関連
八幡「だから…………さよならだ、由比ヶ浜結衣」【前編】

204 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 00:43:13.92 M+qnmSPO0 115/411

⑥彼と彼女はそうやって手がかりを拾い集めていく。


噂というものは、何を原動力にして伝播するものなのだろうか。まずは好奇心とか野次馬根性とかが考えられる。ただ単純に何かを知りたい、どうなっているか気になる、という気持ちが人に噂の内容を尋ねる動機になる。わたし、気になります!というやつだ。もうひとつは、他人と情報を共有したいという気持ちが人をそうさせるのだろう。同じ情報を共有することは連帯感なんぞを高めるのに有効な手段だ。葉山も夏休みの合宿で小学生相手にやっていたしな。まぁ、キャンプのオリエンテーリングや恋愛談義なら情報を共有しないことによる実害などそうそうはないだろうが、これが業務となると非常に面倒なことになるので注意が必要だ。会社の上司とかが言う「俺はそんなこと聞いてないぞ!」と

いうやつだ。

ただ、いずれにせよぼっちの人間の場合には集団内の人間のことなんて関心が薄いし、他人と情報を共有することもないので基本的に噂とは無縁の存在である。自分がその噂の内容に関わらない限りは。

その点、最近の俺の行動はいささかぼっちにあるまじき様相を呈していたわけで、色々事情があるにせよ噂話の台風の目になってしまっていた。しかし、台風の目というのも少し辛くなってきたかな。自らが無風状態であると自信を持って言えなくなってしまっている気がする。そんな中、本日新たな台風がこの2年F組にも上陸した模様だ。

205 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 00:45:32.50 M+qnmSPO0 116/411

容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、温厚篤実と一見非の打ち所がないクラス内トップカーストの人間である葉山隼人。

そして容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、冷酷無比な校内一との呼び声も高い美少女、雪ノ下雪乃。この二人が関わる噂話があったらどうなるのか。しかも、内容はみんな大好きな恋バナときたもんだ。瞬く間に広まるのは自明の理だった。

おとといの出来事は皆の記憶から見事に雲散霧消した。なにせ話題性が段違いだ。芸能記事でも熱愛している相手が一般人と芸能人ではだいぶ関心のレベルには差が出る。そこからいけば俺など人間扱いされているかも怪しい存在なので、皆興味のある情報の方に飛びつくというわけだ。それどころかおとといの話まで葉山が雪ノ下に告ったなどと混同されているレベル。まぁ、その方が俺としてはありがたいことなのかもしれないが。

そんなわけで、今日俺が教室に入った時にはもうその話題で持ち切りになっていて自分の存在などあってなかったような扱いを、要は無視されていた。ただ、なんというか…………昨日とだいぶ雰囲気違いませんかね?

206 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 00:48:09.87 M+qnmSPO0 117/411

机に突っ伏して音楽プレーヤーのイヤホンを挿したふりをし、件の噂話に耳をそばだてているとだいたいはこんな感じだ。

「葉山くん雪ノ下さんに告ったんだって!」「葉山くん雪ノ下さんのことが好きだったんだ、なんかショックかも」「でも雪ノ下さん断ったみたいだよ」「え~!?でもあの二人ならお似合いだと思うけどなぁ~」「あたしだったら即OKしちゃうのになぁ」「そもそもあんたじゃ相手にされないよ」「アハハハハ」


なんかずいぶんと和やかじゃありませんか?他にも「葉山くん男らしい」だの「葉山くんカッコイイ」だの「雪ノ下さんが羨ましい」だの…………俺の時はまるで犯罪の加害者と被害者みたいな扱いだったのに。まぁ、わかってはいたけど。

愛国無罪ならぬイケメン無罪か。かわいいは正義ならかっこいいもまた正義なのである。その理屈からいくと俺は悪ということになるのか?いやいや、現実の世界は異なる正義と正義のぶつかり合いだ…………俺には俺なりの正義があると声を大にして…………言いたいなんて思ったことなかったはずなのに。自分の正義など自分の中だけで納得できていればそれでよかったはずなのに。他人から理解してもらおうなんてこれっぽっちも思ってなかったはずなのに。よりによってあの葉山隼人が。俺とは絶対に相容れることのない存在であるはずの人間が。俺を…………俺だけを助けようとした。


207 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 00:50:49.70 M+qnmSPO0 118/411

あのタイミングで葉山が雪ノ下に告白した意味。それは、俺を女子両名への告白の噂から解放するのが目的に他ならない。ほとんどの人間はその真意についてもその行為の副作用についても気づいていない。みんな噂の内容に夢中になっていて、当の本人の様子にはあまり関心がないようだ。しかし、葉山に近しい人間ならその変化に向き合わざるを得ないだろう。表面上、彼のいる位置は昨日とまったく変わっていない。だが、よく見ると彼は誰とも会話をしていない。

話を聞いて反応はしているが、自分から話すことはない。ちなみに葉山のガチっぽい雰囲気を察したのかグループ内ではひとまず昨日の告白話は控えるようにしたみたいだ。ただ、そんな気遣いには関係なく葉山グループの時計の針はもうその動きを止められない。特に葉山と三浦の間なんかは時間が倍速で進んでそうだ。


結局のところ、葉山グループが葉山のためのグループであったのと同じように三浦グループもまた三浦のためのグループに他ならなかった。だから、葉山と三浦の関係が壊れればおのずと他のメンバー同士の関わりにも影響する。こうなることは戸部も海老名さんも望んでいなかったはずだ。そんなことは重々理解していたはずで、また自分もそれを望んでいたはずなのに葉山は自分の手で壊すことにしたようだ。しかも理由が俺のためらしい…………意味がわからない。


208 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 00:53:49.47 M+qnmSPO0 119/411

いや、ロジックとしてはわからなくもないんだけど。心情的に。というか葉山ってそんなことするような人間だったっけ?

今まで葉山隼人という人物は周囲の期待する”葉山隼人”像を演じていたわけで、本人としてもそうすることに特にためらいはなかった筈だ。それが何故……やはり結局のところ葉山に関することであっても他人については理解したつもりになっていただけに過ぎないのかもしれない。


そんなことを考えつつ、お昼休みに俺はまた例の場所でパンをかじっていると後ろから聞き覚えのある声がかかる。

「……やっぱりここにいたんだね、比企谷くん」

振り返ると、そこには本日上陸した台風の目があった。その目は少し寂しげに笑っていた。

「葉山…………むしろ何でお前がこんなところに」

「俺だってたまには一人になりたい時もあるさ」

そう言いながら階段に近づき、俺の横に腰かけた。戸塚ほどじゃないが距離が近い。思わず、体を少し横にずらす。

「俺の存在は勘定に入ってないんですね……」

「ああ、そうか……でも、君の場合は二人でいてもたいていは一人と一人って感じじゃないか?」

何気に酷いことを言われている気がするが、実際そうなので言い返すこともできない。俺は話題を変えることにした。

「それより…………どうしてここがわかった」

「結衣に訊いた」

「そうですか……」

なんかまた聞きたくもないことを訊いてしまった。別に葉山が由比ヶ浜と何を話そうが俺には関係のないことなのに。

209 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 00:56:40.37 M+qnmSPO0 120/411

「わざわざそんなことまでして……俺に何か用でもあるのか」

「ちょっと二人で話がしたかっただけだよ。あと、これあげるよ」

そう言いながら爽やかな笑顔で俺にMAXコーヒーを手渡す。俺の好みがわかっているとはこいつもなかなかやるじゃないか。一体どこから情報を…………いや、それ以上考えるのはやめておこう。

「どうも……」

もう一本持っていた自分の分を葉山が手に取ったところで、二人同時にプルタブを開けて飲み始める。温かい甘さが体中に沁みわたっていく気がした。一息ついたところでまた葉山が話し始める。

「……何か君の方から訊きたいこととかもあるんじゃない?」

「いや…………別に俺はお前のことそんなに興味あるわけでも知りたいと思っているわけでもないし」

そりゃないとは言わないが、わざわざそれを聞いてどうなんだという感じだし、たぶん俺にとっても不利な結果になることはわかりきっている。おとといの屋上での会話を思い返す限りでは。

「そうか……俺は興味あるんだけどな、君のこと」

「……」

いや、そんなことこっち向いて真顔で言わないで下さいよ葉山サン。なんか色々な意味で怖いんですが。海老名サン的な意味でも。…………はやはちとかあり得ない、よね?ダメ、絶対。

210 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 01:00:30.95 M+qnmSPO0 121/411

「俺になんぞ興味持ったところで何の得にもならんと思うけどな」

「そうか?自分の好きな人と仲がいい人間に興味を持つことはそんなに不自然なことかな?」

あぁ……やっぱり嫌だ。今のこいつと話したくねぇ。もう絶対避けられないもんね、話題的に。頼むから黙っててくれよ、マジで。俺の無言の拒否は無視して葉山は話を続ける。

「まぁ、こんなことをしたところで君の気持ちがわかるとも思えないけど…………ただ、そんなに悪い気分じゃない」

「そりゃお前のような人間の場合、自分の意思だけで決められることなんて少ないからな。自分の勝手だけで色々と決められるっていうのもそんなに悪いもんじゃないだろ?」

「はは、まったくその通りだ」

以前にも考えたことだが、ここでさりげなく葉山にぼっちの道へと引きずりおろそうとする自分。このなかなかの策士っぷりにはもう少し賞賛の声があってもよいのではいだろうか。いや、陰謀というのは明るみになったらダメなものだった。やはり日陰者の俺最強。…………最近は少し日向に出過ぎたか。


「俺は周りの人間のことなどどうでもいいから今まで好き勝手にやってきたが…………いいのか?お前がこんなことをしてしまっても。お前は自分の周りの人間の環境をどうしても維持したいものだと思っていたんだが」

それこそ、俺を犠牲にしてでも。そして、それは葉山だけでなく海老名さんや三浦の願いでもあったはずだ。

「確かにね。ただ…………修学旅行後に君と姫菜の噂が流れたときに、さすがにちょっと限界だと思い始めたんだ」

「……どういうことだよ」

211 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 01:03:53.00 M+qnmSPO0 122/411

「俺の知る限り、あそこにいたのは俺の友達と君と雪ノ下さんだけだった。それで、あんな噂が広がるということは流したのは俺の友達以外ではありえない」

「……状況証拠的にはそうかもな。でも……それが何でお前の心境の変化につながるのかが俺にはわからん」

「あの出来事はきっかけに過ぎなかったのかもしれない。ただ、俺の中での君への期待はますます天井知らずになってしまった。このままだと、たぶんまた君を犠牲にするであろうことは容易に想像できた」

「それならどんどん犠牲にすりゃいいじゃねぇか。俺はどうせ他の方法を知らんのだし」

「もう…………それは自分が許さなかったんだよ」

「なんだそりゃ……それじゃあお前、まるでいい奴みたいじゃないか」

俺の言葉が何か癇に障ったのか、葉山がこちらに振り向く。その表情は普段のクールな爽やかイケメンとは程遠かった。

「そんなんじゃない…………俺は、君に嫉妬していた」

「……」

どこから見てもいい奴と思われている人間に、こんな負の感情を真っ直ぐぶつけられるとは思わなかった。伏線らしきものがなかったわけじゃないけどね。夏休みの合宿の時に君とは仲良くできなかっただろう、と言われたのを思い出す。

「…………俺なんかのどこに嫉妬する要素があるんだよ」

「雪ノ下さんに惚れられているだけで十分だろ、そんなものは」

「……」


212 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 01:08:26.54 M+qnmSPO0 123/411

……結局その話題になるのかよ。自分でそのことを認めるのと他人から言われるのはまた違うものだ。俺は、葉山にそれを言われることがまだ納得できていなかったのかもしれない。だから、こんな言葉を返す。

「お前に雪ノ下の…………何がわかるんだよ」

「わかるよ。ずっと彼女のことを見てきたんだ。君が、彼女にとって特別な存在であることくらいすぐわかる」

「……」


“ずっと”という言葉の重みに、俺はその場しのぎの軽い言葉など返せるはずもなかった。小さい時から好きだった女の子は自分には全くなびくことはなくて、ぽっと出の捻くれたぼっちに好意を寄せている。そもそも、そんな状況すら認めたくもないはずだ。でも、目の前にいるこの男はその現実から目を背けず、認めたうえで彼女に想いを告げて敗れ去った。

そういう人間の発した言葉を無碍になどできるものだろうか。……葉山は俺の言葉を待たずに話を続ける。

「俺は、ずっと彼女のことを見てきてどうにかしてあげたいと思っていた。でも、どうやらそれは無理らしいことがわかってきた。……君が、雪ノ下さんを救ってあげてくれ」


これは葉山なりの誠意なのだろう。できれば俺もそれに応えたいところではある。しかし、それは間違いをそのままにしていいということにはならない。だから、こう返す。

「そもそも、その認識が間違ってんじゃねぇのか。雪ノ下は”救われる”ような存在じゃない」

「そうか……そうかもしれない。やっぱり俺は…………雪ノ下さんや比企谷のことなんてまだまだ全然理解してないみたいだ」

213 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 01:11:26.67 M+qnmSPO0 124/411

……なんでさりげなく雪ノ下と俺がセットになっているのでしょうか?彼女と俺が似た人間だとでも思っているのか?

「そうだな。ただ……俺だって雪ノ下のことなんて全然理解してないぞ。だから、あまり変な期待すんな」

「確かにね。ついおとといまで雪ノ下さんの好意の対象が誰かわかってなかったくらいだから」

「……」

こいつ……俺が認めるまで同じ話題を何度でも出す気だろ……モグラ叩き状態だな。仕方ないので俺は話題を変える。

「ところでお前…………いいのかよ?あんなことして。あれじゃあ海老名さんや三浦は……」

「姫菜には先に事情を説明して謝っておいた。一応納得してくれたみたいだ。彼女も君のことを心配していたよ」

「そうなんですか……」

あ~あ、最初からこうなるってわかってたらここまで無理しなくてもよかったんじゃね?俺。というか無理してたのか、やっぱり。ただのやせ我慢だったか。武士は食わねど高楊枝って言うしね。材木座曰く、武神らしいから仕方ない。

「で、三浦の方は…………あいつ、たぶんお前のこと……」

「わかってる。だから…………しばらくは以前と同じように接することはできないと思う。ただ……時間はかかるかも

しれないけど俺は優美子と友達に戻れることを信じている。君が心配することじゃない」

「ああ、そう……」

214 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 01:14:32.19 M+qnmSPO0 125/411

葉山に心配するなと言われたらこう返すしかない。しかし、こいつの言うこともあまり信頼できたもんじゃないけどな。

ただ、俺が葉山の周りの人間関係の修復なんてできるわけがないので放っておくのが一番だろう。

「そもそも君にこれ以上手を煩わせないためにこんなことをしたんだ。こちらの問題はこちらでどうにかするよ」

「それならいいんだが……」

「それよりも、君は自分や彼女たちの心配をすべきだろ?」

「……心配してどうにかなるんなら大した問題じゃないんだがな」

「それもそうだったね」

はにかみながらそう答える葉山。今はこいつの笑顔がなんだか無性に腹が立つ。自分だけ先に言いたい放題言ってスッキリしやがって。俺にどうしろっつうの。表情でこちらの意図をくみ取ったのか葉山はこう続ける。

「君は…………雪ノ下さんと結衣の想いに応えてあげればそれでいいんだよ」

「……何をしたら応えたことになるんですかね」

「それは比企谷くんが考えることだよ。それとも俺がこうしろって言ったらその通りにするの?君は」

「いや……」

「だろ?…………いいじゃないか、君は周りの人間のことなんて気にせず好きなように選択できるのだから」

「……」

その周りの人間の中に雪ノ下や由比ヶ浜が含まれていなかったら、確かにそうだったんだろうな。でも今は…………

215 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 01:34:06.58 M+qnmSPO0 126/411

俺が黙ったままでいると、葉山は話題を変えつつもまた答えにくい質問を続けてきやがった。

「ところで、君は今日も部活には行かないつもりか?」

「……当分は行けない、と思う」

「気まずくなるのが嫌だから?」

「あいつらに関してはそういう心配はしていない。それに気まずい空気なら俺はもう慣れっこだしな」

「ははっ。まったくそういうところが君の羨ましい限りだよ」

一体今の答えのどこに葉山の羨ましがる要素があるんだか……やっぱり葉山って人間のこともよくわからんな。

「そうじゃないとすると……?」

「……言い方は悪いが、お前と同じ失敗をするわけにもいかないもんでな」

表面上、取り繕って嘘や欺瞞に満ちた関係を続けることは、奉仕部の部員はたぶん誰も望んでいないのだろうし。

「なるほど、そういうことか。その答えを聞いて少し安心したよ」

「……どういうことだ?」


「逃げるわけでも嘘をつくわけでもなく、彼女たちの想いに応える用意があるってことだろ?それは」

「!……」

「その沈黙は肯定と捉えるよ。ただ、あんまり女の子を待たせちゃダメだよ」

「……そうだ、な」

218 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/14 01:53:31.29 M+qnmSPO0 127/411

あぁ、昨日もなんか似たようなことを言われたな。駄目だ自分……早くなんとかしないと……俺が頭を掻いていると葉山は何かもう満足したのかおもむろに立ち上がる。

「じゃあ、そういうことで。雪ノ下さんと結衣のこと……よろしく頼むよ」

「え……ああ……」

もはや返事なのか呻き声なのかもよくわからない音しか自分の口からは出なかった。ええいああ、もうなんかもらい泣きでもしたい気分。いや……自分が泣く分には一向に構わないけど……たぶん俺は……

「もうそっちのも空?空なら俺が捨ててくるけど」

「えっ?ああ……じゃあ頼む」

普段の俺なら絶対に遠慮しているところだが、もう頭が正常に働いていなかったせいか反射的にMAXコーヒーの空き缶を葉山に手渡してしまう。葉山はそれを手に取るとすぐに振り返って校舎の中に入っていってしまった。



一体自分は何をしたら……彼女たちの”想いに応えた”ことになるんだろうか…………

それに、彼女たちへの”俺の想い”は…………

231 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 13:01:26.06 g3KX1uql0 128/411

「比企谷、ちょっと今日の放課後に職員室まで来たまえ」

「は、はぁ……」

俺が奉仕部に行かなくなって4日目のことだった。現国の授業の終わりに唐突に平塚先生に呼び出しを食らう。いや、唐突ではないか。そろそろ来る頃合いかな、とは思っていた。そう言えば俺は受刑者だったんだ。今の俺はいわば脱獄囚みたいなもので、すなわちプリズンブレイクなわけでむしろ今まで放置されていたことの方がおかしかったのだ。しかも相手は俺をこの部活に強制的に入れた張本人である。何されるんだろ……また可愛がられるのかな、相撲部屋的な意味で。

ただ、逆に考えると今まで放っておかれたという見方もできるわけで、本当に行動が読めない。考えても仕方のないことをいくら考えてもムダなので、また俺は例の思考のループに頭を落とし込む。どうやって奉仕部に戻るべきなのか。


先に自分でループと宣言してるあたり、答えがそんなすぐに見つかるわけもなく早々に放課後になってしまった。どこぞの主人公は宿題をやってループを脱出したようだが、俺の宿題はいつ終わるのかな?そんなことを考えつつ職員室の扉を開ける。

「し、失礼します……」

「おお、来たか。こっちに来い」

232 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 13:08:14.86 g3KX1uql0 129/411

いつものパンツスーツに白衣のいでたちの先生がまた例のついたての奥に俺を手招きする。促されるままにソファに座るとおもむろに煙草を取り出して吸い始めた。ふぅーっと口からはき出された白い煙が上に立ち昇っていく。そういえば、そろそろ息も白くなる季節だな……。

「ところで先生は煙草やめようと思ったことはないんですか?」

「いや、ないことはないんだが…………しばらくは無理だろう。ここで吸われるのが嫌なら遠慮なく言ってくれてかまわないが」

「俺は煙草は好きじゃありませんが、吸っている姿を見るのは割と好きだったりもしますよ」

「す、好き……あ、いや」

一瞬、灰皿に灰を落としていた指が止まる……がすぐに動き出す。さすがに二度目となると反応も鈍いか。面白くない。

「おほん……自分で言うのもおかしいが、確かに人が煙草を吸っている姿というのは絵になるものだ。だから、映画でもよく使われる」

「それもそうですね……某ジブリの映画など実に美味そうに吸ってましたしね」

「おっ、比企谷もそう思うか。あれは禁煙中の人間は絶対見てはいけない映画だな。あんなものを見たら絶対に吸いたくなってしまうよ」

そりゃそうだろうな。なにせ一度も吸ったことのない自分ですらちょっと吸ってみたいと思ったほどだもの。まぁ、思うだけでそんな前時代的なものにわざわざ手を出すわけないし、あえて吸う理由もない。

「映画自体はどう思ったかね?比企谷は」

「……映画談議をするためにわざわざ呼び出したんですか?」

233 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 13:15:14.40 g3KX1uql0 130/411

俺がそう尋ねると先生は口を開けてはっはっはと笑い、短くなった煙草を灰皿に追いやるとこちらに顔を近づけて今度は何か見透かしたようにニヤリと口角を上げた。

「まぁ、いいじゃないか。どうせ君は今日も部活には行かないんだろう?」

「それはそうですが……」

「で、…………感想の方は?」

「え?ああ……まぁなんというか……純粋さや美しさは残酷というか……あれをただ感動したというのはちょっと後ろめたい気がしましたね」

俺の答えを聞いた先生は得心がいったのかふんふんと頷く。

「確かに。純粋なものや美しいものは残酷だ。逆に残酷なものこそ美しいともいえるんじゃないかね?この私のように」

いや、そんな冗談をドヤ顔で言われても反応に困るんですが。たぶん俺は口を歪ませながら、それに応える。

「先生もキレイだとは思いますよ…………年の割には」

「比企谷……」

またしても先生による”可愛がり”が炸裂するとまずいので俺は腹筋に力をこめた…………が。

「比企谷……」

こちらを恨めし気に見て唸るだけだった。あぁ…………なんかフォローしないと。


234 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 13:24:40.27 g3KX1uql0 131/411

「あ、ええとあの主人公も結局は自分の夢が第一で家庭をあまり顧みなかったわけじゃないですか。でも、その生き方こそ美しく見えたわけで先生もそのように美しく生きられればよいのではないでしょうか」

「つまり、私に仕事以外は諦めろと……」

どんどんか細くなっていく声。いや、もうほんと誰かもらってやってくれ!早急に。美しさは残酷だし。

「こ…………これでも俺は一応先生には感謝してるんですよ」

「ほう……君がそんなことを言うようになるとは……明日は雪でも降るのかな?」

俺が先生に対する偽らざる気持ちを述べると顔を上げ急に声も元気になった。とりあえず良かった…………のか?

「……俺は感謝する機会があまりなかっただけで別に感謝の言葉を言えない子ってわけじゃないですよ」

「そうかもしれないな…………この捻デレくん」

「……」

いや、なんでその変な造語、ここまで広まってんの?小町か?これも小町の仕業なのか?…………とりあえず、先生はこの言葉を言って満足したのかそれ以上追及することはなく、本来の話に戻る。

235 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 13:34:45.14 g3KX1uql0 132/411

「ところで比企谷……あと数日で試験準備期間に入るんだが…………まだ君は部活を休むつもりか?」

「それはなんとも…………というか参加させたいのなら、無理やりにでも連れていけばいいじゃないですか。俺は受刑者でしたっけ?確か…………」

俺がそう答えると、先生は頬杖をついてふっとため息をつく。

「まぁ私としてもそうしたいのはやまやまなんだが…………他の看守からちょっと釘を刺されているものでね」

「はぁ……」

……なるほど。俺が強制的に部活に参加させられなかったのは看守――こんな単語ですぐ連想できるのもどうかと思うが

――雪ノ下の差し金だったか。

「ただ…………このままずっと行かないのであれば例の勝負は君の負けということになってしまうが、それでいいか?」

「あれ、まだ続いてたんですか……」

雪ノ下との勝負――――元々俺は捻くれた根性と孤独体質を”更生”するという依頼で奉仕部に連れて来られた。しかし、俺がそれを拒否し雪ノ下はそれを逃げと断じた。そしてそれでは誰も救われない、とも。その結果、先生が仲介に入りどちらが人に奉仕できるか勝負することで自らの主張を通せるのか決めると言った。勝負に勝った方は負けた方に何でも命令できるらしい。勝負の結果は先生の独断によって裁定される。……そもそもこれってどこがゴール地点として設定されているんだろう?それに、もう最近は先生も奉仕部の個人の活動を全て把握しているとも思えないし……



236 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 13:43:19.58 g3KX1uql0 133/411

「当然続いているさ。双方がやめない限りこの勝負は続いていくよ」

「”双方”?……ということは、例えば俺と雪ノ下が勝負を終わらせようと言ったら先生はそれを了承するってことですか」

「ま、そういうことになるね。ただ、どちらか一方がやめるのであれば言い出した方の負けということになるが」

「……」

……驚いた。たぶんこの時の俺は口を開けたままぽかんとしていたのだろう。この勝負の件はてっきり俺を奉仕部に引き留めるためのアンカーのようなものだと思っていたから。だから、ただ漠然と終わりのないもののように感じていた。それが、自分の手で終わらせることも可能とは…………。この状況で俺が負けを認め、雪ノ下の命令を聞き――何故かそれを悪くないと思えてしまった、奉仕部をやめることも選択肢としては有り得るのか。ただ、今となってはもうそれは俺にとっては無理な相談だった。

俺は奉仕部のあの空間、あの仲間、あの空気を――――。

先生はこちらの考えを見透かすように、こんなことを言い出した。

「何故君は今も休んだままなのかね?たぶん今の君でも他の部員たちは受け入れてくれるだろうに」

「仮にそうだとして…………それは先生の考える奉仕部のあり方に沿っているんですか?」

「さぁ……それはどうだろうね」

「……」

237 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 13:56:50.38 g3KX1uql0 134/411

いやいやいや、この人絶対わかってて言ってるだろ。以前に由比ヶ浜が部に来なくなったとき、やる気と意志のない者は去るしかないと口にした。また、奉仕部は自己変革のためのものであってぬるま湯に浸かるのが目的ではない、とも。

今のまま俺が戻ったとしてもどうなるかは目に見えている。それは部の方針とは相容れないものだ。いや、まて…………俺はいつの間に奉仕部のこの方針を受け入れたのだろう。この俺が…………自己変革なんぞを望んでいたのか?よく考えるんだ……俺はぬるま湯に浸かるのを否定しているから今の自分のままでは部に戻れないだけだ……”今の自分のまま?”

