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月火「火憐ちゃんも、お兄ちゃんのことどうこう言えないよね」【前編】

224 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:17:33.57 g5ZB1KKd0 172/477

 010.

「あれ? 火憐ちゃんじゃないか」
「ん? 妹御がどうかしたか?」
「いや、あそこの病院の入り口から今……あ、走って行っちゃったよ。相変わらず速いな」

 忍と一緒に自転車で走ることしばらく、ようやく遠目に目的地たる病院が見えてきた所で、その入り口から火憐が飛び出てくるのに気付いた。
けれど、声をかけるかどうかを考えるより早く、あるいはいっそ僕の声よりも速く、火憐はたーっと走り去ってしまう。
残念ながら、あいつは僕達に気付かず、どこか別の所に向かったようだ。
時間か方向がもう少し違っていれば、直接話をすることもできただろうに、どうにも昨日から随分と間が悪いというかタイミングが悪いというか。
あるいは運が悪いのか。
また少し心がざわつくような気がした。

225 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:21:07.83 g5ZB1KKd0 173/477

「しかしお前様よ、この距離でよう識別できたの。儂でもそうはっきりとは分からんかったぞ。そんなに視力が良かったか?」
「いや、他の人間じゃ見分けはつかなかったと思うけど、相手が火憐ちゃんだったからな。そりゃ僕に識別できないはずがないだろ」
「理由になっとらんわ」
「まあぶっちゃけ匂いで分かったんだけどな」
「ぶっちゃけるな、変態度がより増しおったぞ」
「おい、何で信じるんだよ」

 冗談に決まってるだろ。というか明らかに突っ込み待ちだって分かるだろ。
犬じゃあるまいし、この距離で匂いなんて嗅ぎ分けられるか、至近距離ならまだしも。
というか、ジャージ姿だから見分けられただけって気付けよ、お前も。
全く、挙句の果てに変態呼ばわりとは。

「いや、お前様ならあり得そうじゃし。ちゅーか普通は冗談でもそんな発想は出んわ。もうそんなボケが出てくること自体が変態の証左と言うてもよかろう」
「あり得ねえしよくもねえよ、小差で変態は免れてるだろう、この程度なら」
「まあ自分で小差と認めておるだけマシかもしれんのう」

226 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:24:48.69 g5ZB1KKd0 174/477

 僕が変態の誹りを回避した(?)ところで、病院の入り口に到着。
千石の話では、その子は病院では中庭にいることが多いらしいので、真っ直ぐにそこへ向かうことにする。
噂通りであれば、きっとそこに一人でいるはずだ。
果たせるかな、それが幸か不幸か、間が良いのか悪いのか、廊下を曲がって中庭が見えてきたところで、僕はそこにいる人影に気付いた。

 何かを一目見ただけで色々読み取れるような、そんな洞察力も推理力も、残念ながら僕にはない。
むしろ察しが悪いとか言われることの方が多いくらいだ。
ガハラさんなら直球で頭が悪いと言ってくれる。
まあ彼女の鋭利極まる舌鋒は、オブラートに包んだところでその攻撃力を一切減ずるものではないだろうけれど。

 閑話休題。
とにかくそんな鈍い僕でさえも、ベンチに座って目を閉じているその人影から、健康という単語とは微塵も縁がなさそうな青白くか細いその少女から。
何か言葉にできないような不穏な気配を感じずにはいられなかった。
貝木を始めて見た時と似ているような、けれど決定的に違う何か。
不吉ではなく、不幸――何とも言い得て妙だと思う。

227 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:29:13.42 g5ZB1KKd0 175/477

「あんた誰? わたしに何か用?」

 近づいてくる僕の姿に気付いたのか、少女が目を開いてこちらに視線を向けてくる。
というよりも、睨みつけてくると言った方が適切かもしれない。
歓迎されていないどころか敵意剥き出しなその眼差しは、噂がある程度の事実に基づいているだろうことを、何よりも雄弁に物語っていた。

「お前が松木茜、か?」
「気安く名前を呼ばないで。呪うわよ」
「呪いなんて使えるのか?」
「出来なくはないわ」
「けど名前呼ぶなって言われてもな。じゃあ何て呼べばいいんだ?」
「呼ぶ必要なんてないでしょ、今すぐ回れ右して消えて」

 取り付く島もないとはこのことか。
敵意に満ちた目には、一切の揺らぎもない。
名前を呼ぶ前に人を呼ばれそうな勢いだ。
けれど僕だって、それじゃあ仕方がないな、で引き下がるわけにはいかない事情がある。

228 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:33:41.72 g5ZB1KKd0 176/477

「少し聞きたいことがあるんだよ、それだけ確認すればすぐに帰るさ」
「鬱陶しいわね、本当に。今日は厄日かしら、呼んでもないのに次から次へと全く……」
「それだよ、僕の前に来客があったんだな、ジャージ着てる長身の女子中学生」
「何? あんたあいつの関係者? それなら丁度いいわ」

 そこでようやく視線が和らいだ。ほんの少しだけ。
決して警戒を解いたわけではなく、ただ話をする為に睨むのを止めただけで、その声に滲む敵意はなお変わらず。
正直やり辛いんだけど、とりあえず会話が成立するのであれば、今はそれで良しとすべきかもしれない。

「丁度いいって何だよ」
「二度と来るなって言っといて。顔見るだけでむかつくのよ。昨日あんだけ言ってやったのに、今日も学校さぼってわたしを探してたみたいだし、ホントいい迷惑」
「随分な言い方だな、あいつが何か変なことでも言ったのか?」
「優等生的な素敵発言を山ほどね。虫唾が走るわ」
「あー、まあ大体想像はつくな」
「噂を聞きつけてお説教しに来る偽善者は今までもいたけど、あいつの暑苦しさは段違いだわ。どうしてくれようかと考えていた所よ」

229 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:41:10.06 g5ZB1KKd0 177/477

 視線のみならず、声にも表情にも、はっきりと苛立ちの色が浮かんでいた。
その姿に、その言葉に、また不安をかきたてられてしまう。
ふと神原や千石の言っていた事が脳裏を過ぎる。

「不幸になるって話か」
「あら、知ってたの? なら話が早いわ。あんたもさっさとわたしの視界から消えなさい。不幸になりたいんなら別だけど」
「不幸になりに来たわけじゃないな、不幸になるのを止めには来たけど」
「それならさっさとあいつを説得することね、二度とわたしの所に来ないように。全く、自分の女の首根っこくらいしっかり捕まえときなさいよ、見た目通りに冴えない男ね」
「好き放題言いやがって。つーか、あいつは僕の妹だ」

 顔見れば分かるだろう、初対面でも大抵の人に血縁関係を看破されるぞ、僕達は。
とも思ったが、あるいはそもそもこの子は僕達の顔なんて碌に見ていないのかもしれない。
死ぬほど興味が無さそうだし。あるいはいっそ死ねとさえ思ってる可能性も否定できないくらいだ。

「何だ、随分小さい兄貴ね。中学生にしては老けてると思ったけど、まさかそのなりで高校生以上だなんて」
「身長のことは言うな」
「別にどうでもいいわ。とにかく用は終わったでしょう。さっさと消えなさいよ」

230 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:46:50.25 g5ZB1KKd0 178/477

 終いにはしっしっと手で追い払うような仕草をする始末。
話は終わったとばかりに、既にその目は僕の方に向けられてすらいない。
年上を敬えとか言うつもりはないけど、それでも初対面の人間に対してそこまでするか?

「あいつと話はするよ、帰ってから。その前にもう一つ聞いておきたいことがあるんだけど」
「そう、でもわたしにはあんたと話すことなんて何もないわ」
「何でわざわざ自分から敵を作るような発言をするんだ?」
「あんた、人の話聞いてた?」
「聞いてるよ。で、何でだ?」
「……あんたに答えてやる理由なんてないでしょ、それを教えたからってどうなるっていうの?」
「いや、何か手助けできることがあるかもしれないって思って」
「ふん、何だ、あんたも妹と同じタイプなのね。揃いも揃って鬱陶しい」

 再び僕を睨んでくるその視線には、これまで以上に強い敵意が込められていた。
いっそ憎しみすら想起させるほどの強い眼差し。

231 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:50:37.15 g5ZB1KKd0 179/477

「正義の味方なんてお呼びじゃないわ、そんなのわたしにとっては敵と同じよ」
「敵って」

 吐き捨てるように言い切られて、言葉を失う。
正義の味方という言葉を幼稚と捉えたが故の反駁――ではなく。
善良であることに羞恥と抵抗を感じがちな思春期故の反発――でもなく。
それは、ただただ憎々しげで刺々しい、敵意と害意と悪意に満ち満ちた、少女の純粋な主張だった。
決して悪を自認しているというわけではなく、けれど正義は自分の味方をしないと、そう確信しているような言い様。

「わたしの味方じゃないならそんなのいらない。そもそも誰が助けてくれなんて言ったのよ。いい顔したいだけの偽善者が、わたしに関わってこないで」
「いやだからちょっと人の話を――」
「お前様よ」

 と、影から伝わってくる忍の声。
目の前の少女の視線は、しかし向かう方向もそこに乗せている感情も変わってはいなかった。
どうやらこの声は、僕にしか聞こえないように調整されているらしい。

232 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:54:20.73 g5ZB1KKd0 180/477

「何も喋らんでいい、そのまま聞け。詳しい事は後で話すが、今はとにかくここを離れよ、これ以上この小娘の傍におるべきではない」
「何? 急に固まっちゃって。気持ち悪いわね」

 怪訝そうな少女の声は、ほとんど耳を素通りしていた。
忍からの忠言――いや警告か、とにかくその言葉が、頭の中をぐるぐる回っているせいだ。
こんなタイミングで口出ししてくるということは、掛け値無しに本物だったということか。
この子の嘘でもはったりでもなく、紛れもない怪異の絡む事象。
だから一旦戻れと。この場は引き下がれと。

 だけど、もし忍の言う通りだとすれば、尚更この子を放置していいはずがない。
火憐は昨日も、そして今日もここに来ていたのだ。
そして間違いなく、明日も来ようとするだろう。
この子の元に。怪異の傍に。危険の中に。
それが明白である以上、それこそ何としても今日中に解決しなければならないんじゃないのか?

233 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/11 23:58:40.23 g5ZB1KKd0 181/477

「詳しくは後で話すと言うたじゃろう、黙って言う事を聞かんか。そも、これ以上ここにおってお前様に何ができる? とにかく出直しじゃ」

 僕の心中に伝わる忍の声に、焦りと苛立ちが混じる。
それはそのまま、現状の危険度の高さというか余裕度の無さというか、そういうのを示しているのだろう。
実際、今のこの状況では僕にできることは何もないし、確かにこれ以上粘っても、きっとこの子の態度を更に硬化させるだけだとも思う。
であれば忍の言うように、ここはひとまず引き下がるしかないのかもしれない。

「分かったよ、今日はこのまま帰る」
「二度と来ない、という言葉も付け加えてもらえないかしら」

 辛辣な言い様だった。
まあ歓迎されるとは思ってないけど、それにしたって容赦がないというか。
次に会った時、普通に会話できる気が全くしない。
でも、だからと言って諦めるわけにはいかないのだ。

234 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/12 00:02:42.05 jPP5u08T0 182/477

「それは約束できないな、病院に担ぎ込まれることだってあるかもしれないだろ」
「そうならないようにすることね」

 そんな味もそっけもない別れの言葉を頂戴しつつ、踵を返して出口へと足を向ける。
当然と言おうか、その僕の背には、もう何の視線も言葉も向けられることはなかった。
ちらりと振り返ってみると、もう完全に僕の事は意識の外らしく、何か考え事をしているような表情が目に映る。
何かを考えているような、あるいは何かを願っているかのような。
その姿に、何とも言えない不安を覚える――が、今の僕にできることなんて何もなく。
正に後ろ髪を引かれるような思いで、その場を後にするしかなかった。
そのまま廊下を歩き、出口を出て、自転車の方へと向かおうとしたところで。

「お前様! 止まれ!」

 忍の影からの声に、浮きかけたその足を止める。
言葉に従ったわけではなく、それはもうただの反射だった。

235 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/12 00:07:30.38 jPP5u08T0 183/477

 そこで、僕が忍に何事かと聞き返そうとするのと。
止まった足を改めて踏み出そうとするのと。
そして正にその足のほんの少し先へ重そうな植木鉢が落下してきたのと。
それらはほとんど同時だった。

「な……!」
「危ない所じゃったの、お前様よ」

 落下した植木鉢が粉々に砕ける重々しい音に、一瞬体がびくりと震えた。
突然の出来事に思わず硬直してしまったところで、忍に声をかけられて我に返る。
眼前には、広範囲にぶちまけられた植木鉢の破片と大量の土。
かなり上の階から落下してきたのだろう。

 危なかった――もし忍が声をかけてくれていなかったら、きっと思いっきり頭に直撃していたはずだ。
もちろんこれくらいで死ぬとは思えないけれど、無事で済むとも限らないし、こんな公共の場で再生なんてしたら、それこそ誰に見られるか分かったものじゃない。
改めて肝が冷える思いがした。

236 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/12 00:13:15.94 jPP5u08T0 184/477

「忍、これ、まさかあの子の仕業か?」
「直接的には否じゃ。が、間接的には是と答えざるを得ん」

 そりゃまあついさっきまで中庭にいた子が、幾らゆっくり歩いていたとはいえ、僕が病院を出るより早く上階まで駆け上がって、重い植木鉢をここまでタイミングよく落下させることなんてできないだろう。それは分かる。
しかし間接的にっていうのは一体どういう意味なんだ?

「それも含めて後で話してやるわ。それよりさっさとこの場を離れた方が良かろう。お前様も病院で騒ぎを起こしたくはあるまい。近くには誰もおらんようじゃし」
「このまま放置していくのはちょっと抵抗あるけど、でも確かに変な疑惑を持たれても困るしな」

 幸か不幸か、周りに他の人はいないようなので、ここは退散するのがいいだろう。
このままここにいても何が起こるか分からないし、それに人が集まってきたら、それこそ僕が病院で暴れているみたいなレッテルを貼られかねない。
なので、心の中でごめんなさいと唱えつつ、足早に病院を後にした。

243 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:23:09.27 GEdRxIvx0 185/477

 011.

「悪魔じゃよ」

 忍を前籠に乗せ、病院を後にして、ゆっくりと自転車を漕ぎながらの帰り道。
夕暮れの中を家に向かいつつ、改めて忍に説明を求めた。
幸いこの時間ならば人通りもほとんどなく、僕らが不審に思われるようなことは、まあまずないだろうと思う。
それよりも、今は事態の説明をしてもらうことが最優先なのだ。
家に帰り着くまでなんて待っていられない。
そんな僕に対して、忍は先の言葉で返してきた。

「悪魔?」
「うむ。彼の病弱娘には悪魔が憑いておる」
「マジでか」
「マジでじゃ」

244 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:25:49.04 GEdRxIvx0 186/477

 悪魔。
言葉としてはさして珍しくもないものだが、現象としては大抵の人には全く馴染みのない存在。
しかし残念ながら、僕は、いや僕達はそうではなかった。
神原の身に起きた出来事は、決してまだ過去と言えるような状態にはなく、その意味では正しく現在進行形で関わっていると言うべきかもしれない。

「もっとも猿の小娘の時とはまた様相がかなり違うようじゃが」
「まあそりゃ悪魔って一口に言っても、いろんなのがいるんだろうけどさ」

 僕達が関わったあの悪魔――レイニーデビルも、その中の一種に過ぎない。
単に僕が知らないだけで、それこそ数えきれないくらいいることだろう。
それにしても、まさか悪魔とは予想外だった。
こうなってくると、神原がこの話をいち早く聞かせてくれたのは改めて僥倖だったと言うほかないな。
あいつもまさかここまでの事態を予想していたとは思わないけど、それでも今回の事態に悪魔が絡んでいるとなると、その直感の鋭さには舌を巻かずにおれない。
というか、もしかしたら皆の中で実はあいつの感知能力が一番凄いのかも。

245 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:29:13.32 GEdRxIvx0 187/477

「彼の病弱娘、名を何と言うたか?」
「松木茜、だったな」

 悪魔憑き――暗喩を覚えたのはただの錯覚か、あるいはただの偶然か。
名前を確認したところから、忍も同じ感想を持ったんだろうけれど。

「ときにお前様よ、花言葉は知っておるか?」
「馬鹿にすんな、花言葉くらい知ってるよ」
「では、茜の花言葉は?」
「え? 茜って花なの? 色じゃなくて?」
「やはり馬鹿じゃな。この知ったかぶりが」
「仕方ないだろ、普通の男子高校生は花の名前とかいちいち覚えてねえよ。ちくちく僕を馬鹿にすんな」
「こんなもん基礎知識じゃろうが。アカネ科の多年草じゃよ。その根で染めた色を茜色というわけで、どちらかというと色の方が後付けになる」
「へー、そうなのか。それでその花言葉って何なんだ?」
「誹謗、中傷、不信――といったところじゃな」
「何だよそれ。ひどい意味だな。普通花言葉ってもうちょっとロマンチックというか綺麗な意味のものなんじゃないのか?」
「戯けが。別に花言葉はロマンチストの為のものではないわ」
「まあその辺はどうでもいいとして。でも成程、言われてみれば姓名が出来過ぎなくらいに現状を示してるな」

246 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:32:07.52 GEdRxIvx0 188/477

 魔が憑き、誹謗・中傷を浴び、あるいは浴びせ、不信に陥る、か。
そんなわけもないだろうけれど、ここまでくると作為的にすら感じてしまうな。

「まあ当然それを見越しての名であるわけもないし、またその姓名故にああなったわけでもない。名前で怪異が憑くなら一億総怪異憑きになっておるわ」
「だよな。普通なら」
「うむ、こんなものは所詮は偶然やこじつけに過ぎん。けれど同時に、それが怪異を為す一要素となっておることもまた否定はできんが」

 名前だけでそうなった訳ではもちろんないけれど、しかし怪異を呼び寄せる一要素、一因にはなっている可能性があるということか。
けれど既に事態が起こってしまった以上、それは今考えるべき事ではない。
重要なのは、現実に怪異が憑いた、その経緯の方だ。

247 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:35:23.04 GEdRxIvx0 189/477

「元々病弱って言ってたし、もしかしたら戦場ヶ原の家庭と似たようなことがあったのかもしれないな」
「そうじゃな、病弱娘の関わっておる悪魔の状況もあるしの」
「状況? つーか悪魔って言ったよな、そもそもあの子に憑いてるのってどんな悪魔なんだ? 神原の時とは全然違うんだろ?」
「勿論じゃ。ちゅーかかなり珍しい状況と言ってもいい。実際のところは、病弱娘に悪魔が憑いておるというよりも、病弱娘が悪魔を所有しておるという方が近い」
「何だそれ、使い魔とかそういうのか?」
「それなら使役と言うわい。所有と言うたじゃろう。病弱娘が身に着けておる何かの装飾品に悪魔が封じられておるようじゃ。あるいは、悪魔の封じられた装飾品を病弱娘が身に着けておる、という方が適切か」
「封じられてる?」
「うむ。悪魔が死ねばその心の臓が宝石となって残るという逸話もあるが、まあそれに程近い状態じゃ」
「悪魔が封じられてるって、まさかあの子が悪魔退治をやったってことか?」
「それはなかろう。彼奴には何の力も感じぬしな。実際やったのは別の者と思うぞ。力を持った人間にやられたか、あるいは別の上位の悪魔にやられたか、といったところじゃろ。その後に何があったかは分からんが、いずれにせよ怪異譚として語るならば既に終わっておる筈の話なんじゃがな」
「文字通り往生際が悪かったわけだな。で、その封じられてる悪魔ってどんなやつなのかは分かるのか?」
「そこまでは分からん。何しろ封じられてしもうとるからのう。まあそんな状態で未だ永らえておるところから察するに、それなりに力を持った存在ではあったろうが、しかしこの様では元が何だったのかなぞ想像もつかんわ」

 肩を竦めつつ忍が言う。
その辺りが分かれば、何かのヒントになるかもしれないと思ったんだけど。
まあ分からないなら仕方ないか。

248 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:39:04.21 GEdRxIvx0 190/477

「しかし悪魔を宿した宝石とか、何ともぞっとしない話だな、全く」
「別段珍しいことでもないぞ。悪魔とまではいかずとも、呪いの宝石の話となれば枚挙に暇はない。今回の石もその一例に過ぎんよ」

 忍はそんな僕の感想に対して事もなげに返してくる。
確かに呪いの宝石なんて割とよく聞く話ではある。実際に見たことまではないけれど。
有名どころだと、ホープダイヤモンドとかは宝飾関係に疎い僕でも耳にしたことがあるし。

「でもさ、封じられてるんなら問題ないんじゃないのか? 言い方は悪いけど死に損ないみたいなもんなんだろ、それが何で今こんな問題を起こしてんだよ」
「悪魔単体ならそうじゃな。誰の手にも触れず放っておかれれば、いずれ消え去っておったはずじゃ。問題は今それが人の手に渡っておることにある」
「どういうことだ?」
「宝石の悪魔が未だ永らえておるのは、精気を得ておるからに他ならん。あの病弱娘からな。恐らく願いを叶える代償として、彼の悪魔は精気を奪っておるんじゃろう」
「魂を奪う契約ってことか?」
「いや、もっと切実じゃよ。例えば餓死寸前の人間なら、数多の財宝よりも僅かの食糧に飛びつくじゃろ。彼の悪魔も同じじゃ。追い詰められて切羽詰まって形振り構わず病弱娘に取り憑いたんじゃ。僅かの精気を渇望してな。あるいは寄生という方が的確かもしれんが」
「無茶苦茶だな」
「死に瀕すれば、何者とて足掻くものじゃろう。出来得る限り。それがたとえどれ程みっともなかろうともな」

249 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:42:31.08 GEdRxIvx0 191/477

 少し遠い目をする忍。
その目に、その心に、去来するものは春の頃の記憶だろうか。
僕もまた、夏休み前のあの日を少し想った。
僅かな沈黙があったが、気を取り直して再度会話の口火を切ることにする。

「まあ状況はさておき、願いを叶えるっていうのが問題だよな。どうもいいイメージないんだけど。具体的に何が起こってるんだ?」
「そうじゃのう。端的に言ってしまえば、病弱娘が何事かを願い、それに即した形で悪魔が術を行使する、といったところか。両者の間でどんなやり取りが為されておるかまでは分からんが」
「そうか。じゃあその術っていうのが何なのかは分かるか?」
「うむ。恐らく彼の悪魔は『移動』の術式を使っておる」
「移動?」
「割と知られた術じゃよ。人をどこかに移す、物をどこかに隠す、気移り、心変わり、もちろん自身の移動も含め、そうした術を使える悪魔は少なくない」

 例えば、財宝を管理する為に随時その場所を変えるもの。人や物を一瞬で別の場所に移してしまうもの。記憶や心を何処かへやってしまうもの――等々、指折り数えつつ忍が言う。
しかし成程、確かに思えば神隠しとかもそういう現象だし、天狗の逸話でも似たようなのを聞いたことがあるな。

250 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:46:12.94 GEdRxIvx0 192/477

「でもさ忍、その移動の術が『自分に近づく人間を不幸にする』っていう話とどう繋がるんだよ」
「移動の対象は物質に限らん。概念や感情、感覚のようなものまで含まれる。運気、巡合が対象となれば、不幸に見舞われることもあろう。さっきお前様の頭上に植木鉢が降ってきたじゃろ、あれもそうじゃ。お前様の運気がどこかへ追いやられ、不運になったが故に遭遇した事故じゃよ、あれは」
「それじゃ結構やばいんじゃないのか? 今までも結構な数の人が不幸事に巻き込まれてるって話だし、つまりそれだけ術が使われてるってわけだろ? あの子の身体は大丈夫なのか? 体質が弱い上に更に精気を奪われるって相当危ない気がするんだけど」
「いや、先々までは分からんが、当面その心配はいらんと思うぞ」
「何で分かるんだ?」
「然程強力な術でもないからじゃ。そも、自身に近寄ってくる人間のみを対象にその運気を余所へやる、という程度の規模であれば、そう大きな影響はあるまい。さっき見た限りでも然程に精気を削られてはおらんかったし」
「でもそれだけじゃ安心とは……」
「無論安泰とは言えんよ。しかし悪魔の方でも病弱娘が存命の方が都合は良いはずじゃからな。何せ死なれてしまえばそれで終いじゃ。少なくとも次の宿主が見つかるまでは、命を危険に晒すことの無いように留意するとは思うが」
「じゃあ、とりあえず今すぐどうこうなることはないって考えていいのか」
「あくまで現状維持のままならばな。病弱娘が欲を出したり、あるいは何かの事情で範囲や規模を大きくし始めたら危険じゃぞ。それがそのまま奪われる精気の量に直結するのじゃから」

 ぎろりと、まるで警告するように忍が睨んでくる。
事実それは僕に注意を促すものだったのだろう。
まあ改めて言われるまでも無く、それは僕も考えていたことだ。

251 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:50:07.38 GEdRxIvx0 193/477

「しかしそうなると僕も迂闊には近づけないな」
「近づくことそれ自体が迂闊というんじゃ。変に刺激してみい、何をやらかすか分かったものではないぞ。それこそ不幸どころかもっと性質の悪いことにもなりかねん」
「それは分かるけどさ、でもだからって手をこまねいてもいられないだろ。まさかこのまま放っておいたら悪魔が解決してくれるってわけでもあるまいに」
「当たり前じゃ。お前様も知っての通り、悪魔というものは人の願いを叶える為の存在などではない。あくまでも人から何かを奪う事を目的として、仮初の願いを実現させておるに過ぎん。いずれ所有しておること自体が間違いなんじゃ。今のままでも事態は悪化の一途を辿る。それが速いか遅いかの違いはあるにせよ」
「接近も放置も安易にはできない、か。難しいな――まあどうするかは後で考えよう。それで今実際に不幸事に巻き込まれてる人を助ける方法はあるのか?」
「そうじゃな。簡単なのは病弱娘に近づかんようにすることじゃ。元より運気やら巡合やら感情といったものは絶えず移ろうものじゃからな。病弱娘が自分に近づく者しか標的にしとらん以上、たとえ一時的にどこかへ追いやられようとも、距離をとり時間を置けば、やがてはあるべき形に戻ろう。まあ数日もあればな」
「それでも数日かかるのか。なあ、何か他の手段はないのか? もっとすぐに解決できるようなさ。例えばその宝石をぶっ壊したりとかしたらどうだ?」
「かかか、相変わらずお前様は妹御が絡むと荒っぽくなるのう。まあ他の手段もなくはない。病弱娘に宝石を手放させることができれば、それが最良じゃ」
「宝石を手放させる、か」
「もっとも今日の様子から判断するに、そう易々とは行きそうにないがの」

 改めて今日のやり取りを思い返してみる。
向けられる視線には悪意と敵意しかなく、悪魔の力による災禍へ僕を叩き込むことに、まるで抵抗を感じている様子はなかった。
あれじゃあ僕の説得なんてとてもじゃないけど聞く耳を持ってもらえるとは思えない。
それどころか、余計に意地になったりとか僕への害意が増えるのみとか、そういう風に事態が悪化する可能性の方が余程高そうだ。

252 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:54:53.83 GEdRxIvx0 194/477

「参ったな――最悪、力尽くで奪うしかないか。そういうことはしたくないけど」
「いや、したいしたくない以前にそれは無意味じゃよ。物理的な距離を取ればいいという話ではない。病弱娘が自らの意思で放棄せねばならんのじゃ。精神的に悪魔と決別できねば、死ぬまで離れることはできんよ。どうあれ彼奴は願ってしまっておるからのう」
「マジか。じゃあ例えば、僕がその宝石を奪ったとしても――」
「すぐに持ち主の元に戻るじゃろうな。壊すよりも先に。病弱娘諸共潰すのであれば別かもしれんが、それは出来んじゃろ。どうあれ彼奴が望み、願い、阿ればこそ悪魔はそこにおるんじゃ。他人にはどうすることもできん。そんなことをしても、お前様が女子中学生に狼藉を働いたという結果が残るのみじゃよ」
「最悪だな」
「そしてお前様はとっ捕まって、晴れて公に性犯罪者の仲間入りをすることになるじゃろうな」
「最低だな!」

 その後付けははっきりと要らないだろう。
というか宝石を奪う際に、僕が何をすると思ってやがる。
人をセクハラの常習犯みたいに言いやがって。

253 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 00:57:39.34 GEdRxIvx0 195/477

