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276 : 以下、名... - 2015/01/06 23:35:48.99 XygYhmbvo 244/442

第四部


 奈緒は怜菜にそっくりだ。友人のいない学生時代を唯一といっていい親友の怜菜と過ごしていた麻季にはそう思えた。別に外見だけじゃない。まだ幼いのに他人に対する態度がすごくソフトなところや、人の気持を優先して自分を抑えるところは、まるで人のいい玲菜そのものだった。そして一見遠慮がちで儚げな様子に隠れてはいるけど、実は奈緒の芯は非常に強く、自分の考えを曲げない強い意志の力を持っている。幼稚園の先生からの連絡ノートを読んで麻季は自分の考えを確信するようになった。鈴木先輩の実子ではあるけれど、彼の調子のいい優しさやその場限りの人当たりの良さなんて奈緒には全く感じられない。奈緒は完全に怜菜似だったのだ。

 最初の頃は麻季にとってそのことが嬉しかった。自分に裏切られてもなお黙って身を引く道を選び、そして突然の死を遂げた親友の怜菜が再び自分の前に姿を現してくれたように感じたのだ。心配する博人を説き伏せて奈緒を引き取った決心は正しかった。そう思うと麻季の生活には自然とやりがいと張りが戻ってきた。博人も多忙な仕事を無理にやりくりして週末はなるべく家で過ごすように心がけていたようで、自然に夫婦の仲も改善されだした。

 自分の浮気から始まった家庭の危機がようやく収束しようとしていた。これも怜菜のおかげかもしれない。結果的に怜菜の遺児を引き取ることによって、麻季と博人は失っていた共通の目標を再び共有することができたのだ。奈緒の遠慮がちな態度は、父親の博人や麻季自身に対してさえ向けられていた。奈緒は物心がつく前から結城家に養子に入っていたし、奈緒が実子でないことはまだ幼い本人には伝えていなかったので、両親にくらいは無邪気に自己主張してもいいはずだった。でも奈緒はそうしなかった。養子であることへの遠慮であるはずがないことを考慮すると、きっと奈緒は家族も含めて誰に対しても一歩引いて、相手の意向に従う態度を示すような性質を持っていたのだろう。

 その頃から奈緒は奈緒人によく懐いていたし奈緒人も奈緒の面倒をよく見ていた。そのこと自体には不満がないどころか麻季にとっても喜ばしいことですらあった。二人はいつも一緒に過ごしていた。その様子は微笑ましかったし、仕事から帰った博人もそんな様子を暖かく満足して見守っているようだった。それでも少しだけ困るようなこともあった。たとえば休日に家族で外出するとき、家族四人で一緒に遊んだり食事をしたりする場合は別に問題はないのだけど、博人と麻季が手分けして生活に必要なものを購入しようと二手に分かれたりすると問題が発生した。

 博人に手を引かれた奈緒人と麻季と手を繋いだ奈緒。奈緒は奈緒人の姿が視界にないこと気がつくと火のついたように泣き出してしまう。奈緒人も泣きはしないまでも博人の手を振り払い奈緒の姿を求めて駆け出して行こうとした。

 そういう子どもたちに手を焼いた奈緒人と麻季は、外出中に奈緒人と奈緒を引き離すことを諦めた。何か漠然とした不安を感じないでもなかったけど、それがどういうことなのか当時の麻季にはわからなかった。そして、奈緒人と奈緒の親密な関係は親にとっては嬉しい悩みなのだと考えようとした。それに一見理想的に育児や家事をこなしているように見えた麻季には、当時もっと気になることがあった。それは引き取った娘の名前だった。

 奈緒自身には何の罪もない。奈緒人と奈緒。実の両親がそう名付けたのだとしたら、あまり趣味がいいとは言えないけどまあ世間にないことでもないだろう。でも、その命名が博人に淡い想いを抱いていた怜菜が黙って自分の娘に名付けたことが他人に知れたとしたら、世間体が悪いなんてものじゃない。仮に怜菜の子どもが男の子だとしたら、いったい彼女はその子に何と名付けたのだろう。まさか奈緒人だろうか。

 鈴木先輩と別れて一人で出産、育児をする道を選んだ怜菜は、離婚に際して自分の旦那に何も要求しなかったらしい。もちろん麻季自身に対して慰謝料を請求することもなかった。怜菜は黙って自分の夫が自分の元に帰ってくるのを待ち続け、ついにそれが敵わないと判断すると、何一つ要求するでもなく黙って一人で身を引いたのだ。当時既に身重の身になっていたことすら夫に告げずに。そういう怜菜の身の処し方は一見鮮やかなように見える。事実、麻季が博人を問い詰めたとき、博人も怜菜のそういう様子に惹かれていたと正直に白状したものだった。



『怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわかった。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな』



 博人は怜菜のことを聖女とか天使とかという表現で褒め称えた。麻季だって理解はしていたのだ。怜菜と博人の間の恋情は淡くそしてプラトニックなものだ。自分が鈴木先輩と犯してしまったような肉体的な関係ではないのだと。でもそれだからといって相手を想う気持ちが、肉体関係を伴った不倫より小さいということはできないだろう。ましてその相手の怜菜が亡くなってしまえば、自分の夫が怜菜に対して抱いた想いは彼女への恋情を残したまま永遠に氷結されてしまったままになるのだ。

 疑おうと思えばどんなことだって怪しく思える。怜菜が自分の夫に何も要求せずに離婚したのだって、ひょっとしたら博人と麻季自身が離婚したときに、自分と博人がすぐにでも結ばれるためかもしれない。もっと邪推すれば、これは荒唐無稽な考えかもしれないけど怜菜は自分への博人の想いを永遠のものにするべく自分の娘に博人の一人息子の名前をもじって奈緒という名前を命名し、その後自ら命を絶ってということだって・・・・・・。

277 : 以下、名... - 2015/01/06 23:36:32.38 XygYhmbvo 245/442


 それはいくら何でも妄想が過ぎるというものだと麻季は思った。彼女は卒業してから全く連絡を取らなくなっていた怜菜のことを思い出してみた。

 当時、同性の友人がほとんどいなかった麻季にとって怜菜はほとんど唯一の友人であり、親友でもあったのだけど、あの頃の怜菜には男女問わず友人が多かった。講義に出てもサークルに行っても彼女に話しかける学生はたくさんいた。

「怜菜、元気?」「よう怜菜。最近付き合い悪いじゃん」「怜菜さ、鹿児島のフェスのマスタークラス申し込む?」「今日、芸大の人たちから合コン誘われてるんだけど怜菜も行かない?」

 怜菜は愛想よく話しかけてくる友人たちに受け答えしていたけど、気の進まない誘いは頑として断っていた。あたしなんかに気を遣わなくていいからもっと友だちと遊べばいいじゃん。麻季は怜菜のそういう態度に不審を覚えてそう言ったことがあった。

「いいよ。本当に気が進まないし、あたしは麻季と一緒にいた方がいいや」

 そういうとき、怜菜は決まって笑ってそう言うのだ。麻季だって怜菜がいないと一人で寂しいということはない。怜菜と一緒に過ごす方が気は休まるのだけど、一人で過ごしたくなければ自分に言い寄って来た男を呼び出せばいい。もっともほとんどがつまらない男ばかりだったので、麻季が一緒にいてもいいと思えるような男はサークルの鈴木先輩くらいだったのだけど。

 彼になら多少のことは許してもいいかもと麻季は当時考えていた。本音を言えば相手が鈴木先輩だとしても、一緒にいることに対して本心から充足感を感じたことはなかったのだけれど、自分の相手をしてくれる人の中では彼はだいぶましな方だった。それに彼と一緒にいると学内で優越感を感じることができる。それでも麻季にとっては怜菜が一緒にいてくれたほうが気が休まった。唯一の親友、というか唯一の同性の友人である彼女といると、麻季は気を遣わずに楽しく過ごすことができるような気がしていたからだ。

 怜菜には友人たちの誘いは多かったけど、それでもほとんどの誘いは断って麻季と一緒に過ごしてくれていた。彼女も麻季と一緒にいると気を遣わなくていいやと笑って言った。

 そんな二人の関係が変化したのは麻季が生まれて初めて自分から手に入れたいと思った男性と出合ってからのことだった。

 結城先輩のことはサークルの新勧コンパのときから気にはなっていた。あの夜、麻季は先輩たちから途切れなく誘いの言葉をかけられたのだった。あのときは怜菜ともまだ仲良くなる前だったから、麻季は話しかけてくる先輩たちの相手をしながらぼんやりと店内を見回していたそのとき、一人の男の先輩と目があった。

 その人は麻季と目が合って狼狽したようだった。男のこういう反応には慣れていたから、麻季はとりあえずその先輩に会釈した。・・・・・・今度こそ先輩はさりげなく彼女から視線を外してしまい、隣にいる同回生らしい女の子と喋り始めた。こちらから挨拶したにも関わらず無視されたことにも腹が立ったけど、自分の会釈を完璧に無視して他の女と親しげに話し始めたことに麻季は何だか少しだけむしゃくしゃした気持になった。そんな彼女の様子に周囲に群がっていた先輩たちも不審に思ったようだ。

「あの・・・・・・。あそこでお話している先輩は何という人ですか」

「ああ、あいつは二年の結城だよ」

「結城先輩ですか」

「夏目さん、あんなやつに興味あるの? あいつ変わり者だぜ。音大に入ったのにろくに器楽もしないで、音楽史とか音楽理論とかだけ勉強してるんだ」

 その先輩は結城先輩の人となりをけなしながら解説してくれたけど、そのときの麻季の耳にはそんな言葉はろくに届いていなかった。あまり格好いいとかスマートとかという印象はない。でも、何だかそのときは結城先輩野ことが気になったのだ。

 どうせあの先輩もあたしのことが気になってるんだろうな。そう麻季は思った。でも冴えなさそうな結城先輩はあたしに話しかける勇気がないのだろう。その後、結城先輩はあまりサークルに顔を出さなかったこともあって、彼と話をする機会はなかった。その間に麻季は怜菜と知り合い仲良くなった。

278 : 以下、名... - 2015/01/06 23:37:03.26 XygYhmbvo 246/442


 それは麻季が怜菜と一緒に、階段教室で一般教養の美術史の講義に出席していたときだった。講義が始まってしばらくすると隣に座ってた男の人が麻季に出席票を回してくれた。その人はそのまま席を立とうとしているようだった。そのとき、麻季はその人が結城先輩であることに気がついて少し彼をからかってみようと考えたのだった。自分にからかわれて嬉しくない男も少ないだろうし。

「こんにちは結城先輩」

 驚いたように結城先輩は席に座りなおした。出席票に目を落すと最後の欄に雑な字で結城博人と書かれていた。博人さんというのか。

「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一年の夏目といいます」

「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」

「先輩に教えてもらいました」

 麻季はそう答えた。

「じゃあね」

 その場の雰囲気を持て余したように先輩が中途半端に立ち上がりながら言った。

「講義聞かないんですか?」

「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」

「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」

「・・・・・・そんなことないよ」

「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じました」

「じゃあ、失礼します」

 麻季はそう言って話を終らせたのだけど、その後に隣に座っていた怜菜が珍しく結城先輩のことを聞き始めた。

「今の人ってサークルの結城先輩だよね」

「そうみたい」

「麻季、いつのまに先輩と知り合いになったの?」

「話したのは今が初めてだよ」

「嘘? 何で初対面の人にあんなに親しく話せるの」

「・・・・・・何でって別に」

「麻季って結城先輩のこと気になる?」

 怜菜が麻季にそういう質問をするのは珍しかった。

「何で? そういうこと聞くの怜菜にしちゃ珍しいじゃん」

「そうかな? 別にそうでもないでしょ」

 怜菜が少し赤くなった。

「ひょっとして怜菜って結城先輩が好きなの?」

 ぶんぶんという音が出そうなほど怜菜は首を横に何度も振った。

「違うよ。そんなんじゃないって。それにあたしは麻季の恋の邪魔なんてしないよ」

「別にあたしだって好きとかそういうんじゃ」

「ふふ」

279 : 以下、名... - 2015/01/06 23:37:46.83 XygYhmbvo 247/442


 珍しく言葉を濁した麻季を見て怜菜は微笑んだ。講義が始まったこともありこのときの話はそれで終った。

 その後キャンパス内で何度か結城先輩を見つけた。先輩は男と二人で歩いている麻季のことを何気なく見つめていたみたいだった。それでも麻季にとって腹立たしいことに結城先輩は彼女には一言も声をかけようとはしなかった。この頃、麻季は三回生の鈴木先輩に言い寄られていた。彼への気持ははっきりしなかったけど、それでも他の男に向ける気持とは少し違う気持を抱き始めていた。何より彼といると周囲の女の子の視線が彼女の優越感をくすぐる。それでも麻季は鈴木先輩と一緒にいるよりは怜菜と一緒にいることを選ぶことが多かった。男は鈴木先輩に限らずいっぱいいたけど、女友だちは怜菜くらいしかいなかったし。

 そんなある日、麻季は結城先輩が女の子と親し気に話をしているところを目撃した。何か心の芯がじわじわと痛んでくるような感覚が訪れて彼女はそのことに狼狽した。

 結城先輩と一緒にいる子は陽気な可愛らしい感じの人だった。単なる知り合いという感じじゃないなと麻季は思った。

「結城先輩だ」
 一緒にいた怜菜がそう言った。そして少し残念そうに話を続けた。「やっぱり神山先輩かあ。何かいい雰囲気だね、あの二人」

 麻季は少しだけ心が重くなるのを感じた。別に彼のことをはっきりと好きというわけではないのに。

「神山って誰?」

「二年の先輩。何かさ、結城先輩と幼馴染なんだって」

「そう」

「やっぱり結城先輩と神山先輩と付き合ってるのかなあ。まあお似合いだよね」

 自分の心の動きはそのときにはさっぱりわからなかった。それでも麻季は冷たく言った。

「全然似合ってないじゃん。結城先輩はあの人のことを全然好きじゃないと思うよ」

「よしなよ」

 怜菜が麻季の言葉を聞いて真面目な表情になった。

「・・・・・・よしなよって何が」

「あんたは今はもう鈴木先輩と付き合ってるんでしょ。それなら他の人にちょっかいを出して不幸にするのはやめな」

「付き合ってないよ」

「嘘。こないだ麻季と鈴木先輩が抱き合ってキスしてるとこ見たよ」

「あんなの。一方的にキスされただけだよ。あたしは誰とも付き合っていません」

「嘘言え。あんたの方だって鈴木先輩の首に両手を回して抱きついてたじゃん」

「怜菜には関係ないでしょ。何? あんたやっぱり結城先輩のこと好きなんでしょ? それであたしに彼に手を出すなって言ってるんじゃないの」

「違うって」

 そう答えた怜菜の顔は真っ赤ですごくわかりやすかった。何だ。親友とか言ったって結局怜菜も自分の恋が大切なだけか。なまじ客観的なアドバイスの形を取っているだけ、玲菜の言葉は麻季を苛立たせた。このとき結城先輩のことがどこまで好きなのかは自分でもわからなかった。

 鈴木先輩を振って平凡そうに見える結城先輩を選んだら後悔するかもしれない。心の中でそんな声が聞こえた。でも目の前の怜菜の偽善に腹が立った彼女にはもはや冷静に考える余地は残っていなかった。お互いに恋愛なんて超越した親友同士だと思っていたのに。怜菜に裏切られた気がした麻季はもう自分を抑えるすべを知らなかった。

 ・・・・・・最初の突撃は失敗だった。サークルの先輩から聞き出した結城先輩のアパートでの出来事を思い出すと、さすがの麻季にも恥かしいという感情がしばらく付きまとった。

 あの朝、麻季はアパートの前で結城先輩が出てくるのを待っていた。彼は眠そうに部屋から出て、ドアの前に立っている彼女を見て驚いて目が覚めた様子だった。

280 : 以下、名... - 2015/01/06 23:38:14.51 XygYhmbvo 248/442


「おはようございます、先輩」

「・・・・・・夏目さん? どうしているの」

「サークルの先輩に結城先輩のアパートの住所を聞きました」

「いや・・・・・・そうじゃなくて。ここで何してるの」

「先輩、神山先輩と付き合ってるんですか」

 麻季はいきなり核心を突いた。

「君は理恵、いや。神山さんのこと知ってるのか」

「知ってますよ。最近、先輩と仲良さそうに話している人は誰ですかって聞いたらサークルの先輩が教えてくれました」

「夏目さんさ、それいろいろおかしいでしょ」

「・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ」

 麻季の突然の言葉に彼は目を白黒させながら戸惑った様子だった。

「何言ってるの」

「あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見てたでしょ」

「・・・・・・それだけが根拠なの」

「それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つめていたでしょ」

「君、正気か。酔ってるの?」

「酔ってませんよ。先輩こそ嘘つかないで。あたしがこんなに悩んでいるのに」

「あのさあ、確かに僕は君のことを見たよ。それは認める。君は綺麗だし。でもそれだけで君のことを好きとか決め付けられても困るよ。第一、僕は一言だって君のことが好きだとか付き合ってくれとか言ってないでしょ」