“戻る”ために”変わる”?なんか矛盾しているようにも思えるが…………なんだかだんだん混乱してきたぞ。俺が黙ったままでいると先生は微笑を浮かべながら次の言葉を発する。

「君は聡い子だ。私としても今の君が部活を休んでいることは間違っているとは思わないよ」

「"間違っているとは思わない”って…………じゃあ正しいことは何だと言うんです?」

「何も答えを教えるだけが教師の仕事ではないよ。思考の種を蒔いたり、環境を整えたりするのもその中に入るだろう」

「"環境を整えたり”?それって奉仕部のことを指しているんですか?」

俺の質問に先生は顔を少し横に向けてふっと笑みをこぼして答える。


「私はただ、半ば有名無実化していた幽霊部活に約二名……部員を入れただけにすぎないよ」

“部員を入れた”?それって……まさか雪ノ下も?……でも俺のように強制ではなさそうだし……こちらの怪訝な顔を察知したのか、先生は話の補足をした。

238 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 14:02:09.00 g3KX1uql0 135/411

「もちろん彼女の場合は君とは違って本人の意思だよ。ただ、どうにも人ごとこの世界を変えると本人が口にする割にはそれができていない気がしたものでね。試しに見せてみろと言ってみたら乗ってきた」

おいおい、そのセリフ先生にも言ってたのかよ…………痛々しいってレベルじゃないぞ……いや、俺が奉仕部に強制入部させられるきっかけになった作文と似たようなものか……しかしまあ、その挑発に乗る姿がありありと想像できてしまうのがなんかおかしい。あきれなのか笑いなのかよくわからない音が口からふっと出る。

「はは……しかし、ただ見せろと言ったんじゃ本人の問題の自覚につながらないのでは?」

「さすがにこちらとしても彼女にそう指摘した以上、何もアドバイスをしなかったわけではないよ」

「アドバイスした結果がアレなんですか……?」


俺は雪ノ下と最初に会った時の会話を思い出す。……なんか罵倒しかされなかったような。どう考えても素だったよな……アレは。疑念に満ちた表情に先生は話を続ける。

「私は何も雪ノ下に自分を変えるように言ったわけではないよ。ただ……鏡のままでは世界を変えることはできないと助言しただけのことだ」

「鏡?……鏡って鏡の法則のことですか?他人は自分の投影だとかなんとかって言う。詳しくは知りませんが」

「ん、今はそういう意味合いでも使われるか、そういえば。私はもっと単純に好意に対しては好意を、悪意に対しては悪意を返すという意味で鏡という言葉を使った。ただ、彼女の場合は……」

「悪意を返し過ぎる……」

239 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 14:08:26.28 g3KX1uql0 136/411

「「はぁ~……」」

俺が先生の言葉の続きを言うと何故か二人同時にため息が出てしまった。

「まぁ、彼女は彼女でずっと一人だったから自分の身を守るためにはある程度は仕方ないことだとは思うんだが……」

……明らかに過剰防衛のこともあったんだろうな。夏休みの時の三浦への対応などを考えると。やられたらやり返す。

倍返しだ!いや、倍返しで済めばいいんだが…………彼女の場合。

「それで……その……少しは悪意を善意に変えるように、みたいなことを言ったんですか?」

「そんなところだよ。ただ、彼女は罪と罰を与えるのも本人のためではないですか、と反論してきたが」

「うわぁ……」

「彼女の言い分も間違ってはいないさ。だから、そういったことに関しては教師である私に任せろと言っておいた」

え、やだなにこの先生カッコイイ。俺が女だったら惚れちゃってるかも。……それ褒めてんのか?さすがに今思ったことを口に出すことははばかられたので黙っておく。

「……それで雪ノ下は納得してくれたんですか?」

「まぁ、一応はな」

「でも……仮にそうだったとして俺が最初に雪ノ下に会った時に先生のアドバイスに従っていたようにも思えないんですが」

240 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 14:19:26.69 g3KX1uql0 137/411

俺がそう尋ねると、先生はまだわからないのかね?というような顔をしてこう続ける。

「先ほども言ったように、私は彼女に自分を変えるように助言をしたわけではない。善意といっても色々ある。あれは彼女なりの善意の発露の仕方だよ」

「ああ、なるほど……」

まぁ、別に俺に対して努力しろだの変われだの言ったのも悪意があったわけじゃないしな。たまたま俺が素直に応じなかっただけの話であって、由比ヶ浜の時みたいに上手くいったケースもある。俺の納得した様子を見たのか先生は目を細めて穏やかな口調でこう告げる。


「だから、君も君なりの正しさを発揮すればいいのさ。どうにも間違っていると私が思ったらその時は叱ってやる」

「……そうですか」

何故か俺はその言葉を聞いて先生の顔を直視できなくなり、下を向いてしまう。


241 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 14:33:56.66 g3KX1uql0 138/411

話が一段落したのか、先生はまた煙草を吸い始めて煙をたなびかせる。

「なに、そう深刻になりすぎることもないだろう。いざとなれば一人に戻るという選択肢もある」

「それって…………最初に先生が雪ノ下に依頼した内容と矛盾してませんか?」

「私はあくまで孤独"体質"の更生を雪ノ下にお願いしたのであって孤独そのものを否定しているわけではないよ」

「どう考えても一緒にいて自分に悪影響しか与えない存在というのも確かにいる。そういった人間と無理に付き合う必要もないだろう」

また意地悪なこと言うなあ……この先生は。俺がそんなこと思っているはずがないというのをわかっていてあえてこんなことを……。俺の眉が歪んだところでこの人はさらに追い打ちをかける。

「それに、友達作りに失敗するのも青春と作文に書いたのは君だ。これからも大いに青春を謳歌してくれたまえ」

「どんな嫌味ですか、それ……」


俺がそう言うとまた先生ははっはっは、とおっさんみたいな笑い方で大笑いをし、煙草を灰皿に置いたところでぱっと両ひざに手を置き、おもむろに立ち上がる。

「さて、今日はこんなところで許してやろうかね、比企谷」

「許すって…………今までのこの時間は刑罰かなにかだったんですか?」



242 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 14:47:46.39 g3KX1uql0 139/411

「おや?先生に呼び出しを食らって時間を拘束されるなど学生にとっては罰のようなものだと思っていたのだが……それとも比企谷は何か?もっと私とお話したいのかな?」

「い、いえ……そんなことは……」

いや……そんな妙に嬉しそうな顔でそんなこと言わないでくださいよ……否定しづらくなっちゃうでしょうが。俺も立ち上がり、扉の方に向きを変えると先生はばしっと俺の背中を叩く。

「ま、君が奉仕部に戻った時はまたお話を聞かせてくれることを期待しているよ」

「いや……あんま期待しないでください……俺に」

「別に良い結果を知らせろと言っているわけじゃない。ただ、話ができればそれでいいんだよ」

「そうですか……でも悪い結果の方が人には話しづらいんじゃないんですか?」

俺のその返答に何故か先生は意外さを感じたのか顎に手をやる。

「ほう……君も少しは見栄を張ろうという気が起きてきたのか。感心感心」

「!……あ、いや、俺はただ一般論を言っただけで…………な、は、話せばいいんでしょう、話せば」

「……そうだ。……私”も”待っているよ」

243 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/17 15:10:09.43 g3KX1uql0 140/411


「では……失礼します」

その背中に若干のプレッシャーを感じつつ俺は職員室から出る。疲労と安堵の混じり合ったようなため息が、ふぅーっと口から思わず出てしまう。…………帰るか。いつの間にか部活終わる時間も過ぎているし。昇降口に向かいながら窓の外を見るともう空は夕焼けを下に追いやって夜が今にも覆わんとしていた。なんとなしに先生と話題になった映画のことを俺は思い出す。美しさは残酷で、優しさも残酷。純粋さも残酷。でも、そこに自分は惹かれてしまったのだ。それならば、自分も残酷なままでいるほかないのだろうか。


風立ちぬ いざ生きめやも――――。

風が立つどころの話じゃないな。暴風だよ、誰かさんのせいもあって。今の俺は台風の目じゃないし。

そんなことを考えつつ、人気の少なくなった校内を歩き、昇降口に辿り着くとそこに見慣れた人影を見つける。

こんなところで何やってんだ…………。また何やら風が吹きそうな予感。



そこにいたのは由比ヶ浜結衣だった。

265 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:33:30.28 2PQsvWzg0 141/411

⑦戻るか進むかに関わらず、彼はこの先の道を見定める。


由比ヶ浜は、出入口とは反対側の壁に寄りかかって誰かを待っている様子だった。携帯電話をいじっているせいかこちらの存在にはまだ気づいていない。さすがに同じクラスのロッカーを通るのに無視するのも不自然すぎるので、仕方なくこちらから声をかける。そう何日も話してないわけでもないのに、上がりそうになる口角を抑えながら。

「何してんだこんなところで。……靴でも盗られたか?」

「あ……ヒッキー……って、く、靴なんて盗られてないし!ヒッキーが来るの……待ってただけっていうか……」

携帯をパッと閉じて目を見開いてこっちを見たかと思えば、次の瞬間にはまたうつむいてしまった。


「何?あなた、いくら自宅で待ち伏せするのが法律に触れるからといってそれは学校でやっていいという理由にはならないのよ、このストーカーさん」

「なんかまたゆきのんの物真似うまくなってるし……というか私ストーカーじゃないし」

おお、場を和ませようとあれからも風呂場で練習に励んだかいがあったか、雪ノ下の物真似は。由比ヶ浜は少し緊張の取れた表情になってこちらもちょっと安心する。

「ストーカーじゃないならなんだ……用事があるならメールでもすりゃいいだろ」

「そ、それはそうかもしれないけど……ええと……サプライズ的な?アレで……」

そう言って視線を斜め上にやって人差し指で空を指す仕草をする……いかにもデタラメな言い訳だったが何故かその話に乗っかってしまう自分がいた。

266 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:36:46.32 2PQsvWzg0 142/411

「ふぅん…………そういうことやるってことは……お前サプライズとか好きなのか?」

「え?……う~ん……いいサプライズなら好きかな?」

いきなり想定外の質問をされたせいなのか、ちょっと迷いながら彼女はそう答えた。その表情は少しうれしそうに見える。

「そりゃそうだな。むしろ悪い意味で驚くことの方がこの世の中多いからな。俺なんて友達の友達からサプライズ誕生日

パーティやろうって誘われて当日行ったら当の誕生日の奴に『なんでこいつがいんの?』って驚かれたしな。まったくこっちがサプライズだったよ」

「……」

あれ?いつも通りの会話をしたつもりなのにどうしてニコニコして黙ったままなんでしょうか?何か心の中に混沌が這い寄ってきそうだったので思わず声が出る。

「あ、あの…………由比ヶ浜さん?」

「え、え?ああ……いつものヒッキーだなって思って安心して……その……」

彼女はそう答えてふっと息をついた。その時自分も一緒に安堵から息をついてしまったので、なんかおかしくてまた二人してぷっと吹き出してしまう。少しの間のあと、また俺が話を切り出す。


267 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:41:33.80 2PQsvWzg0 143/411

「で、何の用事だよ」

「あ……その……もしよければ……途中まで一緒に帰らない?」

「嫌だ」

「え……?」

自分でも思ってたより語気が強くなったせいか、由比ヶ浜はびくっとしてからオドオドし始めた。い、いや……そんな大した理由でもないんですけど…………でも口から出たのはもっと即物的なことだった。

「いや一緒に帰るって……俺チャリでお前バスだろ?別に今日俺がバス乗る理由ないし…………」

「あ、あたしが乗るバス停ずらすだけだから。ヒッキーはそのまま自転車でいいよ」

「お前そんなことして道わかるのか?」

「えっ?……もうヒッキー、あたしのことバカにし過ぎだから!真っ直ぐな道くらいわかるから!」

由比ヶ浜は眉をひそめながらそう言った後、ぷいっと横を向いてしまった。


いや、それはそれは失礼いたしました。何せ同じ部活にちょっと方向に怪しい人物がいたものですから…………しかし先に断る理由を言ったのはまずかったな。こう答えられてしまっては俺からは拒否するのが…………他にも心配事がないわけでもないし。……とりあえず校門までなら偶然も装えるだろう。承諾の返事もしないまま俺は次の言葉を言う。

「悪かったよ。俺これからチャリ取りに行くから……」

「あ、あたしも行く……」

268 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:43:49.02 2PQsvWzg0 144/411

「ひゃっ」

靴を履き替えて外に出ると寒風がびゅっと吹いて直接体にあたってくる。思わず手で襟を掴んで服の隙間を塞ぐ。今の悲鳴はおそらく由比ヶ浜のスカートが…………いやいや、俺の視界に入ってなくてよかったぜ。……ついでに言うと周りに人もいなくてよかった。なんで俺がそんなこと気にしなきゃならんのだ…………

「さみっ」

「もうすぐ12月だもんね」

「……そうだな」

そろそろコートが欲しくなってくる時季だな。どういうわけか年中コートを着てる頭のキテる奴も俺の周りにはいるのだが…………そういえば、材木座からはまたメールが来てるんだろうか。もし来ていたとしてもあの二人では……まぁ無視がいいところだろう。そんなことを頭に浮かべつつ先に歩き始めた俺の後にとてとてとついてくる由比ヶ浜。その後駐輪場に着くまでは特に会話らしい会話もなく俺は鍵を取り出して自転車の錠を開ける。

前のかごに鞄を入れて自転車を引いて出すと、いつの間にか横にいた由比ヶ浜の視線が俺にぶつかる。

「……なんだ?」

「え?い、いや、なんでも?ない、よ……」

269 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:46:35.83 2PQsvWzg0 145/411

由比ヶ浜はほんのり頬を染めながら、目を泳がせながらそう答えた。正直言って彼女の顔は口よりもよく喋る。黙っていたとしてもその目が、眉が、頬が、唇が雄弁に語ってくれる。だから、みんなそれを無視することはできないのだ。

あの雪ノ下雪乃でさえもそうだった。当然、俺もそう。

「何か言いたいことがあるなら言えよ。今さら遠慮するようなもんでもないだろ」

「あ……いや……でも……あたしが今それを言うとヒッキーはたぶん困るから……」

由比ヶ浜は遠慮がちに手で髪をいじりながらそう答える。…………あぁ、困るな。確実に。それが何かとはいわないが。

「じゃあ黙っててくれ、というしかない、な……」

「そ、そうだよね……」


二人にまた沈黙が訪れると、そのまま俺は自転車を手で押していく。由比ヶ浜はその斜め後ろをついていく。

校門まで来たところで、一度足を止めて俺はさっきの心配事の話の続きをすることにした。

「それよりお前、いいのかよ…………俺と一緒にいるところを誰かに見られても」

「え?あたしは別に気にしないけど」

やけにあっけらかんとした様子で答えられてしまって、かえってこっちが困惑する。

「え……あ、いや……お前が気にしなくても俺が気にすんだよ」

270 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:49:58.60 2PQsvWzg0 146/411

いつぞやの花火大会の時、文化祭の後の時、あるいは修学旅行から帰った後、それとここ数日間。いつだって彼女は俺と一緒にいる時には常に周りの人を顔色を伺いながら――気遣いながらと言った方がいいのかもしれないが――俺と接してきた。それはいくら狭い教室の中とはいえ棲む世界の違う人間が関わる場合には不可避の行動だ。俺のようなカースト最底辺の、最近じゃ底すら抜けてるような人間とトップカーストにいる彼女では尚のことそうである。俺個人がいくら侮蔑されようが憐憫の目を向けられようが構わないが、彼女がそういう目で見られるのは俺の本意ではない。

だからこそ、距離を取りあぐねているという面も否定しきれない。でもその当の本人は――――

「ねぇ、ヒッキー」

「?……なんだよ」

「ヒッキーが言ったんだよ?自分の他人からの印象をコントロールしようなんてことは無理だって」


……一度口にしたことは取り消すことはできない。そんなことわかりきった話なのに。だからこそ、決定打になるようなことは言わないように自制してきたつもりなのに。でも、何気なく言った一言がこんな形で効いてくるだなんて……黙ったままでいると、由比ヶ浜は俺の前に回り込んできて微笑を浮かべてこう告げる。

「だからね……あたしがヒッキー以外の人間にどう見られているかなんて、ヒッキーが気にすることはないんだよ」

「………………そうか」

「うん、そうだ」

271 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:53:12.50 2PQsvWzg0 147/411

顔が熱くなるのを感じて思わず手を頬にやって撫で付ける。微笑んだままの由比ヶ浜を横目に俺は自転車を押して歩き出す。遅れて彼女も後をついていく。……とりあえず頭に浮かんだ疑問をぶつけでもしないとやってられん。

「お前アホのくせになんでそんなこといちいち覚えてんだよ……」

「ヒッキーはいつも変なことばっか言うからあたしの頭でも記憶に残りやすいんだよ」

「ああ、そうですか……」

そんな変なこと言ったつもりはないんだがな……しかし、言ったことが変じゃないと仮定したところで由比ヶ浜の言うことに変化があるとも思えなかった。だから、また俺は黙るほかなかった。

そしてまたしばらくは沈黙が続く。聞こえてくるのはカラカラと鳴る自転車のチェーンの音と車道のクルマの音くらいのものだ。この辺りは住宅街なので街灯はあってもそこまで明るくはない。だから、向こうから俺の表情を読み取ることもできないだろう…………いや、少し後ろを歩いているからどっちみち死角か。


「……ねぇ」

後ろから声がかかるとなんとなくその歩みを止めてしまう自分がいる。

「……なんだ」

「まだ……無理そう?」

“まだ”という単語には二つほど身に覚えがあるので誤魔化しということではなく、ただ単純に訊き返す。

272 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:55:51.24 2PQsvWzg0 148/411

「何が」

「その……奉仕部の」

「まだ無理、だな…………」

「そ、そっか………………顔だけ出すってわけにもいかない?」

由比ヶ浜は少ししょんぼりした後、また顔を上げて少しこちらに近づいて尋ねてきた。その質問の意図をいまいち量りかねていると、彼女はこう続ける。

「あ、あたしとヒッキーはクラスが同じだからとりあえず学校に行けば顔は見られるけど…………ゆきのんは部活がないとヒッキーに会えないから……」

ああ、そういうことか。しかしそんな日にちが経ってる訳でもないし俺が来ないからといって寂しがるような人間とも思えないのだが…………

「ああ見えてゆきのん、ヒッキーが来なくて寂しがってんだからね!」

俺の考えを先読みしたのか少し声が大きくなってこちらへの追及が飛ぶ。しかし、ああ見えてって……

「ゆきのん……たまたまあたしがドアを開けてすぐあいさつしなかったら『比企谷くん?』って言ってたし……」

「おい、それは俺に言っていい情報なのかよ…………」

273 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 19:59:19.02 2PQsvWzg0 149/411

「いいよ、別に。……もう隠すつもりもないと思うよ。ゆきのんが――――」

以前にも同じような光景を見た気がする。由比ヶ浜が雪ノ下のことで何か言いかけてやめるところは。お前は優しいからまだ言い切らないでくれるんだよな。中には意地悪にも言い切ってしまう奴もいるわけで。…………あまり彼女の優しさに甘え続けるわけにもいかない。拳を口にあててえへん、と軽く咳払いをしてから由比ヶ浜はこう続ける。

「と、とにかく…………奉仕部のことはもうあたしとゆきのんの間では答えは出てるの。だから、今はヒッキーを待ってるだけっていうか…………ヒッキーのいいようにして」

「いいようにしてって…………何でそんなすぐバレるような嘘つくんだよ」

これは由比ヶ浜の優しさからくる嘘だ。でも、それを追及する権利など俺にはない筈なのに、つい癖でそういうことを言ってしまう。かえって自分の首を絞めるだけだというのに。だから、彼女の後に続く言葉を止められない。

「そ……そりゃ本当のところはヒッキーに早く戻ってきてほしいって思ってるよ。だってあたしは……」

「あ、あのさ……由比ヶ浜……」

ダメだ。この子は感情が溢れると、胸がいっぱいになると――いやこれ以上いっぱいになられては困るけど、別の意味でも――思ったことを口にせずにいられないところがある。由比ヶ浜にとってはもう待つのも限界か…………しかし、ただ遮るのでは意味がない…………俺はもう一つ、彼女を待たせていることにタイムリミットをつけることにした。



「ええっと……その……期末試験終わって次の土曜ってあいてるか?もしあいてるなら1日あけておいてほしい」

274 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:02:50.15 2PQsvWzg0 150/411

由比ヶ浜は口をぽかんと開けてこちらを見ている。いや、そりゃそうだろうな。俺も数秒前までこんなこと言うつもりじゃなかったし。顔を逸らしたくなって横を向いて返事を待っていると、彼女はにっこりと笑ってこう答える。

「今のところあいてるよ。だから…………絶対あけとく」

「い、いや……絶対じゃなくてもいいけどよ……」

「ううん、絶対。後から他の予定入ったら代わりの約束してくれると思えないもん、ヒッキーの場合」

そこまで信用されてないのか俺って…………いや、今までの行いを考えると仕方ないのか。

「その時は振り替えするって…………さすがに、さ」

「そう?ならいいけど」

由比ヶ浜は納得したのか、足取りも軽やかに俺の先を歩き始める。今度は自分が彼女の後ろをついていく形になった。

俺は自転車を押しながら、さっき由比ヶ浜に言ったことを頭の中で反芻していた。彼女の言葉を遮るための方便、とはいっても…………どういたしましょう、これ。まだ何も考えてないぞ。白紙も白紙、ホワイトペーパー。いや、ホワイトペーパーは白書という意味もあるんだったか。なんでこう重要なことを考えるときに限って頭ってどうでもいいことばかり思いつくんだろうか。何やら試験勉強の合間に部屋の片づけを始めるのと似たメカニズムが働いている気がする。


…………どうやって奉仕部に戻るのかも決めてないのに、いいんだろうか?由比ヶ浜と、その…………デ、デート……まがいなことをしても。……いや、まだ彼女に予定を尋ねただけだ。現段階では約束をしたわけじゃない。いくらでもどうとでもなる…………とは言えなかった。何でそんな嬉しそうな顔して歩いてるの?果たして俺はアライブできるのか。

275 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:05:37.93 2PQsvWzg0 151/411

「とりあえず今日はここまででいいよ」

隣のバス停に辿り着くと由比ヶ浜はくるっとこちらに振り返ってそう言った。”今日は”という言葉になにか含みがあるような気がしてならないが、そこは藪蛇っぽいのでスルーすることにする。

「そうか…………じゃあ、また明日な」

「うん……また明日。あの…………ごめんね」

「……何が」

由比ヶ浜は胸の前で手を振った後、ちょっと頭を下げて上目遣いでこちらを見てくる。い、いやそんな目で見られたら心当たりがなくてもこっちが謝りたくなってしまう…………それどころか心当たりもいくつかあるような。

「この間、あんまり待たせるとハードルが……みたいなこと言っちゃったから……」

「え?ああ…………まぁそれは待たせてる俺が悪いから由比ヶ浜がそう思ったとしても仕方ないだろ。そういう気持ちもわからんでもないし」

「で、でも…………もしそれでヒッキーが重荷に感じちゃったんなら……その……」

あぁ……なんだろうこの気持ち。ちょっと気を遣いすぎだろう……由比ヶ浜。でもそういう態度を取らせているのは間違いなく自分に原因がある。しかし、今の俺では彼女を安心させることはできない。もしそれができるとしても…………

276 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:08:17.83 2PQsvWzg0 152/411

「別にそんなこと思ってないから気にするな。それに……ええっと……前にも言っただろ、俺の他人に対する印象なんてそう簡単に変わらないって。だから、そういうこと言っても俺が特別に何か思うことはない」

「そ……そっか。……そっか。……うん、わかった」

そんな俺の返答を由比ヶ浜は何か噛みしめるようにして頷いた。とりあえずはこれでよかったのか?納得した様子を見せた後、彼女はじゃあねと言ってまた手を振る。俺も手を振った後、自転車のハンドルを掴み、サドルに腰を下ろし、ペダルに足をかけてこぎ出す。後ろに由比ヶ浜の視線を感じつつ、俺はペダルをこぐ速度を速める。


