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【オリジナルSS】ビッチ(改)#1【再編集版】

81 : 以下、名... - 2014/12/03 00:01:35.78 uW2Zr2Wlo 71/442


「いや、それは理解しているつもり。納得できないなんてことはないよ。むしろ奈緒ちゃんって大変なんだなあって思っただけでさ」

「そう・・・・・・。大変だなあって思ったんだ」

「うん」

「それだけ?」

「それだけって・・・・・・どういう意味?」

 僕と奈緒は確かに付き合ってはいるけど、普通の恋人同士のように休暇の間に会うことすらできない。むしろ平日の方が登校時や土曜日に奈緒と会えるだけまだましだった。奈緒は学校のない休暇期間中はその全ての時間をピアノに専念すると自分で決めていたから。そして僕は奈緒のその決定を邪魔しようとは思わなかった。むしろ邪魔をしてはいけないとさえ決心したくらいだ。僕と付き合うことにより奈緒の夢の実現を阻害することになるのなら、僕は喜んで寂しい思いに耐えるつもりだった。それに奈緒は休み中僕に会えないことを、そこまで考えなくてもと思うほど悩んでくれていたのだ。僕にとってはそれだけでも十分だった。

「奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」

 有希が顔を上げ僕を見た。

「好きだけど、でもそれそこどういう意味で聞いてるの?」

 僕は同じ言葉を繰り返した。有希が何を言いたいのかよくわからなかったのだ。明日香や僕のためにおせち料理や年越し蕎麦を何とかしてあげましょうかと言ってくれたさっきまでの柔らかな態度の有希とはまるで別人のようだ。

「好きな子のことならさ、普通はもっと気になるんじゃないの?」

「え」

「休み中はピアノの練習が忙しいからって奈緒ちゃんに言われて、理解のある優しい彼氏として気にするなよって彼女に言ってあげてさ。そして優しい自分に自己満足してるってわけ?」

「そんなことはないよ」

「それで休みの日は妹の明日香とかあたしとかで適当に時間を潰してるのね」

 ・・・・・・いくらなんでもこれはひどい。僕だって奈緒に会いたい気持ちはあるのにそれを我慢しているのだ。でも有希の話はまだ終らなかった。

「何で奈緒ちゃんがそこまでピアノにこだわるか、奈緒ちゃんにとって奈緒人さんと一緒にいるのと、志望している音大を目指して彼氏とのデートを犠牲にして頑張るのとどっちが幸せかとか考えないの?」

「だって奈緒ちゃんが自分で決めたことだろ? 僕はそれを応援したいと・・・・・・」

「・・・・・・奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」

 彼女は繰り返した。

「何でそんなこと君に言われなきゃいけないの」

 僕は我慢できずについにそう言ってしまった。でも有希は精一杯の僕の抗議をあっさりスルーした。

「じゃあさ。奈緒人さんは奈緒ちゃんのどういうところが好きになったの?」

 いつのまにか僕の奈緒に対する愛情を疑われているような話の流れになってしまっている。奈緒のピアニスト志望への僕の理解が何でこんな話に繋がるのか、それが何でそんなに有希を興奮させたのかよくわからない。一見冷静に話しているようだけどこの時の有希は感情に任せて話しているようにしか見えなかった。

「どういうところって・・・・・・」

 今まで何度も考えたことではあったけど改めて僕は考えた。正直に言えば大人しそうな美少女の奈緒の外見のせいも大きい。でもそれだけじゃない。彼女といるとすごく話がしやすい。何よりもこんなどうしようもない僕なんかを好きになってくれて告白してくれて、こんな僕なんかに嫉妬したり気を遣ってくれたりする。そういう奈緒が好きなのだ。僕はそれをたどたどしい口調で有希にわかってもらおうとした。こんな恥かしいことを口にしたのはあの朝奈緒の告白に返事をして以来だった。

「・・・・・・奈緒人さんって自分に都合のいい行動をしてくれるアニメとかゲームの中の女の子に夢中になっている男の子みたいね」

82 : 以下、名... - 2014/12/03 00:02:15.85 uW2Zr2Wlo 72/442


 これだけ恥かしい思いでようやく有希の質問に答えた僕を待っていたのは、嘲笑にも似た言葉だった。

「本当に生身の奈緒ちゃんに恋してるの? じゃあさ。奈緒ちゃんが奈緒人さんのどういうところが好きになったか考えたことある?」

 それは厳しい質問だった。奈緒に告白されてから僕はそのことをいつも考えていたような気がする。そしてその答えに回答を見出すことはできなかった。これで何度目になるのか覚えていないほど悩んで考えた疑問に対する答えは結局見つからなかったのだ。

「それは自分ではよくわからないよ」

 きっと僕は情けない声を出していたと思う。奈緒のような子がなぜ一度だけ雨の日に傘に入れてあげたくらいで僕なんかを好きになってくれたのか。それは多分このまま奈緒と付き合えたとしても謎のままなのかもしれない。考えてみれば奈緒の僕に対する愛情は、彼女の態度からは疑う余地がなかった。それは自分に自信がない僕でさえ奈緒の日頃の態度から納得できていたことだった。でも僕は奈緒が僕のどんなところを好きになってくれたのかなんて彼女に改まって聞いたことがないこともまた事実だった。僕の混乱した情けない表情を見た有希は我に帰ったようだった。

「あ、ごめん。何かあたし奈緒人さんにひどいこと言ってる」

「ひどいとまでは思わないけど、正直結構きつかった」

「本当にごめん。あたし、これまでも奈緒ちゃんのこと好きになった男の子のこと今までよく見てきたから」

「うん」

「だいたいは奈緒ちゃんの方がその気にならないんだけどね」

 だいたいはと言うことは奈緒の方も気になった男がいたことがあるのだろうか。でもそのことを口に出す前に有希が話を続けた。

「心配しなくていいよ。すごく不思議だけど、奈緒ちゃんがここまで入れ込んだ男の子って奈緒人さんが初めてだと思うよ」

「別に心配とかしてないけど」

 有希の言葉は僕を傷つけもし、また安堵させもした。僕は年下の有希の言葉に一喜一憂するようになってしまったようだ

「奈緒ちゃんはあのとおり可愛いし性格もいいし、彼女に惚れる男の子はいっぱいいたんだけど、奈緒ちゃんがちゃんと付き合った相手は奈緒人さんが最初だしね」

「うん。男と付き合うのは初めてだって奈緒ちゃんも言ってたよ」

「あたしさ。奈緒ちゃんとは小学校の頃からの友だちでね。あたしにとっては唯一の親友なの。だからさっきは奈緒人さんには言い過ぎたかもしれないけど」

「別にいいけど」

「だから奈緒人さんには、簡単に奈緒ちゃんの話しに納得してほしくないの。もう少し深くあの子のこと考えてあげて」

 正直、有希が何を言っているのか理解できたわけではなかったけど、僕は有希が奈緒を大切にしている気持ちは理解できた。それで有希に対して憤る気持ちはおさまってはいけれど、それでもこれ以上僕と奈緒との付き合いの意味を有希と話し合う気はなかった。それは僕と奈緒が二人で話し合うべきことだったから。

「話は変わるけどさ。有希さんだって奈緒と同じくらいピアノ関係で忙しいんじゃないの? 明日香と僕を気にしてくれるのは嬉しいけど、こんな無駄な買物に付き合ってくれる暇なんか本当はないんでしょ」

 僕は無理に話を逸らした。

「・・・・・・あたしは奈緒ちゃんとは違うよ」

 有希が言った。

83 : 以下、名... - 2014/12/03 00:03:53.68 uW2Zr2Wlo 73/442


「別に父さんが書いた記事だからってこだわる気はないけどさ。有希さんだって単なる趣味でピアノやってるわけじゃないんでしょ。都大会で二位入賞とか感情表現では奈緒ちゃんより将来期待できるとまで言われてるんだし」

「あたしは別に・・・・・・ピアニストになろうなんて思っていないもの」

「じゃあ君は天才なんだ。奈緒ちゃんなんか問題にならないくらい」

 この時の僕は大人気なかったかもしれない。さっきから明るく清純で人懐こい女の子と思い込んでいた有希から厳しいことを言われていた僕は、こんなつまらないことで憂さ晴らしをする気になっていたのだった。

「君は天才なんでしょ。奈緒ちゃんみたいに必死に練習しなくても、僕と明日香なんかの相手をしていても本番では成績がいいみたいだしね」

「あたしのこと馬鹿にしてるの」

「馬鹿にしてるのは君の方だろ」

 僕も思わずとげとげしい口調で言い返した。こんなことは初めてだった。ひどい嫌がらせを明日香にされていた頃も、両親から出生の秘密を明かされた時でさえ、少なくとも誰かの前では冷静さを失ったことはなかったのに。何で僕は有希の言葉にだけこんなに素直に反応してしまったのだろう。今まで溜め込んでいたいろいろなことが、有希の言葉に触発されて一気に迸り出てしまったみたいだった。

「奈緒人さんのこと、馬鹿になんてしてなんていないよ」

 さっきまでの勢いはもうなかった。有希は途切れ途切れにようやく言葉を口からひねり出しているみたいだ。

「じゃあ何で」

「あたしね」
 有希は少し寂しそうに笑った。「明日香にばれちゃった」

「・・・・・・うん」

「だけど何で明日香にはわかっちゃったのかなあ」

「何がばれたの?」

「好きだから」

「え」

「あたし奈緒人さんのこと好きだから」

 有希は僕を見てはっきりとした口調でそう言った。



「お兄ちゃん、おせち買えた?」

 夜になってどこからか帰宅した明日香は僕に会うとまずそれを聞いてきた。

「買えてない」

「え~、ちゃんとメモ書いたのに。お兄ちゃんは信用できないから明日香にも一緒に行ってもらったのに」

「・・・・・・予約もなしにこの時期におせち料理なんて買えるわけないだろ。おまえには常識がないなのか」」

「そうなの? じゃあお正月とかどうするよ」

「どうって・・・・・・コンビとかファミレスなら正月でも営業してるでしょ」

「本気で言ってるの? パパとママも帰ってくるのに。玲子叔母さんだって多分家に来るよ。そん時におせちもなかったら叔母さんに何言われるかわからないじゃん」

「それは確かに」

 叔母さんのことだから正月はうちを期待しているに違いない。どうも彼氏もいないみたいだし。

「はあ。でも考えていても仕方ないか。あとでママ・・・・・・は無理か。おせちのことはパパか叔母さんに相談するよ」

「うん。そうして」

84 : 以下、名... - 2014/12/03 00:04:46.33 uW2Zr2Wlo 74/442


 突然有希から告白された直後だというのに僕は明日香と普通に会話できている。何だか僕が言うのも生意気なようだけど、これまでの人生で全く縁がなかった女の子の告白にいつのまにか耐性ができたみたいだ。奈緒の告白。明日香の告白。そして今日有希にまで告白された。明日香はともかく、奈緒と有希の場合は出会ってからたいして間がない時期の告白だった。でも奈緒の告白は有希の場合とは違う。一見するとろくに知りもしない可愛い女の子に夢中になって奈緒の告白に応えたように思えるかもしれないけど、あの時はわずかな時間だけしか話したことのない奈緒に、僕は心から惹かれていたのだった。奈緒が告白してくれるより前から。

「何であたしを無視して考えごとしてるのよ」

 妹が不満そうに言った。



『あたしは奈緒ちゃんの友だちだから。だから奈緒人さんに振り向いて貰おうなんて考えてないし。というか生意気なようだけど、万一奈緒人さんがあたしのこと好きになってくれたとしてもあたしは奈緒人さんとは付き合えないもん』

『どういうこと? 君の言っていることさっきからよくわからないんだけど』



「ねえ。ねえってば。お兄ちゃんあたしの話聞いてるの?」



『だって奈緒ちゃんに悪いじゃん。あたしはたとえ親友の彼氏だったとしても本当にその人が好きになったのなら遠慮しない。そう思ったときも以前はあったのだけど』

『どういう意味?』

『奈緒ちゃんってさ。多分奈緒人さんが考えているよりメンタルが弱い子なんだよ。さっき奈緒人さん、奈緒ちゃんのこと大変なんだなって言ったでしょ。あなたが奈緒ちゃんの行動に関して感じた感想はそれだけなんでしょ。でもね。あれだけ気持ちが弱い子が必死になってピアノに縋りついていることとか、奈緒人んに依存している意味とか、奈緒人さん何にも気がついていないでしょ』

『あたしはピアノなんかに人生をかけるつもりはないけど。もし仮にあたしがどんな手段でも使ってピアノのコンテストで奈緒ちゃんに勝とうと決心したとしたら、必死にピアノの練習をするとかそういうことはしない』

『あたしなら奈緒人さんを誘惑して奈緒ちゃんを振らせるように仕向けると思う。多分それだけで奈緒ちゃんぼろぼろになってろくな演奏もできなくなるから』

『・・・・・・変なこと言ってごめん。奈緒ちゃんは親友だから。あたしは奈緒人さんのことが好き。でもそれだけなの。奈緒人さんと付き合う気はないの。奈緒ちゃんのためにもごめんね、変な話しちゃって』



「明日も別に予定ないんでしょ? おせちは無理でもせめてお正月っぽい食べ物を買いだしに行くからね。荷物持ちよろしく。あと有希も誘って今日の埋め合わせにケーキとかご馳走しないとね」

 妹の言葉がようやく耳に入って意識の中で形になった。それでは僕は明日も奈緒ではなく有希と会わなければいけないのだ。

85 : 以下、名... - 2014/12/03 00:05:24.88 uW2Zr2Wlo 75/442


 大晦日の深夜、僕は明日香と二人で初詣でに出かけた。いわゆる二年参りというやつだ。明日香が言うには大晦日の十時ごろ出かけて新年の早朝には家に戻る予定らしい。

 大晦日には家に戻って来る予定だった両親からは何の連絡もないし、まともな年越し蕎麦すら用意できず微妙に苛立っていた様子だった明日香は、大晦日の深夜に半ば無理矢理僕を家から連れ出したのだった。

 とりあえず明日香がデパートの地下の食品売り場で何とか揃えてきたそれらしい料理とか、コンビニで買えたぱさぱさの蕎麦でも十分に満足だった僕としては、もう今日は自分の部屋でゲームをしていてもよかったのだけど、明日香にとっては大晦日は何かのイベントが起こらないと納得できない特別な日のようだった。

 行き先はこの日は早朝まで終電に関係なく運行している電車に乗って三十分はかかる場所だった。僕たちは最寄の駅から深夜の電車に乗り込んだ。普段なら絶対に電車なんかに乗っていない時間に外出しようとしているだけでも、何か特別なことをしているような気になる。こんな時間なのに大晦日の深夜の電車は、まるで朝のラッシュ時のように混み合っていたけど、晴れ着を着た女の子の華やかな姿が見られたせいで、さっきまで結構悩んでいた僕まで少し華やかな気分になっていった。

 この時間だけは奈緒と会えないことや有希の不可解な告白を忘れて、明日香のことを考えてやらなければいけないのかもしれない。僕はそのとき考えた。奈緒に会えないのは何より寂しいけど、有希に偉そうに話したとおり、僕は奈緒のその選択に納得していたはずだ。それに長い休暇もいつかは終る。学校が始まればまた毎朝奈緒と会うことができるのだ。

 それに明日香は今年も例年のように自分の友だちと外出するのだろうと僕は思っていた。でも明日香は自分で宣言したとおり以前の派手な友人だちとは全く会っていないようだった。考えてみれば一人で過ごすことがあまり苦にならない僕と違って、明日香は誰かと一緒にいることが好きなようだった。僕のためにいい妹になる宣言をしたせいで友だちを無くした明日香は、大晦日に寂しい思いをすることになってしまったのだ。

 紅白が終る頃になってもう両親から連絡はないだろうと思ったのか、明日香は突然ソファに座って眠りそうになりながらテレビを見ている僕を外に連れ出した。明日香に気を遣った僕は半ば無理矢理家の外に連れ出されながらも、こういうのも気晴らしとしては悪くないなと考え直したのだ。

 深夜の電車の中で楽しそうに笑いさざめく晴れ着姿の女の子たち。車窓を流れる高層ビル街のきらめく夜景。そして僕の隣には何となく不満そうな顔をした明日香がいる。明日香は以前のようなケバい格好はしなくなっていた。そのせいもあって周囲の華やかな着物姿の少女たちに比べるとだいぶ地味な容姿に見える。

 でもそれは明日香のせいではない。着物なんて母さんが不在の家で明日香が一人で引っ張り出せるものではないし、着付けだって助けなく自分でできるものではないのだ。両親が不在では、周囲で笑いさざめいている少女たちが普通にできることも明日香にとっては望むべくもない。そう考えると僕は自分の妹が少しだけ不憫に思えてきた。奈緒や有希のような幸せな家庭に育った少女たちなら与えられて当然なことさえ、両親が共働きで多忙な我が家では明日香には期待することさえ許されていないのだから。

 明日香は周囲の女の子たちを気にしている様子もなく、普通にチャコール色のコートを着て僕の腕に掴まっていた。そして今日のこのときだけは、僕は妹の手を振り払う気はしなかった。今ごろはきっと奈緒だって今日ばかりはハードなピアノのレッスンから開放され家族で団らんしているのだろう。多分有希も。

 有希に奈緒に対する愛情を疑われたり、有希の告白めいた言葉を聞かされた僕は混乱していたけど、それでも明日香と二人だけで大晦日をリビングで過ごしていると、奈緒や有希のことではなく僕なんかと二人きりで過ごすしかない明日香に対する憐憫のような気持ちが、まるで拭いきれない染料で白紙を染めていくように僕の心に広がっていった。

 去年の大晦日はどうだったっけ。

 確か去年も両親はいなかった。そして去年の大晦日は僕たちが本当の家族でないということを両親から聞いた直後だったせいもあって、僕は自分の部屋で一人で過ごしたしそのことにほっとしていたことを思いだした。その頃は明日香もまだイケヤマとかいう男と付き合う前だったし派手な格好で遊びだす前だったので、多分妹も一人で自分の部屋で過ごしていたはずだ。お祭りごとの好きな明日香が両親不在の夜に一人で自室に閉じこもって何を考えていたのかはわからない。でもあの話の直後のことだ。明日香もきっと辛かっただろう。その時の僕には明日香を思いやるような余裕はなかったのだけど。

 そう思うと奈緒に会えない自分の悩みは消えていって、明日香の悩みに無関心だった自分に腹が立った。そのせいか僕は思わず混み合った電車の中で僕にしがみついている妹のを心持ち自分の方に抱き寄せるようにした。

「お兄ちゃん?」
 僕突然肩を抱き寄せられた明日香が困惑したように言った。「どうかした?」

「いや。どうもしていないけど」

「そうか」

86 : 以下、名... - 2014/12/03 00:06:10.51 uW2Zr2Wlo 76/442


 明日香は僕の腕に改めてしがみつくような仕草を見せた。

「結構混んでるよな」

 僕は照れ隠しにそう言った。

「毎年この時期の電車はこうなんだろうね。あたしたちが知らなかっただけで」

 明日香が車窓を眺めながら呟いた。

 目的の駅に降りた瞬間から行列が始まっていた。学生のバイトのような警備員のアナウンスの声ががあちこちで響いているし、周囲には着飾った集団が楽しそうに笑いさざめく声であふれている。家を出るときまではハイテンションで僕を引っ張っていた明日香は周りの熱気に当てられたように大人しく僕の腕に掴まったままで、いつもよりだいぶ言葉数が少なかった。

 それだけ周囲は賑やかだったのだけど一時間ほどで神社の鳥居をくぐると、周囲には何か賑わいの中でも尊厳な雰囲気が漂っていた。神社の中は果てしなく続く提灯の列にぼんやりと照らされていて、それははしゃいでいる人々の声を飲み込んで何か騒音の中の不思議な静謐を感じさせた。

「初めて来たけど結構いい雰囲気だね」

 妹が幻想的な提灯の列に目を奪われながら呟いた。

「まあ、大晦日の夜にお参りする習慣なんてうちにはなかったしな」

「それはお兄ちゃんだけでしょ。あたしはパパやママと近所の神社に行ったことあるよ。朝早く美容院で着付けもしてもらって」

「僕はおまえの着物姿なんか見たことないぞ」

「あたしなんか見ようとしていなかったからでしょ」

「そうじゃなくて本当に見たことないんだって」

「そ。あたしの着物姿に興味なんかないくせに」
 明日香が笑った。「それにしてもこれって何時間くらい並んでれば参拝できるのかな」

「さあ。見当もつかないや」

 結局お賽銭を投げて参拝しおみくじを引くまでにそれから三時間くらいかかった。もう夜中の二時過ぎだ。

「帰る?」

 一応予定の行動を消化したので僕は明日香に聞いてみた。

「やだ」

 思ったとおりの答えが明日香から帰ってきた。明日香にとってはまだ物足りないらしい。

「今日はお店だって二十四時間営業してるよ、きっと。ファミレスとかに寄って行こう」

 僕もまだここの雰囲気に当てられていたし、こんな日に両親が不在で僕なんかと二人で一緒に過ごすしかなかった明日香のことを考えるとそれを無下に退けるわけにもいかなかった。

「じゃあ、ファミレスに行くだけ行ってみるか?」

「うん」

 嬉しそうに明日香が言った。

「でも、また並ぶと思うけどな」

「いいよ。それでも」

 明日香は嬉しそうに僕の腕にしがみついた。

87 : 以下、名... - 2014/12/03 00:06:57.35 uW2Zr2Wlo 77/442


 結局、行列ができていたファミレスで席に案内された頃にはもう夜中の三時を過ぎていた。並んでいる間、立ったまま僕の肩に寄りかかってうとうとしていた明日香は、席に案内されると急に元気を取り戻したようだった。

「ねえ。何食べる? ケーキを食べようかと思っていたけど考えたら今日は大した食事してないしさ。一緒にピザとか食べちゃう?」

 明日香はずいぶん楽しそうだ。

「おまえが決めていいよ。何が来ても文句は言わないからさ」

 明日香はそれを聞いて再び真剣な表情でメニューに目を落した。注文は明日香に任せよう。僕はメニューをテーブルに置いて何となく周囲を見回した。その時僕は近所の神社の参拝帰りの客とは思えないスーツ姿のビジネスマンみたいな人が隣の席に案内されているのをぼんやりと見ていた。その人には女性の連れがいた。

「叔母さん?」

「え、何々?」

 僕の大声に驚いた妹が目をメニューから上げた。

「何だ。明日香と奈緒人か。偶然じゃんか」

 そこには玲子叔母さんが立っていて、どういうわけか飽きれたように僕たちを眺めていた。

「あんたたち、こんなとこで何してるのよ。兄妹でデートでもしてたの?」

「叔母さんこそデート?」

 明日香が嬉しそうに叔母さんに聞いた。

 そう言えば叔母が男の人と一緒のところを見るのは初めてだ。

「・・・・・・こんな時間に外出とか結城さんや姉さんは知っているんでしょうね」

「だってパパもママも全然連絡してこないんだもん」

 明日香が口を尖らせた。

「何? 大晦日も二人きりだったの? あんたたち」

「そうだよ」

 叔母さんは驚いたようだった。そして叔母さんと僕たちの会話を聞いている人に言った。

「酒井さん悪い。打ち合わせはまた今度にならない?」

「え? 何で」

「家族の関係で用事ができちゃった。悪いけど」

「はあ。社内じゃちょっとって言うから、あんだけ並んでようやく店には入れたのに。まあいいですけど。でも打ち合わせしないなら大晦日に呼び出さないでよ。僕にだって家庭があるんですよ」

「ほんとにごめん。そのうち埋め合わせするから」

「まあ独身の人にはわからないでしょうけど、家族持ちには特別な日なのに」

 そうぶつぶつ言いながらその男の人は去って行った。

88 : 以下、名... - 2014/12/03 00:07:37.95 uW2Zr2Wlo 78/442


 叔母さんは僕の隣に座って初めて見た細身の赤いフレームの眼鏡を外した。眼鏡を外すことで仕事のオンとオフを別けているのかもしれない。

「叔母さん仕事いいの?」

 明日香が目の前に座った叔母さんに声をかけた。

「よくないけど・・・・・・。それよか姉さんたちは二人とも本当にこの間からずっと帰って来ないの?」

 この間とは叔母さんと父さんが偶然に家で鉢合わせした夜のことを言っているらしい。

「うん。年末には帰るって言ってたけど連絡もないよ」
 明日香が言った。「それよかさ。まだ注文してないんだけど。叔母さんも何か食べるでしょ」

「明日香さあ。親が二人揃って大晦日に連絡もないっていうのに寂しがり屋のあんたが何でそんなに平気なんだよ」

「だって今年は一人じゃなくてお兄ちゃんもいるし」

「・・・・・・なるほどね。そういうことか」

 叔母さんが再び眼鏡をかけた。思っていたより悩んでいる様子のない明日香に安心して、また仕事に戻る気なのだろうか。僕は一瞬そう思ったけど、叔母さんは明日香からメニューを取り上げただけだった。