「生意気なようですけど先輩って自分に自信がなさそうだし、あたしのことを好きだけど勇気がなくて告白できなかったんじゃないですか。あたし、ずっと先輩の告白を待ってたのに」

「・・・・・・・もしかして君は誰かに何かの罰ゲームでもさせられてるの? そうだとしたら巻き込まれる方は迷惑なんだけど」

「先輩こそいい加減にしてください」

「罰ゲームって何よ。何であたしのことをからかうんですか? あたしのこと好きじゃないなら何であんな思わせぶりな態度をとるんですか」

「・・・・・・泣くなよ。わけわかんないよ」

「ひどいですよ。結城先輩、美術史の講義の日からあたしのことを無視するし。あたしのこと嫌いならはっきり嫌いって言えばいいでしょ」

「あのさあ。僕が君のことを好きなんじゃないかと言ったり嫌いだと言ったり、さっきから何を考えてるんだよ」

「何でわざとあたしの目の前で神山先輩といちゃいちゃするのよ」

「してないよ、そんなこと」

 結論から言えばこの日の結城先輩への突撃は失敗だった。先輩は麻季のアパートに彼女を送って行ってくれたけど、麻季の言葉に感情を動かされている様子はなかったのだ。

 失敗したその日のことの出来事を麻季は怜菜にも誰にも言わなかった。でも鈴木先輩はそんな彼女の様子がいつもと違うことに気がついたらしい。麻季と二人でキャンパスを歩いていた鈴木先輩は彼女を責め始めた。

「麻季さあ、おまえ浮気してるだろ」

「浮気? あたしは別に先輩と付き合っていないし、浮気とか言われてもわかんない」

「ふざけんなよ。キスまでしておいて付き合ってないってどういうこと?」

「先輩が勝手にしたんでしょ。あたしは知らないよ、そんなこと」

281 : 以下、名... - 2015/01/06 23:38:59.31 XygYhmbvo 249/442


「・・・・・・まあ、いいや。今日のところは許してやるよ。それよかさ、これから遊びにいかね? 今日はもう実習はないんだろ」

 麻季がその誘いを断った瞬間、鈴木先輩の手が頬に飛んできて彼女は地面に倒れたのだ。下から眺め上げると、鈴木先輩に詰め寄る結城先輩の姿が見えた。結城先輩が何か話すと鈴木先輩はみっともなく言い訳しながら去って行ってしまった。このときが麻季が初めて結城先輩への愛情を実感した瞬間だったかもしれない。

「君、大丈夫?」

結城先輩が倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情を浮べていた。

「怪我とかしてない?」

「……先輩、神山先輩と別れたの?」

 麻季はこのとき一番気になっていたことを聞けなかった。その代わりに二番目に気にしていたことを口に出した。

「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ・・・・・・。君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」

「彼氏って誰のことですか?」

 結城先輩はとりあえず麻季を学内のラウンジに連れて行ってくれた。

「ほら、コーヒー」

「ありがとう。結城先輩」

 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっきの先輩のことを話し始めた。

「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義があるからって断ったら突然怒り出して。付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。あたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」

 結城先輩は何か考え込んでいる様子だった。

「神山先輩と別れたの?」

 麻季が聞いた。何でそんなことを突然口にしたのか自分でもわからなかったけど。

「別れるも何も付き合ってさえいないよ」

「・・・・・・先輩?」

 そのとき、結城先輩はいきなり麻季の髪を愛撫するように触った。先輩は急に声を出して笑った。髪を撫でられながら麻季は微笑んで言った。

「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」

282 : 以下、名... - 2015/01/06 23:39:30.63 XygYhmbvo 250/442


「結城先輩とお付き合いを始めたの」

 そう怜菜に対して話したとき、麻季は少し緊張していた。怜菜が結城先輩のことを好きなのだとしたら、怜菜は相当ショックを受けるかもしれない。もともと怜菜への意地から始めた自分の行動について、この頃には麻季は結城先輩のことが好きで始めたことだと思い込むようになっていた。だから今の麻季は友情よりも男への恋を優先した怜菜のことをもはや恨んではいなかった。むしろ自分と結城先輩の付き合いに彼女がショックを受けないかだけを心配していたのだ。

「そっか」

 怜菜はあっさりと言った。

「ごめんね」

「何で麻季が謝るのよ。あんたの誤解だって」

「・・・・・・それならいいんだけど」

「あたしは別にどうでもいいんだけどさ。ちょっとだけ鈴木先輩と神山先輩のことが気になるな。きっと傷付いてると思うよ」

「博人君は神山先輩とは付き合ってないって」

「もう博人君って呼んでるんだ」

「う、うん。ごめん」

「だから、謝らなくてもいいって。でも付き合ってなかったにしても神山先輩はショックだろうなあ。結城先輩に失恋したんだしさ」

「よくわかんない」

「それに鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだもんね」

「あたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん」

「・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに」

「突然先輩からされただけだよ」

「あっちはそう思ってないって」

「まあ、でも」
 ここで初めて怜菜が麻季に優しく微笑んでくれた。「鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし」

 怜菜の言葉を聞いて麻季は、ああよかった、これからも怜菜と友だちでいられると思ってほっとした。

 友だちでいられると思ってほっとしたのはよかったけど、結局その後は怜菜とはあまり一緒に過ごさなくなっていった。一つには博人と付き合っているうちに、思っていたより麻季の方が博人に夢中になってしまったからだった。男性に対してここまで依存に近いくらい一緒にいたいと考えるようになったのは、彼女にとっては初めての経験だった。麻季はなるべく博人と過ごすようにしていた。お互いに違う講義に出席している時間を除けば、キャンパス内でも大学への行き帰りもいつも二人きりで過ごしていた。それは全部彼女の希望だったけど、博人も笑ってそれでいいよと言ってくれた。そういうこともあり博人といつもべったりと一緒だった麻季には怜菜と一緒に過ごせる時間がなくなってしまったのだった。

 もう一つは麻季自身の怜菜に対する感情の問題だった。怜菜に祝福されてほっとした彼女はこれまでどおり彼女と付き合えると思っていた。ところが博人に惹かれ夢中になっていくうちに自分でもよくわからない嫉妬めいた感情によって心が支配されてしまうようになった。怜菜は博人のことが好きだったのだろうか。つい先日までの彼女の悩みは自分が親友の好きな人を奪ってしまったことによって、怜菜が自分から離れていってしまうのではないかというものだった。ところが博人に対する独占欲が強くなっていくうちに、怜菜に対する感情が変化していった。怜菜が本当に博人のことを好きで、しかもその感情をまだ諦めていないとしたらどうだろう。麻季は男性に関して他の女の子のことなんか気にしたことはなかった。神山先輩に対してだって負けると思ったことはなかった。それなのに怜菜に対してはなぜか不安を覚えるのだ。

 そういうわけで麻季は怜菜も含めて学内ではあまり博人以外の人と会ったり喋ったりしなくなった。博人と二人きりでいるだけで十分だったし、そうしている間は怜菜への漠然とした不安もあまり感じないですむ。麻季が自分の方からこれほどまでの愛情と不安と嫉妬心を抱いた男性は博人が初めてだった。

283 : 以下、名... - 2015/01/06 23:39:58.37 XygYhmbvo 251/442


 最初、怜菜はそんな麻季の様子に戸惑い、そして少し寂しそうだった。

「麻季って最近結城先輩とべったりだね」

 二人が出席していた同じ講義が少し早く終ったあとに彼女はそう言った。

「うん。彼と一緒にいないと寂しくて。ごめんね」

「謝ることはないよ。あたしは別にいいけどさ。麻季って本当に結城先輩が好きなんだね」

「うん」

「でも気をつけた方がいいかも。たまに鈴木先輩が二人のこと凄い目で睨んでるし」

「・・・・・・あの人、まだそんなことしてるんだ。博人君に追い払われて逃げたくせに」

「まあ、先輩にしてみれば自分のことを麻季に浮気されて捨てられた被害者だって思っているろうし」

「冗談じゃないよ。あたしあの人に殴られたんだよ。女に手を出すなんて最低でしょ。あのとき博人君が助けてくれなかったらもっとひどいことされてたかも」

「それはそうかもしれないけどさ、まあでもちょっとは注意しなよ。あ、お迎えが来たみたいだよ」

「うん。ごめんね」

 麻季は博人が怜菜に気づく前に彼の腕を取って出て行ってしまった。怜菜が普通に接してくれるのはいいけど、彼には怜菜を紹介したくなかったのだ。だから博人は怜菜も含めて麻季の友人に紹介されたことは一度もなかった。

 麻季の心配をよそに二人の交際は順調に続いた。麻季は自分のアパートを解約して博人の部屋に引っ越した。最初のうちは博人の自分への態度が凄く淡白なことに不安を感じていた彼女も、一緒に暮らすようになると段々とそんな不安も解消されていった。博人なりに麻季に愛情を感じていてくれていることも、彼の不器用な愛情表現から理解できるようになったのだ。鈴木先輩や他の男たちのように四六時中彼女を誉めたり愛していると言ったりはしないし、彼の方から手を繋いだり身体に触ったりすることもあまりないけど、それでも穏かで静かな愛情というものがこの世にはあるのだということを麻季は初めて理解した。

 これまでの男たちは自分が喋ることが好きで麻季の言うことをあまり理解しようとしなかった。もちろんそれは自分の感情表現の下手さから来るものでもあった。ところが博人はほとんど口を挟まずに不器用な彼女の言葉を聞き、自分の中で繋ぎ合わせ、最後には彼女の考えていることを理解してくれたのだ。もう博人君から一生離れられないと麻季は思った。

 だから博人が音楽の出版社に内定が決まった日の夜、彼からプロポーズされた麻季は本当に嬉しかった。

「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」

 このときの麻季の涙はこれまでと違って中々止まらなかった。

 結婚後、麻季は大学時代のピアノ科の恩師の佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝っていた。音大時代のほとんどの時間を博人にかまけて過ごしてしまった彼女だけど、佐々木教授だけはどういうわけか彼女に目をかけてくれていた。演奏家としてやっていくほどの実力もないし、中学や高校の音楽教師を志望するほどのコミュ力もない麻季に、先生は自分の個人レッスンを手伝わないかと言ってくれた。卒業したときは既に博人との結婚が決まっていた彼女は何となくそれもいいかと考えたのだ。音大志望の中高生を教えるくらいなら何とかできそうだ。既に音楽系の出版社で働き出していた博人もそれを勧めてくれた。

 始めてみると意外と自分にあっている仕事だった。拘束時間はきつくないし、実生活での麻季とは異なりレッスンのときは中高生たちに自分の伝えたいことがよく伝わった。半分はピアノに語らせているせいもあったのだろう。今思えば無茶をしていたと思う。博人と一緒に暮らしている部屋にはもちろんピアノなんかない。佐々木先生の教室での空き時間に教えるところを一夜漬けみたいにおさらいするのが精一杯。それでも仕事自体は楽しかった。それで彼女は博人と結婚した後もその仕事を続けていた。博人といつでも一緒にいられた大学時代とは異なり彼の会社までついて行くわけにもいかない。博人不在の時間を潰すのには彼女にとって格好の仕事場だった。

284 : 以下、名... - 2015/01/06 23:41:08.79 XygYhmbvo 252/442


 その日は初めて教室を訪れた親子の相手をするところから麻季の仕事は始まった。きちんとした紹介で入ってくる人だったから、あまり問題はないはずだった。約束の時間にまだ幼い女の子を連れて教室に来た母親を見たとき、麻季はどこかで見覚えのある人だなと思っただけだった。でも相手は興奮したようにいきなり彼女に話しかけてきたのだった。

「夏目ちゃんじゃない。久し振り」

 そう言われてよく見ると彼女は同じサークルにいた一年上の先輩だった。あまり女性の知り合いがいなかった麻季だけど、ようやく彼女のことを思い出した。彼女は大学時代の新歓コンパのときに博人と二人でずっと話をしていた先輩だったのだ。

「多田先輩ですよね? ご無沙汰してます」

「やだ、夏目ちゃんって佐々木先生のとこで働いてたんだ。知っていればもっと早く連絡できなのに。あたしは今は結婚して川田っていう姓なんだけどね」

 だから今まで気がつかなかったのか。麻季は記憶を探ってみた。たしかこの先輩はどっかの私立中学の音楽の教師になったはずだ。

「そうそう。まだちゃんと働いているんだけどさ。中学生って面倒でね。音大じゃなくて教育大の音楽科行っとけばよかったよ。あたしって教育とかって全然苦手だしさ」

「こちらはお嬢さんですか」

「そうなの。小学校の低学年なんだけど早い方がいいと思ってさ。麻季が指導してくれるの?」

 そういえばこの先輩自身も佐々木先生の愛弟子だったはずだ。

「ちょっと待ってくださいね」

 ロビーの椅子を勧めてから麻季は佐々木先生の私室に赴いた。

 ノックして部屋に入ると先生はデスクの上に広げた書き込みだらけのスコアから顔を上げた。

「どうしたの?」

「先生、あたしより一期上の多田さんって覚えています?」

「ああ真紀子さんでしょ。どっかで学校の先生してるんじゃなかったっけ」

「そうなんですけど、今日申込みにいらした川田さんって、旧姓多田さん、多田真紀子さんでした」

「あら、じゃあ川田美希ちゃんって多田さんのお子さんなんだ」

「はい。どうされます? あたしがレッスンしましょうか」

「あの多田さんのお嬢さんなら最初くらいはあたしがみるわ。三番のレッスン室に連れて来て」

 多田さん、いや川田さんにそれを告げると彼女は喜んだ。

「佐々木先生が直接レッスンしてくれるの?」

「はい。とりあえずは最初は多田先輩のお嬢さんなら自分がみるとおっしゃってましたよ。その後は全部佐々木先生というわけにはいかないと思いますけど」

「光栄だわ。美希、落ちついて頑張るのよ」

 麻季は美希を連れて佐々木先生の待つ部屋に赴いた。

「美希落ちついてた?」

 麻季が川田先輩の待つロビーに戻ると先輩は心配そうに聞いた。

「ちょっと緊張してましたけど、みんなそうですから」

 麻季は笑った。佐々木先生の美希への初レッスンが終るまで、川田さんは大学時代の思い出をいろいろと語り出した。

「そういえば夏目ちゃん、結城君と結婚したんだってね。おめでとう」

「ご存知だったんですね」

「うん。あんたと仲良しだった怜菜から聞いたよ。ああ、もう夏目ちゃんじゃないのか」

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 怜菜は麻季と博人の披露宴に来てくれていた。その場では一言も会話しなかったけど。そしてそれ以来、麻季は怜菜と話をしていない。

「そういや怜菜も結婚したんだってね」

「・・・・・・そうなんですか? あたし聞いてないです」

「え? 怜菜も水臭いなあ。あんたと怜菜って親友だと思ってたのに」

「怜菜、いつ結婚したんですか」

「先月だよ」

「そうですか」

 麻季は少しだけショックを受けた。

 冷静に考えれば無理はないのかもしれない。何しろ博人に夢中だった麻季は、在学中も卒業後も怜菜とはほとんど一緒に過ごしていなかったのだから。それでも卒業後に麻季は自分の披露宴に怜菜を招待したし、久し振りに会った彼女も式の前に目を輝かせて麻季のウェディングドレス姿を見て「麻季きれい」と言ってくれたのだ。

 その怜菜は自分の披露宴には麻季を呼んでくれなかったのだ。

「怜菜ってどういう人と結婚したんですか」

 怜菜への失望を押し隠して麻季は先輩に聞いた。

「怜菜の結婚のことを知らないんじゃ相手のことも知らないか。えーとね。あたしより一年上の鈴木雄二って先輩・・・・・・というか、あんたの元彼じゃなかったっけ」

「・・・・・・鈴木先輩はあたしの元彼じゃありません。あたしが大学時代に付き合ったのは今の旦那の博人君だけですから」

「ああ、そうだよね。あんたと結城君っていつも一緒だったもんね」
 少しだけ慌てた表情で先輩は取り繕うように言った。「何かさ。怜菜と鈴木先輩って卒業後に鈴木先輩のオケの定演でばったり出会ったんだって。怜菜って首都フィルで事務やってるでしょ? 鈴木先輩の横フィルと首都フィルってよく合同でイベントとかしてるみたいで、その縁でそうなったみたい」