俺は……これからもずっと由比ヶ浜にこんな思いをさせ続けるんだろうか?仮に俺に何かしらの答えが出せたとして、それで彼女を安心させられるようになるとはとてもじゃないが思えなかった。何故ならこの俺自身が不安を抱えたままだからだ。結局失ってしまうのなら、はじめから捨ててしまう…………その誘惑が今も頭を離れない。しかしこの時の俺は、そんな考えですらぬるいというのを思い知らされることに、まだ気づいていなかった。

277 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:11:36.60 2PQsvWzg0 153/411

それからまた数日が過ぎ、あと二、三日で試験準備期間に迫ろうというのにまだ色々なことに答えを出せないまま、俺は悶々とした思いを抱えつつ昼食のために教室を出た。今日は小春日和なので外で食べるのもそんなに苦にはならない筈だ。

ところで小春日和ってなんか人名みたいだな……あのNHKで季節の擬人化キャラが登場する昨今、そういうキャラがいたとしてもおかしくないな。後でPixivで探してみるか……そんな益体もないことを頭の中でグルグルさせながら廊下を歩いていると後ろから魔法陣、ではなく魔法少女でもなく…………戸塚彩加から声がかかった。

「八幡!」

振り返るといつものジャージ姿があった。後から追いかけてきたせいか、少し息が上がっている。

「……どうした?」

「ねぇ……今日の昼休み、時間ある?」

その小首をかしげて上目遣いでこっち見るの、やめてくんない?俺にとっては疑問形ではなく命令形みたいなものだよそれは。……別の方法で同じようなやり口をする御仁もいらっしゃいますが。まぁ、それはともかく。

「あるけど?何か用か?」

「少し……運動してみる気、ない?」

「え?」

278 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:14:33.67 2PQsvWzg0 154/411

戸塚の話によると、今でも昼休みに時々テニスの練習をすることがあるそうなのだが、いつもペアを組んでいる部員が休みということでこちらにお鉢が回ってきたらしい。特に断る理由もないし、何より戸塚のお願いということで、俺はホイホイついていってしまう。…………俺はゴキブリか何かか。自分をそんなものに喩えるなど卑屈もいいところだが人に嫌われている割に生命力強いところなんて似てるかもね。何故かいつぞやの雪ノ下雪乃の言葉が頭に思い浮かぶ。


――――いつか比企谷くんのことを好きになってくれる昆虫が現れるわ。


た、蓼食う虫も好き好きっていうし…………とりあえず今このことを考えるのはやめとこう。しかしゴキブリホイホイというのは後から考えるとあながち間違った話ではなかったのだ。…………戸塚彩加は意外と策士だったのだ。

そんなことには全く気づくこともなく廊下を歩いていき、外に出てテニスコートに向かいラケットを戸塚から借り、いつかの授業の時のようにラリーを始めたのはいいのだが…………


「ハァ……ハァ……」

なんか…………戸塚、上手くなってね?球速も速くなってるし、スイングする時の重さが違う。そりゃ授業でちょろっとやった人間と部活を継続してやってる人間じゃ差が出るのは当たり前のことなんだが…………なんだろう…………戸塚が遠いところにいってしまった気分だよ。体力的なダメージと精神的なダメージを両方受けて息の上がっている俺を見かねたのか、戸塚がこちらに駆け寄ってくる。良かった…………やっぱり戸塚は天使のままだった。彩加ちゃんマジ天使。

279 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:17:21.24 2PQsvWzg0 155/411

「八幡…………大丈夫?」

「大丈夫だ……問題、ない。…………続けようぜ」

俺が返し損ねたボールを取りにラインの外に走り、戻ってくると戸塚が横についてきた。……なんで汗かいているのにこんないい匂いすんの?君は。

「は、八幡は制服のままだし……今日はこれくらいでいいよ。少し話したいこともあるし」

「そ……そうか…………わかった」

そ、そう言われれば仕方ない。べ、別にこれ以上やるのがキツいとかそんなんじゃないんだからね!……そういえば、ここ数日は挨拶くらいはしてもあまり戸塚とも話していなかった気がする。まぁ、ちょうどいいのか。戸塚が校舎の方に向かって歩き始めるので俺もその後ろをついていく。戻る間は特に会話らしい会話もなく二人で歩いているだけだった。


ところが、昇降口にさしかかる頃になって戸塚はこちらを振り返ってこう切り出した。

「八幡がいつもお昼食べてる場所、あるでしょ?……そこでちょっと待っててくれない?」

「え?ああ……わかった」

「じゃあ、待っててね!」

そう言って手を振ると、戸塚は先に校舎の中へとぱたぱたと走り去っていってしまった。しかし、わざわざあの場所で話がしたいってことは…………他の人に聞かれてはマズいような内容なんだろうか?

280 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:21:42.44 2PQsvWzg0 156/411

それから戸塚の言われた通りに例の階段で座って外を眺めていると、不意に右頬に冷気が走る。

「ひっ!」

何が起こったのか、思わず振り返るとそこにはスポーツドリンクを手に持った戸塚彩加の姿があった。あぁ……そういえば、この子はこういうイタズラもするんでしたっけ。戸塚はニコニコしながら俺に話しかけてくる。

「冷たかった?」

「そりゃ冷たいにきまってるだろ……」

「これ、八幡にあげる。さっき付き合ってくれたお礼」

い、今、このお方何とおっしゃいましたか?つ、つ、付き合ってくれた?お、俺が戸塚と付き合う…………わ、悪くないお話だが…………だが、男だ。戸塚彩加は。いやいや、そうじゃなくてテニスのことに決まってるでしょうが、文脈的に。

相手が相手なので思わず変なことが頭の中を高速回転してしまった…………ふぅ。

「そりゃどうも……」

俺がペットボトルを受け取ると、戸塚はもう一本持っていたのを持ち直して俺の横に腰掛ける。だから近いって。

しかし遠ざける理由もないのでそのままのポジションで黙っていると、戸塚はこちらを向いて思わぬことを訊く。

「は、八幡は……最近部活には行ってないの?」

「え?……まぁ……そうだな」

「やっぱりそっか…………」

281 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/20 20:24:58.29 2PQsvWzg0 157/411

俺の返答に戸塚は少し伏し目がちになった。”やっぱり”という単語に多少の引っ掛かりを覚える。俺が休んでいる間に奉仕部に足でも運んだのだろうか?もし、そうなら悪いことをしてしまったな…………。そんなことを思っていたらさらにキャッチしにくいボールが戸塚から飛んでくる。

「は、八幡は……その……由比ヶ浜さんのこと…………どう思ってるの?」

「え?」

さっきよりも顔をこちらに近づけて、目をじっと見られる。そ、そんな濡れた瞳で見られても困ります…………。

ただ黙ってやり過ごすわけにもいかず、無難な返答をどうにかして頭からひねり出す。

「ど、どうって言われてもな……俺とは部活が同じで……その……いい奴だとは思うが……」

「ふぅん………………わかった」

俺のその場しのぎもいいところな答えを聞いて、戸塚は正面に向き直り膝に手を置いた。そのままの体勢で彼はこう続ける。






「実は僕……八幡に相談があって……その…………僕は……由比ヶ浜さんに告白しようと思ってるんだ」

「…………はい?」

――――戸塚から飛んできたのはとんだデッドボールだった。

323 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/23 23:51:30.50 IgLqBEl80 158/411

返事をするのに気を取られて俺は手に持っていたペットボトルを落としてしまう。一度立ち上がり、中腰になって拾う体勢になったところでようやく次の言葉が口から出た。首筋に冷や汗が流れるのを肌が感じ取る。こちらからは戸塚の表情はうかがい知ることはできない。

「それは…………本気なのか?」

「……うん」

思わず振り返ると戸塚は真剣な表情でこちらの目を見てきた。俺はその視線に耐えきれず、目を逸らしてしまう。戸塚と由比ヶ浜が付き合ったらどうなるのか、というイメージが自分の頭の中を高速で駆け巡る。由比ヶ浜は三浦の友人ということやその容姿、誰にも優しいことなどが影響してか、クラスでもトップカーストの存在だ。そして彼女はモテる。好きになる男子がいくらいても全然不思議じゃない。ちょっとアホっぽいところもあるがそれすらも可愛さを引き立てているように見える。一方の戸塚は、男子なのに女の子のような可愛らしさでクラスの中ではマスコット的な扱いをされている。

だからカーストなどとは無縁の存在だ。そして彼もまた、とても優しい。モテる、というのとは少し違うがみんなから好かれていることに変わりはない。そんな二人が付き合ったとしたら…………案外うまくいくのかもしれない。それにおそらくこの二人のカップルの誕生を祝福できない人はいないだろう……それが本心かどうかは別にしても。



だが、俺はそんな由比ヶ浜の姿を見るのは――――――――――――――――嫌だ。

324 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/23 23:53:42.02 IgLqBEl80 159/411

この時の俺がどんな表情をしていたのか、自分には覚えがない。しかし、戸塚は俺の方を見て何か納得したのかふっと息をついて少し下を向き、こちらから視線を外した。

「…………やっぱり、ね」

「や……やっぱり……というのは……?」

「もう…………まだ迷ってるの?八幡は。あんまりのんびりしてると、由比ヶ浜さん他の誰かに取られちゃうよ」

「ど…………どういう意味だ?」

本当に意味がわからない。さっきの告白話と相まって俺の頭はとっくに真っ白になっていてまともに思考できるような状態じゃなかった。戸塚は由比ヶ浜への告白が本気であると言った。その後、何故か俺の顔色を見て由比ヶ浜が他の誰かに取られてしまうと言った。

…………

何が何だかわからない。

…………

呆然としている俺を見かねたのか、戸塚は話を補足する。先ほどとは違い、あきれ混じりの笑みを浮かべながら。

325 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/23 23:56:33.30 IgLqBEl80 160/411

「八幡……僕は由比ヶ浜さんに告白するって言ったけど……何を告白するのかなんて一言も言ってないよ?」

「え?」

え?普通この状況で告白といったら「あなたのことが好きでした。付き合って下さい」とかそういうのじゃないの?

「それなのに八幡……僕が由比ヶ浜さんのことが好きだと思い込んであんなにショック受けて……わかりやす過ぎだよ」

「と、いうことは……別に戸塚は……由比ヶ浜のことが……好きってわけじゃない、のか?」

ようやく頭の回転が戻りつつあったので、体勢を戻して向き直り、俺は戸塚の隣に座り直すことにした。

「由比ヶ浜さんのことは好きだけど……でも、付き合いたいとか恋人にしたいって意味の好き、じゃないよ」

「そ、そうなのか…………」


安堵から俺は腕を下して脚の上に乗せ、前かがみになってはぁぁ~っと長いため息が出てしまう。ペットボトルを当てて額を冷やしていると、だんだん頭の冴えも戻ってきた。戸塚が何をしたかったのか、その意味も今ならわかる。

「戸塚は…………俺に……迷いを断ち切らせるために……こんなことを?」

「……そんなところかな。最近の八幡と由比ヶ浜さん…………ちょっと見ていられなかったから」

「そ、そうか…………」

戸塚にそんなこと思われるほど様子がおかしかったのか?俺たちは。”たち”?……いや、そもそもおかしいと思われるほどここ数日は彼女とは関わってない…………関わってないから見破られたのか。恐るべし戸塚彩加の人間観察能力。

326 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:00:17.72 AqEbN6PG0 161/411

しかしまぁ…………何もこんなやり方しなくてもよかったんじゃないか?以前から多少思っていたことだが、戸塚って若干Sの気があるような感じがする。SAICAだけに。……どこぞのICカードかよ。JRさん、いかがですか?

それにしても…………いつの頃からだろうか、俺が自惚れていたのは。どうして、由比ヶ浜が誰とも付き合わないなんて思いこんでいたのだろう。よく考えたらまだ何の確証もないんだ。由比ヶ浜が俺に好意を抱いているかどうかなんて。

ましてや、俺と付き合ってくれるかどうかなんてことは。でも、もうそんなことは関係ないんだ。由比ヶ浜が俺のことをどう思っているかなんて。ただ、ただ自分自身がそう思えるなら今はそれでいい。



俺は、由比ヶ浜結衣のことが――――――――――――――――好きだ。



「戸塚は……その…………いつから気づいていたんだ?俺が……」

俺が自分の気持ちを明確にできたところで、素朴に感じた疑問を尋ねてみることにした。

「う~ん…………ハッキリいつって言うのは別にないんだけど……でも修学旅行の時にはもう確信してたかな?」

「そうだったのか……」

……そう考えると、修学旅行後に俺が不可解に感じた戸塚の反応も納得がいく。俺が雪ノ下に告白した次の日に怪訝な目で見られたのも、そういう意味だったのか。…………雪ノ下とも一度きちんと話をしないといけないな。


327 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:03:33.71 AqEbN6PG0 162/411

「なんか…………すまないな。戸塚にこんなことまでさせて……」

「八幡が気にすることじゃないよ。それに、友達の恋路を応援するのはそんなに変なことかな?」

「へ、変じゃない…………と……友達?」

あぁ……何言ってんだ、自分は。今まで散々勘違いしてきたから戸塚にさえそういうことを確認したくなる気持ちを抑えられない。俺の発した疑問に、戸塚は目を逸らして下を向いてしまう。

「あ、あれ?…………僕は八幡のこと、友達だと思ってたんだけどな…………」

「ち、違わない!お、俺と戸塚は……と、友達だ……」

「ありがとう!八幡」

「お、おう……」


戸塚は再びこちらを向き、ぱぁっと目を輝かせてニコッと微笑んでくれた。――――守りたい、この笑顔。

な、なんで友達宣言されただけでし、心臓がバクバクいってるんでしょうか?い、イカんでしょ……落としてから上げるとか…………この先が思いやられるな、こんな調子では。と、とりあえず落ち着くために飲み物でも飲もう。俺はペットボトルのキャップを開けてスポーツドリンクを喉に流し込む。さっきテニスをしたのと変な冷や汗を流したせいか、普段より吸収力が早い気がする。しかしそんな俺の様子など露知らず、戸塚はさらに侵略してくるのだった。

328 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:05:38.59 AqEbN6PG0 163/411

「それで…………八幡はいつ由比ヶ浜さんに告白するの?」

「!ぶふっ……ごっ……げほごほっ……」

「はっ八幡!……だ、大丈夫?」

戸塚の不意打ちに俺はむせかえってしまう。ゼイゼイ言っていると大丈夫?と声をかけながら背中をさすってくれた。

そうしてくれるのはありがたいんだが…………ちょっと今日の戸塚はテニスといい攻め過ぎなんじゃないですかねぇ?

「ハァ……ハァ…………少しは……落ち着いたが……」

「それで…………いつするの?」

ここで「する」とハッキリと言えないところが自分の弱いところで、微妙にはぐらかしつつも戸塚の期待に沿えるようなことを伝えることにする。


「じ、実は俺…………期末試験の後の土曜日に由比ヶ浜と二人で会おうかと思ってて…………」

「あっ!そうだったんだ…………それは……由比ヶ浜さんとはもう約束したの?」

「い、一応予定をあけとくようには言ってあるんだが……まだ約束とまでは……」

「じゃあ早く約束した方がいいよ!たぶん由比ヶ浜さんにとってもその方がいいと思うし」

「そ……そうか……」

329 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:08:53.83 AqEbN6PG0 164/411

もう俺は完全に戸塚の掌の上で遊ばれているような状態で、いつの間にか由比ヶ浜と会う約束をすることにされてしまっていた。戸塚も俺の言葉を承諾と捉えたのか、満足した様子で自分の分のペットボトルのキャップを開けて飲み始める。

戸塚のその様子に、なにやら目がそちらの方に向かってしまう。かすかに開けられた唇、上下に動く喉……なんか妙に艶めかしいんですけど。こちらの視線に気づいたのか、一度ペットボトルの口から離し、俺の方に向き直る。

「もしかしてまだ足りなかった?もしよかったら僕の分もあげるけど」

「え?いえいえ……とんでもない……そんな恐れ多い……自分の分もまだ残ってますし」

「なんで突然敬語?八幡は時々言葉遣いが面白いよね」

「そ、そうか?」

「うん」


そう言って戸塚はまたふふっと笑った。い、いやいや……ほんとに恐れ多いんだもの……戸塚が口をつけたペットボトルに俺なんぞが……。もしそんなことする奴がいたら絶対に許さない。俺に許さない権利あるのかよ。独占欲強過ぎだろ。

俺にとっては特別な人間でも、相手から見たらそうでないことなんていくらでもある。そのことを忘れないようにしないと行動に自制が効かなくなる。当然それは戸塚以外にも当てはまることなんだが…………さて、どうしたものかな。

告白、ねぇ…………もういい加減嫌だぞ、失敗するのは…………そういえば告白といえば。

330 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:12:17.70 AqEbN6PG0 165/411

「ところで戸塚…………お前が最初に言っていた由比ヶ浜に告白するっていうのは…………嘘ってことでいいのか?」

「う~ん…………まるっきり嘘かっていうとそうでもないんだけど」

「え?」

どどどどどういうこと?や……やっぱり戸塚は由比ヶ浜のことが好きってことなのか?それこそドドドドという擬音が聞こえてきそうなところで戸塚がまた口を開く。


「由比ヶ浜さんは優しいからね…………僕も……気になったことがないわけじゃない。ただ…………割と早くに僕は気づいちゃったから。僕が彼女を目で追っている時に、その本人の視線の先は……」

そう言ってこちらの目をじっと見つめられる。数秒間の沈黙の後、俺が耐えきれずに視線を外すと戸塚はふっと息をつく。

「そういうことだから…………早くしないと僕が告白しちゃうよ。八幡は由比ヶ浜さんが好きだってこと」

「戸塚大菩薩様、それだけは勘弁して下さい」

俺が手と手を合わせて拝むようにお願いすると、戸塚はあきれ顔でまたこちらを向く。


「じゃあ、八幡がさっき言ってた次のデートで告白することだね」

あれれ~?おかしいぞ~?俺はただ由比ヶ浜の予定を尋ねただけなのに、いつの間にか彼女に告白することになっている。

コナン君もビックリの誘導尋問。これは逃げられない。ヤバイ。今日の戸塚はヤバイ。YAIBAじゃなくて。


331 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:15:15.72 AqEbN6PG0 166/411


「う…………ぜ、善処します」

「そんなこと言って誤魔化してもダメだよ、八幡。…………はい」

戸塚はそう言って小指だけ伸ばした状態の手をこちらに向けてくる。

「ゆ、指きりしろってことか?」

「そうそう。ほら…………」

今度は自分の手が掴まれて戸塚の指の方へ持ってかれる。仕方ないので俺も小指だけをピンと伸ばす。すると、向こうの白くて細い小指がこちらに向かってきて俺の小指と絡める。そして手でリズムを取りながら戸塚が例の呪文を唱えだす。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲~ます。指切った!」

言い終わるとパッと指が離される。も、もう少しこうしていても…………ま、待て。や……約束させられちまったのか、俺が由比ヶ浜に告白すると。ど、どうしよう…………。こちらの不安を察知したのか、戸塚がまた声をかける。


「そんなに心配しなくても、大丈夫だと思うけど……」

「あ……いや…………俺が由比ヶ浜に告白すること自体はそんなに問題にはならないと思うんだ。ただ、今回は言いっぱなしというわけにはいかないし…………奉仕部にどうやって戻るのかもまだ決めていない……」

俺の答えを聞いて、戸塚はふむと顎に手をやる仕草をする。少しばかり思案すると、またこちらを向いて言う。

332 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:18:16.95 AqEbN6PG0 167/411

「雪ノ下さんか…………う~ん……でも、僕はどちらにしてもそんなに心配してないよ。八幡ならたぶん大丈夫」

「そ、そうなのか…………?」

戸塚にそう言われると、たとえ根拠がなくても信じたくなってしまう。しかし、それだけでフォローは終わらない。

「まぁ…………もしも、何か悪い結果になったとしたら…………僕のところへ来てよ。慰めてあげるから」

「と、戸塚…………」


微笑んでいる戸塚の顔を一瞬見た後、俺はまた下を向いてしまう。あぁ…………ヤバイ、なんかよくわからないものが胸にこみ上がってきた。今の言葉は嘘でも欺瞞でもない。でもこれは間違いなく…………”優しさ”というものなのだろう。

戸塚もまた、残酷な真実を受け入れた人間の一人といってもよいのかもしれない。ただ、俺との表面上の関係性を維持したいならわざわざこんなことをする必要はなかった筈だ。最悪、俺に嫌われるという可能性も否定できなかった。それでも、こうすることが俺のためになると戸塚は信じて行動したのだろう。そうであるのならば、やはり俺は俺で自分の信ずる道を行くしかない。エゴではないか、という自問自答を常に忘れず自分と相手、双方のためになると信じられることを俺はしたい。それがたとえ相手に嫌われるようなことであっても傷つけるようなことであっても…………。

しかし今は、とりあえず――――


「ありがとう…………戸塚」

「……どういたしまして。……といっても僕は八幡をけしかけただけなんだけどね」

333 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:22:00.38 AqEbN6PG0 168/411

「逃げ道があるとどこまでも逃げる癖があるもので…………今となってはむしろ塞いでくれた方がありがたい」

「そう?それならいいんだけど…………」

また戸塚はこちらの顔を覗き込んできた。いや、ホントですって…………今回ばかりはもうどうしようもない。何もしなければ他の人にも迷惑がかかってしまう。違う…………もうかけているのか…………。俺の問題で関係のない人間をこれ以上巻き込めない。当事者同士で早く決着をつけないといけない。そうなると…………

「たぶん雪ノ下とも話をつけないといけないと思う。その結果によっても色々と状況は変わってくるだろうし」

「それもそうか……じゃあ先に雪ノ下さんとお話するんだね」


戸塚はニコニコしながらさらに追い込みをかける。さりげなく日時指定した由比ヶ浜より早くしろと言われてしまったぞ…………頼む、誰か戸塚を止めてくれ。動画は止まらなくてもいいから。

「ま、まぁ……そうなるな…………」

俺が戸塚の笑顔の威力に勝てるはずもなく、雪ノ下と先に話をすることになってしまった。この追及の仕方は若干私怨が入ってませんかねぇ?…………戸塚に限ってそんなことはないと信じたい。いや、もう既に追いつめられてるからどうでもいいことか、そんなことは。俺の反応が何か不満だったのか、戸塚は少し眉を尖らせながらこちらを咎める。

334 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:36:22.14 AqEbN6PG0 169/411

「さっき八幡が言ったんだよ?逃げ道を塞いでくれた方がありがたいって」

「そ、そういえばそうでした…………」

いかん……今の俺は迂闊なことは言えない。戸塚大菩薩様のこれ以上の追及を避けるためには現状で必要なことを潔く諦めて俺の口から話すしかない。

「お……俺は……雪ノ下と話をつけて…………それから由比ヶ浜と会って告白する…………そういうことでいいのか?」

「うん、今のところはそうなるね」

戸塚の笑顔と頷きをいただけたので、当面のところはこれで良しということになったようだ。俺は安堵と疲労でため息をついてしまう。そんな様子をやれやれといった顔で見ていた戸塚はおもむろに立ち上がってこちらを向き、再び口を開く。

「早めに雪ノ下さんに会って…………それから由比ヶ浜さんには約束するんだよ」

「はい……」

「じゃあ…………八幡が奉仕部に戻った時は…………また僕に教えてね」

「…………戻れたら、な」

335 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/24 00:54:38.07 AqEbN6PG0 170/411

俺の相変わらずなネガティブな反応に、戸塚はまたポジティブな答えを返す。

「きっと戻れるよ。僕は由比ヶ浜さんと雪ノ下さん…………それに何よりも八幡を信じているから」

「そ、そうか…………」

俺ほど信用のできない人間もいないと思うのだが…………しかし俺が戸塚を信用している以上、その言葉を否定することはできなかった。戸塚の信じる俺を信じろってことか…………。

「うん。じゃあ…………僕はそろそろ戻るよ。頑張ってね…………八幡」

「お、おう……」

戸塚は手を振って校舎の中に戻っていった。俺はペットボトルに残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干す。その味はさっき過ごした時間と同様、妙に濃く感じられたのだった。



まずは一度、奉仕部ではなく奉仕部の部室に戻らないといけないのだろうな…………雪ノ下雪乃と話をつけるためにも。

350 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:02:35.18 pCUidH1j0 171/411

俺が由比ヶ浜に告白するのを決心……いや、戸塚に決心させられた翌日の昼休み、俺は雪ノ下の居場所を探すべく廊下を歩いていた。普段は由比ヶ浜とお昼を一緒に食べているはずだから、奉仕部の部室にいるはずだ。放課後に行けば部活に参加させられることになってしまうだろうし、他の休み時間にJ組の教室に行くのもなんだか気が引けた。俺と雪ノ下の噂が葉山によって解消されたとはいっても、わざわざ危ない橋を渡ることもあるまい。由比ヶ浜を使って雪ノ下を呼び出すというのも何かやり方が間違っている気がしたのでやめておいた。何より、このタイミングでメールや電話などしたら間違いなく俺との約束の話に触れられてしまうだろうし…………。


そういうわけで奉仕部の部室に着いたのはいいのだが、ノックをしても返事がない。部屋の電気は点いているから、誰かいると思ったのに。しかし雪ノ下はすぐ返事をしないときがあるんだったな。まぁ、とりあえず開けてみるか。ガラッとという音とともに扉を開けるが、部屋の中には誰もいなかった。窓の脇の机に雪ノ下の手提げがあるということは、ここで食べる予定はあるということか。ここで待っていれば確実に彼女は来る。しかし俺はここでお昼を食べる予定はなかったので、自分の分は教室に置いてきたままだ。もしもずっとこのままここに来なかったとしたら…………というよりは、まだ俺の心の中で雪ノ下と会うことに準備ができていなかったせいもあるんだろうが…………俺はまたF組の教室に戻ることにした。