「じゃあ何か食べるか。そういえばあたしも昼から何にも食べてないや」

「叔母さんご馳走してくれるの」

 どうせ親から預かったお金で支払う気だったくせに、明日香はここぞとばかりに目を輝かせて言った。

「相変わらず人の奢りだとあんたは容赦ないな」
 注文を終えた明日香に対して再び眼鏡を外した叔母さんが飽きれたように笑った。「そういや年越し蕎麦とか食べたの?」

「うん。お兄ちゃんがコンビニのざる蕎麦も結構美味しいって言うから」

「どうだった?」

「お兄ちゃんに騙された」

「いや、あれはあれで美味いだろうが。それに別に手打ち蕎麦なみに美味しいなんて言ってないし」

 僕は反論した。

「だったら最初からそういう風に言ってよ。期待して損しちゃった」

「おまえに嘘は言ってないだろ」

「あんたたち、最近仲いいじゃん。まるで昔からの恋人同士みたいよ」

 叔母さんが笑って言った。

 僕と明日香のほかに叔母さんが一人加わるだけで、不思議なことにどういうわけか家族団らんという雰囲気が漂う。僕なんかでもいないよりは妹にとっては元気が出るだろうと思ってここまで付き合っていたのだけど、やはり叔母さんがいると妹のテンションは高くなるようだった。

 偶然に叔母さんに会えてよかったと僕は思った。よく考えてみればここは叔母さんの勤務先の出版社の所在地からすごく近い場所だった。

「ちょっとトイレ。お兄ちゃんデザート持ってくるように頼んでおいて」

「うん」

 妹が席を立つと叔母さんがにやにやしながら僕の方を見た。

「何でニヤニヤ笑ってるんの」

「奈緒人。あんたさあ、あの短い時間の間に急速に明日香と仲良しになったみたいんじゃん」

89 : 以下、名... - 2014/12/03 00:08:23.32 uW2Zr2Wlo 79/442


「ああ、まあ昔よりは仲良くなったかもね」

「何を冷静に言ってるんだか」
 叔母さんが笑ったまま言った。「しかしわからんものだよねえ。仕事の打ち合わせでたまたま入ったファミレスにさ、妙にいい雰囲気の若いカップルがいるなってあって思ったら、あんたたちだったとは」

 叔母さんの話は別に僕たちへの嫌がらせのようではなかった。

「まあでもよかったよ。あんたたちが仲が悪いとあたしも居心地が良くないし」

「ごめん」

 叔母さんは僕たち二人を可愛がってくれていただけに、明日香と僕の不和には心を痛めてくれていたのだろう。

「まあ、別にいいさ。しかしさあ、仲直りするのを通り越してまるで恋人同士みたいにイチャイチャしだしてるのはちょっと急ぎ過ぎじゃない? 血が繋がっていないとはいえ一応兄妹なんだしさ」

「そんなんじゃないって」

「おう。奈緒人が珍しく照れてる」
 叔母さんが幸せそうな表情で笑った。「心配するな。あんたたちの両親はあたしが責任を持って説得してやる。だから明日香を泣かせるんじゃないぞ」

 ここまで来ると叔母さんの話はもはや本気なのか冗談なのかわからなかった。一応、本気で僕と明日香の仲を誤解しているといけない。僕は叔母さんに奈緒のことを話すことに決めた。両親にさえ話していないけど叔母さんなら信用できた。

「確かに僕と明日香は仲直りしたといってもいいけど、叔母さんが想像しているような変な関係じゃないよ」

「変な関係なんて言ってないじゃん。でもほんと?」

 叔母さんは本気で驚いている様子だった。僕はそっとため息をついた。誤解を解いておくことにして本当によかった。

「本当だよ。それに、僕も最近は彼女ができたし」

「彼女って・・・・・・明日香じゃないの?」

「だから違うって。 鈴木奈緒って子で」

 そこで僕は深夜の叔母さんと父さんの会話を思い出した。会ったことはなくても叔母さんは奈緒のことを知ってはいるのだ。父さんの書いたあの短い記事を読んでいたのだから。

「え。もっかい名前言って」

 どういうわけか叔母さんが青くなった。

「鈴木奈緒。東京都の中学生のピアノコンクールで優賞した子。父さんが記事を書いたの叔母さんも知っていたんでしょ」

「その子と付き合っているってどういうこと? あんたはさっきから自分が何を言っているのかわかってるの」

 叔母さんの様子がおかしい。何でだろう。叔母さんは本気で僕と明日香を付き合せたかったのだろうか。

「どうって。偶然出会って付き合うことになったんだけど・・・・・・というか僕に彼女がいることは明日香だって知っているよ」

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」

「だから明日香とはそういう関係じゃないって」

「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の」

「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」

 その時トイレから戻ったらしい明日香の悲鳴に似た声が響いた。周囲の席を埋め尽くした客の喧騒が一瞬静まり返った。

90 : 以下、名... - 2014/12/03 00:09:18.21 uW2Zr2Wlo 80/442


「明日香?」

 僕は振りかえった。真っ青な顔の明日香の姿が目に入った。

「妹なのに・・・・・・って、明日香?」

 少しして周囲の喧騒が戻って来たけど、叔母さんの言葉は僕の耳にはっきりと届いていた。



「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」

「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」

91 : 以下、名... - 2014/12/03 00:09:59.18 uW2Zr2Wlo 81/442


 冬休が終った最初の登校日の朝、僕はいつもよりだいぶ早い時間に起きて普段より一時間以上早い電車に乗った。休み明けが僕より二日間遅い明日香は僕を学校まで送っていくと言い張った。きっと僕の決心が揺らいでいつもの時間に奈緒と待ち合わせてしまうことを恐れたのだと思うけど、それは無駄な心配だ。今の僕は奈緒と顔を会わせるどころか、彼女の可愛らしい表情や気持ちのいい声を思い出すことさえ自分に禁じていた。必死に努力し他のことを考えて気を紛らわせ、奈緒のことを記憶から追い出す。

 そうすることによってのみ、僕の世界はとりあえず崩れ去っていくことなくその姿を保ち続けることができたのだ。

 あの時。

 最初は明日香の悲鳴のような声に気を取られていたせいもあって、叔母が言った言葉の意味の重さにすぐには気がつかなかった。その瞬間はむしろ混み合った店内の客の視線をひき付けてしまっていることの方に意識を奪われていたかっら、僕は反射的に呆然と立ち尽くしている明日香の手を引いて向かいの席に座らせた。

「・・・・・・前にあたしの家であんたは奈緒ちゃんと奈緒人が一緒に歩いてたって言ってたね?」

 叔母さんが恐い表情で明日香に聞いた。たった今妹が見せた狼狽のことはわざと無視しているようだった。

「あんた奈緒人が奈緒ちゃんとそういう関係だって知ってたの? そもそも奈緒人と奈緒ちゃんはお互いのことを実の兄妹だってわかっているの?」

 そのあたりで僕はようやく叔母の言葉が持っていた意味に気がついた。胃の奥が痛み始めたと思った途端、何かが急速に喉からせり出してきそうな感覚があった。

「あたしは知ってたよ。奈緒が知っていたかどうかはわからない」

 明日香が低い声で言った。

「奈緒人は・・・・・・って知ってたって感じじゃないね。でも。何でそのまま放っておいたのよ」

「お兄ちゃんが好きになった子が実は自分の妹だなんてわかったら、どんだけショックを受けるかを考えてみて」

「明日香・・・・・・」

「だからお兄ちゃんをあたしに振り向かせて奈緒への好意を無くさせようとしていたの。好意がなくなった相手が後から実の妹だってわかった方がまだショックは少ないでしょ。自分が一番好きな子が実の妹だったことがわかったのと比べたら」

「・・・・・・あたしが邪魔しちゃったわけか。明日香ごめん」

「あたしに言われても」

 このあたりが限界だった。僕は立ち上がってトイレに駆け込んで胃の中のもの一気に吐き出した。

 今までだって幸せに新年を迎えたことなんかなかった僕だけど、それでも今年の正月はろくなことがなかった僕の人生の中でも最悪の日だった。フラッシュバックが始まると吐き気や眩暈を伴い普通に立っていることすらできなくなる。だからそうなってしまったら頭を抱えて床にしゃがみこむか横になってその辛い状態が終るのをひたすら耐えながら待つしかない。

 その引き金になるのはやはり奈緒のことを考え出したときだった。だから僕は奈緒のことはなるべく考えないようにしていたのだけど、それでも彼女のことを全く考えないというのは不可能だった。

 これは悲劇的な偶然だった。本当にありえないほどの確率で起こった神様の残酷な悪戯だ。そもそも僕には実の妹がいたことさえ聞かされていなかったのだ。

 僕が比較的落ち着いている状態のときを見はからって、明日香は自分の知っていることを少しづつ話してくれた。明日香はまだ僕に対する奈緒の悪意を疑っていたようだけど、奈緒とのあの偶然の出会いや僕に抱きついて僕を恥かしそうに見上げたナオを思うと、僕は明日香が間違っていると確信できた。彼女もまた実の兄妹であることを知らずに僕を好きになったのだ。

 でもそう考えたとき、またフラッシュバックの予感がして僕はあわてて奈緒の表情を頭の中から拭い去った。とにかく明日香の言うとおり僕は奈緒とはもう二度と会うべきではない。奈緒が僕のことを本当の兄だと知ったらどんなに衝撃を受けるだろう。それに比べればいきなり彼氏からの連絡がなくなった方がまだましだろう。

92 : 以下、名... - 2014/12/03 00:10:53.02 uW2Zr2Wlo 82/442


 僕は明日香の勧めに従って携帯を買い変え、その際にメアドと電話番号を変更した。こういう地味な作業的なことをしているときが一番気が楽だった。

 こうして辛い休暇を過ごしている間に、ただ一つだけ心が暖まったのは明日香の行動の謎が解けたことだった。僕と奈緒が付き合い出してから明日香が取っていた不思議な行動の意味を初めて理解した僕は、フラッシュバックとは別の意味で涙を流した。

 明日香はずっとこんな僕を守ろうとしてくれていたのだ。多分そのために彼氏と別れたり自分の友だちを付き合いを切ったりしてまで。

 冬休みが終って登校日が来るまで僕は明日香に依存することによって心の平穏を辛うじて保っていたようだった。うっかりと幸せなナオとの記憶を思い出してしまいフラッシュバックに襲われて吐きながらのた打ち回っているときでさえ、明日香は僕を必死で抱きかかえていてくれた。長いときには三十分くらいの間ずっと。

「大丈夫だよお兄ちゃん。あたしがいるから。もうずっとお兄ちゃんと一緒にいるから」

 休み明け初日の授業は午前中で終った。今日は渋沢や志村さんには奈緒のことを聞かれることはなかったけど、いつかは他意のない会話の中でそのことに触れられることがあるだろう。その時どう答えればいいのか今は見当もつかないけど、それも考えておかなければいけないことだった。

 正直に言えば学校の友だちなんかにどう思われようがそんなことを気にする段階は過ぎていたのだけど、どんなに混乱し油断するといつフラッシュバックが起こるかもしれないという状況にあっても、社会生活を送る以上はそんなことはどうでもいいと切り捨てるわけにもいかない。それに今度のことに関しては奈緒が自分の妹であるということ以外には僕にだって何も理解できていないわけで、渋沢たちに説明する前にいったいどんな理由でこんなことになってしまったのか自分自身が知ることが先決だった。

 前向きに考えればそういうことなのだけど、奈緒のことや今回の出来事を考えただけでも僕は気分が悪くなった。明日香がいてくれる間は僕は思考を停止していられる。僕が何をすべきかを明日香が考えて僕に伝えてくれる。わずか数日の間に僕はすっかり明日香に依存するようになってしまっていた。まるで明日香がモルヒネのような強い痛み止めであるかのように。

 明日香は百パーセント僕の味方だった。このひどい出来事を通じて唯一新たに信じることができたのは明日香の気持ちだけだった。そう考え出すと今この瞬間に一人で校内にいることがすごく不安に感じられた。

 早く家に帰ろう。帰って明日香のそばにいよう。いつかは向き合わなければいけないことなのはわかっていたけど、今はまだ無理だ。ホームルームと校内清掃だけの時間を何とかやりすごした僕は急いで校門を出ようとした。

「あ、来た」

 明日香が校門の前でたたずんでいた。前みたいに派手な格好をしなくなっていた明日香だけど、どういうわけか派手だった頃よりうちの学校の男子の視線を集めてしまっているみたいだ。でも、当の本人は自分のほうをちらちら見ている男子のことなど気にする様子もなく僕の腕に片手をかけた。

「来てくれたのか」

 僕はもう明日香に会えた安堵心を隠さなくなっていた。

「お兄ちゃんが不安だろうと思ったし、それに行くところもあるから」
 明日香はあっさりと言って僕の手を握った。「じゃあ、行こうか」

「行くって? 家に帰るんじゃないのか」

「うん」

 明日香が柔らかい声で何かを説明しようとしたとき、背後から渋沢の呑気な声が聞こえた。

95 : 以下、名... - 2014/12/10 23:18:50.23 cxEkQJKlo 83/442


「奈緒人。今帰りか? って明日香ちゃんも来ていたんだ」

 渋沢と志村さんが僕たちの背後に並んで立っていた。

「珍しいじゃん。おまえが明日香ちゃんと一緒なんてよ」

 二人の視線が申し合わせたように握りあっている僕と明日香の手に向けられた。

「今日はずいぶん仲いいのな」

 渋沢が戸惑ったように言った。

「ま、まあ、兄妹だもんね。それよか明日香ちゃんって奈緒人君の妹だったのね。あたしたちこの間まで全然知らなかったよ」

 志村さんが取り繕うように笑ったけどその笑いは不自然なものだった。

「・・・・・・どうも」

 明日香が言ったけどその声にはついさっきの柔らかな様子は全く消え去っていた。むしろ明日香の声には志村さんに対する敵意のような感情が感じ取れた。

「君たちも帰るところ?」

「ああ。カラオケでも行こうかって話してたんだけど。よかったら一緒に行かね?」

「悪い。僕たちこれから行くところがあるから」

「そうか。まあ急に誘ったって無理だよな。じゃあまた明日な」

「うん、また明日」

 相変わらず志村さんを敵意を持って睨んでいるような表情の明日香を促して僕たちは歩き出した。

「どうしたんだよ」

「お兄ちゃん。そっちじゃないよ」

 明日香は僕の質問には答えずに先に立って僕の手を引いて、自宅方面への下りホームではなく反対側の上りホームへのエスカレーターの方に向かって行った。

「・・・・・・どこに行くんだ」

 僕は思わず震え声が出そうになるのを必死に抑えて言った。自宅と反対方向に向かうと知っただけでも動揺を感じる。それにこの方向だと一駅先には富士峰女学院がある。明日香が僕を振り返った。

「叔母さんのところに行こう。お兄ちゃんももうそろそろ知らないといけないと思う」

 このときの明日香は僕の妹というより頼りになる姉のようだった。

「知るって何を」

「いろいいろと。このまま目をつぶって耳を塞いでいてもお兄ちゃんの不安はなくならないと思うの。ちょっと辛いかもしれないけど、そろそろ昔のことを思い出した方がいい」

「・・・・・・どういう意味? 昔のことなんか聞いたって今回のことは何も変わらないだろ」

「昔の奈緒のこと、お兄ちゃんの本当の妹のこと思い出せる?」

 思い出せるどころか僕には妹がいたことさえ記憶になかったのだ。

「叔母さんももう知っておいた方が、そして思い出せるようなら思い出したほうがいいって言ってた」

 僕は再び得体の知れない不安におびえた。明日香が僕の手を握っている手に力を込めた。

「大丈夫。何があってもこの先ずっとあたしはお兄ちゃんと一緒にいるから」

 僕は明日香を見た。少なくともこれは罠じゃない。明日香を信じよう。

「わかった」

 上りの急行電車がホームに滑り込んできた。

96 : 以下、名... - 2014/12/10 23:21:01.04 cxEkQJKlo 84/442


 車内にはうちの学校の生徒もいたけど知り合いの姿はなかった。そして幸いなことに富士峰の学生の姿も見当たらない。昼下がりの車内は空いていたため僕たちは並んで座ることができた。こうしていると土曜日の午後の電車の中で奈緒と並んで座ったときの記憶が自然に蘇ってきた。一度有希の件で仲違いしかけて、そして仲直りしたあの日もそうだった。あの時、奈緒は僕の胸に顔を押し付けるようにしながら「本当にあたしのこと嫌いになってない」って小さな声で言ったのだった。

 それは本当に短かった僕と奈緒の一番幸せだったときの記憶だった。僕は妹一緒にいたせいで油断していたのかもしれない。今まで避けていた奈緒との記憶を反芻することをうっかりと自分に許してしまったのだ。そしてその記憶は一瞬の間だけはひどく甘美なものだった。でも次の瞬間、甘美な記憶は強制的に場面転換された。



「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の」

「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」

「明日香?」



 記憶の中で僕は振りかえる。賑わっているファミレスで真っ青な顔で立ちすくんでいた明日香。明日香の背後からいつもなら大好きな叔母の陽気な声がこのときは陰鬱なエコーがかかってひどく低い声で反響しながらあのセリフを繰り返す。

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」

 急に眩暈が激しくなった。記憶から呼び戻された僕の視界にはぐるぐると回転する電車の床と座席に座っている見知らぬ人の靴が映り込む。吐き気をもよおした僕は姿勢を保っていられずに、空いているロングシートにうつ伏せるように横になった。

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」

 目をつぶってもどういうわけか視界には電車の床がぐるぐる回っているままだった。そして耳には叔母さんの低い声が同じフレーズをループして延々と繰り返されている。何度も聞いているうちにそのフレーズは意味を失い、ただ不快なだけの雑音に変わっていった。とりあえず吐けば楽になるかもしれない。僕がそう思ったとき、突然視界が閉じ耳がふさがれたように感じた。フラッシュバックがおさまっていったのだ。

 不快な視覚と聴覚が消失した替わりに唇を覆っている湿った感触が頭を占めた。吐き気もおさまっていく。僕は妹にキスされたままで妹の小柄な体に必死に抱きついた。明日香が僕の口から自分の口を離した。

「大丈夫?」

「・・・・・・うん」

 僕は覆いかぶさっている妹の体ごと自分の体を起こした。

「悪い」

「気にしなくていいよ。お兄ちゃんのことはあたしが守るから」

 さっきまでの不快感と痛みが嘘のようにおさまっていた。明日香は僕の額を濡らしている気味悪い汗をハンカチで拭いてくれた。明日香に拭かれている顔が気持ちよかった。ようやく周囲の視線を気にすることができた僕は赤くなって妹から体を離そうとしたけど、明日香はそれを許さなかった。

「もう少しあたしのそばにいた方がいいよ」

 明日香は僕を自分の方に抱き寄せるような仕草をした。

「お二人とも大丈夫?」

 そのとき、向かいに座っていた老婦人が僕たちを心配そうに眺めて声をかけてくれた。

「はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」

 明日香が老婦人にお礼を言った。

「発作とかなの? 車掌さんを呼びましょうか」

「いえ、次の駅で降りますし本当に平気ですから」

97 : 以下、名... - 2014/12/10 23:22:02.39 cxEkQJKlo 85/442


 電車が駅に着いた。この駅に来たのは初詣のとき以来だ。

「お兄ちゃん立てる?」

「大丈夫だと思う」

 僕は明日香に抱かれながら立ち上がって、開いたドアからホームに降り立った。

「気をつけてね」

 老婦人が声をかけてくれた。

「今日はやめておく?」
 ホームの固いベンチに僕を座らせた明日香が迷ったように言った。「お兄ちゃん、ごめん。あたしちょっと急ぎすぎてたかも」

 冬の冷気が熱く火照っていた僕の顔を冷やしてくれる感じが心地いい。僕は急速にさっきまでのパニックから回復していくように感じた。

「おまえのせいじゃないよ。助けてくれてありがとう、明日香」

「でも、まだちょっと早かったのかも」

「いや。明日香がいてくれれば平気だよ。今だっておまえが」

 明日香がどうやって僕を正気に戻したかを改めて思い出した僕は、そこで言いよどんだ。

「・・・・・・ごめん。でも何となくああした方がいいと思ったから」

「いや。今だって明日香がああしてくれたから僕は正気に戻れたんだし。叔母さんの話を聞くよ。それでパニックになったらまた僕のこと助けてくれるか」

 明日香はそれを聞いて赤くなったけど、その口調は真面目そのものだった。

「うん、安心していいよ。お兄ちゃんが楽になるならキスだって何だってするから」

「ありがとう」

「もう大丈夫?」

「ああ」

「じゃあ、お兄ちゃんがいいなら行こう」

 明日香はベンチで座っている僕に手を伸ばした。僕は迷わずに明日香の手を握って立ち上がった。



 叔母さんとはあの日のファミレスで待ち合わせなのかと思ったけど、明日香が言うには叔母さんは会社まで来てくれと言ったらしい。僕にしてもあの夜の現場のファミレスに行くのは気が進まなかったからそれは好都合だった。

「叔母さんも了解してくれてるのかな・・・・・・その・・・・・・、僕の過去を話してくれることを」

 叔母さんだって父さんや母さんに黙って僕に全てを話してくれるのは気が重いのではないだろうか。奈緒のことは僕が実の妹と付き合っているなんてことを嬉々として報告したから、慌てて釘を刺そうとしただけなのだろうし。

 僕は叔母さんを恨んではいなかった。むしろ叔母さんに迷惑をかけてしまうことの方を恐れていた。

「うん。叔母さんと相談して決めたの。だからお兄ちゃんは余計な心配しなくていいよ」

 明日香はあっさりとそう言った。

 駅から十分ほど坂を降りたところに叔母さんの勤めている会社のビルがあった。

 想像していたより随分こじんまりとした建物だ。叔母さんの勤務先は誰でも聞いたことがある出版社なので、僕は何となく高層ビルのようなイメージを持っていた。実際には十階建てくらいの茶色のビルで、その入り口に社名の表示板が掲げられていた。

「株式会社 集談社」

 それでも中は外見から想像できるより綺麗な建物だった。受付前にプレートが掛かっていてその中に叔母さんが作っている雑誌の名前も表示されている。

98 : 以下、名... - 2014/12/10 23:23:08.36 cxEkQJKlo 86/442


「5階 ヘブンティーン編集部」

 でも明日香はその表示を無視して受付の女性のところに真っ直ぐに歩いて行った。

「いらっしゃいませ」

 受付の綺麗な女性が頭を下げた。

「すいません。ヘブンティーン編集部の神山の家の者で結城と言います。神山と約束をしているんですけど」

 神山は母さんの前の前の姓だ。前の姓は高木だけど、母さんが離婚して父さんと再婚してから母さんと明日香は結城姓になった。叔母さんはずっと独身だったから未だに神山という名前だ。それにしてもたかが中学生のくせに明日香は随分と堂々と振る舞っている。

「そちらで少々お待ちください」

 受付の女性はロビーのソファを僕たちに勧めながら内線電話を取り上げた。

「神山さん、そちらの方です」

 エレベーターから現われてきょろきょろしている叔母さんに受付の女性が声をかけた。

「ああいた。陽子ちゃんありがと」
 受付の女性に微笑んでお礼を言った叔母さんが僕たちに話しかけた。「おう。二人ともよく来たね」

「ちょっと遅くなっちゃった」

「叔母さん今日は。今日は忙しいのにすみません」

「こら奈緒人。こないだ敬語はやめるって約束したじゃんか」

 叔母さんが笑った。

 僕たちは叔母さんに連れられて社内の喫茶店に座った。ここはよく打ち合わせに使われるほか軽食も取れるので便利なのだそうだ。

「あんたたち昼ごはんは?」

「食べてないよ」

 明日香が答えた。

「あたしもまだだから何か食べようか。つってもここは大したもんができないけどね」

 正直僕は食事ができるような状況ではなかったけど、ここで自分の体調の悪さをアピールするのも嫌だった。それは叔母さんを無駄に心配させることになる。さいわい明日香は僕の発作のことを考慮してくれたのか、あたしたちはあんまりおなかが空いていないからと言って食事を断ってくれた。明日香本人は空腹だったかもしれないのに。

