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【オリジナルSS】ビッチ(改)#1【再編集版】
【オリジナルSS】ビッチ(改)#2【再編集版】

149 : 以下、名... - 2014/12/20 23:49:57.87 gkMads52o 133/442


第二部



 もう十年も前になる。

 それはすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園は樹木が高く枝を張り、繁茂している緑に日差しが和らげられていて、申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古びた建物の中よりよっぽど快適だった。あれは大学二年の頃だったから、今から思うとあたしがまだ保育園に通っていた姪の明日香を公園で遊ばせていたのは2003年のことだったと思う。

 明日香は涼しい木陰には片時もじっとしていなくて、あたしは炎天下の中を喜んで駆け回っている明日香を汗だくになりながら追い駆ける羽目になった。小さい子どもだから無理はないけど、明日香は二年前に父親を事故で亡くしたことなんかもうすっかり忘れていて、その日もちっとも大人しくせずにはしゃぎまわっていた。

 本当なら今頃は飛行機に乗って北海道に向かっているはずだった。大学のサークルの合宿がちょうどこの日から始まっていたのだ。あたしは随分サークルの合宿を楽しみにしていた。サークル内に気の合う女の子たちがいっぱいいたということもあるけど、密かに気になっていた先輩が北海道出身で、自由時間があればあたしをいろいろ案内してあげるよって言ってくれていたということもあった。

 大学二年生だったあたしはいろいろな事情もあって、高校時代に期待していたような充実した楽しい大学生活を送っていたとは言えない状況だった。音楽関係でもしたいことはあったし、彼氏だって作りたかった。アルバイトもしてみたかったし、同じクラスの子たちと講義の後でカフェに集って気になる男の子の話だってしたかった。

 でもこればかりは仕方がない。姉さんの旦那が交通事故で突然の死を遂げてから、あたしは落ち込んでいる姉さんを必死で励ましたし、一時期姉さんが育児を放棄したときは姉さんに代わって両親と一緒に姪の明日香の面倒もみた。あの頃は毎日自殺しかねない暗い顔の姉さんを一生懸命励ましながら、明日香の保育園の送り迎えをするのが大学で講義を受けていないときのあたしの日課だった。

 姉さんと姪のためだからあたしはそれを当然だと思って引き受けたし、そのことで姉さんや明日香を恨みに思ったことはなかったけど、あたしの大学生活はスタートから入学前に期待したようなものでなくなってしまったことも事実だった。それでも必修の講義のカリキュラムを何とかこなして、希望を持って入会したサークルでは幽霊部員扱いされながらも、あたしは必死で姉さんを支えた。もともと姉さんとは十歳以上も年齢が離れていたせいもあって、これまでは姉さんに頼ってきたのはあたしの方だった。その姉さんが抜け殻のようになってかろうじて自分の仕事だけを必死で守っていた姿を見たとき、あたしは自分が大学生活に期待していた多くのことを捨てる決心をしたのだ。

 あたしは公園の涼しい木陰を抜け出して噴水の水に手を差し伸べてきゃあきゃあと楽しそうに一人で遊んでいる明日香を目で追いながらサークルの夏合宿のことをぼんやりと考えた。今頃はサークルのみんなは飛行機の中で盛り上がっているだろう。滅多にサークルに顔を出せないあたしに合宿の案内を手渡して誘ってくれたのは気になっていた先輩だった。

「君の同期の女の子たちから頼まれたんだ。玲子ちゃんは家庭の事情で忙しいみたいだけど、せめて合宿くらいは参加してほしいから僕から声をかけてくれって」

 先輩はそんなに目立つ方ではなかったし、あたしだってあのことさえなかったら先輩を好きになろうなんて思わなかったかもしれない。それは先輩にはすごく失礼なことだったけど。木管楽器を専攻していた先輩は穏やかでいつも笑顔を浮かべていた。他の先輩たちと異なり音楽上の野望もないようで故郷の北海道で音楽の教師をしたいということだけが、先輩の唯一の望みだと聞いていた。もともと将来への夢でぎらぎらしている学生で溢れていたこの大学では、そういう堅実な姿勢は珍しかった。あたしが先輩のことを気にしたのはそのことを友だちから聞かされたからかもしれない。

「君にも事情があるだろうしあまり無理は言えないけど、できるなら合宿に参加した方がいいよ。知り合いも増えるしね」

「それに」」

 先輩はそこで少し顔を赤らめて照れたように続けた。

「自由時間には君をあちこち案内してあげるよ。北海道はいいところだよ」

 その言葉がしばらくの間あたしの胸の中に留まってぐるぐると渦巻いた。先輩のような人と恋におちて将来北海道で教員をしている先輩と共に暮らすという考えがあたしの心を捉えて離さなかったのだ。今から思うと随分先輩には失礼な話だっと思う。先輩のことが気になっていたのは嘘じゃなかった。でもそれは本気の恋ではなかったのだ。

 姉さんが立ち直って少しづつ元気を取り戻したのは偶然に結城さんと再会したからだった。あたしは以前のように笑顔を見せるようになった姉さんのことが嬉しかった。姉さんが久しぶりの笑顔で明日香を抱き上げる様子を見ると、依然として大学生活には未練があったあたしも明日香の世話をすることがあまり苦にならなくなってきた。幼馴染だった結城さんと姉さんの再会と交友関係の復活が恋愛関係に変化するのに時間は不要だったみたいだった。姉さんは結城さんの存在に心の平穏を見出したのだ。

150 : 以下、名... - 2014/12/20 23:50:38.79 gkMads52o 134/442


 その頃の結城さんは自分の海外赴任中に、元彼と浮気した挙句、大切な子どもたちをネグレクトした奥さんと離婚協議中だった。でもそれさえ片付けば二人は結ばれて改めて幸せな家庭を築けるだろう。こうして姉さんが旦那の不慮の死から立ち直っていくことは嬉しかったし、実家の両親も素直に喜んだので、姉さんの旦那さんの死後、暗くなっていた家の雰囲気もよくなっていった。それでもこの変化によって新たな問題も生じた。それは主にあたしの個人的な問題だった。あたしは姉さんに紹介されて初めてあった結城さんに恋してしまったのだ。そしてその不毛な恋から逃れようとあたしは気になっていた先輩が好きになったのだと自分に言い聞かせ、そう思い込もうとしていた。

 いつのまにか明日香は公園の中央にある芝生のところで同じ年くらいの女の子と遊びだしていた。この年代の子どもたちが仲良くなるなんて実に簡単なことらしい。明日香とその女の子は手をつないで一緒に逃げ惑う鳩を追いかけていた。明日香の足取りもその女の子の足取りも危う気だった。互いに走る速度が違うのにお互いに手を離そうとしないからこれではすぐにでも転倒しそうな感じだ。さいわいにも地面は芝生が張ってあるし転んでもどうってことはないとあたしは思ったけど、すぐに考えを改めた。よその子どもを怪我させてしまうとまずい。あたしは物思いにふけるのを中断して明日香を止めようと思った。

 そのとき小学生くらいの男の子が二人の後を追い駆け出した。

「こらナオ。あんまり走ると危ないよ」

 男の子の澄んだ声が響き渡った。

 その男の子のことは目に入っていたのだけど、この子が明日香と一緒に遊んでいる女の子の連れだとは思わなかった。この子は女の子のお兄さんなのだろう。その子の声や表情には妹を大切にしている様子が窺われてあたしは思わず微笑んだ。兄弟っていいものだ。あたしだって姉さんのためにいろいろと自分を犠牲にしてきたのだけど、そのことで本気で姉さんを恨んだことはなかった。血の繋がりってすごいんだなとあたしその子を眺めながら考えた。

 男の子は明日香たちに追いついて二人の無謀な冒険を止めさせた。

「あたしたちはころばないもん」

 妹の方が口をとがらせて男の子に反抗した。

「でも転びそうになってたじゃん」

「なってない。お兄ちゃんのうそつき」

 やはりこの二人は兄妹なのだ。

「なってたよ」

 男の子のほうも譲る気はないようで頑固に妹に向かってそう言い張った。

「なってない! ねえ明日香ちゃん」

「そうだよねー。ナオちゃん」

 いつの間にかお互いの名前を教えあっていたらしい。ナオという名前を聞いたとき、あたしは公園に隣接した古い建物に集合して話し合いをしている人たちのことを思い出した。今日あたしは結城さんと一緒に話し合いに参加している姉さんの代わりに明日香の面倒を見ていた。どうせなら実家で明日香の面倒をみていた方が楽なのだけど、最近やたらに明日香のことを構うようになった姉さんが自宅を出ようとしただけで、明日香の機嫌が悪くなったのだ。それであたしは明日香と一緒にこんな場所に来ていた。

 今日は確か結城さんも子どもたちを連れて来ていたはずだった。結城さんの両親が通院する日だとかで子どもたちの面倒を見る人がいないという話だった。結城さんと姉さんは家裁のロビーで待ち合わせをしていたから、あたしは家裁の建物に入らずに明日香を連れて公園に来たのだった。

 目の前にいる二人はやはり結城さんの子どもなのだろう。名前も奈緒人と奈緒で事前に聞いていた話と一致する。あたしは三人がもつれ合うようにして会話をしている芝生の方に向かった。

「こんにちは奈緒人君、奈緒ちゃん」

 このときの奈緒人は少し警戒したようにあたしを見たのだった。そして奈緒ちゃんの手を握って自分の背後に隠すようにした。その警戒心にあふれた彼の仕草は、この兄妹がこれまでどんなに過酷な生活を強いられてきたかを、そして兄妹の絆がどんなに強いのかを物語るものだった。あたしは胸の痛みを誤魔化して無理に奈緒人に笑いかけた。

「心配しないでいいよ。お姉ちゃんは奈緒人君のパパの友だちだよ」

151 : 以下、名... - 2014/12/20 23:51:37.47 gkMads52o 135/442


 父親のことを聞いて奈緒人は少しほっとしたように警戒を解いてくれた。

「おばさんはパパのお友だちなの」

 奈緒人は気を許してくれたようだった。

 奈緒人の目を見たときあたしはもう間違いないと思った。奈緒ちゃんはともかく奈緒人は結城さんにそっくりだった。

「でも奈緒人君と奈緒ちゃんの面倒は誰がみるの?」

 今日明日香を連れて家裁まで来る途中であたしは姉さんに聞いた。

「安心して。いくらなんでも初対面の子どもたちの面倒を玲子にみれくれとは言わないから」
 本来なら相当緊張していてもいい場面なのに、姉さんは笑って言った。「玲子は明日香を見ていてくれればいいよ。結城さんが言ってたけど奈緒人君って年齢のわりにはすごくしっかりしてるんだって。それに奈緒ちゃんは奈緒人君が大好きだから、奈緒人君がいれば大丈夫だって結城さんは言ってたし」

 確かに奈緒人がいれば奈緒ちゃんは大丈夫だろう。実際にこの二人を見ていたあたしもそう思った。年齢の割には奈緒人はすごく大人びている印象だった。きっと奈緒ちゃんを守るためにそうならざるを得なかったのだろう。こんな子どもにそこまでの生活を強いた人がすぐ隣の家裁に来ているのだ。そのとき初めてあたしは見たこともないこの二人の母親に憎しみを覚えた。

「ねえ、お姉さん喉が渇いちゃったんだけどみんなでジュースを飲もうか。ソフトクリームでもいいよ」

 公園の隅にワゴンが出ていてジュースやらソフトクリームやらを販売していることにあたしは気がついていた。姉さんの彼氏の子どもたちなんだからあたしがまとめて面倒をみたって叱られはしないだろう。

「おばさんいいの?」

 その頃の奈緒人は小学生の割には随分遠慮がちな子どもだった。いや遠慮がちなのはあれから十年たった今でも同じだ。

「あのさ、あたしのことは玲子お姉さんって呼んでね」

 この年でおばさん呼ばわりされるのはかなわないので、あたしは奈緒人にそう言い聞かせた。

「何でなの? あたしはいつも叔母さんって呼んでるじゃん」

 無邪気な声で明日香が余計なことを言った。あんたの呼んでいる「叔母さん」とこの二人がいう「おばさん」じゃ意味が違うのよ。あたしはそう言いたかったけどそれをこの無邪気な子どもたちに上手に説明できる自信はなかった。

「玲子叔母さんっていうんだよ」

 明日香が奈緒人に教えた。それでその時から今に至るまであたしは奈緒人に叔母さんと言われ続けている。



 公園の隅のワゴンであたしはソフトクリームを買って子どもたちに渡した。そろそろ正午に近い時間で、あたしと明日香が公園に来てから一時間以上も経っている。もう三人はすっかり打ち解けていた。奈緒人が結城さんに似ていたせいで、ともすればあたしの視線は彼に釘付けになっていたのだけど、よく見ると妹の奈緒ちゃんはすごく可愛らしい子だった。身びいきではなく明日香も可愛い子だと思っていたのだけど、外見の整っていることでは奈緒ちゃんの方に軍配が上がった。

 明日香と仲良しになったらしい奈緒ちゃんだけど、彼女の視線はすぐに奈緒人の姿を求めていた。途中、奈緒人はあたしに奈緒ちゃんを託して公園のトイレに行った。明日香と夢中になってお喋りしながらソフトクリームを舐めていた奈緒ちゃんは、奈緒人がそばにいないこと気がつくとパニックにおちいったのだ。

