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妹「なぜ触ったし」【前編】
翌日の朝、熱はすっかり下がっていて、俺は普通に登校することができた。
いつものことだ。ときどき原因不明に発熱する。面倒な体だ。
俺と妹は久しぶりにぎこちなさもなく朝の時間を過ごすことができた。
会話はなかったけれど、それは「できなかった」のではなく「しなかった」だった。
いつも通りに迎えに来た幼馴染は、既に起床していた俺に面食らって疑問をなげかけてきた。
「なぜ起きてるんです?」
「なぜ起きてたらだめなんだ」
「起こせないじゃないですか」
意味が分からない。
俺はコーヒーを一服してニュースを眺める。窓の外の空は雨でも降りだしそうな気配がしている。
俺たち三人は冬の朝の静かな街を並んで歩いた。風すらない。人の気配がない。
師走というわりには、なんとも穏やかな朝だ。
「そういえば、知ってます? あそこの公園」
と、不意に幼馴染が近所の公園を指差した。
「知ってるよ、そりゃ」
「そうじゃなくて。あそこにね、犬が来るんですって」
「犬? 野良?」
「飼い犬。夕方になると飼い主と一緒に散歩に来て、しばらくあそこで休んでいくらしいんですけど」
珍しい話でもない。
「予知するんですって」
「ん?」
「未来予知」
はあ、と俺は声を出した。妹は興味なさそうにぼんやりと前方を向いている。
「犬が、未来予知するの?」
「って噂です。詳しい話は知らないですけど」
「眉唾だなぁ」
「ですよね」
彼女はどうでもよさそうに頷く。今の会話はなんだったのだ。沈黙が落ちる。
俺たちは学校に向けて歩いている。俺は無性に走りたいような気分だったが、実際には走りださなかった。
途中で妹と別れ、俺と幼馴染は学校を目指す。
少しずつ人の気配が増えてきて、校門に近付く頃には海流のような人の流れがかすかに見えた。
下駄箱で靴を履き替えて教室を目指す。後者は肌寒い。
階段をのぼって、廊下で幼馴染と別れ、教室に入る。
「決めた!」
という叫び声が、教室に入った途端に聞こえた。
タカヤの声だった。俺はまた何か厄介な事態が起こるのかと頭痛を感じる。
「俺は今日告白するぞ!」
早く出てきたので、教室にはタカヤとモス以外にはまだ誰もいなかった。愛すべき一年三組。担任は高田。
「……タカヤ、声がでかいよ」
俺が声を掛けると、彼らはようやく俺の存在に気付いたようだった。
モスとタカヤの距離は、俺とタカヤのそれよりもずっと近付いている気がする。
俺自身、あまり彼との関係に積極的ではなかったから、当然かもしれないが。
「こないだも同じこと言って、告白しなかったしなぁ」
モスは呆れた声を出した。「みー」はどう思うのだろう、と考えて、彼女のことを俺が考えても仕方ないと首を振る。
何かを言うとろくなことにならない気がしたので、俺は口を挟まなかった。
タカヤの決意は固い。こいつはそんなに先輩が好きなのだろうか。
たぶん違うような気がする。
なんだか、タカヤの考えていることは分からない。
「なあ、お前って先輩のどこが好きなの?」
と、俺はふと口にした。してから後悔する。こんな質問に答えられる奴なんているもんか。
「どこって……」
案の定、タカヤは口籠る。どうしたもんかな、と俺は思った。
「なんかあるんじゃないの、優しいとか話してて楽しいとか、かわいいとかおっぱいでけーとか」
「いや、先輩おっぱいおっきくないし」
よりにもよってそこについて言及するのですか。
タカヤが言うと「おっぱい」という言葉すら爽やかに聞こえる。
「そうだっけ?」
俺は先輩の体型を思い出そうとしてみたが、なかなか頭に映像が浮かんでこない。
「朝からなんて話をしてるんですか、きみたち」
後ろから声がして、振り向くと幼馴染がいた。
こういう意味不明な登場の仕方をする奴が多いから、物事が厄介になっていくのだ。
「いや、タカヤが先輩に……」
と、そこまで俺が口にしかけたところで、タカヤが俺の手のひらで覆った。
「いや、なんでもない。おっぱいの話」
爽やかな笑顔で彼は取り繕う。幼馴染は怪訝な顔をしていたが、そこまで興味が湧く話ではなかったらしい。
最近のことで懲りて、なんでもかんでも問答無用で首を突っ込むのをやめたのかもしれない。
それにしても、幼馴染相手に話をごまかせるようになるなんて、彼も成長したものだ。なぜ隠そうとしたのかは知らないが。
俺は呼吸できない現状をどう打開すべきかと考えながら感心した。
俺はいまいちタカヤの恋心を信用しきれない。
話せるようになった数少ない女子に、優しく接してもらったから、それを恋愛感情と誤解しているのではないか、という気がする。
もちろんだからどうというのではない。そういう形から発展していく関係もあるのかもしれない。
最大の問題は、先輩が猫をかぶっていることだ。
いろんな意味で時間が足りないと思う。
タカヤは焦りすぎだ。もっとじっくりと話を進展させるべきなのだ。
何が彼をそこまで駆り立てるのか。
でかい魚を逃がすことを恐れているのかもしれない。
いずれにしても、上手く行く光景が想像できない。二重の意味で。
めんどくせー奴らが多すぎる。自分を棚に上げていうのもなんだか、世の中はもっとシンプルでいい。
「あーだりー」
タカヤに解放されてから、俺は大きく息を吐く。
「どうしたんだよ」
モスの質問に、俺はぼんやりと答えた。
「昨日の今日で、クラスメイトの視線がなんだか攻撃的だよ」
彼は、まぁしゃあないわなあ、とでも言いたげに溜め息をついた。なんだよそれは。
ちくしょう。あの茶髪野郎め。奴とはいずれしっかりとケリをつけなければなるまい。
俺の自尊心。俺の自意識。俺の方位磁針。打倒茶髪。取り戻すべき指向性。正常な学園生活。
どうでもいい。
そういえば、幼馴染の自尊心はどうなったのだろう?
現状進展はなし……いやむしろ悪化の一路?
この場でする話ではないように思えて、俺は彼女に話しかけるのをやめた。
不意にポケットの中の携帯電話が震えた。
メールだ、と思うが、心当たりがない。
タカヤや先輩にはアドレスを教えていない。……教えるべきなのだろうが。幼馴染、モスはこの場にいる。
ディスプレイを除くと、案の定その誰からでもなかった。
『今日の放課後の予定は?』
妹からのメールだった。俺は動揺を隠して周囲をうかがった。幼馴染が何かに気付いたようにこちらを見た。
『特にない』とメールを返す。
『そう』と返信が来る。それだけかよ。なんだったんだよ。俺は思ったことをそのまま打った。
返信はなかなか来ない。俺は携帯をポケットにしまった。
「パパ?」
と幼馴染が俺を見て小首をかしげる。訝るような目で。こいつはいったいどういうつもりなんだ。
「おお」
初めて実物を目にしたモスとタカヤが声をあげた。感心してる場合か。
幸い周囲は気付いた様子もない。俺の頭はがらんどうだ。
「パパ、浮気ですか」
「誰が浮気だ。正妻は誰だよ」
「わたし」
こいつの頭の中を一度でいいから覗いてみたい。
「娘で妻か。すげえな」モスが感心した。お前の頭もどうなってんだ。
「なにはともあれ、仲が良いのはいいことだ」
モスは頷く。こいつはやっぱりどこかずれている。
「どんなふうに立ち振る舞えばそんなふうになれるんだ?」
タカヤは尊敬だか畏怖だかよくわからない目をこちらに向けた。お前らあとで覚えてろよ。
今思えば俺はもう少し、幼馴染の異変に気を払うべきだったのかもしれない。
何を言っても後の祭りだろう。モラトリアムは終わるものだ。
当たり前のことだが、俺には他人が何を考えて生きているかなんて、ちっとも分かりはしないのである。
昼休みに新聞部の部室に行く。タカヤは妙に緊張していた。
幼馴染は「みー」を連れてきた。なぜかはしらない。たぶん先輩が呼ばせたのだろう。
俺と幼馴染は、どうなっても「みー」には気を遣わざるを得ない。
俺は窓際でパンをかじる茶髪を一心に睨んだ。彼は素知らぬ顔でスマホをいじっている。
どうなんだよそれは。俺は思う。こいつ、俺をいったいなんだと思っているのだ。
ちくしょう、決闘だ。尊厳と尊厳を賭けた戦いだ。俺は奴を殴りたかった。
どうしてこんなに怒っているんだろう。
俺はしらんぷりして先輩と話す。
「先輩は、趣味とかあるんですか」
「特には……ジョギングとか?」
「健康的ですね」
お見合いかよ、とモスが言った。
「すぐに飽きちゃうんだけどね」
「分かります。俺も何度挫折したことか……」
「三日目あたりから飽きちゃうもんね」
「いえ、一日目の段階でやっぱりやめようってなりますよ」
「まずは走りなよ」
走れないんだから仕方ない。
「先輩の恋愛観をお聞きしたいです」
インタビューかよ、とまたモスが言った。タカヤが少しだけ身を乗り出しかけた。
「んー。特別なことは何も。そんなに経験ないし」
「そうなんですか」
とタカヤが身を乗り出した。
「……うん」
先輩は目を丸くする。「みー」は気まずげに視線をあちこちと揺らす。俺と幼馴染まで気まずい。
先輩に話を振ったのは失敗だった、思い、俺は「みー」に向き直った。
「君は?」
「わたし?」
と彼女は驚いたような顔でのけぞる。のけぞるなよ。
「……あの、気恥ずかしいから、「君」ってやめてもらえる?」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
「『みー』でいいよ」
そっちの方が気恥ずかしいという男性心理を感じ取ってほしい。
「それで、えっと……」
俺は質問を繰り返す。
「……『みー』は? 趣味とかあるの?」
俺は無性に照れくさい。幼馴染が呆れたような顔をしている。
そういえば俺は惚れっぽい性格だった気がした。あと女性耐性もない。
「特には」
先輩と同じ答えである。
「最近は編み物とか」
へえ、とタカヤが感心したような顔をする。
やめろ。お前の行動のひとつひとつが俺の心臓に悪い影響をもたらしてるから。
「マフラーとか?」
うん、と彼女は頷く。
「弟の分編んだりしてる」
「手編みかー」
珍しくないようで珍しいような気がする。高校にもなると買う奴の方が多い。
「手編みのマフラーか……」