特別棟からの渡り廊下を歩いていると、褐色のコート姿が目に入る。思わず方向転換するが、もう遅い。俺の姿を見るやいなや指ぬきグローブをした右手の人差し指をこちらにビシッと向けられる。

351 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:05:07.36 pCUidH1j0 172/411

「ぬぬっ、もしやそこにいるのは…………八幡!?」

「材木座……」

俺は錆びたナットを回すようにぎこちなく首をそちらに向ける。そうしている間にこちらとの距離をどんどん詰めてくる。

「ふむん、最近メールをしても全く音沙汰ないのでな。奉仕部の部室に行っても八幡は暫く来ないとの訓示を賜るし」

「訓示って……お前将軍のはずだろ。その上って帝か何かかよ」

「主も彼奴を氷の女王などと呼んでいるではないか、似たようなものではなかろう?」

「まぁ…………そうかもな。というか急にぞんざいな人称に……」

話しながらとうとう目の前にまでこられたので、また視線を逸らす。あんまりこっちジロジロ見んな。ひとしきり俺の挙動を見て満足したのか、スチャッと眼鏡の鼻の部分を持ってかけ直した。いや、お前がやっても絵にならんって。

「どうやら異常は認められぬ。それならば、何故…………」

「手短に言え。俺は用がある、もういくぞ」

「ちょ、おま、待ってください八幡大菩薩様~」

材木座は、歩き出そうとする俺の制服の裾を引っ張って止める。うわぁ、こんなこと男子相手にやられても全然嬉しくねえ……。そういや葉山にも袖を引っ張られたっけ……。俺、もしかしてモテるのかな?男子に。戸塚以外はお断りだ。

352 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:08:08.41 pCUidH1j0 173/411

「で、なんなんだよ材木座……」

「は、八幡が悪いんだぞ!部活にも来ずメールを無視するから!おかげで部室に行ってあの帝に話さなきゃいけなくなるわ、何故か我の姿を見られてガッカリされるわ、」

またこっちを指さし材木座は高速でまくし立てる。唾が飛ぶからやめろ。

「あ~……悪かったよ。それで、早く本題を言えって」

「ふむん…………とうとう完成したのだよ。我の最終奥儀が」

「いや、こんなところでそんなことを言われても困るんだが…………」


残念ながら今の俺に材木座の戯言に構っている余裕は正直あまりなかった。やることがほんの一部決まっただけでまだ考えなきゃならんことが色々あるし、期末試験の暗記もしなきゃならんし……。面倒そうな顔を見て察したのか材木座は持っていたタブレット端末を俺に渡してくる。

「いいからこれを見よ。我の新作のプロットであるぞ」

「あぁ…………前メールであった恋愛がどうとか言ってた奴か」

「左様」

「まぁとりあえず見てみるか……」

353 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:11:46.71 pCUidH1j0 174/411

タブレット端末のパネルを撫で付けるようにスクロールさせていくとだいたいこんな内容であった。

『マイコミライカ』

時間移動を伴う恋愛もの イマ・カコ・ミライのアナグラム My 小未来力という意味も持たせる
狭間 瞬……主人公
後先 巡……ヒロイン

高校生の主人公はヒロインに一度告白するが、玉砕
ヒロインが事故に遭い、昏睡状態に

失意の主人公の元に二人の天使が現れる 一人は未来への時間移動、もう一人は過去への時間移動が可能でヒロインを救って欲しいと頼まれる ただし、移動する時間ぶんだけ対価として自分の寿命を渡さないといけない その過程で主人公は二人の天使に恋をする

時間移動を繰り返してヒロインの運命を変えようともがく主人公。しかし、事故に遭ったという事象を変えると次々に出来事が変化して収拾がつかなくなることが判明。ヒロイン一人を救えばいいという問題ではないと気づく

失敗を繰り返していくうちに、今のこの運命を受け入れるしかないと悟る。自分の力でヒロインを目覚めさせることを決意し、二人の天使に別れを告げる
その数年後、ヒロインが覚醒する

ヒロインが元気になっても二人の天使のことが気にかかっていた主人公。しかし、ある時ヒロインに二人の面影がある事に気づく。あの天使は自分を救うために生まれてきたヒロインの人格の一部であるということに
そして、ヒロインが覚醒するまでの時間が今まで自分が削ってきた寿命であることに

そして、もう一度ヒロインに告白することを決意するところで物語は終わる

354 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:14:31.47 pCUidH1j0 175/411

「……」

俺の無言の反応に、材木座は目を輝かせながらこちらを見てくる。いや……何を期待しているんだ、こいつは。プロットというものは物語の枠組みを記すものだから別に間違ってはいないのだが、これでは…………。

「この話……主人公はヒロインのどこが好きになったんだ?」

「……ほぁ?」

先ほどの瞳の輝きはどこへやら、材木座の目は急速に泳ぎ始めた。その眼球の動きの速さならバルキリーのパイロットにでもなれそうだな。そういや材木座の声ってロボのパイロットでありそうだな。いや、ないか。

「み……見た目……とか?」

「あぁ…………一目惚れって線もあるか……それならそう書いてもらわんと。というかこれ、一応恋愛メインのつもりなんだろ?ヒロインと仲良くなる過程とかどうすんだよ」

痛いところを突いてしまったのか、材木座は下を向いてしまう。そして腕を下して人差し指をつき合わし始めた。いや、その仕草はお前がやってもムカつくだけだから。

「ど、どうやって仲良くなるのかわからないし…………」

「……」

355 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:17:13.71 pCUidH1j0 176/411

なるほど、そうきたか……。確かにそう言われてしまうと俺としても何を答えたらいいのかよくわからんな。それは何も恋愛に限ったことではなく友人関係についてもそうだ。少なくとも現実世界の記憶ではサンプルが少なすぎる……今の俺の状況も偶然に偶然が積み重なってできたようなもんだし……。そもそも自分で言っておいてなんだが、どういう状態を“仲が良い”というんだ?もう少し別の概念に置き換えないと無理だな……。

「八幡よ」

「……」

「八幡よ!」

「おおぅ!急に大声出すなよ!ビックリするだろうが」

「主が返事をせんのが悪いのである。この質問…………八幡にも酷なことを訊いてしまって真に済まなかった」

「今考えてんだよ……」

いや、そんな改まってお辞儀とかすんな。慇懃無礼って言葉を知らんのか。このまま黙っているのも癪なのでどうにか頭を回転させて置き換え作業を進める。逆に仲が悪いという場合は、お互いに嫌いあっているということになる。仲が良いなら好き同士…………結局どうやって好きになるかって話に戻っちまうな。人に好かれる方法……そんなもの俺が一番知りたいところだが、今必要なのは一般論だ。……相手の喜ぶことをする、とかか?どういうことをされたら嬉しい?

356 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:20:59.40 pCUidH1j0 177/411

登場人物のキャラが設定されていないから、あまり具体的な話にはできないな。…………やっぱり自分に置き換えないと実感に欠けるか?俺がずっと一人だったのは打算的にいえばメリットがなかったからだ。俺が人を好きになった時、というのはどういう場合だ?一緒にいてくれたりとか、話かけてくれたりとか、困っていたら助けてくれたり、とかか?

結局それはどういうことなんだ?それは…………自分にはできないことだ。だから必要なんだ…………その相手が。

「基本的には助け合いで…………いいんじゃないか?特に自分のできないことについて」

「ほぅ……」


俺の回答はごく単純なものだったが、材木座はふむと頷いてくれた。とりあえず納得してもらえたのだろうか?

「やはり我の見立てに狂いはなかったようだな、一人で考えることには限界がつきもの」

材木座はそう言って腕を組んで胸を張る。なんでお前がドヤ顔してんだよ、答え考えたの俺だろうが。

「まぁ納得したんならそれでいいんだが……高校生って設定なら学校の行事とか色々使えそうだし。それで……仲良くなった後の描写の方は?」

「……は……恥ずかしい……」

「は?」

357 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:23:37.66 pCUidH1j0 178/411

何故そこで顔を赤らめて目を逸らすんだよ…………。

「そ……その…………我も小説のキャラがイチャイチャするのを妄想しないこともないのだが……結局それは我の頭で考えたことになるわけで……」

おいおいおいおい、今さら何言ってんだよこいつは…………。そもそも小説なんてものは自分の頭の中を晒してるようなものだろうに。だいたい何故恋愛描写に限って…………俺は追い打ちなのか慰めなのかよくわからないことを口に出す。

「今までも散々痛々しい妄想晒してんだから、今さら恥ずかしがったってもはや関係ないだろう……お前の場合。それに恋愛の妄想が恥ずかしいっていうならリアルでそれやってる奴らはどうなるんだ?」

「た、確かに…………リアルでキャッキャウフフしてる連中などこっちが目を逸らしてしまう、嫉妬と憤怒で」

「いや、そこまでは言ってないんだが…………だいたい俺に見せたところで他に広まりようがないんだから安心しろ。こんなこと話すような友達もほぼゼロだしな」

“ほぼ”と言ったのはもちろん戸塚が除かれているためです。それに、友達になりたい奴がいないこともないですし。

「そうか…………うむ、そうだな!では主の教えに従って存分に筆を躍らせることに致しやしょう」

「お、おう…………まぁ……プロット自体は俺も嫌いではないしな」

358 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/27 01:29:28.95 pCUidH1j0 179/411

まぁ、正直なところ設定自体はどこかで見たようなものの寄せ集めだが、諦めたからこそ見える希望があるという展開は悪くない。諦めないというのは同じ方法に固執し続けるという見方もできるしな。それに基本的に時間移動なんてチートなんだからそう簡単に使われても困る。対価が自分の寿命というのはまぁ妥当なところか。いや…………そもそも、そういうものなんだ…………誰かと一緒にいることは、その分だけ自分の寿命を削っていることと同じなんだ。だからこそ、ぞんざいに扱うことは許されない。ましてや自分が大切に想う相手に対しては、なおさらそのありがたみを忘れてはいけない。それを忘れてしまうと、ただ空間を共有しているだけの関係になってしまう。いつの間にか、それ自体が目的となってしまい一緒にいても幸福と思えなくなる。そして、失ってしまう…………。失った過去は、変えられない。勿論、遠い先の未来も同じこと。結局変えられるのは、過去でも未来でもなく今だけだったってことか。――――そうか。






あぁ…………まったく癪に障る話だ。なんでこうこいつといる時に限ってロクでもないことを俺は思いつくんだろうか。

376 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:23:23.47 nll560B/0 180/411

点と点とが一本の線につながるような――――パズルの最後のピースがはまるような――――頭に電撃が走るような、そんな感覚。たまにあるんだよな、こういうの。これだから考え事をするのはやめられないんだ。ああ、もうダメだ、自分のこの衝動は抑え切れない。自然と笑みがこぼれる。

「クククク…………」

「は、八幡……?」

そっぽを向いて端末を持ったまま肩を震わせている俺を不審に思った材木座が小声で様子をうかがう。いかんいかん、このまま自分を客観視できなかったらどこぞのマッドサイエンティストのような高笑いをするところだった。とりあえず心を落ち着けるために俺は一度深く息を吐く。そうしてから、材木座の方に向き直る。


「悪いが材木座…………俺はお前を裏切ることになるかもしれん」

「……ふぁい?」

材木座はぽかんとして気の抜けた声を出した。まぁ、その反応はわからんでもないけどさ。

「試験が近いからすぐに、というのは無理だろうが…………その小説、さっさと書きあげたほうがいいぞ」

「ぬぬっ!?まさかおぬし、我のこの最終奥儀を窃取せんことを試みようとしているのか!?」

材木座はそう言ってタブレット端末をズビシッと指さす。いや、小説とか書く気ないから安心しろ。俺は手に持っていた端末を材木座につき返した。



377 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:27:05.58 nll560B/0 181/411

「そういうことじゃなくてだな…………早くしないと……その……お前の妄想じゃなくて俺の……リアルな……あ~とイチャイチャ話を聞くハメになるという可能性が、ないとも言い切れないというか……」

喋っているうちに妙に恥ずかしくなってしまったせいか、俺はつい頬を指で掻く。というか何を言っちゃてんの?自分は。

まだ思いついた策がうまくいくともわからんのに。だいたい自分で退路断ってどうすんだっつうの。そんなことを思ったが材木座は微動だにしない。あ~…………これはキレられるか泣かれるかどちらかの流れかな?そう思って身構えると、左腕をこちらに伸ばしてきて俺の肩がポンと叩かれる。


「それはつまり…………主が奉仕部に再び戻る、という解釈で構わないのかね?」

「あ……まぁ……うまくいけば、の話だがな」

俺がそう答えると、材木座はニヤリと笑って腕を戻し、サムズアップをしたかと思ったら次は親指を下に向けてきた。

おい、どっちに解釈すりゃいいんだ?そのジェスチャーは。

「我としても主が部に戻ってもらわぬと困るのでな。正直なところ一人であの者どもを相手にするのは荷が重すぎる」

「お前はどっちかっていうと相手してもらってる立場だろうが…………だいたい俺にとったって軽いものじゃない」

378 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:31:25.69 nll560B/0 182/411

これは材木座の言った”重い”の意味とはまた違うものだ。意図するかどうかに関わらず、自分にとってそういう存在はつくらないようにしてきたつもりだったが、もうとっくにそんなことは言えない程度には手遅れだ。手遅れなら手遅れなりの処置を施すしかないのだろう。

「ともあれ八幡が奉仕部に戻るというなら、それは目出度いことである。ただし、この小説は我一人の独力で書きあげることにしよう。主の惚気話なんぞ聞いたらこっちが死んでしまうわ。フゥーッハッハッハッハッハ!」

…………何故そこで笑いだすのかよくわからん。というか一人の独力って意味かぶってんだろ。漢字が違うのかしら。


「まぁ……なんだ、さっきは俺も血迷ってあんなことを言ってしまったが、よく考えたら材木座にそういう話をするとも思えないしな。え~と…………小説、また完成した頃に見せに来いよ。その時にはもう試験も終わってるだろうし」

「確かに。今はいかにも試験に注力すべき時期。我としてもまた別の意味で八幡大菩薩のお導きが必要と存じておる」

「いやいや、ちょっと今それどころじゃないんで…………」

本当にそれどころじゃないから困る。たった今、全体の方針が決まったのはいいが、それならそれで細かい予定を立てる必要があるからな。まぁ結果的に材木座は知恵を貸してくれたようなものなのでありがたい話ではあるんだが。

「試験終わってしばらく経つまでは色々と余裕がない。だから、また今度、な」

379 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:35:36.62 nll560B/0 183/411

「むぅ…………まぁ仕方あるまい。そもそも主が部活に来ていないこと自体が異常であるとも言えなくもない」

あぁ…………もはや材木座にもそういう風に見られるようになってしまったのか、俺と奉仕部の関係というものが。これも自分ではどうにもできない問題だ。どうにもできないことをいくら考えても仕方ない。今は早く考えなければいけないことがあるのでこちらから話を切る。

「それはともかく…………俺も用事があるからそろそろ退散するわ。ま、なんだかんだ言ってお前のそのロクでもない小説やら下卑た策やらでも結構役に立ってたりするもんだ。そこは感謝しておく。……じゃあな」

「ほぅ…………」


何か感心した様子の材木座を尻目に俺は振り返り、もともと進もうとしていた方向に足を踏み出す。ある程度急いでいるのを察したのか、それ以上声をかけてくることはなかった。俺はそのまま歩いて教室に戻り、パンと飲み物を手に持って改めて奉仕部の部室に向かうことにした。さっき材木座と話していた渡り廊下にまで辿りつくと、なんとなく窓の外を見たくなってその歩みを一度止める。ここからだと校舎以外に特に見えるものがあるわけではない。空模様はいかにも初冬という感じの薄い青空だ。ただ、いつもとは違う場所に飛行機雲が何本か浮かんでいる。風向きが変わったせいか?

そういえば、飛行機が離着陸する時は順風より逆風の方が良いんだっけ?そんなことを思い出す。自分がこれからやろうとしていることも似たようなものなのかな。飛ぶためにわざと逆風を吹かせる。はたしてその風に耐えてくれるのだろうか、自分と彼女は――――――――。

380 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:38:24.46 nll560B/0 184/411

さっきまであんな大口を叩いていたのに、急に不安になってくる自分がいるのに気づく。それを振り払うようにして、俺はまた歩き出す。でも、その足は何故かいつも昼食を食べる場所に向かっていた。雪ノ下雪乃に会うのが億劫になったから?いや、違う。むしろ――――――――。



「由比ヶ浜さんの言う通りだったわね。あなた、こんな寒いところでお昼を食べるなんて物好きもいいところだわ」



例の階段に着くと、そこには先客がいた。長い黒髪が風でさらさらと揺れている。俺がいつも座っている場所に何故か雪ノ下雪乃の姿があった。俺の姿を見て開口一番にそう言うと、立ち上がってこちらに近づいてくる。

「こんなことをしていてまた部員が体調を崩されても困るから…………これからは部室に来なさい。どうせあなたのことなんだから、自分の教室にも居場所はないのでしょう?」

「居場所がないのはいまさら否定する気もないが…………俺はまだ奉仕部に戻ることは……」

俺のやんわりとした拒否に対して、雪ノ下はやれやれとも言いたげな顔でこう続ける。

「勘違いしてもらっては困るわ。私はただ、昼食を部室で食べてもいい、と言っただけよ」

「いや、今”来なさい”って……」

「あなたの場合、来いと言わなければ来ないでしょう?」

「そ……そうでしたね…………」



381 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:41:27.00 nll560B/0 185/411

予想以上に自分の思考が読まれていることに戦慄を覚えつつ、先にすたすたと歩き出した雪ノ下の後ろを俺がついていく。

時間が惜しいと思っているせいか、彼女の足取りは速い。時計を見るともう昼休みの時間の半分近くが過ぎていた。あれ?

そもそも雪ノ下はなんであんなところにいたんだ?まさか……

「もしかして、お前俺のこと探していたのか?もしそうなら…………悪かったな、手間取らせて」

「私が勝手にやっていることだから…………あなたが謝る必要はないわ」

雪ノ下はそう答えてから、いったんその歩みを止める。そして、長い髪をたなびかせながらこちらに向き直る。真っ直ぐ自分の方に目を向けられたので、思わず視線を外してしまう。美人は三日で飽きる、という諺があるがあれは絶対嘘だな。

全然慣れたりするもんじゃない。まぁ雪ノ下の場合、眼光鋭いから別の意味で慣れないというのもあるのかもしらんが。

「比企谷くん」

「は、はい……」

名前を呼ばれたのでとりあえず返事をすると、今度は向こうが目を逸らす。雪ノ下は右手を軽く握り、胸の前にあててふっと息をつくとまたその瞳がこちらに焦点を合わせる。この雰囲気……どこかで…………。

「比企谷くん。その…………期末試験の最終日の午後、あいているかしら」

「えっ?あぁ……まぁ……あいているといえばあいているが」

382 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:44:30.97 nll560B/0 186/411

その日は試験だけで学校は午前だけで終わるから、午後に何か特定の予定があるわけではない。しかし、由比ヶ浜との約束の日が迫っているから色々と準備しないといけないだろうし…………いや、待てよ?

「あいているのなら…………あけておいて頂戴。私、あなたと話さなければならないことがあるから」

「なるほど、そういうことか。俺も……実はそう思ってて……さっきすれ違いになったのはお前を探してて…………」

俺の言葉が意外だったのか、雪ノ下の目がさっきより見開かれる。そして何故かその口元が少し緩んだように見えた。

「……そうだったのね。それならちょうどいいし、よろしく頼むわ」

「お、おう……」

「それと…………これを」


雪ノ下は制服の胸ポケットから何かを取り出し、俺の両手がふさがっているのを見るやいなやこちらに向かってその腕を伸ばしてくる。思わず一歩後ずさりするが、そんな挙動は無視して強引にこっちの制服の胸ポケットにそのものを入れてしまった。

「え?あ、ちょっと……なんだよ、いきなり……」

俺が雪ノ下の行動に困惑していると、彼女はこちらを一瞬見た後ほんのりと頬を染めてぽそっとつぶやく。

「…………連絡先」

「え?」

383 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:49:09.55 nll560B/0 187/411

「今渡したメモに……私の携帯の番号と……アドレスが書いてあるから…………もし何かあれば、そこに……」

「あぁ……そういう…………わかった」

それはわかったが…………何もこんな渡し方しなくても。なんか髪が触れそうになったし、いい匂いがしたし、無駄に胸がドキドキしてしまった。そして、今俺の制服の胸ポケットには…………いや、深く考えるようなことでもない。

そんなことより、訊かなきゃいけないことがあるだろうが。

「ところで、お……俺のは…………教えなくてもいいのか?」

「その必要はないわ」

……ですよねー。また自分の自意識過剰ぶりが炸裂してしまった。まぁ、必要になる場面が出てくるとも思えないし緊急の用事なら他の人を経由させれば済む話だしね。しかし、次に彼女の口から出た言葉は意外なものだった。

「わ、私は……あなたのは……もう……知っているから……」

「え?」


ど、ど、どういうこと?おっかしいなー。俺が雪ノ下に自分の連絡先を教えたことはなかったはずなんだが。さっきの他の人を経由、という考えから俺はひとつの仮説が思い浮かぶ。

「ま、まさか…………ひょっとして小町の奴が……」

「こ、小町さんにも悪気があったわけではないと思うわ。わ……私としてもそれをあえてあなたに言う必要が今までなかったから…………」

384 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:51:28.56 nll560B/0 188/411

珍しく雪ノ下の声がどんどん小さくなっていった。いや、まぁ確かにそれをわざわざ俺に言う必要はないよな。それは、嘘をつくとかそういう次元の話ではない。俺が黙っているとこちらをチラチラ見られるのでさっさと言葉を返す。

「別に俺がそれを知らないからどうって話でもないしな。小町も同じ部活の人間ってことで渡しただけで、そんなに深い意味はないだろうし気にすることもない」

「そ、そう…………」

雪ノ下は何か安堵した様子でふっと息をつく。とりあえずこの話はそれでいいだろう。

「まぁそれはそれとして…………早いとこ飯行こうぜ。ここで話していると時間がなくなっちまう」

「え、ええ……そうね」


今度は先に俺が歩き出し、その後を雪ノ下がついてくる形となった。歩いている途中で、また後ろから声がかかる。

「歩きながらでいいから…………聞いてほしいことがあるのだけど」

「なんだ?」

「試験が終わった後の週末に…………あなたは由比ヶ浜さんと会う予定なのでしょう?」

「……俺はそのつもりだ」

雪ノ下の言葉に、歩くテンポが少し遅れる。……彼女がそれを知っていたとしても別におかしくはないのに。

385 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 21:54:26.15 nll560B/0 189/411

「だからなのよ…………私が試験終了日を指定したのは。おそらくその方があなたにとっても都合が良いと思って」

「……そういうことか。……まぁ……そう、だな」

確かに元々俺は雪ノ下と二人で話をしてから由比ヶ浜に会うつもりでいた。しかし、いざそれが確定事項のようになってしまうとそれはそれで不安に感じなくもない。だが、それもまた今に始まった問題ではなく俺のような人間が不安を解消するのならば、それを現実のものとするほか方法はないのだろう。俺はそんなことを考えつつ、歩き続ける。先ほどの俺の返答の後は、雪ノ下が話しかけてくるようなことも特になかった。


「比企谷くん」

特別棟の階段を上りきったところで、再び後ろから声がかかったので振り返る。先ほどとは違い、雪ノ下の表情はどこか物憂げに見えた。その様子は、いつか雪ノ下のマンションに行った時のことを俺に思い出させた。何故だか妙に胸がざわつく気がする。彼女は普段は強気だから、こういうのもギャップ萌えとでもいうのだろうか?庇護欲をそそるというか。

「……比企谷くん?」

「あ、はい……なんでしょうか」

俺が黙ったままだったせいで雪ノ下の目つきは怪訝なものに入れ替わる。

「試験が終わる日のことについて言っておきたいことが…………」

「予定ならあけとくからそんなに心配しなくてもいいと思うぞ」

386 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 22:10:55.37 nll560B/0 190/411

「そういうことではなくて…………その……私と話をする時に……叶えられるかどうかはわからないけれど、できるだけあなたの希望していることを言ってほしい」

話している間に雪ノ下は下の方を向いてしまった。い、今さりげなく凄いことを言われたような気がするぞ。まるでそれだと俺が何かお願いしたらそれを雪ノ下が聞いてくれるみたいじゃないか。いやいやいやいや、あまり自分の良いように解釈するもんじゃない。

「ええっと、それはつまり…………俺にあまり遠慮するなってことで……いいのか?」

「そ……そういう解釈でも構わないわ」

相変わらず雪ノ下はうつむき加減のままだ。俺はこの空気をなんとかしたかったので、それにふさわしいと思われる言葉を彼女にかける。それは俺が希望していることでもあるのだし。

「まぁ……その…………雪ノ下の方も何か言いたいことあったら……遠慮しなくていいからな」

「そ……そうね」

387 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/08/29 22:18:28.08 nll560B/0 191/411

俺の言葉に雪ノ下は顔を上げてくれた。ただ、その表情は少し驚いているように見える。あれ?そういえば、いつから俺は雪ノ下が自分に対して遠慮なんてするようになったと思うように…………?俺の疑問を感じ取ったのかはわからないが、雪ノ下は部室の扉の方に歩いていく。

「中で由比ヶ浜さんを待たせているから…………」

「そ、そうだな……」

俺は彼女の後ろについていく。雪ノ下は扉の前に立ち、ノックをした。すると、中から由比ヶ浜の声が聞こえてきた。

「どうぞ~」

そして、奉仕部の扉が開かれる。まぁ…………まだ部活に戻れたわけじゃないが、冬場の昼食場所を新たに確保できたということで今はよしとするしかないのだろう。

396 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:00:12.55 KhUE3YQs0 192/411

雪ノ下が扉を開けると、そこにはもう既に机の上に弁当を広げていた由比ヶ浜結衣の姿があった。雪ノ下と俺の姿に気づいてパッと表情が明るくなったように見えた。

「ゆきのん、ヒッキーやっはろー!…………あんまり遅いから一度電話しようかと思ったし」

「ごめんなさいね、由比ヶ浜さん。この男が何故かいつもの場所にいなくて探すのに手間取ってしまったのよ」

雪ノ下は部屋に入るやいなやそう言って由比ヶ浜に謝る…………のはいいんだが、何?これ俺が悪いの?