 突然泣き出した奈緒ちゃんを抱きしめて宥めていたあたしは、奈緒人が帰ってくるのを見つけてほっとした。奈緒ちゃんはあたしの手から抜け出して奈緒人に抱きついた。

 離婚調停では結城さんの奥さんは二人の親権を主張していて折り合いがついていない。でもまだ幼い奈緒人と奈緒ちゃんをここまで追い詰めた母親にそんなことを言う資格はあるのだろうか。結城さんの離婚に関しては全く口を出す気もその資格もないあたしですらそう思った。この子たちは結城さんと姉さんに引き取られた方が絶対に幸せになれるだろう。いや、幸せになれなくても少なくとも普通の子どもと同じ生活は送れるに違いない。姉さんが再婚後にも仕事を続けるのなら、そうしたらそのときはあたしがこの三人の面倒をみてもいい。さっきまでサークルの北海道合宿に未練たっぷりだったあたしだけど、このときは本気でそう思ったのだ。

152 : 以下、名... - 2014/12/20 23:52:20.55 gkMads52o 136/442


 このとき結城さんと姉さんがワゴンのそばにいるあたしたちに気がついて、連れ立ってあたしたちのところに来た。

「あら、結局一緒にいたんだ」

 姉さんが微笑んだ。

「玲子さん、奈緒人たちの面倒までみてもらってすいませんでした」

 結城さんもあたしにそう言った。

「パパ」

 奈緒ちゃんが奈緒人から離れて結城さんに抱きついた。

 あれから十年経った。結局結城さんは奈緒ちゃんを引き取ることはできなかったのだけど、奈緒人だけは結城さんと姉さんの新しい家庭で明日香と一緒に兄妹として育った。あれからあたしの結城さんへの恋はあたしの心の底に深く隠されていて、あたしは誰にもそのことを悟られなかった自信があった。

 再婚しても姉さんは仕事を止めなかったので、前ほどではないけどあたしは大学を卒業するまで引き続き明日香の面倒をみた。あたしは当然、新たに姉さんたちの家族の一員となった奈緒人の面倒も一緒にみようとしたのだけど、奈緒人は明日香とは異なり全く手のかからない子どもだった。

 奈緒と二人で脱走する途中で保護されて、結局奈緒ちゃんとつらい別れを経験した奈緒人は、その後は一度もあたしに奈緒ちゃんの名前を出すことはなかった。まるで記憶からすっぽりとその部分が欠落したように。

 あたしは先輩とは何の進展もなく、高校時代に夢想したような充実した大学生活を送ることなく大学を卒業した。もちろん演奏家になることもなかった。それでも運がよかったのだろう。あたしは大手の出版社に入社した。最初は自社で出版している雑誌の広告を取る営業の仕事についた。その後に雑誌の販促を担当する営業企画の仕事を経て、あたしはやっと希望し続けていた雑誌の編集部に編集者として配属されることができた。本当は週刊誌で報道の仕事を希望していたのだけど、結局配属されたのは女子高校生をターゲットにしたファッション雑誌の編集部だった。

 この頃になるとさすがに仕事が忙しくなってきたあたしは、以前のように明日香や奈緒人の世話をすることもなくなっていた。明日香は昔と変わらずあたしを慕っていてくれたけど、この頃には明日香と奈緒人との仲は最悪の関係になってしまったようだった。あたしは仕事の合間を縫ってこの二人となるべく会うようにしたのだけど、そういうときでも明日香は全く奈緒人に話しかけることすらしなかったのだ。

 そのせいかはわからないけど奈緒人は内省的な性格の男の子になっていた。口数も少ないし趣味もインドア系のものばかりだったらしい。でもそんな彼にもあたしは好かれている自信はあった。奈緒人は遠慮がちにだけどあたしに甘えてくれることすらあった。あたしは時折奈緒人があたしに向ける視線にどきっとすることがあった。そしてその視線は結城さんのそれにそっくりだった。



 ・・・・・・退院した明日香は、今日奈緒人があたしに異性としての好意を抱いているといういうようなことを匂わした。あたしは胸の動悸を必死で抑えて明日香の言葉の意味に気がつかないふりをした。追い討ちをかけるように明日香は結城さんへのあたしの好意について質問したのだ。結局何も言葉が出てこなかったあたしは、二人を自宅に送ってから逃げるように車を出した。そうして二人と別れて車を運転して社に戻り途中でも、そのときの明日香の言葉が繰り返し胸の中再生されていた。



『お兄ちゃんはね、叔母さんのこと』

『違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと』



 結城さんへの想いはとうの昔に克服していて、今あたしに残っているのは明日香と奈緒人への、叔母としての愛情だけなのに。あのときあたしは何で顔を赤くするほど明日香のその言葉にうろたえたのだろう。年末に結城さんと会ったとき、いったいあたしは何で少女のようにみっともなくはしゃいだのだろう。いったい三十歳にもなるあたしは何を期待したのだろうか。まるで高校生の女の子のように取り乱しながら。

155 : 以下、名... - 2014/12/22 00:22:48.27 Ddj6iAmyo 137/442


 翌日も僕は学校を休んだ。一見、僕のことをからかったり叔母さんの父さんへの恋を語ったりしている明日香はもうあまり思いつめていないように見えた。でも、僕がトイレに行ったり食事の支度をしたりしてリビングのソファに寝ている明日香のところに戻る際、僕は明日香が僕と話している時にはあまり見せない暗い表情をしていることに気がついた。

 奈緒に会えないことは正直寂しかったし授業に遅れてしまうことへの危惧もあったけど、僕が悩んでいた時期に僕にそっと寄り添って一緒にいてくれた明日香を一人で自宅に放置するなんて論外だった。なのでリビングのソファで横になっている明日香の隣で僕はじっと腰かけて、PCに録画していた深夜アニメを、転送したスマホで見ていた。明日香がテレビを見ているのでイヤホンをして邪魔にならないようにしていたのだけど、それでも明日香は僕のしていることが気に入らないようだった

「あたしとお兄ちゃんは一緒にいるのに何でお兄ちゃんは自分ひとりでアニメ見てニヤニヤしてるのよ」

 明日香が僕のイヤホンを取り上げた。ニヤニヤなんかしていない。

「よせよ。壊れちゃうだろ」

「一緒にテレビ見ながら話しようよ」

 明日香が僕の手からスマホを取り上げて言った。

「テレビって」

 平日の午前中だから仕方ないのだろうけど、明日香がさっきから興味深々に見入っているのは主婦向けの情報番組だった。

「・・・・・・これ見るの?」

 僕は一応明日香に抗議したけれど実はそんなに視聴していたアニメには未練はなかった。最近はリアルの生活でいろいろ進展があるせいか、これまではあれほど熱中していたアニメがなんだかそんなに面白いとは思わなくなっていた。

「・・・・・・嫌なの? じゃあチャンネル変えようか」

 明日香がリモコンを弄ったけど結局はどれも似たような番組だ。

「いいよ。最初におまえが見ていたやつで」

 窓からはちらほらと舞い降ってくる粉雪が見える。この調子だと今日は積もりそうな勢いだ。

「・・・・・・この人おかしいよね」

 番組の中で芸人のコメンテーターが何か気の利いたことを言ったのだろう。明日香が笑って僕の方を見た。

 今頃は奈緒はどうしているのだろう。僕はふと考えた。まだ午前中の授業時間だから授業に熱中しているのだろうか。それともピアノのことでも考えてるのか。

 ・・・・・・それとも。ひょっとしたら僕のことを考えているのかもしれない。つらかった別れを経て久しぶりに再会できた兄のことを。奈緒が自分の実の妹であることを知った日以来、僕は精神的には本当にまいっていたのだけど、奈緒にとってはそれはそういう受け止め方をするような事実ではなかったようだ。奈緒はすぐに僕が自分の兄であることを受け入れたばかりか、僕を抱きしめながら本当に幸せそうな微笑みを浮べたのだ。僕は奈緒が真実を知らされることを恐れていた。出来立ての自分の彼氏が恋愛対象として考えてはいけない相手だと知らされたときの奈緒がショックを受けて傷付くことを恐れたからだ。

 奈緒は傷付くどころか喜んだ。僕だって妹との再会は嬉しくないはずはなかった。でも、これほどまでに入れ込ん最初の恋人が付き合ってはいけない女の子だったと知ったときの絶望感は僕の心に深く沈潜してなくなることはなかった。

 僕ほどにショックを受けていないのは僕が兄だと知る前の僕のことを、奈緒がそれほど愛してくれていたわけではないからなのだろうか。その考えは僕を混乱させた。奈緒を傷つけたくないと思っていたはずの僕は、あろうことか奈緒が僕と恋人同士ではいられなくなるという事実を知っても動揺しなかったことに対してショックを受けたのだ。

 いったい僕は何がしたいのだろう。過去に自分の記憶を封じ込めるほどにつらい過去があった。その話は玲子叔母さんが僕に話してくれたら今ではよく理解できていた。そのつらかった過去の一部が奈緒との再会によって癒されることになったのだ。

 それなのに僕はこれ以上いったい何を求め、何を期待していたのだろう。つらい別れをした兄貴と偶然に再会できて喜んでいる実の妹の態度に、僕は何が不満なのだろう。突き詰めると簡単な話なのだろう。僕はあれだけ大切にしていた妹が再び僕のそばにいてくれることだけでは満足できないのだ。要するに僕は奈緒のことを今でも妹としてではなく女としてしか見ていないのだろう。無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒の態度に、僕は飽き足らない想いを感じているのだ。

156 : 以下、名... - 2014/12/22 00:23:29.61 Ddj6iAmyo 138/442


 本音を言えば、奈緒を傷つけたくない混乱させたくないと思いながらも奈緒が彼氏である僕を失ったことを悲しんで欲しかったのだ。僕が奈緒に対して感じているのと同じ感情で。奈緒と出合った日。奈緒と初めてキスした日。

 僕はその思い出を今でも大切にしていた。そして僕は奈緒にもその想いを共有して欲しかった。奈緒は血の繋がった実の妹だった。それが理解できていた今でもなお、僕は奈緒に自分のことを異性として意識していて欲しいと願っていたのだ。ちょうど今の僕が奈緒に対してそう考えているように。

「また黙っちゃった。お兄ちゃんってこういうときはいつも何考えてるの」

 明日香は物思いにふけっていて自分を無視していた僕の態度に不満そうだった。

「ただぼんやりとしてただけだけど」

「そんなにあたしと二人きりでいるとつまらない?」

 明日香が言った。

「そんなことないって」

「だってお兄ちゃん、さっきから全然あたしの話聞いてないじゃん」

「だからぼんやりしてたから」

 明日香がソファから半分身を起こした。

「あたし以外の女のことを考えてたんでしょ」

 一瞬僕はどきっとした。明日香の言うとおりだったから。

「いったい誰のこと考えてたのよ」
 明日香がテレビの音量を下げて僕を睨んだ。「・・・・・・もしかして玲子叔母さん?」

「おまえなあ、その話題はいい加減に止めろって。叔母さんに失礼だろ。あと僕にも」

「だってお兄ちゃんと叔母さんのお互いに対する態度って何かぎこちなくて怪しいもん。絶対玲子叔母さんってお兄ちゃんのことを男として意識してるよ」

「あんだけ叔母さんに世話になっておいてそういうこと言うか? 普通」

「叔母さんのことは大好きだけど、恋のライバルとなったらまた別だよ」

 どうも明日香はあながち冗談で言っているわけではないらしい。

「百歩譲ってたとえ僕が叔母さんに好意を抱いていたとしても、十七歳の僕と三十歳になる叔母さんが男女としてつりあうわけないだろう」

 明日香を宥めるためにそう言うと、どういうわけか彼女は僕の言葉が気に障ったようだた。

「・・・・・・冗談で言っているのに何でお兄ちゃんはマジで叔母さんのことが気になるみたいな言い方をするのよ」

 明日香はとても冗談とは思えない表情で言った。

「あたし嫌だからね。お兄ちゃんが三十歳の叔母さんを彼女にするなんて」

「あのなあ」

「世間体だって悪いよ。知り合いはみんな本当の叔母さんだって思ってるのに、甥と叔母さんが男女の関係になっちゃうなんてさ。血は繋がっていないことは知り合いはほとんど誰も知らないわけだし」

 何かわからないけど明日香のスイッチが入ってしまったようだ。明日香にとっての地雷は奈緒だと思っていたのだけど、昨日からこいつは随分叔母さんのことにこだわっている。こいつをそんな考えに追いやるようなことなんて、僕と玲子叔母さんとの間には何も生じていないのに。

 明日香がテレビの音量を下げたせいで部屋の中は静かだった。相変わらず窓の外には粉雪が降りしきり庭の樹木を白く装っている。叔母さんは嫌がっていたけどこの分だと積もるかもしれない。

「正直に言うとさ、さっきまで奈緒のことを考えてた」

 これ以上甥と叔母の恋愛なんて妄想には付き合いたくなかった僕は正直に言った。

 明日香はそれを聞くと黙ってしまった。

157 : 以下、名... - 2014/12/22 00:24:11.14 Ddj6iAmyo 139/442


「だから玲子叔母さんのことを考えていたわけじゃないって。変な誤解するな」

 でも明日香は全然安心したような表情を見せなかった。

「・・・・・・最悪だよ」
 明日香が低い声で言った。「お兄ちゃん言ったよね? 奈緒とは再会したいい兄妹の関係だって」

「うん」

「あたしと二人きりでも奈緒の方が気になるの? 実の妹なんでしょ? お兄ちゃんは実の妹のことでいつも頭がいっぱいなわけ?」

「いや、違うって」

「どう違うのよ。お兄ちゃんはあたしの気持ちを知ったんでしょ。あたしはお兄ちゃんのことが好き。お兄ちゃんにあたしに彼氏になって欲しい。血も繋がっていないし、ママだってそれを望んでいるのに」