「いや、お前様が女子中学生を前にして理性を保てるとは思えんし」
「そろそろお前の中の僕への認識について徹底的に矯正する必要がありそうだな。女子中学生なら誰でもいいとか、どこの変態だよ。僕があの子に欲情するとか、はっ、そんなの絶対あり得ないね」
「疑わしいのう。その自信はどこからくるんじゃ。ちゅーかそれは余りに自分を過大評価しておらんか?」
「してねえよ。あんなに敵視されて興奮なんてするか。むしろ冷静になるわ。大体じゃれ合う相手なら八九寺と妹達で間に合ってんだよ、僕は」
「ハチクジとじゃれ合うのは、恐らく女子中学生とじゃれ合うよりも更に犯罪的じゃと思うぞ」

 半眼で見てくる忍。
いい突っ込みじゃないか。返す言葉もねえよ。
まあこんな下らない話をしている場合じゃないのだ。
そろそろ真面目な話に戻るとしよう。

254 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 01:03:02.24 GEdRxIvx0 196/477

「何にしても、結局は正攻法で説得するしかないってことだな」
「そうなるのう。言うてもお前様にそれは難しかろうが」
「まあ確かにあの子が僕に心を開いてくれるかどうかとなると、ちょっと難しいかもしれないけど」
「いや、その前にお前様が心を閉ざす結果になるかもしれんなと」
「何されるんだよ僕!」
「何をされるというか、まあお前様があの病弱娘を説き伏せようとしておるところなぞ、傍目には不良がか弱い婦女子をひっかけておるようにしか見えんじゃろうからな。やっぱり通報されるのが落ちじゃろ」
「そんな落ちは断じて着けない!」
「着けるのは儂でもお前様でもなかろう。故にこれは避けられんと思うぞ」

 真面目な話に戻ったのに、どうしても忍は僕にとっ捕まってほしいらしい。甚だしく遺憾に思う。
けれどまあ、その懸念を否定しきれないのも事実ではある。
何しろ今の今まで何の面識もなかったってだけでもハードルが高いのに、かてて加えて対象たる少女――松木茜は、周囲の人間全てに対して明白な拒絶と敵意を示しているような状況なのだ。
幾ら僕が紳士だと言っても、その壁を取り払うのは容易ではないし、不用意に近づいてちょっかいをかければ通報されかねないというのは一理ある話だ。

255 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 01:08:19.13 GEdRxIvx0 197/477

「もう一つ、注意しておくことがある」
「まだあるのか、何だよ?」
「人や物を移動させられても、一目見ればすぐに分かる。しかし概念やら感情やら感覚やらが移ろうても、傍から見れば違いなぞ分からん」
「そういう術をかけられても気付くことができないってことか」
「如何にも。儂のように怪異そのものという存在ならともかく、これは人の身ではどうにもならん。もちろんお前様の吸血鬼度を極端に上げればその限りではなかろうが、そういうわけにもいかんしな」
「そりゃまあ日常生活に支障が出るのは論外だし、吸血鬼度を過剰に上げるってのは現実的じゃないな」
「であれば、お前様には悪魔の術を回避する手立てはないということになる。ましてや悪魔の術は無意識に作用するものじゃからな、術にかかっていると気付くことすらできんじゃろう。肝に銘じておれ」

 僕を睨むようにしながらの忍の警告。
その論に従うならば、やはり松木を刺激しないというのは絶対条件になるだろう。
下手に近づいて僕が標的にされることのないようにしないと、と改めて気を引き締める。

 とにかく僕がまず優先すべきは、彼女をどうやって説得するか考えることではなく、彼女が何を望んでいるのかを知ることだ。
そこが分かれば、そしてそれを解決することができれば、悪魔に頼るようなこともなくなるだろう。
と、ここでふと疑問が浮かぶ。

256 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 01:14:29.07 GEdRxIvx0 198/477

「なあ忍、その悪魔って精気を奪ってはいるけど、一応は松木の願いに添って術を使ってるんだよな? もちろん良い意味ではないにしてもさ」
「うむ。まあ形の上ではな」
「なのに病気が治ってないってことは、あいつは自分の身体が治ることを望んでないのか?」

 周囲を不幸にするという問題は起こっているのに、松木の身体は今もなお生まれつきの虚弱体質や持病を抱えたままだった。
ということは、悪魔に自身の回復を願っていないということになり、それがどうにも不自然に思えるのだ。
むしろそれを一番最初に願うのが自然ではないだろうか。

「至極もっともな疑問じゃな」
「まさか本当に治りたくないって思ってんのかな?」
「その可能性は低いと思うが――しかし今は病状も安定しとるという話じゃしな。あるいはそれで別の願いが優先されとるだけかもしれんぞ」
「病気の治癒より周りの人間の不幸を願う事が優先か――いやでも悪魔のやることだし、それが本当の願いだとは限らないよな」

 そう、神原の時のように。
結果として願いが叶った形になっているだけで、彼女が望んだ事態にはなっていないという可能性もあるだろう。
実際に松木が何を一番に願っているのかは、全然想像もつかないけれど。
しかし病気の治癒か――アプローチとしては、ありかもしれないな。

257 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 01:21:48.95 GEdRxIvx0 199/477

「ちなみに忍さ、お前なら――吸血鬼の血なら、松木の身体を治してやれたりとかしないか?」
「ん? 何じゃい、儂に人間の治療をせいと言うのか? 怪異の王たるこの儂に」
「いや、もちろん無理にとは言わないけど、念の為の確認だよ。吸血鬼の血なら治せるのかどうかって」
「ふん、可能ならお前様がやるつもりなんじゃろ、結局」
「そうだけど」
「まあお前様がやる分には好きにして構わんが――しかし残念ながらそれは無理な注文じゃよ。吸血鬼の治癒能力の本質はあくまでも原状回帰じゃからな。体質改善やら体質強化やらはできん。彼奴の本来あるべき状態が然様に虚弱なものであるのならば、儂らに今更できることは何もないぞ」
「そうか、それじゃあ諦めるしかないな。でもそうなると、どうやってアプローチすればいいんだか……」
「正直なところを言わせてもらえば、距離をとって近づかんようにしてほしいがのう。少なくとも解決の糸口が見えるまでは」
「それができれば苦労はしないよ」

 正確には、火憐にそれをさせられれば、だけど。
仮に僕や忍が松木にノータッチでいようとしても、火憐はきっと止まらない。
今日彼女の所に来ていたように、明日もそうするだろう。
たとえその結果、自分の身に不幸が舞い込んでくることになろうとも、躊躇うことなく。

258 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/15 01:25:15.05 GEdRxIvx0 200/477

「ならばまずはターゲットを妹御の方に変えるべきじゃな。そも、既に関わりが生まれてしまっておるんじゃ、妹御を放置するのは如何にも不味い。深みに嵌れば抜け出せなくなるぞ」
「そうだな、まずは火憐ちゃんを止めるのが最優先だな」

 松木の問題については、何しろ情報が少な過ぎる。
僕に何ができるか考えるのは、とにかくもっと情報を集めて本当の望みに当たりをつけてからだろう。
何よりもまず僕がしなければならないのは、火憐の安全の確保なのだから。
まずはあいつと膝を突き合わせて話をすることにしよう。

「ベッドで抱き合って話をする、の間違いではないのか?」
「その可能性は否定しない」
「いやそこは否定せいよ。話が続かんではないか」
「僕はお前に嘘を吐きたくないんだ」
「なお悪いわ」

 そんなやり取りをしながら。
火憐をどう説得するかを考えながら。
逸る気持ちを抑えつつ、僕達は家路を急いだ。
まさか家に帰り着いた時に、そんな算段が全て吹っ飛ぶことになってしまうとは夢にも思わず。

264 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:01:31.74 hestCFaO0 201/477

 012.

 何の前触れもなかった。
事態を連想させる、何らの兆候も気配もなかったはずだ。
しかし僕が家に帰り着いた時、既に事態は決定的に動いてしまっていた。
月火から何の連絡もなかったということは、しかし無事の知らせを示すものでもなかったということらしい。

「何だ何だ?」

 玄関を開けたその瞬間に、家の中が只ならぬ空気というか異様な雰囲気に満ち満ちていることを肌で実感した。
何よりも、耳に遠く響く怒声が。
聞き慣れたはずの二人の妹達の、しかし聞いたことのない罵り合うようなやり取りが。
今の状況が如何に尋常ならざるものなのかを、僕に嫌と言うほど思い知らせてくれていた。

 まず自分の耳を疑い、次いで自分の頭を疑い、そこでようやく何より先に行動を起こさなければならないということに思い至った。
それ程までに混乱していたのだ。
罵り合う? 火憐と月火が? あのべったりねっとりのファイヤーシスターズが? いつも一緒で、それこそ比翼の鳥かってくらいに(同性だけど)仲良しこよしなあの二人がか?
自分の正気を、世の常識を疑いたくなるくらいに、それは異質で不自然で非現実的な、まさしく非常に非情な異常事態だった。

265 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:05:53.88 hestCFaO0 202/477

「何だよ! 月火ちゃんの臆病者! 根性無し!」
「何さ! 火憐ちゃんの馬鹿! 分からず屋!」

 靴を脱ぐのももどかしく、一度ならず転びそうになりながら、それでも急いで玄関から廊下を抜けてリビングの扉を開けると、部屋の中央で火憐と月火が睨み合っているという信じ難い光景が視界に飛び込んできた。
互いが親の仇を見るような目で。
共にその拳を力強く握り締めたまま。
ともすれば互いに噛みつかんばかりの勢いで。
ちょっとじゃれ合うような、たまにあるそんなやり取りなんかではなく、本気も本気な喧嘩腰。

 見下ろす火憐の視線は炎のように熱く。
見上げる月火の視線は刃のように鋭く。
引く姿勢など僅かさえ見られず。
思わず声をかけることすら躊躇してしまう程に、まさしく火花散るやり取り。
現状手が出ていないのが、不謹慎にも不思議に思えてしまうくらいだ。
僕が帰ってきたことにも気付かないのか、吐き出す言葉は益々ヒートアップしていく。

266 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:08:10.45 hestCFaO0 203/477

「困ってるやつを助けてやるのが正義だろ! その心を忘れたってのかよ! 何時からそんな腑抜けちまったんだ!?」
「だからって皆に心配かけてどうすんのって言ってるじゃない! 何で分かんないのよ! そんなのでよく正義とか口にできるね! 優先順位も分からなくなるくらい馬鹿になっちゃったの!?」
「何言ってやがる! 人を助けるのに順位なんかつけんな!」
「つけるに決まってるでしょ! 当たり前の事じゃない! 周りの人達を困らせてまでするのは、もう正義でも人助けでもないよ!」
「ちょっ、ちょっと待ったちょっと待った! おい待てストップ! そこまでだ!」

 眼光鋭く睨み合いながら続くやり取りを見せつけられて、やっと気を取り直す。
じっとしてなんていられるわけもなく、とにかく割って入ってみたけれど。

「兄ちゃんは引っ込んでろ!」
「お兄ちゃんは黙ってて!」

 一蹴だった。
あぁでも、一応僕の声は聞こえているらしい。
周りが見えなくなる程に熱くなっているようにも見えたんだけど――じゃなくて!

267 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:11:43.19 hestCFaO0 204/477

「引っ込んでも黙ってもいられるか! 何だよお前達、何で喧嘩してんだよ、とにかくまず落ち着いてだな……」
「これが落ち着いてなんていられるかよ! 月火ちゃんがこんなに薄情な臆病者だなんて知らなかったぜ!」
「それを言うなら火憐ちゃんの方じゃない! ふんだ、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、まさかここまでひどかったなんてね。脳みそ何処に置いてきちゃったのよ」
「何を! 言わせておけば!」
「何よ! 私一つも間違ったこと言ってないじゃない!」
「だから止めろって!」

 火憐が月火に、月火が火憐に。
今度こそ本当に互いが互いに掴みかかろうとしたので、咄嗟に自分の身を二人の間に割り込ませることでその激突を止める。
おかげで二人の身体が僕にぶつかるわ、行き場を失くした二人の手が僕の両腕に食い込むわで散々だ。
というか、二人の爪が皮膚にかなり食い込んでて結構痛い。お前ら力入り過ぎだろう。
でもそれ以上に、この状況はすなわち、今僕が止めなかったら二人は本当に本気で取っ組み合いを始めていたことを意味しているわけで。
物理的以上に、精神的にショックを受けずにはおれない。

268 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:15:00.61 hestCFaO0 205/477

「兄ちゃん止めんなよ! この薄情者は一度引っ叩いてやんないと分かんねーんだ! 邪魔するんなら兄ちゃんから殴るぞ!」
「今度はお兄ちゃんに八つ当たり? なっさけない! 正義の体現が聞いて呆れるよ。人に迷惑かけて、友達に心配かけて、お兄ちゃんを困らせて、そんな様で正義を名乗ってよく恥ずかしくないね」
「このやろ! 黙って聞いてりゃ偉そうに!」
「何よ! そういうことは一度でも黙って素直に聞いてから言いなさいよ!」
「はん、聞きたくねーな、どうせまた適当言ってあたしをだまくらかすつもりだろ?」
「だまくらかす? 何それ、どういう意味? 本気で言ってんの?」
「どういう意味も何もねーだろ、いつもそうじゃねーか。凄んで見せれば黙ると思ったら大間違いだぜ、この口だけ女」
「力尽くでしか人を黙らせられない火憐ちゃんに比べたらずっとマシじゃん、この暴力女」
「この……やっぱ一発殴らなきゃ分かんねーみてーだな」
「ほらすぐに手を出そうとする。ホント野蛮だよね。言っとくけど黙って殴られるつもりなんてないから。きっちり返すよ、三倍で」

 僕を挟んで睨み合い、僕越しに罵り合う。
刺々しさは更に鋭く、苛立ちを超えて憎々しげに。
互いが互いの為に命をかけられる程に、想い合い通じ合っていたはずの二人が。
僕の目の前で、負の感情を、言葉を、互いにぶつけ合っている。

269 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:19:24.90 hestCFaO0 206/477

 これは何の悪夢なのか――信じられないし、信じたくない事態だった。
左右の眼に映る二人の姿が、左右の耳に届く二人の罵詈雑言が、遥か遠くの世界の出来事にすら思える。
こんなの見たくも聞きたくもなかった。
それでもこれは紛れも無く現実であり。
臆していても黙していても何も解決しない。どころか悪化の一途を辿るのが落ちだろう。
だとすれば、目を閉じるより、耳を塞ぐより、口を出した方が余程いい。

「おい、だから何の話なんだって。順を追って説明しろよ」
「兄ちゃんには関係ねー、これはあたし達の問題だ」
「お前達が喧嘩してるのに関係ないわけあるか、何があったんだよ一体」
「昨日お兄ちゃんとも話してたことだよ。結局火憐ちゃん、あれから一人で突っ走っちゃってたの。今日なんか学校サボってその子に会いに行ってたんだよ、信じらんない」
「信じられねえのはあの子のことを放っとけって言ってる月火ちゃんの方だぜ。困ってるやつがいるのに、それを無視しろとか。あり得ねえだろ」
「違うでしょ、動くのはもうちょっと様子を見てからにしようって言ってるの。何が起こってるのか分かんないけど、本当に危ない目に遭ってる人もいるんだから」
「じゃあ尚更放っとけねーだろ、何で分かんねーんだよ、そんなことで怖気ついてて正義の味方が務まるかってんだ」
「だから! そうじゃなくて皆が心配してるって言ってるでしょ! 火憐ちゃんこそ何で分かんないのよ。大体その子も関わらないでほしいって言ってるんだから、詳しい事が分かるまではそうしといた方がいいじゃない。変に刺激して余計に問題がこじれたらどうするつもりよ」
「じゃあ月火ちゃんはあの子を見捨てろっつーんだな!? 困ってるやつを見て見ぬふりして、自分達だけめでたしめでたしとか、そんなことできっか!」
「見捨てろなんて言ってないでしょ! ホントちゃんと人の話聞きなさいよ! 頭だけじゃなくて耳まで悪くなっちゃったの!?」
「待てって、だからお前らちょっと落ち着け!」

270 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:24:36.89 hestCFaO0 207/477

 またしてもヒートアップしそうだったので、割り込んで話を中断させる。
でもなるほど、このやり取りである程度事情が見えてきた。
問題はやっぱり、あの松木茜という女の子が引き起こした騒動にあるようだ。
月火は昨日僕と話した時に約束した通り、しばらく様子見という方針で。
だけど火憐はそれを良しとせず、単独で行動を開始していて。

 勿論これだけのことなら、然程に珍しい状況ではない。
意見の食い違いなんて、こいつらの間でも少なからずあることだ。
けれど、こんなに意見を対立させて、真っ向からぶつかるような事態となると、僕の記憶の中を探ってみてもほとんど見当たらない。
ましてやこんな派手な喧嘩にまで発展するなんて。

 いつもなら、こんな風に話がこじれるようなことはまずない。
大抵の場合、月火が火憐の方針に流されるか、火憐が月火の誘導に乗せられるかして、すぐに意見が一つにまとまるからだ。
元より火憐は、一度こうと決めたことは絶対に譲ろうとしないけれど、しかし火憐がこうと決めてしまえば、いつも月火の方が折れる。
何時ぞや自分で話していたように、月火の信じる正義は火憐のそれであり、また僕のそれであると、そう捉えているからだ。
(逆に火憐が何かを決める前ならば、月火が自分に都合の良い方向に話を持って行こうとしたりすることもあるけど)

271 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:29:22.57 hestCFaO0 208/477

 しかし今回は違う。決定的に、絶対的に、それこそ絶望的なまでに違ってしまっている。
なぜなら、今回ばかりは月火の方にも曲げられない理由――あるいは根拠があるからだ。
昨日僕と交わした約束が。自分の友人関係や神原といった他の人達の言葉が。
今、月火を後押ししている。

 こんな前提があってしまえば、話し合いで解決しないのも無理はない――何しろお互い譲歩する意思が全くないのだから。
そうして平行線のまま話を続けている内に、お互い頭に血が上ってしまい、ついには喧嘩にまでなってしまったということなのだろう。
間が悪いと言うべきなのか、運が悪いと言うべきなのか、あるいは性質が悪いと言うべきなのか。
例えば、昨日の内に火憐と話ができていれば。
いや、昨日でなくても、今日ここで月火とやり合うより先に火憐と話ができていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。

 しかし今はそんなことを悔んでいる場合ではない。
出来過ぎなくらい間の悪い状況に疑問を覚えている場合でもない。
とにかく、今は二人を止めるのが先決だ。

272 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:32:47.74 hestCFaO0 209/477

「事情は何となく分かったけどさ、何も喧嘩しなくてもいいじゃないか」
「言う事聞かない月火ちゃんが悪い」
「火憐ちゃんでしょ」
「だから止めろって」
「何だよ、兄ちゃんはどっちの味方なんだ?」
「お兄ちゃんも私達と同じだよ、火憐ちゃんを止める為に昨日だってずっと待ってたのに」
「兄ちゃんまで――」
「ちなみに神原さんって人もだよ。お兄ちゃんに火憐ちゃんを関わらせないようにしてほしいって言ってたんだって」
「……」

 僕と神原の名前を出されて、言葉を失う火憐。
唇を噛み締めるようにしながら、こちらを睨んでくる。
悔しそうな表情。
握り締めたその拳が、微かに震えていた。

273 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:38:19.69 hestCFaO0 210/477

「……何だよ皆して。そんなにあたしのやろうとしてることはおかしいのか? あの子を助けたいって思うのは間違いなのかよ?」
「間違いとは言わないし、おかしいとも言うつもりはないぞ」
「言ってんのと同じだろ。兄ちゃんまでそんなこと言うなんて幻滅だぜ。助けてやりたいとは思わねーのか?」
「思ってるけど、まだあの子の事情も何も全然分かってないだろ。下手に動いて問題をこじらせても不味いし、まずは落ち着くまでそっとしといてやった方がいいじゃないか」
「何だよそれ、結局兄ちゃんも腰が引けてんのかよ。そんなこと言ってる間に、知らない人が不幸事に巻き込まれたり、あの子が不幸になったりするかもしれないってのに」
「それで突っ込んでいったら、今度は火憐ちゃんが危ないかもしれないだろ。それは僕だって黙ってられないぞ。月火ちゃん達もその事を心配してるんだ。それを無視するのはちょっと違うんじゃないか?」
「もういいよ! 話してても埒があかねー。あたしは自分だけで動く。兄ちゃんの手も月火ちゃんの助けもいらない。二人で仲良く日和ってろ!」

 業を煮やしたのか、話を打ち切って身を翻す火憐。
悔しさを超えて怒りも露に。
放つ言葉にもそんな感情が強く滲んでいる。

274 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:41:30.26 hestCFaO0 211/477

「おい火憐ちゃん……」
「寝る! 部屋に入ってくんなよ!」

 吐き捨てるようにそう言い残すと、火憐はリビングの扉を乱暴に開け、どかどかと足音を響かせながら出て行った。
追いかけることも声をかけることもできず、僕はただ黙ったままその背中を見送ることしかできず。
程なくして、階段を上がる振動が響き、部屋を蹴り開ける音と叩きつけるように閉める音がして、ようやく静かになる。
そこで隣に視線を送ると、月火もまた怒りの表情そのままに二階の部屋辺りを見上げていた。

「もうっ! もうもうもうっ! 火憐ちゃんの馬鹿っ! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!」
「おい、聞こえるぞ」
「いいよ聞こえても! むしろ聞かせるよ! 拡声器どこ!?」
「ねえよ、そんなの。本当頼むからこれ以上喧嘩すんのは止めてくれよ」

275 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 00:50:04.02 hestCFaO0 212/477

 地団駄を踏む月火を何とかなだめつつ、僕も上へと目をやった。
全く、この二人の喧嘩なんて心臓に悪いにも程があるぞ。
それでなくても今回の問題には怪異が絡んでいる上に、解決策も未だに全然思いついていない状況で、更に問題が詰み上げられてしまうなんて。
本当に頭が痛くなってくる。それは僕だって文句の一つも言いたくなるというものだ。
もっともさっきのやり取りを顧みるに、今の火憐には何を言っても大人しく聞いてくれることはないだろうけれど。
散々詰られて殴られて終いになりそうですらある。

「とりあえず火憐ちゃんのことは一旦置いとけ。説得するにしろ何にしろ、まずはお互い頭を冷やさなきゃ駄目だろ」
「いいよもう! 火憐ちゃんのことなんか知らない!」
「お、おい、どこ行くんだ?」
「お風呂! ご飯は冷蔵庫にあるから勝手にチンして食べて!」

276 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 01:00:50.47 hestCFaO0 213/477

 まさしく憤懣遣る方ないといった表情で洗面所に向かう月火。
乱暴に扉を開け放ち、足で蹴りつけるように閉める。
僕の食事のことを覚えていてくれたのはありがたいけれど――あんなやり取りの後だけに、全然美味しく頂ける気がしないのが、心から残念でならない。
それでも食べないわけにもいかないし、と冷蔵庫にあった自分の分の夕食を取り出して席に着く。
しかしと言おうか、やはりと言おうか。
一人で食べること自体はさして珍しくもないし、用意されていた食事もいつも通り良い味だったのは間違いないのに。
作ってくれた月火には申し訳ないけれど、何とも味気無い食事だった。

 食事を終えて程なく。
身体の熱も頭の熱も未だ冷めやらぬ、といった感じの風呂上がりの月火と入れ替わりに、僕も浴室に向かう。
この日は何故か忍が影から出てくることはなく、これまた何とも味気ない入浴だった。
いや別に忍を味わったことなんてないんだけど。
何にしても、僕の意気は消沈するばかりで、浮上の気配は微塵もなかった。

277 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 01:06:57.62 hestCFaO0 214/477

「……何で僕の部屋に鍵がかかってるんだ」
「火憐ちゃんが寝てるんでしょ、放っとけばいいよ」
「放っとくって言ったってお前」

 風呂から上がって、やはりぎすぎすした空気が充満したままのリビングで、気まずい時間を過ごして。
そろそろ寝ようかと二階に上がったのだけれど、開かずの間になっていたのは僕の部屋だった。
火憐のやつ、自分の部屋でもないのに僕に入ってくるなとか言ってやがったのか。
そりゃまああれだけ派手な喧嘩をした後だから、しばらく月火と顔を合わせたくないのは分かるし、だから二人の部屋に閉じこもる訳にはいかないって事情も分かるけど。
しかしまあ寝巻は階下にあったからいいにせよ、僕は明日の学校の準備とかどうすればいいんだよ。

「ほら、寝るよ」
「いやだから――ってお前こんな力強かったか!?」

 僕の寝巻の襟首を掴み、ずるずると引きずるようにして、昨日と同じく二人の部屋に向かう月火。
内心を反映しているかのようなその力尽くの振舞いに、これは本気で怒っているなと改めて認識せざるを得なかった。
これは結構長期化してしまうかもしれない。
何とも頭の痛い話だ。
自室を自由に使えなくなるって点も含めて。

278 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/17 01:13:41.69 hestCFaO0 215/477

「これは、さっさと解決しないと大変なことになるなあ」
「もうなってるから」

 月火のもっともな突っ込みを受けつつ、昨日と同じく二段ベッドの下段に入る。
昨日のように気分良く眠りにつけるわけではなかったけれど。
それでも暗闇の中で寝転がっていれば自然に眠気は襲ってくるようで、すぐに小さな月火の寝息が聞こえてきた。

 僕はというと、暫く天井を見上げながら善後策を考えていた。
火憐の単独行動、ファイヤーシスターズの喧嘩、松木茜という少女の身の上、その周辺で起こる不幸事、悪魔の存在。
問題はどんどん詰み上がっていくのに、解決する為に必要な情報がまだ全然出てきていないというのが本当に厄介極まりない。
四段消しを狙ってるのに、いつまで経ってもテトリス棒が出てこないような感覚というか。

 そんな思考を続ける中で、なぜか心に浮かんでくる焦燥感と違和感に気付く。
何かを見過ごしているような、何かを忘れているような。
そんな感覚が、心の片隅にいつまでも汚泥のようにへばりついていた。

287 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 00:48:48.83 AkiEv/lv0 216/477

 013.

