【関連】
◇01-01[Sad Fad Love]
◇01-02[Xavier]
◇02-01[Mr.Droopy]
ノックの音で、目をさました。
遠慮がちでそっけないノックの音。いつも通りだ。
朝が来たのだ。
「お兄ちゃん、起きてる?」
掛けられる声もいつも通り。
俺は起き上がろうとして、疑問に支配される。
「いま起きた。けど……」
「どうしたの?」
「夏休みじゃないっけ?」
「……寝惚けてるの?」
妹は呆れたように溜め息をついて、言った。
「まだ学校。夏休みまで二週間近くあるよ」
「……あれ?」
「夏休みの夢でも見てたの?」
俺は頭を掻きながら夢の内容を思い出そうとする。
体が妙に気怠い。疲れが抜けていない。
夢を見ていたような気がする。
でも、どんな? それがまったく思い出せない。
なにか、重要な夢だったような。
というか、夢だったのか? と思うくらい現実感に溢れた夢だったような。
内容はまったく思い出せないのに、そんな感覚だけが残っている。
俺は枕元に置きっぱなしになっていた携帯を開いて、日付を確認した。
たしかに、夏休みまで、まだ二週間ある。
「どうでもいいから、ちゃんと起きてね」
妹はそれだけ言い残すと、俺に背を向けて部屋を出て行った。
◇
うっとうしいほどの太陽の日差しと蝉の声。
夏だ。それは分かる。でも何か奇妙な感じがしていた。
「いつも寝てばっかりだから、変な夢見たりするんだよ」
妹は玄関の鍵をしめながら、俺にそんなことを言った。
「もう少ししっかりしてよ」
「俺は俺なりにすごくしっかりしてるんだけど」
「意味わかんないよ、それ」
呆れたように溜め息をつかれる。
我が妹ながら内弁慶というか、他人が相手だとやたら緊張するくせに、身内にはどこまでも強気だ。
妹が鍵をしめたのを確認してから、並んで歩き始める。
俺と妹はほとんど同じ時間に登校するから、一緒に家を出るのは習慣になっていた。
「でも、そっか。まだ学校か」
なんだか憂鬱な気持ちになる。夢の中では、たぶん夏休みだったのだろう。
「そうだよ」
「だるいなあ」
「わたしの前ではべつにいいけど、そういうの、あんまり口に出さない方いいよ。情けないから」
「気を付けるよ」
言いながら、俺はあくびを噛み殺した。なんだか頭がひどくぼんやりとしている。
「今日の晩御飯、何食べたい?」
歩きながら訊ねると、妹はちょっと考え込んだ様子だった。
「冷麦とか、冷やし中華は飽きたかな」
「だよな……」
ここ最近やたらと暑かったので、手を抜いて麺類に頼ってしまっていた。
「で、何食べたい?」
「うーん」
と妹は考え込んでしまった。
「ハンバーグ」
「ハンバーグか」
こういう質問をすると、妹はいつもハンバーグと答えている気がする。
「帰りは何時ごろ?」
俺の質問に、妹はちょっと考えるような顔つきで空を仰いだ。
「たぶんいつも通り。六時過ぎくらいかな」
「部活?」
「うん。テスト終わったから再開。お兄ちゃんは出なくていいの?」
「まあ、気が向いたら顔だけでも出してくるよ」
「サボってばっかりだと、クビになるよ」
「それも面白いかな」
「気をつけてよね」
そんなことを真剣に口にする妹がおかしくて、俺は少し笑ってしまった。
もともとそんなに真面目な部でもないし、活動日だってそう多くはないのだ。
彼女の心配するようなことには、めったなことではならない。
ましてや、俺よりサボってる奴なんてざらにいるし。
◇
教室についたのは始業の十五分くらい前で、その頃になるとだいたいの生徒が登校してきている。
なぜか、俺の席にはタイタンが座っていた。窓際で居心地がいいからだろうか。
空をぼんやりと眺めている。
「おはよう」
声を掛けると、「おう」とぼんやりとした調子で返される。
「何か考え事?」
「夏だなあと思ってさ」
当たり前のように言うと、彼は立ち上がろうとした。俺はそれを制する。
「いいよ座ってて」
俺は鞄を机の脇に掛けてから、机の上に座った。
「机は座る場所じゃねえぞ」
タイタンはからかうみたいに言った。俺は肩をすくめた。
「机と椅子の違いなんて大きさくらいのもんだよ」
「眠そうだな?」
とタイタンはいつものように俺に声を掛けてきた。
俺は溜め息をついた。
「夢見が悪くてさ。疲れがとれなかった。安眠妨害で慰謝料取りたいよ」
「誰からだよ」
「悪夢から」
彼はどうでもよさそうに笑った。
「どんな夢だった?」
「よく覚えてない、けど……」
「けど?」
「……パイプオルガンの音色と、赤い絨毯」
「なに、それ。結婚式?」
「さあ?」
「ねえ」
と不意に誰かが言った。自分に対しての声じゃないと思って無視していると、もう一度繰り返される。
いったい誰が誰に話しかけてるんだろうと思って声の方を向くと、一対の瞳がこちらを見ていた。
「え?」
「さっきから呼んでたんだけど、なんで無視するの?」
見知った顔だった。別の中学から入学した、春からクラスメイトになった女の子。
そんなに交流はないけど、気さくな性格をしているから、割と話をすることがある。
染めているわけでもないようだけど、髪色は薄く、赤みがかっている。
「ごめん。なに?」
とっさのことに戸惑いつつ問い返すと、彼女はちょっとほっとした様子だった。
「いや、たいしたことじゃないんだけど、こないだのお礼が言いたくて」
「……お礼?」
何かしたっけか、と思い出そうとしていると、彼女は慌てたように言葉を続けた。
「ほら。自転車の鍵」
「……自転車の鍵?」
「覚えてない? わたしが駐輪場で落としたとき、一緒に探してくれたでしょ?」
「人違いじゃなくて?」
「間違いないって。先週のことだよ? 覚えてないの?」
まったく記憶になかった。
助けを求めるようにタイタンの方を見ると、彼は俺を見ていぶかしげな顔をした。
「先週の金曜なら、おまえが駐輪場のあたりで何かしてたの、俺も部活中に見かけたけど」
「あれ、ホントに?」
覚えていない。そう思って先週の記憶を探ろうとしたけれど、不思議と何も思い出せなかった。
「記憶喪失じゃないの?」
と女の子は困った雰囲気で言った。
「じゃないといいけどね」
いまいち確証を持てないのでそう答えると、はぐらかされたと思ったのか、彼女はちょっとむっとした。
「ま、いいや。それで、お礼。手、出して」
「お礼って、記憶にないのに」
「いいから」
と彼女は無理やり俺の手のひらを開かせた。
「はい」
なぜか俺の手のひらにチュッパチャップス(コーラ味)が載せられていた。
彼女は手のひらの上の飴を見つめてから満足げに頷いた。
かと思うと、今度は急に不安そうな顔をして、
「プリン味の方よかった?」
なんて訊いてくる。
「なんでその二択?」
「わたしの中で、チュッパチャップスはコーラとプリンが双璧なの」
「……あ、そうなんだ」
「他のがいいなら、あるけど」
「あ、いや、いいよ。コーラ好きだし」
彼女はほっとしたように息をついた。
「そっか。えっと、ほんとにありがとね。助かったよ。帰れないかと思って泣きそうだったんだ」
「いいよ、べつに。たいしたことしてないし」
覚えていないので、何を言われてもなんとなく据わりが悪い。
会話が終わった後も彼女は俺たちのところを去ろうとしなかった。
意図が読めなくて、何かを言わなければいけないような気分になる。
そんなとき、タイタンが口を開いた。
「ヒメもたまには良いことするんだな」
「おまえ、人をなんだと思ってるんだよ」
「情緒的ニート」
……普通に屈辱的だ。
「その、ヒメってさ」
「なに?」
呼ばれたのかと思って返事をすると、彼女はちょっと戸惑ったような顔をした。
「呼んだわけじゃなくて、ヒメってあだ名。なんでそう呼ばれてるの?」
俺は仕方なく自分の小学生時代の出来事を簡潔に説明した。
彼女は話を聞いている間、五回ほど笑った。
笑うところなんてない。泣き所しかない。
「ねえ、わたしもヒメって呼んでいい?」
彼女は楽しそうにそう言った。
「いいよ」
どうでも、と俺は言った。呼び方なんてなんでもよかったし、彼女と頻繁に話す機会があるとは思えなかった。
そこでチャイムが鳴って、彼女は自分の席に戻っていった。
特に理由もなくタイタンの方を見ると、彼は不思議そうな顔でこちらを見ている。
「どうしたの?」
「いや、べつに。珍しいなと思って」
何が珍しいのが分からなかったが、俺は彼を立ち上がらせて、自分の席に座った。
なんだか変な気分だった。
◇
べつに寝ようと思ってそうしているわけじゃないんだけど、授業を受けていると、居眠りしそうになる。
「しそうになる」だけで済んでいるのは、自分では成長だと思っているんだけど。
子供の頃からずっとそんな調子で生きてきたせいで、小学生のときには授業についていけなかった。
他人にできることが自分にはできないということは、子供ながらに不安でしかたのないことだった。
危機感から、学校から帰ってから就寝するまでの時間、俺は毎日のように必死になって勉強をした。
そういうことが習慣になって、最終的には、授業をきいていなくても、授業の内容がある程度理解できるようになった。
小学校の高学年になる頃には、授業中だって目を覚ましていられるようになったし、夜眠る時間も段々と遅くなった。
ようやく普通に近づけてきたのだけれど、近頃はまた、ひどい眠気を感じるようになってきた。
頭がぼんやりとして、半分眠っている。自分が起きているのか眠っているのか、それさえも分からなくなる。
そしてときどき夢を見る。たぶん夢だと思う。幻聴のような声すら聞こえるのだ。
誰かが泣いている。
◇
「気持ちは分かるけどね。ぽかぽかしてあったかいし」
司書さんは本の整理をしながらそう言った。
二十代半ばの若い女性。でも、物静かで落ち着いた雰囲気がある。
茶目っ気もあって、少し抜けたところもあるという、可愛げのある人。
この学校の図書室は狭い上に本棚が高い。
圧迫される感じがして手狭に見える分、隠れ家みたいな雰囲気がある。
で、そんな雰囲気の場所に、この気さくな司書さんと話をするために訪れる生徒が、けっこう大勢いたりする。
不思議なもので、この人と話をすると本を読みたくなる。知らず知らず誘導されているんだろう。
昼休み、昼食の後、俺とタイタンは図書室を訪れていた。
別に本を借りたくなったわけではない。ときどき、他にすることが思いつかない日に、司書さんと話したくなるときがあるのだ。
迷惑を掛けているのかもしれないけど、不思議と彼女と話をするのは楽しかった。
「太陽の日差しがまぶしいと、カーテンを閉めて授業するでしょ? 薄暗くなって、余計に眠くなるんだよね」
司書さんがそう言うと、タイタンがむっとした顔をして「そうですか?」と訊ねかえした。
「そうなんですよ」と俺は言う。
授業中に眠りそうになっている俺について、タイタンが司書さんに愚痴を言ったのだ。
俺は思わぬ味方の登場に嬉しくなる。
「でも、授業中は寝ないようにした方がいいよ。勉強もそうだけど、意味もなく周りを敵に回す必要もないでしょう?」
彼女はやわらかく微笑んだ。春のこもれびみたいなあたたかい微笑。
そういうふうに笑われると、なんだかもう、しかたないなあ言う通りにしよう、という気持ちになる。
「気をつけます」
俺は真剣に答えた。
「よろしい」
と司書さんはおどけた。
「それにしても、今日も暑いですね」
どうでもいい世間話のつもりで話しかけると、「ねー、ほんとにねー」と司書さんは頷いた。
「いくら夏だからって、こんなに暑いと困っちゃうよね。アイス食べたいなあ」
それからふと、悪戯っぽい顔つきになって、
「ねえ、奢ってあげるからアイス買ってきてくれない?」
なんてことを言い始める。変な人だ。発覚したら普通にまずいだろうに。
「すみません、無理です。根が真面目なんで」
「嘘だあ」
彼女は本をしまいながら笑った。気持ちのいい笑い方だ。リラックスした感じの。
「でも、もうすぐ夏休みだね。予定とか、決まってるの?」
彼女のまた、どうでもいい世間話のつもりだろうか、そんなことを訊いてきた。
「寝ます」
「寝るんだ?」
「寝続けます」
「……そ、そう」
司書さんはちょっと引き気味だったが、嘘をつくわけにもいかない。
タイタンが呆れたように溜め息をついた。
「すみません」
と不意に声が聞こえた。今度こそ俺に掛けられた声ではなかった。
俺が声の主の姿を確認するより先に、司書さんがカウンターの方を向いて返事をした。
それからととと、と俺たちの脇を駆けていく。
「図書室で走っちゃだめですよ」
と茶化すと、
「ごめんごめん」
とあっさり笑う。
そのまま彼女の背中を追いかけていると、ふとカウンターの前に立っていた女子と目が合う。
見覚えがある。
「あれ?」
声をあげたのはタイタンだった。彼は声すら掛けた。「よう」とかなんとか。
女子の方も俺たちに向けて、「よう」なんて言う。
俺はうまく反応できなかった。
「借りるの?」
タイタンがそのまま訊ねる。女子は「返すの」と答えて本の表紙をこちらに向けた。
『同一性・変化・時間』。
「……なにそれ?」
タイタンがまた訊ねる。彼女は首を傾げた。
「よくわかんなかった」