 先輩の話は麻季の耳に入っていたけど彼女は半ばそれを聞きながらも心の中ではいろいろな疑問が浮かんできていた。怜菜は博人君を慕っていたはずだった。それは多分麻季の思い違いではないだろう。そしてそんな怜菜が鈴木先輩に惹かれていたたなんていう話は怜菜から一言だって聞いたことがない。もちろん卒業後のことだし、鈴木先輩はイケメンだったから、怜菜が改めて彼に惹かれて結婚したということもあり得るかもしれない。でも麻季が怜菜の気持を気にしながら博人と付き合い出したことを彼女に告げたとき、怜菜はこう言った。



『鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだもんね』

『あたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん』

『・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに』

『突然先輩からされただけだよ』

『あっちはそう思ってないって』

『まあ、でも鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし』



 怜菜は本当は博人ではなく鈴木先輩のことが好きだったのだろうか。それなら麻季が博人と付き合ったときもうろたえずに受け止めてくれた理由としては理解できる。そして結果的に麻季に振られることになる鈴木先輩のことを気にしていたのも理解できる。でも麻季が博人と付き合いだす前に彼と自分が話をしていたところを聞いていた怜菜の様子を思い出すと、やはり彼女は博人のことを好きだったのではないかと思える。

 怜菜は麻季への友情から、自分の気持を抑圧してまで麻季と博人との付き合いや結婚を祝福してくれたのだ。それは間違いないはずだった。それならなぜ彼女は鈴木先輩と結婚したのだろう。それも親友であった自分には一言も知らせずに、披露宴に招待すらすることもなく。

286 : 以下、名... - 2015/01/06 23:42:10.01 XygYhmbvo 254/442


『怜菜は敵だからね』

 凄く久し振りに麻季の心の中で誰かの声がした。

『怜菜が鈴木先輩と結婚した理由はわからない。それでも彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔しようと企んでいるんだよ』

 その声を聞くのは久し振りだった。そしてできればもう二度と聞きたくない声だった。濁ったような男とも女ともつかないような低い声。麻季が博人と付き合い出してからも彼女の人生の節目でしょっちゅう心の中で勝手にアドバイスし出す声。

 博人と同棲したのもその声の勧めだった。佐々木先生の教室を手伝うことに決めたのもその声に従ったまでだ。でも博人のプロポーズに答えたのはその声とは関わりなく純粋に自分の意思だった。そしてその声は博人との結婚後は彼女の頭の中で響きだすことはなくなっていたのだった。

『怜菜は敵だ。これは罠だよ。怜菜は君のことを恨んでいるんだね』



「あ、佐々木先生。ご無沙汰しています」

 先輩が立ち上がってレッスン室から美希を伴って出てきた先生に声をかけた。

「多田さんお久し振り。元気だった?」

「おかげさまで元気です。それで美希はどうでしょうか」

「うん。まだわかんなけど、弾き方の癖とかあんたにそっくりだわ。しばらく結城さんにレッスンさせるけどいい?」

「はい。ありがとうございます」
 先輩が感激したように声を出した。「麻季ちゃん、娘をよろしくね」

「結城さん?」

 黙っている彼女を不審に思った先生が麻季に声をかけた。



 博人と結婚して奈緒人が生まれ、麻季は幸せだった。もうあまり心の中の声が勝手に彼女に指示することもなくなっていて、生まれてはじめて彼女は平凡だけど安定した生活を送るようになった。もう二度とあの声が聞こえることはないだろうと彼女は思った。それくらい育児というのは彼女にとって大変で、しかし幸せな体験だった。妊娠をきっかけに麻季は佐々木先生の教室をやめた。先生は育児が一段落したらいつでも戻っておいでと残念そうに彼女に声をかけてくれた。

 育児で多忙な麻季だったけど、奈緒人がお昼寝をしたりしている時間は彼女の自由になる時間でもある。そんな時間すら麻季はベビーベッドに寝ている奈緒人をぼんやりと見つめていることが多かった。この子は博人君に似ている。そんな奈緒人を見つめているだけで自然に育児の苦労も忘れ彼女の顔には自然に笑みが浮かんだ。彼女にとって出産は自分の愛する人が無条件で増えたということだった。

 怜菜と鈴木先輩の結婚、それにその披露宴に自分が招待されなかったことについて、彼女はだいぶ冷静に考えられるようになった。怜菜が何で鈴木先輩とって悩んだこともあったけど、あの心の中の言葉のとおりだとは やっぱり思えない。例えばお互いに好きな相手と添い遂げられなかった同士である怜菜と鈴木先輩が何かの拍子に相談しあい慰めあっているうちに、恋に落ちたということだって考えられるのではないか。そういうことだって世の中には決してないことではない。そしてそういうことだとしたら二人が麻季を披露宴に招待しなかったことも納得できる。先輩だっていくら怜菜の親友だといっても自分が振られた相手を招待するなんてことはしたくないだろう。

 ひょっとしたら怜菜は麻季のことを招待したかったのかもしれない。もう自分は博人への想いを断ち切って鈴木先輩と幸せになるよって、言葉にする代わりに幸せな披露宴の様子を見せたかったのかもしれない。でも、常識的に考えれば鈴木先輩が麻季のことを元カノだと信じ込んでいた以上、怜菜も麻季を招待するとは言い張れなかったのも無理はない。心の声は以前に言った。怜菜は敵だと。そして、彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔しようと企んでいるんだよと。

 今にして思えば邪推もいいところで、せいぜいよく言っても考えすぎだ。怜菜と鈴木先輩が結婚したことによって麻季と博人の仲が邪魔される要素なんかない。むしろその逆だろう。今度はその声も麻季の考えたことに反論しようとしなかった。

287 : 以下、名... - 2015/01/06 23:42:41.44 XygYhmbvo 255/442


 鈴木先輩との思いがけない再会は、麻季が奈緒人を保健所の三ヶ月健診に連れて行った帰り道のことだった。とりあえず周囲のママたちと違って、特に仲の良いママ友なんていない麻季は、奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。途中の駅の段差でベビーカーを持て余していたとき、一人の男性が黙ってベビーカーに手を差し伸べて持ち上げてくれた。お礼を言おうとその男性の顔を見た瞬間、麻季は思わず凍りついた。黙って手助けしてくれた男性は鈴木先輩だった。同時に彼の方も麻季に気が付いたようだった。

「あれ、もしかして夏目さん?」

「・・・・・・鈴木先輩」

 二人はしばらく呆然としたようにお互いの顔を見詰め合っていた。すぐに先輩は気を取り直したように笑顔で懐かしそうに麻季にあいさつした。

「久し振りじゃん。元気だった?」

「うん」

「そういや結城と結婚したんだってね。夏目さんじゃなくて結城さんか」

「先輩は・・・・・・」

 怜菜と結婚したんですよねと麻季は言うつもりだったけど、先輩はそれを質問だと取り違えたようだった。

「俺? 俺は相変わらず寂しい一人身だよ。同情してくれる?」

 先輩は麻季の言葉を自分への質問だと間違えたのだった。そして自分の結婚を彼女がまだ知らないものだと思ったらしい。実際、偶然に多田先輩から聞かなかったら麻季は怜菜と先輩の結婚のことなんか知る由もなかったろう。それで先輩は自分が結婚していないと麻季に言い出したのだ。

 いったい先輩は何を考えてそういう嘘を彼女に言ったのだろう。

「夏目さん、じゃなくて結城さん。これから少し時間ない? 久し振りで懐かしいしちょっとだけ話しようよ」

 当然、麻季にはそんな気は全くなかった。けれどこのとき再び久し振りのあの声が頭なの中で響いたのだ。



『いいチャンスじゃん。この際、鈴木先輩と怜菜のことを少し探っておきなよ。それにどうして鈴木先輩が怜菜との結婚を隠しているのかも気になるでしょ』



 麻季は好奇心からその声に従うことにした。

「そこのファミレスでお茶でもしようか」

「・・・・・・少しだけなら」

 鈴木先輩は学生時代より少し大人びていて、服装も落ちついた感じで格好よくなっていた。 麻季は奈緒人が寝入っているままのベビーカーを押して先輩とファミレスに入った。ファミレスの店員は先輩と麻季のことをきっとまだ幼い子どもを連れた若夫婦だと思っただろう。

 席について飲み物が運ばれると、先輩は快活に共通の知人たちの消息を話してくれた。麻季は作り笑顔で頷いてはいたけど、その実少しもその話に興味を持てなかった。彼女にとって興味があったのは怜菜と先輩との関係、そして怜菜の消息だった。

「今は横フィルにいるんだ。ようやく去年次席奏者になれたくらいだけどね」

「すごいんですね」

 麻季はとりあえずそう言ったけど、その言葉に熱意がこもっていないことに先輩は敏感に気が付いたようだった。

「君だって立派に子育てしてるじゃん。とても幸せそうだよ」

「そんなことないです」

「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家庭に入るなんて意外だったけどね」

288 : 以下、名... - 2015/01/06 23:43:10.67 XygYhmbvo 256/442


「あたしには才能なんてなかったし」

「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃうなんてもったいないって」

「・・・・・・あたしは旦那のそばになるべく長くいたかったし」

「いい奥さんなんだね。しかし結城のやつも嫉妬深いというか」

 博人の悪口を聞かされて麻季の顔色が変ったことに気がついたのだろう。先輩は言い直した。

「そうじゃないか。愛情が深いってことだね」

 取り繕うように笑った先輩は心なしか少しイライラしているような感じだ。本当にここで鈴木先輩と出会ったのって偶然なんだろうか。麻季は少し不審に思った。

『やっぱりこれは怜菜の罠だよ。先輩と怜菜が結婚したのは、君への復讐なんじゃないの?』

 心の声が響いた。そしてこれまでその声を聞く一方だった麻季は初めてその声に心の中で反論した。

『意味不明じゃない、そんなの。あたしに隠すくらいなら最初から二人が結婚する必要なんてないでしょ』

 心の声は待っていたとばかりに反論した。

『そうとも言えないんじゃない? 多分さ、先輩はこの後君のことを誘ってくると思うな』

『無駄なことでしょ。あたしが博人君を裏切るなんてあり得ないでしょ』

『そんなことは言わなくてもわかってるって。でも問題は先輩の方じゃない。怜菜が何を考えてるかでしょ』

『・・・・・・どういう意味よ』

『先輩の考えていることなんてわかりやすいでしょ。君と寄りを戻すっていうか、君のことを抱きたいんでしょ。こういう男が考えそうなことだよね』

『だからそんなのは無駄な努力だって』

 麻季の反論を無視してその声は続けた。

『問題はさ、君の言うとおり怜菜が何を考えているかだよ』

『どういう意味?』

「麻季ちゃん、よかったらメアドとか携帯の番号とか交換してくれる?」

「・・・・・・何でですか」

「いや・・・・・・音楽のこととか同窓の友人たちの情報交換とか君としたいと思ってさ」

「あたしは家庭にこもってますから、先輩には何も教えられないと思います」

「それでも情報は大切だよ。僕の方は麻季ちゃんに教えられることは結構あると思うよ」

 いつのまにか先輩は麻季のことを結城さんではなくて麻季ちゃんと呼び出していた。

『怜菜が本当は鈴木先輩のことなんか好きでも何でもなかったとしたら?』

『どういう意味?』

『そして鈴木先輩が執念深くずっと君のことを狙っていたとしたら?』

『先輩があたしにそんなに執着するわけないじゃん。この人、ただでさえ女にもてるんだし。それに卒業してから何年経ってると思ってるのよ。それに先輩があたしなんかのためだけに怜菜と偽装結婚までするわけないじゃん。結婚とか式とかってどんだけ費用と労力がかかると思ってるのよ』

『だからあ。先輩はそんな面倒くさいことは考えないでしょ。問題は怜菜の意図でしょうが』

『どういうこと?』

『前にも言ったとおり怜菜は君の敵だ。先輩は単純に怜菜に惚れただけでしょ。彼女って控え目で可愛らしいしね』

289 : 以下、名... - 2015/01/06 23:43:42.26 XygYhmbvo 257/442


『・・・・・・あんた、どっちの味方なのよ』

『私は君そのものだからさ。君の味方に決まってるじゃん』

『先輩は大学卒業後に怜菜を好きになったということね。それはわかった。でもそれじゃ怜菜の気持は?』

『そんなことはわからない。神様じゃないんだからさ』

『怜菜は先輩のことが好きじゃないって言ったよね?』

『怜菜は君の敵だよ。そしてこれは純粋に仮説に過ぎなくて証拠はないんだけどね。怜菜が何とかして博人君を君から奪おうと考えているとしたらさ、君に浮気させちゃうのがてっ取り早くない?』

『あたしは浮気なんてしないよ。博人君を失ったら生きていけないもん』

『仮定の話として聞いてよ。仮に君と鈴木先輩が浮気したとするじゃん』

『絶対にしない』

『仮にだって! そうしたら鈴木先輩の動向を確認しているだろう怜菜はどうすると思う?』

『・・・・・・どうするのよ』

『怜菜は博人君に接触するよ、間違いなく。それで旦那に浮気された被害者を装って博人君の同情を買うと同時に君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君を説得するでしょうね。押し付けがましくなく自然にね』



「今日はいい日だったよ。偶然に麻季ちゃんに会えてメアドとか交換できるとは思わなかった」

「そうですか」



『鈴木先輩のことは気にしなさんな。きっと彼には深い考えなんかないよ。ただ、偶然に会えた君を口説いて、あわよくば抱きたいと考えているだけだから』

『先輩なんかどうでもいいけど・・・・・・怜菜が博人君のことを好きだったのは確かかもしれない』

 麻季はついにその声に対してそれを認めた。もともとそう考えていたことだったし。

『でもこんな馬鹿げたことを怜菜がするわけないじゃん。あたしが博人君一筋だってことを怜菜は知っていたはずだし、先輩のことなんて好きじゃなかったこともね』

『君は怜菜の善意を信じてるの? 君の親友だから?』

『怜菜はあたしの人生で唯一の親友なの』

『その親友に君は何をした? 怜菜から博人君を奪った。そしてそれを許容してくれた親友の怜菜に博人君を会わせなかったばかりか、卒業までろくに怜菜と一緒に過ごさなかったんでしょ』

『それは・・・・・・』

『それはじゃないよ。そんな仕打ちをされても怜菜がいまだに君のことを親友だと思っているとでも?』

『じゃあ、どうすればいいのよ。今さら怜菜にあの頃どう思ったなんて聞けるわけないじゃない』

『確かめてみたら?』

 その声が静かに言った。

290 : 以下、名... - 2015/01/06 23:44:09.82 XygYhmbvo 258/442


『私の言ったことが正しいかどうか試してみればいいと思うよ』

『・・・・・・どうやって』

『簡単じゃん。鈴木先輩に一回だけ抱かれてみればいいんだよ。鈴木先輩は君を落す気満々だし』

『いい加減にしなさいよ。あたしが博人君を裏切れるわけがないでしょ』

『試すだけなんだから裏切りにはならないよ。それに君は博人君の君に対する愛情を本当には信じ切れてないみたいだね』

『そんなわけないでしょ。あんたなんかに言われたくないよ』

『いや。君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても博人君は君を許すよ。君はそれだ

『それならなおさら博人君を裏切っちゃだめでしょ』

『それは正しい。怜菜さえ存在しなければね。でも怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』

『馬鹿なこと言わないで。それにあたしが先輩に抱かれたら怜菜がどうするっていうのよ』

『さっき言ったとおりだと思うよ。怜菜は旦那に浮気された被害者として博人君に接触すきを書いているんじゃないかな。怜菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじゃん』



 麻季はそのときは別に動揺しなかった。心の声も愚かなことを言うものだ。たとえその声が言っていることが正しくて怜菜がそういうことを仕掛けていたとしても麻季が鈴木先輩に靡かなければ無意味な話なのだ。怜菜のことなんかもう放っておけばいい。そして博人君の愛情も疑わなければそれでいい。

 先輩と連絡先を交換したそのときは麻季はそう思っただけだった。

 それなのにそれからしばらくして麻季は怜菜の意図を図りかね、それを知りたくてどうしようもなくなってしまった。もちろん博人と一緒にいるときや奈緒人の面倒をみているときは少しもそういう気は起こらない。でも博人の不在時に奈緒人がお昼寝を始めると、彼女は親友だったはずの怜菜のことが頭にこびりついて離れなくなるのだった。

 そして決して考えるべきでもなく試すべきでもないこさえ麻季の脳裏を占めるようになった。彼女はこんなにも博人君を愛している。多分博人が万一浮気のような過ちを犯したとしても麻季は結局それを許すだろう。でも博人はどうだろう。麻季が先輩と過ちを犯したとしても彼は麻季のことを許してくれるのだろうか。怜菜の意図が知りたい。特に彼女がどれくらい博人に対して想いを残しているのか知りたい。麻季はひとりでいるときはいつもそのことを考えるようになってしまった。同時に博人の気持を試したいという欲求も徐々に彼女の心を支配するようになっていった。

