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183 : 以下、名... - 2014/12/23 00:37:00.30 YVbOe2ijo 164/442


第三部



 僕が初めて彼女に出会ったのは大学のサークルの新歓コンパの席上だった。その年サークルに入会した新入生たちは男も女もどちらも子どもっぽい感じがした。多分一年生のときは僕も同じように見えたのだろうけど。その中で彼女だけはひどく大人びていてクールな印象を受けた。見た目が綺麗だったせいか、彼女は上級生の男たちに入れ替わり話しかけられていた。その年の新入生の女の子の中では彼女は一番人気だった。その子が気になった僕はしばらく彼女の方をじっと見て観察していた。

 彼女はこだわりなく笑顔で先輩たちに応えていたけど、その態度は非常に落ち着いたものだった。どうにかすると年下の男たちを年上の女性がいなしているような印象すら受けた。彼女が綺麗だったことは確かだったから、僕も彼女に自己紹介したいなとぼんやりと会場の隅の席で一人で酒を飲みながら考えていた。そういう意味では僕も新入生の彼女に群がる上級生たちと考えていることは一緒だった。でも彼女の側からは一向に話しかける連中がいなくならないし、その群れに割り込むのも自分のプライドが邪魔していたので僕は半ば諦めて同じ二回生の知り合いの女の子と世間話をする方を選んだ。

「結城君も彼女のこと気になるの?」

 しばらく僕は知り合いの子の隣でその子から彼氏の愚痴を聞かされていたのだけど、そのうち僕が自分の話をいい加減に聞き流していることに気がついて彼女がからかうように言った。

「別にそうじゃないけど。彼女、大人気だなって思って」

「あの子、綺麗だもんね。夏目さんって言うんだって」

 僕の隣で知り合いの子がからかうように笑って言った。気になっていた子の話題になったせいか僕は再び離れたテーブルにいる彼女の方を眺めた。そのとき、ふと顔を上げて周囲を見回した新入生の彼女と僕の目が合った。彼女は戸惑う様子もなく落ち着いて僕に軽く会釈した。新入生が誰に向かってあいさつしているのか気になったのだろう。彼女を取り巻いていた男たちの視線も僕の方に向けられたため、僕は慌てて彼女から目を逸らして何もなかったように隣の子の方に視線を戻した。それで、僕は結局新入生の彼女のあいさつを無視した形になった。

「結城君らしくないじゃん。新入生にあいさつされて照れて慌てるなんて」

 彼女が僕をからかった。

「放っておいてくれ」

 僕はふざけているような軽い調子で答えたけど、心の中では自分の今の不様た態度が気になっていた。あれでは新入生の彼女の僕への印象は最悪だったろう。まあでもそれでいいのかもしれない。あんなやつらみたいに新入生の女の子に媚を売るようにしながら彼女の隣にへばりつくよりも。みっともない真似をしなくてよかった。僕はそう思い込むことにした。



 次に僕が彼女に出合ったのは、階段教室で一般教養の美術史の講義に出席していたときだった。その講義は出席票に名前を書いて提出し課題のレポートさえ提出してさえいれば、その出来や講義時の態度に関わらず単位が取れると評判だったので広い階段教室は一二年の学生で溢れていた。美術になんかに興味はない僕はさっさと出席票を書いて教室の後ろの出口から姿を消そうと考えていた。講義が始まってしばらくすると出席票が僕の座っている列に回ってきた。自分の名前を出席票に書いて隣に座っている女の子に回して、僕はそのまま席を立とうとした。そのとき、僕は彼女に声をかけられた。

「こんにちは結城先輩」

 出席票を受け取った隣の女の子はサークルの新入生の夏目さんだったのだ。驚いて大声を出すところだったけど今は講義中だった。僕はとりあえず席に座りなおした。

「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一年の夏目といいます」

 講義中なので声をひそめるように彼女が言った。

「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」

「先輩に教えてもらいました」

 彼女は出席票に女性らしい綺麗な字で自分の名前を記入しながらあっさりと言った。僕はその署名を眺めた。夏目 麻季というのが彼女の名前だった。彼女は出席票を隣の学生に渡すともう話は終ったとでもいうように美術史のテキストに目を落としてしまった。

「じゃあ」

184 : 以下、名... - 2014/12/23 00:38:01.83 YVbOe2ijo 165/442


 彼女に無視された形となった僕はつぶやくような小さな声で講義に集中しだした彼女に声をかけて席を立った。もう返事はないだろうと思っていた僕にとって意外なことに、夏目さんがテキストから顔を上げて怪訝そうに僕を見上げた。

「講義聞かないんですか?」

「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」

 夏目さんはそれを聞いて小さく笑った。

「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」

「・・・・・・そんなことないよ」

 僕は思わず夏目さんの眩しい笑顔に見とれてしまった。中途半端に立ったままで。

「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じます」
 彼女がどこまで真面目に言っているのか僕にはわからなかったけど、彼女の言葉は何かを僕に期待させ、そしてひどく落ち着かない気分にさせた。

「じゃあ、失礼します」

 くすっと笑って再び夏目さんはテキストに視線を落としてしまった。

 気になる新入生から話しかけられる。それも僕の名前を知っていたというサプライズのせいで、それからしばらくは僕の脳裏から彼女のことが離れなかった。何で僕の名前を知りたがったのか、何で僕に話しかけたのか、何で僕のことを格好いいと言ったのか。悩みは尽きなかった。多分僕は彼女のことが気になっていたのだ。それも恋愛的な意味で。

 彼女への思いが次第に募っていくことは感じてはいたけれど、それからしばらく彼女と話をする機会はなかった。キャンパス内で友人たちと一緒にいる彼女を見かけることは何度かあったけど、彼女が僕にあいさつしたり話しかけたりすることはなかった。

 ひょっとしたらもう二度と夏目さんと会話することはないかもしれない。そう思うと残念なような寂しいような感慨が胸に浮かんだけど、僕はすぐにその思いを心の中で打ち消した。僕と彼女では釣りあわないし、きっと縁もなかったのだろう。そう考えれば夏目さんに対する未練のような感情は薄れていった。彼女は僕の人生でほんの一瞬だけ触れ合っただけなのだろう。これ以上夏目さんのことを深く考えるのはやめようと僕は思った。

 それにこの頃僕は偶然に幼馴染の女の子とキャンパス内で再会していた。同じ大学の同じ学年だったのに今までお互いに一向に気がつかなかったのだ。

「結城君」

 自分の名前を背後で呼ばれた僕が振り返ると懐かしい女の子が泣いているような笑っているような表情で立ちすくんでいた。

「・・・・・・もしかして理恵ちゃん? 神山さんちの」

「うん。博人君でしょ。わぁー、すごい偶然だね。同じ大学だったんだ」

「久し振りだね」

 中学二年生のときに僕は引っ越しをした。それで幼稚園の頃からお隣同士だった理恵とはお別れだったのだ。あのとき涙さえ見せずに強がって笑っていた彼女との再会はいったい何年ぶりだっただろう。僕に声をかけたときい理恵はびっくりしたような表情だった。そして僕がほんとうにかつての幼馴染だとわかったとき、どういうわけか理恵は少しだけ目を潤ませたのだった。久し振りに会った理恵に対して懐かしいという思いは確かにあった。でもそれ以上に理恵に対しては再会というよりは自分好みの女の子にようやく出会ったという気持ちの方が大きかったかもしれない。気が多い男の典型のようだけど、理恵と再会した僕は夏目さんのことを忘れ理恵のことを思わずじっと見つめてしまった。

「な、何」

 僕の無遠慮な視線に気がついた利恵が顔を赤くして口ごもった。そのときは僕たちはお互いの家族の消息を交換して別れただけだったけど、僕の脳裏には夏目さんの表情が薄れていって代わりに理恵の姿が占めるようになっていったのだ。

 その後、再会してからの理恵は僕と出会うと一緒にいた友だちを放って僕の方に駆け寄って来るようになった。そして僕の腕に片手を掛けて僕に笑いかけた。

「博人君」

「な、何」

 突然片腕を掴まれた僕は驚いて理恵の顔を見る。周囲にいた学生たちがからかうような羨望のような視線を僕に向ける。

「別に何でもない・・・・・・呼んだだけだよ」

185 : 以下、名... - 2014/12/23 00:38:44.96 YVbOe2ijo 166/442


 理恵は笑って僕の腕を離して友だちの方に戻って行く。僕に向かって片手をひらひらと胸の前で振りながら。

 この頃になると僕の意識の中では物怖じしない明るい女の子として理恵に密かに恋するようになっていた。理恵の僕に対する態度も積極的としか思えなかったので、僕は久し振りに再会した幼馴染に対する自分の恋はひょっとしたら近いうちに報われるのではないかと思い始めていた。つまり一言で言うと僕は理恵に夢中になっていたのだ。なので一瞬だけ気になった夏目さんと疎遠になったことを思い出すことはだんだんと無くなっていった。

 僕と理恵はお互いに愛を告白したわけではなかったけど、次第にキャンパス内で一緒に過ごす時間が増えてきた。付き合ってるんだろとかって友人に言われることも多くなっていた。そろそろ勇気を出して理恵に告白しよう。僕がそう考え出していたときのことだった。

 その日もいつもと同じような一日の始まりだろうと思っていたのだ。自分の狭いアパートで身支度を済ませた僕がアパートを出たとき、アパートのドアの前に女の子が立っていた。僕は一瞬目を疑った。外出して講義に行こうとした僕の目の前にいたのは夏目さん、夏目麻季だったのだ

「おはようございます、先輩」

 彼女は微笑んで言った。

「・・・・・・夏目さん? どうしているの」

 そのときはそう言うのが精一杯だった。そこに恥かしげに微笑んでいる理恵がいるのならまだ理解できた。その頃の僕は理恵に惹かれ出していたし、思い切り恥かしい勘違いをしているのでなければ理恵も僕のことを気にはなっていたはずだから。でも目の前にいたのは夏目さんだった。いったいどうしてここに彼女がいるのだ。

「サークルの先輩に結城先輩のアパートの住所を聞きました」

「いや・・・・・・そうじゃなくて。ここで何してるの」

 夏目さんはここで何をしているのだろう。僕には理解できなかった。とりあえずこの人目の多すぎるアパートでする話じゃない。僕は夏目さんを促して駅前のカフェに彼女を誘った。

「・・・・・・サークルで何かあったの」

 人気のない奥の席に落ち着いてから僕は夏目さんに話しかけた。この頃になるとだいぶ落ち着いてきた僕はサークルで何かが起こったのではないかと思いついたのだ。でもそう言うことでもなかったみたいで、夏目さんは顔を横に振った。そして突然意表をついた質問を僕に投げかけたのだ。

「先輩、神山先輩と付き合ってるんですか」

 いったい何の話だ。というか何で彼女が理恵のことを知っているのだ。

「君は理恵、いや。神山さんのこと知ってるのか」

「知ってますよ。最近、先輩と仲良さそうに話している人は誰ですかって聞いたらサークルの先輩が教えてくれました」

「・・・・・・何でそんなこと聞いたの」

 夏目さんは少しだけ俯いたけどやがて意を決したように淡々と話し始めた。

 彼女の話は僕の想像を超えていた。要するに夏目さんは、僕が自分のことを好きなのではないかと考えたと言うのだった。そして自分のことを好きな僕が仲良さそうに理恵と話しているのを目撃し、それがどういう意味なのかを聞きに来たそうだ。

「夏目さんさ、それいろいろおかしいでしょ」

 僕はようやくそれだけ言うことが出来たけど、彼女はそれには答えずに言った。

「・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ」

「何言ってるの」

「あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見てたでしょ」

「・・・・・・それだけが根拠なの」

「それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つめていたでしょ」

186 : 以下、名... - 2014/12/23 00:39:33.15 YVbOe2ijo 167/442


 自惚れるのもいい加減にしろ。いったい彼女は何様のつもりだ。腹の奥底から怒りが込み上げてきた。

「君、正気か。酔ってるの?」

「酔ってませんよ。先輩こそ嘘つかないで。あたしがこんなに悩んでいるのに」

「あのさあ、確かに僕は君のことを見たよ。それは認める。君は綺麗だし。でもそれだけで君のことを好きとか決め付けられても困るよ。第一、僕は一言だって君のことが好きだとか付き合ってくれとか言ってないでしょ」

「生意気なようですけど先輩って自分に自信がなさそうだし、あたしのことを好きだけど勇気がなくて告白できなかったんじゃないですか。あたし、ずっと先輩の告白を待ってたのに」

 おまえは何様だ。僕は怒りに振るえた。確かに彼女は目を引く容姿と落ち着いた行動を取れるだけの知性を備えているのだろう。そして自分の容姿に自信もあるに違いない。それはこの十分程度の会話からでも理解できた。だからといってこんな風に僕の気持ちを決め付けていい理由にはならない。そのとき僕はふと思いついた。ひょっとしたらこれはもてない男をからかうゲームなのだろうか。

「・・・・・・・もしかして君は誰かに何かの罰ゲームでもさせられてるの? そうだとしたら巻き込まれる方は迷惑なんだけど」

「先輩こそいい加減にしてください」

 夏目さんが怒ったように言った。何か彼女の様子がおかしい。

「罰ゲームって何よ。何であたしのことをからかうんですか? あたしのこと好きじゃないなら何であんな思わせぶりな態度をとるんですか」

 自信たっぷりだと思っていた夏目さんが今度は泣き出したのだ。

「・・・・・・泣くなよ。わけわかんないよ」

「ひどいですよ。結城先輩、美術史の講義の日からあたしのことを無視するし。あたしのこと嫌いならはっきり嫌いって言えばいいでしょ」

「あのさあ。僕が君のことを好きなんじゃないかと言ったり嫌いだと言ったり、さっきから何を考えてるんだよ」

「何でわざとあたしの目の前で神山先輩といちゃいちゃするのよ」

 夏目さんはついに声を荒げた。

「してないよ、そんなこと」

「あたしを悩ませて楽しんでいるの? 何であたしに思わせぶりな態度を取りながら神山先輩との仲を見せつけるんですか。あたしを悩ませて楽しんでるんですか」

 とうとう夏目さんは普通に喋れないくらいに泣き出してしまった。もうこのあたりで僕は夏目さんとまともな話は出来ないと悟った。彼女は普通じゃない。確かに一時期は気になった女の子だったけど、これだけ聞けば十分だった。学内で人気の彼女は実はメンタル面で問題のある女の子だったのだ。そして運の悪いことにそのメンタルの彼女の関心を偶然にも僕は引いてしまったようだった。

 その日、何とか彼女を宥めた僕は、夏目さんをその自宅まで送っていった。キャンパスから一時間くらいの閑静な住宅地にある彼女の自宅まで。駅から彼女の自宅まで歩いているうちに夏目さんは冷静になったようで、今度はしきりに僕に謝りだした。さっきまでの激情が嘘のようだった。

 夏目さんを送ったあと、僕は大学に向かった。キャンパスに着いて今朝起きた出来事をぼうっと思い出していると、今度は理恵に話しかけられた。今までの出来事が嘘みたいに理恵は明るく僕に話しかけてきた。僕は笑っている理恵に無理に微笑んで見せた。

187 : 以下、名... - 2014/12/23 00:40:14.20 YVbOe2ijo 168/442


 夏目さん・・・・・・いやもういっそ麻季と呼んだほうがいいだろう。自宅アパート前で待ち伏せされたあの日からほどなくして僕は麻季と付き合い出したのだから。

 麻季のことをどう考えればいいか最初は自分でもよくわからなかった。でも、何を考えているのかわからない麻季が、理恵のことを問い詰めてきたときの表情を思い出すと、いくら綺麗な子だとはいってもできれば二度と関わらないようにする方がいいと僕は思い直した。麻季を自宅に送って行ったとき彼女はようやく我に返ったように泣いて謝ったけど、それは単に謝ったと言うだけで自分の突飛な行動の動機を話てくれたわけではなかった。

 理恵は相変わらず学内で僕を見かけると一緒にいる友だちを放って駆け寄って来る。置き去りにされた友だちの女の子たちは僕たちの方を見てくすくす笑って眺める。僕は幼い頃に心をときめかした同い年の女の子との再会に満足してもいいはずだった。

 でも理恵と一緒にいても、僕の視線はどういうわけかいつのまにか麻季を追い求めているのだった。あれ以来麻季は全く僕と話そうとしなかった。たまに教室とかですれ違っても彼女は僕の方を見ようともしなかったのだ。

 その日も僕は理恵と並んで歩いていた。理恵はさっきから自分の妹が最近生意気だという話を楽しそうにしていた。玲子ちゃんというのが理恵の妹の名前だった。僕たちが昔隣同士に住んでいた頃には理恵には妹はいなかったから、僕が引っ越した後で生まれたのだろう。今では小学生になったという玲子ちゃんは理恵にとってはひどく相手にしづらい気難しい女の子らしい。理恵のふくれた顔を眺めながら僕は彼女の話にあいづちを打っていた。でも正直会ったことすらない小学生の女の子に興味を抱けという方が無理だった。たとえそれが気になっている女の子の話だとしても。

 そのとき視線の端に麻季の姿が見えた。彼女は誰か知らない上級生の男と一緒だった。一瞬、何か心に痛みが走った。麻季が他の男と寄り添って一緒に歩いている。それだけのことに僕はこんなに動揺したのだった。よく考えれば僕だって理恵と並んで歩いているのに。隣で話している理恵の声が消え僕は自分の心が傷付くだろうことを承知のうえで麻季の方を見つめた。

 でも何か様子がおかしかった。僕が見つめている先に一緒にいる男女は何かいさかいを起こしているようだった。自分の肩を押さえた男の手を麻季は振り払っていた。

「それでね、玲子ったら結局あたしの買ったCDを勝手に学校に持って行っちゃってね」

「・・・・・・うん」

 手を振り払われた男は麻季のその行為に唖然とした様子だったけど、すぐに憤ったよう
に麻季の顔を平手打ちした。麻季の体が地面に崩れた。

「でね、あいつったら勝手に友だちに貸して」

「悪い」

 僕は驚いたように話を途中で中断した理恵を放って麻季と男の方に駆け出した。このときはよくわからないけど何だか夢中だった。とにかくあの麻季が暴力を振るわれていることに我慢できなかったのだ。僕は中庭のベンチの横にいる二人の側まで走った。麻季は地面に崩れ落ちたままだ。激昂した男が何か彼女に向かって言い募っている。再び男が手を上げたとき僕は二人の側に到着した。

 先輩らしい男はけわしい表情で僕を見た。それでもその先輩はか弱い女には手をあげたのだけど、まともに男相手に喧嘩する気はないようだった。きっと手を痛めつけられないのだろう。ピアノ科とか器楽科にいる連中なら無理もなかった。普通音大には演奏系、作曲・指揮系、音楽教育系の学科がある。演奏系の学生にとっては手は喧嘩ごときで傷めるわけにはいかない。逆に言うとこの先輩は、自分の大切な手を女を殴るためなんかによくも使えたものだ。

 僕は音楽学を選考していたから実際の器楽の演奏にはそれほど執着がない。先輩が麻季を虐めるのを止めないのならそれなりに考えがあった。でも駆けつけてきた僕を見て先輩は急に冷静になったようで、人を馬鹿にするものいい加減にしろと倒れている麻季に言い捨ててその場をそそくさと去って行った。

「君、大丈夫?」

 僕は倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情で僕を見上げた。

「怪我とかしてない?」

「……先輩、神山先輩と別れたの?」

 僕が麻季を地面から立たせると、それが僕であることを認識した彼女は場違いの言葉を口にした。

「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ」
 僕は呆れて言った。「君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」

「彼氏って誰のことですか?」

188 : 以下、名... - 2014/12/23 00:40:55.43 YVbOe2ijo 169/442


 相変わらずマイペースな様子で麻季が首をかしげた。男にいきなり平手打ちされて地面に倒されたというのに、そのことに対する動揺は微塵も見られなかった。

 やはり彼女はいろいろおかしい。僕はそう思ったけど、同時に首をかしげてきょとんとしている麻季の様子はすごく可愛らしかった。綺麗だとか大人びているとか思ったことはあったけど、守ってあげたいような可愛らしいさを彼女に対して感じたのはこのときが初めてだった。

 とりあえず麻季は怪我はしていない様子だったけど、そのまま別れるのは何となく気が引けていた僕は彼女を学内のラウンジに連れて行った。ラウンジは時間を潰している学生で溢れていた。そのせいかどうか学内で目立っている麻季を連れていても、僕たちはそれほど人目を引くことなく窓際のテーブルに付くことができた。

「ほら、コーヒー」

「ありがとう。結城先輩」

 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっきの先輩のことを話し始めた。

「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義があるからって断ったら突然怒り出して」

 それが本当なら悪いのは自分の意向を押し付けようとして、それが断られた突端に麻季に手を出した先輩の方だ。でも、あのとき先輩は馬鹿にするなと言っていた。

「よくわかんないけど、付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」

 やはり内心そうではないかと思っていたとおりだったようだ。

 最初に新歓コンパで麻季を見かけたときはひどく大人びた女の子だと思った。群がる先輩たちへの冷静な受け答えを見ていて、彼女は単に男にちやほやされることに慣れているというだけではなく、しっかりと自分を律することができるんだろうなと。新入生にとってはいくら男慣れしている子でも初めてのコンパで先輩たちに取り囲まれれば多少は狼狽してしまうはずだけど、彼女には一向にそういう様子が無かったから。

 でもそういうことだけでもないらしい。実はこの子は他人とコミュニケーションを取るのが苦手な子なのではないだろうか。僕の家に押しかけてきたときの様子だってそうだし、今現在だってそうだけど僕には麻季が何を考えているのかさっぱりわからない。でも麻季の中では自分の態度とそれに至る思考過程はきっと一貫しているのだろう。

 先輩はきっと麻季が自分のことを好きなのだと解釈したのだ。そしてその考えに沿って麻季に対して馴れ馴れしい態度を取ったに違いない。そして麻季も先輩の行動の意味を深く考えることもせず、自分の意に染まないことを強要されるまではなすがままに付き合っていたのだろう。僕が麻季について思いついたのはこういうことだった。突然に表面に現われる麻季の突飛な態度もその過程の説明がないから驚くような行動に思えてしまうのであって、彼女の中ではその行動原理は一貫しているのではないか。

 ・・・・・・こうして考えるとまるでボーダー、境界性人格障害のような感じがする。

 でもきっとそれほどのことではない。麻季の舌足らずの言葉の背後を探ってやればきっと彼女が何を考えているのかわかるのだろう。

「神山先輩と別れたの?」

 麻季が言った。

「別れるも何も付き合ってさえいないよ」

「・・・・・・先輩?」

 そのとき気がついた。きっと先輩に殴られて倒れた時に付いたのだろう。麻季の髪に枯葉の欠片が乗っていた。僕は急におかしくなって声を出して笑った。麻季は思ったとおり急に笑い出した僕の様子を変だとも思わなかったようだった。僕は手を伸ばして麻季のストレートの綺麗な髪から枯葉を取った。その間、麻季はじっとされるがままになっていた。麻季の髪の滑らかな感触を僕は感じ取ってどきどきした。

「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」

 麻季が静かに笑って言った。

189 : 以下、名... - 2014/12/23 00:42:01.23 YVbOe2ijo 170/442


 それは思っていたより普通の恋愛関係だった。僕は麻季と付き合い出す前にも数人の女の子と付き合ったことがあった。そのどれもがどういうわけか長続きしなかった。結果として麻季との付き合いが一番長く続くことになった。あのとき麻季と付き合い出すことがなかったら、きっと僕は理恵に告白していただろう。そして多分その想いは拒否されなかったのではないか。でも麻季と付き合い出してからは自然と理恵と会うこともなくなっていった。理恵の方も遠慮していたのだと思うし、それよりも僕はいつも麻季と一緒だったから理恵に限らず他の女の子とわずかな時間にしろ二人きりで過ごすような機会は無くなったのだった。

 勢いで付き合い出したようなものだったけど、いざ自分の彼女にしてみると麻季は思っていたほど難しい女ではなかった。こうしてべったりと一緒に過ごしていると、麻季の思考は以前考えていたような難しいものではなかったのだ。付き合い出す前はボーダーとかメンヘラとか彼女に失礼な考えが浮かんだことも確かだったけど、いざ恋人同士になり麻季と親しくなっていくと意外と彼女は付き合いやすい恋人だった。

 多分、四六時中側にいるようになって僕が彼女が何を考えているのかをわかるようになったからだろう。それに思っていたほど麻季はコミュ障ではなくて、相変わらず言葉足らずではあったけど、それでも僕は彼女の考えがある程度掴めるようになっていった。彼女には嫉妬深いという一面もあったし、ひどく情が深いという一面もあった。そういうこれまで知らなかった麻季のことを少しづつ理解して行くことも、僕にとっては彼女と付き合う上での楽しみになっていた。

 僕が三回生になったとき麻季はお互いのアパートを行き来するのも面倒だからと微笑んで、ある日僕が帰宅すると僕のアパートに自分の家財道具と一緒に彼女がちょこんと座っていた。合鍵は渡してあったのだけどこのときは随分驚いたものだ。

 同棲を始めて以来、僕たちはあまり外出しなくなった。食事の用意も麻季が整えてくれる。意外と言っては彼女に失礼だったけど、麻季は家事が上手だった。そんな様子は同棲を始める前は素振りにさえ見せなかったのに。

 僕がインフルエンザにか罹って高熱を出して寝込んだとき、僕は初めて真剣に狼狽する麻季の姿を見た。

「ねえ大丈夫? 救急車呼ぼうよ」

 僕は高熱でぼうっとしながらも思わず微笑んで麻季の頭を撫でた。麻季は僕に抱きついてきた。

「インフルエンザが移るって。離れてろよ」

「やだ」

 僕は麻季にキスされた。結局僕の回復後に麻季が寝込むことになり逆に僕が彼女を介抱する羽目になったのだ。

 この頃になるとサークルでも学内でも僕たちの付き合いは公認の様相を呈していた。麻季は相変わらず目立っていた。やっかみ半分の噂さえ当時の僕には嬉しかったものだ。これだけ人気のある麻季が心を許すのは僕だけなのだ。麻季の心の動きを知っているのは僕だけだ。それに麻季自身が関心を持ち一心に愛している対象も僕だけなのだ。

 麻季と肉体的に結ばれたとき彼女は処女だった。別に僕は付き合う相手の処女性を求めたりはしないし、僕が今まで経験した相手だって最初の女の子を除けばみな体験者だったけどそれでも麻季の初めての相手になれたことは素直に嬉しかった。

 僕が四回生で麻季が三回生のとき、僕は就職先から内定をもらった。この大学では亜流だった僕は別に演奏家を目指しているわけでも音楽の先生を目指しているわけでもなかったので、普通に企業への就職活動をしていた。音楽史と音楽学のゼミの教授はこのまま院に進んでこのまま研究室に残ったらどうかと勧めてくれたけど、僕は早く就職したかった。麻季のこともあったし。結局、ゼミの教授の推薦もあって老舗の音楽雑誌の出版社から内定が出たときは本当に嬉しかったものだ。

 内定の連絡を受けた僕は迷わずに麻季にプロポーズした。僕の申し出に麻季は信じられないという表情で凍りついた。感情表現に乏しい彼女だけどこのときの彼女の言葉に誤解の余地はなかったのだ。

「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」

 このときの麻季の涙を僕は生涯忘れることはないだろう。一年半の婚約期間を経て僕と麻季は結婚した。僕と麻季の実家の双方も祝福してくれたし、サークルのみんなも披露宴に駆けつけてくれた。

「麻季きれい」

 麻季のウエディングドレス姿に麻季の女友達が祝福してくれた。僕の側の招待客は親族を除けば大学や高校時代の男友達だけだった。幼馴染の理恵を招待するわけには行かなかった。でもずいぶん後になって知り合い経由で理恵が僕たちを祝福してくれていたという話を聞いた。

190 : 以下、名... - 2014/12/23 00:42:46.76 YVbOe2ijo 171/442


 結婚後しばらくは麻季も働いていた。それは彼女の希望でもあった。ピアノ専攻の彼女は演奏家としてプロでやっていけるほどの才能はなかったけど、ピアノ科の恩師の佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝うことになったのだ。でもそれもわずかな期間だけだった。

 やがて麻季は彼女の希望どおり妊娠して男の子を産んでくれた。僕たちは息子の奈緒人に夢中だった。もちろん麻季は佐々木教授の手伝いをやめて専業主婦として育児に専念してくれた。奇妙なきっかけで始まった僕たちの夫婦生活は順調だった。麻季は理想的な妻だった。かつて彼女のことを境界性人格障害だと疑った自分を殴り倒してやりたいほど。

 僕は本当に幸せだった。仕事も多少は多忙であまり麻季を構ってやれなかったけど、できるだけ早く帰宅して奈緒人をあやすようにしていた。僕が奈緒人を風呂に入れるとき、麻季は心配そうに僕の手つきを眺めていたのだ。これでは麻季の育児負担を軽減するために僕が奈緒人の入浴を引き受けた意味がないのに。

 僕たちの生活は順調だった。少なくともこのときの僕には何の不満もなかったのだ。

 麻紀と奈緒人と共に歩んでいく人生に何の不満もないと思っていたのは本当だったけど、あえて物足りないことあげるとしたら、奈緒人が誕生してから麻季との夜の営みが途絶えてしまったことくらいだろうか。ある夜奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、僕は出産以来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。少しだけ麻季は僕の手に身を委ねていたけどすぐに僕の腕の中から抜け出した。

「・・・・・・麻季?」

 これまでになかった麻季の拒絶に僕は内心少しだけ傷付いた。

「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」

 子育ては僕たちにとって始めての経験だったし、疲れてその気になれないことだってあるだろう。僕は育児で疲労している麻季のことを思いやりもせずに自分勝手に性欲をぶつけようとしたことを反省した。こんなことで育児もろくに手伝わない僕が傷付くなんて考える方がおかしい。何だか自分がすごく汚らしい男になった気がした。

「いや。僕の方こそごめん」

 僕は麻季に謝った。

「ううん。博人さんのせいじゃないの。ごめんね」

 一度僕の腕から逃げ出した麻季は再び僕に抱きついて軽くキスしてくれた。

「もう寝るね」

「うん。おやすみ」

 これが僕たち夫婦のセッ○スレスの始まりだった。この頃はまだ奈緒人には手がかかっていた頃だった。実際、育児雑誌で注意されている病気という病気の全てに奈緒人は罹患した。そのたびに麻季は狼狽しながら僕に電話してきて助けを求めたり、病院に駆け込んだりして大騒ぎをした。

 麻季は真剣に誠実に育児に取り組んでいた。それは確かだったしそんな妻に僕は感謝していたけれど、それにしてももう少し肩の力を抜いた方がいいのではないかと僕は考えた。そしてそのそのせいで何度か麻季と言い争いになったこともあった。麻季は奈緒人を大切に育てようとしていた。僕たち夫婦の子どもなのだからそれは僕にとっても嬉しいことではあったけど、麻季の場合はそれが行き過ぎているように思えた。

 市販の粉ミルクで赤ちゃんが死亡したニュースを見てからは、麻季は粉ミルクを使うことを一切やめて、母乳だけで奈緒人を育てようとした。ちなみに危険な粉ミルクのニュースは外国の出来事だ。それから大手製紙会社の製品管理の不具合のニュースを見て以来、麻季は市販の紙おむつを使用することをやめ、自作の布おむつを使用するようになった。製紙会社の不祥事は紙おむつではなくティッシュ製造過程のできごとだったのだけど。

 麻季との同棲生活や結婚生活を通じて彼女がここまで脅迫的な潔癖症だと感じるようなことはなかった。結局、麻季は僕と彼女との間に生まれた奈緒人のことが何よりも大事なのだろう。そういう彼女の動機を非難することはできないし、息子の母親としてはむしろ理想的な在り方だった。

 最初の頃少し揉めてからは、行き過ぎだと思いつつも僕は黙って麻季のすることを容認することにした。若干不安は残ってはいたけどそもそも仕事が多忙でろくに育児参加すらできていない僕には麻季の育児方法について口を出せるのにも限度があった。

 こんなに一生懸命になって奈緒人を育てている麻季に対して、これ以上自分勝手な性欲を押し付ける気はしなかったので、僕は当面はそういうことに麻季を誘うことを止めることにした。内心では少し寂しく感じてはいたけど。

191 : 以下、名... - 2014/12/23 00:43:28.34 YVbOe2ijo 172/442


 それに麻季は奈緒人だけにかまけていたわけではなかった。この頃の僕はちょうど仕事を覚えてそれが面白くなっていた時期でもあったし、少しづつ企画を任されて必然的に多忙になっていった時期でもあった。だから育児に協力したいという気持ちはあったけど、実際にはニ、三日家に帰れないなんてざらだった。なので出産直後のように奈緒人をお風呂に入れるのは僕の役目という麻季との約束も単に象徴的な夫婦間の約束になってしまっていて、たまの休日に「パパ、奈緒人のお風呂お願い」と麻季に言われて入浴させる程度になっていた。それすら麻季は育児に協力できないで悩んでいる僕に気を遣って言ってくれたのだと思う。ろくに育児に協力できない僕の気晴らしのためにわざと奈緒人を風呂に入れるように頼んでくれていたのだろう。

 どんなに育児に疲れていても僕に対するこういう気遣いを忘れない彼女のことが好きだった。僕は麻季と結婚してからどんどん彼女のことが好きになっていくようだ。そして麻季も夫婦間のセッ○スを除けば、そんな僕の想いに応えてくれていた。この頃は僕も忙しかったけど麻季だって育児に追われていたはずだ。それでも彼女は一日に何回も仕事中の僕にメールしてくれた。

 奈緒人が初めて寝返りをうったとき。奈緒人が初めて「ママ」と呼んだとき、奈緒人が初めてはいはいしたとき。その全てのイベントを僕は仕事のせいで見逃したのだけど、麻季はいちいちその様子を自宅からメールしてくれた。そのおかげで僕は息子の成長をリアルタイムで感じることができた。当時は今ほど気軽に画像を添付して送信できなかった時代だったので麻季からのメールには画像はなかったけど、それを補って余りあるほどの愛情に満ちた文章が送られてきたのだ。

 麻季は昔から感情表現が苦手な女だった。それは結婚してからも同じだった。それでも僕たちが幸せにやってこれたのは僕が彼女の言外の意図を読むことに慣れたからだった。でも仕事のせいで麻季と奈緒人にあまり会えない日々が続いていたせいで、麻季は僕とのコミュニケーションにメールを多用するようになった。そして、目の前にいる彼女の思考は読み取りづらくても、メールの文章は麻季の考えを明瞭に伝えてくれることが僕にもわかってきた。文章の方がわかりやすいなんて変わった嫁だな。僕は微笑ましく思った。

 そういうわけで麻季の関心が育児に移ってからも彼女の僕への愛情を疑ったことはなかった。それは疲れきって自宅に帰ったときに食事の支度がないとか、風呂のスイッチも切られていたとかそういう次元の不満がないことはなかったけど、僕が帰宅すると奈緒人と添い寝していた麻季は寝床から起き出して、疲れているだろうに僕に微笑んで「おかえりなさい」と言って僕の腕に手を置いて軽くキスしてくれる。それだけで僕の仕事のストレスは解消されるようだった。

