1 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 10:58:17.72 /SL6zkYoo 1/123

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」のSSです。
主人公である比企谷八幡がひたすら温泉街でのんべんだらりと過ごすだけの内容なので、シリアスどころかコメディもありません。
会話文も一切ない時の文のみの構成ですから、その点はどうぞご了承ください。

最後に、主人公比企谷八幡のキャラクタが完全に別人になっております。ご寛恕いただけますよう、よろしくお願い申し上げます

元スレ
比企谷八幡「だれかが風の中で」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1385085497/

2 : VIPに... - 2013/11/22 10:59:15.52 /SL6zkYoo 2/123

カタンコトン、カタンコトン。
規則正しい電車の揺れに、ふと比企谷八幡は目を覚ました。
軽く伸びをする。固めの座席に慣らされた背骨が音をたて、微かな痛みが心地よさをもたらす。声を出さずにあくびをひとつかいて、スマートフォンで時間を確認する。午前9時34分。乗車してから2時間半といったところだ。
窓の外を見る。流れてゆく風景は一面が田園、いくつかの工場が遠くに並んでいる。空は雲ひとつない快晴で、夏の旅に最適の日和だといえる。

車内に目をやる。平日だからか、人は少なく、みな思い思いに過ごしている。外の風景を見る者、寝ている者、友人とゲームをする者、一人読書をする者。こんな時間から酒を飲んでいる者もいる。
なんだか心が弾むのを感じて、柔らかい笑みがこぼれる。乗車前に買っておいたペットボトル飲料を喉に流し込む。ひどく気分がいい。きっと今回の旅は良いものになる。静かな確信が胸によぎった。

3 : VIPに... - 2013/11/22 11:00:44.86 /SL6zkYoo 3/123

比企谷八幡は今年で19になる、大学1回生という身分の青年である。
学内にも学外にも友と呼べる者の少ないひとりぼっちな男で、高校時代に幾ばくか希望を持って培っていた関係も、最悪の形で終わってしまった過去がある。
高校3年の頃にかつての知人の姉に連れられて二人旅に出て以来、すっかり旅が趣味となり、最低限の講義出席数を稼いではこうして平日にも関わらず各地へ一人旅に出るようになった。
元々非常に頭が回り、楽をすることにかけては他の追随を許さぬほどに要領の良い男であるから、単位面には何一つの問題もない。
気楽気儘のひとり旅を満喫するに、誰よりも適正のある男だといえた。

4 : VIPに... - 2013/11/22 11:01:45.61 /SL6zkYoo 4/123

そろそろ目的地だと、八幡は電車を降りる用意に取り掛かった。
とはいえ、荷物と呼べるものなどほとんどない。
スマートフォンにイヤフォン、財布には宿泊費、交通費を除いて数万ほどの金と身分証明書。
そして切符。肩に掛けている鞄にはペットボトル飲料くらいしか入っていない。

八幡が旅に出る時は、いつもこうだ。手ぶらで行って、帰ってくる時には鞄いっぱいの土産を詰めている。
そのくらいが気楽で良いと思っているし、土産が多ければ妹も喜ぶ。妹を溺愛する八幡にとっては、そのくらいの意識が最も良いのだ。

5 : VIPに... - 2013/11/22 11:02:44.70 /SL6zkYoo 5/123

アナウンスが響く。もうすぐ目的地だ。
今回は街中の小さな旅館に宿をとってある。学生向けのプランを申し込んだため、格安な点が嬉しい。
その街は自然豊かで近くには温泉もあるというし、自然に囲まれて湯治と洒落込むのも大変良い。
電車の速度がゆっくりと落ちていく。じきに扉が開く。
一歩踏み出せば、そこが旅の始まりだ。今回の旅は1泊2日で、普段の旅に比べれば期間は短く、小旅行といって良い。
だが、だからこそ一瞬一瞬の価値もきっと高くなるのだろう。八幡はそう信じた。

かつての淀みを感じさせない、穏やかな瞳で。

6 : VIPに... - 2013/11/22 11:04:35.07 /SL6zkYoo 6/123

深呼吸をすると、自然の豊かさを感じさせる清冽な空気が肺に流れ込む。
永く電車に揺られた体にやさしく行きわたり、代わりに古い空気が大気へ放出される。
空気がおいしいとは、きっとこういうことをいうのだろう。

いささか古びた駅を出れば、予想以上に賑わいも豊かな街だと八幡には感じられた。
噴水の横に街の象徴を模したものだろうか、大きな像がある。土産物屋と食事処が立ち並び、人も数人ほどいることが窺い知れる。
車の交通量はさして多いわけでもないが、皆無というわけでもない。気をつけて歩くのが良さそうではあった。
気温は初夏にしては高く、風も生ぬるい。うっすらとにじむ汗を手で拭ったと思えば、またじんわりと汗が浮かぶ。
喉の渇きを感じてペットボトルを取り出す。ぬるい。
とりあえず喉に流し込み、ほぅ、と息をついた。

7 : VIPに... - 2013/11/22 11:05:58.06 /SL6zkYoo 7/123

さてどうしたものかと考える。時間にして10時をすこし過ぎたところだ。
昼には早すぎる。朝は家で食べてきた。やはりここは素直にチェックインを行うべきか。
予約した旅館はたしか、駅から10分ほどの近場だったはずだ。

近くに設置してある地図を見る。
得てしてこの手の地図は劣化が激しく、なにがなにやら、どこがどこやらわからないような代物もあるが、これはきれいで分かりやすい地図だ。
観光街ということもあり、案内にも手を入れているのだろう。

そういった細かな気配りを見落とさない姿勢は、八幡にとって好ましいものだった。

8 : VIPに... - 2013/11/22 11:06:55.32 /SL6zkYoo 8/123

地図で旅館の場所を確認して、八幡はとりあえず歩き出した。
緩やかな坂を下って行けば、楚々と流れる小川を渡れるよう、等間隔で橋が架かっている。
川に沿った道にも土産物屋やら定食屋が並び、標識には川を沿って進めば温泉処があると書いてある。

橋の中央に立ち、スマートフォンの写真機能を立ち上げる。
川と右側の道が対称的に見える位置で、シャッターを切る。

旅館に着いて一息ついたら、きっと妹に添付メールで送ってやろう。
羨むだろうか、土産の催促でもしてくるだろうか。笑顔で返してくれるなら、それが嬉しい。
最愛の妹の反応を想像して、八幡の胸が弾んだ。

9 : VIPに... - 2013/11/22 11:07:35.00 /SL6zkYoo 9/123

橋を渡り、さらに小路をいくらか歩いた末にたどり着いた旅館は木造作りで、写真で見るよりも立派に見えた。
その辺のことにはあまり期待していなかった八幡にしてみれば、棚から牡丹餅といったところである。
中に入ってみるとやはりというべきか、全体的に木造を前面に押し出した、いかにも和風という落ち着いた印象を受ける内観だった。

受付でチェックインを済ませ、部屋へと案内される。
途中幾人かの客とすれ違ったが、いずれも自分と大差ない齢に見受けられ、おそらくは学生なのだろうと八幡には感じられた。

思うように話し、笑い、そして共に行動する。一目見て仲の良いとわかる集団である。

10 : VIPに... - 2013/11/22 11:08:25.37 /SL6zkYoo 10/123

ふと、かつてのクラスメートたちを思い浮かべる。
あの頃はひたすらに欺瞞に満ちていると嫌悪して近寄ろうとしなかった集団だったが、彼らは彼らで、欺瞞すら受け入れてでもその関係を構築して維持していた。

それはおそらく彼らなりの嘘偽りのない本音の関係だったのだろう。
八幡は今でももちろん集団行動が苦手で、あの手の連中に近づくなどまっぴらごめんだと胸を張って宣言できる。
それでも、ああいった関係が決して間違ってはいるわけではないとは思えるようになった。

今の八幡はその事実が嫌いではない。

11 : VIPに... - 2013/11/22 11:09:46.56 /SL6zkYoo 11/123

木造の階段を昇り、2階へと上がる。
案内された部屋はやはり和風で、掛け軸に花瓶、大きな机にポット、茶葉と盆に置かれたいくつかの湯呑が見える。
座布団は部屋の隅に重ねて置かれており、貴重品入れであろう金庫が掛け軸の右隣にある。
金庫の上にはテレビが置かれ、さらに電話が乗せられている。
全体を見渡しても明らかに複数人が悠々と過ごせる大きさであり、学生一人にはいささか過ぎた広さではあった。