「お兄ちゃん、起きてよ。ほらほら早くってば、さっさと起きないと遅刻しちゃうでしょ、もう」

 ゆさゆさと、僕の体が揺さぶられている。
それに気付き、意識が少しずつ覚醒していく。あくまで少しずつ。
まだまだ眠気の方が優勢らしく、どうにも目覚めが遅い。
寝つきが悪かったのか、あるいは眠りが浅かったのか、揺さぶられている自分の体がまるで他人のそれであるかのように、僕の頭の反応も鈍かった。
またこう、ゆっくりと揺らされているというのが、逆に眠気を誘っているという可能性もあるだろう。
そんなことを考えてしまうと、意識はやがて睡眠の方へとその天秤を傾けてしまい――

「何寝直そうとしてんのよ! 起きろって言ってんでしょ!」
「ぐぇっ……!」

 瞬間、怒りの叫びと共に鳩尾付近へ鋭い一撃を頂戴し、一気に意識が覚醒へと導かれる。
というかむしろ覚醒を遥かに超えて、いっそ喪失してしまいそうな程の苛烈さ。
朝も早くから衝撃が体を突き抜けるというのは、久しく忘れていた感覚だった。
叶うならばずっと忘れていたかったと切に思う。

288 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 00:53:22.71 AkiEv/lv0 217/477

「何よ、その蛙が潰れたみたいな声。全く大げさなんだから」
「――蛙を潰したことがあるのか、お前は」
「ある訳ないじゃん、お兄ちゃんならともかく」
「それは僕が潰したという意味か? それとも僕を潰したという意味か?」

 どちらだとしても全力で否定させてもらうけど。
それはさておき、じんじんと鈍い痛みが未だ残る部分を手で抑えつつ見上げた目に映るのは、僕の上に跨ったまま拳を握り締めている月火。
どうやらそれを僕の腹部に振り下ろしたということらしい。
いっそ潔い程に、兄に対するリスペクトというものを放棄した振る舞いだった。

 毎度の事とはいえ、こいつの沸点は低過ぎる。
そもそも人を起こす手段として、揺さぶるの次に殴るを選ぶとか、残念過ぎるだろう。
しかも躊躇うことなく鳩尾狙いとか。
本当にもうこいつは、僕を起こしたいのか落としたいのか、一体どっちなんだ。
まあどっちだとしても結果は同じなので、これは意味のない疑問かもしれない。

290 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 00:59:35.68 AkiEv/lv0 218/477

 閑話休題。
しかし、寝ている僕の上に跨って体を揺らす月火、という絵面は果たしてどうなんだろう。
冷静に考えてしまうと、割と宜しくない気がするんだけど。
僕が寝ていたからまだセーフだろうか? あるいは寝ていたからこそアウトだろうか?
これは中々に判断が難しいところだ。

「馬鹿なこと考えてないで、ほら、いいからさっさと起きてってば。もう結構時間やばいんだから」
「ん? おぉ、いつの間にこんな時間に」
「お兄ちゃんが寝てる間に決まってるじゃない」
「ええい、人のせいにばかりしやがって。お前だった今まで寝てたんだろ? って、そういえば火れ……」
「あ?」

 火憐の名前を口にしようとした瞬間、物凄い目で睨まれた。
どうやら一晩経っても、こいつの怒りはまるで収まる気配を見せていないらしい。
余計なことを言ってまた爆発されても困るので、さすがに黙らざるを得なかった。
決して1オクターブくらい下がったような月火の声に気圧された訳ではないことを、兄としてのプライドにかけて誓っておこう。

291 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:08:03.91 AkiEv/lv0 219/477

「と、とにかく時間がないんだろ、さっさと着替えて飯食おうぜ」
「そうだね、じゃあ部屋に戻って着替えてきたら?」
「あぁ、そうするよ」

 凍てつくような月火の目から逃れる為、じゃなくて制服に着替えて学校へ行く準備の為、重い足取りで自分の部屋へ向かう。
というかもう足取り以上に気が重い。
これで部屋に入って火憐のやつまで怒りを持続させたままだったらと思うと、吐く息まで重くなってくる。
その時は、間違いなく躊躇いなく罵倒と共に蹴りが飛んでくるだろうから。
戦々恐々としながら、中の様子を窺うようにしつつ、部屋の扉をそーっと開ける。
およそ自室に入ろうとしているとは思えないような動きで開いた扉の向こうには、しかし幸か不幸か火憐の姿は見当たらなかった。

292 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:12:59.58 AkiEv/lv0 220/477

 もうどこかに出かけたのか、と一人首を傾げながら、自室へと足を踏み入れる。
乱れたままのベッドに手を当ててみたが、既に温もりはほとんどなかった。
どうやら昨日と同じく、僕らよりもかなり早く起きていたらしい。
そして僕らを起こすでもなく、放ったらかしにして、そのまま一人で家を出たのだろう。
まあ昨日の今日である。僕らと話をする気にならなかったとしても何らおかしくはない。
むしろ関わってこようとしない方が当然とすら思える。
あれだけ派手なやり取りをしたわけだし。

 しかしやはり月火と同様に、火憐もまた怒りを持続させていることは間違いなさそうだ。
思わず知らず溜息を吐いてしまう。
次の二人の邂逅を考えると、朝から本当に気が重い。
色々なものを引きずりながら、手早く着替えて学校の準備を済ませると、部屋を出て階段を下りる。
食卓へ向かうと、月火が手際よく二人分の朝食を用意してくれていた。
流し込むように取る食事は何とも味気ないが、時間もないし贅沢も言えない。
さっさと食事を終え、二人で並んで家を出る。

293 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:16:43.68 AkiEv/lv0 221/477

「じゃあ月火ちゃん、気をつけてくれよ、その、色々とさ」
「心配しないでいいよ、外ではしないようにするから。皆に心配かけたくないしね」

 僕の言葉に、表面上穏やかな感じで返す月火。
それはとりあえず喧嘩はしないという意思表示ではあるものの、決して昨夜のあれを終息させようという意思表示ではなく。
あくまでもファイヤーシスターズの持つ影響力を考慮して、他の問題を起こしたりしないように努力するという意思表示に他ならず。
であれば当然、今日もまた、二人の帰宅後に神経をすり減らすような攻防が繰り広げられる可能性が非常に高いということになる。
故に必然、その時の喧騒が僕の心に容易に思い浮かんできてしまい。
自然と気持ちも気分も深く沈み込んでしまう。
まだ一日は始まったばかりだと言うのに。
とはいえしかし、今の僕にできることなんて、ただ静かに歩いていく月火の背中を祈るような気持ちで見送って、大人しく学校に向かうことくらいだった。

294 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:28:44.06 AkiEv/lv0 222/477

 014.

「おぉ、阿良々木先輩ではないか」

 暗澹たる思いを抱えたまま学校へ行き、ろくに集中できないまま授業を受けて、気がつけば放課後。
妙案が浮かぶでもなく、勉強にも身が入らず、散々な一日だった。
上手く行かず、それで落ち込んで、それ故にまた失敗して、という負のスパイラル。
その惨憺たる有様には、我ながら悲しくも情けなくもなってしまう。
憂鬱な気分のまま、しかし教室に残っていても仕方がないし、と重い足取りで学校を出ようとして。
正門を出た丁度その時に、後ろから追いかけてきたと思しき神原に声をかけられた。
振り返った僕の目に映る神原の表情は、今の僕とはまさに正反対というか、いつも通りの快活さに溢れていて。
その眩しい姿に、思わず嘆息してしまう。
正直、勝手ながらその元気を少し分けてほしいとすら思ったりもした。
全く、想像以上に僕も参っているようだ。

295 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:32:18.98 AkiEv/lv0 223/477

「よぉ、神原」
「どうされたのだ? 随分と元気が無いようだが」
「ちょっと色々あってな」
「ふむ、また厄介事なのか? あぁ、そう言えば後輩達から話は聞いたぞ」
「話? 何のことだ?」
「先日お願いしたことじゃないか。上手いこと説得してくれたようで一安心だ。何でも月火ちゃんだったか、どうやら彼女の方から、例の少女にはしばらく関わらないように、と皆に号令がかかったそうだ。彼女の意に異を唱えるような命知らずはいないだろうと、後輩からは聞いているぞ」
「号令って――まあでも大げさ過ぎるくらいの方が騒ぎを鎮静化し易いのかもしれないな。あんまり信じたくはないんだけど、あいつらの影響力って結構強いらしいから」
「いやさすがは阿良々木先輩の妹さんだ。一声でここまでしっかり皆の足並みを揃えさせられるというのは、まさしく能力の高さと人望の厚さの証左とも言えよう。伊達にファイヤーシスターズの参謀担当は名乗っていないな。実に見事だ」

 感心しきりといった風に何度も頷く神原。
正直月火の本性を知っているだけに、その意見に素直に賛同する気にはなれないんだけど、それでも今回あいつが上手いことやってくれたというのは信じても良さそうだ。
何にしても、これ以上の被害の拡大を防げそうだというのは僥倖と言っていいだろう。
この点に限れば、ではあるけれど。

「それはいいんだけどな……」
「? まだ何かあるのか? あるいは何かあったのか?」
「それが昨日、妹達がその事で喧嘩しやがってさ。片やその子を放っとけないから関わろうとしてて、片や被害を抑える為にまずは様子見って考えてて、結果見事に正面衝突だよ」

296 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:35:25.97 AkiEv/lv0 224/477

 そうして昨日のやり取りを簡単に説明する。
身内の恥を晒すようなことに抵抗がないでもないけれど、神原も知っている火憐のことだし、他の人に言いふらすようなやつでもないし、何より僕自身誰かに聞いてほしかったのだ。
手詰まりの閉塞感に、黙ったままではいられなかったというところもある。
なので、こうして誰かと話すことで少しでも気持ちが整理できればと思い、渡りに船とばかりに話してみたわけだ。
神原は何度も相槌を繰り返し、真剣な表情で聞いてくれていた。

「なるほど、それで阿良々木先輩はそのように消沈されておられるのだな。何とも痛ましい限りだ。望むならば私が全力で慰めて差し上げるが」
「遠慮しとく、どうせベッドの上で、とか言うつもりだろ」
「うむ、野外はまだ私達には早いと思うしな」
「早い遅いの問題じゃねえよ」
「阿良々木先輩は早いのか?」
「その質問に下手に答えるのは宜しくない気がするので置いておくけど、何にしても慰められてる場合じゃないよ。さっさと問題を解決させないとな」
「ふむ、それは申し訳なかった、私がお願いをしたせいで……」
「あぁ、いや、それは違うぞ。むしろお前のおかげで月火ちゃんは止められたんだしさ。感謝こそすれ文句なんてある訳ねえよ」
「そうか、そう言って頂けると助かる」
「昨日僕もその子の様子を見に行ったんだけど、確かに何かありそうな感じだったよ。具体的なところはまだ分からないけどさ」

297 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:39:58.31 AkiEv/lv0 225/477

 正確に言うと、忍のおかげである程度のことは把握できていた。
松木茜というその少女に憑いた悪魔。それにより引き起こされた災禍。
ただ神原に悪魔の話をするのは余計な負担をかける恐れがあったので、そこは曖昧にぼかしておく。
関わらずに済むならば、やはり関わらない方がいい。

「そうか、やはり怪異絡みの可能性が高いということか」
「みたいだな。まあこっちの事は僕に任せておいてくれよ。忍もいるし滅多なことはないと思うから」
「了解だ。しかし怪異が関わっているのなら、くれぐれも注意してほしい」
「分かってるよ。無茶はしないようにする――けどなあ、まあ月火ちゃんは大人しくしてくれるみたいだからいいとしても、火憐ちゃんの方が……」

 昨日の喧嘩を思い出して、また少し憂鬱になる。
今日も早朝から家を飛び出していたけれど、またあの子の所に行っているのだろうか。
僕や神原が反対していることを知ってもなお突貫しているのでは、今更僕が何を言っても無駄かもしれない。
これ以上突っついても、それこそ余計に意地になるだけかもしれないし、全くもって度し難い話だ。

298 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:46:36.67 AkiEv/lv0 226/477

「ふむ、そうか、火憐ちゃんは止められなかったか。まあそれはそれで仕方がないかもしれないな。とにかく月火ちゃんや他の皆を止められたのだから、とりあえず今はそれで良しとすべきではないか?」
「ん? あ、あぁ、まあそうだな」

 何だろう、また少し違和感があった。
そう言えば、ここまでの神原との会話で、何故か全然火憐の話が出ていなかったような……?

「言って止まらぬならば、今は触れずにおくしかないだろう。下手に刺激するよりはまだ良い。ひとまず彼女のことは置いといて、阿良々木先輩、まずは自身の安全に注意を払ってほしい。今更私如きに指摘されることでもないだろうが」
「もちろんそれは気をつけるよ――ところで神原、気のせいかもしれないけど、何か今日のお前、ちょっと火憐ちゃんにそっけなくないか?」

 神原は月火とはほとんど接点がなく、火憐としか交流はなかったはず――もちろん接点が無いからといって月火を軽んじるようなことはないだろうけれど、それでもやはり心配の第一位には火憐の方が来るのが自然ではないだろうか。
なのに、今日の神原の言葉には、月火や僕に対する心配の念は強く感じるけれど、火憐に対しては余りにも淡白だ。
まるで全く交流の無い他人に向けるかのような物言いに、どうしても疑問を、違和感を、覚えずにはおれない。

「うーん、決してそのようなつもりはないのだが。ただ阿良々木先輩の話を伺う限り、それは火憐ちゃんの自業自得というところが大きいだろう。あまり強く言っても意固地になるだけだろうし」

299 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:52:43.34 AkiEv/lv0 227/477

 小首を傾げるようにしながら、少し困ったような表情で神原が言う。
言っている事は分からないでもない。
事実、火憐は周りが止めても全くそれを聞かずに自分から首を突っ込んでいるのだから、確かにそれで何かあったとしても自業自得としか言えないだろう。
理屈の上ではその通りだ。
けれど、こいつがそんな言い方をすること自体が不自然な気がする。
それでも心配して世話を焼こうとするような、こいつはそういうやつだったと思うんだけど。

 やはりどうにも微かな違和感が頭を離れない。
何かが違うような、何かを忘れているような、そんな気がしてならない。
しかし、それ以上は考えが進まなかった。
何かがおかしいと思う自分と、今回はそれも仕方ないだろうと考える自分と。
思考と思考がせめぎ合い、やがて膠着状態に陥り、思索はそこで中断されてしまう。

300 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 01:58:02.76 AkiEv/lv0 228/477

「まあいいか。とりあえず神原、僕はもうちょっと調べてから動いてみるよ」
「そうか、ではここでお別れだな、名残惜しいが致し方あるまい。では次は是非大人の階段を共に上ろうではないか」
「さりげなく欲望を織り交ぜんな。普通にまた明日でいいだろ」
「それでは私の個性が伝わらないだろう?」
「もう十分伝わってるから」

 そんないつも通りのやり取りで神原と別れの言葉を交わす。
その背中を見送ってから、僕も足を家の方角へ向ける。
そうして歩きながら、ポケットから携帯を取り出した。
千石に連絡を取る為だ。
正直なところ、千石を巻き込むことに抵抗はあるけれど、事が中学生の間で起きている問題で、且つ妹達から話を聞くことが難しい現状では、僕には他に話を聞ける人がいないのである。
申し訳なく思いつつも、携帯で番号を探し、通話ボタンを押した。

301 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:02:00.79 AkiEv/lv0 229/477

 015.

「もしもし、暦お兄ちゃん?」

 幸いにも在宅だったようで、千石には電話をかけてすぐに繋がった。
しかし、受話器の向こうから聞こえてくる声がやや暗いような気がして、少し不安になる。
タイミングが悪かったのか、それとも何か嫌なことでもあったのか。
現状が現状だけに、些細な事でも心配になってしまう。

「いきなりでごめんな、今大丈夫か?」
「あ、うん、撫子は大丈夫だけど――」
「どうかしたのか? 何か問題があるなら言ってくれよ、僕の話はまた後でもいいからさ」
「ううん、そうじゃなくて、月火ちゃん達がね」
「あいつら、また何かやらかしたのか?」
「えっと、その、月火ちゃんと火憐さんが喧嘩してるって話を聞いたから、大丈夫かなって、ちょっと心配で」
「まじかよ……」

302 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:06:09.76 AkiEv/lv0 230/477

 か細い声で囁くように言う千石。
元より争い事とは無縁の子だけに、周りでそういうことがあるというのは、ましてやそれが知り合いとなれば、やはりショックは小さくないのだろう。
本来なら僕がここで千石を気遣ってあげるべきだし、実際そうしたいとも思うけれど、でも僕は僕でかなり動揺してしまっていたので、そんな気遣いなんて全くできなかった。
全くもって申し訳なくも情けなくもなってしまう話だ。

 そんな風に沈んだ調子の千石が、それでもたどたどしく語ってくれたところによると、昨日に続いて今日も単独行動だった月火に対して、火憐のことを聞こうとした子がいて、その子がまあ大層睨まれたんだとか。
僕自身が朝に体験したことだから、その子がどれだけ震え上がったかは想像に難くない。
さてもそんな状況にあれば、二人の間で何があったかなんて、誰だって想像するより先に理解に至るだろう。

「だから今ね、学校でも結構話題になってるの。昨日暦お兄ちゃんが言ってたあの子のことも、結局月火ちゃんが一人で動いて騒ぎを鎮めちゃってたし、ファイヤーシスターズの解散危機とか騒がれてるよ」
「そんなことになってんのか――参ったな、そんな大事にはしたくなかったんだけど」
「ねえ、暦お兄ちゃん、その、本当に二人はそんなひどい喧嘩をしてるの?」
「ん? あぁ、昨夜からちょっとな。松木って子への対応方針で完全に対立しちゃって、派手にやらかしてるんだ。まだ互いに全然怒りも興奮も冷めやらぬって感じだよ。一応これは他の人には言わないでくれ」
「うん、もちろんだよ。撫子と暦お兄ちゃん二人だけの秘密にするよ。絶対に言わないから安心して」
「お、おう、そこまで気合い入れてくれなくても大丈夫だけど」

303 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:11:45.37 AkiEv/lv0 231/477

 そんな二人だけとか強調されても、火憐と月火は僕達以上によく知っているんだけど。
まあ、それだけ僕の言葉を真摯に受け止めてくれているということだろうし、僕もまた紳士として無粋な突っ込みはしないでおくことにしよう。
そんな善意にケチをつけるような真似なんてするわけにもいかないし。
全く、あいつらもこれくらい素直だったら助かるんだけどな。
そんなことを考えていると、そこで千石が少し声を潜めて、あるいは眉を顰めてか、少し気になる事を口にする。

「それにしても、火憐さんもどうしてそんなに強情なのかな、意地を張ってないで謝っちゃえばいいのに」
「千石?」
「迷惑かけたり心配かけたりなんてよくあることだけど、すぐにごめんなさいってしちゃえば、そんな拗れることなんてないんだから」
「ちょっと待った、千石は何か聞いてるのか? 何で二人が喧嘩してるのかって。もしかして中学生達の間じゃ原因が全部火憐ちゃんにあるとかって話になってんのか?」
「え? 皆が心配して止めてるのに、火憐さんがそれに聞く耳持たないで暴走しちゃってるって聞いてるんだけど――あれ? 違うの?」
「いや、違うっていうか……」

304 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:17:44.45 AkiEv/lv0 232/477

 受話器の向こうで小首を傾げているような気配がする。
そして僕もまた、その言葉に首を傾げずにはいられなかった。
千石はきっと、純粋に自分の得た情報から状況を判断しているのだと思う。
当然ながら、そこに悪意のようなものはない。そんな子ではない。
けれど、それで得られた結論に、どうにも違和感を覚えずにいられないのだ。

 千石はあくまでも情報の受信側である。
元より火憐や月火に対して特に悪感情を持ってもいないだろう。
しかしそんな彼女ですら、今回は火憐に非があるという結論を導き出してしまっている。
だとすれば、そもそも皆の間で流れているその情報自体に偏りがあるのではないだろうか。
そしてそれは取りも直さず、その偏りのある情報こそが、今の彼女達のコミュニティにおける共通認識だということを意味している。

 月火を擁護――というよりも火憐を非難するような、そんな空気が。
月火の行動を肯定し、火憐の行動を否定するような、そんな気配が。
今まさに、あいつらのコミュニティに――大げさに言ってこの街の中学生達の間に、広がってしまっている。
このことを、痛烈に、痛切に、痛感せざるを得なかった。
それはつまり単純な話、今の火憐には一人として味方がいないということだ。

305 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:24:00.19 AkiEv/lv0 233/477

 もちろんそのことについて、火憐に原因がない訳ではない。
状況的には確かにそれに近い感じだし、決してその認識が間違っているとは言えない。
しかし、それにしたって余りに極端に過ぎないだろうか?
そもそもこの程度のことで、ここまで火憐が冷遇されるような事態になってしまうものだろうか?
僕は、何かを見落としてはいないだろうか?

 考え出すと、どうにも心がもやもやして仕方がない。
違和感と、そして同時に何かを忘れてしまっているかのような焦燥感が、昨日からずっと心に燻ぶり続けていた。
そんな風に、またしても僕が内心で思考のせめぎ合いを繰り広げている間に、千石は言葉を続ける。

「皆がそう言ってるよ。今回は月火ちゃんが正しいって。火憐さんが間違ってるって」
「そう、なのか。いやまあ確かに今回は月火ちゃんの判断が正解なんだけど――でも火憐ちゃんが間違ってるかってなると、どうなのかな……?」

306 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:27:28.67 AkiEv/lv0 234/477

 最後の方は、千石への言葉というよりも独白のようなものだったのだけれど。
彼女はそうは捉えられなかったらしい――そういう意味では、これは僕が迂闊だった。
受話器の向こうで息を呑む気配がする。
が、時既に遅し。

「あ……ご、ごめんなさい」
「いや違う違う、別に千石を責めてる訳じゃないよ。ちょっと気になっただけだから」
「うん、でも、その、ごめんなさい」

 慌てて否定したけれど、千石の声は少しずつ小さくなっていき、終いには消え入りそうになっていた。
その申し訳なさそうな響きに、少し胸が痛む。
今のは僕の失言だろうに、何とも申し訳なくなってくる。
本当に千石を責めている訳ではないんだけど……

 しかしどうにも上手くいかないというか、昨日からずっと僕の調子は狂いっ放しだった。
勉強にも身が入らないし、詰まらないミスばっかりするし、いいアイデアも浮かばないし、思考も全然まとまらないし、何をするにも集中できず、挙句の果てに周囲への気遣いすら希薄になっている。
反省しないとな、本当に。

307 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:29:31.89 AkiEv/lv0 235/477

「ごめん千石、僕が悪かった。さっきの事は本当に気にしないでくれ。とにかく状況は分かったよ。僕も今回の問題は早いこと解決させたいからさ、ちょっと協力してくれないか?」
「え、うん、それはいいけど、撫子で力になれるかな?」
「ああ、とにかく今は情報が欲しいんだ。松木って子があんなことを言い始めた理由とか、何を望んでいるのかとか、それが分かるヒントになるような。どんな小さな事でもいいから、何か知ってる事があれば教えて欲しい」
「知ってる事? でも、昨日お話したことくらいしか撫子も知らないの。その、お友達ってわけでもないし」
「うーん、そうか、それじゃあ仕方ないか」
「あ、でも……」
「ん? 何か思いついたか?」
「えっと、暦お兄ちゃんが必要としてる情報じゃないかもしれないけど、その子、今日からしばらく学校をお休みするみたい。検査入院だって聞いたけど」
「検査入院?」
「うん、詳しくは分からないけど、そうなんだって。だから皆、当分会う事もないねって、そういう話をしてるよ」

308 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:34:06.40 AkiEv/lv0 236/477

 千石の言葉に、改めて考えてみる。
果たしてこの情報は、僕らにとって吉報なのか、あるいは凶報なのか。
被害の拡大を防ぐという点においては、きっと良いことだと思う。
月火の号令と重なって、これで積極的に関わっていこうとする人はもう出てこないだろうし。
もちろん月火も、そして千石も、あるいは神原も、そんな僕に近しい人達にも、これ以上害が及ぶ危険はほとんど無くなった。
その点では、まずは一安心と言ってもいいはずだ。

 だけど、どうにも嫌な予感が拭えない。拭いきれない。
検査入院という話だけど、もちろんそれが定期的なものであるなら問題はない――が、もしそうでなければ?
これが表向きの理由でしかなく、実際は病状の深刻化を意味するものだったら? その為の入院だったら?
そして僕は、そうなる可能性があることを知っている。それを導き得る事態が存在することを知ってしまっている。
もしも松木が、何か規模の大きな、あるいは範囲の広い、そんな新しい願いを持ってしまっていたら、それを悪魔が聞き届けていたら――
その危険がある以上、やはりあの子を放置してはおけないだろう。
しかしそうは言っても、アプローチする方法が未だ見つからない現状では、結局打つ手がないのは同じだ。
僕が迂闊に近づいて彼女を刺激してしまえば、それこそ誰に累が及ぶか分かったものではない。
さて、どうすればいいだろうか?

309 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:38:37.34 AkiEv/lv0 237/477

「暦お兄ちゃん?」
「あぁ、悪い千石、ちょっと考え事してた。とにかく話を聞かせてくれてありがとう。参考になったよ」
「ううん、こんなことで役に立てるなら」
「それと今更言うまでもないかもしれないけど、問題が解決するまでは、千石もその子になるべく近づき過ぎないようにしてくれ」
「うん、怪異が関係してるなら、撫子が何かしようとしても暦お兄ちゃんの邪魔になっちゃうもんね」
「ごめんな、また解決したら教えるから」
「分かった。暦お兄ちゃんも気をつけてね」

 千石との通話を終えて、携帯をポケットに入れる。
多少なり情報を入手できたとは言え、まだ事態の解決には遠い。
月火や千石達がこれ以上この問題に関わることは無さそうだというのはいいにしても、肝心の解決方法は未だ全く思いつかないのだから。

 それから家へと向かって歩きながらも、思考は続けていた――が、やはりどうにも上手くまとまらない。
心の中がざわつき、焦燥感と違和感が混じり合い、暗く濁ってゆく様な感覚。
考えようとしているのに、その思考が的外れな方向へ逸れてしまっているような。
悩んでいるのに、その悩みの内容がぼんやりしてしまっているような。
重大な問題のはずなのに、些細な問題を前にしているかのような、そんな緊張感と集中力の欠如。

310 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/23 02:46:48.85 AkiEv/lv0 238/477

 もやもやした気分を抱えながら、緩慢な思考を続けながら、一人道を歩く。
何かが違うような、何かを忘れているような、何かが引っかかるような。
そんな違和感と焦燥感が、頭にこびり付いて離れない。
でもその正体が分からない。
そんな思考を、もう幾度となく繰り返している。
何が分からないのか、何で分からないのか、考えれば考えるほどに混乱してしまう。正に袋小路。
解決すべき問題を前にして、それに取り組むでもなく傍観しているような気分がして落ち着かない。
哲学者でもあるまいに、僕は何を悩んでいるのかと、そうしてまた思考が脱線していく。

 何かがおかしい、でも何がおかしいのかが分からない。
そんな疑問の堂々巡りを続けている内に、気がつけば日暮れ。
妙な違和感と焦燥感を抱えながらの帰宅。
事態はなお動かず、僕はなお気付かず、ただ時間だけが無為に過ぎてしまっていた。

319 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:20:00.42 xbngZ8B+0 239/477

 016.