「……なんで読んだんだ?」
「なんとなく」
彼らの会話の横で、司書さんが返却の手続きを始める。
不意に、彼女と目が合う。なぜか分からないけど、俺はそれだけで動揺した。すごく。
◇
「喧嘩でもしたのか?」
タイタンはそんなことを訊ねてきた。
彼女は図書室を出ていって、司書さんは作業を再開していた。
「喧嘩?」
「さっき、一言も喋らなかっただろ?」
「べつに、そういうわけでもないけど……」
タイタンも同じ小学校だったから、俺と彼女の関係性くらいは知っている。
だから、様子がおかしいことにだってすぐ気付いたんだろう。
昔からずっと一緒だったから。
でも……。
俺は自分でも、うまく理解できなかった。なぜ俺は、彼女と言葉を交わさなかったのか。
何か、奇妙な感じがしたのだ。
◇
別に妹と朝交わした会話のせいってわけでもないけど、放課後は部活に顔を出すことにした。
文芸部の部室は東校舎の二階にある。隅の方ですよね、と部長が自虐的に言っていた。
部室には部長と、何人かの文芸部員が顔を出していた。
俺は一瞬、誰かの顔を探した。でも、すぐに分からなくなった。
俺は誰を探したんだろう。
「久々ですね」と部長は俺に向けて声を掛けた。
「そうですね」
俺はなんとなく奇妙な感覚のまま、部長とおさだまりの会話をする。
「書いていきます?」
そう言いながら、部長は俺に向けて青い大学ノートをさしだした。
うちの文芸部は和気藹々とした雰囲気が売りだった。
が、あまりに和気藹々としすぎたために一部を除いたメンバーが熱心に活動しなくなってしまったのだ。
これを危惧した顧問が、せめて何かしらの実績を残さなくては、と全員参加のリレー小説を始めさせた。
順番が決まっているわけではなく、気が向いた部員が適当に続きを書いていくだけの代物だけれど。
こんなものでも、一応活動実績にするつもりなのだろう。
まだ始めてから一月くらいしか経っていないけれど、これが意外と部員たちには好評だった。
名前を書かなくてもいい、と顧問が言ったため、けっこう好き勝手できるし、誰が書いているのか分からない面白みもある。
もちろん筆跡である程度想像できるのだけれど、あえて分からないままにしておくのも楽しい。
女子部員が多いため、最初はありがちな高校生同士の恋愛から始まった。
不良の男子と地味な女子の恋愛もの。不良は最初、生活態度は悪いが成績優秀、という設定だった。
が、なぜかテストで赤点をとる。そして気付けば主人公である女子に放課後の教室で勉強を教えてもらっていた。
書いている人間が違うせいで、そうした齟齬は大量に生まれた。あるいはわざと赤点をとったのかもしれない。
その手の展開はもちろん男子にとっては退屈そのもので、だから男子が書く回になると、毎回血が流れる。
通り魔、交通事故、災害。さまざまな要因で不良は何度か死んだ。
そしてだいたいの場合、次の回の女子が夢オチや奇跡を起こして不良の死を回避する。
ちなみに俺は交通事故で不良を三回殺した。交通事故が俺のテーマなのだ、たぶん。知らないけど。
ここに誰かが(たぶん部長だ)奇妙なつなぎを添えたせいで、最近ではちょっとしたループものになってしまっていた。
俺はシャープペンを取り出してノートに向かった。
前に続きを書いたのは、どうも女子だったらしい。ふたりが幸せそうにデートをしていた。
ふむ、と俺は考え込む。そして書き始めようとしたところに、
「また事故ですか?」
と部長が声を掛けてきた。
「……俺が書いてたって気付いてたんですか?」
「誰が書いてるのか、だいたい把握してますから」
部長はあっさりとそう言って、ノートを覗き込んできた。
「どうして事故なんです?」
「俺のテーマなんです」
部長は「そうなんですか」とどうでもよさそうに言った。
いまいち何を考えているのか読めない人だ。
「事故が、ですか」
「はい」
「なぜです?」
俺は少し考えてから、答えた。
「車が二台、別々の地点から、同じ位置に向けて走り出すとするじゃないですか」
「はい」
「同じスピードで、同じ距離。障害物がないとしたら、目的地でぶつかりますよね」
「……はい」
「事故を避けるためには、どちらかが先に進むか、どちらかが止まるしかないわけです」
「つまり?」
「つまり……何の話でしたっけ?」
部長は呆れたように溜め息をついた。俺はシャープペンを動かして不良を殺した。
俺はそれからすぐに部室を後にして、学校を出た。
商店街に立ち寄って挽肉を買い、家路を急ぐ。日々はあわただしい。
◇
帰り道の途中、公園に通りかかったとき、ふと気になって中を覗くと、ベンチに女の子が座っていた。
俺はそのまま通り過ぎようとしたけれど、なんとなく気になって、立ち止まる。
少女は俺の方に気付いて、頭をさげてにっこりと笑った。
技巧的な冷めた笑み。
「こんにちは」と少女はにっこり笑う。
その笑みに、なんとなく居心地が悪くなる。なぜだろう?
俺は返事すらできなかった。
少女の膝の上には白い猫が丸くなっていた。
猫には見覚えがある。でも、女の子に見覚えはない、ような気がする。
彼女は俺の方を見上げてにっこりと笑った。
「このあたりの子?」
「そうだよ」
「こんなところで何をしているの?」
俺が訊ねると、彼女は猫の背中を撫でながら答えた。
「猫と遊んでるの」
見たままの答えが返される。
「そいつの名前、シロって言うんだ」
俺がそう言うと、彼女はきょとんとした。
「飼い猫なの?」
「いや。野良。いつもここにいるから、俺がつけた」
「なにそれ。へんなの」
彼女は楽しそうに笑った。技巧的ではない笑みで。俺はほっとした。
「きみ、名前は?」
べつに特別な意図があったわけでもなく、会話の流れでそう訊ねてみただけなのだけれど、
「……名前?」
彼女の表情は、凍りついた。
鸚鵡返しの声すら、正常ではなかった。まるで「名前」という言葉の意味が分からなかったような。
「なまえ?」ではなく「ナマエ?」という感じだった。知っているはずの言葉なのに、意味を思い出せない、というような。
俺の居心地はまた悪くなった。
彼女はしばらく考え込んだあと、思いつきみたいに、
「シロ」
と答えた。本当の名前を教えたくないんだろう、と俺は想像した。
「シロは、家に帰らないのか?」
彼女はちょっと考え込んでしまった。
「まだ帰れないの」
「……家の鍵でもなくしたの?」
「まあ、そんなようなものかな」
「どこかに落としたなら、探すの手伝おうか?」
彼女はおかしそうに笑った。
「いいんだよ。どうせ約束があったから」
そこまできいてから、家に帰れないという割には、荷物を持っていないな、と、そんなことを考えた。
「約束?」
「人を待たせてるんだよ」
「……待ってるんじゃなくて?」
待たせてるなら、さっさと約束の場所に行った方がいいのではないか。
「どっちだったかな。とにかく約束があるんだ」
彼女は困ったように笑った。
「もう忘れられてるかもしれないけど」
俺は奇妙だと感じたけれど、深くは訊ねなかった。何を訊けばいいのかもわからなかった。
「それより、お兄さん、今日、変わったことなかった?」
「変わったこと、って、どんな?」
「なんでもいいんだ。お兄さんの生活の中の、ちょっとした変化みたいなもの」
俺は少し考えたけれど、何も思いつかなかった。
「……特にはないかな」
「うーん。そっか」
彼女は考え込んでしまった。いったい何がどうしたというんだろう。
俺は不意に自分が挽肉を持ったままだったことを思い出して、その場を離れることにした。
「それじゃあ」と俺が声を掛けると、「うん、またね」と少女は親しげに笑った。
最初の、冷え切ったような技巧的な笑みはなんだったのだろう。
あるいは、最後の笑顔すら、意図的に作り出した技巧的なものなのかもしれない。
巧みすぎて気付けなかっただけで。
俺は公園を出て、家へと急いだ。
夏の日暮れはいつも物悲しい。
◇
夕飯を食べた後、ぼんやりと縁側から空を見上げていた。
夕陽が沈み、外は真っ暗になっていた。
空には星が浮かんでいる。
ぼんやりと考え事をしていると、後ろから足音が聞こえた。
振り向くと、妹が作り置きの麦茶と、それからコップを二つ持って、後ろに立っていた。
彼女は俺の隣に腰を下ろすと、何も訊かずにコップに麦茶を注ぎ始める。
「星が綺麗だな」
俺が声を掛けると、妹はどうでもよさそうに頷いてから、俺にコップを手渡した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それから彼女は麦茶を啜って、ぼんやりと空を見上げた。
俺も一緒になって空を見る。
「あれはオリオン座かな?」
「……オリオン座は冬の星座だよ」
妹は呆れたように溜め息をついて、
「あ、流れ星」
そんな声をあげた。追いかけて視線の先を見るが、動く光は見えなかった。
「ほんとに?」
「ほんと」
なんだか損したような気分になる。べつに見れなくたってどうということはないはずなのに。
けれど、そのまま空に視線を向けていると、わずかに瞬く光が、少しずつ動いていくのが見えた。
「あ、ほら」
「違うよ、あれは……」
俺が言いきるよりも先に、妹も気付いたようだった。
赤い明滅。
「……飛行機だよ」
◇
飛行機。
飛行機は空を飛ぶ。
空を飛ぶことができる。
空を飛ぶことができるから、遠くまで行くことができる。
とても大きいから、たくさんの人を乗せることができる。
飛行機。
そして、俺は飛行機ではない。
だから、空を飛べない。
◇
「誰かと喧嘩した?」
ぼんやりと考え事をしていると、不意に妹がそんなことを言い始めた。
昔から、こういうことに限ってはやけに鋭い。
どうしてなんだろう? 彼女には分かってしまうのだ。
それとも俺が、無意識に、彼女にだけは伝えているのかもしれない。
「喧嘩ってわけじゃないんだけどね」
喧嘩ってわけじゃない。それはたしかだ。
「事故みたいなもんだよ。どっちかがブレーキを踏まなきゃいけなかったんだ。で、俺が踏んだ」
それだけで、彼女はきっと、何かを察してしまったのだと思う。
何か言いたげな顔で俺の方を見て、でも結局、何も言わない。
「それでいいの? お兄ちゃんもだけど、あの人だって……」
「べつにいいってわけじゃないよ、もちろん。でも仕方ないだろ。もっと悪い結果になりそうだったんだ」
だからって、ブレーキを踏んでおいて平気な顔をできないのは、俺のずるさかもしれない。
「お兄ちゃんは、ひとりでいろいろ考えすぎだよ」
妹は柔らかく笑った。その笑顔を見ただけで、体が軽くなったような気がした。
「違うよ。考えるのが嫌だから逃げてるんだ」
「……バカだなあ」
妹と俺はひとしきり笑い合った。彼女はそれから、不意に俺の頬をつまんだ。
「なに?」
とたずねると、彼女はにんまり笑って、「ばーか」と言う。
俺はなんだか笑ってしまった。
「ハンバーグ、どうだった?」
訊ねると、妹は「美味しかったよ」と本当か嘘か分からないようなことを言った。
「美味しかった」と彼女は俺の心を見透かしたみたいに繰り返して、頬から手を離した。
「いつもありがとう」と妹は言った。
「こちらこそありがとう」と俺は言った。
こうやって言葉にしておかないと、俺たちはすぐにいろんなことを忘れてしまう。
日々のあわただしさに呑まれてしまう。
「本当に、星がきれいだね」
感心するように、妹は呟いた。
「嘘みたいにきれいだ」
俺は視線を空から落として、麦茶を啜った。
「眩しいくらいだな」
「うん」
嘘みたいな星空。嘘みたいな。
俺は溜め息をついた。
「ずっと見てると、首が疲れるね」
「情緒がないなあ」
妹は溜め息をついた。
◇
翌朝もまた、俺はノックの音で目をさました。
妹は俺を起こしてあっさりと部屋を出て行ってしまう。
俺はその後ろ姿を見て、朝がきたのだという事実を自分の中でしっかりと消化して、ベッドを抜け出す。
そうした単純な心理的・実際的な動作を意識的に行うことで、自分がどうするべきなのかをしっかりと把握する。
顔を洗って歯を磨いて制服に着替えて朝食を食べる。
食事の準備は朝と夜でそれぞれに分担していた。
といっても妹はあまり料理をする方じゃないし、時間が余っているわけでもないから、朝はいつもトーストだ。
マーガリンやらジャムやらチョコレート、バターにガーリック。実にいろいろなものを俺たちは試した。
ときどきトーストに飽きて、目玉焼きやらハムエッグやらを作って白米で食べることもある。
目玉焼きを作れるようになった妹はときどきトーストの上に目玉焼きを載せるようになった。
朝食のバリエーションは多かった。変わらないのはふたりきりだという事実だけだった。
そこがどうやっても揺るがないから、それ以外の部分を変えてしまいたくなって、いろんなトーストを試したのかもしれない。
とにかく俺たちはふたりきりだった。
◇
チュッパチャップスをくれた例の女の子の名前を、俺は知らなかった。
というより、知っていたのだけれど、なんとなくその名前を信用することができなかった。
イメージとしての文字を思い出すこともできる。でも読みは合っているのだろうか? 漢字は? 発音は?