 先輩はメアド交換をして以来、しょっちゅうメールを送ってくるようになった。麻季の方は当たり障りなくそれに返事をしていた。博人との馴れ初めが馴れ初めだったので、本当は先輩とメールのやり取りなんかすべきではないことはわかっていた。でも怜菜の意図を知りたいという欲求のことを考えると、ここで先輩との連絡を絶やすわけにはいかなかった。

 心の声はあれからもしつこく麻季に話しかけてきた。



『鈴木先輩に一回だけ抱かれてみな。試すだけなんだから裏切りにはならないよ』

『君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても、きっと博人は君を許すよ。君はそれだけ彼に愛されているんだから』

『怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』

『怜菜は旦那に浮気された被害者として博人に接触するでしょ。そしてお互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちるなんていう筋書きを書いているんじゃないかな。怜菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじゃん』



 そんなとき先輩からメールが届いた。横フィルの次の定演で先輩がソリストとしてデビューする。招待状を送るから来ないかという内容だった。

『行ってきなよ』
 その声が静かに言った。『確かめてみたら?』

291 : 以下、名... - 2015/01/06 23:44:44.30 XygYhmbvo 259/442


 鈴木先輩にホテルの一室で抱かれた夜、麻季は先輩に抵抗もしなかったけど、乱れた演技すらもしなかった。終始人形のように先輩にされるままになっていただけだ。博人に抱かれて乱れて喘ぐときとは大違いだ。それでも先輩はそんな麻季に満足したようだった。

「処女と一緒だね。結城って本当に君のことがわかってないんだな。何年も君と寝ていて全く君の性感帯も開発していないなんてさ」
 先輩は博人のことを嘲笑しながら、麻季の裸身を優しく愛撫した。「もう少し機会をくれれば君のこと絶対に変えてみせるよ」

 先輩が何を言おうと麻季の心には何も響かない。次の機会なんてないのだ。怜菜の感情を推し量るためにはこういうことは一度だけで十分だった。それに彼女はろくに先輩の言葉に注意していなかった。心の声の方に気を取られていたからだ。



『ついでに博人の気持も確かめとこうよ』

『そんな必要はありません』

『本当は不安なんでしょ、彼の気持が。怜菜が動き出す前に安心しておこうよ』

『どうすればいいの』

『博人が君を求めてきても拒否しなよ。君だって嫌でしょ? 先輩に抱かれた身体で博人君と交わるなんてさ』

『・・・・・・』

『しかし見事なまでに感じてなかったね。鈴木先輩のせいとは思えないからきっと君は博人じゃなきゃ駄目なんだな』

『当たり前だよ』

『でももう君はそんな大切な人を裏切って浮気しちゃったんだよ』

『あんたがそうしろって言ったんでしょう』

『私は君だからね。つまりこれは君自身が望んでしたことなんだよ』

『今まで博人君が求めてくれるのを断ったことないし、断れば疑われちゃうよ』

『そう。君は疑われなきゃいけないんじゃないかな』



「今日は泊まっていける?」

「無理。奈緒人を迎えに行かなきゃいけないし、先輩だって打ち上げに顔を出さないわけにはいかないでしょ」

「君と過ごせるなら打ち上げなんて」

「あたしが無理なの!」

「ひょっとして後悔してる?」

「してる。あたし、博人君を裏切っちゃった」

「・・・・・・泣かないで。君のせいじゃない。全部、僕が悪いんだ」

「もういい。これが最初で最後だから。先輩、もうあたしに連絡してこないで」

「普通の友人同士としてとかなら」



『電話は駄目だけどメールくらいは許してやんなよ』

『もうそんな必要ないじゃない』

『怜菜の気持を知りたいならそうした方がいい。始めちゃった以上は良くも悪くも続けないと。中途半端が一番まずいよ』



「・・・・・・電話はしてこないで。メールにして」

「・・・・・・わかった。君がそういうならしつこくはしないよ。大学の頃から本当に君だけしか愛せなかった。だからメールくらいはさせてくれ」

292 : 以下、名... - 2015/01/06 23:45:37.60 XygYhmbvo 260/442


『出産してから博人君は全然そういうこと誘ってこないもん。考えたって無駄じゃないかな』

『そろそろ博人だってそういうこと考えていると思うよ。早晩、君のことを求めてくるって。そのときは彼を拒否しなよ。そうしないと好きでもない男に抱かれて博人を裏切った意味がなくなってしまうから』



 鈴木先輩はベッドの上ではそう約束したけど、ホテルの前で別れたその晩にさっそくまた麻季に会いたいというメールを送りつけてきた。麻季は拒絶の返事を書いてメールを出した。

『もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない』



 その後、多忙であまり家にはいないながらも遅く帰ってきても麻季と奈緒人のことを気遣う博人に対して、麻季はしてしまったことに罪悪感を感じた。幸運なのか不運なのか、産後の麻季の体調を気遣った博人が麻季を誘うことはなかったので、表面上は二人は今までどおり仲のいい夫婦のままだった。

 あんな声に従って博人君を裏切るなんて、何て馬鹿なことをしたのだろう。麻季は後悔したけどしてしまったことはもうなかったことにはできない。それでも麻季の浮気なんて夢にも疑っていない博人は相変わらず優しかったし、麻季も自分の過ちをだんだんと忘れることができるようになった。

 それでもやはりその日は訪れた。

 ある夜、奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、博人は出産以来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。このときの麻季は自分の不倫を忘れ、博人の愛撫に期待して身体を彼に委ねようとした。



『ほら、ちゃんと拒否しないと』

 最近聞こえてこなかった声が麻季に言った。

 博人は麻季をこれまでより強く抱き寄せて彼女にキスしながら手を胸に這わせ始めていた。

『やだよ。久し振りなのに断ったら博人君傷付くと思うし、それにあたしだって・・・・・・』

『君は博人と違って先輩とセッ○スしたでしょうが』

『あれはしたくてしたんじゃないし! それに気持悪いだけだった』

『そうだね。そんな思いまでして先輩に抱かれたのには目的があったからだ。今さらそれをぶち壊す気なの』

『・・・・・・だって』

『ここで頑張らないと、先輩と寝たことは単なる浮気になっちゃうよ。さあ、疲れてるからそんな気分になれないって博人にいいなよ』



 博人の手に身を委ねてい麻季は彼の腕の中から抜け出した。

「・・・・・・麻季?」

 初めて見るかもしれない博人の傷付いているような表情に麻季は胸を痛めた。

「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」

「いや。僕の方こそごめん」

「ううん。博人君のせいじゃないの。ごめんね」

 一度博人の腕から逃げ出した麻季は再び彼に抱きついて軽くキスした。

「もう寝るね」

「うん。おやすみ」

 本当は麻季の方が泣きたい気持だったのだ。

293 : 以下、名... - 2015/01/06 23:46:27.94 XygYhmbvo 261/442


 確かに博人は麻季のことを大切に考えているようで、それから長いこと彼は麻季を抱けないことに耐えているようだった。事実、彼はその夜から全く麻季に手を出そうとしなくなった。

 博人には思いも寄らないことだろうけど、耐えていたのは麻季も同じだった。セッ○スがないだけならまだ耐えられたかもしれない。でもあの夜以来、博人は自分から麻季の身体に触れないようにしているようだった。多分、抱きしめ合ったりキスしたりした後の自分の衝動に自信が持てなかったのだろう。今ではハグやキスは全て麻季の方からするだけになり、彼はそんな麻季に軽く応えるだけだった。

 全部自業自得だ。博人君は自分を抑えてくれている。そう理解はしていたけど彼女の方もそろそろ限界に来ていたようだった。ある夜、我慢できなくなった麻季は博人に甘えるように彼に寄り添った。いつもの軽いキスとかでは済まない予感がする。その夜の麻季はまるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいに博人に甘えた。麻季はもう我慢ができなかったのだ。それは決してセッ○スだけのことではない。麻季にとっては博人との肉体的な接触が激減したことが不安で仕方がなかった。

 そういう麻季の気持を正確に理解したように、博人はいつもと違って真剣な表情で麻季を強く抱き寄せようとした。



『拒否しなさい』

 またあの声だ。

『もうやだよ。一度は拒否したんだからもういいでしょ。拒否しても博人君はあたしのことを嫌わなかった。博人君の気持はもうこれで十分にわかったんだし』

『やり始めたことは中途半端にしちゃいけないね。拒否するくらいで彼の気持が理解できるくらいなら、何も鈴木先輩と寝ることなんかなかったじゃん』

『だって・・・・・・』

『だってじゃない。君だってわかってるんでしょ。単にセッ○スを拒否した程度で彼の気持なんて試せないって』

『あたし、博人君に抱かれたい。彼に好きなようにさせてあげたいの』

『博人の気持を知るためだけじゃない。ここで流されたら怜菜に博人を取られるかもしれないんだよ』

『そんなこと』

『さあ勇気を出して』



「やだ・・・・・・。駄目だよ」

 結局このときも麻季は心の中の声に従ったのだ。このときの麻季は可愛らしく博人の腕の中でもがいたので、夫はそれを了承の合図と履き違えたようだった。しつこく体を愛撫しようとする博人の手に麻季は微笑みながら抵抗していたから。このままでは埒が明かない。



『博人を押しのけないと』



 麻季の服を脱がそうとした博人は突然麻季によって突き飛ばすように手で押しのけられた。一瞬、博人は狼狽してその場に凍りついた。博人にはひどく傷つけられた自分の感情をを隠す余裕すらなかったようだった。麻季は再び博人の愛撫を拒絶したのだ。

「ごめん」

 それでも博人は麻季に対して謝罪した。何でもないことのように見せようとしているらしいけど、震えている声が博人の彼女を思いやろうとする意図を裏切っていた。

「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよね。悪かった」

「あたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」

「いや」

294 : 以下、名... - 2015/01/06 23:47:08.30 XygYhmbvo 262/442


「・・・・・・口でしてあげようか」

 麻季が言った。それは心の声とは関係なく思わず彼女の口から出た言葉だった。

 その言葉に博人は凍りついたようだった。

「もう寝ようか」

 ようやく博人が口にした言葉は、結婚してから初めて麻季が聞くような冷たいものだった。博人の冷たい口調に麻季は混乱して泣き始めた。

「悪かったよ」

 麻季の涙を見て後悔したように博人はさっきの冷たい口調を改めて言った。

「ごめんなさい」

「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあんなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」

 麻季は俯いたままだった。



『先輩との浮気を告白するなら今がチャンスだね』

『あたし、これ以上博人君に嫌われたくないよ』

『博人を信じようよ。博人は君を愛している。きっと君の浮気を許すだろう。そうしたら君の悩みの一つはそれで解決でしょ。これでもう二度と君は彼の愛情を疑うことはないだろう』

『・・・・・・・あたし恐い』

『勇気を出しなよ。大学時代に君のことなんてどう思っているかもわからない博人のアパートに押しかけた勇気を思い出しなさい』

『だって』

『まず博人の愛情を確認しようよ。それから親友だった怜菜の感情を探らないとね。知りたいんでしょ? そして安心したいんでしょ』

『あんなことを告白しちゃったらあたし博人君に捨てられるかも』

『大丈夫だよ。むしろ、このまま何も手を打たないと怜菜に博人を取られちゃうよ』



 麻季はまたその声に従ったのだ。

「ごめんなさい。謝るから許して。あたしのこと嫌いにならないで」

「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れてるってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」

「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」

「わかってるよ。落ち着けよ」

 混乱している彼女をなだめるように博人は言った。

「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」

「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理ならもう二度と迫ったりしないから」

「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」

 混乱した声で麻季は鈴木先輩と寝てしまったことを話し始めた。

「・・・・・・え」

 博人は予想すらしてなかった麻季の告白に凍りついた。

「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから許して」

295 : 以下、名... - 2015/01/06 23:47:45.56 XygYhmbvo 263/442


 このときはいろいろとつらい思いをしたのだけど、結局のところ麻季は博人の愛情を確信することができた。鈴木先輩との浮気を告白した彼女に対して、博人は最後には許してやり直そうと言ってくれたのだ。博人の愛情を確認するという意味だけを取り上げれば、あの声のアドバイスも正しかったのかもしれない。でも博人の愛情を再確認したその代償もまた大きかった。

 博人の愛情を確信した以上、もう麻季は博人に抱かれてもいいはずだった。でも麻季の浮気を許して彼女の自分への愛情を信じてくれたはずの博人も、一度鈴木先輩に抱かれた麻季の身体を抱くことができなくなってしまったのだ。もうあの声も反対しなかったので、麻季は積極的に博人を誘惑した。そういうときは博人もそれに応えてくれようとしていたのだけど、やはり博人は再中に萎えてしまい彼女を抱けなくなってしまう。麻季は夫が自分を抱けなくなったという事実に狼狽したけれど、それはもちろん自業自得というものだった。

 それでも肉体的な問題を除けば、麻季は幸せで多忙な日々を送ることができた。彼女には奈緒人がいる。博人が彼女を許した理由の大半は奈緒人絡みなのかもしれないけど、そのことは別に彼女を傷つけはしなかった。奈緒人は二人の分身だった。そして二人を繋ぎとめる絆でもある。奈緒人の成長振りを博人と話しているとき、彼女は博人に抱かれて喘いでいるときと同じくらいの充足感を感じた。


『麻季?』

 鈴木先輩から電話がかかってきたのは博人が不在の夕暮れのことだった。着信表示は「鈴木先輩」という文字が浮かび上がっていた。あれから結局麻季は先輩とメールのやりとりを再開してしまっていた。そんな気は全くなかったのだけど、怜菜の件はまだ未解決だった。そのことを例の声に指摘されて麻季はしぶしぶとそれなりに先輩に気のある素振りを装ったメールを返信していたのだ。怜菜が先輩の携帯をチェックしているかもしれないからね。そうあの声が言ったせいだった。

『メール以外で連絡しないでって言いましたよね?』

『わかってる。ごめん。でもそんなことを言っている場合じゃないんだ』

 偶然再会してから、いや大学時代に先輩と知り合ってから初めて聞くような切羽詰った声だった。

『何なんですか。もうすぐ博人君が帰ってくるんですよ。話があるなら早くして』

 これ以上博人君に嫌われたくない。彼が帰宅したときは抱きついてキスして、それから奈緒人を彼に抱かせて迎えてあげたい。そんなささやかな幸せを鈴木先輩ごときに奪われたくない。それにこれ以上博人君に誤解されるのもまずい。麻季はそう思って冷たく答えた。

『悪い・・・・・・。でも僕よりも麻季に関係することだから』

『いったい何があったんですか』

『そのさ。すごく言いづらいんだけど』

『もったいぶらないで早く言って』

『麻季って太田怜菜さんと知り合いだったよね』

 何が太田怜菜さんだ。あんたは独身だってあたしには言っているけど、彼女はあんたの奥さんじゃない。正確に言うと鈴木怜菜でしょ。そう麻季は思ったけど今さら先輩の嘘を責める気はなかった。今はとにかく早くこの電話を切りたい。急がないと博人君が帰ってきてしまう。

『偶然に知ったんだけど・・・・・・。君の旦那と怜菜さんって浮気しているみたいだぜ』

 一瞬、麻季の周囲の世界が停止した。

『もしもし?』

『ふざけないでよ! いったい何の根拠があって』

『いや。偶然に喫茶店で結城と怜菜さんが二人きりで親密そうに話をしているところを見ちゃったんだ』



 場所は博人の編集部の近くにあるクローバーという喫茶店。その店の名前には聞き覚えがあった。打ち合わせでよく使う店だと博人君が話してくれたことがある。先輩はそこで親密そうに顔を近づけて、何やらひそひそと密談めいた様子で話をしている博人と怜菜を見かけたのだという。

『僕も二人に見つかったらまずいと思ってすぐに店を出たんで、その後二人がどうしたかはわからない。ひょっとしたらホテルにでも』

296 : 以下、名... - 2015/01/06 23:48:16.78 XygYhmbvo 264/442


 先輩も動揺している様子だった。自分の妻が後輩と密会しているところを発見したのだとすると無理はない。麻季には独身だと偽っているけど、怜菜は間違いなく先輩の妻なのだから。先輩は乱れた声で何か続けていたけど、もう麻季にはその声は届かなかった。



