【関連】
◇01-01[Sad Fad Love]
◇01-02[Xavier]
◇02-01[Mr.Droopy]
◇03-01[FOXES]
◇04-01[Nightmare]
◇04-01[Come Down]
◇01-02[New Year's Eve]
◆05-01[Nowhere]
"なにか"が、転がっている。
少女の形をした、なにか。
それは、死体のように見える。
死んでいるように見える。
それは、ベッドの上に転がっている。
でも、本当にベッドの上なのだろうか?
草むらの上のようにも見えるし、どこかの廃墟の一室の、床板の上だという気もする。
それは、汚れている。何かに汚されてしまっている。
裸だった。肌を、あますところなく、晒していた。
表情も、乳房も、性器さえも、さらしていた。
それを、眺めている人間がいる。
しげしげと、興味深げに、あるいは不愉快そうに、あるいは下劣な笑みを浮かべながら。
とにかく、人間は"何か"を眺めていた。
眺めている人間は誰だろう?
男であったり、女であったりした。中年であったり、子供であったりした。
死体のような"なにか"は、けれど、死体ではない。
小さく開かれたままの口からは、掠れるような、かすかな息遣いが、たしかに聞こえる。
全身は、鼓動に合わせて、注意深く観察しなければ気付けないほど小さく、かすかに、震えていた。
少女の姿は、誰かに似ている。
横たわる少女のそばに、人間が近付く。
その姿もまた、誰かに似ていた。
見知らぬ誰かという気がする。見知った誰かという気もする。
とにかく、その誰かは、少女の体に近付き、触れる。
少女は、微かに体を揺らしただけで、声も漏らさなかった。
誰かはにんまりと唇を歪め、少女の体に覆いかぶさる。
そして、舐る。
唇、頬、瞼、鼻、耳、首筋、乳房、鎖骨、背筋、両腕、手の甲、指先から指の間まで。
あるいは爪先、踵、踝、脹脛、膝、太股。
そこで行われているのは、つまりは凌辱だった。
そこにあるのは甘美な悦楽ではない。一方的な征服でもない。
誰が望んだわけでもなく、情緒的な要素はすべて排除されている。
捕食行為に似ていた。
誰かが、少女を犯している。
次々と。かわるがわる。
朝が終われば夜が来るように、ひとりが終えると、次のひとりがやってくる。それが延々と続く。
行為はすべてが似通っていた。何度も似たような光景が繰り返される。
"俺"は、それを眺めている。
不意に、少女の顔に、誰かの面影がよぎる。
最初は、アメだった。
死体のようになったアメが、そこに転がっている。かすかな呼吸だけを漏らし、誰かに抱かれている。
身じろぎもせずに。誰かがアメの唇を舐る。
けれど、アメの面影は、気付けば先輩のものと入れ替わっている。
彼女はうつろな表情のまま、誰かの指先が自らの乳房を捩じるのを受け入れている。
"だれか"は、黙々と、ルーチンのように、彼女たちの体を舐り、嬲る。
面影は消えては浮かぶ。"俺"はその光景を眺め続けている。
妹が誰かに抱かれている。俺はそれを眺めている。彼女が表情を歪め、息を切らすのを眺めている。
名前も知らない誰か。名前を知っている誰か。誰かが犯される姿を、俺はただ眺めている。
ふと、悲鳴が聞こえた。
悲鳴? あるいは泣き声なのかもしれない。悲しみからのものではない。
むしろそれは、肉体的な痛みから生まれた絶叫だったのかもしれない。
叫んでいるのは、シロだった。
シロは拒絶している。肉体を激しく動かし、抵抗している。
"誰か"はそれを殴る。シロの声はとまらない。酸素を求めて喘ぐように、彼女の形相は必死そうに歪む。
突き立てられたのはナイフだった。シロは叫ぶのをやめ、苦しげな呼吸に嗚咽を混ぜる。
大粒の涙をこぼしながら、彼女は必死に痛みをこらえている。
悲しみとか、絶望。そういう感情が、具体的に彼女を襲ったとは考えがたい。
そこにあったのは、痛みと震えと恐怖だけだ。
俺はそれを眺めている。それを眺めている自分に気付く。
そして、声をあげる。「やめろ」、と。震えた声だった。馬鹿げた話だ。
そして、"誰か"は、鬱陶しげに、気だるげに、こちらを振り返る。
その顔は、俺の顔によく似ていた。"誰か"がしたこと。でもそれは、"俺"がしたことと似ているような気がした。
不意にノイズが走る。映像が途切れる。景色が黒く染まる。
何もない空間に、俺は放りだされる。
遠くから、ノックの音が聞こえる。
◇
「お兄ちゃん、朝だよ」
ノックの音。
「今日も学校だよ。起きないと、遅刻するよ?」
声。
そうだな、と俺は思う。
朝だ。
朝が来たら、起きなきゃいけない。
体を起こす。
瞼を手のひらでこする。妙な夢を見ていたような気がする。
「目、覚めた?」
声に、目を向ける。妹はこちらを見つめている。目が合うと、にっこり笑った。
「おはよう、お兄ちゃん」
おはよう、と俺は返事をした。
◇
太陽の光が街並みに降り注いでいる。
朝だというのに、うっとうしいくらいの蝉の鳴き声が聞こえる。元気な奴らだ。分けてほしいくらいだ。
「暑いね」
手のひらで庇を作って目元をかばいながら、妹は辺りの様子を眺めた。
「うん。ちょっと常軌を逸してる」
「今日、三十度超えるかもって」
「夏だなあ」
「日焼けしそう」
「クリーム塗った?」
「もちろん」
妹は得意げに笑う。
二人で並んで通学路を歩いていると、道の向こうに、ふたりが待っていた。
「おはよう」
と、ユキトは言った。
追いかけるみたいに、サクラが、
「おはよう」
と同じ言葉を放って笑う。
「おはよう」、と俺も笑う。
「おはようございます」と妹がにっこりと頭を下げる。
俺たちは特別な言葉もなく合流し、四人並んで通学路を歩き始めた。
「もうすぐ夏休みだけど、何か予定ある?」
サクラは俺とユキトの間を堂々と歩いた。いつも前を歩くのは彼女だった。
妹は、どことなく距離を置いて、俺の斜め後ろを黙ってついてきている。
「特には」と答えると、サクラは間髪おかずに「部活は?」と訊ねてきた。
「まあ、多少は顔を出すけど、基本は出なくても問題ないはずだし」
「そっか」
頷いて、サクラは何かを考え込んだ。
「どうしたの?」
訊ねたのはユキトだった。俺と彼はふたりでサクラの方を見る。彼女の言葉の続きを待つ。
「わたしは、夏期講習にいったり、友達と遊んだり、部活に出なきゃいけないんだよね」
「ふうん?」
そりゃそうだろ、という思いを飲み込みながら、俺は頷いた。
「でも、それだけじゃなんかなあって思うの」
「……それだけ、って」
「つまり、わたしたちは高校生になったわけでしょう?」
「そうだね」
「言いたいこと、分かる?」
さっぱり分からない。
「苦しかった受験勉強のシーズンを終えて、期末のテストも終えて、久しぶりの長期休みなんだよ?」
「うん」
「遊ぶしかないでしょ?」
サクラは当然みたいな顔で言う。俺とユキトは顔を見合わせた。
「だから、友達と遊ぶんだろ?」とユキト。
「もちろん。でも、もっと他に、何かあってもいいと思うんだよ」
サクラはにっこり笑う。
「一緒に苦しい受験勉強の時間を乗り越えてきた仲だし、せっかくの休みなんだから、一緒にたくさん遊ぼうよ」
「……」
その"苦しい受験勉強の時間"の大半を、俺は「勉強ができるから」という理由で一緒に過ごせなかった気がするのだが。
視線を向けると、サクラはさっと顔を逸らして、ごまかすみたいに笑った。
「……そのことは謝ったんだから、いいでしょ」
俺は溜め息をついた。べつに本気で咎めたいわけでもないんだけど。
「急に避けられて、俺がどんな気持ちで毎晩勉強してたと思ってるんだよ」
「だから、そのことは謝ったってば」
開き直るみたいなサクラの声に、ユキトが声をあげて笑った。
◇
「それはさておき」、とサクラは真顔で話を戻した。
「夏休みの話。ふたりとも、暇?」
「暇だよ」
ユキトは躊躇なく答えた。
「部活もサボるつもりだったし」
俺は呆れて溜め息をついた。
「ユキト、最近サボりすぎじゃない?」
「……え、そう?」
「部長、けっこう気にしてるみたいだよ」
「自分としては、けっこう出てたつもりだったんだけど」
「まあ、どうでもいいけど、休み中も多少は顔出した方いいよ」