なぜだかそういうことがすごく不安だった。
だから、その日、朝の教室で偶然にもふたりきりで出くわしてしまったとき、少しだけ困った。
彼女は勘のいい女の子で、たった数分話をしただけで、俺が彼女の名前を覚えていないということを看破してしまった。
そして笑う。
「ろくに話したことなかったもんね」
からっとした笑顔。
「仕方ないっちゃ仕方ないよ」
てっきりその流れで名前を教えてくれると思ったんだけど、彼女はそうはせず、話を変えた。
数学の授業がさっぱりわからないだとか、現代文の文章問題は内容を理解するのがむずかしいとか。
ようするに学校の授業にさっぱりついていけない、という話。俺はちょっと拍子抜けした。
あちらが話を変えたとはいえ、さすがに、名前を未知のまま放置するというのは据わりが悪い。
そう思って名前を尋ねると、彼女は変なことを言った。
「当ててみて」
「え?」
「名前」
俺は少し考え込んだ。漠然としたイメージはつかめているけれど、それで間違っていたら気まずい。
だからといってまさか適当に言うわけにもいかないので、俺は彼女のネームをちらりと覗き見ようとした。
彼女はそれを手のひらでさっと隠す。実にあざやかな手並みだった。
俺はいまいちこの名前当てゲームの意義が掴めなかったけど、彼女の真剣な様子に少し笑った。
かといって、そんな状況で本当に名前を当てられるわけがなかった。
仕方なく、俺は「こうだったよな」と思いながら彼女の苗字を当ててみた。
それは当たりだった。彼女はちょっと感心したように手を叩いた。
「下の名前は?」と訊ねられて俺は困った。
彼女はわくわくした顔で俺の答えを待っていた。自分の名前を玩具にしているのだ。
俺は仕方なく答えた。
「アメ」
「アメ?」
当てる気はなかった。
「……なんでアメ?」
「飴くれたから」
「適当だ?」
「適当だよ」
「でも、いいね、それ」
アメ、アメ、アメ。彼女は三回そう繰り返した。いたく気に入ったようだった。
初めて名前をつけられて喜んでるみたいに見えた。
「じゃあ、わたしのこと、アメって呼んでいいよ」
べつに呼びたいと思っていたわけでもないんだけど、彼女が嬉しそうだったし、そうすることにした。
◇
飴……。
妹が小学校にあがった年、俺と彼女は母親に夏祭りに連れて行ってもらった。
母はいろんな夜店を回りながら、食べ物や飲み物やおもちゃを買い与えてくれた。
当たらないと分かり切ってるクジだって引かせてくれた。射的だって金魚すくいだって。
俺と妹はほとんどわめくみたいにはしゃぎながら祭り中を歩いた。
母親は半歩さがった位置から、それでも決してはぐれないように、俺たちのことを見ていた。
両手に物を抱えて持ちきれなくなって、母が背負っていたリュックサックもぱんぱんに膨らんだ。
遊び疲れた俺たちに、母はリンゴ飴を買ってくれた。
俺は右手にリンゴ飴を持ち、左手にサービスでもらった金魚の袋を掴んだ。
賑やかな人の流れの中なのに、俺たちの声は特別大きく響いていた気がする。
赤い飴。
金魚は二週間後に死んだ。
◇
「どうしたの?」
アメの声で、自分が考え事をしていたことにようやく気付いた。
なんでもない、と俺は言って、教室に人が増え始めていることに気付いた。
「今どんなことを考えてる?」
アメはそんなふうに質問を続けた。
「どんなことって?」
「だから、何を考えていたってこと」
「飴のことだよ」
彼女はちょっと息を呑んだ。俺はすぐに彼女の誤解に気付いた。
「ちがう。飴。お菓子の方」
「え? あ、ああ。飴?」
「飴」
そもそも俺は彼女のことを「飴」ではなく「雨」のイントネーションで呼んでいた。
そっちの方が人っぽく聞こえるから。慣れてないから仕方ないんだろうけど。
「どうして飴のことなんて考えてたの?」
「どうしてって、飴に関係のある話をしていたからだよ」
彼女は納得したように頷いた。俺には彼女の思考回路がよく理解できなかった。
「飴は好き?」と彼女は訊ねてきた。甘いものはだいたい好きだよ、と俺は答えた。
シュークリームもケーキもチョコレートも。でも縁がないんだ。
「じゃああげよう」
と言って、彼女はまた俺に手のひらを開かせて、強引にチュッパチャップスを載せた。
「好きなの?」と訊ねると、「大好き」と彼女ははっきりした声で言った。
その言葉と笑顔に俺はどきりとした。
恋に落ちそうなくらい。落ちなかったけど(たぶん)。あるいは落ちたかもしれない。よくわからない。
クラスメイトは続々と登校してきた。
「おい佐藤、朝から夫婦で登校か?」
「そんなんじゃないよ」
なんて会話すら聞こえてきた。俺はそのやりとりを意識的に遮断した。
耳にするだけで毒になる会話というのがあるものなのだ。
「どうしたの?」
なんて、アメはきょとんとした顔で訊ねてくる。
「どうもしないよ」、と俺は嘘をついた。
彼女は変な顔をしていた。
◇
アメは教室の様子なんて気にならないようだった。
何人かの女子は物珍しそうに、俺と話をするアメの方を見ていた。
物珍しそうに、というよりは、「ふうん、ああいうのが好きなんだ」とでも言いたげな目で。勘違いかもしれない。
ともかく、そんな視線すらもアメは無視した。あまりにも綺麗に無視するのでこっちが気まずくなるくらいだった。
はっきりいって(はっきり言わなくても分かるだろうが)俺は地味な男子だった。
滑稽なことに最初から地味だったというわけでもない。四月までは割と明るかった。
でもそれは、太陽の光を借りて月が輝いていたようなもので、まあ結局地味な奴は地味なのだ。
こんな言い方をすると月に失礼かもしれないけど。
アメの声はよく響く。そのわりに鬱陶しくない。耳にすっと馴染む。だからみんなアメの方を向く。
だから俺は、名前は知らなくてもアメの存在はちゃんと知っていた。そのくらい目立つ子だ。
そんな子が地味な奴と一緒にいる。すると、ただでさえ目立つ人が珍しいことをしているなあと余計に目立つ。
俺の居心地は悪くなる。
「休みの日とか何してるの?」なんて、アメはとるにたらない質問のように言った。
「寝てるかな」
「寝てるの?」
「だいたいはね」
彼女は少し笑った。ちょっと棘のある笑い方だった。もっとも彼女にそんなつもりはなかっただろう。
人の笑みのさじ加減ひとつで傷ついてしまうくらい俺がナイーブだということだ。たぶん。知らないけど。
「それ以外は?」
「本を読んでるかな」
「どんな?」
「どんな……?」
俺は答えられなかった。なぜかは分からないけれど、とっさに答えが浮かばなかった。
最後に読んだ本はなに、と訊かれたら答えられた。でも、どんな、と訊ねられると難しかった。
俺はどんな本を読んでいるんだろう?