『やられたな。だから言ったじゃない。怜菜は麻季の敵だって』

『まだ博人君の浮気だって決まったわけじゃないでしょ!』

『先輩は嘘は言っていないと思う。怜菜に浮気されて動揺しているみたいだし。大方自分のことは棚に上げて怜菜を疑って尾行でもしたんじゃないかな』

『・・・・・・待って。クローバーは同業者の人たちがいつも打ち合わせで使っている喫茶店だって博人君は言ってた。そんなところで密会なんかしないでしょ』

 麻季は必死だった。心の声にもそれに同意して欲しかったのだ。

『かえってばれない場所だと思ったのかもよ。怜菜も博人も音楽関係の仕事をしているじゃない? 誰かに見られたって打ち合わせだと言い訳すれば誰も疑わないだろうし』

『やだ・・・・・・そんなのやだよ』

『落ちつきなよ。まだ君は負けた訳じゃない。先輩は女にだらしないくせに怜菜に関しては自分への貞操を要求するようなクズだからさ。きっと前から怜菜のことは気にしていたと思うんだ。だけどこれまではそんな様子はなかったみたいだし、怜菜と博人が二人きりで会ったのはこれが最初だと思うよ』



『麻季? 俺の話聞いてる?』

『・・・・・・うん』

『君にとってショックな話をしちゃってごめん。でも君が結城に騙されているままでいることがどうしても我慢できなくて』



『博人君と怜菜って浮気してるのかな。二人は何を話していたんだろ』

『前に言ったとおりだと思う。怜菜は旦那に浮気された被害者を装って博人君の同情を買うと同時に、君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君に思わせようとしたんでしょ。そして怜菜は今、お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに不倫された同士が恋に落ちるなんていう筋書きを実行しようとしているんだと思うよ。だからまだ二人は出来てない。安心しなよ』



『君の親友である怜菜と浮気するようなひどい男のことなんて忘れたら? 僕なら君を悲しませたりしない。それに奈緒人君のことだって責任を持って育てるよ』

 さっきまで他人を装って怜菜さんと呼んでいた彼女のことを先輩は怜菜と呼び捨てした。彼も動揺しているせいか呼び方まで気が廻らず、つい普段どおりに怜菜と呼び捨ててしまったのだろう。



『あたし、どうすればいい? また先輩の言うとおりにするの?』

『バカかあんたは。私はあんたと先輩の仲を取り持っているわけじゃない。今は先輩なんて放置しなよ。あんたはつらいだろうけど怜菜のことはなかったように博人と仲のいい夫婦を続けなきゃだめでしょ。まだ、博人の気持は君のもとにある。怜菜なんかにはまだ取られていない。だから我慢してこれまでどおりに暮らすんだよ。ここで揺らげば本当に怜菜に負けちゃうよ』

『・・・・・・うん』

『できるね?』

『やってみる』

297 : 以下、名... - 2015/01/06 23:48:48.44 XygYhmbvo 265/442


 博人の態度はその後も変わらなかったし不審な様子もなかった。そして彼はますます麻季に対して優しく接してくれるようになった。麻季は心の声に従って必死に博人との生活を再建しようとしていた。博人の日常の素振りからは彼が浮気をしているような様子は全く覗えなかった。

 怜菜と博人君が二人で会ったことが本当だとしても、彼は怜菜の誘惑に乗らなかったのではないか。そしてそのことを麻季に話さないのは彼女を動揺させまいとしているからなのではないか。だんだん麻季はそう考えるようになった。それほど博人との生活は穏かで愛情に溢れたものだったし、疑り深い心の声でさえ、『麻季は怜菜に勝ったのかもしれないね』と時折呟くようになっていた。

 そういう穏かな日々の積み重ねがしばらくは続いた。・・・・・・怜菜の訃報を多田先輩から聞かされるまでは。



 お通夜は今夜だそうだった。斎場の場所と時間だけを告げると、多田先輩は他の皆にも伝えなくちゃと言い残して早々に電話を切った。麻季は構ってもらおうと彼女にまとわりついて来る奈緒人の相手をしながら、クローゼットの奥から喪服を取り出した。ワンピースの喪服。真珠のネックレス。香典を包む袱紗。

 全く現実感がないせいか不思議と悲しみも動揺すらも感じない。多田先輩から教わった怜菜の通夜の会場は自宅からそんなに離れてはいないけど、時間的にはあまり余裕がない。奈緒人をどうしようか。麻季は博人の携帯に何度も連絡をしてみたけど返事がなかった。喪服に着替えた麻季が姿見で服装をチェックしていたとき、ドアのロックがはずれる音がして博人が帰ってきた。こんなに早い時間の帰宅は珍しい。

「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだもん」

 普段どおりの冷静な声。まるで自分ではなく他人の声のようだ。

「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよりその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」

「博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」

「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」

「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」

「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」

 知っているも何もない。突然亡くなったのはあなたも知っている怜菜だよ。でも今さらそんなことを言ってもしかたないし、そんな場合でもない。博人は怜菜のことを知らないことになっていた。だから麻季は言った。

「博人君は知らないと思う。あたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子。太田怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」

 博人は驚いたような表情で目を見張った。やがてその目に涙が浮かんだ。麻季は心を動かされずに、何重ものフィルターを通しているかのようにぼんやりと博人の涙を眺めていた。

「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」

「・・・・・・やっぱり送って行く」

「あたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」

「連れて行く。君が帰ってくるまで斎場の前に待ってるから」

「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」

「とにかく一緒に行こう。僕は外で奈緒人をみながら手を合わせているから」

 博人は奈緒人と一緒に斎場の駐車場で待っているそうだ。麻季は車を降りて入り口の方に歩いて行った。入り口に黒々とした墨字で太田家と書いてあるのは何でだろう。怜菜は先輩の奥さんなのだから鈴木家と記されているべきではないか。

「麻季」

 斎場に入ると人で溢れている入り口のロビーに川田先輩がいた。

「先輩」

「ちょうど始まったところだよ。一緒に並ぼう」

298 : 以下、名... - 2015/01/06 23:49:35.24 XygYhmbvo 266/442

 麻季は川田先輩と一緒に焼香を待つ列の後ろについた。並んでいる黒尽くめの人の列のせいで祭壇や親族席の方を覗うことはできない。

「交通事故だって。怜菜、まだ若かったのに」

 川田先輩がくぐもった声で麻季にささやいた。

「お嬢さんを庇って暴走した車にはねられたそうよ。お嬢さんだって小さいのにね」

「・・・・・・怜菜って子どもがいたんですか」

 麻季の声が震えた。

「そうよ。鈴木先輩もさぞショックでしょうね」

 列が動き出した。始まると早かった。少しして麻季は列の先頭に立った。親族席に頭を下げたとき、麻季は絶望的な表情で親族に混じって座っている鈴木先輩と目が合った。頭を下げた麻季に応えて怜菜の家族や親族たちもお辞儀をした。同じように頭を下げた先輩はもうそれ以上は麻季と目を合わそうとはしなかった。

 祭壇の中央には怜菜の写真が飾られていた。怜菜の通夜や葬儀にあたって怜菜の両親ががどうしてその写真を選んだのかはわからない。写真の中の怜菜は生まれたばかりの自分の娘を大切そうに抱いてカメラに向って微笑んでいた。その微笑はかつてキャンパスで麻季の横に立って彼女に向けてくれたものと同じ微笑だった。

「ちょっと話していかない?」
 香典返しを受け取ってそのまま斎場を後にした麻季に、先に外に出ていた川田先輩が話しかけた。「怜菜の知り合いがいっぱい来ているの。サークルの人たちとか。少し話をして行こうよ」

「ごめんなさい。息子が待っているので」

「そうだよね、ごめん。あたしは娘を旦那に任せてきたけど、結城君ってマスコミに勤めてるんだもんね。そんなに簡単に帰っては来れないね」

「ええ。教えていただいてありがとうございました」

「うん。あんまり気を落すんじゃないよ。怜菜のことは本当に悲しいし悔しいけど、彼女は大切な娘を守ったんだもん。決して無駄には死んでないんだから」

 もう無理だった。ここまでは心が氷ついていたせいで痛みすら感じなかった麻季だけど、だんだんと彼女の精神が、彼女の秩序が崩れていくみたいだ。

「鈴木先輩もつらいでしょうけど、ナオちゃんの育児とかしなきゃいけないだろうし、それで気が紛れてくれればいいんだけど」

 川田先輩がそっと言った。

「怜菜の子どもってナオちゃんて言うんですか」

「うん。奈良の奈に糸偏に者って書くみたい」

「・・・・・・失礼します」

 麻季はもう川田先輩の方を見ることもなく駐車場に向って歩き始めた。あっけにとられたように先輩は彼女の後姿を眺めていた。

 博人が待つ車に戻ると、麻季は普段奈緒人と並んで座る後部座席ではなく助手席のドアを開けて車内に入った。博人は運転席にぼんやりと座ったまま、半ば身体をねじるようにして後部座席のチャイルドシートで寝入ってしまった奈緒人をぼんやりと見つめていた。

「何で?」

「何でって?」

「何で親族席に鈴木先輩がいたの」

「・・・・・・とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」

「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のことなのに」

 助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。本当は全て知っていたのに、なぜ本気で狼狽し涙が溢れるのか自分でもわからなかった。怜菜の死と彼女に娘がいたことがそれほどショックだったのだろうか。その子の名前は奈緒というのだそうだ。

「車を出すよ」

「奈緒って、奈緒って何で? 怜菜はいつ子どもを産んだの。何でその子は奈緒っていう名前なの」

299 : 以下、名... - 2015/01/06 23:50:06.23 XygYhmbvo 267/442


 博人は車中では何も喋らなかった。麻季が泣いたり悩んだりしているときには、いつも彼女を気にして慰めてくれた彼とは全く別人のようだ。帰宅してから、目を覚ました奈緒人に食事をさせ、風呂に入れ、寝かしつけるいつもの麻季の仕事は全て黙ったまま博人がした。その間、麻季は身動きせず着替えもしないままリビングのソファに座ったままだった。

「奈緒人は寝たよ」

 博人はそう言って麻季の向かい側に座った。博人が麻季の隣に座らないのは彼女の浮気を知った日以来初めてだった。

「何か食べるなら用意するけど」

 麻季にはもう夕食の支度をする気力は残っていなかった。一応、彼女のことを気遣って博人はそう言ったけど、彼自身も彼女の返事を期待している様子はなかった。

「君は鈴木先輩との浮気を僕に告白したとき鈴木先輩は独身だって言ってたけど、鈴木先輩と怜菜さんが実は夫婦だったことは本当に知らなかったの?」

 このときあの声がまだ麻季の頭の中で響いた。



『知らなかったって言わないと。ここで知っていたなんて言ったら、君は本当に博人に捨てられちゃうよ』

『先輩が独身でも既婚でもあたしが不倫したことに変わりはないよ・・・・・・』

『ばか。そんなことじゃない。怜菜のことを承知で彼女の夫と不倫したことを知られたらまずいって言ってるのよ』

『あんたが唆したんでしょ!』

『今そんなことを言ってる場合じゃないでしょ』



「先輩は独身だと思ってた・・・・・・さっき知ってショックだった」

「そうか。じゃあ怜菜さんが鈴木先輩と離婚していたことも知らないだろうね」

「知らない」

「怜菜さんに子どもがいたことも?」

「さっき知った」

 少なくとも、離婚と子どもがいたことを麻季が知らなかったことだけは事実だった。

「ねえ。あなたは怜菜と知り合いだったの?」

 ここまで来ると麻季はもう冷静になっていた。ならざるを得なかった。むしろ、博人がどこまで知っているかが気になっていた。

「正直に話すと、怜菜さんとは仕事の関係で二人で会ったことがあった」

 博人は言った。その態度は麻季の反応を思いやるというよりはどちらかと言うと投げやりな様子に見えた。麻季は怜菜を博人に紹介しないようにしてきた。学生時代から意識してずっとそうしてきたのに、あっさりと夫は彼女には黙って怜菜と会っていたことを認めたのだ。

「そこで全部聞いたんだ。怜菜さんが鈴木先輩の奥さんであることとか、彼女が先輩の携帯を見て君との浮気を知ったこととかね」

「怜菜さんは先輩が自分が独身だと偽って君を誘惑していることを知った。でも彼女は麻季のことは恨んでいないと言っていたよ」

「博人君・・・・・・。何であたしに怜菜と会ったことを話してくれなかったの?」

「僕はショックを受けていたからね。君は鈴木先輩とはもう連絡しないと言っていた。でも怜菜さんが先輩のメールのログを見せてくれた。君はあの後もずっと先輩とメールをしていたんだね」

 思わず麻季は言い訳をしようとしたけど、博人の冷たい、なげやりな表情を見てその言葉は彼女の喉の奥に引っ込んでしまった。今は切実にあの声のアドバイスが欲しかった。でもこういうときに限ってその声は沈黙していた。

300 : 以下、名... - 2015/01/06 23:51:50.61 XygYhmbvo 268/442


 もう耐えられなかった。彼女はついに聞いた。

「博人君は怜菜のことが好きだったの?。怜菜は博人君のことを好きだと告白した?」

「うん。僕は彼女に惹かれていた。彼女も僕のことが大学時代から好きだったと言ってくれた」

 それから博人は怜菜と関係を話し出した。もう彼はその話が麻季にどう受け取るかなんて全く気にしていないようだった。怜菜の死に衝撃を受けたのは麻季だけではなかったのだ。もしかしたら怜菜の死に関しては、博人の方が麻季よりもずっとショックだったのかもしれない。彼はもう何も麻季に隠し事をしなかった。

 博人は怜菜が、自分が博人の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会社に届いたメールの内容も詳しく話した。博人自身も怜菜に惹かれていたこと、怜菜が自分の妻だったら幸せだったろうと考えたことがあることも。それでも怜菜が博人と麻季の復縁を応援してくれていたことも。

 そのつらい告白を聞いて動揺した彼女の頭にようやくあの声が響いた。



『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』

『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃってるみたい』



 麻季は泣き出した。いつもと違って泣き出した麻季を博人はぼんやりと見ているだけだった。まるで泣き出した彼女を通り越してその先にいる怜菜の幻影を追い求めているように。

「何で怜菜はあたしを責めなかったの? 何であたしと博人君を復縁させたいと言ったのよ。怜菜はあなたが好きだったんでしょ。あなたもそんな怜菜に惹かれていたんでしょ。何で怜菜はあたしからあなたを奪おうとしなかったの。わかんないよ。あたしにはわかんない」

「さあ。もう彼女に聞くこともできないしね」

 博人は自分と怜菜のことを話し終えてしまうと、それ以上何も言おうとしなかった。麻季の苦悩にすら無関心のようだった。



 それでも結局、博人は怜菜への想いを、麻季は先輩との過ちと怜菜を裏切った後悔を、互いに告白しあい、その上でお互いに一からやり直す道を選んだのだ。ただ、正直に言えば奈緒人がいなかったとしたら二人がその道を選択したかどうかはわからなかった。博人は少しするとまた以前のように優しい夫に戻ったけれど、そんな彼の態度にもう麻季は何の幻想も抱いてはいなかった。この家族が新婚時代や奈緒人が生まれた頃のような、何の疑問もなかったあの頃に戻っていないことは明白だった。その原因はやはり怜菜にあると麻季は考えた。浮気をした彼女を博人は許したのだけど、その許容自体は偽りではないと思う。そしてあのときやり直そうと言ってくれた博人の優しさも嘘ではなかったはずだ。

 そう考えて行くと、現在の家庭の破綻の原因は麻季の浮気ではなく怜菜が博人君に告白めいたことを話したせいだ。麻季にはそうとしか考えられなくなっていた。心の声は結局正しかったのだろう。怜菜にとっては夫である鈴木先輩と親友の麻季との浮気はつらいことでもなんでもなかったのだ。怜菜にとってそれはチャンスそのものだった。その証拠に怜菜は全く鈴木先輩を責めることをせず、博人を呼び出して自分の学生時代からの彼への愛情を曝露したのだから。

 怜菜にとって誤算だったのは自らが死んでしまったことだった。怜菜が事故に遭わなかったとしたら、今頃麻季は博人に捨てられていたかもしれない。



『そうだろうね。怜菜は君と先輩がメールのやり取りをしているなんて余計なことを博人に言いつけたんだしね』

『やっぱりそう思う?』

『うん。下手したら博人と怜菜は今頃再婚していたかもしれないよ。それで奈緒人と奈緒を仲良く二人で育てていたかも』

 想像するだけで気が狂いそうなほどつらい話だった。

301 : 以下、名... - 2015/01/06 23:52:25.65 XygYhmbvo 269/442


 それでも怜菜は死んだ。彼女の目的は意図しない自分の死によって阻止されたのだ。いつまでも死んだ怜菜に嫉妬したり彼女を恨んでいる場合ではなかった。死人に嫉妬しても何も解決しない。怜菜の想いは中途半端に博人の記憶に残ったけど、その想いに将来はないのだ。少なくとも麻季と博人には奈緒人がいた。二人は怜菜の死の記憶を封印するように、再度この家庭を維持することを選んだ。表面的には二人の仲は以前より安定しているようにも思えた。いまさら悩んでも得ることはない。そう悟った麻季と博人はだんだんと以前の安定した生活を取り戻していった。