とモスが憧憬に酔った声をあげる。言葉の響きに何かを感じ取ったらしい。気持ちは分からないでもない。
分からないでもないが……本質的に『手作り弁当』と同じジャンルの言葉だろう。中身は冷食。いやうまいんだけれども。
さて次の質問だ、と俺は思ったが、先輩に向けた質問をそのまま彼女に向けるのはさすがにマズイ。
あせって俺が考えていると、モスが不思議そうな顔でこっちを見た。
なんだこいつ、喉でも詰まらせてるのか、仕方ねえな、俺が代わりに訊いてやろう。そんな顔。
馬鹿野郎、やめろ、死にたいのか。そっちは地雷原だ。自信という名のスーツじゃ防げないタイプの地雷だ。
俺の祈りが通じたのか、モスはこちらを見て不服そうに目を下ろした。俺は安堵する。
その様子を見逃したのか、今度はタカヤが口を開く。
やめろ、お前は存在自体が危ないから。現状不発弾だけど、ちょっとした衝撃でやばいから。
俺は祈ったが、無情にもタカヤの口が開いていく。畜生。
「じゃあさ」
とタカヤが口を開いたところで、机の下で大きな音がした。
机の裏を何かが叩く。少しおいて、タカヤの膝だと気付いた。
「いってえ! 誰か足踏んだ?」
みんな知らん顔をしている。よくやった幼馴染。お前は最高だ。
俺の心臓はまだ高ぶっているが、やはり安堵の方が大きかった。世界は喜びに満ち満ちている。
タカヤは怪訝そうに首をかしげてから、椅子に座りなおした。
それまでの時間で新しい質問を考えられたらよかったのだが、そんな余裕はなかった。
それでも「みー」に対してふたつめの質問をする流れというのは、なぜだか出来上がってしまっていた。
俺は自分を呪う。だがどうにでも持ち直せる。この流れなら。
「みーちゃんは、好きな男子とかいるの?」
先輩が言った。空気が凍りついた。少なくとも俺と幼馴染はそう感じた。けれどモスとタカヤはそう感じていない。
なんだ、この状況は何だ。俺は何処で間違った。
「みー」は視線をゆらゆらと動かす。先輩の方を見て、幼馴染の方を見て、タカヤの方を見て、俺の方を見た。
最後にまた、先輩に戻って、机の上の弁当箱に戻る。よりにもよってなんで先輩なんだ。モスならばまだマシだった。
「先輩、じゃんけんしよう」
と俺は言った。
「……え、なんで?」
「負けた方が勝った方の言うことをひとつきく。オーケイ?」
「いや、今の話の流れ、絶対そんな感じじゃなかったけど」
「なんか唐突にそういう気分だった。うん。別にたいした意味はないけど。はいじゃんけんぽん」
俺はグーを出した。先輩は遅だしでチョキを出した。
咄嗟で判断がつかなかったのだろう。
「先輩、ジュースを買ってきて。タカヤも連れてって」
「ちょっとまって、今のなし」
「待ったで戻せる戦争なんてない」
「じゃんけんは戦争じゃないよ」
「うるさい! 敗者は従え! 恨むなら弟を恨むんだな!」
茶髪が、俺関係ねえじゃん、と窓際でぼやく。知ったことか。俺はイライラしている。
先輩が立ち上がる。タカヤも後に続いた。いいよ、と先輩は言ったけれど、タカヤはそれでもついていった。
それでいい。とっとと告白でもなんでもしちまってくれ。そうして現状をどうにか動かしてくれ。
こういう状況はうんざりだ。選択を保留して、猶予期間を堪能するのは。
俺も似たようなことをしているにしても。
全然うまくいかない。世の中はもっとシンプルでいい。
「みー」が立ち上がって、
「わたし、教室に戻るね」と言った。
幼馴染は引きとめようとしたのか、引きとめようとしてやめたのか分からないが、奇妙な表情で彼女を見上げた。
後ろ姿はそっけなかった。
残されたモスが、ぽつんと、状況を測りそこなっているように呆然とした表情をしている。
今のやりかたはまずかった、と俺は思う。だからといって、他にどうやって回避できたのか。
なんかもう疲れる。熱が出そう。窓際に目を向けると、茶髪が観察するような白い目でこちらを眺めていた。
放課後、俺はひとりで教室に残った。
モスとタカヤは早々に帰ってしまった。
またタカヤが先輩にどうこうと騒いでいたけれど、今となってはそんなに興味が湧かない。
幼馴染は「今日は一緒に帰れない」とだけ連絡をよこした。
ひどく気分が落ち込んでいる。
めんどくせえ。
なんだか体を動かす気になれずに、自分の席に座ったままでいる。
それでもいつまでもそうしたままではいられないので、立ち上がって、鞄を掴んだ。
だるい。
廊下から階段を下りて玄関に向かう途中で、茶髪に遭遇する。
俺は顔をしかめた。
茶髪は見下すような目でこちらを眺めて笑う。
こんな表情を、俺は以前にも見たことがあるような気がしていた。
腹の内側がぎりぎりと痛む。
「さっきのは、面白い見世物だったぜ」
彼の笑顔には、奇妙な毒が含まれていた。
憐れむような顔だった。
俺の居心地は悪くなる。
「何が面白いって?」
俺は彼に殴りかかりたい衝動を抑えながら訊ねた。
「自覚ねえのか?」
彼は笑う。けらけらけら。いやな感じの笑い。なんだか眩暈がしそうだ。
「お前さ、他人を見下してるのな」
「はあ?」
「自分以外の人間は頭悪いって思ってるだろ」
「……なんだ、それは」
「自分がなんとかしなきゃ、身の回りの物事はなにひとつ片付かないって思ってるだろ」
「だから、なんなの、それは」
「気付けよ」
彼は溜め息をついた。
「あからさまにオトモダチの話を遮ったのは、『こいつは何かまずいことを言いだすだろう』と思ったからじゃねえの」
茶髪は嘲るように言う。
「上手いこと自分が裏から誘導してやらなきゃ、まずいことになるって思ったんじゃねえの」
俺は頭が痛い。
「ずっとそんな具合だもんな、お前。馬鹿な他人を上から操って楽しんでるんだろ?」
何様だよ、と彼は笑う。
廊下の窓から西日が差している。俺はめんどくせえ。だるい。眠い。
「だとしたら、なんなの」
俺は言う。
「だったら、なんなの。いろいろ言いたいことはあるけど、まぁそれでいいよ。俺は他人を見下してるってことで」
「へえ」
と茶髪は感心したように言う。俺はこいつの余裕ぶった態度が気に入らない。
「で、だったらお前はなんなの? 他人の欠点を指摘して悦に入ってる小者か何か?」
面食らったように、彼は目を丸くした。
「俺がどんな人間の屑だったとしたって、お前のやってることが八つ当たり以外の何かになるわけじゃねえよ」
俺は言い切った。他人にこういう言葉をぶつけたのは久しぶりだと言う気がした。
ひどく嫌な気分になる。嫌なのは、俺がこの言葉をぶつけることを、楽しんでいるからだ。
茶髪は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐににやにや顔に戻った。
「俺の言葉が八つ当たりだとしたって、言ってる中身が間違いだって話にはならねえよ」
俺は額を押さえた。
「俺はお前が嫌いだ」
と俺は言った。本当に嫌いだ。こういう無神経な奴は。
「前と言ってることが違うな」
「男心と秋の空って奴だ」
「女心だろ?」
「しらねえよ。ばっかじゃねえの」
「理不尽だな」
茶髪は楽しそうに笑った。俺の頭痛はひどくなる。どうして俺たちはこんな話をしてるんだ?
「帰る。さようなら。できれば二度と会いたくない」
そうして俺は茶髪に背を向けた。奴は最後まで余裕そうな笑みを浮かべたままだった。
だるい。頭が痛い。
死んでしまいそう。
なんだってあんな奴にあんなことを言われなければならないのだ。
取り合う理由はない。あんな赤の他人に何を言われたって。
でも、どうなんだろう。
俺は本当に、彼の言うようなことをしていなかったか?
どうなんだ?
地面がふわふわとしていて、歩いている実感がない。
どうなんだ。
校門を通り過ぎるとき、後ろから衝撃があった。
地面に倒れ込む。
「えっ」
という声がした。俺は起き上がるのさえ億劫で、地面を転がすように体勢を仰向けにする。
妹が立っていた。
「ごめん」
と彼女は謝る。俺は頭がうまく回らなくて、どうして彼女がそこにいるのかもよく分からなかった。
俺が答えずにいると、妹は不審そうな顔をした。
「どうしたの? なんかあった?」
「べつに」
と俺は答える。立ち上がって制服の埃を払った。溜め息。だるい。
妹がこちらに向けて手を伸べた。俺はその手を掴んで立ちあがる。勢いのままで妹の方に倒れ込みそうになった。
「ちょっと、大丈夫?」
俺はそのまま妹を抱きしめてしまいたいような気がしたが、たぶん気の迷いだ。
自分の両足で立ち上がる。
「どうした?」
と俺は訊ねた。
妹は何か納得がいかないような表情でこちらを見る。
「いや、べつに。迎えに来ただけ。特に理由はないけど」
冬の夕方は少し肌寒い。
「気付かずに通り過ぎてくから、無視されたかと思った」
妹は白い息を吐く。どうして雪が降らないんだろう。
「なにかあったの?」
と妹は言った。俺は答えずに歩き出す。彼女もそれに従った。
「別に。いつものことだよ」
「なにが」
「どうせ俺は嫌われものだよ」
「また拗ねてるし」
妹は呆れたように溜め息をついた。俺は少しだけ安堵した。
世界中から俺と妹以外の人間が消えてくれればいいのにと思った。
けれど彼女はそんなことを望んではいないだろうし、俺のことなんて妙な態度の兄という程度にしか思っていないだろう。
感情はいつでもアンビバレンスだ。
ずっとこのままでいたい。ずっとこのままなんて嫌だ。
黙れよ、と俺は頭の中の誰かに言う。そのことを考えるのはやめたはずだ。
「どこかに寄ってく?」
俺は訊ねる。妹は答えなかった。
「ねえ、何があったの?」
「何かって?」
うるせえよ、と俺は頭の中で毒づく。
いいかげんガタがきている。限界なのだ。道化の真似事なんて。
所詮猿真似だった。なんにも上手くいかなかった。誰のせいだ? 俺のせいだ。
俺は自分なりに一生懸命やった。でも「自分なりに」なんて言葉は何の意味もなかった。
そんなもんじゃどうにもならなかった。自意識過剰の上から目線。
何をどう逃れようとしたって、結局俺は、俺はゴミみたいに生きてゴミみたいに死ぬしかないのだ。
考え事はやめたはずだった。
不意に、妹が俺の額をぺちりと叩いた。
「なに?」
と俺は面食らって訊ねる。
「べつに」
彼女は拗ねたように目を逸らした。なんなのだ。
