈緒は奈緒人との優しく色鮮やかな日々を取り戻した。

『僕のことわかる?』

『・・・・・・』

 奈緒の頬に涙が流れ落ち、どういうわけかそれは全然止まらなかった。こういうことはあの雨の夜の別れ以来のことだった。

『覚えてる』

 奈緒は全身の力が抜けて虚脱状態だったけど、お腹の中から振り絞って答えた。ここでお兄ちゃんに反応できなければ、もう二度とお兄ちゃんに会えないんじゃないか。彼女は恐れたのだ。

『よかった。元気?』

 そのとき自分の体を縛っていた目に見えないくびきがいきなり消滅したようだった。奈緒の幼い脳裏にいろいろと、今言わなきゃいけないことやしなければいけないことが思い浮んだ。

『お兄ちゃん?』

『うん』

『お兄ちゃんって、今どこに住んでいるの』

『新しいお母さんと一緒だよ。奈緒も知ってるだろ? 明日香のママ』

 そういうことは予想できていた。理恵さんと明日香ちゃんとは両家の両親を含めて顔合わせをしたことまであったのだから。正直、奈緒にとってはあのまま唯お姉ちゃんとおじいちゃん、おばあちゃん、そしてパパと奈緒人と、ずっとあのまま暮したかった。でも、パパがそう言うなら明日香ちゃんとそのママと家族になるのも仕方がないと考えていた。とにかく、奈緒にとってはお兄ちゃんを失うことと、ママと再び一緒に暮して意地悪されることだけが一番の心配だったのだ。

『それはわかってる。どこに暮しているのか聞いてるんだよ』

 結局、奈緒の願いは最悪な形で裏切られたことになる。奈緒人とパパとも引き離され、ママと一緒に暮らすことになったのだから。それも実質二人きりで。

『前に住んでいたマンションから近いところだよ』

 奈緒人は奈緒の自宅の最寄り駅からそんなに離れていない駅名を口にした。これなら大丈夫だ。

『奈緒、お兄ちゃんに会いたい』

『それは僕も会いたいよ。奈緒はママと暮しているの』

『うん』

 次の言葉を出す前に奈緒人は少しためらったようだった。

『・・・・・・あのさ。ママに虐められてない?』

『ないの。ここに来てからはママはずっと優しいよ』

『嘘じゃないだろうな』

 奈緒人は疑わしげに言った。無理もない。自宅で食べ物もなしに何日間も放置したのは、奈緒人と奈緒のママなのだから。でも、実際にママは優しかったし、小学生になった今でもそれは変らない。今のママが育児放棄したあのときのママと同じ人だなんて信じられないくらいに。

358 : 以下、名... - 2015/02/16 23:45:10.79 ql4S9ZmWo 314/442


『あのね。奈緒、お兄ちゃんに会いたい』

 奈緒は繰返して言った。

『僕も奈緒に会いたい。でも、どうすれば会えるのかな』

『あのね。奈緒、ピアノ教室に行ってるの』

『そうなんだ』

『小学校に入ってからは毎日は無理なんだけど、幼稚園の時は毎日通ってたの』

『・・・・・・うん』

 当惑したような奈緒人の返事が聞こえる。奈緒は思い切って話を続けた。お兄ちゃんに断られたらどうしようかと心配しながら。

『小学校に入ってからは毎日じゃないんだけど、でも土曜日は毎週佐々木先生の教室に通っているの。一人で電車に乗って行ってるんだよ』

『一人で電車に乗れるんだ。奈緒はすごいなあ』

『土曜日にお兄ちゃんが教室に迎えに来てくれたら、会えると思う』

 電話の向こうで奈緒人が沈黙した。何かを考え込んでいる様子だ。

『お兄ちゃん?』

 奈緒人は何を考えているのだろうか。恐る恐る奈緒は携帯に向かって言った。

『・・・・・・あのさあ。』

『だめ?』

 でも、奈緒人の次の言葉に奈緒は少しだけ安堵した。

『電車ってどうやって乗るの? 僕、一人で電車に乗ったことないよ』

『小学校に行くのに電車乗らないの?』

『小学校なんて歩いて十分くらいだもんな。電車なんか乗らないよ』

『奈緒は四十分くらい電車に乗るよ』

『小学校なんて家の近くにあるんじゃないの?』

『奈緒は私立の学校だから。女子校なの』

『ふーん。じゃあ、奈緒は毎日電車に乗ってるんだ』

『うん。定期のカードを改札でタッチするの。お兄ちゃんにもできるよ』

『定期もカードもないぞ。お金なら持ってるけど』

『じゃあね。お兄ちゃんの家の近くの駅に行って。それで駅に着いたら』



 次の土曜日の午前十一時三十分。

 奈緒は佐々木先生の教室から吐き出されてくる生徒たちから距離を取り、坂を下らずにその場に留まった。それから十五分。約束は三十分だったけど、お兄ちゃんは時計を持っていないし、何より一人で電車に乗ったことがないそうだから、多少待つのはしかたがないと奈緒は思った。時間だけなら携帯を見れば済むのだけれど、乗り過ごしたり切符を買うのに手間取ったりしているのかもしれない。それに別れてから一年以上経ってやっとお兄ちゃんに会えるのだ。少しくらいここで立って待っていることくらいは何でもない。

 それでも不安はあった。パパやママにばれたら、あの雨の夜のように奈緒と奈緒人はまた引き裂かれる。奈緒の方はともかく、奈緒人は家を出ようとしてパパか理恵さんかあるいは明日香ちゃんにばれて、家を出してもらえないのではないか。

 やがて、不安な時間が過ぎママに買ってもらった赤い皮バンドの腕時計が十二時を指した頃、奈緒の携帯が振動した。奈緒は慌てて携帯の通話ボタンを押した。

『お兄ちゃん?』

『奈緒。どうしよう、迷子になっちゃったよ』

364 : 以下、名... - 2015/04/06 23:16:30.29 ilqVK53bo 315/442


 このとき、息を詰めるほど緊張していた奈緒の体が柔らかくほぐれた。奈緒人が奈緒に会うことを躊躇したのでも、パパや理恵さんに止められたのでもない。奈緒人は単純に道に迷って約束の時間に遅れただけだったのだ。考えてみればこれは奈緒が不用意だった。この辺りは造成地だけれど古い時代に造成された土地だったから、高級なイメージはあるし宅地も広いけど、道はとても入り組んでいた。奈緒自身だって電車で通うようになったときはよく駅までの道がわからなかったのに。幸い彼女の駅から佐々木ピアノ教室までの往復は、他の生徒たちと一緒だったから集団についていけば迷うことはなかった。でも、一人で電車に乗るのが初めてで普段は徒歩で近所の小学校に通っている奈緒人には、ここに辿り着くのは難しかったのだろう。

駅前で待ち合わせればよかったのだ。それがレッスン前でもレッスンの後でも。とりあえず奈緒は、兄に今どこにいるのか聞いてみた。その答えは非常に頼りないものだった。

「どこにいるかわかってれば迷子になったなんて言わないよ」

 奈緒人はむっとしたように言った。そして、奈緒は思わず笑ってしまった。奈緒人は別れる以前と全く変わっていない。年上の兄貴のくせに頼りなく心もとない。以前の彼は日常生活の大部分は、妹に頼っていた。それでも彼は優しかった。二人きりの兄妹の、兄のあり方としては理想的なくらいに。物心ついた頃から奈緒はこの頼りなく優しい兄が大好きだったのだ。

 そして、再び奈緒人と再会できそうな今、奈緒人は昔のまま何も変わらない。奈緒はそれが嬉しかったけど、とりあえず今は奈緒人の居場所を探る必要があった

「周りを見てみて。そこから何か見える?」

「屋根と庭しか見えないよ。あとでかい白い犬が僕に向かって吼えてる」

 それならわかる。白い大きな犬がいる家は知っている。そこは駅から佐々木先生の教室までの順路を少しだけ逸脱している。

「その家って、赤い屋根で塔のようなのがあるでしょ?」

「ちょっと待って。ああ、あるよ」

「わかった。あたしがそこに行くからお兄ちゃんはそこから動いちゃだめよ」

「わかったよ」

365 : 以下、名... - 2015/04/06 23:17:16.22 ilqVK53bo 316/442


それは言うほど簡単なことではなかった。白い犬のいる家に迷って辿り着いたのは、奈緒が一人で教室に通うようになった最初の頃だったので、今では意識してそこに行くことは思ったより難しかった。決まった道を教室まで行くことを覚えるのと、かつて迷い込んだ家に再び辿り着くのでは難易度が異なる。まして、この丘に広がる住宅街の街路は、よそものの車の進入を阻止するためにわざとそうしたかどうかはわからないけど、やたら込み入っていたのだ。

 それでも奈緒は何とか奈緒人のいる場所に辿り着くことができた。考えるまでもなくこれは奈緒の責任だった。この辺りの入り組んだ道をちゃんと示さずに、奈緒人に迎えに来させた奈緒の。それに、携帯では簡単そうに迎えにいくと言った奈緒だけど、実はそれはそれほど簡単なことではなかった。それでも奈緒は必死にかつて道を誤ったときのことを思い出しながら、その家の前で途方に暮れているであろう奈緒人のほうを目指した。ようやくそこにたどり着いたとき、その家の前で途方にくれたように突っ立っている奈緒人を、奈緒は見た。

「お兄ちゃん」

「奈緒」

「お兄ちゃん」

「奈緒」

 言葉が出てこない。ただ、お兄ちゃんと呼びかけることだけができるだけで。いろいろ奈緒人に言いたいことはあったのに。

「お兄ちゃん」

「奈緒」

 そのとき呆然と立っていたはずの奈緒人が行動した。奈緒は突然奈緒人に引き寄せられ抱きしめられた。



 奈緒人に抱きしめられた奈緒は、冷静になってからルールを考え奈緒人に伝えた。それは必要なことだったのだけど、それを奈緒人に理解させるまで時間がかかった。

「今そんなことを言われてもよくわからないよ」

 奈緒人が自分の腕の中に入った奈緒を、まるで宝物でも撫で回すように抱きしめながら、くぐもった声で答えた。奈緒もその手に応え奈緒人に強く抱きついた。奈緒人に教えようと思っていたことなど、このとき奈緒の頭から消え去ってしまっていた。奈緒は必死に奈緒人の体に抱きついた。

366 : 以下、名... - 2015/04/06 23:17:48.03 ilqVK53bo 317/442


 そのままどれくらい黙って抱き合っていたかはわからないけど、そのうちに奈緒は我に帰った。あまり時間はないことに気がついたのだ。一週間のうちに奈緒人に会えるのが土曜日の練習の日しかないなら、ここで懐かしさや甘い感傷に浸っている時間はない。奈緒人がこの周辺の地理に暗い以上、二人で会うときの方法をきちんと考えておかなければいけない。前からそういうことに関しては、奈緒人は当てにならないことを知っていた奈緒は奈緒人の腕の中で頭を働かせた。とにかく奇跡的に奈緒人と再会できたのだ。それは、唯お姉ちゃんが先のことを見越して、最後の最後の瞬間に携帯を渡してくれたおかげだったけど、ここから先は唯お姉ちゃんの助力は当てにできない。奈緒人はパパと新しいママ、それに明日香ちゃんと暮している。自分は、新しいパパはほとんど家にいないとは言え、ママと二人でいつも一緒に過ごしている。つまち、もうあの頃のように優しく理解のある唯お姉ちゃんを頼るわけにはいかないのだ。お姉ちゃんも多分それを知っていた。知っていて最後にあたしたちに残してくれたのがこの携帯なのだ。

「お兄ちゃん」

「うん」

「来週からは、もっと早い時間に駅まで来れる?」

「別にいいけど」

「じゃあ、お兄ちゃんは来週からはお迎えじゃなくて、午前中にあたしを駅からピアノ教室まで送ってね」

「う、うん」

「そうすれば道に迷わないですむし。そうしたらそのうちお兄ちゃんも道を覚えられるよ」

「バカにするな」

 お兄ちゃんがちょっとむっとしたように言った。

「僕は道を覚えるのは得意なんだぞ」

 確かにお兄ちゃんの言うとおりだった。お兄ちゃんは異常なほど記憶力がいい。今日のように初めての道ならしようがないけど、一回あたしと一緒に駅から佐々木先生の教室まで行けたのなら、次はもう迷わないだろう。

「じゃあ、最初は一緒に教室まで行こうよ。お兄ちゃんだってそのうちお迎えに来てくれるようになれるでしょ」

「一回で覚えられるかどうかはわかんないけど。何度か通ってれば絶対にわかるよ」

 お兄ちゃんがむきになって言った。相変わらずあたしを抱きしめたままで。ママに放置されれたあのときのように、必死で。力を込めて。

367 : 以下、名... - 2015/04/06 23:18:19.08 ilqVK53bo 318/442


それでも来週以降の打ち合わせはしておかないといけない。まだ、当時のあたしは幼い思考のままだってはずだったけど、あのときは必要なことを思い起こすことがでたみたいった。

「お兄ちゃんは来週の土曜日から朝、駅の改札の前にいてね。出口は二つあるけど今日降りた方だよ。わかる?」

「うん。そこなら大丈夫」

「お兄ちゃんが毎週出かけても理恵おばさんは何も言わないの」

「うん。つうか、父さんも母さんもいつも家にいないもん。わかりっこないよ」

「いつもって? 毎日いないの」

「毎日じゃないけど・・・・・・でも、ほとんどいないな」

 あたしは少しだけ胸が痛いような、そんな感覚に包まれた。それでは、パパが海外にいる時にママはいなくなったあの辛かった日々と一緒じゃないの。

 その気配を悟ったのかお兄ちゃんがちょっと真面目な表情を見せた。

「大丈夫なんだ。そういうときは叔母さんが来てくれるし。明日香も一緒にいるしね」

「そうなんだ。よかったね」

 少しだけ温度のさがった声になってしまった。お兄ちゃんは明日香ちゃんと一緒に暮している。そんなことはわかっていたはずなのに。

「じゃあ今日は帰ろうか」

 奈緒が言った。

「もう帰っちゃうの」

 不服そうなお兄ちゃんの声に、少しだけ奈緒の不満が緩和された。

「ごめんね」
 優しい声で奈緒が答えた。「遅くなるとママが心配するから」

「あんなママなんか心配したっていいじゃん」

 お兄ちゃんの中では、今だにママは兄妹を放置した挙句、二人を引きはがしたひどい人のままなのだろう。今の奈緒にはママはあのときの二人にひどい仕打ちをしたママではなかった。自分でもそのことをお兄ちゃんに説明するのは難しい。でも、今の奈緒にとって、それは正直な気持ちでもあった。

「ママに気が付かれたらもう会えなくなっちゃうよ」

 それでお兄ちゃんも納得したようだった。

368 : 以下、名... - 2015/04/06 23:18:47.31 ilqVK53bo 319/442


 それから週に一度の兄妹の再会が始まった。二人は早い時間に駅の改札口で待合わせし、佐々木先生の教室に直行せず、駅の周辺や教室がある住宅地を二人きりで歩いて過ごした。お兄ちゃんはすぐに周辺の地理を覚えたけれど、彼が奈緒を迎えに来るという当初の意図は結局実現しなかった。それはお兄ちゃんのせいではなく、奈緒の方の問題だった。奈緒は小学校で一人の少女と知り合い仲良くなった。そしてその子が佐々木先生のピアノ教室に通うようになったのだ。

 往路はともかく、一緒の時間にレッスンが終るのに仲のいい彼女を振り切ってお兄ちゃんと帰るわけにはいかなかった。それで、結局奈緒と奈緒人の一時の逢瀬は、午前の駅から佐々木先生の教室までの往路の時間だけになった。

 もちろん、二人はいろいろと工夫して、なるべく一緒にいる時間を増やそうとはした。早い時間に落ち合って、迷路のような住宅地を散歩するように歩いた。まっすぐに佐々木先生の教室に向かわず、わざと回り道をして時間を稼いだり。時には小さな公園のベンチで寄り添って時間を過ごしたりもした。

「帰りも送っていこうか」

 ある日、奈緒人が教室を目の前にした最後の坂道の前でそう言った。奈緒は内心その言葉を聞いて飛び上がりたいほど嬉しかった。自分だけの思い込みじゃない。お兄ちゃんも自分と一緒にいる時間が大切なのだ。奈緒人と一緒にいる時間はあっという間に過ぎる。名残惜しいその感覚を、お兄ちゃんは、奈緒人も同じように感じてくれていたのだ。ただ、残念だけれども奈緒は奈緒人のそのリクエストには応えられなかったのだ。

 送ってもらってから、レッスンが終るまでの時間をお兄ちゃんに一人きりで待たせるわけにはいかない。でも、お兄ちゃんの申し出を断ったのはそれだけの理由ではなかったのだ。この頃になると、奈緒には望むと望まないとに関らず一緒に帰宅する友だちができていたのだから。

 有希は奈緒が富士峰女学院の小学校に入学した頃にできた友だちだった。クラス分けで同じクラスになり、教室で隣の席になった彼女と奈緒は最初から気があって仲良くなった。有希には母親がいない。そのことにコンプレックスを感じていた有希は、家政婦が作ってくれるお弁当を恥かしがっていた。奈緒のお弁当に比べると、色彩が茶色っぽくて嫌だというのだ。確かに奈緒のお弁当は味もいいけれども見た目も色彩に富み良かった。ママはかつての自分の行いを悔いていたのかもしれない。そのせいかどうかお弁当の色彩や味も含め、奈緒の日常生活で彼女が不自由だったり恥かしい思いをしたことは一度もなかった。多分、今のママは本当に奈緒のことを大切に想っているようだった。

「でも、有希ちゃんのお弁当も美味しそうだよ」

「そうかなあ」

 有希は疑わしげに言った。まじまじと自分の茶色っぽいお弁当と奈緒の彩り豊かなお弁当を交互に眺めている。

 色彩はともかく、それは本当に美味しそうに見えた。ママに放置されたあの日々を思い出せば、色なんかどうでもいいとあのときの奈緒なら考えただろう。口に入るものなら何でも美味しく感じるに違いない。

「じゃあ、交換して一緒に食べようよ」

 奈緒が言った。それまで暗く俯きがちだった有希の表情が変わった。暗かった有希の表情が少しだけ明るくなったのだ。この日から奈緒有希は親友になった。

369 : 以下、名... - 2015/04/06 23:19:28.00 ilqVK53bo 320/442


 有希がピアノを始めたのだって奈緒の影響だった。とにかくこの頃の有希は奈緒のすることなら何でも正しいと思っていたらしく、奈緒が軽い気持ちで勧めた佐々木先生の教室への入塾にいつのまにか父親の了解を得てしまった。小学校の友だちが一緒にレッスンに参加することは嬉しかったのだけど、まさかそれが奈緒人が申し出た一緒に帰るということに障害になるとは思っていなかった。往路はともかく、復路、つまり教室から駅まで帰るとき、奈緒はいつも有希と一緒になってしまっていた。だから、せっかくのお兄ちゃんの申し出も断るしかなかったのだ。

 そういうわけで、奈緒と奈緒人の逢瀬はいつも土曜日の午前中、駅から佐々木先生の教室までの間だけだった。それでも、それは奈緒にとっては貴重な時間だった。一週間に一度だけでもお兄ちゃんと一緒にいられる。それに、この頃になると唯お姉ちゃんのプレゼントには別な使い方があることにも気がついていた。このキッズ携帯はメールができる。つまり、土曜日以外でも奈緒は奈緒人とメールで繋がることができたのだ。