「恋愛指南書かな」
と俺は答えた。アメが大真面目に「えっ」という顔をしたので、俺は仕方なく冗談だということを明かした。
◇
昼休みに図書室に行くと、司書さんがカウンターの中で何かの書類を眺めていた。
こちらに気付いて、彼女は「やあ」と手をあげる。常連だからとても気安い。
「……なんだか疲れた顔をしてるね?」
俺の顔を見て、彼女は即座にそんなことを言った。
隣に座っていた図書委員の男子が俺の方をちらりと見て、すぐに逸らす。鬱陶しそうな顔をしていた。
疲れた顔。しているのだろうか? よくわからない。
「なんだか、最近、変な感じなんですよ」
「変な感じって?」
「頭がぼんやりするんですよ。何か忘れてる感じがする」
「寝不足?」
「まさか」と俺が言うよりも先に、司書さんは自分で否定していた。「きみにかぎって、まさかね」
俺はちょっとむっとしたけれど、反論があるわけでもなかった。俺が寝不足になんかなるわけがない。
「じゃあ、眠りすぎてるのかもしれないよ」
「眠り過ぎ、ですか」
「うん。人間はやっぱり早寝早起きが一番ですよ」
昼休みの図書室は結構賑わっている。
たぶん三年の男子だろうか、四、五人で端の方に集まって、「火の鳥」を読んでいた。
真剣な顔で黙々と「火の鳥」を読んでいる男子というのはちょっとかっこいいなあと思った。嫌味なく。
たぶん退屈してるだけなんだろうけど。
「何かを忘れてる感じかあ」
何の話だろうな、と思ってから、自分の言葉を思い出した。何かどころか五秒間に話した言葉すら忘れてる。
地に足がついていない。
「健忘かもね」
「もしくは譫妄かも」
冗談のつもりだったけど、彼女は笑わなかった。まあそんなもんだろう。
今日はタイタンはいなかった。彼は彼で気まぐれに行動することが多いから、授業時間以外はあまり顔を合わせなかったりする。
昼食を一緒にとったりすることはあるけど、それ以外の時間はほとんど一緒に行動しない。部活も違うし。
ひょっとしたら花壇の水やりでもしてるのかもしれない。
「本、読んだ?」
司書さんに訊ねられて、俺は借りていた本のことを思い出した。
何を借りていたんだっけ。「ぼくらはそれでも肉を食う」だったかもしれない。
「まあ、ぼちぼち」
「ふうん。おもしろかったら教えてね」
「おもしろくない本なんてありませんよ」と俺は答えた。
「まさか」、と彼女は言った。価値観の相違。
「長い付き合いだけど、きみの好みってまだ分からないなあ」
彼女は長い付き合い、と言ったけど、実際には四月から今までだから、せいぜい三ヵ月くらいだ。
毎日のように顔を合わせているせいで、長くいるような気がするのかもしれない。俺もそんな感じがする。
「きみ、どんな本が好きなの?」
「おもしろい本」と俺は答えた。彼女は少し考えた。
「つまり、本ならなんでもいいってこと?」
「そうかもしれない」
読書は睡眠と同じ種類の快楽だ。そして読書の優れた点は、いくら読んでも人から咎められないところにある。
かといって、そのまま話を終わらせたら、なんだか気取ってるみたいでいやだったから、俺は付け加えるように、
「漫画って読みます?」
と訊ねてみた。彼女はぼんやり頷いた。
「『フルーツバスケット』が好きなんですよ」
「十二支の奴? 『花とゆめ』の?」
「そう。その『フルーツバスケット』」
「ふうん。少女漫画好きなの?」
「あんまり」
「なにそれ」と、彼女は呆れたように笑った。
「じゃあ、小説なら?」
「あー……。『夜の来訪者』かな」
「……プリーストリーの?」
「そう。それ」
「……」
「なぜ黙るんです?」
「おもしろいけど……戯曲でしょ、あれ」
今度は俺が黙り込む番だった。
◇
俺が「チェ・ゲバラ伝」を借りて教室に戻ると、アメが声を掛けてきた。
何か用事かと思ったけれど、そういうわけでもないらしい。彼女は不思議そうな顔で、
「なにその本?」
と訊ねてきた。
「ファッション」
と俺は答えた。彼女は楽しげに笑った。
「おもしろいの?」
「読んでないから分からない。面白そうだと思ったから借りてきた」
「ふうん。どんなところが?」
どんな本なの、と訊かれるかと思っていた。どんなところが、と訊かれてもうまく答えられない。
彼女はそういう訊き方をすることが多い気がする。
答えに詰まったあげく、俺は本を開いて文章の出だしを読み上げて見せた。
「『人が革命家になるのは決して容易ではないが、必ずしも不可能ではない。
しかし、革命家で在り続けることは、歴史の上に革命家として現れながらも
暴君として消えた多くの例に徴するまでもなく、きわめて困難なことであり、
さらにいえば革命家として純粋に死ぬことはよりいっそう困難なことである』」
「……え?」
「なんかかっこよくない?」
「なにそれ。そんな理由?」
「そんなもんだよ」
彼女は笑って、片手で持っていた袋から一本ポッキーを取り出して、こちらに差し出した。
「はい」
「……くれるの?」
本を持っていない方の手で受け取ろうとすると、彼女はさっと翻って指先を隠した。
「……なに?」
「あーん」
「は?」
「……」
「……」
「……あーん」
からかっているわけでもなさそうだった。親しい間柄の人間には、似たようなことをしているのかもしれない。
冗談の一種か、単なるコミュニケーションの一環か。とにかくなんでもいいんだけど……。
なんとなく、気味が悪い。
俺は視線だけで周囲の様子をうかがった。時間が経つにつれて注目が集まっている。
それでも気にしている人間なんて、ごく一部だったけど。
そうこうしているうちに、アメは段々不安そうな顔つきになっていった。
「いらないの?」
唇をかすかに持ち上げてそんなことを言っていたけれど、その調子もどこか緊張している。
俺は仕方なくポッキーにかじりついて、そのまま彼女の指から引き抜いた。
彼女はほっとした様子だった。
「この、焦らし上手」
なんて笑っている。ことさら、軽い雰囲気を装って。
やり慣れないことをしたから、もちろん気恥ずかしさはあった。
でも、そういうのとはべつに、もっと根本的な居心地の悪さがある。
鍵のお礼と言って飴をくれた日から、彼女はやけに俺について回るようになった。
「野良猫だって餌をもらっただけじゃなつかない」
と皮肉と戸惑いが半々くらいの気持ちで俺が言うと、
「わたし、安上がりな女だから」
なんて胸を張っていた。
あんまり大きくないから微妙に痛々しいな、と思うと、見透かされたみたいに頭を叩かれた。
俺が席まで戻ろうとすると、アメは俺の後ろをついてきた。
俺が椅子に座ると、彼女は机に座ってポッキーをかじりはじめた。
「机は座るところじゃない」
と俺が言うと、
「椅子と机の違いなんて、大きさくらいのもんだよ」
と得意げな顔で言った。
クラスメイトの視線も気にせず、俺の気持ちさえ気に掛けず。
彼女は振る舞いたいように振る舞っているように見えた。
あるいは違うのかもしれない。
彼女には彼女なりの怯えみたいなものがちゃんとあって、そういうものと戦いながら俺の近くにいるのかもしれない。
何のために? それはよく分からなかったけど。
「どうして俺の机に座ってるの?」
「きみと話がしたいから」
「どうして?」
彼女は押し黙った。顔が少し赤くなったような気がした。
俺はその様子を冷めた気分で眺めていた。他人事のような気持ちで。
鼻で笑ってしまいたいくらいだった。
そういうやりとりのひとつひとつが、どうしてだかわからないけど――すごく気持ち悪い。
◇
アメは放課後も俺につきまとった。
「部活は?」と訊ねると、「帰宅部だもん」とあっさりと言う。まあそれは別にいい。
「ね、どっか寄っていかない?」
あげくの果てにそんなことまで言い出したから、俺は段々怖くなってきた。
「悪いけど、俺は部活があるんだよ」
「うっそだあ。きみが部活とかやってるとこ、見たことない。何部?」
「文芸部」
「そんなのあったんだ。どんなことしてるの?」
「日陰で考え事をしたり、こそこそ話したりするところ」
古びた紙の匂いと日に褪せたカーテン。悪い場所ではない。
悪い場所ではないけど、ちょっと人を選ぶ。場が人を選ぶということもあるものなのだ。
てっきり「ならしかたないね」とか言って諦めてくれると思ってたのに、アメはちょっと興味を示していた。
「ふーん」なんて言いつつ、意味もなく頷いてる。
「ちょっと興味あるなあ」
「好奇心は猫をも……」
言いかけたところで、頭が烈しく痛んだ。眩暈と耳鳴りを伴う鋭い痛み。
途切れた言葉の続きを、アメは首を傾げて促す。
「猫をも?」
じくじくという痛み。
「猫をも殺す、っていうことわざがあるよ」
「さすが文芸部員。変な言葉知ってるね。どういう意味?」
どう考えても一般常識の範疇だったけど、俺はそれについては何も言わなかった。
「何にでも首を突っ込んでいたら、命がいくらあっても足りないって意味」
「……そんなに危険なの? 文芸部」
もちろん文芸部は危険な場所じゃない。そんなのは誰だって知ってる。
はっきり言わなければ伝わらないのだろうか?
あるいは、分かっていて無視しているのか?
俺はしばらく考え込んだけれど、結局、まあいいか、と思った。
溜め息さえ出ない。
「じゃあ、見学するといいよ。たいしたことしてるわけじゃないけど、人は結構いるしね」
「うん、そうする。ありがとう、ヒメ」
アメは当たり前みたいに俺のことを呼んだ。
まるでずっとそうしてきたみたいに自然に。それが彼女の距離感なのかもしれない。
◇
部室には結構な人数が集まっていた。
落ち着いて話ができる場所だからか、男女問わず集まりがいい。
熱心に活動している人間はそんなに多くないけど。
部室に入ると同時に、部長がちらりとこちらに視線をよこした。
それから俺の後ろについてきたアメに気付き、頭を下げて立ち上がる。
「そちらは?」
「見学したいそうです」
部長は不思議そうな顔をした。無理もない。
アメは俺の背中越しに、遠慮がちに部長に頭をさげた。
「歓迎しますよ」と部長は大人みたいに笑った。
「どんなことをしてるんですか?」
とアメが訊ねる。部長はちょっと困った顔をした。
「テニス部はテニスをする」
俺がそう言うと、アメは首をかしげた。
「サッカー部はサッカー、野球部は野球、カヌー部はカヌー、吹奏楽部は吹奏楽」
「……だから?」
「文芸部は文芸するに決まってるだろ?」
「……だから、文芸ってなにさ?」
「哲学的な疑問だな」
「テツガクってのも、なんだかわかんないけど」
聞き流しつつ、俺は部室の壁際に置かれた戸棚に歩み寄り、中から辞書を取り出した。
「えーっと……」
「……ヒメも分かんないんじゃん」
「再確認する意義のありそうな疑問だったってことだよ」
「どうだか」
俺たちのやりとりに、部長がくすくすと笑っていた。
「えーっと……。『言語によって表現される芸術の総称。詩歌・小説・戯曲などの作品。文学』」
「文学ってなに?」
「……『思想や感情を、言語で表現した芸術作品。詩歌・小説・戯曲・随筆・評論など。文芸』」
「よくわかんないけど、つまり、思想や感情を、言語で表現する部活ってこと?」
俺とアメはたっぷり五秒くらい目を合わせたまま沈黙した。
「そうなんですか? 部長」
俺が訊ねると、部長は困った顔をして首を傾げた。
「さあ、どうなんでしょうね?」
「そもそも芸術ってなに?」
アメの問いかけは単純であるがゆえに深遠だった。俺はアメに辞書を手渡した。
「答えはそこにある、かもしれない」
あるいはないかもしれないけど。
アメは困った顔をしていた。
◇
「誰かが続きを書き足していたみたいですよ」
と言って、部長が俺にノートを渡した。
俺はしぶしぶ受け取って、それを開く。アメが後ろから覗き込んできた。
「なにそれ?」
「思想と感情の発露だよ」
適当なことを言いながらパイプ椅子に腰かけ、新しいページを開く。
俺が最後に書いてから、書き足したのは、二人くらいだろうか。
交通事故で不良が死に、主人公が意識を失う。再び目を覚ますと死の三日前にさかのぼっている。
実際に起こったことを「嫌な夢」として処理し、ごく当たり前のように生活をしようとする。
というところで、主人公の身を襲う奇妙な既視感。主人公はループに勘付きはじめる。
「これ書いたの部長ですか?」
俺が訊ねると、彼女は曖昧に笑って首を傾げた。話を動かせるのはこの人くらいのものだ。
他の奴が書いていたら延々とループしているだろう。
と思ったのだけど、部長が(おそらく)書いたものの次もまた、話が進んでいた。
思想と感情の発露、というのはある意味正しい。
稚拙であれ精巧であれ、少なからずその人の思想、価値観というものが、物語には現れる。
写実的であるべきだと考えれば写実的に、劇的であるべきだと考えれば劇的に。
寓話的であるべきだと考えれば寓話的に、現実的であるべきだと考えれば現実的に。
暗喩的であるべきだと考えれば暗喩的に、直截的であるべきだと考えれば直截的に。
芸術的であるべきだと考えれば芸術的に、娯楽的であるべきだと考えれば娯楽的に。
そのようにして、書いている本人すら無意識のうちに、表出してしまう。
人を殴ることなど何の問題にもならないと思っている人間が書けば、人を殴ることは日常の範疇だ。
けれど、人を殴ることは悪だと考える人間が書けば、人を殴ることは一大事件として、物語の中で扱われる。
ごく当然の話として。
そして、「続き」はちょっと重かった。ループの事実に気付いた主人公が、不良の死をすごく重くとらえている。
すごく重く。ちょっとシリアスすぎる。
主人公は不良の死を繰り返すうちに、死が訪れるタイミングの法則を導き出す。
そして、不良の代わりに自分が死のうとしてしまう。
「おおう……」
と思わず声が出た。部長は俺の様子を見て、くすくすと笑う。