12 : VIPに... - 2013/11/22 11:10:36.60 /SL6zkYoo 12/123

ごゆっくり、と仲居が部屋を離れると、八幡は荷を部屋の隅に置き、座布団を机の前に敷いてそこに座る。

とりあえず茶葉を急須にいれ、ポットの湯を入れる。
茶ができあがるまで、少し時間がかかる。その間に先ほど撮った写真を添付したメールを妹へ送り、そういえば、と思い立つ。

ゆっくりと立ち上がり、八幡は部屋の一番奥の大きな窓を左右に引いた。
2階からの風景は見晴らしが良いとは言えないが、伝統を感じさせる街並みに行き交う人々、空を見上げれば眩いほどの青空と、遠くに雄大にそびえ立つ山々が見えている。

一度に飛び込んでくる景色が、まるで洪水のように勢いよく心に流れこむ。

13 : VIPに... - 2013/11/22 11:11:11.57 /SL6zkYoo 13/123

宿について荷物を降ろし、窓を開けてそこからの眺めを目に入れるこの瞬間を、八幡はひどく好いていた。

仮の宿から眺める風景は、日常とは明らかに違う、見たことのない世界を実感させてくれる。
自分は今旅人なのだと、確かに伝わってくるある種の衝撃。
精神が新鮮な刺激に喜び跳ねる感覚は、どれだけ旅を繰り返しても変わらない感動を与えてくれる。

彼が旅を愛する理由の一つは、確かにこの感動に由来していた。

14 : VIPに... - 2013/11/22 11:12:13.94 /SL6zkYoo 14/123

しばらく風景を眺め、頃合を見計らって机にもどる。
湯呑に茶を移せば、ちょうど良いと思える色合いの緑茶が注がれていく。少し冷ましてから静かに啜る。
熱い茶が喉を通り、体全体を暖める。
ここにきてようやく一息つけた気がして、八幡は力を抜いた。

さて、と考える。これからどうしようか。
明日の9時がチェックアウトの時間だから、ほぼ24時間はある。
ゆるりと温泉を回ろうか、いや先に昼を食べようか。
今回の旅館は夕食と明日の朝食を用意してくれる。つまり昼食はどこか定食屋ででも食べる必要がある。
むしろ先に土産物屋でも行ってみようか。そういえば愛しい妹は何か返事をくれただろうか。

15 : VIPに... - 2013/11/22 11:13:26.34 /SL6zkYoo 15/123

スマートフォンを確認する。メールが2件。いずれも妹だ。
1件目は予想通り、土産の催促である。
食べ物から装飾品から、色々と注文してくれている。

全部は買ってやれないぞと苦笑しながら2件目を見ると、一番の土産と前置いて、楽しい思い出、と表示されている。
何年たっても変わらない心根の優しい妹の思いやりに緩む涙腺を自覚しつつ、了解、とだけ返事をしておいてやった。

16 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 11:17:38.07 /SL6zkYoo 16/123

さしあたっては以上になります。
需要も特にない話になりそうですが、8巻ラストで盛大に曇った心を癒そうと書き始めたらあれよあれよというまに1万5千字を突破し、せっかくなので投稿してみようと思った次第です。
少しでも楽しんでいただけることを願いつつ、続きは1両日中にも投下したく思います。
ありがとうございました。

19 : VIPに... - 2013/11/22 17:25:53.89 /pmi4Yz5o 17/123

関西の方?

20 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:31:08.91 /SL6zkYoo 18/123

>>19
ええ、まあ、ずばり
旅行先のモチーフは関西圏の温泉街です。随分と絞られますね。
ただSS上では千葉から電車で3,4時間程度の架空の場所というふうに設定してあります。
ちぐはぐな物言いではありますが、ご理解いただければと思います。

21 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:37:44.50 /SL6zkYoo 19/123

考えた結果、八幡はやはり先に腹ごしらえをすませることにした。
このあたりは温泉街として有名であるが、食事の方はそう特筆するものでもないようで、下調べの際にもこれといった食事は見当たらなかった。
ここはひとつ、後々に控えている温泉や夕食のことを考えて、軽くて消化の良いうどんでも食べようかと考える。

先ほど通った小川を、下流に沿って歩く。
観光客がそぞろ歩く様がいかにも非日常を思わせ、浴衣を着ている人も少なくない。
きっと温泉帰りなのだろう。そういえば部屋のクローゼットの下に浴衣があった。
後で着替えて、それから温泉に行こう。きっと風情があって良い。

そう考えながら歩いていると、ふと定食屋が目に付く。
一軒家にのれんが架かり、門前には花壇が申し訳程度ではあるが花を咲かせている。
見た感じごく普通の店だが、いつまでもとりとめもなく探しているわけにもいかないので入ることにした。

22 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:39:07.45 /SL6zkYoo 20/123

中に入ればやはり変哲のないごく普通のめし処で、いくつかの机に椅子があり、客の入りもそこそこのようであった。
店の奥の厨房には初老の男性が調理をしているのが見えた。
そのうちに男性と同じ年くらいの、おそらくは伴侶であろう女性に案内を受け、椅子に座る。

角ばった木製の椅子で、臀部に座布団が敷いてあるだけのものだから、座り心地は良いものではない。
それでも心地を落ち着けると、氷水の入ったコップが静かに置かれる。
とりあえず一口喉に流し込み、八幡は机に置かれている品書きを見た。丼もの、汁もの、そばにうどん類。
色々あるが、見事に定番の品だけで構成されており、ある種の洗練された美さえ感じられた。
飲み物も同様で、ソフトドリンクやビール、酒を扱っている。

23 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:40:24.61 /SL6zkYoo 21/123

当初の予定通り、うどんを頼む。気温が高いので、ざるを頼んだ。

そういえば、と八幡は思い出す。
かつての知人の姉、今では友人といっていいかも知らないその人いわく、ざるそばに日本酒が合うらしい。
無論八幡は未成年だから酒を頼むわけには行かないが、二十歳を迎えたらざるそばと日本酒の組み合わせというものを試してみるのも良い。
切欠を作り出したあの腹黒い女に、ついでに元恩師でこれまた友人のような立ち位置の教師も巻き込んでやろうか。

心中で企んでいる内に、注文していたうどんが来た。
四角い盆に乗せられた大小の容器。大きめの箱にはざるが敷かれ、その上に瑞々しいうどんが盛られている。
傍には湯呑くらいの椀に蓋がされており、上にはきざみねぎ、わさび、うずらの卵が添えられている。
蓋をかたむけないように水平に取れば、中には黒く艶のあるつゆが静かに揺れていた。

24 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:41:24.50 /SL6zkYoo 22/123

至極一般的なざるうどんである。特筆すべき点などない。
だがだからこそ、不変的な価値があるように思えて八幡には好ましく感じられる。

食事に取り掛かる前に、手を合わせ、いただきます、と呟いて割り箸を割く。
まずはつゆにきざみねぎとわさび、うずらの卵をいれ、ゆっくりとかきまぜる。
しばらくすればおおむね均等に馴染むものであるから、そうした後にうどんを入れることにする。

太くコシの強そうな麺をつゆへとゆっくり浸ける。
白い麺に黒いつゆが絡まっていく。
二度、三度と軽く浸してから、いよいよ口へ運ぶ。

25 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:42:17.55 /SL6zkYoo 23/123

静かに啜れば、口いっぱいにまろやかな甘さとすこしの辛さが広がる。
汁気に負けないほど濃く主張する旨みの刺激が、舌を悦ばせる。
一口分を口に含み、ゆっくりと噛む。弾力のある麺は噛めば噛むほど口中で躍動し、つゆと共に多幸感をもたらす。
時折つん、と鼻を刺激するわさびの感触に、きざみねぎの食感、うずらのぬめりとした舌触りが味に彩りを加える。
満足いくまで顎を働かせれば、なめらかに喉を通り胃へと流れていく。

美味しい。
二口目を啜る。やはり美味い。

この店を選んで正解だった。八幡は思いもかけぬ幸運をうどんとともに噛み締めた。

26 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:43:35.77 /SL6zkYoo 24/123