 穏やかな午前中の時間はこれで終ったみたいだった。明日香は今では涙を浮べていた。こいつは昨日は僕に返事は急がないと言ったばかりだったはずなのに。

「お兄ちゃんが高校の友だちの女の子が好きであたしが振られるなら仕方ないよ。それにさっきはああは言ったけど玲子叔母さんとお兄ちゃんがお互いに求め合うなら、賛成は出来ないけどまだしも理解くらいはするよ。年齢はともかく少なくとも血は繋がっていないんだし」

「学校に好きな子なんていないし、玲子叔母さんはそういう対象じゃないだろ」

 明日香は僕の話なんて聞いていないようだった。

「でも、何でそれが奈緒なの? 奈緒だってお兄ちゃんが彼氏じゃなくて実の兄だってことを受け入れたんでしょ? お兄ちゃんだってそう言ってたじゃない。それなのに何でおあたしと一緒のときにいつもいつも奈緒のことばかり考えてるのよ」

 明日香はいい兄妹として仲直りする以前のような興奮した口調で話し出した。

 奈緒のことを考えていたと正直に明日香に話したのは失敗だったようだ。そのときの僕は、明日香の話を聞いているうちに玲子叔母さんのことを一人の女性として意識させられそうで、そのことがとても気まずかった。だから、本当は黙っていた方がいいと思っていたのだけど、正直に奈緒のことを考えていたと話したのだった。

 でも明日香が叔母さんのことを気にしているのも本当だろうけど、やはり明日香の一番気に障る存在は奈緒のようだった。奈緒が悪意をもって僕を陥れるために近づいたのだという誤解は解けたはずだった。あれは偶然の出会いだったのだ。それを理解してもなお、明日香の奈緒に対する敵愾心はちっとも薄れていないようだ。

 こうなってしまったら仕方がない。明日香が僕に対して敵愾心を持っていた頃、明日香が切れたときは僕は反論せず怒りが収まるまでじっと耐えたものだった。それがどんなにひどい言いがかりであったとしても。久しぶりに今日もそうするしかないだろう。それに今回は明日香の言っていることは単なる言いがかりではなかった。奈緒と兄妹して名乗りあったときの安堵感が消えていき、さっきから悩んでいるように僕が奈緒に対して再び恋愛感情を抱き出したことは事実なのだ。でもそれだけは明日香にも誰にも言ってはいけないことだ。

 昔はよくあったことだった。ひたすら罵声に耐えているうちに明日香の声は記号と化し意味を失う。そこまでいけば騒音に耐えているだけの状態になり、意味を聞き取って心が傷付くこともない。久しぶりにあの頃は頻繁にあった我慢の時間を過ごせばいい。そう思っていた僕だけど、どういうわけか明日香の言葉はいつまで耐えていてもその意味を失わなかった。

「まさかお兄ちゃんは血の繋がった妹を自分の彼女にしたいの?」

 以前と違って明日香の言葉は鮮明に僕の耳に届き僕の心に突き刺さった。

「実の妹とエッチしたいとかって考えているの?」

 もうやめろ。やめてくれ。以前と違った反応が僕の中で起きた。僕はまたフラッシュバックを起こしたのだ。視界が歪んでぐるぐる回りだす。叔母さんや奈緒の声が無秩序にでも鮮明に聞こえてきた。

158 : 以下、名... - 2014/12/22 00:24:52.49 Ddj6iAmyo 140/442


『奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』

 叔母さんの驚愕したような声。

『あたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そうしたらあたしのこと嫌いにならないでいてくれますか』

『それで奈緒人さんがあたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾きません』

『あたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さんと冬休みに会わなかったからじゃないんですか』

 僕を見上げる奈緒の縋りつくような涙混まじりの目。



「お兄ちゃんごめん」

 気がつくと僕はソファで横になっていた。明日香の顔が間近に感じる。

「・・・・・・まったやっちゃったか。ごめん明日香」

 明日香が僕を抱いている手に力を込めた。

「あたしが悪いの。自分でもよくわからないけど、奈緒のことを考えたらすごく悲しくなって、でも頭には血が上ってかっとなっちゃった。本当にごめんなさい」

 代償は大きかったけど、でもこれでようやく明日香の気持ちはおさまったようだった。僕は安堵したけど、もちろん事実としては何も解決していないことは理解できていた。明日香はもう何も喋らずに僕に覆いかぶさるように横になった。思ってたより重いな、こいつ。僕は何となくそう思った。全身が汗びっしょりで体が体温を失って冷えていくのを感じる。明日香の包帯を巻いた手が僕の額の汗を拭うようにした。明日香の手に僕の汗がついてしまうのに。そのまま明日香は僕の頭を撫でるように手を動かした。それはずいぶんと僕の心を安定させてくれた。

 やはり奈緒への恋心、つまり自分の実の妹への恋愛感情は無益なだけでなく有害ですらある。世間的にどうこう以前に自分の心理ですらその禁忌に耐えることすらできていない。再びフラッシュバックに襲われた僕はやっと冷静に考えられるようになった。きっと明日香の言うとおりなのだろう。もうこれは本当に終らせなければならないのだ。それに僕の恋は無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒をも戸惑わせ傷つけることになるかもしれない。兄としての僕への奈緒の想いの深さは、恋人が実は兄だったという事実をも圧倒したため、奈緒は僕のように傷付かずに済んだのだろう。それを蒸し返せば今度こそ奈緒を深く傷つけることになるかもしれない。

 奈緒が僕のように胃液を吐きながらフラッシュバックにのたうちまわって苦しんでいる姿が浮かんだ。だめだ。自分の大切な妹にそんな仕打ちをするわけにはいかない。奈緒への無益な恋心に惑わされていた僕がそれに気がつけたのは、明日香のおかげだった。確かにきつく苦しい荒療治だったけど、そのおかげで僕は目が覚めたのだろう。

 僕は大きく息を吸った。この決心によって傷付く人は誰もいない。明日香の望みをかなえられるし、僕のことを実の兄として改めて別な次元で慕い出した奈緒だってもはや傷付くことはない。叔母さんだって僕たちの味方をしてくれるはずだった。

「明日香」

 明日香は僕の髪を撫でる手を止めて僕の方を見た。

「・・・・・・まだ苦しい?」

「いや。そうじゃないんだ」

 僕は体を起こし、半ば僕に覆いかぶさるようにしていた明日香を抱き起こすようにして自分の隣に座らせた。

「おまえが言ってたことがあるじゃん。僕のことが好きだって」

 明日香が怪訝そうな表情をした。

「言ったよ。それがどうしたの・・・・・・あ」

 そのとき明日香の表情が何かに怯えるような影を宿した。

「よく考えてって言ったのに。あたし、お兄ちゃんにもう振られるの?」

159 : 以下、名... - 2014/12/22 00:25:33.38 Ddj6iAmyo 141/442


 本心で明日香のことを奈緒以上に愛しているかと聞かれたらそれは違う。でも少なくとも明日香が大切で心配な存在であることは確かだった。僕が一番つらい時期にぼくを支えてくれた明日香のことが。それにこれだけは嘘じゃなく本当だった。明日香のその怯えた表情を見たとき、僕は心底から明日香をいとおしく感じたのだ。

「僕たち付き合ってみようか」

 一瞬、驚いたように目を大きく見開いた明日香の表情を僕は可愛いと思った。

「お兄ちゃん、それってどういう意味」

「どういうってそのままの意味だよ。っていうか僕に告白してきたのはおまえの方だろう」

 次の瞬間、僕は明日香に飛びつかれ、ソファの背もたれに押し付けられた。

「だめだと思ってたのに・・・・・・絶対に断られるって諦めてたのに」

「・・・・・・・泣くなよ」

「嬉しいからいいの。お兄ちゃん大好きだよ」

 僕も明日香の体に手を廻して彼女を抱き寄せた。そのとき一瞬だけ記憶に残っていた幼い奈緒の声が頭の中で響いた。

『お兄ちゃん大好き』



 夜半過ぎに雪は雨に変わっていたようだ。結局、明日香の望みどおり朝の景色が一面雪景色となることはなかったのだ。その晩、僕と明日香は深夜までソファで寄り添っていた。初めて心が通じ合った直後の甘い会話や甘い沈黙は僕たちの間には起こらなかった。アンチクライマックスもいいところだけど、僕と明日香が恋人同士になっても今までの関係やお互いに対する想いが劇的に変化することはなかったようだった。

 僕が明日香を受け入れてたたとき、こいつは涙を浮べながら僕に抱きついてきた。僕もそのときは感極まって明日香を抱き寄せたのだけど、しばらくしてお互いの気持ちが落ち着いてくると、初めて彼女が出来たときのようなどきどきして興奮したような気持ちはすぐにおさまっていった。そして残ったのは限りなく落ち着いて居心地のいい時間だった。

 思うに僕と明日香の関係は長年の仲違いを解消して、明日香が僕のいい妹になると宣言したときの方がはるかにドラスティックな変化を迎えていたのだと思う。結局明日香の気持ちに応えた僕だけど、付き合うようになってもその前までの彼女との関係とあまり変化がないような気がする。多分それは明日香も同じように感じていたんじゃないかと思う。

 僕が真実を知りフラッシュバックを起こすようになってから明日香は常に僕に寄り添っていてくれた。改めて付き合い出したとはいえこれ以上べったりするのも難しい。そういわけで深夜まで抱き合いながら寄り添っていた僕たちの会話は今までとあまり変わらなかった。ただ、お互いが恋人同士になったことを両親や玲子叔母さんに話すタイミングとかを少し真面目に話したことくらいが今までと違った点だ。

 その会話も寄り添いあった恋人同士が近い距離で囁きあっているわりにはきわめて事務的な会話といってもよかった。

「まあ急ぐことないよ」

 明日香が僕の肩に自分の顔をちょこんと乗せながら言った。

「でもいつかは言わないとね」

「多分、あたしがお兄ちゃんのことを好きなのはもうパパやママにもばれてるし」

「そうなの」

「うん。ママには前からけしかけられるようなことも言われていたしね」

 その話は叔母さんからも聞いていた。母さんは僕と明日香が結ばれることを密かに期待していたのだという。そうしていつまでも家族四人で暮らしていくことを望んでいたらしい。

「それに確実に叔母さんにはばれてるし」

「そらそうだ。叔母さんがいる前でおまえは告白したんだから」

「叔母さんには隠し事したくなかったし」

 明日香が言った。

160 : 以下、名... - 2014/12/22 00:26:19.58 Ddj6iAmyo 142/442


「本当にそれだけなんだろうな」

 僕は明日香に念を押した。

「正直に言うと少しは叔母さんを牽制しておこうとは思ったけどね」

「何度も言うけど、たとえ血がつながっていないとしても自分の叔母だと思ってきた人に恋するなんてことはありえないよ」

「うん。今ならお兄ちゃんのこと信じてあげる」

 明日香が言った。

「やっとか。まあわかってくれたのならいいけど」

「でもお兄ちゃんにその気がなくても、叔母さんはお兄ちゃんのことを好きかも知れないよ」

「まだそんなこと言ってるの」

「玲子叔母さんのことはあたしの方がよく知ってるもん」

「それは否定しなけど。だからと言ってさあ」

「叔母さんは多分昔からパパのことが好きだったと思うんだ。でもその気持ちを抑えてき たのね」

「何度も言うけどそのことだって想像にすぎないだろ」

「誰かを好きな気持ちを察するのに証拠なんてあるわけないじゃない」

 まあそれはそうかもしれないけど。

「でも僕は父さんじゃないぞ」

「パパを好きな気持ちがパパにそっくりなお兄ちゃんへの愛情に変わったんでしょ。それにお兄ちゃんにとっては叔母さんはママ代わりみたいなものでしょ? そして叔母さんにとってはお兄ちゃんは血の繋がっていない息子のような存在だったし。その叔母さんの母性がいつのまにか異性への愛情に変わったんだよ、きっと」

「それも全然根拠のない思い込みじゃん」

「女の勘ですよ」

 明日香は笑った。いったいどこまで本気で言っているのだろう。

「まあ常識的に考えれば世間的にも成就する恋じゃないし。叔母さんだってそんなことはわかっていると思うけどね」

 明日香の言うことが本当だとしたらそれは僕にとっては非常に落ち着かない気分にさせられる話だった。

「だからお兄ちゃんが玲子叔母さんに告ったり迫ったりしなければ、叔母さんの中ではそれは秘めた恋で終わるよ」

「そんなことするか」

「うん」
 明日香はそこで嬉しそうに笑った。「そこは信用してるよ。お兄ちゃんもあたしのことが好きだってようやく気がついてくれたみたいだしね」

 少なくともそこを信じてくれただけでもよしとしないといけないようだった。

 それからしばらくは僕たちは黙ったまま寄り添っていた。居心地は悪くない。お互いに長年身近にいたせいか、こういう時間も全く気まずくはなかった。

「そう言えばさ」

 明日香が僕の手を両手で包んで撫でるようにしながら言った。

「うん」

「お兄ちゃんて妹属性ってある?」

「は?」

 僕の趣味はアニメや漫画がゲームだったから妹属性とかと言われればすぐにピンときたけど、これまでそういう系統に全く興味を示さなかった明日香がよくそんな言葉を知っていたものだ。