 別に自分を捨てる決断をしたパパと、その新しい奥さんである理恵さんや明日香ちゃんと一緒に暮しているお兄ちゃんのことをうらやましいとは思わない。

 緩やかな坂道を並んでゆっくりと歩いているときに、お互いの消息を紹介しあったときにだって、別に奈緒は動揺しなかったと思う。パパには思うところがないとは言わないけど、理恵さんや明日香ちゃんのことは正直どうでもいい。奈緒は奈緒人と別れて生活していることが納得できないだけだった。ただ、その感情さえも、毎週奈緒人と会える時間が確保できているという安心感から、最近では胸を苛むことはなくなってきていた。

 それは、多分ピアノのおかげだ。奈緒人と一緒にいるときにはピアノのことなんか思い出しもしないけど、それ以外の奈緒の時間の全てはピアノの演奏に捧げられていた。後年、中学生になった頃、奈緒は譜面を忠実に再現できるピアニストとして名を馳せるようになるのだけれど小学生当時の奈緒はむしろ、情緒的で奔走に演奏するピアニストの兆しを見せていた。そして、佐々木先生もそれをよしとしていて、多少のミスタッチや譜面無視のテンポを咎めようとはしなかったのだ。
 
 有希もまたタイプとしては奈緒に似たタイプのピアニストだった。伸ばして鍵盤を叩くような指の形も、過剰に修飾を音色に載せようとする演奏スタイルも。ただ、キャリアの差は明らかだった。この頃から参加し始めたコンクールで、奈緒は自分でも驚くほど成績がよかったけど、有希の方は入選することさえなかった。ピアノ演奏でこれだけは間違いないと言われていることだけど、ピアノの演奏に関しては早く始めれば始めるほど上達の度合いに差がつくのだ。

370 : 以下、名... - 2015/04/06 23:19:59.39 ilqVK53bo 321/442


 それでも有希は奈緒に懐いていた。というか有希にとっては自分の上達とかコンクールで上位をとるとか、順位で奈緒に勝つとかそういうことが目的になっていなかったようだった。彼女は単純に奈緒と毎日仲良くできることが純粋に嬉しいみたいだ。

 そんな有希の期待を裏切るわけにはいかなかったから、奈緒は帰り道を奈緒人と一緒に辿ることを諦め、有希と一緒に帰ることにした。そして、それは奈緒にとって別に楽しくないということもなかった。というかむしろどちらかというと楽しかったと言える。

 奈緒の生活環境は改善されていた。奈緒人と引きはがされたとき、ここまで新しい環境に自分が適応できるようになるとは思っていなかった。それがどうだろう。今では自分の生活が楽しいと思えるにまでなったのだ。ママのことを本当に許せたのかどうかはわからばいけど、少なくとも今のママの自分に対する誠意を疑ったことはない。そして、今の奈緒にとっては夢中になれることがある。ピアノの演奏。将来ピアニストになりたいとか、音大に入りたいとかそういうことではない。自分の中でイメージした音楽が少しでも実際に演奏できることだけが奈緒の目標だった。それだけを希求するだけでの生活でも、意外と奈緒は自分の日常に満足できたのかもしれない。それに加えて、お兄ちゃんとも再会できた。親友と言えるような仲のいい友だちも。奈緒人と引きはがされた奈緒にとっては、もうそれ以上望むものはないくらいの生活環境が彼女に与えられたのだ。

 あの日が来るまでは。

373 : 以下、名... - 2015/04/23 23:12:47.80 i6raT+K1o 322/442


それは珍しく有希がレッスンを休んだ日だった。風邪をひいて熱がでたのだと言う。そのことは金曜日に富士峰の先生からクラスの皆に伝えられていた。前日に小学校を休むくらいなら、今日のピアノのレッスンも多分お休みだろう。奈緒はそう思って、いつものように早い時間に奈緒と落ち合って丘の上の住宅地を当てもなく二人で散策しているときに、奈緒人にそれを伝えた。

「じゃあ、今日は一緒に帰ろうか」

 それを聞いた奈緒人が意外なことを口にした。

 正直、そういう反応を期待していなかった奈緒は少し驚いた。午前中のレッスンが終るまで四時間はかかる。その間、奈緒人はどう時間を潰すのか。あるいは一度家に帰ってまた迎えに来てくれるつもりなのか。

「悪いからいい。レッスン終るのに何時間もかかるし」

「待ってる」

「・・・・・・終るのお昼過ぎだよ?」

「待ってるよ」

どうやって四時間も時間を潰すつもりなのだろう。でも、奈緒人が、お兄ちゃんがそう言ってくれるのなら。

「うん。わかった。十二時半頃に教室の前にいてね」

 実際は、そううまくはいかなかった。この日に限って、佐々木先生のレッスンはひどく取り留めなく、また長かったのだ。佐々木先生の教室で今、先生から直接レッスンを受けているのは奈緒だけだった。最近、めきめきと上達し頭角を現してきた有希でさえ、東洋音楽大学で最近準教授になった佐々木先生の長女からレッスンを受けていたのに。

 その日のレッスンは初っ端から何だか不穏な感じだった。最近ではほとんど何も口を挟まずに奈緒の演奏に耳を傾けている佐々木先生は、その日に限って何度も途中で演奏を中断させ、何かぶつぶつと聞こえ辛い声で、でも真剣な表情で奈緒の演奏にコメントした。

 佐々木先生のその日の指導はほとんど奈緒には伝わらなかった。単純に声が低く震えているため、何を喋っているのかわからなかったのだ。それでも、先生の眼光は鋭かった。奈緒は必死になって、先生の指導の意図を探ろうとした。震える指先で譜面を押さえるその場所や、演奏を止められる位置やその時の自分の演奏を思い浮べ、先生が何を言いたいのかを推測したのだ。それは結構、集中を要する作業だった。先生がここまでというような素振りで奈緒の前からよたよたと立ち去って行ったとき、先生同様奈緒の方もくたくたになっていた。

374 : 以下、名... - 2015/04/23 23:13:19.45 i6raT+K1o 323/442


 ピアノの前から立って、教室を出ようとした際に壁の時計を見ると、もう午後の四時だった。これではお兄ちゃんはもう待ってくれていないだろう。奈緒は、ポケットから携帯を出して眺めてみた。お兄ちゃんからの着信もメールもない。

 奈緒は半ば諦めながら佐々木教室の外に出た。教室の敷地の外に奈緒人が立っていた。一瞬、奈緒の心に暖かい風が吹き込んだようだったけど、それは本当に一瞬だった。目の前に立っている奈緒人の顔がひどく青ざめていたからだ。

「お兄ちゃん?」

「・・・・・・奈緒」

 奈緒人の背後にいた女の人が彼を自分の後ろに隠すような仕草をしながら、奈緒の前に出た。それまで、どういうわけか奈緒はその女の人に気がつかなかった。見覚えのある女の人。パパと再婚して、奈緒人と一緒に暮している人。ママと違って今でも奈緒人を自宅に放置して寂しい想いをさせている人。

「もしかして奈緒ちゃん?」

「そうです」

「お久し振りね。あたしのこと覚えてる?」

 理恵さんが微笑んでそう言った。

「覚えてます。おじいちゃんの家とかでよくお会いしましたから。明日香ちゃんとかと一緒に」

 パパの新しい奥さんですよね、とでも言えれば良かったのだろうけど、そういう余裕は奈緒にはなかった。なぜこの場所に理恵さんがいるのか。奈緒人が毎週土曜日にここに来ていることがばれてしまったのだろうか。それでもまだ奈緒は少しだけ事態を見誤っていたようだった。自分と奈緒人を引き裂いたのは、ママだ。確かに今では奈緒にとってはいいママだとしても、その原因を作ったのはママ。それと、そんなママの言うなりになった前のパパ。そう思いつくと奈緒の警戒レベルは少しだけ下がって、内心の不安が収まっていくのを感じた。誰にも気がつかれちゃだめ。そう唯お姉ちゃんは言ったけど、ママに気がつかれるよりはこの人にばれた方がだいぶましだ。少なくともこの人と前のパパは、あたしとお兄ちゃんを引き取ろうとしていたことは間違いない。そういうことを直接的に何度も言われていたのだから。住む場所。新しい家での部屋割り。奈緒人と奈緒と明日香の通う学校とか。

「覚えていてくれて嬉しい。奈緒ちゃんはすごく可愛くなったね。それにピアノも上手なんですってね」

 相変わらず微笑んだまま理恵さんが言った。

「そんなことないです」

 会話はまるで緊迫していないのに、理恵さんは奈緒人を自分の背後にかくまうように隠したままだ。

「久し振りに再会してこんなことを言うのはどうかと思うんだけど」

「はい」

「ごめんね。もう奈緒人とは会わないでもらえないかな」

375 : 以下、名... - 2015/04/23 23:14:22.52 i6raT+K1o 324/442


「・・・・・・何言ってるんですか」

「え」

「何を言ってるの。あなたは」

 奈緒の方に移動しようとした奈緒人を、振り向きもしないで片手で押さえた彼女が言った。

「えと。奈緒人に会えないことがそんなに嫌なの」

 何を言っているのか。この人は。

 確かに、奈緒と奈緒人を引きはがしたのはママだ。そして、面会のときの前のパパの話を聞くと、それを受け入れたのは前のパパだ。だから、戦犯は奈緒の実の父母だ。理恵さんとか今ヨーロッパにいる今のパパに真の責任があるわけじゃない。確かに、理恵さんは戦犯じゃない。それでも、そういう決定が下されたとき、パパに理解を示して奈緒と奈緒人を引きはがすことを許容して前のパパと再婚したのは理恵さんだ。一瞬だけ感じた安堵ははかなく散り去り、再び奈緒は心の中で警戒しだした。

「パパに味方して、お兄ちゃんとあたしを会えなくするのを応援したのはあなたでしょ」

 奈緒は理恵を睨んだ。

「・・・・・・うん。それはそうだね」

 少しだけ戸惑ったような表情を見せた後、理恵さんは言った。戸惑っていた様子なのに、前から準備していたかのように滑らかに。

「あたしもあのときは旦那に言ったのよ。何で戦わないのって。奈緒ちゃんのことが大切なら戦わないで麻紀さんの言いなりになる必要なんかないでしょって」

「何の話ですか」

 本当にこの人が何を言いたいのかわからない。

「あたしだって、奈緒人君と奈緒ちゃんを引き取りたかったのよ。というか、あのときはみんながそう願ってたの。麻紀さん以外はね。でも、ある日さ。パパが、ってパパってあなたの本当のお父さんのことだけど、パパがね。麻季の言うとおりにしようかって言い出したのよ」

 全部初耳の話だ。というか、奈緒人と奈緒は、少なくとも奈緒だけは結果を受け止めるように強いられただけで、その結果に至る過程の話なんか聞かされてすらいない。結果的に今の奈緒の境遇が安定していることだって、ママの改心とか唯お姉ちゃんの携帯とかで奇跡的にそういう状態になったというだけでしかないのだ。

「あたしの両親も、あたしの妹も納得できなかった。パパの家族だってそう。あなたのおじいちゃんとおばあちゃん、それに唯ちゃんだって博人君の出した結論になんか全く納得なんかしていなかった。あたしだってそう。これまで麻季さんのネグレクトに耐えてきたあなたたちは、二人一緒だったから耐えられたんだよ。それを引きはがすなんて」

「でもそうなりましたよね」

 奈緒はようやくそれだけ言った。それでも、今、理恵さんが何かを語ろうとしていることだけはわかった。お兄ちゃんと再び引き離されるにせよ、その代償に理恵さんは自分の知っていることを話そうとしているのかもしれない。

「当然、納得できなかったあたしは、パパ・・・・・博人君を問い詰めもした。でも、埒が明かないの。隠し事なんかそれまでしてこなかった彼が、なぜあなたと奈緒人を別れさせるような選択をしたのか、その理由だけははなしてくれなかったの」

 理恵さんは奈緒人の手をそれまで以上に力を込めて握り締め、自分の方に引き寄せた。

「あなたのママとお話したのよ」

「パパとママが離婚するときにですか」

「ううん。今朝。あなたの家に行って、あなたのママと話をした」

376 : 以下、名... - 2015/04/23 23:15:06.54 i6raT+K1o 325/442


 理恵さんは真面目な表情で奈緒を見つめた。

「三人で一緒に帰りましょうか」

 それで、理恵さんに手を握られた奈緒人と奈緒は、さっさと歩き出した理恵さんに続いて、両側に綺麗に整えられた庭を備えた家の連なる坂道を下り始めた。いつものように奈緒人と手を繋ごうと試みたけど、それ理恵さんにさりげなく阻止された。

「奈緒ちゃんも手を繋ぎましょう」

 それで、奈緒人と奈緒は真ん中にいる理恵さんの両側にいて、理恵さんに手を引かれるように坂を下っていった。眼下には様々な色の民家の屋根が連なって、沈みかけた太陽の放つ夕日を鈍く反射している。屋根の連なりを目で追っていくと、最後には霞が勝った風景に溶け込み、その先の上空には夕日がまさに沈もうとしている。

 何となく、奈緒はこの日の景色はずっと記憶に残るだろうなって考えていた。こんなに緊迫した状況なのに、その景色は奈緒の心の中に深く刻まれていった。

 駅前に着くと、しばらく理恵さんは無言で奈緒の顔を眺めた。

「じゃあ、ここでさよならね。気をつけて帰ってね」

「ちょっと待ってください」

 奈緒が必死で言った。そして、さっきの出会いからこれまで奈緒人は一言も声を発していない。

「何かな?」

「ママと会ったんでしょ。何を話したんですか」

「何って。君が前のパパと面会するのはいいけど、奈緒人とは会わせたくないってことかな」

「あたしとお兄ちゃんが会っているって告げ口したの?」

「してないよ」

 理恵さんが微笑んだ。その微笑は少しだけ悲しそうに見えた。

「具体的な話は全然してない。この先のお互いの距離感をどうしましょうかって相談だったんだ」

「ママは何でお兄ちゃんとあたしが会うのを嫌がるの」

「それは知っているけど私からは言えない。自分でママに聞いてごらん」
 理恵さんはそう言うと、ICカードを取り出して改札を抜けた。「奈緒人君もいらっしゃい」

 奈緒人は奈緒の顔を見ずに、自分のカードをタッチして母親の側に行った。

「じゃあ、元気でね」

 理恵さんが微笑んだ。

「心配しないで。奈緒ちゃんの大好きな前のパパとはこれからも会えるから」

「ちょっと待ってください」

「でも、奈緒人とはこれで二度と会わないでね」

 奈緒は奈緒人の方を眺めた。それでも奈緒人は奈緒の顔を見ず、ただ俯いて黙っているだけだった。

377 : 以下、名... - 2015/04/23 23:16:15.33 i6raT+K1o 326/442

 奈緒の、僕の妹の長い話を聞き終わっても、僕の心には何の記憶も呼び出されることはなかった。正直、引き離された後しばらくの間、奈緒のピアノ教室への送りをしていたことだけは意外だったけど、そう言えば僕はあの複雑な地形や道筋を、勘だけで行き着けるほど記憶していたのだった。だから、これは僕の思い出せないかつての人生において、実際に起こったことなのだろう。夕焼けのイメージも、それ単体ではぼんやりとした記憶は残っている。

 でも、奈緒の打ち明け話が僕に残した印象はそれだけだった。兄妹としてはつらい記憶だろうけど、この話は奈緒が実の兄である僕に恋するようになった理由としては弱すぎる。奈緒には気の毒だけど、僕は正直その時はそういう印象を抱いたのだ。いずれにせよ、かつて幼い頃、奈緒を送っていた記憶も隠し持っていたか携帯電話の記憶もない。



「だからと言って、お兄ちゃんにどうこうしろなんて言わないし、思ったりもしないよ」

 奈緒は告白のせいか吹っ切れたような笑顔を見せた。

「・・・・・・うん」

「あたしの気持ちのことはできれば忘れて。でも、ママや理恵さんが何て言おうと兄妹としてあたしに会うのだけは続けて欲しい」

 それくらいのことはもちろん了承すべきだ。明日香だってそれは認めてくれているのだし。

「それはいいけど」

「よかった」

 奈緒が微笑んだ。認めたくないけど、その笑顔は本当に可愛らしい笑顔だった。

「じゃあ、今日は帰るね」

「うん」

「またね、お兄ちゃん」

 奈緒は胸のあたりで手をひらひらと振って、僕に背を向けた。

 次の約束はしないんだな。僕はその時そう思った。



 電車の中で僕は考えた。

 僕はついさっきまでもう揺るがないでいられると思っていた。もう僕には明日香しかいない。いや、そういう言い方では明日香には失礼だったろう。もうとか言うべきじゃない。もともと僕には明日香しかいなかったのだ。明日香の僕への献身的な態度のせいだけじゃない。きっと僕は明日香が僕につらく当たっていたあの頃から、彼女のことが気になっていたのだ。その想いは決して嘘じゃない。僕だっていい加減な気持ちで明日香に対して結婚しようと言ったり、彼女を抱いたりしたわけじゃない。

 それでも奈緒が近親相姦になることを乗り越えてまで、実の兄である僕に対して愛情を示してきたことに対しては、真剣に向き合わないわけにはいかなくなった気はしていた。

 自分の本当の気持はどうなのだろう。

 そんなことはもう乗り越えたつもりだったのに。明日香に選択を迫られた僕は明日香を選んだのだから、今さら悩む必要なんてない。それなのに何で今さら後出しじゃんけんのような情報が入ってくるのだ。そういうことは選択する前に知りたかった。

 いや、そうじゃない。事前に知らされていたとしても、奈緒の気持が本当だと思ってしまっていたら、それはそれで悩んでいただろう。ついさっきまでは僕は喜んでいた。奈緒が僕と同じ気持を共有してくれていたことに。実の兄妹と知った僕と同様に、奈緒も悩んでくれたのだ。悩んだ時期はずれていたとしても。

 でもお互いには悩んだ末に出した結論は全く異なる。僕は自分の始めての彼女が実の妹だと知って、奈緒と距離を置こうとした。奈緒は違う。奈緒は自分の気持を優先することにしたのだ。そのためなら近親相姦になることすら気持の上で乗り越えて。

 時系列で考えれば明らかだ。最初の告白の後、僕たちは名乗りあった。そして奈緒はそのときに僕が自分の兄であることを知ったのだ。それでも彼女は僕との付き合いを続けた。

 奈緒とのささいな諍い。奈緒とのキス。僕が抱き寄せた奈緒の細い肩。僕の胸に押し付けた奈緒の涙顔。その全ては奈緒が僕を兄だと認識していた後の出来事なのだ。僕は明日香が好きになってはいたけど、これまで明日香の言うことを本気で信じたことはなかった。奈緒が僕のことを兄だと知りながらも、悪意を持って僕を誘ったということを。でも、その方がまだしも迷わないで済んだのかもしれない。それなら少なくとも奈緒は、僕のことを近親相姦的な愛情で誘惑したのではないのだから。