「部活中寝てばっかりのヒメに言われてもな……」
寝てばっかりなんだ、と、斜め後ろで妹が呆れた声音で呟くのが聞こえた。
「部活の話はともかく」と、サクラが強い調子で話を区切った。
ちょっと前までぼんやりした感じだったのに、最近の喋り方はやけに活力に満ちている。
また三人で登下校するようになってから、だろうか? よく思い出せない。
「ともかく、夏休みの話。わたしは、たくさん遊びたいの」
サクラは胸の前でぐっと握り拳をつくった。
「プールに行ったり、バーベキューしたり、海にいったり、花火をしたりしたいの」
「……すればいいだろ」
俺の声に、サクラはちょっとむっとした様子だった。
「ヒメ、最近わたしに冷たい」
俺は溜め息をついた。彼女は五年くらい前から、同じ台詞を何度も言い続けている気がする。
「やっぱり、彼女ができたから?」
サクラは不機嫌そうに質問をぶつけてくる。ユキトが「え? 彼女できたの?」と大袈裟に目を見開く。
何気なく妹の方に目を向けると、「そんな話は聞いていません」と言いたげな視線で俺を見ていた。
……もし本当に彼女ができたとしても、妹に教える義務はないはずなのだが。
「彼女じゃないって、五回くらい言ったよ」
「でも、仲良さそうだったし。毎日みたいに会ってるんでしょ?」
「おまえとだって毎日みたいに話してるけど、べつに付き合ってるわけじゃないだろ」
俺の言葉に、サクラはちょっと戸惑ったみたいに視線を揺らした。
「わたしの場合は、あれだよ」
「どれ?」
「……ウェスターマーク効果、みたいな?」
「それ、仮説ですよ」と、なぜか妹が真剣な顔で口を挟む。
サクラは虚を突かれておろおろしていた。
◇
「実際問題、付き合ってないの?」
サクラはやけにしつこくそのことを気にした。
「付き合ってないし、そもそも、今はもう会ってない」
「……どうして?」
「……」
告白されて、逃げられて、それ以来顔を合わせていない、と言ったら、話が変な方向に進みそうだ。
「それにしても、今日は暑いね」
俺があからさまに話を逸らすと、サクラはじとっとした目でこちらを見つめた。
「だなー」とユキトは相槌を打ってくれる。ほんわかした彼の性格には、こういうとき助けられる。
ふと視線を感じて振り返ると、妹もまたこちらを疑わしげに眺めていた。
俺は視線を空に逃がす。夏の青空は低くて近い。
◇
教室につくと、タイタンが俺の席に座って窓の外をぼんやりと眺めていた。
透明なガラス越しに、彼は外の世界を眺めている。
鳥が飛んでいる。木々がざわめいている。太陽の灼熱。土色に光るグラウンド。
すべてがガラス越しの。
タイタンは鬱陶しげに額の汗をぬぐった。
「おはよう」と俺が声を掛けると、「おはよう」と彼も返事をしてくれた。
ユキトとサクラの席は離れているから、彼らはそちらに鞄を置きにいく。
暑さのせいだろうか、タイタンの表情はいつもより気だるげだ。
……あるいは、眠いのだろうか?
「どうした?」
訊ねると、彼は「ああ、うん」と曖昧に頷く。それからしばらく黙り込んでしまった。
俺は机に鞄を置く。そのまま手持無沙汰に立ち尽くした。
たっぷり十五秒の沈黙の後、声が掛けられる。
「ヒメ、最近、図書室に行った?」
「図書室?」
「うん」
「……いや」
行った、だろうか?
……行っていない、ような気がする。
妙に気になって、俺は鞄の中身を探る。
『ぼくらはそれでも肉を食う』。
……こんな本、借りたっけ? でも、たしかに図書室の本だ。
「たぶん、行ったみたいだ」
俺はそんなふうに、曖昧に答えた。奇妙な返事だったけれど、彼は気にしなかったらしい。
「そっか」
「図書室がどうかした?」
「司書さんの様子がおかしいんだよ」
「おかしい?」
「うん」
彼は真面目な顔で頷く。そしてまた視線を窓の外に向けた。
何を見ているんだろう? 何も見ていないのかもしれない。窓を見ているのかもしれない。
「ちょっと落ち込んでるみたいだ」
「ふうん。心配だな」
タイタンは胡散臭そうな顔で俺の方をちらりと見た。
「何、その顔」
「ヒメの口から"心配"なんて言葉が出てくると、ちょっと不安になる」
人をなんだと思っているんだ。俺だって、普通に人を心配したりする。
「まあ、落ち込むことくらい誰にだってあると思うけど……昼休みにでも、顔出してみるか」
俺の言葉に、タイタンは何気ないふうに頷く。
それから、ちょっと怪訝げな顔をして、またこちらを見た。
「今日のヒメは、変だな」
「どこが?」
「普段なら、もっとどうでもよさそうな顔してる」
「そんなことないだろ」
「あると思う」
「……おまえ、俺をなんだと思ってるんだよ」
「情緒的ニート」とタイタンは笑いもせずに言う。
◇
昼休み、本を返しにいくために教室を出ようとしたところで、サクラに声を掛けられる。
「ヒメ、どこ行くの?」
「図書室」
「お弁当食べてからにしたら?」
彼女は自分の巾着を掲げて指で示した。俺は肩をすくめる。
「後にする。返すの忘れそうだし」
「じゃあ、待ってるから早く戻ってきて」
「二人で食べてなよ」
「なんで?」
なんで? と。
本当に不思議そうにサクラが首を傾げるものだから、俺はなんだか、不安になった。
その光景。俺をまっすぐに見て、堂々と話しかけてくるサクラの姿。
逃げるみたいに背を向けて、教室を出ようとしたところで、誰かにぶつかった。
「あ、ごめん」
謝ってから、相手の顔を見る。
残像。
幻聴。
景色が歪む。蘇りそうになった記憶の予感に、俺の中の何かが蓋をした。
ぶつかった女の子は、体勢を崩したり、転んだりはしなかったようだった。
俺は少しほっとしてから、もう一度謝る。
「悪い。前見てなかった」
「いや、こっちこそ、ごめん」
女の子は謝った。何を謝ったのかは、よく分からなかった。
教室に入りたいのかと思って、入口から少し体をずらしたけれど、彼女はそのまま立ち尽くしていた。
「入らないの?」
「あ……」
どうかしたのだろうか、こちらを見て、黙り込んでしまった。
見覚えのあるクラスメイト。何度か話したことだってある。
名前だって、ちゃんと……覚えている、はずだ。
彼女はもう一度「ごめん」と言うと、目を逸らして、教室の中にぱたぱたと入っていく。
俺はその姿を見送ってから、溜め息をついて教室を出る。
どうにもクラスで浮いているような気がした。
◇
「なんだか久しぶりだね?」と、司書さんは言った。
「そうでしたっけ?」と俺は問い返す。
「そんな気がする」
彼女は貸出カウンターの内側でパイプ椅子に腰かけて休んでいた。
俺は本を差し出して返却を申し出る。司書さんは手続きをしながら口を開いた。
「今日は何か借りていくの?」
「……気分じゃないので」
「ふうん?」
ちょっと不思議そうな顔をしながら、彼女は本を受け取った。
彼女はどことなく疲れたような顔をしているように見えた。
「なにかありましたか?」
「え? どうして?」
「いや。疲れてるみたいだから」
「そんなことないよ。なんでかな」
彼女は本当になんでもないみたいに笑った。
昼休みが始まったばかりだからか、図書室には、まだ人の姿がない。
俺以外の利用者はいないようだった。
真昼の太陽が外を照らしているせいで、ただでさえ薄暗い図書室がいっそう影を帯びて見える。
廊下の向こうから騒々しい笑い声が聞こえた。誰かがどこかで笑っている。
でも、そのどこかは、ここではない。
静けさのせいで、世界を遠く感じる。こういう気分だって、べつにきらいってわけでもないけど。
なんとなく寂しそうだった。
「きみは……」
司書さんは口を開いた。俺は黙って続きを待った。
彼女は、けれど、思い直すみたいに首を振って、自嘲気味に笑った。
「ごめんなさい。何か、言いたいことがあったはずなんだけど……」
思い出せないや、と小さな子供みたいに笑った。
俺も合わせて笑うべきだったかもしれないけど、それはなんとなく嫌だった。
それから、ふと、思いついたように、彼女はもういちど口を開く。
「ねえ、きみは、この世界についてどう思う?」
「……は?」
ずいぶん抽象的な問いかけ。
「どういう意味ですか?」
「つまり、この世界」
「……さあ。他の世界を知らないもので」
彼女はちょっと目を細めて、俺の顔をじっと見つめた。
どういう意味だ?