「そう? じゃああたしだけ食っちゃおう」

 叔母さんはナポリタンとコーヒーを三つ注文してから改めて僕たちを眺めた。

「最初に言っておくよ。奈緒人にも明日香にもこの間は悪いことしちゃったね。ごめんなさい」

 叔母さんが僕に頭を下げるのは初めてだったのではないか。僕は驚いて叔母さんに言った。

「叔母さんが謝ることなんか何にもないよ。僕のことを考えて言ってくれたんでしょ」

「うん。それはそうだけど、明日香が一生懸命奈緒人を守ろうとしていたことを考えなしに邪魔しちゃったから」

「もういいよ。振り返っていたって仕方ないし。それより大切なことはこの先のことでしょ」

 明日香も言った。

「うん。明日香の言うとおりだ。じゃあ、もうあたしはあんたたちに謝らないよ」

 僕と明日香は二人してうなずいた。

「じゃあ、本題に入るけど。あたしは全部を知っているわけじゃないけど、姉さんの妹だし結城さんとも古い知り合いだから奈緒人に教えられることはあるんだ。でも、本当はあたしが勝手に教えちゃいけないんだと思う。結城さんや姉さんが奈緒人に話すべきだと思っているから」

99 : 以下、名... - 2014/12/10 23:24:10.17 cxEkQJKlo 87/442


「はい」

 僕は緊張しながら言った。

「でもこんなことになった以上、奈緒人が全部知るべきだという明日香の意見は正しいと思う」

 ここで少し叔母さんはためらった。

「でもね、そうは言っても、姉さんや結城さんに奈緒人と奈緒ちゃんが付き合ってたなんて言えないしね」

 それは叔母さんの言うとおりだった。これだけはとても両親に知られるわけにはいかないのだ。

「だから、姉さんや結城さんには怒られちゃうかもしれないけど、あたしが知っていることは全部あんたたちに話すよ」

「ちょっと待って」
 明日香が不審そうに言った。「あんたたちってどういう意味? あたしはママの離婚前の出来事とかは、お兄ちゃんと違って記憶に残ってるし、それにあたしは叔母さんに昔の話を聞いてるよ」

「明日香にだって全部話したわけじゃないのよ」
 叔母さんは僕を見つめた。「今だって奈緒人は傷付いてると思うけど、昔の話を聞いても平気なの?」

「うん。明日香とも話したけど、僕は聞いておくべきだと思う。それに辛くても僕には明日香がそばにいてくれるし」

「そうか。いい兄妹になったね、あんたたち」

 こんなときなのに叔母さんは嬉しそうに言った。

「それから明日香」

「何よ」

「あんたにも話していないこともあるからさ。奈緒人だけじゃなくてあんたにだってショックな話もあるかもよ」

 一瞬、明日香は黙った。それから僕を見ながら叔母さんに答えた。

「うん。それでも聞かせて。お兄ちゃんにあたしがいるように、あたしにだってお兄ちゃんがついていてくれると思うから」

 僕は明日香の手を握った。

「わかった」

 僕たちが手を取り合ったのを見て叔母さんが決心したように言った。

「さてどこから話すかな。最初は明日香は知っている話になるな」

 明日香はうなずいた。

「最初から話して。お兄ちゃんは何も覚えてないと思うから」

「そうだね。じゃあ奈緒人の話からしようか。奈緒人、あんた自分の実のお母さんとか実の妹、まあ奈緒ちゃんなんだけど、この二人のこと今まで全く思い出したことないって本当?」

 奈緒の名前が叔母さんの口から出たとき、明日香は僕の手を握る自分の手に力を入れた。気をつかってくれているのだ。でも奈緒の名前を聞いても不思議と動揺はなかった。この先の話に気を取られていたせいかも知れない。

「うん。変なのかもしれないけど、父さんと今の母さんと明日香とみんなで一緒に公園で遊んでいたときの記憶が多分僕の一番昔の記憶なんだ。僕が小学校に上がるより前だと思うけど」

 明日香が妙な表情をした。

「結城さんと姉さんから一応話は聞いたんでしょ?」

「うん。父さんと母さんは再婚同士で、僕は母さんの本当の子どもではなくて明日香も父さんとは血が繋がっていないって」

「再婚が何年前か聞かなかった?」

100 : 以下、名... - 2014/12/10 23:25:01.60 cxEkQJKlo 88/442


「再婚が何年前か聞かなかった?」

「うん。それは聞いていないな」

「明日香?」

 叔母さんが明日香を見た。

「あたしは知ってるよ。去年聞いたわけじゃなくて自分ではっきりと覚えてる」
 明日香は僕から視線を逸らした。「ママが再婚して今のパパとお兄ちゃんがあたしのうちに来たのはあたしが小学生になったばかりの頃だよ」

「うん。明日香の記憶は正しいな。奈緒人、あんたに新しい家族ができたのはあんたが小学校ニ年の頃だったよ、確か」

「そうなんだ。ごめん、やっぱり全然思い出せない。もっと前から今の家族と一緒に暮らしていたような気がするだけで」

 今の僕にはそうとしか言えなかった。僕に残っている一番古い記憶は公園で明日香を遊ばせているひどく曖昧な思い出だけだった。あのとき、逃げ惑う鳩をよちよちと追い駆けていた明日香が転ばないように、僕ははらはらしながら明日香を追い駆けてたんじゃなかったか。

 そしてそのときの自分が目の前をよちよちと危なげに歩いている女の子をどんなに大切に思っていたか、僕はその感情さえ思い浮かべることができた。それはまだ仲が悪くなる前の明日香と僕の貴重な記憶だった。

「だからさ。あんたも少なくとも奈緒ちゃんの記憶はあるってことだよ」

「どういうこと?」

 僕は混乱した。自分の中では奈緒の記憶なんて欠片も残っていないのに。

「お兄ちゃんが公園であたしと遊んだ記憶ってさ、それあたしじゃないと思うよ」

 明日香が目を伏せて言った。

「あんたが明日香と暮らし始めたのは、あんたが小ニで明日香が幼稚園の頃だからさ。あんたの記憶の中の幼い兄妹っていうのは、あんたと奈緒ちゃんだろうね」

 叔母さんがそう言った。

 では僕の思い出は勝手に脳内で補正され、かつての家族の記憶を今の家族の記憶に上書きしてたのだろうか。僕は少し混乱していた。

「まあ、それは今は深く考えなくていいよ。とりあえずあたしが知っている事実関係だけをこれから話すからね」

「わかった」

 僕は叔母さんに答えた。今はとにかく真実を知ろう。僕の脳内の記憶は辛い部分を勝手に補正して美化しているようだったから、とりあえず事実を認識するところから初めようと僕は思った。

「明日香には前に話したことだけど、奈緒人と奈緒ちゃんのご両親の離婚の原因は直接的には奥さんの育児放棄が原因なの」

「・・・・・・うん」

 今度は僕は驚かなかった。多分そうだろうと考えていたとおりだったから。

「その頃、結城さんはすごく忙しかったみたい。今でも忙しいんだろうけど、その頃はれどころじゃないくらい、本当に体を壊しかけたくらいに仕事に没頭していたのね」

「うん」

「奈緒人のお母さんはその頃は専業主婦だったから、あんたと奈緒ちゃんが寂しい想いをすることはなかったはずだった。たとえ父親がいなくても母親は家にいるはずだったから」

 いるはずだったとはどういう意味なのだろう。僕は叔母さんを見た。

 叔母さんも僕の疑問を予期していたのか、少しだけ迷ってから話を再開してくれた。

「あとで児童相談所の担当の人から聞いたんだけど、その頃の奈緒人と奈緒ちゃんってひどい状況で放置されていたんっだって」」

「ひどいって?」

101 : 以下、名... - 2014/12/10 23:25:57.78 cxEkQJKlo 89/442


「ひどいって?」

 僕にはそんな記憶は全く残っていない。

「正確な原因はわからないんだけど、多忙な結城さんと会えなかったあんたのお母さんは、心の平穏を失っていったみたいなの」

「どういう意味?」

「あんたのお母さんは本当に結城さんのことが好きだったんだろうね。その結城さんがいなくなって一人で幼いあんたと奈緒ちゃんを育てることがプレッシャーになったのかもしれない」

「・・・・・・要するにどういうことなの?」

 僕は我慢しきれずに叔母さんに言った。問い詰めるような口調になってしまっていたかもしれない。再び不安そうな表情の明日香が僕の手を握り締めた。

「あんたと奈緒ちゃんのお母さんはあんたたちを家に二人きりで放置して、外出して男の人と遊んでいたの」

「遊ぶって」

「・・・・・・あたしはあんたのお母さんに会ったことがあるよ。離婚調停が始まったころだけど、すごく綺麗な人だった。とても既婚で二人の子どもがいるようには見えなかったな」

 そのとき、以前一度思い出しかけた記憶が再び蘇った。それはあの時とは違って圧倒的なくらい鮮明なイメージを伴っていた。



 その日も朝から母親が家にいなくなっていた。

 普通なら幼稚園に行っていなければいけなかったはずの僕と妹が目を覚ましたときには、家には母親がいなかったし、幼稚園に行く支度もお弁当の用意もされていない。

 妹は大嫌いだった幼稚園をサボれることに満悦の笑みを浮べて僕にまとわりついてきた。僕はキッチンや冷蔵庫の中から冷たいハムやトーストされていないカビが生えかけたパンを取り出して妹と一緒にむさぼるように食べた。そんな貧弱な食事でも僕と一緒に家にいられることを妹は喜んでいた。でもさすがに夜になると、妹も母親を恋しがってめそめそしだした。

 そんな夜が何晩も続くと、次第に自分にとって何が一番大切なのかを僕は思い知らされた。父のことは嫌いではない。でも、食べ物すら乏しい中、妹が泣きながら衰弱しているのを眺めて、誰もいない家に怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めていた僕にとって、そのとき一番大切なのは妹だけだった。母親なんか論外だけど、これほどの危機に助けに来てくれない父親すら、そのときの僕の眼中にはなかったのだと思う。僕が自分の生命を賭けても助けなければいけないのは、あのとき僕の目の前で、次第に衰弱していった妹だけなのだ。



「お兄ちゃん、大丈夫?」

 気がつくと明日香が僕を心配そうに見ていた。

「思い出したみたいだね。大丈夫か? 奈緒人」

「うん。大丈夫だと思う・・・・・・でもこんなこと今までよく忘れていたって思うよ、自分でも」

「きっと辛かったから自分で記憶を封印していたのかもね。人の心って自分で思っているより自己防衛機能が発達しているって、前に取材で脳生理学者の人に聞いたことあるよ」

「うん」

「大丈夫? 続けてもいい?」

「続けて。こうなったら全部聞いて思い出せることは思い出したい」

 僕は叔母さんに言った。情けないことに僕は明日香の手にしがみついていたけれども。

「さすがに不審に思った幼稚園の関係者と近所の人たちが児童相談所に通報したらしいの。児童相談所の人たちは、散らかった家で食事もせずお風呂にも入らないで何日間も過ごしていた様子のあんたと奈緒ちゃんを一時保護して児童相談所に連れて行った」

「相談所から結城さんの会社を経由して当時海外に出張していた結城さんに連絡が行って、結城さんは出張を切り上げて帰国して、結城さんの両親に元に引き取られていたあんたと奈緒ちゃんに再会したんだって」

102 : 以下、名... - 2014/12/10 23:26:46.44 cxEkQJKlo 90/442


「それから長い離婚調停が始まったのさ。結城さんも家庭を顧みなかったことに罪悪感を感じていた。でも、専業主婦だった自分の奥さんが男と浮気して子どもたちを放棄していたことは許せなかった。浮気そのものより大切な子どもたちを放置したことが許せなかったみたいね」

「ここまでは理解できた? って奈緒人、続けても大丈夫?」

「大丈夫・・・・・・だと思う。正直、初めて聞く話だし戸惑いはあるけど」

「そう。やっぱり明日香がそばにいるとあんたも安心するんだね。もっと取り乱すかと思ったよ」

「取り乱す以前にただ混乱している段階だよ」

「本当に平気?」

 僕は心配そうに言った明日香に無理に笑いかけた。「わかんない。でもおまえがいてくれなかったらパニックになってたな」

「言ったでしょ。もう前とは違う。あたしは、あたしだけは絶対にお兄ちゃんを一人にしないから」

「うん。ありがと」

「礼なんて言わないでよ。こんな状況なのに」

「じゃあ続けよう。きつかったらいつでも言いなよ」

「わかった」

「この先はさ、明日香には話したことがあるんだけどね。いろいろ揉めはしたけど結局あんたの母親は結城さんとの離婚の条件に同意したの。あんたと奈緒を放置した彼女が何を考えていたのかはわからない。でも、どういうわけか奈緒人の母親は、自分が見捨てた子どもたちの親権にこだわっていたのね」

「最初は子どもたちをネグレクトして面倒を見なかったあんたの母親に不利な展開だった。でも奈緒人の母親側の弁護士は優秀なやり手で、結局浮気もネグレクト自体も根本的な原因は家庭を省みずに仕事に熱中していた結城さんが原因だと主張したの」

「それに忙しい仕事を抱えた結城さんが子どもたちをちゃんと育てられる訳がないとも。結城さんの実家の両親、つまり奈緒人の祖父母も高齢で本人たち自身にも介護が必要で子育てなんてできる状況じゃなかったことも不利な要素だったのさ」

「離婚の話し合いは家庭裁判所では決着がつかず裁判にまでもつれ込みそうなことになっていた、その時」

 叔母さんが話を区切った。ウエイトレスが叔母さんのナポリタンを運んできたからだ。

「食べながらでもいい?」

 叔母さんが聞いた。

「どうぞ。お昼食べてないんでしょ」

「悪いね。それで」

 叔母さんがナポリタンを口に入れながらも話し続けた。

「そんな結城さんに不利な状況が一変したのよ。良くも悪くもだけどさ」

「明日香のお母さん、つまりあたしの姉と結城さんは幼稚園の頃からの幼馴染でね」

「・・・・・・うそ? 初耳だよ。二人は大学時代の知り合いじゃないの?」

 明日香が驚いたように言った。

「正確に言うと姉さんと結城さんは大学で再会したんだよね。幼馴染だった二人は、小学校に入る前に結城さんが引っ越して離れ離れになったけど、大学で偶然に再び出会ったってとこかな」

「聞いてないよそんなこと」

 明日香がぶつぶつ言った。

「結城さんと大学で再会した姉さんからよく恋の相談を受けたものだったよ、あの頃はあたしも」

 叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。

103 : 以下、名... - 2014/12/10 23:28:01.30 cxEkQJKlo 91/442


 叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。

「でもさ。その時結城さんには彼女がいたんだよね。同じ大学のサークルの子がね。だから姉さんは結城さんの恋を応援したみたい。自分の結城さんへの恋心は押し隠してさ・・・・・・もうわかるよね。結城さんの当時の彼女が誰だか」

「・・・・・・僕の実の母さんですか」

「そのとおり。そして時が流れて結城さんとあんたの母親の離婚調停が長びいている最中に、結城さんと姉さんは大学卒業以来久しぶりに再会した。音楽関係の書籍の出版記念パーティーでのことだってさ」

「それでパパとママは恋に落ちたわけね」

「うん。結城さんは自分の陥っている状況を姉さんに相談した。そんで明日香は知っていると思うけど、当時の姉さんは旦那に死別して明日香を自分一人で仕事しながら育てていた。まあ、ぶっちゃけあたしもあの頃は明日香の面倒を見させられていたんだけどさ」

「でも結城さんにはそんな幼馴染の姉さんが眩しく見えたんだろうね。自分の専業主婦の奥さんが子どもたちをネグレクトしているのに、女親一人で仕事しながら明日香を立派に育てている姉さんのことが」

「離婚調停中だったけど結城さんと姉さんは結ばれた。そのことを結城さんの弁護士は有利な材料に使ったの。結城さんにも奥さん候補がいて子育ては十分にできるって」

「たださあ」

 叔母さんがケチャップに汚れた口を紙ナプキンで拭いた。

「あの結末だけは今だに理解できないんだけどさ。突然、結城さんの元奥さんは、その」

「何?」

 叔母さんは躊躇するように僕の方を見た。

「今さら、何を言われても多分大丈夫だと思います。僕には明日香がそばにいてくれるし」

 叔母さんは少しだけ微笑んだようだった。

「だったら話すけど。調停の途中で、あんたのお母さんは申し立て内容を変更したんだよ。あんたはいらないって。奈緒ちゃんの親権と監護権だけ確保できればいいって」

「そうですか」

 そのときは別に何の痛みも感じなかった。母親と言われても記憶すらないのだ。

「結局、家庭裁判所の調停員の出した調停内容は、お互いに一人づつ子どもを引き取るということだった。付帯条件としてお互いに引き取れなかった子どもには、無制限に面会できることっていうことにはなっていたけど」

 ここで叔母さんは今まで以上にためらいを見せた。

「ここから先は話していいのか正直迷ってる。明日香にも話したことないし」

「全部話して。ここまで来た以上」

 明日香がそう言い僕もうなずいた。

「わかった。でもこの先はつらい話だよ」

 叔母さんは僕と明日香を交互に眺めた。そしてフォークを置いてため息をそっと押し殺して話を続けた。

「結城さんと奥さんはその内容に同意した。調停が成立したということね。そして奈緒人を結城さんが、奈緒ちゃんを奥さんが引き取ることになった。結城さんにとっては不本意だったと思うけど、親権に関しては裁判を起こしても母親が有利になる傾向があるって弁護士に言われて最後には納得したみたい。姉さんと早く結婚したいっていう気持ちも手伝ったんじゃないかと思う」

「その結論を結城さんから聞かされた次の日、その日にはあんたの母親が奈緒ちゃんを引き取りに来る予定だったんだけど」

「あんたと奈緒ちゃんはその日の朝、預けられていた結城さんの実家から逃げ出したんだって。お互いに別れるのは嫌だって」

104 : 以下、名... - 2014/12/10 23:29:44.36 cxEkQJKlo 92/442


 今まで叔母さんの説明してくれた情報量に圧倒され何の感慨も抱く暇がなかった僕の脳裏に、このとき初めて封印されていたらしい記憶が蘇った。

『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒』

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』

 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。僕は奈緒の手を引いて祖父母の家から脱走したのだった。

 その結末はよく覚えていない。でも今にして思えばどこかで大人たちに掴まって、僕は奈緒と引き剥がされたのだ。この間偶然に再会するまで。

「明日香、あんた奈緒人とのことで姉さんからいろいろけしかけられるようなこといわれただろ。あれも姉さんの切ない気持ちだったんだと思うよ。姉さんはせっかく築いたこの家庭を壊したくなかったのよ」

「・・・・・・どういう意味?」

「姉さんにとってはやっと手に入れた幸せな家庭だからね。血の繋がっていない奈緒人を含めて大切にしていたんだよ。それは結城さんの希望どおり奈緒ちゃんも引き取れたら、姉さんは奈緒ちゃんのことも可愛がったとおもうけど、そうはならなかった。そしてそうならなかった以上、姉さんだって奈緒ちゃんのことは警戒したんだろうさ」

「警戒って・・・・・・実の妹なのに」

「別に恋人的な意味じゃなくても、奈緒人君を奈緒ちゃんに取られるくらいなら、あんたとくっついてほしいと思ったんだろうね。明日香、あんた、奈緒人君とのこと、姉さんにけしかけられただろ?」

「・・・・・・うん。言われた。『明日香はお兄ちゃんのこと好き? 大きくなったら奈緒人のお嫁さんになりたい? そうよ。お兄ちゃんがパパで明日香がママになったら楽しいでしょ』って」

「姉さんを悪く思わないでやって、奈緒人。姉さんは今の家庭を守りたいだけなの」

「うん。悪くは思わない」

「あたしだってさ」

 叔母さんがいつの間にか浮べていた涙をさりげなく拭いた。

「あたしだって、こないだのファミレスで奈緒人と明日香がイチャイチャ知っているところを見かけて本当に嬉しかったのよ」

 このときの僕は思考が麻痺していた。流れ込んできた情報量が多すぎて消化不良を起こしていたのだ。逆に言うと言葉の持つ意味に麻痺して感情を直接刺激しない分、パニックやフラッシュバックが起きそうな感じもしなかった。

 多分今日聞いた情報を整理するようになったとき、僕は辛い思いをすることになるのだう。

 かわいそうな奈緒。僕のただ一人の妹。僕の初恋の相手。

 僕は奈緒のことを思い出したけど、この時僕が思い出せた奈緒の姿は、僕の恋人になった富士峰の中学生の奈緒の姿ではなくて、僕が忘れてしまっていたはずの幼い姿で僕にしがみついていた奈緒の姿だった。



『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』



 叔母さんの長い話が終ったとき、長らく忘れていたはずの幼い奈緒の表情や声音が驚くほどリアルに目の前に浮かんだ。僕はそのとき僕を心配してくれている明日香ではない女の子を思い浮かべたことに罪悪感を感じたのだった。

「あんたと奈緒ちゃんが結城さんと元奥さんにそれぞれ引き取られてからも、結城さんはそれなりに奈緒ちゃんと会っていたみたいなの」

 明日香が叔母さんの言葉を遮った。

「何よ明日香。うるさいなあ」

「いや・・・・・・大丈夫だから続けて」

 僕は明日香を遮った。

105 : 以下、名... - 2014/12/10 23:31:42.16 cxEkQJKlo 93/442


 その話がどういう風に展開するかはだいたい予想がついていたけど、ここまで来たら教えてくれることなら何でも知りたい。目をつぶって耳を塞いでいても奈緒を失った痛みは消えないのだ。それなら今まで闇の中にかすんでいた記憶に灯りを当てたとしても、辛さにはたいして変りはないだろうと僕はその時考えたのだ。

 僕は明日香の心配そうな顔を見て笑いかけた。

「叔母さんの話を聞きたいんだ。いいかな」

「だって・・・・・・。お兄ちゃん大丈夫なの?」

「おまえがいてくれるなら。多分」

「わかったよ」
 明日香は諦めたように叔母さんを見た。「続けてあげて」

「じゃあ話を続けるか」

 叔母さんはちらりと僕と明日香の握り合って手を眺めた。その顔には再びほんの少しの間だけ微笑みがよぎったようだった。

「何を言いたかったって言うとね、そろそろ奈緒ちゃんがどこまで知っていてどういうつもりであんたと付き合出だしたのということを考えてもいいんじゃないかな」

「絶対悪意があったに決まってるよ、あの子には」

 明日香が好戦的な口調で言い放った。

「まあ最初から決め付けないで少しづつ考えていこうよ」

「うん。今はまだ何にも決め付けたくない」

 僕は二人に言った。明日香がこれみよがしにため息をついてみせた。

「あんたと奈緒ちゃんのことは、あの後明日香から詳しく聞いたよ..。幼い頃に生き別れた実の兄妹が悲劇的な偶然でお互いに血が繋がっているとは知らずに出合い恋に落ちた。奈緒人、あんたそれを本気で信じられる?」

「・・・・・・よくわからないよ」

「あんたには家族に関する知識も昔の記憶もなかったけど、奈緒ちゃんは一年間に何度も、結城さんと会っている。結城さんに聞いたことはないけど、結城さんと奈緒ちゃんがいつもいつもお互いの近況や世間話ばかしてたわけじゃないでしょ」

「奈緒ちゃんが自分の生き別れたお兄さんのことを知りたがったって何にも不思議はないよね。ましてやあんなに慕っていたあんたから無理矢理引き裂かれるように別れさせられたのだし」

「まあ、奈緒は真っ先にお兄ちゃんのことを聞いたでしょうね」

 明日香が呟いた。

「うん。多分明日香の言うとおりだよ。奈緒人、たとえあんたと奈緒ちゃんの出会いが偶然の出来事だったとしても、その・・・・・・奈緒ちゃんと仲良くなったらお互いのことを質問しあったりしたんでしょ?」