結局うどんはあっという間に平らげた。
代金を支払い、店を出る。
適当に見繕った店がいわゆる当たりだと確信したときの高揚は、味覚に補正を与えてくれる。
明日の昼もまた寄ってみてもいいかもしれなかったが、やはりそこは旅の路、偶然を頼りに新たな発見にかけてみたくなるのが八幡の性であった。

スマートフォンで時刻を確認する。11時も30分を回ろうかといった頃だ。
日も高い。温泉は午後から訪ねることにして、しばらく散策でもしようかと、八幡は再び小川を沿って歩き出した。

観光客はむしろ今からが昼食時なのか、先程よりは人通りは少ないように見える。
しばらくすればまた活気が戻ることは明らかであるから、今の静けさは貴重なのだろう。

27 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:45:10.95 /SL6zkYoo 25/123

すこし歩くと、道は小川を外れだした。
小さな小道が小川に沿って敷かれているが、その先には明らかな民家が立ち並んでいる。

みだりに観光地の外、特に住宅地や居住区に足を踏み入れることはしない。
八幡の旅における数少ないルールのひとつだ。
今までトラブルに遭ったことはないが、旅の人間が観光地でもない場所にいるなど不審者と取られかねないと判断してのものだった。

八幡は小川を外れた道を進み始めた。
20分かそこら歩いただろうか。緩やかな坂を上り、角をいくつか曲がると、大きな道に出た。
車が2台並んで通れるくらいの広さだが、今は歩行者が思い思いに歩いている。左右には土産物屋が立ち並ぶ。

28 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:46:08.32 /SL6zkYoo 26/123

この道を抜けた先に温泉があるようで、遠く湯気が立っているのが見えた。
この街で一番有名だという温泉だろう。道の左右にも銭湯が点在しており、いよいよ温泉街といった心地を覚えて、八幡は笑みを浮かべた。

全部で10近くあるという温泉を全て廻るなど思っていないのだが、せめて2つ3つくらいは廻れるように動きたい。
そうと決まれば、一旦宿に戻ろう。
仕度して、浴衣に着替えて、下駄を鳴らして湯へ向かおう。

そう決めて、八幡は来た道を引き返していった。

29 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/22 17:48:51.55 /SL6zkYoo 27/123

さしあたりここまでです。
続きは翌日にでも投下したいと思っております。
ありがとうございました。

38 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:06:31.09 JgZ6mPRCo 28/123

投下したいと思います。

39 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:07:54.28 JgZ6mPRCo 29/123

仮宿の部屋に戻ると、すぐに浴衣を引っ張り出す。
丁寧に畳まれたそれを広げれば、青と水色で彩られた、見た目にも涼しげな一品だとわかる。
袖を通し、帯を巻く。薄い生地が心地よい肌触りを生み出し、体をやさしく包んでいるようにも思えた。

時計を見る。12時40分をすこし回ったところだ。
すこし部屋でゆっくりしてから、それから行くことにする。
ふと、友人知人にも土産物を買ってやろうかと思う。

八幡は普段、女神のように美しい妹と天使のように愛らしい友人以外の人間に対してはいい加減で、土産物ひとつとっても、きまぐれで買ってきたものを適当に手渡すくらいが常である。
それについては世界一可愛い妹や面の皮の厚い腹黒女から責められたりもするが、前者はともかく後者に対してはきまぐれでも買ってきてやるだけありがたく思えと高らかに宣言してやった。
もちろん直後に投げ飛ばされ、飯を奢る羽目になってしまったが。

40 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:08:41.52 JgZ6mPRCo 30/123

今回はきまぐれを起こしたようで、八幡はメールを打ち出した。
高校時代からなんだかんだと親交のある者たちを宛先に載せていく。

今でもよく小説の出来をみてやる中二病の肥満体に、この世の善を結集させたような天使。
気が強いかと思えば意外にこちらを立ててくる不良娘と、最近ようやくその存在を認めてやっても良いくらいには思えるようになった不良娘の弟。
そして近頃いよいよ女としての自信をなくしてきたらしい元恩師に、最近めっきり丸くなってきた腹黒仮面女。

個性の強い連中だと、八幡はつくづく感じた。
全員が全員、人一倍どころか十倍ほど我が強いのではないだろうか。

かくいう自分自身も結局同じ穴の狢、というか筆頭であるからあまり人のことはいえないが。

41 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:09:53.83 JgZ6mPRCo 31/123

ともかくもそういった連中にまとめて、現在地と妹にも送った写真を添付し、土産が欲しいなら返事するようにと打ち込む。
あまり高価なものを頼んだらその辺の葉っぱを毛虫でも添えてお見舞いするぞ、と釘を差すことを忘れずに文章を作成して、送信する。
温泉を巡って戻った頃には一通り返信もあるだろう。なければないで、女神と天使にありったけ注ぎ込むだけである。

そうこうしているうちに13時もしばらく経過している。
よしじゃあ行くか、と八幡は支度を始めた。

タオル、バスタオル、財布をまとめて部屋に備えられてある専用の袋に入れる。

42 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:10:52.33 JgZ6mPRCo 32/123

スマートフォンは部屋に置いていく。
こういった時くらい、文明の利器から離れて過ごしてみても良いと思えたから、というわけではない。
おそらくは先ほどメールを送った数人の中の、特に面倒くさい2、3人の相手などしていてはとても湯治どころではないからという理由の方が大きいだろう。
平日だから早々返事は来るまいと油断していると、怒涛の攻勢に遭う。経験上八幡はそのことをわかっていた。

用意も戸締りも万端だ。鞄と部屋の鍵を持って外へ出る。
確かに扉の鍵を閉め、2、3回開かないことを確認して、八幡はいよいよ今回の旅の目的を果たしに出かけた。

43 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:12:10.18 JgZ6mPRCo 33/123

間近でみると、煙突から立ち上る煙はまるで雲のように大気中を白く染めている。
先ほどの道を奥まで進み、この街一番の温泉処にたどり着いての、八幡の第一印象がそれだった。

平日にも関わらず盛況な様子で、駐車場には車が多く、親子連れもちらほら見かける。
流石に人気があるようだと感心しつつ、中に入ってみる。

暖色の灯火が施設内を遍く照らしている。
視覚効果は十分のようで、見ているだけでも安らいだ心地を覚えてくる、そんな館内である。
受付を済ませて進んだ先には、均等に並ぶ数多のマッサージチェアにテレビ、飲料売り場などが見え、いずれも人で賑わっている。
後でマッサージチェアを試してみるかと思いつつ、さしあたっては男湯へ向かう。

44 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:13:02.03 JgZ6mPRCo 34/123

脱衣所の前へたどり着くと、まずは貴重品ロッカーに財布を放り込む。
指紋認証式のデジタル式と従来のアナログ式の両方がある。
どうにも指紋認証というものが不安に感じられる八幡はアナログ式のロッカーを選択した。

本当に指紋認証してくれるのか、財布を放り込んだは良いものの、取り出すときに万一認証失敗したらどうするのか。
こうした疑り深い性質は高校生活を経て幾分か緩和したように思っているが、やはり根深いものであるのか、根絶は難しい。
この性質のおかげで回避できた危機も少なくないから、積極的に克服しようとする気も、今はもう起きない。

まあ確実だと信じられる方を選べば良いと、八幡は財布をいれたロッカーの鍵を閉め、脱衣所へ足を踏み入れた。

45 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:14:15.85 JgZ6mPRCo 35/123

脱衣所もロッカーが立ち並んでおり、小さなロッカーが多いが大きめのロッカーも置いてある。
とりあえずは鍵の開いている小さなロッカーの前に立ち、中身を改める。
何もないことを確認して、八幡は持参したバスタオルを放り込み、浴衣を脱ぎ始めた。

帯を解いて袖を下ろす。下に着けていたシャツとパンツも脱いで、まとめて投げ込む。
タオルだけを持った状態でロッカーの鍵をかければ、準備は整う。

脱衣所内の便所で用を足してから、八幡は温泉への扉を開けた。

46 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 09:16:02.98 JgZ6mPRCo 36/123