161 : 以下、名... - 2014/12/22 00:27:02.88 Ddj6iAmyo 143/442


「何でそんなこと聞くの」

「いや。お兄ちゃんって去年まではあたしのこと本当の妹だと思ってたわけじゃん」

「まあね」

「何て呼ぼうかなって」

「はい?」

「あたしたち結ばれたわけだけど、お兄ちゃんが妹と結ばれたことに萌えているのならお兄ちゃんの趣味にあわせてこれまでどおり、お兄ちゃんって呼んであげようかなと」

「・・・・・・妹だと思ってたら僕がおまえと付き合うわけないだろ」

 一瞬、本当の妹である奈緒の顔が目に浮かんだ。

「そう? じゃあ奈緒人って呼んでいい?」

 確かに明日香にお兄ちゃんて呼ばれることには違和感はなかった。でも僕が実の兄貴であることを知った奈緒は自然に僕のことをナオトさんではなくお兄ちゃんと呼んだのだ。

 これからは奈緒が妹で明日香は僕の彼女なのだ。

「そうしたかったら奈緒人って呼べば?」

「うーん」

 自分で提案しておきながら明日香は少し考えて赤くなった。僕の肩に自分の頭を預けながら。

「いきなり呼び捨てっていうのも違和感あるなあ」

「・・・・・・じゃあもう好きに呼べば」

「お兄ちゃんすねてるの? 可愛い」

 明日香が顔を起こして僕を覗き込んだ。


 僕たちはその晩随分遅くなってから結局僕の部屋のベッドで一緒に寝ることにした。これまでも明日香が僕のベッドに潜り込んでくることがあったので、別にそれは敷居が高いことではなかったし。

 ただこれまでと違って明日香は最初から僕に密着して抱きついたので、僕は少し混乱した。変な気持ちがなかったといえば嘘になる。今までの兄妹としての仲直りからの延長上で自然に付き合い出したような僕たちだったけど、正式に恋人同士になってから一緒に寝るのは初めてだった。長年一緒に連れ添った夫婦みたいに、こいつとの間には新たな発見はないと思っていたのだけど一緒にベッドに入って抱き付かれるとこれまで明日香に対しては感じなかったような感覚が湧き上がってきた。

 ここは自制すべきところだった。飯田に襲われかかった明日香に対してそういうことを求めるわけにはいかない。でも体の反応の方は素直だったので僕は明日香がすやすやと寝息を立てた後もしばらくは天井を見上げて自分の興奮を収めようと無駄な努力を重ねていたのだ。それでもいつのまにか僕は寝入ってしまったようだった。

「奈緒人君起きてよ」

 僕が目を覚ますとカーテンを閉め忘れた外の景色が目に入った。雪は小雨に変わっているようだった。僕は隣で横になっている明日香の柔らかな肢体を再び意識しながら目を覚ました。

「・・・・・・何で君なの?」

 結局、明日香は僕のことをお兄ちゃんでもなく呼び捨てでもなく奈緒人君と呼ぶことに決めたようだ。

「だって呼び捨てって照れくさいじゃん」

 奈緒人君だって呼ばれる方にしてみれば十分に照れくさい。

「・・・・・・なんでお兄ちゃんが赤くなるのよ」

 思わずお兄ちゃんと呼びかけてきた明日香の顔も真っ赤でそれが少しだけおかしかった。

「お兄ちゃんのほうが呼びやすいならそれでもいいよ」

「いけない。奈緒人君だった」

 明日香が笑った。

162 : 以下、名... - 2014/12/22 00:27:43.47 Ddj6iAmyo 144/442


「まだ十時前だけどもう起きる?」

 今週いっぱいは明日香は医師から自宅療養を指示されている。その間は僕も学校を休むつもりだったから特に早く起きる必要はなかった。特に昨日は夜更かししていたのだし。自堕落にいつまでも寝ているつもりはないけど、明日香はまだ怪我だって癒えていないのだから、何も急いでベッドから出なくてもいい。

「誰か来たみたい」

 明日香が僕を覗き込んで言った。

「聞こえなかった? さっきチャイムが鳴ってた」

 僕は起き上がった。特に気が付かなかったと言おうとしたとき再びチャイムが響いた。

「どうする?」

「とりあえず見て来る。おまえはこのまま寝てろよ」

「うん」

 明日香は再び毛布を引き寄せた。

「はい」

 僕がリビングに降りてインターフォンを取ると女性の声がした。

「突然申し訳ありません。警察の者ですけど」

「・・・・・・はい」

 何となく用件は想像が付く。でもぼくはてっきり平井さんたちが来るものだと思っていたのだ。僕がドアを開けるとそこには私服姿の若い女性が二人立っていた。一人が僕に手帳を見せた。

「明日香さんの具合が悪くなければ、三十分ほどですみますので事情をお伺いしたいんですけど」

 その人はそう言った。

「平井さんじゃないんですね」

 いきなり見知らぬ警官が現われたことに不信感を覚えた僕は聞いてみた。これが平井さんならまだわかる。両親にも僕にも一応は自己紹介してくれていたのだし。それなのにいったい約束もなしに見知らぬ警官を寄こすとはどういうことなのだろう。

 女の人は動じずに微笑んだ。

「性犯罪の被害者の方への聴取は女性警官がすることになっています。明日香さんへの聴取はあたしたちがさせていただいた方がいいでしょう」

 女の警官は話を続けた。

「それに自分の上司を悪く言うようだけど、平井さんは高校生くらいの女の子の扱いには慣れてませんしね」

 彼女は笑ってそう言った。

 確かにあの平井さんに明日香が事情聴取されるよりは、目の前で柔らかな微笑みを浮べている女性の警官に事情聴取された方が明日香も緊張しないだろう。二人の女性警官は制服も着ていないのでそういう意味でも明日香には答えやすいかもしれない。それにしてもこの人が何気なく言った性犯罪という言葉は改めて明日香が被害を受けそうになった飯田の凶行を否応なしに思い浮かべさせられた。明日香は僕との仲が進展して多少は気分転換できたかもしれないけど、やはり明日香があのとき経験したことは中学生にとっては過酷な出来事だったのだ。

「ちょっと妹の様子を見てきますから、少し待ってもらえますか」

 僕は言った。明日香に心の準備ができているかを確認しないで勝手にこの人たちを家に入れるわけにはいかない。

「あら。あなたは明日香さんのお兄さんなのね」

「はい。ちょっとだけ待ってください」

「ごゆっくりどうぞ。明日香さんの気が進まないならまた明日とかに出直してもいいのよ」

 私服の婦警さんが気を遣ったように言ってくれた。

163 : 以下、名... - 2014/12/22 00:28:17.23 Ddj6iAmyo 145/442


 僕は自分の部屋の戻って毛布を被っている明日香に声をかけた。

「明日香?」

「誰だった?」

 毛布から顔だけちょこんと出した明日香が聞いた。

「それが・・・・・・警察の人なんだ。おまえから事情を聞きたいって」

 明日香の顔が一瞬曇った。でもすぐに明日香は気を取り直したようだった。

「そう。早く済ましちゃった方がいいんだろうね」

 明日香が殊勝に微笑んだ。

「気を遣って女性の警官が来てくれてるし三十分くらいで終るって」

「そうか」

 明日香が起き上がった。

「じゃあ着替えるね」

「リビングで待っていてもらうな」

「うん。お兄ちゃん?」

 僕は部屋のドアのところで立ち止まった。

「一緒にいてくれる?」

「もちろん」

「お兄ちゃん」

 明日香は僕のことを奈緒人君と呼ぶことなんて忘れてしまったみたいだ。

「どうした」

「・・・・・・キスして」

 明日香が目を閉じた。僕から明日香にキスするのはこれが初めてだった。



 警察の人たちがそれでも一生懸命に明日香に微笑みかけ、できるだけ明日香を刺激しないようにしながら事情聴取を終えて引き上げていった後、明日香は大きく息を吐いてソファに横になった。

「痛っ」

 明日香は顔をしかめて言った。どうやら傷になっているところをソファにぶつけたらしい。

「大丈夫?」

 明日香は体をもぞもぞと動かしてようやく具合のいい位置を見つけたらしかった。

「平気。ちょっとぶつけただけだから」

 ソファに居心地良さそうに横になると明日香は再び大きくため息をついた。

「やっと終ったのね」

「うん。もうおまえから話を聞くことはないでしょうって言ってたし」

「自業自得なんだから図々しいかもしれないけど。あたし、もうあいつらとは関りになりたくない」

 明日香が言った。

 警察の女の人たちはあの晩に起きた出来事を優しく同情しながらも、明日香の記憶に残っていることは一欠けらも取りこぼさずに聞き取っていった。今日家に来た警官は性犯罪の被害者の聞き取りは女性警官の方が当たることになっていると言っていた。自分の上司の平井さんは若い女の子の扱いには慣れていないとも。その言葉に嘘はないだろうけど、彼女の聞き取りだって笑顔やていねいな口調を取り去ってしまえば容赦のないものだったと言える。これでは明日香が再び言葉と記憶のうえで再びレイプされているようなものだ。

164 : 以下、名... - 2014/12/22 00:28:57.19 Ddj6iAmyo 146/442


 何度か僕は明日香の手を握りながら女性の警官の尋問をとどめようとした。そのたびに警官は柔らかい口調で謝りながらも知りたいことを知ろうとする執念を諦めはしなかった。そして明日香は顔色も変えずに淡々とその夜自分に起きたことを話し続けた。

 そうして飯田に押し倒され縛られて服を破かれたあたりで、明日香の話に池山が登場した。この間まで明日香の彼氏だった池山のことを明日香は庇うような説明をした。どういうわけか明日香を庇った池山の行為には警官にはあまり関心がないようで、彼女は飯田と池山の会話の内容を覚えている限り全て話すように明日香に求めたのだけど、女性警官にとってはその内容は期待はずれだったらしい。でも、縛られて身の危険を感じていた明日香が二人のやり取りを逐一覚えていることなんて不可能だったろう。

「まあ仕方ないですね。明日香ちゃんだってそれどころじゃなかっただろうし」

 残念そうに彼女が言った。

「ごめんなさい」

 明日香は一応警官に謝ったけど本気で悪いとは思っていないらしかった。何と言っても明日香は参考人かもしれないけどそれ以前に被害者なのだ。

「じゃあこれで終ります。明日香さんご協力ありがとう。飯田と池山がどうなったかは平井警部がお知らせにあがると思いますから」

 ソファに座った明日香がほっとしたように少しだけ力を抜いた。明日香から事情聴取した警官ともう一人の何も喋らずひたすらメモを取っていた警官が立ち上がった。

「じゃあお邪魔しました。もう明日香さんにお話を伺うことはないからね」

 僕と明日香も立ち上がり二人を玄関まで送った。明日香は相変わらず僕の手を離そうとしなかった。

「ずいぶん仲のいい兄妹なのね。まるで恋人同士みたい」
 今までずっと黙ったまま喋らなかった方の警官が言った。「うらやましいわ」

「二人きりの兄妹なんです」

 微塵も動揺せずに明日香がしれっと答えた。

「これで全部おしまい。もうあいつらとは二度と関りになりたくない」

 警官たちを見送ってから具合よくソファに横になった明日香が繰り返した。

 ほっとしたことに警察の人たちはドラッグのことや女帝のことは話に出さなかった。単純にあの女性警官たちには知らされていないのか、それとも捜査上の機密なので匂わすことすらご法度なのか。平井さんが僕にそのことを話したときだって加山さんは顔色を変えて阻止しようとしたくらいなのだし。

「お兄ちゃん、隣に来て」

 明日香が僕に言った。

 僕は明日香の横たわった体の顔の隣のあたりに腰かけた。明日香が片手を上げて僕の腕に触れた。

「ごめんね」

 明日香がぽつんと言った。

「何が?」

「あたしが昔バカやってたからこんなことになっちゃったんだよね」

 さっきまで顔色一つ変えず気丈に警官の質問に答えていた明日香は今では曇った表情を見せている。

「おまえのせいじゃない。悪いのは飯田だろ」

「あたしはもうお兄ちゃんに迷惑かけたりお兄ちゃんが恥かしいと思うような友だちとは二度と付き合わないからね」

「うん」

「・・・・・・奈緒や有希みたいに誰が見てもお兄ちゃんにとって恥かしくない女の子になるから」

 奈緒はそうかもしれないけど有希は少し違う気がする。でもそれは今明日香に言うことじゃない。

「別に今だって恥かしくなんかないだろ」

165 : 以下、名... - 2014/12/22 00:30:01.53 Ddj6iAmyo 147/442


「優しくしなくていいよ。それよりこんなことしてたらお兄ちゃんに嫌われちゃう方が恐い。せっかくお兄ちゃんの彼女になれたのに」

 明日香が言った。

「こんなことで嫌いになんてなるか」

「だって・・・・・・お兄ちゃん、僕たち付き合ってみようかって言った」

 明日香がいったい何を言っているのか僕には理解できなかった。

「言ったけど・・・・・・嫌だった?」

「ううん、嬉しかった」

 明日香が話を続けた。

「でも、どうせならおまえのことが好きだとか、付き合ってみようかじゃなくて僕と付き合ってくれって言われたかったな。付き合ってみようかじゃお試しみたいで不安じゃん」

「考えすぎだよ。お試しとかそんなこと考えて言ったわけじゃない」

「ごめん、そうだよね。さっきまでは何の不安も感じなかったけど、警察の人の質問に答えていたら不安になっちゃった。あたしってお兄ちゃんにふさわしくないのかもって」

 明日香が苦労してソファから身を起こして僕を見た。

「確かにあたしは池山に助けられたし飯田たちとも遊んでたけど、もう二度とそんなことはしないの」

「うん」

「だから・・・・・・お兄ちゃん、ずっとあたしと一緒にいて。パパとママとあたしとお兄ちゃんでみんなでずっと一緒に暮らそうよ。あたしのこと捨てないで。もう誰もいらないよ。お兄ちゃんがずっとあたしの彼氏でいてくれたら」