「変って、感じない?」
「……変?」
「つまり、同じことを何度も繰り返してるような感じ」
俺には彼女の言いたいことが分かりかけたような気がしたけれど、その感覚は具体的な言葉になる前に封じ込められた。
押さえつけられている。
「同じ日々。でも、どこか違う。そんなふうに、何度も繰り返されている気がする。錯覚かもしれない」
「……なにかの、本の話ですか?」
彼女は苦笑した。今度は俺も合わせて笑った。ごまかすみたいに。
廊下の向こうから誰かの話し声が聞こえる。ざわめきを、遠くに感じる。
「もし繰り返されているとしたら、それはわたしのせいなのかもしれない」
「……どういう意味ですか?」
「わたしね、もうすぐプロポーズされるのよ」
「……はあ」
「でも、たぶん、わたしは幸せになっちゃいけないんだ。だから、"その先"に進めなくなっちゃったの。
たぶん、そうだと思う。わたしは幸せになっちゃいけない。それを忘れてたから、怒られてるんだ。きっと」
「……何の話ですか?」
「中絶経験があるのよ」と司書さんは言った。
「何もなかったみたいに自分だけが幸せになろうだなんて、無理な話だったんだよね。
だから、幸せになる手前で、何度も引き離されてるんだ。そのことを、わたしに思い出させようとしてたんだよ」
俺は答えられなかった。違う、と言いたかった。そうじゃない、と。
でもそう言いきれるだけの根拠を俺は持っていない。だから俺は……。
「何かの勘違いじゃないんですか?」
何も知らないようなふりをして笑い飛ばした。
"知っている"ことを思い出そうとすると、記憶に蓋がされる。反射みたいに。
◇
図書室からの帰り道の途中で、廊下の喧噪を耳にしたとき、俺はほっとした。
ざわめきが近くにやってくる。現実感。他者の存在感。そういうものが現れる。
他者を実感するとき、世界はたしかにそこに存在する。
司書さんと二人きりの図書室は、現実感に乏しくて、隔絶されているような気がした。
箱の中にいるような。
校舎のざわめきも、蝉の鳴き声も、太陽の光もすべてを遠く感じる場所。
地上から飛行機を見上げるような。
俺はそんな場所にもう戻りたくない。
◇
教室に戻ると、サクラとユキトは俺のことを待っていた。
こちらに気付くと声をあげて手招きしてくる。周囲の視線がこちらに集まる。
正直困る。
教室にタイタンはいなかった。図書室に行く途中もすれ違わなかったけど、いったいどこにいるんだろう。
彼の行動はいつもよく分からない。彼にとっては俺だってそうかもしれないけど。
俺が近付くと、ふたりは「遅い」と不満げな声をあげた。
サクラとユキトの席と、それから俺は近くの空いていた席を借りて、弁当を広げる。
「ヒメはどうして本が好きなの?」
弁当をつつきながら、サクラは呆れたような調子でそう訊ねてきた。
「どうしてって?」
「つまんないでしょ、本なんて読んでも」
どうだろうね、と俺は曖昧に答えた。感じ方の問題だ。
俺が答えずにいると、サクラは「よくわからない」という顔で食べるのに集中し始めた。
サクラとユキトはそれからいくつかの話題を机の上に広げた。
俺はそれらにことごとく触れることができなかった。
財布に入っている金じゃ買えないものばかり置かれている服屋みたいだ。
でも俺はあまり気にしないことにした。
一緒にいる友人の財布に金が入っている。
俺には買えないかもしれないが、ここにいてはいけないわけじゃない。
べつに悪いことをしてるわけじゃない。
◇
昼食を取り終えてそのまま雑談していると(俺はほとんど黙っていたけど)、声が掛けられた。
誰だろうと思って三人そろって声の方を振り返ると、クラスメイトが立っていた。
さっきぶつかった女の子。
「ごめんね、話してる途中で声かけて」
と彼女は言った。
「どうしたの?」と訊ねたのはサクラだった。俺とユキトは黙って成り行きを見守る。
「こないだのお礼言っとこうと思って。ほら、先週、自転車の鍵探すの手伝ってもらったでしょ?」
ああ、とユキトは頷いた。サクラも頷いた。
俺は思い出せなかった。そんなことしたっけか。
でも、したような気がする。「した」と言われれば。「した」ような気がする。
「ありがとね、ホントに」
女の子は言う。サクラは頷く。
「いいよべつに、お礼なんて」
それからサクラは、ちらりと、俺とユキトの方に目を向けた。
「うん。でもホントに助かったからさ。だから、はい」
と言って、彼女はポケットから飴を取り出した。
「お礼」
彼女が差し出したチュッパチャップスを、サクラは遠慮がちに受け取った。
「はい、二人も」
いいよ、と断れる雰囲気でもなかった。
「ありがとね」
と彼女はもう一度言う。サクラが受け取ったのはコーラ味だった。ユキトがプリン味。俺はグレープ。
◇
そんなふうに昼休みは過ぎていった。
満腹になったせいか、午後の授業は眠くて仕方ない。
妹の弁当は美味しかったなあ、と俺は思い出した。
昼過ぎの日差しはまぶしくて、窓際の席では目を開けていられない。
誰かがカーテンを閉める。教室が薄暗くなる。俺は眠くなる。
教師の念仏。もわもわという熱気。誰かが窓を開ける。風も吹きこまない。
チョークの擦れる音、時計の分針の進みがやけに遅く感じる。
頭が重い。
ノートの上に頬杖をつき、机に開いた穴をぼんやりと見つめる。
シャープペンの先を使って、コツコツとその穴をつついてみる。別に意味があるわけでもない。
瞼が重い。今度は手の甲をシャープペンでつついてみた。
痛みでは目は覚めない。
◇
放課後、俺が鞄を持って立ち上がると、ユキトが声を掛けてきた。
「ヒメ、帰ろう」
サクラは? と訊ねると、あいつは部活だから、とすぐに答えてくれた。俺は溜め息をつく。
「俺も部活」
「出るの?」
「おまえも、部活は?」
彼はちょっと困った顔で頬を掻いた。
「文芸部の空気、苦手なんだよ、俺」
「なんで入ったんだよ」
「そりゃ、ヒメが入ったからだよ。二人ともどうせ帰宅部だと思って油断してたら、どっちも部活に入っちゃうんだもん」
「なんだよ、それ。……とにかく、おまえは出ないの?」
んー、と唸りながら腕を組み、しばらく悩んでいたようだったが、結局彼は首を横に振った。
「今日は帰る」
「用事あるの?」
「まあ、べつにないけど」
「じゃあ、顔だけでも出せよ」
「えー?」
「俺も今日は長居しないから、そしたら一緒に帰れるだろ」
「うーん」
ユキトはまた、十秒くらい唸っていた。その後ようやく首を縦に振った。不承不承、というように。
◇
部室までの廊下を歩く途中で、ユキトはぼんやりと口を開いた。
「最近、サクラ、元気じゃない?」
「おまえもそう思う?」
そう返事をすると、うん、と彼は頷いた。
「やっぱり、ヒメが居なきゃダメなんだよ、サクラは」
「まさか」と俺は言った。言ってしまってから少し後悔した。
彼はそれきり黙り込んでしまった。
◇
部室に入ってすぐ、部長はユキトの存在に気付いたみたいだった。
それから彼女は柔らかに彼に話しかけた。
「久しぶりですね?」と。
皮肉と受け取ったのか、ユキトは苦笑していた。
俺はそのやりとりを横目に定位置に座る。部長は視線も寄越さなかった。
鞄を床に置いてパイプ椅子に腰かける。昼下がりの柔らかな風が開け放たれた窓から吹き込んでくる。
何かについて考えようかと思ったけど、何も思いつかなかった。
膨らむカーテン。
部長とユキトは入口で何かを話している。
声は聞こえない。
俺は退屈して、部室にいる部員の数を数えてみることにした。
俺とユキト、部長を含めて十三人だ。三年が四人、二年が五人、一年が四人。