 鈴木先輩から電話があったのは、博人が奈緒人を連れて公園に遊びにいている休日のことだった。

『久し振り』

 先輩が電話の向こうでそう言った。

『・・・・・・もう電話してこないでって言ったでしょ』

『わかってる。君を騙していたことを一言謝りたくて』

『もう、どうでもいいよ。そんなこと』

『君を騙すつもりはなかったんだけど、何となく怜菜と結婚しているなんて君には言い出しづらくて』

『気にしてないよ。今となってはどうでもいい』

『怜菜の子どもの名前聞いた?』

『奈緒ちゃんでしょ。知ってるよ』

『結城のガキの名前から娘を命名するなんてあいつは気違いだよ。いくら結城のことを好きだからって、怜菜からこんな仕打ちを受けるいわれはないよ』

『結城のガキってあたしの大切な息子のことを言っているわけ?』

『悪い。でも俺は純粋な被害者だよ。怜菜に裏切られたうえに勝手に死にやがって。浮気相手のことを想って命名された娘を、俺は押しつけられてるんだぜ』

『何があったとしても自分の子どもでしょ』

『ああ。そうだな。最初はそれすら疑ったよ。DNA鑑定までした。結果は結城じゃなくて俺が親だったけどな。こんなことならあんなビッチのことなんか久し振りに抱くんじゃなかったよ』

『さっきから聞いていると先輩だけが一方的に被害者みたく聞こえるね』

『麻季だって浮気されたんだぜ。おまえも俺も被害者じゃないか』

『・・・・・・博人君と怜菜は浮気なんてしていなかったよ』

『そうかな。今にして思えば怜菜のやつ、やたら麻季の話をしてたもんな。麻季が保健所によく子どもを連れて健診や相談に来るとか、麻季の家はどこにあるとか、あのスーパーに毎日買物に来てるとかさ。俺の麻季への気持を知っていて俺のこと、けしかけてたんだろうな』

『話はそれだけ?』

『麻季だってあのガキ、じゃなかった君の息子の名前から命名された怜菜の娘のことが気になるだろうと思って電話したんだよ。鑑定結果がそういうことなんで認知はしたけど、引き取る気はないんだ』

『あたしには関係ない』

『・・・・・・わかったよ。俺だってもう麻季をどうこうしようなんて思ってないよ。もう昔の大学時代の女なんてこりごりだ。こんなことなら身近なオケの中で調達しておけばよかったよ。もう連絡なんかしねえよ。じゃあな』

302 : 以下、名... - 2015/01/06 23:52:56.05 XygYhmbvo 270/442


 その後の生活の中で博人は奈緒のことなんか一言も口にしなかった。本当に全く一言も。それなのに、ある日麻季が奈緒を引き取りたいと思い切って博人に相談したとき、ほんの一瞬だったけど確かに博人の表情が明るくなった。怜菜の死以降、そんな彼の表情を見るのは初めてだった。一瞬だけ嬉しそうな表情を見せた博人はすぐに顔を引き締めた。そして他人の子を引き取って育てることの難しさや、どれほどの覚悟がそれに必要かを延々と話し始めた。麻季はそんな彼の言葉を真剣に聞いて考える振りをしていたけど、頭の中ではそんなものは聞き流していた。

 博人君は格好をつけているだけだ。本当は怜菜の忘れ形見を引き取れることが嬉しくてたまらないのだろう。それでも怜菜と博人との淡い恋情を麻季に告白してしまった彼には、自分からそのことを申し出ることが出来なかったのだ。だから、いろいろと難しいことを言ってはいても、麻季が奈緒を引き取りたいと言ったことを彼は本当に喜んでいたのだろう。何で自分が奈緒を引き取らなければいけないのか、麻季にはよくわかっていなかった。ただ、例の声のアドバイスに従っただけだったから。



『こんな表面だけを取り繕った夫婦生活をずっと続けるつもり?』

 声はいつでもそう話す。博人君が家にいるときには麻季はそれなりに彼のことを信じられた。だけど博人君不在で家にいるときに麻季はいつも不安に襲われる。そういうときを狙ったように心の中で声が話し出す。

『怜菜が死んでもまだ終ってないんだよ。先輩との浮気で始まったこの作戦はさ』

『作戦とか言うな。もう先輩とも本当に終ったし怜菜も死んだの。これ以上続けることなんてないよ』

『あるよ。まだ奈緒がいる。怜菜の意図なんてまだ何にもわかっていないのよ』

『わかってるよ。怜菜は博人君と結ばれようとしてたんだよ。でも彼女が死んじゃってそれは終ったのよ』

『そんな単純なことじゃないと思うけどなあ。だって、実際博人君の心は怜菜に持ってかれちゃったままじゃん。だから何にも終っていないんだよ』

『それは』

『君は奈緒人のためにだけ表面だけ取り繕ったようなこんな夫婦でこの先ずっとやっていけるの?』

『あたしと博人君はそんなんじゃない』

『奈緒を引き取ろうよ。博人だって喜ぶし。もうそれくらいしか君に出来ることはないよ。それでも出来ることはしておこうよ』



 このときも結局、麻季はその声に負けた。

 次の週末、麻季は博人の運転する車に乗って降りしきる雨の中を奈緒が預けられている乳児院を併設した児童養護施設に向った。

305 : 以下、名... - 2015/01/08 00:09:05.58 SBzQnFyyo 271/442


 奈緒を引き取った一時期、怜菜の意図に不安を覚えて博人と言い争いをしてしまったこともあったけど、それがかえってよかったのかもしれない。お互いに不安や不満を吐き出したことによって、麻季の不安は収まった。それにそれが端緒になって、二人の理解も深まり和解することができた。博人は再び麻季を抱けるようにもなった。こうして夫婦の危機は収まったのだ。

 容姿と性格だけを取り上げてみれば奈緒は本当に可愛らしい女の子だった。幸か不幸か麻季のお腹を痛めた子どもは男の子だったから、これまで娘が自分の手元にいることなんて思ったこともなかった。そうしてほとんんど自分が産んだのと同じように幼い少女を育てているとぼんやりとだけどこの子への母親めいた感情まで浮かんでくるようだった。

 心が安定し余裕を持って眺めてみると、することなすこと奈緒の仕草は全て可愛い。麻季は一時期、怜菜の博人への想いを忘れるくらい奈緒に夢中になった。奈緒を引き取って一緒に暮らし出した頃から奈緒人は急にしっかりとした子になった。どちらかというと甘えん坊な息子のことが麻季は大好きだったのだけれど、その息子はいつのまにか母親離れして、今では麻季が助かるほど奈緒の面倒をみてくれるようになった。

 それは幸せな日々だった。もう鈴木先輩も亡くなった怜菜さえも麻季と博人を脅かすことはないのだ。博人が帰宅すると麻季と二人の子どもは待ちかねたようにそろって玄関で彼を出迎える。博人に抱きつきたかったのは麻季も一緒だったけど、最近ではその権利はまだ幼い奈緒に奪われがちだった。そういうとき奈緒を抱き上げる博人のことを麻季は怜菜のことなんて微塵も思い出さずに微笑んで眺めていられた。奈緒人も父親に抱きつく権利を奈緒には喜んで譲ったけれど、そういうとき彼は珍しく麻季に甘えるように抱きついた。それで麻季はこのときだけは母親離れをした奈緒人を思う存分に抱きしめることができたのだ。

 これ以上望むことはない。怜菜と博人の関係を、誰を傷つけることなく消化し昇華できたのだ。奈緒を幸せな家庭に加えることによって。あの声は今回も正しいアドバイスを彼女にしてくれたようだった。

 そういうわけで満足し充足した生活を送ることができた麻季だけど、奈緒の名前について悩むことは未だにあった。博人が奈緒と呼ぶ声。奈緒人が奈緒と呼びかける声。何よりも自分が奈緒に呼びかける際に感じる逡巡に彼女は悩むことがあったのだ。

 今が幸せなのでそんなことを考える必要はない。麻季は自分に言い聞かせた。そして博人が家にいるときはそんな考えは少しも脳裏をよぎることはなかったけど、奈緒人と奈緒を幼稚園の送迎バスに送り出して一人になったとき、その考えはしばしば彼女の心を蝕み出した。



 そんなある日、再び声が聞こえた。

『思っていたよりうまく行ってるよね。よかったね』

『うん・・・・・・』

『何か不安そうだね。博人も頑張って家にいるようにしてくれてるし、これでもまだ何か
気になるの?』

『言葉に出しては言いづらいし、自分でもよくわからない漠然とした不安なんだけどね』

『博人がまだ怜菜のこと引き摺っているんじゃないか不安なの?』

『ううん。それはもうないと思う。確かに亡くなった人には勝てないし、博人君だってもう怜菜を嫌いになることは永遠にないんだけどね。でも亡くなった人相手に嫉妬してもしようがないよ。むしろ怜菜の娘をあたしが一生懸命に育てることが、博人君を繋ぎとめる唯一の方法だと思っているよ』

『・・・・・・なんだ。わかってるんじゃない。それなのにまだ不安を感じてるんだ』

『博人君がいないときだけなんだけどね』

『もう考えても仕方のないことで悩むのはやめにしたら?』

『わかってるよ。でも考えちゃうんだもん。しかたないじゃん』

『・・・・・・』

 声は沈黙してしまった。

306 : 以下、名... - 2015/01/08 00:09:47.08 SBzQnFyyo 272/442


『あんたはあたしなんでしょ? 今まで散々ああしろこうしろって指示してきたくせに。こんなときに黙ってないで何か言いなさいよ』

『聞くと後悔するかもよ。知らないでいたほうが幸せなこともあるしさ』

『あたし自身のくせに何を思わせぶりなこと言ってるのよ』

『まあ、結局君の意思しだいなんだけどね。わたしは君には逆らえないし、君が知りたいと言うなら話すしかないんだけど』

『じゃあ、話してよ。何でうまくいっているはずなのにあたしが不安を感じるのか』

『本当に話していいの? 後悔するかもよ』

『それでも知りたい。自分のこの不安の正体を』

『わかったよ』
 その声はため息混じりに言った。脳内の声の分際ですいぶん細かい芸をするものだ。
『あんたにその覚悟があるならこの際徹底的に考えてみようか』

 覚悟なんてあるわけがない。でも不安があるまま目をつぶるわけにはいかないと麻季は思った。

『その前に聞くけどさ。奈緒のこと引き取ってよかったと思う?』

『よかったって思う。奈緒は可愛いし、あたしたちに懐いているし。このまま幸せに暮らせると思うな』

『そうだね。それはそのとおりだと思うよ。でもさ、怜菜が死んだとき君と博人の仲ってどうだったか思い出してみな』

 そんなことは思い出すまでもない。博人は怜菜の死に、怜菜を救くえなかった絶望に打ちひしがれていて、結婚して初めて麻季の涙にも無関心な状態だった。少なくともあのときの破綻寸前の家庭は麻季の浮気ではなく、怜菜の博人への想いとその後の突然の死が原因だったのだ。

『君と博人の関係の危うい状態は、奈緒を引き取ったことによって解消されたんだよね』

『まあ、そうだけど。何よ、あんたの助言にお礼でも言えって言いたいわけ?』

 麻季の嫌味な言葉には注意を払うことすらなく声は続けた。

『奈緒が我が家に来て博人君は再び君に優しくなった。やり直そうと言ってくれた。何よりもこれまで抱けなかった君のことを抱くようにもなった』

『そうだよ。奈緒を引き取ってからだって彼と言い争いをしなかったわけじゃないけど、結局彼は二人でやり直そうって言ってくれたの』

『博人はあれだけ落ち込んでいたのにね。何で君に優しくなったのかな』

『それは・・・・・・』

『もうわかってるんじゃないの。彼の心が何で安定してまた君に優しくなったのか』

『それは・・・・・・。彼はあたしのことが好きだし奈緒人のことだって愛してるし。奈緒のことをきっかけにあたしを許してくれたんだと・・・・・・』

『覚悟を決めてちゃんと考えることにしたんでしょ? それならもう自分を誤魔化さない方がいいよ』

『・・・・・・どういう意味?』

 声は少しだけ優しくなったようだった。そしてとても静かに麻季に言った。

『これは前にも言ったよ。君は忘れているかもしれないけど』

『何だっけ』

『あのときわたしはこう言ったの』

『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』

『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃってるみたい』

307 : 以下、名... - 2015/01/08 00:10:33.11 SBzQnFyyo 273/442


『それが今では君と博人はすごく仲がいい夫婦に戻れた。そのきっかけはわかるでしょ?』

『・・・・・・奈緒?』

『正解。奈緒が引き取られて博人には生き甲斐ができたんだと思う。自分が何もしてやれなかった怜菜に対して、ようやく自分がしてあげることができたんだって。それは幸せな家庭で奈緒をきちんと育ててあげること。彼にとってはそのためなら浮気した君のことを許すくらい何でもなかったんでしょうね』

 麻季はその言葉に衝撃を受けた。でも彼女の心にはどこかで覚めた部分があった。多分そのことを麻季は前から感じ取っていたのだろう。幸せなはずなのに得体の知れない不安を感じていたのはそのせいだったのかもしれない。

『じゃあ、博人君は本当にはあたしのことを許してないの? あたしのことを嫌いになったままなの』

『そこまではわならない。本当のところはわたしや君にはもう永久にわからないと思うよ』

『ふざけんな! 先輩と浮気して博人君の気持を試せってけしかけたのはあんたでしょう。今になってそんなこと言うなんて』

『わたしのせいじゃないよ。あのときと今とは事情が違うもん。こんなことになるなんてわからなかったし』

『何言い訳してるのよ』

『神様じゃないんだからさ。まさか怜菜が鈴木先輩といきなり離婚するなんて思わなかったし。まして離婚してから産んだ自分の娘にあんな命名をするなんて』

『・・・・・・』

『それに一番誤算だったのが怜菜の死だよ』

『・・・・・・うん』

 本当はもう、麻季にも声の言いたいことは理解できていたのだ。

『君の不安の原因はわかったでしょ。それは前から自分でもわかってたと思うけど、結局単純な話だったね。博人は怜菜に気持を持って行かれてしまってたんだよ。今、君の家庭が安定しているのは、博人が怜菜の代わりに娘の奈緒のことを幸せにできるチャンスを得て彼自身が落ちついたからでしょうね』

『あたしの不安の原因は結局それだったのね。博人君が本当にあたしのところに戻って来たわけじゃないって、あたし自身がどこかで感じていたからなのか』

『そうだね。それでも割り切ればいいんじゃない? 博人は君と一生添い遂げてくれるよ。仲のいい模範的な夫婦として』

『・・・・・・奈緒のために? あたしのことなんて好きじゃないけど、奈緒のために一生あたしを好きな振りをしてくれるっていうこと?』

『うん。亡くなった怜菜の一人娘のためにね。だから聞かない方がいいって言ったじゃない。君はそれに気がついてしまったのだけど、これからどうするつもり?』

『頑張るしかないよ・・・・・・博人君は、結城先輩は絶対あたしのことが好きなはず。どんなに時間がかかっても取り戻して見せるよ。怜菜と奈緒から博人君を』

 大学の頃、黙って麻季の髪を撫でて微笑んでいた博人の姿が一瞬だけ麻季の脳裏に浮かんだ。

『そうか。そうだよね』

『辛いけど、気がつけてよかった。今夜も博人君が帰ってきたら笑顔で迎える』

『うん・・・・・・』

『何よ。まだ何かあるの』

『もう少しだけ気がついたことがある・・・・・・。ここから先は推理というか邪推というか、まあ今となっては証明しようのない話なんだけど。どうする? 聞く?』

『・・・・・・そんな言い方されたら聞くしかなくなっちゃうじゃん。まあ、もうこれ以上ひどい話はないとは思うけど』

『どうかな』

『さっさと言いなさいよ』

308 : 以下、名... - 2015/01/08 00:11:11.67 SBzQnFyyo 274/442


『突然の鈴木先輩との離婚、娘への奈緒という命名、そして怜菜の突然の死』

『うん・・・・・・』

『最初の二つには怜菜の明確な意図が込められていると思う』

『そうかもね。怜菜は博人君のことがすごく好きだったんだろうね。鈴木先輩の言っていたこともあながち嘘じゃないのかもね』

『そして怜菜の死だけは悲劇的な偶然だと、君も博人も鈴木先輩も疑っていないでしょ?』

『・・・・・・どういうこと?』

『偶然じゃなくて三つとも怜菜の意図が働いていたとしたら?』

『それって』

『そう。怜菜は意図的に鈴木先輩から自由になった。彼の浮気を責めることすらなく。そして意図的に自分の娘に奈緒人と一字違いの名前をつけた』

『そしてさ。最後はみんなが悲劇だって思っているけど、実はそれが彼女の意図的な死だったとしたら?』

 それは想像力に溢れすぎていると自分でも認めていた麻季ですら考えたことがなかったことだった。

『自殺ってこと?』

 麻季は心の声の非常識な推理に震える声で小さく応えた。

309 : 以下、名... - 2015/01/08 00:11:52.64 SBzQnFyyo 275/442


「怜菜って自殺したんだと思う」

 麻季は真面目な声で静かに言った。

 これまで考えもしなかった言葉に僕は一瞬動揺したのだけど、すぐにそんなはずはないと思い直した。そんなわけはない。怜菜はか弱そうな外見とは裏腹に芯の強い女性だった。それはただ彼女の言葉だけからそう判断したわけではない。僕は彼女の一貫した行動からそう確信していた。怜菜は離婚後に配偶者のいない状態で出産した。同じ病院に出産のために入院している母親たちと比べたってつらいことは多々あったはずだった。でもそんなことは怜菜から僕にあてた最初で最後のメールには何も言及されていなかった。僕は今では一語一句記憶している彼女のメールの文面を思い出した。