「部長、これは……」
「わたしじゃありませんよ」
自分じゃないときは、彼女はちゃんと否定するのだな、と思いつつ、話を続ける。
「なんですか、この展開は」
「リレーですから。予想外の展開をたどるのは仕方ないです」
「部長、我々の部は「携帯小説部」に改名するべきかもしれません」
「……ひねくれてますね」
部長は呆れたように溜め息をついてから、にっこりと笑った。
「文芸部初の共同制作作品が、ついに完成間近っぽい雰囲気なんですよ。祝いましょう」
アメは、「なにが悪いの?」という目で俺の方を見た。べつに悪いと言っているわけじゃない。
「……まあ、落としどころとしては、こんなもんですよね」
俺の言葉に、部長は満足げに頷く。
「行先の分からないリレー小説にしては、けっこうまとまった方ですよ。みんな頑張りました」
「ヒメが何を言いたいのか、よくわかんないな」
アメはそんなことを言いながら、俺の手からノートを奪って、ぺらぺらとめくりはじめた。
「何か駄目なの、これ?」
「べつに。好みの展開じゃなかったってだけ」
「リレーですから、仕方ないですね」
部長の言葉に頷く。リレー小説を結末まで書き切って、心から満足できる参加者はごく少数だ。
だいたいの人間は「自分ならこうするのに」という気持ちを抱くことになる。
そして、「自分ならこうする」と実際に書き始める人間だけが、何かを完成させることができる。
「気に入らないなら、ひとりで書くしかないです」
俺は部長の言葉にもう一度頷く。
アメはやっぱり納得がいかないというように、首を傾げつつノートに目を落としている。
「やっぱりわかんない。何が気に入らないの?」
「べつに、たいしたことじゃないけど……」
「……なに?」
仕方なく、俺は口に出した。
「なんとなく、気持ち悪いんだよ」
「……なにそれ?」
アメは怪訝そうな顔をしていた。
◇
俺はしばらくノートに向かって、続きを書くか書かないか、迷っていた。
でもやめた。いろんな奴がいろんな考えに従って書けるのが、リレー小説のいいところだ。
だからといって、和を乱してまで自分の考えを押し通そうとする必要はない。
所詮は交流手段でしかないんだから。
ノートを閉じて所定の位置に戻していると、部長と目があった。
彼女はいつも使っている茶色い手帳に、何かを書きこんでいる。
「ヒメくん、知ってます?」
「はい?」
どうでもいい話だけど、部長は俺のことをヒメというあだ名で呼ぶ。
このあだ名を使っているのは小学校からの付き合いの奴ばかりなんだけど。
部長は誰かからそれを聞いて気に入ったらしく、俺をそう呼んでいる。
「うちの市のどこかに、廃墟になった洋館があるって話」
「なんです、それ?」
「五年くらい前だったと思いますけど、分かりませんか。小学生の女の子二人が誘拐されて……」
「殺された事件ですか」
部長は頷いた。
「犯人らしき男も死体で発見されたって奴ですよね」
「はい。で、その犯人が、監禁場所につかったのが、その洋館だったって話ですよ」
「うちの市だってことは知ってましたけど、廃墟っていうのは初めて聞きました」
アメが、物騒な話をしてるなあ、と言いたげな目で俺と部長を見ていた。
「どこかの森の中の、廃墟の洋館だって話です」
「うさんくさいですね」
部長は頷いた。
「ヒメくんなら詳しい話を知ってるんじゃないかと思ったんですけど、やっぱり分かりませんか?」
「生憎、初耳です」
部長の中の俺のイメージが微妙に気になったが、あまり気にしないことにした。
「そんなこときいて、どうするつもりだったんです?」
「個人的に興味があるんですよ。もうすぐ夏休みだし、せっかくなら行ってみたいなあって」
「……人が死んだ場所に?」
「というより、廃墟とか、洋館とか、一度は見てみたいじゃないですか。人が死んだのは嫌ですけど」
彼女はちょっと興奮気味に握り拳を作った。
「『森の中』で、『廃墟』で、しかも『洋館』で、こんな言い方したら怒られるかもしれないですけど、『いわくつき』ですよ?」
「……不謹慎だなあ。数年前の出来事ですよ」
「いえ、いわくつきって言っても、そっちじゃなくて。なんでもその洋館には、『出る』って話です」
「……死んだ女子小学生の霊がですか?」
そっちじゃないですってば、と彼女は重ねて否定した。
「もっと、別の何かですよ」
俺はさすがに呆れた。
◇
「普段、どんなことしてるんですか?」
俺に訊いていたら話が進まないと思ったのか、アメは部長に対してそんな質問をぶつけた。
「雑談です」
と部長はあっさり答えた。
「えーっと。……『文芸』は?」
「みんな書いてますよ。雑談しつつ」
「どっちがメインですか?」
「八対二で雑談ですかね」
部長の話も、なかなかに皮肉っぽいなあ、と俺は横で聞きながら思った。
アメはなんだか落ち着かないような顔をしている。
「つまり、茶飲み部なんですか?」
「よく気付きましたね」
部長はにっこり笑う。アメは詐欺にでもあったような顔をしていた。
それにしても、部室の中はもやもやとして暑苦しい。
窓を開けないのだろうか? 俺はどうせすぐに出て行くつもりだから、いいんだけど。
アメはまだ何か納得いかないような顔をしていた。
「どうしたの?」
気になって訊ねてみると、彼女は言いにくそうに口をもごもごさせた。
それでも言葉を待っていると、なんだか居心地悪そうな顔で、うつむきがちに口を開いた。
「なんていうか、それでいいのかなあって思って」
「帰宅部に言われてたら世話無いな」
「そういうんじゃなくてさ。ただそう思っただけなんだけど」
アメはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、うまく言葉にできないようだった。
「何か言いたいことがあるのなら」と部長は笑った。
「文芸部に入って、それを文章にしてみませんか?」
テレビのコマーシャルみたいな器用で技巧的な笑み。
この人の笑顔はどことなく信用できない。
アメはしどろもどろになりながらも「あ、いや、その」とかなんとか言ってる。
五分くらい放っておいたらホントに入ってしまいそうだ。
「そんなに難しく考えなくていいんですよ。実質茶飲み部ですし」
部長の言葉が皮肉っぽく聞こえるのは、俺の性格のせいなのだろうか。
「昼寝部として使ってる人もいますしね」
言いながら、部長はちらりと俺を見た。雑談が活動の八割を占める部で雑談する相手がいないなら寝るしかない。
いや、相手がいても寝るんだけども。
「……考えておきます」
アメがそういうと、部長は「こんなところか」というふうに笑うのをやめた。
笑顔と笑顔の間に、ときどき、退屈そうな、断絶めいた無表情が挟まる。
すごく短い間だから、気付かない奴は気付かないだろうし、大抵の奴は気付いても気のせいだと無視するだろうけど。
部長はときどき、そういう顔をする。
目の前で起きてることなんて、どうでもよさそうな顔。
それがパッという笑顔に変わる。
「そうだ。試しに文集とか読んで行きませんか? 去年の文化祭で発表した奴とか」
まるで思いつきみたいな適当な発言。
「読んでいったら? 俺は帰るけど」
と俺が言うと、アメの困り顔は二割くらい深刻さを増した。
「ちょ、っと。なにそれ。待ってよ」
俺が鞄を持って立ち上がると、アメは慌てながら部長に頭をさげて、丁寧に断りを入れていた。
こいつの行動原理というものが掴めない。
部長は残念そうな顔をした――というよりは、作った、というふうに見えた。
それから笑った。
「しかたないですね。興味があったら、また今度きてください。わたしはいつもいるので、歓迎しますよ」
ありがとうございます、とアメは頭を下げたけれど、自分の調子を崩されて戸惑っているようだった。
「それじゃあ、俺は帰りますね」
「もうちょっといてください。寂しいじゃないですか」
部長はあからさまな嘘をついた。俺は彼女が嘘をついていると分かった。
彼女は俺が嘘を見抜いていると気付いていた。
「そんなことを言われるとどきどきしてしまいます」
なんだか冷めた気分でそんな冗談を口に出すと、部長も冷めた感じに笑った。
◇
「変な人だね」
部室を出て廊下を歩いていると、不意にアメがそんなことを言った。
「誰のこと?」
「部長さん」
「べつに変な人じゃないよ」
「そう?」
「ちょっと機嫌が悪かったんだろ」
「……そんなふうには見えなかったけど」
「そうかもね。ところで、いつまでついてくるの?」
階段を下りながら訊ねると、アメは意外そうな顔をした。
「あ、一緒に帰っちゃ駄目?」
「方向違うだろ」
「途中まで一緒だよ、たしか」
階段を一足とびで下りきって振り返ると、アメはリズムに乗るように上下に小さく跳ねながら、俺が追いつくのを待った。
「駄目かな?」
「別にいいっちゃいいんだけど」
言葉の途中であくびが出そうになって、俺は顔を背けて噛み殺した。
「寝不足?」
しっかりとみられている。まあ隠そうとしたわけでもないんだけど。
「人とたくさん話した日は、眠くなるよね」
「誰とそんなに話したの?」
彼女は無邪気な顔で首を傾げた。俺は目の前の女の子のことがちょっと憎らしくなった。
「一緒に帰るのはべつにいいけど、俺、用事あるから」
「なに? 用事って」
怯まない奴だ。ブレーキが壊れてるのかもしれない。
下駄箱まで歩く間も、アメはつかず離れずの距離を保っていた。
「買い物」
「何買うの?」
「夕飯の食材」
「自分で作ってるの?」
俺は靴を履きかえながらその言葉を無視した。
「スーパーに寄ってかなきゃいけないんだ」
彼女はちょっと考えるような素振りを見せてから、
「じゃあ、わたし、ついていってもいい?」
そんなことを言った。
俺はいいかげん怖くなってきた。
「あのさ、俺ときみ、そんなに仲良かったっけ?」
「え?」
「一緒に帰ったりさ。放課後部活までついてきたり。そんなことするくらい仲良かった?」
もっと怯えたような顔をするかと思ったんだけど、アメはきょとんしただけだった。
「なんでいきなり、俺につきまとうんだ?」
「なんでって……」
じっと目を合わせると、彼女はちょっと慌てたように顔を背けた。
「好きだから」
「……は?」
「……」
「……」
彼女は言葉を重ねなかった。
◇
俺が昇降口を出ると、アメも慌てて靴を履き替えて追いかけてきた。
校門を出ていこうとすると、彼女も当然のようについてくる。
太陽はまだ暑っ苦しい光線をまき散らしている。グラウンドから野球部の掛け声。
「自転車は?」
俺は半ば諦めながらアメに訊ねた。
「え?」
「自転車通学なんだろ?」
「あ、うん。今日はいいや。バスで帰る」
「バスで来たの?」
「ううん。朝は自転車だったけど」
何を考えているのか分からなくて、いっそ眠たくなってきた。
まあ、思い返してみれば、人の気持ちなんてわからないものなのかもしれない。
どうでもいい話だけど。
◇
商店街には寄らずに、帰り道の途中にあるスーパーで買い物を済ませる。
冷房のきいた店内が、夏の街並みとのギャップで天国にも感じられる。
アメは俺の横をとことこ歩きながら、物珍しそうな顔であちこちを眺めていた。
まさかスーパーに入ったことがないわけでもないだろうけど。
「晩ごはんなに?」
と、彼女は自分が食べるわけでもないのに訊ねてきた。
「カレー」
仕方なく答えると、「ふーん、カレーかー」と感心したように息を吐いている。
ひどく落ち着かない。
そういえば、サラダ油とキッチンタオルが切れかかっていた。米はまだある。
まだ、何か買わなければいけないものがあった気がする。
なんだったっけ……?
結局思い出せないまま店を出た。
◇
店を出て、帰路につく。
分かれ道が来て、アメはようやく俺から離れる素振りを見せた。
「それじゃ、また明日」
彼女はにっこりと笑った。
俺はその笑顔をなんだかうさんくさく感じた。
部長の笑顔は――分かりやすい。
嘘をついている、作り物めいている、と分かる。わざとらしい笑み。
だからむしろ、親密さを感じる。
でも、アメの笑顔には嘘っぽさがない。衒いがない。わざとらしさがない。
俺みたいな奴には、そういう笑顔の方が、よっぽどうさんくさい。
アメの後ろ姿を見送りながら、俺は彼女の言葉を思い出す。
『好きだから』、とアメは言った。
リアリティのない冗談だ。
◇
「本当に好きなんじゃない?」
夕飯の準備をしながら雑談のつもりでアメのことを話すと、妹はそんなことを言った。
「だったら尚更、リアリティが欠けてる」
「実際に起きたことにリアリティを求めるって、倒錯してると思うよ」
「冗談かもしれない。うそかもしれない」
妹は溜め息をついた。
「そうかもね」
「落し物探しを手伝ったくらいで人が人を好きになるはずがないだろ」
「もっと前から好きだったのかもしれないよ」
「仮にそうだったとして、どうして今更話しかけてくるんだよ」
「きっかけが欲しかったのかもね」
食卓に皿を並べている間、妹はスプーンを握って準備が終わるのを待っていた。
家事は完全分担である。
「リアリティがない」
「なに、リアリティって」
カレーライスの皿を置くと、妹は手をあわせて「いただきます」と小さく呟いた。
手を洗ってから、俺も自分の席に着く。
「まだドッキリだって言われた方が信用できるな」
「どうして?」
俺は答えなかった。アメの行動は、俺をいちいち不安にさせる。
気味悪さ、居心地の悪さ、居たたまれなさ、そんな感覚すら呼び寄せる。
その理由は、なんとなく自分でも分かりかけていた。
彼女の行動には「怖さ」がないのだ。
「たとえば、おまえに好きな男がいるとするだろ」
妹はちょっと困った顔になった。
「いないけど」
「仮定。で、おまえはその男子に対して、分かりやすく自分の好意を伝えようとする?