男子が五人で女子が八人。身長順に並べたら誰がいちばん高いんだろう。
たぶん、一番前は部長だろうけど。
どうでもいいことを考えているうちに話を終えたらしく、ユキトは溜め息をつきながらこちらにやってきた。
「なんで先に行っちゃうんだよ?」
部長には聞こえない程度の声で、ユキトは言った。
「べつに話すこともなかったから」
本当は特に理由があってのことではなかった。気分だ。
「俺、苦手なんだよ」
「なにが?」
「部長。なんか、嫌われてる気がする」
「なんで?」
「分からないけど」
それから俺はリレー小説のノートを探したけど、見あたらなかった。
誰かが書き足しているのかもしれない。まあどうでもいい。
ふと窓際を見ると、部長がパイプ椅子の背もたれに体重を預けて本を読んでいた。
何の本だろう。何でもいいんだけど妙に気になった。
ふと、部長が顔をあげる。きょろきょろと辺りを見回す。誰かの視線に勘付いたみたいに。
小動物みたいな仕草。風が吹き込んで、部長の髪をさらさらと揺らした。
絵の中の景色みたいだ。
そのうち俺と部長の視線がかち合った。部長は目を丸くしてから「どうしたの?」というふうに微笑む。
俺は彼女の手元の本を指差した。
彼女は首を傾げてから、視線を本のページに落として、そのまま何かに気付いたみたいに本の表紙をこちらに向けた。
「自己評価の心理学」
部室でそんなもん読むな、と俺は思った。俺はたぶんげんなりした表情をしている。彼女は笑っていた。
部長から視線を外し、鞄からスポーツドリンクを取り出して口をつけた。
暑さのせいか、妙に喉が渇く。
初めの何分かは居心地悪そうにしていたユキトも、少しずつ馴れていったらしく、自然体になった。
実際、何かをしようとすれば簡単に馴染んでしまう奴ではあるけど、ここまであっさりリラックスされると、なんとなく腹が立ってくる。
ふと、何か思い出さなければならないことがある気がした。
でも、思い出せない。思い出せないなら、仕方ない。
もう一度部長の方に目を向けると、彼女は膝の上で再び本を開き、ページに視線を落としていた。
本の中身に関してはともかく、その姿はなんだか絵になる。
冒険小説に夢中になってる小さな子供みたいで。
そう見えただけだとしても。
◇
俺たちは結局、部活が終わる時間まで部室に残っていた。
久しぶりにユキトが部活に出たせいか、どうなのかは分からないけど、部長はいつもより上機嫌に見えた。
ユキトも、顔を出すのが面倒だったというだけで、実際に部室にいるのはそれほど苦でもなかったらしい。
「でも、やっぱりあの部の雰囲気、正直よく分からないんだよな」
「雰囲気って言えるほどのものもないだろ」
「なんか、みんな同じ場所にいるのに、やってることがバラバラだろ?」
「どこだってそうだろ」と俺は言った。
「そうでもないよ。サッカー部はサッカーをしてるし、野球部は野球をしてる。吹奏楽部は吹奏楽」
「ああ、そういう意味か」
「文芸部は、いったい何をしてるんだ?」
リレー小説。と俺は頭の中で答えた。
◇
校門を出る直前、ユキトの視線が前方のある一点で止まった。
視線を追いかけるとサクラが立っていた。こちらに気付くと、彼女は「やあ」と気だるげに笑った。
「やあ」と俺は手を挙げて返事をした。
ユキトはちょっと不思議そうな顔をする。
「……やあ、ってなに」
「ただの気分」とサクラは言った。
「じゃあ、帰ろっか」
彼女は当たり前みたいな顔で俺たちの横に並んだ。
「待ってたの?」とユキトが訊ねる。
「うん」、とサクラは頷く。
そんなありふれた光景の中、不意に激しい眩暈が俺の視界をぐるぐると掻きまわした。
それは一瞬のことだったけど、たしかに起こったことだ。
でも、誰も気付かなかった。サクラもユキトも。
おかげで二秒後には、自分自身でさえ錯覚だという気がしたくらいだ。
「なにしてるの、ヒメ。早く帰ろう?」
俺は呼吸を整えてから答えた。
「悪い。忘れてたけど、俺買い物してから帰らなきゃ」
「付き合おうか?」
「長くなるから、先に帰っててよ」
ユキトが、こちらの内心を覗き込もうとするような目を俺に向けていた。
気のせいかもしれない。
安心しろよ、と俺は心の中でユキトに言葉を向けた。
べつに遠慮してるわけじゃない。気を使ってるわけでもない。
◇
一人でスーパーに向かい、食材と日用雑貨を持てる分だけ購入した後、一人で帰路につく。
店を出たとき、携帯を開くと、妹からメールが届いていた。
「おにくたべたい」
ひらがなで七文字。肉食系女子を自称するのは伊達ではないということか。
「御意」
とだけ返信をして、俺は家路を急いだ。
特別なことなんて何も起こっていない、と俺は思った。
当たり前みたいな日々。劇的なことが起こるわけじゃない。つまらなくて死にそうだというわけでもない。
当たり前みたいな日々。続いていく。当たり前みたいに。
消費されていく。
◇
バスを降りて住宅地の間をとぼとぼ歩く。
遊具を失った公園のベンチに、女の子がひとり座っていた。
俺はその子に少し興味を引かれたけど、食材を家に運ぶ方が先決だった。
通り過ぎるとき、女の子と目が合った気がした。
そのとき何かを思い出しそうになったけどすぐに忘れることにした。
それでも女の子の目は俺を鋭く見つめていた。「思い出せ」というみたいに。
でも俺は思い出したくなんてなかった。そう思って目を逸らす。
そんな間抜けな仕草を見て、彼女が俺を笑ったような気がした。
◇
部活を終えて帰ってきた妹と、一緒に食事をとる。
要望通りに豚肉入りの野菜炒めを作ってやったのに、彼女は不満そうだった。
「おにくがたべたい、と書いたはずなんだけど」
「だから、肉入ってるだろ」
「でも、野菜炒めのメインは野菜だと思うの。お肉がメインじゃなきゃ、肉料理とは言えないと思うの」
「哲学的だなあ」
俺の受け答えが気に入らなかったのか、彼女はむすっとしたまま野菜炒めをつつきはじめる。
「どう?」
「……おいしい」
その一言だけでなんとなく救われてしまった。
幼稚園児が先生に貼ってもらう「たいへんよくできました」のシールみたいに。
シールをくれる人がいるというのは、ありがたいことだ。
◇
夕飯の後、妹とふたり、麦茶を啜りながら縁側で涼んでいると、不意に電話のベルが鳴った。
なんだろう、と思って立ち上がろうとすると、「わたしが出る」と言って妹が電話台へと走っていった。
俺はその背中を見送ってから、なんとなく空を見上げた。
うるさいくらいの星の瞬き。
夜風。
ふと、視界の端に赤い明滅。
飛行機だ。
飛行機は飛んで行く。
通り過ぎていく。
◇
ぱたぱたという足音。妹が後ろから声を掛けてくる。
なんだろうと視線を向けると、彼女は電話の子機を俺に差し出した。
「誰?」
「お姉ちゃん」
俺は立ちあがって受話器を受け取る。妹は縁側に座りなおしてぼんやりと空を眺めはじめた。
「もしもし」
「あ、ヒメ?」
サクラは当たり前みたいな声で俺のことを呼んだ。
「用事?」
「うん。そう」
「なんで携帯に掛けなかったの?」
「携帯に掛けたけど、出なかったから」
俺はポケットから携帯を取りだして画面を開いた。サイレントマナー。解除し忘れていた。
「……で、何の用事?」
「花火しない?」
「花火?」
「うん。うちにあったからさ。ユキトも一応誘おうと思ってたんだけど」
「……ふたりでやれば?」
「またそういう皮肉を言う」
サクラは電話口で呆れたみたいに溜め息をついた。
「呆れたみたいな」というニュアンスがしっかりと伝わってくる。
電話口なのに。すごい奴だ。感心する。
「三人でやらなきゃ意味がないでしょ?」
意味ってなんだ?