「根暗なのはしょうがないけどさ、いいかげんわたしの前で暗い顔を見せるの、やめてよ」
妹の横顔は、怒っているようにも困っているようにも見える。
俺は拍子抜けしたような気分だった。肩の力が抜ける。
「さっさと彼女でも作って、その人の前でやって」
嫌なことを言う奴だ。
「なんで?」
「わたしだと、つい甘やかしちゃうから。いいかげん、お互い兄離れ、妹離れしましょう」
「なにそれ」
俺は笑えなかったが、そうしないとまずい気がしたので笑った。
仮に彼女なんて作ったとしても、俺はその人に暗い顔を見せたりはしないだろう。
まぁそんな話はどうでもいい。俺は少しだけ気分を持ち直した。
「なにか食べていこうか」
「肉まん食べたい」
妹がそう言ったので、俺たちはコンビニで肉まんと、ついでに飲み物を買った。
妹がレモンウォーターを買ったので、俺はスプライトを買った。それから明日飲む用にと、ポカリスエットを買った。
公園を通りかかったとき、犬の散歩をしていたらしい女性に出会う。柴犬だ。
変な犬だった。こちらをじっと見ている。飼い主らしき女性は、中年の女性で、少し上品な雰囲気があった。
彼女は公園に入って、ベンチに腰掛ける。犬もそれに従っているが、目だけはこっちを見ていた。
俺が犬に気を取られていると、飼い主らしい女性に声を掛けられる。
「こんにちは」
と彼女は頭を下げる。こんにちは。俺も頭を下げ返す。くだらねえ。
「ひょっとして、この犬って、未来予知の」
妹が言う。女性がくすくすと笑った。
「そういうふうに言われることもありますね」
胡散臭い女だ。俺はとっととこの場を去ろうとしたが、妹は妙に興味をひかれたらしい。
こんなことばかりだ。
「占ってみます?」
「ぜひ」
冗談だろう。
「金とかとりませんよね?」
俺は一応たずねたが、女は笑うだけだった。答えろよ。
「誰を占います?」
と女は訊ねたが。犬はじっとこちらを睨んでいる。嫌な犬だ。俺は犬が好きじゃない。吠えるから。
「じゃあ、君にしましょう。何か占ってほしいこととかある?」
ない。
「じゃあ、俺がこのあと飲むジュースをあててください」
と言って、俺は袋の中のレモンウォーターとポカリスエットを地面に置いた。
犬はしばらく迷っていた。それは長い時間だった。十分くらいはずっと、レモンウォーターとポカリスエットの間で迷っていた。
いいかげんうんざりしていた頃、犬はそろりそろりとポカリスエットの方に近付いた。
まぁこんなもんか、と俺は思う。
「あなたってずいぶん優柔不断なんですねえ」
と女は言った。うるせえよ。
犬はとうとうポカリを選ぶかと思ったら、いきなりレモンウォーターに向かって顔を動かした。
そしてペロリとレモンウォーターのボトルを舐めると、あたりに向かって吠えだした。わんわんわん。飼い主ともどもうるせえ。
「こら、どうしてしちゃいけないって言ったことをするの!」
女は犬に向かって怒鳴る。俺はきまずい。
「ふうん」
という顔で、妹が頷く。どこに感心する部分があったんだ。俺は白けたような気分だった。
俺たちは女に礼を言って、帰路についた。
「なんだったんだろうね、あの人」
「さあ?」
俺は首をかしげた。嫌な女だった。
「綺麗なひとだったね」
妹は犬に関しては何も言わなかった。俺は溜め息をついた。
嫌な女だった。できれば二度と会いたくない。
家についてから、妹と一緒に肉まんを食べてテレビを見る。
頭痛はいつのまにかとれていたが、暗い気持ちはどうしても振り払いがたかった。
翌朝、俺は六時半に目をさました。さましたが、なんとなく気分が晴れなかったので二度寝した。
次に起きたのは二十分ほどあとで、そろそろ七時になる頃だった。
俺は枕元に置きっぱなしにしていたスプライトを飲み干してから再び寝転がり、天井を眺める。
ぼんやりしていると、身体が倦怠感に包まれていく。
今日は学校なんて行きたくねえなあと俺は思った。思ったのだが、行かなくてはならない。
でも、よくよく考えたらこの世界は俺に何ひとつ強制していないような気がした。
そういえば学校に行かなきゃならないというのも、ある種の思い込みにすぎないのかもしれない。きっとそうだ。
ただの強迫観念。うん。本来世界は自由だった。俺は眠い。よって眠る。シンプルだ。
「起きた?」
とドアがノックされる。俺はベッドにもぐったまま答えなかった。扉が開く音。
俺は罰に怯える子供のように息をひそめる。
「兄さん、起きて」
と妹は俺の身体を揺すった。俺は気怠い。
それでもずっと揺すられていると、眠ってはいられない。のだけれど、なぜだろう。
体を揺らされたりすると、よけい眠っていたくなるのは。
俺は布団を跳ね飛ばすように上半身を起こす。
そして叫んだ。
「嫌だ!」
かぶり直す。眠る。俺は学校が嫌いだ。
妹は呆れたように溜め息をつくと、部屋から出て行った。
俺は部屋の中にひとりぼっちになる。やりました。俺は自分の尊厳を取り戻しました。
戦いはいつも空しい。枕も今日はそっけない。
少しして、またドアがノックされる。
「起きてます?」
俺は聞こえないふりをした。
ドアが勝手に開かれる。やめろ、こっちに来るな。
「おーい」
という声と一緒に、俺の背中がぱしぱしと叩かれる。
「グーでいきますか」
という声に、俺は体を起こした。
制服姿の幼馴染は当然のように俺の部屋に立っていた。
俺は溜め息をつく。いいかげんにしろと言いたい。どうして俺の部屋をノックしたりするんだ。
「おはようございます」
彼女は何の裏もなさそうな笑みをこちらに向けてから、俺の頭にぽんぽんと触れた。ねぐせ。
「顔、青いですよ。大丈夫?」
「なぜ部屋に来た」
「毎朝来てるじゃないですか」
「うんざりだ」
「わたしのこと、きらいですか?」
「……そういう話ではなく」
彼女はどうしたらいいのか分からないというように首をかしげた。そこには媚びたり気取ったりという雰囲気が一切ない。
こういう質問を不意に向けてきたりするから、こいつは厄介なのだ。
「きらいじゃないなら、いいじゃないですか。困ったことが起こるわけでもないですし」
そうか? 嫌いじゃなければ、いいのだろうか?
毎朝起こしにきてもらったり、弁当を作ってもらったりして? 一緒に登下校したりして?
あまつさえ付き合っているふりをしたり? 「嫌いじゃないなら」そこまでしてもいいんだろうか?
と、どうでもいいことを考えてもみたが、俺はもう何かに対して積極的に働きかける活力を失っていた。
あの茶髪の言葉なんてどうでもいい。どうでもいいけど、もうやめとこう。いろいろ。
「いいじゃないですか、べつに。ぐだぐだ過ごすのに道連れがいたって」
「……なんつうかね、お前と一緒にいるとね、最近とっても、安らぐよ」
いきなり告白ですか、と幼馴染が頬を染める。違う。
「でもさ、なんつうかさ、時間切れ狙ってる感じで、いまいち乗り気になれないよね」
彼女は痛いところをつかれたように眉をひそめた。俺は知らないふりをした。
実際、彼女が何を考えているかは分からないけれど、何かを考えていることは分かる。
「いいじゃないですか、べつに」
彼女の表情には、怒りにも似た焦りの影が映っていた。
「なにが?」
と俺は訊き返す。彼女は押し黙った。
別にいじめる気はなかったのだけれど、お互い思うところが多すぎて、話がややこしくなっているのかもしれない。
「まぁ、いいか。別に」
俺の言葉に、幼馴染はほっとしたようにも、がっかりしたようにも見える顔をした。
「準備するから、下で待ってて」
言って、俺は制服を掴む。窓の外はおそろしく白い。
冬休みはもうすぐだ。そろそろ雪が降るのだろう。
嫌な予感がした。
「なんだか、近頃は空が鬱陶しい感じですね」
幼馴染の言葉に、どんな感じだよ、と思って見上げてみると、確かに鬱陶しい薄曇りだ。
降るのか、降らないのか、はっきりしろと言いたくなる空だ。
「わたしは好きなんですけどね、こういうの」
彼女は言う。「鬱陶しい」のが「好き」なのか。まぁそんなもんかもしれない。
後ろを歩いていた妹も、ぼんやりと空を見上げている。
じっとその姿を見ていると、身動きが取れなくなるような気がして、俺は目を逸らした。
「休みに入ったら、何しますか?」
幼馴染の質問に、俺は考え込んだ。
何をしよう? 何も思いつかない。休みの間にしたいことなんて何もない。
「ぐったりしたい」
とだけ答えると、彼女は呆れたように溜め息をついた。
タカヤが先輩に告白したという話は、その日の昼休みに幼馴染を通して聞いた。
昨日のやり取りで先輩と二人きりになったとき、タカヤは先輩に話があると告げた。
そして今朝、先輩を呼び出して話をしたのだという。
突然の(と先輩には思えた)タカヤの告白に、彼女は動揺した。
彼女はタカヤをそういう対象として見ておらず、どう反応すれば分からなかったらしい。
幸いタカヤの方が、返事は後でいいと言ったため、その言葉に甘えて時間をもらい、幼馴染に相談しにきたのだという。
一連の流れを思って俺は頭痛がしそうな思いがした。
当たり前のことだが、俺にはどうすることもできない。
どんな話に転んだとしたって、ここで俺が介入することはできない。
俺がここで介入しようとするとしたら、まさしく「上手いこと自分が裏から誘導してやらなきゃ、まずいことになる」と思うからだろう。
茶髪の言葉を気にしているわけではなく、俺が入り込む余地なんて最初からないのだ。
午後の授業を受けている間も、俺の頭からはあの二人のことが頭から離れなかった。
タカヤの態度は、それを思えばひどく自然で、落ち着いたものに思えた。どうして彼はあんなに平然としているんだろう。
俺はタカヤと先輩と、それから「みー」のことについて考えた。
そして自分と幼馴染が、どれくらい彼らの交流に関与したかについて考えた。
そのうち考えるのが嫌になって、ぼんやりと窓の外を眺めることにした。
俺は昨日の茶髪の一言一句を思い出そうとしたが、上手くいかなかった。
タカヤのことを考えるのが億劫だったので、俺は自分がなぜあんなに茶髪に嫌われているのかを考えることにした。
単なる嫉妬や八つ当たりというには、彼の態度はあまりにひどい。
俺が人に言えることではないが。……だとすれば、彼は俺とあったことがあるんだろうか?