 明けて次の日。
休日ということもあり、目覚ましをかけることなく寝ていたのだが、普段とそう変わらない時間に眠りから覚めてしまった。
重い瞼に重い気分、鈍い思考と鈍い動き、どうしようもなく憂鬱な目覚め。
そんな覚醒とあっては、すぐに体を起こす気にもなれず、まるで頭も回らず。
梅雨時の空よりもどんよりした気持ちで、しばらく天井を見上げていた。
悪夢にうなされたような記憶はないんだけど、あるいは忘れているだけで、もしかしたら嫌な夢でも見ていたのかもしれない。
もっとも寝入りの時からして気が重かったのだから、寝起きでそうなってしまうのも、まあ頷ける話ではある。

 昨日、悩んで頭を抱えながら帰宅して、それからも散々だった。
火憐と月火はなお冷戦状態で、互いに一言さえ言葉を交わすことなく、険悪なムードを隠そうとすらせず、たまに顔を合わせれば睨み合いになり。
一触即発というそんな状況に、僕はずっとはらはらしっ放しだった。
二人が接近する度に緊張を強いられてしまい、身体より心の方が疲弊してしまったくらいだ。

320 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:23:52.50 xbngZ8B+0 240/477

 両親にも色々と聞かれたけれど、まさか本当の事を言う訳にもいかず、とにかく曖昧にぼかすしかなかった。思春期だからとか何とか。
もちろんその説明で納得したわけでもないだろうけど、それでも姉妹が喧嘩しているくらいの事で逐一口を出すつもりはないようで、両親の方は一応しばらく静観することにしてくれたらしい。
突っ込んだ所を聞かれなくて済んだのは良かったけれど、結局事態がまるで解決の見通しも立っていないということに変わりはなく。
板挟みの状況に、僕は一人神経をすり減らしながらの夜を過ごしていた。
世に言う中間管理職という役職にいる人達は、こういう気分を日々味わっているのだろうか。
だとすれば、よくぞそんな苦行に耐えているものだと、尊敬の念を覚えずにはいられない。

 しかし実際、火憐と月火の間で散らされている火花へと身を投じるというのは、物凄いストレスだった。
それこそ野生動物なら即座に逃げ出すんじゃないかってくらいに剣呑な空気。
とても話や説得なんてできるような雰囲気ではなく、どころか火憐に至っては目が合えば僕をも睨みつけてくるのだから。
そんな状況とあっては、こちらとしてももう接触すること自体を諦めるしかなく、近づくという選択肢すら頭から完全に放棄していた。

 全く、吸血鬼だてらに頭も胃も痛くなってくる話である。
月火は火憐を無視し、僕は火憐を放置し、火憐もまた僕らに近づいてくることはなく。
ぎすぎすした空気には閉口し、意地を張り続けている火憐には開いた口が塞がらない。
自分達の家なのに、居心地の悪さに全然気が休まらなかった。
眠りにつくまでずっとそうだったのだから、夜が明けた所で何も変わってはいないだろう。

321 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:26:51.55 xbngZ8B+0 241/477

「はあ……」

 今日これからのことを思い、知らず零れる溜息。
しかし溜息をつくと幸せが逃げるとは言うものの、そもそも溜息をついてしまうような心境の人間の中に、逃げるほど幸せが残っているものなのだろうか。
というか、逃げ出すだけの幸せがある人間なら、そうそう溜息なんてつかないような気がするんだけど。

 そんな馬鹿なことを考えていたところで、不意に腕に鋭い痛みが走る。
反射的に視線を向けると、月火の手が僕の腕をがっしりと掴んでいた。
皮膚に爪が食い込む程に力が込められたその手は微かに震えていて。
眉根を寄せる寝顔に浮かぶその表情は、はっきりと苦悶の色に満ちていて。
食い縛るようにしている口元から漏れる呻きに、はっと気を取り直す。

「どうした月火ちゃん! おい! 大丈夫か!?」

322 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:31:00.00 xbngZ8B+0 242/477

 珍しくも僕が妹を起こすという構図がそこにあったが、もちろんそんなことに気を回す余裕なんてなかった。
掴まれていない方の腕で、月火の肩をゆさゆさと揺さぶる。
ここまで月火がうなされる姿なんて見た記憶はない(いつも僕が起こされる立場だったというのもあるけれど)。
なので正直なところ、僕はみっともないくらいに取り乱してしまっていた。
何しろ体調に異常がある可能性を全く考えられなかったのだから。

 とはいえ、今回はその行動は正解だったらしい。
ややあって、ゆっくりと月火の瞼が開き、僕の目に焦点が合わせられる。
強張っていた体からも、少しずつ力が抜けていく。
そこでようやく僕の腕も解放され、血が通うような感覚が走る。どれだけ全力で握り締めていたのやら。

「お兄ちゃん……?」
「どうしたんだよ、月火ちゃん。随分うなされてたぞ」

 一つ瞬きした後、掠れたか細い声で僕を呼ぶ月火。
繰り返される呼吸は荒く、重そうな瞼の奥の瞳には疲労の色が濃く、汗もびっしょりかいていて、前髪は顔に張り付いてしまっていた。
とても一晩ゆっくり寝たとは思えないような姿だ。
心配になり、汗ばんだその頬を撫でてやりつつ、瞳を覗き込むようにしながら声をかけてみる。

323 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:34:34.51 xbngZ8B+0 243/477

 全く頭が働いていないらしく、無言のままそれから何度か瞬きを繰り返していた月火だったが、少しして僕の胸元に転がってきた。
何も言わずに腕を僕の背に回し、目を閉じて顔を胸に押し付けてきて。
そしてそのまま、ぎゅっと僕の体を抱きしめてくる。
背中を掴む月火の手は、微かに震えている気がした。
傍で見ているこちらの方が不安になってしまうような所作。

「おいどうした? 大丈夫なのか? 何なんだよ、嫌な夢でも見たのか? まさか体の調子が良くないのか?」
「……分かんない」
「は? 何だって?」
「だから分かんないの! よく分かんないけどやな気分なの! しばらく黙ってて!」

 僕の体を抱きしめたまま、甲高い声でキレる月火。
というか、何でその矛先が僕に向けられているのかが分からない。
まあその声の調子を聞く限り、体に異常があったとかではなさそうなので、その点は一安心だけど。

324 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:38:07.38 xbngZ8B+0 244/477

 しかしどうやら相当嫌な夢を見たようだ。
その内容を覚えていないというのは、言葉通りなのか言いたくないだけなのか。
まあこいつが見た夢の内容についてはともかく、その原因は容易に想像できる。
それはきっと、僕と同じだろうから。

 火憐との不和――思った以上にこの事実は、僕らの心に大きな負荷をかけてしまっているらしい。
一つ屋根の下で暮らしている人間とぎすぎすしていれば、それは負担になって当たり前ではあるにせよ。
これは何とか早いこと解決させないと、本当に体調にも障ってきそうだ。
精神的にもしんどいことこの上ないし。

 胸元でうーうー唸っている月火の頭を、そっと撫でてやる。
怒るかなとも思ったけれど、特に何も言ってくることはなく。
しばらくそうして過ごしている内に、どうにか心が落ち着いてきたようで。
一度ゆっくりと大きな深呼吸をしてから、マーキングする動物よろしく、月火が僕の胸に頭や頬を擦りつけてくる。

325 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:42:56.85 xbngZ8B+0 245/477

「はぁ……あーもー最悪。超最悪。何この気分。むかむかしてくる。何で休みの朝からこんな気分になんなきゃなんないのよもー」
「ぐりぐりすんな、地味に痛いから」
「何だろこれ、凄いやな感じ。悪い夢とか最近全然見てなかったのに。ていうかいい夢見ることの方が多かったのに。何なのよホントにー」
「まあ忘れとけって、嫌な夢のことなんか。ほら起きるぞ」
「えー、いいじゃない、もうちょっとごろごろしてようよ、折角の休みなんだし」
「休みだからこそ、だらけててどうすんだって話だろ。大体僕は受験生なんだぞ」
「何よ、偉そうに優等生ぶっちゃってさ。ぶっ飛ばすよ?」
「物騒なこと口走ってんじゃねえよ、人の胸に頬擦りしながら。しかも手でも撫で回してるとか。どこの痴女だよ、お前は」
「ちょっと人聞きの悪いこと言わないでよね。これはあれだって、ただ妹として兄の成長具合が気になっただけだよ」
「それはだけと言い切っていいことなのか?」

 その発想は、兄を持つ妹として些か斬新過ぎる気がする。
もっとも第三者的観点から見れば、僕が言えたような立場じゃないって気もするけど。
きっと正しく五十歩百歩だろう。
これ以上突っ込んでも墓穴を掘るだけだろうし、とりあえず棚に上げておくことにする。

326 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:48:59.08 xbngZ8B+0 246/477

 しかしまあ、相も変わらず僕達は一体どこに向かっているのだろう?
果たしてこのまま進んで良いものかと、ちょっと不安に思わないでもない。
とか、そんな下らないことを考えている間も、僕の胸を撫でる月火の手の動きは止まっていなかった。
男の胸なんて撫でて何が楽しいんだろうか? あるいはもう僕が月火の胸を撫でてやるべきなのか?
そんな風に僕が結構な疑問を抱えている内に、月火がちょっとうっとりしたような表情で小さく頷く。

「うん、でもなかなかいい体してると思うよ、お兄ちゃん。適度に鍛えられててさ。これなら九十点以上を上げてもいいかな」
「そんな評価はいらない」
「照れなくてもいいのに」
「照れてなどいない」
「デレればいいのに」
「何でだよ!?」

 今のやり取りのどこにデレる要素があったよ?
というかデレるの僕かよ。益々もってあり得ないだろ。
本当にこいつは勢いだけで何を口走ってやがるのか。
しかし最近気付いたことだけど、寝起きの月火って頭が変な方向に暴走してるよな。
とんだアイドリングもあったものだと思う。

327 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:53:37.72 xbngZ8B+0 247/477

「あー、何か喋ってたら目が冴えてきちゃった」
「いいことじゃねえか、じゃあ今度こそ起きようぜ」

 最後にぽんぽんと背中を優しく叩いてやって、僕の方から体をずらしてさっさと起き上がることにする。
うつ伏せの状態でまだ不満げな声を上げていた月火だったが、それでもさすがに諦めたらしく、小さく溜息を一つ。
気怠げな様子で頭を上げ、そこでようやく体を起こす動作に移る。ゆっくりと。

 何気なくそちらへ視線をやり、そこで初めて月火の状態に気付き、思わず絶句してしまう。
どうやら今日は相当寝相が悪かったらしく、浴衣の前が完全にはだけてしまっていたのだ。
それはもう、帯がなかったら全部ずり落ちてたんじゃないのかってくらいに。
実際それは既にもう服の体を為してはおらず、ほとんどパンツ一枚と変わらない姿である。
だというのに、こいつは胸を隠す気も胸元を直す気も全く無いようで。
あられもない格好に恥じ入る様子など微塵もなかった。
いやもう本当に言葉も無いわ。

328 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/25 23:57:57.44 xbngZ8B+0 248/477

「何? 私のおっぱいがどうかした?」
「どうかしたというか、まずその質問がどうかしてるというか。つーか気付いてるんなら直せよ。丸出しだぞ」
「そう言うわりには視線固定されてるよね。そんなに気になるんだ。見たいんなら素直にそう言えばいいのに」
「馬鹿言え、そんなわけあるか。これはあれだ、ただ兄として妹の胸の成長具合が気になっただけだ」
「それをだけって言い切れるのも凄いと思うよ」

 至極もっともな指摘だった。因果応報とはこのことか。いや多分違うけど。
とは言え、当の本人がそれを気にした様子でもないので、ここはさらっと流しておいた方がいいだろう。
と、そこでようやく月火も浴衣を直し始めた。
特に隠すわけでもなく、別に見せようとしているわけでもなく、何というかごく自然に。
結婚二年目の夫婦でもあるまいに、もう少し恥じらいというか、ちょっとぐらい気にしたらどうなんだと思わないでもない。
まあ風呂上がりに半裸でうろつくようなやつだし、家の中で無防備なくらいなら特別問題視する程のことでもないのか?

329 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/26 00:04:14.19 X9pkvxlo0 249/477

 しかし改めてその胸部をじっくり眺めてみると、やっぱり前に見た時より成長しているなと確信する。
もちろんまだまだ羽川とかと比べられるような世界には程遠いとはいえ、それでもこれは、そこへ近づく為の価値ある一歩だと思う。
果たして伸び代がどれだけ残されているかは分からないけれど、兄としてこれからもずっと見守っていこうと改めて心に誓った。

「やっぱり何か邪な思考を感じるんだけど」
「気のせいだ。いいからシャワーでも浴びてこいよ。汗びっしょりだぞ」
「それはお兄ちゃんもだよ。何? もしかしてお兄ちゃんも嫌な夢見たの」
「多分な、よく覚えてないけどさ」
「ふーん、何でだろね、二人揃ってなんて。まあ今更どうでもいいか。じゃあお風呂行ってくるね」
「そうしろ、僕は後でいいから」
「何なら一緒に入る?」
「馬鹿言ってんじゃねえよ、さっさと行ってこい」

330 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/26 00:12:41.83 X9pkvxlo0 250/477

 そうして先に月火を風呂にやり、上がってきた所で交代して僕もシャワーを浴びる。
汗を流したところで、ようやく人心地ついた気がした。
風呂上がりに遅めの朝食をとり、二階に上がって自室に入ると、当然と言おうか、既にそこに火憐の姿はなく。
思わず知らず、小さな溜息が零れる。
きっと今日も、昨日までと同じように一人で動いているのだろう。
それに気付き、浮かんでくるのは呆れの気持ち――が、それと同時に何故か焦燥感も心に湧き上がってくる。

 軽く首を振って気を取り直すと、手早く外出の準備をする。
特に当ても無く、見込みも望みも薄いとはいえ、こんな状況で部屋で大人しく過ごすなんて到底無理だ。
全然心が落ち着かない。
勉強道具を鞄に詰めて、部屋を出て階段を下りる。
リビングを覗くと、月火が一人でソファに座って、何かの雑誌を読みつつ寛いでいた。
と、声をかける前に僕に気付き、顔を上げてこちらに視線を向けてくる。

「お兄ちゃん、お出かけ?」
「ああ、図書館行ってくる」
「行ってらっしゃい、勉強頑張ってね」
「おう。それじゃ留守番よろしくな」

331 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/26 00:17:14.92 X9pkvxlo0 251/477

 もちろん図書館に勉強に行くというのは表向きの理由だ。
実際には事態解決の方法を考える為の外出である。
もし今回の件でまだ僕が動いていると知ったら、それがまた月火を動かす引き金にもなりかねないし。
その意味では勉強に出掛けるというのは、疑われる危険の少ない実に良い口実だった。

 そうして家を出て、一人で図書館へと向かう。
その道すがら、頭はずっと今回のことで一杯だった。
何をすればいいのか、何をすべきなのか、何ができるのか。
松木は何を望んでいるのか、どうすればそれを知ることができるのか。
そして、一体どうすれば事態を解決できるのか。

 しかしやはり、考えはそこから先に進んでくれない。
昨日までと同じく、思考に全然集中できていなかった。
まるで心の中に僕の思索を邪魔する何かがあるかのように、思考はずっと停滞し続けていて。
身も心もただ、惑い、迷い、彷徨い、戸惑い、揺蕩い、流離い、ぐるぐると同じ所を回っていた。
頼りなく、さながら迷子のように。

341 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 22:59:24.03 3xx8EUsG0 252/477

 017.

 目的地へ向かう足取りは重く。
解決策を模索している思考は鈍く。
僕の心も暗く沈み込んでゆくのみで。
袋小路に迷い込んだような、そんな不安と焦燥感がずっと圧し掛かっていた。

 打つ手も決め手も何もなく。
千石や妹達とはこれ以上話をするわけにもいかず、他の情報源も思い当たらない。
松木を放置はしておけないけれど、迂闊に近づくことも叶わない。
堂々巡りな思考を繰り返しているだけの現状で、頭以上に目の方が回ってしまいそうだ。

342 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:01:44.25 3xx8EUsG0 253/477

 そんな八方塞がりの状況にまたしても頭を抱えたくなってきた、正にその時。
僕の中の高感度センサーが、突如過敏に反応を示した。
ばっと顔を上げると、いつものように街を徘徊していたと思しき少女が目に留まる。

「おや、阿良々木さんではないですか」

 この街の愛すべきマスコットキャラクター、幸せを呼ぶ少女、八九寺真宵がそこにいた。
ほぼ同タイミングで僕に気付いたらしく、ちょこんと小首を傾げながら。
少しだけ驚いたのか、きょとんとしたような表情で。
砂漠でオアシスの喩えじゃないけれど、これは僕の乾いた心を癒してくれる邂逅に他ならない。
全くもう、一つ一つの仕草が一々愛らしいから困る。
こんな悩んで迷ってダウナーな状態じゃなかったら、一も二も無く飛びついて頬ずりするところだぞ。

343 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:03:29.78 3xx8EUsG0 254/477

「というか八九寺、僕とのスキンシップの省略はさておき、噛むのも無しってどういうことだよ、手抜きは感心しないぞ」
「痴漢行為を随分マイルドな言い回しに変えてきましたね、相変わらず見下げ果てた根性です。一周回って軽蔑しますよ」
「何で一周回った?」
「二週回った方が良かったですか?」
「そういうことを言いたいんじゃないんだけど」
「それはさておき、噛むのはあれですよ、話の展開を急ぐ為に省略しました。巻きの指示があったので」
「誰からだよ」

 八九寺Pに指示を出せるようなやつ、いたっけ?
まあでも、そこを省略してもなお余分な雑談が入ってしまっている現状、全然巻きで進行できていない訳で。
誰かは分からないけれど、残念ながらその目論見は完全に崩れていると言わざるを得なかった。

344 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:06:04.98 3xx8EUsG0 255/477

「さて、何か悩んでおられるようですね、お困りならば不肖この私が相談に乗ってあげますよ」
「うわあ、ここでいきなり巻きの進行きたよ」

 ショックだった。
この暗澹たる気持ちを晴らせるような小粋な雑談が始まると思っていたのに、僕には気分転換すら許されないというのか。
八九寺とのスキンシップも雑談も封じられるなんて、こんな酷い仕打ちは始めてだ。
まだしも八九寺の身体を撫で回して噛みつかれた方が心安らぐわ。
今からでもそうしてやろうか。
しかしそんな僕の思考をも置き去りに、八九寺は巻きの進行を続ける。続けてしまう。

「残念でしたね、阿良々木さん、時代は常に動いているのです。その最先端を走る私にとってはマンネリこそが最大の敵なのですよ。どんな形であれ意表を突かないと。ということで、さあ何でも相談して下さい。迷える子羊を全力で導いて差し上げましょう」
「ちょっと待てよもう、これはあれか、お前までキャラを変えようとかしてるんじゃないだろうな? そんなの嫌だぞ」
「別にそういうわけではありませんが――しかしまあ、確かに新しいキャラ付けというか方向付けというのはありかもしれませんね。八九寺Pなんて立場もいい加減飽きてきたところでもありますし」
「それはそれでどうなんだろうな、プロデューサーが飽きるって作品として相当末期な感じがするんだけど」
「いっそ新ユニットを結成して一旗あげるのもいいかもしれませんねえ。ユニット名は『ばけものがかり』、デビューシングルは『帰りたくないよ』とかどうでしょう?」
「それは止めてくれ、正直あの頃の事は僕にとっちゃ黒歴史でもあるんだよ。今はちゃんと家にも帰ってるし。あとその表現だと忍が可哀想だから。つーかそもそもパクリにも程があるだろ、それ」

345 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:11:35.96 3xx8EUsG0 256/477

 全く、一言で何回突っ込めばいいのか。
それはさて置き、本気で止めてほしいぞ。人間強度が下がるとか、今から思えば割と赤面ものだったりするんだよ。
大体今ではかけがえのない友人ができたし、妹達とちょっとだけ仲良くなったし、大切な人もいるし、僕はもう春休み以前の自分とは違うのだ。
もちろん吸血鬼云々に関することだけではなく。
とは言え、あの頃の自分を黒歴史と認識できるようになったという事実そのものについては、自身の成長として素直に喜んでいいのかもしれない。

「それでしたらユニット名は『いきものがたり』にしてもいいですよ」
「そっちを否定した訳じゃねえよ。というか何一つ解決してないぞ、それじゃあ」

 どちらにしても結局パクリだった。
とんだ敏腕プロデューサーもいたものである。
豪腕ではあるかもしれないけれど。

346 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:14:30.74 3xx8EUsG0 257/477

「まあ雑談は脇に置いておきまして」
「え? 本当に置いとくの? 拾わないの?」
「当たり前です。調子に乗らないで下さい。というか、悩み事を聞いてあげようと言っているのに文句ばっかり口にして、一体何様のつもりなんでしょう。むしろ感謝して崇め奉るくらいしたらどうなんですか」
「そんなに恩着せがましく言われる程のことでもないだろ、悩み事聞く位ならさあ」
「おやおや、随分態度が大きいですね、あんまり図に乗ってると阿良々木さんの黒歴史をダウンロードしちゃいますよ?」
「何その脅し!?」

 どこからというかどうやってというか、何かもう言葉の意味は全然分からないけど超怖い。ダウンロードした黒歴史をどうするつもりなんだ? というか誰がそんなもんアップロードするんだよ。
何にしても、やれるもんならやってみろとか、さすがにちょっと口にできない凄みがある。八九寺さんマジぱねえ。
まあ冗談と雑談はさておくにしても、折角と言えば折角の機会、これも巡り合わせと考えて、ちょっと相談してみるというのは確かにありだろう。
色々煮詰まっているのは事実なわけだし。

347 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:18:50.66 3xx8EUsG0 258/477

「で、何なんですか? ほら勿体ぶってないでさっさと話して下さいってば。全く、阿良々木さんのくせに生意気ですよ」
「さりげなく僕を貶めようとするんじゃない。別に勿体ぶってるわけじゃないぞ。まあ相談事っていうか、僕の妹達のことなんだが」
「妹さん達がどうかしましたか?」
「最近いつも一緒に寝てるんだけどさ」
「死んで下さい」
「相談拒否!?」

 仏の八九寺さんは終了したらしい。
明確に表情が変わり、明白に距離を取り、まるで汚物でも見るかのような視線を僕に向けてくる。
こいつ、何て目で見やがるんだ――ちょっと興奮してしまうじゃないか。

348 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:21:52.37 3xx8EUsG0 259/477

「今更過ぎるほど今更ですけど、とんでもないことをカミングアウトして下さいましたね。既にお手付きですか、ご賞味されてましたか、姉妹で味比べですか。そこまで突き抜けられますと、私ももう何も言えませんよ。弁護してくれと求められても困ります」
「いやいやいや、何を想像してるんだよ、別に性的な意味じゃねえよ、本当に普通に寝てるだけだ。全然やましくない。勿論やらしくもない」
「性犯罪者は皆そう言うんです」
「言わねえよ。限定的過ぎるだろ、状況が」
「それにしたって、あの阿良々木さんが、シスコンでロリコンで骨フェチに髪フェチの阿良々木さんが」
「ちょっと待て、お前は僕の何を知ってるんだ?」
「無防備にあどけない寝顔を晒している妹さん達を見て、阿良々木さんが発情しないわけがないでしょう。まさか不能にでもなったんですか?」
「ストップだ八九寺、その発言はさすがに流せないぞ」
「おや、私が何か変なことでも言いましたか?」
「自覚がないのかよ、ちょっとお前の胸に僕の手を当ててよく考えてみろ」
「本当に隙あらばセクハラを狙ってきますね、いっそ感心しますよ」
「まあそれはさておき、さすがにもうちょっと自重していこうぜ」
「阿良々木さんが自嘲でもしていて下さい」
「しねえよ。つーかそもそも不能じゃないから。ちゃんと八九寺にも反応してるさ。何なら確認してみてくれてもいい」
「死んで下さい」

349 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:24:52.60 3xx8EUsG0 260/477

 本日二度目。しかし今日はよく僕の息の根が止まる事を求められる日だ。
八九寺に言われたんじゃなかったら三日は凹むところだな。

「私に言われたら喜ぶみたいな感想は止めてほしいんですけど」
「まあいいじゃないか。とにかく妹達とは普通に一緒に寝てるだけだよ。まだ今のところは」
「最後の一言で全てが台無しな気もしますが、逆に今日時点では大丈夫だという証拠とも受け取れなくはないですし、いやはや何とも突っ込みに困る発言をして下さいますね」
「それで話の続きだけどさ、そんな仲良し姉妹が喧嘩してんだよ、今」
「それを言いたかったのなら、一緒に寝てる発言ははっきりと不要だったような……しかしそれは何とも珍しい。連理の枝もかくやという程の間柄とお聞きしていましたが。どうしてそんなことに?」
「んー、ちょっと話が長くなるぞ」

 前置きして状況を説明。
今までに得た情報を含めて、淡々と話をする。
不幸を周囲にばら撒く少女に、その被害状況。周囲の心配を顧みず突貫する火憐と、その説得に失敗して衝突した月火達。
今は月火の号令で被害の拡大は抑えられていること、首を突っ込んでいるのは火憐だけという現状、その火憐に非難の声が出始めている現在。
僕の言葉に黙って耳を傾ける八九寺の表情は、少しずつ真剣なものに変わっていき、話が終わる頃には深く考え込むような仕草を見せていた。

350 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:28:20.01 3xx8EUsG0 261/477

「どうした八九寺? 何か解決の糸口でも見出してくれたか?」
「そこまで直截に救いの手を求められても困りますけど……そうですね、話を続ける前にまず聞いていいですか?」
「何だ?」
「どうして阿良々木さんはそんな平気そうな顔をしているんでしょう?」
「は……? 何だって?」
「どうして阿良々木さんはそんな不愉快な顔をしているんでしょう?」
「さっきと言ってる事が違うぞ」
「聞こえてるじゃないですか、それなら聞き返さないで下さい。時間の無駄です」
「いや、そのやり取りも大概時間の無駄だと思うけど」
「まあ阿良々木さんの顔はともかく、不愉快なのは正直な気持ちですよ」

 冷たい、という程でもないけれど、しかし確かに厳しい目を向けてくる八九寺。
僕の話の中で、何か引っかかる事があったのは確からしい。
でも、それでどうして矛先が僕に向くんだろうか?

351 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:32:19.90 3xx8EUsG0 262/477

「なあ八九寺、僕何か変なこと言ったのか? 不快にさせるようなことを言ったのなら全身全霊をかけて謝るけど」
「いえ、ごめんなさい、これは少し筋違いですね、私が怒ることではないですし」
「何の話なんだ? ちょっと分かるように説明してくれないか?」
「ですから、阿良々木さんがおかしいという話ですよ」
「まだ僕の悪口が続いてたのかよ」
「雑談ではありません、真剣に話してます」
「?」

 視線の先には、確かに真剣な眼差しの八九寺。
その表情を見る限り、完全にシリアスモードに切り替わっているようだ。
とすればその発言もまた、馬鹿にしたり茶化したりするようなものではなく、純粋な考察ということなのだろう。
そうして真剣な姿勢のまま、僕の目を覗き込むようにして八九寺が話を続ける。

352 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:36:48.61 3xx8EUsG0 263/477

「その松木茜さんという方の噂は本当だったんですよね?」
「あぁ。忍は悪魔が憑いてるって言ってたけど、とにかくその子が周りに不幸をもたらしてるってのは間違いないと思う」
「そんな人の所に、上の妹さん――火憐さんでしたか――が今一人で乗り込んでいってるんですよね?」
「そうだよ。まあそういうこともあって、早いこと解決させないと駄目なんだけどさ。いいアイデアが浮かばないし、どうしたもんかと」
「それですよ」
「それ?」
「阿良々木さんは、いつからそんなに賢くなっちゃったんですか?」
「賢くって――」
「私の知ってる阿良々木さんは、こんな時に立ち止まったり考え込んだりなんてしません。むしろこっちが止めなきゃならないくらいに、それこそ馬鹿みたいに猪突猛進するはずです」
「え?」
「……その表情を見ると、全然疑問にも思ってないようですね、ご自身の思考も行動も。不自然に思いませんか? 自分に違和感ないですか? 本当に?」
「違和感――は、あるけど」

353 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:41:57.83 3xx8EUsG0 264/477

 問い詰めるような態度の八九寺に、少し気圧される。
何か自分が大きな間違いをしているような、そんな気がして。
そして何より違和感という単語が、僕の心に重く響く。
それはここ最近ずっと、僕の中に燻ぶり続けているものだ。

「私に言わせて頂ければ、正直違和感しかないですよ。やけに物分かりはいいですし、動く前に考え込んじゃってますし、何より火憐さんを全然心配してないですし」
「いやちょっと待て、心配してないってことは――」
「ない、と言えますか? 本当に、そう言い切れますか?」
「……」

 真っ直ぐに、射抜く様な目で見つめられ、思わず言葉に詰まる。
というか、何で言葉に詰まる? 素直に答えればいいだけなのに。火憐のことを心配していると。
それなのに、言えない。口にできない。言葉にならない。
真摯に見据えてくる八九寺を前にしては、上っ面だけの言葉なんてとても口に出せなかった。

354 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:45:25.03 3xx8EUsG0 265/477

 そこでようやく、僕の心に疑問が浮かんでくる。
そして一度気付いてしまえば、後は堰を切ったように次から次へと疑問が湧き上がってきて止まない。

 なぜ僕は、こんなに冷静なんだ? 結局のところ、今回の事態は全く解決していないというのに。
どうして僕は、こんなにも落ち着いていられるんだ? まるで月火や神原や千石達が危険から遠のいた時点で、問題の重要度が下がったかのように。
何でそんな自分の状況に、今まで疑問すら持っていなかったんだ? 火憐が今もなお、松木の傍にいることを――危険の渦中にいることを、理解していながら。
そして何より、僕は今、火憐のことをどう思っている……?