「悪いけど、妹いるから」
「じゃあ、誘ってみて」
俺がちらりと横目で見ると、自分の話題が出たせいか、妹はこちらを振り返っていた。
「花火やらないかって」
受話器を抑えて妹にそう声を掛けると、彼女は「はなび?」と意外そうな声をあげた。
「あるの?」
「らしいよ」
「やりたい」
そうですか、と俺は思った。
「やりたいってさ」
「じゃあ、公園に集合ね」
「……三人でやらなきゃ意味がないって言ってなかった?」
「三人そろってなきゃ、って意味」
なるほどなあ、と溜め息をつく。
◇
電話を切ってから、妹に準備をするように言って、自分もまた立ち上がる。
伸びをしてから夜空をもう一度見上げる。飛行機は見えなくなった。
準備を終えてから、二人で家を出る。街灯にたかる羽虫の影。
夜の街並みは月の灯りに蒼白く照らされて、まるで海の底みたいだった。
公園には、既にサクラとユキトがやってきていた。
それから、もう一人。
帰っている途中で見かけた少女が、まだそこにはいた。
サクラと、何か話している。たぶん、気になって声を掛けたんだろう。
当たり前と言えば当たり前かもしれない。
サクラが俺たちの存在に気付くよりも先に、少女は俺に向かってにっこりと笑いかけてきた。
「こんばんは、お兄さん」なんて。
「……こんばんは」と俺は返事をした。その瞬間、俺は彼女のことを思い出した。
「あれ、ヒメ、知り合い?」
サクラは不思議そうに、俺と少女を交互に見た。
「まあ、ちょっとね」
俺は一瞬強い混乱の中に放り出されたけれど、それは本当に一瞬だけだった。
直後には、状況を把握していた。少女のことだってちゃんと思い出せた。
近頃公園でよく話す女の子。べつに何か特別なことを話すわけじゃない。
猫と一緒にいるのを見かけて、声を掛けた。くだらない雑談をするようになった。それだけの関係。
それ以外には、何もないはずだ。
「帰らなくて平気なの?」
サクラは、真剣な表情で少女にそう問いかける。
「ないから」と、少女は言った。
「……ないって?」
「帰る場所なんて、ないから」
サクラはちょっと面食らった様子で、俺とユキトに助けを求めるような視線を向けてきた。
「家出かな?」とでも言いたげな顔。ユキトも戸惑っている。
「ヒメ、知り合いなんでしょ?」
「顔見知りってだけだよ」
「猫友達だね」
少女はちょっと楽しそうな声で言った。
不意に、ポケットの中の携帯が震えた。
取り出してディスプレイを覗くと、タイタンからの電話だった。
他の四人から距離をとって、俺は電話に出た。
「もしもし」
「ヒメか?」
どいつもこいつも、電話に出るなりすぐ話を始める。
「タイタン?」
「うん。ちょっと、話したいことがあるんだ」
「今?」
「うん。できれば、今夜。そんなに時間はないらしいから」
「……時間?」
「知りたいことがあるんだ。今から会えないか?」
「知りたいこと?」
「今から、おまえの家に行っていいか?」
「今から? あ、いや。今は……」
「出先か?」
「公園にいる」
「なんで公園なんかに?」
「花火だよ。サクラに誘われて」
「公園って、おまえの家の近くのか?」
「そう」
「なら、俺も行っていいか?」
「でも、おまえの家からじゃ遠いだろ」
「実は、今おまえんちの近くにいるんだ。別の用事だったんだけど」
「……ちょっと待って」
サクラの方を見ると、彼女は少女と向かい合って何か話をしていた。
どちらも笑っているように見える。
「サクラ、タイタンからの電話だったんだけどさ」
「どうしたの?」
「あいつも花火したいって」
「いいよ。たくさんあるから呼んじゃっても」
俺は溜め息をついた。少女が悪戯っぽい瞳でこちらを見たのが分かった。
何を考えているんだろう。
携帯を耳に当て、タイタンに声を掛ける。
「来ていいらしいよ」
「じゃあ、今から向かう。すぐにつくと思う」
「今、どこにいるの?」
「ファミレス」
◇
タイタンは本当にすぐに来た。
サクラ、ユキト、タイタン、それから俺と妹に、もう一人女の子も加わった計六名。
タイタンの表情はよく分からなかった。何の感情も伝わってこなかった。
無愛想というのでもない。落ち込んでいるというわけでもなさそうだ。
ただ、浮かべるべき表情がすっぽりと抜け落ちてしまっているみたいな。
何はともあれ、サクラの合図で俺たちは花火を始めた。
「住宅地だから、あんまり騒がないようにね」
俺たちはそれぞれに頷いて、花火の袋を開き、手持ち花火をそれぞれに受け取った。
マッチでロウソクに火をつけた。サクラはペットボトルに入れた水まで用意していた。
毎年毎年、似たような花火をやっているはずなのだ。
緑に変わったり赤に変わったりする手持ち花火。
蛍みたいな光の束が、音と煙をあげて弾けていく。
独特の匂いと音が辺りに広がっていく。
妹とサクラは一緒になって、次々と花火に火をつけていく。
どっちもほとんどしゃべりもしないで熱中してはしゃいでいた。
俺とユキトはその様子をぼんやり眺めながら、自分たちも花火を始めたけれど、なんとなく興が乗らない。
タイタンは心ここにあらずという様子でぼんやりと花火を始めた。
なんとも連帯感がない。ばらばらだ。
一番意外だったのは、予想外の客だった、公園の女の子。
いつも落ち着いていて、ほとんど感情の起伏を外に表さない女の子。
彼女はしゃがみ込んで、自分の手に握られた花火が光を放つのを、珍しそうに眺めていた。
きらきらとした表情。驚いたような。嬉しそうな。楽しそうな。
錯覚かもしれないけど、本当に楽しそうに見えた。
だから俺は、訊いてみた。
「楽しい?」と。
その瞬間、彼女は魔法が解けたみたいに表情を変えた。俺は後悔した。
「べつに」と彼女はそっぽを向いた。
「たくさんあるから、どんどんやるといいよ」
「楽しいわけじゃないってば」
「どっちにしても、全部終わるまでは帰れないんだ。サクラはそういう奴だから」
「……」
「だから、きみも終わらせるのに協力してくれよ」
彼女は不思議そうな顔をしていた。
何を言っていいのか分からない、というような。
「花火を最後にやったのは、いつ?」
別に理由があったわけじゃないけど、そう訊ねてみた。
少女は苦しげに笑った。
いつもは、器用に笑っているのに。
今日の彼女は、苦しげに笑う。
「ずっと昔。もう思い出せないくらい」
「そう。じゃあ、久しぶりの花火ってわけだ」
「そうなるかな」
「どんな気持ち?」
どうせまともな返事はもらえないだろうと思って訊ねたのに、彼女は真剣に考え込んでしまった。
その言葉が、どこか心の深い部分に触れたみたいに。
彼女はすごく真剣そうな顔で、その言葉について考え始めた。
「楽しいね」
と、彼女はつまらなさそうに言った。
「べつに、無理に楽しまなくても平気だよ」
俺は気遣うつもりでそう言った。彼女は首を横に振る。
「本当に楽しいんだよ。とてもね」
彼女は花火から視線を離して、サクラと妹がいる方を眺めた。
花火を手に、ふたりははしゃいでいた。騒ぐなって言っていた張本人が、一番騒いでいる。
光の束を指先から放ちながら、ふたりは火花の中で踊ってるみたいに見えた。
とても楽しそうに。嬉しそうに。この世が楽しくてしかたないみたいに。
「とっても、楽しいよ」
なぜだろう。少女は二人の姿を、羨ましそうな目で見ているような気がした。
羨ましそうな、というよりは、むしろ、妬ましそうな、と言えそうなくらい。
それから彼女は俺の方を見て、照れくさそうに笑った。悲しそうな笑い方だった。
彼女は屈みこんだまま、再び視線を手元の花火の方に落とす。
「楽しい分だけ、つらいかな」
「どうして?」
「分からない?」
ふと、彼女の目の端から、雫が落ちたように見えた。
気のせいかもしれない。煙と光に邪魔されて、その表情はよく分からなかった。
「それが手に入らないって、分かってるからだよ」
俺はなにも言わなかった。
「手が届かないものほど、眩しくて、羨ましくて、でも、手に入らないから」
眩しいもの。
手が届かないもの。
俺は急に、悲しくなった。どうしてかは分からないけど、とにかく、悲しくなった。
少女が泣いている。俺はその事実が悲しくてしかたなかった。理由も分からないくせに。
◇
花火が尽きた。シメの線香花火まで終わってしまった。
人数のせいもあるだろうけど、尋常じゃない量なのにあっというまだった。
サクラとユキトは満足そうな顔をしていた。妹は物足りなさそうな顔をしていた。
タイタンは、ずっとぼんやりした様子だった。
女の子は、ごく当たり前みたいに笑いながら、サクラにお礼を言っていた。
「約束だから、これからちゃんと家に帰るんだよ?」
当たり前のように加わっていると思ったら、ひそかにそんな取決めをしていたらしかった。
「うん、ありがとう」と女の子は大人びた表情で笑った。
嘘みたいな笑顔。
後片付けを済ませた後、サクラとユキトははしゃいだ様子で帰っていった。
帰らないの、と訊ねられたけれど、タイタンと話があるから、と答えると、奇妙そうな顔でこちらを見ていた。
サクラはちらりと少女を見てから、俺に目配せをして、そのまま公園を出て行った。