378 : 以下、名... - 2015/04/23 23:17:25.60 i6raT+K1o 327/442


 奈緒と別れて帰宅する途上で、最寄り駅の改札を出たところで明日香と出合った。

「どうしたの」

「ちょっと買物。お兄ちゃんは?」

「いや」

「・・・・・・もう帰る?」

「うん。一緒に帰ろうか」

「今日はパパとママが家に帰ってるよ」

「そうか」

 案の定予想どおり、家に入ってリビングに行くと父さんと母さんが揃ってソファに座っていた。

「おかえりなさい」

 母さんが言った。

「ただいま。ママたち今日は早く仕事終ったの?」

「まあね。あなたはどこかに出かけてたの?」

「うん。玲子叔母さんの家に遊びに行ってた」

「そうなの。じゃあお昼も玲子にご馳走になったんだ」

「あ、うん。なったと言えばなったかな」

 明日香の要領を得ない答えに母さんは笑い出した。

「玲子の手づくりか。あいつは昔から料理が下手だから。じゃあ、お腹空いてるでしょ。もう夕食の支度はできてるからあなたたち順番にお風呂に入っちゃいなさい」

「うん」

 ここまで父さんは会話に参加せずに黙って手元に拡げた新聞に目を落としていた。

 ・・・・・・まだ仲直りしていないのだ。一瞬明日香が悲しそうな目で僕を見た。

「先に入っていいよ」

 僕は明日香に無理に笑いかけた。



「パパとママって今夜も結局お互いに話をしなかったよね」

 夕食後に二階に上がった明日香は自分の部屋に行かずに僕の部屋についてきて、ベッドの上に座ってそう言った。

 一見賑やかな仲の良い家族の団欒のように見えたかもしれない。父さんも母さんもよく喋った。でも両親は子どもたちにはよく話しかけていたけど、お互いに会話を交わすことはなかった。今までなら見過ごしてしまったらろうけど、ここ最近の両親の不穏な様子を気にしていた僕と明日香にはすぐにわかった。

「そうだったね」

「お兄ちゃんは、パパとママが離婚しても一生あたしと一緒にいるって言ってくれたけど、それでもパパとママが別れちゃうのは嫌だなあ。いつまでも四人で暮らせればいいのに」

 明日香がぽつんと言った。

379 : 以下、名... - 2015/04/23 23:18:20.47 i6raT+K1o 328/442


 僕は黙って明日香の肩を抱いた。いつもなら柔らかく寄り添ってくる明日香は、今は身体を固くしたままだった。

「パパとママが別れたらさ、お兄ちゃんとパパが一緒に暮らすのかな? あたしはママと一緒だよね、きっと」

「今からそんな心配しないでもいいよ」

「この家って再婚してから買ったんだって。離婚したらどっちが家を出て行くんだろ」

「さあ。僕にはその辺の記憶はないし。それに考えたってしかたないじゃん。まだ決まったわけじゃないんだし」

「お兄ちゃんはママたちが離婚しても平気なの?」

「平気じゃないって! でもさ、何度も言うけど決まった話じゃないし、夫婦喧嘩なんてよくある話じゃないか」

「何かそれだけとは思えないの。嫌な予感がしてしょうがない」

「まあ、レイナさんっていう人のことを調べてみようよ。何もわからずに心配していてもしかたないし」

「・・・・・・うん」

「明日、奈緒にレイナさんのことを聞くよ」

 僕は明日香に言った。そう言えば奈緒の長い話の中でレイナさんのことは何も触れられていなかった。いや、そうじゃないか。そう言えば話の中でレイナという人の名前が出たことを思い出した。

 確か、奈緒がピアノの先生にその弾き方はレイナに似ていると言われたとかだったはず。それだけでレイナさんの話は終ってしまったのだけど、もう一度ちゃんと聞いてみよう。父さんと母さんの不和の原因の一つには、レイナさんという人の存在があるようだ。もっとも、僕は次にいつ奈緒と会えるのかすらわからないのだけど。

「うん。何か体が震えて眠れないの。今日もお兄ちゃんと一緒に寝ていい?」

「いいよ」

 明日香がようやく少しだけ笑顔を見せてくれた。

380 : 以下、名... - 2015/04/23 23:19:16.08 i6raT+K1o 329/442


 翌朝、教室に入るとまた別な悩みが僕を待ち受けていた。渋沢が真剣な表情で僕を問い詰め始めたのだ。いつもなら止めてくれるはずの志村さんは何だか恐い表情だ。

「奈緒人、おまえさ」
 渋沢が真面目な顔で僕に言った。「奈緒ちゃんと付き合ってるんじゃなかったのかよ」

 僕は何も答えられなかった。こんなところで複雑に絡み合った事態を話すわけにはいかないと思ったからだ。

「・・・・・・この前、明日香ちゃんとおまえ、手を繋いでたよな?」

 玲子叔母さんの会社に行くために、明日香が校門まで迎えに来てくれたときのことだう。あのとき、カラオケに行こうとしていた渋沢と志村さんに、僕と明日香は出合ったのだ。

「うん」

「うん、じゃねえだろ。おまえ、あのとき義理の妹と恋人繋ぎまでしてたじゃねえか」

「・・・・・・だから何だよ」

 僕はいらいらして言った。こんな外野のやつらに複雑な僕たちの関係に口を挟まれる理由はない。ただでさえ考えなければいけないことが多いのに、こいつにまで理不尽に絡まれるなんて。

「ちょっと待って。あんたもいきなりすぎだよ」

 志村さんが口を挟んだ。

「だってよ」

 渋沢の抗議を無視して志村さんが僕に柔らかい口調で言った。でもその表情はやはり優しいなんってものじゃなかった。

「いきなりごめんね。でも、あたしたち奈緒人君が奈緒ちゃんと付き合い出したことが本当に嬉しかったから」

「・・・・・・うん」

「でもさ、奈緒人君って最近、明日香ちゃんと仲良しじゃない」

「僕が明日香と仲良くしたら君たちに迷惑をかけるわけ?」

 こんな言い方を僕はこれまで渋沢にも志村さんにも言ったことはなかった。二人は申し合わせたように少しだけショックを受けたような表情を僕に見せた。

「そんなことないじゃん。でも奈緒ちゃんがかわいそうじゃない」

「奈緒がかわいそう? 何でそうなるわけ?」

 奈緒がかわいそうとか、そういうことは僕が悩めばいいことであって、僕と奈緒が実の兄妹であることを知りもしないでこいつらに非難されることじゃない。

「奈緒ちゃん、かわいそうじゃねえか」
 渋沢怒ったように口を挟んだ。「だってそうだろ? この前は学校まで迎えに来た明日香ちゃんと人まで堂々と手を繋ぐは、昨日だって」

 昨日? もしかして目撃されていたのだろうか。

「昨日の夕方のことよ」

 志村さんが渋沢の話を引き取った。

「駅前でさ。明日香ちゃんってあんたの腕に抱きついてたでしょ。それもずっと」

 こうなってはもう誤魔化しようもなかった。僕は覚悟を決めた。

「僕は明日香と付き合っているんだ。だから、手を繋ごうが抱き合おうが君たちにとやかく言われる筋合いはないんだ」

 これは最低の言い訳だったろう。奈緒が僕の実の妹だと知らない彼らに対しては。

「おい。おまえは奈緒ちゃんと明日香ちゃんと二股かけてたのかよ」

「ちょっと! あんたの言い方じゃだめよ。あたしに任せなさい」

 志村さんが再び渋沢をいさめてくれた。

「言いたくないけどさ、奈緒人君ってこれまで恋愛経験っていうか女の子と付き合ったことないんでしょ」

381 : 以下、名... - 2015/04/23 23:20:29.60 i6raT+K1o 330/442


「・・・・・・何が言いたいんだよ」

「誤解しないで聞いてね。別に君のことを馬鹿にしているわけじゃないの。でもさ、わずかな時間の間に可愛い女の子二人から好かれて、奈緒人君は少し調子に乗っちゃってるんじゃないかな」

 何だそれは。僕は志村さんの言葉に唖然として反論すらできなかった。僕は彼らにそんな風に思われているのか。

「別に責めてるんじゃないよ。誰にでもありがちなことだよ。でも、少し立ち止まって考えた方がいいときじゃないかな」

 なだめるように微笑みながら志村さんは言った。

「おまえさ、二人の女の子に好かれている自分のことを格好いいとか考えてるじゃねえだろうな」

 渋沢が口を挟んだ。

「だからあんたは黙ってろって」

 志村さんが今度は僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「あたしさ。前に言ったじゃない。奈緒人君は奈緒ちゃんみたいな素直ないい子に好かれるんじゃないかと思ってたって」

「うん。そう言っていたね」

「背伸びしたくなることなんて誰にでもあると思う。人間なんだから可愛い女の子に好意を示されたら、ふらふら揺れることもあるよ。でもさ、君には絶対奈緒ちゃんみたいな真面目に君のことを好きな子の方が似合ってるって。今、明日香ちゃんみたいな女の子に流されたら絶対後悔すると思う」

「どういう意味かわかならいんだけど」

 明日香は真面目ではないとでも言いたいのか。かつて志村さんは、僕の妹だと知らなかった明日香のことをビッチ呼ばわりしたことがあった。その後彼女はそれを訂正して僕に謝罪したのだけど、それは本心ではなかったのか。

「明日香が真面目な女の子じゃないって言いたいの?」

 僕はかつて自分が本気で好きになったことがある志村さんに向って言った。僕のことはいい。でも明日香のことを貶めるのはたとえ志村さんであっても看過できない。

「ちょっと待て。そういうことじゃねえよ。おまえは奈緒ちゃんに告白して付き合い出したんだろ? そのおまえが何で義理の妹とベタベタしてんだよ。はっきり言えば、それって浮気じゃねえかよ」

 渋沢がまた口を出したけど、今度は志村さんも彼を止めようとはしなかった。同じ考えだったのだろう。

「昔からおまえとは仲が悪かった明日香ちゃんと仲直りするのはいいよ。でもよ、それが何で恋人同士みたいにいちゃいちゃすることになるわけ? どうしても明日香ちゃんと付き合いたいなら、せめてはっきりと奈緒ちゃんを振ってからにすべきだろうが。どっちにもいい顔して、結果的に奈緒ちゃんを泣かせるなんて。最低じゃねえか、おまえ」

「やっぱりあんたは黙ってろ。奈緒人君を責めたって仕方ないでしょ」
 恐い顔で志村さんが口を挟んだ。「ちゃんと別れてからとかそういうことじゃない。奈緒人君には奈緒ちゃんの方が似合っているって言うべきなのに」

 責められれば責められるほど、僕の心の中では明日香に対する愛情、あいつを守りたいという感情が湧き出してきた。確かに明日香は以前までは誰に責められても仕方のないことをしでかしたのだけど、それでも僕がひどい状態だったときに僕を守ってくれたのだ。僕は明日香と将来を誓った。こんな風に明日香のことをこいつらに悪く言われる必要はない。

「だいたい奈緒ちゃんはもう知ってるの? 奈緒人君が明日香ちゃんとそういう仲だって」

382 : 以下、名... - 2015/04/23 23:21:03.58 i6raT+K1o 331/442


 奈緒が実の妹であることを話しさえすれば、あるいはふたりも納得するかもしれない。でもそれは奈緒に断りなく勝手に他人に話していいことではない。今はせめて嘘だけは付かないようにするしかない。きっと志村さんも渋沢も納得してはくれないだろうけど。

「知ってるよ」

「知ってるって・・・・・・奈緒ちゃんかわいそうに」

 今朝の奈緒は僕と明日香のことを責めなかった。そのことに僕は安堵したのだけれど、彼女がすんなりと受け入れてくれたはずがないことは自分にもよくわかっていた。だから奈緒がかわいそうだという志村さんの感想は的はずれなものではない

「本当にどうしちゃったの。いったい何があったのよ。君は何か何か勘違いしているようだけど、複数の女の子と付き合うことなんて格好いいことでも何でもないのよ」

「それに、明日香ちゃんは血が繋がってはいないかもしれないけど、法律上は同じ戸籍に入っている家族でしょ。妹と付き合うなんておかしいよ。どう考えても奈緒ちゃんの方が奈緒人君には似合っているのに」

 奈緒も明日香も妹なのだ。ただ、奈緒は血の繋がっている実の妹だ。浮気とか複数の女の子と付き合っている自分に酔っているとかそういうことじゃない。

 でも、本当にそうなのか。僕はふと考えついた。奈緒を抱き寄せた自分、明日香と体を重ねた自分。客観的に見れば志村さんの言っていることは間違っていないのかもしれない。

 奈緒のことを話さない限り、僕は急にもて出していい気になっている不誠実なキモオタ扱いだろうけど、それは実は正しいのかもしれない。そこに反論する権利なんてきっと僕にはないのだろう。

「何か言いなさいよ」

 黙ってしまった僕に志村さんが詰め寄った。自分の不名誉はもう拭いようがない。ただ、明日香への渋沢と志村さんの印象だけは誤解であり偏見でもある。そこだけは譲れなかった。

384 : 以下、名... - 2015/04/27 23:36:33.15 qpW2S6hpo 332/442


 そこでホームルームが始まってしまったので、志村さんと渋沢の追及は中途半端なまま終了した。混乱する感情を持て余しながらも、今日帰宅して自分がすべきことを僕は思い出した。

 その日がオープンスクールの前日であることを僕は忘れていた。明日の準備のため授業は午前中で終了し、この日は明日の準備に駆り出されている生徒以外はお昼で下校しなければならなかった。午前の授業が終ると、志村さんや渋沢に捕まる前に校舎を出て明日香の通っている中学に向かった。自宅から歩いていける距離なので一度帰宅して時間を潰してから、中学の授業が終るくらいの時間に僕は校門の前で待機した。

 明日香は僕が迎えに来たことに喜んでくれるだろうか。少なくとも驚いてはくれるだろう。

 明日香の下校時間を正確に知らなかったせいで、結構な時間を校門前で費やすことになった。奈緒のピアノ教室前と同じで中学生たちの視線が気になる。結局四十分ほど待ったところで俯き加減に一人で校門の方に歩いてくる明日香を見つけた。何か考えごとをしているような様子だ。明日香の悩みは挙げようと思えばいくつだって思いつく。

有希への罪悪感。両親の不和。そして・・・・・・奈緒と明日香との間でふらふらしていた自分の彼氏である僕への不安。

「明日香」

 彼女がすぐ近くまで来たところで僕は彼女に声をかけた。俯いていた明日香が顔を上げ僕を見つけた。僕に気がついた明日香の表情が明るくなるのを見て、学校でのできごとを忘れるほど胸の奥が温かくなるような感情に僕は包まれた。

「お兄ちゃん」

「おつかれ」

僕は明日香の方に手を差し伸べた。周囲の生徒たちの視線が集まってくる。珍しく少し照れたような表情を浮かべて、明日香は僕の手を取った。

「こんなところでどうしたの?」

「今日学校が早く終ったからおまえを迎えに来てみた」

「・・・・・・突然何よ、それ」

 明日香が赤くなった。

「帰ろうか」

「うん」

 明日香が手に力を込めて僕の手を握り返した。

 明日香は僕の告白に納得して、僕のプロポーズに応えてくれた。でも、あんな一言だけでこれまでの僕の不誠実な行動への不安が一掃されるわけがないのだ。僕と明日香は将来を約束していろいろな障害を乗り越えたと思っていた。でもさっきの明日香の俯いた顔が僕の頭を離れなかった。明日香の愛を受け入れてから無邪気に僕に抱き付いていたその態度を、僕は心からのものとして受け入れていたのだけど、実は明日香も悩んでいたのだろう。お互いに抱き合いながら密かに悩んでいたのは僕だけではなかったのだ。

385 : 以下、名... - 2015/04/27 23:37:23.23 qpW2S6hpo 333/442


 それに渋沢と志村さんのあの偏見に満ちた意見。奈緒と比較すると明日香がまるで無条件にビッチな女のようなあの言われ方。渋沢の方はまだしもましだった。あいつが問題にしたのは僕の不誠実な態度だったと思うから。でも志村さんは違う。明日香と奈緒を比べて奈緒の方が僕にふさわしいと言ったのだ。明日香が奈緒より劣っているような言い方を彼女は無意識なのだろうけど、そう言外にほのめかしたのだ。

「あたし、買物して帰らないと」

 明日香が僕を見てそう言った。

「買物?」

「冷蔵庫に何もなくなっちゃったからね。食材とか買っておかないと」

「じゃあいつものスーパーに行く?」

「うん。すぐに済むから先に帰っていて。それとも本屋とかで待っていてくれる?」

 明日香は女の子として彼女として奈緒より劣ってはいない。少なくとも僕にとっては。僕はもっと明日香を大切にすべきなのだ。僕はそのとき改めて強くそう思った。

「一緒に行こう。荷物持つよ」

「お兄ちゃん、退屈じゃない?」

「いいよ。僕だって食べるんだし」

 明日香が僕の手を握ったまま少しだけ笑った。

「それはそうか。じゃあ行こう」

 スーパーでの買物に慣れていないという意味では、明日香と僕のスキルは同程度だった。こういうとき家庭的な女の子なら、明日香のように迷いはしないのだろう。

 何が食べたいって聞かれた僕は、何でもいいというテンプレのようなどうしようもない返事を明日香にした。それを聞いて明日香の方も混乱したようだった。彼女にも明確なビジョンはなかったみたいだ。もっともあれが食べたいと答えたところで必要な食材を明日香や僕が選べたかというと、その可能性は少なかっただろう。

 結局、今晩の食事の内容が決まらないままレジに進むことになった。僕が押していたカートに置かれた買い物籠の中には、手当たり次第に放り込んだスナック菓子やカップ麺しか入っていなかった。

「おかしいなあ」

 明日香がカートを押す僕の腕に自分の手を絡めながら不本意そうに言った。

「叔母さんに比べたらあたしの方がまだしも料理ができるんじゃないかと思ったんだけどなあ」

「まあ料理だってスキルが必要だしさ」
 もう今夜の食事はカップ麺であることにとうに納得していた僕は答えた。「そのスキルの中には食材の調達能力とかもあるんだろうしね」

 それは明日香だけでなく僕にも備わっていないスキルだ。

「あたしより玲子叔母さんの方が料理が上手だとかって考えてない?」

「思ってないよ。叔母さんの料理を食べるならカップ麺のほうがまだしもましだと思うよ」

「そういうことじゃなくて。まあ、別にいいけど」

 明日香はそう言ったけど、あまり納得していないようだった。

「どうした」

 何かを考え込んでいる明日香に僕は聞いた。

「奈緒ちゃんとか有希とかなら、きっと家庭的で料理も上手なんだろうなあ。スーパーに来て何を買っていいのかわからないとかって考えもしないんだろうね」

 明日香がぽつりと言った。

386 : 以下、名... - 2015/04/27 23:38:12.85 qpW2S6hpo 334/442


 奈緒とか有希と比べる必要なんかないよ。僕はそう言えばよかったのだ。何でこんな簡単なことが言えないのだろう。もう明日香以外の女の子と付き合わないと決めたのに。

「ファミレスとかで食事して行く?」

 これ以上明日香の曇った顔を見たくなかった。場合によってはもっと明日香を傷つけたかもしれない言葉だったけど、幸いにも彼女はおとなしくうなずいた。僕たちはスーパーで購入したインスタント食品がつまった買物袋を提げたままでファミレスに向った。

 駅ビルの中のファミレスはカップルだらけで混みあっていた。そこは前に有希と三人でよく待ち合わせをした店だった。

「ピザとフライドチキンにする?」

 メニューを眺めずに僕は明日香に聞いた。

「何でそうなるのよ」

「だって、好きなんだろ」

「・・・・・・ここのピザは大きいから一人じゃ食べきれないもん」

「じゃあ二人で分ければいいじゃん」

 明日香が広げたメニューから目を上げた。

「何か今日のお兄ちゃん少し変」

 明日香が僕の方をじっと見てそう言った。

「何が? 僕、変なこと言ったか」

「ううん」
 明日香は何だか取り繕ったように慌てて言った。「何でもない。あたしが選んじゃっていいの?」

「ファミレスのピザなんて何選んだって一緒でしょ」

「まあそうだけど。せっかくお兄ちゃんの好みのピザを選ぼうと思ってたのに。張り合いないなあ」

「おまえ、思っていたより元気だな」

「何言ってるのよ。あたしはいつも元気だよ」

「それならいいけど」

 無理をしているのか本心からなのか。さっき校門で見かけた明日香の曇った表情はもうその片鱗すら見られなかった。

「じゃあ好きに決めちゃうよ」

「いいよ」

 注文を終えた明日香は少しぼうっとして窓の外を眺めていた。いつの間にかだいぶ外は暗くなっている。

 池山の怪我とか渋沢と志村さんの余計なお世話とか、最近の僕にもいろいろあった。レイナさんという人のこととかもある。でも、僕よりももっと精神的にプレッシャーを受けているのは明日香の方だ。これまで僕が何となく考えていたよりも、明日香ははるかにしっかりとした性格をしていた。叔母さんとの間を修復した明日香に僕は感心しつつ萌えていたのだけど、それでも考えるまでもなく明日香だって中学生に過ぎない。