さしあたりここまでです。
タイトルについてはご指摘いただきましたとおり、往年の名曲に由来しております。
ありがとうございました。

52 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:05:58.54 JgZ6mPRCo 37/123

投下したいと思います。

53 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:06:44.84 JgZ6mPRCo 38/123

その瞬間、熱気が体を叩く。
白く立ち込める湯気が視界を染める。
少しすれば湯気にも慣れ、温泉の全貌が見えてきた。

大きな湯船がひとつ、白く濁った湯で満たされている。
入浴客もやはり多く、老若問わずみな、思い思いに寛いでいる。

54 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:07:56.11 JgZ6mPRCo 39/123

まずは掛湯を被り、八幡は体を洗いに向かった。
椅子に腰掛けて桶に湯を張る。
その中にタオルを入れて水分を吸わせ、その間に備え付けのシャワーで頭から湯を浴びる。
すこし痛いくらいの熱さが逆に気持ち良い。

髪を十分と濡らしてシャワーを止め、桶からタオルを取り出す。
軽く絞って共用のボディソープを数回タオルにつける。泡立ってきたら腕から順に脇、胸、腹と擦っていく。
下半身はもちろん背中も十分に洗う。

55 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:09:19.54 JgZ6mPRCo 40/123

隅々まで行き届いたなら、今度は手にシャンプーをつける。
最初は髪にやさしくなじませ、次第に指の腹で指圧するように力を徐々にいれ、揉みほぐすように指先を動かす。
程よい刺激が頭に良いと聞いてのことであるが、なるほどこれは気持ち良い。
頭と体を覆う泡をまとめて湯で流せば、老廃物や汚れを落としたきれいな身を実感する。

タオルを湯で2、3度ほど洗って、椅子や桶を元ある場所に戻すと、いよいよ八幡は湯船に向かった。

56 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:10:07.70 JgZ6mPRCo 41/123

白い湯船に足先を浸ける。熱い。
近くの温度計を見れば、50度近い。
江戸生まれではない八幡にはすこし堪えるが、そこは無意味に意地を見せ、一息に、しかしゆっくりと入っていく。

それほど深くはない湯船のようで、立ったままだと腰辺りまでが湯に浸かる。
そこから膝を折り、肩まで身を沈めれば、熱い湯に全身の肌がじわりと染みる。
強い刺激に息を吐く。
何度か深呼吸を行えば、体が馴染み、刺激に心地よさが混じるようになってきた。

57 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:10:56.44 JgZ6mPRCo 42/123

タオルを頭の上に乗せて、周囲を見る。
先ほどの八幡と同じように熱さに耐えながら、身体を湯に浸す者も多い。
随分長く入っているのか、目をつぶって静かに佇んでいる人もいる。
それに倣い、八幡も目を閉じる。

心地よさに気がすこし遠ざかる。
余計な力が抜け、温もりの中で筋肉が解れていく感覚はどこかこそばゆい。
そのまましばらく、八幡はたゆたうことにした。

58 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:12:07.80 JgZ6mPRCo 43/123

芯から温まった身体を湯から引き上げて、掛湯を被る。
もう少し入っていようかと思ったが、のぼせてしまうのも良くない。
他にも温泉はあるので、適度なところで切り上げようと考えたのだ。

脱衣所へ戻る前に、タオルで最低限身体を拭く。
ある程度水分を落としてから脱衣所へ入ると、涼しい風が身体をなでた。
火照った体にはありがたい。
ロッカーの鍵を開けて中からバスタオルを取り出す。
頭から足から、体中を全て拭く。
洗面台へ向かいドライヤーを手に取る。
濡れた髪に温風を当て、垂れ出す水分を拭えば、そう時間もかからずに体はすっかり乾いていた。
下着をつけて浴衣を羽織る。帯で止めれば来た時と同じ格好だ。

59 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:12:59.09 JgZ6mPRCo 44/123

貴重品ロッカーから財布を回収し、脱衣所を出る。

施設内の時計を見れば、もうじきに15時になるところだ。
夕飯は18時だと聞いているので、あと3時間は暇があることになる。

どうしたものか、八幡は考える。
急いで他の温泉に行こうとは思わない。
夕食後にまた行って、後はもう部屋でゆっくりと過ごそうと思う。
土産屋でも寄るべきか。いや、メールを確認してから、明日に見繕うようにすれば無駄がない。
ならば何か軽いものでも食べようかとも思ったが、あまり腹も減っていない。

60 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:14:07.31 JgZ6mPRCo 45/123

そういえば、とマッサージチェアを見る。
湯に入る前に、後で試してみようなどと考えていた。
相変わらず賑わってはいるが、いくつか空いているのが見えたので、せっかくだから座ることにした。

大きめのマッサージチェアに腰を下ろし、背を預ける。
黒く革張りのクッションが音を立てて沈み、柔らかい感触が座り心地の良さを伝えてくる。
肩から腰にかけての背中とすねを揉みほぐしてくれるようだった。

硬貨を投入して、まずは弱めの設定で肩をほぐしてみる。
首筋あたりから肩が圧迫される。
決まった場所を心地よく刺激される感覚は快感の一言で、温泉に続き、体のほぐれを感じる。

61 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:15:18.47 JgZ6mPRCo 46/123

もう少し強めだと良い塩梅だと、設定を中にする。
今度は腰周りの駆動部も同時に動かせば、背中全体が強すぎず弱すぎずの絶妙な刺激に喜ぶ。
すねあたりも動かせば、まさに極楽といった心地である。

温まって緩んだ身体をさらにほぐされる快楽に耐え切ることができず、八幡を睡魔が襲う。
電車内で2時間ほど寝たが、朝早くからの疲れがここに来て吹き出したようだった。

62 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:15:56.84 JgZ6mPRCo 47/123

ならばいっそ、と八幡は目を閉じる。
こういう場合は抵抗するより迎え入れてやれば、逆に軽いまどろみで済むのだ。
万一財布を盗まれやしないかと不安がよぎったが、懐深くに入れて腕を組んで胸元を塞いでいるから、早々やられはしないだろうと思う。

何も問題はない。
堪りかねたように八幡はしばし、マッサージチェアの幸福に身を委ねていった。

63 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/23 22:21:13.48 JgZ6mPRCo 48/123

さしあたりここまでとなります。

改行位置に違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、基本的に下書きの時点ではひとつのレス中の文章はほとんど改行をしておりません。
そのまま投稿しようかと1レス目を投下したところ、どうにも体裁が悪く感じたため、急遽改行を入れてみた次第です。
読みにくい箇所も多いと思われますが、何卒ご理解くださいますようお願い申しあげます。

次回の投稿はまた、明日の朝にでも行うかと思います。お時間空きましたならばぜひ、ご覧下さい。
ありがとうございました。

68 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:34:08.23 nPzos4PSo 49/123

投下したいと思います。

69 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:35:03.83 nPzos4PSo 50/123

意識が水底から引き上がれば、時刻は17時を回ろうかというところだった。

懐から財布を取り出す。
特に変わりはない。
今更ながら少し不用意だったのではないかと反省を覚えつつ、八幡は完全に目を覚ました。
背を伸ばす。
随分前に停止したマッサージチェアだったが、その効力は如実に表れていて、随分と体が軽い。

カバンを手に取り立ち上がる。
今くらいの時刻ならば、部屋に戻って少ししてから夕食だろう。
そういえば送りつけたメールの返事はどうなっているだろうか。

70 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:36:01.58 nPzos4PSo 51/123

とりあえず受付で精算を済ませ、外に出る。
辺りはまだ明るいが、夜の気配が漂ってきているのか、空気は湿っぽく、行き交う人の数も目に見えて増えてきている。
混雑がひどくなる前に、宿へ戻ろうと歩き出す。

帰路の途中、小川に沿った道がぼんやりと照っているのが見える。
柔らかとしか形容のできない優しい灯が、観光街に幻想を飾り付ける。
日常とは隔絶された光景が、否応なく胸を打つ。

スマートフォンを持って来ればよかったと、カメラを持たない身に後悔が走る。
夕食後また外に出るのだから、その時はスマートフォンでこの幻想的な光景を写そう。そう決めた。

71 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:36:52.06 nPzos4PSo 52/123