妹にも先に帰るように言うと、彼女は他の二人と並んで家路についてくれた。
物わかりのいい家族で非常に助かる。
残ったのは、俺と、タイタン、それから例の女の子だった。
「子供って損だね」と、サクラの背中を見送りながら、彼女は呟いた。
「どうして?」
「誰も信じてくれない。わたしには本当に帰る場所がないのに」
俺は答えられなかった。タイタンもまた、困ったような顔をしていた。
「本当に帰る場所がないの?」
「うん」
言葉を信じるにしても、信じないにしても、タイタンは彼女が去るのを待っていた。
でも、俺には、さっき見た彼女の泣き顔が忘れられない。
今はもう、何事もなかったような顔をしているのに。
「……タイタン、話って何?」
訊ねると、彼は戸惑ったように少女の方を見た。
「この子のいる前じゃ……」
「わたしがいた方が話が早く済むのに」
少女は当たり前のように言う。
俺とタイタンは顔を見合わせる。笑い飛ばせたはずなのに、なんとなく気味が悪かった。
「ねえ、『エスター』って映画、知ってる?」
女の子は綺麗に笑ってそう訊ねてきた。
俺はその映画の内容を知っていたけど、目の前の少女の口からそのタイトルが出たことに違和感を覚えた。
「帰る場所がないとしても、俺たちにはどうしようもないんだよ」
タイタンはそう言った。
「放っておくか、警察でも呼ぶしかないんだ。君とこんな時間に話していたら、むしろ俺たちが通報されかねない」
「世知辛いね」
「世知辛いんだよ」
少女は少し笑った。タイタンも合わせるみたいに笑った。すると彼女は笑顔を崩してこう言った。
「いいから話を始めたら?」
タイタンは呆気にとられて少女の顔を見返す。
俺は仕方なく溜め息をついた。
「タイタン、俺の家に行くか?」
「でも……」
タイタンは少女の方をちらりと見た。放ってはおけない、と思ってはいるんだろう。
「なあ、きみ、帰る場所がないんだろ?」
「きみじゃなくて、シロ」
俺は少し戸惑ったけれど、その呼び名を使うことにした。
「シロ、帰る場所がないのか?」
「そうだよ」
「今夜はどうするんだ?」
「どうしようかな」
「普段はどうしてるんだ?」
「いろいろ。野宿したり、誰か親切な人が現れるのを待ったり……」
「親切な人?」
「うん。ときどき、声を掛けてくれるんだよ。このあたりだとなかなかいないけど、街中だとね。
ご飯を食べさせてくれて、寝る場所も用意してくれる」
俺は少し嫌な想像をしたけれど、まさか『そんなこと』が身の回りで起きるなんて本気で思ったりはしなかった。
ましてや彼女は小学生くらいに見えた。
彼女はじっと俺の方を見上げている。
『エスター』。
まともに受け止めるのが難しい映画だった。あれはホラーだったんだろうか。
主人公と少女という対立。映画の中では、主人公が被害者であるかのように描写される。
主人公は「努力しているにも関わらず、報われない人物」として描かれている。
「少女」の方は、奇行ばかりの、得体の知れない、理解不能の少女として描かれる。
でも、おかしいのはむしろ主人公の方だった。
情報を正確に並べれば、それははっきりしている。
そしてその分だけ、主人公と対立する「少女」の言葉はきわめてまっとうに響く。
「少女」の過去の罪や、実際の悪行が伴わなければ、糾弾されるべきはむしろ主人公の方だったのだ。
だから、「主人公」ではなく「少女」の方に、俺は感情移入してしまった。
殺人者に恐怖よりもむしろ憐みを抱いてしまうホラー映画。
あの顛倒が意図的なものでなかったとしたら、やっつけ仕事にもほどがある。
憐れなエスター。
世界を呪い、憎み、誰にも受け入れられず、誰にも愛されず、誰にも理解されず、それでもぬくもりを求めていた。
「帰る場所がないんだろ」
と、俺はもう一度シロにそう声を掛けた。
「だったら、俺の家に泊まるか?」
おい、とタイタンが慌てたような声をあげた。
「誘拐で捕まるぞ」
「そのときはそのときだよ」、と俺は言った。
「朝までここにいるわけにもいかない。放っておくわけにもいかない。本人には帰れる場所がない」
「嘘かもしれないだろ」
「少なくとも帰る気はなさそうだ」
「でも、だからって、俺たちがどうこうするのは話が違う」
「じゃあ、おまえが警察を呼べばいい」
タイタンは、その言葉に怯んだみたいだった。
どうして、こんな事態になったのかは分からない。
泣き顔を見てしまったから、なんて話じゃなくて。
「放っておけない。……放っておくわけにはいかない」
シロの方をちらりと見遣ると、彼女は戸惑ったような顔をしていた。
「なんだか変な流れになってしまった」というふうな。
現に、こんなことを言った。
「わたしとしては、べつに放っておいてもらってかまわないんだけど」
「そういうわけにもいかない」と俺は即座に否定した。
「……帰るって、嘘つけばよかった。子供って不便」
彼女は不服げに唇をとがらせている。
まあいいか、おもしろそうだし、と彼女は小さく呟いた。
俺はシロを家に連れ帰ることにした。
彼女の言葉が嘘だと思えなかった。
仮に嘘で、本当は彼女に帰る場所があったとするなら、それはそれでかまわなかった。
でも、もし本当だったなら、彼女を放置できない。見て見ぬふりはできない。
タイタンは最後まで不服そうな顔をしていた。
俺たちは三人並んで歩いたが、その間喋っていたのはシロだけだった。
俺は彼女の歩く姿を見ながら、何かを思い出しそうになっていた。
何かを忘れているような感覚が、頭の中でじくじくと痛み続けていた。
◇
家の灯りはついていなかった。
俺は怪訝に思いながらも玄関に入り、「ただいま」と声をあげた。
二人は俺に続いて玄関で靴を脱いだ。
玄関に妹の靴はなかった。
怪訝に思いながらもリビングに向かう。灯りをつけるが、外出する前と部屋の様子は変わらなかった。
妹はまだ帰ってきていないんだろうか。
「泊めるっていったって、どうする気だよ」
タイタンはまだそのことにこだわっていた。
「風呂と寝床を貸して、食べ物を食わせる」
「それで明日になったら放り出すのか?」
俺はとっさに答えられなかった。
「いつまでもこの家で預かっていられるわけでもないし、預かるべきでもないだろ。
帰る場所がないんだったら警察に任せた方が早い」
「そりゃあね」
「泊めるなんて、本気で言ってるのかよ。捨て猫を家に置くのとはわけが違うんだぞ」
「どこが違う?」と俺は訊ね返したが、負け惜しみみたいなものだった。
タイタンは首を横に振って苛立たしげに溜め息をついた。
「最後まで責任を持てないなら、最初から距離を保つべきだって俺は思う」
「心配しなくても、明日の朝には出て行くよ」、とシロは言った。
「なんなら警察を呼んでくれてもいいよ。ややこしいことになる前に、逃げさせてもらうけど」
タイタンは諦めたように溜め息をついた。貧乏くじを引いたような気がしたのかもしれない。
◇
妹の携帯に電話を掛けてみたけれど、留守電に繋がった。
たぶんコンビニかどこかに出掛けているんだろうと思い、とりあえずは気にしないことにした。
俺はとりあえず二人をリビングにあげた。
「腹減ってる?」
俺は二人にそう問いかけた。タイタンは首を横に振った。そういえばファミレスにいたんだっけ。
「とても」とシロが答えた。
「じゃあ、何か作るから」
「ありがとう」とシロはにっこりと笑う。
俺は冷蔵庫の中身を軽く漁り、何か食べられるものがないかを確認する。
買い物をしてきたから、一応食材はあるにはあった。
「何が食べたい?」
「なんでもいいよ」
シロはまたにっこりと笑う。
「じゃあ、カップラーメンでいい?」
「食べられるものなら、なんでも」
冗談のつもりで訊いたのに、シロはまったく頓着しないようだった。
本当は空腹でもないのかもしれない。
なんとなく毒気を抜かれて、そのままお湯を沸かしてカップラーメンを出すことにした。
「風呂沸かすから、それ食ったら入りなよ。あとは和室に布団敷くから」
「ありがとう」
遠慮とか、気兼ねとか、そういう言葉とは無縁そうな、どうでもよさそうな顔。
別になんだっていいけれど、というふうな。
寝間着はどうするか、と思った。
本当は妹が前に使ってた奴でも貸してやろうと勝手に思っていたのに、本人がいない。
本当にどこにいってしまったんだろう。
シロは勝手にリビングのテレビをつけてバラエティを見始めた。
テレビの中の騒ぎと反比例して室内は静まり返っていく。
まるで自分の家みたいに、シロはくつろいでいた。
彼女は三分待ってカップヌードルの蓋を剥がした。
割り箸を割って「いただきます」と手を合わせてから、ちらりとこちらを見る。
俺とタイタンの視線に気付くと、彼女は「どうぞ」という顔をした。
「……それで、タイタン。話って?」
「この子の前では……」
「あんまり気にしないで。置物みたいなものだと思ってくれて構わないから」
タイタンは溜め息をついてから、結局話し始めた。
「今日、司書さんと話してきたんだよ」
「いつ?」
「さっき」
「さっきって、ファミレスで?」