「わ、悪かったな…………俺も雪ノ下を探してたのと、途中で材木座に捕まっててだな……」

「……そういうわけだから、別に比企谷くんが悪いわけではないのよ」

「そ、そうなんだ…………ならしょうがないね」

由比ヶ浜は今の雪ノ下の言葉を聞いて、なんだか妙に嬉しそうな顔をする。なんでだよ。というか、雪ノ下は俺を責めたいのか庇いたいのかハッキリしろよ。……どう反応していいかわからなくなるだろ。当惑しているのを見て、由比ヶ浜は俺と雪ノ下を促す。

「ま、まぁ……それはともかく、二人とも早く食べちゃおう!今日はあんまり時間ないし」

「そうね」

「そうだな」

397 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:01:24.90 KhUE3YQs0 193/411

俺と雪ノ下は返事をして、各自いつも座っている席に着く。別にそう長い期間離れていたわけでもないのに、妙に懐かしい感じがしてしまう。俺が感傷に耽っているのを横で見ていた由比ヶ浜がこちらを覗き込んでくる。

「ねぇ、ヒッキー…………もしかして泣いてるの?」

「ハァ?バッカお前、俺がこんなところで泣くわけないだろう?……もし泣くとしてももっと先の話だ」

「え?それって……」

俺の含みを持たせた返答に、由比ヶ浜の眉が歪む。雪ノ下まで怪訝そうにこちらを見てきた。ここでこれ以上追及されても困るので、状況の説明に終始して逃れようと思う。

「え~と、だな……今の俺はただ部室に戻ってきただけだ……それ以上でもそれ以下でもない。でも、俺はこれから先にいくつか行動を起こすことを決めてしまった。だから……」

「私はこの男がこれから先、どの場面で泣くことになるかなんて興味ないわ。それよりさっさと食べましょう」

助け舟?なのかどうかはよくわからないが、雪ノ下は俺の話を途中で遮ってしまった。まぁ、そうしてくれた方が自分としてもありがたい。食べる体勢に入らせるために、俺は机の上に置いたパンと飲み物を前にして手を合わせる。

「いただきます」

「え……あ、いただきます」

「……いただきます」

398 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:02:33.20 KhUE3YQs0 194/411

由比ヶ浜はまださっき言っていたことが気になっていたようだが、俺の挨拶で諦めたのか自らも食べる体勢に入った。

雪ノ下はいつものすまし顔といった感じだ。この”いつも”もなんだか久しぶりだな。食べているところじゃなかったら頬が緩むのを誤魔化しきれなかったぜ。

別に特にこれといって何かがあるわけではない。むしろ何もなかったという方が正しいのかもしれない。部室で三人で昼食を食べて過ごした。ただ、それだけのことだ。でも、”ただ、それだけのこと”を回復させるだけでもこんなに時間がかかってしまった。そして、今こうして過ごしていることもどれだけ貴重なことなのかも自分はまだ完全には理解していないのかもしれない。それでも、俺はここに戻れて……………………良かった、と思う。

とりあえず部室に戻ることはできた。次は部活に戻る番だな。ただ、俺の方法はというと――――――――。


399 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:04:55.01 KhUE3YQs0 195/411

⑧ようやく比企谷八幡は彼女との約束を果たす。


12月に入ってますます日は短く、空気は寒々とするようになったが、幸いにも俺は部室で昼食を食べることを許されるようになったため、以前のように外にいることはなくなっていた。初日こそ時間がなく何も話すことはできなかったが、

それ以降は依頼をこなすという行為以外は普段の奉仕部の様子とそう変わらない雰囲気に戻っていた。最近になって、やっと雑談というものがどういうものなのかわかった気がする。ほとんどの人間はそんなに深く考えて喋ってはいないんだよな、たぶん。でも、自分の場合はそれは許されなかった。話せば話すほど向こうから離れられるのが常だった。

だから、いちいち内容を頭の中で整理しないと話せなかった。ただ、いつの頃からか無視されるのも嫌悪されるのにも慣れてしまったので、あえて自分を出すようなこともしてみたりした。案の定、ドン引きされるか話したことをなかったことにされるか、避けられたりした。

でも、そうはならなかった人間がここにはいる。…………しかも二人も。


おそらくもうこんなことは二度と起こらない。だからこそ、このままの状態が続けばいいと、ついそう思ってしまう。

だが、それももう許されない状況になってきた。進まなければ、現状を維持することすらできない。しかし、進んだところで上手くいくかどうかなんてことはわかるはずもない。だから、それは自らの手でわかるようにしなければならない。そうすることによってたとえ全て壊れることになったとしても。わからないでいるままよりはいい。どちらにせよ、壊れる時は必ず訪れるのだから。


400 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:06:30.95 KhUE3YQs0 196/411

期末試験直前の日も、お昼休みは奉仕部の三人で過ごしていた。普段より早く弁当を食べ終わった雪ノ下は自分の荷物を片付けてこう言った。

「私は少し教室ですることがあるから、今日は先に戻るわ」

「あ……そうなんだ。じゃあまたね、ゆきのん」

「ええ……」

雪ノ下は立ち上がり、部室の前の扉の方へ歩いていった。扉の取っ手に手をかけたところで体の向きは変えずにこう切り出す。こちらからはその後ろ姿しか見ることはできない。

「比企谷くん」

「は、はい」

「試験終了日のことについてなのだけれど……」

「お、おう……」

このタイミングでその話をされるとは思っていなかったので、俺の口からはそんな言葉しか出てこなかった。俺は雪ノ下の方を見ていたので由比ヶ浜がこの時どんな反応だったのかは知る由もない。

「学校が終わったら、あなたは一度家にまっすぐ帰りなさい。後で私の方から連絡を入れるから」

「そ、そうか…………わかった」


401 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:08:17.98 KhUE3YQs0 197/411

俺のその返事を聞いて、雪ノ下は安堵からなのかふっと息をついた。同時に自分も息をついてしまう。実のところ、少し心配していたのだ。雪ノ下の指定した時間の方法について。今の彼女がそういうことに無頓着でなくなっているというのはある程度は予想していたが、もし学校から直接一緒にどこかに行くとかいう話だったら俺としてはちょっと気が引けたのだ。だから、雪ノ下の方から家に帰ってから出直してこいということを言われてそういう懸念はひとまず解消された。

「では、そういうことで…………よろしく」

「ああ……じゃあ連絡、待っているよ」

雪ノ下は振り返ることなく、扉を開けてそのまま部室から出ていった。俺と由比ヶ浜だけが部屋に残される。今の話の流れで切り出した方がいいのだろうか。さすがにあれから何も言わないままというのもアレだし。


「あ、あのさ…………由比ヶ浜」

「ん?なになに?」

由比ヶ浜は椅子をこちら側に引き、少し身を乗り出してきた。近い近い。俺は彼女の方には顔を向けずに話を続ける。

「試験終わった後の土曜日のことなんだが……その……今も予定、大丈夫か?」

「うん、あけてあるよ。で、どうするの?当日」

「え~と…………とりあえず、朝の8時にお前ん家の最寄り駅で待ち合わせってことでいいか?」

「……わかった。それで、その後は?」

402 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:10:07.08 KhUE3YQs0 198/411

会話が進むたびに由比ヶ浜の顔が接近してくる。もうこれ俺が顔の向き変えたら…………って何を考えているんだ自分は。

落ち着け。というか由比ヶ浜がまず落ち着け。

「と、とりあえず体勢を元に戻してもらえませんか?…………ち、近い……」

「えっ?あ…………ごめん……」

今の行為は無意識だったのか、由比ヶ浜はハッとして乗り出した身を引っ込めた。そしてみるみるうちに顔が赤くなる。

いや、もうこっちはさっきから頭が熱っぽくて大変だったんですけど……。俺は頬を撫でつけながら、また口を開く。

「それで、その後は……と、当日の……お楽しみ、と言いますか…………」

「え?あ、あ…………そうなんだ…………なるほどね」

由比ヶ浜は一瞬怪訝な顔になった後、こんどは何故かニヤニヤし始めた。なんでだよ。顔の向きをこちらから前に戻すと何やらブツブツ呟いている。あんまりよくは聞きとれない。


「ふ~ん……ヒッキーが……へぇ……そういう……」

何回かふんふんと軽く頷いてまた俺の方を見ると、由比ヶ浜は人差し指を顎に当てて何か尋ねてくる。

「それはわかったけど…………あたしの方は……何か準備しなくても……いいの?」

「準備、ねぇ…………特にこれといって必要な持ち物はないと思うが……むしろ荷物は軽くした方がいいかもな。あと、なるべく動きやすい格好で来てほしい。それなりに歩くことになると思うから」

「…………わかった」

403 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:11:43.48 KhUE3YQs0 199/411

由比ヶ浜は俺の言葉に何か納得した様子を見せたと思ったら、今度は口に手を当ててふふっと笑う。

「俺なんかおかしいこと言ったか……?」

「い、いや?…………ヒッキーがこんなことするの……珍しいと思って」

「一応お前との約束だったしな…………でも、確かにそうかもしれない。たぶん二度目はないと思うぞ」

「え?……」

俺が何気なく言った一言に、由比ヶ浜の表情が固まった。あ~……やっぱりスルーしてもらえなかったか。

「あ、え~と……だな……二度目はない、くらいに考えていた方がたぶん楽しめるんじゃないかと思って、だな……」

「出た……いつものネガティブ発言…………でも……うん、それもそうかもね」

……とりあえずこの場はなんとかしのげたか。危ないな…………。あまり勘ぐられるようなことを言ってしまうと、それこそ当日に楽しんでもらえなくなるだろうから。

「ま、だから土曜日もあまり期待するんじゃないぞ。あとでガッカリされるのも嫌だしな」

「うん、ヒッキーのことだし期待しないでおくよ」

「あぁ、そうしとけ」

404 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:15:48.18 KhUE3YQs0 200/411

由比ヶ浜はその言葉と裏腹に、その表情は期待に満ち満ちていた。……ちょっと今日は色々と喋り過ぎたか。これからはもう少し気をつけないと。失敗するにしてもタイミングというものがあるからな。特にこれ以上喋ることはなかったのでその後は昼食の残りを食べるだけとなった。


昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴ったので、俺と由比ヶ浜は教室に戻る準備をする。昼にここに出入りする時はいつも二人で時間をずらしているので例によって今日も由比ヶ浜が先に扉に向かう。扉の前で彼女はくるりと俺の方に向き直る。

「ヒッキー、ありがとね。約束…………守ってくれて」

「いや、まぁ……約束しちまったものは仕方ないからな…………ずいぶん待たせたが」

「……それはもういいよ。その代わり、え~と…………そこそこ期待してるからね」

「あぁ……そこそこ、な」

俺の相変わらずの受け答えにも関わらず、由比ヶ浜はニコッと笑いかけてくれる。今はその笑顔に対して何も返せないのがどうにももどかしく、胸がチクリと痛む。いや、それどころか俺のやろうとしていることは――――。

「じゃあ、また教室でね」

「おう……」

笑顔のまま踵を返して扉を開け、部屋を出ていく由比ヶ浜の姿を見て、俺の胸の痛みはますます強くなるばかりだった。

405 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:18:07.73 KhUE3YQs0 201/411

光陰矢のごとし。英語で言うとTime flies. まさに飛ぶようにして、それからの日々は過ぎ去ってしまった。

鐘が鳴って先生が「やめ」と言い、試験の解答用紙が集められる。この科目で期末試験ももう終わりだ。普段から勉強はしているので、試験勉強自体はそれほど負担にはならないのだが、今回はちょっと他に考えることと準備しなければならないことが多すぎた。そのおかげで今回の試験の結果はあまり自信がなかった。そういう意味でも、由比ヶ浜に今度の土曜日の予定を教えなかったのは正解だったような気がする。今の俺みたいなことになられても困る。最近は少しは良くなったとはいえ、由比ヶ浜の成績が悪いことには変わりないからな。周りを見渡すと、試験が終わってほっとしたのか伸びをしていたり、答えを教え合ったりしている人たちが見える。葉山もいつもの男子の取り巻きに囲まれて、答えを訊かれたりしているようだ。ただ、話を振られたら答える程度で自分から話しかけるような様子はもう見られない。最近はもうずっとこんな感じだ。話しかけている方はそれで繋ぎとめているつもりなのかもしれない。もう葉山の心はそこにはないというのに。心が近くにないのに、ただ距離が近いなんて俺にはとても耐えられないだろう。諦めが悪いというのも考えものという印象だ。むしろ、諦めた先にしか見えないものだってある筈なのに。

406 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:20:19.22 KhUE3YQs0 202/411

そんなことを考えているうちに今日のSHRもさっさと終わってしまい、周りの席でも帰り支度が始まった。俺も帰ることにするか。雪ノ下からもそうするように言われているのだし。鞄を取りに行く途中で、ふと由比ヶ浜と目が合う。

俺は軽く会釈をし、彼女は胸の前で小さく手を振った。教室での俺と彼女もここのところはずっとこんな感じだ。葉山が雪ノ下に告白して以降、三浦と葉山がつるむことが少なくなっていたため、必然的に由比ヶ浜と葉山の関わりも少なくなっているようだった。まぁ、だから何だというのだ。いずれにせよ今の俺にそんなことまで感知している余裕はないのだし、俺が自分の選択をすることが葉山の望んだことでもあるのだ。…………結果いかんに関わらず。


それから教室を出て、昇降口で靴を履き替えて駐輪場へ向かう。コートを着るようになっても寒いものは寒い。ただし、試験期間中は昼には終わるのでいつもより気温が高い時に帰れるのは幸いだった。今日は薄曇りで日差しがほしいところではあった。今のところ天気予報では土曜日も晴れになっていたが…………。

自転車に乗って学校を出て住宅街の横を走っていると、ちらほらとイルミネーションを飾っている住宅が見える。そういえば、もうすぐクリスマスもあるのか。…………まだ何も考えてないな、そういえば。クリスマスに何か考える必要があること自体が俺にとっては驚愕の事実なのだが、しかしそれも今日の午後と今度の土曜日と来週の月曜日次第だな。

状況によっては何も考える必要がなくなるという可能性も充分ありうる。今は午後のことに集中しよう。

407 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:26:06.54 KhUE3YQs0 203/411

ほどなくして家に着き「ただいま」と形式上挨拶はするものの、カマクラ以外には誰もいない。小町とは微妙に試験の日程がズレているため、今日は通常通りの授業らしい。そういえば、ここのところあまり妹の勉強も見てやれてなかったような気がする。結果がどうなるにせよ、今の問題が片付いたら少しは付き合ってやろう。そんなことを考えつつ、俺は昼食を適当に済ませた。


一休みしてから、俺はPCの前に向かう。今度の土曜日の参考にするためだ。しかし、こういうものは調べても調べてもキリがないように思えてくる。ある程度の準備は必要だが本人の要望もあることだろうし、あまりガチガチに予定を組めるものでもない。時期が時期だし小町に助言を求めることもできない。それに、中途半端にこちらの状況を知られると後々やっかいなことになりそうだ。……うんうん唸り始めたところで唐突に俺のスマホが鳴る。いや、電話というものはいつも唐突に鳴るものではあるんですが、ぼっちの自分にはなかなか慣れないものでして…………。

「もしもし」

「もしもし、比企谷くん?雪ノ下です」

「比企谷です…………それで…………自分はこれからどうすればいいですか?」

408 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:28:38.78 KhUE3YQs0 204/411

「………………………」

沈黙が15秒ほど続く。沈黙が好きな俺でもさすがに電話でこれは長いので、待ちきれずに口を開いてしまった。

「雪ノ下?」「あの」

「あっ……すまん。ど、どうぞ……」

同時に喋ってしまったので反射的に謝ってしまった。すると、雪ノ下が息をすっと吸う音がかすかに聞こえた後、

「比企谷くんは…………今から私の家に来なさい」

「え?」

どこかに呼び出されることは想定していたが、まさかそれが自宅だとは思わなかった。……しかもあの雪ノ下が。

「え、じゃなくて…………あなたは来れるの?来れないの?どっち?」

「い、いや俺は行けるけど…………むしろお前はその……いいのかよ」

「何が」

俺の動揺が声に出ていたかはわからないが、雪ノ下は相変わらずのいつもの冷然とした声色で答える。

「何がって……その……お前の家、今誰かいるのか?いないんだったら、さ」

「いるわけないでしょう。話の内容を他の人に聞かれたくないから、私の家を指定しているのに。それとも何かしら? ただの部活仲間の家に行くというだけで変な想像でもしておいでで?」

「そ、そんなことしてねぇよ…………ただ、お前が嫌なんじゃないかと思っただけだ」

409 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:32:29.14 KhUE3YQs0 205/411

ごめんなさい、雪ノ下さん。また嘘つきました。ホントはちょっとだけしました。しかしそんなこと言えるわけないし、

声がうわずったのもたぶん気のせいです。俺の反応はまるで無視して雪ノ下は話し続ける。

「今さらそんなこと思わないわよ…………それより…………早く、来てね」

「えっ?……お、おう……」

俺の答えを聞いて、雪ノ下は電話を切った。最後にぽそっと言われた言葉に俺の動揺はさらに大きくなった。心臓の鼓動が向こうに聞こえてないか心配になったほどだ。あ、あんな喋り方もするんだな…………雪ノ下って。

胸の音が収まるまで、俺はさっきの調べものの続きをすることにしたが…………全然集中できねぇ。仕方ないのでPCの電源を切り、また出かける準備をすることにした。ほら、あれだ。早く来いと言われたし、なんか今は体が熱いから外に出てもそんなに寒く感じない筈だし。珍しく絡んできたカマクラを適当にあしらいつつ、俺はまた玄関の扉を開けた。


「マンションに自転車置くところあったか覚えてないし…………たまにはバスで行くか」

誰に言ったわけでもないよくわからない独り言をつぶやきながら、俺は雪ノ下のマンションへと向かうことにした。

410 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:35:11.29 KhUE3YQs0 206/411

バスに乗って十数分、雪ノ下のマンションの最寄りのバス停に着く。建物はすぐ見えているのに、ここからまたちょっと歩くんだよな。敷地内の庭園を横目にしながら数分後、ようやく入口に辿りついた。自動ドアの前に立って中に入ろうとするが…………開かねぇ。どうやら俺は機械にも認識されていない存在の模様。周りに誰もいなかったので、何度か立つ場所を変えたらやっとドアが開いた。まったく…………高級マンションならドアセンサーも高度にしてもらいたい。

無駄な疲労をしつつ、これまた広いエントランスホールを進む。平日の昼間ということもあって人気もしない。それにしても綺麗なマンションだな。この床なんてピカピカで映り込みが凄いし、もう少し頑張れば…………って何を考えているんだ自分は。ともあれインターホンの前まで来たので、部屋番号を押して雪ノ下を呼び出す。以前訪れた時とは違い、今回はすぐに反応した。

『比企谷くんね。……上で待っているわ』

中扉があき、俺はエレベーターに乗って15階を目指す。今は誰も使っていないせいか待たされることもなくすぐに来た。

ほどなくして15階に着き、雪ノ下の部屋の前まで来てもう一度インターホンを押す。

『比企谷だ』

『はい……少し待ってて』

411 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 21:45:43.71 KhUE3YQs0 207/411

複数の鍵が開く音と重厚そうな扉の音が聞こえて、雪ノ下の部屋の扉が開かれる。わざとなのかどうかよくわからないが、以前文化祭前に俺と由比ヶ浜で彼女の家に行った時と同じような格好をしていた。単にこういう服装が好きなだけなのかもしれない。俺が立ちっぱなしでいるのを見て、手招きする。彼女の表情はいつも通りといった感じだ。

「どうぞ、入って」

「お邪魔します…………」

用意されていたスリッパを履いて、雪ノ下の後に続く。さすがに今は暖房が入れられているようで部屋の中は暖かかった。

相変わらず生活感のないリビングに通されて、以前と同じようにソファへと促される。

「そこに座っていて。飲み物は……紅茶でいいかしら」

「……いいよ」

俺の答えを聞いて、雪ノ下はキッチンに向かった。その間に部屋を見回してみるが、前に俺と由比ヶ浜で来た時と様子はほとんど変わってないようだった。せいぜい加湿器が置いてあるのが見えるくらいのもので、TVの下に置いてあるDVDコレクションの内容までは俺は覚えてないからな。増えていたりするのかどうかはよくわからない。

412 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 22:00:24.86 KhUE3YQs0 208/411

しばらくして、プレートの上にソーサーとカップを乗せて雪ノ下が紅茶を運んできた。彼女は俺が座っている二人掛けのソファの前にあるリビングテーブルの上にそれを置く。そして俺の隣に腰を下ろしたところで、彼女は口を開いた。

「……どうぞ」

「……どうも」

俺がカップに手を伸ばしたのに続いて、雪ノ下もそれを手に取る。まだ熱いので、口でふうふう言いながら冷めるのを待った。何故かつい雪ノ下の唇に視線がいってしまう。チラチラ見ていたのがバレたのか彼女は怪訝な顔をする。

「何か」

「い、いえ……なんでもありません」

「…………そ」

俺が視線を元に戻すとそれ以上追及することはなく、雪ノ下は紅茶を飲み始める。俺もそれに続く。……美味しい。

413 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 22:13:18.21 KhUE3YQs0 209/411

「雪ノ下は紅茶を淹れるのも上手だよな」

「…………普通に淹れているだけだと思うのだけれど」

「その普通ができない奴が多いんだよ、案外。世の中そういうものだ」

「そう…………かもしれないわね。そして、それは私とあなたにも当てはまることではなくて?」

そう言いながら雪ノ下はこちらに視線をチラッと向けた。何故だかその表情はどこか得意げに見える。

「ま、俺とお前はそもそも普通じゃないしな…………」

「そうね…………ねぇ、比企谷くん」

雪ノ下はそう言いかけて、カップをいったんプレートの上に置き直した。そして、こちらの方に身を乗り出してくる。

そんな状態で紅茶を飲めたものではないので俺もカップを戻す。

「な、なんだ?…………雪ノ下」

「…………そろそろ本題に入ってもいいかしら」

視線はそのままで乗り出した身を少し戻しながら、雪ノ下は俺に尋ねてきた。彼女とは色々と話すべきことがあるのは重々承知だが、あえて本題といわれても思い当たる節が多すぎる。

414 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/02 22:24:51.30 KhUE3YQs0 210/411

「それが何かは色々あると思うんだが…………まずは雪ノ下が話したいことからで……いいんじゃないか?」

「そう…………それはありがとう、比企谷くん」

そう言って雪ノ下はニッコリと微笑んだ。これが並の男子ならコロッとやられちゃうな。しかし、俺はその笑顔にほんの少しだけ毒が含まれていたのを見逃さなかった、いや見逃せなかった。…………もう、戻れないな。これは。

「比企谷くん…………あなたもこちらを向きなさい」

「は、はい…………」

彼女にそう言われて拒めるはずもなく、俺は雪ノ下の方に顔を向ける。その途端、さっきまでの毒は消えて今度は憂いを帯びた笑顔になった。そして、雪ノ下は小さくつぶやくようにこう言った。






「私…………あなたのこと、好きよ」

441 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 22:46:31.33 upW2heo+0 211/411

それから雪ノ下のマンションを去るまでの間は、たぶん俺が今まで生きてきた中で一番密度の濃い会話をした時間だったと思う。まぁ、俺が他人としてきた会話などたかが知れているのかもしれないが、今日のこの時間のことはこれから先もずっと忘れないだろう。少なくとも、現段階においては俺にとっても雪ノ下にとっても最善の選択肢を取れたと思う。

嘘や欺瞞ではなく、また妥協でもなく。ただ、未だに自分の考えていること全てを話せたわけではない。雪ノ下は、あとは俺と由比ヶ浜の問題だと思っているかもしれないがそう首尾よくいくともわからない。俺の考えが明らかになる前に、今度こそ完全に失望される可能性も充分ある。しかし、それでも俺は自分のやり方を通したい。現時点で俺が考え得る最善の方法を。