旅館の受付でタオルとバスタオルを新調してから部屋に戻れば、もう17時40分を過ぎている。
そろそろ夕食の準備が始まるだろうから、邪魔にならないよう、窓際の椅子に座る。

数時間ぶりにスマートフォンの画面を表示すると、案の定ではあるが、メールが山ほど受信されていた。
その数50。
先ほどの幻想的な光景への感動を一瞬で破壊しきった見事なまでの現実に舌打ちをしつつ、中身を確認する。

72 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:37:38.02 nPzos4PSo 53/123

海も割れんばかりの美貌を持つ麗しの大天使から1件。
土産など良いからと、無事の帰宅を願ってくれていた。
この世に生まれついて、今まで生きていて良かったと心底思う。

不良娘からも1件、家族皆が食べられるまんじゅうのようなものを頼んでいた。
優しい良い娘だと思いつつ、次のメールでその弟が分不相応にも愛しの妹を所望しているのを確認して殺意を覚える。
自称弟分の馬鹿者には土産に熟女系成人雑誌を数冊くれてやろうと心に誓う。

73 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:38:25.67 nPzos4PSo 54/123

常軌の範囲に留まる連中に返事をしていると、夕食の準備が終わった旨が伝えられる。
考えるだけで胃が重くなりそうな連中を相手取る前に腹ごしらえと行こうか。
八幡は事実上の問題の先送りをして、夕食の卓についた。

膳の上に置かれている各種の椀と皿。
それぞれ白米、味噌汁、漬物、小鍋、刺身が盛られている。
文字に起こせば短く感じるが、実際のところ一人前にしては随分と多いように思えた。
食べ盛りの大学生だと思ってサービスしてくれたのか。
昼を少なめにしておいて良かったと己の判断を褒めたくなる程度には、ボリュームのある夕食だと言える。

74 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:39:01.15 nPzos4PSo 55/123

手を合わせいただきますと礼をする。

箸を手にとり、まずは白米を口に運ぶ。
ほかほかの粒がそれぞれ上品な甘味を持ち、それは噛めば噛むほど増していく。
次いで味噌汁を啜れば、薄いながらもはっきりと伝わる味の個性が口いっぱいに広がる。
程よい塩分が米と絡み合い、高め合う。

驚く程に美味い。

75 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:40:06.66 nPzos4PSo 56/123

漬物をひと切れ食べる。
よく漬かっており、歯ごたえもある。
大きな音を立てて噛む喜びを堪能して、茶を一口含み飲み込む。

小鍋の蓋を開ければ、野菜と肉の塊が湯気を立てて鎮座している。
蒸し焼きのようだった。
肉を頬張れば熱い肉汁が口内を飛び跳ね、野菜を頬張れば柔らかな食感から旨味が染み出す。
白米と一緒に噛めば、肉の荒々しい存在感が米のしっかりとした食感によって更なる旨みを口いっぱいに広げる。

76 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:40:34.77 nPzos4PSo 57/123

刺身はマグロ、エビ、タコの3種類が三切れずつ、ツマの上に置かれている。
マグロを人切れとって醤油に浸す。わさびはあまり好きではないから、醤油だけで食べる。
生臭さをほとんど感じない、鮮烈な瑞々しさを味わう。
醤油の濃い味がほどよく調和している。

全体として非常に満足できる夕食である。
いよいよ昼を軽めに済ませたことを英断に思いつつ、八幡はしばし、食事に没頭していった。

77 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 09:42:02.80 nPzos4PSo 58/123

さしあたりここまでです。
次回は本日が終わる前にでもと思います。
ありがとうございました。

79 : VIPに... - 2013/11/24 10:34:25.08 sZv7y7ov0 59/123

間空けたほうが読みやすいと思う。

82 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:33:06.69 nPzos4PSo 60/123

間を開けたほうが良いというご意見に関しましては、ありがたく頂戴したく存じます。貴重なご意見ありがとうございます。
ただ、話もある程度進んでおりますれば、途中で形式を変えてしまえばこれまで読んでくださいました方におかれましては逆に読みにくくなってしまうと愚考いたします。
ですので今回のSSにおきましては、最後までこのような形式の改行、間の置き具合で進行させていただきたいと思います。

せっかくのご意見を無碍にする形で心苦しいのですが、何卒ご理解いただければと思います。
それでは投下したいと思います。

83 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:34:37.02 nPzos4PSo 61/123

実に1時間。
じっくりと咀嚼し、味わい、嚥下する繰り返しをこなしている内にかかった時間だ。
いつにない多幸感を覚えつつ食を終え、再び窓際へ戻る。

仲居が片付けをする間にスマートフォンを再び起動する。
さらに5件増えている。
あまりの面倒くささについ先ほどまでの多幸感が遠くへ飛んでいくやるせなさを覚えつつ、内訳を確認する。

84 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:35:35.81 nPzos4PSo 62/123

肥満体は意外にメールの数自体は1通のみである。
流石の境遇ゆえか、極端な数のメールを送る行為がどのような印象をもたらすのかを把握している。
惜しむらくは内容面でひたすら鬱陶しい点である。
文面で彼奴の病状と向き合うのは非常に労力のいる作業だ。

暗黒だの天界だのと、悲しくなるほど改善の見えない戯言を流しつつ、文の最後に添えられたカスタードクリーム入りのまんじゅうを所望する内容だけを把握する。
こんな輩でもなんだかんだと頼れる友人であることは認めざるを得ないのが歯がゆい。
とりあえず今度あったらあの腹を殴ろうと心に決めつつ、八幡は次いで、これまでの人生で最も面倒な人物のメールと向き合う。

85 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:37:21.71 nPzos4PSo 63/123

かつての恩師は当時から相当面倒くさい女ではあったのだが、八幡が卒業して半年、急激に面倒くささを増しつつある。
その面倒くささたるや、この世に怖いものなどないのではないかと思える恐るべき腹黒女が、ついに負けを認めるほどの面倒くささである。
具体的にどういう顛末でそんな訳の分からないことになったのかが見当も付かない。
とにかくかつての恩師は、現在では面倒くささにかけて暫定日本一をひたすら独走しているようだった。

メールの文面は、改行も一切ない、ひたすら全画面が何かしらの文字で埋められている異常さを抜きにすればごく普通の体裁だ。
かつて教え子だった頃に受けたメールでは面倒くさい内容ながらも教師然とした丁寧な文面であったが、最近では何か精神的な開き直りをしたのか、メール上でも常と変わらぬ男勝りな文体で話を詰めてくる。
しかもこれがまた、ひどく要領を得ない。
その上文法や文体自体は流石にきっちりとしているのだから、余計に始末が悪い。

86 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:38:46.00 nPzos4PSo 64/123

怪文書の山を読むこともせずに削除していく。
所定の動作を繰り返すだけの行為が、ひどく気だるい。
とりあえず帰ったら直接文句を叩き込もうと心に決めつつ、ようやく一番最近のメールを残して全てを消し去る。

この女の分かりやすい点は、肝心要の本題は必ず最後のメールの結尾に短く入れてくる点にある。
かつてはそうでもなかったはずなのだが、いつの間にやらそのような特徴が見て取れるようになっていた。
最後の一通もやはり意味のない話が続いているが、一番下の行まで見ると、端的にせんべいと塩辛を所望する旨が記されている。
選択がどうにも結婚適齢期の女性のものとも思い難い気もしたが、そこは個性というものであるからとやかくは言うまい。
八幡は一言、了解、とだけ返事をしてやった。

最後の最後に取って付けられたような結婚相手、という単語を目の錯覚にしておいてやる優しさで目を遠くしながら、最後の一人からのメールに手をつける。

88 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:40:15.98 nPzos4PSo 65/123

出会ってからしばらくは誰よりも恐れた女であるが、ある種の開き直りをしてしまった今では大して脅威にも感じなくなった。
そうなってしまったきっかけが、その女当人による贖罪行為が発端なものだから、なんとも皮肉な話である。

度重なる蛮行の数々にとうとう堪忍袋の緒が切れたという元恩師に、鉄拳を以て制裁された。
そういう話らしいが、詳細は八幡も知らないし興味もない。

89 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:42:04.08 nPzos4PSo 66/123