 この頃の麻季の僕に対する愛情は疑う余地はなかったけど、やはり夜の夫婦生活の方はレスのままだった。奈緒人が一歳の誕生日を迎えた頃になると育児にも慣れてきたのか麻季の表情や態度にもだいぶ余裕が出てきていた。以前反省して自分に約束したとおり僕は麻季に拒否されてから今に至るまで彼女を求めようとはしなかったけど、そろそろいいのではないかという考えが浮かんでくるようになった。まさかこのまま一生レスで過ごすつもりは麻季にだってないだろうし、いずれは二人目の子どもだって欲しかったということもあった。

 そんなある夜、久し振りに早目の時間に帰宅した僕は甘えて僕に寄り添ってくる麻季に当惑した。奈緒人はもう寝たそうだ。その夜の麻季はまるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいなに僕に甘えた。

 これは麻季のサインかもしれない。ようやく彼女にもそういうことを考える余裕ができたのだろう。そして表現やコミュニケーションが苦手な彼女らしく態度で僕を誘おうとしているのだろう。長かったレスが終ることにほっとした僕は麻季を抱こうとした。

「やだ・・・・・・。駄目だよ」

 肩を抱かれて胸を触られた途端に柔らかかった麻季の体が硬直した。でも僕はその言葉を誘いだと解釈して行為を続行した。このとき麻季がもう少し強く抵抗していればきっと彼女も相変わらず疲れているのだと思って諦めたかもしれない。でもこのときの麻季は可愛らしく僕の腕のなかでもがいたので、僕はそれを了承の合図と履き違えた。しつこく体を愛撫しようとする僕に麻季は笑いながら抵抗していたから。でもいい気になって麻季の服を脱がそうとしたとき、僕は突然彼女に突き飛ばすように手で押しのけられた。

「あ」

 麻季は一瞬狼狽してその場に凍りついたけどそれは僕の方も同じだった。

 僕は再び麻季に拒絶されたのだ。

「ごめん」
「ごめんなさい」

 僕と麻季は同時にお互いへの謝罪を口にした。

「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよね。悪かった」

 いつまで麻季に拒否されるんだろうという寂しさを僕は再び感じたけど、ろくに家に帰ってこない亭主の代わりに家を守って奈緒人を育ててくれている麻季に対してそんなことを聞く権利は僕にはない。

192 : 以下、名... - 2014/12/23 00:44:09.51 YVbOe2ijo 173/442


「あたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」

「いや」

「・・・・・・口でしてあげようか」

 麻季が言った。それは僕のことを考えてくれた発言だったのだろうけど、その言葉に僕は凍りつき、そしてひどく屈辱を感じた。

「もう寝ようか」

 麻季の拒絶とそれに続いた言葉にショックを受けたせいで、僕のそのときの口調はだいぶ冷たいものだったに違いない。

 そのとき麻季が突然泣き始めた。

「悪かったよ」

 僕はすぐに麻季を傷つけた自分の口調に後悔し、謝罪したけど彼女は泣き止まなかった。

「ごめんなさい」

「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあんなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」

 それでも麻季は俯いたままだった。そして突然彼女は混乱した声で話し始めた。

「ごめんなさい。謝るから許して。あたしのこと嫌いにならないで」

 僕は自責の念に駆られて麻季を抱きしめた。こんなに家庭に尽くしてくれている彼女にこんなにも暗い顔をさせて謝らせるなんて。

「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れてるってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」

 僕の方も少し涙声になっていたかもしれない。麻季は僕の腕の中で身を固くしたままだった。かつて彼女が僕のアパートに押しかけてきたときの、まるで言葉が通じなかった状態のメンヘラだった麻季の姿が目に浮かんだ。ここまで麻季と分かり合えるようになったのに、一時の無分別な性欲のせいでこれまでの二人の積み重ねを台無しにしてしまったのだろうか。

 そのとき麻季が濡れた瞳を潤ませたままで言った。

「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」

 何を言っているのだ。僕は本格的に混乱した。もともとコミュ障気味の麻季だったけど、このときは本気で彼女が何を言っているのかわからなかった。

「わかってるよ。落ち着けよ」

「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」

「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理ならもう二度と迫ったりしないから」

「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」

「・・・・・・え」

 僕はその告白に凍りついた。

「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから許して」

 混乱する思考の中で僕は麻季に抱きつかれた。僕の唇を麻季がふさいだ。そのまま麻季は僕を押し倒して覆いかぶさってきた。

「おい、よせよ」

「ごめんね・・・・・・しようよ」

 彼女はソファに横になった僕の上に乗ったままで服を脱ぎ始めた。僕は混乱して麻季を跳ね除けるように立ち上がったのだけど、その拍子に彼女は上着を中途半端に脱ぎかけたまま床に倒れた。麻季が泣き始めた。深夜になってようやく落ち着いた麻季から聞き出した話は僕を混乱させた。麻季は浮気をしていたのだ。それも奈緒人を放置したままで。

193 : 以下、名... - 2014/12/23 00:44:49.99 YVbOe2ijo 174/442


 その相手との再会は保健所の三ヶ月健診から帰り道でのできごとだった。麻季は奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。途中の駅の段差でベビーカーを持て余していた麻季に手を差し伸べて助けてくれた男の人がいた。お礼を言おうと彼の顔を見たとき、二人はお互いに相手のことを思い出したそうだ。

 彼は大学時代に麻季を殴った先輩だったのだ。麻季は最初先輩のことを警戒した。でも先輩は何事もなかったように懐かしそうに麻季にあいさつした。当時近所にママ友もいないし僕も滅多に帰宅できない状況下で孤独だった麻季は、先輩に誘われるまま近くのファミレスで昔話をした。サークルや学科の友人たちの消息を先輩はたくさん話してくれた。

 当時の友人たちはそれぞれ自分の夢に向かって頑張っているようだった。中には夢を実現した友人もいた。僕との結婚式で「麻季、きれい」と感嘆し羨望の眼差しをかけてくれた友人たちに対して当時の麻季は優越感を抱いていたのだけど、その友人たちは今では華やかな世界で活躍し始めていた。国際コンクールでの入賞。国内どころか海外の伝統のあるオケに入団している友だちもいた。

 それに比べて自分は旦那も滅多に帰宅しない家で一人で子育てをしている。麻季の世界は奈緒人の周囲だけに限定されていた。結婚式で感じた優越感は劣等感に変わった。麻季の複雑な感情に気づいてか気が付かないでか、先輩は自分のことも話し出した。国内では有名な地方オーケストラに入団した先輩は、まだ新人ながら次の定期演奏会ではチェロのソリストとして指名されたそうだ。

「みんなすごいんですね」

「君だって立派に子育てしてるじゃん。誰にひけ目を感じることはないさ。それにとても幸せそうだよ」

「そんなことないです」

「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家庭に入るなんて意外だったけどね」

「あたしには才能なんてなかったし」

「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃうなんてもったいないって」

 そのときは先輩と麻季はメアドを交換しただけで別れた。それ以来先輩からはメールが毎日来るようになった。その内容も家に引きこもっていた麻季には眩しい内容だった。そのうちに麻季は先輩とのメールのやり取りを楽しみにするようになった。

 そしてその日。先輩のオケの定期演奏会のチケットが送られてきた。それは先輩がソリストとしてデビューするコンサートのチケットだった。麻季は実家に奈緒人を預けて花束を持ってコンサートに出かけた。知り合いのコンサートを聴きに行くのは久し振りで彼女は少しだけ大学時代に戻った気がしてわくわくしていた。

 終演時に観客の喝采を浴びた先輩は、客席から花束を渡す麻季を見つめて微笑んだ。実家に預けた奈緒人のことが気になった麻季がコンサートホールを出たところで、人目を浴びながらもそれを気にする様子もなく先輩がタキシード姿で堂々と彼女を待ち受けていた。

 その晩、誘われるままに先輩と食事をした麻季はホテルで先輩に抱かれた。



 話し終えた麻季がリビングの床にうずくまっていた。さっき脱ごうとした上着の隙間から白い肌を覗かせたままだ。それがひどく汚いもののように見える。情けないことに僕は一言も声を出すことができなかった。麻季が浮気をした。こともあろうに大学時代に僕が麻季を救ったその相手の先輩と。麻季との恋愛や結婚、そして奈緒人の誕生は全てそこが出発点だったのにその基盤が今や音を立てて崩壊したのだ。

「・・・・・・先輩のこと好きなの?」

 僕はようやく言葉を振り絞った。

「本当に好きなのは博人くんだけ。でも信じてもらえないよね」

 俯いたまま掠れた声で麻季が言った。

「先輩と何回くらい会ったの」

「最初の一度だけ。そのときだって先輩に抱かれながら奈緒人とあなたの顔が浮かんじゃって。もうこれで最後にしようって彼に言ったの。それから会ってないよ」

 回数の問題じゃない。確かに慣れない子育てに悩んでいる麻季を仕事にかまけて一人にしたのは僕だった。でも心はいつも麻季と奈緒人のもとを離れたことなんてなかった。麻季だって寂しかったのだ。仕事中に頻繁に送られてくるメールだって今から思えば寂しさからだったのだろう。でも僕はそこで気がついた。あれだけ頻繁に僕に送信されていたメールがあるときを境にその回数が減ったのだ。それは麻季が先輩と再会してメールでやり取りを始めた頃と合致する。

194 : 以下、名... - 2014/12/23 00:45:31.23 YVbOe2ijo 175/442


「先輩って鈴木って言ったっけ」

「・・・・・・うん」

「鈴木先輩って独身?」

「うん。でも彼とはもう別れたんだよ。一度だけしかそういうことはしてないよ」

 そのとき僕はもっと辛いことに気がついてしまった。麻季が先輩に抱かれた時期は、麻季に拒否された僕がもう麻季に迫るのはやめようとしていた時期と同じだった。つまり麻季は僕に対しては関係を拒否しながらも先輩に対しては体を開いていたことになる。僕の中にどす黒い感情が満ちてきた。できることならこの場で暴れたかった。あのとき鈴木先輩がしたように麻季の頬を平手で殴りたかった。

「先輩のこと好きなのか?」

「何でそんなこと言うの」

 麻季は不安そうに僕を眺めて言った。

「僕は君のこと愛しているから。君が僕と離婚して先輩と一緒になりたいなら・・・・・・」

「違う!」

 麻季がまた泣き出した。

「先輩は君たちの関係のことを何か言ってたんでしょ」

「それは」

「泣いてちゃわからないよ。ここまできて隠し事するなよ」

 この頃になってだんだん僕の言葉も荒くなってきた。自分を律することが難しくなってきていた。

「・・・・・・あの。あなたと別れて一緒になってくれって。奈緒人のこともきっと幸せにするからって」

「そう」

 本当に今日はこのあたりが限度だった。このまま話していると本当に麻季に手を上げかねない。奈緒人の名前が先輩の口から出たと言うだけで自分の息子が彼に汚されたような気さえする。

「でも断ったよ、あたし。最初のときからすごく後悔したから。あの後先輩からメールがいっぱい来たけど返事しないようにしたんだよ」

 麻季は泣きながら震える手で自分の携帯を僕に見せようとした。

 誰がそんなもの見るか。

「今日はもう寝よう。明日は休みだし明日また話そう」

 僕は立ち上がった。僕の足に麻季がまとわりついた。

「お願い、許して。何でもするから。あたしあなたと別れたくない」

「・・・・・・今日はここで寝るよ。君は奈緒人の側にいてあげて」

 絶望に満ちた表情で床に座り込んだ麻季が僕を見上げた。麻季の悲しい表情を見ることが今まで僕にとって一番悲しく嫌なことだったはずのに、このときは僕は麻季の絶望に対しても何も感じなくなってしまっていたようだった。

196 : 以下、名... - 2014/12/31 22:36:45.64 8QxDihXuo 176/442


 ほとんど眠れなかった僕は翌日ソファで強張った体を起こした。体に掛けられていた毛布が体から滑り落ちて床に広がった。麻季が僕に毛布を掛けたのだろう。その記憶がないところを見ると僕は少しは眠ったのかもしれない。

 家の中は妙に静かだった。もう朝の九時近い。

 ソファで無理のある姿勢で一晩を過ごしたせいで体の節々が痛かった。僕は起き上がって寝室の様子を覗った。寝室からは何の気配もしない。麻季のことはともかく奈緒人がどうしているか気になった僕は寝室のドアをそっと開けて中を覗き込んだ。

 ドアを開けた僕の目に麻季がベッドの上で奈緒人に授乳している光景が目に入った。麻季も昨晩の告白に悩んでいたはずだけど、このときだけは自分の白い胸に夢中になってしゃぶりついている我が子のことを慈愛に満ちた表情で見つめていたのだ。麻季は寝室のドアが開いたことにも気がついていない様子だった。

 このとき僕が我を忘れて見入ったのは麻季ではなく奈緒人だった。もう離乳食を始めていたはずなのだけど、このときの奈緒人は母親の乳房に夢中になって吸い付いていたのだ。自分の妻と自分の息子なのだけど、このときの母子の姿は何というか神々しいという感じがした。

「おはよう」

 麻季はさぞかし僕に言い訳したかっただろう。でも彼女は僕の方を振り返ることをせず、「しっ」と僕を優しくたしなめた。

「・・・・・・ごめんなさい。久し振りに奈緒人がおっぱいを欲しがってるの」

「うん、そうだね。ごめん」

 僕は寝室のドアを閉じた。やがて麻季が寝室から出てきてリビングのソファでぼんやりとテレビを見ている僕の向かいに座った。いつもなら迷わず僕の隣に座るのに。

「ごめんね。もう離乳できてたはずなんだけど、今日は奈緒人はおっぱいが欲しかったみたい」

「奈緒人は?」

「お腹いっぱいになったら寝ちゃった。ベビーベッドに寝かせてきた」

「そうか」

「ごめん」

 何で麻季は謝るのだ。奈緒人のことで彼女が謝る理由なんて一つもない。むしろ謝るのは他のことじゃないのか。さっき見かけた母子の美しい様子が僕の脳裏に現われてしまった。でも昨晩の麻季の告白が思い浮んだ。麻季の謝罪は浮気についてなのだろうか。僕は混乱していた。これでは冷静な判断ができない。

「奈緒人は離乳が早いよな」

 僕は何となくそう言った。

「そうね。長い子だと卒乳するのが四歳とか五歳の子もいるみたいだよ」

「そうか」

「・・・・・この子も感じていたのかもね。自分の母親が自分だけの物を父親でもない男に触らせてたって」

 彼女は暗い表情でそう言った。僕は麻季の言葉に凍りついた。

「昨日は慌ててみっともない姿を見せちゃったけど、あたしのしたことが博人君にとって、それに奈緒人にとってもどんなにひどいことだったのかがよくわかった」

「うん」

 僕にはうんという以外の言葉が思いつかなかった。

「本当にごめんなさい。今でも愛しているのはあなたと奈緒人だけ。でも自分がしたことが許されないことだということもわかってる」

「僕は・・・・・・。奈緒人の世話もろくにしなかったし君を一人で家に放置していたことも認めるよ。仕事が忙しかったとはいえ反省はしている。でもだからといって他の男に抱かれることはなかったんじゃないか」

「うん」

「うんじゃねえよ」

 僕は思わず声を荒げた。

197 : 以下、名... - 2014/12/31 22:37:47.72 8QxDihXuo 177/442


「不満があるなら何で僕に話さないんだよ。僕にセッ○スを迫られるのが嫌なら何でもっとはっき言りわないんだよ。僕が悪いことはわかってるよ。だからと言っていきなり浮気することはねえだろ」

「ごめんなさい」

「謝らなくていいから理由を話してくれよ。もう一度聞く。今度は本気で答えろよ」

「・・・・・・はい」

「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」

「それは・・・・・・うん」

「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」

「・・・・・・」

「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したんだろ」

「うん」

 それを静かに肯定した麻季に僕は逆上した。

「もう離婚だな。このクソビッチが。先輩が好きなら何で大学時代に先輩のとこに行かなかったんだよ。何で僕のことを誘惑した? 何で僕と理恵の仲に嫉妬したりした?」

 麻季は俯いて黙ってしまった。麻季の目に涙が浮かんだ。一瞬その場を嫌な沈黙が支配した。そのとき寝室から奈緒人の泣き声が聞こえた。僕と麻季は同時に立ち上がり競うようにして寝室に殺到した。奈緒人はベビーベッドの柵を乗り越えて床に落下したのだった。一瞬これまでの麻季とのいさかいを忘れ僕は心臓が止まる思いをした。でも奈緒人はそんな僕の心配には無頓着に起き上がってたちあがり、よたよたとニ三歩歩いた。

「奈緒人が歩いたよ、おい」

「うん。少しだけだったけどしっかり歩いたよね」

 その瞬間僕たちはいさかいを忘れ瞬時に夫婦、いや父母に戻ったのだ。

 麻季が再び床に倒れた奈緒人を抱き上げた。麻季に抱き上げられた奈緒人はもう泣き止んでいて、麻季の腕から逃れたいようにじたばたしていた。

「フロアに立たせてみて」

 僕は麻季にそっと言った。麻季はもう僕のことは忘れたように返事せずに奈緒人を見つめながら大切な壊れ物を置くように寝室のカーペットの上に立たせて、そっと手を離した。

 もう間違いではない。奈緒人は再び自力で歩行して、すぐに倒れ掛かった。危ういところで僕は奈緒人を抱き上げることができた。

「やった」
「やったね」

 僕と麻季は目を合わせて微笑みあった。そして申し合わせたように奈緒人の表情を眺めた。奈緒人はもう歩くことに飽きてしまったようで、僕に抱かれたまま僕の胸に顔を押し付けて再びうとうとし始めていた。

 僕は自分の腕の中にいる奈緒人を見つめた。

 奈緒人を実家に預け僕以外の男に抱かれた麻季。僕の誘いを拒否して一度だけとはいえ鈴木先輩に抱かれた麻季。そんな彼女を許す理由としては傍から見れば非常にあやふやだったかもしれない。でも奈緒人の初めての歩行を実際に見届けて感動していた僕は、その思いを共有できるのは麻季だけだとあらためて気がついたのだ。僕と麻季はそれまでのいさかいを忘れ、狭い寝室の中初めて歩行した奈緒人のことを見つめていたのだ。このときはもう言葉は必要なかったみたいだった。

 結局このときは僕は麻季を許してやり直す道を選んだ。先輩とは二度と連絡もしないし会わないという条件で。

「僕たち、最初からやりなおそうか。奈緒人のためにも」

 僕の許容に最初は呆然として戸惑っていた様子の麻季は、泣きながら僕に抱きつこうとして僕に抱かれている奈緒人に気がついて自重した。その代わりに彼女は奈緒人を抱いている僕の手を強く握った。麻季の手は少し湿っていて冷たかった。

198 : 以下、名... - 2014/12/31 22:38:23.78 8QxDihXuo 178/442


 奈緒人への愛情から麻季の浮気を許した僕だったけど、心底から麻季の改悛の情を信じられたわけではなかった。正直に言えば彼女の僕に対する愛情への疑いは残っていた。あのときの麻季の言葉を何度脳内で再生したかわからない。



「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」

「それは・・・・・・うん」

「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」

「・・・・・・」

「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したんだろ」

「うん」



 僕が麻季を許したのは奈緒人のことが大切だからだった。麻季の僕への愛情については疑わしかったけど、麻季の奈緒人への愛情についてだけは疑いの余地はなかったのだ。

 浮気をした妻と浮気をされた夫のやり直しというのは思ったより大変だった。この頃の僕はひどく卑屈になっていた。もともと僕たちの付き合いは麻季が僕のアパートに押しかけてきたときから始まった。あのときの僕は麻季がメンヘラではないかと疑ったのだった。麻季は僕が自分のことを好きなのにわざと意地悪して理恵と付き合っていると思い込んでいた。そんなつもりは全くかったのに。

 でも今になっては浮気された僕にとって、それは麻季を信じるためのエピソードの一つだった。その思い出は付き合い出してから浮気するまでの彼女の僕への献身的ともいっていい態度とともに、麻季を信じようとする僕の力になってくれた。それでもそれは未だに引きずっていた麻季に対する僕の疑念や嫌悪を振り払うには十分な力を持っていなかったのだけど、僕は自分の意思の力でそれを補おうとした。

 麻季は先輩とは完全に別れたと言った。もともと気が進まない関係だったのだと。僕に浮気を告白したその晩に先輩に対して、「もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない」とメールしたそうだ。別に疑う理由もないので僕は麻季の携帯の送信ボックスを確認することもなくその言い訳を受け入れた。


 こうして僕と麻季の最初の危機は何とか破滅を回避できたように思えた。危機を回避したあと、僕たちは麻季が自分の浮気を告白する前の生活習慣に忠実に過ごすようになった。何もかもが以前のとおりだった。麻季は先輩に出会う前にしてくれていたように、相変わらず会社で多忙に過ごしている僕に再び奈緒人の写メや一言コメントをメールで送ってくれるようになった。それは麻季が先輩と浮気してからはおろそかになっていた行事だった。麻季の浮気以降で大きく変わったことはまだあった。

 夫婦の危機があったからといって業務の多忙さは少しも遠慮してくれなかった。むしろその頃の僕は昇進して小さなユニットの部下を指揮して企画記事を製作する立場に立たされるようになったのだ。もちろんその昇進には昇給がついてきていたから、僕は家庭にかまけて仕事をおろそかにするわけにはいかなかった。なので麻季とやり直すと決めた日からしばらくして、僕は前以上に帰宅する頻度が減った。それでも一度過ちを犯して僕に許された麻季は何も不満を言わなかった。たまの休暇の日にへとへとになって帰宅した僕を麻季は笑顔で迎えてくれた。

 問題はその後だった。麻季が妊娠してから長年レスだった、というか僕が迫っても拒否していた彼女が、どういうわけか僕が仕事で疲労困憊して帰ってくるようになったこの頃から逆に積極的になったのだ。最初のうちはこれまで僕を拒否していた麻季が、自分から僕に抱かれようとしていることが嬉しかった。たとえ罪の意識からにせよ、麻季が本心で僕とやり直そうと努力している証拠だと思ったから。

 でも実際に行為に及ぼうとすると、以前は執着していた麻季の子どもを生んだとは思えない綺麗な裸身に対して、僕は得体の知れない嫌悪を抱いたのだ。

 僕も努力はした。意思の力を結集して僕に迫ってくる麻季の裸身を愛撫した。喘ぎ出した麻季にキスもした。でも駄目なのだ。いざ事に及ぼうとすると僕は全くその気になれなくなるのだった。一時はあれだけ拒絶する麻季を抱こうとして足掻いていたというのに。自分が抱いている麻季の美しい身体は少なくとも一度は鈴木先輩に抱かれて悶えていたのだ。そう考えた瞬間、僕は萎えてしまい麻季を抱けなくなってしまう。でも麻季はそういう僕を責めなかった。

199 : 以下、名... - 2014/12/31 22:38:55.40 8QxDihXuo 179/442


 そういうときの麻季は「気にしないで」って言って微笑んだ。それはきっと自分のした行為が僕にどんな影響を及ぼしたかを慮り、そしていい妻であろうと努めようとしたからだろう。だから勘ぐれば麻季だって義務感から僕を誘っているだけかもしれなかった。そして僕がその気にならず僕の相手をしなくてすんだことにほっとしていたのかもしれない。自分の方から僕を誘っただけで麻季の義務は終了しているのだから。それでも僕は麻季を信じた。奈緒人が始めて自分の足で歩いたときの麻季の姿と大学時代に僕に声をかけてきた麻季の様子を思い浮かべて。

 麻季は奈緒人にとってはいい両親だったと思うけど、夫婦としての肉体的な関係はレスのままだった。以前は麻季に拒否されたからだ。でも今ではその責任と原因は僕にあった。



 その日も僕は編集部で目の回るような多忙な日常を過ごしていた。印刷会社に入稿する記事の締切日は近づいてきているのに原稿は手元にない。遅筆で有名な評論家の自宅に催促に行こうとしていた僕は、自分のデスクで鳴り出した電話を取った。

「結城編集長に鈴木様という方からお電話です」

 交換にはいと答えてすぐに受話器の向こうで声がした。

「はい。結城です」

「突然すいません。えと、覚えていますか? あたしは太田と言いますけど」

「はい? 鈴木さんじゃないんですか」

 受話器の向こうで慌てたような感じがする。

「あ、いえ。鈴木なんですけど、結婚前は太田でした。というか大学時代は太田だったんで結城先輩には太田と言ったほうがいいかなって」

 結城先輩ってなんだろう。ゼミの後輩に太田なんていたっけ。

「すいません。よくわからないんですけど、失礼ですけどどちらさまでしょうか」

 万一作家さんだったらまずいので僕はていねいに聞き返した。

「旧姓は太田れいなといいます。結婚して鈴木になりましたけど」

「はあ」

「ごめんなさい。わかりまえせんよね。首都圏フィルの渉外担当の鈴木と申します。来月のコンサートの取材の件でご連絡させていただきました」

 それでようやく彼女の用件がわかった。首都圏都フィルは自治体が援助している地方オケの中では実力のあるオーケストラだった。全国レベルの有名なオーケストラほど知名度は高くないけど、知る人ぞ知るという感じで固定のファンも結構ついていた。特に最近、地方オケでは有り得ないほど知名度の高いコンダクターが常任指揮者に就任することも話題となっていた。僕はその指揮者へのインタビューをメールで事務局に申し込んでいた。メールを読んだ担当者が連絡をくれたのだろう。そこまでは別に不審な点はなかった。

 だけどこの担当者は鈴木なのか太田なのか。それにいきなり人のことを先輩と呼ぶのはどういうわけなのだろう。

「あの、先輩ってどういうことですか?」

 電話の向こうで少し考え込む気配がした。それからようやく落ち着いた声で返事が帰ってきた。

「ごめんなさい。混乱させちゃって。というかあたしの方が混乱しているんですけど」

 何だかさっぱり要領を得ない。

「うちの金井へのインタビューは喜んでお受けします。金井にも了解は得ています」

 ようやく本題に入ったようだ。

「ありがとうございます。それで取材の日時なんですけど」

「これから会えませんか?」

「はい?」

「直接会って打ち合わせさせてください」

 彼女は一方的に時間と場所を指定して僕が返事をする間もなくいきなり電話を切った。僕のサラリーマン生活を通じてここまでひどいビジネストークは初めてだった。

200 : 以下、名... - 2014/12/31 22:39:23.86 8QxDihXuo 180/442


 鈴木さんだか太田さんだかの指定した時間は一時間後で、場所は編集部のすぐ近くの喫茶店だった。幸か不幸か一時間後には何も予定は入っていない。

 僕は首を傾げた。非常識な話しだし何が何だかわからないけど、とりあえず行って話しを聞けば疑問も晴れるだろう。それに金井氏へのインタビューは次号の目玉記事になる。先方の担当者の奇妙な言動のせいでなかったことにされるわけにはいかなかった。僕は立ち上がって椅子に掛けていた上着を羽織った。

「お出かけですか、デスク」

 部下の一人が僕に声をかけた。

「何かよくわかんないんだけど、首都フィルの担当者が会って打ち合わせしたいって言うからちょっと出てくる」

「はあ? インタビューの日時や場所を決めるだけでしょ? 直接会う必要あるんですかね」

「僕に聞かれてもわからんよ。とにかくこっちからお願いしておいて断るわけにもいかんだろ」

「まあ、そうですね」

「山脇先生に電話で締め切り過ぎてますよって言っておいてくれるか」

「わかりました」

「じゃあ行ってくる」

 徒歩で十五分ほどで指定の喫茶店に着いた。待ち合わせ時間まではまだ四十五分もある。こんなに早く来る必要はなかったのだけど、せっかく外出の機会が転がり込んできたので僕は少しゆっくりしようと思ったのだ。席に収まって注文を終えると僕は携帯を見た。今朝から午後二時十五分の現在に至るまで、麻季からのメールが十通近く届いていた。

 僕は時間を掛けて麻季のメールの全てに目を通した。別に今日も何の変わりもないようだけど、それでもこれだけのメールを出すのだから麻季にとって今日は比較的余裕のある一日なのだろう。奈緒人は順調に歩行距離と時間を伸ばしているようだ。離乳食も食べてはいるものの、どういうわけか麻季の浮気が発覚して以降奈緒人は再び麻季のおっぱいを求めるようになってしまった様子だった。離乳は早かった方だったのに。僕は麻季あてに返信した。奈緒人の今日の出来事への感想と今日も帰宅は十一時くらいになるという短い内容だった。そして少し迷ったけどメールの最後に「麻季と奈緒人のこと、心から愛しているよ」と付け加えた。麻季へのメールを送信し終わったとき人の気配を感じた僕は顔を上げた。

「音楽之友社の結城せん、結城さんですか」

 その女性が僕にあいさつした。

 名刺交換を済ませると僕は彼女にもらった名刺にちらりと目を落とした。

『財団法人首都圏フィルハーモニー管弦楽団 事務局広報渉外課 鈴木怜菜』

「首都フィルの鈴木です。よろしくお願いします」

「音楽之友の結城です。初めまして」

 彼女は何かほんわかした雰囲気の優しそうな女性だった。ちゃんと仕事の話ができるのか僕が一瞬心配になったくらいに天然の女性に見えた。仕事をしているよりも専業主婦で育児とかしている方が似合いあそうな感じだ。外見だけ見れば麻季の方がよほどビジネスウーマンに見えるだろう。あくまでも外見だけの話だけど。

201 : 以下、名... - 2014/12/31 22:39:53.71 8QxDihXuo 181/442


「あのインタビューの件ですけど」

 彼女が手帳を見ながら言い出した。

「はい」

「よろしければ三月十四日の定演終了後にグリーンホールでいかがでしょう」

 グリーンホールは首都フィルの本拠地だった。都下にあるけどそれほど遠いわけでもない。僕は手帳でスケジュールをチェックした。その日には今のところ予定がない。

「わかりました。何時にお伺いしましょうか」

「十四時開演ですのでインタビューは十六時くらいからでいいですか」

「結構です」

「もしお時間があるなら十四時にいらして定演を見ていってください」

 その方がインタビューする側としては好都合だった。彼女はしばらく自分のバッグをごそごそと探っていた。

「あ、あった。これをどうぞ」

「ありがとうございます」

 僕は招待券を受け取って言った。

 それで打ち合わせはあっけなく終ってしまった。しばらく沈黙が続いた。こんな内容なら電話かメールで十分だろう。なぜ彼女はわざわざ会って打ち合わせをしようと言ったのだろう。でも初対面の、しかもこちら側からお願い事をしている身でそんなことを聞くわけにいかなかった。

「結城さんって音楽雑誌の編集者をされてたんですね」

 突然彼女が言った。

「はい?」

「ごめんなさい。あたし、結婚前は旧姓が太田なんですけど、結城先輩と同じ大学で一つ下の学年にいたんです」

 何だそういうことか。

「ああ、それで」

「はい」

 彼女は微笑んだ。

「先輩はあたしのこと知らないと思いますけど、あたしは先輩のことよく知っています」

「うん? 同じサークルでしたっけ」

「違います。あたし麻季の親友でしたから」

「そうなの? ごめん。全然わからなかった」

 実際にはわからなったというより知らなかったという方が正しかった。大学の頃の麻季には僕の知る限りでは本当に親しい友人は男女共にいなかったはずだ。何しろその頃の彼女は筋金入りのコミュ障だった。外見の美しさや一見落ち着いて見える容姿や態度のせいで取り巻きのような友人はいっぱいいたらしいけど。

「いえ。先輩とは直接お話したこともありませんし。でも麻季からはよく惚気られてました。あの麻季がこれほど入れあげている男の人ってどんな人かなあってよく考えてましたよ」

「そうだったんだ。ごめん、あいつはあまり自分のこと喋らないから」

「結城先輩と麻季の結婚式にも参列させていただきました。麻季、綺麗だったなあ」

 そのとき僕は帰宅して麻季に話してやれる話題ができてラッキーくらいに考えていた。でも、どういうわけか彼女は俯いた。そして静かに泣き出した。

「鈴木さん、どうしたの」

 僕は驚いて彼女に声をかけた。周囲の客の視線が刺さるようだった。これでは別れ話を持ちかけている浮気男と振られた女のカップルのようじゃないか。

202 : 以下、名... - 2014/12/31 22:40:24.74 8QxDihXuo 182/442


「・・・・・・ごめんなさい」

「いや、いいけど。大丈夫?」

 それには答えずに彼女が話し出した。

「音楽之友からの取材メールを見たとき、あたしびっくりしました。最後に結城博人って書いてあったし。あたしそれが麻季の旦那さんのことだってすぐに気がついたんです。こんな偶然があるんだなあって」

「ごめん。よくわからないんだけど」

「あたし、ずっと先輩に連絡を取ろうとしてたんです。麻季の携帯の番号しか知らなくて、でも麻季には連絡できないし」

「うん」

「だから仕事で先輩から連絡を受けたときチャンスだと思いました。これで先輩とお話できるって」

 彼女はコミュ障の麻季には似合いの親友なのかもしれない。さっきから随分彼女の話を聞いているのだけど、彼女が何を言いたいのか少しも理解できない。

「あたし、結婚してるんです」

 それはそうだろう。旧姓太田と言っていたし、それに左手の薬指には細いリングが光っている。

「あたしいけないとは思ったんですけど。でも最近旦那の様子が変だし不安だったんで旦那の携帯を見ちゃったんです。そしたら旦那と麻季が浮気していて」

 僕は凍りついた。麻季の浮気の話なんてとうに知っている。今はそれを克服しようと夫婦ともに努力している最中だった。でも鈴木先輩は独身ではなかったのか。

「君・・・・・・横浜フィルのチェロのフォアシュピーラー、その鈴木先輩の奥さんなのか」

「・・・・・・はい」

 彼女は俯いてそう答えた。



 麻季の告白のあと僕は鈴木先輩について調べていた。ネットでも情報は手に入ったし、社の演奏家のデータベースにも情報はあった。新人であればネットの方はともかく社のDBには音楽雑誌に紹介されているような有望な若手しか登録はない。

 鈴木先輩は社のDBにも情報が登録されていた。

 鈴木雄二。

 横浜フィルの次席チェリスト。東洋音楽大学の1年上の先輩。横フィルの有望な新人。

「麻季とうちの旦那が浮気してたって聞いても驚かないんですね」

 怜菜が顔を上げて僕に聞いた。

「・・・・・・うん。麻季から聞いているからね」

「そうか。先輩は麻季のこと許したんですか」

「許したっていうか、やり直すことにした」

「何で麻季と旦那の浮気を知ったんですか。先輩が麻季を疑って問い詰めたんですか」

「いや。麻季の方から告白した」

「そうなんですか」
 怜菜は寂しそうに笑った。「先輩がうらやましい」

「どういうこと?」

「自分から告白したのは麻季も罪の意識を感じていたからでしょうし、先輩に嘘をつきたくなかったんでしょうね。うちの旦那と違って」

 どう答えればいのかわからない。僕は黙っていた。

203 : 以下、名... - 2014/12/31 22:41:21.88 8QxDihXuo 183/442


「それにうちの旦那は、まだ自分の浮気があたしにばれていないと思ってますよ」

「鈴木先輩は独身だって聞いたんだけど」

 彼女には気の毒だけど僕にとっては気になることだったので、僕はまずそれを確認しようと思った。

「麻季にそう言われたんですか」

「・・・・・・うん」

「じゃあきっとうちの旦那が麻季に自分は独身だって言ったんでしょうね。麻季がそのことで先輩に嘘をつく理由はないでしょうし」

「君と麻季の親友でしょ。麻季は君と鈴木先輩が結婚したことを知らなかったの?」

「ええ。麻季と先輩の結婚式以来麻季とは会ってませんし、あたしたちの結婚は大学卒業後だし結婚式も挙げなかったんで、あたしと旦那のことを知っている人は大学時代の知り合いはほとんどいないと思います」