それとも、たとえば、俺が手ひどい目に遭わせてきた相手――いくらか心当たりはある――の、友人だとか。
それはありそうな話だと思えた。
考え事をやめようとしても、ふと気付けばやっぱり考え事をしている。
そういう人間性なのかもしれない。
どうせ集中できないことだしと思い、俺は眠ることにした。教師の声には催眠効果がある。
けれどなかなか眠れなかった。どうにも気分が落ち着かない。どうしようもない。
俺は一から百までの数字を数えることにした。そのことだけに集中して、他のことはすべて忘れる。
何も考えたくないときは、そういう単純なことをするのが一番いい。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
数字を数えているうちに、俺はなんだか子供の頃のことを思い出した。
今となっては古びてしまった思い出なのだけれど、その記憶は俺の中でも重要なものとして残っている。
幼馴染が一緒にいる。妹が一緒にいる。それで、俺はいつも二人に引っ張りまわされていた。
今とたいして変わらない。十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十。
あの頃の俺と今の俺を別つものってなんなんだろう。
チャイムが鳴って放課後が来ても、俺は身動きをとれずにいた。
先輩は放課後になってすぐにタカヤを呼びにきた。俺は知らんぷりした。
この妙な、罪悪感というかなんというか、は、なんなんだろう。
俺はいいかげん疲れた。
タカヤの後ろ姿を眺めながら、モスが俺に声を掛けてきた。
「あいつ、すげえ奴だな」
「たしかに。なかなかできることじゃない」
タカヤは教室を出る直前、一度だけこちらを振り向いて笑った。
「うーむ」
「イケメンだな」
モスが笑う。なぜだか俺たちが緊張していた。
「どう思う?」
俺が訊ねる。
「まぁ、まず間違いなく」
「うん」
「振られるよな」
「やっぱり?」
「いや、でもまぁ、どうなるか分からん。あの先輩気まぐれだし」
さすがにあの人も、気まぐれで判断を変えたりはしないだろうが。
まぁ、考えようによってはこれでよかったのか。
冬休みに入る前に、ある程度の区切りがつくと思えば。……よかった、というとさすがになんだが。
俺たちは教室に残ってタカヤの帰りを待った。
彼が戻ってくるのは想像したよりもずっと早かった。十五分もかからなかったんじゃないかと思う。
教室に戻ってくると、タカヤは俺たちの方を見て寂しそうに笑った。彼はどんな顔をさせても似合う。
俺はその表情が痛々しい上に生々しくて見ていられなかった。
そして、今この瞬間に、先輩も似たような顔をしているんじゃないだろうかと不意に考えた。
「ダメだった」
とタカヤは言った。だよなぁ、という溜め息をモスはついた。俺はタカヤをみていた。
「そっか」
と俺は言った。だからどうというわけではないのだけれど。
――ところで。
どうして俺は、無性に安堵しているんだろう。
帰り道で一緒になった幼馴染は、タカヤのことについて一言も触れなかった。
彼女が先輩に対してどのようなことを言ったのかはしらない。特に聞きたくもない。
今となっては終わった話だった。
いや、終わっていないかもしれない。タカヤがこの後どうするつもりなのかを俺は聞いていない。
いまいちあいつの性格というものをつかみきれないけれど、俺は自分があいつの恋心を疑っていたことを軽蔑した。
本当に俺はあいつを見下していたのだと思った。茶髪の言う通り。
「もう、冬休みですね」
と、幼馴染は思い出したように言う。彼女とこの話をするのも何度目だろう。
することがない休み。何もしない休み。うんざり。
帰りの途中でコンビニに寄って、俺たちは肉まんと、ついでに飲み物を買った。
俺はスプライトを買った。彼女はポカリを買った。軒先で肉まんを食べて、じゃあ、と言って別れた。
家に帰る。俺は無性に落ち着かない気分だった。
なんというか無性に。この気分はあのときに似ている。あの、あれ。あの夜。妹の胸を触ったときの感覚に。
そんなんだったので、なんといっても抑えが利かなかった。自分が何かに操られているような感覚。
頭はぼんやりするし、妙に胸が痛い。
俺はリビングのドアを開く。するとすぐ傍にドアを開けようとしていたらしい妹がいた。
抱きつく。
「うあっ」
という声を彼女は挙げた。しまった、まずった、みたいな声だった。
どうして彼女がそんな声を出すのか、分からなかったが、とりあえず俺は彼女の肩に顔を埋めた。
彼女の身体はすっぽりと俺の身体に収まる。
背中に回した腕を動かして、彼女の後ろ髪に触れた。俺はなんだか泣きたい。
俺はたぶん何かを求めて、その為に行動していたのだけれど、その何かってなんなんだろう。
それがわからないからずっと混乱している。でも、俺がほしいものはずっと明確なのだ。
ただ、それが手に入らない――少なくとも困難そうに見える――から、代替物を探しているに過ぎない。
そんな精神状態で何かを捉まえたところで、結局満足なんてできないんじゃないだろうか?
鼻から息を吸い込むとなんだか安らいだ。俺は瞼を閉じて腕に力を籠め、妹の身体をぐいと引き寄せる。
密着した身体の体温が、お互いの制服越しに伝わってくる。こんなことをしてよかったのか? もちろんいいわけがない。
「はな」
と、妹は震えた声で言った。
「して」
そこで彼女は、俺の顔を両手で押しのける。顎を押し上げられた格好になり、俺は苦しい。
俺との距離を取り直すと、彼女は両手で俺の身体をリビングから追いやった。
そうして扉を閉める。すると、何か悲鳴だか歓声だかわからないような声が、いくつか部屋の中から聞こえた。
俺は玄関を見る。見覚えのない靴が二組並んでいた。
扉の向こうから、何かの説明を求めているらしい女の子の声が聞こえる。俺は聞こえないふりをした。
ちょっと待ってて、という妹の声がする。女の子たちは納得がいかないように妹に説明を求めている。
扉が開く。
妹が額を押さえた。
「なんなの」
「魔が差した」
俺は数秒の間に用意しておいた言い訳を言葉に変えた。
妹がじとりとこちらを睨む。俺はせいせいしたような気分だった。頭を掻く。
「友達が来てる」
「お前、友達いたんだな」
「見られた」
「不幸な事故ってあるものだ」
「事故。あれが、事故?」
彼女は笑っているんだか怒っているんだかわからない顔になった。
その表情にはもっと別の感情も混じっているように見えたが、たぶん俺の気のせいだ。
「よりにもよってなんで友達が来てる日に」
「来てない日ならよかった?」
「な」
と、妹は口をあんぐりと開けて硬直してから、思い直すように肩をすくめて首を振った。
「にをいきなりおっしゃられるやら」
どうやら混乱しているらしい。
「まぁちょっと待ってろ。俺が小粋なジョークで場をなごませてくるから」
「お願いだからやめて」
彼女の表情は悲壮ですらあった。俺は自分の中の嗜虐的な性格がくすぶるのを感じたが、思いとどまった。
「部屋に行って。下には降りてこないで」
ひどいことを言う奴だ。が、まぁ、自分のやったことを思えば、あんまり強くも出られない。
俺は悪いなぁと思って一応謝った。
「ごめんな」
「別にいいけど、なんかあったの?」
彼女は目を細めて言った。俺は考え込む。なにもなかったはずなのだが。
階段を昇って部屋に戻り、制服のままベッドに寝転がった。
なんだか性欲を持て余しているような気がしたので、鍵でもしめて処理してしまおうかと思った。
思って、そんなことを考える自分に愕然とした。おいおい、妹の友だちが来ているんだぜ。
俺は自分の性欲について考えた。性欲。俺はひょっとしたら人より強いのかもしれない。
うーん。けれど、なんといおうか、近頃の自分の行動をかんがみるに、やっぱり性的欲求が発散できていないのかもしれない。
暴走しがちだし。やたら怒るし。
そう考えるとむしろしておくべきでは? ……いやいや。
性欲がたまりすぎて頭がまともに働いていないのか? だとしたらやっぱりしておくべきなのか?
……いやいや。でも今まで、そんなことしなくても平気だったわけで。
しばらく考えていると徐々に気分が落ち着いてきた。アホか、やめよう、というふうに。
俺は本を読んで暇を潰し、少し眠って、日が暮れた頃に部屋を出た。
さすがに妹の友だちも帰ったようだった。
妹が家に友人を呼ぶのは初めてのことかもしれない。
まぁ、彼女の学校ももうすぐ冬休みだろうし、なんだかんだとあるのかもしれない。
リビングに降りると妹がコタツで眠っていた。俺はテレビの電源を入れて、平然とその隣に腰を下ろす。
テレビの中の声を聞きながら、ぼんやり妹の寝顔を眺めた。なんだかなぁ、という気分になる。
俺は今まで見当違いのことをやっていた気がする。
ていうかやっていた。間違いなく。うーむ。
じっと見ていると変になりそうだったので、俺は妹の寝顔から目を逸らす。
それからテレビの電源を消す。家の中が静まり返った。
ぬくぬくとしたコタツに足を突っ込んで、蜜柑を食べる。
そのままずっとぼんやりとしていた。ぼんやり。
その間、俺は何も考えなかった。何も考えずにじっとしていた。そういうことは久し振りだった。
六時を回った頃、俺はコタツから抜け出して夕食の準備を始める。
冷蔵庫の中にはさまざまなものが入っていたので、たいした手間はかからなかった。
俺は準備が終わる頃に妹を起こして、一緒にテーブルについた。
気分がいつになく落ち着いている。どうしてだろう。
夕食のあとに風呂に入って、いつもより早めに眠った。いつもこうありたいものだ。
「まぁ、分かっちゃいたんだが」
と、タカヤは言った。朝の教室で、俺とモスは彼の声に耳を傾けている。
「なんというか、言わずにはいられなかったんだ」
まぁたしかに彼とて、たかだか一週間ちょっとの付き合いしかない女の人に好意を抱かれるなどと自惚れてはいなかっただろう。
相手の答えなど百も承知で、それでも言わずにはいられなかったとタカヤは言う。
それをどういう風に呼べばいいのか、俺には分からない。若さゆえの衝動とでもいえばいいのか。
タカヤは、なんというか、一生懸命だった。自分自身の感情をもてあましながらも、一直線だった。
そういう姿を見ると、なんとなく、自分が歪であることを自覚してしまう。そういう要素がある。
先輩はおそらく、昼休みに俺たちを迎えに来ないだろう。今日からは彼女を除いて昼食を取ることになるだろう。
そういう意味では、タカヤの行動がもたらした結果は大きい。
モスはなんとも言い難いような表情で、口を一文字に結んでいる。俺はぼんやりと窓の外を眺めた。
「なんで黙ってるんだよ」
とタカヤは笑う。なんでこいつは笑えるんだろう。
好いた好かれたの話は、聞いてるだけでも疲れる。
「俺が言うのもなんだけど、お前って馬鹿だな」
不意に、モスが言う。タカヤはからりと笑った。
「そんで、いい馬鹿だ」
モスの言葉を聞いて、タカヤはまた笑う。俺とモスも、付き合うように笑った。
空は妙に透き通っている。拍子抜けしたような雲。
幼馴染は昼休みになると俺を呼びに来た。
天気がよかったので、中庭で昼食を取ることにした。
多少は寒かったが、十二月ということを考えれば暖かすぎるくらいだった。
「タカヤくん、どんな様子でした?」
「妙な具合だった」
「妙?」
「一皮むけた感じ?」
俺は適当なことを言った。
幼馴染はふーっと長い溜め息をつく。
「なんだか、本当に、今月はこんなことばっかりです」
「だな」
頷く。彼女は考え込むように俯いた。
「来週から冬休みですね」
「だね」
俺は先輩の様子を幼馴染に訊こうとして、やめた。
そのあたりのことに、積極的にかかわりたくない。
面倒だというのではなく、また引っ掻き回してしまうだけという気がした。
「でも、なんていいますか、わたしたちって」
「なに?」
「あほですね」
まさしく。俺は弁当をつつく。彼女がまた溜め息をついた。
「何がしたいんだろうね」
俺は言った。自分が何をしたかったのか、思い出せない。
何かを埋め合わせようとしたことは分かるのだが。
「いいかげん、自分のことに決着をつける時期が来てるのかもしれませんね」
「自分のこと?」
「です」
決着。不思議な言葉だ。まず日常では使わない。
どれだけの人間が「決着」をつけなければならないものを持っているだろう。
俺がつけるべき決着。自暴自棄。現実逃避。なんだかうんざりとしそうな話だ。
めんどくさい。そういう絵的に地味な話って、好みじゃない。
「でも、そうだなぁ。冬休みだしね。曖昧にごまかしてきたものに向き合ってもいい頃か」
幼馴染はぼんやり頷く。
弁当を食べ終えたとき、不意にうしろから声を掛けられた。
振り向くと、タカヤの姉がいる。
「やー」
と彼女は気安く言った。俺は小さく頭を下げる。
「うちの弟、どうしたん、あれ?」
「なにがです?」
と俺は知らないふりをした。タカヤが言っていないなら、俺から言う必要もない。
「何か様子が変なんだよねえ」
「どんなふうに?」
「妙ーに落ち着いてる。んで、なんだか物静かになった。頭よさそうに見えるよ、あれだと」
普段は見えないとでも言いたげだ。いや、見えないけど。
俺は、別に放っておけばいいじゃないですか、と言おうとして、結局やめた。
俺が実際に口にした言葉は、
「本人に訊いてみたらいいんじゃないですか」
だった。彼女は拍子抜けしたような表情で、
「いや、まぁ、そりゃそうなんだけどね」
と言った。俺は溜め息をつく。安堵した。
「なんだかなぁ。冬だからかなぁ。さいきん、みんな素っ気ないなぁ」
タカヤ姉はしばらくぼやいてから、校舎の中に戻っていった。
その後ろ姿を眺めていると、隣に座る幼馴染がひとつくしゃみをした。
比較的暖かいとはいえ、冬は冬だ。
「戻ろうか」と俺は言った。「はい」と彼女は頷く。
俺はぼんやりと「みー」について考える。彼女は本当にタカヤを諦めているのだろうか?