とは言え相手もさるもの、隙あらば性質の悪いふざけ方をしてくる。
共通の友人である前述の面倒くさい元恩師に言わせればただの甘えた行為だと言うのだが、八幡に言わせればおぞましい怪文書を数十通送りつける行為の方がよほど甘えていると思う。
ともあれ、現在においてはそこそこに良い友人関係を築けている女からのメールを見れば、思うままに動く駒、などと物騒極まる単語がぽつねんと表示されている。
ご丁寧に語尾には音符など添えて可愛らしさを表現したのだろうが、むしろ神経を逆なでされる心地を覚える。

こういった腹黒アピールを受けるのもいつものことであるが、これこそ甘えの象徴であるように思える。
別に誰も気にしてないのに一人思い込んで、己の心中のどす黒いものを小出しにして予防線を張る。
かつて方向性は違えど同じようなことをやっていた身であるから気持ちは痛いほどわかるが、正直に言えばどうでも良い。
以前の強化外骨格ぶりから考えればなんとまあ可愛らしくなったものかと感心を覚えるほどなのだが、いつかこの悪癖も克服してくれるときっとお互い助かるのにとは思うのだ。

90 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:42:49.17 nPzos4PSo 67/123

何はともあれ返事を送る。
まともに相手されるだろうとは向こう方も思うまいから、犬でも飼ってろ、とだけの文章にしておく。
しかし催促させておいて何も渡さないのも心苦しいから、帰りしなに携帯用の将棋でも買っておいてやろう。
思うままに動く駒がたくさん入っているから、文句も言うまい。

八幡の悪ふざけも大概であった。

91 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/24 21:44:33.77 nPzos4PSo 68/123

以上となります。
次回は少し間をおきまして、明日の夜頃になるかと思います。
お暇頂きますればぜひ、ご覧下さい。

ありがとうございました。

99 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:13:24.49 nvIV677Qo 69/123

投下したいと思います。よろしくお願いいたします。

100 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:14:09.41 nvIV677Qo 70/123

一通り返事を終えればもう時刻は19時30分を過ぎる頃で、そろそろまた、温泉へ向かうかと思い立つ。
せっかく新調したタオルとバスタオルもあるから、この際に食後の運動も兼ねて、一風呂浴びに外に出かける。
今度はスマートフォンも持参する。
あの、幻想的な光景を一枚だけでも写しておきたい。

101 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:15:22.87 nvIV677Qo 71/123

小川を照らす灯火。
薄ぼんやりとした、ふわりとした暖色が、一定の間隔に置かれている。
遠目にはまるで蛍を思わせるそれらを画面に収め、2、3回シャッターを切る。

風景の一部を確かに切り取ったことを確認して、八幡は歩き出した。
写真で撮って後から見ても、目に焼き付ける光景には叶わないのだからと、目いっぱい風情を感じつつ景色を楽しむ。

102 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:16:04.19 nvIV677Qo 72/123

しばらくして、目的の温泉地にたどり着いた。
先ほど行った温泉よりは少し短い距離で、大通りの途中に点在しているうちのひとつだ。
枯山水を思わせる敷き詰められた砂利にいくつかの石畳の上を通って中に入れば、年季を感じさせる木造の内装が出迎えてくれる。

受付を済ませて脱衣所へ向かう。
こちらはマッサージチェアやテレビなどもなく、本当にただ温泉に浸かるだけの施設のようだった。

103 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:17:58.16 nvIV677Qo 73/123

貴重品をロッカーに入れて、脱衣所に入る。
年配の客が多いように思えた。
浴衣と下着をさっと脱いで、まだ湿ったタオルを手に温泉へと向かう。
掛湯をしてから、身体を洗いに行く。

ほんの数時間前にも洗った身であるが、なんだかんだと汗もいくらかかいている。
タオルを洗いつつ身を擦る。いくらか簡略化させて頭から湯を被れば、すっかり準備は整っている。
綺麗になった身体を実感しつつ、風呂場へ向かう。

湯船を見る。大きめの湯は透明で底が見えた。
段差が設けられており、中心部の一番深いところはどうにも深そうで、立ち湯であることが伺える。

104 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:18:55.22 nvIV677Qo 74/123

とにもかくにも、つま先からゆっくりと入る。
温度は40度を少しといったところで、前の温泉に比べれば抵抗なく体全体を沈ませることができた。
そのまま、できるかぎり中心部へと段差を降りる。

一番深い場所から2段ほど手前の位置が、八幡の背丈にちょうど合う位置のようで、肩までしっかりと浸かっている。
息を付きつつ、周りを見ると、意外に若い者も多いことがわかった。
学生の集団が騒ぎながらどこまで深く行けるかを競っている。
元気盛りは勢いで振舞うものだ。
そう思いつつ、喧騒の中でしばし湯の温もりを堪能するのだった。

105 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:19:49.54 nvIV677Qo 75/123

十分に温まった身体を引き上げて、掛湯を行い脱衣所へ戻る。
バスタオルで身体を拭き、ドライヤーで頭を乾かす。

今日一日は随分な時間、湯に浸かっている。
そのうち海月か何かのごとくふやけてしまいそうだなと笑いながら、八幡は湯を後にした。

106 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:21:15.53 nvIV677Qo 76/123

精算を終えて外へ出る。
夜風が気持ち良い。
部屋へ戻る前にどこかの店で軽くつまめるものでも買おう。
そう決める。

適当に入った土産物屋で、12個入のまんじゅうと、特性の林檎ジュースを買う。
宿に戻ってからの夜食である。
店員らしい女性が話しかけてくる。
特に急ぐ用もないので、しばし歓談する。

107 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:21:54.09 nvIV677Qo 77/123

どこから来たのかと問われて素直に千葉と答えれば、随分と遠いところからと驚かれた。
何人で来たのかと問われ、一人旅だと答える。
やはり驚かれる。
旅は気楽な方がいいのだと笑うと、なるほどと納得された。

こういったやりとりは実は今では嫌いではない。
一期一会というが、おそらく人生においてこの瞬間のみ交流を交わす相手である。
欺瞞やら仮面やら、小賢しい理屈などあったものではない。

旅の恥は掻き捨てとも言うのだ、ここはむしろ恥のひとつとっても楽しまねばと、そう思えるのだ。

108 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:22:31.29 nvIV677Qo 78/123

良い旅を、との言葉を頂いて外を出る。
スマートフォンにて時刻を確認すれば、もう21時を回ろうかという頃合だ。
そろそろ部屋に戻ってゆっくり過ごそうと、八幡の足取りは軽く、宿へ向かっていった。

109 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/25 22:26:24.22 nvIV677Qo 79/123

本日の投下分は以上となります。
次回は明日の夜にでも、と思いますので、お時間をいただけますのならば、ぜひ、ご覧ください。
ありがとうございました。

111 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:42:15.24 GZ+s5H0ao 80/123

投下したいと思います。

121 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:52:32.98 GZ+s5H0ao 81/123

例によってタオルとバスタオルを新調してから部屋に戻る。
テーブルが片付けられ、大きめの布団が一式、敷かれている。

窓際の椅子へ座り、まんじゅうと林檎ジュースを取り出し、開ける。

122 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:53:11.65 GZ+s5H0ao 82/123

いたってシンプルな小さめの温泉まんじゅうに、やけにレトロ感溢れるラベルが貼られている瓶ジュースである。
とりあえずまんじゅうを一口頬張る。

薄皮のようで、噛めば中の餡子が飛び出てくる。
当たり前ながら、甘い。
とは言えただ甘いだけではなく、和菓子特有の上品な甘さに薄皮の塩がアクセントを加えている。

123 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:53:48.74 GZ+s5H0ao 83/123

何度も咀嚼して、ゆっくりと少しずつ飲み込む。
喉元を過ぎたときの、絡みつき焼け付く感覚が強い。
ひとつ食べるだけで喉の渇きを覚える。

瓶ジュースを一口飲む。
りんごの酸味をそのままに残した爽やかな甘さが口に広がる。
さらりとしたのどごしが、喉をやさしく潤す。

これも、美味い。

124 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:54:16.98 GZ+s5H0ao 84/123

2つ、3つと食べていく。
喉の渇きを覚えればジュースを呷る。

結局、30分程度で全て平らげてしまった。
大きく息を吐く。
もう時間的には22時、そろそろ寝ても良い頃合だ。

スマートフォンを開く。

125 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:54:51.70 GZ+s5H0ao 85/123