 僕さえいたら誰もいらないと一番最初に言ってくれたのは、まだ幼かった奈緒だった。今改めてそれと同じ言葉を明日香から聞かされた僕は、自分では決断したつもりだったことを自分の中では曖昧に済ませていたことに気がついた。

 わかってはいたことだ。今まで曖昧にして突き詰めて考えなかっただけで。

 僕は明日香の顔を見たかったけど、俯いて涙を流しているので目を合わせることもできない。少し乱暴だったけど、僕は明日香の顎に手をかけて少しだけ手に力を込めた。たいした抵抗もなしに明日香が顔を上げた。僕は明日香の目を見た。

「そうだね、明日香。ずっと一緒にいようか」

 実の妹にはこんな言葉はかけられない。明日香は妹であって妹ではない。だから僕は奈緒にはこの先一生言ってはいけないことだって、明日香には言える。

 もう手を離しても明日香は俯かなかった。それどころか今までで一番激しく彼女が僕に抱きついてきた。僕もそんな明日香に応え、両手を明日香の体に回した

「・・・・・・あたしもう大丈夫だよ」

 しばらく抱き合っていたあと明日香が言った。

「え」

「怪我なんて大したことし。初めてはお兄ちゃんがいい」

「おまえ何言ってるの」

「ずっと一緒にって言うお兄ちゃんの言葉に嘘がないないなら、お兄ちゃんの部屋に行こう。最初はあそこがいい」

 明日香が立ち上がって涙を拭いて僕を見た。

「リビングの電気消しておいて。テレビも」

 僕は戸惑うばかりだった。

「シャワー浴びてくる。今日もパパとママは帰ってこないから。お兄ちゃんは部屋に行って待ってて」

 明日香がバスルームの方に歩いて行った。ちょうどお昼ごろの時間だった。外の雨は激しさを増し雨音がはっきりとリビングまで届いている。

166 : 以下、名... - 2014/12/22 00:30:32.65 Ddj6iAmyo 148/442


 決断するということはこういうことなのだろう。告白してもなおしばらくは急激な展開を望まない僕の卑怯な心境が、今いきなり試されているのだ。半ば躊躇しいながらもどういうわけか僕の体と感情はこれから起こることに準備を始めていたようだった。明日香の誘惑に反応している下半身を持て余しながら、僕が立ち上がって夢遊病者のように二階に上がろうとしたとき、再びチャイムが鳴ってインターホンから玲子叔母さんの声が聞こえた。

「おーい。いないのかな、まだ寝てるんじゃないだろうな」

 残念なようなほっとしたような心境だったけど、とりあえず僕は玄関に行って鍵を開け叔母さんを家に招じ入れた。

「寒かったあ。びしょ濡れだよ」

 叔母さんがそう言いながら家に上がって来た。

「叔母さん車じゃなかったの」

 僕は家に上がるといつものようにさっさとリビングに向かう叔母さんの後に続きながら聞いた。

「打ち合わせ先が駐車できないんでさ。傘なんか全然役に立たないしびしょ濡れになっちゃったよ」

「そんなに降ってたんだ」

「うん。いきなり雨が強くなってさ。こんなんじゃ社に戻れないからここで雨宿りしようかと思ってさ」

 叔母さんが高そうな、でも雨にぐっしょり濡れたコートとスーツの上着を一度に脱いだ。リビングのフローリングに雨滴が落ちる。白いブラウスとスカートだけの姿になった叔母さんは、何かぶつぶつ言いながら濡れた髪を拭こうと無駄な努力をしていた。

 薄い生地の濡れたブラウスから叔母さんの白い肌が透けて見えた。そのとき僕は本当に叔母さんから目を逸らそうとしたのだった。でもちょうど明日香の誘いに体が反応していたタイミングで叔母さんが現われたということもあった。僕は無防備な仕草で髪を気にしている叔母さんの全身から目が離せなかった。

 濡れて肌にくっついている感じの白いブラウス越しに、黒いブラジャーが浮かんでいる。胸だけではなく上半身全体がほの白く浮かび上がっている。これまで奈緒や明日香よりはるかに大人だと思っていたし、そういう目で見たことのなかった叔母さんの体は思っていたより華奢で細身だった。僕は思わず明日香の言葉を意識して顔が赤くなるのを感じた。明日香の言うように叔母さんの僕に対する母性が異性への愛情に転化しているというのは本当なのだろうか。

「・・・・・・バスタオル持って来ようか」

 僕はそう言ったけど、このときは玲子叔母さんの体から目が離せないままだった。

「ああ悪い。でもそれよかシャワー浴びようかな」

 そう言って僕を見た叔母さんが僕の視線に気がついた。そのとき一瞬僕と叔母さんの視線が交錯した。

「・・・・・・あ」

 叔母さんは狼狽したように小さく呟いて、床から拾い上げた服を胸に抱えて僕の視線から自分の肢体を隠す仕草をした。

「叔母さんごめん。って言うか見てないから」

 今まで玲子叔母さんの上半身をガン見していた僕が言っても全然説得力がなかったろう。

「見るって何を。奈緒人、あんた何言ってるの・・・・・・」

 叔母さんがいつもと違って小さな声で呟いた。その濡れた顔が赤くなったのは僕の思い込みのせいなのだろうか。

167 : 以下、名... - 2014/12/22 00:31:03.98 Ddj6iAmyo 149/442


「包帯だらけでシャワー浴びられないんだけど」

 そのとき明日香がリビングに戻って来て言った。僕はその瞬間救われた思いだった。

「そういやそうか。って、おまえその格好」

「服を脱いでいる途中で気がついたんだもん。今日はシャワーもお風呂も無理だわ。お兄ちゃん、体拭いてくれる?」

「あんた、何て格好してるのよ」

 叔母さんが明日香の半裸を見て言った。明日香もそんな叔母さんの姿を驚いたように見た。

「玲子叔母さん、いつ来たの? っていうか叔母さんこそ何でそんな格好してるのよ」

 奇妙な状況だった。肌を露出しているとしか言いようのない叔母と姪がお互いに驚いたように見詰め合っている。僕はこの場をどう収めればいいのだろうか。

「お兄ちゃん」

 ・・・・・・シャワーから戻って来た明日香はさっきまでの甘い口調を引っ込めて、並んで突っ立っている僕と叔母さんを不機嫌そうに交互に睨んだ。



 結局明日香は不貞腐れて自分の部屋にこもってしまった。叔母さんも濡れた服を抱えて、タクシーを捕まえるからとだけ小さな声で言って家から出て行ってしまった。

 何がなんだかわからないけど、今僕はリビングに一人取り残されていた。明日香には少し可愛そうだったかもしれない。初めて結ばれようとしているそのとき、悪気はないとはいえ突然の叔母さんの来訪に邪魔されたのだから。タイミングもまずかった。僕には明日香が心配しているような叔母さんに対する恋愛感情なんてないし、叔母さんだってきっとそうだ。

 でも。

 確かに叔母さんの濡れた体をガン見したのはまずかった。叔母さんも気にしていたようだし、その微妙な空気は明日香もすぐに気がついたようだった。僕が叔母さんの体を女性として意識して眺めたのはこれが初めてだった。濡れたブラウスから覗いていた叔母さんの肌が僕の脳裏に浮かんだ。僕だって男だからいくら年上の叔母さんとはいえその肢体に目を奪われることはあっても不思議はない。僕はそう自己弁護した。でもそれは明日香に対する裏切りでも浮気でも何でもない。

 今日は僕と明日香が一生一緒にいようと誓い合った日だ。一度決めたことなのだから最後までその決心は貫こうと僕は思った。とりあえず明日香の誤解を解いて仲直りしよう。ちゃんと話せばきっとあいつだってわかってくれるはずだ。それに明日香は中学生の女の子としては考えられないような辛い目にあったばかりだった。多少は僕の方から譲歩してあげる場合なのは間違いない。僕はそう決心するとリビングを後にして二階に続く階段を上っていった。明日香の部屋はドアが閉まっていて中からは何の物音もしない。僕は思いきってそのドアをノックした。

「明日香?」

 返事はない。

「明日香・・・・・・入るよ」

 ドアを開けて部屋に入ると明日香はベッドに入って頭から毛布を被っていた。相変わらず返事はしてくれない。

「叔母さん、帰ったよ」

 とりあえず何を喋ればいいかわからず僕はそう言った。でも叔母さんの名前を出したのは失敗だったのかもしれない。明日香は僕を振り向きもせずうつ伏せ気味に毛布の下に潜り込んでいるままだ。

「・・・・・・」

「風呂に入れなかったんだろ。体拭いてやろうか?」

「なあ、返事してくれよ。僕は明日香の彼氏なんでしょ? 何で返事してくれないの」

 彼氏という言葉に反応したのか、ようやく明日香が毛布の下から顔を覗かせた。

「・・・・・・んで」

 ようやく明日香が低い声で返事した。

168 : 以下、名... - 2014/12/22 00:31:42.78 Ddj6iAmyo 150/442


「え」

「・・・・・・何であんな」

 明日香がようやく僕と目を合わせてくれた。

「何でお兄ちゃんはあんな目で叔母さんのことを見つめていたの? 何で叔母さんは潤んだ目でお兄ちゃんのこと見つめてたの」

「何を考えているのかわからないけどそれは誤解だから」

 僕は言った。ここは正直に話す方がいい。

「確かに叔母さんが、その・・・・・・ああいう格好だったんで思わず見入っちゃったかもしれないけど、別に叔母さんに特別な感情なんかないって。叔母さんだってそうだよ」

「・・・・・・そういう雰囲気には見えなかった。何か今にもお互いに告白しあいそうに見えたんだけど」

「ないよ。僕だって男だからそれは叔母さんの体を見つめちゃったかもしれない。叔母さん綺麗だし」

 それを聞いて明日香が辛そうに僕から目を逸らした。

「でも恋愛感情とかじゃないんだ。今の僕には好きな女の子は一人しかいないんだし」

「どういうこと」

「もう忘れちゃった? 僕はおまえとずっと一緒にいようって決めたばかりなんだけど」

 再び明日香が僕の方に視線を戻した。どうやら少しだけ明日香は僕の言うことを聞く気になったようだった。

「明日香、好きだよ」

 僕は真顔で言った。これが本音だったことは間違いない。どんなに僕が奈緒に惹かれていても奈緒は僕の妹だった。付き合うことも、ずっと一緒に二人で暮らすこともできない。結婚して子どもを作ることもできない。何よりも再会した大好きな兄貴として僕を慕ってくれている彼女に対して、僕の正直な想いを話すことすら今では禁忌なのだ。

 それに玲子叔母さんのことに関して言えば、それは明日香の完全な誤解だった。たとえ僕が不実な恋人だったとしても明日香が嫉妬すべきは叔母さんではなくて奈緒の方なのだ。でもそれは僕が言うことじゃない。僕はその考えを胸の奥にしまった。

「・・・・・・わかった」

 ようやく明日香がベッドから上半身を起こして言ってくれた。毛布から這い出した明日香は寒いのに白いタンクトップの短いシャツだけを身にまとっていた。シャツの隙間から覗く肌に巻かれた包帯が痛々しい。

「信じるよ。あたしだってお兄ちゃんと喧嘩するのは嫌だし」

「・・・・・・明日香」

「ぎゅっとしてお兄ちゃん」

 突然明日香の態度が柔らかになった。僕は明日香の甘い声に従ったけど、言葉どおり抱きしめたらきっと明日香の傷が痛むだろう。だから僕はベッドの端に腰かけてそっと彼女の体に手を廻した。

「もっと強くしてくれてもいいのに」

 明日香が僕の首に両手を回しながら言った。この先は明日香の指示を待っていたのでは駄目なのだろう。僕は自分から明日香にキスした。

「疑ってごめんね」

 明日香が言った。

「叔母さんの体を見つめちゃったのは僕の方だしな。誤解させて悪かったよ」

「もういい。お兄ちゃんの言うことなら信じるよ」

 僕の顔の近いところで彼女の声が響いた。

「お兄ちゃんの気持ちはわかったから、あたしの言うことも聞いて。お兄ちゃんはうざいと思うかもしれないけど、やっぱりお兄ちゃんが奈緒とか叔母さんのことを話す口調とか表情とか態度とかって、あたしにとってはすごく不安なの」