たとえばお菓子を自分の手で直接食べさせたりさ。もしくはそんなに直接的じゃなくてもいい。
何の用事もなく話しかけたり、理由もなく一緒に帰りたがったりする?」
「……しない。機会があったら、するかもだけど」
「どうして?」
「だって引かれそうだし、恥ずかしいし」
そういう現実的な感覚が、アメの行動には欠如している。
だから、全部嘘だと言われた方が、俺にはよっぽど納得がいく。
彼女は俺のことが好きだという。そう言われてみれば、と思うような行動もとっている。
でもそこには、リアリティが欠けている。
「リアリティが欠けてるんだよ」
「でも、もし本当だったら?」
妹の言葉に、俺は黙り込んだ。
あるいは、俺が見逃しているだけで、アメの行動にもそうした感覚は付随しているのかもしれない。
現実感が足りないのは、俺の感覚の方なのかもしれない。
俺がそうした行動から、実感を見出せないだけなのかもしれない。
そうだとすれば、俺は彼女に対してかなりひどい態度をとったということになる。
「……なんとなく、信用ならないんだよ」
質問に対しての答えではなく、思考の果ての結論として、気付けば俺はそう口に出していた。
「ところでさ」と、妹は不意に冷たい声を出した。
「このカレー、レトルトだよね?」
「……」
二個セットで160円だった、二人分に鍋を使うのも手間だし片付けが面倒だ。
そう説明しても、妹の機嫌はなかなか直らなかった。
◇
起きろ、と誰かが言っている。
俺はその声を聞いている。確実に。呼びかけに応じて、意識がかすかに浮上する。
「起きろ、ヒメ」
そして目をさますと、俺は教室の自分の席に座っていた。
「次、移動教室だぞ」
声を掛けてきたのはタイタンだった。俺は気怠さに包まれながらも体を起こす。
「……俺、寝てた?」
「ばっちり寝てた」
「……いつから寝てたんだろ」
「さあ?」とタイタンは肩をすくめた。
しっかりと眠っているはずなのに、眠気が取れない。
「疲れてるのか?」
「疲れるようなことはしてないはずなんだけどね」
答えてから、タイタンの質問に違和感を抱く。
「……疲れてるもなにも、俺が寝てるのなんて、いつものことだろ」
「自分で言うなよ」
タイタンは溜め息をついた。俺はあくびをしながら窓の外を眺める。
太陽は南の空から俺たちを見下ろしている。
「日差しがまぶしいなあ」
「夏だからな」
当たり前みたいな調子で、タイタンは返事をくれる。
「太陽の日差しって、あんまり眩しくて、眠くならない?」
「……悪いが、さっぱりわからない」
「あ、そう」
体が無性にだるかった。嫌な夢を見ていたような気がする。
「タイタンはさ、好きな女子とかいる?」
俺が訊ねると、彼は目を丸くして驚いた。
「なに、急に?」
「べつに。なんとなく」
ふうん、という顔をして、彼は考え込んだ。
「そういえば、いないな」
「なに? そういえば、って」
「意識してみれば、って意味だよ。普段考えたことなかった」
へえ、と俺は思った。
まあたしかに、彼は野球部の新入部員として白球を追いかけるのに夢中だ。
まだ入学して何ヵ月も経ったわけではない。考えて見れば、べつに不思議な話でもない。
「どうして急にそんな話をするんだ?」
「べつに」
「何かあったの?」
「あったと言えば、あったかな」
答えながら、俺は辺りの様子をぼんやりとうかがう。
教室に残っている生徒は、だいたい半数くらい。残りはもう移動しているんだろう。
いくつか知った顔もあった。そのうちの二人とは目もあったけど、俺は逸らした。
俺だって本当なら器用に笑いかけるくらいのことはやりたかったけど、タイミングを逸してしまったのだ。
彼らはちらりと俺の方を見てから、何事もなかったみたいに教室を出て行った。
タイタンは呆れたみたいに溜め息をついたけど、俺はそれを無視して立ち上がる。
「移動教室だろ。俺たちも行こう」
「はいはい」
とタイタンはどことなく投げやりに言った。
◇
放課後になってすぐ、アメは当たり前みたいに俺に話しかけてきた。
朝から一度も話しかけられなかったら、やっぱり何かの冗談だと思っていたのに。
彼女の態度は、昨日までと何も変わらない。
「今日も部活?」
「まあね」と俺は言った。
普段からそんなに頻繁に参加しているわけでもないけど、夏休みが近いし、なんとなく顔を出しておきたい。
「一緒にいってもいい?」
「好きにしなよ」
「ありがとう」
アメはお礼を言ったけど、それはどう考えても変だった。
どうして彼女が俺に感謝したりするんだろう。
◇
部室にはやっぱり部長がいて、部長はいつもみたいに笑って、昨日みたいにアメを歓迎した。
「今日も来てくれたんですね」
部長は嬉しそうに笑って、アメに駆け寄って、彼女の手をとって軽く上下に振った。
アメは相変わらず部長のテンションに戸惑っている。
俺はそのやり取りを無視して定位置に腰かける。
ノートを開く。物語は鮮やかに完結していた。
不良を庇って車に轢かれた主人公は意識不明の重症になる。
集中治療室の前で長椅子に腰かけたまま、祈るように俯き涙を流す不良。
そして奇跡。主人公は目を覚ました。
当たり前みたいにループが終わる。
ループがなぜ起こったのかなんて、物語の中ではふれられない。
ループは「書く側」が思い通りの展開にするために起こった。
不良を死なせたくないと「書く側」が思ったから、起こった。
だから、不良が死なず、主人公も幸福であれば、ループは起こらない。
そして、また新しい不幸が書き足される前に、誰かが幸せなまま完結させてしまった。
不良は主人公を見舞って、庇われたことを気に病んで、謝る。
主人公は不良が生きていることを喜び、幸福を噛みしめる。
術後の回復は奇跡的で、主人公はあっというまに退院する。
不良は主人公をいい女だなあと思い、ずっと一緒にいて大切にすると誓う。
そして彼は、茶色かった髪を黒く染める。
おしまい。
誰が書いたのかは知らないけど、まあこんなものだろう。
最後のページの下の方には、「みなさんお疲れ様でした」との書き込み。たぶん部長だろう。
完結させた奴とは筆跡が違う。
次のページは白紙だった。
「お疲れ様でした」
と部長は俺に後ろから声を掛けてきた。
「大作でしたね」
「はい」
部長はにっこり笑う。
「百万部は売れる」
「ヒメくんは、キャッチーなものが嫌いですか?」
「キャッチーなものが、俺を嫌いなんですよ。悪いっていいたいわけじゃない。馴染めないんです」
部長は困ったふうに笑った。
「でも、この終わり方は――誰が書いたか知らないけど、いいと思いますよ。
俺は幸せそうな人たちを見ると、それが物語だって分かってても泣けてくるんですよ。
こういうのだって別に悪いわけじゃない。でも、ただ、他人事なんです」
「他人事じゃない物語って、どんなのですか?」
「少なくともループはしないでしょうね」
あるいは、ループしたところで何も変えられない物語。
「とりあえず、わたしにわかるのは」と、彼女は棘のある、それでもどこか楽しそうな声音で言った。
「きみがとてもひねくれてるってことだけですね」
部長にそんなことを言われるとは思っていなかったから、俺はちょっと傷ついた。
「俺は俺なりに、すごくまともですよ」
◇
「ねえ、土曜日って暇?」
昇降口を出たとき、当然のように俺と肩を並べて、アメはそう訊ねてきた。
「暇だけど」
「じゃあ、映画観にいかない?」
「映画?」
「気になってるのがあるの。ほら、今CMやってる奴」
彼女が挙げたタイトルは、最近本屋で平置きされてる日本の小説を原作にした恋愛映画だった。
まあ、学生が見に行くにはちょうどいい、気軽な感じの奴。たぶん笑いあり涙あり。
「あのさ、だから、どうして……」
「どうして、つきまとうの、って?」
俺はアメの顔を見た。彼女は真剣な顔をした。
「もう言ったよ。わたし、好きだって」
彼女の表情は真剣そのもの、のように見えた。
俺にはよく分からなかった。
「本気で言ってるの?」
俺はそう訊ねた。自分でも、なぜそこまで彼女を疑わしく思うのか、分からない。
理由がない。
彼女が俺を好きになる理由がない。
「本当だよ」
と彼女は言葉を重ねた。それから俺の目をまっすぐと見据えてくる。
「好きって、なんだよ」
「好きは、好きだよ」
アメは照れくさそうに笑った。顔を頬を赤らめて。拗ねるみたいに目を逸らして。
俺は、彼女が怖かった。
「それで」
と彼女は言葉を続ける。
「映画。どうかな?」
俺は、気付けば頷いていた。
彼女は嬉しそうに笑って、具体的な時間と待ち合わせ場所を提示してきた。
夕陽が街を照らしている。
自分の身に今起こっていることが、信用できない。
これは夢じゃないのか。そう思った。
「今すぐじゃなくたっていいし、すぐに信じてくれなくてもかまわない。わたしも唐突だったし」
でも、と彼女は続ける。
「わたしはヒメのことが好きだし、できたら、付き合いたいって思ってる。返事は、すぐじゃなくていいけど」
時間が経てば経つほど、俺の頭は混乱していった。自分が何を問題にしているのか、それすら分からない。
不愉快なわけじゃない。でも、信用できない。心が開けない。
何が問題なんだろう?
◇
家に帰って、自室のベッドに寝転がっていた。
アメと話すようになってから、俺の頭はぼんやりとして落ち着かない。
ずっとざわついている。
開け放した窓から吹き込んでくる夏の風は、俺の部屋の埃っぽい空気を入れ替えていく。
階段を昇る足音。
追いかけるようなノック。
「お兄ちゃん? 寝てるの?」
妹が帰ってきたのだ。
ということは、もう時刻は六時を過ぎているんだろうか?