387 : 以下、名... - 2015/04/27 23:38:51.22 qpW2S6hpo 335/442


「悩んでなきゃ別にいいんだけどさ」

 僕は外を眺めている明日香に恐る恐る声をかけた。

「何?」

 明日香が振り向いた。彼女はそのときにはもういつもの明るい表情に戻っていた。

「いや」

「あ、そう言えばさ。今日昼休に叔母さんにメールしたの」

「メールって?」

「だから、言ったじゃん。レイナさんって人のこと、叔母さんに聞いてみるって」

 そう言えばそうだった。池山とか女帝とか叔母さんの安全とか、親友たちの明日香への誹謗とか、そっちに気を取られていた僕はそのことを忘れていたのだ。僕たちの両親の不和。それは奈緒と僕の関係が原因らしいのけど、そこに至る過程でレイナさんという人がかつて絡んでいたらしいことを。

「叔母さん、何だって?」

「これ読んだ方が早いよ」

 明日香が自分のスマホに叔母さんからの返信メールを表示させて僕に手渡してきた。

「ありがと」

 僕は叔母さんのメールに目を通した。



from :玲子叔母さん
sub :Re:質問!
『>>ちょっと叔母さんに質問だよ~。パパとママの会話の中にレイナさんっていう人の名前が出てきたんだけど、どういう人か知ってる?? 知ってたら教えて(はあと)』

『何でそんなこと知りたいのよ? つうかあたし仕事中なんだけど』

『しかし、懐かしい名前だな。あたしもよくは知らないんだけどさ、姉さんと結城さんの大学時代の後輩らしいよ。奈緒人の実の母親の親友みたいだね。詳しく聞いたことはないけど、昔よくその名前が姉さんと結城さんの会話に出てたからさ。でもあたしにはそれくらいしかわからないよ。何でそんなこと知りたいのよ。てか、姉さんか結城さんに直接聞けばいいじゃん』



 これでは何もわからない。ただ、学生時代の後輩だというだけで。

「これじゃ何だかわからないな」

「そだね。叔母さんもママたちのことを何でも知っているわけじゃないんだね」

 明日香が言った。それはそうだろう。婚約者同士の(まあ両親は知らないんだけど)僕と明日香にだってお互いに全てを話しているわけではないのだし、母さんの妹というだけの叔母さんに情報に限りがあるのは無理もない。

「今夜はパパもママもお泊りで仕事だって」

 僕の手からスマホを取り戻した明日香がそう言った。

「そうなんだ」

 一瞬、明日香と二人きりで一緒に夜を過ごせるなという考えが思い浮かんだ。

「少なくとも今夜はパパとママの喧嘩を見聞きしないですむね」

 でも明日香の考えていたことは、僕とはまるで違うことのようだった。

388 : 以下、名... - 2015/04/27 23:39:32.49 qpW2S6hpo 336/442


 次の土曜日、僕はもう奈緒をピアノ教室に迎えには行かなかった。十一時頃になってもリビングのソファに座ったまま付けっぱなしのテレビをぼうっと見ている僕を、明日香は何か言いた気にちらちらと眺めていた。さりげないつもりだったのかもしれないけど、その視線はあまりにも露骨だったのでしまいには僕は笑い出した。明日香は戸惑ったように僕を見た。

「何笑ってるの?」

 何を考えているのか丸わかりだ。やっぱり明日香のこういう思考回路は可愛い。

「行かないよ」

「へ」

「だからもう奈緒のピアノ教室には行かないって言ってるんだよ」

「何で? あたし、もう気にしてないのに」

「明日香を気にしているからじゃないよ。僕がおまえのそばにいたいから」

「何言ってるの」

「奈緒を迎えに行くよりここで明日香のそばにいたいからね」

「・・・・・・・バカじゃないの」

 明日香が顔を赤くした。

「まあとにかく今日は出かける予定はないよ」

「突然どうしたのよ」

 赤い顔のままで明日香は僕を見上げるようにした。

「どこかに遊びに行く?」

「はい?」

「どこかに遊びに行く?」

 僕は繰り返した。

「さっきから何言ってるの」

「デートに誘ってるんだよ」

「お兄ちゃん、熱でもあるの」

「どうしてそうなる。彼女を遊びに誘ったらいけないの?」

「奈緒ちゃんと何かあったんでしょ」

 明日香の顔色が赤から青い顔に変わった。口調もだいぶ恐く真剣なものになった。

「何もないよ。変なこと言うなよ」

「だって・・・・・・。家でゲームをするのが一番好きって言ってたお兄ちゃんがデートなんて。絶対何かしでかしてそれを誤魔化そうとしてるでしょ」

 疑惑を抱いた明日香の誤解を解くのは結構大変だった。それでもひどい結果に終った年末の深夜以来初めて、僕は明日香を外に遊びに連れ出すことができた。これまでもスーパーでの買物とか一緒に外出したことは何度もあるけど、純粋に遊ぶために二人で外出したのは酷い結末に終った年末以来二回目だったかもしれない。

389 : 以下、名... - 2015/04/27 23:40:22.61 qpW2S6hpo 337/442


 別にどこに行ってもよかったのだけど、僕は明日香と一緒に水族館に行くことにした。デートに水族館というのが適切なのか、それとも明日香のように遊んでいた女の子にとってはいい加減にしろよだせーなとかっていう感想を抱かれるような場所なのかはわからなかった。それでも水族館に誘ったことには理由があった。

 僕には過去の記憶が曖昧にしかない。最近は虫食い状態で少しづつ思い出が蘇ってきてはいるのだけど、それでも思い出せないことの方がはるかに多い。奈緒のこともそうだったけど、再婚した父さんに連れられて今の家庭で暮らし始めた記憶についても、あまり記憶は残っていなかった。それでも最近はまだら模様のように記憶の一部が心の中に浮かんでくることがあった。

 最近思い出した記憶の中に水槽の記憶がある。そのガラス張りの立方体は内部から青い照明に照らされていて、その中心には透明なクラゲがゆらゆらと浮かんでいる。その水槽の中の幻想的なクラゲに感嘆しながら僕は女の子と手をつないでいる。

 あれは多分明日香との記憶だ。なぜなら奈緒と一緒の記憶はつらい思い出ばかりで、そういう楽しいイメージは浮かんでこないのだから。唯一の例外はあの夏の日の公園の記憶だけだった。あれは明日香と一緒の記憶だと僕は思い込んでいたのだけど、叔母さんや明日香の話によればあれは奈緒との記憶らしい。そう言われても僕には奈緒の姿は全く浮かんでこない。

 水族館の記憶には悲しかったりつらかったりはしないようなので、きっとそれは明日香との思い出なのだろう。

 その土曜日、嬉しがるというよりは何だか戸惑っているような明日香を連れて、僕は水族館に明日香と一緒にでかけた。自宅から少し離れた東京湾に面した水族館だ。

 僕の期待に反して明日香は終始戸惑ったままで、水槽の中のイルカやペンギンを見てもはずんだ表情を見せてくれなかった。時が過ぎるにつれて僕は次第に焦りを感じた。明日香が僕とのデートに喜んでくれている様子がないことに、僕は落胆していたのだ。

 期待していたような恋人同士の初めてのデートのときのような盛り上がりは全くなかった。ここに誘った僕を気にしてくれたのか、明日香は興味深そうに水槽を眺めるふりをしてくれているようだった。でも本心から彼女がここを楽しめていないことは、鈍い僕にだってよくわかった。結局、環境を変えて恋人とのデートっぽい状況を整えたりしても、本質的に関係を改善する効果なんかないのだろう。僕はそう思った。

「そろそろ帰る?」

 僕は明日香との初めてのデートらしい行動はどうやら失敗のようだった。明日香もきっと僕と同じ気持ちでいるのだろう。

 水族館の建物の横のベンチに隣り合って座ったまま、僕は明日香に言った。こんなに重苦しい雰囲気でなかったらシチュエーションは最高だったろう。人気の無い夕暮れのベンチでふたりきり。目の前には夕暮れの海が広がっている。視界の端には何隻かの釣り船が帰途を急ぐかのように動き始めていた。

「お兄ちゃんが帰りたいなら」

 目の前の海を眺めようとすらしていないらしい明日香が俯いたままで言った。

「おまえはどうしたいんだよ」

「お兄ちゃんがしたいことであたしもいいよ」

 これでは不毛だ。夕暮れの空気は急速に暮れなずんでいくようだ。放っておくとすぐに真っ暗になるだろう。

 もう仕方がない。僕は言わなければいけないと思っていたことをこのタイミングで明日香にぶつけることにした。いずれは告白しなければいけないことなのだ。本当は今日くらいは明日香と恋人同士らしい甘い感傷に耽ることにしようと期待していたのだけど。

390 : 以下、名... - 2015/04/27 23:41:03.16 qpW2S6hpo 338/442


 さっき僕が奈緒を迎えに行かない理由を聞いて顔を赤くした明日香は可愛らしかったけど、今の彼女の表情にはその片鱗すら覗えない。

 昨日も考えたように明日香の悩みはいくつか考えつくことはあった。利用したようになった有希への罪悪感。突然の両親の不和。そして・・・・・・、奈緒と明日香との間でふらふらしている自分の彼氏であるはずの僕への不安。中学生の彼女にとっては重すぎる悩みだし、俯いて暗い顔をするのも無理はない。

 僕は奈緒の言葉を明日香に伝えようとしたのだけど、こんな状況でそんなことを迷いが出てきた。

「寒い?」

 とりあえず僕は話を変えてみた。

「へーき」

 でもいつかは言わなければいけないことだし、明日香の悩みだって今日明日に解決するようなものではない。それに僕が心を決めたことを伝えることができれば、少なくとも奈緒の関係で明日香を悩ますことはなくなるかもしれない。

「あのさあ」

 僕は決心して明日香に声をかけた。

「うん」

「・・・・・・奈緒に言われたんだ。そのことをおまえにも話しておかないといけないと思って」

「・・・・・・うん」

 僕は明日香にありのままを打ち明けた。明日香と生涯添い遂げようと思うなら隠してはいけないことだと思ったから。



『あたし・・・・・・。奈緒人さんが実のお兄ちゃんでもいいと思ったの。こんだけ好きになった人があれだけあたしが求めていた人だったのなら』

『気持悪いでしょ。でもあたしはあのときそう決めたの。そしてその後、お兄ちゃんと手を繋いで抱き合ってキスもしたけど、後悔なんかしてないよ』

『世間じゃ近親相姦とか言われるんだろうけど。でも、あたしは本当のお兄ちゃんのことが好き。恋人としても兄としても。だから悩んだけど何も気がつかない振りをして、お兄ちゃんと付き合ってたの。お兄ちゃんには何も言わなかった。っていうか言えなかったけど』

『・・・・・・言っちゃった。お兄ちゃんには気持悪いって思われるよね』

『お願いだからあまり悩まないで。お兄ちゃんが明日香ちゃんのことを好きになったのならそれでもいいから。さっきお兄ちゃんが言ってたじゃない? あたしが妹だとわかる前だったら明日香ちゃんのことは振っていったって。あたしにはそれだけで十分だから。これ以上お兄ちゃんに何かしてほしいとか望まないから』

『でも、お兄ちゃんには悪いけど自分の気持ちには嘘はつけないから』

『だって好きなんだもん。お兄ちゃんが・・・・・・奈緒人さんのことが好きなんだもん。お兄ちゃんに駄目って言われたって自分ではどうしようもないの』

『わかってる。さっきお兄ちゃんが言ったとおりだよね。あたしはお兄ちゃんとは結婚もできないし子どもだって産んであげられない。そんなことはわかってる』

391 : 以下、名... - 2015/04/27 23:42:05.36 qpW2S6hpo 339/442


 僕は奈緒から告白されたことを洗いざらい明日香に話した。それから俯いたまま身動きすらしない明日香に話しかけた。

「奈緒は僕が実の兄だと知っても僕のことが好きだって、僕と恋人同士でいたいって言ってたよ」

「そう・・・・・・」

 明日香は俯いたまま表情を変えずにぽつりと言った。

「でも、僕が今好きなのは明日香だけだよ。明日香さえよければずっとおまえの彼氏として一緒にいたい」

 明日香は身じろぎしなかった。

「・・・・・・明日香?」

 正直に言うとここまではっきりと自分の気持を話せば、明日香はきっと僕の胸に飛び込んでくるくらいのことはしてくれるのではないかと思っていた。これまでも明日香を傷つける行動を繰り返していた僕だけど、以前心を開いて明日香に正直な想いを伝えたとき、彼女は僕に泣きながら抱きついてきてくれたのだから。

 でも今日は何だか様子がおかしい。告白したときの、プロポーズしたときのような感情を露わにした明日香とは全く違う。

「うん。わかった」

 明日香はただそれだけを言った。それでも僕に気を遣ったのかもしれない。ここで初めて僕の顔を見てくれた。

「お兄ちゃん、そろそろ帰ろう」

 僕は不安に苛まされながら黙って明日香を見た。

「ほら。行くよ」

 そんな僕の様子に構わずに明日香は立ち上がった。帰宅途上、明日香は僕の手を握ろうとすらしなかった。



 別にいつものことだから驚きもしなかったけど、土曜日だというのに自宅は真っ暗なまま夜の底に沈んでいた。

 家に入ってリビングの明かりをつけるとようやく少しだけ家が生命を宿したような感じがした。

「シャワー浴びちゃうね」

 明日香が僕の方を見ずにそれだけ言ってリビングを出て行った。僕の顔を見ようともせずに。

 いくらなんでもこれはおかしい。僕はソファに崩れ落ちるように座りながらそう思った。確かに奈緒の告白はショックだったかもしれない。実の妹だと知って少しだけ安心しだだろう明日香にとっては。

池山のことが心配なのだろうか。池山は見かけと違って常識的なやつだと渋沢も志村さんもそう言っていた。明日香が元彼が重態なことを心配することまでは僕にも理解できた。逆に言うと、いくら自業自得とは言え瀕死の重傷を負って入院している人のことを心配しないよう明日香だったら、僕はここまで好きになったりはしないだろう。

 それにしても、いくら池山のことが心配だからといってそれが恋人である僕への態度を変える理由にはならないのではないか。僕に抱きついて池山を心配する心への慰めを求めたっていいはずだ。明日香が本当に好きな男が僕であるなら。

 それとも池山のこととかは関係なく、僕はついに明日香に見放されたのだろうか。そう考える根拠は山ほど思い付く。

 有希とのこと。それに実の妹の奈緒とのこと。どう考えたって僕が明日香に愛想をつかされる理由にはこと欠かないのだ。

392 : 以下、名... - 2015/04/27 23:43:52.20 qpW2S6hpo 340/442


「お兄ちゃん、お風呂入っちゃって」

 明日香がリビングのドアから顔を覗かせた。もう飯田に振るわれた暴力の痕は癒されているのだろうか。前回明日香を抱いたときにはうっすらと痛々しい痕跡がまだ残っていた。でも今夜はそれを確認することは許されないようだった。

「わかった」

 僕はリビングを出て明日香の隣を通り過ぎた。情けないけど我ながら女々しい声をしていたと思う。でも明日香はそんな僕を無視して二階に上がって行ってしまった。僕は階段上っていく明日香の後姿をただぼうっと眺めていた。

 シャワーを出て自分の部屋に戻った僕は、携帯に着信があることに気がついた。メールだ。



from :玲子叔母さん
sub :無題
『急にメールしてごめん。明日香大丈夫? 何かあったの?』

『さっきちょっと用があって電話したら、明日香のやつ異様に暗い声だったけど喧嘩でもした? まあ、余計なお節介はしないけどちゃんとフォローしときなさいよ』

『じゃあ、くれぐれも明日香のことよろしくね』



 いったい明日香に何があったのだろう。彼女は何に悩んでいるのだろう。謝罪が許されるなら許しを乞いたい。でも、明日香の態度には僕を恨んでいるような様子は見られない。ただ、俯いて考え込んでいるだけで。



 水族館で盛り上がらないデートをした翌日になっても明日香の態度は変わらなかった。いったい明日香に何があったのだろう。奈緒に対する僕のふらふらした煮え切らない態度や池山の容態。それらは明日香の心の負担になっていたことは間違いはない。でも、身勝手に言えばそれは昨日今日始まった話ではない。そういうことを乗り越えて明日香と結ばれたのだと、僕は勝手に考えていた。

 それ以外に明日香を怒らせたり明日香が不安を覚えるようなことがあったのだろうか。今日は日曜日の朝七時だから、まだ明日香が起きてこないのはいつものことだった。明日香が起きてきて顔を合わせるのがつらい。

 明日香が起きるまでの間、僕は必死に考えた。それでも考え得る限りでは、明日香を怒らせたり心配させたりするような行動は自分では思い付かなかった。

「おはよ」

 明日香がそう言ってリビングに入って来た。少し寝癖が付いた髪の毛や乱れたスウェット姿。そんな妹は可愛かった。ただ、その表情は昨日と同じで、いつもの明日香の元気で積極的な様子は全くない。

「おはよう明日香」

 僕はそう答えたのだけど、明日香は僕の方を見もしなかった。

「朝ごはん食べる? 何か作ろうか」

「いい」

 僕の申し出は一瞬で拒否されてしまった。

「じゃあコーヒーを入れるよ」

「いらない」

「紅茶にしようか?」

 明日香は返事もせずにソファに座ってリモコンでテレビのスイッチを入れた。朝の天気予報がリビングに流れ出した。

「せっかくの日曜日なのに今日はこれから雨か」

「・・・・・・そうみたいね」

 相変わらず僕と目を合わせずに明日香は答えた。

 それでも話しかけた言葉に反応してくれたことが嬉しかった僕は話を続けた。

「今日の予定は?」

393 : 以下、名... - 2015/04/27 23:53:23.52 qpW2S6hpo 341/442


 明日香は答えてくれない。

「雨だけどせっかくの日曜日だしどっか遊びに行く? どうせお昼ご飯だって食べなきゃいけないしさ」

「今日はママたちお昼前に帰ってくるって」

 明日香がそれだけ言った。

「そうなんだ。じゃあ午前中はゆっくりしようか。お昼は久し振りに母さんの手料理かな」

「知らない」

 ・・・・・・もう無理だった。

「・・・・・・・いい加減にしろよ」

 僕はなるべく怒りを抑えて冷静に話そうとした。でも幸か不幸か僕の感情はその言葉に乗って外に迸り出てしまったみたいだ。そのせいか明日香は初めて僕と目を合わせた。

「何かおまえの気に障ることしたのか? それはいっぱいおまえに心配かけてきたけど、今は明日香だけだって言ったじゃないか」

「・・・・・・そんなのわかってるよ」

「じゃあ、何で昨日からそんなにふさぎこんでるんだよ。僕の思い違いじゃなければ、僕はおまえにプロポーズしたよな? それでおまえもそれを受け入れてくれたんだろ。それなのにそれが結婚を約束した相手に対するおまえの態度なの?」