「そんなつもりはなかったんだ。でも心配させたならごめん」

169 : 以下、名... - 2014/12/22 00:32:20.62 Ddj6iAmyo 151/442


 少なくとも叔母さんに関しては明日香の邪推なのだけど、今日は明日香に譲歩しようと決めたばかりだったから素直に僕は謝った。明日香は僕の首に回した手に力を込めた。

「お兄ちゃんが本気であたしを選んでくれたなら」

「うん」

 密着している明日香の体から女の子らしいいい匂いがする。

「あたし、奈緒にも有希にも玲子叔母さんにも絶対お兄ちゃんのこと譲る気はないから」

「うん・・・・・・僕だってもう決めたんだしそんな心配いらないよ」

「でも不安だから」
 明日香が真面目な顔になって言った。「だからあたしたちが恋人同士だってこと、みんなにカミングアウトしよう」

「・・・・・・僕は別にいいけど。でもカミングアウトって大袈裟だな」

「だってみんなあたしたちのこと血の繋がった兄妹だ思っているわけじゃない。だからカミングアウトしよう」

「うん。それでいいよ」

 明日香の言うとおりだ。臆病な僕は曖昧なままの関係を望んでいたのだけど、それではいけないと思って明日香の気持ちに応えたのだ。だから別に明日香の提案は反対するようなことではない。ただ、周囲の反応を考えると多少は気が重いのも事実だった。

「今度パパとママが帰ってきたら真っ先に言おうよ。あとこれはお兄ちゃんに任せるけど、奈緒ちゃんにもちゃんと話してね」

 今まで明日香は奈緒のことを呼び捨てしていたのだけど、このとき彼女は奈緒ちゃんと言った。明日香もきっと彼氏である僕の妹として奈緒のことを認識しなおしていたのだろう。

「最初に玲子叔母さんに言って」
 明日香が言った。「あたしとお兄ちゃんは恋人同士の間柄になったって」

「わかった」

「メールでいいよ。叔母さんが次に家に来るのを待っていたらいつになるかわからないし」

「うん」

「あと、有希にはあたしが直接謝るから」

 明日香がさらりと恐ろしいことを言った。明日香は有希のことを富士峰のピアノが上手な少女に過ぎないとしか認識していないのだから無理はないのだけれど、それは非常に危険なことかもしれない。

「ちょっと待て」

 明日香が怪訝そうに僕の方を見た。

「両親には話するし、奈緒にも話す。叔母さんにも今この場でメールしてもいい」

「うん」

「何なら渋沢と志村さんにも報告するよ」

「・・・・・・嬉しい」

 明日香が赤くなって僕に答えた。

「でも有希さんには僕から話す」

「何で? 有希に悪いことしちゃったのはあたしのせいだよ?」

「それでも僕から話した方が言いと思う。おまえはもう辛いことは何にもしなくていいよ。全部僕が被ってやるから」

 女帝のことを話せない以上、こういう大袈裟な言葉で明日香を誤魔化すしかない。それでも明日香は僕の言ったことに喜んだようだった。

「幸せだな。本当に誰かが無条件であたしを守ってくれる日が来るなんてなんて嘘みたい。しかもそれは大好きなお兄ちゃんだなんて」

 少しだけ罪の意識を感じたけどそれを誤魔化すように僕は明日香の体を抱きしめた。明日香の傷は痛んだのかもしれないけど、彼女はそのことに抗議しなかった。

170 : 以下、名... - 2014/12/22 00:32:57.44 Ddj6iAmyo 152/442


「明日にでも叔母さんにメールするよ。とりあえず話があるからっていう内容でいい?」

「・・・・・・まあいいか。面と向かってちゃんと言った方がいいもんね」

 明日香が笑って言ってくれた。ようやく明日香の機嫌が元に戻ったようだった。



from :奈緒人
sub  :無題
本文『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事で忙しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。でも僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったらメールか電話して』



 そのとき僕と明日香は僕が叔母さんに送ったメールのことで少し揉めているところだった。カミングアウトしたいという明日香の希望に沿ってとりあえず僕は玲子叔母さんに大切な用事があるというメールをした。それを送信した後で明日香がそれを見たがった。別に隠すようなものでもないので僕は叔母さんに送ったメールを明日香に見せたのだ。

 いつのまにか機嫌を直していた明日香は僕に身を預けるようにして、僕が差し出した携帯のディスプレイを眺めた。

「あのさあ」

 低い声で明日香が僕に言った。

「うん。とりあえずこれで僕たちが叔母さんに大事な話があることは伝わっただろう」

 僕は明日香に言った。僕はさっそくこいつの希望に応えたのだ。

「お兄ちゃんさ。もしかして自分のことが好きな玲子叔母さんの気持ちを弄んで楽しんでない?」

「何のこと?」

 ずいぶんとひどい言われ方だけど、このときの僕には明日香の言ってる言葉の意味がわからなかった。

「何よこれ」

 明日香が僕のメールを読み上げた。わざわざ声に出されたことでやっと僕にも明日香の言いたいことが理解できた。



『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事で忙しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。でも僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったらメールか電話して』

「この僕たちって誰のことを言ってるの?」

「そら僕とおまえのこと以外にないだろ」

 僕はとりあえずそう答えたけど明日香の怒っている理由も何となくわかる。

「こんなメールを受け取ったら玲子叔母さんがどう考えると思うのよ。『突然変なメールして』とか『大切な話がある』とか『僕たちにとって大事なこと』とか叔母さんに言うなんて。いったい何考えてるの」

「いや」

 本当に明日香に言われてメールをしたということ以外は何も考えてはいなかったのだ。

171 : 以下、名... - 2014/12/22 00:34:25.82 Ddj6iAmyo 153/442


 叔母さんは自分とお兄ちゃんにとって大切な話があるって受け取ったでしょうね」

 明日香が言った。「かわいそうに叔母さん、お兄ちゃんが叔母さんに告白しようとしているって思い込んでどきどきしているかもよ」

 詳細は文面では伝えきれないと思ったので、メールでは叔母さんに会いたいということだけを切実に伝えるだけにとどめようとしていただけだったのだけど、明日香に言われてみれば微妙な内容なのかもしれない。僕たちという言葉だって僕と明日香のことを表現したつもりだったけど、よく見直せばメールの本文には明日香の名前は一回も出していない。だからそれが僕と玲子叔母さんのことを指しているのだと叔母さんが考えても不思議はなかった。

 明日香の言うようにこのメールは叔母さんに対しては誤解を生むかもしれない。そう思って自分の出したメールを改めて読み直すとこれではまるで僕が玲子叔母さんに愛の告白しようとしているかのようにも受け取れる。でもそれも叔母さんが僕を男として意識しいるという仮定が正しければの話に過ぎない。

「まずかったかな」

 僕は少し気弱になって明日香の方を見た。

「これって、完全に告白のために女の子を呼び出すメールだよね」

 明日香が呆れたように言った。

「いやそんなつもりはないんだけど」
 僕はおどおどと明日香の顔をうかがいながら言い訳した。「女の子にメールすることなんて慣れてないからさ。ちょっと誤解されるような言い回しになったかもしれないけど」

「女の子にメールって・・・・・・。自分の叔母さんにメールしただけじゃないの? それともお兄ちゃんの中では玲子叔母さんって女の子扱いになっているわけ?」

 まずい。再び僕は明日香の地雷を踏んだようだ。そんなつもりは全くなかったのだけど、せっかく僕が叔母さんの体をガン見していたことを許してくれた明日香の憤りに再び火をつけてしまったようだ。

「違うって。言葉尻を捉えるなよ。誤解を招く表現だったかもしれないけど、わざと書いたわけじゃないぞ。それに叔母さんだっておまえが言っているような意味では受け取らないって。そもそも叔母さんが僕に好意を持っているなんて、全部おまえの妄想だろう」

「それならいけど。でも何で最初に叔母さんに謝っているの」

「それは・・・・・・叔母さんの体を見つめちゃったから」

「お兄ちゃんはそのことを叔母さんが気にしていると思ったから謝ったわけね」

「まあ、気が付いてはいたと思うし」

「お兄ちゃんの言うとおり叔母さんがお兄ちゃんのことを意識していないなら、わざわざこんなことを書く意味あるの」

 明日香が指摘した。僕にとって幸いなことに明日香は本気で僕を咎めているわけではないようだ。さっきの真面目な言い訳の効果があったのだろう。僕は本気で明日香とこの先恋人同士でいようと思ったのだ。そして明日香もようやくそのことを信じてくれたみたいだった。そうでなければこんなにあっさりと追求を止めてくれなかったろう。

「まあいいいけど。叔母さんにはちゃんと話してね」

「わかってる」

 明日香に嫌われていると思っていた時分には全く考えなかったことだけど、こういう仲になってみると明日香は随分と嫉妬深い恋人のようだった。でもそのことは今の僕にはあまり気にならなかった。ちょっと前までの僕たちの関係を考えるとそれは不思議な感覚だったけど決して不快ではない。

「信じているからね」

 明日香が機嫌を直したように僕に抱きついた。

「うん。叔母さんにも父さんたちにもちゃんと話すよ」

 僕も明日香を抱きしめた。慣れというのは恐いものかもしれない。もう僕には明日香の体を抱くことに違和感がなくなってきていた。実の妹である奈緒を除けば明日香と僕はいろいろな意味で一番相性がいいのかもしれない。一緒にいて安心するとか気を遣わなくていいとかという意味では、ひょっとしたら明日香は僕にとって奈緒以上に隣にいるのが自然な存在なのだろうか。

 そんなことを考えながら明日香の体を抱きしめて背中を撫でてやっているうちに、僕は自分の腕の中の明日香が体を小刻みに揺らしていることに気が付いた。それも僕が明日香の背中を撫でるごとに次第に大きくなっていくようだ。

172 : 以下、名... - 2014/12/22 00:35:12.87 Ddj6iAmyo 154/442


 僕は自分の頬に明日香の吐息を感じた。

「どうかした? 傷が痛むのか」

「お、お兄ちゃんのばか。変態」

 明日香は小さい声でそう言った。僕の体に回されている明日香の腕に力が込められた。それに気が付いて明日香の顔を見ると顔が真っ赤になっているし息も荒い。

「変態っておい」

「童貞、キモオタ」

 明日香の悪口には慣れていたけど、そのときの明日香の声は今までとは異なり甘いものだった。

「恋人同士になっても相変わらずおまえは口が悪いな」

 僕は苦笑して言った。でもこの方が明日香との距離感としては落ち着く。僕は少しだけ笑ってしまいそうになった。こういうのが本当に幸せということなのかもしれないと僕ははふと考えた。辛いことを思い出さないようにしたせいか今となっても不完全な過去の記憶や、奈緒と兄妹の名乗りを上げることによって完治の方向には向かっていたようだけど、油断するとすぐに発症するかもしれないPTSD。

 ろくなことがなかった僕の人生で初めてのやすらぎが訪れたのかもしれなかった。奈緒と恋人同士になれたときもそう思ったのだけど、結局あの関係は安定した安寧の地ではなかったのだ。僕はそういう感傷にふけって明日香を抱いていたのだけど明日香の様子は少し変だった。

「お兄ちゃんの意地悪」

 自分の脚を僕の足に絡みつかせるようにしながら明日香が小さく言った。明日香の甘い吐息が僕の耳をかすめた。そして僕の体も明日香に応えて反応しだした。

「もういじめないでよ、お兄ちゃん」

 明日香が悩ましい声で言った。

 僕はそのとき明日香を抱こうと思ったのだけど、お互いに抱き合っている姿勢から次にはどうしたらいいのかよくわからなかった。服を脱がすのか。それとも服って明日香が自分で脱ぐものなのか。それでもとりあえず下半身の言うとおりにすることにして、僕は明日香の胸を触ってみた。考えるよりも行動をという決心は少なくともこのときの明日香に対しては間違っていないようで、明日香は一瞬びくっとして体を跳ねるようにしたけど、僕の手を拒否したりはしなかった。

 タイミング的には最悪だったけど、さっきまで明日香に見せていた携帯がマナーモードになっていなかったせいで、明日香の胸を触りだしたそのときに着信音が鳴った。

こういうことに邪魔が入るのは二度目だった。

 再び邪魔された明日香は不機嫌そうな表情だったけど、こいつらしく僕に抱きついた姿勢だけは維持していた。そのことが僕には照れくさかった。興奮していた僕は携帯を無視しようとしたけど、思っていたより冷静だったらしい明日香はディスプレイを見て、僕の腕から抜け出した。

 僕の腕から抜け出した明日香が勝手に僕の携帯を操作してメールを見ている。

「何で当たり前のように僕あてのメールを見てるんだよ」

 僕はまだ興奮の余韻を残しながら言った。

「やましいことがないならいいいでしょ・・・・・・これ、玲子叔母さんの返信だし」

 僕は明日香の手から携帯を奪い返すようにして叔母さんからのメールを読んだ。



from :玲子
sub  :Re:無題
本文『いつでもいいよ。てか大切な話って何だよ。メールじゃ駄目なの?』

『まあ、仕事の合間とかでいいなら時間は取れるよ。今週中にそっち方面に行くことがあるからそんときに電話するよ』

『じゃあおやすみ、奈緒人』

『あとあんた何であたしに謝っているの?』

173 : 以下、名... - 2014/12/22 00:35:50.32 Ddj6iAmyo 155/442


「ほら見ろ」
 僕はほっとして言った。「叔母さんは全然僕のことなんか気にしてないじゃないか」

「そうだねえ」
 明日香が疑り深そうに叔母さんからのメールを見た。「叔母さんはお兄ちゃんのことは何とも思っていないのかな」

「だからそう言ったろ」

「そうなのかなあ・・・・・・て、え? お兄ちゃん」

 再び僕に抱き寄せられていきなり自分の胸を愛撫された明日香が戸惑ったように言った。

「続きしようか」

 正直に言うと僕の方も今では玲子叔母さんのメールどころではなかった。

「・・・・・・うん」

 明日香はもう僕にキモオタとか変態とか言わずに僕の手に自分の身を任せた。



 次の土曜日の午後、僕は明日香の了解をもらって奈緒をピアノ教室まで迎えに行った。奈緒に僕が明日香と付き合い出したことを伝えるためということもあったけど、最後に話したときに、奈緒からピアノ教室に迎えに来るように言われていたということもあった。