「うん。それはそうしたよ」

「お互いに名前も名乗ったんでしょ。そして鈴木奈緒という名前にはあんたは聞き覚えはなかっただろう。でもあんたの名前を聞いた奈緒ちゃんはその時どう思ったのかな」

 彼女はその時いったい何を考えたのだろうか。僕と違って奈緒は僕の名前を忘れずにいた可能性もあるし、あるいはそれを忘れてしまっていたとしても叔母さんの言うとおり父さんから僕のことを聞きだして僕の名前を知った可能性もある。どちらにしてもお互いに名乗りあったその時には、奈緒は僕が実の兄である可能性に思い当たったはずだったのだ。

 僕はフラッシュバックを気にしながら恐る恐るそのときの奈緒の反応を思い出してみた。明日香がぴったりと僕に密着していてくれるせいかパニックを起こすことはないようだ。

『ナオって漢字で書くとどうなるの?』

『奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?』

『わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。奈緒人って書く』

『奈緒人さん、運命って信じますか』

106 : 以下、名... - 2014/12/10 23:32:40.83 cxEkQJKlo 94/442


 こうしてあの時のことを思い出すと、やはり奈緒は僕の本名に特別に反応していた様子はなかった。彼女が僕の本当の妹であることがわかった今では、奈緒の悪意の有無なんて考えたってどうしようもないのだけど、それでも僕は少しだけほっとしていた。

「あの時の奈緒は別に驚いている様子はなかったよ。多分僕のことや本名とかも知らなかったんじゃないのかな」

 叔母さんが何か言おうとしてためらった。その間に明日香が喋りだした。

「あるいは最初から自分が誘惑した相手がお兄ちゃんだと知っていたのかもね。それならお兄ちゃんの本名なんて知っていたのだろうから驚いたりもしないでしょ」

 僕は不意打ちを食らい黙ってしまった。確かに奈緒に悪意がある前提で考えれば、奈緒の反応は全て合理的に解釈できるのかもしれないのだ。

 このあたりまでくると僕もそろそろ自分を納得させなければいけない状況になってきていた。

「客観的に言うとさ。明日香の言うことの方に理があるかな」

 叔母さんが言った。

「でも、奈緒にとってどんな得があるんだよ。実の兄と知って僕を誘惑したって、叔母さんも明日香も言いたいみたいだけど、言ってみれば僕と奈緒は二人とも被害者でしょ。奈緒には僕に対してそんなことを仕掛ける理由がないよ。それとも僕が知らない何らかの理由で僕のことを恨んでいるとでも言うの?」

「さあね。それはあたしにはわからない。十年近い間あんたと引き剥がされた奈緒ちゃんがいったいどんな生活を送っていて何を考えていたかもわからないんだからね」

「じゃあ奈緒の意図については、結局はわからないということになるよね」

「今はまだね。あともう一つ気になるのは何であんたの本当の母親があんたと一度も面会しようとしなかったってことだね」

 叔母が突然奈緒の意図から話を変えたので僕は少し戸惑った。

「ただ会いたくなかったからじゃないの」

 平静を装ってそうは言ったけどその時僕の胸は少し痛んだ。

「親権をめぐってあれだけ争っていたのよ? あの人は奈緒ちゃんだけじゃなくて、少なくても最初のうちはあんたにも執着していいたはぜでしょう」

「でも現に僕はその人と会うことはなかったし、去年両親から聞かされるまでは母さんと明日香が自分の本当の家族だって思っていたくらいだし」

「まあ、そもそもそれが不思議なんだけどね」

「それって?」

「奈緒人。あんたは明日香が思っているほど記憶力に乏しいとか忘れっぽいとかそんなことは絶対ないよ。あたしはあんたと付き合ってきているからよくわかるけど、むしろ記憶力がないのは明日香の方だね」

「叔母さんひどいよ」

 明日香がその場を茶化すように言った。その気持ちは嬉しかったけど、叔母さんも僕も少しも笑えなかった。

「それなのに明日香さえ覚えているようなことを忘れてしまっているでしょ。幼い子どもにとっては両親の離婚とか仲のよい妹との別離とか忘れるどころかトラウマになったって不思議じゃないのに」

「さっき叔母さんが言っていた自衛本能みたいなやつなのかな」

「さあ。それならまだいいんだけどね」

「僕って本当に何一つだって考えてなかったんだね」

「どういう意味?」

「こないだの夜、僕は父さんと叔母さんの会話を聞いてたんだよね。寝たふりをしてたけど」

「そうか」

「あの会話だけでも、奈緒が僕の別れた妹だって十分にわかったはずなのに」

107 : 以下、名... - 2014/12/10 23:33:26.83 cxEkQJKlo 95/442


「・・・・・・それはしかたないよ。そもそもあんたは自分に実の妹がいることさえ覚えてなかったんだから」

 叔母さんは大分食べ残したナポリタンの皿を押しやって左手の時計をちらりと眺めた。

「そろそろ行かないとね。あたしが話せることはこれくらいで全部だし」

「うん。忙しいのにありがとう叔母さん」

 叔母さんの話を聞いたことによって少しも楽になったりはしなかったし、むしろもやもやした感じが増幅していのだけど、それでも僕は叔母さに感謝していた。

「・・・・・・元気出せ、奈緒人。こんなことに負けるんじゃないよ。あたしも明日香もあんたの味方だからね」

 叔母さんはそう言った後に、最後に一言言って話を締めくくった。

「そろそろ結城さんと真面目に話し合った方がいいかもね。奈緒とのことを博人さんに言いづらいなら、彼女のことは伏せたっていいんだし」



 今日は学校は半日しかなかったのに結果的には僕にとっては長い一日になってしまった。さっき渋沢と志村さんに、明日香と手をつないでいるところ不思議そうに見られて戸惑いを感じたことが随分昔のことのように思えてくる。

 今こうして帰りの電車の中で並んで座っている僕と明日香を渋沢たちに見られたとしたら、さっきのように見過ごしてくれることすらないかもしれない。明日香は叔母さんと別れて集談社のビルから出た途端、どういうわけか僕の手を離した。

 その時僕はすごく心細く感じたのだけどそれは一瞬だけだった。僕の手を離した明日香は再び手を握りなおした。今度は恋人つなぎだった。僕は奈緒とだってこんな風に手をつないだことはない。

「おい」

「いいから」

 明日香が思わず引っ込めようとした僕の手を捕まえた。

「お兄ちゃん、無理しないでいいよ。いろいろこないだから展開も急だったし不安なんでしょ?」

「確かにきついことはきついけどさ」

「じゃあ遠慮しないであたしに頼りなよ」

 電車を降りて夕暮れの住宅街を自宅に向かって歩いているときも、明日香は僕にぴったりと寄り添ったままだった。僕は安堵感と同時に罪悪感が膨れ上がっていくのを感じた。

 やがて僕たちは真っ暗な自宅の前に帰ってきた。

「あのさあ」

 僕は今まで以上に僕のそばに寄り添ってきた明日香に言った。今、明日香を失ったら僕はどういう状態になるのかわからない。その恐れは僕の中に確かにあったのだけど、いつまでも妹を僕の犠牲にするわけにはいかないのだ。

「おまえもあんまり無理するなよ」

 明日香が僕の言葉に凍りついたようだった。僕の手を握る明日香の手に込められた力が弱々しくなっていく。

「確かに今の僕は情けない兄貴だし、明日香に頼って何とか心の平穏を保っている状態なのはわかっているんだけどさ」

「だ、だったらもっとあたしに頼っていいよ。言ったじゃん? あたしはもう二度とお兄ちゃんを一人にはしないって」

「おまえには無理をして欲しくないんだよ。父さんのためにも母さんのためにも」

「お兄ちゃん・・・・・・何言ってるの」

「おまえはずっと僕を守ろうとしてくれてたんだろ? 僕が奈緒と付き合い出したのを知ったときから」

「そのためにおまえ、彼氏とも別れて友だちとも縁を切ったりしたんだろ」

「お兄ちゃん」

108 : 以下、名... - 2014/12/10 23:34:07.72 cxEkQJKlo 96/442


「・・・・・・おかしいとは思っていたんだ。あれだけ僕を嫌っていたおまえが、僕のことを好きだって言ったりいきなりその・・・・・・キ、キスしたりとかさ」

「それは」

「・・・・・・僕の気持ちを奈緒からおまえに向けさせようとしてくれていたんだね。真実を知ったときに僕があまり傷つかないように」

 明日香が驚いたように目を見開いた。

「おまえの気持ちはよくわかったよ。ありがとな」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「もう大丈夫だから。もう僕のことなんか好きな振りをしてくれなくても平気だからさ」

「何言ってるの?」

「何って。おまえは僕が奈緒のことを忘れられるように、僕のことが好きな振りをしたりそのために彼氏と別れたりとかしてくれたんだろ?」

 明日香が僕の手を離した。そして泣き笑いのような複雑な表情を見せた。

「・・・・・・・鈍いお兄ちゃんにしてはよく見抜いていたんだね」

「まあね」

「あたしさ、お兄ちゃんにまだ謝っていないの」

「謝るって?」

「今までお兄ちゃんのことを一方的に嫌ったり辛く当たったりしてごめんなさい」

「・・・・・・うん」

「あたしさ。何かママとパパがお兄ちゃんのことばっかり大切にしているように思って面白くなくて」

「うん。わかってる」

「でもね。でも・・・・・・そうじゃないんだ」

 明日香はやがて泣き出した。

「・・・・・・どういうこと?」

「あたし気がついたんだ・・・・・・奈緒がお兄ちゃんのことを誘惑してるってわかったときに」

「気がついたって?」

「あたし以外の女にお兄ちゃんが傷つくのがすごく嫌だって。本当にお兄ちゃんのこと嫌いだったら、誰がお兄ちゃんを傷つかせたって関係ないはずなのにね」

「・・・・・・うん」

「お兄ちゃんの言うとおり、あたしは最初は自分だけがお兄ちゃんの味方をしなきゃと思った。これまで辛く当たったってこともあるけど、お兄ちゃんにはあたししか味方がいない。少なくとも奈緒とのことを知っていてお兄ちゃんを守れるのはあたしだけだって思ったから」

「それはわかったよ。でも、もういいんだ。僕のことでおまえが彼氏と別れたり、無理してずっと僕の隣にいてくれなくてもいいんだ。そんなことをされると僕のほうが辛く感じるよ」

「そうじゃないの!」

 明日香が泣き出した。

109 : 以下、名... - 2014/12/10 23:34:45.44 cxEkQJKlo 97/442


「確かに最初はお兄ちゃんが言うように義務感からだった。お兄ちゃんを守れるのはあたしだけだと思っていたし、あたしはお兄ちゃんを奈緒から守るためならお兄ちゃん好みの女にもなるしイケヤマとだって別れてもいいと考えた」

「でも今は違うの」

 明日香は必死な声で言った。

「違うって何が?」

「あたしお兄ちゃんを好きな振りをして、お兄ちゃんをあたしの方に振り向かせようとしているうちに気がついちゃったの。奈緒のこととか関係なくてもあたしはお兄ちゃんが好きなんだって。あたしにとってお兄ちゃんは運命の人なんだって」

 裸で抱きついてきたりいきなりキスしてきたり僕のベッドに潜り込んできた明日香だけど、ここまで真剣な顔で彼女に見つめられたのは初めてだった。

 僕が間違っていたのだろうか。ひょっとしたら以前の嫌がらせも含めて、最初から明日香は僕のことを異性として愛していたのだろうか。

「それは明日香に都合がよすぎる話だよね」

 その時、自宅の玄関前の暗がりに立っていたらしい有希の声がした。有希が暗がりから道の方に出てきたせいで、街灯に照らされた彼女の白い顔がぼんやりと浮かび上がった。

「明日香、それに奈緒人さんも今晩は」

 有希が笑って僕たちにあいさつした。

115 : 以下、名... - 2014/12/18 23:52:54.27 bpgbqjnzo 98/442


「どうしたの? 明日香、大丈夫」

 有希が言った。

「有希、いつからいたの」

 明日香は震えた声を隠せない様子だった。

「三十分くらい前からいたよ。ちょっと用があって待ってたんだけど」

 意外と穏かな様子で有希が答えた。さっきの意味は不明だけど辛らつな様子はない。

「あの・・・・・・あのさ。あたしたちが喋ってた話、聞こえてた?」

 明日香が震える声で有希に聞いた

「ううん。誰かが来たなあって思ってぼうっとしてたら明日香とナオトさんだった。帰ろうかと思っていたところだから都合がよかったって言ったんだけどさ。ちょっと時間ある?」

 有希がいつもどおりの穏かな声で言った。

「えと、ごめん。ちょっと家族の悩みの話とかあってさ。またメールで話すんでもいいかな」

「すぐに済むと思うよ。奈緒人さんに聞きたいことがあるだけだから」

 有希が僕の方を見た。僕はどういうわけか緊張して有希の顔を見た。

「奈緒人さん」

「うん」

「お二人は家族の問題とやらで忙しいみたいだから時間を取らせちゃ悪いよね。だからはっきりと言うけど、奈緒人さんは奈緒ちゃんの彼氏だっていう自覚はあるの?」

 有希が言った。

「有希には関係ないでしょう。そんなのはお兄ちゃんと奈緒の間の話じゃない。何で有希がそんなことを聞くのよ」

「奈緒ちゃんに頼まれたの。今の彼女、ぼろぼろで正直に言って見ていられなかったし。奈緒人さんに突然会えなくなって連絡もなくなってさ。奈緒ちゃんが今どういう状態なのか、奈緒人さんはわかってる?」

「・・・・・・有希にはわからないことだってあるんだよ。お兄ちゃんにだって事情があって」

「ちょっと黙っていてくれるかな。あたしは今は奈緒人さんに聞いているんだけど」

 有希は奈緒のことを本気で心配しているのかもしれない。それなら、ここは適当に誤魔化すわけにはいかないだろう。僕はそう思った。

「君には詳しくは言えないけど、もう僕は奈緒と付き合わない方がいいんだ。その方が奈緒のためでもあると思う」

「確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね」

「うん。そうだよ」

「それでその理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと」

「その方が彼女のためだから」

「何言っているのかわからないけど。そっちがそういう態度ならあたしにも言いたいことがあるんだけど」

 有希が友好的な態度で振舞うことを放棄して、僕を真っ直ぐに睨んだ。

「奈緒ちゃんを振った理由ってまさか明日香と付き合うからじゃないでしょうね」

「やっぱりね。あたしは兄妹の禁断の告白タイムを邪魔しちゃったのか」

 有希は僕と明日香をあざ笑うように言った。その様子は僕が知っている有希の姿とは全く違う。

116 : 以下、名... - 2014/12/18 23:53:35.28 bpgbqjnzo 99/442


「ちょっと有希、いい加減にしなよ」

 明日香が言った。

「ねえ明日香ちゃん」
 有希猫なで声を出した。ちゃんづけまでして。「明日香ちゃんはあたしに言ってくれたこと覚えてる? 多分奈緒人さんには秘密だったんだろうけど」

「あたしの方が奈緒ちゃんより奈緒人さんの彼女にふさわしいってしつこいくらいあたしに言ってくれたよね? あと奈緒人さんにメールしろとかおせち料理の買出しにかこつけて奈緒人さんとデートしろとかさ」」

 もう有希は僕の方を見なかった。

「あたしを利用してまで、奈緒人さんと奈緒ちゃんを別れさせた理由って何? あたしは別に怒ってはいないよ。あたしには話せない事情があるみたいだし、明日香ちゃんが奈緒人トさんと奈緒ちゃんのためならあたしが傷付いてもしかたないと判断したんだったら、あたしは辛いけど明日香ちゃんを恨んだりはしない」

 もちろんこれは有希の嫌がらせだったのだろう。恨んだりしないわけがない。その憎しみが冷静を装った有希の声色に溢れていると僕は思った。明日香はうつむいたまま一言も反論しなかった。

「でも、これだけは聞かせて。まさかとは思うけど、奈緒ちゃんを奈緒人さんから別れさせようとした理由って、明日香ちゃんが奈緒人さんのことを好きだったからじゃないよね?」

 明日香は追い詰められた小動物のように僕の方を見た。その時、明日香は突然身を翻して駆け去って行った。驚く様子もなく、有希は僕にあいさつした。

「じゃあ、あたしは帰るね。さよならナオトさん」

 その晩、結局明日香は帰って来なかった。明日香の帰宅が深夜になること自体は今までだって珍しいことではない。特に両親が泊まりで帰宅できないとわかっていたときには頻繁にあったことだった。でも明日香が深夜に帰宅しないのは、いい妹になると僕に宣言してから初めてのことだった。得体の知れない不安を感じた僕は以前と違ってさっさと一人で就寝することもせず、リビングでひたすら妹の帰りを待った。

 さっき有希が曝露した話、明日香が有希に対して僕と仲良くなるようけしかけていたというのは初耳だった。有希はどうも僕が奈緒に連絡しない原因が明日香にあると思い込んでいるようだ。でも実は僕は少しも動揺しなかった。有希に対しては悪いことをしたとは思う。でも明日香のその動機は僕の気持ちを奈緒から離すことにあったはずで、そのためには、僕が好きになる女の子が自分でも有希でもどちらでもいいと彼女は考えたのだろう。

 だから有希には申し訳ないとは思ったけど、それを仕掛けた明日香に対しては感謝の思いしか感じなかった。

 それでも明日香はユキの言葉にショックを受けたようで、明日香に利用された有希の腹いせというか復讐は、少なくとも明日香に対しては功を奏したようだった。

 明日香のことが心配だ。携帯に電話しても出てくれない。リビングでうろうろしながらずっと彼女を待っていた僕は、日が変わる頃になってついに明日香の帰宅を待つことを諦め、夜中に一人眠りについた。

 翌朝になって、開け放されたドア越しに明日香の部屋を見ても階下に降りても明日香の姿は見当たらなかった。さすがに不安になった僕は立ちすくんで考えた。

 明日香の僕に対する告白については昨日の彼女の様子を見ると、もはやあいつのいつもの気まぐれだと片付けるわけにはいかない。明日香の僕への想いはいよいよ本気で考えなければいけないようだ。でもそんなときに、僕と奈緒のトラブルや有希の感情の暴発みたいなことが同時に生じた。整理が追いつかないほど色々な出来事があり、その上奈緒に関しては心情的には致命的と言っていいほどの傷を負ったのだ。今は考えないようにしているだけで、これは爆弾を抱えて生きているのと同じ状態だった。

117 : 以下、名... - 2014/12/18 23:56:52.10 bpgbqjnzo 100/442


 明日香に対しては責任ある態度を示してあげなければいけないのだろうけど、そもそも今だに自分の彼女である奈緒に対してさえ、僕は無視する態度以外には何もできなかったのだ。とにかく学校に行こうと僕は思った。ここで明日香を待っていても妹が帰ってくる保証はない。

 それにしても、いったいあいつは今どこで何をしているのだろう。



 駅に向かう途中の高架下に奈緒が待っていた。僕が彼女の姿を認めた瞬間に奈緒も近づいてくる僕を見つけたようだった。僕たちの視線が交錯した。

 奈緒を見るのは久しぶりだった。冬休みが始まる前の最後の登校以来だ。このときの僕の胸からは明日香のことを心配する気持ちが消え去り、頭の中にはそこに立っている奈緒にへの想いだけが溢れていった。

 やっぱり奈緒は可愛い。外見だけで判断するなら明日香よりも有希よりもはるかに可憐な容姿だ。登校前なのだろう、彼女は富士峰の清楚な制服に身を包んでいた。

 逃げるわけにもいかず、僕は麻痺したような機械的な足取りで奈緒の方に近づいていった。

「おはようございます」

 奈緒が僕を真っ直ぐに見つめて言った。緊張している様子だったけど、それでも彼女は僕から目を逸らそうとはしなかった。

「・・・・・・おはよう」

 僕は何とか彼女に返事をすることができた。感情は乱れているけれど今のところフラッシュバックが襲ってくる様子はなかった。

「・・・・・・途中まで一緒に登校してもいいですか」

 奈緒の言葉に僕は黙ってその場にたちすくんだ。

「それとも、それすら今では奈緒人さんには迷惑ですか」

 奈緒が言った。震えそう声、付き合い出したばかりの頃のような敬語。

 それは僕の中に奈緒のことが可愛そうでどうしようもないようなじれったい感情を呼び起こした。でもここで気を緩めるとかえって奈緒を不幸にするのだ。

 ・・・・・・こういう心理的な傷を心に負うのは僕だけでいいのだ。

「何か用かな」

 僕は感情を極力抑えて奈緒に答えた。

「昨日の夜、有希ちゃんから電話がありました。奈緒人さんはもうあたしとは付き合う気がないって有希ちゃんは言ってました」

「そう」

「本当なんですか」

 奈緒の真っ直ぐな視線が僕を捉えた。

「うん。本当だよ」

 どんなに辛くてもここで誤魔化してしまったら意味がない。明日香や叔母さんは僕はもう奈緒とは会わない方がいいと言った。

 僕は二人の言葉に従ったけど、僕が大晦日の夜以来これまで奈緒に連絡しなかったのは、二人が心配してくれたように僕自身がこれ以上傷付くことを恐れたからではない。このまま奈緒と付き合っていたら、いつか傷付くことになるのは奈緒だった。好きになって初めて付き合った相手が実の兄だということを知ったら、奈緒は僕と同じく精神を病むほどのショックを受けるだろう。

「あたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そうしたらあたしのこと嫌いにならないでいてくれますか」

 奈緒が装っていた平静さは既に崩れてしまっていた。その両目に涙が浮かんでいる。

「そんなことできるわけないでしょ。将来を期待されている君が突然ピアノを止めるなんて」

「できますよ。それで奈緒人さんがあたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾きません」

118 : 以下、名... - 2014/12/18 23:58:15.69 bpgbqjnzo 101/442


「・・・・・・もうこういう話はやめよう」

 奈緒だけではない。僕ももう泣きそうな気持ちだった。

「あたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さんと冬休みに会わなかったからなんでしょ」

 奈緒が縋りつくような目で僕を見上げた。

「そんなんじゃないよ」

「じゃあせめて何であたしのことを嫌いになったのか教えてください。このままではあたし、どうしていいのかわからない。もう何も考えられない」

 ついに奈緒は泣き出した。

 結局こうなるのだ。

 でも自分が僕の妹だとわかるよりも、理由もわからず不誠実な初恋の相手にひどく振られた方がまだましだろう。失恋の痛みはいつかは癒える。それに僕とは違って彼女には次の恋の相手にはこと欠かないだろうし。

 僕はそう考えようとしたけど、目の前で泣いている奈緒の姿を見ているとだんだん息苦しい気分になった。目の前がぼやけてくる。今目の前で泣いている奈緒の姿が、最近思い出した過去のイメージに重なっていった。



『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒』

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』



 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。目の前で泣いているのは、母親に放置されて辛い思いをした挙句、大人たちの都合で僕と二度と会えないかもしれないことを知ったあの悲しそうな表情の奈緒だった。そして僕はそのとき奈緒を救えなかった。

 その僕が再び奈緒を傷つけることになったのだ。

 再びフラッシュバックが訪れたことに僕は気がついて狼狽した。目の前が真っ白に光って何も見えなくなる。続いて僕の方を見て泣き叫びながら母親に抱かれ、3ナンバーのBMWに乗せられ、遠ざかっていく奈緒の幼い姿が目に映る。

 次に僕は明日香の姿を見た。裸で僕に抱き付こうとしている僕の妹の明日香。

『ねえ。これでもあたしってガキなの?』

『あたしを見てどう思った? 何言ってるのよ。本当の兄妹じゃないじゃん。それにそんなことは今関係ないでしょ』



 叔母さんの狼狽したような声。

『奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』



 そして最後に有希の冷たい表情が目に浮かぶ。

『確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね。それでその理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと』

119 : 以下、名... - 2014/12/18 23:59:55.48 bpgbqjnzo 102/442


 その場に屈んで頭を抱えながら必死で辛い連想に耐えていた僕もこの辺が限界だったようだ。僕は意識が遠ざかっていくのを感じた。それはそのときの僕にとってはむしろ福音であり救いでもあった。

 気がつくと僕は高架下のコンクリートの路面に横になっていた。体はコンクリートの冷たさで冷え切っているようだけど、僕の顔は路面ではなく奈緒の柔らかい膝の上に乗っていた。

 奈緒の両手が僕の体に回されていた。冷たい路面に座り込んで膝枕しながら、上半身を屈めるようにしっかりと僕を抱きかかえている奈緒の顔は驚くほど僕から近い距離にあった。