「ああ。……勘違いするなよ。別に変な意味があったわけじゃない」
変な意味というのが思いつかなかったけれど、俺は頷いた。
「かなり様子が変だったから」
……たしかに、変だった。
「世界が繰り返されてるって言ってた」
タイタンが司書さんから聞かされたという話は、俺が聞かされたものとほとんど同じようだった。
「世界が、何度も繰り返されていて、それは司書さんのせいなんだって言ってた。どう思う?」
「ゆっくり休んでもらうしかないと思うけど」
「俺もそう思った。でも、嘘とは思えない」
「どうして?」
「真剣な顔をしていたから」
なるほどね、と俺は思った。根拠にならない。
もちろん、俺だって、まるっきりの嘘だと思っているわけじゃない。
常識的に考えたら馬鹿げているけど、俺はその話を信じてもいた。
でも、それについてまともに考えたくない。なぜか分からないけど。
不意にテレビの音が消えた。
「あの女の人のせいじゃないよ」
と言ったのはシロだった。
俺とタイタンは顔を見合わせた。
「何の話?」
「だから、世界の話でしょ?」
カップラーメンを食べきって、ソファの背もたれに体を預けたまま、シロは満足げな表情をしている。
「繰り返してるのはあの女の人のせいじゃない。あの人は覚えてるだけ」
「……悪いんだけど、今真面目な話をしてるんだよ」
タイタンは少し苛立った声でシロを諌めた。シロは呆れたみたいに溜め息をついて、話を続ける。
「繰り返してるのは、別の人のせい。少しずつ違うのは……」
タイタンは溜め息をついてから俺の方を睨んだ。
シロもまた、まっすぐ俺の方を見た。
沈黙。
「シロは、何か知ってる?」
俺はそう訊ねた。タイタンは怪訝げな目を俺に向ける。
「もちろん」、と彼女は頷いた。たいしたことじゃない、というような顔で。
「どうしてそんなことを知ってる?」
「どうしてって、わたしがそうしたから」
「……シロが?」
「ねえ、この話、前にもしたよ?」
「前……?」
「だから、前の世界でも」
「何を言ってるんだ?」
タイタンは腹を立てたみたいに声を荒げたけど、俺は咄嗟に反応できなかった。
光の奔流。
情報が頭の中を飛び交い、連結される。
弾ける火花。暗闇。
耳鳴りと眩暈。
クラクションと血だまり。赤い明滅。
誰かが俺の手を握っていた。
でも、俺は思い出さなかった。
ぎりぎりのところで、蓋を閉じた。
「どうしたの、お兄さん」
シロはにっこりと笑う。
俺は今、何かを見た。
とにかく、とタイタンは苛立たしげに声をあげた。
「世界は繰り返されているって、司書さんは言ってたんだ」
頭痛が、かすかに残っている。俺は少し怖くなって、
「それで?」
と訊ね返す。続きを聞きたいわけじゃなかったのに。
「……ヒメ、おまえ、何か知ってるんじゃないのか」
「何かって?」
「司書さんが言ってたんだよ。彼女は繰り返しの記憶を、部分部分持っているらしいんだ。
それで、他の出来事はだいたい変わらないのに……おまえの周りだけ、毎回様子が違うらしいんだ」
俺は首を横に振った。そんな話、俺は知らない。
「おまえ、何か知ってるんじゃないのか?」
「……何の話だよ」
「もし、知ってるとしたら、教えてほしいんだ。本当なのかどうかは分からない。
でも、司書さんは苦しんでるみたいなんだ。もしそれが事実だとしたら、俺はそれをどうにかしたい」
「……」
「ヒメ、何か、知らないか?」
「知ってるよね?」
とシロは口を挟んだ。タイタンは眉をひそめる。俺の心臓が怯えたように跳ねる。
「お兄さんはもう知ってるはずだよ」
「……ヒメ?」
タイタンは、ようやく場の空気の変化に気付いた。
今この場を支配しているのは、俺でもタイタンでもなく、シロだ。
超越的な視線で、彼女は俺たちを見下している。
「お兄さんは、ちゃんと思い出したはず。忘れたふりをしてるだけで」
……シロが、何を言っているのか分からない。
「何を言っているのか、分からない?」
俺は息を呑んだ。
「それは、分からないふりをしてるだけだよ」
タイタンの、疑わしそうな視線。シロの、見下すような笑み。
俺は俯く。そして思う。俺はなにも知らない、と。
「うそつき」
そう、シロが呟いた。その瞬間、
「あ……」
鋭い痛みが、頭の中を暴れまわった。
――もし、なんでも願いが叶うって言われたら、どんなことを願う?
記憶。
"一回目"の、記憶。
「そんなに思い出したくないの? この世界が嘘のかたまりだってこと」
"見てみたい"、と俺は答えた。
"もっと別の、有り得たかもしれない可能性を、少しでいいから覗いてみたいんだ。"
焼けるような熱が、心臓の鼓動に呼応して激しく頭の中を暴れまわった。
強い光の明滅。全身にいくつもの太い管が通っていくような錯覚。
ふと気付いたとき、俺はリビングにいた。
シロとタイタンのふたりが、こちらを見ている。
「思い出した?」とシロは笑った。
思い出した、と俺は頭の中で答えた。
バカげた話だ。
「……忘れて、また繰り返してたのか、俺は」
「だって、お兄さん、前のときに、変なこと考えてたみたいだったから。
だから忘れさせてあげたの。せっかく叶えてあげた願いなんだから、思う存分楽しんでもらわないとね?」
俺は黙り込んだまま頷いた。また同じことを繰り返していたのだ、俺は。
それにしても、随分悪趣味だ。
「つまり、これも作り物で、本当じゃないってことか」
「そうだね。そういうことになるよ。あの二人は"一回目"ではお兄さんに話しかけたりしなかった。
花火に誘ったりしなかった。夏休みに遊ぶ約束もしなかった。登下校だってばらばらだった」
「ヒメ……?」
タイタンは、俺の態度の変化を怪訝に思っているようだった。
だとするなら、彼がここにいることも、俺の都合によって世界が書き換えられた結果……?
違うか。司書さんの記憶の影響だという気がする。
「惨めだね?」とシロは笑った。
俺は少し苛立ったけれど、それよりももっと気になることがあった。
「なあ、シロ。きみは、何を考えてるんだ?」
彼女は虚を突かれたみたいな真顔になった。
「なにって?」
「言っただろ、俺に対して、"もっと苦しめ"って。あれは、いったいどういう意味だったんだ?」
「……どういう意味って?」
「きみは、俺の願いを叶えたんだよな?」
「そうだね」
「きみは神様に与えられた力で、人の願いを叶える。そうだったよな?」
「うん」
真面目な顔で、シロは頷く。
「きみは願いを叶えることで、感情を蓄えるって言ってた。そうすることでできることが増えていくって。
でも、そうだとすると、きみはどうして俺の記憶を蘇らせたんだ?」
「退屈だから、って、言わなかったっけ」
「本当にそれだけ?」
彼女は押し黙った。
「きみは、人の願いを叶えることで力を溜めていくんだろ。
俺や、司書さんや、誰かも分からない他の人の願いを叶えた。
その願いが入り組んだ結果、きみたちも願いの中に"閉じ込められてしまった"。そう言ってた」
「よく覚えてるね。閉じ込められて退屈だったから、暇つぶしをしてたんだよ」
「本当に?」
彼女は苛立たしげに目を細めた。
「それ以上に何があるって言いたいの?」
「きみはこの世界の、繰り返しの中に閉じ込められている。それはきみたちにとって予想外のことだった。
でも、きみたちはこの世界の"繰り返し"をどうにかしようとはしていないようだった」
「……まあ、たしかに、どうにかしようとはしてなかったけどね」
シロは溜め息をついて、「そんなことよりココアが飲みたいんだけど」とちょっと横柄な口調で言った。
俺は立ち上がってカップを用意した。
タイタンは状況が飲み込めていないのだろう、ただじっと俺たちのやりとりに耳を傾けている。
「つまり、きみたちにとって、"繰り返し"は支障にならなかったんだ。
世界が繰り返されていようと、それが少しずつ変化していようと、きみたちには問題にならない」
シロは溜め息をついた。好きにしてくれ、というように。
肩をすくめた彼女の前に、俺はインスタントのココアを差し出す。
「たしかに、願い集めには支障がなかったかな」
「じゃあ、どうして暇つぶしが必要だったんだ?」
ああ、という顔を彼女はした。ようやく得心がいった、というふうに。
「何が言いたいのかと思ったら、その話」
「うん。つまり、暇つぶしをするまでもなく、願い集めとやらをすればよかったはずなんだ。
でも、きみはそうはしなかった。それどころか、一度叶えた願い……つまり俺に干渉した。
誰かにお願いされたわけでもないのに、俺の記憶を刺激して、俺に苦しめと言った」
彼女はココアに息を掛けて軽くさましてから、口をつけた。「それで?」というふうにこちらを見上げている。
「推測だけど、繰り返しの最中に、きみたちにとって想定外のことが起こったんじゃないのか」
「ねえ、そういうのは推測って言わないんだよ、お兄さん」
シロは平然と笑った。
「こじつけとか、思い込みって言うの」
「じゃあ、俺に苦しめと言ったのは、本当に暇つぶしか?」
「……そうだよ」
「違うな」と俺は言ったが、べつに確信があったわけじゃない。