メールが1件着信している。
妹だ。無事かどうかを尋ねつつ、お休みと言ってくれている。

先ほど撮った写真を添付して、お休みと返事をする。
1日の終わりをこうして、何よりも可愛らしい我が妹とのやり取りで締める幸福。
もしこれが件の中二や重い女、腹黒だったなら、きっと気分どころか夢見すら悪かったろう。

126 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:55:19.69 GZ+s5H0ao 86/123

歯を磨いてうがいをしてから消灯する。
豆電球だけが軽く部屋を照らす。

布団にもぐって、その弾力に心奪われる。
真っ白いシーツの感触が心地よく、掛け布団の程よい重量が身体を軽く圧迫されて、すぐに睡魔が襲ってきた。

127 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:55:53.19 GZ+s5H0ao 87/123

明日は9時にはチェックアウトで、朝餉は7時30分だ。
遅くとも、7時には起きよう。
スマートフォンの目覚ましは既にセットしてある。
もしかしたらそれよりも早く起きるかも知れないが、そうなったらそうなったで、それはまた明日の話だ。

とりとめのない思考の渦はいつしか混濁していく。
自由な旅の中、決して悪くない疲れを全身に感じながら、比企谷八幡の1日は終了した。

128 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/26 21:58:41.73 GZ+s5H0ao 88/123

以上になります。お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。
次回はまた、明日の夜になります。何卒よろしくお願いいたします。

137 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:23:21.42 GBiAvrSLo 89/123

投下したいと思います。

138 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:24:08.84 GBiAvrSLo 90/123

意識が浮上する。
眠りから覚醒する瞬間はひどくあっけない。

寝返りをひとつ打てば、壁にかかってある時計が目に入る。
6時前。
いささか早すぎるのではなかろうかと思い、いやそれでも8時間は寝たのだなと、八幡はとりあえず身を起こした。
適度な睡眠を取ったためか、ひどく目が覚めている。

はだけた浴衣を整え、洗面所へ向かう。
冷たい水を顔に叩きつけて歯を磨く。
その後に便所へいって用を足せば、すっかり常の状態になっていた。

139 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:25:24.36 GBiAvrSLo 91/123

風呂に行こう。そう思う。
朝食は7時30分と聞いているから、今から温泉へ行ってさっと湯を浴びて戻れば、ちょうどの頃合だろう。
当然ながらこのあたりの温泉施設はみな、朝風呂にも対応している。

タオルとバスタオルを用意する。
充電がとうに完了しているスマートフォンを手に取って、7時にセットしていたアラームを切り、財布とともに懐へやる。
部屋の鍵を取って八幡は、最後の湯浴みに出た。

140 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:26:14.38 GBiAvrSLo 92/123

夏の匂いが漂ってくる今頃では、この時間帯には既に陽が昇り始めている。
濃紺の空が段々と光に染まっていく様に、小川を照らす暖色の灯火がとてもきれいだ。

この風景も1枚、写真に収める。
どれだけ写真を収めても、実際に見て感じる風景には及ばないかもしれない。
それでも、この感動を少しでも形にできるのなら、きっと価値のあることだと信じる。

141 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:26:46.84 GBiAvrSLo 93/123

しばらく歩き、目的の温泉にたどり着く。
大きめの施設で、広告やら旗やらがひしめき合う外観はむしろ、スーパー銭湯らしくもある。

中に入れば受付の男性がひとり、船を漕いでいる。
一言声をかければ慌てたように飛び起きる。
苦笑いしつつ、お疲れ様ですと八幡が声をかければ、顔を赤らめて笑っていた。

142 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:27:32.20 GBiAvrSLo 94/123

受付を済ませて脱衣所へ向かう。
内観としてはやはり外観の印象に違わず、スーパー銭湯の色が強い。
ゲームコーナー、食事処、床屋まである。
早朝であるからいずれも閉まっているが、なるほどこういうものもあるのかと感心しつつ、脱衣所へ向かう。

143 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:28:21.40 GBiAvrSLo 95/123

先例の通り、貴重品はロッカーに入れて脱衣所のロッカーに衣服を放りこむ。
タオルを持って湯に乗り込めば、先だっての2件の温泉地とは趣が違うことに気づく。

湯船がそこかしこに置かれており、ジェットバス風のものやら五右衛門風呂風のものやら、いくつもの種類がある。
いよいよスーパー銭湯だと感心しながら、とりあえず掛湯を行い身体を洗う。
寝ている間にこそ代謝活動は活発になるから、目に見えない汚れもあるのだろう。
なんとなくそのあたりを意識しながら身を洗えば、早朝の静かな雰囲気がなにやら清新な心地をもたらす。

144 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:28:59.30 GBiAvrSLo 96/123

さて、とひとまず風呂へ入る。

浴槽は透き通っている。
底は浅く、実際に入ってみれば、胡座をしてようやっと肩まで身が静まるかどうかというくらいである。
温度もさほど高くはない。

最初に入った50度近い温泉はむしろ、このような明け方に入るほうが良かったような気がする。
もう少し各温泉地の説明を読んでおけば良かったかと自問するも、まああれはあれで気持ちよかったからそれで良いかと自答する。

145 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:29:33.49 GBiAvrSLo 97/123

少ししてから、八幡は浴槽から出た。
掛湯をひとつ行い、次に隣の浴槽、ジェットバスのように水流が勢いよく吹き出す湯に入る。

適当な位置で座れば、ちょうど腰や肩に水流があたる。
少しの痛みとむず痒さが、結果として身体をほぐしてくれる。
そんな印象だ。

身体を動かし、様々な箇所に水流を当てる。

146 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:31:41.29 GBiAvrSLo 98/123

むず痒さも慣れれば快楽を生み出してくれる。ツボと言っていいのだろうか、そのような箇所に当てれば、特に心地よい。
結局背中を一通り刺激してたっぷりとした満足を得てから湯を後にした。

設置されている時計を見れば、まだ7時前だ。
体の水分を拭き取り、髪を乾かして、衣服を着る。
貴重品を取り出して脱衣所を出れば、すぐに精算を済ませた。
なんというべきか、温泉というよりほぼスーパー銭湯のような感じではあったが、気持ち良かったのでよしとする。

147 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/27 21:34:51.18 GBiAvrSLo 99/123

さしあたり以上となります。
奉仕部関係については「最悪の終わり方をした」という表現のみにとどめております。
今現在の関係がどうなっているのか、そもそもどのような終わり方をしたのかは、お読みくださった方の解釈に委ねたいと思ったからです。
ただまあ、死んだり殺したりはしていないと思います。
その旨、ご了承くださいますようお願い申しあげます。

ありがとうございました。

156 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:20:17.87 HRcdZyyuo 100/123

投下したいと思います。

157 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:21:03.41 HRcdZyyuo 101/123

部屋へ戻れば、もう朝餉の仕度は終わっていた。
座布団に座れば、目の前には膳が置かれ、椀に白米、長方形の陶器には焼き魚が置かれている。
味噌汁に漬物、海苔、温泉卵。非常に健康的な朝の食事である。

いただきますと呟いて手をつける。

159 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:21:41.47 HRcdZyyuo 102/123

白米に味噌汁の組み合わせは磐石のものであるが、焼き魚と白米というのも良い。
しっかりとした身をほぐして、口に入れる。

醤油で味付けしているようで、香ばしい風味が口に広がる。
続けて白米を食べれば、絡まりあって甘味と辛味がより引き立つ。
ゆっくり噛んで嚥下する。

160 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:22:33.11 HRcdZyyuo 103/123

海苔を白米の上に乗せ、そのまま包むようにつまんで食べる。
磯の味わいが白米の熱気に煽られ嗅覚と味覚を楽しませる。
温泉卵を啜れば、出汁で軽く味付けされた控えめな旨みがまろやかさに調和する。

味噌汁を飲む。
夕べのものよりも味が少し薄めのようだった。
塩分を意識してくれている配慮を好ましく思いつつ、八幡は舌鼓を打つのだった。

161 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:23:12.16 HRcdZyyuo 104/123