いずれにせよ、それはやはり本人の問題でしかなくなっているのだが。
幼馴染と別れて教室に戻ろうとした途中で、茶髪と遭遇する。
彼は特に何の感慨もなさそうに、こちらを見た。
なんだ、またこいつか、とでも言いたげな表情で。こちらにちょっかいを出そうとするふうでもなく。
すれ違って、彼はそのまま去っていこうとした。俺は不意に、自分がつけなければいけない決着について考えた。
「なあ」
と声を掛ける。茶髪はすぐに立ち止まった。
「お前はどうして俺が嫌いなんだ?」
彼は肩越しに振り向くと、さして面白くもなさそうに言った。
「逆恨み」
彼はつまらなそうな表情で言った。
「お前はさ」
と茶髪は言って、
「自分がアキにしたことを、もう少し考えるべきだ」
それを口にした。俺は、なぜ彼の口から彼女の名前が出たのかまったくわからなかった。
「本当はこんなこと、俺が言うことじゃないし、あいつ自身だってもう気にしてない。少なくともそういう風に振る舞ってる」
茶髪は続ける。俺は眩暈がしそうだった。
「でも、俺はそのことがどうしても気に食わない。それはお前を嫌いになるのに十分すぎる理由だと思う」
俺は混乱した。彼の口から出た言葉は、俺を強く動揺させた。
こんなふうに、彼女とのことが自分の現在に姿をあらわすとは思っていなかった。
最後に見たアキの泣き顔を思い出す。その表情を眺めながら、妙にしらけていた自分のことを思い出す。
「どうして」
と俺は言った。
「お前にそんなことを言われなきゃならないんだ。あいつのことは、俺とあいつの問題だろ。お前はぜんぜん関係ない」
「だから、言っただろ。俺が言うべきことじゃない。でも、気に入らない。ごく個人的に。だから逆恨みだ」
「……わけがわからない」
「なあ。お前はアキを傷つけた」
心臓が針で突き刺されたような気持ちだった。どうしてこいつがこんなことを知っているんだ。
「お前みたいに神様気取りで人の気持ちを弄ぶ奴が、俺は嫌いだ」
ひどい頭痛がした。俺はつとめて何も考えないようにした。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
「仮にどんな事情があったとしてもな」
茶髪はそういうと、こちらをじっと睨んでから、顔を背けて去っていく。俺はその後ろ姿を見送る。
何も言えない。俺は立ち尽くす。物事は通り過ぎたりしない。結局、俺の身の回りを付きまとって離れない。
自分がしたこと。言い逃れのしようもなく、自分の意思で傷つけた相手。
たしかに、「仮にどんな事情があったとしても」、許されるようなことではない。
俺はアキのことに関しては、誰に対しても決して言い訳できない。
俺は苦笑する。たしかに、見ず知らずの他人に嫌われても仕方ないような人間性ではあるようだ。
アキとのことを具体的に思い出すのはひどく難しい。
彼女と最後に話したときから、まだ一年も経っていないというのに、奇妙な話だ。
それだけ彼女の存在が俺にとってどうでもいいものだったのか、それとも、重要だったからこそ忘れようとしたのかは分からない。
いずれにせよ、俺は彼女とのやりとりの大半を具体的には覚えていない。
確実に思い出せることと言えば、彼女は俺にとって、中学三年のときに話すことのできた数少ない相手のひとりだったということだけだ。
初めて話したときのことはろくに覚えていないし、どうせ大した話もしなかったはずだ。
俺は彼女についてほとんど何も知らなかったし、知ろうともしなかった。
ただその時期、アキはどうしてか休み時間にひとりでいることが多かったのを覚えている。
三年の秋頃に、俺はきまぐれに彼女に話しかけた。そうだったと思う。大した理由もなく。
彼女は俺のことを「不幸な」子供だと思っていたようだった。
複雑な家庭に育ち、ため込んだフラストレーションを部活動で発散していた男子。
それすらも怪我で不可能になってしまい、行き場のない思いを抱えている、と。
そういう誤解はかなり都合がよかった。悲劇の主人公を気取りたい気分でもあったのだ。すぐに飽きたけれど。
彼女はそう言った「不幸な」境遇の人間と知り合うことが、自分の価値を釣り上げるものだと考えている節があった。
というのは邪推かもしれない。けれど、そういうふうに感じた。
そして俺も、彼女の期待通りに「不幸」であるように振る舞った。それは楽しいことだった。
だから根本的に、俺は彼女に対して「正直」だったことはない。常に「演技」をしていた。
そういう意味では、たしかに俺はアキの気持ちを弄んだとも言えるのだ。
それでも俺は彼女のことが嫌いではなかった。むしろ、かなり好きだった。
だから彼女に付き合おうと言われたときも断ることは考えなかった。
ひょっとしたら彼女ならば、俺の『気の迷い』を振り払ってくれるかもしれないと期待もした。
実際、それはかなりのところまで上手くいったのだ。
モスはそんな俺の様子を見て眉をひそめていた。
アキの友人(決していないわけではなかったらしい)も、俺との付き合いを決してよいものとは思っていなかったようだ。
その時期、俺は、幼馴染とも、妹とも、まったく話さなかった。
アキは帰り道で手を繋ぐのが好きだった。俺は毎日、かなり遠回りして彼女を家まで送った。
雪の降る冬の日もずっとそうした。それは安らぐ時間だったが、結局破綻した。
「わたしのこと、好き?」
と、アキは何度も聞いた。そう確認しないと落ち着かないとでもいうように。
実際、彼女は些細なことで不安になった。俺が誰かと話したり、目を合わせたりしたことに気付くだけで、何度も何度も追及した。
おそらくは彼女にも、そうなるだけの理由はあったのだと思う。不安になってしまうだけの。
けれど俺は、その質問を向けられるたびに忘れていた棘が痛むような気持ちになった。
「好きだよ」
と、そう答えるたびに、俺はだんだんと自分の中の熱が冷めていくのを感じた。
その言葉を放つ自分が、見知らぬ他人のように思えた。何度も繰り返されるたびに。
俺は彼女が好きだったけれど、それは特別な「好き」ではなかったからだ。
アキは俺の答えを聞くと愛らしく笑った。自惚れでなく、幸せそうな顔をしていたと思う。
俺もそれに応えるように笑った。作り笑いだ。でも彼女は、俺の笑顔を見て更に幸せが深まったような顔になる。
そういうことに気付いたときには、俺はもうアキを好きだとは思えなくなっていった。
ただ彼女の一挙一動にいら立つようになっていった。
俺は自分自身の「気の迷い」の大きさを見誤っていたのだ。
だから破綻は必然だった。俺はアキと話すのが嫌になって、口をきかなくなった。
最後は無惨だった。放課後の教室に俺を呼びだして、アキは必死になって言った。
何か悪いところがあったならなおすから言ってほしい。何がまずかったのか教えてほしい。
俺はかなりひどいことを言った。言ったと思う。よく覚えていないし思い出したくもない。
俺はアキを可哀想だと思った。他人事のように。そして、アキに背を向けて教室を去る時、ひとつの感慨が胸に湧くのを感じた。
やっぱり駄目だったか。
それだけだった。
茶髪がどうしてアキのことを知っているのかは分からないが、他校の人間と交流でもあるのだろう。
そういう経緯で彼らが仲良くなったところで、意外ではあるが不思議ではない。
そしてアキから、あるいは彼女の友人から、俺のことを訊いていたのなら、彼の言動も理解はできる。
まさか最初に会ったあのコンビニのときは、気付いてもいなかっただろうが。
けれど、やっぱり茶髪には関係のない話だし、彼に指摘されたと思うとバカらしい気持ちになる。
なんであいつにあんなことを言われなきゃいけないんだ。
そう思っても、腹の奥に重い何かがわだかまっているような気分はおさまらない。
アキは、俺が生きてきた中でもっとも強く傷つけた相手だ。まちがいなく。
それも俺自身が、自分の感情と折り合えなかったからというだけの理由で。
何もあんなふうにひどい別れ方をしなくてもよかった。他にやりようはいくらでもあった。
そういうふうに考えだすと際限がない。俺はアキのことは考えたくなかった。
それでも茶髪は「アキにしたことをもっと考えるべきだ」と言う。どうして?