マンションの建物から出て、敷地内の庭園から空を見上げるともう星が見え始めていた。風が吹くと庭園に植えてある木々の葉がかさかさと音を立てる。落葉樹はもうほとんど葉が落ちているものも何本か見受けられる。その光景を見て、俺は最後の一葉の一部分を思い出す。確かその短編小説では、あまり状態の良くない肺炎で入院している画家が窓の外の木の葉を見て「最後の葉が落ちたら自分も死ぬ」みたいなことを思っていた筈だ。話の流れはともかくとしてもどうにもこの登場人物の心情は理解できなかった。病気で弱気になり、自分の境遇をその木の葉っぱに重ね合わせていたのは理解できても、だからといって葉が全部落ちたら自分も死ぬというのはいきすぎだ。どのみちいつか葉は全て落ちるのだし、それでいつ落ちるか不安になるよりもさっさと全部落ちてしまった方が気が楽になれると思うのだが。ただ、まぁ由比ヶ浜なんかは最後の一葉を描き足す方のタイプの人間なんだろうな、たぶん。だが、残念ながら自分はそうではない。


だから、俺はこれから最後の一葉を落としに行くことにする。

442 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 22:49:21.27 upW2heo+0 212/411

土曜日の朝7時前、俺は由比ヶ浜の家の最寄り駅のコンコースで彼女が来るのを待っていた。時間が繰り上がっているのは俺が予定の時刻を勘違いしていたせいだ。後から電話して変更してもらったから大丈夫だとは思うのだが……。まぁ、まだ15分前だしな。そう焦る話でもあるまい。土曜日だから、平日に比べれば人通りは少ないが行楽と思しき格好の人と幾度かすれ違う。……大丈夫だよな。いや、万が一そうなったとしても……今さら心配するようなことでもあるまい。

由比ヶ浜もそう言ってくれたのだし。ただ、来週の火曜日まではなんとか秘匿しておきたいよなぁ…………今日の出来事については。あ~…………昨日はあまりよく眠れなかったな。遠足前の小学生かと思われそうだが、楽しみというよりは不安の方が実際のところは大きかった。でも、そのおかげでテンションが上がり過ぎずになんとか平常心を維持できているような気もする。不意にあくびが出てしまい、開いた口に手をあてていると後ろから声がかかる。

「おはよ~ヒッキー…………大きなあくび」


振り返ると由比ヶ浜が少しあきれたように肩をすくめて微笑んでいた。黒のタートルネックのリブセーターの上に赤いダッフルコートを着こみ、デニムのパンツに低めのショートブーツといういでたちは普段の彼女から考えるとむしろ大人しめな印象を受ける。ただ、髪型はいつも通りで手袋がピンクというのがいかにもといった感じだ。

「お、おはよう……」

私服姿を見るのも久々だったので、返事をするタイミングが若干遅れる。ついでに服装についてコメントするのも遅れてしまう。電車が遅れると後ろの電車がさらに遅れる、みたいな。俺が沈黙していると向こうから目を逸らされてしまった。

頬を指で掻きながら、なんとか次の言葉を紡ぎだす。

443 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 22:53:27.89 upW2heo+0 213/411

「あ、えっと、その……服……似合ってるし…………か、可愛い、と思うぞ」

「か、か!?……あ、……ありがと」

俺の言葉に目を見開いた後、由比ヶ浜の顔はかーっとコートとおそろいの色になった。そりゃ驚きもするだろうさ。心の中ではいくら思ってもそれを口に出すことなんてなかったんだから。でも、もうそれもやめだ。俺はもう彼女への好意を隠しはしない。相手がどう思っているかに関わらず、俺は自分の想いを彼女に告げなければならない。だから……

「あ、あのさ…………俺、由比ヶ浜に大事な話が……あ、あるんだけ」

「ちょ、ちょーっと待って!ヒッキー」

俺が言い終わる前に由比ヶ浜が両手をバッと前に出して制止の体勢を取る。彼女が急に大声を出したせいで周囲の通行人の視線がこちらに突き刺さる。痛い。由比ヶ浜もその視線を感じたおかげでまだその顔は赤いままだ。今度はその自分の顔の熱を冷ますように、手でパタパタと扇ぎ始めた。ふ~っと息をついて少し落ち着いた様子を見せると、今度はこちらに一歩近づいた。そして俺をチラチラ見ながら小声でそっとつぶやく。

「こ、ここだと……恥ずかしいから…………ちょっと……来て」


こちらが返事をする前に由比ヶ浜は外の方をちょいちょいっと指さし、小さい歩幅で歩き始めた。仕方ないので、俺は彼女の後ろについていく。いったん駅舎から外に出て、通路からは植栽で陰になって見えないところにまで来て由比ヶ浜は立ち止まった。ゆっくりと振り返って体をこちらに向け、視線は斜め下にやったままで彼女は言う。

「ここで、なら…………いいよ」

「そ、そうか……」

444 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 22:57:39.83 upW2heo+0 214/411

「……」

俺も彼女の方を見れないまま、沈黙が続く。由比ヶ浜は前髪をいじったりセーターの首の部分を触ったりしている。

早く言わなければいけないと思うほど、体はうまく動いてくれない。口を開けても声がすんなりと出てこない。そのままだとただの間抜けなので、いったん口を閉じてそれから息をふぅーっとゆっくりと出した。もう何も考えるな。結果はもはやどうでもいいのだ、この期に及んでは。俺が今思っていることを口に出せばいいんだ。簡単なことじゃないか。

普段の自分がやっていることと何も変わりはしない。俺は由比ヶ浜の方をまっすぐ見据える。すると彼女もそれに応じてこちらと視線を合わせてくれた。俺はすっと息を吸い、


「俺は……由比ヶ浜結衣のことが……………………好きだ。だから……もしよければ……俺と……付き合ってほしい」


言い終わってすぐ俺は思わず下を向いてしまう。へ……返事は……?おそるおそる前を見上げると、由比ヶ浜は何故か泣きそうな顔をしていた。その潤んだ瞳の意味が俺にはまだわからないまま、彼女は眼を細めて唇を開け、


「はい……」


とだけ、噛みしめるようにしてその一言だけを俺に聴かせた。こ、これは…………OKということでい、いいんだよな?

ど、ど、どうなんだ?俺の拭いきれない不安が顔に出てしまったのか、由比ヶ浜は肩をすくめた。そして、


「あ、あたしも……ヒッキーのこと…………好き……だよ」

「そ、そうか……」

445 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:01:38.44 upW2heo+0 215/411

何故か他人事みたいなセリフが出てしまった後、俺は安堵から前かがみになり両膝に手を置いてため息をついてしまう。

ようやく安心できた筈なのに、なんだか疲れがどっと噴き出してくるような感じがした。現時点でこんな調子で今日一日俺の身はもつのだろうか?…………そんな不安が頭をよぎる。このペシミスティックな思考…………いつもの自分だな。

大丈夫だ、問題ない。頭の中が元通りになったところで顔を上げると、やれやれといった感じで由比ヶ浜は俺を見てきた。

「な……なんだよ」

「い、いや?えっと……ヒッキーは相変わらず心配性だな、と思ったっていうか……」

「正直なところ、今の告白でさえ振られることを想定してたからな…………なんか今は拍子抜けしてるみたいだ」

「……さすがにこれで断ったらあたし悪い子だよ」

逆に俺のあまりに悲観的な思考に恐縮したせいなのか、由比ヶ浜はてへへと照れ笑いをした。


「いや……まぁ……お前は良い子だけど悪い子だからな、言っとくけど」

「……どういう意味?」

「由比ヶ浜は誰にでも優しいけど、そのせいで男子を勘違いさせるから悪い子ってことだよ」

俺なりにわかりやすく説明したつもりだったが、由比ヶ浜は首を傾げている。まさかこいつ…………。



447 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:05:50.77 upW2heo+0 216/411

「お前さぁ…………もしかしてモテてるって自覚なかったりする?」

「えっ?あ……え……う~ん……よくわかんない。告白とか…………そんなにされたことあるわけじゃないし」

“そんなに”って言ってる時点で充分モテてると思うのは私だけなんでしょうか……。今さらこんな話したところで別に何かメリットがあるわけでもないのに、つい話を続けてしまう自分がいる。

「そりゃお前…………人気あるから最初から諦めてる奴が多いってだけの話だろ。釣り合わないとも思うだろうし」

「そ……そうなんだ……。っていうか何でヒッキーがそんなに詳しいの?」

由比ヶ浜は不思議そうな顔をする。いや…………俺も心の中はごく普通の男子高校生なんですよ?だから、

「そんなの……自分の好きな子がモテるかどうか気にするのは当たり前だろ?それに……俺だって……正直なところ、分不相応なことしてるな、と今でも思ってる」

「そ、そんなことないよ!分不相応なんて思わないし…………それに本当はあたしの方から自分の気持ち……言わないといけないと思ってたし……」

「へぇ、意外だな。由比ヶ浜が分不相応なんて言葉知ってるとは思わなかった」

「意外って……え?も、も~ヒッキーあたしのこと馬鹿にし過ぎ!」


俺の言葉が唐突だったためか一瞬怪訝な顔になった後、由比ヶ浜は膨れっ面になって俺の胸をぽかぽか叩き始めた。

俺は由比ヶ浜といるとぽかぽかするし、由比ヶ浜にもぽかぽかして欲しいが、今彼女がやってるような意味ではない。

そんなどうでもいいようなことを考えつつ彼女を適当になだめて、俺は鞄から帽子を取りだしてそれを目深にかぶる。

448 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:09:15.33 upW2heo+0 217/411

「……どうしたの?急に帽子なんてかぶったりして」

「え~と…………だから……困るだろ?俺と一緒にいるところを知ってる人に見られたら」

俺がそう言うと由比ヶ浜は少しむっとした表情になり、ヒュッと俺の帽子のつばを掴んで奪い取ってしまった。

「おい!何すんだよ」

「あたし、もう気にしないってこの間言ったじゃん。ヒッキーと一緒にいるところを他の人にどう見られてもいいって」

「いや、お前が気にしなくても俺が気にするんだが…………そんなことで自分の立場悪くしてもらいたくないし」

「自分の立場のこと全然気にしない人に言われたくないかも。それに、あたしが前より自分の立場を気にしないで済む

ようになったのは、ヒッキーのおかげだから」

「……」

以前からその片鱗はあったが、ちょっと最近の由比ヶ浜は口が上手くなり過ぎなんじゃないだろうか?そういう風に言われてしまうとこちらは何も反論できない。俺が黙っていると彼女はさらに追い打ちをかける。

「ヒッキーがあたしを変えたんだよ…………だから……その責任、取ってよね」

「そ、そう…………なのか?」

「うん、そう」

451 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:16:15.12 upW2heo+0 218/411

由比ヶ浜は笑顔でそう答え、強い意志を持った瞳で俺を真っ直ぐ見つめてきた。俺は彼女のその想いを無碍にもできず、目を背けることはためらわれた。由比ヶ浜は俺が視線を合わせてくれたのに満足したのか、いったん帽子を俺の胸の前に差し出してきた。

「そういうことだから…………今日はかぶらなくていいよ。この帽子は」

「…………わかったよ」

俺は帽子を受け取って鞄の中に戻す。その様子を見て由比ヶ浜は一度視線を外してはにかみながらこう言う。

「それにヒッキーもさ……その……えっと……モテる女子をゲットしたんだからもっと堂々としなよ」

「俺は基本的に堂々としてると思うけどな。欠点を隠そうともしないし、人から嫌われても平気だし」

「そういうことじゃなくてさ…………わかるでしょ?ヒッキーなら」

いや、由比ヶ浜の言うことは理解はできるが…………要は卑屈になったり自虐したりする必要はもうないってことなんだろうが…………そう簡単に思考回路を変えられるとも思えない。理解するのと実践するのは全くの別問題だ。


「それはわかるが…………急にそんなこと言われても、な…………」

「ちょっとずつでいいから…………ね?」

「まぁ…………ちょっとずつなら、な」

由比ヶ浜に諭すように声をかけられて俺も渋々それに応じざるを得ない。それに、彼女は自分が変われたと言っていたのでそれを理由に俺にもできると説得されたらまた反論するのに困ってしまう。だから、ここは仕方ない。

452 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:20:24.80 upW2heo+0 219/411

「じゃあそろそろ…………行こっか?」

「ああ」

由比ヶ浜が早めに来てくれたおかげで、ちょうど今ぐらいに待ち合わせ本来の時刻になっていた。彼女は行き先を全く知らないので、俺が先に歩き出す。最初にいたコンコースに戻ったところで、俺は由比ヶ浜に必要なことを尋ねる。

「ところで由比ヶ浜…………今Suicaどれくらいチャージしてある?」

「え?……ちょっと券売機で確かめないとわからないけど…………千円以上はあるかな」

「……それなら大丈夫か。じゃあ行こうぜ」

さっさと改札の中に入ろうとするが、由比ヶ浜は俺の服の裾を引っ張って止める。

「あ、あの…………あたし、まだ何も知らないから……その……お金とかもいくら必要とか……」

「ああ、その心配はいらない。今日は基本的に全部俺が持つから。あんま高いもの買い物されると困るかもしれないけど」

「ぅええ!?」

急に間近で叫ぶもんだから、耳が……。周囲の視線を感じて由比ヶ浜は少しうつむいてしまった。そしてこうつぶやく。

「ほ、ほんとに?…………だ、大丈夫なの?」

「もともと奢ってもらったもののお返しなんだから、ある意味当然といえば当然だろ」

「そ、それはそうかもしれないけど…………」

「まぁ、いいからいいから」

453 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:24:20.80 upW2heo+0 220/411

少し申し訳なさそうな表情のままの由比ヶ浜を促して、改札の中に進む。それから電車に乗るまでは、特に会話らしい会話をすることもなかった。

ほどなくして東京行きの電車がホームに入線して、二人してそれに乗り込む。車内はそれなりに混んでいて、仕方ないので吊革に手を伸ばした。電車が動き出してしばらくすると、横から小さく声がかかる。


「ねぇヒッキー…………ちょっと学校では言いづらかったんだけどさ……」

「なんだ?」

「その…………ゆきのんとは…………うまくいったの?うまくいったって言うのも変かもしれないけど」

話の内容が内容なので、俺は思わず隣に立っている由比ヶ浜の方を見る。すると、それまでこっちを見ていたのか彼女はパッと視線を逸らした。そして、自由になっている方の手で由比ヶ浜は頬を人差し指で触りはじめた。

「まぁ、とりあえず…………現時点で必要なことはだいたい話せたのかな。俺と雪ノ下の間で考え方にそんなに違いがあったわけでもないし、由比ヶ浜が心配するようなことは何もないよ」

「そ、そっか~…………よかった」

由比ヶ浜はふぅっと息をついて胸をなで下ろした。そうか…………由比ヶ浜はあれから俺とも雪ノ下ともその話について何も聞いてなかったから今の今までずっと不安に思っていたのか…………なんか悪いことしちゃったかな。


454 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:27:30.77 upW2heo+0 221/411

「今まで話してなくて、その…………悪かったな」

「い、いいよいいよ!うまくいったんなら…………あたしは、別に……」

そう言って由比ヶ浜は手を胸の前で細かく振った。そうした後、彼女の表情は少し憂鬱そうなものに変わる。友達思いの優しい由比ヶ浜のことだ、結果を知ったが故にそれはそれで雪ノ下の心配をしているのだろう。だが、それは筋違いだ。

「俺と雪ノ下は…………現時点において最善の選択をしたつもりだ…………だから、お前は何も気にする必要はない」

「う、うん……」

どうも表情が晴れないな…………ここはもっと優先して考えるべきことがあると教えてやらねばなるまい。

「そんなことよりもだな、由比ヶ浜…………お前はこの俺を恋人にしたんだぞ、今はもっと俺のことを心配しろ」

「ふふっ……そ、それもそうかもね。じゃあ今はヒッキーの心配をするよ」

「あぁ、そうしとけ」

由比ヶ浜は普段見るような、あきれ混じりの笑顔になって俺は少しほっとする。その後はまたしばらく沈黙が続く。


電車に乗り始めて20分ぐらい経った頃、さすがに目的地が気になり始めたのか由比ヶ浜がまた話しかけてくる。

「ね、ねぇ…………まだ着かないの?」

「あともう少しの辛抱だ。降りる駅になったら言うからさ」

「う、うん……」

455 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:29:53.80 upW2heo+0 222/411

それからまた数分経ち、やっと今日の目的地の駅に近付いてきた。アナウンスが流れるより先に俺が口を開く。

「次で降りるからな」

「えっ?……ほ、ほんとに?」

由比ヶ浜は目を丸くしてこっちを見つめてくる。なんかさっきまでと目の輝きが全然違うぞ、おい…………。

「ほんとにほんと」

「そ、その駅で降りるってことは…………そういうことで……いいのかな?」

「まぁ……お前の考えてることで合ってるんだろうけど……ただ、二つある選択肢のうちどちらを選ぶかまでは自由にさせてあげられなかったけどな」

「い、いいよ!どっちでも…………えっ……でも……」


その後は声が小さくなってこっちに聞こえるかどうか微妙な感じで何かぶつぶつ言っていた。「もしかしてド、ドッキリ?」とか「いや、ヒッキーのことだしまだ……」とかさり気なく失礼なことを言われた気がするが、たぶん気のせいだ。まぁ、普段の行いが悪いからな…………仕方ない。しばらくすると車内からも目的地の風景がうかがえるようになり、由比ヶ浜は窓の方に少し身を乗り出す。着く前からこんなテンションだとなんか逆に申し訳ない気持ちになってくる。いや、これは先回りした罪滅ぼしみたいなものだからな…………今日一日は楽しんでもらうしかない。

456 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:36:00.26 upW2heo+0 223/411

電車が駅に到着してドアが開くと、俺と由比ヶ浜以外にもそれなりに人がホームに降りていく。前の人に続いてぞろぞろと歩いて改札を抜け、コンコースを過ぎて駅の外に出る。駅に着いた時点で色々と演出はされているのだが、その間は俺は黙っていた。ペデストリアンデッキにまで来たところで、俺が口を開くより先に由比ヶ浜が興奮気味に尋ねてきた。

「ねぇヒッキー、そ、それで今日はど、どっちに行くの?」


「…………ランドの方。東京ディスティニーランド」


「ほんとに?ほんとにディスティニーランドに?し、しかも……え?ヒッキーの……お、奢りなんて……」

由比ヶ浜は目を爛々と輝かせながらこちらに迫ってきたかと思えば、一歩退いてもじもじし始めた。忙しいやっちゃな、お前は。人差し指を突き合わせながらこちらを時々チラッと見ては黙っているので俺が話を続ける。

「ここまで来て嘘つく必要もないしな。まぁ、かなり待たせてしまったし…………これがハニトーのお返しってことだ」

俺はチケットを取りだして由比ヶ浜に渡そうとする。が、すんなりと受け取ってくれない。……何故だ。

「わ、悪いことしちゃったかな、あたし…………あ、あたし……実は……」

「年間パス持ってる、とか言うんだろ?どうせ。それ使わせたらお返しにはならないし、サプライズにすることも無理だったし…………それに日程が試験の直後だったからな。試験前からそわそわされて勉強どころじゃなくなるのも困る」

457 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/06 23:41:10.41 upW2heo+0 224/411

だから…………と言いかけようとしたら、由比ヶ浜はチケットを俺の手からさらってあっという間に距離をつめて、


「ヒッキーありがと~、ほんっとうにありがとう!ヒッキー大好き」


そう言って飛びかかるようにだ、抱きつかれちゃったんですけど…………あ、い、色々なものが、その……あたってるし、いい匂いはするし、は、恥ずかしいし…………周りからの視線が…………。し、しかし肩の後ろをがっちり掴まれているので抵抗しようにもできないし……いや、するつもりもないんだけど…………。しばらくそのままの体勢で由比ヶ浜は何度かありがとう、と繰り返して言うと回していた腕を離して正面で向き合う形に戻った。衝動的にやった行動のせいなのか、今になって由比ヶ浜の頬が染まった。もう俺なんかさっきから顔が熱くてたまらないんですが。このまま黙って見つめあっていてもしょうがないので、次の行動を促すために俺は口を開く。


「そ、それはどういたしまして…………えっと…………とりあえず入口に行って…………並ぼうか」

由比ヶ浜は声を出さずにコクリと頷く。それを見て先に俺が足を踏み出すと、片方の腕が引っ張られる。

「こ、こことか…………人多いから……ね?」

上目遣いで手をつなぐことを要求されて拒める筈もなく、俺は手の体勢を変えて由比ヶ浜の指と絡めた。ほ、ほら……あれだ、今由比ヶ浜は手袋してるから俺の手汗を気にする必要もないしな、うん。別に問題はない。



こうして、俺と由比ヶ浜のディスティニーランドでの最初で最後のデートが始まったのだった。

476 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:34:44.55 3xKNrynr0 225/411

⑨どうやら由比ヶ浜結衣は初デートを楽しんでいるらしい。


ディスティニーランドでデートしたカップルは別れる、というジンクスがある。そんなジンクスが流布するようになった理由として考えられるのは主に二つある。まず、その母数の多さである。ディスティニーランドは千葉を代表する、いや日本の代表的なテーマパークといっても過言ではないが、当然のことながらそこを訪れるカップルは多い。そうなると、その中から別れるカップルというのも必然的に数が多くなる。そして別れたカップルがその理由として押し付けるのが、ディスティニーランドというわけだ。もちろん、そこでデートして上手くいくカップルも大勢いるのだろうが、そんなカップルのことはそもそも話題に上ることがない。だから、別れたという話ばかりが広まってあたかもディスティニーランドのデートが原因であるかのようにいわれてしまうのだ。もう一つは、以前俺が由比ヶ浜に指摘した理由だ。つまり待ち時間が長いことによって話す話題がなくなってつまらなく感じたり、イライラしたりするのが積み重なって一緒にいる相手をも不快に感じるようになるというパターンだ。幸いにして、由比ヶ浜は修学旅行中に俺に向かってそのことを否定してくれた。今、こうして入口で待っている間も彼女はルンルン気分といった感じだ。


477 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:36:56.53 3xKNrynr0 226/411

しかし、結果的に由比ヶ浜が喜んでくれたのはいいものの、俺がデートの場所にここを選んだのはあまり前向きな理由ではなかった。まず、俺と由比ヶ浜の接点の少なさが理由として挙げられる。俺と彼女では、残念ながら趣味や嗜好についてかなりの隔たりがある。由比ヶ浜は付き合う相手にある程度は合わせられる性格の人間だとは思うが、あまりそうしたことで負担をかけるのは俺としても本意ではない。したがって、興味の重なっているであろうディスティニー絡みの場所でデートをすることに決めた。それにここなら、どちらが主導権を握ってもたぶん問題ない筈だ。由比ヶ浜は年間パスを持っているユーザーだし、知っている場所ということで安心感もある。俺が上手くリードできなかったとしても相補性が期待できるというわけだ。また他の理由として、仮にデートそのものが失敗に終わったとしてもその原因をディスティニーランドに押し付けることができるというのもある。ジンクスは当っていた、というわけだ。そこまでして自分の責任を回避したいのか、と思われるかもしれないが本当は違う。そうやって考えでもしないとやってられない、ということだ。今日の俺の行動は全て自分の責任だ。誰のせいにもできない。何故なら――――。


478 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:39:38.63 3xKNrynr0 227/411

「ヒッキー?…………もうそろそろゲート開くみたいだよ?」

「え?ああ、そうだな」

不意に話しかけられて、生返事を返す。というか入る前に色々と訊いておかないといけないことがあるのを思い出す。

「由比ヶ浜ってアトラクションでこういうのはダメっていうのあるか?乗り物酔いするのは無理、とか」

「う~ん……お化けとかの怖い系は苦手だけどダメってわけでもないし…………それ以外は特にないかな?」

「そうか…………あとお前ってガイドツアーって使ったことある?」

「何それ?」

きょとんとした表情でそう答えられてしまった。こいつ、本当に年間パス持ちなのか?いや…………いつでも行けると思っているからかえって効率良く回ろうという発想が出てきにくいのかもしれない。俺はスマホでサイトの画面を見せる。

「ほら、こういうのがあって…………これならあまり待たずにアトラクションにもいくつか乗れるみたいだし、お昼にやるパレードも専用の場所で見れるらしいぞ」

「へぇ~。でも、これお金かかるんじゃないの?」

「まぁな。でも、今日はどのみち俺が出すから由比ヶ浜が気にする必要はないぞ」

479 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:42:24.76 3xKNrynr0 228/411

「それはそうかもしれないけど…………でも、せっかくの機会だし……う~ん……わかった」

お金がかかると聞いて少し逡巡した様子を見せた由比ヶ浜であったが、普段できないことをできるというのもあって了承してくれた。こちらとしてもそうしてくれた方がありがたい。

「じゃあガイドツアーは決定な。あと、パレードの時間から計算するとこのツアーが始まるまでしばらくは時間があるみたいなんだ。由比ヶ浜、何かそれまでに乗っておきたいアトラクションとかあるか?」

「やっぱりパンさんの奴は乗っておきたいかも」

「なるほど。まぁ確かにアレは人気あるみたいだし、ツアーの申し込みしたらまずはそっちに行くか」

「うん!」

お昼までのだいたいの予定が決まったところで、入口のゲートが開き始める。さぁ、ここから先は夢と魔法の王国だ。

由比ヶ浜には良い夢を見てもらって、俺にも何か良い魔法がかけられるといいかな、なんて。そんなことを思いながら、俺と彼女は手を繋いだまま中へと入っていったのだった。


480 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:50:14.94 3xKNrynr0 229/411