 このとき僕は不覚にも涙を浮べてしまったようだった。それがよかったのかもしれない。明日香が昨日以来初めて心を開いてくれたのだ。

 でも、それは聞かなかった方がよかったという類いの話だった。

「ごめん、お兄ちゃん」

 明日香がぽつりと言った。

「・・・・・・本当に何で? 僕のこと嫌いになったのならそう言ってくれよ。そしたら寂しいけど僕だっておまえのことを諦めるから」

「それくらいで諦めちゃうの?」

 明日香が言った。さっきと違って今度は明日香の目に涙が浮かんでいた。

「いや、今のは取り消し。僕はおまえのことを諦めない。・・・・・・本当に嫌いになったのか?」

「なってないよ」
 明日香が突然僕に抱きついた。「嫌いになんてなるわけないじゃん」

 僕は明日香の身体を抱き返した。明日香の嗚咽が近いところから聞こえる。

「本当にどうしたの?」

「・・・・・・あたし、自分が嫌だ。お兄ちゃんの彼女なのに。お兄ちゃんの婚約者になれたのに」

「何が嫌なんだよ」

 このとき泣いている明日香には悪いけど、僕はようやくほっとしていた。この様子では僕は明日香に嫌われたわけではないらしい。もちろん明日香に悩みがあるのはわかっていたけど、それを打ち明けてくれれば、僕たちなら一緒に乗り越えられると思ったからだ。

「大好きだよ明日香」

 僕の腕の中で明日香が震えた。

「あたしも」

「悩んでいるなら聞かせてくれよ。一緒に考えて乗り越えようよ」

「自分が嫌なの。お兄ちゃんに教えてあげなくちゃって思いながらも、もしもそれでお兄ちゃんに振られたらって思って恐くて。そんなことを考えて、お兄ちゃんに隠しごとしている自分が嫌なの」

「僕は明日香のこと振らないよ。むしろ、おまえに振られるんじゃないかって気が気じゃないんだから」

 僕は明日香に笑って見せた。明日香は僕の腕の中で少しだけためらっているようだった。

「明日香?」

394 : 以下、名... - 2015/04/27 23:55:26.11 qpW2S6hpo 342/442


 明日香が僕の腕の中で少し震えたようだった。

「変なこと言って悪かった。奈緒は確かに僕に対して、実の兄貴に対して恋愛感情を抱いているのかもしれない。でも、小さいときにお互いに会えなくされたから、そういう心のバイパスがかかって、僕に対する執着になっているのかもしれないね」

 僕はもう隠しごとや配慮を止めて精一杯誠実に正直に明日香に話すことにした。

「でも、それはありえないよ」

「・・・・・・どういう意味でありえないって言ってる?」

 明日香が泣き出した。

「本当にどうしたの? 心配いらないって。明日香の言ったとおり、実の妹との恋愛なんて真面目に考えるわけないだろ」

 そう言ったとき、どういうわけか僕の胸の奥がちくりと痛んだような気がした。

 明日香はようやく泣き止んだ。そして、僕の腕の中で僕の方を不安そうな上目遣いで眺めた。やがて明日香は途切れ途切れに小さな声で話し出した。

「有希から電話で教えてもらったの。お兄ちゃんと奈緒は実は本当の兄妹じゃないって。二人は血は繋がってないって。お兄ちゃんと奈緒は付き合おうと思えば付き合えるんだよって」

「ちょっと待て」

「レイナさんってね。奈緒ちゃんの本当のお母さんなんだって。お兄ちゃんと奈緒ちゃんは全く血が繋がっていないって」

「嘘だろ」

「有希ちゃんのパパはレイナさんのお兄さんなんだって」

 僕は明日香を抱いていた手を力なく下ろし、そしてゆっくりと床に崩れ落ちた。

398 : 以下、名... - 2015/05/02 23:26:51.27 fRte/KyMo 343/442


 今朝、いつもの電車で僕は奈緒と落ち合って一緒に登校した。

 土曜日にはピアノ教室に行かなかったから、奈緒から実の兄でも僕が好きだと言われたとき以降彼女に会うのは初めてだった。奈緒はスクールバッグを片方の肩にかけ、手には何やら紙バッグをさげている。

「おはようお兄ちゃん」

 奈緒ははにかんだように微笑んで僕に言った。悲壮な顔で実の兄である僕への愛情を語ったあのときの表情は全く残っていない。彼女はいろいろとふっ切れたのだろうか。本当に。

「おはよう奈緒」

「今日も天気が悪いね。雪でも振りそうだね。お兄ちゃん、寒くない?」

「ちょっと寒いけど、でも平気だよ」

「あの」
 奈緒が僕から目を逸らして言った。「あたしはあまり寒くないし」

「うん?」

「よかったらだけど。あの、このマフラー巻いてくれる?」

 それで奈緒が片手に下げていたバッグから綺麗に折りたたまれたマフラーを取り出した。

「これって・・・・・・」

「先月のクリスマスのプレゼント用に編んでたんだけど、あたしのレッスンのせいでお兄ちゃんに渡せなくて」

 奈緒はにっこりと笑って僕の首にチェック柄のマフラーを巻いた。編み物にはうとい僕だけど、編み物でチェック柄を作り出すことの難しさは何となく想像が付く。いったいこのマフラーを編むために奈緒はどれくらいの時間をピアノのレッスンから割いたのだろう。

 というかマフラーを編むのに時間を割くらいなら僕と会ってもよかったのじゃないか。冬休み前後はピアノの集中レッスンのせいで奈緒にデートを断られていた僕はふとそう思ったけど、今はそんなことはどうでもいい。



『有希から電話で教えてもらったの。お兄ちゃんと奈緒は実は本当の兄妹じゃないって。二人は血は繋がってないって。お兄ちゃんと奈緒は付き合おうと思えば付き合えるんだよって』

『冗談だろ・・・・・・』

『冗談ならよかったのにね』

 僕の腕での中で悲しそうに僕を見上げた明日香の泣きそうな表情。



『明日香にこんな話しちゃってごめね。あたし、奈緒のママから聞いちゃったの』

『あたしも動揺して誰かに話したくて』

『奈緒の本当のママって、怜菜叔母さんなんだって』

『ああ、明日香は知らないよね。あたしのパパの妹だよ。あたしが生まれた年に、奈緒を産んでそして事故死しちゃったあたしの叔母さん』

『・・・・・・どういうこと』

『あなたの今のパパと麻紀おばさんは怜菜叔母さんの死んだあと、奈緒を引き取って奈緒人さんと一緒に育てたんだって』

『・・・・・・じゃ、じゃあ』

『うん、そうよ。奈緒と奈緒人さんの間には全く血が繋がっていないの』

399 : 以下、名... - 2015/05/02 23:27:58.36 fRte/KyMo 344/442


「お兄ちゃん、暖かい?」

 僕は無理に奈緒に微笑みかけた。

「うん、暖かいよ」

「そうか。よかった。見た目は悪いかもしれないけど、風邪をひくよりはいいよね」

「ありがとう。っていうかごめん」

「ごめんって何で?」

「奈緒へのプレゼント用意してないや」

「ああ」
 奈緒が微笑んだ。「しかたないよ。あたしがイブには会えないってお兄ちゃんの誘いを断ったんだから」

「今度埋め合わせさせてよ」

「別にいいのに・・・・・・。でも嬉しい」



『お兄ちゃんが実の妹と付き合ったことを知ったら傷付くだろうって。それだけを考えてたのにね。あたし、ばかみたいだよね』

 明日香の湿った声。

『あたしのしたことは全部余計なことだったんだね。お兄ちゃんにも奈緒にも迷惑かけちゃった』

『そんなことは・・・・・・』

 ないって言おうとしたけど客観的に言えば明日香の言うとおりだった。

『あたしが余計なことをしなければ、お兄ちゃんはあんなつらい思いをすることはなかったし、奈緒とは今でも』

 僕は腕の中にいる明日香を慰めようと思った。こいつは今では僕のフィアンセなのだ。あの有希が、善意から明日香に本当のことを言ったかどうかなんてにわかには信じられない。そして第二にたとえ結果として明日香が僕と奈緒の仲を邪魔した動機が間違いだったとしても、それは悪意ではなく単なる勘違いによるものだ。それもどう考えても無理のない勘違いだ。

 だから僕は昨晩、混乱し震えている明日香をずっと抱きしめていた。ずっとぐずっていた明日香は夜中になるとようやく僕の腕の中で眠りについた。今夜は帰ってくるはずの両親は帰宅しなかった。

 今朝の明日香の態度はいつもどおりだった。結局、僕たちはリビングのソファで不自由な姿勢のまま抱き合いながら朝を迎えた。窓越しに射し込む陰鬱な冬の陽光に起こされた僕たちは、もう昨夜の話題を蒸し返さなかった。明日香が甲斐甲斐しく用意してくれた(でも焦げていて苦かった)ハムエッグを食べた僕は、奈緒との約束の時間ぎりぎりに家を出た。明日香にも、このあと僕がいつものように奈緒と一緒に登校することはわかっていたはずだけど、彼女はそのことについては何も言わなかった。

「いってらっしゃい」

 明日香が僕に言った。

「うん」

 僕は明日香を抱きしめてキスしようとした。明日香は僕を避けなかったけど、積極的に応じようともせずただされるままになっていた。何となく行き場を失った手を下ろしながら僕は家を後にした。

400 : 以下、名... - 2015/05/02 23:28:51.87 fRte/KyMo 345/442


 奈緒の編んでくれたマフラーは、駅から外に出た僕の首を寒気から守ってくれた。

 僕は明日香のこと振らないよ。

 僕は明日香にそう言った。その決心は奈緒と顔を会わせた今でも変っていないと思いたかった。明日香のことをずっと大切にして行こうと思ったそのときの気持は変わっていない。奈緒と別れたかれたことに対して、明日香を責めようとは思わなかった。明日香には悪意はないどころか、純粋に僕のことを考えて行動してくれた結果なのだから。

 だけどそれだけでこの話を割り切れるかというとそんなことはなかった。明日香の前では表情に出さないようにしていたけど、僕の頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。

 明日香に告白する前の僕は奈緒のことが本気で好きだったし、奈緒も僕が好きだと言ってくれた。明日香の善意の行動のせいで僕は結果的に奈緒が自分の実の妹だと思い込み、それで僕は奈緒のことを諦め忘れることにしたのだ。

 ただ、奈緒が僕のことを実の兄だと気がついたのは別に明日香とは関係ない。僕の名前を聞いて、この人は昔つらい別れを強いられた兄なんだって奈緒は気がついた。それでもなお、奈緒はそれでも僕と付き合い続けたいと考えた。こんな状況に至った原因は明日香というよりは過去にある。奈緒には僕と違って一緒に暮らしていた頃の記憶があるらしいけど、それでも奈緒には遡って僕と一緒に暮らし始めた頃の記憶まではなかったようだ。

 奈緒が真実を知ったらどうするのだろう。実の兄とでもいいと言い切った彼女だけど、実際にそれを貫くほどの覚悟はなかったのではないか。だから、奈緒は妥協して僕とは仲のいい兄妹であることに満足しようとしているのだ。

 あのとき奈緒は言った。



『お願いだからあまり悩まないで。お兄ちゃんが明日香ちゃんのことを好きになったのならそれでもいいから。さっきお兄ちゃんが言ってたじゃない? あたしが妹だとわかる前だったら明日香ちゃんのことは振っていたって。あたしにはそれだけで十分だから。これ以上お兄ちゃんに何かしてほしいとか望まないから』



 奈緒が真実を知ったらどうするのだろう。

 再び僕は考えた。明日香への誓いを何度も繰り返した僕には、当然ながら奈緒に真実を告げるなどという選択肢はなかった。むしろ知られては困る。でも、あの有希がわざわざ明日香にこんな話を告げ口してくることに何らかの意味があることは明白だった。このまま静かなままでいられるとは思えない。僕がこの秘密を胸にしまって明日香に口止めしたとしても、その情報の大本は有希なのだ。彼女が何らかの理由でこのことを知り合いに話したり、あるいは奈緒自身に直接話したりしたら。有希は奈緒と仲がいいのだ。

 さらに言えば、明日香と奈緒との関係のことはひとまず置いておくにしても、過去の記憶に乏しい僕には、今までになかった欲求が湧き出してきてもいた。これまでは今がよければいいというか、今を凌げればいいと考えるだけで精一杯だった。

 でも僕と奈緒の関係や過去の出来事について、ここまで二転三転する情報を聞かされると、さすがに過去のことを知りたいという欲求も胸の奥から生じてくる。僕と奈緒は、過去のいったいどういう出来事の結果一緒に育てられ、兄妹して育てられたのか、そしてどういう状況の中で引き離されたのか。僕はそのことを知りたい。自分で思い出せれば一番いいのだろうけど、苦労して心の奥を探っても何も役に立つ記憶は見つからない。

 そんなことを考えたのは初めてだった。奈緒には全てを秘密にして現状の関係を守る。明日香の気持を悩ませずようやく落ち着いてきた奈緒の気持を平静に保つためにはそれしかない。有希のことはさておきそれを考慮すれば自分の好奇心なんか抑えるべきだったろう。でも、一度気になってしまった自分の過去への興味はなかなか収まりがつかなかった。


 過去を知るためには具体的にどうすればいいのか、僕にはよくわからなかった。

 ・・・・・・これからどうしよう。校門をくぐりながら僕は思った。

401 : 以下、名... - 2015/05/02 23:29:31.90 fRte/KyMo 346/442


 校門から入ってくる僕に気づくと渋沢と志村さんが僕の方に来た。

「この間は悪かったな」

 渋沢が僕に話しかけてきた。

「いや」

 とりあえず僕はそう返した。

「本当にごめんね? 奈緒ちゃんのことがかわいそうだったから、つい厳しいこと言っちゃったけど奈緒人君が女性慣れしてないせいだとか、言わなくても良いことを言っちゃった」

 志村さんもしおれた声で僕に謝ってくれた。

 それこそ言わなくても良いことだと思ったけど、本気で悪いと思っていることは感じたので僕はもう彼らを恨みに思うのはやめようと思った。それに今の僕はそれどころではなかったのだ。

「もういいよ。僕の方こそむきになってごめん」

「ううん。あたしたちが悪かったの。奈緒人君ごめんなさい」

 気の強い志村さんにしてはずいぶんと殊勝な態度だったから、僕はそのことに内心少し驚いた。渋沢もまるで不意をつかれたかのように志村さんの方を見た。

「本気じゃなかったの。あたし、奈緒人君のことはよくわかってるつもりだし。君が女の子にもてたからといって、いいい気になるような男の子じゃないなんて最初からわかってた」

「あ、うん。わかってもらえたなら、僕は別に」

「あたし、ちょっと奈緒ちゃんと妹さんに嫉妬しちゃったのかな」

 志村さんがふふって笑った。そのときにはもう彼女の顔には申し分けそうな表情は消えていた。その微笑は、少しだけからかうようなそれでいて寂しいような複雑な笑いだった。

「あたしの方が君のことを振ったのに、何であたし奈緒人君にムカついたんだろ」

「な、何?」

「おまえ何言ってるの」

 渋沢が口を挟んだ。

「何よ」

「おまえってどこまで自分勝手なんだよ。今朝はただ奈緒人に謝るって二人で決めたじゃんかよ」

「だから謝ってるじゃん」

「奈緒人の彼女に嫉妬するって今言ったじゃねえか。おまえ奈緒人のこと好きだったのかよ」

「好きだなんて一言も言ってないでしょ。あんたの方こそ何でみっともなく嫉妬してるのよ」

「おまえ今言ったじゃねえか。奈緒ちゃんと明日香ちゃんに嫉妬しちゃったってよ」

「うるさいなあ。浮気しているあんたにそんなこと言える権利があるの」

「だから、誤解だって。だいたいよ、奈緒人は明日香ちゃんのことが好きなんだからな。おまえなんかが割り込めるって思ってるならいい笑い者だぜ」

「うるさいなあ。そんなんじゃないって」

「じゃあ、何でだよ」

「浮気男には答える必要なんてありません。それに前に奈緒人君はあたしに告白してくれんだよ。ね? 奈緒人君」

 何を言っているのだ。どうもこの二人の痴話げんかに巻き込まれているようだけど、僕に謝るとか言いつつ痴話げんかを繰り広げるのはやめてほしい。それに僕が昔志村さんに告白したことはもう忘れて欲しかったのに。

402 : 以下、名... - 2015/05/02 23:31:01.13 fRte/KyMo 347/442


「え・・・・・・? 奈緒人、おまえそれマジ?」

 渋沢が驚いたように言った。

「いや、その」

「あたし、失敗しちゃったなあ」

 志村さんが微笑みながら僕の腕に抱きついた。

「え。何?」

「あのとき、はいって答えていればこんな浮気男じゃなくて君と付き合えていたのになあ」

「・・・・・・くだらねえ。おまえの馬鹿な話になんか付き合っていられるか。奈緒人がおまえに告ったなんて知らなかったけど、どうせ昔の話だろ」

「そうよ。あんたと付き合う前だもん。文句を言われる筋合いなんかないよ」

「奈緒人、俺に気にすることないぞ。今でもこのビッチのことを好きなわけじゃないんだろ?」

「うん。今まで黙ってて悪い。君とと志村さんが付き合い出す前だし、それに志村さんには振られたし」

「こんなことなら君のこと振らなきゃよかった」

「おまえは黙ってろ」

 渋沢はそう言い捨てて踵を返した。「奈緒人、この前は本当に悪かった。奈緒ちゃんでも明日香ちゃんでもおまえが決めたとおりにすればいいよ。俺はどっちにしてもおまえを応援するから」

 彼は志村さんの方を見もしないでそう吐き捨てた。

「そんで、そこの馬鹿女の言うことは気にしなくていいからよ」

「おい」

 僕のことも志村さんの方も振り返らずに渋沢が立ち去ると、志村さんは僕の腕から手を離して俯いてしまった。

「ごめん」

 ようやく志村さんが小さな声で言った。

「いったい何があったの?」

 渋沢も志村さんも僕への謝罪どころではないらしいことは理解できた。どうも二人の痴話げんかの巻き添えを食ったみたいだ。二人GA最初から本気で僕に謝る気があったのかどうかすら疑わしいか。

 僕はため息をついた。謝罪なんかいらないから放っておいて欲しかった。今の僕にはこの二人の仲を心配している余裕なんかない。

「あいつとけんかしちゃった」

 やはりそうか。僕に謝るというより渋沢への意趣返しのつもりで、志村さんは僕に気があるような発言を繰り返していたのだろう。渋沢の気を惹くために。以前の僕だったらその屈辱に耐えられなかっただろうけど、明日香と奈緒のことや自分の過去のことで頭がいっぱいだった今の僕には、志村さんのその行動はひたすら面倒なだけだった。

「それならさ。僕のことなんか引き合いに出して渋沢の気を惹くような真似をするよりか、ちゃんとあいつと話し合ったほうがいいんじゃないの」

 僕の言ったことは正論だったと思うけど、志村さんは不思議そうに僕を見た。

403 : 以下、名... - 2015/05/02 23:31:55.90 fRte/KyMo 348/442


「何かさ」

「うん?」

「何か・・・・・・奈緒人君ってわずかな間に本当に人が変わったね」

 彼女の言葉に僕は意表をつかれた。というか基本的にヘタレで流されやすい性格は昔と変わっていないと自分では思っていた。奈緒のことも明日香のこともそうだ。

「別に何も変わっていないけど」

「そんなことないと思うけどな」

 志村さんは真面目な顔で首を振った。

「ううん。ずいぶんと大人の男の人みたいになったよ。何があったのかは知らないけど」

「別に何もないんだけどな」

「前に奈緒人君があたしに告白してくれたことがあったじゃない?」

 また、その話か。正直に言うとうんざりだった。僕はあのとき彼女に振られたことは自分の中ではとうに消化していた。それは奈緒との出会いによるところが大きかったけど。そして志村さんも僕を振ったことを渋沢にも誰にも喋らないでいてくれていたのに。今さら何であのときの話を蒸し返されないといけないのだろう。

「あのさ。僕はそんなに君に悪いことをした? 君に振られてすぐにおとなしく引き下がったじゃん。付きまとったり未練がましいこともしなかったはずだけど。何で僕の告白のことを渋沢への意趣返しに使われなきゃいけないの?」

「違うよ」

「だってさっき・・・・・・」

「告白してくれたときの奈緒人君が今の君だったら、あたしはきっと君の告白をOKしたと思うよ」

「何言ってるの・・・・・・」

 思いがけな志村さんの言葉に僕は狼狽した。

「嘘じゃないって」

 志村さんが顔を赤くして言った。

 その言葉をそのまま受け取るほど今の僕は初心じゃない。それに、僕の好きな女の子は今では一人だけなのだ。かつては志村さんに惚れていたことは確かだったけど、今ではそうじゃない。

 僕の好きな子は・・・・・・。

404 : 以下、名... - 2015/05/02 23:32:36.27 fRte/KyMo 349/442


 あれ?