『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなことをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに好意があるからではないことは理解していました』

『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めました。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたのです』

『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季とやり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう心境に導いてくれました』

『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こんどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってます』



 それは何度思い起こしてもつらい記憶だった。生前の怜菜に最後に会ったとき僕が彼女の想いに応えていれば、また違った現在があったのだろうか。そうしていれば、怜菜は死ぬことなく奈緒を抱いて微笑んで僕の隣にいてくれる現在があり得たのだろうか。

「君が何を考えているのかよくわからないけど、怜菜さんの死は自殺じゃなかった。暴走してきた車から奈緒を守って亡くなったんだ」

「あたしだってそう思っていたんだけどね。そうとも言えないんじゃないかって考えるようになったの」

「・・・・・・もうよせ。これ以上僕に君のことを嫌いにさせないでくれ」

「それは・・・・・・あたしは信じてるから」

「何を言ってる」

「あたしが何をしても博人君は、結城先輩はあたしのことが好きだって」

「本当に何言ってるんだよ。もうよそうよ。昔のことは昔のことに過ぎないだろうが。君は鈴木先輩と再婚することにしたんだろ?」

「うん。ごめんね」

「謝るな。僕もこの先の人生は理恵とやり直すことに決めた。だからもうこれ以上怜菜さんのことは蒸し返さないでくれ」

「神山先輩なんてどうだっていい」

「・・・・・・それなら」

「神山先輩さんだけじゃない。雄二さんのことだってどうでもいいよ。怜菜は死んだし、雄二さんにだってあたしたちの愛情の邪魔なんかできないんだよ。あたしたちはお互いに愛しあっている。でも問題は奈緒人と奈緒のことでしょ」

「何を言っているのかわからなよ・・・・・・もういい加減にしてくれ」

「それはあたしのセリフだよ。博人君もいい加減に目を覚ましてよ」

「子どもたちを放置した挙句、家庭を捨てたのは君の方だろうが。今さらお互いに愛しあっているも糞もあるか」

「博人君、まだ話の途中でしょ。そんなにあなたが興奮したらこの後の話がしづらいじゃない」
 麻季が微笑んだ。「それに約束が違うよ。食べながら聞くって言ったのに全然食べてないじゃない。そんなんだと博人君、体壊しちゃうよ」

310 : 以下、名... - 2015/01/08 00:12:23.77 SBzQnFyyo 276/442


「・・・・・・食べるよ。だから続きを聞かせてくれ。何で子ども二人を家に放置した? そのとき君は何をしてたんだ」

「これ以上怜菜に勝手なことをさせないためだよ」

「どういう意味だ」

「奈緒は怜菜そのものじゃない。そして奈緒人はあなたそのもの。博人君は気がついていなかったかもしれないけど、奈緒人と奈緒はお互いに愛しあっているのよ。そんなことあたしは絶対に許さない」

「君が何を言っているのか全然わからない」

「・・・・・・食べないと」

「子どもたちが愛しあってるって、そしてそれを許さないっていったい何の冗談だ」

「博人君、食べないと身体に悪いよ」

「食事なんてどうでもいいだろ! そんなことを君に心配してもらう必要はないよ。僕には今ではもう理恵がいる。君はいったい何の権利があって・・・・・・いや、そうじゃない。奈緒人と奈緒が仲がいいことに何の問題があるんだ」

「怜菜は恐い子だったのよ。あなたを愛して、雄二さんの不倫のことを内心は喜びながら冷静に彼を振って、そしてあなたに告白したの。お腹の中に雄二さんの子がいたのにね」

「本当にもういい。これ以上そんな話は聞きたくない。それより僕が海外にいたときになんで子どもたちを放置したか話せよ」

「怜菜が自分の大切な娘を放って死んでいいと思うほどあなたを愛したのだとしたら、あなたはそんな怜菜のことを愛せる? 怜菜が自分の娘を捨てて自殺したのだとしたら」

「そんな非常識なことがあるか。誤魔化さずに何で子どもたちを一週間近く放置したか答えてくれ。真実をだ。それを言わないなら僕は今すぐ帰る」

「そうね。わかった」
 麻季はそう答えた。「わかったから、あなたの身体に悪いから少しでも食べて」

 もうとうに食欲なんてなくなっている。僕は形だけ目の前の皿からなにやらフライのようなものを取り上げて口に入れた。味なんて全く感じない。

「博人君、串揚げ好きだったよね」

「どうでもいいよ、そんなこと」

「わかってる。あのときね、あたしは」



 麻季は散々悩んだ挙句、その声を信じることにしたのだった。その圧倒的な説得力を前にして信じざるを得なかった。

 それは麻季がこれまで漠然と感じ続けてきた不安に正確な解答が与えられた瞬間だった。このとき麻季は全てを理解した。これまで博人に対する自分の愛情の深さを彼女自身疑ったことはなかった。でも、怜菜が自分の死をも厭わず博人の心の中で一番の女性として生き続けていく道を選んでそれを実行したとしたら、その愛情は麻季のそれを凌ぐほど深いものであると考えざるを得ない。つまり愛情の深さにおいて麻季は怜菜に負けたことになる。

 怜菜の自殺によって博人の心の中では、最後に会った怜菜の記憶が永遠に凍結されたまま古びることなく残るだろう。それは怜菜が博人への愛情を遠慮がちに表わしたときの切ない記憶だ。表面上は麻季に優しく接している博人の中では、怜菜の愛に応えなかった自分への後悔と、そんな自分を責めずに寂しげに微笑んで身を引いた彼女の最後の表情や容姿がいつも浮かんでいるのだ。

 麻季は最終的に怜菜に負けたのだ。

311 : 以下、名... - 2015/01/08 00:13:00.65 SBzQnFyyo 277/442


『負けちゃったね・・・・・・怜菜を甘く見すぎていた』

 声が重苦しく囁いた。

『・・・・・・うん』

『このことに気がつかなければこの先博人との仲を頑張って修復することを勧めたと思うけど、怜菜の意図を理解した以上このまま博人と一緒に生活しても君がつらいだけだと思う』

『どうしろって言うの』

『わからない』

『博人君の心を取り戻す方法が何かあるでしょう。今まで散々役に立たないアドバイスしておいて、こんなときには何も言わないつもり?』

『・・・・・・』

『確かに怜菜の思い切った行動で一時的に彼の心は奪われているかもしれないけど、博人君は、結城先輩はあたしのことが好きなの。先輩に殴られたあたしを助けて、あたしの髪を撫でてくれたときから』

『死んだ人相手には勝てないよ』

『そんなのってひどいよ』

『ただ』

『え?』

『たださ、死んだ怜菜相手には勝てないかもしれないけど負けないこと、いや少しでも負けを減らすことはできるかもしれないね』

 声は少し考え込んでいるように間をあけた。

『どういうこと?』

『今にして思えば君は、いや、君と私は完全に怜菜の仕掛けた罠に嵌ったんだよ。完膚なきまでにやられたね。そもそも怜菜は何で鈴木先輩なんかと結婚したんだと思う?』

『それは・・・・・・あたしだって不思議だったけど』

『先輩が電話で言っていたこと。怜菜は麻季の情報を先輩に伝えて、まるで先輩に対して麻季と接触させようとけしかけていたみたいだったって』

『うん。彼はそう言ってたね』

『そして先輩と君は出合って、怜菜の計画どおり不倫の関係になった。その後、彼女は博人に接触して、君と先輩がまだ連絡をとりあっていることを博人に告げ口したよね』

『・・・・・・やっぱり全部怜菜の計画どおりだったってこと?』

『うん・・・・・・そしてさりげなく怜菜は博人に自分の想いを告白した。怜菜に誤算があったとすれば、博人がその場では怜菜の気持に応えなかったことでしょうね』

『そのときはあたしは怜菜に負けていなかったってこと?』

『うん、そう思う。でも、怜菜は賢い子だし思い切って自分の考えを貫く強さを持っていた。大学の頃からそうだったじゃん』

 それは声の言うとおりだった。一見大人しそうな怜菜は自分が決めたことは貫きとおす強さをその儚げな外見の下に秘めていた。麻季なんかと一緒に過ごさなかったら、怜菜は学内の人気者だったろう。それなのに彼女は麻季と二人でいる方が楽しいと言ってくれた。

『怜菜は離婚して奈緒を出産するまで待った。そして、そのときが来ると迷わず車に身を投げたんじゃないかな』

『博人君の心の中で永遠に彼に愛されるためだけに?』

『うん。でも怜菜はもっと先まで考えていたんじゃないかな』

『わからないよ。これ以上何が起こるの』

『確かに死者には勝てないかもしれないけど、博人君は君には優しいし君がこのまま良い妻でよい母でい続ければ、怜菜の記憶だっていつかは薄れていって、君への本当の愛情が戻るかもしれない』

 麻季はその言葉に一筋の希望を見出した気分だった。たとえ今がどんなにつらくても何年かかっても何十年かかろうとも博人の愛情が戻ってくるなら・・・・・・・。

312 : 以下、名... - 2015/01/08 00:13:31.82 SBzQnFyyo 278/442


『でも、そのことも怜菜はちゃんと考えていたんだろうね』

『どういうことよ』

『奈緒を見てればわかるでしょ。あの子は怜菜にそっくりじゃない。先輩の面影なんか全然ないよね。この先可愛らしく成長する奈緒を眺めるたびに、博人は怜菜のことを思い出させられるんだよ』

『それにさ。奈緒は奈緒人が大好きだし、奈緒人だって君より奈緒の方が好きみたいじゃない? 怜菜は自分と博人君が果たせなかったことを、奈緒と奈緒人に託したんだと思う』

『そんなわけないでしょ!』

『じゃあ何で怜菜は自分の娘に奈緒なんて名前を付けたのかしらね』

『・・・・・・嫌だ。そんなの絶対にいや』

『もうできることだけしようよ。君は博人を失う。でも怜菜や奈緒にはこれ以上勝手なことをさせるのをよそう。それで怜菜に完全には負けたことにはならないし』

『博人君とは別れられない。絶対に無理』

『想像してごらん。怜菜にそっくりに成長した奈緒を見つめる博人の視線を。そしてある日突然に奈緒と結婚したいって言い出す奈緒人の姿を。本当にそれに耐えられる? そしてそうなったら、何年も博人とやり直そうとつらい思いをして頑張ってきた君は、完全に怜菜に負けたことになるんだよ』

『・・・・・・』

『もう決めないと。つらいことはわかるしあたしも甘かった。正直怜菜を見損なっていたし。でも今となってはそれくらいしか打てる手はないのよ』

『どうすればいい?』

『博人君と離婚しなさい。そして奈緒を引き取って、彼女を奈緒人と博人君から引き離しなさい』

『・・・・・・でも、それじゃあ奈緒人は』

『うん。君は奈緒人とはお別れすることになるね』

『そんな』

『つらい選択だよ。でも今迷って決断しないでいても、いずれ奈緒人は君を捨てて奈緒を一緒になるって言いだすよ』

『そんなこと決まったわけじゃない。奈緒人と奈緒はお互いに兄妹だって思っているのよ。普通に考えたら付き合うなんて言いだすわけないじゃん』

『兄妹の恋愛なんて意外に世間じゃよくあるんじゃないの? 君だって博人の妹の唯ちゃんに嫉妬してたじゃない。実の妹なのに博人にベタべタするやな女だって』

『奈緒人はそんな子じゃない。妹と付き合うなんてあたしが言わせない』

 声が少しだけ沈黙した。それからその声は再び囁いた。どういうわけかその声音は悲しみに溢れているような、そして麻季に同情しているような優しいものだった。

『じゃあ、試してみようか。奈緒人が君と奈緒のどっちを選ぶか』

『・・・・・・何言ってるの』

『その結果をみて決めればいいじゃない。とりあえず子どもたちには可哀そうなことをする必要はあるけど、君をそこまで追い込んだのは怜菜の責任だしね』

『だって』

 それから声はその残酷な計画を静かに語り始めた。

313 : 以下、名... - 2015/01/08 00:14:13.12 SBzQnFyyo 279/442


 麻季は奈緒人と奈緒を試すためだけのために、子どもたちの世話を放棄して彼らを二人きりで自宅に放置した。精神的に虐待しただけではなく、食事の支度も入浴も何もかも放棄して六日間の間、自宅を空けて子どもたちだけを取り残したのだ。

「あなたのお父様とか唯さんには子どもたちを放って男と遊び歩いたみたいに言われた。きっとあなたもそう思ってると思うけど、そんなことをしてたんじゃないの。これは大切な『実験』だったし、観察もしないでそんなことをするわけないでしょ」

 麻季は博人の反応を気にしているかのように彼の様子を覗いながらそう言った。

「・・・・・・児童相談所の人がマンションの管理会社に頼んで鍵を開けて家に入ったときのこと聞いてないのか。奈緒人も奈緒も衰弱してリビングの横にじっと横たわっていたんだぞ。すぐに救急車で病院に連れて行かれたくらいに。何でそのとき君が警察に逮捕されなかったか不思議なくらいだよ」

 博人は麻季に対して憤るというより泣きそうな表情だった。そんな彼の様子に麻季の心が痛んだ。そして奈緒人と奈緒を二人きりで放置している間、麻季の心もずっと鈍い刃で繰り返し切りつけられているような痛みにさらされていたのだった。奈緒人はもちろん、奈緒のことだって麻季にとっては大切な我が子だった。それでも麻季は怜菜の意図を探ってそれが彼女の死後もまだ策動しているようなら、たとえ全てを失ったとしてもその意図だけは阻止しなければいけなかった。その点ではもう彼女は声の言うことを疑っていなかったのだ。

 その六日間は麻季にとっては肉体的にも精神的にも追い詰められたつらい時間だった。子どもたちだけを自宅に残していた間、彼女はほとんどの時間をマンションの地下ガレージの車の中でシートに蹲るようにしながら過ごした。一応、自宅近くのビジネスホテルの部屋を押さえてはいたものの、彼女がその部屋を利用したのはトイレに行くときくらいだった。ろくに食事もせずシャワーすら浴びずに彼女はマンション地下のガレージで過ごしたのだ。

 でもそんなことを博人に話す気はなかった。彼の同情を引くつもりはなかったし、たとえそれを説明したところで博人が麻季に共感してくれるはずもなかったから。

「時々、奈緒人たちに気がつかれないようにそっと部屋に入って観察していたんだ。最初のうちは二人とも全然切羽詰っている様子はなかったの。むしろあたしがいなくて奈緒は喜んでいたようだったよ。奈緒人にベタベタくっ付いて甘えてたし」

「切羽詰っていない子どもが衰弱して動けなくなるわけないだろ」

「そうね。最後の日に奈緒は疲れ果てたのか眠っていたの。それであたしは奈緒人に話しかけたのね。もともとそれが目的だったし」

「疲れ果ててじゃねえよ。それは衰弱してたんだよ。おまえ、それでも母親かよ」

 それでも麻季は博人の言葉にはもはや動じている様子はなく、淡々と話を続けた。

「奈緒人は眠っていなかった。ただ奈緒の傍らに横になって奈緒を横から抱きしめていたの。それであたしは奈緒を起こさないようにそっと奈緒人に囁いたの。奈緒はいたずらをしたからお仕置きしなきゃいけない。でも奈緒人は悪くないからママと二人でよければお食事しに行こうって」

「君は・・・・・・なんてことを」

「ほら。やっぱり博人君は奈緒を庇うんだ」

「庇うとかそういう問題じゃねえだろ」

「まあいいわ。そのときね・・・・・・奈緒人が言ったの。ママなんか嫌いだって。奈緒が一緒じゃなきゃどこにも行かないって」

「それを聞いたとき、あたしは決めた。たとえどんな犠牲を払ったってもうこれ以上怜菜の好きにはさせないって。そうしてあたしが奈緒人と奈緒を残して部屋を出ようとしたとき、奈緒人は何をしたと思う?」