「あのさ」

「はい」

「僕も麻季に裏切られたと知ったときは自殺したいような心境だったよ。でも僕たちには子どもがいるし、何よりも麻季は本当に先輩との過ちを後悔していると僕は信じている」

「・・・・・・そうですか」

「麻季と鈴木先輩の仲はもう終っている。君の気が楽になるならそれだけは保証するよ」

「結城先輩にとっては、かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内なんですか」

 怜菜が顔を上げて僕を真っ直ぐ見た。

「そんな訳ないでしょ。でも麻季はもう君の旦那と縁を切っているんだし」

 怜菜がバッグからプリントを何枚か取り出した。

「やり直そうとしている先輩と麻季を邪魔する気はないんです。でも、事実を知らないで判断するのは先輩と麻季にとってもよくないと思います。余計なお世話かもしれませんけど」

「・・・・・・どういう意味?」

「さっきも言ったように旦那の様子が最近変だったんで悪いことだとは思ったんで旦那の携帯をチェックしたんです。そしたら麻季と旦那がメールを交換し合ってて。転送すると旦那にばれそうなんで、旦那が携帯をリビングに置いたまま自宅のスタジオで練習している間に関係あるメールを見ながら全部全部パソコンに入力し直したんです」

 怜菜に渡されたプリントは先輩の携帯の送受信メールのやりとりを印刷したものだった。

「よかったら読んでください」

 僕は怜菜に渡された書類に目を通した。

 最初のうちは久し振りの再会を懐かしがったり大学時代の知り合いの話題を交換したりしているそういう内容のメールが麻季と先輩の間に交わされていた。メールでのやりとりが重ねられて行くうちに二人のメールは随分親密な様子に変わっていった。

 僕は胸の痛みを感じながらプリントを読み進めた。メールから理解できた範囲ではその内容は麻季に告白されたものと事実としては全く同じ内容だったので、少なくとも浮気を告白したときの麻季が嘘をついていないことだけは確認できた。それでも実際に男女の親密そうなやりとりを読むことは僕の精神にかなりの打撃となった。メールを読むことによって僕は今麻季の告白の事実を実際に追体験させられていたのだ。

 段々と親密さを増していく二人。そのうちメールはもっとも辛い部分に差し掛かった。この辺りになると少なくともメールの文面上は麻季は先輩に対して敬語ではなくもっと親しみを込めた口調になっていた。そして先輩も麻季のことを呼び捨てするようになっていた。

204 : 以下、名... - 2014/12/31 22:41:55.93 8QxDihXuo 184/442


『ごめんさい。あたしも久し振りにコンサートに行きたいし先輩の演奏も聞きたい。でも小さな子どもがいるから家を留守にできないの。ごめんね先輩』

『それは残念。お子さん、昼間は保育園とか幼稚園とかに行ってるんじゃないの』

『何言ってるの。専業主婦だから保育園には入れません。それに奈緒人はまだ幼稚園に入園できる年齢じゃありません。先輩って音楽以外のことでは常識ないのね(笑)』

『そっかあ。実家とかに預かってもらえないの? 今度の演奏はぜひ麻季に聞いて欲しかったなあ。実は演奏のイメージは大学時代の清楚だった麻季をイメージして作ったんだ。水の妖精だから麻季にぴったりでしょ(笑)』

『清楚な水の妖精って、子持ちの主婦に何言ってるの(笑)。でもわかったよ。実家に預けられるかどうか聞いてみる』

『ほんと? やった』



 コンサート当時の日付のメールはなかった。それはそうだろう。この日、麻季は結局奈緒人を自分の実家に預けてコンサートに出かけたのだから。多分、精一杯着飾って。そしてその夜、麻季は先輩に抱かれた。二人は直接会って二人きりで過ごしていたのでメールを交換していないのは当然だった。

 僕は麻季の必死の謝罪と奈緒人への愛情表現によってその過去は克服していたつもりだったけど、直接二人のやりとりを見るのはやはりきつかった。ここまで読んでもまだ未読のプリントがまだ残っていた。麻季の釈明によればその夜の過ちに後悔した彼女は、もうこれで最後にしようと先輩に言ったはずだった。その後も先輩からは言い寄られたりメールが来たりしたとは言っていたけど、麻季は返事をしなかったと泣きながら僕に言っていた。証拠として自分の携帯を僕に差し出しながら。僕はプリントの続きを読んだ。もう黙って僕を見守っている怜菜のことは意識から消えていた。



『僕は本気だよ。学生時代から麻季のことが大好きだった。旦那と別れて僕と一緒になってくれないか。君のことも奈緒人君のことも責任を持って一生大切にすると約束する』

『ごめんなさい先輩。もう連絡しないで。あたしはやっぱり奈緒人が大事。だから奈緒人の父親である主人を裏切れません』

『奈緒人君のことは大切にするって言ってるじゃないか。それに君だって専業主婦で子育てと旦那の面倒だけみている人生を送るなんて、君を家庭に閉じ込めるなんて君の旦那は絶対間違っているよ。昔からあいつは嫉妬深かったけど。麻季はあれだけ佐々木先生に認められていた自分のピアノを本気で捨てるのか? 僕なら君と一緒に音楽の道を歩んで、お互いを高めあうような関係になれると思う。麻季を本気で愛している。もう一度自分の人生をよく考えて』

『先輩、何か誤解してるよ。博人君はあたしに専業主婦になれなんて一言も言っていないの。妊娠したときにあたしが自分で先生の手伝いを止めたの。奈緒人のために育児に専念したかったから。間違っても博人君の悪口は言わないで』

『ご主人のことを悪く言ったのはごめん。でもこれだけは撤回しない。僕は君のご主人より君のことを理解しているし君にふさわしいと思う』

『もうやめようよ。あたしは博人君と奈緒人を愛してるの。先輩とはもうメールしません。これまでありがとう、先輩。もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない。何度メールしてきても決心は変わりません』



 僕はプリントを全部読み終わった。その生々しいやりとりに動揺もしたし、僕に対する鈴木先輩の誹謗めいた言葉に憤りもした。でも結局麻季は先輩を拒絶したのだ。少なくとも先輩と別れたという麻季の言葉は嘘ではなかった。

「見せてくれてありがとう」

 僕はプリントの束を怜菜に返そうとした。

「先輩、まだニ、三枚読み残しがあるみたい」

 怜菜が言った。最後と思っていたページの下に数枚最後のページに折曲がってくっつくようにして残っていることに僕は気づいた。

「先輩には申し訳ないですけど、その最後の方を読んだ方がいいと思います」

 怜菜はさっきまで泣いていたとは思えないくらい冷静な口調で言った。

「・・・・・・わかった」

205 : 以下、名... - 2014/12/31 22:42:26.64 8QxDihXuo 185/442


 僕は紙を捲って未読のプリントを読み始めた。最初に麻季から鈴木先輩に当てたメールがあった。日付を見ると二~三ヶ月前だ。それを見て僕は目の前が暗くなった。僕が必死で彼女を信じてやり直そうとしている間に、麻季は再び先輩とメールを再会していたのだ。



『もう電話もメールもしないで。あたしのことを本当に大切に思っていると言う先輩の言葉が本心ならもう放っておいて』

『ごめん。君のことが心配でいてもたってもいられなくなって。今日も定演のリハだったんだけど散々な出来だったし』

『説明するからこれで最後にして。あたしは先輩との過ちを博人君に告白しました。博人君はあたしのことを許してやり直そうと言ってくれたの。もちろん完全に彼に許してもらえたなんて思っていない。彼は奈緒人のためにあたしのことを許そうと考えてくれたんだと思う。もうあたしには奈緒人と博人君のためだけを考えて一生過ごすほかに選択肢はないの。先輩のこと嫌いじゃなかった。でももうあたしの中に先輩の居場所はありません』



 麻季は先輩のことは嫌いではないと言っていた。それは本当に辛かったけど、そこだけを問題にしてせっかくやり直している僕たちの関係を無にする気はなかった。

「もう少しだけだから全部読んでみてください」

 怜菜が言った。続きを読むと先輩と縁を切ったはずの麻季のメールがまず目に入った。



『奈緒人が今日初めて「おなかすいちゃ」って言ったの。ちょっと言葉は遅かったからすごく嬉しかった』

『よかったね。安心した?』

『うん。旦那にメールしたら彼もすごく喜んでた。少し興奮しすぎなくらい(笑) 博人君も仕事中なのにね』

『そうか』

『あ、惚気話でごめん、先輩』

『いや。麻季が旦那とやり直そうと決めたんだから別に構わないよ。何か悩みでもあったらいつでも連絡して』



 次のメールは数か月後だった。それは麻季の方から先輩に出したメールだった。



『突然ごめん。先輩元気でしたか。定演の評判聞きました。もうこれで人気演奏者の仲間入りだね』

 先輩はそれに対してお礼を言う程度の当たり障りのない返信をしていた。

『またメールしちゃってごめんなさい。うまくやり直せてると思っていたんだけど、博人君内心ではあたしのことを許してないみたい。彼に迫っても全然抱いてくれないの。やっぱりあたしが先輩と寝たこと気にしてるのかな』

『僕が言うのもなんだけど、男ならそんなに簡単に妻の浮気を許せないかもね』

『どうしよう。あたしにはもう博人君と奈緒人しかいないのに』

『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のところにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分の罰だと思ってる』

『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』



 麻季は夫婦生活の不満のような微妙な話題まで先輩に相談していた。そして先輩の方もは全く麻季を諦めていないような返信をしていた。

206 : 以下、名... - 2014/12/31 22:42:58.25 8QxDihXuo 186/442


「これって・・・・・・」

「結城先輩、ごめんなさい。先輩を苦しめる気はないの。でも事実は事実だから」

 怜菜は僕に向かってすまなそうに謝った。

「君が謝ることはないよ。ただ、麻季は先輩とはもう縁が切れていると思っていたからこういうやりとりをしているとは思わなかった」

「本当にごめんなさい。先輩だって被害者なのに」

「君はこのことを先輩に言ったの?」

 僕は無理して怜菜のことを心配して言った。でも心中は穏かではなかった。僕が不貞を働いた麻季を許したつもりだった。でもこのメールを見る限り麻季が僕の態度に不満、あるいよく言って不安を感じていることは明らかだった。

 麻季は僕には口では僕に謝罪し一番愛しているのは僕だと言った。でもこのメールのニュアンスでは息子のために僕とやり直すような気持ちが感じられた。そして何よりも夫である僕に対して何も言わないでいる自分の考えを先輩に対しては隠すことなく伝えていたのだ。

 僕は吐き気を感じた。

「彼には何も話していません。メールのことも麻季のことも。今は様子見ですね。このまま彼と麻季がフェードアウトするならなかったことにしようと思ってます。でも、これ以上二人の仲が縮まったら彼とは離婚します」

 怜菜は冷静にそう言った。でも彼女の手は震えていた。

「できれば離婚はしたくないんです。妊娠しているので」

 僕は絶句した。思わず視線が怜菜の腹部に向かってしまった。

「・・・・・・先輩はそのことを知っているのか」

 自分の妻が妊娠しているのに他人の妻に独身を装っていつまでも待っていると言うようなクズなら、もうすることは一つしかない。

「いえ。まだ彼には伝えていません」
 怜菜が寂しそうに笑った。「先輩はやっぱり麻季を許すんですか」

「わからない」

 本当にわからなかった。やり直すと宣言した以上、普通の夫婦生活を送ることは僕の義務だった。だから誘ってくる麻季を抱けなかったことは僕の責任かもしれない。でも、そのことを不倫の相手に、僕をこういう風にした原因者にしれっと相談している麻季の心理は僕の想像の範囲を超えていた。

「麻季のこと恨んでるだろ」

 自分のことで精一杯だったはずの僕はこのとき半ば逃避気味に怜菜と先輩の仲を考えようとした。麻季とのことは考えたくもなかったので実際これは完全に逃避だった。

「麻季は彼を独身だと思っているみたいだし、ましてあたしが妻だとは知らないでしょうし」

 怜菜が再び寂し気に微笑んだ。どういうわけか怜菜のその表情に、僕は自分が麻季に再び裏切られたと知ったとき以上の痛みを感じた。

207 : 以下、名... - 2014/12/31 22:43:29.67 8QxDihXuo 187/442


「先輩に妊娠しているって言ってみたら?」

「結城先輩には怒られちゃうかもしれないけど、旦那は本当は優しい人なんです。だからあたしが彼の子どもを妊娠していると知ったら、それで目が覚めるとは思います」

「だったら」

「ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」

 その言葉に僕は言葉を失った。それは僕のしようとしたことへの明確な否定だった。怜菜はすぐに僕の様子に気がついた。自分だって辛いだろうに、彼女は人の気持ちを思いやれる人間のようだった。

「ごめんなさい。結城先輩がお子さんのことを考えて麻季を許したことを批判してるんじゃないんです」

 僕が間違っているのだろうか。僕は奈緒人のことを真に一緒に考えてくれるのは麻季しかいないと考えて麻季の不倫を許した。でもその結果がこのメールだ。

「あたし、決めたんです」

「・・・・・・うん」

「もう一月だけは旦那のことを責めないで我慢します。でも、一月たってまだ旦那が麻季にいつまでも待っているみたいなメールをしていたら、彼とは離婚します」

「そうか」

「結城先輩には事前に話しておきたかったんです。ご迷惑だったでしょうけど」

「いや。君に恨みはないよ。どうするにしても真実を知れて良かった」

 僕は相当無理して言った。実際、怜菜には何の非もないばかりか彼女が一番の被害者だったかもしれない。

「じゃあ、これで失礼します。インタビューの件はよろしくお願いします」

「あ、ちょっと」

「はい」

「大きなお世話かもしれないけど。君が鈴木先輩と別れたとして、お腹の子どもは・・・・・・」

「育てますよ。もちろん。一人になってもあたしには仕事もあるし育児休業も取れますから」

 最後に怜菜は強がっているような泣き笑いの表情を見せた。

208 : 以下、名... - 2014/12/31 22:44:32.61 8QxDihXuo 188/442


 怜菜の話を聞いて以来僕はずっと考えていた。鈴木先輩が独身じゃなくて怜菜が先輩の奥さんであったこと、麻季が先輩とはもう連絡していないと言いながらも、親密な相談メールを送っていたこととか。その事実は僕を苦しめた。でも、辛い思いをを必死で我慢してじっと自分の心の奥底を探ってみると僕が本当に悩んでいたことは麻季の心理や行動とかではなくて、僕が麻季を許した動機の部分であることが段々と理解できるようになった。



『ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません』



 怜菜は彼女と鈴木先輩との仲をシビアに見つめていた。麻季と先輩の関係に目を背け、奈緒人を言い訳になし崩しに麻季とやり直そうとしている僕とは対照的に。なりふり構わないのなら怜菜にだってできることはあるはずだった。メールのことを鈴木先輩に話して麻季との仲を清算するように詰め寄ってもいいはずだし、自分が妊娠していることだって武器になる。怜菜本人も自分の妊娠を知れば先輩は麻季を諦めて自分のところに戻ってくるだろうと言っていた。

 でも彼女はそれをせず黙って先輩と麻季の仲を見守っている。自分の浮気を知られ怜菜に責められ彼女の妊娠を知った上で先輩が自分を選ぶことを拒否しているのだ。怜菜は強い女性だった。自分の行動や悩みを振り返るとますますそう思い、僕は自己嫌悪に陥った。

 僕がしたことは判断停止に近い。麻季と先輩の仲を深く探ろうともせず、麻季の本当の気持ちを知ることさえ拒否し、麻季が謝っていることに安住して奈緒人を言い訳に彼女を許した。麻季には当然非がある。先輩とはもう何も関係がないと言いつつ夫婦間の悩みを先輩にしていたのだから。でも、きちんとした言い訳や謝罪すらさせてもらえず、僕に対する罪の意識を抱えたままにさせられた彼女が先輩にメールした動機は少しだけ僕にも理解できた。それなら一度存分に浮気をした麻季を責め立て自分の気持をぶつけてから今後のことを決めればいいのだけど、今の僕にはそれすら恐かった。麻季を問い詰めようとは思ったときだってあった。怜菜に見せられたメールのやり取りを思い浮かべて。



『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のところにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分の罰だと思ってる』

『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』



 少なくともこのことだけは麻季に指摘しておくべきだったろう。彼女は僕に嘘をついて先輩とメールを交わしていたのだから。それでもそれを実行しようとするとき、僕は情けないことに奈緒人の無邪気な様子を思い浮かべて躊躇してしまうのだった。これを言ったら麻季は本当に家を出て行ってしまうかもしれない。そうなればもう二度と麻季とも奈緒人とも会えなくなるかもしれない。そう思うと僕には何もできなかった。本当に情けない。怜菜は自分と自分のお腹の子のために一人で必死で耐えているというのに。

 帰宅してマンションのドアを開けたとき、偶然に目の前には奈緒人がいた。奈緒人はいきなりドアを開けて入ってきた僕を見て凍りついたように固まった。でもそれが僕とわかると満面に笑みを浮べて僕の方に手を伸ばしてきた。

 僕はしがみついてくる奈緒人を抱き上げた。

「お帰りなさい、博人君」

 奈緒人を追いかけてきたらしい麻季が微笑んだ。

『かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内なんですか』

そう怜菜は言った。もちろん答えはノーだったはずだった。でも帰宅した僕に抱きつく息子やその様子を微笑んで見ている麻季を見ると、怜菜に会って考え直したことはどこかに失われてしまい、メール程度は許容するべきじゃないかとも思えてくる。

 怜菜は辛い立場だったろう。自分の夫が親友の麻季に対して自分は独身だと、いつまでも麻季を待っていると言っているのだから。確かに麻季は嘘をついていた。もう連絡しないと言っていたのに、実際は先輩に身の上相談までしていた。

 でも怜菜と違って僕には奈緒人と麻季が微笑んで僕の帰宅を待っていてくれる家庭がある。メールのことはショックだったし、麻季の本心がわからなくなったけど、少なくともあのメールでは麻季は僕を選んでくれていた。妻の存在を隠して麻季を口説いている先輩をただ待っているだけの怜菜よりも、僕の方がまだましな状態なのかもしれない。

209 : 以下、名... - 2014/12/31 22:45:42.58 8QxDihXuo 189/442


 潔く、浮気した麻季と別れるか曖昧に今の関係を続けるのか。このときの僕は本当に揺れていた。結局、僕は怜菜に会ったことも怜菜から麻季と先輩が未だにメールをやりとりしていることを聞いたことも麻季には話さなかった。奈緒人を抱いた僕に対して微笑んだ麻季に対して、あらためて愛情を感じたせいかもしれない。愛情というかそれはむしろ執着といってもいいかもしれないけど。怜菜はメールで証拠を押さえていることや自分の妊娠を武器にして先輩を引きとめようとはしていない。先輩が自ら目を覚ますことを願ってじっと待っているのだ。そんな怜菜の意思を無視して勝手に麻季にメールの話をするわけにはいかなかった。怜菜に見せられたメールは僕を悩ませた。先輩との関係を泣きながら謝罪した麻季が僕に嘘を言っていたのだ。麻季が嘘をついたことと、自分の悩みを打ち明ける相手として僕ではなく先輩を選んだことは、麻季が先輩に抱かれたことよりも僕を苦しめた。

 怜菜は一月だけ待つと言った。別に僕が怜菜に義理立てする必要はない。でも僕は怜菜の判断に自分を委ねようと考えた。合理的な思考ではないかもしれないけど、あれだけ追い詰められている怜菜が鈴木先輩を許すなら、僕も麻季を許そう。でも麻季が先輩と別れるなら僕も麻季との離婚をを考えよう。

 悩んだ結果、ようやくそこまで僕は自分の思考を整理することができた。このときの僕には正常な判断能力は失われていたのかもしれない。情けないけど僕は怜菜の判断に全てを委ねる気になっていた。

「ご飯食べたの」

 麻季が微笑んだまま聞いた。

「連絡しなくて悪い。食べてきちゃった」

 実際は怜菜との会談で食欲を失っていた僕は何も食べていなかった。でも今麻季の用意した食事を食べられるほど僕のメンタルは強くない。

「気にしないでいいよ。それよりそろそろ奈緒人を寝かせなきゃ」

「ああ。悪い」

 僕の手から奈緒人を受け取った麻季は奈緒人を寝室に連れて行った。

こうして僕は自分の判断を保留して怜菜の審判を受け入れる道を選んだ。怜菜の言う一月を待つ間、僕は麻季にできる限り優しくした。別に陰険な思いからではない。これが麻季との生活の最後になるかもしれないのだ。浮気までされて情けないという気持ちもあったけど、麻季と付き合って結婚した生活は彼女の不倫の発覚までは幸せだった。だから僕は麻季と別れるにせよ、最後までその思い出を綺麗なままにしたかった。

 麻季も僕に対して優しく接してくれた。彼女が本心で何を考えていたかまではわからない。でもこの奇妙なモラトリアムの間、僕たちは理想的な夫婦を演じたのだ。

 僕は怜菜と会ったことを麻季には話さなかった。怜菜は僕に対して何も口止めしなかった。でも彼女が何もせずに先輩の行動を見守っている以上、そして僕も怜菜の判断に追随しようと考えたからには、麻季に怜菜のことを話すわけにはいかなかった。

 それでもいろいろ考えることはあった。怜菜が鈴木先輩を許した場合でも僕は麻季と本気でこの先やり直せるのか。そして怜菜が先輩を見限ったとしたら僕と麻季は離婚することになるのだろうか。先輩と麻季は結ばれるのか。その場合の奈緒人の親権はどうなるのか。それはいくら考えても現状では何の結論も出なかった。

 再び怜菜と会ったのは横フィルの新しい常任指揮者へのインタビュー終了後だった。笑顔であいさつする怜菜に、僕は少し話せないかと誘ってみた。怜菜が決断するために区切った期限まであと一週間とちょっとしか残っていない頃だった。

「いいですよ」

 屈託のない笑顔で怜菜は答えた。

 定演のあったホールの近くは知り合いだらけでまずいので、僕は彼女をタクシーに乗せてホールから三駅ほど離れているファミレスまで連れ出した。人目を避けて行動しているいることに対して何となく不倫をしているような妙な緊張感を感じる。でもホール周辺は怜菜や僕の知り合いだらけだったからそうするしかなかったのだ。タクシーの中の彼女はインタビューの様子や何月号にそれが掲載されるかといった仕事繋がりの話をしていたと思う。

 適当に見つけたファミレスに入って向かい合わせに座った僕は、時間を取らせたことを彼女に詫びた。

「いえ。あたしも先輩とお話したかったから」

 怜菜は笑って言った。

210 : 以下、名... - 2014/12/31 22:47:18.84 8QxDihXuo 190/442


「君は強いな」

 そんなことを言うつもりはなかったけのだけど、僕は思わず口に出してしまった。表面上はいい家族を必死で演じていた僕は、この頃になるともう精神的に限界だった。家庭でストレスを感じながらも麻季に優しく接している分、仕事中の僕の態度は最悪だった。部下にも些細なことで当り散らしたりもした。

「強くなんかないですよ。旦那の目を盗んで毎日泣いてます。お互い辛いですよね」

 そんな僕の心境を知ってかどうかはわからないけど、彼女は僕にそう言って微笑んだ。その微笑んだ顔はすごく綺麗だった。・・・・・・大学時代に知り合ったのが麻季ではなく怜菜だったら、僕は今頃どういう人生を送っていたのだろう。僕のアパートの前で幼馴染の理恵に嫉妬して騒ぎ立てたのが麻季ではなく怜菜だったとしたら。仕事から帰宅した僕を、奈緒人を抱いた怜菜がおかえりなさいと迎えてくれる姿が思い浮かんだ。彼女なら麻季と違って浮気も不倫もしないだろうし、きっと何の悩み事もない夫婦生活を送れていたかもしれない。それはどうしようもない幻想だった。第一に怜菜なら突然親しくもなっていない僕のアパートに押しかけたりはしないだろう。そして僕にとって何よりも大切な奈緒人を産んでくれたのは麻季であって、怜菜ではない。

「どうしました?」

 怜菜が微笑んで言った。僕は慌てて無益な幻想を頭から振り払った。こんな妄想で現実逃避している場合ではなかった。あと一週間と数日で結果が出るのだ。

「もう少しで一月になるけど、君の決心が固まったのかどうか聞きたくて」

 僕は言った。

「まだ決めてません。一月たっていないし」

 それから彼女はハンドバッグの中から数枚のプリントを取り出した。読むまでもなく麻季と先輩のメールのやり取りだろう。未だに麻季は先輩と接触があるのだ。

「多分このことが気になっているんですよね。どうぞご覧になってください」

 そう言われると僕は麻季のメールが気になっていたような気がしてきた。矛盾するようだけどさっきまでは先行きのことばかり気にしていて、今現在の麻季と先輩の様子を気にすることは失念していたのだ。



『奈緒人君が順調に成長しているようで何よりです。よかったね』

『ありがとう先輩。この子はあたしにべったりなのでトイレに行くのも大変』

『麻季みたいな人がママならそうなるだろうね』

『この子を幼稚園に盗られちゃったらあたしはすることが無くなっちゃうな。そう思うとちょっと恐い』

『そしたら君はそれだけ旦那さんに愛情を注げるんじゃない? やり直すんだからいいことだと思うけどな』

『先輩は何でそんな意地悪なこと言うの?』

『ごめん。意地悪したつもりはないんだ。でも君が彼を愛していると言っていたから』

『あたしの方こそごめんなさい。先輩が心配してくれているのに』

『彼とうまくいってないの?』

『博人君はあたしに優しいよ。でも何か彼の目が遠くて恐いの。あたしを見てくれているときでもあたしを通り越してもっと遠くの方を見ているようで』

『こんなこと聞いて悪いけど、旦那は君を抱いてくれた?』

『レスのままです。でもそういうこと先輩には聞かれたくないよ』

『ごめん。でもしつこいようだけど言わせてもらうよ。僕には麻季を誘惑して抱いてしまった責任がある。麻季が旦那と幸せなら僕はもう何も言わないしメールだってしない。でも麻季が彼との生活に辛い思いをしているなら、僕のところに来て欲しい。僕は麻季がどうするか決めるまでは独身のままで待っている。それが僕の贖罪だと思うから』

『ありがとう先輩。今は決められないけど気持ちは嬉しい。あたしのしたことは過ちだし博人君を裏切ったのだけど、それでも先輩との一夜が単なる遊びじゃなかったってわかった。それだけでも先輩には感謝している』

『お礼を言うのは僕の方だ。例え僕が麻季と結ばれても僕は一生君の旦那さんへ罪悪感を感じて生きて行くんだろうな。それでも後悔はしてないよ』

211 : 以下、名... - 2014/12/31 22:47:49.81 8QxDihXuo 191/442


 前に読ませてもらたメールよりも二人の距離が近づいていることが覗われた。もうこれは駄目かもしれない。このときになってようやく僕にも怜菜が先輩に対して不貞行為の証拠を突き詰めなかったことが理解できてきた。実際にこの二人が僕や怜菜を捨てて一緒になる決断をするかは結果論であって、今はそんなことはどうでもいい。先輩と麻季が自分たちの関係に価値を見出し、そのことをお互いに確認しあっていることが問題なのだ。

 怜菜は最初からそのことだけを追求していた。だから先輩を責めなかったし麻季に対して先輩には自分という妻がいることを話したりもせずずっと耐えて待つことにしたのだ。そして僕にもようやく理解できた。麻季が奈緒人と僕を愛していて、それゆえに麻季が先輩と縁を切ることを僕は勝利条件だと考えていた。でもそうではないのだ。麻季と先輩がお互いに求め合いながらも奈緒人や僕への未練のためにもう連絡も取らず会わないと決めたとしても、それは何の解決にもなっていないことを。

 そのことを僕はか弱い外見の怜菜に教わったのだ。

「また結城先輩につらい思いをさせたちゃてごめんなさい。まだ期限は来ていないと言ったけど、でも正直もう駄目かなって思ってます」

 それまで微笑んでいた怜菜が泣き出した。

「・・・・・・僕もそう思う。これは互いに求め合っている悲劇の恋人同士の会話だもんね」

「わたしもそう思います。こういうことになるかなって思ってはいたけど、それが現実になるとすごく悲しくて寂しい。むしろ旦那のことを憎みたいのに、まだ未練が残っている自分がとてもいや」

「先輩と離婚する?」

「はい。期限前だけどもう無理でしょう。旦那とは別れます。そして一人でお腹の子を育てます。先輩は・・・・・・どうされるんですか」

 僕は息を飲んだ。優柔不断な僕だけどもう逃げているわけにはいかないことは理解できていた。

「君が先輩と別れるなら僕もそうするよ」

「え?」

 怜菜が一瞬理解できないような表情を見せた。

「何言ってるんです? あたしと旦那が離婚したからといって、先輩が同じことをする必要なんてないですよ。先輩がお子さんのために麻季と頑張ろうとしているならそれは立派なことじゃないですか」

「僕もこの間君に会ってから考えたんだ。謝ってくれて奈緒人を大切にしてくれる麻季とやり直そうとした決心は正しかったのかって。麻季が僕のことを好きなことは間違いないと思っているけど、少なくとも麻季の心の半分は先輩に取られているようだ。それなら毎日僕に微笑んでくれる麻季は多少なりとも演技をしているわけで、麻季の気持ちに目をつぶってそんな生活を維持することが本当に奈緒人の幸せになるのかって」

「先輩の気持ちはわかりますけど、麻季は現実逃避しているだけですよ。たまたまその相手のうちの旦那が優しくしてくれるから自分の気持を勘違いしているんだと思いますけど」

「君だって辛いのに麻季のことなんか庇わなくていいよ」

「そうじゃないです。麻季と旦那との関係は恨んでいますけど、麻季本人のことは恨んでません。親友だし彼女のことはよくわかっています。麻季は本心では結城先輩のことしか愛していないと思います。今はうちの旦那との偽りの関係に酔っているだけですよ」

「もういいよ。今はお互いに自分のことだけを考えようよ」

「・・・・・・はい。もう少ししたら結論を出します。そうしたら旦那に別れを言いだす前に先輩には連絡させてください」

「うん。わかった」

 その数日後に僕は再び怜菜と会った。最初に彼女と会った社の近くの喫茶店で。

 怜菜に呼び出されて緊張しながら店内に入った僕に気がついた彼女は立ち上がり僕に深々と頭を下げた。

「お呼び立てしてごめんなさい」

「いや」

 僕たちは向かい合って座った。注文したコーヒーが運ばれてからあらためて怜菜が頭を下げた。

212 : 以下、名... - 2014/12/31 22:49:08.21 8QxDihXuo 192/442


「いろいろとご迷惑をおかけましたけど決心しました。今までお付き合いいただいてありがとうございました」

「・・・・・・決めたんだね」

「はい。結城先輩には感謝しています」

 怜菜が言った。

「いや。僕の方こそありがとう」

「先輩さえよかったら今日この後帰宅したとき旦那に離婚を求めようと思います」

「いいも悪いもないよ。僕や麻季のことは気にしないで自分の思ったとおりにしてください」

「ありがとう」

 怜菜はもう泣かずに僕に向かって微笑んでくれた。

「このあと先輩はどうされるんですか?」

「もう少し考えるよ。君にはいろいろ教わったしそういうことも含めて最初から考えて見ようと思う」

「それがいいかもしれませんね」

「お子さんは順調なの? 体調は平気?」

「・・・・・・しないでください」

 怜菜にしては珍しく乱れた声だった。

「うん?」

「そんなに優しくしないでください。あたし、これから一人で頑張らないといけないのに」

 怜菜が俯いた。

「最近、先輩があたしの旦那だったらなって考えちゃって。ここまで麻季のことを思いやる先輩みたいな人があたしの旦那さんだったらどんなに幸せだったろうなって、あたし先輩とお会いするようになってから考えちゃって」

 後にそのことをで後悔することになるのだけど、このときの僕は黙ったままだった。心の浮気も有責なのだ。怜菜の毅然とした様子やそれでもたまみ見せる弱さにきっと僕も惹かれていたのだと思うけど、それを言葉にしてしまえばしていることが麻季や先輩と一緒になってしまう。

「麻季がうらやましい・・・・・・。ごめんね先輩。お互いに配偶者の浮気に悩んでいるのに、一番言ってはいけないこと言っちゃった。忘れてください」

 怜菜が立ち上がった。

「今までありがとうございました。誰にも言えずに悩んでいたんで、先輩とお会いしてずいぶん助けてもらいました」

「僕は何もしていないよ」

 僕はようやくそれだけ言った。

 怜菜が微笑んだ。

「そんなことないですよ、結城先輩。麻季とやり直せるように祈ってます。じゃあさよなら、先輩」

「さよなら」

 結局これが生前の怜菜と直接会って交わした最後の会話となった。




 怜菜が事故で亡くなる前、僕は怜菜からメールを受け取った。怜菜が鈴木先輩と離婚してから半年近い月日が経過した頃だった。それは職場のPCのメーラーに届いていた。口には出さなかったけど鈴木先輩と麻季と同じことをすることが気になって、僕は怜菜とは携帯電話の番号やメールのアドレスを交換しなかった。だから怜菜は名刺に記されていた職場のアドレスにそのメールを送信したのだろう。

213 : 以下、名... - 2014/12/31 22:49:43.41 8QxDihXuo 193/442


from:太田怜菜
to:結城先輩
sub:ご無沙汰しています
『先輩お久し振りです。お元気に過ごしていらっしゃいますか。突然会社にメールしてしまってすみません。先日は見本誌を送付していただいてありがとうございました。そしてお礼が送れてすみませんでした。わたしが言うのも失礼ですけどいいインタビュー記事でした。さすがは先輩ですね。うちの上司も喜んでいました』

『現在わたしは育児休業中です。先輩にはお知らせしていませんでしたけど、無事に女の子を出産いたしました。育児では大先輩の結城先輩に言うことではないですけど、この子がわたしの支えになってくれています。以前お会いしたとき、わたしは先輩に失礼なことを言いました。「子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」って』

『でも今になってみると先輩の気持ちがわかります。今では本当にこの子のためなら何でもできると考えている私がいます。正直一人で育てていますので辛いことはいっぱいあります。でもこの子の寝顔を見ていると頑張らなきゃって思い直す日々を送っています』