俺がアキにしたことは、あくまでも俺がアキにしたことだ。それをどうして今になって掘り返さなきゃいけないんだ。
ぐるぐるとまわり続ける方位磁針。
俺は放課後の教室にひとりで残った。モスとタカヤは先に帰ってしまった。
そういえばもう、今週末には終業式なのだ。俺は不意に思う。
重苦しい気分で溜め息をつく。
俺は立ち上がって、教室を出た。新聞部の部室に向かう。
茶髪も先輩もそこにいた。最初に俺に気付いたのは先輩の方で、彼女は気まずそうにこちらを見た。
俺は頭を下げて、茶髪のいる方へと向かった。
「話があるんだけど、いい?」
彼は怪訝そうに目を細めた。
俺と茶髪は適当な空き教室に入った。茶髪は教室の後ろに積まれていた椅子のひとつをとって腰かける。
俺は単刀直入に話をすることにした。
「どうしてお前がアキのことを知ってるんだ?」
俺が訊ねると、彼はそんなことかと溜め息をついた。
「友達だから」
「そう。それで、俺が嫌いなのか」
「ああ」
「じゃあ、なんで俺に構うんだ」
俺は苛立っていた。彼の言葉は身勝手にしか聞こえなかったのだ。
「嫌いなら構わなきゃいいだろうが。どうして俺に何かを言ったりする?」
彼は呆れきったように溜め息をついた。
「わかんねえのかよ」
と彼は言う。俺は目を細める。
「なにが」
「お前が今やってること。アキのときとおんなじじゃねえか」
「……何の話?」
「別に好きでもない相手と付き合って、友達になんていらないくせに友達を作って」
俺はぎくりとした。
「俺は誰とも付き合ってなんかない」
「だろうな。知ってる。でも、大差ねえよ」
茶髪は嫌味っぽく笑った。
「お前が本当のところ、何を欲しがってるのかはしらない」
彼の話が続く。俺は頭を抱えたい気分だった。
「でも、お前はそれが手に入らないから、いらないもんをとっかえひっかえしてるわけだ」
別に欲しくもないくせに手を伸ばして、本当に欲しいものは手に入らないからと掴もうともしない。
けれど完全には諦めきれなくて、やっぱり代わりのものじゃ満足できなくて、結局手に入ったものも捨ててしまう。
『ああ、やっぱりこれでも駄目か』と。
どうしてこいつは、こんなに俺のことを見抜いているんだろう。
「お前がどんなふうに生きようとお前の勝手だけど」
と、彼は言う。
「お前は間違いなく、またアキのような人間を生むぞ。お前は今のままじゃずっと誰かを傷つけ続ける」
俺は俯く。茶髪は疲れ切ったように溜め息をついた。
「それに、何の関係があるんだよ」
俺は言った。自分でも驚くことに、声が震えていた。
「お前にはやっぱり関係ないじゃないか。お前は全然無関係の人間じゃないか。なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ」
鈍い衝撃が走った。俺の身体は壁に押し付けられる。茶髪が俺の胸ぐらをつかんでいた。
「わかんねえのか」
茶髪は言う。
「いいかげん悲劇の主人公を気取るのはやめろって言ってるんだよ。お前の陶酔に他人を巻き込むな」
「三流のドラマみたいな台詞だな」
俺は負け惜しみのように笑う。茶髪の顔がさっと赤くなった。
頬に衝撃が走る。殴られた。痛みに目が潤む。じんじんという痛みが宿った。
怯まずに、言い返す。
「お前こそ、何様のつもりだよ。俺の汚さを指摘してヒーロー気取りか? 陶酔してんのはお互い様だろうが」
茶髪は二度目の拳を振り上げた。俺の身体が勢いのまま弾き飛ばされる。
「気に入らない」
茶髪は吐き捨てるように言った。うるせえよ、と俺は思う。
「なんなの」
俺は言った。
「お前、なんなの。アキのことでも好きなの?」
茶髪は俺の身体を蹴り上げた。
視界が回転しているような気がした。ぐるぐる回る方位磁針。
「お前みたいに他人の気持ちを弄ぶ奴が大嫌いだ」
と茶髪は言う。俺だって好きじゃない。
でも、うるせえよ、と俺は思う。立ち上がった。物音に気付いてか、いつのまにかギャラリーができている。
巣から蟻の列が出るように、新聞部の部室からやってきた部員たち。
遠巻きに俺たち二人を眺め、止めようともしない人間たち。茶髪はそういえば、学校でも浮いているらしい。
それは俺だっておんなじだ。だから誰も止めない。先輩が、こっちを見ている。
俺は茶髪に殴り掛かった。喧嘩なんて一度もしたことがなかったけれど仕方なかった。
ギャラリーがあっと声をあげる。一度茶髪の顔を殴る。彼はそれを受けた直後に、俺を殴り返した。
俺の脚はとっくにふらふらだった。足に力が入らない。身体が投げ出される。
鋭い音がして、俺の背中で窓が割れた。
ギャラリーが声をあげる。先生呼んで来い、先生。誰かが言う。白々しい、と俺は思う。
こういうところが大嫌いなのだ。
俺はそのまま座り込む。というより、立ったままでいられず尻もちをついた。
茶髪がこちらを見下ろしている。瞳に強い光が宿っている。
俺はゴミのように生きてゴミのように死ぬしかない。
「何があった」
と担任の高田は言った。奇妙な顔だった。怒っているようにも困っているようにも見える。
生徒指導室のそっけない机に向かって、俺と茶髪は並んで座っている。
その向こうには三人の教師。俺の担任、茶髪の担任、学年主任。
俺は答えなかった。
「なんとか言わないか」
言ってどうなると言うのだ。窓ガラスが直るのか。もちろん、彼だってそんなことを期待してはいないだろう。
でも、言ってどうなる問題ではないのだ。こんなものは。
「黙ってたら分からない」
当たり前だ。分からせようとしてない。伝えようとしていないんだから、伝わらないのは当たり前だ。
口を動かそうとすると頬が痛む。横目で茶髪を見ると、視線だけを机に落としていた。
「どうしてあんな騒ぎを起こしたりした?」
別に騒ぎを起こしたかったわけじゃない。周りが勝手に騒いだだけだ。
「答えろ!」
俺が答えずにいると、高田は声を荒げた。うるせえよ、と俺は思う。どいつもこいつも。
学年主任が、俺に飛びかかりそうな高田を「まぁまぁ」と制する。
俺はどうでもいい。頭が痛いのは窓ガラス代くらいか。
夏にバイトしていた分の残りがあるから、払えないことはないだろう。
けれど、この流れだと親にも連絡がいってしまうかもしれない。
それを考えると、憂鬱だ。憂鬱だが、仕方ない。
俺は押し黙ったまま答えない。
思う。たかだか窓ガラス一枚割れただけじゃないか。大騒ぎする方がどうかしてる。
高田は溜め息をついた。学年主任は額を掻く。茶髪の担任が口を開いた。
「お前が何かちょっかい出したんだろう」
彼は茶髪に向かっていった。茶髪は答えない。俺は胃が痛みそうだった。
高田は戸惑ったように言葉を返す。
「でも、呼び出したのはこいつの方だって話じゃないですか。こいつから殴り掛かるのを見たって奴も大勢いる」
高田はそこで俺を示した。話をまとめてから来いよ。
「挑発されでもしたんでしょう。この生徒が関わることはすべて、この生徒を原因にしているとみていい」
ずいぶんな教師だ。俺はちらりと茶髪を見る。彼は俺の視線に気付いてこっちを見返した。
おい、これどう思う? そんな目で、彼は俺を見た。今までになく親しげな目だった。
俺は苦笑した。
「何を笑ってる」
と高田がまた声を荒げる。ああ、うるさい。
俺たちが口を割らないものだから、教師たちも困り果ててしまったようだった。
結局話の進展はないまま、今日はとりあえず帰れ、という向きになる。後日連絡する。まぁそんなものか。
窓ガラスに関しても弁償はしてもらう。折半。と高田は言った。
お前らが払えばいいのに。別にどうだっていいのだが。
教室に戻ると三人の生徒が残っていた。モス、タカヤ、それから幼馴染。
彼らは俺の顔を見ると心配そうな顔をした。
「大丈夫か?」
と、はれ上がった頬を見て、タカヤがまず口を開く。タカヤはいい奴だ。
大丈夫、と頷いて、俺は鞄に向かう。
「何があったんです?」
「別に、なんにも」
幼馴染の問いを適当にごまかそうとする。いや、ごまかそうとするつもりすらなかった。
答えることがただただ面倒だったし、疲れてもいた。何かを訊かれることにはうんざりしていた。
モスだけが、ただ黙っている。
俺は不意に思い出した。
「なあ、モスさ」
彼は意外そうに怪訝な表情になった。
「いつだったか言ったよな。『根はいい奴なのに損してる』って」
モスは頷く。
「今だってそう思ってる」
彼はいい奴だ。どんな人間にも、必ず一個くらいはいいところがあると思っている。
「あれさ、完璧な誤解だな」
俺は言う。馬鹿げた気分だ。ぐるぐる回る方位磁針。
「そりゃ、くだらないことで他人に軽蔑されることはない。でも、俺は軽蔑されて当たり前なんだよ」
「……何があったの?」
幼馴染が不審そうな顔で言う。俺は答えない。
「嫌われて当然の人間性なんだよ。俺みたいな人間はそれが当然なんだ」
彼らは唖然としたような表情でこちらを見ている。
「何言ってるんだ、お前」
モスは不服そうに言う。俺は頭を振る。
俺は焦っている。
「いや、俺にもよくわからない。別に何か言いたいことがあるわけじゃないんだ」
ひどく混乱している。俺の頭は上手く回っていない。
「ごめん」
と俺は謝る。悲しい気分だった。誰も何も言わなかった。
なんていえばいいんだろう。この感覚は。
別に、伝わらなくたっていいんだけど。
疲れたのだ。
まあいい。
全部俺のせいってことでいい。実際、そんなようなもんだろう。
俺は三人を教室に残して家路についた。モスは俺を引きとめたけど、追いかけてこなかった。
東の空が青い。俺は歩く。どこにも行き場がなかったし、居場所がなかった。
どこにいっても馴染めなかった。所詮、誰にとっても厄介者でしかなかった。
俺は家に帰る気がどうしてもしなかった。
もちろん、理性の面では、帰るしかないことは分かっている。
ここで帰らなかったら、また更なる迷惑を掛けるだけにしかならない。
それでも、自分に、あの家に入る資格はないような気がした。
資格と言えば、今までだってないようなものだったのだが。
俺は街をぼんやりと歩く。人ごみの中をただ歩いた。
日が沈んで空は真っ暗だった。
俺はいまも、アキにしたようなことを繰り返しているのだろうか。
モス、タカヤ、幼馴染。俺は彼らのことも、やっぱりどうでもいいと思っているのだろうか。
どうなんだろう。分からない。まったく分からない。
俺は自分という人間が信頼できない。
うろうろと彷徨っているうちに、具合が悪くなってくる。不意の吐き気。
茶髪ならきっとこう言う。
「自己陶酔の次は、自己憐憫か」
たぶん、それは間違っていない。
それで。
どうすればいいんだ、俺は。なんだ。どうなるんだ。
俺はいったい何が不満でこんなところを歩いているんだろう。
考えてみれば、考えたって仕方ないのだ。
俺がアキにしてしまったことは、既に終わったことだ。
いまさら掘り返して謝ったって、俺の気分が少しマシになる程度が関の山で、アキには身勝手にしか映らないだろう。
だから俺は、アキにしたことをそのまま受け入れるしかない。自分がしたこと。
それを思えば、誰かに嫌われたって仕方ない。
相応じゃないか。見ず知らずの人間に嫌われるくらいが。そういう人間だ。その程度の。
で、それで。そこからが問題なのだ。
俺は本当に同じことを繰り返しているだけなのか。
……違う、と思う。
茶髪はああ言ったけれど、違う。俺はモスやタカヤを、何かの代わりになんてしていない。
自分自身の考えは疑わしいけれど、でも本当にそう思う。
俺はモスを信頼しているし、タカヤに好意を抱いている。
それは分かっているのだ。
茶髪は俺の大部分を的確に理解しているけれど、ひとつだけ大きな誤解をしている。
俺にはたしかに欲しいものがあって、それが手に入らないから嘆いている。
八つ当たりしたり自己憐憫したり馬鹿なことをやったりもした。
でも、それは別に、俺はたとえば、友達がいらないなんて思っているわけじゃないのだ。
比重で言えば軽いかもしれないが、それは俺にとって不可欠なものなのだ。
「どっちも」欲しいからこそ、困り果てているのだ。
俺は今の家族が好きだし、モスやタカヤや幼馴染が好きだ。
だからこそ、俺は今の生活を壊さないためにも、手を伸ばしてはならない。
そして手を伸ばしたところで、軽蔑されるのがいいところなのだから。