 僕の好きな女の子は明日香だ。僕は迷わず明日香の顔を思い浮かべなくてはいけなかったのに、そのとき頭の中には雨の日の高架下で初めて出会った奈緒の顔が浮かんでいた。兄妹じゃないと知って混乱しているからだ。僕は自分にそう言い聞かせた。僕はあれだけ何度も明日香に愛を囁いた。今朝だってそうした。過去を知りたいという欲求と、つらい別れをしたらしい奈緒を求める欲求とを一緒にしてはいけない。

「僕のことなんかどうでもいいよ。告白なんて昔の話じゃない」

「君はもうあたしのことなんかそうやって割り切っているわけ?」

「割り切ってなきゃ君だって気持悪いでしょうが。君は渋沢の彼女なんだから」

「・・・・・・だから、そうじゃなくて・・・・・・」

 志村さんの言葉は歯切れの悪いものだった。

「けんかっていったい渋沢と何があったのさ? 君が変なことを言い出しているのだってそれが原因なんでしょ」

「それはそうだけど。でも、そのせいであたし、あいつの不誠実な態度に気がついたの。こんことなら君の告白に答えていた方が全然よかったなあって。君ならきっと自分の彼女にこんなつらい想いをさせないだろうし」

「・・・・・・あのさあ」

 でも一瞬、明日香と付き合っているのに、奈緒のことを妹だと知ったあとなのに、気持ちの悪い、欲情しているような嫉妬じみた感覚を覚えたことが脳裏に浮かんだ。

「わかってるよ。バカなこと言ってることは。でも、中学生の女の子なんかに言い寄られて、ほいほい浮気するような男のことなんかもう信じられない」

 やっぱりそういうことだった。渋沢は昔からもてていた。容姿と運動神経がいい上に成績もいいとなれば当然だけど、あいつは入学した頃から女の子に告られまくっていた。でも根はいいやつだった。ぼっちでオタクな僕なんかのことを本気で心配してくれるようなそんな性格だった。だから女の子だけではなく男にも人気があり、志村さんは渋沢のそんなところに惚れていたはずだった。それにしても相手が中学生って。

「何かあったの?」

 僕は志村さんの直接過ぎる告白をあえて無視して聞いた。

「何もないよ。ねえ? 君の方こそは明日香ちゃんとか奈緒ちゃんとかとぐちゃぐちゃになってるんじゃないの」

 僕の心の中で起きていることを表現するには図星の言葉だった。でも、本当に何もないなら、もう僕のことは開放して欲しい。僕はそう思った。

「そんなことないよ。僕は明日香と付き合っているしうまくいってる」

「そうかなあ。何か君の方も自信なさそうだね。今ならあたし、君と付き合ってあげてもいいかも」

 このとき僕は、一時は本気で好きになった志村さんに対して腹を立てた。

「渋沢と何があった?」

 僕は繰り返した。彼女はようやく俯きながら話し出した。

「あいつが浮気したのよ。いえ、もしかしたら浮気じゃなくて本気かもしれないけど」

「・・・・・・嘘だろ」

「本当だよ。中学生の女の子と」

「中学生? 誰」

「富士峰の中学生の女の子。太田有希っていう子」

 志村さんはそう言った。

405 : 以下、名... - 2015/05/02 23:33:15.44 fRte/KyMo 350/442


 放課後、下校しようと校門まで来た僕は校門前に志村さんが立っている姿に気がついた。

「奈緒人君」

「君も今帰り?」

「うん」

「あれ? 今日は部活ない日じゃなかった?」

 うちの学校は進学校だったので、部活動は制限されている。土日祭日と平日のうち月曜日と木曜日は教室や図書室での自習以外は下校しなければいけない。いつもなら今日は志村さんと渋沢は一緒に下校デートをする日じゃないか。

「あいつ勝手に帰っちゃったし」

 あんなに仲が良かった二人なのに、目の前の志村さんは唇を噛んで俯いている。

「あのさ」

 彼女は顔を上げ僕を見た。

「さっきはごめん。君にひどいこと言っちゃった」

「別に気にしてないけど」

「今日、何か用事ある?」

 用事はある。真っ先に家に帰って明日香と一緒に過ごしたい。過去を探りたいという強い欲求さえ明日香の側にいたいという気持ちに勝ることはない。僕は正直に明日香に会いたいという気持ちを志村さんに伝えた。

「そうだよね。ごめん」

「別に謝ってもらわなくてもいいけど。それよか、渋沢と仲直りしなくていいの?」

「だって・・・・・・」

「・・・・・・泣かないでよ。君たちならすぐに仲直りできるって」

 これだけ泣かれたら仕方がない。なるべく早く明日香のところに帰れるように祈るしかない。しかたなく僕はそう言った。

「・・・・・・僕でよかったら話聞こうか」

 濡れた瞳のままで志村さんが顔を上げた。

「いいの?」

「うん」

「あたし、聞いちゃったの」



 駅前のスタバで向かい合って座ると志村さんは話し始めた。

「あいつを驚かせようと思ってさ。いつもと違う車両から電車に乗ったのね。そしたら明徳駅から乗ってきた富士峰の中学生の女の子があいつに話しかけてて」

 後ろから兄友を脅かそうと思っていた志村さんは、思わず乗客の背中に隠れた。

『あの・・・・・・突然話しかけてすいません。明徳高校の渋沢さんですよね』

 顔を赤らめた可愛い子が渋沢に話しかけていた。

『そうだけど』

『ごめんなさい。こんなところでいきなり』

『別にいいけど。俺に何か用?」

 顔を赤くしたままその子が何かを渋沢に話しかけた。電車が陸橋に差しかかり走行音が大きくなったせいで二人の会話は聞こえなくなった。渋沢が何かを彼女に話している姿だけが志村さんの目にフォーカスされる。

 二人の会話が聞こえなかった志村さんはずっと渋沢とその女の子を見つめていた。電車が陸橋を抜けたおかげで、志村さんは再び二人の会話を聞くことができた。

406 : 以下、名... - 2015/05/02 23:34:09.75 fRte/KyMo 351/442


『有希ちゃんっていうんだ』

『はい。富士峰の中学二年です』

『有希ちゃんの気持ちは嬉しいけどさ。俺、彼女いるんだよね』

『構いません』

『へ?』

『その彼女さんとあたしを比べてもらいたいです。それで渋沢さんがあたしの方が彼女さんより魅力がないと思われるなら、あたしはあなたのこと諦めます』

『いやさ。俺って浮気とか嫌いだし。二股とかぜってー無理だし』

『二股とかじゃなくて、あたしのことを知ってもらうだけでも駄目ですか?』

『いやさ・・・・・・』

『・・・・・・やっぱり女子校のお付き合いとかに慣れていない女なんかには興味がないんですか』

『そんなこと言ってねえよ。俺の親友にも君の学校の中学生の女の子と付き合ってるやつがいるしさ。あいつら、いいカップルだって思ってるよ』

『それなら。一度、ゆっくりお話させてもらえませんか。二人でお話するだけでもいいんです。前からこの電車でずっとあなたのことを見ていました。初めてお付き合いするならあなたがいいと思ったんです』

『いやさ。それ思い込みだから。女子校だから俺なんかがよく見えるだけじゃね? 富士峰のお嬢様なんかと俺じゃ釣り合わねえしさ。もっと他に君にふさわしい男がそのうち現われるって』

『だって、うちの生徒と渋沢さんの親友が付き合っているって言ったじゃないですか。なんでその人たちはよくてあたしと渋沢さんは釣り合わないなんて言うんですか』

『いやだから俺には彼女がいるし』

 そのあたりで明徳高校前駅に電車が着いたため、渋沢は有希にじゃあねって言って電車を降りたそうだ。

 ・・・・・・これって全然浮気じゃないじゃん。僕は志村さんの話を聞いてそう思った。

「あのさ、それって全然浮気じゃないんじゃないの? 渋沢はちゃんと有希さんという子の誘いを断ってるんだし」

 僕は少し呆れて彼女に言った。こんなことで疑われている渋沢も気の毒だけど、何の関係もないのに巻き込まれている僕も不幸だ。

「でもね。これまでだってあいつに告ってきた女の子は結構いたんだけど、あいつはほとんど無視に近いやり方で振ってくれてたんだよ。それなのに有希って子にはあんなにていねいに相手をしてた。すごく純真で可愛い子だったし、あいつも気になってるんだって思った」

「渋沢は何って言ってるの?」

「『盗み聞きしてたなら何もないことはわかるだろ。俺はちゃんと彼女がいるからって断ったぜ。それなのに何で即浮気認定されなきゃならねえんだよ』って。あいつあたしに謝りもしないで勝手に逆切れしてるの」

 それは逆切れじゃないんじゃないか。まあこんなことで不安になるほど志村さんの渋沢への想いは深いのかもしれない。ちょっと行き過ぎの気はするけど。

「それで喧嘩しているの?」

「ううん。むかついたけど一応断ってはいたようだから仲直りしてあげたの。そしたらあいつ、そんなことよりも一緒に奈緒人に謝ろうぜって。こないだ言い過ぎちゃったからって。あたしも君のことが気になってたんで、うんって言ったんだけど」

「それで今朝校門の前で二人で待ち構えていたのか」

「そうなの。でもあたしがちょっと君のことを気になっているって言っただけであいつ、また逆切れだよ。君だって見てたでしょ? あいつのひどい態度を」

「いや、ひどいっていうか」

407 : 以下、名... - 2015/05/02 23:35:51.00 fRte/KyMo 352/442


 あれで責められたら渋沢がかわいそう過ぎる。僕は志村さんの話を聞いてそう思った。彼女さんはちょっと考えすぎなんじゃないか。

「それでこれからどうするの」

 志村さんが僕の方を見た。

「本当はわかっているの。あたしが大袈裟に騒ぎすぎていることは」

 何だ自分でも理解できてるんじゃないか。僕はほっとした。少しだけ自分のプライドを抑えて兄友に謝ればこの二人はすぐにでも仲直りできそうだ。

「それでも少し不公平だと思う。あいつが告られるたびに心配して夜も眠れなくなるのはいつもあたしだもん。こんなのもうやだ」

「そう言われても・・・・・・。渋沢のこと好きなんでしょ」

「・・・・・・うん」

「渋沢だって志村さんが一番好きだと思うよ。それさえ確かなら不公平とかそういうことはないんじゃないかなあ」

「そういうことを平気で言えちゃうのは、君が明日香ちゃんにも奈緒ちゃんにも好かれているからだよ。自分が選べる立場だからそんなに余裕で奇麗ごとが言えるんだよ」

 僕が選べる立場? 余裕があるって?

 高校生になるまで女の子とろくに話したこともなく、告白されたこともなく、バレンタインデーには明日香にさえ何ももらえず、仕事が一段落した母さんから一週間遅れで義理チョコをもらえるだけだった僕に余裕がある? 母さんのほかにチョコをくれたのは玲子叔母さんくらいだ。叔母さんだけは昔から僕のことを気にしてくれてたから。

「選べる立場って・・・・・・それ皮肉? 僕が女性にもてなかったことは君だって知っているでしょ」

 僕は弱々しく言った。この手の情けない話を女の子に話すのは本当に嫌だったけど。

 志村さんは不思議そうに僕を見た。

「さっきあたし君に言わなかったっけ」

「何を?」

「君は変わったって。今の君は昔の君と違うと思うよ。あたし君に言ったじゃん。あたしに告白してくれたのが今の君だったらきっとOKしてたって」

「よくわからない」

 僕は戸惑った。

408 : 以下、名... - 2015/05/02 23:36:33.17 fRte/KyMo 353/442


「何でわからないの?」

「何でって・・・・・・人間ってそんなに簡単に変われるものじゃないし」

「経験は人の性格を変えることがあるんじゃないかなあ。誰もが憧れる奈緒ちゃんみたいな可愛い子と付き合ったり、ちょっとツンデレの義理の妹さんからすごく愛されたりとかしたらさ。自分に余裕とか自信とか備わってくるんじゃない?」

「自分じゃわからないな。僕はただ流されているだけな気もするし。少なくとも渋沢とか君のように選べる立場なんかには立っていないのは確かだよ」

「無駄に自己評価が低いって誰かに言われたことない? それにあいつはともかくあたしはそんな恵まれた立場の女じゃないよ」

 それもまた偽善じゃないのか。志村さんは明るい性格で誰とも気さくに話してくれるせいもあって、男子生徒には人気があった。僕だって訳隔てなく僕に話しかけてくれる彼女に憧れたからこそ、恥かしい告白に至ったのだし。ただ早い段階で渋沢と付き合ったせいでちょっかいを出せる男がいなかったということはあるかもしれない。

「君だって人気があるじゃん。僕だって君に告って振られたことがあったしさ」

 そう言った僕の表情を志村さんは観察するように見た。

「平然と言ってくれるね。今の君にはあたしなんかどうでもいいんでしょ? 奈緒ちゃんとか明日香ちゃんみたいな可愛らしくて人気のある女の子が本気で君のことを奪い合っているんだもんね」

「そうじゃないって。つうか話が逸れてるよ。とにかく渋沢は浮気なんかしていないし、僕から見れば君のことが好きだとしか思えない。あいつが女の子に告白されたくらいで拗ねるのは止めた方がいいよ」

「拗ねるって何よ。あたしにはわかるの。渋沢があの有希って子のことが気になっていることくらい」

 僕はため息をついた。これではきりがない。それにもうこんな時間だ。まっすぐに帰宅していればもう明日香は帰宅している時間だ。早く明日香に会って彼女の不安を取り除く努力をしたいのに。

「あのさあ。君は人の意見を聞く気がないみたいだし、とりあず今日は」

「し!」

「何・・・・・・?」

「いいから黙って」

 志村さんの視線を追うとカウンターで飲み物を注文している渋沢の姿が目に入った。その隣には有希が寄り添っていた。

410 : 以下、名... - 2015/05/05 00:08:51.04 1YdV9DNVo 354/442


 結局志村さんの直感が当たっていたのだろうか。

 二人はまるで恋人同士のように甘く寄り添っていた。渋沢が有希に何か聞くと、有希は口を手で押さえて控え目に笑った。富士峰の中学部の制服に身を包んだ有希は、幼い可愛らしさを残しながらも十分に恋する女の子の雰囲気を醸し出していた。後で並んでいる男たちの視線が有希に集中しているみたいだ。

「ちょっと。気が付かれちゃうでしょ。少し顔を背けてよ」

 志村さんが身を寄せて低い声で囁いた。

「あ、悪い」

「だから声大きいって」

「・・・・・・でもさ。隠れてどうするんだよ」

「いいから」

 浮気の証拠でも掴もうというのだろうか。志村さんは二人から目を背けながらも必死でその会話を聞こうとしているようだ。

 スタバにはそれなりに客が入ってはいたけど、同じ店内で気づかれずに済むわけがない。ちょっと店内を見回せばすぐにでもばれそうだ。

「声かけたほうがいいんじゃない?」

「だからちょっと黙ってて」

 志村さんが吐き捨てるように囁いた。

 ドリンクを受け取った二人は僕たちからかなり近い席に向かい合って座った。具合よく二人の席と僕たちの席の間に大きな観葉植物の鉢が置かれていたせいで、位置が近い割には気が付かれる可能性は低そうだった。

 二人の声が聞こえてきた。渋沢と有希さんはお互いの顔を見つめあいながら会話をしていた。これならしばらくは気が付かれないですむかもしれない。

「無理言ってごめんなさい」

「いいけど・・・・・・。俺、今朝話したこと以外に話すことなんかないよ」

「うん。わかってるけど」

「じゃあ、何で? それに俺のメアドどうして知ってたの?」

「あたしの友だちが渋沢さんの知り合いなの。それで無理言って教えてもらった」

「え? 誰」

「友だちっていうかカップルなんだけど。渋沢さんと志村さんと二組のカップルでよく遊びに行ってたって聞いたことがあったから」

「だから誰なんだよ」

「あたし、渋沢さんとお話したくて勇気を出してメールしたのに。あなたはそっちばっか気にしてる」

「だからあ。俺には大事な彼女がいるの。君がどうしてもって言うから来ただけじゃん」

 志村さんはそれを聞いて安心しただろうか。僕は彼女の表情を覗ったけど、彼女は顔色を変えず黙って会話を聞き入っているだけだ。

「だって・・・・・・」

「だっても何も・・・・・・って泣くなよ。話は聞くだけは聞くから。でもその前に誰から俺のメアドを教わったのかを言えよ」

「あたしの知り合いのカップルなんですけど、その女の子の方があたしの親友で」

「誰だろ?」

「親友は明日香っていう同い年の女の子で、彼氏は池山さんっていう高校生の人です」

411 : 以下、名... - 2015/05/05 00:10:09.78 1YdV9DNVo 355/442


「え? 有希ちゃんって池山と明日香ちゃんの知り合いだったの?」

「はい。明日香とは親友です。明日香の彼の池山さんとも何度か会ったことがあります」

「まじかよ。富士峰のお嬢様が池山の知り合い? 冗談でしょ」

「何でですか? 池山さんっていい人ですよ。明日香のこと凄く大切にしてたし」

「いや。池山がいいやつだとは知ってるけどさ。有希ちゃんとは住む世界が違うでしょ」

「世界が違うって? よくわからないですけど、明日香も池山さんも本当にいい人です
よ」

 あどけない表情で不思議そうに有希が答えた。

「明日香ちゃんはともかく、池山のこと恐くない?」

「ああ」

 有希は笑い出した。

「最初はすごく恐かったです。金髪だしピアスしてるし煙草だって吸ってるし。でも話をしてみると意外と普通の人でした」

「あ~あ。有希ちゃんも池山に騙された口か」

「はい?」

「いや、そうじゃねえな。騙されたは言い過ぎかもな。池山はああ見えて意外と普通の考えをしているやつでさ、確かにバカやってるけど根は真面目なんだよね」

「渋沢さん、池山さんと知り合いなんですか」

「うん。池山とは中学校で三年間いっしょにつるんでいたからね。俺の親友だった」

「そうなんですか。それで高校生になっても四人で一緒に遊んでたんですね」

「まあね。でもそんなことより何で俺と池山たちが知り合いだって知ってるんだよ」

「ああ。池山さんから聞いてましたから。仲のいい友だちが明徳高校にいるって。渋沢ってやつで、あいつは頭もよくていい高校に通っているけど、俺がどんな格好をしてもどんなバカやっても付き合ってくれるって」