『どうでもいいことを長々とすいません。最近、偶然に学生時代の友人に会いました。彼女は今は都内の公立高校の音楽の先生をしているのですけど、先日麻季に会ったことを話してくれました。休日のショッピングモールで偶然に出会ったみたいですね。先輩もご記憶かもしれません。休日出勤の途上の彼女は麻季と立ち話で近況を報告しあっただけで別れたそうですけど、「麻季のご主人がお子さんの手を引いていたよ」と、「そして麻季はあたしと立ち話をしている間もご主人のもう片方の手にずっと抱きついていたよ」って言っていました。いいご夫婦で麻季がうらやましいって言ってましたね。彼女も未だに独身なんで(笑)』

『おめでとう先輩。元の旦那と離婚したこと自体には後悔はないのですけど、わたしなんかが余計なメールを先輩に見せたことで先輩と麻季の人生が狂わないかとそれだけが心配でした。先輩なら麻季の気持ちを取り戻せるんじゃないかとは信じていましたけど』

『もう結城先輩とお話する機会はないでしょうし、ご迷惑でしょうからメールもこれで終わりにします』

『最後だから言わせてください。あたしは学生時代から結城先輩に片想いしていました。麻季が先輩と付き合い出したと教えてくれたとき、あたしは本当に目の前が暗くなる思いでした。でも麻季は親友でした。麻季は昔から綺麗でしたけど性格に少し理解されにくいところがあったので友人は少なかった。でもあたしはその数少ない友人、いえ親友でした。だから先輩と麻季の結婚には素直に祝福したのです』

『その後、あたしは業界の繋がりで元の旦那に再会しました。しばらくして彼に口説かれて結婚したことをあたしはすぐに後悔しました。今までははっきりとは言いませんでしたけど彼は結婚直後から女の出入りが激しかった。浮気がばれたことなんて片手では収まらないほどでした』

『でもそれは元の旦那が自分が既婚者であることを明かした上での付き合いでした。ところがある日嫉妬と不安に駆られたわたしが彼の携帯のメールをチェックすると、彼は自分が独身であると言って麻季を口説いていたことを知りました。麻季があたしの親友であることを彼は知っていたのに。その後のことは先輩もご存知ですね』

『先輩はわたしのことを強い女だと言ってくれました。でもそれは誤解です。わたしは弱く卑怯な女でした。先輩から取材の依頼メールが来たとき、わたしは胸が高鳴りました。本当はあのインタビューの件はわたしの上司の係長が担当することになっていたのですけど、わたしはこの人は私の音大時代の親しい先輩だからと嘘を言って自分が担当になることを納得してもらったのです』

『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなことをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに好意があるからではないことは理解していました』

『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めました。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたのです』

『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季とやり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう心境に導いてくれました』

214 : 以下、名... - 2014/12/31 22:50:27.07 8QxDihXuo 194/442


『先輩のことだから麻季の携帯のチェックなんて卑怯な真似はしていないと思います。わたしから先輩への最後のプレゼントです。昨日噂を耳にしました。最近荒れていた元旦那に彼女ができたみたいです。わたしが元旦那に離婚を切り出したときも彼は平然として、君が僕のことを信じられないならしかたないねと言っていました。その旦那が最近ふさぎこんでいることをわたしは知り合いから聞いていました。最初は私と別れたからかなって思っていたんですけど、そうではないようです。やはり麻季が元旦那にきっぱりと別れを告げたみたい。結局麻季は結城先輩を選んだのです』

『そして元旦那も麻季のことを諦めて、次のお相手をオケ内で調達したらしいです。いつまでも独身で麻季を待つと言ったあのセリフはどこに行ったんでしょうね(笑)』

『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こんどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってます』



 怜菜の離婚後も結局なし崩しに麻季とのやり直しを選択した僕は、その辛いメールを読み終わった。

 それから数日後に混乱した想いを乗せたメールを返信したのだけど、それは送信先不明で戻ってきてしまった。そのとき僕は業務上の用件を装って首都圏フィルに電話した。知らない女性の声が応対してくれた。

『首都フィル事務局です』

『・・・・・・音楽之友社の結城と申しますけど鈴木さん、いや太田さんをお願いします』

 鈴木さんか太田さんわからない人からわけのわからない電話が僕にあったことはつい昨日のようだった。

『鈴木は退職いたしました。後任の多田と申します。どんなご用件でしょう』

『いえ、すみません。ちょっと個人的な用件で電話しました。失礼いたしました』

 電話口の多田さんと名乗る女性は僕の慌てている様子に少し同情してくれたらしかった。音楽之友社の肩書きも多少は有利に働いたのかもしれない。

『鈴木に何かご用でしたか』

『はい。連絡先を教えていただけないでしょうか』

 無理を承知でそう言った僕に多田さんは答えた。

『それはお教えできません。業務上のご連絡でないならこれで失礼させていただきます』

『すみません。ありがとうございました』

 これで本当に怜菜と僕の繋がりは断ち切られた。

217 : 以下、名... - 2015/01/02 20:45:37.94 vk+Esfzmo 195/442


 怜菜のメールのとおり怜菜と先輩が離婚したあとも僕は麻季と別れなかった。怜菜の決断に従って自分の行動を決めようと思っていたのだけど、この頃から奈緒人が急速に成長していたこともあり僕はそんな奈緒人を大切に育てようとしている麻季と別れることができなかった。麻季と先輩の仲とか最後に会ったときの怜菜の寂しそうな表情とかが僕を苦しめたけど、息子の成長を見守ることがそのときの僕にとって最優先事項になっていたのだった。

 怜菜の最後のメールで怜菜の心境を始めて知った僕は心を揺り動かれたのだけど、同時に麻季が先輩と本当に縁を切ったらしいという話にもほっとしていた。麻季が本当に僕のところに戻ってきてくれた。怜菜の告白に動揺していたし一時期彼女の告白めいたセリフに心が動いたことも事実だったのだけど、やはり僕は心底から奈緒人をそして奈緒人の母親、麻季を愛しているようだった。

 それから数週間後、怜菜への同情と未練を断ち切った僕は、珍しく早い時間に帰宅できた。自宅の近所での取材の帰りに直帰することができたのだ。まだ明るい時間に帰宅するのは久し振りだった。これなら奈緒人がおねむになる前に息子と一緒に過ごすことができる。僕はそう思って自宅のマンションのドアを開けた。そこには黒づくめの喪服姿の麻季が立っていた。

「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだもん」

「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよりその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」

「奈緒人は実家に預けようかと思ったんだけど、博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」

「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」

「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」

「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」

「博人君は知らないと思う。あたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子で太田怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」

「・・・・・・」

「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」

「・・・・・・やっぱり送って行く」

「あたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」

「連れて行く。君が帰ってくるまで斎場の前に待ってるから」

 麻季はいつもと違う雰囲気の僕に不審を感じたようだった。麻季の勘は時として鋭い。

「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」

「とにかく一緒に行こう。僕は外で奈緒人をみながら手を合わせているから」

 自然と涙が溢れてきた。麻季の目の前で泣いてはいけないことはわかっていたし、怜菜だってそれは望んでいなかっただろう。でもこれはあんまりだ。鈴木先輩と麻季の不倫に悩んだ挙句、彼女は自分の娘だけを生きがいに生きて行こうとしていたのに。

「あとで全部話すよ。とにかく出かけよう」

 麻季はもう逆らわずに奈緒人を抱いて車に乗った。僕には今でも自宅から斎場まで運転したときの記憶がない。麻季によれば僕はいつものとおり荒くない安全運転で斎場まで麻季を連れていったそうだ。

 僕の記憶は通夜の弔いを済ませた麻季が青い顔で車のドアを開けたところまで飛んでいる。そこから先の記憶はある。麻季がいつもは奈緒人と並んで座る後部座席ではなく助手席のドアを開けて車内に入ってきた。

「何で?」

「何でって?」

 僕はそのとき冷たく答えた。怜菜の死には先輩にも麻季にも関わりがないことだった。でもそのとき意識を覚醒した僕は怜菜の淋しそうな微笑みを思い出した。怜菜の死に責任はないかもしれないけど、その短い生涯を閉じる直前に怜菜を追い詰めた責任は彼らにある。

「何で親族席に鈴木先輩がいたの。何で鈴木先輩が取り乱して泣き叫んでいたの」

218 : 以下、名... - 2015/01/02 20:46:08.49 vk+Esfzmo 196/442


 離婚して間がないことから親族の誰かが気をきかせたのだろう。もう離婚していたあいつにはその席で怜菜の死を悼む権利なんてないのに。

「とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」

「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のことなのに」

 助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。



 その日も陰鬱な雨が降りしきっていた。

 午前中に僕の実家に奈緒人を預けた僕と麻季は、僕の運転する車で都下にある乳児院を併設した児童養護施設に向っていた。本来ならもう桜が咲いていてもいい季節だったけどその日は冬が後戻りしたような肌寒い日だった。

 やがて海辺の崖に面している施設の入り口の前に立ったとき、僕は隣に立っている麻季の手を握って問いかけた。

「本当にいいのか」

「うん。もう決めたの。博人君はあたしを許してくれた。そして怜菜も鈴木先輩を奪おうとしたあたしを許してくれていたとあなたから聞いた。信じてくれないかもしれないけど、あたしはあなたと奈緒人が好き。一番好き。もう迷わない。あなたはそんなあたしのことを信じているって言ってくれた。本当に感謝しているの」

「それはわかったよ。でも血が繋がっていない子を引き取るとか・・・・・・本当に大丈夫なのか」

 麻季は僕の手を強く握った。

「大丈夫だよ。あたしは怜菜の子どもを立派に育ててみせる。怜菜はあたしのせいで離婚したんでしょ。本当なら両親に祝福されて生まれて大切に育てられていたはずなのに」

「そう簡単なことかな。奈緒人だってまだ手がかかるのに」

「博人君は君の好きなようにすればいいって言ってくれたでしょ。今になって心配になったの?」

「違うよ。君が決めたんなら僕も協力する」

 僕はそのとき怜菜のことを思い出した。

 怜菜。わずか数回しか顔を会わせなかった怜菜。旦那の浮気に対してひとり毅然として立ち向かった怜菜。腰砕けでだらしない僕をさりげなく慰めてくれた怜菜。こんな僕のことを好きだったって最後のメールで告白してくれた怜菜。

 彼女はもういない。熱を出した娘を病院に連れて行った帰りに暴走した車に引かれて彼女は死んだ。麻季の話では、怜菜は即死ではなかった。自分が抱きしめて守った娘のことを最後まで気にしながら救急車の到着前に現場で息絶えたそうだ。

「行こう、博人君」

「うん」

 僕たちは手を繋いだまま施設の中に入った。施設の中に入ると大勢の子どもの声が耳に入った。



 僕たちの考えは相当甘かったようだ。施設の職員は親切に対応してくれたけど彼女が説明してくれた要件は厳しいものだった。考えてみれば児童虐待とかが普通にありえるこの世の中では当然の措置だったのだろう。養子縁組には民法で定められたルールがある。養子となる子が未成年者の場合、家庭裁判所の許可が必要だ。さらに養子となる子が十五歳未満の場合は法定代理人の同意が必要となる。もちろん今回のケースの法定代理人は実の父親だった。怜菜の死後先輩は怜菜の遺児を認知した。

 つまり麻季の希望どおり玲奈の遺児を養子として引き取るためには鈴木先輩の同意が必要なのだ。

 それは鈴木先輩と怜菜の関係を知った麻季にはかなりハードルが高いことだったと思う。僕は怜菜の通夜から帰宅して奈緒人を寝かせたあと、怜菜とのやり取りを全て麻季に話した。当然、麻季は錯乱した。夫である僕に嘘をついて鈴木先輩とメールを交わしていたことを僕に知られたことや先輩が実は独身ではなかったことを知った以上に、怜菜が鈴木先輩と麻季との関係を知りながら麻季を責めずに黙って僕と会っていたことがショックだったようだ。

219 : 以下、名... - 2015/01/02 20:48:16.10 vk+Esfzmo 197/442


 麻季の受けたショックが僕と怜菜が密かに会っていたせいか、怜菜が自分を責めずに最後まで恨むことがなかったことを知ったせいかどちらが原因なのかはわからない。怜菜の死には僕も相当ショックを受けていた。そして僕はもう何も麻季に隠し事をしなかった。怜菜が僕が自分の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会社に届いたメールのことも話した。自分も一瞬怜菜が僕の妻だったら幸せだったろうと考えたことがあることも麻季に告白した。それでどうなろうともう僕にはどうでもよかった。

 怜菜を救ってあげられなかった絶望に僕は打ちひしがれていた。奈緒人のことは大切だけど、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことを考えると僕は先輩と麻季のことなどどうでもよかった。

 麻季が先輩との関係を誤魔化したり怜菜のことを悪く言うならそれまでのことだ。そうなったら僕は奈緒人の親権だけを争おう。今の仕事では奈緒人を育てられないというのなら転職だって辞さない。道路工事のアルバイトをしたって奈緒人を育てて見せる。でも怜菜とのやりとりを聞かされた麻季は泣き出した。それは先輩に騙されたことへの涙ではなく、先輩と離婚した怜菜が最後まで麻季責めずに僕との復縁を応援してくれたことを知らされたときのことだった。怜菜の名前を叫びながら泣きじゃくる麻季の姿を見て僕はもう一度彼女とやり直してみようと思ったのだ。



「あたし、鈴木先輩と話す」
 養護施設の職員から制度の説明を受けたあと、施設を後にした麻季は僕にきっぱりと言った。「絶対に了解させるから」

 そのとき自分の言葉の勢いに気がついた麻季は一瞬うろたえた様子で僕を見た。
「博人君違うの。別にあたしが言えば先輩が言うことを聞くとかそういうことじゃなくて」

 最後の方は聞き取れないくらいに小さい声で麻季は言った。

「もういいよ。僕たちはお互いに全部さらけ出した上で、やり直すことを選んだんだ。今さらそんなことを気にしなくていいよ」

「・・・・・・だって」

「決めた以上はお互いに気を遣ったりするのやめようよ。僕も正直に君への気持とか、怜菜さんに惹かれたことがあることも話したんだ。もうお互い様じゃないか」

「それはそうだけど・・・・・・。博人君の話を聞いていると、あなたは本当は怜菜みたないな子の方が似合っていたんじゃないかと思ってしまって。あなたが怜菜の気持に応えていたら、今頃怜菜も死なずに幸せに暮らしてたのかな。そんなことを考える資格はあたしにはないのにね」

「もうよせよ。それより本当に先輩に話すの? 勝算はあるんだろうな」

「大丈夫だと思う」

「僕が先輩に話した方がいいんじゃないか」

「・・・・・・ううん。あたしにさせて。もうあたしと先輩が何とかなるとか絶対ないから。先輩が独身だってあたしに嘘を言ったことよりも、離婚したとはいえ自分の子ども引き取らずに施設に預けるような人だと知ってもう彼には嫌悪感しか感じない。友だちがほとんどいないあたしにとって怜菜はようやくできた親友だったの。散々裏切っておいてこんなことを言えた義理じゃないけど、お願い。あたしを信じて」

 僕は彼女を信じて施設からの帰り道、先輩がいるだろう横浜市内にある横フィルのリーサルスタジオに麻季を送り届けた。

「待っていてくれる?」

「もちろん」

 一時間後に横フィルのスタジオから麻季が早足で出てきた。車のドアを開けて助手席に乗り込んだ麻季は僕に法廷同意人である鈴木先輩の署名捺印がある用紙を見せた。

「お疲れ」

「うん。あたし頑張ったよ」

 麻季が僕に抱きついて僕の唇を塞いだ。周囲の通行者たちからは丸見えだったろう。



 その後は児童擁護施設の研修や施設職員の家庭訪問と面接があった。最終的に家庭裁判所の許可を経て僕たちは養子縁組届を区役所に提出した。

 こうして亡き怜菜の忘れ形見である女の子、奈緒が僕たちの家庭にやって来たのだった。

220 : 以下、名... - 2015/01/02 20:49:04.81 vk+Esfzmo 198/442


 奈緒人と奈緒は初顔合わせの瞬間からお互いにうまが合うようだった。まだ奈緒は幼いけれど、奈緒人の方はもう自我が出来上がり出す頃だったので、僕と麻季はそのことが一番心配だったから、奈緒人と奈緒が仲がいいこといは心底からほっとした。僕たちの心配をよそに二人はすぐにいつも一緒に生活することに慣れたようだった。

 麻季も育児自体は奈緒人で慣れていたから奈緒を育てることに戸惑いはないようだった。この頃の僕は相変わらず仕事は忙しかったけど、それでもいろいろやりくりしてなるべく早く帰宅し、週末も家にいるようにしていた。そのせいで昼休も休まずに仕事をする羽目にはなったのだけど。

 毎日帰宅すると、僕は迎えてくれる麻季に軽くキスしてから子どもたちを構いに行った。奈緒人はだいたい起きていて僕に抱きついてきた。奈緒はまだ幼いので眠っていることも多かったけど、たまに起きている時は僕の方によちよちとはいはいしてきて抱っこをねだった。そんな僕と子どもたちの様子を、僕から受け取ったカバンを胸に抱いたまま、麻季は微笑んで眺めていた。

 概ね順調な生活を送っていた僕たちだけど、やはりあれだけのことがあった以上何もなかったようにはいかなかった。

 麻季と鈴木先輩の関係に関しては、僕はもう別れて何の連絡もないという麻季を信じていた。だから以前のようにそのことが夫婦間のしこりになることはなかったはずだったのだ。麻季は真実を知った瞬間、自分の行いを心底後悔したと思う。

 先輩に独身だと騙されていたとはいえ、自分の親友の怜菜を裏切ってつらい思いをさせていたこと。それでも怜菜は麻季を恨むことなく、僕と麻季の幸せを祈ったまま先輩と離婚したこと。そして一人で出産し奈緒を育てる道を選んだ怜菜が、娘の奈緒を庇いながら事故死したこと。

 全てを知って奈緒を引き取って育てる道を選択した麻季だけど、それだけで過去を割り切るわけにはいかなかったようだ。順調に子育てをしているように見えた麻季だけど、しばらくするとやたらに麻季が僕に突っかかってくるようになった。

 麻季が一番こだわっていたのは奈緒という怜菜の遺児の名前のことだった。

 怜菜はなぜ娘に奈緒という名前を付けたのか。怜菜は僕や麻季への嫌がらせで自分の最愛の娘にその名前を付けるような女ではない。怜菜は最後のメール以降、首都フィルを黙って退職して僕との連絡を絶った。怜菜が事故に遭わずに存命していたら、僕も麻季も怜菜の娘の名前を知ることはなかったろう。だからこれは嫌がらせではなかった。第一、怜菜が麻季への嫌がらせのためだけに、生命をかけて自分が守った娘の名前を命名するなんて考えられなかった。

 その点では僕と麻季の意見は一致していた。それでも自分のお腹を痛めた息子の名前にちなんだとしか思えない奈緒という名前を娘に付けた怜菜の意図を考えると、麻季は冷静ではいられなかったようだ。怜菜がもう亡くなっているのでその意図は永遠に不明のままだ。だからそれは考えてもしようがないことなのだ。僕はそう麻季に言った。

 最初のうちは麻季は僕の言葉に納得していた。育児もうまく行っていたし、そのことだけで家庭を不和にするつもりは麻季にもなかった。先輩とのメールのやり取りで僕に嘘をついていたことを僕に知られていたことに対して麻季が負い目を感じていたということもったのかもしれない。

 それでもしばらくすると麻季は奈緒の名前について文句を言うようになった。確かに兄妹に奈緒人と奈緒という名前は普通は命名しないだろう。別にはっきりとどこが変というわけではないけど、常識的には男と女の兄妹に一時違いの名前はつけないだろう。麻季は最初は柔らかくそういうことを寝る前に僕に話しかけてきた。この先そのことに周囲が不審に思い出すと子どもたちがつらい思いをするかもしれないと。

 それは強い口調ではなかったので子どもたちをあやすのに夢中になっていた僕はあまり深くは考えなかった。それがいけなかったのかもしれない。怜菜に対して罪悪感を感じていたはずの麻季は次第に怜菜のことを悪く言うようになった。

 ある夜、子どもたちを寝かしつけたあとリビングのソファに僕と麻季は並んでくつろいでいた。翌日が休日だから僕たちは麻季が用意してくれたワインとチーズを楽しもうと思ったのだった。結構いいワインに少し酔った僕は、久し振りに麻季を誘ってみようかと考えていた。麻季と和解してからずいぶん経つけど、怜菜の死や奈緒を引き取るといった事態が重なったこともあって僕たちは相変わらずレスのままだった。

 今なら麻季を抱けるかもしれない。久し振りの夫婦の時間に僕は少し期待していたのだ。でも麻季は自分で用意したワインには一口も口をつけず青い顔でそう言った。

「怜菜を裏切ったあたしが言えることじゃないとは思うよ」

「でも、何であたしの奈緒人の名前をもじって奈緒なんて命名したんだろ。怜菜は博人君にはあたしのことを恨んでいないと言ったらしいけど、本当はすごくあたしを恨んでたんじゃないかな」

「いや。怜菜さんは本当に君を恨んだりはしていなかったよ」

221 : 以下、名... - 2015/01/02 20:49:36.70 vk+Esfzmo 199/442


「それなら何でわざとらしく奈緒なんて名前を付けるのよ。怜菜のあたしへの復讐かあなたへの愛のメッセージとしか考えられないじゃない。そんな気持で命名された奈緒だって可哀そうだよ。あの子には何の罪もないのに」

 罪があるとしたら先輩とおまえだろ。僕はそう言いそうになった自分を抑えた。

「怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわった。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな」

 僕はそのとき浮気の証拠を先輩に突きつけることもなく、ただ先輩が自分に帰ってくるのを耐えながら待っていた怜菜を思い出した。僕が君は強いなと言った言葉を怜菜は否定した。自分だって旦那に隠れて泣いているのだと。でも今思い返しても怜菜はやはり強い女性だった。結局最後まで自分の意思を貫いて先輩と別れ一人出産したのだから。

 あえてつらいことを思い出すなら、怜菜が自分の弱さを見せたのは最後に怜菜と会った時だろう。あの時は怜菜は僕に惹かれていたとはっきり言った。そのとき僕は麻季と鈴木先輩のような隠れてこそこそするような卑怯な関係になりたくなくて、はっきりした返事をしなかった。でもそれが愛かどうかはともかく僕がそんな怜菜に惹かれていたこともまぎれもない事実だった。

「そうね。聖女か。怜菜は真っ直ぐな子だったよ。大学時代からそうだったもん。あたしみたいに既婚者なのにほいほいと浮気するようなビッチじゃなかった」

「もうよそうよ」

「博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。あたしみたいに平気で旦那を裏切って浮気するようなメンヘラのビッチとじゃなく」

「・・・・・・どういう意味だ」

「怜菜はあなたが好きだったんでしょ」

「・・・・・・多分ね」

「あなたも怜菜が気になったんだよね?」

「あのときはそう思ったかもしれないね」

「ほら。あたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わしてあなたを裏切ったけど。あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのはあたしたちが一回だけセッ○スしちゃったってことだけでしょ」

「そのことはもう散々話し合っただろ。そのうえでお互いに反省してやり直そうとしたんじゃないか」

 麻季は俯いた。

「もうよそうよ。明日は休みだし子どもたちを連れて公園にでも行こう」

「・・・・・・あたしと違って博人くんは嘘を言わないよね。先輩との仲を誤魔化したあたしに対してあなたは正直に怜菜に惹かれていたと言ってくれた」

「僕は君には嘘を言いたくないからね。というか君と付き合ってから君には一度も嘘をついことはないよ」

「・・・・・・ごめんね。自分でもわかってるのよ。先輩とあたしと違ってあなたと怜菜は本当は浮気とか不倫したわけじゃないし、それにもう怜菜はいないんだから将来を不安に思う必要はないって」

 麻季はとうとう泣き出した。いろいろと納得できないことはあったけど、心の上では僕が怜菜に惹かれていたのは事実だったから僕は麻季に謝った。

「ごめん。僕と怜菜さんはお互いに情報交換しあっているつもりだったけど、確かにそうするうちに彼女に惹かれていたことは事実だ。君を裏切ったのかもしれない。それを君の浮気のせいにする気はないよ」

 麻季は何か言おうとしたけど僕は構わず話を続けた。

「でも奈緒人のために、それから怜菜の子どもの奈緒のためにも僕たちはやり直そうとしているんでしょ? 君には悪いと思うけどこんな話を蒸し返してどんなメリットがあるんだ」

 麻季が再び泣き出した。

222 : 以下、名... - 2015/01/02 20:50:08.50 vk+Esfzmo 200/442


「ごめんなさい」

「いや」

「あたし最低だ。自分が浮気したのにそれを許してくれた博人君に嫌なことを言っちゃって」

「もういいよ。明日は子どもたちを連れて外出しようよ」

 僕は麻季を抱きしめた。麻季も僕に寄りかかって目をつぶった。僕は数ヶ月ぶりに麻季に自分からキスした。麻季がこれまでしてくれてたような軽いキスではなく。麻季の体を撫でると彼女も泣きながら喘ぎだした。僕は麻季の細い体を愛撫しながら彼女の服を脱がした。

 その晩、麻季の浮気以来初めて僕たちは体を重ねた。独身や新婚の時だってそんなことはなかったくらい麻季は乱れた。

 こうして僕は再び麻季を抱くことができた。それからしばらくは麻季の感情も落ち浮いていたし、僕が帰ると機嫌よく迎えてもくれた。奈緒人と奈緒も順調に育っていたし、僕たちは夫婦生活最大の危機を何とか乗り越えたかに思えた。

 そのまま過去のことを引きずらない生活が数年続いた。奈緒人も奈緒も幼稚園に入ったし麻季も昼間は育児から開放されたせいか奈緒の名前や怜菜のことに悩むことも無くなったようだった。奈緒人と奈緒は少し心配になるくらいに仲が良かった。これまでは奈緒人や奈緒の愛情は僕と麻季に向けられていたと思っていたのだけど、この頃になると二人は少しでもお互いが目に入る距離にいないとパニックになるくらいに泣き出すようになっていた。

 例えば外出中に僕と麻季が別行動を取ることもあった。そんなとき僕が奈緒人を、麻季が奈緒を連れてほんの三十分くらい別々に過ごそうとしたとき、まず奈緒が火がついたように泣き出し、「お兄ちゃんがいいよ」と叫び出した。泣き叫びはしなかったものの奈緒人の方も反応は同じようなものだった。「奈緒はどこにいるの」と繰り返し泣きそうな顔で僕に訴えていたから。

 それで懲りた僕たちは極力二人を一緒にいさせるようにした。そしてこのこと自体は僕も麻季も嬉しかった。これまで頑張って奈緒人と怜菜の忘れ形見である奈緒を育ててきた甲斐があったと思った。

 そのまま推移すれば普通に仲のいい家族として歳月を重ねられたのかもしれない。この頃は僕と麻季が怜菜や先輩のことを話題に出すことすらなかった。僕も、そして麻季もそんな今の生活に満足していたのだから。



 編集長に海外出張を打診されたとき、僕は最初戸惑った。それはヨーロッパの音楽祭を連続で三つ取材するのが目的だった。取材費に限りがある専門誌だったこともあり出張させるのは記事作成兼写真撮影で一人だけ、あとは現地のコーディネーターと二人でやれとのことだった。音楽祭の日程が微妙に近いせいで出張期間は約三ヶ月だった。

 家庭はうまく行っていた。麻季との仲もそれなりに円滑になっていたし、何よりも子どもたちについて何の心配もない状態だった。この頃の僕の帰宅は相変わらず遅かったけど、麻季がそのことに文句を言ったり悩んだりする様子もなかった。それでも僕は内心麻季や子どもたちに会えなくなるのは寂しかった。

 わがままは言えないことはわかっていたし、編集部の中から選ばれたことも理解していた。今まではこういう取材は自ら音楽祭に赴く評論家に任せていたのだから、自社取材に踏みきった意味とそれを任された意味は十分に理解していた。

 この頃の家庭が円満だったせいで僕は編集長に出張をOKした。業務命令だったので了解するのが当然とは言えば当然だったのだけど。その晩、麻季に出張のことを伝えたとき、どういうわけか麻季はすごく不安そうな表情をした。

「麻季、どうしたの? 大丈夫か」

「うん。ごめんなさい。大丈夫だよ」

 麻季が取り付くろったような笑顔を見せた。

「博人君に三ヶ月も会えないと思って少し慌てちゃった。でもそんなに長い間じゃないし、博人君が会社で認められたんだもんね」

「ごめんな。でも仕事だから断れないしね」

「わかってる。奈緒人と奈緒のことはあたしに任せて。奈緒は三ヶ月もすると相当成長しているかもね」

「それを見られないのが残念だけど。でもたった三ケ月だし辛抱するよ」

 僕は奈緒を抱きながら麻季に言った。

223 : 以下、名... - 2015/01/02 20:50:39.68 vk+Esfzmo 201/442


「奈緒人は?」

「珍しく奈緒より先に寝ちゃった。いつもは奈緒が隣にいないと文句言うのにね」

 奈緒の方も僕に抱かれらがらうとうとし始めていた。この頃になると奈緒の顔立ちははっきりとしてきていた。奈緒は将来美人になるなと僕は考えた。怜菜の可愛らしい表情と、認めたくはないけど鈴木先輩の整った容姿を受け継いだ奈緒は、当然ながら奈緒人とは全く似ていなかったのだ。

「奈緒をちょうだい」

 麻季はうとうとし始めた奈緒を僕から受け取って、奈緒人が寝ている寝室の方に連れて行った。やがて戻ってきた麻季が僕に抱きついた。麻季は不安そうな表情だった。僕は麻季を抱きしめた。

「博人君好きよ。あなたがいなくなって寂しい・・・・・・早く帰って来てね」

 そのとき麻季が何を考えていたかは今でもわからない。

 それから二月後、取材を後えてホテルで休んでいた僕の携帯が鳴った。日本の知らない番号からだった。僕が電話に出ると女性の声がした。

「突然すみません。こちらは明徳児童相談所の者ですが」

 その女性は僕が奈緒人と奈緒の父親だと言うことを確認するとこう言った。

「奈緒人君と奈緒ちゃんは児童相談所で一時保護しています。奥様が養育放棄したためですけど」

 僕は携帯を握ったまま凍りついた。



 取材を終えていないため日本に滞在できるのはわずか三日間が限度だ。帰国便の機内で、僕は一月前に業務連絡で二日間だけ帰国したときのことを思い出した。あのとき編集部に寄って用を済ませてから帰宅した僕に、麻季は抱きつこうとしたけれど、その麻季を押しのけるようにして奈緒が足にしがみついて来たのだった。麻季は少し驚いて身を引いたけどすぐに笑顔を取り戻して僕たちを見守っていた。奈緒人は少し離れてその光景を見つめていたようだった。

 そのときの家族の様子には少し違和感を感じたけど、すぐにいつもどおりの家族の団欒始まった。久し振りだったのでいつもより会話も華やかだったはずだ。わずか一月後にこんなことになるような前兆はいくら思い返してもなかったと思う。麻季と子どもたちにいったい何があったのか。いくら考えてもその答は出なかった。

 その三日間でしなければいけないことはたくさんあった。帰国して編集部に連絡して断りを入れてから、僕は一度自宅のマンションに帰宅し、すぐに車に乗って児童相談所に向った。相談所のケースワーカーさんから事情を聞いて実家に向った。途中に立ち寄った自宅の床には小物や封を切られたレトルト食品の残骸などが散乱して異臭を放っていた。出張前の綺麗に片付けられていた自宅の面影は全く残っていない。それまでに何度も麻季の携帯に電話をしていたけれど、僕の携帯は着信拒否されているようだった。

 僕は混乱し怯えながらも半ば無意識に運転して実家に辿り着いた。実家のドアのチャイムを鳴らすと、しばらくして警戒しているような声がどちら様ですかと聞いてきた。実家で暮らしている妹の声だ。

「僕だけど」

「・・・・・・お兄ちゃん?」

「うん。開けてくれ」

 ドアが開くと妹が顔を出した。

「よかった。お兄ちゃんが戻って来てくれて」

 そのとき廊下の奥から奈緒人と奈緒が走り寄って来て僕にしがみつくように抱きついた。

「パパ」

 二人は同時にそう言って泣き出した。僕はしゃがみこんで二人を抱き寄せながら傍らにじっと立っている妹の方を見上げた。

「・・・・・・今は奈緒ちゃんたちを慰めてあげて。話は後で」

 妹は涙をそっと払いながら低い声で言った。

224 : 以下、名... - 2015/01/02 20:51:10.59 vk+Esfzmo 202/442


 奈緒人と奈緒は泣きじゃくって僕に抱きついて離れなかった。何があったのか聞きたかたけど、妹に言われるまでもなく今は子どもを落ち着かせるのが優先だった。僕は大丈夫だよとかそんな言葉しかかけられなかったけど、そう言いながら子どもたちの頭や背中を撫でているうちに次第に二人は穏かな表情になって行った。いったいこれまで苦労して育てたこの二人に何が起こったのだろう。そしてこの先僕の家庭はどうなってしまうのか。
 子どもたちの様子に胸が痛んだ僕だけど、二人が僕に抱きついたまま寝てしまうと改めて混沌とした境地に陥ってしまった。

「いったい何があったの? 麻季は無事なんだよな」

「どういう意味でお姉さんが無事って言っているのかわからないけど、まだ死んでいないという意味なら無事みたいね」

 妹が冷たい声で言った。

「・・・・・・どういう意味?」

「お兄ちゃんから電話をもらって、児童相談所から子どもたちを引き取ってすぐにお姉さんから電話があったからね」

「麻季は何て言ってたんだ」

 僕は淡々と話す妹に詰め寄りたい気持を抑えて聞いた。それでも無意識に大きい声を出してしまったらしい。

「子どもたちが起きちゃうでしょ。もっと声を抑えて」

「悪かったよ・・・・・・それであいつは何だって?」

「奈緒人君と奈緒ちゃんを返せって。電話に出たのはお父さんだけど、お父さんのことを誘拐犯みたいに罵っていたらしいよ」

 いったい何のだ。もともと麻季はうちの実家とは仲が良かった。僕の両親とも妹ともうまく行っていたのに。

「それでお父さんは、お兄ちゃんが帰るまでは孫は渡さないって言ったの。何があったのかはわからないけど、自宅で何日も幼い子どもたちを放置するような人には子どもたちは渡せないって」

「麻季と子どもたちに何があったんだ。おまえは何か知っているのか」

「お兄ちゃん、児童相談所に寄って来たんでしょ。そこでワーカーさんの話を聞いた?」

「うん」

「じゃあ、お兄ちゃんはあたしたちと同じことは知っているよ。あたしたちも児童相談所の人から説明されたことしか知らないし。お姉さんが電話を切る前にお父さんが何があったのか聞いたけど、お姉さんは答えずに電話を切っちゃったし」

 最初のうちは、体調不良で二人とも休ませますという連絡が麻季から幼稚園にあったらしい。でもそのうちその連絡すら無くなり、不審に思った幼稚園の先生が自宅や麻季の携帯に連絡しても応答がない。そんなことが数日間に及ぶようになると、さすがに心配になった幼稚園から児童相談所に連絡が行った。同時にマンションの近所の人たちからも隣家は昼間の間は子どもが二人きりで過ごしているらしいという通報も児童相談所にあったそうだ。