「大丈夫?」

 奈緒が僕を抱く手。明日香が同じことをしてくれた時よりも心が安らいだ。

「気持悪くない?」

「僕はどのくらい気を失ってたの?」

「ニ、三分かな」

 では僕が気を失っていたのはほんのわずかの間だけだったらしい。

 僕は体を起こそうとしたけど、奈緒が僕を抱く手に力を込めたので僕は再び体から力を抜いて横たわった。

「さっき自分が何て言ったか覚えてる?」

 どういうわけか先ほど見せた涙の欠片もなく穏やかな表情で奈緒が話し出した。僕は奈緒に抱かれたまま考えた。

「全然思い出せない。いろんなことが頭には浮かんだんだけど」

「そうか」

 奈緒の様子がおかしかった。それは別に不安になるような変化ではない。でもさっき僕に振られたと思って泣いていた奈緒とは全く違う表情だった。

「あたし、びっくりした。さっきお兄ちゃんはこう言ったんだよ。『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ』って」

「そんなこと言ったのか・・・・・・」

「うん。あたし今まで気がつかなかったの。でもそれを聞いてすぐにわかった。あたしはようやくお兄ちゃんに会えたんだね」

「奈緒」

「お兄ちゃん会いたかった」

 奈緒が僕を抱く手に再び力を込めて幸せそうに微笑んだ。

 僕はまるで夢を見ているようだ。それは覚めることのない夢だ。

「ずっとつらかったの。お兄ちゃんと二人で逃げ出して、でもママに見つかってお兄ちゃんと引き離されたあの日からずっと」

「・・・・・・うん」

「もう忘れなきゃといつもいつも思っていた。お兄ちゃんの話をするとママはいつも泣き出すし、今のパパもつらそうな顔をするし」

「前のパパも嫌いじゃない。あまり会えないけど会うたびにあたしの言うことは何でも聞いてくれたし」

「でも。お兄ちゃんのことだけは何度聞いても何も教えてくれなかった」

「あたしね。これまで男の子には告白されたことは何度もあったけど、自分から誰かを好きになったことはなかったの」

「そういうときにね、いつもお兄ちゃんの顔が思い浮んでそれで悲しくなって、告白してくれた男の子のことを断っちゃうの」

「それでいいと思った。二度と会えないかもしれないけど、昔あたしのことを守ってくれたお兄ちゃんがどこかにいるんだから。あたしは誰とも付き合わないで、ピアノだけに夢中になろうと思った」

120 : 以下、名... - 2014/12/19 00:01:14.41 8+9tr+1go 103/442


「でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。あたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこんなに惹かれるなんて」

「奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて告白して付き合ってもらえてすごく舞い上がったけど、夜になるとつらくてね。あたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに奈緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって」

「それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ないと思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから」

 ここまで一気に自分の胸のうちを吐露し続けた奈緒がようやく一息ついた。

「でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。あたしがこれだけ好きになった男の人はやっぱりお兄ちゃんだったんだ」

 男女間の愛情とかを超越するほど、ネグレクトされていた僕と奈緒の関係は強いものだったのだろうか。僕はその時混乱していた。フラッシュバックだって治まったばかっりだった。

 でも僕がようやく思い出したシーンにはいつも、幼い大切な妹の奈緒がいたのだ。

「・・・・・・奈緒」

「お兄ちゃん」

 奈緒が僕の顔すぐ近くで微笑んだ。

「やっと会えたね、奈緒」

「うん、お兄ちゃんにようやく会えたよ」

「・・・・・・奈緒」

「もう離さないよ、お兄ちゃん。何でお兄ちゃんがあたしを振ったのかわからないけど、もうそんなことはどうでもいいの。あたしはお兄ちゃんの妹だし、もう二度と昔みたいなあんなつらい別れ方はしないの」

「奈緒」

 僕は両手を奈緒の華奢な体に回した。

「お兄ちゃん」

 奈緒は僕に逆らわずに引き寄せられた。 僕と奈緒はそうして周囲を通り過ぎて行く人々を気にせず抱き合ったままでいた。

 それはもうとうに授業が始まっている時間だった。

 遅刻した奈緒がその日学校でどういう言い訳をしたのか考えると、自然と頬が緩んできた。中学に入ってから一度も遅刻や学校を休んだことがないと前にあいつから聞いていたことを思い出したからだ。きっと奈緒は先生に言い訳するのに苦労したに違いない。

 あの日以来初めて僕は心底くつろいだ気分になれた。今は放課後で僕はぼんやりと奈緒のことを思い出しながらゆっくりと帰り支度をしているところだった。渋沢は志村さんの買物に付き合うとかで早々に二人揃って教室を出て行ってしまい、教室の中はもう数人の生徒が帰り支度をしているだけだった。

 僕が奈緒に関して心配していたことは全て杞憂だった。あれだけ悩んだ挙句、奈緒に本当に深刻な傷をつけないために、奈緒には失恋というより小さな傷を与えることにした僕だったけど、奈緒は僕が兄であると知って傷付くどころかすごく喜んだのだ。

 同じ事実を知ったときの僕が受けた衝撃なんか、彼女は少しも受けないようだった。そしてその理由を考えてみると思い浮ぶことがあった。

 僕が自分の記憶を封印して妹や母親のことを全く覚えていなかったのと対照的に、奈緒は過去の記憶を失ってはいなかったようだ。僕が思い出した過去の断片的な記憶ですらあれだけ切なく悲しかった。両親によって奈緒と引き剥がされた喪失感が、今再び恋人である奈緒を失おうとしている感情とあいまって、精神に深刻な打撃を受けたくらいに。

 奈緒は過去の記憶を失っていなかった。そして兄である僕から無理矢理引き剥がされた奈緒は、僕のことを無理に忘れようと努力しながらこれまで生きてきたのだ。それでも奈緒は僕のことが忘れられなかった。彼氏すら作る気がしないほどに。

 それに奈緒は兄と知らずに僕と付き合い出してからも、幼い頃引き離された兄に対して罪悪感を感じていたのだという。そんな奈緒のことだから自分の彼氏が兄だと知ったとき、悲しむより喜んだことについては僕にも納得できる話だった。

121 : 以下、名... - 2014/12/19 00:02:01.96 8+9tr+1go 104/442


 依然として僕が初めての彼女を失った事実には変りはない。でも僕はその代わりに妹を失った記憶取り戻し、そして今その妹を取り戻した。何よりも恐れていたように奈緒も傷付かずにもすんだ。この先僕たちは恋人同士としてはやり直しはできないけど、兄妹としてはずっと一緒にいることはできる。それだけでも僕は心の安寧を手にした気分だった。

 久しぶりにゆったりとした気持ちで僕は教室を出た。これから奈緒を富士峰の校門まで迎えに行かなければならない。奈緒は僕が兄だと知ったときから、かつて僕が彼氏だったときのような遠慮をしないことにしたらしい。

 さっき別れ際に遠慮のない口調で、放課後富士峰の校門まで奈緒に迎えに来るように言われた僕は二つ返事でそれを受け入れたのだ。

 富士峰の校門の前でこうして奈緒を待っているのは初めてだった。以前の僕ならさっきから校門の中からひっきりなしに吐き出されるように出てくる女子中学生や高校生の視線を意識して萎縮してしまっていただろう。いかにも彼女を迎えに来ている彼氏のように見えているだろうし、何よりも格好よければともかく僕なんかでは・・・・・・。

 でも待っている相手が自分の家族だというだけでこれだけ心に余裕ができるとは思わなかった。つい最近は別にして、今まで明日香とはこういう待ち合わせをしたことがなかったので妹を迎えに行くという経験自体も新鮮だった。

 僕は富士峰の歴史がありそうな石造りの門に寄りかかってマフラーを巻きなおした。今日は大分冷え込んでいる。さっきから僕の横を通り過ぎて行く富士峰の女の子たちもみな同じような紺色のコートを着て同じ色のマフラーを巻いている。学校指定なんだろうけどこれでは僕なんかには誰が誰だかぱっと見には識別できない。

 奈緒のことを見逃してはいないと思うし、迎えに来いといった以上奈緒だって僕のことを探すだろうからすれ違ってはいないと思うけど、これでは僕のほうから奈緒に気がつくのは難しいかもしれない。

 そろそろここに来てから三十分は経つ。奈緒に伝えられた時間を間違えたのだろうかと考え出したときだった。

「お待たせ」

 奈緒が突然現われて僕の腕に抱きついた。突然とは言ったけどさっきから途切れることなく僕のそばを通り過ぎていた女の子たちの中に彼女も紛れていたのだ。

「お疲れ」

 僕は腕に抱き付いている妹に声をかけた。

「うん。今日は疲れた」
 奈緒は笑顔で僕に言った。「お兄ちゃん慰めて~」

「どうしたの」

「遅刻したの初めてだったから。先生に問い詰められて大変だった」

「登校中に気分が悪くなって駅で休んでたって言い訳するつもりだったんだろ」

「そうなんだけど担任に嘘言うのってきついね。あたし挙動不審に見えてたと思う」

 僕は抱き付いている妹に微笑んだ。

「お疲れ奈緒。じゃあ帰るか」

「うん」

122 : 以下、名... - 2014/12/19 00:03:53.53 8+9tr+1go 105/442


 僕は奈緒に抱きつかれたままで歩き出した。何か恋人同士として付き合っていたときと緒の態度はあなり変わらない。というか会話だけ取り上げて見れば奈緒が敬語で話すのやめた分、以前より距離が縮まっている気がする。

「お兄ちゃん、歩くの早いって」

 奈緒が半ば僕に引き摺られるようになりながら笑って文句を言った。周囲に溢れている富士峰の女の子たちの好奇心に溢れた視線が集まっているのがわかったけど、奈緒はそれを全く気にしていないようだった。

「そう言えば普段は有希さんと一緒に帰ってるんじゃなかったっけ」

 僕は最後に見かけたときの有希の冷静で冷酷な印象すら受けた横顔を思い出した。

「今日は用事があるから一緒に帰れないって言ってきたんだけど・・・・・・」

 奈緒は少し戸惑っているようだった。

「うん? どうした」

「うん。何か今日はあの子様子が変だった。妙にそわそわしてて、落ち着きがなくて。あたしが先に帰るねって言ってもちゃんと聞いてないみたいだったし」

「何かあったのかな」

「う~ん。昨夜電話をくれたときはすごく怒っていたけど」

「・・・・・・そうだろうな」

「そうだよ。親友がひどい浮気性の彼氏に冷たく振られそうになっていたんだしね」

「おい」

 奈緒は笑った。それはやっぱりすごく可愛らしい表情だった。

「冗談だよ。あたしさっきはお兄ちゃんに再会して浮かれちゃったけど、あれから考えてみたの。何でお兄ちゃんがあたしを振ろうとしていたのか」

「うん」

「自分の彼氏が本当のお兄ちゃんだと知って、あたしが傷付かないように自分が悪者になろうとしてくれたんでしょ?」

「奈緒」

「ありがとうお兄ちゃん」

 奈緒が微笑んだ。

「うん」

 何か顔が熱い。まぶたの奥もむずむずする感じだ。

「お兄ちゃん?」

「うん」

 僕は同じ言葉を繰り返した。

「パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒」
 奈緒があのときの僕の言葉を繰り返した。「覚えてる? あたしがそのときに何て答えたか」

「ああ。覚えているよ」

 正確に言うと思い出したというのが正しいのだけれど。

「うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ」

 奈緒が記憶の中にあるのと正確に同じ言葉を繰り返した。あのときの絶望感とその後の喪失感とつらかった日々。もう我慢も限界だった。僕は泣き始めた。

「あたしの気持ちはあれから十年間経っても全然変わっていないの。今でもお兄ちゃんだけでいいって、自信を持って言えるもの」

 泣いている僕を抱きかかえるようにしながら奈緒は柔らかい声で言ったけど、奈緒の声の方も雲行きが怪しくなっているようだった。

123 : 以下、名... - 2014/12/19 00:04:34.13 8+9tr+1go 106/442


「・・・・・・今は泣いてもいいのかも。あたしたち、十年もたってあれから初めて会えたんだもんね」

 奈緒と僕は富士峰の女生徒たちの好奇の視線に晒されながらお互いに手を回しあって、まるであの頃の小さな兄妹に戻ってしまったかのように泣いたのだった。

「有希さんの話だけどさ、僕たちが本当は兄妹だったこと彼女に話したの?」

 お互いに抱きしめあいながら大泣きした後、妙に恥かしくなった僕たちはとりあえず駅前のスタバに避難した。僕にとってはここは敷居が高い店なのだけど、そんなことを言っている場合ではないし奈緒は気後れする様子もなく店に入って行った。

 奈緒ちゃん大丈夫? とか奈緒ちゃんこの人に変なことされてない? とか周囲の生徒たちは失礼なことを聞いてきた。でも奈緒はまだ涙の残る顔で笑顔を僕に見せた。

「お兄ちゃん走ろう」

 奈緒はそう言って僕の手を引いて走り出したのだ。こうして僕たちはスタバの奥まった席で向かい合って座っていた。

 だいぶ落ち着いたところで僕は有希のことを思い出して聞いてみた。

「ううん、まだ話してない。説明すると長くなりそうだし」

 それはそうだろうなと僕は思った。まず自分の家の事情を話してそれから僕との偶然の出会いを話してと考えると、学校の休み時間に気軽に話せることではない。

 それに僕と奈緒自身だって兄妹としては再会したばかりで、お互いのことを話し合うのだって、まだこれからなのだ。

 最後に別れたときの有希の冷たい表情が脳裏に浮かんだ。有希の誤解がこれで解けるのではないかと期待しないではなかったけど、これは奈緒に任せておくしかないようだ。

「それにしても有希ちゃん、やっぱり今日は様子がおかしかったなあ。何か心配事でもあるのかな」

「やっぱり彼女は僕のこと怒ってたか?」

「うん。でも感情的にはならずにあたしを慰めてくれた感じ。『あんないい加減な男なんて奈緒ちゃんの方から振っちゃいなよ。周りにいくらでも奈緒ちゃんのことを好きな人がいるんだし』って言ってたよ」

「おまえそんなにもてるの?」

 奈緒がいたずらっぽく笑った。

「なあに? 気になるのお兄ちゃん。妹のことなのに」

「そういうわけじゃないけど」

「冗談だよ。気にしてくれて嬉しいよお兄ちゃん。でもあたしを好きな人がいるなんて話は聞いたことないよ」

「そうなんだ」

「安心してお兄ちゃん。鈴木奈緒の目には今のところお兄ちゃん以外の男の子は全く映っていないから」

「それはそれでまずい気がする」

「何よ。嬉しいくせに」

「あのなあ・・・・・」

「シスコン」

「今日は冗談ばっかだな。この間までおまえは真面目な女の子だと思ってたよ」

「彼氏に見せる顔とお兄ちゃんに見せる顔は違うんだよ。女の子ならみんなそうだと思うよ」

 実はこのとき相当勇気を出して奈緒のことをおまえと呼んでみたのだけど、奈緒は普通に聞き流した。やはりこいつは血の繋がった妹なんだ。僕が奈緒の彼氏の状態で奈緒のことをおまえなんて呼んだら、喜ぶにせよ嫌がるにせよこいつは絶対にそのことに気がついたはずだ。

124 : 以下、名... - 2014/12/19 00:05:29.87 8+9tr+1go 107/442


 清潔で白い廊下を歩いていくとやけに足音が大きく響いた。廊下の窓からは冬の午後の陰鬱な曇り空が四角く切り取られて見える。

 救急病棟の待合室で僕は叔母さんの姿を見つけて思わず駆け寄った。

「ああ奈緒人。来たのか」

 叔母さんはいつもどおりに僕を呼んでくれたけど、その表情は暗かった。

「明日香は、明日香の具合はどうなの」

「外傷とそれに伴う精神的なショックだって」

 叔母はそこで少しためらった。

「命に別状はないよ。今は寝てるから会えないけど」

「・・・・・・いったい明日香に何があったの?」

「奈緒人には教えないわけにはいかないか。明日香はね」

 叔母が俯いた。叔母の目に涙が浮かんだ。

「昨日の夜、知り合いの男の部屋に連れ込まれて乱暴されそうになったんだって」

 目の前が暗くなった。

 本当の妹との再会に浮かれて明日香のことを僕は忘れていたのだ。つらかった時期にあんなに明日香に頼りきっていた僕なのに。僕に黙って自分の友人関係を壊してまで僕のことを救おうとしてくれた明日香が、夜の街に飛び出して行ったのに僕は今日今まで明日香のことを思い出しすらしなかったのだ。

「明日香が抵抗したんで犯人の男は明日香に言うことを聞かそうと手をあげたらしい。偶然、別の明日香の知り合いの男がそのアパートを訪ねてきて、明日香を襲った相手を止めたんだって」

「・・・・・・明日香の容態はどうなの?」

「外傷はたいしたことはないみたい。抵抗したのと知り合いの男が間に入ってくれたんで、その・・・・・・性的な暴行は受けなくて済んだんだけど、精神的なショックの方が大きいみたいだ。明日香が目を覚ませばもっと詳しくわかると思う」

「明日香に乱暴しようとした奴はどうなったの」

 そいつを殺してやる。精神的に不安定になっていたのかもしれないけど、僕はそのときは本気でそう思った。きっとあの金髪ピアスの男だ。確かイケヤマとかっていう名前の。

「助けてくれた子が警察と救急車を呼んでくれてね。警察が来るまで犯人の男が逃げないよう取り押さえてくれてたの。犯人は現行犯逮捕。助けた子も参考人として警察に呼ばれてるよ」

 何で夜中に飛び出して行った明日香をすぐに追い駆けなかったのだろう。あの時の僕は確かに混乱していた。明日香からは泣き顔で告白のようなことをされ、その直後に冷たい表情の有希に責められもした。そのこともあって、有希が帰ったあとは奈緒のことで頭が一杯で明日香のことまで気が回らなかったのだ。

 それに明日香が夜出歩いていることに慣れてしまっていたこともある。僕は明日香が夜遊びをしていることを当然ながら知っていた。そして明日香が夜遅くなるのは両親が不在か帰宅が遅くなるとわかっている夜に限られていた。だから僕たちの両親は明日香の外見や成績を憂うことはあっても、中学生の明日香の夜遊びには気がついてはいなかったのだ。

 そのこと自体だって僕の責任なのだ。僕は明日香とトラブルを起こすのが嫌だったから、明日香の夜遊びを注意することも、それを両親に言いつけることもしなかった。両親が明日香の夜遊びを知ったらいくら子どもたちには寛容な父さんも母さんも明日香に注意していただろう。

「父さんたちは?」

「こちらに向かってる。もう来るでしょ」

 そのとき救急治療室の引き戸が開いて中から白衣の一団が姿を現した。

125 : 以下、名... - 2014/12/19 00:06:10.94 8+9tr+1go 108/442


 両親が真っ青な顔で救急病棟に飛び込んで来た。子どもたちの前ではいつも呑気そうな父さんと母さんのこんな必死な様子を僕は初めて見た。それでも父さんは動転している様子の母さんの手をしっかりと握って、その身体を支えるようにしている。

 叔母さんは父さんと母さんをちょうど救急治療室から出て来た医師のところに連れて行った。医師が手早く父さんたちに明日香の容態を説明した。その話はさっき僕が叔母さんから聞かされたことと同じ内容だったけど、医師はこう言った。

「お嬢さんは少し精神的にショックを受けておられますけど、幸いなことに外傷は軽微なものでした。もちろん命に別状もないし外傷も後には残らないでしょう。もう処置も終っていますので、念のために一晩入院して容態に変化がないようでしたら明日には退院してもらって大丈夫ですよ」

 叔母さんの説明と順序を逆にしただけだけど、その医師の説明を受けて両親は少し安心したようだった。外傷は大したことはないけど精神的にはショックを受けているというのと、精神的なショックはあるものの外傷は大したことはないという説明では受ける印象がまるで異なる。救急病棟に努めていると悲嘆にくれ動転している家族の扱いも上手になるのだろうか。医師は少しだけ両親を安心させると、明日香が目を覚ましたら面会していいと言い残して去って行った。

 医師が去って行くと今度は地味なスーツを着た体格のいい男が二人、両親に近づいて来た。僕はその人たちがこの場にいることにこれまで気がついていなかった。

「結城明日香さんのご両親ですね」
 片方の男が言った。「所轄の警察署の者です。この事件のことをお話しさせてもらいますので、その後で何か事情をご存知でしたらお話ししていただけますか」

 その人は何かやたらていねいな言葉遣いだったけど、それはその人の外見には全く似合っていなかった。話しかけてきた男の人ももう一人の黙って立っている方の人も体格がいいだけではなく目つきや表情も鋭い。

 高校生の不良のトラブルなんかを相手にしているよりは暴力団とかを相手にしている方が似合っている感じの男たちだった。僕たちは救急病棟の待合室の隅でソファーに座った。自己紹介した男は警察署の生活安全課の平井と名乗った。

「先にいらっしゃったご親戚の、ええと・・・・・・そう、神山さんにはお話ししたんですが、娘さんは昨日の夕方から夜にかけて繁華街をあっちこっちある行きまわっていたみたいですね。その途中で知り合いの高校生の男に出合って、自分のアパートに来ないかと誘われてついて行ったみたいです」

 両親は身じろぎもせず警察の平井さんの話に聞き入っていた。医者の話で一瞬安心したようだった二人の表情はまた緊張してきたようだ。

「そいつはそこで一人暮らしをしいるんですがその部屋でお嬢さんは、その・・・・・・」
 平井さんは気を遣ったのか少し言いよどんだ。「つまりそいつに乱暴されそうになって大声を出して抵抗したところ、黙らせようとした犯人から殴られたらしいです」

「・・・・・・大丈夫ですか」

 一応の礼儀としてか平井さんは青い顔の両親を気遣うように言った。もしかしたら警察のマニュアルにこういうときはそうしろと書いてあるのかもしれないけど、いずれにせよ平井さんには心から両親を気遣っているような感じはしなかった。

「大丈夫です。続けてください」

 父さんがそう言って母さんの手を握りしめた。

「犯人は飯田聡。都立工業高校の二年生ですが、お心当たりはありますか」

 父さんと母さんは顔を見合わせた。

「いえ。聞いたことがありません」
 そこで父さんは思い出したように叔母さんと僕の顔を見た。「君たちは聞いたことあるかな?」

「ないよ」

 僕と叔母さんが同時に言った。それでは犯人は明日香の前の彼氏のイケヤマではなかったのだ。

126 : 以下、名... - 2014/12/19 00:06:52.47 8+9tr+1go 109/442


「幸いなことに飯田がお嬢さんにさらに暴力を振るおうとしたときに、お嬢さんと飯田の知り合いが偶然に尋ねてきたらしいのです。大方そいつも飯田の同類だと睨んでいるんですけどね。でも、どういうわけかそいつは飯田を力ずくで止めて警察に通報してきたんですよ。だからそいつがお嬢さんを救ったということになるんでしょうね」

「そうですか。その方にお礼を言わないといけませんね」

 父さんが言った。

「いや。とりあえずそれは待ってください。結果的にお嬢さんを救った男は、そいつの名前は池山博之というんですけど、警察では池山と飯田に対しては前から目をつけてたんですよ」
 平井さんはあっさりと明日香の恩人である池山のことを切り捨てた。「まあ不良高校生というと聞こえはいいけど、こいつらはもっと悪質なこともしていたらしいんでね」

 では池山は不良どころか本当の犯罪者だったのだ。明日香がどうして池山なんかと付き合い出したのかはわからないけど、明日香をそういう方向に追いやった責任の一端は僕にもある。

「今、飯田は現行犯逮捕されていますし、池山の方は参考人と言うことで署で任意で事情聴取しているところです。ですから飯田と池山の聴取が済むまでは池山に接触したりお礼とかしない方がいいですよ」

「でもその方は娘を助けてくれたんでしょう」

 父さんが不思議そうに聞いた。

「結果的にはそうなります。でも、池山の動機だって善意かどうかなんてわからんのです。もしかしたら池山と飯田はお嬢さんを取り合っているライバルだったかもしれないし、やつらはボーイズギャング団の中で対立していたという情報もありますから」