「阿良々木さん、もしかしてあなた今、火憐さんに対する本来の感情――愛情と言った方が適切ですかね――を失っていませんか?」
「っ!」

355 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:48:45.27 3xx8EUsG0 266/477

 八九寺に言われて。明確に言葉にされて。
瞬間、気付いた。その指摘が正しいということに。
そして僅かに遅れて動揺してしまう。それを正しいと認めてしまった自分に。
事実僕は今、火憐のことをまるで関わりのない他人のように捉えてしまっている。
それこそ火憐に対する感情が抜け落ちてしまったかのように。
昨日だって、その無謀な行動に呆れを覚えるのみで、本来抱いているべき心配の情が薄れてしまっていた。

 いや、正確にはきっと僕だけではない。
意見が食い違ったとは言え、取っ組み合い寸前の喧嘩までして、それから全く歩み寄る気配を見せていない月火も。
火憐と月火のことを心配して話をしてくれていながら、火憐を止められなかった事実に特に反応を見せなかった神原も。
ファイヤーシスターズの不和の原因が火憐にあると信じて疑わず、冷遇するに至っている千石や他の中学生達も。
あるいは火憐の身の回りにいる人達全員が、火憐に対する好意を、それこそ外部から勝手に調整されたかの如く失ってしまっているような状況だ。
それもいつの間にか、無意識の内に。

356 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:52:36.76 3xx8EUsG0 267/477

「やっぱりそうですか。本当に私からすれば目を疑うような異常事態ですよ、阿良々木さんが気付いていないのが不思議なくらいです。いくら無意識下の事とはいえ」
「待て、いやちょっと待ってくれ、何で――いや、何が……僕に、皆に何が起こってるんだよ」

 冷静な八九寺に比して、混乱を深めるばかりの僕。
いやもちろん言いたい事は分かる。
松木の、というか悪魔の術中に僕らが嵌っていると。そう言いたいって事は分かっている。
だけど、何で一度接近していた僕だけならともかく、一度も会ってもいないはずの月火や神原達まで影響を受けるんだ?
というかそもそも、僕達に一体何が起きているんだ? 混乱するばかりで思考が上手くまとまらない。

「本当に忍さんの懸念されていた通りになっているんですね、まあ無意識への干渉に注意するというのも無茶な話ですけど。しかしもうそろそろ気付いても良いのでは?」
「だから何にだよ」
「阿良々木さん達――というより、火憐さんと親しい間柄の方々全員が、その悪魔の術式の影響下にあるってことにです」
「いやでも、誰も松木って子に近づいてないんだぞ」
「近づいてるでしょう、火憐さんが。そうして今もアプローチし続けているんですよね? ただ一人だけ。その状況と、阿良々木さん達の現状と、そして松木さんという方が入院したという情報を合わせて考えれば、想像できるんじゃないですか?」
「――って、じゃあまさか、松木がまた悪魔に願ったのか? 自分に近づくやつじゃなくて、火憐ちゃんだけをターゲットにして、不幸――というか孤独になるように?」
「きっとそうでしょう。そしてその願いを聞いた悪魔が、火憐さんの近しい人間の好感度を余所にやってしまったんだと思います。ゲームのパラメータよろしく。それこそ味方の一人もいない状態になるまで」
「そんな……」

357 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:55:16.91 3xx8EUsG0 268/477

 淡々とした言葉が胸に突き刺さる。
もちろん八九寺に責めるような意図があったとは思えないけれど、それでもその結論は、僕の心を深く抉った。
火憐が松木の願いを受けた悪魔の術式で周りから完全に孤立させられていて、なのに僕はそれを気付いていながら放置していたということなのだから。
悪魔に弄られた感情そのままに、あいつの状況をまるで考えもせず。
僕だけではなく、月火も皆もそうだったのだろう。
そこに思い至り、得も言われぬ不安と嫌悪と焦りと恐れが、絡み合うようにして心に湧き上がってくる。
同時に、心の中で失っていたものが少しずつ形を取り戻していくような感覚。

「さあ阿良々木さん、いい加減に気付いて下さい。思い出して下さい。というか、一体いつまでそんな悪魔なんかにいいようにされてるんですか!」
「僕は――」
「阿良々木さんの、妹さんへの愛情はその程度のものだったんですか!? しっかり意識を持って下さい! 今ピンチに陥ってるのは誰ですか!?」

 がっしりと、八九寺が僕の胸倉を掴む。
身長の関係で、それはむしろ縋りつくような、しがみつくような、そんな挙動になっているけれど。
だけどその声が、その言葉が、その視線が、あやふやな僕の心に喝を入れてくれる。
余所に行っていた僕の想いが、失われていた感情が、急速に心の中で拡大し、あるべき状態に戻って行く。
そうだ、火憐は――

358 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/29 23:56:22.89 3xx8EUsG0 269/477

「僕の――妹だ。僕の愛すべき、何より大事な、かけがえのないたった二人の妹の片割れ――火憐ちゃんだ」

 言葉にしてやっと。意識できてようやく。今更ながらはっきりと。
僕は思い出した。あるいは取り戻した。
そうして気付いてしまえば、なぜ忘れていたのか、考える事もできなかったのか、自分で自分に腹が立つ程だった。
遅れて後悔と罪悪感すら重く圧し掛かってくる。
何でこんな当たり前な、大事な事を忘れられたんだ? 僕はいつからそんな馬鹿になったんだ?
火憐の危機を、その孤独を、その不幸を、気付いていたはずなのに、何で気にも留めずに、僕は――

359 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/30 00:01:09.65 knPsCVpG0 270/477

「今は自身を責めても意味は無かろう。すぐに気付かぬのは無理も無いことじゃよ。そも、それが悪魔のやり方なんじゃから」
「忍……?」

 音も立てず、僕の影から姿を現す忍。
いつものように凄惨な笑みを浮かべている――というようなことはなく、むしろ苦虫を噛み潰したような、どこか不機嫌さすら滲ませた表情で。
昼間だというのに、それこそ出番を待ちかまえていたのかと思う程に、それは自然で素早い登場だった。

「しかしようも勝手に諭してくれおったな。本来自分で気付かねばならんかったものを、甘やかしおってからに」

 ずっと黙っておった儂の立場がないじゃろ、と八九寺に対して少し不満げに言う忍。
え? あれ? どういうことだ? もしかして忍、僕の――僕達の異常に気付いていたのか?
そんな僕の疑問を察してか、忍は表情を変えないまま頷いて返してくる。

「言うたじゃろうがお前様よ、あんな陳腐な悪魔の術式なぞ儂には通用せんと。しかし無意識に干渉する術式である以上、今のお前様では逃れられんと」
「確かに言ってたけどさ。でもそれなら気付いた時に教えてくれてれば……」

360 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/30 00:04:48.56 knPsCVpG0 271/477

 その話は松木に会った直後、確かに聞いていた。
だけどそれなら、どうして僕達の異常に気付いた段階で教えてくれなかったのかと、勝手ながら思ってしまう。
そうすれば、こんな回り道をせずに、火憐を放っておく様なことをせずに済んだかもしれないのに。
いや、気付きもしなかった僕なんかが、そんなことを偉そうに言えた立場ではないけれど。
そんな僕の筋違いでお門違いの文句に、しかし忍は怒るのではなく、むしろ罰が悪そうな表情を見せてくる。

「これも以前に言うたと思うが、儂の立ち位置はあくまでもお前様との主従関係に起点があり、どこまで行っても怪異という立場から外れる事は無いのでな。さればこそ、如何にお前様の身内であろうと、儂は人間を救う為に自発的に動くようなことはせん。お前様の命令があるならまだしも」

 どこかもどかしげに、少し歯痒そうに、そう呟く。
あの時――四ヶ月だかの空白を経て辿り着いた和解の後、月火を巡るあれこれがあった時に、そんなことを言っていた記憶がある。
あくまでも、僕を介してのみ、忍は人と関わる。関わることを是とできる。人を滅ぼすことは無いにせよ、決して人を救う事も無い。
それが、忍が自身に課したルールだった。

361 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/30 00:08:15.21 knPsCVpG0 272/477

 であれば確かに、僕が何も気付かずに間抜け面を晒している状況では、何かをする訳にはいかなかったのだろう。
例え異常に気付こうとも、それを口にすることはできなかったのだろう。
それはきっと、忍にとっても腹立たしくもどかしいことだったに違いない。
改めて自身の間抜けぶりに腹が立ってくる。
僕がもっとしっかりしていれば、自分の異常にもっと早く気付いていれば、忍にそんな思いをさせることもなかったのに。

「ごめん、忍、折角忠告してくれたのに」
「ふん、まあ今のお前様はほとんど人間と変わらんからの、容易には気付かんのも無理はあるまいよ。無意識に対象の思考・感情に干渉してくるというのは、実際厭らしいやり方じゃよ。余程強く意識できねば容易に流される。儂やこやつのように怪異であればともかく」
「まあまあ良いじゃないですか、こうして状況に気付いたわけですから」
「うぬが気付かせただけじゃろ」
「それでもですよ。今回は不肖この私がその役目を負うたわけですが、そういう風に自分ではどうにもならない時に、誰かが力を貸してくれる事もまた、その人の力だと思いますよ」

 八九寺がにっこりと笑う。
安心させるような、勇気づけてくれるような、そんな笑顔。
僕を救ってくれる、笑顔。

362 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/30 00:13:37.40 knPsCVpG0 273/477

「それに、阿良々木さんも全く気付いてなかったわけじゃないのでしょう。ずっと不安や焦りを感じ続けていたという話ですし。きっと遠からずこの結論に至ったはずです。私達はその手助けをしただけに過ぎませんよ」
「あ、そうか、あの夢もそれじゃあ――」

 あの延々と何かを追う夢。あれは僕の中の無意識の、あるいは人ならざる部分からの警鐘だったのだろうか。
追いかけて、走り続けて、そして――
夢の結末は覚えていないけれど。
あの後、追いかけ続けた大切な何かを、僕が捕まえられたかどうかは分からないけれど。
だけど今は、夢よりも現実を見よう。現実を――火憐を追いかけよう。
そうと決まれば、それと分かれば、ここで立ち止まっている意味はない。
くよくよ悔むのも、うじうじ悩むのも、ぐだぐだ嘆くのも、今は必要ない。
そんな僕に価値なんてないのだ。

 今だって鮮明に覚えている――いつまでも、絶対に忘れてはならない。
別世界の僕に、あの悲壮な背中に、誓ったのだから。
僕は、皆を絶対に守ると。
だとすれば、今僕がやるべきことはただ一つ。

363 : ◆/op1LdelRE - 2012/01/30 00:17:30.13 knPsCVpG0 274/477

「では阿良々木さん、ここからはぜひ巻きでお願いしますよ」
「勿論だ、ここからはエンディングまで全力疾走だぜ」

 迂闊で粗忽な僕のせいで、随分と頁を無駄にしてしまった。
もうここからは寄り道も脇道も雑談も相談も必要ない。
一刻も早く、火憐の元へ――あいつを助けに行こう。
一人にさせてしまった事を、見て見ぬふりなんてしてしまったことを、謝らないといけない。
今も怒っているだろうし、意地にもなっているだろうけど、もう迷わない。
怒られるのも殴られるのも、後から好きなだけさせてやる。
あいつを助けられれば、まずはそれで全て良い。
その為になら、僕だって何でもしてやろうじゃないか。

 そう、宝石に封じられてしまっている程度の悪魔に。
そんな程度の存在なんかに、松木が魂を売ってしまっているというのなら。
僕はあくまで喧嘩を売ってやるまでだ。

372 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:12:33.88 Kicava140 275/477

 018.

「忍! 火憐ちゃんのいる場所は分かるか!?」

 見送ってくれた八九寺に別れを告げてすぐに。
僕は身を翻し、一直線に駆け出した。
問いかけとほぼ同時に向けられた、忍が指し示す方向へ。

「しかしお前様よ、勢い駆け出したのは良いが、何か策でもあるのか?」
「ねえよ」

 駆け出すと同時に影の中へと潜んだ忍からの問いに、単刀直入に返す。
策なんてあるわけがない。
火憐への想いを取り戻したとはいえ、新しい情報なんて何一つ得られてはいないのだから。
そもそも僕の頭では、頑固なあいつを説得する妙案なんて思いつかないし、あの子の問題を解決する名案なんて考えも及ばない。
今の僕の頭にあるのは、火憐を助けたいという一念のみだ。
だからこそ全力で走っている。

373 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:15:18.14 Kicava140 276/477

 もちろんそんな自分に思う所がないわけではない。
無知で、無能で、無策で、と考える程にほとほと情けなくなってしまう。
だけどそれでも、無情でなんかありたくはない。
ましてや、無残な結果なんて絶対に起こさせはしない。

「では、どうするつもりじゃ?」
「どうもこうもないよ、とにかく火憐ちゃんをあの子から引き離す」
「言うて聞くとは思えんが」
「言って聞かせるのは後回しだよ。とにかく強引でも力尽くでも、あいつを一旦あの子の傍から離れさせるのが先決だ」
「いや待て、よもや忘れておるのか? 距離を取ってどうにかなったのは、病弱娘が自分に近づく者の不幸を願っておったからじゃぞ。しかし今はお前様の妹御だけを狙い撃ちにしておる。である以上、距離を取ったとて何にも変わるまい」
「もちろん忘れてないよ」

374 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:19:10.58 Kicava140 277/477

「では、どうするつもりじゃ?」
「どうもこうもないよ、とにかく火憐ちゃんをあの子から引き離す」
「言うて聞くとは思えんが」
「言って聞かせるのは後回しだよ。とにかく強引でも力尽くでも、あいつを一旦あの子の傍から離れさせるのが先決だ」
「いや待て、よもや忘れておるのか? 距離を取ってどうにかなったのは、病弱娘が自分に近づく者の不幸を願っておったからじゃぞ。しかし今はお前様の妹御だけを狙い撃ちにしておる。である以上、距離を取ったとて何にも変わるまい」
「もちろん忘れてないよ」

 松木が不幸を願うその矛先が、今はピンポイントで火憐に向けられているというのは、まず間違いない。
誰かの不幸ではなく、火憐の不幸を、その孤独をこそ、今の彼女は願ってしまっている。
そして月火もそうだけど、皆が火憐に冷たく当たっている現状から、その効果はずっと継続中だと思う。
そうであれば、距離を取ったところでどうにもならないという忍の指摘はもっともだ。

「それなら――」
「だから、まずはそれでいいんだ。一旦火憐ちゃんをどっかにやって、それからあの子の感情の矛先を、僕だけに向けさせる」

375 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:27:27.94 Kicava140 278/477

 火憐が松木を助けようとして、関わろうとして、それ故に彼女がそれを疎ましく思い、恨めしく想い、その不幸を願っているのなら。
それならば、その矛先をもう一度変えてやればいいだけのことだ。
誰かではなく、火憐でも、もちろん月火達でもなく、この僕だけに。
火憐や月火達が無事ならば、僕が不幸になろうが孤独になろうが、そんなのは些事に過ぎない。
命の危険さえ回避するようにすれば、後はどうにでもなることだ。
それから改めて悪魔の処遇を考えよう。

「やれやれ、やはりそうなるのか。面倒じゃのう」
「悪いな忍、付き合わせて。でもこれ以上火憐ちゃんを危険には晒すわけにはいかないんだ。少しでも早くこの状態を解消しないと。その為には、多分このやり方が一番手っ取り早いと思う」
「早いは早いじゃろうが、まあしかしお前様に本当に性犯罪者の仲間入りをする覚悟があるというのならば、最早何も言うまい」
「待て、話が飛び過ぎだ。手なんて出さねえよ」
「手を出さんでも、相手の年が年じゃからの。望まれてもおらんのに、顔を出すだけならまだしも、口まで出すとなると安泰とはとても言えんじゃろ」
「そこは何とか考えるさ」

376 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:31:47.78 Kicava140 279/477

 とは言ってみたものの。
残念ながら、僕は話術に長けてなどいない。もちろん交渉術なんて論外だ。
思考の誘導なんて、されたことはあっても、したことなんて一度もない。
正直なところ、人を呼ばれるような事態にならず、けれど無視させることなく彼女の情念の矛先を上手いこと僕へと変更させられる自信なんて微塵もなかった。

 だけどそんなことは今更の話だ。
結局は優先順位の問題でしかない。
僕の今の最優先事項が火憐の身の安全であるのなら。
最早あれこれ考えていられるような状況ではないのだ。
考えるより動く――今はそれでいい。
火憐を助けることができるのならば、それで。

 事態の解決よりも先に。
悪魔の処遇よりも優先して。
自身の安全も重要だと認識してはいるけれど、それすらも今は二の次。
火憐の無事を確保する――それだけが重要で、それこそが本質。
今の僕を動かす原動力は、正しく火憐への想いだけだった。

377 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:39:36.12 Kicava140 280/477

 019.

 火憐の元へと一直線に走り続けること暫く。
ペース配分も何も考えないまま全力疾走を続けたせいで、息が上がってしまっていた。
忍に血を吸ってもらっていないので、今の僕の体力は、常人のそれとほとんど変わらないのだ。

 息苦しさに目が回りそうで。
肺腑は酸素を求めて悲鳴を上げていて。
足にも鈍い痛みが走り。
それでも止まらない。止まるわけにはいかない。
ただ力の限り走り続ける。
火憐のことを想えば、それこそ立ち止まって休む方がよっぽど辛く苦しいだろうから。

378 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:42:47.03 Kicava140 281/477

 胸が痛くなってくるまで全力で走り続けて。
そうして辿り着いたのは、先日も来たあの病院だった。
それは取りも直さず、今も火憐は松木の傍にいるということであり。
すなわち、あいつはなお火中の栗を拾うような危ない真似を続ける為に、未だ悪魔のもたらす渦中に居残り続けているということである。

 走り続けた結果のそれとはまた違う痛みが、胸に、心に走る。
こんな状況を、こんな事態を、僕は放置していた。
何も考えることなく、碌に悩むことすらなく、黙って見て見ぬふりをしていた。
悪魔の術中に嵌り、その手の平の上で踊らされていたのだ。
つい先日、忍から忠言をもらっていたにも関わらず、それをまるで活かすこともできずに。

 それがどこまでも腹立たしく、何よりも苛立たしい。
昨日に戻れるならば、自分の頭を全力で殴り飛ばしたいと思う程に。
そんな怒りを、それでも腹に呑み込んで、病院内へと駆け込む。
今は何よりも、火憐の事だけを考えなければならない。
自分への憤りだの何だのは全部後回しだ。

379 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:47:58.39 Kicava140 282/477

「まだわたしに関わってくるなんて、あんた頭おかしいんじゃないの? 近づくなって何回言ったら理解できるのかしら」
「そりゃ無理な相談だぜ。言ったろ、何て言われたって気持ちは変わらないってさ」

 呼吸を整えつつ、病院の廊下を突き進み、二人の姿を捜す。
幸いにも人影はまばらで、そんな挙動不審な僕を見咎める人はいない。
そうして捜し続けて、中庭の近くにまで来た時。
不意に話し声が聞こえてきた。
片や苛立ち混じりで、片や平静な声。
間違いなく松木の、そして間違えようもなく火憐の声。
捜していた二人の会話だった。

380 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:53:57.74 Kicava140 283/477

「訳分かんないわね。何でそこまでするのよ、こんなことしてもあんたに得なんて何もないのに」
「損得じゃねーよ、誰かの助けになりたいって気持ちがそんなにおかしいか?」
「おかしいに決まってるでしょ、そもそも誰が助けなんて求めてるのかしら」
「声に出さなきゃ助けを求めてないってわけじゃないだろ。お前の目を見てたら伝わってくるよ」
「勝手なことを言ってくれるじゃない、訳知り顔で。あんたにわたしの何が分かるのよ」
「分かんねーよ、今は何も。でも、分かりたいんだ。だから友達になろうって言ってんだよ」
「ちっ――本当に鬱陶しいわね、鬱陶しくて暑苦しい。言うに事欠いて友達? 冗談じゃないわ、そんなのなれる訳ないでしょ、あんたみたいなのがわたしは一番嫌いなんだから」
「なれるさ。嫌いだってことは無視できないってことだろ。無関心じゃない。黙ってられないってのは、あたしの言葉が届いてる証拠だ。本当は分かってるんだろ、こんなの間違ってるってさ。だから動揺してる。違うか?」
「むかつく――あんた本当にむかつくわ。本当はわたしに喧嘩を売りに来たんじゃないの?」
「別にそれでもいいぜ。本音も口にしないで、ぶつかりも喧嘩もしないで、それで仲良くなれるなんて思ってねーよ」
「はん、それでわたしに関わり続けた結果、あんた今どうなってる? 友達は何て言ってた? 家族は? 皆あんたの敵になってるでしょ。無視されて、疎まれて、独りになって。それも全部わたしと関わったからよ」
「……みたいだな。よく分かんねーけど、あたしが間違ってるって、あたしが悪いんだって、皆にそう思われてるのは知ってる。誰も味方してくれないのも、分かってるよ」

381 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 01:56:47.48 Kicava140 284/477

 ベンチに腰を下ろした状態で、親の敵を見るような目で睨め上げる松木。
その視線を、むしろ諭すような目で受け止めている火憐。
誰一人として味方をしてくれない中、僕や月火や仲の良かった友達にさえ見放されていて、更に助けようとしているその対象からも睨みつけられているような状況で。
それでもなお、火憐は揺らいでいなかった。
その立ち姿も、その視線も、その声も、真っ直ぐなまま。

 火憐のそんな揺らがぬ姿勢に、松木が苛立ちを深めていくのが分かる。
挑発するように、嘲笑するように、彼女の言葉が続く。

「わたしに関わるからそうなるの。わたしが、そうしてるのよ。あんた馬鹿だから理解できてないみたいだけど、はっきり言っとくわ。これ以上関わってくるならもっと悲惨な目に合わせてやる。わたしはそれが出来るの。これは脅しじゃないわ」
「止めろよ、そういうの。確かにあたしは馬鹿だし、だから何でそんなことできんのかとか、何であたしがこんなことになってんのかとか、そんなん全然理解できないけどさ、でもこれだけは分かるぜ。こんなこと続けたって、不幸になるのは、一番辛いのは、誰より悲惨なのは――お前だよ」
「――むかつくわ。あんたの全てがむかつく。偽善者ぶった態度がむかつく、説教染みた上から目線がむかつく、綺麗事ばっか喋るその口がむかつく、目も顔も表情も声も思考も思想も行動も、全部が全部むかついて仕方ないのよ。むかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつく――」

382 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:03:15.95 Kicava140 285/477

 怨嗟に満ちた声が、まるで呪詛のように低く重く響いてくる。
その視線だけで人を呪い殺せるのではないかと思ってしまう程の、そんな悪意と敵意と憎悪と憤怒に満ち満ちた目が、真っ直ぐに突き刺すように火憐へと向けられていた。
傍から見ているだけの僕でさえ怖気が走る。
およそ年端も行かぬ少女が向けていいような、また向けられていいような視線ではない。

 思わず息を呑み立ち竦んだ僕の視線の先――松木の手元に、ぎらりと鈍い輝きを放つペンダントがあった。
全身が総毛立つ感覚が走る。
瞬時に理解した――否、理解より先に身体が拒絶した。
やばい。あれはやばい。こいつは本当にやばい。
これ以上、それ以上、火憐をあれに関わらせてはいけない。
そう思った瞬間、上手い対処方法とか説得のやり方とか、そういう思考は欠片も残さず吹っ飛び、弾かれるようにその場を飛び出していた。

383 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:07:21.30 Kicava140 286/477

「待て、火憐ちゃん! 止めるんだ、その子から離れろ!」
「兄ちゃん!? 何でここに!?」

 僕の声に振り返り、驚きに目を剥く火憐。
同じく、視線をこちらに向けて動きを止める松木。
二人が固まっている間に駆け寄り、火憐の腕を掴んだ。
それで気を取り直したのか、掴まれた腕を振り払おうと激しく身を捩りつつ、きっと睨みつけてくる。

「っ! 兄ちゃん、離せよ! 何しに来たんだよ!」
「お前を連れ戻しに来たに決まってるだろ」
「兄ちゃんの助けなんていらねーって言っただろ! 帰れ!」
「帰るさ、お前を連れて」
「一人で帰れってんだ!」
「そうはいかねえよ」

384 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:12:50.36 Kicava140 287/477

 火憐と言い合っている内に、背中に妙な視線を感じて、思わず振り返る。
向けた視線の先に、震える程に冷ややかな眼差しがあった。
手にした石がそうさせるのか、嘲笑とか蔑視とかそんな言葉では言い表せないような負の情念が渦巻いているその目に、その表情に、思わず知らず息を呑む。
そこに浮かんでいるのは、火憐や月火と同年代とはとても思えない程に、暗く冷たくおぞましく黒く妖しく恐ろしく不気味で異様で醜悪で凄惨にしておどろおどろしい――まさに悪魔を思わせる笑みだった。

「何なの? その三文芝居は。あんた達こんな下らないものを見せつける為にわたしの所に来たの? 兄妹揃って頭がおかしいみたいね。気持ち悪い」
「何とでも言ってくれ。僕はこいつを連れて帰れればそれでいい」

 表情そのままの、まるで地の底から響いてくるような低く暗い声が、想い響きを伴って僕の耳に届く。
気を抜けば震えてしまいそうな程の、凍えるような声音。

385 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:17:49.08 Kicava140 288/477

 けれど、それでも。
突き刺さるような負の感情に圧倒されそうになろうとも。
視線は逸らさない。
表情は崩さない。
一歩たりとも引きはしない。
火憐の前に立ち、僕の体で隠すようにして、真っ直ぐに視線を返す。
その意識が僕に向けられるように――他の誰でもなく、僕を標的とさせるように。
誰よりもまず、火憐を助ける為に。

「僕は妹を助ける為に、ここに来たんだから」

386 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:21:37.28 Kicava140 289/477

 僕がそう言った瞬間、松木の苛立ちが更に深くなるのがはっきりと分かった。
一瞬表に出そうになった動揺は、しかし無理やり心の中に抑え込む。
決して狙い通りではないけれど、それでも目論見通りの結果が得られそうで、恐怖と高揚が心の奥から絡みつくようにして湧き上がってくる。

 ここからが正念場だ。
まずは不幸を願うその矛先を僕へ向けさせる。
そして、火憐を連れて一旦ここを離れる。
それから、どうにかしてここに近づけないようにする。
その上で、松木が魅入られている悪魔の問題を解決する。

 それら全てを、迅速に達成しなければならない。
綱渡りというか茨の道というか、あるいはいっそ茨の上を綱渡りするような、そんな厳しく狭い道のり。
だけど、何とかしてそれを渡りきらなければならないのだ。

387 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:29:47.25 Kicava140 290/477

 そう考えていた。
今の僕の問題は、僕が正面から立ち向かうべきなのは、松木茜という少女なのだと。
考えるべきなのは、悪魔を求めた彼女の心なのだと。
それが火憐を助けることなのだと。
故にこそ、僕の意識は前方に集中していて。

「……邪魔だ、兄ちゃん」

 だから気付かなかった。後ろにいる火憐が何をしようとしているのかも。
考えもしなかった。いきなり間に入り込んできた僕に対して、火憐が何を思ったのかも。
全く思い至ることもできなかった。まず僕が考えるべきことが何だったのかも。
そう、火憐のその細くも引き締まった腕が、僕の首にかかってくる、正にその瞬間まで。

388 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:35:10.51 Kicava140 291/477

「……っ!」

 首に巻きつけられる人肌の感触に、ぞっとする暇もあらばこそ。
完全に意表を突かれ、何の抵抗もできずに。
背後から火憐に首を狙われるという信じ難い現状に目を白黒させる間さえなく。
火憐は、一切の迷いも感じさせない動きで、僕の首を締め上げてくる。
正直なところ、痛みや苦しさよりも驚愕の方が遥かに大きかった。

「前言ったことさ、あれ取り消すよ。兄ちゃんが言った通りだな――あたしやっぱヒロインって柄じゃねーわ」
「おま、え……何、で……」

389 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:40:58.36 Kicava140 292/477

 冷静で淡々とした火憐の声。
対する僕は、掠れた声しか出せない。
発した言葉も意味を為さない。
助けに来て、その相手に落とされかけているという、まさに目を覆うような事態。
必死でその腕に手をかけて対抗しようとしたけれど、時既に遅し。
体勢が悪過ぎるせいで全然力が入らず、火憐の腕は徐々に僕の首に食い込んできて、どんどん苦しさが強くなってくる。
こうなってはもう勝負は決しているも同然だった。
拮抗すらしていないこの状況は、数秒後に完全に決着することになるだろう。
僕が無様に失神するという、考え得る限り最悪の形で。

「邪魔なんだよ、兄ちゃん。何であたしを助けに来るんだよ。いらねーっつったろ、余計なことしやがって。これ以上あたしの邪魔はさせねー。恨みたかったら恨めよ、嫌いたきゃ嫌え。今のあたしに兄ちゃんなんて必要ない。月火ちゃんも皆もだ。あたしは一人でいい」

390 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/04 02:43:42.19 Kicava140 293/477

 ぶつんと。
まるでブレーカーが落ちたかのように、そこで僕の意識は途切れてしまった。
それは息苦しいよりも、むしろ見苦しく、何より心苦しいことで。
そんな感想すら、けれど後付けのものでしかなく。

 火憐が何を思っていたのか。
一体どうしようと考えていたのか。
それは全然分からなかったけれど。
その時の表情を、確認する事はできなかったけれど。

 それでも、その声は耳に強く残っていた。
首を絞められる苦痛よりもずっと強く。

 意識を失う直前に聞こえてきた火憐の声音は。
決別を、決裂を思わせるその言葉は。
どこか悲しさが滲み、ひどく寂しさが募る、そんな苦渋の響きで満ちていた。

397 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:19:45.72 QFVBey/l0 294/477

 020.