 平日、明日香に付き添って学校を休んでいる間、僕は何回か奈緒にメールしたり電話したりしたのだけどメールの方には返事がないし、何度もかけた電話の方は通じない。結局、金曜日の夜になるまで奈緒からは何の連絡もなかった。

 それで僕はとりあえず土曜日は約束どおり奈緒を迎えに行くことに決めた。明日香は僕が自分を置いて奈緒に会いに行くことには反対しなかった。奈緒への伝え方は僕に任せると言っていたということもあったかもしれないけど、体を重ねてからというものの、あれだけ嫉妬深かった明日香はもうあまり奈緒や玲子叔母さんに対しても嫉妬めいたことを口にしなくなったのだった。

 その代わり明日香は今まで以上にいつも僕の側にいるようになった。

 これまでだって大概ベタベタしていた方だと思うけど、そんなものでは済まないくらいに。極端な話トイレと風呂以外はいつも一緒にいる感じだ。その風呂だって昨日までは僕が体を拭いていたのだったから、実質的には常に隣に明日香がいたことになる。

 心理学上、愛撫、慰め、保護の意識を持つとされる距離感である密接距離のままで。

 同時に明日香はやたら甲斐甲斐しくもなった。食事の用意から何から何までも。僕が休んで家にいたのは明日香の世話を見るためだったからさすがにこれには困った。体調だって完全に回復しているわけではないのだ。

「おまえは座ってろよ。食事なんか僕が作るから」

 僕は彼女にそう言ったのだけど明日香は妙に女っぽい表情ではにかむように笑って言った。

「いいからお兄ちゃんこそ座ってて。こういうのは女の役目なんだから」

 こういう言葉を明日香の口から聞くとは思わなかったけど、それは決して不快な感じではなかった。

「でもおまえ体は・・・・・・」

「もう全然平気だよ。でも良くなったってママに言ったら学校に行かなきゃいけないし、お兄ちゃんと一緒にいられないから」

「ちょっと・・・・・・包丁持ってるのに」

 明日香は文句を言いながらも後ろから抱きしめた僕の手を振り払わずに、包丁を置いて振り向いた。

「続きはご飯食べた後にしよ?」

 結構長めのキスの後で明日香が顔を紅潮させながら上目遣いに言った。

174 : 以下、名... - 2014/12/22 00:36:26.33 Ddj6iAmyo 156/442


 出がけに明日香の行ってらっしゃいのキスが思わず長びいたこともあって、到着してそれほど待つことなく、ピアノ教室の建物から生徒たちが次々と出てきた。妹を迎えに来ているんだから恥かしがることはないと思った僕は比較的入り口に近いところで奈緒が出てくるのを待っていた。これだけ近ければ見落とす心配はない。

 このときの僕は全くの平常心というわけでもなかったけど、それほど緊張しているわけでもなかった。奈緒の兄貴だということを知られてしまった今では、僕に彼女ができたということを奈緒に話すことに対してはあまり抵抗感を感じないようになっていた。

 奈緒はあのとき僕が離れ離れになっていた兄貴であることを自然に受け入れた。初めての彼氏を失うことよりつらい別れをした後も、一筋に兄のことを忘れなかった奈緒なのだからそういうこともあるだろう。その後の奈緒は、僕と恋人同士であった頃よりも自然な態度と言葉遣いで僕を慕ってくれた。

 むしろ悩んで混乱していたのは僕の方だった。奈緒が僕のことを兄であると認めてくれた事実にさえ嫉妬した挙句、自分の妹に欲情する気持まで持て余して。でもそれももう終わりだった。今の僕には明日香しか見えていない。明日香の言うとおり僕と明日香は結ばれる運命だったのかもしれない。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、血の繋がっていない男女としてはお互い他の誰よりも長い間身近に暮らしてきた仲なのだ。行き違いや誤解もあったけどそれを克服して結ばれた間柄のだから、僕はもう明日香を自分から手放す気はなかった。明日香のいうとおりこのまま付き合って将来は結婚しよう。そして父さんと母さんがいる家で共に過ごすのだ。子どもだってできるだろうし。

 そんな物思いに耽っていても目の方は奈緒が通り過ぎてしまわないか入り口の方を眺めていたのだけど、なかなか奈緒は出てこなかった。いつもより遅いなと思った僕が奈緒のことを見落としたんじゃないかと思って少し慌てだしたとき、見知った顔の少女が教室から出てきた。その子は外に出るとすぐに僕のことに気が付いたようだった。

 それは有希だった。有希は慌てた様子もなくにっこり笑って僕の方に駆け寄ってきた。

「奈緒人さん、こんにちは」

「有希さん・・・・・・どうも」

 有希は全く最後に会ったときのことを気にしていない様子だ。

「もしかして奈緒ちゃんのお迎え?」

「うん」

 ここで嘘を言う理由はなかったから僕は正直にうなづいた。

「聞いてないんですか? 奈緒ちゃんは今週はずっとインフルエンザで自宅療養してますよ。今日もピアノのレッスンは休んでるし」

 それこそ初耳だった。

「知らなかった」

「電話とかメールとかしてないの?」

「したけど返事がなくて」

 有希が少し真面目な顔になって僕に言った。

「奈緒人さん、これから少し時間あります?」

 このとき僕の脳裏に平井さんが口にした女帝と言う言葉が浮かんだ。

 駅前のファミレスは、以前僕と奈緒が初めて一緒に食事をしたときの場所だった。僕たちはボックス席に納まってオーダーを済ませた。昼食をして行こうということになったのだけど、冬休みのときのように一枚のピザを僕と有希で分け合うということはなかった。僕たちは言葉少なくそれぞれに注文を済ませた。今日は昼食を食べながら奈緒と話をするつもりだったから多少は遅くなっても明日香が心配することもない。

「ごめんなさい」

 オーダーが済むとすぐに有希がしおらしい声で僕に頭を下げた。一瞬僕は有希が明日香が襲われたことを謝ろうとしているのかと思って身構えた。でもそういうことではないらしい。

「奈緒ちゃんから全部聞きました。奈緒人さんは昔離れ離れになった奈緒ちゃんのお兄さんだったって」

 では奈緒はそれを有希に話したのだ。

175 : 以下、名... - 2014/12/22 00:36:53.58 Ddj6iAmyo 157/442


「あたしそんな家庭の複雑な事情とか考えずに奈緒人さんのこと一方的に責めちゃって。本当にごめんなさい」

「いや。奈緒のことを心配してくれて言ってくれたんだろうし謝るようなことじゃないよ」

 依然として女帝疑惑は振り払えていないものの、この件に関しては彼女には非はない。それに有希が明日香を襲わせたという推論に関しても全く証拠のない話なのだ。

「奈緒人さんは奈緒が妹だって気づいていたんですね。それで奈緒ちゃんがそのことで傷付かないように距離を置こうとしていたのね」

 有希がずいぶんと感激したように目を潤ませて僕を見つめていた。

「・・・・・・奈緒にはつらい想いをさせたかもしれないけど。まだしも振ってあげた方がいいかと思って」

「奈緒人さんの気持ちはわかるし、妹思いのいいお兄さんだと思う」
 有希が言った。「でも結果としてはそんな心配はいらなかったようですね」

「うんそうなんだ。でも奈緒はそこまで君に話したの?」

「あたしと奈緒ちゃんは親友ですから」

 有希は少しだけ笑った。「奈緒ちゃんはすごく喜んでました。昔からずっと会いたかった大好きなお兄ちゃんとやっと会えたって。別れてからも毎日ずっと奈緒人さんのことを考えてたんだって」

「そうだね。僕もああいう別れ方をした妹と再会できて嬉しかったよ」

「だからごめんなさい。何も知らずにあんな偉そうで嫌な態度を奈緒人さんにしてしまって」

 有希はそう言ったけどその後再び体勢を整えるように深く息を吸った。

「でも明日香には謝りません」

 明日香は女帝である自分がが明日香を襲うように指示したことを明かして、そしてその命令には後悔していないと言っているのだろうか。僕は一瞬凍りついた。

「あたしは奈緒人さんのことが好き。その気持ちが明日香にばれたとき、奈緒ちゃんにはすごく罪の意識を感じたんです。でもそんなあたしの奈緒人さんへの想いを明日香は利用した」

「ちょっと待って。そうじゃないんだ」

「実の兄妹だと思って完全に油断してました。あのときは明日香は自分が奈緒人さんと血が繋がっていないことを知っていて、そして奈緒ちゃんが奈緒人さんの本当の妹であることを知ってたんでしょ?」

「それは・・・・・・そうだけど」

「じゃあ明日香は奈緒ちゃんから奈緒人さんの気持ちを覚めさせるために、とりあえず奈緒人さんが好きだったあたしの気持ちを利用したのね」

 それは違うと言いたかったけど、そこだけ切り抜くと困ったことに有希の推理は間違っていないのだ。明日香の本当の目的は僕を救うことだった。でもそのためにいろいろと本来なら取るべきでない手段を明日香が取ってしまったも事実だった。

 それでも僕は明日香を、自分の彼女を弁護しようと試みた。僕はもう全部を有希にさらけ出すことにした。そうしたって有希が明日香に都合よく利用されたという事実は変わらないということはわかっていたのだけど。

「明日香は僕が奈緒が自分の妹だって気がついて、それで僕が悩み傷付くことを恐れて、奈緒から僕の気持ちを引き剥がそうとしたんだ。決して奈緒と別れさせた僕を自分の彼氏にしたかったからじゃないよ」

 有希は少し考え込んだけどそれでも納得した様子はなかった。

「それが事実だとしても二つ疑問があるよね」

「・・・・・・うん」

「まず一つ目は奈緒人さんを傷つけないためならあたしを傷つけても、奈緒ちゃんが悩んでも構わないのかということ。目的が正しければどんな手段を取ってもいいの?」

 僕は答えられなかった。明日香がしたことはまさにそういうことだったから。まともな答えなんか期待していないのか、黙り込んだ僕には構わず有希は冷静な表情で続けた。

176 : 以下、名... - 2014/12/22 00:37:20.51 Ddj6iAmyo 158/442


「もう一つは・・・・・・。あのとき明日香は明らかに奈緒人さんに告白してたよね? あたしは奈緒人さんと明日香が本当の兄妹だと思っていたから、あのときは自分が明日香に利用されたんだって思って悲しかった気持ち以上に、実の兄を異性として愛するなんて気持悪いって思ったのだけど」

 この話の行き先がだんだんと見えてきた。行き着く先は芳しくないところなのだけど、もともと有希にはそのことをいずれは話すつもりだったのだ。僕は覚悟した。

「奈緒人さんが明日香の本当の兄じゃないなら、お二人は付き合おうと思えば付き合えるんだよね」

「うん」

「明日香の気持ちに応えたの?」

 僕はゆっくりとうなずいた。

「うん。明日香と付き合うことになった」

「ほらね」

 有希が小さく笑って言った。

「兄貴思いの妹の行動だったって言いたいみたいだけど、結局明日香は望んでいたものを手に入れてるんじゃない」

 結果としてはそうなる。それは否定できない事実だった。

「あのときあたし、明日香にとって都合のいい話だって言ったけど結局そのとおりだったわけね」

「でも、明日香だって最初は純粋に僕を救うつもりだったんだ。途中で僕のことを好きになったのは事実だと思うけど・・・・・・」

 僕の言葉は途中で途切れた。さっきまで笑っていた有希の目に涙が浮かんでいることに気がついたからだ。

「あたしは奈緒人さんが好きだった。ちょっとしか会っていないのにおかしいかもしれないけど。でも明日香の言うとおり万が一奈緒人さんがあたしのことを気にしてくれていたとしても、あたしは奈緒人さんと付き合う気はなかったの。奈緒ちゃんを傷つけたくなかったから」

 それは以前にも二人で大晦日の買出しに出かけたとき聞いていた話だった。

「今では奈緒ちゃんは奈緒人さんのことを再会できた大切なお兄さんだと思っているから、本当はあたしにもチャンスだったのにね」

 有希は涙を浮べたまま再び微笑んだ。

「でも今では明日香が奈緒人さんの隣に座ってるんだね」

「ごめん」

 こんな間抜な返事しか口を出てこなかった。

「奈緒人さんのことは恨んでないよ。逆にあたしが謝らなければいけないの。でも明日香は・・・・・・」

「有希さん」

 有希は俯いた。彼女が明日香を許す気がないことは明白だった。やがて彼女は顔を上げた。

「今日はもう帰る」

「うん」

 僕には他にかける言葉が思いつかなかった。最後に有希は涙をそっと片手で払いながら意味深なことを言った。

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといいね」

 どういう意味かを聞き返す暇もなく彼女はもう後ろを振り向かず、僕を残してファミレスを出て行ってしまった。

 有希が去っていった後、目の前には手をつけてさえいない料理がテーブルの上に並んでいた。もったいないし店の人にも変に思われるかもしれない。僕は自分の目の前に置かれた冷めたパスタを一口だけ口にしたけどすぐに諦めた。