ガイドツアーの申し込みを済ませた後、さっそくパンさんのバンブーハントの方へ歩きはじめる。もう目的地はわかっているので、今度は由比ヶ浜の方が先を進む。そしてその手はずっと繋がれたままだ。クリスマス仕様の園内を眺めつつ歩いていくが、彼女の足取りはやけに軽い。こっちが男なのについていくのに精一杯といった感じだ。そんな歩幅の違いに由比ヶ浜も気づいたのか、いったん手を離して足を止めてこちらに振り返る。

「……どうしたの?」

「いや…………ずっと手を握ってないといけないのかなーと思って、さ」

「い、嫌だった?もし、そうなら別に無理にとは……」

いえ、決してそんなことはないんですけどね。その……まだなんか恥ずかしいし、この流れだと屋内でも手を握ったままということに……。しかし、捨て犬が元飼い主を見るような由比ヶ浜の濡れた瞳を見てそんなことを言える筈もなかった。

「や、そ、そんなことは……ないんだけどよ……まだ慣れてなくて……悪い」

「じゃあ早く慣れるためにも……ほら」

481 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:52:11.93 3xKNrynr0 230/411

そう言って由比ヶ浜はまた俺の方に手を伸ばしてくる。まぁ、慣れるためだからね。仕方ないね。俺が彼女の手を手袋ごしに握ったところで、再び足を踏み出す。先を行く由比ヶ浜は、こちらをチラッと見てぽつりとつぶやく。

「なんか……手を握ってないと今日のヒッキーは……勝手にどこかにいっちゃいそうな気がしたから」

一体どこからそんな発想が出てきたのか皆目見当もつかないが、俺は自分の心を見透かされているような気がして、胸がチクリと痛んだ。悟られるのを避けるためか、俺は冗談交じりにこう答える。

「お前ん家の犬じゃあるまいし……せめてどこかにいってしまう時には先に一声かけるよ」

「そういう問題じゃないし」

「わかってるよ…………今のは冗談だ。由比ヶ浜がこうしていたいのなら、今日はずっとそれに付き合うよ」

「ほんと?」

「ほんとほんと」

俺がそう答えると、手を握ったまま由比ヶ浜はぱぁっと笑顔になった。ま、そりゃいつ自分の元を去ってもおかしくないような相手だしな。俺も今日くらいはこんなことを言ってみたりもするさ。

482 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:56:06.88 3xKNrynr0 231/411

――――それにしても。

俺が由比ヶ浜と恋人同士になって、ディスティニーランドにデートに来て二人で手を繋いで歩いているというこの状況。

なんだか現実感があまりない。場所が場所だからだろうか…………まるで夢の中にでもいるみたいな気がしてしまう。

そんな感情が顔に出てしまっていたのか、由比ヶ浜に怪訝な目で見られる。

「え?あ、いや…………俺の方から告っておいてこんなこと言うのもアレなんだが、なんかまだ実感が湧かないというか」

「そう?あたしはそうでもないけど」

俺の言葉に由比ヶ浜はハッキリとした口調でそう答えた。

「そうか…………まぁ、それなら別にいいんだけどな」

「ヒッキーが……その……す、好きでもない人にわざわざこんなこと…………しないと思うし」


あぁ、なるほど。俺が普段から屑人間アピールをしてきたせいで、甲斐性のある人間みたいな行動をするとそのギャップにプラス補正がかかるという仕組みか。……そんなんでいいのか、自分は。それで過剰評価されるのもなんか嫌だな。

ただ、そうは言っても由比ヶ浜が今言ったことに間違いがあるわけではないので、そこは肯定しておくことにする。

「まぁ…………好きな人にしかこんなことしないのは、確かにそうだな」

「う、うん……」

“好き”という単語が俺の口からさらっと出てきたのに由比ヶ浜は一瞬驚いたような顔を見せ、次の瞬間にはまた彼女は頬を染める。こちらまで気恥ずかしくなる前に、今度は俺の方から手を繋いで再び歩き始める。

483 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 21:59:30.00 3xKNrynr0 232/411


しばらく二人とも黙ったままで中を進んでいると、後ろからまたぽそっと声がかかったので俺は少し歩を緩める。

「さっきの話の続きなんだけど……」

「お、おう……」

「あ、あたしに先に告白したのも…………そういうことなんでしょ?その……ちゃんと恋人同士になってから……ここに入りたかったっていうか……」

「それは違うな。なんか…………そんなまともな理由じゃない」

俺の返答が意外だったのか、由比ヶ浜は一度その歩みを中断した。自然と自分の足も止まり、後ろに向きを変える。

「えっと……今になってこんなこと言うのは……逆に由比ヶ浜のこと信じきれてないみたいで言うのが少しはばかられるような気もするが…………告白とデートの件は切り離しておきたかったというか」

「切り離す?」

「そう。可能性の話として、俺が告白して拒否されるということだって充分考えられた。だからむしろ、成功率を上げるならここで告白した方が良かったのかもしれない」

「じゃあなんでそうしなかったの?」

由比ヶ浜は俺の案を聞いて納得しかけたが、実際はそうしなかったことについて顔にはてなを浮かべた。

「俺は……ただ、純粋に由比ヶ浜の気持ちがききたかっただけだから。だから、デートの場所とかで左右されるようなことはしたくなかったんだよ。それに、あの時点なら後腐れなく断ることもできただろうし」

「やっぱりヒッキーはヒッキーだ……」

484 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:03:00.99 3xKNrynr0 233/411

由比ヶ浜は少し肩をすくめてそうつぶやいた。その言葉は褒めているわけでも貶しているわけでもなく、ただ俺の有り様について素直に感じたことを口にしただけのことだったのだと思う。でも、そのことが俺にとっては何故かとても嬉しく感じられた。俺の表情が緩んだのを見て、由比ヶ浜はふふっと笑った。そして、こう言う。

「とりあえずそれはわかったけど…………じゃあ、何か……その……恋人になった実感が湧くことしない?」

「えっ?」

彼女の唐突な言葉に俺の声は裏返ってしまった。瞬間的に何かイケナイ妄想が頭の中で広がった気がしたが、そんなものはすぐに投げ捨てる。男ってほんとバカ。俺の頭の中など知る由もなく、由比ヶ浜は目を逸らし気味にこう続ける。

「た、例えば、さ…………名前……で、呼んでみるとか」

あぁ、そういう…………以前も自分にあだ名をつけてほしいと言っていたあたり、彼女は人の呼び方に色々とこだわりがあるのはなんとなく伺える。普段の俺なら絶対に断っているところだが、まぁ今日のところは致し方ないか。


「わかったよ……結衣」


「ぅえ!?」

「ぅおう……急に大声出すからビックリしたぞ、おい」

「だ、だって…………ヒ、ヒッキーが……そんな……素直に……」

485 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:05:36.19 3xKNrynr0 234/411

結衣は驚きながら照れるという器用なことをした。まぁそういう色々な表情を見たいから呼んでみたのも否定できないが。

しかし何もそこまで驚かなくても…………。俺の顔が少し曇ったのを見てすかさずフォローに入る。

「あ、いや、ごめん……少し驚いただけだし……うん…………ありがと」

「それはどういたしまして」

「ねぇ…………これからは、その……二人の時は……そう呼んで……くれる?」

「……わかった」

二度目の承諾にはもう驚きの顔を見せることもなく、彼女はこちらからは少し視線を外して頬に手をあててえへへとはにかんでいた。俺の方は今になって恥ずかしくなってきたのか指で頭を掻いてしまう。結衣は満足げな表情を浮かべた後で、俺の正面に向き直る。そして上目遣いでこう尋ねてきた。

「あ、あたしも…………そうした方が……いいのかな?」

「……何が」

「な、名前で呼ぶの……」

由比ヶ浜に名前で呼ばれるのを想像して、それも悪くはないと思ったがそれだと他の人間とかぶるんだよな…………。

「由比ヶ……結衣、は……そのままでいいと思うぞ。俺のことそうやって呼ぶのはお前だけなんだし」

「そ……そっか。うん……わかった、ヒッキー」

「ああ……」

486 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:08:03.38 3xKNrynr0 235/411

呼び方談義が終了したところで、また二人で手を繋いで歩き出す。しばらくして、目的のアトラクションの入口が見えてきて結衣のテンションも上がってきた。最後の方はほぼ走るようにして辿り着くと、もう結構な人の行列ができていた。

「人気アトラクションは開園直後でもこんななのか……」

「う~ん…………でも今は空いてる方だから、もう普通に並んじゃおうよ。たぶんその方が早いと思うし」

「そ、そうか」

彼女に促されるままに、列の後ろに並ぶ。しかし、これでも空いている方なのか……さっき待ち時間を見たら一時間近くあったような気がするんだが。まぁ、とりあえず午前はこれ以外はガイドツアー使うんだし間が持たないという心配はあまりしなくてもいいのかしら。一応暇つぶしグッズもいくつか持ってきてはいるし、たぶん大丈夫だろう。


その後、しばらくは適当にパンさんの話だとかディスティニー作品の話だとかを結衣としながら列を進む。とはいっても雪ノ下じゃあるまいし、そう何十分も話し続けられるものでもない。時々沈黙が訪れることは何度かあった。ただ、結衣もさすがにそういう沈黙も奉仕部で慣れていたのか、特に気まずい空気になることもなくお互いの時間を過ごす。幾度かの沈黙の後で不意に結衣がこんなことを尋ねてくる。少し手を握る力が強くなったような気がした。

「ねぇ、ヒッキーは……その……あたしの……ど、どこが……好きになったの?」

「えっ!?」

487 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:10:25.09 3xKNrynr0 236/411

まさかこんな列に並んでいる最中にのろけ話を要求されるとは思っていなかったので、俺は思わず彼女の顔を見る。俺の反応を見て自分の言ったことの意味を自覚したのかポッと赤くなった。いや…………言いだしっぺに照れられても困るんですけど…………。

「ま、まぁ……ここで言うのもアレだし…………乗り終わってから、な。そういうのは」

「ご、ごめん……あ、あたし…………周り見えてなかったみたいで」

あれ?それって今は俺以外は眼中になかったってこと?結衣の言葉の言外の意味に気づいてしまった自分は、思わず頬を手で撫で付ける。その仕草を見て結衣は目を逸らした。おい、こいつまた無自覚にそういうことを…………。

こんなやり取りをしていて話が続くわけもなく、二人ともうつむき加減になって列を進むほかなかった。う、嬉しいことは嬉しいんだけどね、まぁ…………。


しばらくして屋内に入ってますます熱くなってきたので、俺と結衣は来ていたコートを脱ぐ。上着を着ている間は特に何も感じなかったが、セーター姿の彼女には自然と目が吸い寄せられてしまう。ほら、その……結構セーターって体の線が出るでしょ?それで…………。クソッ、万乳引力の法則はここでも健在なのか!目が泳いでいるのを悟られまいとして、俺は視線を反対側に頑張って向ける。幸いにも結衣もこちらを向いていたわけではなかったのでここは何事もなく済んだ。

488 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:13:19.11 3xKNrynr0 237/411

それからまた十数分が過ぎ、ようやくアトラクションに乗る場所に到達した。営業スマイルなんて月並みな表現をはるかに超越したキャストの笑顔に戦慄を覚えつつ、案内に従って俺たちはライドに乗り込む。このライドにはレールも車輪も見えないのだが、調べてみるとどうやら電磁誘導で決められたコースを動かしているらしい。夢を売るのにもまた技術は必要なのである。というか、そもそもディスティニーランドをアメリカで最初につくった人が鉄道マニアだったとか。

それで、園内に電車だのモノレールだの走っているのね。そんなことを思い出しているとライドが進みだした。


実際にアトラクションが始まるとそこからはあっという間に時間が過ぎてしまった。一応設定とかストーリー的なものはあるんだろうが、ライドが回転して結衣と体が触れるのが気になってそれどころではなかった。なんか夢の中って設定だったとは思うが、まるで途中からヤク中の頭の中でも見てるような気分だった。しかしまぁ、本日の主役である結衣は満足げな表情で「面白かったね」と小学生並みの感想を何度かつぶやいていたので、これはこれで良しとしよう。

489 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:16:34.20 3xKNrynr0 238/411

待ち時間で結構時間を使ってしまったので、今からガイドツアーのスタート地点に戻るにはちょうどいい頃合いになっていた。そのため、他のアトラクションには乗らずに再び歩き出す。しばらくすると、結衣がさっきの話を蒸し返してくる。

「ヒッキー……それで……さっきの話の……答えは?」

「答えって?」

彼女の質問の意図はわかりきっていたが、俺はわざととぼけたふりをしてみた。すると、結衣は少し膨れ顔をしてから、

「も~……わかってるくせに…………だから、その……あたしの……す、好きなところ」

だんだん声が小さくなりながらそう言った。まぁ、単に俺がその質問を言わせたかっただけなのかもしれない。これ以上、誤魔化しようも何もないので俺はなるべく平静を装いながらさらっと答えることにする。

「優しいところ、かな?」

「な、なんかそれって今適当に考えたみたいな感じ、するんですけど……」


再び不機嫌な様子になる結衣。まぁ「優しい」って言葉は社交辞令的にもよく使われるし、彼女がそう思うのも無理はない。というか、わざとそういうことを答えてみた。でも、この返答は決していい加減な意味ではない。

「それは違うぞ、由比ヶ……結衣。お前は基本的に八方美人で、その……みんなに対して優しいんだが……でも、それは……どっちつかずってわけでもない。いざという時には選ぶこともできる強い優しさだ」

「……選ぶ?」

490 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:19:16.96 3xKNrynr0 239/411

結衣はまだ何やら納得できていないような表情をする。というか、俺の言いたいことがイマイチ伝わってないような感じ。

俺はもっとわかりやすく説明するために、ある例を挙げることにする。

「まだお前が奉仕部に入って間もない時に、三浦や葉山とテニス勝負になったことがあっただろ?」

「う、うん……」

「正直なところ、三浦に悪く思われないようにするためだったら別にお前が無理に勝負に参加する必要もなかったと思う」

「そ、そうかな…………で、でもその時はもうあたしも奉仕部に入ってたわけだし……」

「そうだな。でも……それで筋を通せる人間もまた、なかなかいないと思うんだよ……俺は。わざわざ三浦に嫌われるというリスクを冒してまで、さ」

結衣は思い出話を聴いて、理解してくれたような雰囲気にはなったが、何故か少し申し訳ないような顔をする。

「そ、そんなんじゃないと思うけど…………あたしはたぶん…………ゆきのんにもヒッキーにも嫌われたくなかっただけだと思う。だから、リスクを冒して選ぶとか……そんな大げさな……」

「俺は大げさだとは思わない。結衣が…………この俺を恋人に選んだって時点でな」

「そ、そうなのかな……」

「……そうなんだよ」

491 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:22:11.37 3xKNrynr0 240/411

結衣は基本的には”みんな”とうまくやっていける人間で、彼女自身が大切だと思える人の数もまた多い筈だ。だからこそ、人から嫌われる恐怖は増すし、そう考えて身動きが取れなくなることだってあるだろう。現にそういう状況になっていた奴を俺は見ていたわけで。そういう、誰とでも仲良くできる人間が恋人として俺のような人間を選んだ。その選択の意味がとてつもなく重いことを、彼女はまだ自覚していない。はじめから周りの人間を全部切り捨てているような俺や雪ノ下が誰かを選ぶのとはわけが違う。ぼっちが自分に好意を寄せてきた人を――まぁ、それも今までは勘違いだったわけだが――好きになるのとは全く意味合いが異なるのだ。彼女の場合、別に恋人が俺でなくても大抵の人間とはたぶんそれなりに付き合えただろうと思う。おまけに結衣はモテるから好意を寄せてくる人間も多いわけで、選択肢は多い。なのに、それにも関わらず――――。


「…………どうしたの?ヒッキー。黙り込んじゃって」

俺が勝手に思索を始めてしまったせいで、結衣は心配そうにこちらを覗き込んできた。

「いや、なんでもない…………まぁ、とにかく結衣が俺のことを好きになってくれたのは…………本当にありがたい話ってことだよ」

「あ、あたしも…………そう思ってるよ」

不意に発せられた彼女の言葉に、なんだかまた顔が熱くなるのを感じる。俺はポットか何かかよ。照れるのを誤魔化すために、今度は俺が質問を投げかける。

492 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:26:08.54 3xKNrynr0 241/411

「そういうお前はどうなんだよ…………一体俺の……どこが、その……好きに……」

「カッコ悪いところ」

自分から先に訊いてきた手前、その返答はもう準備してあったようで満面の笑みで彼女はそう言った。なんだその答えは…………リアクションに困るんだが。俺が眉間にしわを寄せていると、結衣の笑みが穏やかなものに変わる。



「ヒッキーはね…………人からどう思われるかとか全然気にしないし、カッコつけたりしないんだけど…………。でもね、そんなことは関係なく人を助けちゃうところが…………あたしは好き」



「そ、そうか……」

その一言だけを発して俺は思わず彼女から背を向ける。この瞬間にこれ以上たたみ掛けられたら、たぶん俺の涙腺が崩壊してしまうから。さすがにこんなところで泣くのは、その…………カッコ悪いし。

「ヒッキー?…………あ、あたし何か……気に障るようなこと……言っちゃったかな?もし、そうなら……」

後ろから結衣の声が小さく聞こえてきて、その間に俺は空を向いてどうにか感情があふれ出すのを堪えきった。上げた顔を戻して俺は結衣の方に向き直る。胸の前で手を握って心配そうな表情を浮かべる彼女を見て、俺はこう告げる。

「気に障ってなんかいない。むしろ…………嬉しかったぞ、俺は。ただ、お前は俺のことを少し誤解しているようだ」

「……どういうこと?」

493 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/10 22:28:31.10 3xKNrynr0 242/411

安堵から疑問の顔に変わった結衣を見ながら、俺は話を続ける。

「俺にだって…………カッコつけたい時くらいあるってことだよ。実は、俺がさっきそっぽ向いたのは……嬉しくて泣きそうになったからだったりする」

「え~?そうなの?でも、それを言っちゃうのがヒッキーらしいというか……それに……いいじゃん、別に泣いても」

目を見開いて驚いた様子を見せた後、あきれたのかと思えば今度は照れ出した。まぁ、よくこんな瞬間瞬間で表情を変えられるものだと何故か感心してしまう自分がいた。

「いや、さすがにこんなところで…………それに……今日くらいはカッコつけたいかな、なんて」

こんな公衆の面前で泣くのはさすがにはばかられるし、たぶん結衣の前で涙を流す時はいずれ来るのだ。だから、その時まではどうにか…………。

「ふぅん?…………まぁ、ヒッキーがいいならそれでいいけど」


俺の言葉に何か含みがあるのを読みとったのか、結衣はそれ以上追及してくることはなかった。話が一段落したところで、また二人は歩き出す。もちろん、互いの手はしっかりと握られたままで。

504 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:23:42.85 CYYoNZQK0 243/411

それから昼過ぎまでは、ガイドツアーに参加することにほぼ時間を費やした。結果的にこの選択は正解だったように思う。アトラクションに乗るまでの間はキャストの人が話しながら案内してくれるので、二人きりで喋っていて話題に困るみたいな事態にはならずに済んだ。待ち時間も少なめで定番のアトラクションに三つも乗れたし、時間効率的な面からも良かった。それと、副産物的な効果として結衣がこれ以上ベタベタしてくるようなこともなく、俺が恥ずかしい思いをしなくて済んだというのもある。まぁ、見てる方が恥ずかしいんだよね…………ああいうのって。一緒にガイドツアーに参加していたカップルの一組は俺たちよりも周囲の目を気にしないタイプの人たちだった。しかしまぁ……俺もだいぶ変わってしまったものだとしみじみ思う。以前の俺だったら絶対に「リア充爆発しろ」などと心の中で思っていた筈だ。それが今や…………確かに過剰にイチャイチャしているカップルは気になりはするが、それが羨ましいとか全く思わないし、それより何よりも今は結衣のこと以外は割とどうでもいいと感じている自分がいる。だから、ガイドツアーが終わって思い出すのもアトラクションやパレードの感想というよりは、結衣と話したことだったり、ちょっとした仕草だったり、表情の豊かさとかだったりする。下の名前で呼ばれ慣れるまでは、いちいちピクッと反応するのが小動物的で可愛いとか、パレード中にキャラクターたちに全力で手を振って楽しんでいる様子とか――――。

505 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:26:22.13 CYYoNZQK0 244/411

俺がベンチに座ってそんなことを考えていると、手にチュロスを持った結衣がこちらにやってくるのが見える。トイレって言っていた筈なのに、何故そんなものを持っているのでしょうか。

「おいおい…………まだ食べるつもりなのかよ」

「ダ、ダメ?」

「いや……なんでもない」

別にダメじゃないけどさぁ…………どうせまた先に結衣が半分食べてからこっちに渡すパターンでしょ、これは。ガイドツアーが終わった後、結衣が方々でポップコーンだのホットドッグだのを勝手に買って食べるので、昼食はそんな感じで済ませることになってしまった。まぁ、いいんだけどね。当の本人は実に美味しそうに頬張っていたから。それに、彼女が先に口をつけたものを食べるという行為を今さらそんな気にする必要もないのだ、本来なら。もう恋人同士なんだし。

そんなことを思いながら、横目でチュロスを食べている結衣を見ているとこちらとふと目が合った。

「ヒッキーにもあげる」

案の定、半分くらいの長さになったチュロスをこっちに差し出してきた。

「俺ももう結構お腹いっぱいなんだけどな……」

「まぁまぁ、そんな遠慮しないで」

506 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:27:32.78 CYYoNZQK0 245/411

ほらほら、と言いながら結衣はニコニコしながら半ば強引に俺の手にチュロスを収めてしまう。その笑顔に俺が勝てる筈もなく、仕方なく食べかけのそれをかじり始める。すると、

「またヒッキーと間接キス、しちゃったね」

「!……ぶふぉ、ごほっ……うっ……」

「ヒ、ヒッキー!?大丈夫?」

俺が盛大にむせてしまったのに驚いて、結衣が背中をさする。それはありがたいのだが、こうなった原因は…………。

少し落ち着いたところで、俺はチュロスを持ったまま不機嫌そうに彼女の方に顔を向ける。

「お前な……」

「あっ!」

「今度はなんだよ」

「今こっち見た時にチュロスのチョコが口の横に…………」

意地悪をされて、なんだか仕返しがしたい気分だったので何を血迷ったのか俺はこんなことを口走ってしまう。

「じゃあ、結衣が拭いてくれよ」


507 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:29:18.52 CYYoNZQK0 246/411

そう言えば、結衣は少し照れながら紙ナプキンで唇の横についたチョコを拭いてくれる…………みたいなことを俺は想像していたのだが。次の瞬間、結衣は俺の頬に指を滑らせる。そして、

ペロッ

という音こそ聞こえなかったものの、そんな感じで結衣はその指を自分の口に入れてチョコを舐め取ってしまった。

「……」

俺が絶句したまま硬直していると、結衣は頬を紅潮させてささやくようにこう言う。

「ふ、拭いたよ……」

こいつ…………。ガイドツアー終わって二人きりになってから、またスキンシップのリミッターが外れかかっている気がするぞ。こんな調子ではスピード違反で捕まってしまうな、俺が。ここで感情的になると互いにさらにドツボに嵌るのは確実なので、理性的な、即物的な対応をどうにか模索する。

「いや……拭けてねーから。指で完全に取れるわけないし、お前もその指これで拭いとけよ」

そう言ってから俺は投げるようにして紙ナプキンを結衣に渡す。結衣はそれを両手で受け取ると、俺のそっけない態度に不満なのかむすっとした顔になった。

「そんな……怒るみたいな言い方……しなくても……」

508 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:30:59.90 CYYoNZQK0 247/411

「お前が俺に期待した通りのリアクションをすれば、ますますエスカレートしかねないからな。時と場所をわきまえろよ」

「……ふぅん?」

俺の返答に、何故か結衣は不満顔から一転してその目に笑みを浮かべる。そして、口角を上げながら、

「じゃあ、時と場所をわきまえればそういうことしても…………いいんだよね?」

「わ、わきまえれば、の話だぞ…………さっきのはわきまえてるとは言わない」

「なら……ヒッキーが教えてよ…………いつだったらそういうことしてもいいのか。あたしわかんないから」

ねだるようにこちらに顔を近づけながら、結衣はそう言った。チュロスがお前の顔につきそうだからいったん離れてくれ、頼む。というか、なんだこの状況は。もともと結衣の行動を抑えるために言った筈なのに、いつの間にか俺の方からそういう行為をしなければいけないことになっているぞ?こういうところが本当に結衣は怖い。ああ、この怖いはまんじゅう怖い的な意味じゃないですよ、ほんとですよ。俺は顔がこれ以上近づかないように引っ込めてなんとか答えを絞り出す。

「わ、わかったから……」


その言葉に一応結衣は満足したのか、体勢を元に戻して正面に向き直った。それにしても、まだこれ初日なんだよな。

俺と結衣が恋人同士になって。少し飛ばし過ぎなんじゃないだろうか。というより、焦り?まさか…………な。それと、今の結衣の態度を見ていて俺は心配の種がまたひとつ増えてしまう。

509 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:32:38.68 CYYoNZQK0 248/411