 児童相談所の職員が家庭訪問をして見つけたのは、自宅の食べ物を漁りつくして衰弱した子どもたちだった。風呂やシャワーも入っていなかったようで異臭がしたそうだ。結局奈緒人と奈緒はその場で救急車で病院に運ばれて点滴を受けた。そしてその二日後に児童相談所に一時保護された。

 警察を経由して僕の職場を突き止めた相談所の職員は、麻季には連絡を取らずに編集部に電話した。編集部から僕の携帯の番号を聞いた相談所のケースワーカーが僕に連絡した。

「結城さんの依頼どおり、実家のご両親と妹さんが二人をお迎えにきたので身分を確認した上で、奈緒人君と奈緒ちゃんをお渡ししました。翌日に奥様が見えられましたけどね」
 僕が帰国して児童相談所の担当だというケースワーカーをたずねたとき、彼女は苦笑しながら僕にそう説明した。「奥様は男の人と一緒に来て、大きな声で私たちを誘拐犯呼ばわりしてましたよ」

 僕は妻の不始末を謝罪した。

 結局わかったのはこれだけだった。麻季が子どもたちを放置したことは間違いない。最初この話を聞いたとき、僕は麻季の身に何か不慮の事故が起きたのではないかと思った。怜菜の寂しく悲しい事故のことが頭をよぎった。でも、相談所の職員や妹の話によるとそんなことは全くないらしい。ようやく自分でも理解できてきた事実。それは想像もできないけど麻季が子どもたちを意図的に放置した挙句、子どもたちを保護した相談所や僕の実家に子どもたちを渡すように居丈高に要求したということだった。

225 : 以下、名... - 2015/01/02 20:51:41.30 vk+Esfzmo 203/442


 いったい麻季の心境に何が起こったのか。こんなのは僕の知っている麻季の行動ではない。自分の不倫や僕の怜菜への想い、それに僕の不在で混乱したとしても、少なくとも麻季が愛している子どもたちを放置するようなことは考えられない。僕は妻が知らない女性のように思えてきた。そしてそのことに狼狽した。

「父さんたちは?」

 僕は気分を変えようと妹に聞いた。

「子どもたちの服とか必要な品物を買いに行ってるよ。お兄ちゃんの家からは何も持って来れなかったからね」

「おまえにも迷惑かけたね」

 僕は妹に謝った。

「気にしなくていいよ。大学はもう講義はないし四月に入社するまでは暇だしね。それに奈緒人君と奈緒ちゃんも懐いてくれたし」

「悪い」

「だからいいって。あ、父さんの車の音だ。帰ってきたみたいね」

「おう、博人帰ったのか」

 父さんと母さんは大きな買物袋を抱えて部屋に入ってきた。

「おかえり。奈緒ちゃんのサイズの服はあった?」

 妹が心配そうに母さんに話しかけた。

「うん、探し回ったけど見つけたよ。奈緒人の物も一通り揃ったよ」

「よかった」

 僕の子どもたちのために両親と妹がいろいろ考えてくれている。それは有り難いことなのだけど、そのことは今の僕にはすごく非日常的な会話に聞こえた。これまで僕は子どもたちの服のサイズなんか気にしたことはなかった。それは全て麻季の役目だったから。本当にもう戻れないのかもしれないという事実をようやく自分に認め出したのは、このときからだった。

「父さん、母さんごめん。二人ともこんなこと頼める状態じゃないのに本当に悪い」

 両親は高齢だった。僕と妹は両親が三十歳過ぎに生まれたのだ。両親が居宅支援サービスを受けようといろいろ調べていることは、以前僕は妹から聞いていた。

「おまえのためじゃないよ。孫のためだからね」

 母さんが笑って言った。

「それより博人、麻季さんと何かあったのか」

 父さんが真面目な顔になって言った。

「見当もつかないんだ。一月前に帰宅したときだって普通にしてたし」

「お兄ちゃんも何が何だかわからないんだって」

 妹が助け舟を出してくれた。

「そうか」
 父さんはため息をついた。「おまえ、いつまで日本にいられるんだ」

「明後日にはまた戻らないと」

「わかった。とりあえず一月後には帰宅できるんだな」

「うん」

「じゃあ、それまでは奈緒人と奈緒はうちで預かる。何があっても麻季さんには渡さない。その代わりに帰国したら一度麻季さんとちゃんと話し合え」

「・・・・・・明日、麻季の実家に行ってみようかと思うんだけど」

「やめておけ」

 父さんが断定するように言った。

「だって」

226 : 以下、名... - 2015/01/02 20:52:12.02 vk+Esfzmo 204/442


 僕がそう言ったとき妹が口を挟んだ。

「自相に姉さんが子どもったを返せって言いに行ったとき、男の人と一緒だったんでしょ?」

「そうだったな・・・・・・」

 やはり鈴木先輩と麻季の仲が再燃したのだろうか。

「多分お姉さんの実家に行っても解決しないよ。それにお兄ちゃんが電話してもお姉さんは出ないんでしょ」

「着拒されてる」

「じゃあ無理よ。出張が終るまではこの子たちはうちで面倒みるから。父さんたちは体調もあるから厳しいだろうけど、あたしも面倒看るから」

「そうよ。唯も大学が休みなんで協力してくれるそうだし、あなたは安心して仕事に戻りなさい」

 母さんが妹の唯を見て言った。妹も頷いている。これでは全く何も解決しないし、麻季のことをまだ信じたい僕の悩みも解決しない。でも父さんと妹の言うことが正しいことはわかっていた。わずか二日でできることはない。

 翌日は麻季を探すことを諦めた僕はずっと奈緒人と奈緒と一緒に過ごした。妹が一緒に来てくれたので、公園に行ったりファミレスで食事をしたりショッピングモールで二人に玩具や服を買ったりした(妹の話では両親の服装のセンスは古いので買い足した方がいいとのことだった)。

 子どもたちは妹に懐いていたけど、それ以上に僕のそばを離れようとしなかった。麻季のことは気になるけれど唯の言うように今は子どもたちと過ごすことを優先してよかった。明日には僕は再び子どもたちを置いて出かけなければならないのだから。

 妹の勧めで早朝に実家を立って空港に向うとき、僕はあえて子どもたちを起こさなかった。あとで話を聞くと目を覚まして僕がいないことを知った奈緒人と奈緒はパニックになって泣きながら実家の家中を僕を求めて探し回ったそうだ。両親も妹もそれを宥めるのに相当苦労したらしい。

 僕は実家を出て一度自宅に車を戻してから電車で空港に向かったのだけど、散乱した部屋を眺めているとこれまで凍り付いていた感情が沸きたった。自宅を出るぎりぎりの時間まで僕は泣きながら思い出だらけの部屋を掃除した。完全に綺麗にすることは無理だったけど。時間切れで自宅を出て空港に向う前に、僕はふと思いついてリビングのテーブルに麻季あてのメモを残した。



『おまえのことは絶対に許さない。奈緒人も奈緒もおまえには渡さない』



 残りの一月、バイエルンでの取材は集中するのに大変だった。ふと気を許すと幸せだったころの麻季の笑顔や子どもたちの姿が目に浮かび、集中して聞くべき演奏がいつのまにか終っていたりすることもあった。それでも麻季の行動の理由をあれこれ考えているよりは仕事に集中した方がましだと気がついてからは、今まで以上に仕事にのめり込んだ。そのせいか編集部に送信した記事や写真は好評だったし、雑誌自体の売り上げも二割増という期待以上の成果をあげたそうだ。

 仕事が終ると僕は実家に電話して奈緒人と奈緒と話をした。僕が消えてショックを受けていた二人も次第にもう落ち着いていたようで、僕と話すことを泣くというよりは喜んでいる感じだった。

『二人とも思ったより元気にしているよ』

 電話の向こうで唯が言った。

「唯が子どもたちの面倒を見てくれるおかげだな」

『うーん。あたしもなるべく一緒に過ごすようにはしているんだけどさ。何というか二人ともお互いがいれば安心みたいな境地になっちゃってるみたい』

「奈緒人と奈緒は前からいつもべったり一緒だったからな」

『まあそうなんでしょうけど。ちょっとでも奈緒人から離すと、普段は落ち着いている奈緒がすぐに騒ぎ出すのよね。まあ兄妹が仲がいいのはいいことだけどね』

「そのせいで麻季や僕がいなくても我慢できるなら助かるけど」

 唯は少し笑った。

227 : 以下、名... - 2015/01/02 20:52:42.84 vk+Esfzmo 205/442


『いいお兄ちゃんだよ、奈緒人は。あたしもあんな兄貴が欲しかったなあ』

「・・・・・・悪かったな。それで麻季を恋しがったりはしていないのか」

『全然。お兄ちゃんのことはいつ帰るのって二人ともよく聞くけど、お姉さんのことはここに来てから一度も口にしないよ』

「そうか」

 僕は子どもたちが落ち着いていることに少し安心することができた。やがて一月が過ぎて僕は帰国した。

 帰国した僕を待っていたのは昇進の内示と実家に届いていた内容証明の封筒だった。編集部に顔を出して無理を言って四日間の有給をもらった僕は、編集長に呼ばれ社長室で辞令を受け取った。ジャズ雑誌の小規模な編集部の編集長を任されたのだ。正直昇進は嬉しかったけど、二人の子どもを抱えて今までどおり激務に耐えていけるのかどうか心もとなかった。唯ももう少ししたら大学を卒業して内定している商社に入社することになる。当然二人の子どもたちの面倒を見るわけには行かないし、かといって高齢の両親だけに育児を任せるわけにもいかないだろう。

 とりあえず実家に戻って今後のことを相談しよう。そして今度こそ麻季に直接会って彼女が何を考えているのか説明させなければならない。正直ここまでされるとメモに残したように麻季を許すことはできないと思っていたけど、それでも納得できる理由が聞けるかもしれないと期待している気持もあった。僕にはどこかでまだ麻季に未練があったのかもしれない。

「パパお帰りなさい」

 実家に戻ると奈緒人と奈緒が迎えてくれた。もう二人は泣くことはなかった。

「お兄ちゃん」

 唯も子どもたちの後ろから出迎えてくれた。

「ただいま」

 僕は大分重くなってきた二人を一度に抱き上げた。思ったより力が必要だったけど子どもたちが笑って喜び出したのでその苦労は報われた。唯も微笑みながらそんな僕たちを眺めていた。

 ついこの間までは妹ではなくてこの子たちの母親がこの場所にいたのだ。ついそんなどうしようもない感慨に僕は耽ってしまった。

 居間にいた両親にあいさつすると父さんが僕に一通の封書を渡してくれた。内容証明の封書だ。封筒に記載されている差出人は「太田弁護士事務所 弁護士 太田靖」となっている。気を遣ってくれたのか、唯が子どもたちを連れて出て行った。公園まで犬を連れて散歩に行くのだと言う。奈緒人も奈緒も僕のそばにいることに執着することなく三人と一匹は賑やかに外出していった。

 僕は父さんを見た。父さんはうなずいて鋏を渡してくれた。封を切って内容を確かめると受任通知書という用紙が入っていた。それは太田という弁護士が麻季の僕に対する離婚請求に関する交渉の一切を受任したという文書だった。そこに記された離婚請求事由に僕は目を通した。

228 : 以下、名... - 2015/01/02 20:53:11.06 vk+Esfzmo 206/442


「貴殿は結城麻季氏(以下通知人という)との間にもうけた長男の育児を通知人一人に任せ滅多に帰宅せず、あるいは帰宅したとしても深夜に帰宅し、長男の育児上の悩みを相談しようとする通知人を無視して飲酒した挙句、それでも貴殿に相談しようとする通知人に対して罵詈雑言を吐くなどして通知人を精神的に追い込みました」

「また平成○○年○月頃、貴殿は通知人の大学時代の知人であるAと不倫を始めました。通知人がAの夫からその話を聞かされ貴殿に事実を質問すると、貴殿は通知人が最初にAの夫と不倫をしたのであって、貴殿とAはその相談をしていただけだという虚偽の返事をしたばかりか、事実無根である通知人とAの夫との不倫を責め立てるなどして通知人に多大な精神的被害を生じさせました」

「さらに貴殿と不倫関係にあったAが貴殿との不貞関係が原因で夫と離婚すると、貴殿は夫と離婚したAと実質的な同棲を試みようとしたものの、それを果たす前にAは不慮の交通事故で亡くなりました。Aが亡くなったことを知った通知人が長男のことを鑑み貴殿との婚姻関係の継続に努力しているにも関わらず、貴殿はAの遺児である女児を引き取り通知人が育児するよう要求しました。通知人が貴殿との婚姻関係を継続するために止むを得ずにAの遺児を引き取り努力して育児しようと試みている間、貴殿はAは聖女のような女だった。通知人のような汚らしい女とは大違いだったという趣旨の暴言を繰り返し、通知人に対して多大な精神的被害を生じさせました。またこの間も貴殿は滅多に自宅に帰宅せず長男とAの遺児の育児を通知人に任せたままでした」

「かかる貴殿の行為は,単にAとの不貞行為により婚姻関係破綻の原因を作ったことにとどまらず、通知人の人格を完全に無視し、通知人を精神的に虐待したモラルハラスメントとして認定されるべき行動であり、婚姻関係の破綻の責任は完全に貴殿に帰すものであります」

「以上の次第で通知人は貴殿との離婚及びその条件について当職に委任しました。つきましては近日中に離婚及びその条件についてお話し合いをさせていただきたいと思いますが、まずは受任のご挨拶で本通知を差し上げた次第です。なお,本件に関しては当職が通知人から一切の依頼を受けましたので、今後のご連絡等は通知人ではなく全て当職にしていただくようお願い申し上げます」



「どういう内容だったんだ」

 父さんが険しい声で聞いた。きっと僕の顔色が変っていたことに気がついたのだろう。僕は黙って父さんに受任通知を渡した。

 父さんは弁護士からの受任通知書をゆっくりと二回読んでから母さんに渡した。母さんにはその内容がよく理解できなかったようだ。

「博人、おまえこの内容は事実なのか」父さんが僕の方を見てゆっくりと言った。「おまえはここに書いてあるようなひどい真似を本当に麻季さんにしたのか」

「そんなわけないでしょ。博人はこんなひどい真似をする子じゃないわ」

 母さんが狼狽して口を挟んだ。

「おまえは黙っていなさい。博人、どうなんだ。これが事実だとしたら父さんたちはおまえの味方にはなれないぞ」

 僕が混乱しながら重い口を開こうとしたとき、子どもたちと唯が帰宅して居間になだれ込んで来た。

「パパ」

 奈緒が可愛い声で僕を呼びながら抱っこをねだった。奈緒人も照れた様子で僕のそばにぴったりとくっ付いて来た。何があってもこの子たちだけは僕の味方をしてくれる。太田という弁護士の内容証明によって僕は打ちひしがれていた。これまでの家庭生活の記憶が麻季によって踏みにじられた気分だったのだ。多分このことは一生僕の心を傷つけるのだろう。

 でも、今この瞬間に僕にまとわりつく子どもたちを抱き寄せると、それが僕の心を正気に戻してくれた。

 父さんに渡された文書を今度は妹が険しい表情で読んでいた。どういうわけか父さんも母さんも黙ってしまい、結果として大人三人が最後の審判を待つかのように唯の表情を見守ることになってしまった。

 妹は受任通知をぽいっとテーブルに投げ捨てて吐き捨てるように言った。

「ばかばかしい。お兄ちゃんがこんなことするわけないじゃん。他人ならいざ知らずお兄ちゃんの家族であるあたしたちががこんな文書を信じるわけないじゃん。こんな内容をあたしたちが信じると思っているなら麻季さんも相当頭悪いよね。まあ既婚者なのにお兄ちゃん以外の男の人に平気で抱かれるくらいの脳みそしかないんだから、この程度のでっちあげしかできないんでしょうね」

 唯はそれまでお姉さんと呼んでいた麻季を麻季さんと呼んだ。

229 : 以下、名... - 2015/01/02 20:53:42.38 vk+Esfzmo 207/442


「唯の言うとおりよ。お母さんは博人を信じているからね」

 唯と母さんの言葉に父さんは居心地悪そうにしていた。

「疑って悪かった。母さんと唯の言うとおり博人がこんなひどいことをするわけがないよな」

「父さん遅いよ。自分の子どもを信じてないの?」

 どういうわけか唯が半泣きで言った。

「悪かった。ちょっとこの文書に動揺してしまってな。虚偽のわりにはよくできているからな」

「ばかばかしい。あなたは昔から理屈ばっかりで仕事をしてきたからこういうときに迷うんですよ。あたしも唯も一瞬だって博人を疑ったりしないのに」

「それに奈緒人と奈緒の様子を見てみなよ。こんなひどいことをする父親にこの子たちがこんなに懐くと思うの?」

 麻季が止めをさした。

「悪かったよ。謝る。だが何が起きたかは話してほしい。博人、事実を話してくれ」

 それまで大人の事情を気にせずにまとわりついている子どもたちを構いながら、唯と母さんの援護に僕は泣きそうになった。

 僕は全てを両親と妹に話した。

 麻季の浮気。そして奈緒人への愛情からそれを許して彼女とやり直そうとしたこと。玲菜に呼び出され麻季と先輩がメールのやり取りを続けているのを知ったこと。そして、玲菜に最後に会ったときと離婚後の怜菜のメールで彼女が僕を好きだったということを知ったこと。僕もそんな怜菜に惹かれていたこと。

 怜菜の離婚後、僕が再び麻季とやり直そうとしたこと。そして最後に怜菜の死後、麻季が怜菜が先輩の妻で自分のことを恨まず黙って離婚したことを、怜菜の急死後のお通夜で知ったこと。麻季は先輩が怜菜の遺児を引き取らないということを知って、その子を引き取ろうとしたこと(この辺の話は奈緒を引き取る際に両親には説明してあったけど、麻季が奈緒の父親と浮気をしていたことや僕が怜菜に惹かれていたことは初めて話した)。

 話し終わったとき両親と妹はしばらく何も言わなかった。彼らの気持ちはよくわかった。僕だって他人からこれほど純粋な悪意をぶつけられたのは初めてだったから。それに麻季はつい少し前までは他人ではなかった。僕が海外出張を告げたとき、抱きついて甘えてきた麻季の姿は今でも鮮明に思い浮ぶ。あれはわずか三月ほど前の出来事なのだ。

「・・・・・・お兄ちゃんさ」

 唯が泣き腫らした顔で僕を見て言った。でもその口調は鋭かった。

「今は混乱していると思うけど、することはしておかないとね」

「どういうこと?」

「麻季さんが弁護士を立ててきた以上、こちらもしなきゃいけないことはたくさんあるでしょ」

 僕は唯の言っていることがよくわからなかった。それに思考の半分は僕に抱きつきながらも、二人きりで遊びだした子どもたちに奪われていた。

「まず生活費とか貯蓄の口座を調べて。そして麻季さんが自由にできない状態にしないと」

 随分生々しい話になってきた。唯は音大で何となく四年間を過ごした僕と違って、国立大学の法学部を卒業したばかりだ。本人の志向もあって法曹の道には進まなかったけど、内定している商社では法務部配属が決まっているそうだ。

「あとは親権だね。お兄ちゃんは麻季さんと離婚しても、奈緒人と奈緒を麻季さんに任せる気はないんでしょ」

「あるわけないだろ。一週間近く子どもたちを自宅で放置したんだぞ、あいつは」

「だったら養育実績を作って親権争いを有利にしないと。お兄ちゃん、放っておくとこのまま離婚されて奈緒人と奈緒も麻季さんに盗られちゃうよ。こんなところで腑抜けていないでしっかりしなよ。こっちも麻季さんに対抗する準備をしないと。それともお兄ちゃん、まだ麻季さんに未練がある? 麻季さんと別れたくないの?」

230 : 以下、名... - 2015/01/02 20:54:14.33 vk+Esfzmo 208/442


「いや、離婚はもう仕方ないだろ。こんだけの文書を送りつけてくる麻季とはもう一緒に暮らせないよ」

 僕は弱々しく言った。でもそれは本音だった。マンションの部屋に残したメモは麻季も見たに違いない。僕は麻季が僕のアパートに押しかけてきたこと、先輩に殴られた麻季がきょとんとして僕を見つめ、結城先輩、あたしのこと好きでしょと言ったときの彼女の表情を思い出した。すごく切なくて涙が出そうだったけど、もうあの頃には戻れないのだろう。

「麻季さんと離婚して子どもたちの親権を取りたいならそろそろお兄ちゃんも立ち上がってファイティングポーズ取らないと。麻季さんの豹変に悩んでいるのはわかるけど、もうあっちは完全に準備して宣戦布告してきているんだよ」

 妹の方が頭に血が上ってしまったらしい。唯に責められながらも僕はどうにも冷静に計算する気にはなれなかった。そんな僕を尻目に唯はヒートアップして行った。そんな妹に両親もやや辟易している様子だった。

「お兄ちゃんの話を聞いていると、確かにお兄ちゃんと怜菜さんは心の中では麻季さんを裏切ったのかもしれないけど、実際に怜菜さんの旦那と体の関係になった麻季さんと比べれば非は全然少ないよ。ちゃんと戦えば二人から慰謝料は取れるよ」

「慰謝料とかどうでもいいよ」

「・・・・・・じゃあお兄ちゃんは養育権もどうでもいいの?」

「そんな訳ないだろ」

「唯の言うとおりだ」
 それまで黙っていた父さんが口を挟んだ。「俺が役所を退職後に社会福祉法人の理事長をしていたとき、評議員をしてくれていた弁護士がいる。随分懇意にしてもらった人だ。彼に相談しよう」

「いや・・・・・・とりあえず麻季と一回も会って話していないんだ。とりあえず一度彼女と」

「やめたほうがいいよ。麻季さんの方が今後は一切は弁護士を通せって言ってるんだよ。もうお兄ちゃんが好きだった麻季さんはいないんだよ。お兄ちゃんもつらいだろうけど、奈緒人と奈緒を守りたいならお兄ちゃんもいい加減に目を覚まさないと」

 唯がもどかしそうな、というか泣きそうな表情で僕に言った。

「唯・・・・・・」

 自分では割り切ったつもりだったけどで直接会って話せば、麻季との仲が元に戻ることはないかもしれないけど、少なくともどうして彼女がこんなひどい仕打ちをしたかくらいはわかるだろうとどこかで期待していたのだろう。でも子どもたちのこの先を考えることが優先なのだ。

 唯の言うとおりだった。

 今では麻季は敵なのだ。奈緒人と奈緒のことを考えれば、たとえどのような理由があったにせよ一週間も自宅に子どもたちを放置するような母親に任せるわけにはいかない。

 僕は唯や父さんの勧めに従った。つまり麻季を敵に回して戦うことを決意したのだ。

231 : 以下、名... - 2015/01/02 20:55:05.07 vk+Esfzmo 209/442


 僕は父さんの知り合いの弁護士に正式に妻側との依頼を依頼した。初老の人の良さそうな人だった。彼は受任通知を見て僕を疑わしそうに見た。きっと不倫したクズのようなDV男から妻からの慰謝料要求の減額交渉でも依頼されたのだとと思ったのだろう。

 最初から事情を話すと弁護士はようやく理解してくれたけど、彼が言うには証拠がないので客観的に立証し反論することは難しいそうだ。

「私は結城さんの代理人を引き受ける以上、あなたが真実を話してくれている前提で交渉はしますけど、多分それは先方の太田先生も同じでしょうね」

 先方との予備的な交渉の中で離婚するということ自体はお互いに与件になっていたので、そこで揉めることはなかった。また、お互いに慰謝料の要求も無かった。ただ、問題は二つあった。一つは離婚理由でもう一つは養育権だった。弁護士によれば実は互いに離婚で一致していて慰謝料の請求もない以上、離婚の理由はさして重要ではないそうだ。そんなところは争わずに養育権の交渉に全力を注ぎましょうと僕は弁護士に言われた。そう言われればそんな気もしてきた。どちらが有責かが重要なのは、離婚するしないや慰謝料の多寡に影響するからであって、そこが争点になっていない以上はもう気にしない方がいいのかもしれない。

 先方の受任通知書の内容は巧妙に事実の一部を捉えてはいたけど、悪意によってその意味を捻じ曲げたものだった。その内容はでたらめだった。でも僕がショックを受けたのはその内容にではない。僕が傷付くのを承知しながら、それを自分の弁護士に語った麻季の心の闇に僕は絶望したのだった。そして多分麻季がそういう行動に出た理由は弁護士間の交渉で明らかになるようなことではないだろう。だから僕は自分の弁護士の言うとおり問題を親権に集中しようと思った。

 それは合理的な判断だった思うけど、どういうわけかそのとき同席していた唯が納得しなかった。

「条件とかそういう問題じゃないでしょ。反論しなかったらこんなデタラメを認めたことになっちゃうじゃない」

「婚姻関係の破綻の原因がこちらにはないことを主張してもいいですけど、お互いに証拠がない以上水掛け論になって終わりですよ」

「それでも主張するだけは主張した方がいいと思います。あの内容をこちらが認めたわけではないですし、協議が決裂して調停や裁判に移行したら有責側かどうかは親権にも影響するでしょ」

「まあ確かにその可能性は否定できませんね」

 結局唯の主張するとおりに交渉することに決まった。



 最初に太田弁護士との直接交渉の際、僕は依頼した弁護士に頼んで同席させてもらった。もしかしたら麻季と会えるかもしれないと思ったのだ。でも先方は弁護士一人だけだった。やはり麻季はもう僕と顔を会わす気はまるでないようだった。代理人の弁護士の予想どおり、僕と麻季の離婚に関してどちらに責任があるかという話し合いは、徹頭徹尾無益なものだった。お互いに証拠もなくただ主張しあうだけなのだ。これが当事者本人同士の話し合いなら泥沼だったろうけど、代理人同士の話し合いだったのでお互いに証拠を要求しそれがないとわかると、交渉はすぐにより良く子どもを養育できるのはどちらかという話し合いに移っていった。

 麻季に有利な点は、これまで奈緒人と奈緒を順調に育てた実績があることだった。不利な点は二つ。麻季が一週間弱子どもたちを自宅に放置したこと。受任通知書でデタラメを並べ立てた麻季も、僕が依頼した弁護士が情報公開請求によって入手した児童相談所の通報記録に残されている事実には反論できなかったのだ。太田弁護士は僕の虐待に耐えかねた麻季が一時的に錯乱した結果だと主張したけど、その頃僕はオーストリアにいたので、その主張には重大な瑕疵があった。

 もう一つは麻季の実家が遠方にあり、麻季の両親は育児をアシストできないということだった。離婚する以上、養育費だけでは生活していけないだろう。麻季の養育実績は彼女が専業主婦であることを前提にしていたから、彼女が離婚した場合の生活設計はいろいろと不明でもあった。

 一方僕にとって根本的に不利だったのは、まだ幼稚園児である子どもたちを育てる環境が備わっていないことだった。太田弁護士はよくこちらの事情を調べていた。まず僕の仕事は時間が不規則だし帰宅も深夜に及ぶことが多い。子どもたちを幼稚園から保育園に移したとしても僕一人で子どもたちを育てることは不可能だ。僕は親権を争うと決めたときに両親に育児協力をお願いして快諾を得ていたけど、その両親自身がそろそろ介護が必要な状況になりつつあることを太田弁護士には知られていた。

 今、奈緒人と奈緒を育てていけるのは主に唯のおかげだったけど、唯の就職が目前に控えている以上、それを交渉材料にするわけにはいかなかった。もう最悪は僕が仕事を変えるしかないかもしれない。ジャズ・ミューズという老舗ジャズ雑誌の編集長を任されたばかりの僕だったけど、もうこうなったら奈緒人と奈緒を手離さいためには本気で転職しかないとまで思うになっていた。

232 : 以下、名... - 2015/01/02 20:55:36.15 vk+Esfzmo 210/442


「・・・・・・あたし、就職するのやめて奈緒人と奈緒を育てようか」

 ある日、唯が思い詰めたような顔で僕に言ったことがあった。考えるまでもなくもちろんそんな犠牲を唯に強いるわけには行かなかった。

 そういうわけで僕と麻季の離婚に関する協議はお互いに折れ合わずに膠着していた。結局僕と麻季の協議離婚は親権で対立したまま成立せず裁判所による調停に移行した。



 その夜、僕は某音楽雑誌の出版社主宰のパーティーに出席していた。クラッシク音楽之友にいた頃と違って、最近はこの手の商業音楽関係のイベントへの招待が増えていた。マイナーな雑誌ながらも編集長を任されていた僕は、実務から開放された分この手の付き合いが増えていた。業務が終了したら何よりも実家に戻って子どもたちの顔を見たかったけど、これも仕事のうちだった。

 予想どおり都内の有名なホテルで開催されたそのパーティーには知り合いは皆無だった。老舗のロック雑誌の編集者やほとんどアイドルミュージック専門のような雑誌の若い編集者たちがそこかしこで友だちトークを展開している。ところどころで人だかりができているのは、著名な評論家やミュージシャン本人を取り巻いている人たちのようだ。クラッシク音楽専門の雑誌社が余技に出しているマイナーなジャズ雑誌の編集なんて全くお呼びではない雰囲気だ。受付してから1時間以上経つけど僕はこれまで誰とも会話は愚か、あいさつすらしていない。これなら途中で帰っても全然大丈夫そうだ。こういう場で誰にも相手にされないのはへこむけど、麻季にひどい言いがかりを付けられていた僕は大抵の人間関係には耐性ができていた。

 それでもこの場の喧騒は気に障った。そろそろ黙って帰ろうかと思った僕は静かにその場を去ろうとした。途中で金髪の若い男性(多分最近よくテレビで見るビジュアル系のバンドのボーカルだと思う)を囲んでいた人たちの脇を通り過ぎようとしたとき、突然僕は誰かに声を掛けられた。

「博人君」

 自分の名前を呼ばれた僕が振り返ると理恵が僕のほうを見て微笑んでいた。

「・・・・・・理恵ちゃん」

「わぁー、すごい偶然だね。博人君ってこういうところにも顔出してたんだね」

「久し振り」

 何か大学時代の偶然の再会を思い起こさせるような出会いだった。理恵は人込みから抜け出して僕の横に来た。

「少し話そうよ・・・・・・・それとももう帰っちゃうの」

「少しなら時間あるけど」

 僕は理恵に手を引かれるようにして壁際に並べられた椅子に座らされた。

「はい」

 僕は理恵から白のワインのグラスを受け取った。

「博人君、白ワイン好きだったよね」

「うん・・・・・・ありがとう」

 これだけの歳月を経ても理恵が僕の好みを覚えていてくれていることに僕は少しだけ心が和んだ。もっとも理恵の細い左手の薬指を確認はしたので、それ以上の期待はなかったのだけど。

「本当に久し振りだね。何年ぶりかな」
 僕の隣に座った理恵が少し興奮気味に言った。「少し痩せた?」

「さあ? どうだろ」

「それにしてもここで博人君と会うとは思わなかったよ」

 僕は名刺入れから最近作り直したばかりの名刺を取り出して理恵に渡した。

「今はここにいるんだ。それで声がかかったみたいだけど、どうも場違いみたいだ」

「なんだそうだったの」
 理恵が笑った。「でもそれで博人君に会えたんだね」

 理恵は自分の名刺を僕にくれた。それは若者向けのポップ音楽の雑誌の編集部のものだった。

233 : 以下、名... - 2015/01/02 20:56:07.13 vk+Esfzmo 211/442


「・・・・・・なるほど」

「なるほどって何よ」

 彼女が笑った。

「しかし君も同じ業界にいるとは思わなかったよ」

「本当に偶然だね。もっともあたしは博人君みたいな高尚な音楽雑誌にいるわけじゃないけど」

「玲子ちゃん・・・・・・だっけ。妹さんも元気?」

「うん、元気よ。あいつには子育てを任せちゃってるし、借りばっか作ってるよ。玲子も文句言ってる」

 子育てを任せるって何だろう。麻季との親権争いが調停に移ったばかりだった僕はその言葉に反応してしまった。理恵も指輪をしている以上結婚しているのだろうけど、彼女にも子どもができたのだろうか。それにしてもこの世界は育児と両立できるような世界ではない。

「育児って・・・・・・お子さんいるの?」

「うん。女の子だよ」

「そうか」

「博人君、麻季ちゃんは元気? 後輩の女の子に結婚式の写真見せてもらったよ。麻季ちゃんのウエディングドレス綺麗だったね」

「あのさ・・・・・・」

「お子さんもできたって聞いたけど」

「うん。子どもは元気だよ」

「うん? 麻季ちゃんは?」

「元気だと思うけど最近会ってないから」

「・・・・・・どういうこと?」

 理恵はいぶかしげな表情を浮べた。

「実はさ。麻季とは離婚調停中なんだ」

 理恵は驚いたようだった。

「・・・・・・何で」

 彼女はそれまで浮べてた微笑みを消した。彼女は呆然としたように僕を見た。

「何で」という理恵の言葉に答えようとしたとき、理恵は誰から声をかけられた。仕事の話らしかった。

「すぐ行くよ」

 ちょっとだけいらいらしたように理恵が話しかけてきた若い男性に答えた。

「じゃあ、僕は帰るよ。子どもたちが寝る前に帰りたいし」

「・・・・・・まさか、麻季ちゃんがいない家にお子さん一人で家にいるの?」

「いや。子どもは二人だよ。実家に預けてるし妹が面倒看てくれているから」

「お子さん一人だって聞いてたんだけど」

 誰から聞いたのか知らないし無理もないけど、理恵の情報は僕と麻季がまだ普通に夫婦をしていた頃の頃のものらしい。

「今度機会が会ったら話すけど、子どもは二人いるんだ」

「博人君、いったい麻季ちゃんと何があったの?」

「いろいろとあったんだよ。ほら、編集部の人が呼んでるよ。また機会があったら会おう」

234 : 以下、名... - 2015/01/02 20:56:38.48 vk+Esfzmo 212/442


「ちょっと待って。博人君、明日時間作って」

 どういうわけか必死な表情で理恵が言った。人の不幸に野次馬的な興味があるのか。自分は薬指に結婚指輪をして幸せな家庭があるくせに。最近すさんでいた僕は理不尽にも少しむっとした。なのでちょっと勿体ぶってスケジュールを確認する振りをした。

「明日? 空いてるかなあ」

 わざとらしくスケジュール帳を探そうとしている僕を尻目に理恵はもう立ち上がっていた。

「名刺の番号に電話するから」

 何とか乱雑なカバンからようやく手帳を取り出した僕には構わずに理恵はもう呼びかけた人の方に足早に歩いて行ってしまった。



 実家に帰宅した僕は既に子どもたちが寝入ってしまったことを唯に聞かされた。

「必死で帰ってきたのにな」

 僕は落胆した。この頃の僕の生きがいは仕事以上に子どもたちだったのだ。

「明日も遅いの?」

 簡単な夜食を運んで来てくれた唯が聞いた。明日は理恵から連絡があるかもしれない。それが就業時間後なら唯に断っておく方がいい。僕は思い立って今日理恵に会ったことを唯に話した。