 父さんと母さんはもう話についていけなくなっていたようだ。

 無理もない。確かに明日香は服装を派手にしていたし、僕に対しては反抗的な態度だったけど両親とはそれなりに真面目に向き合っていたのだ。仕事が多忙な両親は結果的に明日香を放置している状態だったので明日香の行動はここまでエスカレートしてしまったのだけど。だから明日香が警察からギャングとして目を付けられているような連中と知り合いだということは、両親にとっては青天の霹靂のようなものなのだろう。

「飯田や池山は不良というよりはギャングに近い。それだけのことはしてきていると我々は思っています。だから今回のことはお嬢さんには気の毒でしたけど、飯田たちの犯罪を洗い出すいいチャンスなんですよ」

「そして叩けば決して池山だって真っ白というはずはありませんしね」

「あとお嬢さんが何であんな不良たちと知り合いだったんですかね。普通の家庭の真面目な中学生の女の子が知り合いになるような連中じゃないんですけどね」

 平山さんは少し探るように両親を見たけど、途方にくれているように両親も叔母さんもも黙りこくっていた。

「結城さんですか?」

 そのとき若い看護師さんが僕たちの方に向かって声をかけた。

「はい」

 刑事の話にショックを受けたのか返事すらできなかった両親に代わって叔母さんが返事した。

「明日香さんが目を覚ましました。先生の許可が下りたので面会できますよ」

「はい。奈緒人行こう」

 叔母さんが言った。父さんたちも目を覚ましたかのように立ち上がった。

「ああ、結城さん。いずれお嬢さんにも事情を詳しくお聞きすることになりますから」

 言葉はていねいだけど、そのときは平山という刑事の言葉はまるで嫌がらせのように聞こえた

 明日香は病室のベッドに横たわっていた。外傷は大した怪我ではないと聞いていたのだけど、目の当たりにする明日香の顔には包帯やガーゼが痛々しいくらいに巻かれていた。

 明日香は僕たちに気づいた。

「ママ。ごめんなさい」

 明日香が最初に言った言葉がそれだった。

127 : 以下、名... - 2014/12/19 00:08:37.77 8+9tr+1go 110/442


 母さんは黙ってそっと明日香の体を抱きしめるようにした。母さんの目には涙が浮かんでいた。それからこれまで医師や刑事の話には一切反応しなかった母さんは初めて声を出した。

「明日香、そばにいてあげられなくてごめんね。あたなを守ってあげられなくてごめんね」

「ママ」

 明日香も包帯が巻かれた片腕を母さんに回した。もう片方の腕は点滴を受けていたので動かせなかったのだろう。

「ママ。今までいろいろごめんなさい。でもママのこと大好きだよ」

 母さんも泣きながら明日香を抱きしめて声にならない言葉を発しているようだった。

 これから明日香の危うい交友関係が明らかになるのだろうけど、でも明日香と母さんはもう大丈夫だと僕はそのとき思った。

「パパにも心配させてごめん」

 明日香は父さんの方を見た。

「うん。明日香が無事ならそれでいいんだ」

 父さんも明日香の自由になるほうの手に自分の手を重ねて言った。

 僕はそっと部屋を抜け出そうとした。多分明日香は僕にも言いたいことがあるに違いない。でも今の僕にはそれを聞く資格はない。それに僕には平井さんが帰ってしまわないうちに聞いておきたいこともあったのだ。

 過去の過ちはともかく今は明日香を守らなければならない。明日香は昔の悪い仲間と縁を切った。でもそれによって明日香は池山たちから完全に自由になれたわけではなかったようだ。池山が別れた昔の女に執着して明日香を襲おうとしたのならわかる。でも明日香を襲おうとしたのは飯田という別な高校生だった。

 単純に知り合いだった明日香を出来心で何とかしようという話ならまだしも気は楽だった。でもそうじゃない可能性もあった。平井さんの話を聞いてから、僕の胸には二つの光景が浮かんでいたのだ。



 奈緒と有希が通っているピアノ教室で誰かを待っているように入り口を見張っていた池山。

 あのときは僕は奈緒と二人で誰にも邪魔されずにピアノ教室を後にした。仮に池山が無駄足を踏んだのでなければ、あいつは有希の方を追いかけたのかもしれない。

 そして昨日。冷たい表情で明日香を言葉で追い詰めた有希。

 あれは清純で無邪気な中学生の女の子の表情じゃなかった。そして明日香が有希の言葉に耐えられずに駅の方に走り去った後に明日香は飯田に襲われたのだ。

 これは単純な偶然なのだろうか。



 父さんと母さんが明日香を抱きしめるようにしていたので、僕の動きは悟られないで済むだろう。そう思って病室から抜け出そうとしたとき、玲子叔母さんが僕を見ていることに気がついた。

 僕は叔母さんに拝むように手を合わせた。叔母さんはためらっていたようだけど結局小さくうなずいてくれた。

 両親と明日香に気がつかれずにそっと病室を抜けた僕は救急病棟の待合室を見渡した。体格のいい二人組はもうそこには姿が見えなかった。病院の救急用の出入り口まで駆けていったところで、僕は平井さんともう一人の私服の刑事がパトカーではなく一見普通の乗用車のように見える黒塗りのセダンの車に乗り込もうとしているところを見つけた。

「すいません」

 僕は少し離れた場所から思い切って平井さんに声をかけた。

 平井さんはこちらを見て柄の悪い鋭い目を細めた。

「おまえ、明日香ちゃんの兄ちゃんか」

 平井さんは病院から出たときに咥えたらしいまだ火のついていない煙草を口から離して言った。

273 : 以下、名... - 2015/01/06 23:31:46.56 XygYhmbvo 111/442


「妹の病室にいなくてもいいのか」

「両親と叔母さんが明日香の病室にいますし」

「ふーん。それで兄ちゃんは俺たちに何の用なんだ?」

 平井さんは煙草を咥えなおして火をつけた。

「自白でもしたいことがあるのか」

 平井さんは皮肉っぽい表情を浮かべた。

「・・・・・・ここは病院の敷地内だから禁煙だと思いますよ」

 僕の言葉に平井さんが再び目を細めた。そしてあらためて初めて僕の存在いに気が付いたように僕を見た。彼は煙草を駐車場の路面に投げ捨て足で踏みにじった。

「何の用だ。俺は忙しいんだが」

 僕は一瞬怯んだけど、警察の人たちの協力は不可欠だ。

「太田有希って子知ってますか」

 平井さんの目が急に鋭くなった。

「おまえは何か知っているのか」

「彼女は明日香の最近できた友だちです。あと池山という奴はこの間まで明日香の彼氏でした」

「ほう」
 平井さんは少し驚いたようだった。「被害者の関係者から太田の名前を聞くとは思わなかったな」

「両親は何も知らないんです。僕が知っていることは全部話すので、池山や飯田のことを教えて欲しいんですけど」

「おい、おまえ。調子に乗るなよ。ご両親にも断らずに未成年のおまえにそんな話ができるわけないだろう。第一、おまえが聞きたがっているのは捜査上の機密事項だぞ」

 車の運転席に座っていたもう一人の刑事が刺々しい口調で口を出した。

「まあ待て。加山」

 平井さんにたしなめられて加山という男は露骨に不服そうな態度を見せた。

274 : 以下、名... - 2015/01/06 23:32:17.98 XygYhmbvo 112/442


 平井さんにたしなめられて加山という男は露骨に不服そうな態度を見せた。

「この兄ちゃんだって妹のことが心配なんだろうさ。そういう切り捨て方はよせ」

「だって平井さん、未成年の高校生にペラペラ情報を喋ってどうするんです。こいつの両親にだってまだ何も聞いていないのに」

「だからおまえは黙ってろ。このヤマの捜査主任は誰だ?」

「・・・・・・それは平井さんっすけど」

「わかってるじゃねえか。おまえは大卒ですぐに俺なんかより偉くなるだろうけど今はまだ俺が上席だ。だから俺に任せておけ」

 そう言うと平井さんは僕の方を見た。ほんの少しだけ僕に対する態度が柔らかくなったような気がした。

「おまえは女帝っていうニックネームの女のことを聞いたことがあるか」

「いえ。聞いたことないです」

「そうか。この界隈の中高生の間ではちっとばかし有名な女なんだけどな」

 そう言われても僕には初耳だった。女帝とかドラマじゃあるまいし随分大袈裟なネーミングだ。

「そう。ドラマじゃねえしな。大袈裟に聞こえるだろう」

 平井さんは僕の気持ちを見抜いたように言った。

「族とかヤンキーとかチーマーとか、昔から粋がりたいガキはこのあたりにもいっぱいいたんだ。でもそいつらは無軌道に騒いで悪さをしてたくらいでな。組織立って悪事を働く奴なんて今までは聞いたことがなかったよ、俺も」

「そうでしょうね」

「おう。第一そんなに頭が働いて、仲間を統制できるような玉なんて普通は不良高校生の中になんていねえからな」

 平井さんは言った。

「それがな。最近妙なことに悪さをしている連中がおとなしくなりやがった。夜道で女の子を襲ったり互いに殴り合いの喧嘩をして俺たちに面倒をかけている連中が、そういう揉め事を起こさなくなったんだよな」

128 : 以下、名... - 2014/12/19 00:09:18.72 8+9tr+1go 113/442


「それはいいことじゃないんですか」

「まあ、そう思うよな。普通は」

「それはどういう意味です?」

「その前におまえが言った太田有希って子の素性を話してもらおう」

 僕は一瞬ためらった。有希は奈緒の親友で明日香の友だちでもあった。そして明日香とともに有希と一緒に過ごした冬休みのことが思い起こされた。奈緒に会えない僕はその寂しさを有希にはずいぶん癒してもらったものだ。

 それでも僕は直感的に有希の言動に疑惑を抱いていた。全部、状況証拠に過ぎないけど彼女が全く無関係な訳はない。それに間違っているのならそれがわかればいいのだ。警察に話せばそのことがはっきりするかもしれない。

「太田有希は富士峰女学院中等部の二年生の女の子です。明日香の知り合いでもありますけど」

 奈緒はこの話には関係ない。だから僕はそのときはあえて奈緒の名前は出さなかった。

「富士峰だあ?」

 運転席に収まったままの加山さんが怒ったように口を挟んだ。

「・・・・・・そうですけど」

「おまえさ。何を言い出すかと思えばあのお嬢様学校の中学生が女帝だって言うのかよ。適当なこと言ってるんじゃねえぞこのガキ」

「おい加山」
 飽きれたように平井さんが言った。「おまえの方こそ捜査情報をこいつに漏らしてるじゃねえか」

「あ」

 加山さんは口をつぐんだ。

「まあいいか。おい兄ちゃん、おまえは俺がさっき頭が働いて仲間を統制できるような玉なんて普通は不良高校生の中になんていねえって言ったことを覚えてるか」

「はい」

「その玉が現われたらしい。それが仲間内で女帝と呼ばれている女だ。いや、女の子らしいけどな。そいつの名前は太田という女らしいというところまでわかったんだが」

 女帝、組織立って不良高校生たちを統制できる玉。まさかさすがにそれは有希ではないだろう。清楚なお嬢様でピアノコンクールの常連の入賞者である有希が不良たちの女親分だなんて想像すらできない。

「加山じゃねえけど富士峰の中学生っていうのはさすがに無理があるかな」

 平井さんは少し考え込んでから言った。

「いや、僕は別に有希がその女帝とやらだなんて一言も言ってないですよ。ただ、明日香が襲われる直前に、有希は明日香とその・・・・・・喧嘩みたいになって明日香は飛び出して行ったんです。その夜に明日香はあんな目に遭ったんです」

「材料が少なすぎるな。それに女帝はフリーターかせいぜい高校生だと思われていたんだが」

 平井さんは考え込んだ。

「その太田有希って中学生だが、ひょっとしてピアノが上手だったりするか」

 平井さんが僕にそう聞いた。僕は一瞬凍りついた。

130 : 以下、名... - 2014/12/20 23:29:07.13 gkMads52o 114/442


「まあ、直接聞いたことがあるわけじゃないですけど、ピアノは習っているみたいですよ」

 とりあえず僕は何とか冷静に返事ができた。

「そうか。実は女帝にはピアノがうまいという噂もあってな」

 平井さんは再び煙草を咥えて火をつけた。今度はもう僕もここが禁煙であることを注意しなかった。

「女帝はな。噂だけはいろいろ聞こえてくるんで、ピアノが上手だとかそういう情報にはこと欠かないんだよな」

 平井さんは煙草を美味しそうに吸って僕の方をじろりと見た。

「情報があるならどんな人かは当たりがつきそうですよね」

「それがな。さっきも言ったけど今まで悪さしてた連中が、これまでしていたような悪さをしなくなってしまってな。未成年に無理矢理猥褻なことをするとか、対立するグループ間で乱闘するとかそういうのが無くなってしまったんだよな」

「ええ」

「ええじゃねえ。兄ちゃんにはわからねえだろうけど、これまではそういうつまんねえことをしでかした連中をしょっぴいて取調べをする中でこっちは必要な情報を手に入れてたんだが」

 平井さんが何を言おうとしているのか僕にもわかった。

「しょっぴいた連中なんざしょせんはガキだからな。ちょっと締め上げればたいがいのことは吐くし、それで俺たちもがぎどものグループの情報は手に入っていたんだがよ」

「そういう小さな悪さをしなくなったんだよな。少なくともこの界隈を仕切っている連中は」

「だからよ。それなりに情報は集まってくるが、実際に女帝と会ったことのあるやつからは情報を取れねえんだわ。女帝のピアノ情報とかどこまで信用できるかもわからん」

「それもこれも女帝のせいだと思ってるよ。そいつが現われてからは極端に検挙件数が減てな。上司に言い訳するのも大変だぜ」

 本当にあの有希が平井さんがいう女帝なのだろうか。普通に考えればそれはすごく突飛な考えだ。でも現に僕の妹は入院するほどのひどい仕打ちを飯田という男から受けたのだ。それも冷たい表情で明日香を見下すように眺めた有希に責められた直後に。

 僕はさっき奈緒から聞いた話を思い出した。昨晩有希は不誠実な僕なんかとは別れるように奈緒に勧めたという。その時の有希の様子は怒ってはいたけど別に不信な様子はなかったそうだ。

 その有希が今日の放課後は奈緒の話すらまともに聞いていないほど、何かに悩んでいたという。考えたくはないけど、彼女は明日香の事件関係で悩んでいたとしたら。

 明日香を追い詰めて、明日香が僕たちから逃げ出して夜の町を無防備に徘徊したその原因を作ったのは有希だ。そしてその晩、有希は飯田に襲われて池山に助けられた。

 その一連の出来事を有希が知っていて、そして自分の意図よりも大袈裟なことに、つまり飯田が逮捕され明日香を助けた池山すら参考人として事情聴取を受けるようなことになってしまったことに対して悩んでいたとしたら。
「その女帝って人は何がしたいんでしょうか」

 僕は素朴な疑問を平井さんに聞いた。

「・・・・・・どういうことだ」

131 : 以下、名... - 2014/12/20 23:30:08.09 gkMads52o 115/442


「いや。無軌道に騒ぐだけなら単なる高校生の衝動なのかもしれないけど、組織立だって何かをしようとしているとしたら目的があるんじゃないかと思って」

「ほう」
 平井さんが皮肉っぽい笑いを浮かべた。「兄ちゃんも高校生だろうが。随分うがったことを言うな。まさか、兄ちゃんが女帝じゃないだろうな」

「冗談だよ、冗談」
 僕の顔色を見た平井さんが笑った。「でもいいところを突いてくるな。加山なんかよりよっぽど刑事の素質があるな」

「平井さん!」

 顔色を変えて加山さんが言った。どうもこの人は冷静さに欠けているみたいだ。

「だから冗談だって言ったろ。でも兄ちゃんの言うとおりだ。何のメリットもなくやつらが女帝に従うはずはねえ」

「メリットって」

「そろそろやばいっすよ。平井さん。ちょっとこいつに情報漏らしすぎじゃないですか」

 不服そうにそう言い出した運転席の加山さんには構わずに平井さんは言った。

「兄ちゃんは合法ドラッグとか合法ハーブとかって聞いたことあるか」

 それはテレビのニュースで聞いたことがある単語ではあった。

「聞いたことはあります。麻薬みたいに違法になっていないけど同じような効果があるやつでしょう。吸うというよりアロマみたいに焚く感じの」

「そうだ。実際にはかなり危ないことがわかっているけど、法改正が追いつかずに違法薬物に指定される前のブツって感じかな、だから脱法ドラッグと呼ばれることもある」

「そしてそれはドラッグそのものだ。いい気持になるなんて程度のもんじゃねえんだよ」

「はあ」

「それはとにかくだ。今はまだ違法の麻薬じゃねえしな。表立っては取り締まれねえ。それに暴力団の連中だってまだこんな美味しいネタに気がついていねえみてえだ。時間の問題なんだろうけどな」

「もうわかったか?}

 平井さんが煙草を捨てて靴の底でもみ消した。

「女帝のグループはその合法ハーブを取り扱っているってことですか」

「ピンポン」
 平井さんが嬉しそうに寒いセリフを吐いた。「あのガキどもが悪さしないで大人しくなるなんざ理由があるんだよ。それが小遣い稼ぎだったんだろうな」

「まあ兄ちゃんの話はわかったよ。太田有希のことは俺らも気をつけておこう。これからやつらの事情聴取だから、それとなく探りを入れてみることにするよ」
 平井さんは車に乗ろうとした。「それでいいな? 俺の方も話せる限りのことは兄ちゃんに話したぜ」

「はい。ありがとうございました」

 そのとき再び平井さんが俺の方を見た。

「おまえ、やる気なのか」

「やる気って・・・・・・何を言っているのかわからないですけど」

 平井さんは僕のその言葉を聞いて眠そうな目を少しだけ開いた。僕は平井さんの言葉に戸惑っていただけだったのに、平井さんはそうは受け取らなかったようだ。

「そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ」

 そしてもう平井さんは僕の方を見ないで車の助手席に収まった。

「じゃあな」

 何かに腹を立てているかのように加山さんが乱暴にアクセルを踏んだらしい。その警察車両はタイヤのきしむ音を病院中に響かせながら走り去って行った。あれでは加山さんはまた平井さんに怒られるだろう。

132 : 以下、名... - 2014/12/20 23:31:04.47 gkMads52o 116/442


「用事は終った?」

 走り去る車を見送っているといつのまにかいたらしい玲子叔母さんに背後から声をかけられた。

「うん。さっきはありがとう」

 僕は叔母さんに言った。

「・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?」

 何なんだ、いったい。さっきから平井さんと叔母といい。僕は単に有希と明日香の受難との関係が気になっただけなのに。

「まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力するから」

「いや、叔母さん」

 僕は叔母さんの誤解を解こうとしたけど、叔母さんはもう頭を切り替えていた。

「それより奈緒人、明日香があんたと話したいって」

「うん。父さんたちは?」

「仕事に戻ったよ。今日はずっと明日香に付いてるって言ったんだけど、明日香が自分は大丈夫だから仕事に戻ってって」

 こんな状況なのに明日香は両親の仕事を気遣ったようだった。これに関しては他の人にはわからないかもしれない。でも僕と明日香には両親の仕事を優先することは当然のことだった。我が家の生活が成り立っていたのは両親が昼夜なく仕事をしているせいなのだ。

 もちろん寂しく感じないなんてことはない。でも寂しくたってやることはやらないと僕も明日香もここまで行き抜くことすらできなかっただろう。だから普段の家事や身辺の雑事にしても、他の同級生たちと比べたら遊びまくっていた明日香だってはるかによくやっていた方だと思う。

 明日香は自分がこんな仕打ちにあった時ですら両親の仕事を心配している。半分くらいは自業自得と思わないでもないけれども、その動機には疑いの余地はない。明日香の行動は全て僕のことを思いやってのことだったのだ。

「とにかく病室に戻ろう」

 叔母さんが僕を急かした。

 病室に入ると僕に気がついた包帯だらけの明日香が点滴を受けていない方の手を僕に向かって伸ばした。僕は差し出された明日香の手を握りながらベッドの脇の椅子に腰掛けた。

「ごめん」

 最初に明日香はそう言った。さっき明日香が母さんに話しかけたときと同じ言葉だけど、言葉に込められた意味はきっとそれとは違っていたのだろう。

「いや。おまえが無事ならそれでいいよ」

 明日香が僕の手を握っている自分の手に力を込めたけど、それはずいぶん弱々しい感じだった。

「あたしね、いきなり飯田に話しかけられたの。奈緒のことで話しておきたいことがあるから俺の部屋に行こうって」

 奈緒のこと? 何で飯田が奈緒のことを、僕の妹のことを知っているんだ。僕は混乱した。明日香とその仲間たちは。、直接奈緒との接点はないはずだ。明日香以外で奈緒と池山たちを知っている可能性があるのは。

 やはり有希は女帝なのだろうか。

「何で飯田がそんなことを知っているのか気になったから、あたしつい飯田の部屋について行って」

「うん。そこはもう詳しく言わないでいいよ」

 僕は明日香を気遣ったけど、明日香はかすかに顔を横に振って話を続けた。

「それで、部屋に入ったらいきなりベッドにうつ伏せに押し倒されて、後ろ手に縛られて、あたしが抵抗したらすごく恐い目で睨まれて何度も顔を叩かれたの」

 明日香は低い声で続けた。

133 : 以下、名... - 2014/12/20 23:31:43.38 gkMads52o 117/442


「・・・・・・もういいよ」

「うん。そしたらいきなりドアが開いて池山が入ってきて飯田に殴りかかって、あっという間に飯田のこと殴り倒しちゃったの」

 それでは池山が明日香を助けたというのは嘘ではないのだ。

「池山はあたしの手を解いてくれて、すぐに家に帰れって言ったの。これから警察に電話するし巻き込まれたくなければすぐにここから出て行けって」

「そうか」

 自分の別れた女を飯田から救うことくらいは理解できる話ではある。でも警察に電話するなんていったいどういうつもりだったのだろう。個人的に飯田のことをぼこぼこにするくらいはあの金髪ピアスの男ならやりそうだ。でも警察にチクルなんて池山らしくない。ましてさっき平井さんから聞いた話が事実だとすると、飯田も池山も女帝の下でドラッグの販売とかに手を染めていたはずで、そんな池山が警察に電話すること自体が理解しがたい。

「あたし、本当にもう池山のことなんて何とも思っていないんだよ。あたしが今好きな人はお兄ちゃんだけだし」

 突然の明日香の告白に僕は狼狽した。背後で立っているはずの玲子叔母さんのことも気になった。

「でもね、あたしが逃げちゃったら池山が飯田を殴った犯人にされるかもしれない。あたしは池山に助けられたんだから、そこにいて証言しなくちゃって思ったの」

 明日香が言うには池山は何度も早く家に帰れと言ったらしい。自分のことは構わないから、おまえはこんなことに関わりになるような女じゃないからと必死な表情で。

「・・・・・・前から池山はあたしのことを過大評価していたから。あたしが清純で穢れのない女の子だと思い込みたかったみたい」

「もういい。わかったから。今はもう思い出すな。辛いだろ」

 明日香僕の手を一端離した。

「もっと近くに来て。お兄ちゃん」

 僕が言われたとおりにすると、明日香は片手で僕の腕に抱きつくようにした。明日香の顔が僕の顔のすぐ横に来た。

「お兄ちゃん聞いて」

「・・・・・・席外そうか」

 叔母さんが聞いた。

「いい。叔母さんも聞いてて」

「いいのかよ」

 叔母さんが戸惑ったようにぶつぶつ言った。

「お兄ちゃん、今度こそ真剣に言うね。あたしお兄ちゃんにはいろいろ辛く当たってきたけど、本当はお兄ちゃんのことが好き」

 僕の頬に触れている明日香から湿った感触がする。

「あたし、奈緒のこと大嫌いだった。昔お兄ちゃんの愛情を独占していて、今またお兄ちゃんを惑して傷つけようとしているあのビッチのことが」

「奈緒はそんな子じゃないよ」

 僕は辛うじて反論した。

「うん。今にして思えばそうかもしれないね。あたし多分奈緒に嫉妬していたのかもしれない」

「どういうこと」

「十年以上も会っていなくて、久しぶりに一度だけ会っただけでお兄ちゃんを夢中にさせた奈緒に、あたしは嫉妬していたんだと思う。あたしが素直になって自分の気持ちに気がついたのは、お兄ちゃんと奈緒が付き合い出してからだったし」