「・・・・・・どういうことだ」

「奈緒人はね。部屋から出て行くあたしのことなんか振り返りもしなかった。そして奈緒人は眠っている奈緒の口にキスしたの。まるで生きていれば怜菜に対してあなたがそうしていたかもしれないようなキスを」

「ばかなことを。怜菜と奈緒を重ねるな。それに奈緒人は僕じゃない・・・・・・僕の息子なんだ」

「そのときがちょうど六日目だった。児童相談所へ近所の人から通報があったでしょ?」

「・・・・・・ああ」

「あれ、あたしなの。もう奈緒人の前に姿を現す勇気はなかったけど、子どもたちが限界なのもわかっていた。だから近所の人の振りをして児童相談所に電話したの」

314 : 以下、名... - 2015/01/08 00:14:59.87 SBzQnFyyo 280/442


「あたしはこれ以上怜菜に自分の人生を狂わされたくない。これ以上怜菜にあたしの大事な子どもたちの人生も狂わされたくない」

 麻季は疲れたような表情で少しだけ笑った。大学時代から今に至るまで麻季のそういう複雑な表情をまじまじと見たのは初めてだった。麻季を非難しようとした博人の言葉が口を出す前に途切れた。

「・・・・・・奈緒だって怜菜の自己満足な恋愛の犠牲者なのよ。あたしはこの先はずっと奈緒を可愛がって育てて行くわ。怜菜なんかに奈緒の人生を狂わせたりさせるつもりはない。あの子にはあたしの大切な娘として幸せでまっとうな人生を歩ませるつもり」

 ようやく博人は言うべき言葉を探し当てた。

「何を言っているのかわからないけど、それはもう君の役目じゃない。奈緒人と奈緒は僕が引き取って育てる」

「博人君じゃ駄目なんだってば。それに奈緒人と奈緒は一緒にいさせるわけにはいかないの」

「奈緒人が奈緒を庇って君を拒否したから、君は奈緒人を捨てて奈緒だけを引き取ろうと言うのか」

「そんなわけないでしょ。お願いだから理解して。奈緒人は博人君と同じくらいあたしにとって大切なの。でも奈緒人と奈緒が一緒に暮らすのはだめ。それにあたしが奈緒人を引き取ってあなたと奈緒が一緒に暮らすのもだめなの。もうあたしが奈緒を引き取ってあなたが奈緒人を育てるしか道はないのよ。だから調停の申し立て内容を変更したの」

「なんでそうなるんだ。理由を言えよ。君のしたことは確かに正直に言ったのかもしれないけど、どういう理由でそんなことをしでかしたのか、その明確な説明がないじゃんか」

「本当にこれだけ聞いてもわからないの? 何であたしが太田先生に嘘を言ってあんなひどい内容の受任通知書を書いてもらったか。何であたしが博人君を愛しているのに、雄二さんに言い寄って再婚しようとしたか」

「・・・・・・ああ、わからない。ちゃんと説明しろよ。もっとも何を聞いたとしても二人の親権と監護権は渡すつもりはないけど」

「あたし、奈緒人と奈緒にはひどいことをしたよね」

「そのとおりだよ。君は奈緒人と奈緒が一生忘れられないくらいの心の傷を与えた。僕がマンションに残したメモを見たか」

「うん」

「あれが全てだ。怜菜さんとか鈴木のことなんかもうどうでもいい。どんな理由や言い訳を聞いたって僕が君を決して許さないのは、君が子どもたちを虐待したからだって何で気がつかないんだ。それともわかっていてわざと知らない振りでもしているのか」

「博人君の方こそ逃げないで考えて。怜菜が何で雄二さんと結婚したか。怜菜が何で雄二さんにあたしと接触するよう唆したのか。何で怜菜はあたしと雄二さんの浮気を責めずに黙って離婚した挙句、あたなに会って愛の告白みたいなことをしたのか」

「僕は逃げてなんかいないし、自分の考えに言い訳もしていないよ。怜菜さんは僕を愛していたかもしれない。僕は確かに怜菜さんに惹かれていた。でも彼女は亡くなったんだ」

「怜菜の死が不幸な偶然だと信じ込んでいるのね」

「その根拠のない思い込みはもうよせ・・・・・・なあ、本当にそう思っているのだとしたら君は病院できちっと治療を受けたほうがいいよ」

 それは付き合い出して以来始めて博人がした失言かもしれなかった。麻季はそれを聞いて顔を上げた。

 もう麻季は何も隠さなかった。これまでの彼女には博人に嫌われたくないという自己規制がかかっていたし、進めるべきだと思っている筋書きもそれが博人との永遠の別れに繋がる分、決定的な言葉を告げることを先延ばしにしたい感情もあった。言ってしまえばもう今みたいに居酒屋で博人の食事の心配をするというささやかな幸せすら永久に失われてしまうのだ。



『勇気を出して言ってしまいなさい』

315 : 以下、名... - 2015/01/08 00:15:34.82 SBzQnFyyo 281/442


 その声につられて麻季はついに言った。

「相手が神山先輩なら恐くない。でも死んだ怜菜にはあたしはどうしたって勝てないもの。自業自得なことはわかってるけど博人君とやり直せない以上、奈緒人と奈緒は一緒には過ごさせない。でもあんなでっちあげた内容ではあなたに勝てないことはわかってた」

 博人は黙ったままだ。

「だからあたしは雄二さんに再び近づいたの。博人君の心は怜菜から奪えないかもしれないけど、雄二さんをあたしに振り向かせるのは簡単だったわ。そして奈緒の実の父親である雄二さんなら、奈緒の親権は勝ち取れるかもしれない」

「本当に心配しないで。今でも怜菜のことを愛していて彼女のことを忘れられないあなたに約束します。奈緒のことは愛情を持って育てるし不自由だってさせない」

「今でもこの先もあたしはずっと博人君だけを愛してる。でももう他に方法がないの。だからもうこれでいいことにしようよ」

「あたしは自分のしたことの罪は受けます。凄くつらいけどあなたがあたしを許してくれるまではもう二度と奈緒人には会いません。だから奈緒のことだけはあたしに任せてちょうだい」

「いい加減にしろよ・・・・・・」

 博人はその乱れた感情を反映しているかのように口ごもったまま辛うじて言葉にした。

「奈緒人のことよろしくお願いします」

 麻季は最後に涙を流したまま頭を下げた。



 麻季が長い話を終えたとき、それが残酷でひどい内容だったにも関わらずどういうわけか僕の心の中には彼女への憎しみは生じなかった。ただ、今さらだけど本当に麻季との生活は終ったことを実感し、そして帰国して以来初めて彼女への憐憫と少しだけ後悔の念が心の中に去来した。

 麻季は怜菜の死やその意図については明らかに過剰反応していたとしか思えない。でも彼女をそこまで追い込んだ責任が僕にないと言いきれるかというと、そんな自信はなかった。これまで僕は麻季のことを大事にしてきたつもりだ。でも一度だけ麻季のことなんかどうでもいいという感情に囚われ、そしてそれを彼女に対して隠すことすらしなかったことがあった。

 それは怜菜の死を知った直後のことだった。混乱して泣く麻季の姿はそのときの僕の感情を動かすことはなかった。これまでこれだけ麻季を大切に思い、彼女を傷つけないように過ごしてきたというのに。そのときの僕は怜菜の悲惨な死に心を奪われていた。でも今にして思えばあのときは僕と同じくらいに、麻季は傷付いていたのだろう。親友の死とその親友と自分の夫とのつかの間の交情を知ったことで。

 依然として麻季が子どもたちを追い詰めた事実には変りはないし、太田先生の受任通知で僕を貶めたことにも変りはない。それでも僕は麻季の告白から、彼女の心の異常な変遷を知ることができてしまった。そして知ってしまうと、麻季の心変わりに悩んでいた時のような何を考えていたのかわからない彼女への憎しみが消えて、その感情は憐憫と後悔に置き換わったいったのだ。

 これは常識的な判断ではない。奈緒人と奈緒が仲が良すぎることなんか気にすることではない。でも僕には一見して支離滅裂な麻季の言葉から、彼女の感情の動きや彼女なりのロジックを推測することができた。誰よりも深くそして多分正しく。僕が麻季の気持を察することができることが破綻する前の僕と麻季との絆を深めていたのだ。

 唯にそう言われてから、僕はこれまでは麻季は敵だと思うようにしていた。というより僕の知っていた麻季はもういないのだと、僕のことを誹謗中傷しているこの麻季は僕の妻だった女ではなく見知らぬ女なのだと考えようとしていた。でもこの日深夜の居酒屋で僕は不用意にもかつてのように麻季の言葉足らずの説明を脳内で補正して彼女の真意を理解してしまった。それは客観的には間違った考えだったけど、麻季にとってはようやく見出した真実なのだということを。

 僕は不用意に麻季の泣き顔を見てしまった。生涯、麻季につらい思いはさせない。かつての僕が自分に自分に誓った言葉が再び僕の脳裏に思い浮んだ。

 このときの僕の決心は、結局この後の僕をずっと苦しめることになった。

316 : 以下、名... - 2015/01/08 00:16:34.32 SBzQnFyyo 282/442


 奈緒の親権は、奈緒の実父の鈴木雄二と婚姻するという条件で麻季へ。奈緒人の親権は僕へ。慰謝料、養育費はお互いになし。お互いにあらかじめ決められた回数はそれぞれ相手に引き取られた子どもに面会できる。

 離婚事由についてはお互いに相手を有責と主張したままだったので、調停結果は互いに慰謝料はなし。翌年の三月に調停委員からこういう調停案が提示された。あくまでも調停なので調停案を拒否することはできる。だけど一度調停案に同意した場合は、その調停結果には拘束力が生じる。つまり一度それに同意した場合は判決と同じ効果が生じるのだ。

 僕は調停の結果を受け入れた。つまり奈緒は奈緒人と別れさせられ、麻季と鈴木先輩が引き取る結果を容認したのだ。僕はその決断を誰にも相談せずに自分で決めた。

 そう決断した結果は目も当てられないものだった。

 まず、僕は涙を流しながら僕を責める唯に絶交を言い渡された。

「何であんなに仲のいい二人を引き離すなんてことができるのよ。あたしが何のために奈緒人と奈緒の面倒をみていたと思ってるの」

 僕はそれに対して一言も答えられなかった。説明しても理解してもらえないだろうから。

「もうお兄ちゃんとは一生関わらない。あたしは彼氏との付き合いよりも、内定した会社への入社よりも奈緒人と奈緒のことが大事だったのに。まさか、理恵さんと早くで結婚したかったからなの? 子どもたちの幸せより自分の再婚の方が大切だったの?」

 この後今に至るまで僕は泣きながらそう叫んでいた唯とは絶縁状態のままだ。

 僕の両親も唯と同じような反応だった。

「確かに奈緒ちゃんはおまえと血が繋がっていないけど、それでもずっと奈緒人と一緒に過ごしてきたんだぞ。どうしてそんな冷たい仕打ちができるんだ」

 父さんが混乱した表情で僕を叱った。母さんは俯いて涙を拭いているだけだった。

「もう勝手にしろ。俺たちはもう知らん」

 そしてこの件で僕は理恵の両親の信頼すら失った。理恵が言うには僕との再婚に何の反対も心配もしていなかった理恵の両親は、僕との再婚は考え直した方がいいのではないかと理恵に言い出したそうだ。自分の子どもをあっさり見捨てるような僕に不安を感じたのだという。理恵の両親と玲子ちゃんは奈緒が奈緒人の本当の妹であり、僕と麻季の実の娘だと思っ ていたからその反応は無理もないのかもしれない。

 僕と理恵の再婚に唯とともにこれまで一番味方になってくれていた玲子ちゃんは、両親のように僕を責めはしなかったけど、一時期のように僕を慕ってはくれなくなったようだ。内心では彼女も僕の決断を嫌悪していたのかもしれなかった。

「本当にそれでいいの? 後悔しない?」

 理恵だけは冷静に僕に聞いた。

「・・・・・・後悔すると思う。でも、今はこうするしかないと思っている」

 僕の答えに、理恵は紅潮した顔で何かを言おうとして寸前で留まったみたいだった。

「あたしは博人君が麻季ちゃんに何でそんなに気を遣うのかわからないけど」

「・・・・・・うん」

「でも。まあ、あたしだけは仕方ないから君の味方になるよ。君がそれでいいなら再婚しよう。奈緒人君と明日香とあたしたちで新しい家族を作ろう」

 理恵がどうして周囲と異なり僕の非常識な決断に理解を示してくれたのかはわからない。でも、こうして麻季の複雑な心理を最後に読みほぐし、結果として麻季の考えに従うことを選んでしまった僕には理恵以外には味方がいなくなった。自分の息子の奈緒人をも含めて。

 僕はその決定を人任せにはできず、自ら奈緒人に話をした。彼ももう小学生だったので、たとえ今は誤魔化していても、いずれは妹がいなくなったときに納得するはずがなかったから。

 彼が奈緒と別れて僕と理恵と明日香と暮らすことになると知ったとき、奈緒人は黙って僕の話を聞いていた。そのときは奈緒人は青い顔で黙ったまま反発も非難も泣くことすらしなかった。

 翌日、僕が出社時間に間に合うように起き出して子どもたちの様子を覗おうと部屋の扉を開けると、そこには子どもたちの姿がなかった。

 奈緒人と奈緒は二人きりで僕の実家から脱走したのだった。

317 : 以下、名... - 2015/01/08 00:17:15.65 SBzQnFyyo 283/442


 冷たい雨の中を傘もレインコートもなく逃げ出した二人は、すぐに警邏中のパトカーに乗った警官に発見され保護された。パトカーの後部座席に乗せられた二人は手を繋いで互いに寄り添ったままだった。そして連絡先を優しく聞き出そうとする初老の人の良さそうな警官に対しては一言も喋らす何も返事をしなかった。

「君たち迷子になったんんでしょ? おうちの人に迎えに来てもらおうね」

 その警官は無骨な顔に精一杯笑顔を浮かべて連絡先を聞き出そうとしたけど、二人はさらにお互いの体を近づけて握り合う手に力を込めるだけだった。

「何か様子が変ですよ」
 運転席の若い警官が初老の相棒に声をひそめて話しかけた。「もしかして虐待とかじゃないですかね」

「いや。雨に濡れてはいるけど服装もきちんとしているし、外傷もなさそうだしな」

「そうですね」
 運転席の警官が身体を回して二人を覗き込んだ。「あれ? 女の子のカバンに何かタグがついてますよ」

「うん? お嬢ちゃんちょっとごめんね」

 初老の警官が奈緒の持っているバッグに付けられていたタグを手に取って眺めた。

「よし。緊急連絡先とか血液型とかが書いてある。えーと、結城奈緒ちゃんって言うんだね」

 自分の名前を呼ばれた奈緒は顔を上げようともせずに、これまで以上に力を込めて奈緒人に抱きつくようにしただけだった。

「仲がいいなあ」
 そう言いながらも警官は手際よく連絡先を読み取った。「携帯の番号が書いてあるな。心配しているといかん。俺はここに電話してみるからとりあえず角の交番まで連れて行こう」

「了解です」

 降りしきる冷たい雨の中を、それまで停車していたパトカーは点滅させていたハザードを止めて動き始めた。



『結城麻季さんですか?』

『ええ。結城奈緒ちゃんという女の子と、多分お兄ちゃんですかね? 小学生低学年の男の子を保護しています。はあ? 男の子は奈緒人君ですか。お二人を引き取りに来ていただけますか? そうです。明徳町の交差点にある交番で保護していますから』

『兄妹じゃない? はあ。そうですか。じゃあ奈緒人君の保護者の連絡先をご存じないですか? ええ。あ、ちょっと待ってください。メモしますから』

『はい。ユウキヒロトさんですか・・・・・・え? 苗字が同じですけど家族じゃないんですか。はあ。じゃあ連絡すればわかるんですね』



 先に交番に到着したのは5シリーズのBMWの助手席から降りてきた麻季だった。簡単な事情聴取のあと、鈴木先輩が確かに奈緒が自分の娘である証拠を提示した。麻季は奈緒人には目もくれずに、奈緒の腕を取って鈴木先輩が運転席で待つ車の後部座席に彼女を乗せた。

「ご面倒をおかけしました」

 そう言って麻季は奈緒の隣に乗り込んだ。このときになって思わぬ成り行きに呆然としていた奈緒人と奈緒が同時に叫び出した。

「奈緒・・・・・・奈緒!」

「お兄ちゃん! 奈緒、お兄ちゃんと離れるのはいや」

 警官たちが子どもたちの様子に不審を覚えるより早く、奈緒を乗せたその黒いBMWは走り去って行ってしまった。


続き
【オリジナルSS】ビッチ(改)#6【再編集版】

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