「そういやさ。唯は知らないだろうけど、昔引っ越す前に神山さんっていう家があってさ」

「ああ。玲子ちゃんと理恵さんのとこでしょ」

 あっさりと妹は言った。

「・・・・・・おまえ、あの頃まだ生まれてなかっただろ。何で知っているの?」

「だって母親同士が仲良くて定期的に会ってたし、あたしもよくお母さんに連れて行かれたよ。あ、最近はあんまり会ってないけどさ。玲子ちゃんとは年も近いし仲いいよ。あと理恵さんもよくその集まりに顔を出してたけど、いつもお兄ちゃんが今どうしているのか聞いてたよ」

「え?」

「何だ。今日は理恵さんと会ってたんだ」

「いや、偶然なんだけど」

 僕は今日あったことを唯に話した。

「理恵さんの旦那さんが何年か前に事故死したこと聞いた?」

「事故って、いや事故死?」

「うん」

 では理恵は未亡人なのだ。育児を玲子さんに任せているというのはそういう意味だったのか。

「いや。今日ほんの少しだけ世間話しただけなんで何も聞いてない」

「理恵さんのご主人って信号待ちで停車しているところを後ろから暴走してきた車に追突されたんだって」

「・・・・・・そうなんだ」

「うん。理恵さんの旦那さんは即死だったって」

 僕は言葉を失った。さっき明るく再会を喜んでくれた理恵もいろいろ辛い目にあっているようだった。

「でも何か運命的な出会いだよね。理恵さんとメアドとか交換した? 幼馴染同士の久し振りの再会だったんでしょ」
 唯が暗い話はもう終わりだとでも言うように微笑んで続けた。「お兄ちゃんも幼馴染と再会してちょっとはドキドキしたでしょ?」

235 : 以下、名... - 2015/01/02 20:57:07.11 vk+Esfzmo 213/442


 最近の唯にはたまにこういう言動があった。麻季のことを忘れさせようとしているのかもしれないけど、やたら僕に女性と親しくさせようとする。奈緒人と奈緒はあたしが面倒看ているからお兄ちゃんは会社の女の子を誘ってデートしろとか。それは一度一緒にコンサートに行ってくださいと言ってくれた編集部の若い女の子のことを話したときだった。彼女は単なる仕事上の部下であってそんな対象じゃないし、そもそも一緒に過ごす相手なんかいなかったのだけど。

 そんな唯だったから僕と理恵の再会にはすごく食いついてきた。

「麻季と僕のことが気になるのかなあ。離婚調停中だって言ったら明日会おうと言われたけど」

 それを聞いて唯は目を輝かせた。

「それ、理恵さん絶対お兄ちゃんに興味があるんだよ。明日は遅くなってもいいからうまくやんなよ」

「いや。それおまえの思い過ごしだから。それに都内からここまで帰るのにどんだけ時間かかると思っているんだ。終電だって早いのに」

 職場と実家とが距離的に離れていたことも、離婚協議中には不利な点としてカウントされていたことだった。

「終電逃したらどっか泊まればいいじゃん。お兄ちゃんのマンションだってまだあるんだし」

「あそこには泊まりたくない。というかそんなことするよりは奈緒人と奈緒と一緒にいたいよ」

「まあそうだろうね」
 少し反省したように唯が言った。「お兄ちゃんは奈緒人と奈緒が大好きだもんね」

「うん」

「・・・・・・お兄ちゃん、本当に麻季さんには未練ないの?」

「多分、ないと思うよ」

「じゃあ、ほんの少しだけでも子どもたちのことは忘れて女性とお付き合いしてみなよ」

「離婚調停中なんだぞ。そんな気にはなれないよ」

「大丈夫だって。お互いに離婚を申し出た後なら、婚姻関係破綻後だから誰とお付き合いしたって不貞行為で有責にはならないから」

 法学部にいる唯が小ざかしいことを言い出した。

「そんなこと言ってんじゃないよ。モラルの問題だ」

「それにさ。お兄ちゃんにもし次の伴侶が見つかったら、養育の面で調停で有利かもよ」

「そんなことを考えてまで女性と付き合いたくはないよ。第一そんなの相手に失礼だ」

「・・・・・・じゃあどうするのよ。別にあたしが内定辞退して奈緒人と奈緒のお母さん代わりをしてあげてもいいけど」

「それはだめ。父さんに殺される。それに唯には唯の人生があるんだし」

「あたしは別にそれでもいいんだけどな」

「おい・・・・・・ふざけんなよ」

「別にふざけてないよ。でもそうしたら収入がないからお兄ちゃんに養ってもらうしかなくなるけどね」

「だめ」

「冗談だよ」

 妹が笑って言った。

「まあ、とにかくさ。理恵さんがお兄ちゃんに会いたいっていうなら明日くらいは付き合ってあげなよ」

「今は子どもたちと少しでも一緒にいたいんだけどな」

 唯はそれを聞いて再び微笑んだ。

236 : 以下、名... - 2015/01/02 20:57:38.47 vk+Esfzmo 214/442


「奈緒人と奈緒とはこの先ずっと一緒にいられるじゃん。今くらいはあたしに任せなよ。二人ともあたしにすごく懐いているしお兄ちゃんなんて邪魔なだけだって」

「・・・・・・親権がどうなるかわからないんだし、ずっと子どもたちと一緒にいられる保障なんてないだろ」

「絶対に麻季さんなんかに負けないって。それに親権が心配ならなおさら奥さん候補を探す努力をしないと。お兄ちゃんがそうしてくれないとそれこそあたしがいつまでも子どもたちの面倒を看るようになっちゃうじゃん」

「唯には悪いなって思っているよ。でも調停の結果とかに関係なくおまえは就職したら僕たちのことは考えなくていいよ」

「だってこのままじゃお兄ちゃんが育児なんて無理じゃない」

「いざとなれば転職するよ」

「・・・・・・お兄ちゃん?」

 唯が少しだけ首を傾げて真剣な表情をした。僕は妹のそういう様子に少しだけどきっとした。

「何だよ・・・・・・」

「お兄ちゃんがそれでいいなら、あたし彼氏と別れてお兄ちゃんの奥さんになってあげようか? その方が奈緒人と奈緒も喜ぶと思うし、お兄ちゃんも好きな仕事を続けられるし」

 何言ってるんだこいつ。僕は狼狽して唯を見た。

 次の瞬間、唯は手で口を押さえて笑い出した。子どもたちや両親を起こさないようにしたのだろう。

「何マジになってるのよ、シスコン。あたしが本当にお兄ちゃんのお嫁さんになるかもって期待しちゃった?」

「そんなわけないだろ。冗談でも彼氏と別れるとか言うなよ」

「・・・・・・そこで赤くなるなバカ」

「おまえの顔も真っ赤なんだけど」

「バカ・・・・・・冗談に決まってるでしょ。とにかく明日は遅くなってもいいからね。麻季さんなんか早く忘れて理恵さんと楽しんできなよ。嫌いじゃないんでしょ? 理恵さんのこと」

 どうなんだろう。子どもたちを麻季に奪われるかもしれないという不安が日ごとに大きくなっている今、女性と付き合い出すとかは全く考えられなかった。

 唯の悪質な冗談に翻弄されたからというわけでもないけど、次の日の就業後に僕は理恵が指定した居酒屋で彼女を待っていた。全く色気のない店だったので唯の期待には応えられそうもなかったけど、理恵が騒がしい居酒屋を選んだことに僕は密かにほっとしていた。

「博人君、ごめん。待った?」

 混み合った居酒屋の店内で理恵が僕に声をかけた。

「・・・・・・いや」

「何飲んでるの?」

 理恵が僕の向かいに座りながら聞いた。

「先にビールを飲んでる」

「じゃあ、あたしも最初はビールにしよ」

 乾杯をしてから少し沈黙が流れた。理恵はきっと麻季と僕との間に何が起こったのかを知りたくて今日僕を呼び出したのだろう。でも呼び出された僕の方はまるでお見合いに来ているような気分だった。僕がそんな気になっていたのは全部昨日の唯の発言のせいだ。唯は僕が麻季のことを忘れてお嫁さん候補を探すように言ったのだ。

「あのさ」「あの」

 僕と理恵は同時に言った。お互いに苦笑して再び沈黙が訪れたけど、僕は構わずに続けた。

237 : 以下、名... - 2015/01/02 20:58:09.18 vk+Esfzmo 215/442


「ご主人、亡くなったんだってね。妹に聞いたよ」

「唯ちゃんに聞いたんだ・・・・・・説明する手間が省けちゃったな」

 理恵が笑った

「お互いにいろいろあったようだね」

「うん。そうだね」

 何となく同志的な友情を感じた僕が理恵を見ると彼女も僕の方を見ていた。

 どちらからともなく僕たちは笑い出した。大学時代の再会時を通り越して家が隣同士でいつも一緒に遊んでいた頃に戻ってしまったような気がした。

 それから三時間くらいお互いの話をした。理恵は旦那の死後、実家に戻って実家の両親と妹の玲子さんに育児を頼りながら仕事を続けているそうだ。

 まるで僕と同じ状況じゃないか。僕が思わずそう呟くと理恵は僕と麻季に何があったのか知りたがった。人様に話すようなことではないけど、どういうわけか僕は理恵には全て話してしまったようだ。家族と弁護士以外にここまで話したのは初めてだった。話し終えたとき理恵から同情されるんだろうと僕は考えた。そしてそんな同情はいらないなとも。でも理恵が口にしたのは同情ではなく疑問だった。

「麻季ちゃんらしくないね」

「え」

「麻季ちゃんらしくない」

 理恵は繰り返した。

「どういうこと?」

 僕は少し戸惑いながら理恵に聞いた。別に彼女は麻季と親しかったわけではないはずだ。

「わかるよ。麻季ちゃんのせいであたしは博人君に失恋したんだもん」

「何言ってるの」

「大学で博人君に再会したときさ、あたし本当にどきどきしちゃったの。生まれてから初めてだったな。そんなこと感じたの」

 大学時代、僕も理恵と結ばれるだろうと予感していたことを今さらながら思い出した。麻季が僕の人生に入り込んで来るまでは僕は何となく理恵と付き合うんだろうなって考えていたのだった。

「まあ、結局博人君は麻季ちゃんと付き合い出したからあたしは失恋しちゃったんだけどさ」

「ああ」

「ああ、じゃないでしょ。あっさり言うな。でもさ、学内の噂になってたもんね、博人君と麻季ちゃんって。とにかく麻季ちゃんって目立ってたからなあ」

「そうかもね」

「まあ、麻季ちゃんが何であんな冴えない先輩とっていう噂も聞いたことあるけどね」

「・・・・・・結局それが正しかったのかもな」

 僕は呟いた。

「最初から間違ってたかもしれないな。僕と麻季はもともと不釣合いだったのかも」

「そう言うことを言ってるんじゃない」

 少し憤った顔で理恵が言った。

 そのとき、混み合った居酒屋の入り口から入ってきた二人連れの客の姿が見えた。

 何かを言おうとした理恵がぼくの視線を追った。「あれ、麻季ちゃんじゃん」

 それは恐ろしいくらいの偶然だった。僕は前回の一時帰国以来始めて麻季を見のだ。

238 : 以下、名... - 2015/01/02 20:58:38.31 vk+Esfzmo 216/442


 麻季は男と一緒に店内に入り、店員に案内されて僕たちから少し離れたカウンター席に座った。久し振りに見る麻季は外見は以前と少しも変わっていなかった。ただ、家庭に入っていた頃より幾分若やいで見えた。それに全体に少し痩せたかもしれない。

 カウンターで麻季の隣に座った男最初そうじゃないかと思ったのと違い鈴木先輩ではなかった。そのとき、麻季と僕の視線が合った。

 麻季は一瞬本当に驚いたように目を見はって僕を眺めた。麻季は凍りついたように動きを止めたけど、その視線はやがて理恵の方に移動した。

「・・・・・・博人君」
 理恵が向かいから僕の肩に手を置いた。「大丈夫?」

 その様子は理恵に気がついたらしい麻季にも見られたはずだった。麻季は視線を自分の横にいる男に移した。そして彼女はその男の肩に自分の顔を乗せて寄り添った。それは幸せだった頃、よく彼女が僕に対してよくした仕草そのものだった。男が麻季の肩を抱き寄せるようにして何か囁いている。

 麻季が僕への愛情を失ったことはこれまで何回も悩んで納得していたはずだけど、実際に彼女が僕以外の男とスキンシップを取るのを見たのは初めてだった。こんなことで動揺することはない。そもそも麻季は以前鈴木先輩に抱かれているのだから。そう思ったけど実際に再会した麻季に無視され、しかも彼女が僕以外の男にしなだれかかっている様子を見ると、僕はそんなに冷静ではいられなかった。

 ふと気がつくと理恵が向かいの席から僕の隣に席を移していた。

「麻季ちゃんめ。やってくれるよね」

「何が?」

「・・・・・・でもさ。こういう方が麻季ちゃんらしい」

 何が麻季らしいのか。混乱した僕が理恵に聞こうとした瞬間、理恵が僕の首に両手を回した。

「理恵?」

「仕返ししちゃおう」

 そのまま長い間僕は理恵に口に唇を押し付けられていた。

 理恵がキスをやめても彼女の両腕は僕に巻きついたままだった。僕は麻季に目をやった。そのときの麻季のことはその後もずっと忘れられなかった。彼女は隣にいる男に体を預けながら僕と理恵を見つめていたのだ。

 麻季の目から涙が流れ落ちた。いったい何でだ。そのことに何の意味があるのだろう。

「出ようよ」

 理恵が立ち上がって僕の手を握って僕を立たせた。

「うん・・・・・・」

 会計を済ませて混み合った居酒屋を出るとき僕は最後に麻季を眺めた。もう麻季は僕たちの方を気にせず、男と何か賑やかに話し始めていた。

 先に店の外に出ていた理恵を追って外に出ると、彼女は携帯で電話していた。理恵の声が途切れ途切れに聞こえてきた。

「うん・・・・・・悪いけど明日香のことお願い。多分今日は帰れないと思うから」

 理恵が携帯をしまった。

「今日は遅くなっても平気だから」

「何言ってるの?」

「麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ」

 理恵が真剣な表情で戸惑っている僕に言った。

239 : 以下、名... - 2015/01/02 20:59:58.74 vk+Esfzmo 217/442


「あたしさ、大学時代に一度麻季ちゃんに負けたじゃん?」

 居酒屋から移動した先はホテルの高層階の静かなバーだった。理恵の行きつけの店のようだけど彼女が言っていたように夜景は素晴らしい。窓際に並ぶように置かれたカウチに僕は理恵と並んで座った。

「・・・・・・別に勝ちとか負けとかじゃないでしょ」

「負けだよ。大学時代、もうちょっとってとこで博人君を麻季ちゃんに持ってかれちゃったしね。あのとき、あたし結構悔しかったんだよ。しかもそのまま博人君たち同棲し出して結婚までしちゃうしさ」

「あのさ」

「何?」

「大学で再会したときさ、理恵って僕のこと好きだったの」

 普段の僕ならこんなことをストレートに女性に聞くなんて考えられない。でも、さっきの理恵のキスの後ならこういうことを口に出すことも何となくハードルが低かった。

「そうだよ」

 理恵が物憂げに髪をかき上げながらあっさりと言った。

「でもさ・・・・・・僕と麻季が付き合い出したとき、君はその・・・・・・すぐに僕に近づかなくなったしさ」

「あたし、博人君に捨てないでって泣いて縋りつかなければいけなかったの?」

「そう言うことじゃなくて」

「それにあたし、あのときは博人君に告白だってされなかったし。不戦敗っていうところだったのかな」

「いや、あのときはさ」

「まあ、あたしもプライドだけは高かったからね。何があったか知らないけど博人君と麻季ちゃんっていつのまにかキャンパスで一緒に過ごすようになっちゃうしさ」

「まあそうだけど」

「でしょ? あのとき君に泣きついてたらみっともない女の典型じゃない。あたしにだって見栄はあるのよ。まして博人君と幼馴染っていうアドバンテージがありながら負けちゃったんだしさ」

 あの頃の僕はいろいろな意味で麻季にかかりきりだった。何を考えているのか今いちわからない彼女に不用意に惹かれてしまった僕は、自分の彼女に対する気持を整理するだけでも精一杯だったのだ。麻季に対する気持は彼女と同棲する頃にはほぼ落ち着いていたのだけど、そこに至るまでの僕には正直に言って理恵の気持なんて考える余裕はなかった。

 それにしてもこの店に移ってからの理恵は昔話、しかも麻季絡みの話ばっかりだ。



『麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ』



 さっきの話はいったいどうなったんだ。別に期待して付いて来たわけじゃないし、理恵との昔話が嫌なわけじゃないけど、これでは麻季を忘れるどころかますます思い出してしまう。そして今一番考えたくないのがついさっき見かけた麻季の涙だった。親権を争っている子どもたちに対してはともかく、麻季はもう僕に対しては何の想いも残していないはずなのに。

「いろいろ悪かったよ」

「・・・・・・・謝らないでよ。博人君に謝られたらあたし、まるで情けない片想い女みたいじゃない」

「そういう意味じゃないよ」

「冗談だよ。あたしもすぐに彼氏できたし」

「彼氏って、亡くなった旦那さん?」

「そうだよ。博人君の結婚より何年かあとに彼と結婚したの。あたしの一人娘の父親」

240 : 以下、名... - 2015/01/02 21:00:56.01 vk+Esfzmo 218/442


 これまで強気な発言を繰り返していた理恵が泣きそうな表情を見せた。理恵のご主人は突然の死をとげたそうだ。浮気され不倫された挙句、麻季に捨てられた僕とはまた違った悲しみが理恵にもあるのだろう。

 僕は怜菜の死を知ったときの感情を思い起こした。あのときはその衝撃と悲しみによって、一時期は麻季に裏切られたことなどどうでもいいと思えるほど自暴自棄になったのだ。なので愛し合っていた人を突然理不尽に喪失した痛みは理解できた。

「理恵が結婚してたって、こないだまで知らなかったよ」

「・・・・・・どうせ、あたしのことなんか思い出しもしなかったんでしょ」

「そうじゃないけど」

「唯ちゃんから聞くまではあたしのことなんか忘れていたくせに」

「だから違うって。昨日、君が指輪してるのを見てさ。それで」

「それで? 指輪を見たからどうだっていうのよ?」

 理恵は少し酔っている様子だった。

「どうって・・・・・・。唯に話を聞く前だったから君もご主人がいるんだろうなって」

「昨日の夜、唯ちゃんからあたしの旦那が亡くなったことを聞いたの?」

「うん」

「そう・・・・・・唯ちゃんって絶対ブラコンだよね。いつも君のことばっかり話しているものね」

 酔っているせいか理恵の話がおかしな方向に逸れた。

「そんなわけあるか」

「あるよ。唯ちゃんって彼氏いるのに彼氏の話じゃなくて博人君の話しかしないのよ。知らなかったでしょ? それも博人君が麻季ちゃんと普通に夫婦している時からそうだったんだよ」

 だんだん話が逸れて行ったけど、少なくとも麻季の話をしているよりはよかった。昔の麻季の気持なんか考えたって前向きな意味はないし、今の麻季の気持を慮っても離婚が覆ったり親権が手に入るわけでもないのだ。

「・・・・・・ええと、これ何だっけ? まあいいや。同じカクテルをください」

「ちょっとペース早いんじゃないの?」

「いいの。大丈夫。それよか、麻季ちゃんのことだけどさ」

「またかよ。忘れさせてくれるんじゃなかったの」

 思わず僕はそう口に出してしまった。理恵が僕を見詰めた。

241 : 以下、名... - 2015/01/02 21:01:28.25 vk+Esfzmo 219/442


「別にそれでもいいけど」

「え?」

「別にここは切り上げてそうしてあげてもいいよ」

「何言ってるの・・・・・・」

「でもさ」
 理恵は運ばれてきたカクテルを口に運んだ。「さっき博人君から聞いた話の麻季ちゃんは彼女らしくないけど、さっきわざと君に見せつけるように好きでもない男にベタベタしたり、あたしと博人君がキスしているのを見て泣いてた麻季ちゃんは麻季ちゃんらしかったなあ」

「意味がわからない」

「あの子らしいじゃん。さっき出会ったのは偶然なのに、博人君があたしと一緒にいるところを見かけた途端、すぐに隣の男に甘える振りをするなんてさ。きっと無意識に君の気を惹きたくてそうしちゃったんだと思うな。君に嫉妬させたかったんだよ」

「そんなわけあるか」

「あたしも、子どもを置き去りにしたり君にDVの罪を着せたりとか、君の話を聞いた後だったからさ。仕返しにキスするところを見せ付けてやったんだ。要は麻季ちゃんがしでかしたことを少し後悔させてやろうと思ったんだけど、まさか泣き出すとはね。思ったより麻季ちゃんってわかりやすい性格してるよね」

「・・・・・・麻季がまだ僕に未練があるって言いたいの」

「未練つうか少しだけ後悔してるんじゃない? 自分が始めちゃったことを」

「理恵ちゃんさ、まさか何か知ってるの?」

「知らないよ、何にも。知ってるわけないじゃん。昨日までは君と麻季ちゃんは幸せな家家庭を築いているんだって思ってたんだしさ」

「・・・・・・本当に意味がわからん。あれだけのことで麻季が何を考えているのかわかったなら理恵ちゃんは超能力者だよ。僕自身、自分の身に何が起こっているのか、麻季が何を考えているのか何にもわからないのに」

「麻季ちゃんがどうして君を裏切ったのかなんてわからないよ。それこそテレパスじゃないんだし。でも麻季ちゃんが君に未練があってさ、そしてどういう理由で始めたにせよ、自分の始めたことを後悔しているくらいはわかるよ」

「それって君の思い過ごしじゃないかな」

242 : 以下、名... - 2015/01/02 21:01:59.83 vk+Esfzmo 220/442


「じゃあ何でさっき麻季ちゃんはあたしが博人君にキスしているのを見て泣いてたのよ」

 理恵が手に持ったカクテルをテーブルに置いて言った。二杯目のそれは既にほとんど中身がなくなっていた。

「麻季は何で泣いたんだろうな・・・・・・」

 僕は思わず呟いた。

「君を見つめて黙って涙流してたよね。あの後、彼氏に言い訳するのに大変だったろうなあ。麻季ちゃん」

「・・・・・・うん」

「まあ、君があたしと仲良くしているところを見て悲しくなっちゃったんでしょうね。自分から君を裏切ったのにね」

「何が何だかわからないな」

 理恵が笑った。「本当だね。君も昔から麻季ちゃんには振り回されてるよね」

「それは否定できないけど」

「あたしさ」

「うん」

「大学時代に麻季ちゃんから直接言われたことがあるんだ」

「え?」

「博人君から手を引けって。博人君はサークルの新歓コンパの時から麻季ちゃんのことだけを見つめてるんだからあたしに邪魔するなってさ」

「知らなかったよ・・・・・・麻季が君にそんなことを言ってたんだ」

「まあ、あたしはそんなの真面目に受け止める気なんかなかったんだけどね。だいたい、あたしにはそんなこと言ってたくせに麻季ちゃんはいつも鈴木先輩とツーショットで歩いているしさ。信用できるかっつうの」

「麻季は感情表現が苦手だからね。あのときは鈴木先輩は麻季が自分に気があるって思い込んじゃったみたいだよ。麻季にはそんなつもりは全くなかったって」

「そう麻季ちゃんが言ってたことを君は今でも信じているんだ」

「え」

「その数年後、麻季ちゃんは君を裏切って先輩と寝たのに?」

「・・・・・・あのときは麻季も育児ばっかで鬱屈していたし」

「君の奥さんなのに、大切な子どもがいたのに先輩に抱かれたんでしょ? そこまでされても大学時代の麻季ちゃんの言い訳を疑わないのね」

「理恵ちゃんは何か知っているの?」

 理恵が両手を上に伸ばして大きく伸びをした。わざとらしいといえばわざとらしい仕草だ。

「駄目だなあたし。今日はこんなことまで話すつもりはなかったんだけね」

 理恵は何かを知っているのだろう。僕はもう黙って彼女の話を聞くことにした。聞いてしまったら本当にもう戻れないかもしれないけど。ふと思ったけど、理恵が麻季のことを忘れさせてあげるというのは勝手に僕が期待したような意味ではなかったのかもしれない。

 僕の知らない麻季の姿を教えることによって僕の未練を断ち切るつもりだったのかもしれない。今の発言とは裏腹に麻季と偶然に出合って動揺する僕を見た理恵は、最初から全部話すつもりになったのだろうか。

「博人君って、大学時代に麻季ちゃんが君と付き合う前に何人彼氏がいたか聞いたことある?」

 麻季は過去のことを極端に話さなかったし、自分の写真アルバムを実家から持って来たりもしなかった。彼女の携帯の写メだって僕か奈緒人の写真くらいしか保存されていなかったし。

「大学入学直後に鈴木先輩と付き合ってたじゃない? それは知ってるでしょ」

「だからあれは麻季の口下手のせいで先輩が勘違いしたんだよ」

243 : 以下、名... - 2015/01/02 21:02:30.78 vk+Esfzmo 221/442


「違うよ。あたし二人がキャンパス内で抱き合いながらキスしてたのを見たことあるもん」

 もう麻季についてこれ以上ショックを受けることはないと思っていた僕はその話に唖然とした。

「先輩だけじゃないのよ。麻季ちゃんと噂になっていた相手の男って」

「君の勘違いじゃないの?」

「博人君たちの披露宴の後ってさ、二次会しなかったんでしょ?」

「麻季が友だち少ないって言ってたからね。友だち呼んでパーティーするより早く二人きりになりたいって言ってたから」

 それも幸せだった過去の記憶の一つだった。



『ごめんね。あたし博人君と違って社交的じゃないし。披露宴には来てくれる友だちはいるけど、二次会で盛り上がってくれるような知り合いはあんまりいないの。こんな女で本当にごめん。でもできれば披露宴の後は博人君と二人きりで過ごしたい』



 それでも披露宴では麻季は女友達から祝福されていた。「麻季きれい」と囁いていた彼女の女友達の声。

「あたしはその場にはいなかったから後で後輩に聞いたんだけどさ。二次会なかったから、飲み足りない大学の人たちで繰り出したらしいよ」

「うん」

「披露宴の新婦側の出席者が悪酔いしてさ。麻季ちゃんの悪口で深夜まで盛り上がったんだって」

「意味がわからない」

「麻季ちゃんと関係のあった男たちが酔っ払って未練がましく曝露したんだって。思わせぶりな素振りを俺にしてた癖にって」

 僕は言葉を失った。今さら過去のことを振り返って後悔しても仕方がない。当時の僕だって麻季の男関係を詮索したりはしなかった。それに初めてのとき麻季は明らかに処女だったのだ。

「結局さ。あの性格のせいであまり友だちができなかった麻季ちゃんには、自分の女を武器にして男たちにちやほやされることを選んでたんだと思うよ。だから麻季ちゃんの気持を勘違いしてたのは鈴木先輩だけじゃないよ。博人君と麻季ちゃんが付き合い出して傷付いた男は一人二人じゃなかったんだよね。実際にあたしも鈴木先輩以外の男といちゃいちゃしている麻季ちゃんのこと見かけたことあるし」

「勘違いしないでね。麻季ちゃんが博人君を一番好きなのは間違いないと思うよ。多分、今でも」

「・・・・・・今でもって。あんだけひどいことを言われて離婚を求められてるんだよ。麻季が今でも僕のことを好きだなんて考えられないよ」

「でも、さっきあたしと君がキスしているところを見て泣いてたよね。彼女」

「もてないと思っていた旦那が君みたいな綺麗な女とキスしているのを見て動揺しただけでしょ。とにかく麻季は僕のことを一番好きどころか、今では一番嫌いなんだと思うよ」

「・・・・・・今の、もっかい言って?」

「へ?」

「あたしみたいなってとこ、もう一回言ってよ」

「いや・・・・・・あの」

「博人君、あたしのこと綺麗だと思う?」

「・・・・・・うん」

「そっか・・・・・・」

 やはり酔っているせいか理恵が今日初めて幸せそうに微笑んで僕に寄りかかった。

244 : 以下、名... - 2015/01/02 21:03:01.90 vk+Esfzmo 222/442


「うれしいよ、博人君」

「うん」

「いろいろ辛い話してごめんね。結局忘れさせるどころか思い出させちゃったみたいだね」

「まあ、そうだね」

 僕は何となく寄り添ってくる理恵の肩に手を回した。

「あたしたち、今いい感じかな?」

 肩に回した僕の手に自分の手を重ねながら理恵が言った。

「・・・・・・普通口にするか? そういうこと」

「そうなんだけど。今日昼間に唯ちゃんからメールもらってさ」

「うん?」

「・・・・・・兄貴のことよろしくお願いしますってさ」

「何勝手なこと言ってるんだ。唯のやつ」

「ブラコンの唯ちゃんも、あたしにならお兄ちゃんをあげてもいいって言ってくれたのよ」

「唯め。あいつ、何の権利があって」

「でもさ、あたし自信ないって断ったの」

「え」

 麻季を忘れることができるかどうかはともかく、理恵の僕に対する好意については僕は全く疑っていなかったのに。その自信がいきなり崩されたのだ。

「君に詳しく話を聞く前だったけど、今日君の話を聞いてもやっぱりあたしには自信がないな」

 僕に寄り添って手を重ねながら今さら理恵は何を言っているのだろう。

「せっかく今君といいムードなのに、ごめんね」

「麻季のこと気になるの?」

「ううん。麻季ちゃんがさっきみたいにいくら泣こうが喚こうが全然気にならないよ」

「じゃあ何で?」

 このとき僕は冷静だったと思う。麻季の過去の男関係を聞かされたにも関わらず。それは本当に僕がショックを受けた原因が、麻季の先輩との浮気や過去の男遍歴ではなかったことを理解できたからだろう。ここ最近の僕が麻季に関して悩んだのは彼女の育児放棄だったことに、今さらながら僕は気がついた。そういう意味では理恵のショック療法も適切だったのだ。

 でも理恵は予想外の言葉を口にした。

「麻季ちゃんなんてどうでもいいよ。あたしが本当に気にしているのは怜菜さんだよ」

 僕は凍りついた。

「あたし、今でも君のことが好き。多分、麻季ちゃんも今でもあなたのことが一番好きだと思う。でも麻季ちゃんがこんなことをしでかしたのも怜菜さんと博人君の関係に悩んだからだと思う」

「博人君」

 理恵が僕に聞いた。

「君は今でも亡くなった怜菜さんのことが好きなんじゃないの?」

245 : 以下、名... - 2015/01/02 21:03:33.32 vk+Esfzmo 223/442


 少し酔ってはいたけれど僕は理恵の言葉を胸の中で反芻してみた。これまで僕は麻季が突然僕に離婚を要求してきた理由がさっぱりわからなかった。太田弁護士の受任通知やその後の弁護士同士の交渉を経ても、麻季の動機が理解できないという意味では何の進展もないのと同じだったった。それでも何となく心に浮かんでいたのは、何らかの理由で麻季が再び心変わりして、僕ではなく鈴木先輩を選んだのではないかということだった。というよりそれ以外には思い浮ぶ動機はなかったのだ。

 今、僕は理恵の言葉を受けて改めて自分の心を探ってみようと思った。いわゆる浮気や不倫と言われる行為については僕は潔白だった。夫婦間のお互いへの貞操という観点からすれば、明らかに有責なのは麻季の側だった。ただ、僕が怜菜にまるで中学や高校のときの初恋のような淡い想いを抱いたことがあったことも事実だった。そして怜菜のお通夜の夜、僕はそのことや怜菜が僕のことを好きだったということも全て隠さずに麻季に伝えた。あのとき麻季が受けたショックは、僕と怜菜のささやかな交情によるものではなく、鈴木先輩と関係を持った麻季自身を怜菜が恨んでいなかったということに起因するものだったことは間違いないと思う。そしてそのことをひとしきり悩んだ麻季は、結局怜菜の遺児である奈緒を引き取る決心をしたのだ。

 ただ、怜菜が自分の娘に奈緒という名前を命名したことに対して悩んでいた頃、麻季が僕に向って感情を露わにしたことは確かにあった。



『博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。あたしみたいに平気で旦那を裏切って浮気するようなメンヘラのビッチとじゃなく』

『・・・・・・どういう意味だ』

『怜菜はあなたが好きだったんでしょ』

『・・・・・・多分ね』

『あなたも怜菜が気になったんだよね?』

『多分、あのときはそう思ったかもしれないね』

『ほら。あたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わしてあなたを裏切ったけど、あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのはあたしたちが一回だけセッ○スしちゃったってことだけでしょ』



 理恵の言うとおりだった。あのときの麻季は僕と怜菜が肉体的には何一つとしてやましいことがなかったことを承知のうえで、僕と怜菜のお互いへの気持に嫉妬していたのだ。ただ、それは僕への麻季への謝罪によって彼女も納得して終った話だったはずだった。

 それから僕は改めて理恵の質問について考えた。僕は今でも亡くなった怜菜のことが気になっているのだろうか。答えはイエスでもありノーでもある。僕が生前の怜菜に惹かれていたことは間違いない。それは自分でもはっきりと意識していた。別にそれは最後に会ったときやメールをもらったときの彼女の告白めいたセリフのせいばかりではなく、怜菜の最後の告白の前から、多分怜菜と会って彼女の強さを知ったときから、もう僕は女性として怜菜のことを意識していたのだった。

 そして理恵の言うとおり多分僕の怜菜への想いは今でも変わっていない。



『君は今でも亡くなった怜菜さんのことが好きなんじゃないの?』



 理恵の問いに対する直接的な答えはイエスだった。そして同時にノーとも言える。怜菜は不慮の死を遂げたのだ。怜菜が鈴木先輩と離婚して一人で出産し育児をする道を選んだとき、僕は麻季と離婚せずやり直すことを選んだ。そして僕のその選択を怜菜は最後のメールで祝福し応援してくれた。だから、例え怜菜に死が訪れず今でも奈緒と二人でどこかで暮らしていたとしても、僕と怜菜が一緒になるという可能性はなかったはずだった。

「好きか嫌いか聞かれればそれは好きだと思うよ。あれだけか弱そうな外見であれほど芯の強い女性を僕は今まで見たことがなかった。彼女のそういうところに僕は惹かれていたんだし、その想いは彼女が亡くなっても変わるようなものじゃないよ」

 理恵は僕に寄り添ったまま少しだけ笑った。

「やっぱね。でも話してくれてありがとう。あたしはもう怜菜さんのことを気にするのはやめるよ。というか博人君の話を聞いているとあたしまで怜菜さんのことが好きになっちゃいそうよ」

246 : 以下、名... - 2015/01/02 21:04:13.67 vk+Esfzmo 224/442


「何言ってるの」

「でもね」
 理恵が僕から少しだけ身体を離して言った。「麻季ちゃんが突然こんなことをしでかしたのは博人君と怜菜さんの仲に嫉妬しちゃったからかもしれないね」

「あれから何年経っていると思ってるの。確かに怜菜さんが亡くなった直後は麻季からそういう話も出たことはあったよ。奈緒の名前のことで揉めたこともあった。でもそのことはとうに克服したものだと思っていたんだけどな」

「そうか」

「うん。だから僕と怜菜さんのことが原因ではないと思う。やはり離れている間に麻季は鈴木先輩の方が僕のことより好きだってことに気がついたんだろうね。結局、麻季は僕じゃなくて先輩を選んだんだよ」