 全くもって無様極まりなく、我ながら情けなくなってくるのだけれど、かくして再び火憐を助けに来て逆に攻撃されるという既視感溢れる事態に陥った僕は、呆気なく病院の床に沈められてしまった。
それはもうお手本のようなチョークスリーパーでの見事なまでの秒殺劇。
やられたのが自分ではなく、観戦しているプロレスか何かの試合での出来事だったのならば、きっと惜しみない称賛と拍手を送っていたことだろう。
吸血されていない僕と体調万全な火憐が普通にやり合えば、まあ確かに僕に勝算など惜しむほどにもないわけで。
これは当然の帰結であり、翻って火憐にその絶対的な意志があったということに他ならず、すなわち今のあいつには僕を排除することに微塵も躊躇いがなかったということに他ならない。

 もちろんそんな思考はもっと後になってからのものであり、現実には、火憐に締め落とされた僕は完全に意識を喪失してしまい、暫くの間病院の床に無様に倒れ伏していた――らしい。
当然自分が落ちた後のことなんて自分で知る由もないのだから、伝聞形になってしまうのは許してほしいと思う。
伝聞形――ではそれを誰から聞いたかと言えば。

398 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:22:05.23 QFVBey/l0 295/477

「いつまで寝てるのよ! いい加減に起きなさいよ! この役立たず!」

 そんな心優しいお言葉と同時に、僕の腹部に蹴りを入れてくれた少女――松木茜だった。
僕を起こしたのが忍じゃなかったのは、恐らくその場が無人になる事がなかったからだと思うけど。
しかしきっと影の中では、颯爽と登場しながらあっさりと退場した僕の姿を目の当たりにして、あるいは目も当てられず、その余りの不甲斐なさに歯噛みしていたことだろう。
何だかんだでプライドの高い彼女のその時の思いを考えると、全くもって申し訳ないことこの上なかった。

「ぐ……」

 とりあえず方法はともかく、起こしてもらえて助かったとは思う。決して感謝するつもりはないけれど。
もっとも松木としても感謝される為にそうした訳ではないだろうから、それで何も問題はないはずだ。

 閑話休題。
何しろ失神直後の身であり、暴言と苦痛で強制的に意識を取り戻しただけの状況では、すぐに起き上がることもできず。
呻くように呼吸をしつつ、軋むような体を捻って、睨むように声の方へと視線を向けるのが精一杯だった。
状況確認をしようというような意思による行動ではなく、ほとんど反射的な動作。
けれど。

399 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:27:26.14 QFVBey/l0 296/477

「……!?」

 そこで目にした表情が。
その声や行動以上に、そこに表れている感情が。
僕の心に、一気に意識が覚醒する程の衝撃を与えた。

「何なのよ……何なのよ、あいつは!」

 僕の視線が向いた事を認識して捲し立ててくるその顔には、先程までの悪魔のような笑みも、余裕ぶった嘲りも、達観したような呆れもなく。
ただそこには、癇癪を起こした子供のような、怒りと焦りと混乱が色濃く表れていた。
さっきまでとはまた違う意味で年齢不相応な表情。
そしてまた、さっきとは違って室内のどこにも火憐の姿は見られず。
そんな事実を目の当たりにしてしまっては、呑気に寝転がっていられるわけもない。

400 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:30:49.13 QFVBey/l0 297/477

「火憐ちゃんは――あいつは、どこだ? どこに行った?」
「知らないわよ! あいつがどこ行ったのかも、何考えてるのかも、わたしに分かるわけないでしょ!」

 未だ言うことをきかない身体をそれでもどうにか起こして。
発した問いに対して返ってきた、ヒステリックな声を耳にして。
そこで、ようやく気付く。
感情的になっている松木のその全身に、生気が満ちていることに。
さっきまであった病的な要素が、まるで最初からなかったかのように消えていることに。
そして同時に、その手にあったはずのペンダントが、無くなってしまっていることに。

 さーっと血の気が引いていくような気がした。
目の前の事実から連想される事態に、知らず息を呑む。
それでも、何が起こったのか、僕は確認しなければならない。

401 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:40:15.09 QFVBey/l0 298/477

「お前、さっき持ってたペンダントはどうしたんだ?」
「ペンダント? ……あぁそう、あんた知ってたんだ、あれが何なのか。だからわたしにちょっかいかけてきてたのね」
「あれに悪魔が憑いてるんだな」
「えぇそうよ、下らない事ばっかりしてくれる鬱陶しい悪魔がね」
「あんなもの、どこで手に入れたんだ?」
「わたしの両親が大量に買ってきた胡散臭い物の中に混ざってたのよ。まさか悪魔が本当にいるなんて思ってもいなかったわ」

 吐き捨てるように言う松木。
もっとも、それは僕も予想できていた。
彼女の両親は、きっと藁にも縋るつもりで、そういう怪しげなグッズにも手を出していたのだろう。
娘の回復を願って、気休めでも、仮初でも、そんな些細な希望のようなものにだって縋りたかったのだろう。
そうして集めた物の中に、こんなとんでもない物が――悪魔を宿した宝石なんかが混ざっていて。
そして松木もまた藁にも縋るような思いで、それに願った。願ってしまった。
けれど今は、それに頓着している場合ですらない。

402 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:49:17.07 QFVBey/l0 299/477

「それで、そのペンダントはどこにやったんだよ? まさか――」
「ふん、きっとあんたが想像してる通りだわ。あいつが持ってったのよ。有難迷惑にも、わたしの体が治るように願った挙句にね!」
「!」

 心臓が跳ねる感覚。今度こそ、はっきりと戦慄する。
ペンダントと火憐の姿が揃って消えていることから想像はできていたけれど。
断じてそうであって欲しくはなかったけれど。
現実はあくまでも無情だった。

 何が恐ろしいかといって、それは松木の体調が回復したという事実そのものではなく。
それが実現した経緯の方だ。
あるいは、松木の回復と同時に生じただろう副作用と言うべきか。

403 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:56:00.60 QFVBey/l0 300/477

 悪魔というものは、総じて人の願いの裏まで読む――それでも松木が完治しているということはつまり、火憐は裏表なく松木の回復を最優先に願っていたということであり。
それと同時に、あの悪魔は移動に関する術を使う――であれば当然、彼女が回復する為には、その病状や体質の行き先が必要になるはずであり。
これらの事実から導き出される結論をこそ、僕は恐れていたのだ。
何しろその行き先なんて、考えるまでもなく思い至ってしまうのだから。
まるで周囲の気温が突然下がってしまったかのような震えが、僕の体を走り抜けた。

 改めて松木に何があったのか確認してみると、どうやら僕が気絶した後、僕や他の友人達すら切り捨てて――そこまでして、それでもなお彼女に関わろうとしている火憐を挑発する為に、種明かしをしてしまったらしい。
火憐への周囲の人間の悪感情が、松木の周囲で起こる不幸が、それらが全て彼女の願いによるものだということを。それが悪魔の仕業であることを。
もちろん言葉だけで信用できる訳もなく、それならと松木はペンダントを火憐に渡して試させたのだ。
火憐に願いを叶えさせようと――綺麗事ばかり口にしている火憐のその本性を、その裏を暴いてやろうと、そういう心積もりで。
けれど。

404 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/05 23:59:22.02 QFVBey/l0 301/477

「何でよ……何でそこまでするのよ! それであいつに何の得があるの!?」

 その結果、松木は知ることになった。思い知らされてしまった。
火憐が掛け値なく本気で、揺るぎなく本心で、彼女を助けようとしていたということを。
口にしていた言葉も、見せつけた覚悟も、全て本物だったということを。
図らずも、松木自身が証明してしまったのだ。
悪魔の力を知ってしまっているが故に、それを認めないわけにはいかなかったのだろう。

 その結果が、今のこの状態だ。
感情のままに叫び、頭さえ掻き毟るようにし、僕を蹴り起こしてまで当たり散らして。
混乱し、動揺し、当惑し、狼狽し。
それこそみっともない程に取り乱してしまっている。

405 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/06 00:05:43.32 egeB4XpD0 302/477

 その姿を、そんな感情の発露を目の当たりにして。
少しだけ、松木の心が見えた気がした。
彼女のこれまでの行動の、その一因が。
彼女が何を求めていたのか、その一端が。
全容には程遠くとも、少しだけ分かってしまった。

 そして、だから。
もうここで僕が為すべきことは何もないと。
彼女のその疑問に答えるべきは、僕ではないのだと。
そのことだけは理解できた。

406 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/06 00:08:54.74 egeB4XpD0 303/477

「何よその目は……言いたい事があるんなら言いなさいよ!」
「僕に言える事なんて何もないよ。その資格も無いしな」

 表情の変化を目敏く見つけて、僕が何かに気付いたことを察知したらしく、松木が噛みついてくる。
けれど、僕には何も返してやることはできない。
もちろん意地悪だとか嫌がらせだとかではなく。
単にそれが僕の仕事ではないから。僕がやっていいことでもないから。だから何も言えなかったのだ。
しかし当然それで松木が納得してくれるわけもなく、むしろ更に突っ掛かってくる。

「何よそれ、あいつあんたの妹なんでしょ? わたしがあいつを不幸にしてるのよ? 恨み事の一つも言ってみたらどうなの!」
「だからそんなの無いんだよ。僕には何も言えない。あいつの考えを知りたいのなら、今度あいつに直接聞いてみればいいさ」

407 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/06 00:13:17.28 egeB4XpD0 304/477

 答えながら、体の各部の動きを確かめる。
どうやら特に問題はないようだ。
それならば、もうここで留まっている場合じゃない。
今僕がしなければならないことはただ一つ。
決意を新たに、勢いをつけて立ち上がり、身を翻す。

「ちょっと、どこ行くのよ」
「あいつの所だよ。言っただろ、僕はあいつを助けに来たんだ」
「ふん、とんだシスコンね」
「何とでも言え」

408 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/06 00:16:52.03 egeB4XpD0 305/477

 それだけ言い残して、一歩踏み出す。
そんな僕に、松木はそれ以上何も言わなかった。
動く気配も止める気配もなかった。

 あるいはもう、気付いているのかもしれない。
自分の中の疑問に、既に答えは出ているのかもしれない。
ただそれを信じられないだけで。
あるいは信じたくないだけで。

 いずれにしても、僕にはもう何も言うことなんてない。
言えることも、言っていいこともない。
だって僕は、火憐を助ける為にここに来たのだから。
そう、あいつと違って。

409 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/06 00:20:30.86 egeB4XpD0 306/477

 それ以上何も言わずに、静かにその場を後にする。
こちらはこちらで時間も余裕もないのだ。
火憐が今どんな状態にあるのかが、はっきりと想像できてしまうだけに。
急がなければならない。
二歩目からは、もう走り出していた。
迷いも躊躇いもなく、真っ直ぐに。

 火憐がどこに行ったのかは、聞かなくても大体分かっている。
あいつの今の身体状況を思えば、ここからそう遠くない場所にいるだろうことは、ほぼ確実だ。
果たせるかな、その予想に良くも悪しくも違わず、僕はすぐに見つけることができた。
病院の屋上で、誰もいないその場所で、たった一人で壁にもたれて俯いている火憐の、そんな痛ましい姿を。

418 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/10 23:56:56.74 G8TtBQ2z0 307/477

 021.

 火憐は目を閉じて、ぐったりと壁にもたれかかっていた。
浅く早いその呼吸が、力無く項垂れたその顔が、床に落とされて動かないその手が。
想像していた状況が事実だったことを、何より雄弁に物語っていて。
その痛ましい姿を目の当たりにして、胸が、声が詰まってしまう。
この事態を防げなかった自身の不甲斐なさに、今更ながら怒りと悔しさが込み上げてきて、気付けば痛みを覚える程に拳を握り締めていた。

「火憐ちゃん……」

 落ち着く為に一つ呼吸をして。
それからゆっくりと傍まで行き、しゃがんで静かに声をかける。
ぴくりと火憐の表情が動いた。
瞼を動かすことさえ億劫なのか、緩慢な動作で目を開けて、ゆっくりと視線が僕の方を向く。

419 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:01:21.22 aOiPVNaz0 308/477

「何だ――兄ちゃん、また来たのかよ」
「何度でも来るさ。悪いか?」
「悪いよ、悪いに決まってる。いらねーって言ったじゃん、あたし、兄ちゃんなんて、いらねーって言ったのに――」
「そんなの知らねえよ、お前が僕をどう思ってたって、僕にはお前が必要なんだから。言ったろ? 僕はお前を助けに来たんだって」
「余計なお世話だ、帰れよ」
「強がるな、無茶しやがって――お前の体、今どんな状態なんだよ」
「別に、問題なんかねーよ、今はちょっと、疲れたから、休んでるだけだ」
「休むだけで治るんなら、松木があんな事になってたわけないだろ。隠すなよ。今のお前、さっきまでのあいつと同じような状態になっちまってんだろ? 悪魔の願いとかのせいで」

 口にする言葉がひどく空しかった。
掠れた声でなお強がりを口にしようというのは見上げたものだが、衰弱しきったその様では、説得力がないどころか冗談半分にしか聞こえない。
いや、ふざけて言っている方がまだ救いがあるだろう。
聞かされるこっちの方が心が痛くなってくる戯言だ。

420 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:05:27.94 aOiPVNaz0 309/477

 唇を噛み締める。
どうしようもなく予想通りで、取り返しようもなく絶望的で、抗いようもなく予定調和な状況。
僕が間抜けにも失神している間に、そんな決定的な瞬間を迎えてしまった事実が、腹立たしくて仕方ない。
あれから何があったのか、火憐が何をどう願ったのか、想像するのは余りに容易だった。

 きっとこいつは、自分がどうなっても構わないというくらいのつもりで、松木の身体の完治を願ったのだ。
図らずもそれは、移動の術しか使えない悪魔に、ご丁寧にも移動先まで指定したようなものである。
だからこそ、松木の体質や病状は、余すことなく火憐の身体に移されてしまった。

 それが故の衰弱。
壁にもたれていなければ、きっと座ったままでいることすら難しいのだろう。
見ているだけで胸の奥が軋んでくる。

421 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:07:42.52 aOiPVNaz0 310/477

 そんな僕の表情を見て。
そんな僕の言葉を聞いて。
火憐が少しだけ目を見開いた。
驚きの表情――それすら今はぎこちない。

「なんだ……兄ちゃんも、知ってたのか」
「松木に聞いたよ、悪魔の宝石のこと。それが今回の事の原因だってのも、今はお前が持ってるってのもな」

 正確には忍から聞いたんだけど、まさかそれを口にするわけにもいかないので、あくまでも全て松木から聞いたことにしておく。
決して嘘は言っていない。確かにあの子からも話は聞いているのだから。
怪異に関する話なんて、こいつが知る必要はないのだ。
ただ僕が火憐と同じ情報を持っているということさえ伝われば、それでいい。
それだけでいい。

422 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:17:00.69 aOiPVNaz0 311/477

「そっか。じゃあもう、意地張っても、意味ねーか……」
「火憐ちゃん!」

 そこで緊張の糸が切れたのか、力無くずるずると横向きに倒れ込んでいく火憐。
慌ててその体を抱きとめる。
しっかりとこの手で。
今度は絶対に離さないように。

 そしてそこで、火憐の身体が不自然な熱を帯びていることや、鍛え上げていたはずの筋肉が嘘のように弛緩してしまっていること、いつもの溌剌とした生気が全く見られなくなってしまっていることに気付く。
蜂の時でさえ見せていた気丈さも、完全に影を潜めてしまっている。
触れているだけで折れてしまうのではないかと不安を覚える程に、目を離せば儚く消えてしまうのではないかと恐怖を抱く程に、脆くか弱くか細い体。
その現実を前に、僕の心が凍りつくような思いがした。
ともすれば、支えているはずの僕の方が崩れ落ちてしまいそうだ。
いっそ恐怖すら覚える。
ここまで弱さを見せるこいつの姿なんて、僕の記憶のどこを探しても見当たらない。

423 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:25:13.53 aOiPVNaz0 312/477

 けれど。
そんな状態にありながら、それでもなお火憐は微笑みを浮かべていた。
顔色は悪いし、呼吸は苦しそうだし、熱のせいか汗が滲んですらいて。
そんな劣悪な体調なのに、それでも笑顔を見せられるような、そんな強さもまた、確かにそこにあった。

「はぁ――本当にあるんだな、こんな不思議なこと。あの詐欺師の時もそうだったけどさ。あいつの――茜の身体と、入れ替わったみたいな感じだ。病気がうつったってことなんかな? 身体がさ、もう全然言う事きかねーんだよ。こんなん初めてだ。立ってるだけでふらつくし、拳も握れねーし、身体のどこにも力が入んねー」

 僕に身体を預けながら、片手を自分の眼前に持ってきてみせる火憐。
握ることすら満足にできないその手が、微かに震えている。
そんな程度の動きにすら、多大な労力が必要なのだろう。
大きく重い呼吸を一つして、その手を元の位置に戻す。

424 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:33:15.95 aOiPVNaz0 313/477

「つーかもう全身だるいし重いし、ずっと胸がむかむかしてるし、頭ももやがかかりっ放しだし、寒気だって止まんねー。体力も無くなってる感じっつーか、階段も一段ずつしか登れねーし、そんだけの運動でもうぜーぜー言ってんの。あり得ねえよな」
「火憐ちゃん……」
「なあ兄ちゃん、茜の方はどうだった? あいつ、元気になってたか?」
「あぁ、病人の気配なんて欠片もなかったよ。身体は健康そのものって感じだった」
「そっか、なら良かった」
「良くねえよ、この馬鹿! 何考えてんだ――それでお前がこんな状態になってたら意味ねえだろ!」

 弱弱しくも満足そうに笑う火憐を見て、思わず声を荒げてしまう。
今の火憐に怒鳴るようなことなんてしたくなかったけれど、もう感情を抑えることなんてできなかった。

 何やってんだ、っていうか何考えてんだ、こいつは。
いくらあの子を助けたいにしたって、やり方が滅茶苦茶過ぎる。
月火や千石や他の友達が、もちろん僕も神原も、火憐のこんな辛そうな姿を見せられて、こんな苦しんでいるところを見せられて、まさかそれで平気でいられるとでも思ってるのかよ。

 冗談じゃない。皆の気持ちを、心配を、一体何だと思ってやがるんだ。
それこそ、こいつの体調がこんなじゃなかったら、手を上げずにいられなかっただろう。
そんな僕の怒鳴り声に、けれどそれでも火憐は小さく首を左右に振って返してくる。

425 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:36:36.83 aOiPVNaz0 314/477

「ううん、意味はあるよ。あいつが元気になったんならさ。そしたらきっと、これから変われるから。だってあいつさ、今までずっとこんな辛い状態だったんだぜ。何一つ自由にならなくて、自分の意思で何かすることもできないなんて、そんなの酷過ぎだろ。そりゃ色々恨みたくもなるよ」
「だからって、どうしてお前がこんな……」
「何言ってんだよ、兄ちゃんがあたしの立場なら、おんなじことしただろ?」
「ああもう、そういうこと言ってんじゃねえんだよ」

 呼吸を乱しながらか細い声で、耳に痛い言葉を投げかけてくる火憐。
支えている腕に伝わってくる熱が、力無く預けられているその重みが、痛々しくも苦々しい。
そもそも、今更何を言っても、起きてしまった事態は変えようがないのだ。
ただその事実が苦しい。

 心の中の柔らかい部分が、刃物でごりごりと抉られているかのように痛む。
自分が苦境に陥っている方が、どれ程気楽か分からない。
火憐が苦しんでいる時間だけ、心がじりじりと削られていくようだった。
気を張っていなければ、あるいは叫びを上げてしまっていたかもしれない。

426 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:41:13.30 aOiPVNaz0 315/477

「そんな顔すんなよ、あたしは大丈夫だって。今はちょっとしんどいけどさ、ちょっと休んで、また一から体鍛えて、すぐに元気になってやるから」
「……」

 力無い笑顔でそんなことを言う火憐だけど、でもそれこそ意味のない宣言だ。
何も知らないからこそ口にできる言葉であり、知れば全ては霧消する。
松木ですら半信半疑で理解していなかった悪魔の存在を、火憐が理解できているはずもない。
というか、そもそも火憐はきっと、単純に松木の言うことに従っただけで、悪魔のことなんて全く信じていなかっただろう。
今だってそうだ。
その存在も、その影響も、こいつは毛の先程さえ信じちゃいない。

 それこそ何時ぞやの蜂の時と同じような状態だと、そう考えているのだろう。
今はこんな状態でも、いつかは元の身体に戻れるはずだと。
多少長引くことはあっても、自分が頑張れば、それを回復させることはできるはずだと。

427 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:52:55.30 aOiPVNaz0 316/477

 けれど違う。
今回の異常は、あの時とは決定的に、絶望的に違うのだ。
今の火憐は、一時的に体が弱くなってるだけ、というわけではない。
これまでずっと鍛え上げてきた体力が失われた、というわけでもない。
0に戻ったというような話ですらないのだ。

 正しくそれよりももっと酷い。
こいつの身に起きたのは、そんな状態変化などではないのだ。
単純に、松木の身体状況をそっくりそのまま引き継いだだけ。
阿良々木火憐の本来の身体状況なんて、もう何の意味も為さない。
元に戻るも何も、戻るべき健康体すら、今の火憐は失ってしまっているのだから。
それこそ、生来病弱な身の上で十五年の間生きてきた、というような状態に等しい。

428 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 00:58:40.31 aOiPVNaz0 317/477

 そうである以上、これからは今までの松木と同じような生活を送ることを余儀なくされてしまう。
家と病院を往復するような生活を、ずっと。
入退院を繰り返すような日々を、延々と。
そんな体を鍛えようなど、夢物語もいいところだ。
トレーニング以前にドクターストップがかかる。
些細な事で体調を崩すだろうし、そこでちゃんと対処できなければ、それこそ命にも関わりかねない。
持病もあるし、身体を補助する薬だって幾つも必要なはずで。
そんな状態では、学校に通うことすらままならなくなるだろう。

 今だってもう、いつ体調が急変してもおかしくないのだ。
そのくらいに体が弱ってしまっている。
今は気力で支えているようだけど、それも限度があるだろう。
いざとなれば吸血鬼の治癒能力を使うこともありだろうけど、それだって所詮はその場しのぎにしかならない。
病はどうにかできたとしても、体質までは癒せないのだから。

429 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:10:09.73 aOiPVNaz0 318/477

 全ては手遅れ。
どうしようもなく僕の失敗で、失策で、失笑ものの失態だ。
真っ黒な絶望が心を蝕んでゆくような感覚。
けれどそれすら、火憐の苦痛に比すれば如何程のものか。

 と、歯噛みしながら見下ろす視界の中、火憐の手元に“それ”を見つけた。
瞬間、最悪の対処法が脳裏を過ぎる――“それ”をもう一度使えば。
その行き先を、火憐ではなく、僕にすることができれば。
決して解決にはならないけれど、それまでの時間稼ぎにはなるだろう。
少なくとも、最悪な現状だけは引っ繰り返すことができる。

430 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:15:33.53 aOiPVNaz0 319/477

「――火憐ちゃん、そのペンダントを渡すんだ」
「は? 何だよいきなり。駄目に決まってんだろ」
「いいから渡せ。それはお前が持ってていいものじゃない」
「渡せねーよ。つーかこれは茜のものなんだぜ。大体これ渡したら、兄ちゃん絶対あたしが治るように願っちまうだろ。自分のことなんて考えずにさ。そんなん駄目に決まってる。つーかそれじゃ意味ねーんだ」
「駄々こねんな。心配しなくても僕の方がお前より丈夫なんだ。大体お前そんな状態で家に帰ったら大問題になるだろうが。両親にも月火ちゃんにも、何て説明するつもりだよ」

 病弱になろうと虚弱になろうと、吸血鬼の力を有している僕ならば、そんな致命的な事態にはならないと思う。
どころか、吸血鬼度を上げて体力の底上げをすれば、日常生活に支障が出ない状態に持っていくことだってできるかもしれない。
最悪でも、今の火憐の状態より悪くなることはないだろう。
そもそもこいつが苦しんでる姿を見せられ続けるなんて、それこそ僕の心の方が先に参ってしまう。
月火だって、両親だって苦しむことになる。友達だって心を痛めることだろう。
容易に予想できるそんな事態を看過することなんて出来ようはずもない。
こうなったら強引にでもと考えたが、そんな僕の思考に感づいたのか、火憐はペンダントを両手で握りしめ、僕の目から隠してしまう。
それは絶対に渡さないという、何より使わせないという、明確で明白な意思表示。

431 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:24:29.88 aOiPVNaz0 320/477

「止めろよ、兄ちゃん。違うんだよ、そうじゃねーんだよ。兄ちゃんじゃ意味がないんだ、あたしじゃなきゃ、駄目なんだ」
「お前が松木を助けたいってのは分かってるよ。だから僕にも協力させろってだけの話じゃねえか」
「兄ちゃん分かってねーよ。言っただろ、助けはいらないって」
「この期に及んで意地張ってんじゃ――」
「だって、あいつには誰もいないんだ」
「?」

 目と目が合う。
微熱を帯びたその体はなお変わりなく、掠れた声音も弱弱しいままで。
それでもその瞳には、単なる意地や思いつきなんかではない、確かな意志が、強さが宿っていた。
その強さが、一瞬僕から言葉を奪う。

432 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:27:40.65 aOiPVNaz0 321/477

「少なくとも、あいつはそう考えてる。自分には誰もいない。誰も味方がいないってさ」
「……」
「だから、兄ちゃんの助けは邪魔なんだよ。あいつが一人だってんなら――それで誰も信じられないってんなら、あたしも同じ立場にならなきゃ、何言ったって、何やったって、信じてもらえねーもん」
「じゃあお前、それで皆のことを無視したってのか? 皆を振り切ってでもあいつの味方になるって、皆以上にあいつを助けたいと思ってるって、そう示してやる為に?」
「もちろん皆には悪いと思ってるよ。全部解決したら、ちゃんと謝りに行く。だけどさ、もしかしたら正しいやり方じゃないかもしれないけど、でもやっぱあたし、あいつを見捨てられねーよ。あいつ一人切って解決なんて、そんなの嫌なんだ」
「だからってそんな――」
「それにさ、あたしがいなくたって、月火ちゃんには、兄ちゃんだって友達だっているだろ。独りなんかじゃない。兄ちゃんもおんなじだ。駿河さんだって他の皆だって。でもあいつは――茜は、そうじゃないんだ」
「……何か聞いたのか?」
「うん、色々聞いた。自虐的っつーか、やけっぱちみたいな言い方だったけど。親は治療費がすげーかかるからずっと働き通しで、ほとんど顔も見れなくて、話も出来なくて。すぐに体調崩すから学校にも通えないし、苛めとかもあったりしたみたいでさ」
「それで、なのか? そんな風に辛いことがあって、一人で悩んで苦しんで、嫉みとか恨みとかが募っていって、それで周りに不幸になれとか願ったり――」
「ううん、多分違う。あたしにこれ渡す時、あいつ言ってた、自分は願ってもまともに叶いやしなかったって」
「まともには叶わなかった?」
「だから違うんだきっと。あいつは多分、他人の不幸とかそんなのを願ったんじゃないんだよ。偶然か何か知らねーけど、結果的にあいつの周りで不幸事が続いちゃって、それで今みたいな噂が流れて、それがどんどん独り歩きして、だからあんなやけっぱちになっちゃったんだろうけど、でも最初はきっと――」
「……」

433 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:31:01.76 aOiPVNaz0 322/477

 火憐はそこから先は言わなかったけれど、でも僕にも想像はできる。今ならばできる。
松木はきっと、一人で辛い思いをしていた時に、『友達がほしい』とか、あるいは『話相手がほしい』とか、そういうことを願ったのだろう。
そんな些細な、それでいて切実な希望を、けれど彼女は悪魔に対して縋るように願ってしまったのだ。

 もちろんその願いは純粋なものだと、少なくとも自身はそう信じていただろうけれど。
その願いの裏に、病弱な自身の身の上に比して、輝かんばかりに青春を謳歌している同級生達への羨みや嫉みといったものが皆無だったとは思えない。
苛めを受けたり、理解者がいない身の上だったなら尚更だ。そんな思いを全く抱くなという方が難しい。

 そして悪魔は、そうした負の情念を、隠された本音を、見逃すようなことはない。
だからこそ両方の願いを叶える手段を取った――松木と関わりのある人間を事故や病気に陥れ、病院送りとすることで。
入院者同士であれば、時間も距離も関係なく、いつでも話ができるようになる――と。

 そんなことが頻繁に起こる内、周囲はそれを恐れ、やがて今のような噂が流れ始めたのだろう。
そしてまた、松木も理解してしまったのだろう、その事態がどうして引き起こされたのかを。
それが悪魔に願った代償だと、自分の願いが不幸を招くということを、だからきっと認めざるを得なかった。
そうしていつしか諦めて、心を閉ざして、負の感情だけを募らせていったのだ。
だから――

434 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:35:14.46 aOiPVNaz0 323/477

「だからさ、絶対に助けてやらないと駄目だって思った。傍に誰もいないってんなら、あたしが傍にいてやる。信じてほしいってんなら、無条件で信じてやる。知らないだけなら、教えてやるって、そう決めたんだ」
「この馬鹿……」
「そうかもな。でもあたしは、誰かの不幸を仕方ないって、そう諦められるのが賢い選択だってんなら、馬鹿って言われても諦めない方を選ぶよ」
「それで周りに迷惑かけてどうすんだよ。後で謝るったって、皆が皆理解してくれるわけじゃないんだぞ」
「うん、そうだと思う。理解してもらえないかもしれないのは分かってる。けどさ、だからって、それで苦しんでる人を見て見ぬふりなんてしたら、あたしはあたしじゃなくなるよ。人数の問題じゃねー。関係の問題でもねー。困ってる人がいるなら、その人を全力で助ける。例外とか順位とかそんなん無しで。それがあたしの信じる正義なんだ」

 誇らしげな表情で見上げてくる火憐。
見るからに辛そうで、聞くまでもなく最悪の体調で、それでも微塵も後悔していない顔が、そこにあった。
それを目の当たりにして、僕は言葉を失ってしまう――同族嫌悪か、自己嫌悪か。いつかの羽川の言葉が脳裏に過ぎる。
敵も味方も関係なく、多い少ないの問題でもなく、身近か疎遠かすら考慮せず、ただ皆が不幸から逃れられるようにと。
一人も見捨てることなく問題を解決したかったからこそ、火憐は松木を救うことを心に決め、その為に――松木に自身の想いが本物であることを示す為に、皆から疎まれるような選択肢を取ることすら覚悟し、その決意に従って行動した。
それがこいつの意志だというのなら、それを一方的に否定するわけにもいかないだろう。

435 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:39:16.85 aOiPVNaz0 324/477

 だからといって、全面的に肯定することだってできようはずもない。
何しろ事態は全く解決していないのだから。
幾らこいつが望んでしたことだといっても、現実問題として、その体は深刻な状況に陥ってしまっているのだ。
しかも現状、僕らには何も打てる手がない。

 悪魔に願うことは論外。
吸血鬼の力でも根治できないのは既に忍に聞いている。
現代医療で打つ手が無いのも松木のこれまでの闘病生活が証明済み。

 苦しくも、悔しくも、狂おしくも、僕には何もできない。
いや、誰にも何もできない。
こいつはこれから一生涯、ずっとこの体質と付き合っていくことになってしまう。
いつかそれに気付いた時、それを理解した時の火憐の心情を思うと、胸に苦いものが広がる。
その終わりの見えない道行は、間違いなく言葉に出来ない程の苦渋と苦難に満ち満ちているだろう。
けれどきっと、それでもなお、こいつはそれを後悔せずに立ち向かっていくに違いない。

436 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:45:33.30 aOiPVNaz0 325/477

 だとすれば。
火憐がそう決めたのならば。
確かにそれを覚悟しているというのならば。

「仕方ないな。とにかく火憐ちゃん、まずは医者の所に行くぞ」
「だから止めろって。あたしは一人で……」
「断るな馬鹿、診察室に連れてくだけだ。そのくらいの手伝いならいいだろ」

 その覚悟に、僕も付き合うまでのことだ。
こいつがそんな苦しみと戦い続けるというのなら、表からでも裏からでも、一生だって僕がそれを支えよう。
そしていつか見つけ出してやるのだ、他の解決策を。
両親や月火達への説明とかは難題だけど、それも含めて考えていけばいい。

437 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/11 01:52:36.08 aOiPVNaz0 326/477

 僕の言葉に、驚いたように何回か瞬きを繰り返す火憐。
腕に力を込め、じっと目を見る。
僕の想いが伝わったのかどうかは分からないけれど。
それでも、まだ何か言おうとしていた火憐は、しかし黙って静かに口を閉じた。
黙ったまま目も閉じて、ゆっくりと僕の胸に頭を預けてくる。
それを確認して、立ち上がろうとした、その時だった。

「茶番劇は終わった?」

 無感情で、無感動で、無遠慮で、無慈悲な。
そんな声が背後から聞こえてきたのは。

448 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/12 23:49:41.45 oIqahs7W0 327/477

 022.