 渋沢は微笑んだようだった。

「あいつそんなこと言ってたんだ。本当にバカだよな」

「バカっていうか、いい人ですよ。明日香も本気で池山さんが好きみたいです」

「まあ、前はね」

「はい?」

「前はあいつら付き合ってたよ、確かに。有希ちゃんは知らないかもしれないけど、今は別れちゃったよあの二人」

「うそ!?」

「うそじゃねえよ。明日香ちゃんは奈緒人と付き合ってるみたいだしな」

 ここで自分の名前が出たことに僕は驚いた。でも、この茶番はいったい何なのだ。有希は全てを知っているのに、情報を小出しにし渋沢の言葉に驚いた風を装っている。明日香に奈緒と僕の血が繋がっていないことを告げ口したり、有希はいったい何を始めたのだろう。



「あいつめ。鼻の下伸ばして中学生の小娘相手にぺらぺらと余計なことを」

 真実を知らない志村さんが僕の隣で呟いていた。

412 : 以下、名... - 2015/05/05 00:11:22.58 1YdV9DNVo 356/442


「奈緒人さんと明日香ちゃんが付き合っている? そんなの嘘です」

 有希が笑った。いったいこの女は何をたくらんでいるのだろう。

「奈緒人のこと知ってるの?」

「もちろんです。明日香とは親友だって言ったじゃないですか。奈緒人さんは明日香のお兄さんですから、休みの日にはよく明日香と三人で買物したり食事したりしてましたよ」

「そうか」

「はい。兄妹で付き合うなんてあるわけないじゃないですか。渋沢さんも変なこと言うんですね」

「いや。そうじゃなくて・・・・・・まいったな」

「はい?」

「何て言えばいいか。つうか言っていいのかもわかんねえしな」

「さっきから何言ってるんです? だいたい明日香のお兄さんには彼女がいるんですから」

「え? 誰だよ」

「あたしの親友です。同じクラスなんですけどね」

「それってもしかして・・・・・・奈緒ちゃん?」

「はい。鈴木奈緒っていうんですけど、知ってるんですか」

 その動機は不明だけれど有希の演技は女優級といってよかった。知らない人なら黙されても無理はない。あどけない言葉遣い。可愛らしい表情。

「いや。まあそんな話はどうでもいいんだよ」

 有希の演技に比べれば情けないほど狼狽しているのが見え見えな様子で渋沢が話を逸らした。

「そんなことより、俺には彼女がいるし浮気なんてしねえって言ったじゃん。何でわざわざ俺を呼び出したわけ」

 恋人同士で寄り添っているような感じを受けたのは錯覚だったか。渋沢はやはり志村さんを裏切るつもりはないようだった。

「だって・・・・・・」

「だって、何だよ。俺は由里一筋なの。無駄なことは止めた方がいいよ」

 ちらりと横を見るとこのとき初めて志村さんが嬉しそうに少しだけ頬を緩めていた。だから心配いらないって言ったのに。

「だって。渋沢さんは志村さん一筋じゃないでしょ」

「何?」

「明日香ちゃんと浮気してたじゃないですか。あたし、知ってるんですよ」

「ふざけんな。俺がいつ」

「はっきりと浮気したわけじゃないかもしれないけど、明日香は悩んでましたよ。池山さんのことは大好きだけど、渋沢さんからもそれっぽいこと言われたって。それで渋沢さんのことが気になっているって」

 これは有希のフェイクだ。こんなことを信じてはいけない。思わず渋沢にそう叫びたくなる。横を見る志村さんが手で両目をふさいでいた。涙を隠していたらしい。

413 : 以下、名... - 2015/05/05 00:13:20.08 1YdV9DNVo 357/442


「あれ嘘だから」

 僕は思わず志村さんに言った。

「黙ってて。お願い」

 声を出さずに涙を流しながら彼女は二人の会話に集中しようとしていた。渋沢はすぐに否定するだろう。僕はそう思った。

 明日香が一時池山と付き合っていたことは事実だった。そのことは否定するまでもなく、一緒に遊んでいた渋沢も志村さんもよく知っていたことだった。だけど、明日香は僕を救うために池山やその仲間たちと縁を切り、僕の側に僕だけの側に寄り添う決心をしてくれた。そこには明日香が渋沢と浮気をする余地なんて全くない。

「何でそんな嘘言うんだよ。明日香ちゃんがそんなこと言うわけねえじゃん」

「渋沢さんこそ誤魔化さなくてもいいじゃないですか。あなたってって格好いいし、明日香ちゃんが揺らいじゃっても不思議はないですよ」

「・・・・・・そんなこと言われてもなあ」

 不思議なことにこれだけ荒唐無稽な話を聞かされたら、怒って席を立ってもいいはずの渋沢が考え込んだような口調で呟いた。

「どうしました?」

「確かに四人で遊んだことは事実だけどさ。俺、本当に明日香ちゃんと浮気なんかしてねえんだけどな」

「でも、明日香はそう言ってましたけど」

「明日香ちゃん、何でそんな嘘言ったんだろ」

「本当に嘘なんですか」

「ああ。マジで確かだよ」

「じゃあ、明日香の願望とか思い込みだったのかなあ」

「さあ。確かに四人で遊んでいるとき、明日香ちゃんって俺の彼女にはほとんど話しかけなかったからさ。何でだろうとは思ったんだけどな」

「そんなの決まってるじゃないですか。渋沢さんの彼女さんに嫉妬してたからですよ、明日香は池山さんより渋沢さんの方が好きだったんですよ」

「勝手に決め付けるなよ。明日香ちゃんが池山のことをどう考えていたのかはともかく、俺のことが好きだなんてありえねえよ。彼女は奈緒人のことが好きだったんだって」

「奈緒人さんは奈緒ちゃんの彼氏です。それに実の兄妹で付き合うわけなんかないでしょ」

「そうじゃねえんだけどなあ」

「明日香が渋沢さんの彼女にほとんど話しかけなかったって本当ですか」

「ああ」

「じゃあ、もう答えはそこで出ているじゃないですか。何度でも言いますけど、明日香はあなたのことが好きだったんですよ」

「いや・・・・・・」

「渋沢さんの彼女さんが明日香に冷たい態度をとったって本当?」

「それは」

「本当なんですね。彼女さんも何か気づいていたのかもしれませんね」

「そんな彼女さんのきつい態度に傷付く明日香を渋沢さんがさりげなくフォローしてたんでしょ」

「・・・・・・」

「明日香ちゃんと浮気したでしょ」

 渋沢が何かを低く答えたようだったけど、声が小さすぎてこちらまでは聞こえなかった。

414 : 以下、名... - 2015/05/05 00:15:33.62 1YdV9DNVo 358/442


「あれ? 何か話が変な方向に行ってますね」

「変って?」

「明日香と渋沢さんの浮気なんてどうでもいいんです。何でこんな話になったんだろ」

「どうでもいいって・・・・・・」

「あたし、渋沢さんが好きです。あなたさんが彼女さんしか見えないなら諦めますけど、明日香と浮気みたいなことをしているところをみると、あなたと彼女さんってそんなに本気で愛し合っていないんじゃないですか」

「そんなことはねえよ」

 渋沢は明日香との浮気のことを明確に否定しなかった。

「あたしとお試しでいいから付き合ってください。それで彼女さんの方を選ぶならあたしは黙って身を引きますから」

 有希と渋沢の会話は僕と志村さんの双方に打撃を与えていたようだ。

 明日香が渋沢と浮気? 明日香は本当は僕のことよりも渋沢の方が好きだったのだろうか。あの有希の言葉を信じるなんて愚かな行為だ。でも、渋沢が口ごもって明確に明日香との浮気を否定しなかったのは何でなのか。

 隣で涙を流している志村さんのことを忘れるほど、僕は悩んだ。

「だから、俺は浮気なんて大嫌いなんだよ」

「明日香とは浮気したのにですか」

 否定してくれ。僕は心の中で渋沢に祈るように呼びかけた。

「・・・・・・本当に明日香から聞いたのか」

 今までより弱い口調で渋沢が有希に聞いた。

 何を言っている。明確に否定すればいいだけの話だろ。それに渋沢は今まで明日香をちゃん付けで呼んでいたのに、何でここで僕のフィアンセのことを呼び捨てにするのだ。

「本当だよ。明日香は親友だし、何でも話し合う仲だもの」

「浮気とかじゃねえんだ。でもあのとき、明日香があんまりつらそうだったから一度だけ、本当に一度だけさ」

「・・・・・・明日香を抱いたの?」

「ああ。あのときはどうかしてたんだ。明日香も池山のことで本当に悩んでたみたいだし」

 かっとなって席を立とうとした僕を志村さんがとっさに抱き止めた。

「離せよ」

 僕の声を気にすることなく志村さんが渋沢を睨んだ。

「・・・・・・ふざけんな」

 低い声で志村さんが呟いた。

415 : 以下、名... - 2015/05/05 00:16:34.58 1YdV9DNVo 359/442


 僕は、店を出て行った渋沢と有希の跡をつけずに呆然と座ったままだった。志村さんも一緒に店から出て行った有希と渋沢のことを気にする余裕はないみたいだった。今聞かさた明日香と渋沢の情報以外のことを消化できる余裕はないのだろう。それは僕も同じだった。

「あいつと有希って子、店を出て行ったけど」

 志村さんが呆然としている僕に話しかけた。さっきふざけるなと呟いた志村さんは激情を抑えているようだったけど、今の彼女はさっきの反動からか落ち着いた静かな声だった。

「そう」

 むしろ混乱していたのは僕の方だったかもしれない。

 明日香は池山には身体を許していなかったのだ。そして初めて結ばれた夜、明日香は処女だったと僕は勝手に思っていた。明日香もそういうことを言っていたし僕は幸せだった。

 その明日香が渋沢に抱かれていた? いったい何の話だ。

「奈緒人君・・・・・・」

「うん」

「やっぱり早く家に帰って明日香ちゃんに会いたい?」

「わかんない」

「・・・・・・そうだよね」

「ごめん」

「何で謝るのよ」

「いや」

「君があたしに謝ることなんか何にもないじゃん」

「・・・・・・うん」

「早く家に帰りたい?」

「だから、よくわかんないよ」

「偶然だね。あたしもだよ」

 志村さんが微笑んだ。いつもと違って寂しげな笑いだった。

「もうちょっと付き合ってよ」

 スタバを出てしまえばもう行ける所なんてあまりない。僕は薄暗い公園のベンチで志村さんと並んで呆然と座っていた。目の前の景色に焦点が合わず目の前が滲んで薄れて行く。

「あたしさ、前に明日香ちゃんのことでひどいこと言ったことあったでしょ。覚えてる?」

 しばらく沈黙したあと、志村さんが口を開いた。

「うん」

 あのときは明日香が僕の妹であることをまだ彼女が知らなかった頃だ。

「今だから言うけど、あたし明日香ちゃんのこと大嫌いだった。別に池山君のことはそんなに好きだというわけでもなかったけど、それにしても明日香ちゃんの彼への態度ってひどかったもん。すごく彼を下に見てばかにした態度で」

「・・・・・・そんなことは」

416 : 以下、名... - 2015/05/05 00:18:38.44 1YdV9DNVo 360/442


「ないって言えるの? 明日香ちゃんってやたら明には愛想がいいとは思ってたけど、まさか明を狙ってたとはね」

 僕には何も言えなかった。志村さんは静かな口調だったけど、その目から涙が流れていることに気がついたからだ。

「まあクズなのは明も同じか。クズ同士仲良く浮気してたんだもんね」

 慰めたかったけど声が口から出ない。出ないだけでなく頭の中にも志村さんにかける言葉が浮かんでこない。

 少し冷静に考えれば、明日香が渋沢を好きになったとしても関係を持ったとしても、それは僕と付き合う前なんだからこれは僕に対しての浮気じゃない。そういう意味では明日香は僕を裏切ったわけじゃない。

 それなのに何でこんなに心が凍りつくのだろう。奈緒が妹だと知ったときとは全く違った感覚だった。まるで自分の体の一部が取り返しのつかないほど永遠に失われていくような喪失感が繰り返し波のように襲ってくるのだ。

 明日香のことを清純で純真な女の子だと思って好きになったわけじゃない。もともと派手な夜遊び妹だったのだ。そんなことは全て飲み込んだうえで僕は明日のことを好きになったのに。それなのに何で僕はこんなに打ちひしがれているのだろう。これは過去の話だ。今の明日香が僕のことだけを見ていてくれるならそれでいいはずなのに。

 それによく考えれば僕には明日香を責める資格はあるのだろうか。奈緒に心が傾き一瞬でも明日香を忘れたときの自分の姿が思い出された。あれだけ自分勝手に行動して明日香を傷つけたというのに、僕自身は僕と付き合う前の明日香のことがなぜこんなに気になるのだ。何でこんなに許せないという感情を抱くのだろう。

 これは嫉妬だ。明日香に対しての、そして渋沢に対しての。

 ベンチに座って俯いて腑抜けたように思いを巡らせていた僕はここでようやく気がついた。奈緒を失った狼狽にも関わらず、今では僕は明日香のことが本当に一番好きになっていたのかもしれない。たとえそれが依存と言われるような感情であったとしても。本当に今さらな話だ。気がついたときにはもう遅かったのだろうか。

「・・・・・・大丈夫?」

 自分の心の底から浮き上がると志村さんが僕を心配そうに見ていた。僕よりもつらいのはむしろ彼女だったろうに。付き合う前の明日香の浮気を知らされた僕と違って、彼女は付き合っている渋沢に裏切られたのだ。有希と渋沢の関係は心配だっただろうけど、今では志村さんはそれほどそのことに真面目に悩んでいたわけでもないだろう。

 でも、明日香と渋沢との浮気を聞かされた彼女のつらさは想像すらできないほどだった。

「ふふ」

 意外なことに彼女が笑った。

「え?」

「せっかくさっきまで君のことを、今までと違って格好いいなあって思ってたのにね」

 ・・・・・・何なんだ。

「今の君って雨の中で震えている子犬みたい。さっきまでの格好いい君の姿の片鱗もなね」

 泣き笑いというのはこういうことなのか。強がっているように見えて志村さんは全然動揺を隠せていないじゃないか。

417 : 以下、名... - 2015/05/05 00:26:01.11 1YdV9DNVo 361/442


「君の方こそ涙流してるじゃん」

「うるさいなあ。ちょっとは浮気されたあたしのことを慰めなさいよ。男の子でしょ」

「そんなこと言われても」

「やっぱり君ってヘタレなのかなあ。せっかく見直してあげたのにすぐに元に戻っちゃうのね」

「・・・・・・思ってたより元気あるみたいだね」

 途端に志村さんが僕を睨んだ。

「そんなわけないでしょ。もう頭の中はぐちゃぐちゃだよ」

「ごめん」

「君に謝られてもなあ。君だって被害者だし」

「渋沢とこれからどうするの?」

「・・・・・・わかんない」

 それはそうだろう。こんな質問を彼女さんにする僕の方が愚かだ。

「君はどうするの? 明日香ちゃんと今までどおり付き合うの?」

「わからないよ」

「ねえ」

「何?」

「仕返ししちゃおうか」

「何言ってるの」

「寝ちゃおうか? あたしたちも」

「何なんだよいったい。冗談にもほどがあるよ」

「だって悔しいじゃん。こんなにあいつらに舐められてバカにされて」

 志村さんは泣きながら食いつくように僕を見ている。これではまさしく意趣返しだ。本気で渋沢に仕返しするつもりなのだろうか。本当に好きでもない僕に抱かれてまで。

「復讐するつもりなら、本気で好きな人を見つけてからにしたら?」

「嫌いじゃない」

 今にも消えそうな声で志村さんが言った。

「え?」

「君のこと嫌いじゃないよ。君さえいいなら浮気じゃなくて本気で付き合ってもいいくらいに」

「君が見ているのは奈緒と明日香に惚れられてるいい男だっていう君の幻想の中の僕のことでしょ。僕は君に振られたときと同じ情けないオタク男だよ」

「・・・・・・いい」

「何? 聞こえないよ」

「あたし、それでもいい」

「どういうこと?」

「さっきのは嘘。落ち着いて格好よくなった君なら告白をOKしてたっていうのは嘘」

「・・・・・・まあそうだろうね」

「本当は君に告白されたとき、君と付き合えばよかったって後悔している」

「自棄になってるの?」

「違うよ。格好いいとか女の子にもてるとかそんなことはどうでもいいよ。今だって君は真剣にあたしを見て向き合ってくれた」

418 : 以下、名... - 2015/05/05 00:29:05.21 1YdV9DNVo 362/442


 何か勘違いしているんじゃないのか。僕は今だって自分の悩みで精一杯だ。

「あたしね。あのときのあたしを怒鳴りつけてビンタしたいほど、あのとき君を拒絶したことを後悔している」

 自棄になっているとしか思えない。志村さんの思いつめた表情を眺めながら僕はそう思った。

「きっかけは明と明日香ちゃんのことかもしれないけどね」

 志村さんは無理をしている。渋沢の浮気で心が壊れているんだ。僕はそう思った。

「奈緒人君、あたしなんかにもう興味ない?」

「もうあいつらのどろどろした関係なんかどうでもいいじゃん。あたしと付き合って。あたしを見て」

「よしなって」

「君とならずっと仲良くやっていけそうな気がする」

「よせよ」

「・・・・・・もうあんなバカたちなんかどうでもいいじゃん。君はあたしのこと嫌い?」

 志村さんは僕の首に両手を回して僕にキスした。

 心だけの浮気でも明日香を裏切ることには変わりない。再び間違いを犯すわけにはいかない。ましてキスなんて。

 唇が触れた瞬間、僕は顔を背け志村さんの手を振り払った。

 そのときの彼女の傷付いた表情を見て僕は怯んだ。

「こんなにされても、まだ明日香ちゃんのこと許せるの?」

 わからない。僕がこれほど動揺したのは明日香のことが好きだからだ。でも何もなかったように明日香とこれまでどおりの関係でいられるのかは自信がない。

 明日香の過去のことは飲み込むことができた。池山と付き合っていたことすらも。でも、親友の渋沢に抱かれた明日香のことを僕は許すことができるのか。

 処女じゃなかったとかそういうことはどうでもよかった。たとえそれが池山のようなどうしようもないやつであっても、自分と付き合っている彼氏を裏切って彼女のいる男に言い寄って抱かれる。そんな明日香の貞操観念を見せ付けられたことの方がダメージは大きかった。

 志村さんには悪いけど渋沢への嫌悪感はそれほどでもない。あいつはこの間まで明日香が僕の妹であることを知らなかったのだから、そのときには親友の妹を抱いているとは思わなかったのだろうから。ましてや、親友の彼女をとは。

「わからない」

「うん。そうだよね。ごめんね、変なことしちゃって」

「君はどうなの? あいつのこと許せるの」

「・・・・・・あいつさ。池山君のことあたしにすごく誉めてたんだよね。みんなあいつのこと服装とか髪型で誤解しているって。あいつは本当にいいやつだって」

 志村さんはそう言った。

422 : 以下、名... - 2015/05/19 00:03:30.11 mJtXBqZvo 363/442


「ああ。そう言ってたね、渋沢は」

「池山君もそんな明には心を許してた。少なくともあたしにはそう見えた。浮気されて、明に裏切られたことだって悲しいよ。でも一番ショックなのは明が自分の親友だっていつも言ってた池山君をを裏切って平然として皆を誤魔化していたこと。あたしの彼氏がそんなことができる男だったってこと」