同情心で拾った犬が子供に噛み付いたとしたら、両親はどんな気持ちになるか。
だから俺は諦めなきゃいけない。
本当なら、もう諦めていなければならない。
今の生活を壊さないためにも。
でも、そんなことが可能なんだろうか。
俺は、どうしてこの執着を捨てられないんだろう。
どうしてこんなにひとつのものに執着してしまうんだろう。
家に帰ると、いつものようにコタツで妹が眠っていた。
ずっとそこにいるとどうにかなってしまいそうだったので、部屋に戻る。
でもだめだった。鼻の奥がつんとして涙が出そうになる。馬鹿らしい自己憐憫。
ベッドに倒れ込む。枕は俺の友だちだが、彼にもし意思があったら、俺のことが嫌いだったに違いない。
いっそ何もかも投げ出して遠くに逃げ出してしまおうか。それもいい。凍え死ぬのもそう悪くない。
起き上がり、制服から着替えた。家を抜け出す。
外に出ると、息が白く立ち上った。溜め息。
俺はどうするんだ? いい加減ガタがきているのだ。
もう余裕がない。素知らぬふり、平気なふりなんてできない。
モラトリアムの終わり。選択の時。かっこいい。馬鹿みたい。
どこに行くんだ。
どうすんだ。
一歩でも間違ったら死ぬしかなくなりそうなのに、踏み出すなんてできるもんなんだろうか。
臆病者にも卑怯者にも、相応の生き方がある気がする。
悪人にだってなったっていい。
家の前で立ち止まっていると、後ろで玄関の扉が開いた。
俺は振りむかなかった。
「寒くないの?」と妹は言った。
「そんなには」と俺は答える。
俺は彼女が本当の妹だったらよかったのにと思った。
それだったら諦めもついたかもしれない。
結局俺は兄にはなりきれなかった。
でも、本当に“そう”なんだろうか。
単に異常な性欲が、身近な異性である彼女に向かっているだけだとか。
ロマンス的な境遇に酔っているだけだとか。
本当のところ、ただの気の迷いなんじゃないのか。
いずれにせよ俺の気持ちは誰も幸せにしない。
あっ、と妹が声をあげて、空を指差す。
「見て、あれ」
俺は彼女の指が示した方を見上げる。
ああ、と声が出た。
雪が降っている。
学校から連絡を受けた両親に、説教とも呼べないような静かな説教を受けて、部屋に戻る。
ガラス代は自分で払うと言い張ったが、彼らは認めてくれなかった。
ストーブのスイッチを入れて毛布にくるまる。
しばらくぼんやりとしていると、部屋の扉がノックされた。
妹が顔を出す。
彼女は俺の顔を見て目を丸くした。
「すごい顔してるよ」
「どんな顔?」
「ひどい顔」
だからあんまり、親たちからも怒られなかったのだろうか。俺って、そんなに考えていることが顔に出るんだろうか。
「わたしのせい?」
と妹は言った。どうしてそう思うんだろう。
「なんで?」
俺は思うままに訊き返す。
「なんとなく」
案の定抽象的で、理由になっていない。
なんだか肩が疲れている。
妹はベッドの上に座った。俺は毛布にくるまったままベッドに横になる。
「なにがあったの?」
「さあ?」
「ごまかさないで」
「実のところ、自分でもよく分かっていない」
「喧嘩したの?」
「あれを喧嘩と呼ぶのかどうか」
「じゃあなに?」
「糾弾と弁解?」
「なにそれ」
彼女はあきれたように溜め息をついた。俺はなんだか笑えてくる。
「部屋でぼーっとして、何してたの?」
「考えごとしてた」
「どんな?」
「将来のこととか」
「なんか、いきなり大人チックだね」
「なんともね」
「なんか、悩んでるの?」
妹は、困ったような顔で言った。
「この質問に答えてくれなかったらどうしよう」、と言うような顔。
こいつは、初めて会った時も、こんな顔をしていたんじゃなかったっけ。
「いろいろね。そういう時期なんだよ、たぶん。知らないけど」
「なにそれ」
「どーしたもんか、とね」
「今日の喧嘩と関係あるの?」
「あんまりない」
「ないの?」
「ないと思う」
「何を考えてるんだか」
彼女はまた溜め息をついた。
「どうしてここに来たの」
と俺は訊ねた。こいつの行動だって、じゅうぶん訳が分からない。
発端があったにせよ、突然俺を避け始めて、それをあっさりやめたかと思えば、「気にしてない」と言い放つ。
そして、今、こんなふうに近くにいる。
嬉しくないわけがない。
けれど、でも、こんなことばかりだから、なんだかどうしても、逃れようがなくなってしまう。
彼女はいくらか迷ったような表情を見せた。「どこまで言っていいもんかなぁ」という顔だった。
「ほっとけないから」
「何を」
「兄さんを」
「どうして?」
俺はいくらか卑怯な聞き方をした。
「わかんないけど。つらそうだし、心細そうだから」
「心細そう?」
「迷子の子供みたいな」
思春期少年の自尊心をもうちょっと慮ってほしい。迷子って。
「そんな顔されると、ほっとけない」
なんて奴だろう。こいつは俺の自制心とか、そういうのを根こそぎ奪い取るつもりなんじゃないだろうか。
不意に彼女を抱きしめてしまいたい衝動に駆られ、体を起こす。
俺は手を伸ばし、押さえ、彼女の頭にぽんと手を置いた。
「……なに?」
「良い子だ」
俺は偉そうなことを言う。
俺はさっきまで考えていたことを思い出す。
法的に禁じられていなかったとしても、社会的には異端であって、異常であること。
両親のこと。友達のこと。あといろいろなしがらみ。
そして馬鹿らしい気持ちになる。ひとりで何をぐだぐだ考えているんだろう。妄想みたいなもんだ。
俺がこんなことを考えていると知ったら、彼女はきっと俺のことを軽蔑する。
妹は、頭の上におかれたままの俺の手のひらに、居心地悪そうにみじろぎした。
「兄さんはさ」
と、拗ねたような声音で声をあげる。
「なんか、勘違いしてるよ」
「何を?」
「いつも、本当に考えてることを教えてくれない」
言えるわけがないだろう、と俺は思う。言って取り返しのつく問題じゃない。
「うわべではさんざん甘ったれたり拗ねたりしてもさ、結局本音は誰にも見せてないんだよね」
「そんなことはない」
こともない。俺は寝転がる。
「それとも、あの人には見せるの?」
「あの人?」
「兄さんの彼女」
「彼女じゃないって」
また幼馴染のことか。どうしてか、こいつの口から幼馴染の話が出ると、気持ちが揺さぶられる。
なぜだろう。
妹は気まずそうに顔をしかめた。
「自分のことを話さないのはお前もだろう。俺だって、お前が何を考えているのかさっぱり分からない」
「わたしが考えてることは、いつも単純だよ」
「どう単純なんだよ」
「わかんないけど」
ほら、やっぱり分からない。俺は苦笑する。
どうなんだろう。
いっそ何も考えずに、思うままに本音をぶつけてみればいいのだろうか?
その結果彼女に嫌われたとしても、家を出てしまえばそれで済むかもしれない、というのは楽観的か。
それでも、今のままの生活を続けるよりは、きっとずっとましだろう。
それとも何もかもを忘れたふりをして、普通を気取って生きればいいのか。
いつかきっと、こんな気持ちは消えて、まともになれるもんだと思っていたのに。
俺は、自分がまったくアキのことを思い出していないことに気付いて愕然とした。
不意に、インターホンのチャイムが鳴るのが聞こえた。俺は怪訝に思って時計を見る。
もう夜だ。今時間に、いったい誰が来たんだろう。
寝転がったままでいると、いくつかの足音が聞こえた。俺の部屋の前で止まる。
ノックの音。
嫌な予感がする。
「誰?」
と俺は訊ねる。
ドアが開く。妹が不安そうな顔になった。
俺は動揺する。扉を開けたのは幼馴染で、彼女の後ろにはモスとタカヤがいた。
幼馴染が、不満げな表情で口を開く。
「喧嘩しにきました」
俺は唖然とした。
「待て待て」
と俺は言う。
「いきなり何のつもりだ。どうした。何があった」
「それを説明してもらうためにきたんです」
話が別の位相で行われている気がする。
「対話は大事です。思うに、きみは自分の頭の中だけで考えすぎてるんです」
幼馴染は不遜に言い切った。俺は戸惑う。
「何の話?」
「きみの話をしてるんです。きみ以外の話なんて一度だってしてません」
いや、意味が分からない。
モスとタカヤをうかがう。モスは目を逸らして苦笑している。タカヤは興味深げに俺の部屋を見回した。観察するな。
「今日は具体的な話をしましょう」
幼馴染は大真面目な顔で言った。
「聞きます。思ってることを話してください。全部。隠してもごまかしてもいいから」
「意味が分からない」
俺は額を押さえる。
「相変わらず、お前の思考回路はわけが分からない」
「常にショート寸前ですから。いえ、まぁわたしの話はどうでもいいんです」
本当にわけがわからない。
「いいかげん、怒ってもいい頃だと思うんです。いっつも勝手に考え込んで勝手に落ち込んで。もうちょっとこっちに分かるように話してください」
「お前、がんがん踏み込んでくるね」
「今日はそういう日なんです。ときどきはそういう日がないとダメなんです」
俺は黙り込む。
「こっちに分かるように伝える気がないなら、最初から何もないみたいに振る舞ってください。心配かけさせないでください」
どういう理屈だ。
「心配したのか」
「はあっ?」
と、彼女は激昂する。こんなふうに苛立たしげな幼馴染をみたのは初めてかもしれない。俺はかなり驚いた。
「しますよ、そりゃ。あんなこと言われたら。どうしてしないと思うんですか? 逆に訊きたいんですけど」
本当にこいつは何を言ってるんだ、という顔を彼女はする。
俺は困る。
とにかく、と半ば怒鳴るような声を張り上げて、幼馴染はこちらを睨んだ。
「今日は腹割って話してもらいます。自分ひとりで勝手に完結されても困るんです。置いてけぼりなんです」
敬語のくせに「腹割って」なんていうもんだから、奇妙な迫力がある。
俺は妹に目を向けた。居心地の悪そうな顔をしている。
俺の視線の先を追いかけて、幼馴染はようやく妹が部屋にいることに気付いたらしい。
俺は無言で促して、妹を立ち上がらせた。彼女は後ろ髪をひかれるようにしていたが、やがて部屋の扉をくぐって出て行った。
ドアが閉じられる瞬間、目が合って、俺はなんだか奇妙な感慨に陥った。
これはなんなんだろう。
まあいいか。
俺は三人の様子を眺める。てんでばらばらの表情をしている。
タカヤは気まずそうに、モスは苦笑い、幼馴染は憤慨している。
なんだかなぁ、と思った。
どこからどう説明すればいいんだろう。いつになく、素直な気分だった。
「さて、まずはどこから説明してもらいましょうか」
幼馴染は平然と口を開く。両親も帰ってきているわけで、あんまり長話もできそうにないが、彼女が自重するとは思えない。
ときどき周囲が見えなくなる奴だ。
「そうだ! まず喧嘩! 喧嘩したんですよね?」
言ってから、彼女は俺の頬が腫れていることに気付いた。
「うわあ、痛そう」
興味深そうにしげしげと頬を見つめている。心配はどこへいった。
「なんで喧嘩なんてしたんですか」
「俺は悪くねえよ。あの茶髪野郎がいきなり……」
「そういうごまかしはいいです」
人のせいにして説明を省こうとしたら、あっさり見破られた。
さっきごまかしてもいいって言ってたのに。
「説明すんのいやだなぁ」
「どうして?」
「だって、恥ずかしいし」
「思春期の乙女ですかきみは」
「似たようなもんだと思うんだ」
だいぶ違う、と幼馴染は溜め息をつく。
「なんで喧嘩なんてしたんですか」
彼女はもう一度同じ疑問を呟いた。
「まぁ、ちょっと」
「ちょっと」
「むしゃくしゃして」
「……ちょっと、むしゃくしゃして?」
幼馴染は心底呆れきったような表情でこちらを見た。
俺はなんだか居心地が悪い。
「え、ちょっと待ってください。じゃあ、なんですか、最近様子が変だったのも」
「様子、変だった?」
「変じゃないと思ってたんですか」
俺は口籠る。正気かこいつは、という目で彼女は俺を見た。
「ここ二、三日はずっと仏頂面でしたよ。それも全部、まさかとは思うんですけど」
「むしゃくしゃしてたから、かな」
「あほですか」
自覚はないでもない。
「じゃあ、むしゃくしゃしてたのはどうしてなんですか」
「……ええと」
俺は答えない。
「今は平気なんですか?」
幼馴染は訊ねる。俺は考え込んだ。どうだろう。大丈夫だろうか?