「明日香」

「返事は急がない。でもあたしはお兄ちゃんとは血が繋がっていないし、奈緒と違ってお兄ちゃんとは付き合えるし結婚だってできるはず」

134 : 以下、名... - 2014/12/20 23:32:21.80 gkMads52o 118/442


「結婚って」

「例え話だよ。あたし飯田に乱暴されそうになったとき、お兄ちゃんのことが頭に浮かんだの。池山でもなくママでもなく」

 明日香は僕から顔を離して僕の顔を見た。顔には痛々しく包帯が巻かれていたけど、それは何かの重荷を降ろしたような幸せそうな表情だった。こんな明日香は初めてだった。

「あたしが好きなのはお兄ちゃんだけ。でも返事は急がないからよく考えてね」

「・・・・・・明日香」

「そろそろ検診の時間ですから、面会時間はここまでですよ」

 そのときさっきの看護師が部屋に入って来て言った。



「明日香、明日退院だって」
 連れ立って病院から出たところで叔母さんが言った。「結城さんと姉さんから頼まれたんで明日はあたしが明日香を迎えに行くんだけど」

「うん」

「あんたは学校だね」

 叔母さんが言いたいことくらいすぐにわかった。

「妹が退院だからって先生に言うよ。明日は休んで僕も一緒に行っていい?」

「その方が明日香も喜ぶだろうな」
 叔母さんが言った。「まさか目の前で明日香の一世一代のあんたへの告白を見せつけられるとは思わなかったけど。あの子も今度ばかりは本気みたいだね」

「叔母さんもそう思う?」

「うん思う。あんたはどうなのよ。最近明日香とはすごく仲いいみたいだけど」

「仲はいいよ」

 叔母さんは少しためらってからそっと言った。

「やっぱり奈緒ちゃんのことが忘れられない?」

 僕はまだ兄妹としての奈緒との再会のことを明日香にも叔母さんにも話していなかったことに気がついた。

「それはないんだ。叔母さんにはまた言ってなかったけど、今朝登校中に奈緒に待ち伏せされんだ」

「え? 奈緒ちゃんに会ったの?」

 叔母さんは驚いたように言った。多分僕の精神的外傷のことを気にしてくれていたのだろう。

「うん。何で会ってくれないの、嫌いになったのって」

「それだけ聞くとさ、奈緒ちゃんはやっぱりあんたが実の兄貴であることを知らないのか」

「正確に言うと知らなかったになるんだけど」

「どういう意味よ。こんな場合なのにもったいつけるな」

「いろいろあって奈緒には僕が実の兄貴であることがばれちゃったんだ」

「マジで?」

 叔母さんが驚いた様子だった。

135 : 以下、名... - 2014/12/20 23:33:08.25 gkMads52o 119/442


「うん、無意識のうちに僕は気がつかせるようなことを口にしちゃったらしいんだけど」

「それで? 奈緒ちゃんはショックだった?」

「それがそうでもない。むしろ引き離されていた僕と再会したことを喜んでいたよ。もう二度と僕とは別れないって」

 突然の明日香の事件のことで緊張していた僕だけど、その時の奈緒の表情や言葉を思い出すと胸が温かくなっていった。恋人同士には戻れない僕たちだけど、二度と会えないと思っていた僕らは奇跡的に再会できたのだ。

「そうか」
 叔母さんが言った。「じゃあ、あんたはこれまで会えなかった実の妹の奈緒ちゃんと、これまで妹だったけど彼女に立候補した明日香と二人を同時にゲットしたわけか」

「そんなんじゃないし」

 僕は赤くなって叔母さんに言った。



 僕はその日のうちに奈緒に電話した。叔母と別れて帰宅してもやはり家には両親はいなかった。ワンコールで電話に出た奈緒はやたらにテンションが高かった。

「やっぱりさっそく電話してきた。お兄ちゃんって本気でシスコンだったのね」

 奈緒が電話口で機嫌良さそうに屈託なく笑った。

 僕は明日香の退院の付き添いと、そのために明日は奈緒と約束したとおり朝一緒に登校できないことを伝えた。

「妹さん病気なの」

 奈緒が明日香のことを妹さんと言うのには何か違和感があった。僕の妹はおまえだ。僕は一瞬そう思ったでも、それじゃあ明日香は僕の何なのだろう。奈緒と付き合い始めてからは僕の彼女は奈緒で僕の妹は明日香だった。これからはどうなるんだろうか。

 今では奈緒は僕の妹だった。だから僕の初めての彼女は消えていなくなってしまったのだ。そのことがつらくないと言ったら嘘になる。でもフラバのこともあるし、何よりかつての僕の最大のトラウマだった奈緒との強制的な別離が十年もたってから劇的な再会によって解決したのだから、僕はもうそれで満足なんだと考えることにしていた。

 それに奈緒は僕の彼女だったことなど忘れたように、兄との再会を無邪気に喜んでいる。恋人としての奈緒に未練があるなんて彼女に気がつかれてはいけない。

「ちょっと怪我しちゃったんだけどね。大したことはなかったよ」

「そうなんだ。よかったね」

「うん、ありがと。明日は退院の付き添いだけど、明後日以降は妹の容態によっては学校を休んで面倒を見なきゃいけないかも」

 それはさっきから考えていたことだった。平日の昼間は間違いなくうちには母さんはいない。明日香の外傷は大したことがないと言っても退院してすぐに登校できるわけがないし、そんな明日香を一人にしておくのもかわいそうだ。

「お母様は?」

 少しだけ遠慮したように奈緒が聞いた。そういえばまだお互いの家族の近況とかは、奈緒との間には全く話題に出ていなかった。

「母さんも父さんと音楽雑誌の編集をしているんだ」
 僕は家の事情を奈緒に話した。「だから普段は昼間はもちろん、夜だって滅多に家にいないよ」

「そうか。じゃあしばらくは朝お兄ちゃんと会えないね」

 奈緒が言った。

136 : 以下、名... - 2014/12/20 23:34:09.02 gkMads52o 120/442


「ごめんね」

「ううん、今は妹さんのことを考えてあげないとね」

 奈緒には申し訳ないけど、この状況では明日香のことを優先する以外には選択肢はなかった。

「朝来られるようになったらいつもの電車に来てね。あたしは毎朝あの電車に乗っているから」

「行けそうになったらメールか電話するよ」

「うん。お兄ちゃんありがとう」

 そのとき電話の背後で何かを注意するような女性の声が聞こえた。何を話しているかまではよく聞こえなかったけど、少しイライラしているような感じの声だった。

「いけない。ママが怒ってる」
 奈緒が少し慌てたように言った。「ピアノの練習時間だったんだけど弾いていないの気がつかれちゃった」

「練習を邪魔しちゃってたのか。悪い」

「いいの。お兄ちゃんと話しているほうが楽しいし」

「じゃあもう切るね」

 ママ。よく考えればその人は僕の本当の母親なのだ。そこに気がついた僕は、自分の心に何らかの影響があるだろうと思ったのだけど、そういうことは起きなかった。まるで無感動なのだ。

「ごめんねお兄ちゃん。一応ここ防音になっているんだけど、完全じゃないからピアノを弾いていないとママにばれちゃうの」

「そうなんだ。じゃあまた連絡するから」

「うん、待ってる。おやすみ、お兄ちゃん」

 電話を切った後、僕はしばらくさっき考えていたことを再び思い返してみた。奈緒は僕の妹だ。この先もずっと。そして明日香は僕に告白した。奈緒と恋人同士だった頃の僕なら、どうしたら明日香を傷つけずに断ればいいか考えるだけだっただろう。奈緒を振って明日香と付き合い出すなんて考えたことすらなかった。

 でも今ではどうなのだろう。僕にはもう彼女はいない。僕は明日香の気持ちに応えるべきなんだろうか。奈緒とは違って明日香は義理の妹だ。一滴たりとも同じ血は流れていない。だからさっき明日香が言っていたように付き合うことにも結婚することさえにも法的な制約はないのだ。

 僕は試しに僕と明日香が付き合い出したときの周囲の人たちの反応を想像してみた。兄友は明日香が僕の義理の妹であることを知っているから、驚きはするだろうけどそれが社会的なタブーだとは考えないだろう。でも他の人たちはどう思うだろう。考えてみれば僕と明日香が実の兄妹ではないことを知っているのは、両親や親戚を除けばほとんどいない。

 当たり前のことだけど、父さんや母さんだってわざわざ周囲に再婚家庭であることをアピールする必要なんかなかっただろう。それに何といっても去年までは僕自身だって明日香が自分の本当の妹ではないなんて想像したことすらなかったのだ。

 そう考えると、仮に僕と明日香が恋人同士になったときの周囲の反応は考えるだけでも面倒くさそうだった。僕の友人たちや明日香の友だちはみな僕と明日香が兄妹なのに禁断の関係になったと思い込むだろうし、そういう噂だって流れるだろう。そういう人たちに向かって一人一人に我が家の家庭事情を最初から話していくなんて不可能だ。

 僕と奈緒が付き合い出したときはそういう問題は生じなかった。誰も僕と奈緒が実の兄妹だなんて知らなかった。というか当事者である僕たちだってそれを知らなかったのだから。そう考えると明日香と付き合い出すのは大変そうなのに比べて、奈緒とこのまま付き合っている方がはるかに自然で楽そうだった。

 そのとき僕は胸に鋭い痛みを感じた。今、僕は何を考えた?

 奈緒とこのまま付き合うなんてありえない。お互いに生き別れた兄妹だとわかった今となっては。奈緒は僕の妹なのだ。奈緒と感動的な再会をはたした今朝は、つらい別れをした妹と再会できたことに喜びを感じただけで、それ以外に余計なことを考える余裕なんてなかった。でも、今改めてこの先の僕たちの関係を考えてみると、僕は自分の汚い心の動きに気がついた。

 最初に奈緒とキスをしたあの夕暮れの日、正直に考えれば僕の下半身は奈緒の華奢で柔らかくいい匂いのする身体に反応していなかったか。奈緒とキスを重ねるたびに、次は奈緒に対して何をしようかとわくわくしながら考えている自分はいなかったか。

137 : 以下、名... - 2014/12/20 23:34:49.76 gkMads52o 121/442


 そうだ。この次は奈緒の体を愛撫し、そしていつかは奈緒と身体的に結ばれたいと思っていた自分がそこにはいたのだ。そしてその気持ちは実は今になってもまだ清算すらできていなかった。奈緒は妹だ。そして僕のことを兄だと気がついた以上、彼女は僕が自分に対してこんな破廉恥な気持ちを抱いているなんて夢にも思っていないだろう。つらい別れをして以来、再会を夢見続けていた奈緒は、自分の兄を取り戻せたことに満足しているのだ。彼氏としての奈緒人が消滅してしまっても気にならないくらいに。

 それなのに僕はそんな妹に対して汚らしい欲情をまだ捨てきれていない。

 こんなことを考えていたらまたフラッシュバックを起こしそうだった。僕はとりあえず無理に考えを違う方向に捻じ曲げた。

 明日香は急がないと言ってくれた。明日香が僕の彼女で奈緒が僕の妹である将来だって、あり得ない話ではないのだ。というか両親も玲子叔母さんも僕と明日香が結ばれることに祝福こそすれ反対はしないだろう。

 でもそれは明日香の言うとおり急ぐことではなかった。奈緒との関係の整理とか明日香との付き合い方とかを今日一日で決めろと言われてもそれは無理だ。奈緒に感じた性欲のようなものを思い起こすだけでもつらい今では絶対に無理だった。

 それで僕は無理に今日平井さんから聞いたことを思い起こした。

 有希が女帝だったとしたら、この先明日香や奈緒には何らかの危害が及ぶ可能性があるのだろうか。明日香に関して言えば、とりあえず飯田は逮捕された。この先どうなるのかはわからないけど、少なくとも傷害事件の現行犯だから家裁を経て少年院送りとなるか、あるいは初犯なら執行猶予とか保護観察になるかだろう。

 でも平井さんの話では前から警察に目を付けられていたらしいし、初犯じゃあないのかもしれない。いずれにせよ再び明日香を狙う可能性はそんなに高くないだろう。

 奈緒はどうか。明日香が飯田のアパートに無防備について行ったのは、飯田に奈緒の話をほのめかされたからだ。奈緒のような子とボーイズギャングとして警察にマークされている飯田との間にはいったいどんな接点があるのだろう。

 考えられるとすれば有希がその接点だということだった。あの有希が女帝として飯田や池山にいろいろ命令したり指示する立場にいるなら、飯田たちは有希から奈緒のことを聞いていた可能性は考えられる。でも奈緒も有希もお互いのことを親友だと言っていた。少なくとも有希が奈緒のことを親友だと考えているなら、有希の命令で奈緒に危害が及ぶ可能性は低い。

 そう考えると、明日香と奈緒の身がすぐに危ないというわけでもなさそうだ。その点に関しては僕は少しだけ安心することができた。それから僕は平井さんと玲子叔母さんの言葉を思い出した。



『おまえ、やる気なのか』

『そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ』

 平井さんは戸惑っている僕の言葉なんか気にもせずにそう言い放った。



『・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?』

『まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力するから』

 これは叔母さんのセリフだった。いい大人の二人は、高校生の僕に対していったい何を期待しているのだろう。

138 : 以下、名... - 2014/12/20 23:37:05.68 gkMads52o 122/442


 翌朝、叔母さんは家まで車で僕を迎えに来てくれた。叔母さんの車の音はすぐにわかる。それは周囲に響くような重低音だった。明らかに近所迷惑としか思えないのだけど、叔母さんはそのシルバーの古い国産のクーペを大切にしていたし自慢もしていた。

「おはよう叔母さん」

 僕は玄関から外に出た。

「おはよう奈緒人。何か雪でも降りそうな天気だね」

 叔母さんが車の中でハンドルを握りながら言った。

「叔母さん、ここは住宅地だし朝なんだからあまりエンジンの空吹かししないでよ」

「悪い。ちょっと調子が悪くてさ。じゃあ行こうか」

 僕は叔母さんの車の助手席に乗り込んだ。スポーツカーらしくひどく腰がシートに沈み込みフロントウィンドウから見る景色がとても低いように感じる。

「明日香の保険証持ってきた?」

「うん。持ってきたよ」

「じゃあ行こう。あ、帰りは明日香が助手席な。後ろの席は狭いし怪我人にはつらいからね」

 叔母さんの車はツーシーターではないのだけれど、後席は飾りみたいなものだった。やたらに狭いし天井も低い。とても長く人が乗っていられるような空間ではない。

「叔母さんも普通の車に買い換えたら?」

「普通の車じゃん」

 叔母さんがアクセルを踏んだ。車は急発進して坂を下りだした。まるで昨日の加山さんの運転のようだった。

「叔母さん、ここスクールゾーンだからスピード出しちゃ駄目だよ」

「お、いけね」

 やがて叔母さんの運転する車は環状線に入った。妹の入院している病院はうちからはそんなに遠くないのだけど、平日の朝は病院までの国道は通勤の車で渋滞していてなかなか目的地の近くに辿り着く様子がない。

「叔母さんさ」

 僕は信号待ちでも工事でもないのに一向に動かない車の中でハンドルを握っている叔母さんに言った。

「うん」

「昨日叔母さん言ってたでしょ? 本当にやる気なのって」

「言ったよ。そんであたしは反対しないよ。というかあたしも手伝うよ」

「手伝うって」

「結城さんや姉さんには言わない方がいいとは思うけどね」

 僕は混乱してきた。

「叔母さんはいったい僕が何をしようとしていると思ってるの?」

「明日香のために、あの子が何でいきなり襲われそうになったのかを調べるんでしょ」
 あっさりと叔母さんは言った。「そんな危険なことは警察に任せておいた方がいいよって普通の大人なら言うんだろうけどね」

 病室から抜け出して平井さんの後をついて行こうとしたときに、僕はそこまで考えていたわけではなかった。ただ、あのときの有希の冷たい視線と言葉が思い浮んだだけなのだ。でも改めて叔母さんにそう言われると、最初から僕はそうするつもりだったのかもしれないと気がつかされたのだ。

 もともとすべきことはわかっていたのだけれど、奈緒とのことが頭を占めていたせいではっきりとそれを突き詰めて考えなかっただけなのだ。妹でも彼女でも明日香は僕にとって大切な女の子だ。そのことをここ数日で僕は思い知った。明日香が遊んでいた相手は、明日香が考えていたような単純な遊び人たちではなく、脱法ドラッグとやらを取り引きしているような組織らしいのだ。

139 : 以下、名... - 2014/12/20 23:38:55.27 gkMads52o 123/442


 僕はひ弱な高校生に過ぎない。そんな僕に対して警察の平井さんや玲子叔母さんが何でそこまで僕の意思を疑いなく決め付けるのかはよくわからなかった。喧嘩が強いわけでもなければ頭が切れるわけでもない。それでも明日香のためならばしなければ、いけないことはするだけなのだろう。多分明日香の病室を抜け出して平井さんを追いかけたときから僕は無意識にそう決めていたのかもしれなかった。

「あたしを除け者にするなよ、奈緒人。あたしたちは家族なんだからさ。家族のためにはあたしたちは結束して立ち向かうのよ」

 叔母さんは大袈裟に言って笑った。でも叔母さんを巻き込むわけにはいかない。玲子叔母さんは頼りになるけど、それでもやはりやつらから見ればか弱い女性に過ぎない。性格的に男勝りだとか車の運転が荒いだとか、そんなことはこれから相手にするやつらには通用しないだろう。ドラッグとかを扱っているような連中なのだから、彼らに目を付けられたら叔母さんだって明日香と同じような目に会わないとは言い切れない。

 叔母さんをそんな危険なことに巻き込むわけにはいかない。だから僕はもうこの話には触れずに言った。

「明日香はいつから学校に行けるのかな」

「それはわからないよ。今日主治医に聞いているけど、少なくとも今週いっぱいくらいは自宅療養なんじゃないかなあ」

 僕は即座に決心した。奈緒には申し訳ないことになるかもしれないけど。

「じゃあ僕が学校を休んで奈緒の面倒をみるよ」

「悪いね」
 本当に申し訳なさそうに玲子叔母さんが言った。「あたしも今日の午前中休むだけで精一杯でさ」

「叔母さんのせいじゃないよ」

「結城さんと姉さんも仕事を何とかやりくりするって言ってたけど」

「無理しなくていいって言っておいて。僕が明日香の面倒を見るから」

「・・・・・・わかった」

 玲子叔母さんは最近すぐに涙を見せるようになったらしい。ようやく叔母さんは病院の駐車場に車を入れた。自宅を出てから一時間以上はかかっていた。

 それから明日香が退院するまでも長かった。叔母さんが会計で治療費や入院費用を支払うだけで一時間弱は要しただろう。突然の入院だったので荷物なんか全くないのはよかったけど、それからが大変だった。明日香が着替えることになって僕は明日香と叔母さんに病室から追い出された。でもすぐにまた病室のスライドドアが開いて叔母さんが困惑した顔を見せた。

「明日香の着替えがないや」
叔母さんが言った。

「そう言えば着替え持ってくるの忘れてたね。とりあえず昨日着ていた服じゃだめなの?」

「・・・・・・飯田って男に破かれちゃったみたいね。病院の人が畳たんで置いといてくれたんだけどとても着られる状態じゃないな」

 よく考えれば不思議なことではなかった。奈緒のこととか明日香の告白のこととかそういう自分にとっての悩みばかり考えていたせいで、僕はこういう本当に必要なことなんか何も考えていなかったのだ

「悪い。あたしがうっかりしてた」

 叔母さんはそう言ったけど叔母さんのせいじゃない。むしろ昨日病院を後にしてすぐに仕事に戻るほど忙しかったのに、明日香の保険証を持ってくることを注意してくれたのだって叔母さんだった。学校を休んで明日香の退院に付き添うくらいで僕はいい兄貴になったつもりでいたのだけど、それだけでは何もしていないのと同じだ。

「叔母さんのせいじゃないよ」
 僕は叔母さんに言った。「でも破かれた服とか見たら明日香も思い出しちゃったかなあ」

「・・・・・・気にしていない様子だけど、多分相当無理していると思うな」

「そうだよね」

140 : 以下、名... - 2014/12/20 23:39:43.84 gkMads52o 124/442


 PTSDから生じるフラッシュバックのつらさは僕が一番わかっていたはずだったのに。

「家に戻るわけにも行かないからさ、あたしちょっと明日香の服を適当に買ってくるわ。だからあんたは明日香の相手してやってて。できる?」

 叔母さんがわざわざできるかと念を押したわけはよくわかった。

「うん、大丈夫」

「じゃあちょっと行ってくる」

 病室に引っ込んだ叔母さんに付いていこうとして僕は止められた。

「また入院着に着替えさせるからちょっと待ってて」

 ・・・・・・このとき僕はそんなことすら気を遣うことがきない大馬鹿者になった気がした。

 叔母さんが明日香の服を買いに行っている間、僕は明日香と二人で病室で叔母さんの帰りを待っていた。明日香は外見的には自分の破かれた服を見たショックを表情に表わしてはいないように見えた。

「結局、学校は何日くらい休めばいいんだって?」

 僕は明日香のベッドの横の丸椅子に座って聞いた。

「今週いっぱいは自宅で療養してた方がいいって先生が言ってた」
 明日香が答えた。「お兄ちゃんと違って勉強とか好きじゃないし休めるのは嬉しいな」

「そんなのん気なこと言ってる場合か」

 僕は明日香に笑いかけた。

「だって正々堂々と休めるなんて滅多にないじゃん」

 明日香も笑ってくれたけど何かその表情は痛々しい。

「とりあえず今朝は母さんが会社からおまえの中学の担任に具合悪いから休ませますって連絡しているはずなんだけどさ」

「うん」

「明日からはどうしようか。いっそインフルエンザになったことにする? 今流行っているし」

「別に・・・・・・怪我したからでいいじゃん」

「だってそしたら」

 そうしたら担任の先生には理由を聞かれるだろう。いずれ平井さんたちの捜査が進めば学校にも事実が伝わってしまうのだろうけど、その前に明日香がレイプされそうになって怪我をしたなんて他人には話したくない。

「あまり気にしなくていいよ。お兄ちゃんも叔母さんも」

 明日香が不意に言った。

「おまえ」

「自業自得だもん。あたしがあんなバカやって飯田たちみたいなやつらと付き合ってなかったらこんなことも起きなかっただろうし」

「おまえのせいじゃないよ。か弱い女の子に力づくで何とかしようなんて100%男の方が悪いに決まってる。おまえが変な連中と付き合ったのは感心しないけど、だからといってこれにはおまえに全く責任はないよ」

「うん。お兄ちゃんありがと」

 病院で会ってから初めて僕は明日香の涙を見た。

「だからおまえが気にすることなんて何もないんだ」

「うん」

 明日香の泣き笑いのような変な表情がそのときの僕には印象的だった。

141 : 以下、名... - 2014/12/20 23:40:25.72 gkMads52o 125/442


「それにしてもさ、あたしはか弱くなんかないって。奈緒とか有希みたいなお嬢様じゃないんだしさ」

「・・・・・・僕にとってはおまえはいつもか弱い危なっかしい妹だよ」

「え」

「前にさ、公園で鳩を追い駆けていた幼いおまえの記憶が残っているって話したことあるだろ」

「それ、きっと奈緒の記憶だよ。年齢が違うもん。あたしたちが初めて出会ったのはそんなに幼い年じゃないし」

「うん。多分それは僕の思い違いなんだろうけどさ。でもそのときの女の子をすごく大切に感じたことや僕が守ってやらなきゃって思ってその子を追い駆けていた記憶はすごく鮮明なんだよね」

「お兄ちゃんは奈緒のことをそれだけ大切に思ってたんでしょうね」

「いや、僕はその子をおまえだとこの間まで信じていたしさ。それでもその幼いおまえのことが心配な気持ちは確かに感じてたんだ。事実としては勘違いかもしれないけど、おまえのことを大切に思った想いだけは本当の感情だと思うよ」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「おまえと仲が悪かったときとかおまえが夜遅く帰ってきたときとか、正直関りたくないと思ったことはあったけど、結局気になって眠れなかったんだよね。僕も」