朝食を済ませ、宿を発つ仕度に入る。
とは言え、来た時と何も変わらない。

衣服を来て、鞄を肩にかける。
スマートフォンと財布をポケットに入れれば、それで終いだ。

時刻はもう8時40分を過ぎる。
ひと晩世話になった部屋に別れを告げ、チェックアウトを済ませる。

思っていた以上に良い宿だった。
仲居に礼を述べて、八幡はいよいよ帰路に着いた。

162 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:24:05.06 HRcdZyyuo 105/123

駅に向かう緩やかな坂の、その途中の土産屋を何店か訪れる。
まんじゅうからせんべいからキーホルダーまで、様々な特産品が雑多に置かれている。
とりあえず友人たちの注文通りの品を見繕う。

あんこ入りのまんじゅうとロールケーキ、クッキー。
これらは妹用だ。
どうせ自分も一緒に食べるのだからと、半分は八幡の趣味が入っている。

同様に天使な友人に向けて、和菓子の詰め合わせと梅干も買っておく。
甘いものも辛いものも得意だというその博愛主義には身も震えんばかりの慈愛を感じる。

163 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:25:10.54 HRcdZyyuo 106/123

不良娘には36個入のまんじゅうを2箱用意する。
大家族でみな食べ盛りの可愛らしい子達だ。
いくつあっても足りはすまい。

弟の方には帰りのコンビニで適当にマニアックな成人誌を買っておくことにしよう。

164 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:25:38.31 HRcdZyyuo 107/123

肥満児には注文通りにカスタードクリーム入のまんじゅうを1箱と、適当にキーホルダーを買っておく。
まんじゅうは1番容量の少ない、小さな箱を買う。
迂闊に食い物を買い与えてやると、ますます巨大化する。
傍から見ている分には構わないのだが、なんだかんだと行動を共にすることもあり、時折心配になるからだ。

決して金を惜しんでの所業ではない。

165 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:26:13.18 HRcdZyyuo 108/123

元恩師には注文のとおり、せんべいと塩辛を買ってやる。
後はサービスで、美白効果のある温泉の素パックも追加する。

見た目は相変わらず美貌の女教師なのだが、本人はどうも最近肌を気にしているようである。
どうにも神経質なように思うが、当人も必死なのだろう。

166 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:26:53.38 HRcdZyyuo 109/123

腹黒女は最早どうでも良い。
成人誌を買うがてら、携帯用の将棋でも買ってやろう。
そう思っていると、面白いものを見つけた。

手にとってしげしげと眺める。
これは良い。
注文にあった代物であるし、何より馬鹿馬鹿しい。

関連商品をまとめて手にとって購入する。

167 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:27:51.89 HRcdZyyuo 110/123

後は八幡の感性に従って、しば漬けを2箱、クッキーを1箱購入する。
最初に会った友人にくれてやろう。

以上の諸々を精算すれば、財布の中身も程よく減っている。
帰り賃を除けば、後は数千円程度を残すくらいであった。

168 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/28 21:28:53.28 HRcdZyyuo 111/123

以上になります。
もうあと1,2回ほどで終わると思いますので、お時間いただけましたら、ぜひ、ご覧下さい。
明日もまた、この時間頃に投下したいと思います。

ありがとうございました。

174 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:28:58.63 m7zcTCgHo 112/123

投下したいとおもいます。

175 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:29:46.05 m7zcTCgHo 113/123

両手いっぱいの紙袋を持って、八幡はいよいよ駅へ到着した。
切符を買って、ホームに入る。

帰郷のための電車は、もう数十分ほどで到着するようだ。
椅子に座る。
紙袋を置いて一息付けば、そう言えば結局、今日の昼は故郷で食べることになりそうだと気づいた。

176 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:30:43.40 m7zcTCgHo 114/123

せめて昼過ぎまでここにいても良かったかも知れなかったが、もう土産も買って、電車を待つ状態である。
まあ仕方ないかと妥協した瞬間、スマートフォンが振動する。メールだ。

確認すれば、元恩師からのものだった。
体調を気遣いつつ、何時頃に千葉に帰ってくるかを聞いてくる。
なぜそのようなことを聞くのか訝しみながら、素直に13時頃には到着すると返せば、気をつけて帰ってくるようにと返事が返ってきて、それきりだった。

177 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:31:17.99 m7zcTCgHo 115/123

そんな殊勝な女だったろうか。
旅行に出ているこの2日の間に、改造手術でも受けたのか。

いつになくしおらしい文面に鳥肌を立てていると、アナウンスが流れる。
もうすぐ電車がくる。

178 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:31:48.76 m7zcTCgHo 116/123

ホームに立って、静かに到着を待つ。

日差しもいよいよ強くなり、地面が焼け付いていく。
生ぬるい空気を肺に入れればほのかな緑が匂い、どこまでも青く澄み渡る空を見上げれば、夏への扉がすぐそこにまできているのを感じる。

草から虫から、生命が鮮やかに脈動する季節の到来を体全体で受け止めれば、汗ばむ体すら、どこか心地よく思えた。

179 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:32:34.34 m7zcTCgHo 117/123

良い旅だった。
心からそう思う。

いつだって、旅は八幡の心を癒してくれる。
あの頃ならきっと、反感と嫌悪と憎悪を感じていただろう素直な感情だって、今なら受け入れられる。

イヤフォンをスマートフォンに繋げる。
最近お気に入りの名曲を聴いて、しばしの時を過ごす。

180 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:33:07.59 m7zcTCgHo 118/123

一人旅を続ける孤独な男の歌に、思いを馳せる。
風のように時に凪ぎ、時に荒れ、時にやさしく、時に激しい、そんな旅路。

けれどもその中では、きっとだれかが待ってくれている。
いつでも、どこかで。

そんな希望を感じさせてくれる歌だった。

181 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:34:04.44 m7zcTCgHo 119/123

ふと、かつての知人たちを思い浮かべる。
終わりこそ最悪といっていいものだったが、今にして思えば、あの日々は決して悪いものではなかった。

このような考えを抱くようになったこと自体が、高校時代にさんざ人をこき使ってくれた元恩師の思惑通りだという点についてはいささか認めがたいものはあるのだが、それすら含めて感謝している。

182 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:34:30.91 m7zcTCgHo 120/123

失敗しても、絶望しても、どん底に落ちても、間違えても。
それでも価値はあったのだと、何度でもやり直せるのだと今なら信じられる。

そんな風に変わった今の自分を、比企谷八幡はきっと、かつての自分と同じくらいに愛している。

183 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:35:06.80 m7zcTCgHo 121/123

ホームから線路を遠く見やれば、電車の灯が見えてくる。

ひとまず旅はこれで終いだ。
数時間後には、変わり映えのない、何よりも素晴らしい日常が待っている。

それがたまらなく嬉しい。比企谷八幡は、そう思うのだった。

184 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 21:39:32.08 m7zcTCgHo 122/123

比企谷八幡「だれかが風の中で」

これにて全編となります。ご覧くださった方、ご感想くださった方、ご指摘くださった方。
本当にありがとうございました。星の数ほどの感謝の念を込め、お礼申し上げます。

原作はきっと良い方に向かい、きっと雨も晴れ、地も固まるものと信じております。
ですが例え悪い方向に終わることがあっても、幾年月を経れば、そう悪いものでもなかったと振り返られるのではないかなと。
そんな終わり方があっても良いと思い、拙いながらも形にしてみた次第です。
なんだか表現しづらいですが、8巻で盛大に曇った心を満たすだけの作品ですので、あまり気にしないで頂けると嬉しいです。

重ね重ね、ありがとうございました。

188 : ◆gIYX1xRWqRqj - 2013/11/29 22:11:02.53 m7zcTCgHo 123/123

あータイトル微妙に回収できてない……

ちなみにこの後の八幡は千葉に帰った直後に当SS内で言うところの、
「元恩師」
「腹黒女」
に誘拐されて夏の午後なのに激辛鍋食べさせられます。
食べさせられて激おこマジェスティックファイナリアリティぷんぷんプリンスブチギレボンバーヒキガヤハチマンさんになります。

一応途中まで書きましたが、キャラ崩壊、全編会話分のみ、「!」「?」多用。
何より当SSとのテンションの落差がひどいにも程があるので投下するかどうかわかりません。
今までのテンションがはぐれ旅なら、上述のテンションとノリは無謀編なので……

記事をツイートする 記事をはてブする