 実際にそうとしか考えられなかったから僕はそう理恵に言った。いっそ麻季の口から鈴木先輩と暮らしたいのと正直に言われた方がよかった。彼女がはっきりとそう言ってくれたら僕は麻季の要求どおりに彼女を自由にしたと思う。それなのに麻季は正直に告白するのではなく、僕のことを誹謗中傷することを選んだのだ。

「それは違うと思うけどな」

「何で?」

「だって・・・・・・。さっき麻季ちゃん、あたしとキスしている博人君を見て泣いてたじゃん。あたしと博人君が一緒にいるのを見て、男に寄り添うみたいな様子をあなたに見せ付けてたしさ」

 確かに僕より鈴木先輩を選んだとしたらあそこで麻季が泣く理由はない。

「それにさ。せっかく復縁した博人君のことなんかどうでもいいほど鈴木先輩が好きなら、鈴木先輩以外の男と二人きりで飲みに来たりしないんじゃない?」

 それもそのとおりかもしれない。麻季の涙に混乱してあまり気にしていなかったけど、麻季が寄り添っていた男は鈴木先輩ではなかった。

「理恵ちゃんさ」

「なあに」

 理恵も少し酔っている様だった。不覚にも僕はそういう理恵を可愛いと思った。

「麻季は僕より先輩を選んだんじゃなくて、僕と怜菜さんの仲に嫉妬したからこんなことをしでかしたって思っているの?」

「多分ね。それにしても受任通知の内容とか理解できない点はあるけどさ」

「そうだよな」

「まあ、いいや。怜菜さんって本当にいい子だったんだね。麻季ちゃんなんかの親友にはもったいないね」

 それには何て答えていいのかわからなかった。僕は黙ったままだった。そしてこんなにシリアスな話をしているというのに、理恵は僕に寄り添っているし僕は理恵の肩を抱いている。

「ごめんね。麻季ちゃんのこと忘れさせるどころかかえって思い出させちゃって」

「いや。僕は別に」

「じゃあ、これから忘れさせてあげるよ。この店お勘定しておいてくれる?」

249 : 以下、名... - 2015/01/04 00:01:30.85 kTwpF7aEo 225/442


 翌日は平日でお互いに仕事があった。僕は二日連続で同じ服装でも別に気にならなかった。もともとそういう業界だったから。でも理恵はそうも行かないと言った。校了間際でもないのに同じ服で出社なんて何と噂されるかわからないそうだ。それで、僕は日付も変わったくらいの時間にラブホを出て、理恵を自宅近くまでタクシーで送って行った。

「本当なら大学時代に博人君とこうなれていたのにね」

 理恵がタクシーの後部座席で僕に寄りかかりながら呟いた。

「そうだね」

 僕は少しだけ理恵の肩を抱く手に力を込めた。それに気づいたのか理恵が微笑んだ。

「初めては君とがよかったな」

 酒に酔っていたせいか、さっきの余韻がまだ残っていたせいか、理恵はタクシーの運転手のことを気にする様子もなくそう言った。

 理恵を送り届けてから実家に戻ったときはもう夜中の二時過ぎになっていた。タクシーの支払いを済ませて、実家のドアの鍵をそうっと開けて家に入ると、すぐに唯が姿を見せた。

「おかえり、お兄ちゃん」

「ただいま・・・・・・って何でこんな時間まで起きてるんだよ」

「だってお兄ちゃん、なかなか帰って来ないしさ。あたし入社するまで暇だから夜更かししたって問題ないしね」

「・・・・・・まさか僕の帰りを待ってたんじゃないだろうな」

「何自意識過剰なこと言ってるの。何であたしがお兄ちゃんが帰って来るまでこんな時間に起きて待ってなきゃいけないのよ」

「違うの?」

「・・・・・・いや、まあ待ってたんだけどさ」

 唯はそう言って笑ったけど、すぐに僕の腕を取って自分の方に引き寄せた。

「何だよ」

「シャンプーの匂いがする」

 僕は一瞬どきっとした。実の妹にそういうことがばれるのはとても気恥ずかしい。

「理恵さんと休憩してきた?」

 唯がストレートに聞いた。

「いや、その」

「よかったね、お兄ちゃん。理恵さんと再婚するならあたしは賛成だよ」

「・・・・・・まだそんな話になってるわけじゃないよ」

「まだ? じゃあ、さっさと決めちゃえばいいじゃん。うちの父さんも母さんも理恵さんのご両親も誰も反対しないと思うけどな」

「とにかくもう寝る。明日もっていうか今日も仕事だし」

「うん。お風呂に入らなくていいからすぐ眠れるね」

「・・・・・・おい」

「冗談だって。奈緒人と奈緒の横で寝てあげて」

「うん」

「あたしの隣だけど別にいいよね」

「おい」

 これで何度目かわからないけど唯はまた可笑しそうに笑った。

250 : 以下、名... - 2015/01/04 00:02:01.43 kTwpF7aEo 226/442


 翌日の午前中、理恵から電話があった。

 奈緒人と奈緒が並んで寝ている実家の和室に横になったのが夜中の四時前で、起床したのが朝の六時だった。奈緒人と奈緒と一緒に寝るのは心が安らいだけど、同じ部屋で唯まで一緒に寝ることになるとは思わなかった。普段は親子三人で寝ているのだけど、僕が仕事で遅くなるときは妹は奈緒人たちを寝かしつけるだけでなく、子どもたちと一緒に寝ていてくれたらしい。子どもたち以外に同じ部屋で寝る女性なんてこれまでは麻季しかいなかったので、そこに唯が寝ていることに混乱して僕はほとんど眠れなかった。

 それでも仕事柄徹夜には慣れていたせいで、出社すれば僕はいつもどおりに仕事モードに戻れた。

『元気?』

 携帯の向こうで理恵が言った。

「いきなり元気って何だよ」

『いやあ、ああいうのって久し振りだったからさ。こういう場合何ていえばいいのか忘れちゃったよ。現役を離れて久しいからね』

「何言ってるんだ。まあ、でもそうだね。僕もこういうときに何て答えたらいいのかわからないや」

 思わず僕は笑ってしまった。こういうやりとりはすごく新鮮だった。大学時代に麻季と付き合い出してからこういう会話は全くしたことがない。麻季と僕との間はオールオアナッシングであって、うまく行っているときは直球の甘い会話しかしたことがなかったし、それ以外のときはお互いに傷付けあってばかりいたような気がする。麻季の性格上、こういうゆとりのある会話なんて彼女に対しては望むべくもなかったのだ。

『でも、安心したよ。あたしもそうだけど博人君もまだ現役でああいいうことできたんだね』

「午前中から何を言ってるんだ君は」

『あはは。何かこういうのって久し振り。一緒に寝るよりこういう会話の方が楽しいね。若返ったみたい』

「理恵ちゃんさあ。周りに会社の人がいるんじゃないの」

『いないよ。今外出中だもん。つうか今さらちゃん付けるのやめてよ』

「僕は周りは人だらけなんだけどな」

『ちょっと出て来れない?』

「今、どこ?」

『博人君の会社の側のクローバーっていう喫茶店。ここたまに打ち合わせで使うんだ』

 それは最後に怜菜と会った店だった。クローバーに入るのは怜菜と会って以来だった。小さいとはいえ編集部を任された僕は以前より外で打ち合わせをする機会が減っていたのだ。

「博人君。ここだよ」

 理恵が手を振った。理恵が座っているのが怜菜と最後に会ったときの席ではなかったことに僕は何だか少しだけほっとしていた。

「お待たせ」

「仕事大丈夫だったの」

 理恵が僕の仕事を気にして言ってくれた。

「うん。どうせそろそろ昼食にしようかと思ってたとこだし」

「そうか、よかった」

 理恵が上目遣いに僕を見て微笑んだ。何だか本当に麻季に出会う前、まだ普通に恋愛していた頃に自分に戻ってしまったような気がした。

「じゃあ、何か食べようよ。ここ食事できるんでしょ」

「サンドウィッチとかパスタくらいしかないけどね」

「それでいいよ。博人君、何にする」

251 : 以下、名... - 2015/01/04 00:02:40.36 kTwpF7aEo 227/442


 いそいそとメニューを取り出して僕に相談する理恵の様子すら今の僕には微笑ましかった。妹に洗脳されたわけではないけど、僕は理恵のことが好きになっているのかもしれない。彼女を抱いてしまった後に思うようなことではないのかもしれないけど。もしかしたら僕はようやく麻季に対する不毛な感情から開放されるのかもしれない。

「パスタっていってもナポリタンかミートソースしかないのね」

「この店にそれ以上期待しちゃだめだよ。でも味は結構いいよ」

「そう? 博人君は何にするの」

「ミックスサンドにする」

「じゃあ、あたしも」

 そう言って理恵は微笑んだ。

 店内には簡単な昼食をとる客に混じって、打ち合わせをしている顔見知りも結構いるようだ。こんな環境で僕はサンドウィッチを放置して理恵にプロポーズした。理恵はと言えば口に中からハムとマヨネーズが溢れ出して、すぐには返事どころではなかったらしい。目を白黒させながら彼女は慌ててアイスコーヒーで口の中を洗い流した。

「うん、いいよ。バツイチ同士だけど結婚しようか」

 さっきまで大学生同士のように何気ない会話でお互いの気持を確かめ合っていたはずなのに、やはりこの年になるとロマンスには無縁になるのだろうか。僕と理恵の再婚は混み合った喫茶店であっさりと決まったのだった。

 それから少しして僕と理恵は別れた。お互いにまだ仕事中だったのだ。麻季にプロポーズした時のような大袈裟なやりとりは何もなかった。考えてみれば愛しているとか好きだよとかの会話も、少なくともこのときにはお互いに口にしていなかった。

「とりあえず、麻季ちゃんと博人君が離婚するまでは婚約もできないね」

「ああ、悪い」

「いいよ。それで奈緒人君と奈緒ちゃんは当然引き取りたいんでしょ?」

「うん・・・・・・いい?」

「もちろんだよ。でも明日香も一緒に育てるからね」

「当然そうなるよね。奈緒と明日香ちゃんは同い年だしきっとうまくいくよ」

「うん。たださ。プロポーズしてくれた後にこんなこと言うのは後出しっぽくて申し訳ないんだけど」

「何?」

 僕は少し嫌な予感がした。ここまでうまく行き過ぎいているような気がしていたのだ。

「あたし、仕事は止めたくないんだ」

「そんなことか。もちろんいいよ」

 麻季は奈緒人を出産したとき、自ら望んで専業主婦になったのだ。僕はそのことに関して反対をしたことはない。そして理恵が共働きを望んでいる以上、無理に専業主婦にするつもりもない。

「そうじゃなくてさ。結婚しようって言ってくれたのは嬉しいけど、あたしと一緒になっても君と麻季ちゃんの親権の争いには有利にはならないよ?」

 僕はそのことをすっかりは忘れていた。もちろん親権に有利になる方が望ましいことは確かだった。それは唯が僕に理恵と付き合うように勧めた理由の一つでもあったのだ。でもこのときの僕は子どもたちの親権を考慮して理恵にプロポーズしたわけではなかった。親権の争いのことなど今まで忘れていた。ただ、理恵と一緒になりたいと思っただけで。

 僕はそのことを正直に理恵に話した。

「・・・・・・嬉しい。そう言ってくれると、さっき結婚しようって言われたときより嬉しいかも」

 理恵が今日始めて顔を伏せて涙を浮べてそう言った。

 その後の展開は早かった。僕は久し振りに会う理恵のご両親に挨拶に行った。お嬢さんと結婚させてくださいとか言わせてもらうことすらできず、久し振りねえとか元気だったかとか理恵の両親から僕は言葉をかけられた。本当に懐かしく思ってくれていたみたいだった。質問攻めに懐かしいながらも当惑していた僕を見かねて、僕と理恵の結婚には賛成だよね? って両親に対して言い出して僕たちを救ってくれたのが玲子ちゃんだった。

252 : 以下、名... - 2015/01/04 00:03:16.09 kTwpF7aEo 228/442


 理恵と幼馴染だった頃にはまだ彼女は生まれていなかったので、僕と玲子ちゃんは顔を合わせるのは初めてだった。

「結城さんはお姉ちゃんと結婚したいんだって。ちゃんと答えてあげなよ」

 当時大学生だった玲子ちゃんはそう言ってくれた。

「そんなのOKに決まってるだろ」

「そうよ。結城さんのご両親とはもうこのことは打ち合わせ済みなのよ」

 理恵の両親がそう言った。どうやら僕が自分の両親に理恵との結婚を話す前から、僕の両親にはその事実が伝わっていたようだった。犯人は一人しかいない。唯だ。そして唯と玲子ちゃんも仲がいいらしい。僕と理恵の結婚はお互いの妹たちによって根回しされていたのだった。このとき玲子ちゃんは奈緒と同じくらいの年齢の女の子を抱っこしていた。

「ほら明日香。あなたの新しいパパだよ」

 玲子ちゃんがからかうように言った。

「玲子!」

 顔を赤くしながら理恵が玲子をたしなめた。翌週、僕は理恵を連れて自分の実家に戻った。予想したとおり理恵の実家を訪れたのとほぼ同じような展開が僕たちを待ち受けていた。事前に唯が根回しをしてくれていたせいで、僕の両親は僕と理恵の結婚に関しては良いも悪いもなく既定事項のように受け止めたうえで理恵を歓迎してくれた。

「理恵さん、本当にこんな兄貴でいいんですか」

 唯が理恵をからかった。

「唯ちゃんこそごめんね。大好きなお兄ちゃんを奪っちゃって」

 理恵も動じなかった。

「・・・・・・何でそうなるんですか」

 理恵と唯は視線を合わせたかと思うと笑い出した。理恵の僕の実家への訪問で少しだけ慌てたのは、奈緒人と奈緒と理恵が初顔合わせをしたときだった。唯がそれまで外に遊びに行っていた二人をリビングに連れてきた。理恵は奈緒人を微笑んで見つめた。そしてその視線が奈緒に移ったとき、理恵は突然沈黙してしまった。

「理恵さん?」

 不審に思ったのだろう。唯が理恵に話しかけた。

「どうかした?」

 僕にまとわりついてくる奈緒人と奈緒を抱き上げて二人一緒に膝の上に乗せながら僕も理恵に聞いた。

「あ・・・・・・ごめん。奈緒人君、奈緒ちゃん。今日は」

 理恵が取り繕うように言った。その場の雰囲気を気にしたらしい唯は、二人で少し近所を散歩してきたらと勧めてくれた。

「理恵さん、今日は泊まって行けるんでしょ?」

「あ、ええ」

「そうしなさい。ご両親には私から連絡しておくから」

 父さんも理恵にそう勧めた。

「じゃあ、今夜は宴会だね。準備しておくから邪魔な二人は散歩でもしてきなよ」

 唯が言った。

「僕たちもパパと一緒に行っていい?」

「あんたたちはお姉ちゃんのお手伝いして。できるよね」

「うん。お姉ちゃんのお手伝いする」

 奈緒が元気に返事をした。奈緒は実家の中では一番唯に懐いているのだ。

「じゃあ僕も唯お姉ちゃんのお手伝いする」

 奈緒の言葉を聞いた奈緒人は即座に僕と一緒に出かけるより奈緒と一緒にいる方を選んだようだった。

253 : 以下、名... - 2015/01/04 00:04:20.65 kTwpF7aEo 229/442


「驚いた。奈緒ちゃんって怜菜さんにそっくりじゃない」

 理恵を連れて実家の近所の自然公園内を散策していたとき、理恵がそう言った。そんなことだろうと思っていた僕は別に理恵の反応に驚きはしなかった。奈緒はまだ幼いながらも美人だった。多分容姿に関しては将来を約束されていたと言ってもいいくらいに。鈴木先輩も外見はイケメンだったし怜菜に関しては性格も外見も可愛らしかった。奈緒の端正な外見は両親の遺伝子を引き継いでいたのだ。当然のことだけど奈緒は僕にも麻季にも全く似ていない。でも、この頃には唯も両親も血の繋がりのない奈緒のことを家族として受け入れていたから、僕も唯も、そして僕の両親さえ一度たりともそれが問題だとは考えたことはなかった。

「これじゃ、麻季ちゃんが悩んじゃうわけだよね」

 寒々とした公園内の池を眺めながら理恵が呟くように言った。

「どういうこと?」

 理恵が僕を見た。

「麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るたびにつらい思いをしていたのかもしれないね」

「そんなこと」

「ないって言える?」

「麻季は自分から奈緒を引き取るって言い出したんだ。娘が母親に似るなんて当たり前だろ。それくらいのことで麻季が奈緒のことを気にするなんて」

「・・・・・・もう一度聞くけどさ。本当にないって言えるの」

 僕は沈黙した。つらかったけど、麻季が奈緒を引き取ると言い出してからの彼女の言動を改めて思い起こそうと思ったのだ。少なくとも僕と一緒に過ごしていたときの麻季には、奈緒の容姿が怜菜と似ていることに対して悩んだりした様子はなかったはずだ。あの頃の彼女は奈緒人と同じくらいの愛情を奈緒に向けていた。

 だけどもう少し考えを推し進めて、僕がそう錯覚していたように当時の麻季が僕との仲に無条件に安らぎや安堵感を感じていなかったとしたらどうなのだろうか。大学時代の自分の親友のことを好きになった旦那。そして麻季が自ら育てることを選んだ奈緒は当然なことに怜菜に似ていた。その奈緒をひたすら大切にして可愛がっている僕。麻季が口や態度には出さなくても、内心僕と怜菜の関係に悩んでいたとしたら怜菜への嫉妬が奈緒への嫉妬や嫌悪に転化したということもあり得るのだろうか。

「麻季が怜菜への嫉妬心を奈緒にぶつけるようになったって言いたいの? そのせいで麻季が子どもたちをネグレクトしたと」

「さあ? 麻季ちゃん本人に聞かなければ真相なんてわからないよ。でも奈緒ちゃんって本当に怜菜さんに似てるよね」

「鈴木先輩の面影もあるんじゃないか」

「全くないとは言わないけど、どちらかと言うと奈緒ちゃんはお母さん似だよ。あたしはそう思うな」

「仮に君の推測のとおりだったとしてもさ。少なくとも麻季は奈緒人のことだけは自分のことより大切にしていたよ。それは間違いない。たとえ奈緒の育児を放棄したとしても、麻季は少なくとも奈緒人のことは面倒看たはずだ」

「そうだよね。麻季ちゃんの育児放棄は許されることじゃないけど・・・・・・仮に奈緒人君だけを大切にしていて奈緒ちゃんだけを食事も与えずに虐待していたとしたら」

 僕は頭を振った。夕暮れが近づいていて、だいぶ気温が下がってきたようだ。

「そうだったら奈緒が今頃どうなっていたか考えたくもないね」

 実際、母親であるはずの麻季に一人きりで放置されてたとしたら、いったいどれくらい心の傷を奈緒が受けていたかを考えるとぞっとする。そういう意味では僕は奈緒人のことを誇りに思っていた。奈緒人は麻季に放置された不安から泣きじゃくる奈緒を、精一杯慰めて守ろうとしたのだった。そのせいもあって、奈緒は思ったより早く心の傷を癒して元通りの明るい性格に戻ることができた。

「次の調停っていつなの?」

 僕はつらそうな様子をしていたのかもしれない。理恵が話を変えた。

254 : 以下、名... - 2015/01/04 00:05:10.41 kTwpF7aEo 230/442


「七月だね」

「調停に出れば麻季ちゃんと直接話せるの?」

「いや。今のところお互いに別々に調停委員に呼ばれて、相手の主張を聞かされてそれに対する反論を聞かれるって感じかな」

「じゃあ麻季ちゃんと直接話したことはないんだ」

「顔を合わせてすらいないよ。こないだの居酒屋で会ったのが初めてだよ」

「そうか」

 理恵は何かを考え出した。

「今度の調停で養育環境が整いましたって調停委員に申し立てなよ」

「え? 理恵ちゃんはいったい何を言ってるの」

「ちゃんを付けるな。何度言わせるのよ、ばか」

「あ、いや。そうじゃなくてさ」

「麻季ちゃんとの離婚が成立したら再婚する予定の人ができました。彼女が子どもたちを育てますって言って」

「編集業しながら養育なんて無理だろ。有希ちゃんだって玲子ちゃんが育ててるみたいなもんじゃん」

「明日にでも経理か総務に異動させてくれって上司に言うから」

「・・・・・・はい?」

 理恵が僕に抱きついた。

「それで駄目なら会社辞めてやる・・・・・・博人君、そうなったらちゃんとあたしを養えよ」

「おい」

 理恵とべったりと寄り添ったまま実家に帰ると宴会の支度が整っていた。奈緒人と奈緒が僕を出迎えてくれた。理恵は迷わずに二人に向って手を伸ばした。



 法的にはまだ僕は既婚者だったからすぐに理恵と結婚するわけにはいかなかったし、お互いに子どもがいたから同居するのも難しかったので、少なくとも麻季との離婚調停の結果が出るまではこれまでどおりお互いに実家で別々に生活を送ることになった。

 公園で理恵と話をしてから僕はこれまでより注意して子どもたちを見るようになった。そうすると、僕はこれまでは子どもたちへの愛情と憐憫からこの子たちのことを、とにかく可愛がることしかしてこなかったことに気がついた。僕の実家に馴染んでよかったとか僕の帰りが遅くても二人とも最近泣かなくなったとか、そういうことだけを僕は一喜一憂してこれまで過ごしてきたのだった。

 改めて子どもたちの様子を覗うと僕にもいろいろ新たにわかったことがあった。例えば最近、唯は楽しそうに僕と理恵のことをからかったり、少し真面目になったときは僕たちが結婚したらどこに住むのかとかそういう質問を僕にすることがあった。そういうときには両親も楽しそうに口を挟んできた。でも、子どもたちは大人たちが盛り上がっている会話の中には入ってこようとしない。もちろん、大人の話だから話には入りづらいだろう。でも普通の子どもたちなら、わからないなりに無理にでも話に参加しようとするだろうし、場合によってはその場の関心を自分たちの方に向けようとするものではないか。

 でも、奈緒人も奈緒も大人しく二人で寄り添っているだけで、話に割り込んでくる様子は一切見せようとしなかった。

 大人同士の話の間、奈緒人と奈緒は二人だけのささやかな世界を作り上げてその中にこもっているようだった。それは微笑ましい光景でもあったけど同時にひどく寂しいことでもあった。母親にネグレクトされた経験を持つ奈緒人と奈緒は、大人たちに相手にされないときは他の甘やかされて育った子どもたちのように、大人の関心を自分たちの方に向かせようと駄々をこねたり話に割り込んできたりしない。そういうとき、奈緒人と奈緒は反射的に二人だけの世界に閉じこもることを選ぶようになっていた。

 やはりこの子たちにはまだネグレクトされたことによる影響が残っている。僕は子どもたちが自然に二人きりの世界を作っているのを見てそう思った。

 それから、奈緒人と奈緒の関係も微妙ながら変化しているようだった。

255 : 以下、名... - 2015/01/04 00:06:08.60 kTwpF7aEo 231/442


 僕は今まで奈緒人が奈緒のことを守ろうとしているのだと思っていた。それは間違いのない事実だったとは今でも思っているけど、改めて二人をよく眺めると意外と奈緒が奈緒人の面倒をみるような仕草を見せていることに気がついた。奈緒人が食べ物をこぼしたり服を汚したりするたびに、奈緒はいそいそと奈緒人が落としたものを片付けたり奈緒人の服をティッシュで拭いたりしていた。僕はそんな奈緒の様子に初めて気がついたのだ。仕事のせいで子どもたちのことをじっくりと見てあげられなかったせいか、こういう奈緒の様子には今まで気が付きもしなかった。

 そのことを唯に話すと「今さら何言ってるの」と呆れられた。

「前に奈緒人が奈緒の面倒をよくみてくれるって言ってたじゃん?」

「うん、そうだよ。あたしもこんなんじゃなくて奈緒人みたいな兄貴が欲しかったよ」

「いや、それはどうでもいいけど、何か僕が見るにどっちかっていうと奈緒の方が奈緒人の面倒をみているように見えるんだけど」

「そんなの前からそうじゃん。確かに奈緒人は奈緒を気にしているけど、奈緒だって奈緒人に甘えているばかりじゃないんだよ」

「・・・・・・今まで気がつかなかった」

「まあ、お兄ちゃんが気にしなくてもいいよ。あたしみたいに毎日この子たちを見ていられたわけじゃないんだしさ」

「こんなことにも気がついていなかったんだな。少しだけ自己嫌悪を感じるよ」

「女の子の方がしっかりするの早いしね。妹の奈緒が兄の奈緒人の日常の面倒をみるなんて微笑ましいじゃん」

「まあ、そうかな」

「まるであたしとお兄ちゃんみたいでしょ? しっかり者の妹が兄貴の面倒をみるとか」

 僕が新たに気がついた子どもたちのこういう様子は、唯にとっては単に微笑ましい成長のしるしに過ぎないようだったけど、こういう二人の様子を僕不在の家庭で麻季がどういう気持で眺めながら子育てをしていたのかを僕はここにきて初めて考えてみた。そうして考えるようになると先日の理恵の話が頭に浮かんだ。



『麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るたびにつらい思いをしていたのかもしれないね』



 僕は想像してみた。奈緒が怜菜にそっくりなことは麻季も気がついていたかもしれない。そして奈緒人の方は僕に似ている。そんな奈緒人と怜菜似の奈緒が日増しに仲良くなっていくところを、麻季は育児しながら一番身近なところで眺めていたのだろう。

 今まで考えたことはなかったけど・・・・・・もしも、本当にもしもだけど麻季が奈緒人に僕の姿を見つつ奈緒に怜菜の面影を見ていたとしたら、麻季はその二人の姿を見て何を思ったのだろう。

 こんな幼い子どもたちに重ね合わせていいことじゃない。だけど麻季が本当に僕と怜菜との仲を気にしていたとしたら、それは麻季にとってはまるで悪夢そのものだったかもしれない。幼い二人が仲良くなる姿を見て、本来微笑ましいはずのその様子に麻季が僕と玲菜が親しくなっていく姿を重ねてしまっていたとしたら、どれほどの心の闇が麻季に訪れただろう。理恵の言葉をきっかけにして僕はそのことにようやく気がついたのだ。

 せめて僕が家庭にいれば麻季のストレスは僕の方向に向いていただろうし、僕も麻季を諌めたり慰めたり、場合によっては喧嘩だってして彼女のストレスを発散させてあげることだってできたのかもしれない。でもこのとき僕は海外にいた。

 常識的に考えれば幼い兄妹がどんなに仲が良かったとしても、その様子から僕と怜菜の仲を思い出して嫉妬するなんて普通の人間なら考えられないだろう。しかも怜菜が生きているのならともかく彼女は寂しい死を迎えていたのだし。

 僕に言えた義理じゃないかもしれないけど、死んだ人間への執着に嫉妬することは不毛だ。生きている浮気相手なら別れて清算することもできるかもしれない。でも亡くなった怜菜を振って別れることはできないのだ。麻季に限らず亡くなった想い人を相手に勝てる人なんていない。特に惹かれている気持がマックスのときにその相手が亡くなった場合、亡くなった彼女への想いは凍り付いたままで、その記憶が残っている限りはそのまま心の中に留まり続けるしかないのだ。

 いくらパートナーの愛情を疑った人でも、普通ならそんな実体のない相手への嫉妬にこだわる人は少ないだろう。特に大切なはずの子どもたちを巻き込むほどその嫉妬心を面に出す人はいないはずだ。

256 : 以下、名... - 2015/01/04 00:06:39.89 kTwpF7aEo 232/442


 でも麻季ならあり得るかもしれない。愛情も憎悪も人一倍強い彼女ならば。大学時代にろくに口を聞いたことがなかった僕のアパートに押しかけてきた麻季。僕とは付き合ってさえいない面識すらなかった理恵にところに、僕に構うなと言いに行った麻季ならば、そういう非常識なことも考えられるのかもしれない。

 最初に知り合った頃、僕は彼女のことを境界性人格障害なのではないかと疑ったことがあった。恋人同士になって満ち足りていた麻季の姿を見た僕はそんなふうに麻季を疑ったことを後悔したのだった。でも、それは麻季がその頃の僕との関係に充足して満足していたからかもしれない。自分の不倫にひけ目を感じたうえに、僕と怜菜のささやかな心の交情を聞かされて混乱した麻季が、僕の出張中に奈緒人と奈緒の仲のいい様子に僕と怜菜の姿を重ねて考えるようになってしまったとしたら。

 かつて脅迫的なほど自分の考えにこだわる姿を見せた彼女の様子が思い浮んだ。



『・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ』

『何言ってるの』

『あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見てたでしょ』

『・・・・・・それだけが根拠なの』

『それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つめていたでしょ』



 あのときの彼女は、ろくに話しもしたことのなかった僕が自分のことを好きなのだと信じ込んでいた。そんな彼女なら心の中で奈緒人と奈緒の様子を僕と怜菜との関係に置き換えてしまったとしても不思議ではないのかもしれない。でもその仮定が成り立つとしたら、麻季がまだ僕のことを好きで執着がある場合に限られていた。僕より鈴木先輩や他の男を選ぶくらいなら、僕と怜菜の感情に悩むことはないだろう。そこまで考えつくと僕は再び混乱して、あのとき麻季が何を考えていたのかわからなくなってしまうのだった。

 いろいろ考えた末、理恵の好意に甘えることにした僕は代理人の弁護士に養育環境が麻季に対して有利な方向で整ったことを報告した。麻季の代理人と親権について渡り合ってくれている彼にはいい交渉材料のはずだった。でも彼は浮かない顔で答えた。

「まあ、昨日までならいい材料だったかも知れないですけどね」

「どういう意味です?」

「今日、太田先生から連絡があったんですよ。先方の状況がいい方に変化したんでお知らせしときますってね」

「・・・・・・変化って。いったい先方に何が起きたんですか」

「こっちと同じですよ。先方の養育環境もずいぶん有利になってしまいました」

「というと?」

「奥さんの方も離婚が成立したら再婚するらしいですよ。まあ、奥さんの方は半年は結婚できませんけど、実質的には同棲するみたいですから、養育条件の面ではこちらに不利になるところでした」
 弁護士がそう言った。「まあ、幸いにも結城さんにもお相手ができたみたいですから、そういう意味では五分五分というか一進一退というところですかね」

 では麻季にはやはり好きな相手がいたのだ。奈緒人と奈緒の親権の争いがかかっていた大事な場面だったのだけど、このとき僕は麻季の相手が誰なのかが一番気になった。そしてすぐにそういう自分の心の動きに幻滅した。僕にとって一番大切なのは子どもたちだったはずなのに、そして今では一番大切な女性は理恵なのだ。それなのに麻季の再婚相手のことに心を奪われている自分が心底情けなかった。

「相手の名前は?」

「鈴木雄二さんです。あなたの奥さんのかつての不倫相手ですね」

 やはりそうか。奈緒人と奈緒のこととか僕と怜菜のこととか、いろいろごちゃごちゃと考えたことなんか実際にはまるで関係なかったのだ。やはり麻季は鈴木先輩のことが好きだったのだ。それも理恵の言うことを信じるとしたら大学の頃から。

「まあ奥さんの再婚はどうでもいいんですけどね。偶然にも先方と同じで結城さんにも一緒に育児できるお相手ができたわけだし、養育環境の面だけではこちらも有利にはなれなかったけど不利にもなっていません」

257 : 以下、名... - 2015/01/04 00:07:11.08 kTwpF7aEo 233/442


「はあ」

「それよりも問題なのは奥さんの相手が鈴木雄二ということですよ」

「どういうことですか」

「ご存知なんでしょ? 鈴木雄二氏は奈緒さんの実の父親ですからね。奈緒さんが戸籍上はあなたと麻季さんの娘だとしても血は繋がっていない。実の父親が奈緒ちゃんを引き取りたいと言い出しているわけで、ちょっとまずいことになりそうですね」

 どうしてこんな簡単なことを今まで僕は忘れていたのだろう。鈴木先輩は怜菜の夫だった。怜菜の遺児である奈緒の実の父親は鈴木先輩なのだった。怜菜は先輩に自分の妊娠を告げることなく先輩と離婚して奈緒を出産した。そして怜菜の死後、先輩は奈緒を引き取りはしなかったけど認知だけはしたのだった。

「鈴木氏は奈緒さんの実の父親ですからね。調停委員の心象にもだいぶ影響を与えるでしょうね」

「子どもたちを取られてしまうかもということですか」

「実の父親が奈緒さんを引き取りたいという意向を示しているのは我々にとっては不利だと思います」

「でも、少なくとも奈緒人は鈴木先輩とは関係ないですよね」

「それはおっしゃるとおりです」

「・・・・・・この先、奈緒人と奈緒はいったいどうなってしまうんでしょうか」

「怜菜さんが亡くなった際、鈴木氏が奈緒さんを引き取らなかったことと結城さんの奥さんの育児放棄を強調して、この二人には育児に不安があることを主張してみます」

「それで勝てるんでしょうか」

「調停は勝ち負けじゃないですからね。いかに調停委員の心象を良くするかです。調停結果が思わしくない場合はその結果に従わないこともできます。でもそれは前に説明しましたね」

「ええ」

「最悪のケースは子さんたちの親権を奥さん側に取られてしまうことですが、可能性としては奈緒さんが奥さん側に、奈緒人君が結城さん側にとなることも考えられますね」

「奈緒人と奈緒を引き剥がすなんてあり得ないですよ。あれだけお互いに仲がいいのに」

「でも奥さんが鈴木氏と再婚するとなると、この可能性も現実味を帯びてきてしまいました」

「そんなことは認めない。駄目ですよ。あの子たちを別々にするなんて」

「多分、二人の親権を奥さん側が確保することは難しいでしょう。奥さんのネグレクトは児童相談所の記録で公に証明されていますし、調停委員の一人は元児童相談員をしていた人ですから、児童虐待の可能性のある人に親権を認めることはないと思います。でも、鈴木氏は奈緒さんの実の父親だし別に子どもを虐待した経歴があるわけじゃないですから、奈緒さんの親権をこちらが確保するのは、正直難しいかもしれません」

「その場合は調停を拒否して裁判に持ち込めばいいんでしょ?」

「それはお勧めしません。裁判になれば多分こちらが不利です。この手の訴訟は判例では八割方母親に有利な判決が出ているのです。少なくとも調停なら児童委員出身の調停委員のおかげで何とか奈緒人君の親権は確保できる可能性はありますけど、裁判にしてしまえば二人とも奥さんの方に持っていかれてしまう可能性が大きいですね」

 せっかく理恵が仕事を止めてまで育児をすると言ってくれたのに、この場に及んでまた鈴木先輩が僕を苦しめようとしているのだ。今の僕にとって一番憎いのは麻季ではなく鈴木先輩だったかもしれない。

 それから数週間後、次の調停の前日に僕は再び弁護士から電話をもらった。

「最悪の事態です。太田先生から連絡があって奥さん側は明日の調停で申し立てを変更するそうです。奥さんは奈緒人君の親権、養育権、監護権とも全て放棄するみたいです。その代わりに奈緒さんだけを引き取ることを主張すると」