178 : 以下、名... - 2014/12/23 00:33:29.59 YVbOe2ijo 159/442


 有希の言うとおりだった。明日香は有希の恋心を僕から奈緒を離すために利用したのだ。そのときの明日香は僕に対して恋心なんて感じていなかったはずだから、有希を利用したといってもそれは有希が僕と付き合うようになってもいいと考えての行動だったろう。つまりある意味では有希を応援したとも言える。でも結果がこうなってしまえば今さら何を言っても有希は納得しないだろう。僕と明日香は結ばれたのだ。決して明日香の仕掛けた手段によって成就した関係ではない。それでも有希の視点から見れば明日香の一人勝だというふうに思われても無理はない。

 僕はもう半ば有希と明日香を仲直りさせることは諦めていた。それに有希には女帝疑惑がある。本当に有希が中学生離れした恐い女なのかどうかは定かではないけど、明日香の身の安全を考えると危険は冒せない。そう考えると有希が明日香と仲直りせずこのまま疎遠になった方が明日香にとっては安全なのかもしれなかった。

 そう考えると奈緒に会いに来た僕は当初の目的を果たせなかったのだけど、有希に対しては期せずしてできることはしたような気がしてきた。有希に謝罪し、でも女帝かもしれない有希と明日香をこれ以上関らせないこと。明日香が有希に直接謝罪すると言ったとき、僕は彼女を止めた。そして一応はそのとき僕が考えていたことは達成できたのだ。

 そのとき有希が最後に言い捨てて言った言葉が胸に浮かんだ。

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといいね」

 僕と奈緒を別れさせようとしていた明日香は取れる手段は全て動員しただろう。そのこと自体には感謝していた僕だけど有希の言葉を聞くと胸騒ぎを感じた。手段を選ばないということは、当時の明日香なら奈緒に対しても何らかの手を打っていたかもしれない。そしてそれが奈緒を直接的に傷つけるようなことだとしたら。

 でも。

 僕と明日香は結ばれたのだし、もう明日香には僕への隠しごとはないだろう。それに明日香は奈緒のことを奈緒ちゃんと呼び出したのだ。奈緒が僕の大事な妹だと正しく認識したからだろう。その明日香が奈緒にひどいことを仕掛けているはずはない。自分の彼女を信じよう。明日香はこれまでのところ、有希の件も含めて全てを僕に正直に話してくれていた。奈緒の件は有希の思い過ごしか嫌がらせなのだ。

 僕は席を立って勘定を済ませた。インフルエンザになったという奈緒のことも心配だけどさすがに命に別状はないだろう。それよりも明日香のところに帰ろう。きっと明日香も僕の戻りが遅いと心配するだろう。僕はファミレスを出ると足を早めてできたての恋人の元に急いで戻ろうとした。

179 : 以下、名... - 2014/12/23 00:34:11.93 YVbOe2ijo 160/442


 奈緒人は昔から内向的性格の子だった少なくとも結城さんが再婚したあたりからは。結城さんと姉さんとの新しい家庭に迎え入れられた奈緒人はそのことに喜んでいる様子はなかった。それまでずっと寄り添ってほぼ二人きりで一緒に暮らしてきた奈緒ちゃんとの別れは、奈緒人にとっては新しい母親や妹で代替できるようなものではなかったのだろう。当時の奈緒人は母親に放置されていても失わなかった、生まれつきの明るさを全く外に表わさないようになってしまっていた。それだけ奈緒ちゃんとの強制的な別れがショックだったのだ。

 結城さんと姉さんはそんな抜け殻のような奈緒人に優しく接していた。一見、奈緒人も奈緒ちゃんのことを口にするでもなく、それに応えているようだった。当時、仕事で多忙な姉さんにかわって二人の面倒を看ていたあたしが見ても、当時の奈緒人には奇妙な落ち着きがあった。奈緒ちゃんのいない今の生活に満足していたはずはない彼は、両親にもあたしにも奈緒ちゃんが不在であることに対する不満を一切口にしなかったのだ。

 まるで奈緒ちゃんに関する記憶だけが失われたかのように。

 その奈緒人の行動には二つの側面が会ったと思う。一つは精神病理学的な側面だ。あたしは奈緒ちゃんのことを一言も口に出さない奈緒人は、自分の妹や実の母の記憶を失っているのではないかと考えていた。それは昨年結城さんと姉さんが子どもたちに事実を打ち明けたときの奈緒人のショックで証明されたと思う。

 解離性障害。そのうち奈緒人に当てはまるのは解離性健忘という症例だった。

 あたしはそのことを以前に少しだけ奈緒人に話したことがあった。あのときの奈緒人は混乱していたしはっきりとは覚えていなかったんじゃないかと思うけど。それは人間の心の自己防衛機能のひとつだ。例えばレイプされた女の子はその衝撃的な事実から自分を守るためにそのときの記憶を全く失ってしまう。普通なら障害トラウマになりPTSDを発症するような出来事だけど、本人には全くその記憶がないので傷付くことすら生じない。奈緒人の実の母親にネグレクトされた記憶や奈緒ちゃんとの別れの記憶もきっとそういうことになっていたのではないか。

 もう一つは奈緒人の性格上の問題だった。自己防衛的な反応によって辛い記憶を失っていた奈緒人だけど、彼にとって、辛い環境は新しい家族と暮らすようになっても続いていた。それは明日香の、奈緒人に向けられた極端な敵意だった。あたしは明日香の行動を逐一結城さんから聞かされていた。結城さんはどういうわけかあたしが奈緒人の一番の理解者で味方だと信じていたから、姉さんでさえあたしには話さないようなことでも隠し立てせず話をしてくれたのだ。多分、このときのあたしは、結城さんにとって離婚した奥さんに代わって奈緒人の母親役を務めていた妹の唯さんに代わった、第三の奈緒人の母親だったのかもしれない。

「最近、明日香が奈緒人のことを嫌っているんだよね」

 結城さんはあるとき姉さんが不在の自宅で、明日香と奈緒人の夕食の支度をしに来ていたあたしに言ったことがあった。二階にいる子どもたちに聞かれないようにひそひそ声で。結城さんの声がよく聞き取れなかったあたしは、しかたなく結城さんの体に密着するようにしながら話を聞き取らなければいけなかった。それはまだ結城さんへの成就しない恋心を抱いてたあたしには辛いことだった。

「明日香の言うには奈緒人が明日香の着替えを覗こうとするとか、自分の体を嫌らしい目で見るとか、何気なく触ろうとするとか、まあそういうことを奈緒人が自分にしてくるって明日香は言うんだ」

「姉さんは知っているの?」

 あたしは結城さんの側にいることから生じていた胸の高鳴りを押さえつけながら冷静に聞こえるように結城さんに聞いた。

「ああ。あいつは年頃の男の子ならそいうことがあっても不思議じゃないって言ってるよ。何も本気で明日香に手を出そうとするわけがないし、むしろ明日香の思い過ごしだって。玲子ちゃんはどう思う?」

 クラッシク音楽雑誌の業界では名前の知れた結城さんがこんなことでうろたえているのを見て、あたしは彼のことを可愛らしく感じた。胸のどきどきも収まってきていたし。

「どう思うも何も悪いのは全部明日香だよ」
 あたしははっきりと言った。「わざわざ自分の部屋のドアを開けて見せ付けるように着替えたり、シャワーの後に下着姿で奈緒人君の前をうろうろしたりしているのは明日香の方じゃない」

「じゃあ何で明日香は一々奈緒人のことを僕たちに言いつけるようなことをするのかな」

「明日香も可哀そうなんだよ。姉さんが世話できなくてあたしが育てたみたいなものだし。やっとできたちゃんとしたパパとママのことを奈緒人に取られそうで恐いんでしょ」

 誰が見たってそう見える。それと明日香自身は気づいていないかもしれないけど、自分と本気で親しくしてくれない奈緒人への苛立ちもあるのだろう。そしてそれは奈緒ちゃんへの嫉妬心かもしれなかった。

180 : 以下、名... - 2014/12/23 00:34:52.55 YVbOe2ijo 161/442


 明日香にはかなり古い時点から記憶が残っていた。あの夏の日の公園での奈緒人と奈緒ちゃんとの出会い以降の記憶すら、明日香には思い出という形で自分の中に保存されていたのだった。負けず嫌いの明日香が奈緒人の自分に無関心な態度を見て、奈緒ちゃんに負けているという感情を抱いていたとしても不思議ではない。要するに明日香の行動原理は嫉妬なのだ。両親に対してにせよ奈緒ちゃんに対してにせよ。そのことを自分で気づいているのかどうかに関らず。

 あたしはそのことを結城さんに説明した。

「明日香が本当に異性として奈緒人のことを好きならこんな嬉しいことはないけどね」

 結城さんは言った。

「兄妹なのに?」

「実の兄妹じゃないし、あいつもそうなることを望んでるんだ」

 どうやら結城さんと姉さんは本気でこの兄妹が男女の仲になることを期待しているらしい。

「そうすればもううちの家庭はいつまでも一緒にいられるしね」

 結城さんは言った。

「随分単純に考えているのね」

「僕たちは別れと出会いを繰り返してきたからね。それでもようやく結ばれるべき相手と結ばれたんだ、せめて子どもたちには同じ想いをして欲しくないだけだよ」

「奈緒人君は優しいからなあ」

「え?」

 戸惑った様子の結城さんにあたしは言った。

「奈緒人君は何でも自分の中に溜め込んで自己解決しようとするから。仮に明日香が奈緒人君への態度を改めて奈緒人君に告白したら、彼は断らないだろうね。明日香の気持ちや結城さんたちの意向を考えちゃってさ」

 結城さんが考え込んだ。

「玲子ちゃん、頼む」

 いきなり頭を下げた結城さんの態度にあたしはとまどった。

「頼むって何よ。結城さん何言ってるの」

「迷惑かけっぱなしだけど、頼む。奈緒人のことを見てやってください」

「言われなくてもそうするよ。奈緒人君はあたしの大事な甥っ子、いやそうじゃないね。あたしの大事な息子みたいなもんだし」

 ・・・・・・結城さん。あなたの息子ならあたしの大事な子どもなの。あたしはそのときそう呟いたのだ。ただし、心の中でだけひっそりと。結城さんの話はそこで終った。明日香が階下に下りてきて結城さんに抱きついて甘え出したからだ。

181 : 以下、名... - 2014/12/23 00:35:33.45 YVbOe2ijo 162/442


 自宅のドアを開けると目の前に明日香が立っていたので僕は驚いた。

「明日香、おまえこんなとこで何やってんだよ」

 明日香はそれには答えずに僕に抱きついた。

「おい」

「最近のあたしの勘って結構当たるんだよ」

 明日香が僕の胸に自分の顔を押し付けるようにしながら言った。

「・・・・・・ひょっとしてずっと待ってたの?」

「だから勘だって。お兄ちゃんのことなんかこんなとこでずっと待ってるはずないじゃん・・・・・・って、あ」

 僕に抱き寄せられた明日香が真っ赤になった。

 僕は明日香と抱き合いながらもつれ合うようにソファに倒れこんだ。

「やめてよ、お兄ちゃん乱暴だよ。こら無理矢理はよせ」

 明日香が少しだけ笑って言った。僕はこのとき明日香をソファに押し倒したままの姿勢で言った。

「有希さんと話をしてきた」

「・・・・・・え?」
 明日香がふざけながら僕に抵抗していた体を凍らせた。「奈緒ちゃんにじゃなくて?」

「奈緒はレッスンを休んでたんだ。それで有希さんと話をした」

「そうか」

 明日香が僕の体から離れて身を起こした。

「有希、怒ってた?」

「うん」

 有希の反応は疑問の余地のないものだった。あれでは誤魔化しようがない。

「そうか・・・・・・」

「おまえと僕が付き合い出したことを聞いてさ。有希さんは自分がおまえに利用されたって思っている。つまりおまえが僕と奈緒を別れさせるために自分の気持を利用したんだって」

「・・・・・・あたし、あのときは本当に有希がお兄ちゃんと付き合ってくれればって思って」

「うん。おまえが僕のことを心配して奈緒と別れさせようとしていたことはわかってる。でも結果的におまえと僕は付き合っちゃったから、有希さんは素直にはそのことを受け取れなくなってるんだよ」

「・・・・・・うん」

 明日香はさっきまでの元気を失って俯いてしまった。

「気にするなとは言えないけど」

 僕は明日香の肩を引き寄せて言った。

「でももう仕方ないよ。おまえはやっぱり有希さんには悪いことしたんだよ」

 僕は明日香の涙を指で払った。明日香が僕の方を見た。

「それでも僕だけはわかってるから。ずっと一緒にいるんだろ? 有希さんの怒りも何もかも僕が引き受けるよ」

182 : 以下、名... - 2014/12/23 00:36:14.76 YVbOe2ijo 163/442


「お兄ちゃん」

「だからおまえはもう悩むな。僕が全部引き受けるから」

「いいの? あたし本当にお兄ちゃんに全部頼っていいの」

「うん。僕はおまえの兄貴で彼氏なんだからさ・・・・・・って、え?」

 明日香が僕に抱きついて僕の唇を塞いだのだ。

 口を離しても明日香は僕から離れようとしなかった。もうこれでいいのだ。これでもう何度目かわからないけど明日香を大切に思う気持ちが僕の中に溢れた。明日香の取った行動は間違っているにせよその動機は僕のためだ。

「前にも言ったけど、おまえはもっと僕を頼れって。まああまり頼りにならないかもしれないけどさ」

 明日香は何も言わずに子どものように僕に頭を擦り付けているだけだった。僕は黙って明日香の華奢な体を抱きしめた。


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【オリジナルSS】ビッチ(改)#4【再編集版】

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