「あ、あのさ…………今は二人きりだから、俺もそんなにとやかくは言わないが学校とかでは……」

「わかってる。今までどおりに接してほしいってことでしょ?」

「わかってるなら……別にいいんだけどよ」

理解しているのなら、それでいい。むしろ、今日の結衣の態度は普段抑えていたものの反動って見方もできなくもないか。

もしそうであるのならば、今日は結衣の好きにさせたほうが良いのかもしれない。もともとそういうつもりだったのだし。

俺と結衣が学校内での互いの立場は気にしないとはいっても、それがそのまま二人の関係を大っぴらにするってことに直結するわけでもない。そのことは知っている人が知っているだけでいい。もっとも、そんな事態が訪れることになるのかどうかさえ今の俺にはわからないのではあるが。まぁ、あまり先の心配をしても今の俺には意味がない。それからは、俺は黙ったままチュロスの残りを片づけることにした。


間食のような昼食を済ませてベンチから立ち上がろうとすると、まだ座っていた結衣が俺の服の裾を引っ張ってきた。

「……どうした?」

「あ、あのねヒッキー……今まであたしも忘れてたし、ちょっと言い出しづらかったんだけど……」

裾を引っ張ったまま迷子の子供みたいな瞳でこちらを見つめてきた。……なんかマズいことでもしたのかな?俺。いや、“忘れてた”ってことは何かをしていない…………はて。俺が首を傾けると、結衣がその先を続ける。

「写真…………まだ一枚も……撮ってない」

「あ……」

510 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:35:10.44 CYYoNZQK0 249/411

思わず開いた口から間抜けな声が出てしまった。なんという失態。…………やっぱり慣れないことはするもんじゃないね。

普段、他人と遊びに出かける習慣はないし、出先で写真を撮る習慣もない。だから、ここに来てもそんなことはまったく考えていなかった。まぁ、初デートで浮かれていたというのもあるのだが。しかし、よく考えてみると園内でカメラを手に持っている人は見かけた筈だし、何よりあのガイドツアー中も例のベタベタカップルが写真を撮っていたではないか。

…………なんで気がつかなかったんだろう。


「悪い……あんまりそういう習慣、なくてさ……」

俺は自身の至らなさに申し訳なくなって、顔を逸らして頭を掻いてしまう。そんな様子を見て、結衣は手を横に振る。

「い、いいよいいよ。別に……あたしが気づいてすぐ言わなかったのも悪いんだし……」

「結衣はいつから気づいてたんだ?」

「ガイドツアーの時にカップルの人たちが撮ってたでしょ?それで…………でもヒッキーは嫌なのかな、と思って」

「……なんで?」

そもそも写真を撮ること自体を失念していたのに、写真を撮るのを嫌がるような行動でもしていたのだろうか、俺は。

「だってその時のヒッキー……そのカップルを睨んでたというか、怖い目で見てたというか……」

…………あぁ、なるほど。そういうことか。

「いや……たぶんそれは人目を全然気にしないでイチャイチャしていたのに嫌悪感があっただけだ。写真は関係ない」

「そうだったんだ…………良かった」

511 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:37:25.75 CYYoNZQK0 250/411

俺の答えにほっとした様子で結衣は胸をなで下ろした。そもそも、もし結衣の思っていたことが本当なら修学旅行の時だって断っていた筈であって。ただ、彼女の考えがまるっきりあてはまらないかというとそうでもない。

「まぁ、とはいえ俺が写真を撮る習慣がないのは…………」

そう言いかけて途中でやめる。今さら過去に写真がらみで嫌な思いをしたとか、そんなこと喋ってもしょうがないのについいつもの癖で言葉が出てしまう。俺が急に黙ったので、結衣がはて?とこちらを見やる。

「……なんでもない。確かにこういう場所で写真を撮るのも楽しみのひとつではあるよな。特にお前の場合なんかだと写真に撮られ慣れてるみたいだし、可愛く写るだろうからいいよな」

「可愛く……あ、うん…………ありがと」


自虐ネタではなく彼女を持ちあげるという方向にどうにか軌道修正できた。結衣も不意を突かれてさっきまでの気分をどこかにやってしまえたようで、少し上気した顔がなんとも可愛らしくて思わず写真に収めたいと思ってしまった。

「俺も今はスマホしか持ってないから道具は仕方ないが…………まだ、キャラクターと一緒にも撮ってないからこれからニッキーマウスの家に行くっていうのはどうだ?そこなら確実に撮影できる筈だし」

「うん……じゃあ、そうしよう」

うつむき加減のままで結衣も立ち上がり、また手を繋いで二人は進みだしたのだった。


512 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:39:09.36 CYYoNZQK0 251/411

「結衣はパンさんだけじゃなくてニッキーも好きなのか?」

無事に写真撮影を済ませた後、スマホで撮ったニッキーと彼女の記念写真を見ながら俺はなんとなく訊いてみる。

「好きだけど?なんで?」

そんなことはさも当然であるかのような口調で結衣はこちらに問い返してきた。

「いや、あまりにも嬉しそうに写ってるもんだから…………」

「そうかな?うーん…………ヒッキーが撮ってくれたからかな?」

「そんなこと言ってみても、何も出ないぞ」

「あたしは思ってることをただ口にしただけだよ?」

「……」


もうなんか今日はずっとこんな調子である。俺はプラスの感情の応酬には慣れていないので、あまり会話が長く続かない。

俺の方が褒めても、向こうが照れて黙ってしまうし。まぁ、ありがたいことではあるんだが…………。

「ねぇ、ヒッキー」

「……何だ?」

「もっとこう…………別にいつも通りでもいいっていうか…………」


513 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:41:30.59 CYYoNZQK0 252/411

俺が自らに会話の内容に制限を課していることは彼女にはバレバレなのであった。自虐ネタと過度に現実的な、悲観的なことを言うのはなるべく避けていたのだが。

「いや、ほら……こんなところで、その……あまり夢を壊すようなことを言うのもアレかな、と思ってさ」

「大丈夫。別にあたし、ヒッキーに夢とか見てないから」

「それ、俺は喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、困る言葉だな…………」

俺が口を歪ませていると、並んで歩いていた結衣がこちらの前方に回り込んできて正面から見つめてくる。

「あたしは夢見てないけど、でも……ヒッキーが見せようとして気、遣ってくれたのはすごく嬉しいと思ってるよ」

「そ、それは…………どうしたしまして」

俺は顔を逸らして頬を掻きながらそう答えるのがやっとだった。結衣は猫なで声でこうたたみかける。

「でも、ヒッキーが思ってることそのまま聞かせてくれるのもあたしは嬉しいかな?」

「そ、そうですか……」

「うん、そうだ」

結衣は俺の返答に満足したのか頷きながらそう言って、また俺の手をひいて歩き始めた。

514 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:43:15.66 CYYoNZQK0 253/411

「まぁ、大した話じゃないんだけどな……」

「うん」

「俺は別にニッキー自体は特に好きでも嫌いでもないんだが…………キャラクターの成り立ちの話を考えると、素直に好きにはなれないというか」

「成り立ち?」

首をかしげる結衣。

「これも噂の範疇を出るものではないが……このキャラクターのデザイナーはわざと人間に嫌われがちなネズミという動物を選んだらしい」

「ふ~ん…………何で?」

「何でネズミだったのかまではよく知らないが……まぁ、嫌われ者ということで何か思うところがあったんだろうよ。それで、もっと誰からも愛されるような存在になってほしいということで目や耳を大きくしたりとかして、みんながよく知るニッキーマウスの誕生と相成ったわけだ」

「…………なるほどね」

そこまで話を聴いて、結衣は何か含みのある笑みを浮かべた。もうオチがわかったとかそんな感じか?彼女はまたこちらの目をじっと見つめてこんなことを言う。


「ヒッキーは別にヒッキーマウスにならなくても…………あたしは好きだよ。だから、安心して?」

「あ…………うん……」

515 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:45:56.62 CYYoNZQK0 254/411

もうなんか俺が予想していた反応の三歩先くらいのことを言われ、とっさに返す言葉が思いつかなかった。まず、ネズミ本人が人間に愛される存在になりたいと思ったわけではないということ。次に、姿かたちを変えたそれはもはやネズミと呼べるような存在とはいえなくなってしまったということ。そして、ネズミそのものが愛されるようになったわけではないということ。それらを踏まえた上で、結衣は俺に「そのままでいい」という趣旨のことを言った。一体どうなっているんだ、彼女の頭の中は。これじゃあとてもじゃないがこれから先、アホとか言えなくなっちまうだろうが。いや、まぁそれはともかくとして。


「とは言っても、可愛いのもある意味生存戦略だからある程度は致し方ないとも思うけどな」

「生存戦略?」

生存戦略、しましょうか。俺のピングドラムはどこにあるんですかね?いや、もう場所はわかっているんだ。問題なのは、その方法。俺だけで完結していても意味はない。

「例えばそうだな…………結衣は犬が好きだけど、その中でも特に犬の赤ちゃんって可愛いと思わないか?」

「うんうん、そうだね~。テレビとかでやってるとつい見ちゃうし」

「でもそれは、別に人間を癒すためにそんな見た目をしてるわけじゃない。もっとシビアな理由があるんだよ」

犬の赤ちゃんの話をされてにへらっと間抜け顔になっていた結衣の表情が少し曇った。悪いな、こんな話しかできなくて。

「犬に限らず、哺乳類というのは総じて子育てに時間がかかる。親が子に構う時間が長いってことだな」

「えっ……じゃあ……」

516 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:49:47.79 CYYoNZQK0 255/411

「そう。親に愛されるために犬とかの赤ちゃんは可愛いってことになるな。外部からの攻撃を避けるためでもあるが」

答えを言うと結衣は完全にうつむいてしまった。いかんな…………ここはちょっとからかって乗り切ることにするか。

「だから、俺は結衣にはなるべく冷たくあたることにする」

「あたし、赤ちゃんじゃないんですけど……」

むすっとした表情で俺の方を見てきた。もうそこに悲しげな顔はなかった。

「赤ちゃんであろうがそうでなかろうが、可愛い存在ってことには変わりはないだろ。だからお前の場合、絶対甘やかされてるって。間違いない。最近じゃ、あの雪ノ下でさえお前には甘いしな」

「そ、そんなことないよ……」

と、口では否定しつつも妙に嬉しそうなのがまたなんとも可愛らしくて憎いくらいだ。だから、また憎まれ口でも叩こうと思ったら先に結衣が口を開く。

「でも、ヒッキーがそんなこと言うのもあたしのことちゃんと考えてくれてるからなんでしょ?」

「えっ?ま、まぁ…………」

なんかやりづれぇ……。俺のネガティブエネルギーは彼女に吸収されてポジティブに返されてしまった。結衣が魔法少女だったらグリーフシードなしでもソウルジェム浄化できそう。俺の反応を見て笑みを浮かべ、彼女はまた足を踏み出した。


517 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:51:46.54 CYYoNZQK0 256/411

その後、また別のアトラクションに乗り、次にシンデレラの城の中にあるガラス工芸の店に行き、名前入りのグラスをねだられるが恥ずかしいといってそれを断り、また他のアトラクションに乗って――――。

道を歩く人やその脇に植えてある樹木、アトラクションの構造物から影が伸び始め、その角度がキツくなる頃には俺の体も相当キツくなってしまっていた。普段遊び慣れていないことや、ここ数日の準備の疲労、前日の睡眠不足がたたって彼女よりも早く疲れてしまった。今の自分はワールドバザー内のカフェで一人で夕日を見ながらコーヒーを飲んでいるという体たらくである。常識的に考えればデートのホストとしてあるまじき行動だが、何やら結衣は一人で買いたい物があるそうで約一時間は別行動ということになってしまった。お土産を買うにしては早すぎるのではないかという指摘をしたが、遅くなると混むからという理由でこの時間になったようだ。買った物はコインロッカーに預ければいいということらしい。紅くなった空を屋内から眺めながら、今はただ時間が流れるのを感じているだけであった。



518 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:53:36.96 CYYoNZQK0 257/411

しばらくして少しは体の調子も回復し、目も冴えてきたので俺もカフェを出て少しショップを見て回ることにした。小町へのお土産も買わないといけないことだしな。お菓子などを売っている店で適当なものを見繕って買っていると、不意に後ろから声がかかる。


「やっはろー。ヒッキーもここにいたんだ」

そこには手に袋をいくつも提げた結衣の姿があった。

「ん?ああ、結衣も買い物か…………なんか、多くないか?」

俺はあいている方の掌を上にして手招きをするが、彼女は微笑を浮かべたまま「ん?」と小首をかしげる。あまり直接的に言うと遠慮されると思ったのでこんなジェスチャーをしてみたが、どうやら伝わらなかった模様。

「ひとつかふたつなら、俺が持つぞ」

「え!?あ、いいよいいよ。ずっと持ってるわけでもないし」

「そ、そうか……?」

519 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:55:25.49 CYYoNZQK0 258/411

何故か結衣の声は大きくなって、首を激しく振って断られてしまった。何もそんなに強く拒否しなくてもいいのに……。

俺の表情が曇ったのに気付いたのか、彼女は慌てて言葉を繋げる。

「あ、いや、別に嫌とかそういうことではなくて…………ちょっとこれは自分で持っていたいっていうか……」

「……わかったよ」

ふむ。まぁ、確かに気持ちはわからんでもない。何か他人には預けたくない大切なものでもその袋の中には入っているのだろう。それがなんなのか、まったく気にならないかといえば…………それもまた嘘になるんだろうけど。これ以上追及されるのを避けたかったのか、先に結衣が口を開いた。

「待ち合わせの時間より少し早いけど……ヒッキーはまだ、買い物する?」

「いや、俺の方はもう必要なものは買ったからな。結衣の方こそどうなんだ?」

「あ、あたしも一通り見て回れたから、とりあえず今はいいかな…………」

「そうか…………じゃあ、いったん荷物を預けにいくか」

「うん」

結衣の方が荷物が多いので、俺はゆっくりめのペースで足を進め始めた。

520 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 00:58:02.46 CYYoNZQK0 259/411

コインロッカーに買ったものを一度入れた後、結衣と買い物前に別れる時に話をしてあらかじめ優先席権を取っておいた

レストランに向かう。彼女も行ったことがないという店だったのでちょうど良かった。


そのレストランに入る頃には、もうすっかり日も落ちていて入口にいるキャストの人も「こんばんは」と挨拶をしていた。

しかし、どうやらここに限っては一日中その挨拶をしているらしい。設定としてこのレストランの中は”ずっと夜”という演出とのことだ。確かに中に入っても結構薄暗い雰囲気で、結衣も感心した様子で「へー」とか「ほー」とか思わず声に出てしまっていたくらいだ。少し待ってから二人席に案内されるが、ラッキーなことに水辺側の方に通される。二人とも席に着いたところで、結衣が水辺の方を指さしてはしゃぐようにこう言う。

「ねぇねぇ、ヒッキー舟だよ、舟!」

「俺は舟じゃねぇ……」

「へぇ~、ここってアトラクションの舟が見えるようになってるんだ。面白いね。ヒッキーは知ってたの?」

「まぁ、一応はな。でもこっち側の席に案内されるかわからなかったから、あえて言わなかったんだよ」

「ふ~ん……なるほどね」

何がなるほどなのかよくわからないが、なんかニコニコしながらこちらを見ているのでとりあえずは良しとしよう。

521 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:00:05.29 CYYoNZQK0 260/411

俺が少しウンザリするほど結衣が「美味しい」を連発していた夕食も終わりを告げ、いよいよ今日の最後の予定となる夜のパレードを見るため、俺たちは場所取りに向かっていた。事前に調べておいたところに近づくにつれて、人の数も増えてきているような気がする。先に何も言ってなかったせいか、結衣が不安そうな顔になってこう言う。

「ね、ねぇ……この近くで見るの?もうベンチとか埋まっちゃってるみたいだけど……」

「さすがに今日はレジャーシート持ってきてるから、そう心配すんな」

「あっ……そっか……そうだよね」

いつぞやの花火大会の時と同じ轍は踏むまい。少しほっとした様子になった結衣を見て俺も一安心といったところだ。

お目当ての場所に到着して俺は周囲を見渡す。事前の情報通り、ここからなら城も見えるしパレードコースのカーブ地点にあたるからフロートもよく見える筈だ。しばらくして、キャストの人が合図をして場所取りOKとなるやいなや周囲の人たちもシートなどを広げ始める。自分たちもそれに合わせてシートを出して無事準備完了した。しかしそうはいってもまだパレードが始まるまで一時間近くもある。今日はこの季節の割には気温も高く比較的風も穏やかだったが、さすがに場所が場所だけに夜は冷える。しかもじっと座ったままなので、体が温まるということもない。そのせいか、さっきからやたらと結衣に手をさすられる。


522 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:02:14.33 CYYoNZQK0 261/411

「……寒いのか?」

「え?だ、大丈夫大丈夫」

結衣は慌てて首を振るが、手の動きはそのままだ。俺は彼女の手を握り返す。

「じゃあ、この手はなんだ?」

「……」

「そう無理すんなって。君には良いものをあげよう。さぁ、手を出したまえ」


「何今の口調……もしかして平塚先生の真似?あんまり似てないし」

結衣があきれ混じりに笑っている間に、俺は鞄からあるものを取りだして彼女の掌にそれを置く。

「貼るのも貼らないのもあるから好きに使え」

「あっカイロか!ありがとうヒッキー」

パッと結衣の表情が明るくなって何故かこちらまで体が温まるような感じがした。

「ちょっと貼るやつ使いたいから…………しばらく席離れても大丈夫かな?」

「え?ああ、そういうことか。まぁ、そのためのシートだからな。俺はここで待ってるから」

「うん!じゃあヒッキー待っててね」

俺がそう答えると、結衣はおもむろに立ち上がり小さく手を振ってから鼻歌交じりに雑踏の中に入っていく。その後ろ姿が小さくなるにつれて急に自分の体に冷えが襲ってくるような気がした。だ、大丈夫さ。まだ他にも防寒用具はある。

…………そういう問題なのか?

523 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:04:46.08 CYYoNZQK0 262/411

“しばらく”と彼女が言った通り、結衣はすぐに戻ってくることはなかった。待ち時間の半分近くが過ぎた頃にようやく彼女の姿が見えてきた。待たされたイライラとは違う感情が自分の中に渦巻いている気がするが、その気持ちがなんなのかまだわからずにいた。そんな俺の様子に気づいたせいなのか、結衣の足取りが少し速くなった。よく見ると両手に何か持っている。俺のシートの横まで来て、彼女は少し申し訳なさそうな顔でこう言う。

「ごめんね、ヒッキー。これ買ってたら遅くなっちゃって」

「……飲み物かなんかか?」

「そうそう。はい、ホットココア」

白い息をはきながら結衣が容器を手渡してきたので、俺はそれを受け取る。

「そりゃどうも…………悪いな」

「いいのいいの……さっきのカイロのお礼ってことで」

そう話しながら、俺のすぐ隣に座り直す。そうした後、何故か結衣は俺の顔を見てニヤリと笑って

「あたしがなかなか戻らないから、ヒッキー……もしかして寂しかった?」

「ハァ?そんなわけ…………いや、…………そうなのかも」

「えっ?あっ……うん……」

524 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:06:54.54 CYYoNZQK0 263/411

結衣の方からしかけてきたのに、俺がそれを否定しなかったら今度は彼女が赤くなって下を向いてしまった。少し沈黙が続いた後、少し話題を変えるのも兼ねてこちらから話しかける。

「買い物の時は…………悪かったな。一人にさせてしまって」

「え?いや……まぁ、それはしょうがないよ。ヒッキーは予定立てたり準備してたんだし、あの時はほんとに疲れてそうだったし……。それに、一人で買いたいものがあったっていうのも本当だし」

「まぁ……お前がそう言ってくれるなら俺としては助かるが…………」

安堵からふっと息をつくと、結衣は心配そうにこちらを覗き込んでくる。俺の表情を確かめると彼女は正面に向き直った。

「ほんとのことを言うと…………今日のデートね、あたし、ちょっと後悔してるんだ」

「えっ?」

思わぬ発言に、俺は飲み物の容器から手が滑りそうになってしまった。な、なんかマズいことでも……してしまったのだろうか?や、やっぱり夕方のことか?俺の頭が混乱しかけていると、自由になっている方の手を握られる。

「ヒッキーに何か問題があるわけじゃないの。むしろそれはあたしの方で……」

目を逸らし気味にそんなことを言う結衣に俺はますますはてなマークを浮かべていると、彼女はこう続ける。

525 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:09:08.11 CYYoNZQK0 264/411

「今日はあたしの好きなようにさせてもらったけど……その……ヒッキーにだいぶ無理させちゃった、から」

…………なんだ、そんなことか。それは最初から織り込み済みの話だ。むしろそんなことを悟られる方にこそ、問題がある。何故なら、いや…………まだ言うわけにはいかない。俺はまた嘘にならない程度の話のすり替えをして答える。

「もともと俺がそういう予定を組んでたんだ。結衣が気に病む必要はない。それに、今まで色々とお前のことを傷つけてしまったからな。その謝罪という意味もある」

「そ、そんな謝罪なんて…………」

…………どうもいかんな。話が重くなり過ぎる。彼女には今はあまり何も考えずにただ楽しんでほしいだけなのだが。

「今の俺にとって一番嬉しいことは、結衣が楽しんでくれることなんだ。だから、あまり俺のことは気にしないでほしい」

「ヒッキーがそういうなら……」

まだ完全に納得したわけではなさそうだったが、一応の着地点を見出したので今はこれで良しとする。結衣もまた笑顔に戻り、俺に飲み物を勧めてきたので一緒に飲むことにした。

526 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:12:20.63 CYYoNZQK0 265/411


実際にパレードが始まってからは、こちらの心配も杞憂だったようで結衣はただただ楽しんでいる様子だった。薄暗い中を大量の電飾をつけたフロートが目の前をゆっくりと通って行く。そのたびに、結衣の頬や瞳にその光が映り込む。その様子はパレードそのものよりもよほど美しかった。俺はそんな彼女の横顔を見て思わず小声でつぶやいてしまう。

「綺麗だ……」

俺の声が聞こえたのか、結衣はこちらをチラッとだけ見てまた視線をパレードに戻した。どうやら何を言ったのかまでは聞こえずに済んだらしい。俺もパレードの方に顔を向けると、不意に頬に何か柔らかいものがあたる。あたった方に俺が向くとそこには至近距離で顔を真っ赤にした結衣の姿があった。おい、今のまさか…………。



「ちゅー……しちゃった」



彼女はささやくようにそう言って、両手で顔を覆って目以外を隠す。視線だけはまだこちらに向いたままだ。

「いや……しちゃったってオイ……」

突然の出来事にそれ以上の言葉が口から出ず、俺の顔も熱くなるのを感じていると彼女はそのままの体勢でこう続ける。

「さっきあたしのこと綺麗って言ってくれたから…………ね?」

ね?って…………。やっぱりさっきの聞こえてたのかよ。硬直したままの俺に結衣はさらに攻勢をかけてくる。

527 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:17:21.93 CYYoNZQK0 266/411

「ヒッキーも…………して?」

上目遣いの潤んだ瞳でそう言うと、彼女はいったん両手を顔から離した。そしてパレードの方に向き直ってから自分の頬をちょいちょいと指さす。え?なに?これ俺もやらないといけないの?さすがにそこまでは…………。逡巡している間に結衣は指を頬から離して下ろしてしまい、むすっと膨れてしまう。不機嫌そうな顔の結衣は俺にこんなことを尋ねる。

「ヒッキーはさ、…………ディスティニーランドのこういうジンクス知ってる?」

「……こういうって?」

「初デートで夜のパレード中にキスしたカップルは別れないっていうやつ」

「いや……知らんけど…………お前、そんなこと信じてるのか?」

俺の少々無遠慮な発言に、結衣はこちらを見て少し口を歪ませながらこうつぶやく。

「別に信じてないけどさ…………こうでも言わないと……その……キスしてくれないのかなって」


そう言いながら、少し悲しげな顔になる結衣を見て俺は自分の臆病さを恥じる。今日は、今日だけは向こうが踏み込んでほしいところまでこちらも踏み込むと自分は決めたのだ。せめて今だけは、彼女を不安にさせるようなことはあってはならない――――。

「ごめん…………すぐ行動できなくて。さっき俺のことは気にしなくていいって言ったばかりなのにな」

俺は覚悟を決めてこちらに向いたままの結衣の肩に手をかける。すると、顔を少しこちらに近づけて彼女は目を閉じた。



528 : ◆QiIiNKb9jA - 2013/09/13 01:23:32.22 CYYoNZQK0 267/411

「い、いいか?」

俺の問いかけにほんの少しだけ首を上下させて肯定の返事をする結衣。俺は彼女に顔を近づけつつ、周りを見やる。周囲は薄暗いしゲスト同士ではあまり顔もよく見えないくらいだった。でも、結衣の顔はよく見える。もう鼻と鼻がくっつきそうだ。上気した頬やリップを塗った唇がやけに色気を感じさせる。目を閉じたままなので睫毛の一本一本がくっきりと見える。俺はさらに近づいて顔を少し傾けて、そして――――



唇と唇が、触れた。



その感触を味わうまでもなく、ほんの二秒くらいで俺は唇を離してしまう。数秒は結衣もそのままだったが、終わったのがわかるとその目をゆっくりと開く。薄目のまま、彼女はうっとりとした顔で吐息が混じったような声を俺にかける。

「…………もっかい」

そんな誘惑にもはや俺が勝てる筈もなく、再び顔を近づける自分がいたのだった。


続き
八幡「だから…………さよならだ、由比ヶ浜結衣」【後編】

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