 確かに最悪の事態だった。弁護士によれば調停ではその主張は認められる可能性が大だという。それにしても麻季は何を考えているのだろう。自分の実の息子である奈緒人のことはどうでもいいのか。それとも奈緒人のことも奈緒のことも麻季にとってはどうでもよくて、単に僕に嫌がらせをしたいだけなのだろうか。

258 : 以下、名... - 2015/01/04 00:07:42.03 kTwpF7aEo 234/442


 翌日はすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園は樹木が高く枝を張り、繁茂している緑に日差しが和らげられていて、申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古びた建物の中よりよっぽど快適だったかもしれない。

 この日僕は会社の上司に麻季との離婚調停があることを正直伝えて休みを取っていた。それはいいのだけど、問題は奈緒人と奈緒だった。僕の両親は前日から体調を崩してこの日は病院に行くことになっていた。そのせいで僕は弁護士から言い渡された辛い事実を相談することすらできなかった。

 僕は唯には弁護士から聞かされたことを相談した。案の定唯はひどく好戦的だった。

「麻季さんってどこまで自分勝手で卑劣なんだろう。お兄ちゃんに嫌がらせをするためなら奈緒人と奈緒を不幸にすることも辞さないのね」

 吐き捨てるように唯はそう言った。

「明日の調停で何と主張するのか決めなきゃいけないんだ」

 僕はもう何かを考える当事者能力を失っていたのかもしれない。これまでの僕は奈緒人と奈緒を失うか、これまでどおり一緒に過ごせるのかの二択以外のことは考えもしなかったのだ。突然に告げられた奈緒だけを引き取りたいという麻季の主張は僕を混乱させた。

 これまで麻季には少なくとも奈緒人と奈緒にだけは愛情があるということを、僕は疑っていなかったし、そのことを前提に麻季と親権を争っていたつもりだった。たとえ奈緒人と奈緒の親密な様子に僕と怜菜を重ねてしまっていたとしても、まさか麻季が奈緒人と奈緒を引き剥がすような、子どもたちにとって残酷な主張をするとは夢にも思っていなかったのだ。

「明日、どうすればいいのかな」

 僕は思考を停止して唯に弱音を吐いた。そんな僕の様子に唯は憤った様子だった。

「どうもこうもないでしょ。断固拒否するのよ。奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて可哀そうなことは認められないでしょうが。あの子たちが麻季さんの虐待に耐えられたのはお互いを慰めあってきたからじゃない。奈緒人と奈緒を散々傷付けたくせに、反省するどころかさらに傷つけようとする麻季さんなんかに負けちゃだめよ」

「でも弁護士は訴訟に移行しても負けそうだって言ってるし」

「だから何? やってみなければわからないでしょ。調停ごときで諦めるなんて、お兄ちゃんは奈緒人と奈緒を愛していないの?」

 理恵はといえば基本的には唯と同じ意見だった。でも唯と異なるのは、僕がどう判断しようとも最終的には僕の判断を受け入れると言ったことだった。

『後で後悔するくらいなら結果はともかく唯ちゃんの言うようにとことん足掻いた方がいいかもしれないね』
 そう電話口で理恵は話した。『でも最終的には決めるのは博人君だし、それがどういう決断になるとしてもあたしは最後まで博人君の味方をするよ』

 調停の日は両親は病院へ行くことになっていた。そして間の悪いことに唯はその日、内定していた企業の招集日だった。つまり実家には奈緒人と奈緒の面倒をみる人間がいなかったのだ。

「明日は病気になる。高熱があることにする」

「だめだよ。社会人になる最初のステップからおまえをさぼらせるわけにはいかないよ」

「じゃあ、もう内定辞退するよ」

「だから駄目だって」

 そんなことを唯とやりあっていたとき、理恵が事情を知って電話してきてくれた。

『奈緒人君と奈緒ちゃんも連れて来ればいいじゃん。家裁の隣の公園で遊ばせておけば?』

「子どもたちだけで?」

『明日はあたしもついて行くから』

「仕事もあるだろうしいいよ」

『明日は代休だよ。あたしも一度くらい調停っていうの経験してみたいし』

「・・・・・・それじゃ奈緒人たちはどうなるの」

259 : 以下、名... - 2015/01/04 00:08:13.55 kTwpF7aEo 235/442


『奈緒人君なら奈緒ちゃんの面倒くらいみられるよ。唯ちゃんもそう言ってたし。あたしも玲子に頼んで明日香を連れて行くからさ。何かあったら玲子が奈緒人君たちの面倒みてくれるよ』

「玲子ちゃんと明日香ちゃんって、奈緒人と奈緒と会ったことすらないじゃん」

『心配いらないって。それとなく気にするように玲子に言っておくから』

 そういうわけでその日の調停の場には関係者として理恵が同席した。その場では顔を合わせなかったけど、調停委員の話では麻季の方も鈴木先輩を連れてきたということだった。

 結局唯の言うとおり、奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて考えられないことを主張して、この日の調停は終った。僕と理恵が連れ立って家裁のそばの公園を歩いて行くと、ジュースやアイスクリームを販売しているワゴンのところに、玲子ちゃんが三人の子どもたちと一緒に休んでいることに気が付いた。

「あら、結局一緒にいたんだ」
 理恵が微笑んで玲子ちゃんに話しかけた。玲子ちゃんは初対面のはずの奈緒人と奈緒に気がついてくれたらしく、明日香ちゃんと一まとめにして面倒をみてくれたらしかった。

「玲子さん、奈緒人たちの面倒までみてもらってすいませんでした」

 僕は玲子ちゃんに礼を言った。

「どういたしまして。結城さんにそっくりだから奈緒人君のことはすぐにわかりました」
 玲子ちゃんが微笑んだ。「奈緒人君、しっかりしているから余計なお世話かと思ったんですけど、奈緒ちゃんと明日香がいつの間にか一緒に遊び出してたんで」

「本当にありがとう」

「いいですよ。一人も三人も一緒だし。まとめて面倒みてただけで」

 玲子ちゃんがどういうわけか顔を赤くした。

「玲子おばさんにソフトクリーム買ってもらった」

 奈緒人が言った。

「おばさんって、奈緒人。お姉さんと言いなさい」

「パパ」

 突然、奈緒が奈緒人から離れて僕に抱きついてきた。僕は暗い気持ちを隠して奈緒を抱き上げた。抱き上げられた奈緒は無邪気に喜んで笑っていた。



 調停からの帰り道、みんなでファミレスに寄って遅い昼食をとることにした。僕と理恵、玲子ちゃんと子どもたち三人の総勢六人で賑やかに食事をしたのだったけど、そのときの子どもたちの様子を僕はその後ずっと忘れられなかった。奈緒人と奈緒がお互い以外の子どもに興味を持って親しくしているところを実際に見たのはこれが初めてだった。明日香ちゃんも人見知りしない子のようだった。彼女は多少甘やかされて育った様子はしたけれど、そんなことには関わりなく奈緒人と奈緒とは短い公園での出会いですっかり打ち解けているようだ。特に奈緒と明日香ちゃんは既にお互いを名前で呼び合っている。

「お兄ちゃん口に付いている」

 奈緒が奈緒人の口を拭いた。

「服にもこぼしてるじゃん」
 明日香ちゃんも奈緒の真似をして奈緒人の世話をやき始めた。「お兄ちゃんの服、ケチャップが付いてるよ」

「・・・・・・明日香まで奈緒人君のことお兄ちゃんって呼んでるじゃない」
 玲子ちゃんが理恵をからかうように言った。「もう、いつでも結城さんと結婚できるね」

「玲子! あんた子どもたちの前で何言ってるの」

 理恵が本気で狼狽して言った。そう言えば明日香ちゃんに対して理恵が僕たちのことを話しているのか聞いたことはなかった。うちの実家でも理恵との再婚は両親と妹には公然の事実となっていたけれど、まだ奈緒人と奈緒にははっきりと話をしているわけではなかった。麻季との親権争いが片付いていない不安定な状況で将来の話を子どもたちにするわけにはいかなかったからだ。

「子どもってすぐに仲良くなっちゃうんだね」

 理恵のことを気にする様子もなく玲子ちゃんが笑って言った。

「そうですね。僕も驚いたよ」

260 : 以下、名... - 2015/01/04 00:09:11.58 kTwpF7aEo 236/442


「あたしは結城さんと奥さんの事情はよく知らないけど、この子たちのこういう様子を見ているだけでも結城さんとお姉ちゃんの結婚を応援する気になるよ」

 玲子ちゃんが理恵に言った。

「・・・・・・玲子」

「まあ、結城さんと結城さんの奥さんの話は唯ちゃんから聞かされてはいたし、奈緒人君たちもつらかったんだなとは思ってたんだけどさ」

「うん」

「でもまあ、唯ちゃんは結城さんが大好きなブラコンちゃんだから話が偏ることも多いからな」

「何言ってるのよ」

「だから話半分に聞いていたんだけど、今日公園で二人を眺めててさ。奈緒人君と奈緒ちゃんって相当つらいことを乗り越えてきたんだなって思った」

 少しだけ声を潜めて子どもたちを気にしながら彼女は言った。やはり初対面の玲子ちゃんでもそう考えたのだ。

「結城さんとお姉ちゃんが結婚すれば、奈緒人君と奈緒ちゃんとそれにうちの明日香が一緒に暮らせるじゃない? それだけでもこのカップリングは正しいよ」

「それだけでもって言うな。あたしと結城さんは」

「・・・・・・何よ」

「何でもない」

 理恵が赤くなった。

 二人の女の子にお兄ちゃんと呼ばれていた奈緒人はあまり動じていなかった。自然に明日香ちゃんのことを受け入れているように見えたけど、それでも奈緒人が一番気にしていたのは奈緒のことなんだろうなと奈緒人の様子を眺めながら僕は思った。それより僕にとって意外だったのは、奈緒人が実家の両親や唯に慣れ親しむのと同じくらい玲子ちゃんに気を許していたことだった。普段は大人同士の会話が始まると、大好きなはずの唯にさえ遠慮していた奈緒人が、僕や理恵の話しかけている玲子ちゃんの気を引こうと試みていることに僕は気がついた。ただ、奈緒人は玲子ちゃんのことを「玲子おばさん」と呼びかけていせいで、玲子ちゃんの機嫌を少し損ねているようだったけど。

「あのね奈緒人君。おばさんじゃなくて玲子お姉ちゃんって呼んでいいのよ」

「なんでよ。あたしは叔母さんって呼んでるじゃん。お兄ちゃんも叔母さんって呼べばいいよ」

 明日香ちゃんが奈緒人の腕に手をかけた。一瞬、奈緒が明日香ちゃんの方を見た。その視線はまるで子どもっぽくなかった。嫉妬する一人の女の子のような視線みたいだ。

 ・・・・・・まさかね。考えすぎだと僕は思った。麻季の心境を想像しようと努めていたせいか自分まで変な影響を受けたらしい。僕は頭を振った。

「どうしたの」

 気が付くと理恵が不審そうに僕の方を眺めていた。

「いや・・・・・・何でもない」

「三人ともすぐに仲良しになったね。何だかうれしいと言うか気が抜けちゃった」

「どうして?」

「うん。あたしと博人君がうまくいってもさ。子どもたちが一緒に住むことに慣れなかったらどうしようかってちょっと心配だったからさ。でも玲子の言うとおりいらない心配だったみたい」

 奈緒人と奈緒の様子に僕と怜菜の心の中の不倫を重ねて見ているのではないかと最初に言い出したのは理恵だった。でも理恵はそんな麻季の心の動きが異常なものだと見做していたのだろう。理恵自身は明日香ちゃんのことはもちろん、奈緒人の奈緒が仲がいいことに対して単純に喜んでいるだけで,それ以上余計なことは何も考えていないようだった。

 もうこのことを考えるのはやめようと僕は思った。麻季が何を考えているのなんかどうでもいい。それよりも親権を獲得できれば、僕と理恵の家庭の幸せは約束されたようなものだ。子どもたちの仲のいい様子を見てそれがわかっただけで十分なのだ。

261 : 以下、名... - 2015/01/04 00:09:43.66 kTwpF7aEo 237/442


 そう割り切ってしまえば親権の争い以外に悩むことはなかった。これまで子どもを放置した麻季に対して嫌悪感を感じていた僕だったけど、それでも僕の中には麻季への未練、というか麻季との幸せだった過去の生活への未練が、どこかにわずかだけど残されていたのだろう。でも理恵へのプロポーズや明日香ちゃんを含めた子どもたちの仲の良さを実感したことで、ようやく僕はその想いから開放された。その感覚は癌の手術後の経過にも似ていた。癌の手術後の患者はいつ再発するのかと常に悩むかもしれない。そして経過観察期間が過ぎて、もう大丈夫だと思うようになって初めて今後の人生に向き合うことができるのではないか。

 僕の場合もそれに似ていた。まだ調停の結果は出ていないけど、この先の自分の人生に向き合う気持が僕の心の中にみなぎるようになったのだ。僕はもう迷わなかった。理恵と三人の子どもたちと、新しい家庭を構築するという単純な目標だけを僕は希求するようになった。弁護士の言うように調停の結果奈緒の親権が確保できなかったら訴訟を起こそう。悲観的な弁護士と違って唯は勝てる要素は十分にあると言っていたのだし。

 僕はその方針を実家の両親と唯に、そして理恵に伝えた。みんなが賛成してくれた。

 僕は仕事上もプライベートでもかつての調子を取り戻していた。理恵と実質的に婚約していた僕にとって、もう将来は不安なものではなかった。麻季との離婚が成立したらすぐに理恵と結婚することになっている。理恵は残業のない職場に異動希望を出し、それが認められなければ専業主婦になると言ってくれていた。そして、たとえ僕と麻季の離婚の目途はつかなくても、来年の四月になって唯が奈緒人たちの面倒を見れなくなったら一緒に住んで子どもたちの面倒をみると理恵は言った。

 現状にも将来にも今の僕にとって不安な要素がだいぶ減ってきていたから、僕は今まで以上に仕事に集中することもできるようになっていた。



 その日の夜の九時頃、僕は残っている部下たちにあいさつして編集部を出た。この時間になると帰宅しても子どもたちはもう寝てしまっている。まっすぐ帰宅しようかと思ったけれど、さっき唯からメールが来て今日は家に夕食がないので残業するならどこかで食事をしてくるように言われていた。僕は夕食の心配をしなければいけなかった。

 一瞬、まだ仕事をしているだろう理恵に連絡して一緒に食事でもという考えが頭をよぎったけれど、よく考えたら彼女は今日は泊りがけの取材で地方に赴いていることに気がついた。面倒くさいしコンビニで何か買って実家に帰ろうかと思って社から地下鉄の駅に向って歩こうとした瞬間、僕の目の前に人影が立っていることに気がついた。

「久しぶりだね」

 目の前の人影が穏かにそう言った。都心の夜の歩道はビルの中の灯りや街路灯のせいで身を隠すなんて不可能だ。

「・・・・・・え? 何で」

 僕は口ごもった。目の前に立っていたのは、見慣れた服に身を包んだ麻季だった。

「元気そうね、博人君」

 以前によく僕に見せてくれた優しい微笑みを浮べて麻季が言った。ちょっと長い出張から戻ったとき、麻季は僕に今と全く同じ微笑みを浮べてそう言ってくれたものだった。

「偶然だね」

 ようやく僕は掠れた声で答えることができた。

「偶然というわけじゃないの・・・・・・。あなたが会社から出てくるのを待ってた」

 麻季の微笑みに不覚にも少しだけ動揺する自分のことが、僕は心底嫌だった。

「・・・・・・お互いに弁護士を通してしか接触しないことになっていなかったっけ」

 僕はようやく気を取り戻してそう言うことができた。麻季と直接二人きりになることはもうないものだと思ってはいたけど、先日の居酒屋での偶然もある。理恵に結婚を申し込んでからは、万一再び麻季と会うことになったらそう言おうと僕は心に決めていた。そしてどうやら僕は動揺しながらも思っていたとおりのセリフを口に出すことができたのだ。

「それはそうなんだけど・・・・・・」

 麻季は俯いてしまった。

「何か用事でもあるの」

 僕は意識して冷たい声を出すように努めた。麻季は黙ったままだった。

「これから実家に帰らなきゃいけないんで、用事がないならこれで失礼する」

 用事があったとしても僕は黙ってここから立ち去るべきだ。

262 : 以下、名... - 2015/01/04 00:10:14.77 kTwpF7aEo 238/442


「待って。あなたと話したいの」

「・・・・・・話なら弁護士を通してくれるかな」

「・・・・・・博人君と直接お話したいと思って」

「あのさ」
 僕は段々と腹が立ってきた。「弁護士を通せって言い出したのは君の方だろう。携帯だって着信拒否してるくせに今さら何言ってるんだ」

「してない」

「え」

「着拒してたけどすぐに後悔してとっくに解除してあるの。でも博人君連絡してくれないし」

「あれ? 編集長まだいたんすか」

 部下の一人がそのとき編集部から出てきて僕に話しかけた。彼はすぐに麻季に気がついた。悪いことに彼は麻季とも顔見知りだった。

「あれ、麻季さん。ご無沙汰してます。お元気でしたか」

「・・・・・・お久しぶりです」

 麻季が小さな声で言った。

「何だ。結城さん、今日は奥さんと待ち合わせでしたか。相変わらず仲がいいですね」

 社内では上司以外は僕と麻季の仲が破綻していることを知らない。

「そんなんじゃないよ」

「麻季さん相変わらずおきれいで。それにお元気そうですね」

「・・・・・・はい」

 彼は腕時計を眺めた。

「おっといけね。マエストロをお待たせしたらご機嫌を損ねちゃう。じゃあ、俺はこれで失礼します」

「先生によろしくな」

「わかりました」

 彼は麻季に向ってお辞儀をして足早に去って行った。

 どうもこのままでは埒があかない。それにいつまでも編集部の前で人目に晒されているわけにもいかなかった。

「しようがない。とにかくここから移動しよう」

 僕は麻季に言った。

「うん。ごめん」

「来るなら来るって連絡してくれればいいだろ。いきなり待ち伏せとか何考えてるんだよ」

「ごめんなさい」

 麻季が泣き出した。彼女が何を企んでいるのかはしらないけど、社の前で泣かれると困る。僕は仕方なく彼女の手・・・・・・ではなく、上着の袖を遠慮がちに掴んで歩き出した。麻季は大人しく僕の後を付いて来た。

 クローバーへ行こうと思ったのだけど、馴染みのその喫茶店はこの時間では既に閉店していた。それによく考えるとあそこは生前の怜菜と最後に会った場所だし、理恵にプロポーズした場所でもある。あそこに麻季を連れて行く訳には行かなかった。この辺にはファミレスもない。

 こんな時にどうかと思ったけど、立ち話を避けるためには選択肢はあまり残されていなかった。

「そこの居酒屋でもいいかな」

 麻季は黙って頷いた。

263 : 以下、名... - 2015/01/04 00:10:45.46 kTwpF7aEo 239/442


 チェーンの居酒屋はそこそこ混んでいるようだったけど、僕たちは待たされることなく席に案内された。

 向かい合って席に納まるとしばらく沈黙が続いた。店員が突き出しをテーブルに置いて飲み物の注文を取りに来た。

「・・・・・・僕には生ビールをください。君は・・・・・・ビールでいい?」

 麻季は俯いたままだ。これでは店員だって変に思うだろう。

 麻季は昔から炭酸飲料が苦手だった。彼女は酒が飲めないわけではなかったのだけど、ビールとか炭酸が入っているものは一切受け付けなかったことに僕は思い出した。彼女は地酒の冷酒とかを少しだけ口にするのが好きだったな。それでもこの場で僕が麻季に酒を勧めていいのだろうか。少し僕は迷った。

「・・・・・・冷酒、少しだけ飲むか」

 俯いていた麻季が少しだけ顔を上げた。

「・・・・・・いいの?」

「いいのって。聞く相手が違うだろ」

 こいつはいったい何を考えているのだろうか。

「冷酒でいいか」

「うん。あたしの好みを覚えていてくれたんだ」

 麻季の返事は少しだけ嬉しそうに聞こえた。

 やがて生ビールのジョッキと冷酒の瓶がテーブルに運ばれてきた。麻季の前にはガラスのお猪口のような小さなグラスが置かれる。何となく手酌にさせるのも可哀そうで、僕は冷酒の瓶を取って彼女のグラスに注いだ。

「ありがとう」

 麻季がグラスを手に持って僕の酌を受けて微笑んだ。何か混乱する。まるで奈緒人が寝たあと、夫婦で寝酒を楽しんでいた昔の頃に戻ったような感覚が僕を包んだ。

 今日一日ほとんど飲み食いせずに仕事をしていたせいか、こんな状況でも喉を通過する生ビールは美味しかった。人間の整理は単純にできている。僕は思わず喉を鳴らして幸せそうなため息をついてしまったみたいだ。麻季は冷酒のグラス越しにそんな僕の様子を見てまた微笑んだ。

「博人君、喉渇いてたの?」

「・・・・・別に」

「何か懐かしい。博人君が残業して深夜に家に帰って来たときって、いつもビールを飲んでそういう表情してたね」

「そうだったかな。もう昔のことはあまり覚えていないんだ」

 僕は意識して冷たい声を出した。

 ・・・・・・実際は覚えていないどころではなかった。子どもができる前もできた後もあの頃の僕の最大の楽しみは、帰宅して次の日の仕事を気にしながらも麻季にお酌してもらいながらビールを飲むことだったから。奈緒人を身ごもってから麻季は酒を一切飲まなくなったけど、その前は彼女も僕に付き合って冷酒をほんの少しだけだけど一緒に付き合ってくれたものだった。

 いや。そんなことを思い出してどうする。どういうわけか、あれだけひどいことを麻季にされたにも関わらず僕は以前の生活を懐かしく思い出してしまったようだ。僕は無理に冷静になろうとした。

「それで何か用だった? 調停のことだったら家裁の場以外では交渉しないように弁護士に言われてるんだけど」

「・・・・・・うん」

「うんじゃなくてさ」

 麻季が何を考えているのか僕には全く理解できない。

「食事してないんでしょ」

264 : 以下、名... - 2015/01/04 00:12:15.64 kTwpF7aEo 240/442


「博人君、職場で夜食食べるの嫌いだもんね」
 麻季がどういうわけかそう言った。「何か食べないと」

 麻季はいそいそとメニューを持ってじっとそれを眺め出した。

「君の食事の面倒みるのって久し振り。ふふ。博人君、食べ物の好み海外から帰っても変わってないよね?」

「・・・・・何言ってるの」

「本当は身体には悪いんだけど・・・・・・でも好きなものを食べた方がいいよね」

 麻季が店員を呼んで食べ物を注文した。それは完璧なまでに僕の好みのものだった。これだけを取ってみれば、理恵や唯よりも僕の食生活の嗜好を理解していたのは麻季だった。でもそれは当然だ。破綻したにしても何年にも渡って麻季と僕は夫婦だったのだから。

 それにしても麻季は何でわざわざ僕に会いに来たのだろう。いろいろ店内に入ってからはいろいろと喋りだしてはいるけれど、彼女が今になって何のために僕の前に姿を見せたのかについてはヒントすら喋らない。

「お酒、注いでもらってもいい?」

 さっき麻季に酒を注いだときに僕は冷酒の瓶を自分の手前に置いてしまっていた。僕は再び麻季のグラスに冷酒を満たし、今度は麻季の手前にその瓶を置いた。

 麻季は一口だけグラスに口をつけてテーブルに置いた。

「ビールでいい?」

「え」

 僕はいつの間にか生ビールのジョッキを空にしてしまっていたようだ。

「頼んであげる」

「あのさあ。明日も仕事だしゆっくり酒を飲んでる時間はないんだ」

「でもお料理もまだ来てないよ」

「君が勝手に頼んだんだろうが」

「今日って実家に帰るだけでしょ? まだ終電まで三時間以上あるじゃない」

「そういう問題じゃない。第一に早く帰って子どもたちの顔を見たい。第二に君と二人きりで一緒にいたくない・・・・・・。おい、よせよ。何で泣くんだよ」

 泣きたいのはこっちの方だ。僕は泣き出した麻季を見ながらそう思った。

「ごめん」

「・・・・・・うん」

「本当にごめんなさい」

「もういいよ。それにさっきから何に対して謝ってる? 突然会社の前で待っていたこと? それとも泣いたこと?」

 僕は弁護士からは、調停の場か弁護士が同席していない限り調停内容に関わる会話は避けるように言われていた。これまではあまりそのことを真面目に考えたことはなかった。そもそも麻季の方が僕を避けていたので顔を合わす可能性なんてなかったからだ。

 でも、こうして久し振りに麻季と二人で話せる状態になると、僕はこれまで溜め込んできて吐き出す場がなかった怒りや疑問が口をついて出てしまった。そして一度負の感情を口に出してしまうと、それは自分では制御できなくなってしまった。

「それともまさかと思うけど、麻季は不倫したことや子どもたちを虐待したことを今さら後悔して謝っているのか? そんなわけないよな。弁護士から聞いたよ。鈴木先輩と再婚するんだってな。よかったね、僕なんかに邪魔されないで最愛の人とようやく結ばれてさ」

 一気にそこまで話したとき、ようやく僕の激情の糸が途切れた。心の底がひえびえとして重く深く沈んでいった。

 僕は周囲の客の好奇心と視線を集めてしまったことに気がついた。

「大声を出して悪かったな」

 僕は冷静さを取り戻して麻季を見た。麻季は動じていなかった。むしろこれ以上にないというほどの笑顔で僕に向かって微笑んだのだ。とても幸せそうに

265 : 以下、名... - 2015/01/04 00:12:47.13 kTwpF7aEo 241/442


「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」

 麻季が静かに笑って言った。

 僕は凍りついた。

 ・・・・・・麻季はいったい何を言っているのだ。そして記憶を探るまでもなくそれは鈴木先輩に殴られた麻季を助けたときに彼女が脈絡もなく言ったセリフだった。それをきっかけに僕と麻季は付き合うようになったのだ。

「何言ってるんだ・・・・・・結城先輩って何だよ」

「懐かしくない? あたしと博人君の馴れ初めの会話だよ」

 それにしても泣いたかと思うとすぐに優しい顔で微笑む麻季はいったい何を考えているのだろう。麻季のこういう支離滅裂な性格は大学時代には理解していたつもりだったけど、彼女と付き合い出して結婚してからはこういう意図を理解しがたい言動は全くといっていいほど見られなくなっていたのに。

「もういい。僕は帰る」

 僕が立ち上がると初めて麻季は慌てた様子で僕のスーツの袖口を掴んだ。

「帰らないで。ちゃんと話すから・・・・・・。全部話そうと思って来たの」

 今まで笑っていた彼女がまた泣き顔になって言った。僕はしぶしぶ腰を下ろした。

「何を話す気なんだよ」

「全部話すよ。博人君がドイツに出張してからあたしが何を考えていたか」

 僕は思わず緊張してまだ涙の残る麻季の顔を見直した。

「あたしさ。いろいろ努力はしたんだけど、結局、奈緒のことが好きになれなかったんだ」

 麻季が言った。

 麻季にそういう感情もあるのではないかと考えたこともあったので、僕は思ったよりは動揺しなかった。それでも仲が良かった頃の夫婦のような間合いで二人で過ごしている状況で、薄く微笑みながらそういう言葉を口に出した麻季の様子に僕は少しショックを受けた。

「もちろん奈緒には何の責任もないことなのよ。だから一生懸命頑張って笑顔で奈緒には優しくしたんだけどね」

「・・・・・・・怜菜の娘だからか? でもそれなら何でわざわざ苦労して奈緒を引きとるなんて言い出したんだ」

「・・・・・・あまり驚かないのね」

「僕が不在のときの君の行動を知ってからは、君についてはもう何を聞かされても驚かなくなったよ」

「博人君ひどい」

「君の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったよ」

「確かに今は離婚調停中だけど、お互い別に嫌いになって別れるわけじゃないんだよ。会っているときくらい前みたいに仲良くしたっていいじゃない」

「・・・・・・何言ってるの?」

「何って」

「僕たちがお互いにまだ愛し合っているとでもいいたいの」

「うん・・・・・・。あれ、違うの?」

 麻季は本気で戸惑ったようにきょとんとした顔をした。そして麻季の話はかつて僕がボーダーではないかと疑ったときのように支離滅裂になってしまっている。

 子どもたちの育児放棄。帰国したときに見た廃墟のようにゴミが散乱していた我が家。太田弁護士から受け取った受任通知書。そして鈴木先輩と麻季の再婚。

 そのどこを取ったら僕への愛情が見られるというのだ。

266 : 以下、名... - 2015/01/04 00:13:32.32 kTwpF7aEo 242/442


「注いでくれる?」

 麻季がにっこり笑ってグラスを掲げた。

 わずか数ヶ月僕が家庭を留守にしている間に麻季の心境に何が起きたのか、どうして彼女は自分の夫と子どもたちにこんなひどい仕打ちができたのか。今夜はようやくその答が聞けるのではないかと思ったけど、滑り出しは最悪だった。謎がさらに深まっていくばかりだ。もう諦めて帰った方がいいんじゃないか。麻季の心境のことは諦めるつもりになったばかりなのだし。

 一瞬そう考えたけど、一見すると整合していない麻季の話は彼女の中では完結していたことを思い出した。コミュ障というか彼女は心情表現が稚拙なのだ。どうせもう遅くなってしまっている。僕はもう少し粘ってみるつもりになった。そのためにはこちらから話を誘導して質問した方がいい。付き合い出したばかりの頃はよくそうしたものだった。とりあえず黙って麻季に冷酒を注いでから僕が自分から質問しようとしたとき、麻季が 注文した料理が一度に運ばれてきてしまった。

「話は後にしてとりあえず食べて」
 そう言って麻季は取り皿に運ばれてきた料理を取り分けて僕の前に置いた。「あなたは放っておくと夜食べないことが多かったよね」

「・・・・・・そうだっけ」

「うん。だから子どものこととかすぐにあなたに相談したいときでも、あなたに食事させるまでは我慢してたんだよ。そうしないとあなたは相談を真面目に聞いてくれるのはいいんだけど、夢中になって食事を忘れちゃうから」

 いまさらそんな話を微笑みながら言われても困るし、同時に全く自分の心には響いてこない。懐かしさすら浮かんでこないのだ。当然とは言えば当然だった。僕には今では理恵がいる。麻季は僕たちは離婚協議中だけどお互いにまだ愛し合っているというようなことを言った。でも僕の愛情はもう麻季には向けられていない。そして麻季だって鈴木先輩と再婚するのではなかったのか。僕のことを愛しているのならそんなことをするわけがない。麻季が普通の女なら。

 そう普通の女ならそうだ。でも麻季は、少なくとも今の状態の麻季は普通ではないのかもしれない。僕はとりあえず奈緒に対する麻季の気持について棚上げして、根本的な疑問から解消してみようと思った。

「まあせっかく注文してくれたんだから食べるよ。でも時間も遅いし食べながら話そう」

 僕は麻季を宥めるように微笑んでみた。まるで言うことを聞かないわがままな子どもをあやすように。

「ちゃんと食べてくれる?」

 麻季が顔をかしげて言った。それはかつてはよく見た見覚えのある可愛らしい仕草だった。

「君が家を出て行ったのってさ」

 食欲は全くなかったけど無理に食べ物を口に運んでから僕は切り出した。

「うん」

 普通は緊迫する場面だと思うけどどういうわけか麻季は食事をする僕の様子をにこにこしながら見守っている。

「やっぱり僕とじゃなくて鈴木先輩と家庭を持ちたいと思ったからなんでしょ?」

「違うよ」
 あっさりと麻季は答えた。「大学で初めて博人君と出会ってから、あたしが本当に好きなのは昔から今まであなただけよ。だからあたしが一緒に暮らしたいのもあなただけだよ」

「あのさあ」

「もちろん、一度は雄二さんと過ちを犯したのは事実だけど・・・・・・。でもあのときだって本当に愛していたのは博人君だけ。あのときはそんなあたしを博人君は許してくれたよね」

 もう麻季には未練の欠片もないはずなのに、麻季が先輩のことを雄二さんと呼んだことに少しだけ胸が痛んだようだった。

「だって再婚する予定なんだろ? 鈴木先輩と」

「うん。でも雄二さんと連絡を取り出したのは最近だよ。家を出て行ったときはメールさえしていなかったし。最近会うようになるまでは、彼と会ったのはあなたと二人で奈緒を引き取りに行ったときが最後」

267 : 以下、名... - 2015/01/04 00:14:03.65 kTwpF7aEo 243/442


「それは変じゃない? 君は児童相談所に押しかけてきただろう。自分が見捨てた子どもたちを返せってさ。そのときは男と一緒だったって聞いたんだけどな」

 いまさら彼女の心変わりなんか批判するつもりなんかなかったのに、僕は思わず麻季を非難するような言葉を口にしてしまった。

「うん。でもそれ雄二さんじゃないから」

 麻季は落ちついて言った。

「・・・・・・誰なの」

「あなたと神山先輩が居酒屋でキスしてたときにあたしと一緒にいた人」

「どういう人なの」

「よくわからないの。どっかのお店で声をかけられただけだから。名前もよく覚えていない」

「・・・・・・手当たり次第ってわけか」

「そうかも。今は雄二さんだけだけど」

 麻季に真実を白状させようとした僕は、思わぬ彼女の話に自分の方が混乱してしまった。家を出る前からか出た後かはわからないけど、麻季は複数の男と遊んでいたようだ。

「・・・・・・何で子どもたちを何日も放置したまま家を空けた?」

 僕は力なく言った。もう上手に彼女から考えを引き出す自信なんて消え失せていた。以前と全く変わらない様子で僕を見つめて微笑んでいる麻季は、僕の妻だった頃の麻季ではないことはもちろん、大学の頃の不可解な麻季ですらなかったようだ。麻季のしたことを許せはしないまでも、事情を聞けばその行動が少しでも理解できるだろうと思っていた僕が甘かったようだ。

「口がお留守になってるよ。もっとちゃんと食べないと」

「食べるよ・・・・・・だから答えてくれ」

「ちょっとだけあなたを愛し過ぎちゃったからかな。あたしを放って家を空けた博人君にも原因があるのよ」

「寂しかったからとか陳腐な言い訳をするつもり?」

「あなたがいなくて寂しかったのは事実だけど、それだけじゃないの。あたしも努力したんだけど我慢できなくなって」

「抱いてくれる男がいなくなって我慢できなくなったってことか」

 思わず情けない言葉を口にした僕はそのことに少しだけ狼狽した。

「何度でも言うけど今でも昔と変わらずにあなたのこと愛してる。いえ、会えなくなった分、昔より何倍もあなたが好きかも」

「わかんないな。僕のことを愛しているなら何で男を作って家出することになるんだよ」

「だから最初に言ったでしょ。奈緒のこと」

 僕はもう麻季を問い詰めることを諦めて彼女に好きに喋らせることにした。今夜は帰れないかもしれないな。腕時計をちらっと見て僕はそう覚悟した。

 やがて麻季が微笑みながら話し出した。


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【オリジナルSS】ビッチ(改)#5【再編集版】

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