「何が違うって言うの」とシロは少し焦ったように言った。
その態度自体を証拠にはできそうにもない。
「……いや、まあ、今のは言ってみたかっただけだけど」
「え?」
「だから、分かったようなふりをしてみたかっただけ。別に否定の根拠はない」
「……お兄さんって、バカだよね?」
「割とね」
俺はポケットから携帯を取り出してみた。妹からの連絡はない。いくらなんでも遅すぎる。
もう一度電話を掛けてみたけれど、やはり留守電に繋がった。
「なあ、シロ。きみが嘘をついているかどうかは、ひとまずいいんだ。
とりあえず今知りたいのは、どうすればこのループから抜け出せるかってことだ」
「……"ぬけだす"?」と彼女は繰り返した。聞いたことのない虫の名前みたいな調子で。
「きみは言ってた。"繰り返しのついで"に、"世界を作り変えていた"って。
要するに、パラレルワールドなんかとは違うんだろ。この世界は唯一無二の世界で、でも、時間が巻き戻ってる。
その結果、何度も世界は"なかったこと"になってる。そのついでに、きみが微細な変化を加えてる」
「……うん。その認識であってる」
「その"巻き戻し"を止めるには、どうすればいいんだ?」
「……ねえ、どうしてわたしが、そんな質問に答えなきゃいけないの?」
「頼むよ」
「それは、お願い?」
「……そう、お願いだ」
「ねえ、わたし、言ったよね、お願いは……」
「これは、そういうお願いじゃなくて、猫友達に対する、個人的な"お願い"だ」
「……バカ?」
彼女はココアにもう一度口をつけてしまうと、目を合わせてくれなくなった。
今の言葉でどうにかしてくれるなんて、本当に思っていたわけではないけど。
「いったい、何の話をしてるんだ?」
タイタンは混乱した様子でそう訊ねてきた。俺は説明せずに、シロの方をじっと見つめる。
もう、これ以上繰り返すわけにはいかない。
「ねえ、お兄さん。どうして、繰り返しを止めたいの?」
「……きみがどんなふうに世界を作り変えているかは知らないけど……。
俺は、もうこれ以上、自分の都合に合わせた世界を楽しむなんてことには耐えられないんだ。
そんな世界を"現実"として受け入れることができないんだ」
これ以上は耐えられない。……そう考えてループを止めようとするのも、やっぱり自分の都合なのかもしれない。
でも、と俺はタイタンの方とちらりと見た。
この世界の繰り返しは、司書さんのせいじゃない。彼女に与えられた罰なんかじゃない。
彼女はたまたま、「覚えているだけ」で。だから、これ以上彼女を苦しませたくない。
この世界に影響を与えられるのは、事実をシロに教えられた俺と、記憶がある司書さんしかありえない。
「じゃあ、シロ。反対に、俺の願いをなかったことにはできないか?」
俺の問いに、彼女は怪訝そうな顔をした。
俺の願いがなかったことになれば……つまり、世界が最初の状態に戻れば。
変化がなくなり、世界は同じ形で繰り返されることになる。
そうすれば、ループの原因をはっきりさせるのが、いくらか容易になる。
今は世界に変化が加わりすぎて、何が原因で繰り返しが起こるのか、判然としない。
そう思ったのだけれど、
「ダメ」
とシロはむっとした顔でそっぽを向いた。
「願いをなかったことにするのも、願いの一種だから」
「つまり、願いは一人につき一つなんだな?」
「そう。もっとも、これは神様が決めたルールじゃなくてわたしが決めたルール。
一人の相手にそんなに力を使ったら、不公平だし、そもそもきりがないから」
……今回のシロは、ずいぶん饒舌な気がする。
とにかく。
「じゃあ、タイタンが願ったら?」
「……それは」
シロは口籠った。タイタンは、いきなり話が自分に戻ってきたせいか、戸惑っているようだった。
願いをなかったことにするのが願いの一種なら、“誰か”が願えば、それは叶えられるかもしれない。
「タイタンが、俺の願いの無効や、巻き戻しの無効を願ったら、それは叶うんだな?」
「……そういうことになる、けど」
「じゃあ、世界を元通りにするようにタイタンが願ったら、元通りになるか?」
シロは溜め息をついた。
「それはやめておいた方がいいと思う」
「……どうして?」
「お兄さんが混乱しちゃうだろうから、全部は説明しないけど……。
世界に変化を加える願いはこれが初めてじゃないんだよ。
実際に起こったことを歪めたり、誰かの好意の方向を変えたり。そんな願いを、わたしはいくつも叶えてきた。
だから、全部の願いがなくなった状態にしたら、世界がどんなふうになるのか、わたしにも想像できない」
「じゃあ、巻き戻しと、変化の両方を同時になくすのは……?」
「どちらか一方をなかったことにするなら、できるけど……。両方は、できない。
それに、巻き戻しの願いをなかったことにするのは、個人的にはおすすめしないかな」
「どうして?」
「巻き戻るのには、理由があるからだよ。
もちろん、誰かにお願いして世界を巻き戻そうなんて願い、身勝手には違いないけど。
でも、理由があるっていうことは、そこには問題があるってこと。
巻き戻らなくなるってことは、問題が"現実"として降りかかるってことだから」
「……きみは、もちろん巻き戻しの願いの主を知ってるよな?」
「もちろん。教えないけどね」
そうだろうな、と俺は思った。面倒な話だ。
「それにしても」、とシロはごまかすみたいに言った。
「今回は、急に冷静だね?」
「……いいかげん、ショックを受けてばかりもいられないから」
「お兄さんは、世界を偽物だって言ったけど、世界はいつだって本物なんだよ。
ただ作り変えられてしまっているだけで、人間はみんな人間。
抱いている気持ちだって、ちゃんと本物なんだよ。作り変えられているだけで。
女の子たちは、みんなちゃんと、お兄さんのことが好きだったんだよ」
「でも、それは、本物かもしれないけど、"現実"じゃなかった。都合よく改竄されていた。
そんなんじゃ俺は喜べないし、喜ぶべきでもない。そう思うよ」
シロは溜め息をついた。俺は話を続けた。
「とにかく、タイタンが願えば、俺の願いを無効にすることは可能なんだな?」
「一応ね」
俺はタイタンの顔を見据えた。彼はいまだに状況を掴みかねているようだった。
それはもちろん、そうだろう。何も説明していなかったんだから。
俺はそれから、タイタンに長い説明をすることになった。
この世界のこと。シロのこと。神様のこと。荒唐無稽なおとぎ話。これまでの世界のこと。
司書さんのこと。全部を、過不足なく伝えた。自分のことでさえ。
タイタンは混乱していたようだったけど、最後には無理やり納得してくれたようだった。
「でも、本当にいいの?」
タイタンと話をして、シロに願いを伝えてもらおうとすると、彼女は真剣な声で俺にそう訊ねてきた。
「……なにが?」
「お兄さんの願いをなかったことにしたら、お兄さんは、最初に戻っちゃうんだよ?
お兄さんは、他の可能性を覗いてみたくなるくらい、その世界のことがイヤだったはずなのに。
現実で何が起こったのか、お兄さんは、ちゃんと思い出せていないんでしょう?」
俺は、答えに窮した。
少なくとも、現実には、俺の隣にアメはいない。先輩もいない。ヒナもいない。サクラも、ユキトもいない。
「……でも、それが自然だ」
そう、俺は答えた。
「お兄さん、お兄さんの願いをなくさなくても、シショさんを解放する手段はあるんだよ」
「……」
「シショさんの願いを、なかったことにすればいい。
そうすれば、繰り返しは続くけど、シショさんは苦しまなくて済む。そっちの方が手っ取り早いでしょ?」
タイタンは困ったような目で俺の方を見た。
「そうすれば司書さんは苦しまないけど、巻き戻しのせいで幸せにもなれない」
俺はそう答えた。タイタンは少し思い悩んだようだったが、結局、頷いた。
シロとタイタンの視線がぶつかり合う。
大人と子供みたいな体格差なのに、態度はシロの方が大人みたいで、タイタンの方が緊張していた。
「願い、言っていいんだよな?」
タイタンは訊ねた。シロはどうでもよさそうに頷く。
「じゃあ――ヒメの願いを、なかったことにしてくれ」
シロはその言葉を聞いたあとも、そっぽを向いて拗ねたような顔をしていた。
けれどやがて、長い溜め息をつくと、
「仕方ないなあ」
と言ってから、タイタンの方を見返す。
それから、俺の目をじっと見つめた。
――お兄さんの願いをなかったことにしたら、お兄さんは、最初に戻っちゃうんだよ?
――お兄さんは、他の可能性を覗いてみたくなるくらい、その世界のことがイヤだったはずなのに。
――現実で何が起こったのか、お兄さんは、ちゃんと思い出せていないんでしょう?
景色が歪む。眩暈と耳鳴り。ぐらぐらと揺れながら明滅する景色。
変化。吐き気を催しそうな、いびつな感覚。
世界から光が消え、音が消え、匂いが消えた。
最後に、シロの舌打ちが聞こえた気がした。
続き: ◆05-01[STALKER GOES TO BABYLON]
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