 鼓膜を震わせる、低く冷たい声音。
ゆっくり背後を振り返ると、屋上の入り口前に立ち、腕組みしてこちらを見下ろしている松木の姿があった。
病室で見たまま、全身が生気に満ち満ちているのが分かる。
その立ち姿は正しく健常者のそれだ。
たださっきと違って表情は冷静そのものといった風で、焦りや混乱の色は微塵もなかった。
時間をおいたので落ち着いたということか。

「どうした? 何か用があるのか? できれば後にしてもらえたら助かるんだけど」

 ここでまた火憐とやり合われても困るので、機先を制して僕から問いかけた。
言いたい事とか聞きたい事とか色々あるかもしれないけど、まずはこいつを医者に見せてやらないといけない。
今じゃなくても、話ならいつだってできるんだし。
そんな僕の言葉に対し、松木は軽く鼻で笑った。

449 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/12 23:54:22.28 oIqahs7W0 328/477

「ふん、あんたなんかお呼びじゃないわ。用があるのはその子の方よ」
「今じゃなきゃ駄目なのか?」
「はっ、シスコン兄貴は黙ってなさい、心配しないでもすぐ済むわ」
「お、おい――」

 迷いのない足取りで。
迷いのない表情で。
真っ直ぐに僕らの――いや、火憐の方へと歩いてくる松木。
火憐もまた気だるそうにしながら、けれどしっかりと目を開いて迎える。

 見上げる火憐の表情は、さながら湖面のように穏やかで。
見下ろす松木の表情は、さながら能面のように無機質で。
場に満ちた空気が、二人の醸し出す雰囲気が、僕から言葉を奪う。

450 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/12 23:56:25.87 oIqahs7W0 329/477

 火憐の前で立ち止まる松木。
二人の動きと共に、時間まで静止したような気がした。
心臓の音すら聞こえそうな程の静寂。
と、松木がすっと火憐に向かって手を差し出す。

「返しなさい」
「……あぁ、これか」

 松木の言葉に一瞬考え込んだ火憐は、しかしすぐに視線を自分の手元に落とす。
僕から隠していたその手の中に、鈍い輝きを放つペンダントがあった。
この現況へと事態を導いた正にその元凶――いや、違うか。
あくまでもこの石は触媒に過ぎない。決してこの宝石単体で問題が起きたわけじゃない。
宝石の悪魔は、ただ願われてその力を使っただけだ。
全ては、見下ろすこの少女と、見上げるこの妹の、その意思によって導き出された結果なのだから。

451 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/12 23:59:54.15 oIqahs7W0 330/477

「それはわたしのものよ、あんたにあげたわけじゃない。勝手に持ち去らないで」
「あー、そうだな、悪い、返すよ」

 謝りつつペンダントを持った手をゆっくりと持ち上げる火憐。
黙ってそれを見下ろしている松木。
火憐の手が、悪魔の宝石が、松木のその手に近づいて行く。

 その光景を黙ったままで見ている僕だったが、心の中はさながら暴風雨のような煩悶懊悩と自問自答の嵐だった。
これを黙って見ていていいのか?
ペンダントを――悪魔の宝石を返してしまって、本当に大丈夫なのか?
松木がまた変なことを願ったらどうする?
火憐に追い打ちをかけるような、あるいは他の誰かに害が及ぶような、そんな願い事をされたらどうする?
今度は誰に何が起こるか分かったものじゃないのに?
それこそ、僕が横から奪ってでも、ここで全てを止めてしまった方がいいんじゃないのか?

452 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:07:19.32 ay/I0qVm0 331/477

 しかしそんな荒れ狂う思考が僕を強引な手段へと走らせるより先に。
記憶の中の忍の言葉が――物理的な距離に意味は無いというその話が、僕の体を縛り付けてしまう。
そう、きっと力尽くで奪ったって何の意味もない。
松木が、自身の意思で悪魔と決別できなければ、全ては無意味なのだ。
そして僕の手も、僕の言葉も、今の松木には届かない。
何をしても、何を言っても、今の松木には響かない。
僕に打てる手は何もない。

 だからって、このまま指を咥えて見ているしかないなんて。
この子がまた悪魔の誘惑に負けて、その命を――火憐が救おうとした命を削っていくかもしれないのに、ただ黙って眺めているしかないなんて。
そんな無力な自分が歯痒くて仕方がなかった。
だけど、そもそもこの場では僕には何の選択肢も与えられてなどいないのだ。
僕にできるのは、ただ火憐を支えてやることだけ。
何かあった時に、火憐を庇ってやる事くらいしかできない。

453 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:10:02.44 ay/I0qVm0 332/477

 そうやって僕が歯噛みしている間に。
何もできず、ただ事態を見守ることしかできない僕の目の前で。
悪魔を宿すその宝石は、松木の手に返ってしまう。

 瞬間、僕の体にも緊張が走った。
もうどうなるかなんて分からない。
息を呑んで、固唾を呑んで、ただ次の事態に備える。

 黙ってそのペンダントに視線を送っている松木は、しかし何の感情もその顔に表してはいなかった。
喜んでもいなければ、悲しんでもいない。
ただ視線を下に落としたまま。

「……」
「……」

454 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:13:22.59 ay/I0qVm0 333/477

 何の動きもなかった。
火憐からペンダントを受け取って、けれど松木は動かない。
もう用事は終わったはずだろうに、それでも視線は変わらない。
手元のペンダントへ、そしてその先にある火憐の、穏やかなその表情へ向けられたままだ。
僕がそれを訝しく思っていると、やがて痺れを切らしたように彼女はその口を開く。
表情が、感情が、そこでようやく動き出した。

「返しなさいって言ってるでしょ」
「? 何のことだよ、今返したじゃねーか」
「あんたがわたしから持ってった全てを返しなさいって言ってるのよ」
「は……? って、お前まさか――」

455 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:19:32.31 ay/I0qVm0 334/477

 火憐の目が見開かれる。
詰まる声。驚きに満ちた表情。硬直した体。
視線を追って見上げれば、ついさっきまで無表情だった松木の顔に、今は感情の色がはっきりと表れているのが分かった。
それは、明らかに怒り。

「頼んでもいないのに勝手に人の身代りになって、悲劇のヒロイン気取ってんじゃないわよ。返せ、それはわたしのだ」
「止めろ!」

 激した感情そのままに吐き出された言葉。
彼女が何をしようとしているのかを理解し、必死の形相で火憐が手を伸ばす。
それを無視して、ペンダントを強く握り締めて目を閉じる松木。
祈るように、願うように、あるいは呪うように。
火憐を支えながら、僕はそれを見ていることしかできなかった。
次の瞬間、石が鈍い輝きを放つ。

456 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:22:45.91 ay/I0qVm0 335/477

「……っ」

 刹那、びくっと二人の身体が同時に震えた。
見開いた目に映る松木の様子の変化に、知らず戦慄する。
両の足で立ってはいるものの、明らかに不安定で見るからに不調な立ち姿。
言葉にしなくても分かる――それ程に、彼女の表情からも身体からも、余裕の色が失われてしまっていた。
さっきまでの生気に満ちていた様子は、既に微塵も無い。
間違いなく、彼女の体質が元に戻されたのだ。
他ならぬ彼女の願いで。

 それでも、ふらつきながらも松木の気力は尽きていない。
一杯一杯になりながらも、それでも自分の足で立ち、真っ直ぐに火憐に視線を向けている。
対する火憐は、自身の身体の急激な変化に意識がついていかないらしく、呆けたような表情で見上げたままだった。

457 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:25:47.87 ay/I0qVm0 336/477

「これで、元通り、ね」
「っ! お前っ!」
「近づかないで」
「何する気だ!?」

 呟かれた元通りという言葉でようやく事態に頭が追いついたのか、火憐が僕の腕の中からばっと立ち上がる。
こちらもまた、さっきまでの余裕も、穏やかな表情も、完全に失われてしまっていた。
その手を――火憐が伸ばした手をかわすように、松木がすっと一歩下がる。
ペンダントを、しっかりとその手に握り締めたままで。

「あんたの自己満足に、付き合う気なんてないわ。わたしは、あんたなんかに負けない。あんたの施しなんて、受けて堪るか」
「待てって! あたしはいいんだ、もっかい貸せよ、それを!」
「させないって言ってるでしょ!」
「あ!」

458 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:28:54.50 ay/I0qVm0 337/477

 僕が口を挟むよりもずっと先に。
そして火憐が更に手を伸ばすよりほんの少しだけ先に。
松木は動いていた。

 その行動には、焦りや迷いや躊躇や混乱といったものは全く感じられなかった。
きっと彼女には、ここに来た時に既に覚悟ができていたのだろう。
既にもう、意志は固まっていたのだろう。
驚きに一手遅れた火憐の、その意味では負けだった。
僕を失神させた後のやり取りとは逆に。

 一際強くペンダントを握り締める松木。
その手の中のペンダントが。悪魔を宿すその石が。
火憐の目の前で。伸ばしかけていた手の、その少し先で。
ぱっ――と音も無く散った。
まるで最初から存在していなかったかのように、欠片すら残さず。

459 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:31:50.10 ay/I0qVm0 338/477

 病弱な少女に砕くことが出来るような、そんな柔な石なんかじゃない。
勝手に消え去ってくれるような、そんな簡単な存在なんかでもない。
これはもう間違いなく、彼女の――松木の願いが導いた結末だ。
悪魔の宝石が消え去るようにと、彼女はそう心から願ったのだろう。
でなければ、消失するはずなどないのだから。
紛れもなく、偽りでもない、本心からの悪魔との決別。
それが為された瞬間だった。

 と、そこで気力が尽きたのか。
あるいは緊張の糸が切れたのか。
松木の足から力が抜け、がくんとその身体が大きく傾ぐ。
それを、今度はしっかりと、火憐のその手が受け止めた。

460 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:34:28.65 ay/I0qVm0 339/477

「お前、どうして……?」
「ふん、何であんたが、そんな顔してんのよ」
「せっかく治ったのに、あたしはいいって言ってんのに」
「勝手なやつ。あんたの都合なんて、知らないわよ、あんたに借りを作るなんて、真っ平だわ」

 浅く早い呼吸、青白い顔、微かに震える身体――松木は、間違いなく元の体質に戻っていた。
力強く彼女の身体を支えている火憐もまた、同じく元の体質に戻っている。
松木の言うように、確かに全ては元通りだった。

「借りとかそんなんどうでもいいだろ、お前、治りたかったんじゃねーのかよ」
「しつこいわね、あんたの目的は果たされたんだから、どうでもいいでしょ。悪魔はもう消えたわ。あんたの友達連中も、これで元通りになるはずよ、それでいいじゃない」
「違う、それだけじゃ駄目なんだよ。だってお前が助かってない。あたしは、お前を助けに来たのに」
「何? この期に及んで、また勝手に友達面するわけ? ほんと馬鹿ね、あんた。わたしはまだ、あんたの友達なんかじゃないってのに」

461 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:40:57.44 ay/I0qVm0 340/477

 そこで。
松木の口元が微かに持ち上げられるのが見えた。
ほんの少しだけど、でも確かに。
もっともそれは一瞬の事で、すぐに元の仏頂面に戻ってしまっていたけれど。
でもそれは、間違いも紛れもなく、明らかで確かな変化の兆しだ。

 身体状況は、確かに全て元通りになっただろう。
だけど、その心は、感情は、表情は――決してそれらまで全て元に戻ったわけではない。
何もかもが元通りになってしまったわけじゃないのだ。

 まだ、と彼女は口にした。
おそらく無意識にだろうけれど、その言葉を使った。
友達という単語の完全否定ではなかった。
まだ――ならば、いずれきっと。
それが分かったのか、火憐の表情も少しだけ緩んだ。

462 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:44:56.97 ay/I0qVm0 341/477

「お前も、馬鹿だろ。治るチャンスを棒に振っちまいやがって」
「うるさいわね。もういいでしょ」
「あ、おい、どこ行くんだよ」
「自分の病室に決まってるじゃない、いい加減疲れたのよ」

 火憐の言葉で少しばつが悪そうな表情になった松木が、自分を支えてくれていたその手を突っぱねるかのように、ふらつきながらも再び自分の足で立ち上がった。
その足で、ゆっくりと扉の方へと歩き出す。
慌てた様子で立ち上がってその後を追う火憐。

「お前ふらついてんじゃねーか、手貸すぞ」
「もう鬱陶しいわね、別に助けなんていらないわよ。ていうかさっさと帰んなさいよ、もう用なんて無いでしょ」
「こんな状態のお前を放って帰れるわけねーだろ、ほら段差危ねーって」
「うるさいうるさいうるさい。何よもう、あんたほんとどっか行きなさいよ、目障りだし耳障りだわ」

463 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:49:28.53 ay/I0qVm0 342/477

 元通りになったせいか、少し覚束ない足取りの松木。
心配そうにその横に付く火憐。
騒がしく慌ただしくやり取りしながら、二人がゆっくりと階段を下りて行く。
自分の足で、自分の意思で、真っ直ぐに。

 世話を焼こうとする火憐に、松木はやはり険のある言葉で返してはいるけれど。
だけどその悪態から、今までのような刺々しさが薄らいでいるように思えたのは、きっと気のせいではないだろう。
そして火憐も松木も、きっとそのことに気付いているだろう。
僕はただ、そんな二人を見送るのみだった。
徹頭徹尾、僕はただ見ているだけだった。

464 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:52:25.65 ay/I0qVm0 343/477

「大したもんじゃな」
「――あぁ、そうだな」

 影から聞こえてきた主語も目的語もない言葉に、静かに頷いて返す。
視線を落とすと、影の中から顔だけ出して僕を見上げている忍と目が合った。
いつも通りの、どこか凄惨さを滲ませた笑み。
今はそこに呆れとかからかいとか、そういう意図が混じっているように思えたのは、決して僕の錯覚ではないだろう。
果たせるかな、忍は嘲るように鼻で笑ってきた。

「ふん、それに比べてお前様ときたら全く。とんだ無様を晒しおったもんじゃ」
「言うなよ、今まさに僕も痛感してるんだから」
「はっ。妹御が心配じゃと駆けつけておきながら、手も足も口も出せんまま締め落とされとるんじゃから世話がないわ」
「ここぞとばかりに言ってくれるな、お前も。まあでも、あいつが無事だったんだから、それでもいいんだよ。僕が無様で滑稽な姿を晒したって、そんなの今更だしな」

465 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:57:01.77 ay/I0qVm0 344/477

 決して強がりでも、まして負け惜しみでもなく。
心からそう思い、だから忍にそう言った。
僕は何もできなかったし、それを情けなく思いはするけれど、それでも火憐が無事だったという結果の前ではそんなの瑣末事だ。
間抜けな道化と笑われるくらいのことなら、むしろ喜んで受け入れてやるさ。

「何じゃい、からかい甲斐の無い奴め――ふん、しかしまあそこまで自虐的になることもあるまいよ。そも、お前様も何もできなかったわけではないしの」
「いや、別に慰めてくれなくてもいいよ」
「慰めておるわけではないわ。確かにお前様の決意それ自体は空回りじゃったが、しかしお前様の行動は決して無意味ではなかった。それだけの話じゃ。実際お前様の登場で事態は動いたんじゃからな」
「? どういうことだ?」
「妹御がお前様を――自分を助けにきた者を切って捨てて見せたことで、彼の病弱娘もその言葉に本気を覚え、その覚悟の程を理解し、故にこそ悪魔の石を渡してやろうと考えたんじゃ。お前様の投じた一石が無くば、彼奴も恐らく心を閉ざしたままじゃったろうし、事態はまだまだ長引いたはず。当然妹御がもっと悲惨な目に遭っていた危険性は相応に高かったろうな」
「そっか、そういう見方もあるのか――それでもやっぱり、僕がもうちょっと上手くやれていればって思うけどな」
「何を贅沢を抜かしおるか。そも結果だけ見れば、概ね全員の願い通りになっておるではないか。病弱娘は自身の味方を欲し、妹御は病弱娘を救う事を願い、お前様は妹御の無事を望んでおったんじゃから。ちゅーか悪魔の問題も片付いた現状、この上何を望もうと? それは傲慢というものじゃよ」
「……そう、かもしれないな。まだ問題は残ってるけど、それはこれからあいつらが向き合っていくことか」
「そう思っておれ。どうあれ、これ以上はお前様が嘴を挟むべき話ではなかろう」

466 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 00:59:55.23 ay/I0qVm0 345/477

 表情を変えることなく淡々と言う忍。
その言葉に、僕も小さく頷いて返す。
悪魔がいなくなったのならば、事実これ以上僕の出る幕なんて無い。
ここから先のことは、本当に普通の中学生同士の問題なのだから。
高校生の兄が口出しするなんて、さすがにみっともないどころの話ではないだろう。
精々見守るに留めるのが正しいあり方だと思う。
そもそも怪異が絡んでいないのならば、僕が出しゃばる道理なんてどこにもないのだ。

「それで忍、悪魔は本当に消えたんだよな?」
「ん? ああ、消えおったわ。宿主にそう願われてしまっては消えるしかないからの」
「じゃあ願いの効果は消えるんだよな? 火憐ちゃんが不幸になったりとか疎外されたりとかは、もうないよな?」
「効果はな。記憶までは消えんぞ」
「? どういう意味だ?」
「皆の妹御に対する感情はやがて元に戻ろう。近しければ近しい程早くな。じゃからそれは文字通り時間の問題と言ってよい。しかし妹御が皆の忠言を無視して動いた事実は消えたりはせんよ。記憶にも記録にも残ろう。もちろん孤立の経緯を忘れもせん。どうあれしこりは残るじゃろうな」
「そうなのか……でもまあ、それはさすがに仕方ないか」

467 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 01:05:46.37 ay/I0qVm0 346/477

 二人が消えた扉の方へと視線を向けながらの忍の言葉。
月火との喧嘩も、他の友達からの冷遇も、悪魔の願いにより誘発されたものだった。
けれど、たとえ悪魔が消えたって、喧嘩した事実も、そこに至った経緯も、決して無くなりはしないのだ。
事実は事実として残ってしまう。起きてしまった事は変えられない。
それはやはり残念に思うし、悔む気持ちだってある。

 とはいえ、火憐が独断専行していたというのも確かなのだ。
もちろん理由はあったにせよ。
そうであれば、そこにわだかまりが残ってしまうのは仕方がないとも言えるだろう。

 だけど、それは決して修復不可能なものでもなんでもない。
これから火憐が説明して、謝って、そうやって解決していくべきことなのだ。
もちろんあいつも、それはちゃんと理解しているだろう。
僕はただ、それを見守ってやるのみである。
求められればもちろん力を貸すにやぶさかじゃないけど、多分その必要も無いと思う。
あいつは――あいつらはきっと、もう大丈夫だ。

468 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/13 01:10:06.87 ay/I0qVm0 347/477

「ときにお前様よ、階下で少し騒がしくなっておるようじゃぞ」
「何だって? この上また何か問題が起きたのか?」
「いや、どうも医者に見つかったようじゃな。まあ病人が顔色を悪くしてうろついておれば、騒ぎにならん方がおかしかろう」
「そりゃちょっとやばいんじゃないか? 急いで下りよう」
「そう焦らんでもよい。急な体調変化で一時的に体が混乱しておるだけのようじゃ。さして深刻なものでもないし、すぐに落ち着くじゃろ」
「それでもだよ、大体火憐ちゃんはそれ分からないだろ? 大体そろそろ帰らないと駄目だしな、月火ちゃんだって心配してるだろうし」
「ふん、まあ好きにせい、儂は寝る」
「ああ、色々ありがとう、また夜にな」

 忍が影へと姿を消すのを確認して、僕も立ち上がる。
急いで扉へと向かい、階下へ――火憐の元へ急ぐ。
不器用だけど真っ直ぐな、誇るべき僕の妹の元へと。

476 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:10:12.43 QKSt9JF20 348/477

 023.

 病院からの帰り道、時刻は既に夕暮れ時。
陽は既に大きく傾き、二つの影が長く伸びている。
細い細い架け橋で繋がった影が。
沈み行く太陽を背に、自分達の影を視界に、僕と火憐は並んで歩いていた。
共に無言のまま。

 あれから――悪魔が消えてからも、事態は簡単に終局を迎えてくれたわけではなかった。
体感的にはともかく、実際にはむしろそこからの方が長かったかもしれない。

 僕が階段を下り、踊り場から階下の様子を確認した時、丁度慌てた様子の看護師達がストレッチャーを運んできているところだった。
廊下へと膝をついて項垂れている松木の元へ真っ直ぐに。
荒く苦しげな呼吸、蒼白な顔、震える身体。
横で声をかけ続ける火憐に悪態を返す余裕すら、その時には既にもう失われていて。
支えが無ければ倒れ伏していただろうそんな状態で、むしろよく階下まで無事に辿り着けたものだとさえ思う。

477 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:12:46.68 QKSt9JF20 349/477

 思わず足を止めて茫然と立ち尽くしている内に、松木はストレッチャーに横たえられ、そのまま運ばれていった。
忍の話ではそれ程深刻な状態ではないということだったけれど、あんな姿を見せられては心配するなという方が無理な話だ。
何も知らない火憐にとっては、きっと尚更だったろう。
目を閉じて横たわっていた彼女へと一瞬手を伸ばしかけた――が、邪魔をする訳にはいかないと考えたのか、すぐに動きを止めて、ただ黙ったまま見送るに留めていた。
力無く手を下ろすその表情に浮かんでいたのは、はっきりと憂いの色。

 それから残った看護師に事情を聞かれて説明に窮している火憐の傍に、ようやくのことで僕も辿り着き、状況について話をした。
もちろん悪魔のことを口にする訳にはいかなかったので、あくまで友人として見舞いに来ていた、とだけ。
病人である松木を僕達が連れ回していた、と疑われたらどうしようかと少し心配したものの、幸か不幸か、元より彼女は所謂模範的な患者ではなかったらしく、僕の説明をすんなりと信じてくれたようだ。
あるいは、それこそ僕らの方が振り回されていた、とか考えられていたのかもしれない。
心配げなというか同情的なというか、少しそんな目で見られていたくらいだったから。

478 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:16:16.23 QKSt9JF20 350/477

 結局その後、火憐に松木と話をする機会が与えられることはなかった。
ただ後で話してもらったところでは、特に目立った病状の悪化等の傾向も見られず、疲労の蓄積と診断されたとのこと。
実際、僕らがその説明を受けた時には、松木は既に自分の病室で眠っていたそうだ。
隣で話を聞いていた火憐は、そこで安心したように大きく息をついていた。
もちろん僕も、そこで安堵できたのは確かだ。

 でもそれと同時に、裏の事情を知る僕としては、今後を憂えずにはいられなかった。
今はもうその存在は消え去ったとはいえ、松木が悪魔に願ったせいで少なからず精気を奪われたという事実は消えたりしないのだから。
忍曰く、そこまで大きく損なわれているわけではないそうだけど、どうあれ悪影響が無いはずもないだろう。
せめてそれが最小限のものであってほしいと、そう願わずにはおれない。

479 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:23:26.45 QKSt9JF20 351/477

 そして松木の代わりという訳でもないけど、娘の病状悪化を知らされて駆けつけた彼女の両親と会話をする機会があった。
娘の方は親に対して少なからぬ不満を漏らしていたそうだけど、会ってみれば、二人は普通の人達だった。
本当に普通の、そしてただ純粋に、一心に、娘の身を案じている親だった。
もっとも、だからこそ娘の為にあらゆる手を尽くし、手当たり次第に縋る物を求め、遂には悪魔の石に届いてしまったのだろうけれど。
それでもそれはあくまでも結果論であり、二人の想いが本物である事実より優先されるようなものじゃない。

 病室の前で佇む僕らに声をかけてきた二人の表情には、疲労と心痛が色濃く刻まれていて。
その痛ましい姿は、しかし確かに心から娘のことを心配している親のそれで。
松木の事を自分の友達だと、そう胸を張って言った火憐に見せた少し安心したような微笑からも、彼女が強く想われていることが伝わってきて。
僕も少しほっとしたのを覚えている。

 その後、面会時間がとうに過ぎていたこともあり、二人が病室へ入るのを潮に、僕らも病院を出た。
より正確には、看護師から今日は帰るようにと言われて、大人しくそれに従っただけなのだが。
病院の出口を出てからも、火憐は後ろ髪を引かれるように、何度も立ち止まり、何度も振り返っていた。

480 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:25:45.53 QKSt9JF20 352/477

 その気持ちは分からないでもなかったけれど、いつまでもそうしていたって仕方がない。
何より松木だけでなく火憐もまた、一時的にとはいえ深刻な体調不良に陥っていたんだし、その心身への影響も心配だった。
松木もそうだけど、こいつだって休ませてやらなければならないだろう。
なので、適当な所で僕がその手を取って、引っ張るようにして帰路に着いたわけだ。