目を開けてみると、部屋の中は薄暗くなってしまっていた。
どれくらいのあいだ、横になっていたんだろう。
体を起こすと、妹は呆れたみたいに溜め息をつく。
「帰って来てないのかと思った。なにかあったの?」
俺は答えあぐねた。何か、聞いてほしい話があったような気がする。
でも、それは言葉としてまとまる前に、塵のようにばらばらになって、形が分からなくなる。
残るのはなんとなくの印象と、鬱陶しいような憂鬱だけ。
「なんでもないよ」
と俺は答えた。それからベッドを抜け出す。妹は部屋の入口に立っていた。
廊下の灯りが暗い部屋の中に差し込んで、光と影を絵のように際立たせる。
窓を閉めてから、扉へと向かう。
妹は何か言いたげにしていたけれど、背中を軽く押すと、階段の方へと歩きはじめた。
部屋を出て扉を閉めたとき、俺の体は廊下の灯りの中にあった。
それなのに、俺の中の何か、俺の魂の十八分の一くらいが、部屋の暗闇の中に取り残されているような気がした。
◇
夕飯の後、俺は公園へと向かった。
気分がどうしても落ち着かなかった。
何を考えているのかは明らかだ。俺はアメのことを考えていた。
街灯に照らされた道を歩く。空には月と星。
ときどき、部屋でじっとしていることが耐えられなくなって、無性に歩き出したくなる。
そういうときはこらえずに目的もなく歩くことにしているのだけれど。
公園に着いたとき、ベンチに誰かが座っていることに気付いた。
街灯に照らされていたから、それが誰なのかはすぐに分かった。
「こんばんは」
とシロは言った。膝の上で、猫の方のシロが丸くなっている。
「こんな時間に出歩いてたら、危ないよ」
「ごめんなさい。ちょっと事情があって」
シロは口の上では謝りながらも、平然と笑っていた。
楽しげなくらいに。
「危ない目に遭ってからじゃ遅い」
「そう、遅いんだよ」
俺は大真面目に言ったつもりだったが、シロはそんな言葉でごまかしただけだった。
溜め息をつくと、今度は少しだけ申し訳なさそうな顔で、シロはまた笑う。
「星がきれいだね」
と彼女は言った。
「このところ毎晩だよ」
「毎晩空を見上げているの?」
「気が向いたときだけね」
ほら、とシロは上空を指差した。
「飛行機だよ」
赤い明滅。
飛行機には目的地がある。
予定、約束、目的がある。
「何か変わったことでもあった?」
俺がぼんやりと飛行機の動きを見送っていると、シロはそんなこと訊ねてきた。
「みんなそんなことを言うんだ。俺ってそんなに分かりやすいのかな?」
「へえ、そうなんだ。ということは、何かあったんだね?」
俺はその言い回しに違和感を覚えた。俺の様子から何かを察したわけではなかったのだろうか。
もちろん、そんなに長い付き合いでもないのだ。当たり前のことといえば、当り前のことだけど。
「まあ、いろいろとね」
「困ってるの?」
「まあ、少し」
どうして話す気になったのか、分からない。
年下だからか。普段、あまり話さない相手だからか。直接の関係のない相手だからなのか。
分からないけど、どうしてか、話す気になってしまった。
「告白されたんだよ」
「おめでとう。よかったね」
「……どうして『おめでとう』なんて言う?」
「嬉しくないの?」
シロは当然のようにそう訊ねてきた。
「分からない」
俺はそう答えた。だって俺は彼女のことなんて好きでもなんでもないのだ。
そんな相手に好かれたからって、何がどうなるというわけでもない。
「お兄さんは寂しかったんじゃないの?」
まるで、ずっと前から俺のことを知っていたみたいな口調で、シロは言った。
空には月と星と飛行機。太陽は沈んでしまった。街灯の灯りが辺りをむなしく照らしている。
「好きだって言ってくれる人がいたなら、よかったんじゃない?」
まるで、どこか、説得するみたいな。
「喜んだって、いいと思うよ」
「信じられないんだよ」
「好きだって言われたことが?」
「そう」
「信じるのが怖いんじゃなくて?」
「……そういうのとはちょっと違う」
「ああ、なるほど、つまり……」
シロの表情は、そのとき一瞬だけ、嘘みたいに親しげなものになった気がした。
「相手の言葉が信じられないんじゃなくて、自分が好かれるってことが信じられないんだ?」
俺は言葉に詰まった。
「つまり、相手を信じてないんじゃなくて、自分が信じられないんだね」
彼女は楽しげに言葉を続ける。街灯の灯りの下で、彼女の表情はきらきらと楽しげだった。
「自分が好かれるわけがないって思ってたんだ? 見かけより臆病なんだね」
俺は息を吐いた。夏とはいえ、日が沈んでから薄着で出て来たからだろうか。少し肌寒い。
空を見ると、飛行機の影はもうずっと遠く小さくなって、既に赤い光でしかなくなってしまっていた。
不意に、猫の鳴き声が聞こえた。俺は空を見ていた視線をベンチに落とす。
彼女はいなくなっていた。
◇
シロがいなくなったあと、俺はしばらくひとりで空を見ていた。
飛行機は既に見えなくなっている。
辺りは静まり返っている。気付けば、ベンチに居たはずの猫さえも姿を消していた。
溜め息をついて、俺は公園を後にする。
家に帰ると、ダイニングでテレビを見ていた妹が、「どこに行っていたの?」と訊ねてきた。
「散歩」
「この時間に?」
「夜の散歩は、気持ちいいよ」
「そうかもね。麦茶飲む?」
頷くと、彼女は立ち上がり、俺の分のコップを用意して、麦茶を注いでくれた。
麦茶を一気に飲み干すと、彼女はちょっと感心したような声を漏らした。
「ありがとう」と俺は言う。
「どういたしまして」と妹は言う。
それから彼女は、ちょっと真面目な顔になった。
「なにか、考え事?」
「どうして?」
「お兄ちゃん、悩みがあるときは、歩く癖があるから」
「……そう?」
「そうだよ。いつも」
煩わしくなったのか、彼女はリモコンを手に取ってテレビを消した。部屋の中から音が消える。
静かな家。空虚な家。誰かのせいでからっぽになった家。
「もしかして、この間言ってた話と関係ある? 告白されたっていう」
「おまえには本当に、敵わないよ」
「また、何か言われたの?」
「……好きだって、はっきり言われた。付き合ってほしいって」
妹は「ふうん」という顔をした。珍しいこともあるもんだ、というような。
「一緒に映画、見に行くことになった」
「ふうん……。何を悩んでるの?」
「自分でも、よくわからないんだよ」
俺の答えに、妹は黙り込んでしまう。少ししてから、苦笑した。
「それは、困ったね」
ほんとうに困ったね、と言いたげに。
「その人のこと、好きなの?」
「好きじゃない、と、思う」
「じゃあ、断るの?」
そう訊ねられて初めて、そうか、断ればいいのか、と気付いた。
その発想が、なぜか、まったく思い浮かばなかった。
「何か、気になることがあるの?」
妹は不思議そうな顔で俺を見上げた。
「気になるっていえば、気になるんだ。どうして俺のことなんて好きになったのか」
「ふうん。へんなの」
でもさ、と妹は言葉を続けた。
「気になるなら、訊いてみたらいいんじゃない?」
「訊いてみたよ」
「ちゃんと?」
ちゃんと、か、どうかは、分からない。
妹は何かを察したみたいに溜め息をついた。
「一度、真正面から話してみたらいいと思う。誰かに好かれるのって、べつに悪いことじゃないよ」
彼女の言葉に、俺は強い抵抗を覚えた。なぜなのかは、分からないけど。
「本当にそう思う?」
挙げ句俺は、そんな質問までした。
「思うよ。お兄ちゃんもそろそろ、彼女のひとりくらい、作ってもいい頃だよ」
まるで、妹じゃなくて親みたいな発言だ。
「俺には、そういうの、よくわからないんだよ」
「そういうのって?」
「誰かと付き合うとか、付き合わないとかさ」
妹はぼんやりとした様子で「うーん」と唸ってから、言う。
「……本当のところ、みんな分かってないのかもしれないよ」
やけに大人びた声だった。
「恋愛感情だって、最初からそれだと自覚できるものじゃないのかもしれない。
最初はなんとも思ってなくても、一緒にいるうちに、居心地がよくなって、好きになっていくかもしれない。
そういう形だって、べつに悪いものじゃないって、わたしは思うよ。深く考えることなんてないと思う」
その言葉に感心しつつ、ぼんやりと妹の手を見ていた。小さな手のひら。
妹は、何気ない調子で言葉を続ける。
「それとも、他に好きな人でもいるの?」
俺は、うまく返事ができなかった。
◇
土曜日、俺とアメは映画館にやってきていた。
見慣れない私服を着たアメは、そわそわとして落ち着かない様子だった。
待ち合わせ場所で会ってから、彼女と俺は二言が三言くらいしか話さなかった。
それ以外の時間はずっと黙っていた。
余裕をもって到着していたおかげで、上映時間までは時間があった。
ちょっと休みながら話をすることくらいはできる。
俺たちはチケットを買ったあと、待合室のテーブルに陣取った。
この頃になるとさすがに沈黙が気まずくなった。
俺は話題がほしくて、そこらじゅうに視線をやった。
話題になりそうなものはたくさんあったけど、どうやって話題にすればいいのかが分からない。
ふと、アメの方に目をやると、彼女は緊張した様子だった。
自分から誘っておいてこんなに緊張するのもどうなんだ、と思うものの。
緊張させているのが自分なのだと思うと、申し訳ない気持ちになる。
もっとさばさばした子だと思っていたんだけど。
「そんなに緊張するなよ」
思わず呆れ気味にそんなことまで言ってしまった。
アメは即座に顔をあげて、強がるみたいに返事を寄越した。
「緊張なんて、してないよ」
語尾が少し震えていた。俯いたまま、膝の上で、落ち着かないように何度も手を組み直している。
「それならいいけど」
あまり深くは追及しないことにして、俺は彼女の様子をぼんやりと眺めた。
かわいい子だ。それは分かる。
俺のことを好きだ、と言ってくれた。それも分かる。
順序だって話をすることのできる人。相手の目を見て話ができる人。相手の立場になって物を考えられる人。
「ねえ、どうしても訊いておきたいことがあるんだけど、いい?」
俺が訊ねると、アメの緊張は強まったようだった。
こっちまで緊張してしまう。
「……どうして、俺のことを好きになったの?」
アメは、一瞬きょとんとした顔になった。それからあっけにとられたように、笑う。
そんなことか、とでも言いたげに。
「そんなに不思議?」
「とても」
俺はとても真剣に言った。すごく、切実なことだった。
「どうしてそんなことを気にするのか、よくわからない」
「普通、気にすると思う。俺ときみは、話をしたことだってほとんどなかったんだから」
彼女はちょっとほほ笑んだ。嬉しそうに見えたのは、錯覚かもしれない。
「きみからすれば不思議だろうけど、わたしからしたら、ぜんぜん不思議なんかじゃないんだよ」
彼女があんまり楽しそうな声で話すものだから、俺は返す言葉に困ってしまった。
「でも、できれば秘密にしておきたいんだ。どうしてもっていうなら、話すけど……」
俺は少し考えてから、その言葉を遮った。
「いいよ。無理に話さなくて。気にはなるけど、どうしてもってことじゃないんだ」
ただ、自分で上手く消化できなかっただけで。
話をしている間に、リラックスしてきたのだろうか。彼女は打ち解けた様子で、俺に話しかけてきた。
学校でのこと。休日の過ごし方のこと。家族のこと。そんなとても些細なこと。
やがて時間が来て、俺たちはシアターに入場した。
立ち上がるとき、俺は彼女ともっと話していたいと思っている自分がいることに気付いて、戸惑った。
いつのまにか、滲むような気味の悪さが湧くこともなくなった。
納得したのだ、俺は。
◇
帰りの別れ際、アメは「今日はありがとう」と言った。
何もしていない、というべきか、こちらこそありがとう、というべきか、分からなかった。
結局口から出せたのは、
「ああ、うん」
そんな曖昧な頷きだけだった。
「ねえ、もしよかったら、なんだけど……」
「なに?」
「夏休みに入ってすぐ、お祭りがあるでしょ?」
「……商店街の?」
「そう。できれば、一緒に行ってくれないかな?」
「……いいの?」
「なにが?」
「俺で」
彼女はちょっと呆れたみたいに笑った。
「きみと一緒がいいんだよ」
それから、一瞬だけ躊躇うような表情になったけれど、すぐにそれを打ち消して、彼女は言う。
「できれば、そのときまでに、返事をくれると、うれしい」
俺は、すぐに答えを返せなかった。
約束はできない、と、そう思った。
「今日は、楽しかったよ」
俺はごまかすような気持ちで、そう言った。うそではなかった。
不思議なほど、楽しかった。
今日、初めて、彼女と真正面から話をしたような気がした。
これまで俺は、彼女という個人をまったく見ていなかった。
彼女という人間を含む、俺を取り巻く状況を見ていただけだった。
そして、ひとりの人間として見てみれば、彼女はとても魅力的だった。
明るくて話しやすくて、感情表現が豊かで、表情がころころ変わる。指先の動きひとつひとつに心の機微が現れる。
その変化は、見ていて飽きない。
彼女は俺を好きだと言ってくれた。
「それじゃあ、また月曜に」
彼女は不器用に笑った。いかにも、気恥ずかしさをごまかしたような、取り繕ったような笑み。
「ばいばい」
そして、少し離れてから、こちらに向けて手を振る。
まるで猫でも見ているような気分になった。