 病室のベッドに腰かけていた明日香が涙の残った目で僕を見上げた。

「それくらいにしなよ。それ以上言うともう本気でお兄ちゃんを誰にも渡したくなくなっちゃうよ」

「うん。おまえと恋人同士になれるかどうかはともかく、少なくともおまえは僕の妹だよ、一生」

 僕はだいぶ恥かしいことを真顔で言ったのだけど、そのときはそれはあまり考えずに自然と口から出た言葉だったのだ。

「・・・・・・まあとりあえずそれで満足しておこうかな」
 泣きやんだ明日香が微笑んで言った。「ヘタレのお兄ちゃんにこれ以上迫ったら逃げ出しちゃうかもしれないし、それはそれで嫌だから」

「ヘタレって」

「とりあえずあたしはこれで奈緒と同じスタートラインに立てたってことだね」

 明日香が言った。

 僕は黙ってしまった。まだ明日香の気持ちに応えられるほど気持ちの整理はついていない。僕は昨晩感じた奈緒への性欲のような衝動を思い出した。

「血が繋がっていないだけ有利だしね」

 明日香が僕に止めをさした。

 それでも叔母さんが帰ってくるまで病室内の雰囲気は穏やかだったと思う。お互いに意識して微妙なラインの会話を続けながらも、昔よりは確実に僕と明日香はお互いを理解し合おうとしていたのだ。

 僕が奈緒のことで悩んでいたときに明日香は僕を黙って支えてくれたし、今は僕は同じことを明日香にしようとしている。それは明日香の僕への想いとはかかわりなく、ようやく僕たちが自然な兄妹の関係に復帰できたということだった。

「パパやママもそうだけどまた玲子叔母さんに迷惑かけちゃったな」

 明日香の担任にどう話そうかという話を蒸し返していたときに明日香がぽつんと言った。

 確かにそのとおりだった。僕と奈緒のことでいろいろ迷惑をかけただけでは足りずに、今回は叔母さんにはお礼の言いようもないほど世話になったのだ。

 真っ先に病院に駆けつけたのも、すぐに僕に連絡をくれたのも叔母さんだ。そして今日は半日だけとはいえ多忙な仕事をよそに病院の支払いから明日香の着替えの購入まで面倒を見てくれている。

142 : 以下、名... - 2014/12/20 23:41:25.42 gkMads52o 126/442


「昔から姉さんにはあんたたちの世話を押し付けられてたからね」

 僕が叔母さんにお礼を言おうとしても叔母さんはそう言って笑うだけだった。叔母さんにだって自分の仕事やプライベートな時間だってあるのだろうに、僕たちも両親も叔母さんに頼ってばかりだ。

「叔母さんって彼氏いないのかなあ」

 明日香がそう言った。

「さあ? 聞いたことないよね」

「あんなに綺麗なんだから絶対いると思うな」

「確かにそうだ」

 そのとき僕は叔母さんのすらりとした細身の容姿を思い浮かべた。確かにあれで彼氏がいない方が不自然だ。もっとも性格の方はだいぶ男っぽいので大概の男では叔母さんを満足させられないのかもしれない。

「玲子叔母さんってパパのこと好きだったんじゃないかな」

 突然明日香がびっくりするようなことを言い出した。

「え? パパって今の父さんのこと?」

「うん。あたしたちのパパのこと」

 女の子の想像というのも随分突飛な方向に暴走するものだとそのとき僕は思った。それはまじめに取り合う気もしないほど斜め上の発想だった。

「何でそうなるの」

「叔母さんがパパに話しかけるときの雰囲気とかで感じない? 何か甘えているような感じ」

「どうかなあ。特には気がつかないな」

「ママがいる時は普通の態度なのよ。でもさ、この間の夜みたいにママがいなくてパパとかあたしたちと一緒にいる時の叔母さんって、すごくはしゃいでててさ。パパに話しかけるときの様子とか何か可愛い女の子って感じじゃん」

「それは思いすぎだと思うけどなあ。第一叔母さんにだけじゃなくて母さんにだって失礼だろ、そんな想像は」

「でもそう感じるんだもん」

 明日香が頑固に言い張った。

「ママとパパって幼馴染で、大学のときに再開してそれで社会人になってからパパの離婚を経てようやく結ばれたんでしょ」

「叔母さんはそう言っていたね」

 僕はそのときに父さんと母さんの馴れ初めを始めて聞いたのだった。僕の本当の母さんと父さんとの別れの原因を聞くのと一緒に。

「ママと叔母さんは十三歳年が違うんだ。すごく年の離れた姉妹なんだって」

 その辺の事情を詳しく聞いたことはなかったけど、以前から叔母さんと母さんが年齢が離れていることだけは何となく感じていたことだった。

「ママが今度四十三歳でしょ?」

「そういや母さんの誕生日って来月じゃん。今年は一緒にプレゼント買おうか」

 これまで仲が悪かった僕たちは母さんへのプレゼントをそれぞれ別々に用意していたのだ。母さんは平等にそれを喜んでくれたのだけど。

「いいけど。って今はそういう話じゃなくて。パパとママが大学時代に再会したとき、叔母さんは小学生にはなっていたわけだし、そのときパパに淡い初恋をしたっておかしくないじゃん」

「どうでもいいけど、それ全部状況証拠っていうか思い込みだろう」

「可能性の話だよ。あと再婚の頃は叔母さんだって二十歳を過ぎていたんだから、あらためてパパに対する禁じられた報われない恋に泣いていたとしても不思議はないでしょ。顔には祝福の笑みを浮べながら。叔母さんかわいそう」

143 : 以下、名... - 2014/12/20 23:42:20.13 gkMads52o 127/442


 叔母さんにここまで世話になったと言いながら明日香はさっそくこれだ。でも叔母さんには悪いけどこういう話で明日香が重苦しい気持ちを忘れられるならむしろ大歓迎だった。もっとも叔母さんの前ではこういう話をしないように釘はさしておかなければならないけど。

「叔母さん、もてそうだし彼氏とか作って結婚しようと思えばすぐにでもできそうなのにね」

 僕は言った。それは本音だった。むしろ僕たちの世話を焼くことが叔母さんの邪魔になっているのかもしれない。あとは殺人的に多忙な仕事もそうだろうけど。

「何よ。お兄ちゃん、玲子叔母さんのことが気になるの?」

 明日香が少しだけ真面目な顔で僕を睨んだ。

「ば、おまえ何言って」

「確かに叔母さん綺麗だもんね。よく考えたらお兄ちゃんとは血が繋がってないし」

「おまえ、いくらなんでもそれは叔母さんに失礼だろう」

「・・・・・・何で本気で赤くなってるのよ」

「なってねえし」

「お兄ちゃんってパパに似てるしね。叔母さんもパパに似ているお兄ちゃんのことが気になっていたりして・・・・・・それも男性として」

「おまえ・・・・・・怒るぞ」

 明日香は僕の精一杯の威嚇なんか少しも気にしていないようだった。

「考えてみればパパと叔母さんは十五歳違いだけど、お兄ちゃんと叔母さんは十三歳違いだもんね。パパよりお兄ちゃんのほうが叔母さんに年齢が近いじゃん」

 明日香の冗談に付き合っているときりがない。でも僕はそのとき叔母さんのすらりとした容姿を重苦しく思い出した。女帝の率いるボーイズギャング団のことを思い出したからだ。そいつらは女帝が現われてからは女の人を襲ったりとか、道端で強盗まがいのことをしなくなったと平井さんは言っていた。そのかわり脱法ドラッグを組織的に仕入れて売るという暴力団まがいの商売を始めたのだ。一見大人しくなったようだけど危険な連中であることに違いはなかった。本当に女帝という女が実在するとしたら、僕が探ろうとしていることは相当に危険なことに違いない。叔母さんは僕と一緒にその探索をすると意気込んで言っていたけど、やはりそれだけは阻止しなくてはならない。これから探ろうとしている連中は、相手が大人だからといって遠慮したり恐れたりする相手ではなさそうだ。深入りすれば叔母さんだって明日香と同様に飯田のようなやつに何かひどいことをされてしまう危険がある。

「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんてないんだけどね」

 明日香が叔母さんのことから話を変えた。僕はあのとき逃げ去っていった明日香を見送って以来初めて彼女の口から有希の名前を聞いたのだ。明日香もそのことに気がついたようだった。彼女の表情が曇った。

144 : 以下、名... - 2014/12/20 23:43:28.08 gkMads52o 128/442


 明日香が笑顔を消して何か話し出そうとしたとき、叔母さんがどこかのショップのブランドロゴの記された紙のバッグを提げて病室に入ってきた。

「ちょうど先月号で見本を提供してもらったショップを思い出してさ、考えたらこの病院のすぐそばにあるんだったよ」

 叔母さんが持ってきたショップのロゴは僕には初めて見かけるものだったけど、明日香はそれを見て曇っていた顔を輝かせた。

「え、これJASPERじゃん。こんなの貰っていいの?」

「たまには明日香にプレゼントしてもいいかなって。高いんだぞ大事にしろよって・・・・・・奈緒人、あんたどうかしたの?」

「お兄ちゃんはね、叔母さんのこと」

 明日香はとりあえず有希のことを忘れたように、嬉しそうに何かを喋りだそうとした。嫌な予感がした僕はこいつに飛び掛るようにして口を押さえた。

「何すんのよ! 離してよお兄ちゃん」

「これこれ病院でいちゃいちゃするのやめろ」

 叔母さんが飽きれたように笑った。

「違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと、うう!」

 僕は辛うじて明日香の口を抑えることができた。全く。明日香の悪ふざけにも程がある。

「おいもういい加減にしろよ」

「叔母さんの前だからって照れちゃって」

「おい」

「はいはい。着替えるからお兄ちゃんは出て行ってよ」

「あ、うん。余計なこと言うんじゃないよ」

「わかったから出て行ってよ・・・・・・それとも見たい? て痛い」

 叔母さんが明日香の頭をグーで軽くぶったのだった。

 僕は病室の外で少なくともニ、三十分は待たされたんじゃないかと思う。その間に室内からは楽しそうな話し声が聞こえてきたので、叔母さんが僕のことを好きだとかという悪質な冗談を話し合っていたのではないらしい。もちろん叔母さんのことを女性としてどうこう思う気持ちなんかないし、明日香にしたって冗談で言っているだけなのはわかっていたけど、身内に関するこういう冗談は気まずい。それでもつらい目にあった明日香がはしゃいでいる様子を見るのは正直ほっとした。だからとても気まずいけれど、僕は叔母さんに関する明日香の悪ふざけを本気で怒る気はなかったのだ。

 さいわいなことに病室の外の廊下で待たされている間に室内から聞こえてくる明日香と叔母さんの会話は主にファッション関係の話らしかった。明日香の興味が叔母さんが買ってきた服の方に移ったみたいだ。

「お待たせ」

 ドアが開いて明日香と叔母さんが並んで出て来た。顔や腕にまだ包帯が巻かれているので痛々しい感じは残っているけど、新しい服に着替えたせいか明日香はだいぶ元気な様子に見えた。

「ほら、この服ちょっと大人っぽいでしょ」

 明日香が僕に言った。

「こないだまでの明日香のファッションはケバ過ぎて見ていられなかったからね」
 叔母さんが笑って言った。「これくらいシックな方がいいよ」

 こうして明日香と叔母さんが並んで立っているとまるで少し年の離れたお洒落な姉妹のようだ。とても叔母と姪には見えない。

「じゃあ帰ろうか。さすがに少し急がないと午後の約束に遅れそうだよ」

 叔母さんが言った。

145 : 以下、名... - 2014/12/20 23:44:36.57 gkMads52o 129/442


 叔母さんが車を病院の入り口にまわしてきたので、まず僕が狭い後部座席に乗り込んだ。明日香が無事に助手席に座ったのを確認してから叔母さんは車を発進させた。

「雪が降ってる」

 明日香が走り出した車の中から外を見て言った。朝、病院に向かっているときは陰鬱な曇り空だったのだけど、病院を出る頃には細かい雪がちらほらと空から舞い落ちてきていた。

「こんなんじゃ積もらないだろうね」

「積もらなくて助かるよ。明日香は今週は登校しないからいいだろうけど、毎日出勤する方の身になれよ」

 叔母さんが笑って言った。

「だって叔母さんは好きで今の仕事してるんだからいいじゃん」

「それはそうだけど・・・・・・ってそんなこと誰から聞いたの」

「パパが言ってた。玲子ちゃんは好きな仕事しているだけで幸せだからなって」

 叔母さんが顔をしかめた。

「何で結城さんがそんなこと言ったんだろ」

「叔母さんって何で結婚しないのってあたしがパパに聞いたの。そしたらパパがそう言った」

「何であんたはそう余計なことを結城さんに聞くのよ」

「何でって言われてもなあ。ねえねえ、叔母さんってパパのこと好きだったの?」

「な、何言ってんのよ明日香」

 叔母さんが狼狽したように口ごもった。

「叔母さん、前! 前の信号、赤だって」

 僕の警告に気が付いた叔母さんは横断歩道の手前でタイヤを軋ませて車を急停止させた。車を急停止させた叔母さんは真っ赤な顔でじっと目の前の革張りの高価そうなステアリングを見つめていた。



「ちょっとやりすぎちゃったかなあ」

 叔母さんはあの後あまり喋らなくなった。そして明日香と僕を自宅に送り届けるとそそくさと車を出して仕事に戻ってしまったのだった。明日香はリビングのソファで怪我をした部分を当てないように上手に横になってくつろいでいた。手元にはテレビのリモコンまで引き寄せているところを見ると、こいつは今日は自分の部屋ではなくリビングで過ごす気になっているようだ。

「ちょっとなんてもんじゃないだろ。叔母さん、あれからあまり話してくれなくなっちゃったじゃないか」

「だって気になるんだもん」

 年上の叔母さんのそういう感情面みたいな部分を話すことに僕は違和感のようなものを感じた。さっきの病室での明日香の冗談だって居心地が悪かったし。だけど今は明日香が襲われた話とか有希の話とかをするよりも、こういう話をしていた方が明日香にとっては気が楽だろうとさっきも病院で考えたばかりだ。だから僕は無理に話を遮らずその話に付き合うことにした。

「叔母さんだってもう三十じゃない? あんだけお洒落で綺麗なのにいつまで独身でいるつもりだろ。男なんていくらでも捕まえられそうじゃん」

「確かに綺麗だけどさ。叔母さんって性格は男っぽいからなあ」

「お兄ちゃんってやっぱキモオタ童貞だけあって女のこととかわかってないのね」

 随分な言われようだけど明日香の言葉には以前のようなとげはなかった。

「それは反論できないけど」

「叔母さんのしっかりとした態度なんて職場とかあたしたち向きの演技だよ、きっと」

 明日香が随分うがったことを言った。

146 : 以下、名... - 2014/12/20 23:46:33.68 gkMads52o 130/442


「そうかなあ」

 車の趣味とかきびきびした決断の早い行動とかがあいまって叔母さんを男っぽく見せているのだろうけど、その全部が演技だというのはさすがに素直には受け取り難い。

「男と同じに扱われる職場だってまえに叔母さんも言っていたし。それに叔母さんが両親があまりそばにいてくれないあたしたちと一緒に過ごしてくれるときってさ」

「うん」

「多分必要以上に頼りになる叔母さんを演出してくれてたんだよ、今まで」

 それはあまり考えたことのない視点だった。たしかにそういうことはあるかもしれない。叔母さんは以前から好んで僕たちの世話を焼いてくれていたし、まだ幼かった頃の僕たちに対して安心感を与えようとしてくれていたのかもしれなかった。小さい頃から叔母さんにべったりだった明日香も今までただ甘えていただけではないらしい。明日香は叔母さんの心の動きまで察していたようだった。

「本当は叔母さんだって普通の女の子だと思うよ。まあ三十歳になるんだから女の子ってことはないんだけど」

「女の子ってことはないだろ・・・・・・。そういや叔母さんって誕生日いつだっけ?」

 僕はふと思いついて言った。

「八月でしょ」

「叔母さんの誕生日にも一緒にプレゼントしようか。お世話になってるんだし」

 明日香はそんな僕の提案を瞬時に却下した。

「叔母さんに喧嘩売るつもりならお兄ちゃんが一人でプレゼントしたら? ケーキに三十本ろうそくを立てて渡しなよ・・・・・・そんな勇気がお兄ちゃんにあるならね」

 三十になる女の人は誕生日なんて喜ばないのだろうか。

「だいたい何でそこでプレゼントなんて発想がでてくるの? お兄ちゃんて中学生の女の子が好きなロリコンだと思ってたけど、冗談抜きで年上属性もあるの? て痛い」

 僕はさっきの叔母さんを真似て明日香の頭を軽く叩いたのだ。明日香とこんなコミュニケーションが取れるなんて不思議で少しだけ幸福感を感じる。

「何すんのよ」
 明日香が文句を言ったけど、以前の明日香だったら本気でつかみ合いの喧嘩になっていただろう。

「あたしさ、パパとママの仲が壊れるなんて絶対に嫌なんだけど、それでもどういうわけかママがいないときの叔母さんとパパの雰囲気とか会話とかは大好きなんだ」

 そういえば年末にもそういうことがあった。明日香の言うように叔母さんが父さんのことを好きなのかどうかはわからないけど、確かにあのときの二人は親密な感じだった。

「それはわかるような気はするけどさ。それにしても僕は叔母さんのことをどうこうなんて全く思っていないぞ。洒落にしてもしついこいよ」

「そうかなあ」

 ちょっと真面目な顔で明日香が呟いた。

「マジで言うんだけどさ。お兄ちゃんって本当のママの記憶ってあまりないんでしょ」

「うん。ほとんどない」

「うちのママだってあまり家にいないしさ。お兄ちゃんにとってのママの役って玲子叔母さんが引き受けてたんじゃないかなあ」

 僕は不意をつかれた。確かにそういうことはあるかもしれない。僕は昔から叔母さんには懐いていた。去年母さんと明日香とは血が繋がっていないことを知らされたとき、しばらくして僕は叔母さんとも血縁関係になかったことに気がついた。それからの僕の叔母さんへの態度は不自由で不自然なものになってしまった。でもこの間の夜、叔母さんは僕に敬語を使うのはよせと言ってくれたのだ。僕が叔母さんの言葉に従ったとき、叔母さんは目に涙を浮べてくれていた。

 明日香のことや奈緒のことで僕が自分でも気が付かずにどんなに叔母さんを頼っていたか。明日香の言葉で僕は改めて真面目に考えた。

「叔母さんだってお兄ちゃんのことすごく大切にしているしね」

 明日香が言った。

147 : 以下、名... - 2014/12/20 23:47:24.13 gkMads52o 131/442


「でも、真面目な話だけど叔母さんを口説いたりしたらお兄ちゃんのこと許さないからね」

 そのとき自分でもようやく気が付いた叔母さんへの僕の真剣な慕情を明日香が無神経にぶち壊した。この恋愛脳のばか妹はまた話をそっち方面に持っていったのだ。

「だから何を言ってるんだよ。叔母さんは僕にとっては母親代わりみたいなものだって自分で言ったばっかじゃないか」

「血が繋がっていない母性ってさ、互いに恋愛感情になりやすいって思うんだ」

 そんなことを考えていたのか、こいつは。人のことは言えないけどちょっと恋愛系の漫画とかの読みすぎではないのか。それも少女漫画というよりレディースコミックのようなやつを。

「・・・・・・あたしさ」
 明日香が声を低くして言った。「なんか玲子叔母さんとお兄ちゃんが二人きりで笑いあっていたり話しをしていたりするところを見ていると何か胸がもやもやする」

「そろそろ洒落になんないよ。もうよそうよ」

「まあ、半分は冗談だけどね」

 半分は本気なのかよって僕は思ったけどこの話題はもう終わりにしたかった。

「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんてないんだけどね」

 明日香が突然さっき言ったセリフを蒸し返した。

「有希さんのことはもういいよ。確かにおまえのしたことは感心しないけど、おまえなりに僕のことを心配してくれたんだろうから」

 明日香が僕の方を真っ直ぐに見た。

「有希はお兄ちゃんのことが好きだよ。自分でもそう言っていたし」

「うん、知ってる。有希さんから直接聞いたよ」

「そうなんだ。あたし有希のことを応援しようと思ったの。有希とお兄ちゃんがくっつけばお兄ちゃんは奈緒のことを忘れてくれるかも知れないって思って」

「だからわかってるよ。もういいんだ」

「でも有希のことをあたしは裏切っちゃったの。有希を応援するなんて言って有希をけしかけておきながらお兄ちゃんに告白なんてしちゃてさ。しかもそれを有希に聞かれたんだから、有希が怒るのも無理はないの」

 でも今となってはそれは多分明日香が思っているような単純な話ではない。有希は女帝かもしれないのだ。その有希が本気で僕を好きになったのかは考えただけでも疑わしい。最初に有希に近づいたのは明日香の方みたいだけど、仮に有希がギャング団の女親分だとしたら明日香ごときに誘われるままに僕たちと冬休みを一緒に過ごしたり、僕のことが好きだなんて告白したりするだろうか。

 やはり有希には何か目的があるのだ。そして有希に不用意に接近してしまった明日香の身の安全のためにも、僕はその理由を探らなければならない。

 どういうわけか平井さんも玲子叔母さんも最初から僕がそうすることに疑いを抱いていなかった。いったい何でかはわからないけど。それを明日香に言う必要はない。だから僕は明日香にこう言った。

「有希さんのことはもういいよ。そしてもう有希さんには近づかない方がいい。下手に謝ろうなんてしたらかえって彼女を傷つけると思うよ」

「ちゃんと謝りたかったんだけどな」

「もう関わりになる必要はないよ。おまえが本気で僕のことを好きならなおさらね」

「お兄ちゃん、あたしの愛情を疑っているの?」

 何とか明日香の気持ちを逸らすことができた。これ以上明日香は有希と関ってはいけないのだ。そのとき僕は一番大切な話をまだ明日香にしていなかったことに気がついた。

「それよりさ。奈緒と会ったんだ」

「え」

 明日香はすぐに有希のことを忘れて奈緒の話に食いついた。

「何でよ? もう会わないって約束したじゃない」

148 : 以下、名... - 2014/12/20 23:49:08.36 gkMads52o 132/442


 僕は昨日叔母さんに話したことを繰り返した。奈緒に待ち伏せされ詰られたこと。その後フラッシュバックを起こした僕が口走ったセリフによって、奈緒は僕が引き離された実の兄だと気づいたこと。明日香は驚いたように口も挟まずに話を聞いていたけど、僕と奈緒がこれからは再会した兄妹としてずっと一緒にいようと約束をしたあたりで不服そうな顔をした。

「それって結局、奈緒とお兄ちゃんはこれまでどおり朝一緒に登校するし、お兄ちゃんは毎週土曜日にはピアノ教室に奈緒を迎えに行くってこと?」

「まあ、そうだね」

「・・・・・・なんか別れた恋人同士がよりを戻したみたいに聞こえるんだけど」

「そんなわけあるか。これから兄妹として仲良くしていこうってことだよ」

「兄妹ってそんなにいつもベタベタ一緒にいるものだっけ」

「最近は僕だっておまえといつも一緒じゃん」

「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないし」

 正しい日本語にはなってないけど、明日香の言うことも理解できた。同時にいい兄妹になるはずの兄の方が、今でもまだ妹になったはずの奈緒に対して抱いている性的な情欲のことも心に浮かんだのだけどそれは胸のうちにそっと仕舞っておいた。

「お兄ちゃん?」

 明日香が静かな声で言った。今までとは違う真剣な声を聞き、僕は妹の顔を見た。

「お兄ちゃんは本当にそれでつらくならない?」

「え」

「好きになった、とっても好きになった女の子が自分の実の妹だってわかって、それでもお兄ちゃんは平気なの」

 それは僕の悩みを的確に指摘した言葉だった。本当にそのとおりなのだ。記憶のない僕が妹の奈緒と再会して、自分の初めてできた大好きな彼女を失って、それでもなお何で奈緒と一緒に登校したり、奈緒をピアノ教室に送迎したりしようと思えるのか。

「お兄ちゃんがそれでも平気ならあたしは何も言わない。言う権利もないと思うし」

「権利って。おまえは僕のことを助けようとしてくれたんだし」

「それでもね」

 男たちにひどい目に合わされ、入院して退院した今まで、気丈だった明日香の声が初めて気弱な響きを帯びた。

「勝手なことを言うね。奈緒と会ってお兄ちゃんがつらいなら、お兄ちゃんは奈緒に会うべきじゃない」

「妹なんだぞ」

「奈緒がお兄ちゃんに対して復讐心を抱いているなら、お兄ちゃんはもう奈緒のことは忘れた方がいいよ」


続き
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