 火憐は特に反発することもなく(最悪引きずってでもと思ってはいたけれど)、素直に僕に引かれるまま歩き出した。
それからずっと、無言のままで歩き続けている。
繋いだ手は離さない。
ちらりと横目で窺うが、その乏しい表情から内心を読み取ることは難しい。
きっと色々な思考が、今も頭の中をぐるぐると回っているのだろう。
今も一人で、考え続けているのだろう。
だから。

481 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:31:29.04 QKSt9JF20 353/477

「――なあ、火憐ちゃん」
「……なに?」

 足を止めて声をかけてみると、小さな反応が返ってきた。
改めて真正面に立って視線を合わせる。
不思議そうな表情で見返してくる火憐。
言わなければならない言葉が、伝えなければならない想いが、僕にはあった。

「ごめん」
「え?」
「無視してて、放っておいて、ごめんな。お前はずっと一人で大変だったのに、僕はそれを気にもしないで――」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、やめろよ、謝んなって。むしろあたしの方が謝んなきゃなのに」
「いや、それこそ必要ねーよ。お前が無事なら、僕はそれでいいんだ」
「でも――」

482 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:40:34.32 QKSt9JF20 354/477

 なおも言い募ろうとする火憐だったが、僕は手を振ってそれを遮る。
こいつが謝る必要なんてない――少なくとも僕に対しては間違いなく。

「いいんだって。それに、お前がああしたからこそ、今回の事にも片を付けられたんだろうしな」
「……そう、なのかな?」
「当たり前じゃないか。これからはもう松木が周囲の人間を不幸にするとか、そういうことは起きないんだから。一番の問題は片付いたと言っていいだろ」
「だけどさ、あいつがそうしてたって事実は消えないじゃん。皆それを覚えてる。あいつだってそうだ。それに病気だって体質だって何も変わってないんだぜ。結局あいつ自身の状況は一個も良くなってねーのに」
「でもそれは、松木がこれから自分で向き合っていくべきことだろう。その解決の為に、あんな物に頼るのがそもそも間違ってんだ。それを無くして元に戻したってだけで、十分改善だよ」
「そりゃ、そうかもしんないけど」
「それにもう、あいつは一人じゃない。そうだろ?」
「……うん、一人になんてしねーよ、絶対」
「ならきっと大丈夫だよ。そんなすぐに素直にはなれないだろうけど、でも遠からず皆と仲良くだってなれるさ。まあ、もし何か助けが必要なら僕にも言えよ。できる限り手を貸すぜ、今度こそちゃんと」
「兄ちゃん――うん、ありがと」

483 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:45:50.69 QKSt9JF20 355/477

 僕の言葉を噛み締めるように、頷いて返してくる火憐。
そこでようやく、その表情が少しだけ緩んだ。
一人でも、と気を張って。
松木を助ける為に、と強がって。
それでもやっぱり不安や心配はあったんだろう。
痛みや苦しみは大きかったんだろう。
どんなにフィジカルが強くたって、メンタルの方はそうはいかない。
何たってこいつはまだまだ十五歳の中学生なんだから。

 その背中を後押しするという程でもないけれど。
でも僕は確かに味方だということを、その意思を伝えようと、またしっかりとその手を握ってやる。
少し遅れて、緩く握り返してくる感覚。
ふっと微かな笑みを交わす。

484 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:50:18.01 QKSt9JF20 356/477

「とにかく今は家に帰ろう。大体謝るってんなら、まず一番は他にいるだろ」
「……うん、分かってる。帰ろう、兄ちゃん」

 二人並んで、再び歩き始める。
その足取りはきっと、さっきまでより少しだけ軽くて。
無言のまま、それでも前を向いて真っ直ぐに。
帰るべき場所へ、返るべき形へ。

 完全に陽が落ちるより少しだけ早く、我が家の門扉が見えてきた。
街灯に照らされて浮かび上がるようなそれに、何となく安心感を覚える。
玄関の前、火憐が一つ深呼吸して。
僕の手を離し、一つ頷き、自分の手で扉を開けて。
そして。

485 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 00:56:41.98 QKSt9JF20 357/477

「ただいま」

 帰宅の言葉を伝えて、扉をくぐった火憐が、玄関で靴を脱いだところで。
リビングからどたばたと音が聞こえてきて、それに気付くと同時に扉がばんと勢いよく開き、月火が飛び出してきた。
僕の目の前で、火憐の肩がぴくりと動く。
後ろに立っているので、その表情は見えなかった――見えるのは、言葉が、あるいは胸が詰まった様子の月火の表情。

「火憐ちゃん……」
「月火ちゃん……」

 一瞬見つめ合う二人。
きっと心の中で、頭の中で、いろんな想いが渦巻いているのだろう。
溢れそうな感情に振り回されて、言葉が出てこないのだろう。
月火の瞳は、不安や悲嘆や後悔で揺れていて。
そしてきっと目の前に立つ火憐もそれと同じで。
数秒間の、そんな硬直の後。

486 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:03:12.58 QKSt9JF20 358/477

「ごめん! 火憐ちゃん!」
「ごめん! 月火ちゃん!」

 二人の、そんな言葉が綺麗に重なった。
言葉のみならず、ご丁寧にも下げる頭の角度まで同じで。
ただ心のままに、二人は想いを吐き出し続ける。

「酷いこと言ってごめん、無視しててごめん、放っといてごめん、話をちゃんと聞いてあげられなくてごめん」
「酷いこと言ってごめん、迷惑かけてごめん、困らせてごめん、心配してくれたのを無視してごめん」

 重ねる言葉と、重なる気持ち。
そんな風に想いが連なって行く内に、少しずつ二人の声が震えてくる。
その震えは身体にも少しずつ伝播していって。
揃って顔を上げて、ともすれば崩れそうな表情のまま、溢れそうな感情に従うまま。
互いが互いにゆっくりと歩み寄り、震えるその手を伸ばし合い。

487 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:10:13.81 QKSt9JF20 359/477

「ごめんね、火憐ちゃん。ごめん、ごめんなさい――」
「ごめんな、月火ちゃん、ごめん、ごめんなさい――」

 二人はしっかりと抱きしめ合った。
後ろの僕のことなんて、視界からも意識からも放り出して。
ただ二人で抱き合い、泣き合い、謝り合い。
後悔と、そしてきっとそれ以上の安堵の気持ちで。
言葉を連ね、想いを重ね、涙を流し続けている。

 そんなやり取りを、僕はただ黙って眺めていた。
不覚にももらい泣きする、というようなことはなかったけど。
少しだけ、鼻の奥が熱くなったことは否定できない。
何にしても、もうしばらく僕がただいまと口にするまでには時間がかかりそうだった。

488 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:14:20.11 QKSt9JF20 360/477

 でも、別にそんなことはどうだっていい。
二人の気が済むまで、好きにさせてやろうじゃないか。
こうしてどうにか、あるべき形に戻ってくれたのだから。
立ちっ放しで少し足が疲れる程度の事に一々文句を言うほど、僕は狭量な兄ではないのだ。
むしろずっと見ていたい気分ですらある。

 二人の謝り合う声を耳に。
二人の抱き合う姿を目に。
想い合う二人を心に。
僕はしばらくそうして立ち尽くしていた。
少しの疲労感と、多くの充足感を覚えながら。

489 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:19:15.06 QKSt9JF20 361/477

 024.

 紆余曲折を経てどうにか辿り着いた、後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされる――ということには、この日もならなかった。
それが何故かって、まず僕の方が先に目が覚めたからであり、また同時に昨夜は火憐と二人だけで眠っていたからだったりする。

 昨夜、あの電撃的な仲直りの後、部屋に引き上げてからの話は省略したいと思う。
もちろん積もる話はあったけれど、僕ら以外にとってはそれこそ詰まらない話だろうから。
色々と溜め込んでいた何やかやを吐き出し終わった時には、もうとっぷりと夜更け。
そうしていざ寝ようかという段になって、やぶから棒に月火が火憐へと、僕と二人だけで寝るようにと言い放ったのだ(もちろん僕の意見は完全無視だ)。
曰く、『火憐ちゃんはお兄ちゃん分が不足してるだろうから』とか何とか。
後はもう僕や火憐に発言をさせることなく、月火はさっさと一人で僕の部屋へと引っ込んでしまい。
僕達も正直結構疲れていたので、大人しくその言葉に従うことにして、二人だけで眠りについたわけだ。

490 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:23:44.54 QKSt9JF20 362/477

 しかし実際一晩明けて、とてもすっきりした気分だった。
悪夢にうなされるようなこともなかったし、痛痒を感じるようなこともなかったし、久しぶりに快眠できた気がする。
その理由なんて、考えるまでもなく明らかだ。

 視線を下へ向けると、目に映るのは、僕の胸の中に顔を埋めている火憐の頭だけ。
あまり口にはしたくないんだけど、身長の関係でこんな風に火憐の頭を見下ろすような形になるのは結構珍しいことだったりする。
そんなどうでもいい事実はさておき、改めてその頭頂部を見やりながら、小さく安堵の息をつく。
表情こそ隠れていて見えないけれど、耳に微かに届く安らかな寝息が、僕の背に回されている両手の力強さが、胸に伝わる温もりが、その無事を、健康を、何よりはっきりと教えてくれていた。

 何とはなしに、眠っている火憐の髪を撫でてみる。
意外にと言ったら怒られるかもしれないけれど、どうやら髪の手入れはきちんとされているらしく、とても滑らかな手触りだった。
指で梳いても引っかかる所なんて全くなく、さらさらと指の間を抜けていき、部屋に射し込む朝日を受けてきらきらと輝いている。
大雑把なようでいて、その辺はさすがに女の子ということか。

491 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:28:49.25 QKSt9JF20 363/477

 あぁでも夏休みの時、鍵でポニーテールぶった切った前科があったっけ、こいつ。
あれだけが例外だったのか、あの後に心境の変化でもあったのか、一体どっちなんだか。
とは言っても、そもそも僕には女の子らしい火憐なんて想像できないんだけど。

「……何か不快な思考を感知したぞ」
「どういう目覚め方だよ」

 何だか既視感を覚える目覚めの一言。
目を開けた火憐が、顔を上げて僕の方に少し恨めしげな視線を向けてくる。
同じく既視感を覚える突っ込みをしつつ、しかし髪を撫でる手は止めない。
月火もそうだったけど、何か癖になるような手触りなのだ。
心安らぐというか、落ち着くというか。
やっぱり兄妹であり姉妹なんだな、と納得する。
断じて髪フェチとかではない。ないのだ。

492 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:35:40.21 QKSt9JF20 364/477

 閑話休題。
そうして髪を撫でている内に、火憐の顔から不満の色は薄れていき、やがて照れたような表情へと変わる。
見ている僕の方も、自然と口元が緩んできてしまう。
ほんの数日ぶりだけど、何故かとても懐かしく思えるような、そんないつも通りのやり取りだった。

「おはよう兄ちゃん、いい朝だな」
「おはよう火憐ちゃん、よく眠れたみたいだな」
「もちろんさ。いやホント久しぶりに熟睡できた気分だぜ。ようやく帰ってきた感じっつーか。やっぱ兄ちゃん抱きしめてないと寝た気がしねーよ」
「重症だな、おい」
「いいじゃん別に。知ってんだぜー、兄ちゃんももうあたしらが傍にいなきゃ熟睡できねーってさ」
「何馬鹿なこと言ってんだ。そんなわけあるか」
「にっしっし、まーそういうことにしといてやるよ。あ、そだ」
「ん?」

493 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:39:07.73 QKSt9JF20 365/477

 何かを思い出したように、火憐が今度は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
こんな風に寝転がっている状態じゃなきゃ見られない、これも実に珍しい火憐の上目遣いだ。
狙ってやってるわけでもないだろうけれど、正直ちょっと胸にくるものがあるというか。
不覚にも少し動揺してしまった。
そんな僕の内心を知ってか知らずか、火憐は姿勢も表情も変えないまま、僕の顔へと手を伸ばしてくる。

「なー兄ちゃん、ちゅーしてくれよ、ちゅー」
「は? 何を言うかと思ったら、お前朝っぱらから何なんだよ」
「何だよもー、雰囲気壊すなよな。いいじゃんか、今そういう気分なんだよ。な、おはようのちゅーってことでさ」
「――まあ、たまにはいいか」

494 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:43:16.42 QKSt9JF20 366/477

 珍しく素直に甘えてくる火憐に押し切られてしまった、という事もあるけれど。
それ以上に、見上げてくるその瞳の中に、ほんの少しだけ寂しさのようなものを見つけた気がして。
だから、火憐の言う通りにしてやろうと思った。
まあ朝起きた時にキスしてやるくらいのこと、どこの家でも割とよく見られる光景だろう。
何らおかしいところはない。ないはずだ。

 と、そんな風に自分の中で結論づけておいて。
それから体を横にして上半身だけ起こし、火憐の後頭部に手を添えてやりながら、ゆっくりと顔を寄せ、軽く唇を触れさせる。
少しの間をおいて離し、それからもう一度。
火憐は何も言わず、ただ確かめるように、噛み締めるように、僕のそれを受け入れていた。
目を閉じたまま、ちょっと強張ったような表情で。
それが何となく微笑ましく思えてきて、口元が綻ぶのを堪えながら、また二度、三度と繰り返す。

495 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:49:56.16 QKSt9JF20 367/477

 ちょっと熱を感じる程度に軽く。
壊れ物に触れるようにそっと。
けれど包み込むように優しく。
じゃれ合うように、労わるように。
信頼の意を込めて、親愛の情を込めて。
昨日までの火憐の心の空白が少しでも埋まるようにと。
ただそう願う。

 そんな僕の気持ちは、きっと火憐の心にもちゃんと伝わったのだろう。
口づけを繰り返す内に、自然とその表情も柔らかいものに変わってゆく。
唇に触れる時は、おずおずとそのおとがいを上げて応えてきて。
頬に触れた時は、くすぐったそうに小さく笑う。
そんな穏やかな時間。

496 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 01:54:52.60 QKSt9JF20 368/477

「ん――へへっ、こういうのも何か悪くねーかも。ホントはもっと深いの期待してたんだけどさ」
「朝っぱらからそんなもん要求してんな。どこの痴女だよ」
「まあいいか。月火ちゃんも朝一のべろちゅーはお勧めできないよって言ってたし」
「聞いてたのかよ、それ」

 微かに頬を染めて照れ笑いする火憐と、少し憮然とする僕と。
それでもそれはとても心安らぐようなやり取りで。
僕もまた、何となく日常に帰ってきたような、そんな心地がした。

 そんな感慨を覚えている内に、火憐が再び僕の胸へとその顔を埋めてくる。
背中に腕が回され、しっかりと抱きしめられてしまう。
決して痛くはないけれど、とても強い抱擁。

497 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:00:01.07 QKSt9JF20 369/477

 そうして火憐はゆっくり大きく息を吸い、同じくゆっくり大きく息を吐く。
噛み締めるかのような呼吸。
かかるその吐息に、少し胸がくすぐったかった。

「んー……」
「何深呼吸してんだよ」
「兄ちゃん分の補給。何しろ昨夜はすぐに寝ちまったからな」
「一晩で十分だろ」

 少なくとも、僕はこの一晩で十分に妹分(火憐分)を補充できたのだから。
もちろん変な意味ではない。
やましくもやらしくもない。
何なら八九寺の貞操に誓ったっていいくらいだ。
ちょっと抱きしめたり髪に顔を埋めたりはしてたけど、この程度なら全然セーフだろう。
それはさておき、そんな僕とは違って火憐の方はなお物足りなげで、ずっと胸に顔を押し付けたままだった。

498 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:05:04.12 QKSt9JF20 370/477

「十分じゃないよ。全然足りねー」
「あんまりぐりぐりすんな、痛いから」
「何かもどかしいんだよ、もっと兄ちゃんの体温とか匂いとか感じたいのに。つーかもう服とか邪魔だろ、脱ごうぜ兄ちゃん」
「脱ぐか! 何馬鹿なこと言ってんだ」
「何だよー、兄ちゃんだってあたしら脱がすのは好きな癖によー」
「好きかどうかは置いといて、まず脱ぐのと脱がすのは全く別物だからな」
「じゃああたしが脱がせばいいってことか」
「だから朝っぱらから馬鹿なことは止めろってんだよ。つーか、いいだろこのままで。心配しなくたって、僕はちゃんとお前の傍にいるよ」

 全く、何を良いこと思いついたみたいに言ってるんだか。
大体からして今でも十分ぎりぎりなんだぞ。
頭を撫でてやりながらのそんな僕の言葉にしかし、火憐は口を尖らせて少し不満げな視線を返してくる。

499 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:15:09.08 QKSt9JF20 371/477

「それは嬉しいけどさあ。でもそれだけじゃ何か物足りねーんだって。一昨日もその前も、あたし一人で寝てたんだぜ」
「まあそれが普通なんだけどな」
「萎える突っ込みすんなよ」
「何で今のやり取りで萎えるんだよ、お前は」
「――ちょっと不安だったんだ、実はさ。一人であいつを助けるんだって思って、だから考えないようにしてたけど」
「火憐ちゃん……?」

 また僕の胸元に顔を埋めながら、ぼそぼそと呟く火憐。
その表情までは見えないけれど、珍しくか細いその声は、言葉通りの感情の色を示していて。
聞いている僕まで言葉に詰まってしまう。

500 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:18:17.07 QKSt9JF20 372/477

「もうこんな風にさ、兄ちゃんの傍にいられないかもとか、月火ちゃんと一緒に活動したりできないかもとか、友達と遊んだりできなくなるかもとか、そんなんが一杯ぐるぐる頭ん中で回っちゃってさ。それでもやるって覚悟決めたつもりだったけど、でも、兄ちゃんに、月火ちゃんに、皆に嫌われたかもって、そう考えちゃうとやっぱさ――」
「……考え過ぎだ、馬鹿。何があったって、皆がお前を見限ったりするわけないだろ。僕だってそうだ。つーか僕がお前を本気で嫌いになったりするなんて絶対にあり得ねえよ。もちろん月火ちゃんのこともな。いつか言ったろ、お前達は僕の誇りなんだって。どんなことがあったって、僕は死ぬまでずっと、お前達の事を大切に、この上なく愛おしく想ってるよ」

 言いながらその背に手を回し、強く強く抱きしめる。
火憐はあの時、松木を助ける為に、色々な物を切り捨てる決意をし、覚悟をし、行動をしたのだろう。
さっき吐露したように、ずっと少なからぬ不安を覚えながら。
友達と距離を置いて、月火と喧嘩して、僕を拒絶して――その時、その度毎に、きっと心を痛めながら。

501 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:24:02.81 QKSt9JF20 373/477

 でも、それはあくまでも火憐の側の話だ。
勝手に僕がそんな程度で見限るとか考えるなんて、それこそ冗談じゃない。
たとえ殴られようが、蹴られようが、締められようが、罵られようが。
いくら否定されようが、拒絶されようが、無視されようが、嫌悪されようが。
僕が火憐を想う気持ちが揺らぐことなどあり得ない。あり得て堪るか。
こいつは、僕が僕として生きる為に、欠くべからざる存在なのだから。

 火憐のいない生活なんて考えられないし、考えたくもない。
もちろんそれは他の皆だって同じだ。
悪魔の願いの効果に負けそうになった僕が言っても説得力に欠けるかもしれないけれど、それでも僕には、今回忍や八九寺がそうしてくれたように、いざという時に助けてくれる頼もしい存在がいるのだから。
だから、この皆との絆は決して壊れたりはしないのだと、改めて強く思う。心からそう信じられる。

502 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:28:14.75 QKSt9JF20 374/477

 と、腕の中で火憐が微かに身を捩る。
気付けば、何となくその体が微熱を帯びているようで。
ふと目と目が合う。
見上げる火憐の瞳はどこか熱っぽく、微かに潤んでさえいた。
頬ははっきりと紅潮し、僅かに濡れている唇は朝日を受けて輝いているように見えて。
そんな姿を目の当たりにして、僕の心臓が俄かに騒ぎ出す。

 何なんだこの感情は!
つーか誰だこの可愛い系女子!
このらしくないまでの可憐さは、一体どこからやってきた!?
不覚にも、あるいは迂闊にも、胸が高鳴ってしまうのを止められない。
思わず知らず息を呑む僕を見て、火憐は少しはにかみながら、胸に額をこつんと当ててくる。

503 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:32:24.92 QKSt9JF20 375/477

「……駄目だよ兄ちゃん、そんな殺し文句を優しく囁いてくるなんてさ。こっちのが恥ずかしくなってくるじゃんか。こんなん反則だぜ反則。誘惑し過ぎだってもう」
「っておいちょっと待て、誘惑なんてしてねえよ。つーかすげえいい場面だったはずだろ、今のやり取りとか。何でそんな話になってんだよ」
「えー、だって今めっちゃくらっときたぜ? ときめきっつーの? 今すっげーどきどきしてるもん。女に生れてきて良かったって、マジで思うもん。もう今なら兄ちゃんに迫られても拒めねえよ」
「いやそこは拒めよ」
「つーかむしろあたしが兄ちゃんに迫るかも。何だろ、この気持ち。ちょっと胸がきゅーってなるみたいな。一つになりたいって、こういう気持ちだったりすんのかな?」
「気をしっかり持て、それはお前の錯覚だ」

 少し体を離して、頬を染めたままそんな馬鹿なことを言ってくる火憐に、全力で突っ込んでおく。
下手したらこいつは本気で行動に移しかねないし、さすがにさらっと流すわけにはいかないだろう。
ちなみに、僕が迫るという言葉について突っ込まなかったことについては、特に深い意味はない。ないよ多分。
そんな僕の言葉にしかし、火憐はやれやれと小さく頭を振って返してくる。

504 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:44:41.09 QKSt9JF20 376/477

「何言ってんだよ、あたしは初めての相手は兄ちゃんだってもう心に決めてんだぜ」
「いやお前が何言ってんだよ!」
「後はもう時期だけの問題だな。中学卒業のタイミングがベストじゃねーかと思ってんだけど」
「ちょっと待て、まずは落ち着くんだ、時期以前の問題があるから」
「ちなみに月火ちゃんは場所にもこだわってるよ。ここ最近なんて全国各地の宿とか調べまくってるし。一番ムードの出る場所探すって」
「二人揃って何考えてんだ!?」

 僕のそれは真っ当な突っ込みだったはずだけど。
火憐はむしろ胸を張って、それが自分達の真実だと言わんばかりに主張してくる。
きっと自分の言葉に僅かさえ疑問を持っていないのだろう。
ここまでくると、いっそ清々しくすらあるかもしれない。
そんな風に僕が考えている間にも、火憐はどこか楽しそうに言葉を続ける。

505 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:50:10.88 QKSt9JF20 377/477

「何考えてんだって言われてもなあ。だってあたしらにとっちゃ何でも兄ちゃんが基準なんだしさ。男を知るのも兄ちゃんからなんて当たり前じゃねーか」
「いや、それは当たり前じゃないだろ……」
「つーかそもそも、あたしらを女にしていいのは兄ちゃんだけだ。他の男に許すつもりなんて毛の先程もねーよ。並みの男が触れていい程ファイヤーシスターズはお安くねーぜ」
「格好良過ぎるっ!?」
「ってことでさ、避妊具ちゃんと準備しといてくれよ、兄ちゃん」
「何の心配だよ! 誰がそんなもん準備するか!」
「なに!? 避妊具無しなんてそんなん駄目だからな! そりゃあたしと兄ちゃんのガキとか世界狙えそうだし、見てみたい気持ちは分かるけど。あたしだって我慢してんだぞ」
「だからまず前提がおかしいことに気付け!」

 思わずヒートアップする火憐と僕。
もっともその方向性は真逆だったけど。
つーかもうどこに突っ込むべきなのかが分からない。

506 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 02:57:25.78 QKSt9JF20 378/477

 とはいえ、会話の内容こそ落ち着かないものだったけれど、そうやってどたばたと騒ぐこと自体には、僕はどこか安心するものを感じたりしていた。
色々なことがあったし、問題が全部解決した訳でもない。
どころか、まだまだ山積みなのだ。
火憐は心配をかけた友人との関係修復をちゃんとしなければならないし、松木はそれに加えてこれからも自分の体質や持病と戦い続けなければならない。
そういう意味では、むしろこれからが本番だとすら言えるだろう。

 そもそも今後似たような問題が起きないとも限らないのだ。
いつかまた今回のようなことが起きれば、火憐はまた同じように――こいつが言うところの正義に従って行動するだろう。
そして僕もまた、それに振り回されることになるのだろう。
悩みの種も心配の元も、決して尽きる事は無い。
ずっとずっと続いていく。

 でも、それがこいつであり、僕らであるのだから。
だから、今はこれでいいのだろう。
これからもまた、そうしていけばいいのだろう。

507 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 03:07:15.57 QKSt9JF20 379/477

「お兄ちゃん、火憐ちゃん、目が覚めてるんなら、ほら起きて起きて。折角の休みでいい天気なのに、寝てるなんてもったいないよ」
「あ、月火ちゃん、いいところに。兄ちゃんの説得手伝ってくれよ。避妊具準備しないとか言うんだぜ、あり得ねえだろ」
「だから違うだろ、何でお前ら相手に避妊具が必要になるんだよ」
「む! その発言は頂けないね、安全日なら大丈夫とか思ってるのかもしれないけど、それ間違ってるんだから。そりゃ私とお兄ちゃんの子供とか世界取れそうだし、見てみたい気持ちは分かるけど。私だって我慢してるんだよ」
「お前ら本当に似た者姉妹だな! というかまずお前達のその懸念が間違ってると声高に主張したい!」

 そうして扉を蹴破らんばかりの勢いで乱入してきた月火が加わり、また変な方向へと話が加速していく。
未だ寝転がっている僕達の方へ飛び込んでくる月火を受け止めつつ、話の軌道修正を試みて、しかし上手く行かず。
休日の朝から疲れるような真似は勘弁してほしいと思うけれど、まあこの妹達と関わっていくのに、疲れないなんてことはあり得ないのだから。
素直に諦めて、流れに任せるのが一番良いのかもしれない。
実際その話の内容はともかく、こうして三人で騒ぐ事を楽しいと思う自分が、確かにいるのだから。

508 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 03:12:23.15 QKSt9JF20 380/477

 いつだって真っ直ぐで、馬鹿だけど実直で、不器用だけど誠実で。
そんな火憐を、そしてこいつと共に歩いて行ける日々を。
僕は誇りに思う。
迷惑とか心配とかかけられたりしても、そんなの瑣末事だと一笑に付せる程に。
こいつの兄であることを、兄であり続けられる事を、僕は誇りにしていこう。

 松木がこれからどうなるか、あるいはどうするか、僕には分からないし、またその必要もない。
きっとこれから先に僕の出る幕なんてないだろう。
ただそうである事を祈るのみだ。

 だから。
僕は僕で自分の物語を進めよう。
火憐がそうしたように。
僕もまた、自分の信じるものの為に、真っ直ぐに歩いていこう。

509 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 03:17:01.18 QKSt9JF20 381/477

これにて完結です。
長い話になってしまいましたが、お付き合い頂いた方々に感謝します。
調べてみたら、何かちょっとした文庫本一冊分くらいあるし……
まあ少ししんどかったですけど、それ以上に楽しんで書けました。
不覚にも自分で書いてて火憐ちゃんにぐっとくるものがあったり。
やっぱりファイヤーシスターズが一番好きですねー。
まあまずは寝る事にします……また明日にでも。
それでは。

519 : ◆/op1LdelRE - 2012/02/19 22:12:48.15 QKSt9JF20 382/477

こんばんはです。
ご感想感謝です。
ちょっとでもファイヤーシスターズにときめきを感じてもらえたら何よりです。

アニメの方も次はいよいよつきひフェニックスというか火憐ちゃん回というか。
しかしここまでで、偽のSSが増える傾向は見られず……歯磨き次第かなぁ。

次回作のネタはありますが――正直すぐには書けないです、すいません。
つーか長編はしばらく時間置かないと書ける気が全くしない……

ただ折角偽物語アニメも続いてるので、小ネタというかオマケというか、そういうのを書きたいなと思ってます。
新しいスレ立てるのもなんですし、このスレをもうちょっと使わせて頂こうかなと。
話としては、本当に今回の話のちょっとした後日談エピソードみたいなのをちょっとだけ。
完結とか言っといてなんですが、まあファイヤーシスターズ好きとしては、そういうエピソードをまだ書きたいと思ってたりするもので。
これから書いてくので少し時間かかるかもですが、よろしければまた見てやって下さい。


続き
月火「火憐ちゃんも、お兄ちゃんのことどうこう言えないよね」【後日談】

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