俺は帰路につきながら、気付けばアメのことばかり考えていた。
彼女と交わしたひとつひとつの会話とか、彼女の仕草のひとつひとつを思い出したりした。
そして、自分の単純さに愕然とする。
たぶん俺は、彼女を好きになりつつある。その考えは、すとんと胸に落ちた。
でも、そう考えると同時、耳鳴りのような感覚が、俺の聴覚を襲う。
何かを忘れているような気がした。何を忘れているのかは、思い出せなかったけれど。
◇
起きて、と誰かが言っている。俺の体を揺すりながら、誰かが。
俺は深く眠っている。飛行機の夢を見ている。
起きて、ともう一度繰り返される。
甘い声。柔らかな。困ったような、そんな声。どこか頼りない、女の子の声。
体を揺さぶられるたびに、俺はその振動に余計に心地よくなる。
ゆりかごのような感覚。
起きて、と誰かは言う。俺の意識は、まどろみのなかで浮上しかかっている。
「起きてよ」
声は何度も、その言葉を繰り返す。起きてよ、起きて。
「起きて」と誰かが言うそのとき、俺は現実に「求められている」。そんな気がする。
◇
「起きろってば」
ぱし、と、頬に熱のような痛み。鋭い音。
思わず目を開いて、顔を起こす。状況がすぐにはつかめなかったが、場所は教室で、辺りには誰もいなかった。
アメを除けば。
「ぜんぜん起きないんだから」
アメは、呆れたように溜め息をつく。俺は気怠い体を動かして、頭を机から引き上げる。
自分の席で、居眠りをしたまま、目を覚まさなかったらしい。
こんなふうに学校で眠りこむことは、最近では、そうそうなかったんだけど。
アメは、俺の隣の席に座っていた。チュッパチャップスを口にくわえながら。
「寝てる間に、もうみんな帰っちゃったよ」
言われて時計を見るけれど、まだそんなに遅い時間ではない。
それなのに、周囲には生徒の姿はない。部活動の声も、聞こえない。
人気のない、夏の校舎。濃い影と陽射しのコントラスト。
「みんなは?」
「もういないよ」
「どうして?」
「帰ったよ。ヒメが寝てる間に」
その言葉に、俺は一瞬だけ、すさまじいほどの不安を覚えた。
「俺が寝てる間に?」
「そう」
「みんな?」
アメは不思議そうな顔をした。
「帰ったよ」
「……そう、なんだ」
体の節々が、じわじわと痛む。やけに手足が重い。座りながら眠ったせいだろうか。
「もう終わっちゃったよ。眠ってる間に」
「……なにが?」
「なにが、って」
アメはまた、溜め息をついた。
「終業式」
「……え?」
「途中からずっと寝てたでしょ、ヒメ。教室に戻ってくるときも、半分寝てたみたいだったし」
苦笑しながら、アメは窓の外を見た。視線を追いかける。空には太陽。外は明るい。
でも、俺たちのいる場所は暗い。光と影はしっかりとした線で区別されている。
なんとなく、雨が降りそうな気がした。
「終業式、終わった、のか」
「うん。もう、夏休みだよ」
教室には、もうざわめきすら残されていなかった。
アメが起こしてくれなかったら、俺はきっと、ずっと眠ったままだっただろう。
「タイタンは?」
「帰ったよ。用事でもあったの?」
「いや。挨拶くらい、したかったな、と思って」
「本当は、ヒメに声かけてたんだよ、彼」
起きなかったけど、と、アメはくすくす笑う。俺の居心地は悪くなる。
「でも、わたしが起きるまで待ってるって言ったら、帰っちゃった」
「……帰ったのか」
「気をつかってくれたみたい」
ここ最近、アメと一緒にいることが多いせいで、タイタンはやけに俺たちに気を使う。
学校でも、登下校中も、アメが俺のそばにいることは自然になりつつあった。
「飴、食べる?」
当たり前みたいな顔で差し出されたので、当たり前みたいに受け取ってしまった。
何も言わず封を開けかけて、ふと思い直して、
「ありがとう」
と口に出す。彼女はおかしそうに笑った。
「どういたしまして」
おどけたような声。楽しいやりとり。
「眠るつもりなんてなかったんだよ」
と俺は言った。アメは不思議そうな顔をする。
「急に、どうしたの?」
「眠るつもりなんてなかったんだ」
彼女は、よくわからない、というふうに首を傾げた。
「よく分からないけど、起きたんなら、帰ろっか」
アメは、それが当然のことみたいに提案した。ここ一週間、俺は彼女と一緒に下校していた。
俺は口の中に飴玉を含んだ。うっとうしいほどの甘味。
「ありがとう」
「……え?」
「起こしてくれて。待っててくれて」
「……どう、いたしまして?」
アメは、不思議を通り越して、怪訝そうな顔になった。
彼女は俺のことを好きだと言ってくれた。それは嬉しかった。
彼女は俺と話す時、よく笑う。それが気持ちいい。心地いい。
きっと俺は、彼女のことが好きなのだと思う。好きになったのだと思う。
どうして彼女は、俺のことを好きになったんだろう。
「ねえ、ヒメ――どうして、泣いてるの?」
◇
夏祭り、商店街の入り口で待ち合わせをした。
夕方五時過ぎ、俺はアーケードの入口の近くで、アメを待っていた。
辺りは、まだ明るい。
待ち合わせ時間は、少し過ぎていた。辺りは大勢の人でにぎわっている。
自分の声も聞こえなくなりそうなほど、騒がしい。
同じ場所で誰かを待っている人は、他にも大勢いるみたいだった。
心細さと緊張と不安から、俺はずっと落ち着かなかった。
アメは、待ち合わせ時間の十分後に、浴衣姿で現れた。
「ごめん、準備、手間取って」
彼女の声は、いつもよりずっと聞き取りにくかった。
雑踏のせいなのか、それとも、彼女の声がいつもより小さいのか、よくわからなかった。
俺がすぐに返事をせずにいると、彼女は不安そうな目をして、自分の姿を何度も確認して、居住まいを正した。
「ああ、うん」
俺の口からやっと出て来たのは、そんなどうしようもない相槌だった。
俺たちは十五秒くらい向かい合ったまま黙り込んでいた。
何を言うべきかは、だいたい心得ていたつもりだし、それを口に出しても、さいわい嘘にはなりそうにない。
でも、うまく言葉にできなかった。言葉にするのが怖かった。
なんだか――気味悪がられそうで。
アメは、怯えたように、何度か視線を俺から外した。やがてじれたように、震えた声を出す。
「えっと、どう、かな?」
「……いい、と思う」
「……」
「似合ってる」
ありがとう、と彼女は俯いた。
どうしてだろう?
小さな声だったのに、騒がしい雑踏の中なのに、俺の耳は彼女の声を聞き逃さなかった。
不思議な引力でも働いてるみたいに。
◇
俺たちは言葉もなくぶらついた。
気恥ずかしくて、つかず離れずの距離を保っていたせいで、何度も俺たちの間を、人々が縫うように行き過ぎる。
それがわずらわしくなったせいだけじゃないけど、俺はアメに手を差し出した。
彼女はきょとんとしていた。
「はい」
と、我ながら意味の分からない言葉で、俺は手のひらを求めた。
少しの間沈黙した後、彼女はほころぶように笑った。
「うん」
浴衣だからか、それとも元々の歩調の違いか、あるいはその両方か。
分からないけれど、彼女の歩調に合わせて歩くと、俺はいつもよりずっとゆっくりと歩くことになった。
いつもは、俺のことをからかったり、おどけてみせたり、はしゃいだりするアメ。
それが、今日は大人しくて、俺は戸惑う。やけに緊張する。たかだか、夏祭りなのに。
たかだか、普段と服装が違うだけなのに。「それだけ」だと思えないほど、心臓がうるさかった。
「なにか、食べる?」
「甘いもの」
「かき氷?」
「リンゴ飴」
「ここにきても、飴?」
「嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
俺たちは一度立ち止まって、夜店の中で目的のものを売っている場所を探した。
人々の流れはうねるみたいで、そこら中を行き交っていて、放っておくと流されそうだった。
手を繋いでいるせいで、俺とアメの距離はいつもよりいくらか近かった。
温度とか、呼吸の気配とか、そういうものが、やけに近く感じた。
俺たちはリンゴ飴を買った。アメは財布を出したけど、結局俺が払った。
「ありがとう」
と言いながらも、彼女は微妙そうな顔をしていた。自分で買いたかったのかもしれない。
「どうして、急に……」
「え?」
「おごったり、するの?」
どこか緊張した様子で、彼女は俺からリンゴ飴を受け取った。
人ごみの流れから外れて休みながら、俺たちはそれを食べることにした。
「自分でもよくわからない」
「そういうこと、今までしなかったのに」
「うん。でも、今となっては不思議なくらいだ」
「……どういう意味?」
「誰かに何かをおごるって、楽しいし、気分がいいって、やっと分かった」
俺の言葉に、アメはちょっと不思議そうな顔をした。
「相手が誰でも?」
「誰でも、じゃないかもしれないけど」
「もしそうなら……」
「そうなら?」
「嬉しい」
「……」
「……かも」
俺は普段なら言わないようなことを口にしたし、彼女も普段ならしないような返事をした。
なにかが違っていた。だから俺は笑った。これでかまわないのかもしれない。
リンゴ飴を食べながら休んでいると、彼女はそわそわと落ち着かない様子になった。
なんとなく、その理由は察しがついた。
――できれば、そのときまでに、返事をくれると、うれしい。
あの言葉に対する返答を、俺はまだ保留していた。
でも……もう、言っていいのかもしれない。
なぜか、今までずっと、不安だったけど、もう、俺も信じていいのかもしれない。
「今のうちに、言っておこうと思うんだけど……」
俺の声に、彼女の体は一瞬、小さくこわばった気がした。
「今までずっと、返事、してなかったけど……」
緊張。動悸。雑踏。頬に浮かぶ熱。茹だるような頭。
アメの表情。不安、かすかな期待と恐怖。
俺は、口を動かして、口に出そうとして――
そのとき、雑踏の中に、シロの姿を見つけた。
なぜか、その瞬間、俺は言葉をうしなった。
うごめくような雑踏の中、シロは立ち止まっていた。
立ち止まって、こちらを見ていた。こちらを眺めて、俺と目が合った瞬間、笑った。
まるで見下ろすみたいに。
そして、すぐに背を向けて、人ごみの中に消えていく。
少しの間だけ、俺はすべての状況を忘れて、その背中をずっと見続けていた。
けれど、
「ヒメ……?」
と、俺を呼ぶ声がして、意識を取り戻す。震えた声。緊張した声。
俺はシロの背中を意識から振り払う。そして、アメの顔を見た。
沈黙が、俺が思っていたよりずっと、彼女を不安にさせていたようだった。
その表情が、俺の決意を一層強固にさせた。
「俺、アメのこと、好きだ」
彼女は、呆気にとられたような顔をした。
それから、
「ほんとに?」
と表情のない声で言う。驚いて、声に感情をのせるのを忘れたみたいな空白。
「たぶん、本当」
「たぶんって、なに?」
拗ねたような声。
「本当」
と俺は言った。
戸惑うような溜め息。
「それは、じゃあ、つまり……」
「付き合ってほしい」
「……」
「一緒にいてほしい」
ほんとうに、そう思った。
たぶん、口に出したら引かれるくらいに烈しく、そう思っていた。
きっと彼女は気付かないだろうけど。
「……うん」
やがて、彼女は頷いた。泣きだしそうな声。
「ほんとは、今日、ずっと、気になってて、飴の味も、よくわからなかったんだよ」
「……ごめん」
「ううん。……嬉しい、から」
リンゴ飴を食べ終えたあとも、俺たちはしばらくそこで休んでいた。
ずっと手を繋いだままだった。
彼女は不意に、まるで表情を隠そうとするみたいに、俺の肩に頭を寄せた。
俺はくすぐったいような、怖いような気持ちになる。
彼女は言う。
「ねえ、わたしが近付いても、嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
と俺は答えた。
「ありがとう」、と彼女は言った。
しばらくそのままの姿勢で、俺たちは何も言わずにいた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
大勢の人たちが、俺たちの前を通り過ぎていった。
誰も俺たちのことなんて、気に掛けていなかった。
「そろそろ行こうか」
と俺は言った。アメは返事をしなかった。
「お祭り、始まったばっかりだしさ」
日が沈みかけ、辺りは暗くなりはじめていた。
どこかから、子供の泣き声が聞こえる。
アメはしばらく黙ったままだったけれど、やがて小さく頷いた。その仕草が、いつもより弱々しく見える。
「行こう」
手を繋いだまま、俺たちは歩き出した。
――歩き出そうとした。
◆
眩暈のような感覚。耳鳴り。歪む視界。
手足の感覚がない。平衡感覚が失われる。音が聞こえない。
誰かが俺のことを呼んでいる気がする。誰かが俺のことを呼んでいる。
ノックの音。繰り返されている。ノイズ。誰かが泣いている。助けを求めている。
パイプオルガンの音色と、赤い絨毯の幻覚。
違う、そうじゃない。
劈くようなクラクションと、赤い血だまり。
誰かがそこで、うずくまって泣いている。
意識が暗転する。引きずられる。
誰かの声がする。嘲りを含んだ声。
――これで満足?
答えるより先に意識が失われた。笑い声がうつろに響く。
そして、ノックの音。
続き: ◇03-01[FOXES]
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