 志村さんの気持ちはよくわかった。

「ごめん」

「君が謝ってどうするの。むしろ謝るのはあたしの方だってば」

「・・・・・・ごめん」

「だから・・・・・・。まあ、いいか」

「奈緒人君」

「うん」

「さっき言ったこと嘘じゃないよ」

「何?」

 聞きたくない。そんな話は聞きたくなかった。どう言い訳してもあいつらと同じになってしまうだけなのに。

「明日香ちゃんや奈緒ちゃんがうらやましい・・・・・・。ごめんね奈緒人君。お互いに相手のの浮気に悩んでいるのに、一番言ってはいけないこと言っちゃった。あ、明日香ちゃんは、少なくとも君に対して浮気したわけじゃないか」

 志村さんが立ち上がった。

「付き合ってくれたありがとう。一人じゃとてもこんなに冷静になれなかったよ。君がいてくれてずいぶん助けてもらっちゃった」

「僕は何もしていないよ」

 僕はようやくそれだけ言った。

 志村さんが微笑んだ。

「そんなことないよ、奈緒人君。じゃあさよなら」

「さよなら」

 相変わらず霞んでいる視界の中を志村さんが静かに消えていった。

423 : 以下、名... - 2015/05/19 00:04:11.27 mJtXBqZvo 364/442


最寄り駅についたとき、僕は半ば目を瞑って考えごとをしていた。そのため、混みあった電車の中で人ごみをかきわけて辛うじてドアが閉まる前にホームに降り立つことができた。夕暮れが空を覆っていて、周囲の人たちは皆競って家路につこうとしているみたいだ。

 僕は電車が走り去った後もそのままホームに立っていた。今までなら、いっこくも早く家に帰って明日香に会いたかったのだけど、今日の僕は明日香に会う時間をできるだけ後ろに伸ばしているような感じだ。実際、家に帰って明日香と顔を合わせたとき、僕は何を明日香に言えばいいのだろう。何を明日香に問いかければいいのか。

 おまえ、浮気しただろって問い詰めるのか。いや。それは違う。志村さんと僕が違うのはそこだ。明日香と寝た渋沢は、その時志村さんの彼氏だった。渋沢に抱かれた明日香はその時は僕の彼女でも何でもない。明日香は当時の彼の池山を裏切ったのかもしれないけど、それを僕が責めるのは何か違う。

 じゃあ、責めることもできないようなできごとに、僕は何でショックを受けたのか。明日香に対して、僕は奈緒に対するような処女性とか純真な感情とかを求めたことはなかったはずだ。明日香はもともとそんな女の子じゃない。有体に言えばどちらかというとビッチの類いなのだ。ある日、突然明日香が清楚な服装や格好をしだしたせいで、僕の心象が混乱しているのかもしれないけど、それまでの明日香の行動だけを捉えれば、それは明らかにビッチそのものと言える。

 ・・・・・・結局考えてもよくわからない。それでも今日、自宅に戻れば僕は明日香に対峙しなければならないのだ。僕が、生涯共に過ごす相手としてプロポーズまでしてしまた明日香と。いつまでも駅前でたたずんでいるわけには行かない。僕は駅を後にして、自宅に向かってのろのろと歩み始めた。

 あらためて考えれば、明日香が僕と付き合い出す前の浮気のことばかり気にしている場合じゃないと僕はふと思いなおした。もっと悩ましいのは奈緒のことではないのか。奈緒は僕とは血が繋がっていないらしい。その事実を自分の中で消化することの方が自分の中では優先度は高いのではないか。

 それなのに、僕は今明日香のことばかり考えている。考えてみればこの事実を明日香にどう告げればいいのか。自分と付き合う前の明日香を、渋沢との浮気をもって責めることはできるのか。そんな資格が僕にはあるのか。

 明日香がそういう子だと僕は前から知っていた。明日香と付き合い出した後、僕は勝手に明日香に自分の理想を押し付けただけなのだ。明日香は本当は純真無垢な女の子で、両親や僕に反発するために不釣合いな友だちと付き合っていただけなのだと。でも、渋沢と浮気してあいつに抱かれた明日香に対して、そういうかつて抱いた印象を保つことは難しかった。気がつくと、僕は自宅の玄関の前に立っていた。

424 : 以下、名... - 2015/05/19 00:04:49.10 mJtXBqZvo 365/442


「あ」

 いきなりドアが開き、明日香が目の前に姿を現した。まだ、十分に心の準備もできていない。明日香に何を話そうか、何を話すまいかも決めていなかったのに。

「お兄ちゃん」

「・・・・・・どっか行くの」

 僕はようやくそれだけ口にした。明日香の表情は再び暗く硬い。

 すごく身勝手かもしれないけど、明日香と渋沢のことを聞いてしまった今では何となくそういう明日香の態度に納得できない。明日香は、渋沢との仲が僕に知られたことを知らないのだから、無理もないのだけど。

「ちょっと。夕ご飯用意してあるから食べて」

「ちょっとってさ。いったいどこに行くの?」

「うん、まあ。ちょっと」

 何が何だかわからない。

「何が何だか全然わからねえけど」

 おまえは彼氏を裏切って僕の友だちの渋沢と浮気をしたビッチだろ。つうか、僕と奈緒が本当の兄妹じゃないと知って悩んでいたのじゃなかったのか。

「もう行くね」

 明日香が目を伏せて僕と目を会わせようともせずに出かけて行った。



 明日香の言うとおりキッチンのテーブルの上には夕食めいたものが用意されていたことはいた。いろいろ焦げていたり生焼けだったりしてはいるけど、何とか食べられないことはない。

 ・・・・・・有希はいったい何で僕と奈緒の過去の事実を知っているのだろう。というか、いったい何を考えてそれを明日香に告げようとしたのだろう。それだけではなく、明日香と渋沢のことまで知っている。女帝とかって言われているかもしれないことと何か関連があるのだろうか。

 僕はテーブルについて、明日香の用意してくれた夕食らしい皿を眺めた。何だか冷凍食品を盛り合わせたようなものが皿の中にある。僕は食欲を失って皿を脇に押し寄せた。



 しばらく食欲をそそられない皿を見ながら僕は考えた。いろいろ悩むことがあるけど、真に僕が問題だと思っているのは何なのだろう。明日香が僕と付き合い出す前の彼を裏切って、渋沢と寝ていたことか。それとも、僕と奈緒が実の兄妹ではなく、血が繋がっていなかったことか。それとも、何で有希がこんなにしつこく、僕らの周辺に出没し、僕らをかき回していることなのだろうか。というか、その全てのおおもとになっているであろう、僕の両親にかつて何があったのかを知りたいということのなのか。

 自分の心の奥を慎重に探っていくと、何だか自分でも拍子抜けするくらい簡単に答が出てしまったようだ。今自分であげた項目を考えていたとき、一番胸が苦しくなって一番お腹が痛くなった項目がある。すごく意外だけど、それが僕が一番悩んでいることなのだろう。奈緒に関する罪悪感のような微妙な感覚はある。でも、自分の中で答が出た以上、僕はその答えに忠実でなければいけない。

 僕は夕食をそのまま放置して、さっき脱いだばかりの靴をはき、再びもう暗くなっている家の外に出た。

425 : 以下、名... - 2015/05/19 00:05:30.50 mJtXBqZvo 366/442


 明日香なのだ。多分そうなのだろう。顔をあわせ、僕に対して甘えてこない明日香を見た途端にこれだけ不安になるのだから、多分、僕が今一番悩んでいるのは明日香の僕に対する態度なのだ。明日香がかつて池山を裏切って渋沢と寝たこととか、それはどうでもいいとまでは思えないけど、今の僕が一番動揺しているのは僕を構ってくれない明日香の態度なのは間違いない。志村さんには申し訳ないけど、僕はそう思った。

 明日香の向かった先なんか思いつく。まず、間違いなく明日香は玲子叔母さんのところに向かっているのだ。僕は駅の方に半ば駆け足で向かった。明日香が過去のことを調べたいのならそれに協力する。僕だって知りたいという気持ちはあるのだ。同時に、明日香がどう考えようと、今の僕には明日香しかいないこともきちんと訴えよう。そのうえで明日香がどう判断するのかは別の話だ。振られるにせよ、すべきことはしておかないといけないのだろう。記憶のない僕にとっても、それは知らなければいけないことなのだ。

 玲子叔母さんのマンションに前で、僕は少しだけためらったけど、すぐに入り口のドアの前のパネルのボタンを押した。叔母さんの部屋の番号の数字を。しばらくして、叔母さんの声が聞こえた。

「はい」

「奈緒人です」

「え・・・・・・ちょっと。ちょっと待って」

 叔母さんの慌てた声で僕は確信した。部屋の中には明日香がいるのだ。しばらくの沈黙の後、エントランスのパネルのスピーカーが叔母さんの声を伝えた。

「今あけるよ。入ってきな」

 明日香が折れたのだろう。僕は自動で開いたエントランスのドアを抜け、エレベーターのボタンを押した。

「・・・・・・よう」

 ドアを開けた叔母さんがそう言った。

「明日香も来てるんでしょ」

「うん。本当はさ。あんたは今日くらいは明日香を放っておいた方がよかったんじゃない?」

「そうは思いません。あいつを放っておくなんて僕の方が無理です」

 玲子叔母さんが厳しい表情を和らげ一瞬だけ微笑んだようだった。

「・・・・・・うん。そうかもね。あんたたちは本当に仲いいもんね。あの公園で遊んだときからずっと」

 その公園には奈緒もいたはずだけど、叔母さんは奈緒には触れずにそう言った。

「じゃあ、しかたない。入んなよ」

 叔母さんの部屋に入ると、リビングのソファで小さく蹲っているような明日香の姿があった。明日香は叔母さんに続いて部屋に入ってきた僕の方を見ようともしなかった。でも、今はそれでもしかたない。明日香が叔母さんに聞いたことへの答えを僕も聞ければそれでいい。もっとも、叔母さんがこれまで話してくれた以上のことを果たして知っているのかは疑問だったけれども。

426 : 以下、名... - 2015/05/19 00:06:08.70 mJtXBqZvo 367/442


「明日香」

 叔母さんが明日香に声をかけた。

「・・・・・・うん」

「あたしはさ。さっき言ったとおり確実なことはあまり知らないし、言えることは全部あんたちに話してあるのよ」

 明日香は俯いたままだ。

「でもさ。あんたに頼まれればしかたない。ほとんど推測の域を出ないけど、あたしが感じたり考えたりしていたことを全部話すよ。真実かどうかの保障はないけどね。でも、それは奈緒人も一緒に聞いた方がいいと思う」

「叔母さんがそう言うなら」

 明日香が小さな声で言った。

「じゃあ、話そうか。奈緒人もその辺に座って」

 僕は明日香から離れた方のソファの端に腰かけた。

「事実かどうかはわからないんだよ? あたしが事実だと知っていることはもう全部あんたたちに話しているし」

「わかってる」

 明日香の暗い返答に玲子叔母さんはため息をついた。

「じゃあ話すよ」

427 : 以下、名... - 2015/05/19 00:07:16.76 mJtXBqZvo 368/442


 博人さんと麻紀さんの離婚調停のとき、ひどく違和感を感じたことがあった。一つは麻紀さんのでたらめな調停方針。二つ目はそれに対する姉さんのあまりに淡白な態度だった。麻紀さんがひどいビッチな浮気女にしても、そして自分の快楽と欲望を優先して子どもたちを放棄していたとしても、その後の離婚調停で彼女は二人の子どもの親権を要求していたのだから、麻紀さんには子どもたちへの執着はあるはずだった。それなのに、なぜ彼女は突然要求を変え、奈緒人の親権を放棄し奈緒の親権だけを要求するようになったのだろう。

「妥協する必要はないですよ」
 博人さんの妹、ブラコンの唯ちゃんはそう言い切った。「二人を引きはがすなんて、こんな残酷なことは認められません。何よりあの子たちをネグレクトした麻紀さんに親権が認められる確立は低いですよ。調停委員だってそう判断するでしょう。調停委員の一人は児童保護に生涯をかけた人らしいですし」

 それはそうかもしれない。麻紀さんが何を考えているにせよ、児童相談所に通報され子どもたちを一時保護までされているのだ。それに比べて、博人さんは実家の助けを借りて、主に唯ちゃんの助けだけど、順調に養育実績を積み上げている。何より、最初は二人の親権を要求し、途中で奈緒の親権だけを求めるようになった麻紀さん。こんなでたらめな母親に親権を認めることはないだろう。それは唯ちゃんの言うとおりだと思ってはたけど、いったい麻紀さんが何を考えているのかは少しだけ気になった。彼女は東洋音大で博人さんと姉さんの一期下だそうだけど、あの温厚な博人さんが何でこんなにエクセントリックな人と結婚したのかまるで理解できなかった。

 そして二つ目の疑問。その後のあのひどい調停の結果を意外なことに博人さんが受け入れると決断したことに対して、周囲のほぼ全ての人が反対した。一番の博人さんの理解者であった唯ちゃんですら、自分の大好きな兄と絶縁するくらい博人さんの決定に対して憤ったのだ。それなのになぜ。なぜ、姉さんはそんな博人さんの決定を受けいれ当初予定していた奈緒人、奈緒ちゃん、明日香との三人との生活を守ろうとしなかったのか。

 それだけ博人さんに惚れていたから? 自分が腹を痛めたわけではない奈緒人や奈緒ちゃんのことなんかたいして執着がなく、博人さんさえ自分のものになればそれでよかったから?

 頭に浮ぶどの考えも当時のあたしを納得させることはできなかった。姉さんはこんなに割り切れる冷たい感性の持ち主ではない。それでも今まで博人さんに協力してきた彼の実家や、博人さんの自分の子どもへの愛情に疑問を抱いたあたしの両親を敵に回してまで、姉さんは博人さんに味方についたのだ。

 やがて、奈緒ちゃんは麻紀さんに引き取られていった。博人さんと姉さん、奈緒人と明日香は新しく家を買い、そこで家族として暮し始めた。博人さんも姉さんも相変わらず仕事が多忙だった。姉さんは、最悪は仕事を止めて子育てをすると言っていたのだけど、職場に引き止められてなかなか思うように行かなかったみたいなので、見かねたあたしは引き続き子どもたちの世話をすることにした。もう半ばは大学で夢見ていた華やかな学生生活や、演奏に打ち込む希望を諦めていたから。もうサークルの先輩から誘いのメールが来ることもなくなっていた。

428 : 以下、名... - 2015/05/19 00:07:57.50 mJtXBqZvo 369/442


 明日香が小学校に上がってからは、だいぶあたしの子育ての負荷は軽減されていた。もちろん、学童保育のお迎えは保育園の頃と変わらずにあったのだけど、朝、保育園まで送らなくてもよくなったことは大きかった。その日、あたしは大学の講義を終え、これからどうしようかと思いながらキャンパス内を歩いていた。秋の気配がそこかしこから漂っていた。古い校舎の防音が完全ではないせいで、あちこちから弦やら管楽器やら打楽器の音が聞こえてきている。

 今すぐに帰るのでは明日香のお迎えには早すぎる。かといって、今さらサークルに顔を出すのも気が引けるし、何よりそこまでは時間がない。

「いけない。バイトに送れちゃう。またね」

 すれ違った学生の声を聞きながら、あたしもバイトとかしてたかったなと何となく考えた。実はあたしの育児は無償奉仕ではなく、姉さんからバイト代と称してお小遣いをもらっていたので、別にバイトをする必要はなかったのだけど、何となく社会体験として他の学生に差をつけられているような気がする。就職活動とかで不利にならないだろうかという不安もある。サークル活動とかもしていないのだ。

 そのとき、あたしは女性からいきなり声をかけられた。

「あら。もしかして理恵の妹さん、えーと。玲子ちゃんじゃない?」

 確かこの人は姉さんと同期の多田さんだ。どこかの高校で音楽の教師をしていたはずだ。一度だけ、姉さんに紹介されたことがあったと思う。あれは、事故死した姉さんの前の旦那さんである高木さんのお通夜のときだ。

「多田さん? ですか」

「そうそう。久し振りだね。今は結婚して川田って言うんだけどね」

「ご無沙汰してます。あのときはありがとうございました」

「お姉さんはお元気? あまり沈んでいなければいんだけど」

「大丈夫ですよ。姉は再婚しましたし」

「ああ、そうなの。よかった。でも理恵も水臭いなあ。再婚したなら教えてくれればよかったのに。お祝いしたかったよ」

「まあ、姉も再婚ですし。×1子持ち同士ですからお披露目とか何にもしなかったので」

「それはそうかもしれないけどさ」

 多田さん・・・・・・いや、川田さんは不満そうに言った。

「さっそくお祝いしなきゃ。というか新しい旦那さんってどういう人?」

「多田さん、じゃない川田さんも知ってるんじゃないですか? 結城博人さん。姉さんや川田さんの大学の同期ですし」

 あたしはあまり考えずに口に出した。

「結城って。まさか、あの結城博人君?」

 川田さんが驚いたように言った。

429 : 以下、名... - 2015/05/19 00:09:47.50 mJtXBqZvo 370/442


「え? ×1ってどういうこと? もしかして結城君と麻季ちゃんって別れたってこと」

 ひょっとしてあたしはゴシップ好きな主婦の好奇心に火をつけてしまったのだろうか。不用意な自分の発言を後悔しながら、あたしは答えた。

「ええ。いろいろあったんですよ」

「まあ、あたしがいろいろ聞いたら悪いんだろうけど」

「博人さんと姉は、二人の子どもと人生をやり直しているところですし、そっとしておいていただけたらと思います」

「うん、わかった。でも、理恵に伝えて。あなたの幸せを祈っているって」

「ありがとうございます。川田さんは今日は何で大学に?」

「私学音楽教師連盟の研修会があったのよ。久し振りに大学に来たわ」

「そうですか」

「じゃあ、もう帰るね。結城君と理恵によろしく」

「わかりました」

「あと、お子さんたちにも。確か・・・・・・奈緒人君と明日香ちゃんかな」

「よく覚えてますね」

「結城君と麻季の子どもの名前は忘れないよ。怜菜の子どもと名前が似ているし。あと、明日香ちゃんの名前もね。理恵が本当に嬉しそうに名付けの際にメールくれたからね」

「そうですか」

 あたしはこのとき何か違和感を感じた。レイナさんという名前。奈緒人に似ているというその子のこと。

「あの。レイナさんって?」

「ああ」

 少しだけ困ったような表情で川田さんが言った。あたしは方針を一転した。今の今までこのお人よしで世話好きそうな先輩から、どうやって逃げようかと考えていたのだけど、今は事情が異なる。あたしは、思い切って川田さんを学内のカフェに誘った。まだ、明日香を迎えに行くには時間が早い。



「あのね」

 コーヒーカップをいたずらにずらしたり回したりしながら川田さんが言った。

「怜菜っていうのは、麻季の友だちでこの大学の同期なの」

「もともとは二人はすごく仲が良かったんだけど。その」

「何があったんですか」

「麻季があなたのお姉さんの今の旦那と付き合うようになってね。それから麻季と怜菜の距離が開いちゃってね」

「いったい何でですか」

「これは推測に過ぎないんだけど、どうも怜菜も結城君のことが好きだったみたい」

「ああ」

「でももう昔の話だよ? それから怜菜だって鈴木雄二っていうやっぱり東洋音大の先輩と結婚して子どもに恵まれたし」

 鈴木雄二。それは麻季さんの不倫相手、再婚相手の名前じゃないのか。

「そうですか。じゃあ、もう二人にはわだかりはないんですね」

「ないと言うか。怜菜は交通事故で死んだの。子どもを庇ってね」

「・・・・・・え」

「その子の名前がね。奈緒って言うの。麻季の息子の奈緒人君と上二文字が同じ字なの。怜菜のお通夜でそれをあたし、不用意に麻季に話しちゃって。あのときの麻季、すごく驚いてた」


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【オリジナルSS】ビッチ(改)#7【再編集版】

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