「まぁ、さっきまでよりは」
「そうですか」
そこで彼女は溜め息をついた。
「じゃあ、いいです。今日は帰ります」
えっ、と声が出る。なんなんだ、こいつは。
「とりあえずは、です。明日からも様子が変なら、また問いただしますからね」
「なんていうか」
「なんです?」
「お前と話していると、自分がとんでもないバカだったような気分になる」
「似たようなもんじゃないですか」
そうかもしれない。
「それじゃ、帰ります」
幼馴染はこちらに背を向けた。迷わずに扉を開けてから、モスとタカヤが動き出さないことに気付く。
「どうしたんです?」
モスは妙な顔つきで首を振って、
「先に帰ってくれ。話したいことがあるから。タカヤも外に」
幼馴染は一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべたが、結局頷いて、部屋を出て行った。
タカヤは特に思うところもなさそうに部屋を出た。俺はなんだか緊張した。
二人きりになると、途端に部屋に沈黙が下りた。俺は何を言えばいいのか分からない。
モスはしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。表情は少しこわばっている。
「お前はさ、やっぱり、好きなのか」
「へあ?」
と妙な声が出た。何を言い出すのかと思っていたら、いきなり変な話になった。
「好きって、何を」
「妹さん」
モスは気まずそうな顔をしていた。おいおい、と俺は思う。なんてことを訊きやがるんだ。
「なんですかその質問は。ていうか『やっぱり』ってなんですか」
俺はなぜか敬語だった。モスの表情は読みづらい。
「中学のときからずっとこの家に遊びに来てたけどさ。やっぱり、分かるんだよね」
「分かるって、何が」
「この兄妹、普通と違うよな、っていうのが」
「……なにそれ」
「暗がりにふたりっきりでほっといたら何をしでかすか分からない雰囲気っていうの?」
「あなたちょっと何言ってるんですか」
「まぁそんな感じの雰囲気がね。昔からね」
「いつから」
「ほとんど最初から」
彼を初めてこの家に招いた頃、うちの妹は小学生だったわけなのだが。
……なのだが、あんまり否定もしきれない気がした。自分でもどうかと思う。
「血、繋がってないんだよな?」
「……お前も今日はぐいぐい来るね」
「そういう日がときどきは必要なんだって。さっきも言われてただろ」
もうちょっと分散させてほしいものだ。
「繋がってないよ」
俺は一応答える。モスはなんとも言い難いという表情になった。
腕を組んで真剣に考え込んでいる。なんだかコミカルに見えるのはなぜだろう。
「なんかの本で読んだんだけどさ、義理の兄妹って結婚できるらしいぜ」
こいつは話をどこに持っていきたいんだろう。
「知ってる」
「へえ」
できないって話もあるけど、少なくともうちの場合は可能だ。だからどうしたという話なのだが。
「でもさ、ないだろ。そんなん。一緒に暮らしてるんだぜ? そういう対象として見ないよ」
俺は一般論を言った。モスは「まあたしかに」と頷く。
「でも、そういう対象として見れない奴が多いってだけで、見れる奴がいないってわけじゃないだろ」
そりゃそうなのだけれど。……そうなのだけれど。
「一緒に暮らしてるだけで相手を好きになれなくなるなら、結婚ってシステムはやっぱり非効率的だよなぁ」
なんでもかんでも巨視的な話に持っていきたがる奴だ。それとこれとは話が違う。
「つまりさ、大勢の人間がきょうだいをそういう対象として見られないとしても、お前がそうかって話と、そのことは別の話なんだよ」
「……いや、まぁ。そのあたりはいいんだけどさ、別に」
モスの話は、なんだかさっきからおかしい。
「つまり、何が言いたいの?」
「いや、なんていうかさ」
モスは頭を掻いた。
「それでもいいんじゃねえの。と、俺は思うよ」
「……ん?」
「うん」
「……え、なにが?」
「だから、別にいいんじゃねえの。そういうのも」
「……ん?」
こいつは何を言っているんだ?
「無責任なこと言うようだけどさ、そんなにつらいんだったら、自分の気持ちに素直になっちゃえよ」
「いやいやいや。その発言本当に無責任だよ」
自分の気持ちなんかよりよっぽど優先すべきものがあると思うのです。
「こないだおみくじ引いたんだよ、神社で」
「いきなり何の話ですか」
「そしたら、小吉だった。恋愛のとこにね、「用心深さと臆病さは似て非なるもの」って書いてあったよ」
モスは髪を掻きあげる。
「今思えば、アレお前のことが書いてあったんじゃないかな」
どういう発想だ。なんでお前が引いたおみくじに俺のことが書いてあるんだ。
「いや、いろいろと問題とか、障害があるだろうっていうのは分かるけどさ」
モスはあっさりと言う。
「でもお前、好きなんだろ?」
俺には返す言葉がない。溜め息すら出てこない。
自分が呆れているのか、感心しているのかすら判然としなかった。
「だったらいいじゃないか」
モスは言葉を重ねる。本当に、こいつは無責任なことを言っている。
俺はやっとの思いで口を開き、絞り出すように言葉を返した。
「あのさぁ、普通、引くだろ。義理だろうとなんだろうと。なんでお前、そんな平然としてんの?」
「お前こそ、何をいまさらなことを言い出してるんだよ。普通の人はそうかもしれないけど、俺はそうじゃないってだけだ」
俺はようやく溜め息をついた。
俺は今までいったい何をやっていたんだろうか。
モスと一緒にリビングに降りると、幼馴染とタカヤがコーヒーを飲んで妹と話をしていた。
妹の態度がおかしかったので、てっきり幼馴染とは折り合いが悪いのかと思っていたのだが、ごく普通に会話している。
タカヤは特に気まずそうでもなく、黙って窓の外を眺めていた。
もう雪はやんだようだった。
両親は部屋に戻っているらしい。なんとも。
「終わりましたか」
「まぁね」
モスが答える。俺はなんだか気分が落ち着かない。
妹に視線を向けると、目が合う。逸らす。なんなのだ。
客人たちは動き出す気配がない。というのも、いつも先頭に立つ幼馴染が動き出さないからだろうが。
幼馴染はふと声をあげた。
「ゲームしません?」
「……いきなりなんですか」
溜め息。
「スマブラしましょう、スマブラ」
「いや、帰ろうよ。明日も学校だよ」
「やろうよ」
と言ったのはタカヤだった。
「なんかさ、お前ら忘れてるみたいだけど」
彼は不服げに言う。子犬系の顔が相まってちょっとかわいい。かわいいけど、そう思ってはいけない気がする。
「俺、昨日先輩に振られたばっかりだぞ! もっと慰めろよ!」
「あー」
すっかり忘れていた。
「いや、そうだな。スマブラしようか、タカヤ。俺はお前にもっと優しくするべきだったかもしれない」
「そうだな。今日はお前がやりたいだけ付き合おう。コンビニ行って飲み物買ってくるか。タカヤ、おごってやるよ」
「……あからさまに同情するなよ、悲しくなるから」
俺とモスの言葉に、タカヤはうなだれる。難しい奴だ。
「じゃあじゃんけんで負けた奴がジュース買いに行くか」
「みんなで行けばいいじゃないですか」
「絶対寒いよ」
「いいじゃないですか、別に」
まぁ、いいと言われてしまえばいいんだけど。
「お前も行くか?」
と妹に訊ねると、彼女は首を横に振った。
「もう部屋に戻ってるから」
俺が返事をするより先に、幼馴染が声をあげた。
「なんでですか。一緒にスマブラしましょう、スマブラ」
幼馴染は心底そうしてほしいような表情で言った。こいつには誰もかなわないのではないか。
「一緒にいきましょう、コンビニ。肉まんおごりますから」
「何かを買ってあげるからついておいで、って人にはついていかないようにって、兄に言われてるんです」
「おそるべきお兄ちゃんですね。いったいどんな人ですか」
いつの話をしているのだ、妹は。小学生の頃のことじゃないか。
「そういうのは、知らない人のときだけ気をつければいいんです。お兄ちゃんも一緒なんだからいいじゃないですか」
妹はしばらく「めんどくさい」と「ちょっと行きたい」の表情を行ったり来たりさせていたが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、行きましょうか。お兄ちゃん」
「その呼び方やめてくんない」
幼馴染の辞書に反省という文字はない。……こともないはずなのだが。
夜道を歩いて、コンビニに向かう。持っているのは財布と携帯だけ。
みんなほとんど手ぶらだ。なんだかすっきりしている。
空を見上げると星が綺麗だったけれど、それを口に出すのは面映ゆいのでやめておいた。
妙な気分だ。高揚しているようにも、静まり返っているようにも思える。
ひそめた声で世間話を続けながら、俺たちはコンビニを目指した。
店内ではクリスマスケーキの予約受付の看板が飾られていた。コンビニでケーキを買う人なんているのだろうか。
いるから売ってるんだろうけど。
ジュースとお菓子類を適当に選んで、レジに向かう。
タカヤの分は俺がおごった。
レジで会計を済ませていると、入口から見覚えのある女の子が入ってきた。
目が合う。
少しして、彼女の方が目を逸らした。様子をうかがうと、どうやら同い年くらいの男と一緒らしい。
平気そうに知らんぷりをされる。うーん、と俺は思う。なんとも言い難い。
釣銭を受け取って、店を出た。微妙な気分だ。これでいいわけではないし、これでだめなわけでもない。
「どうかしたの?」
と、幼馴染に買ってもらった肉まんを頬張りながら、妹が言った。
「特には」
答えると、息が白く染まった。
「さて、戻ってゲームするとしますか」
幼馴染が声をあげて先頭に立つ。
タカヤとモスが、それを追いかけた。俺と妹は最後列につく。
家に帰ってゲームするって、なんとも色気のない話である。
あったって困るけど。
結局その日、三人は結構な時間居座って、ゲームをして帰って行った。
玄関で彼らを見送るときには遅い時間で、リビングは結構な具合に散らかっていた。
片付けることを思うと頭が痛いが、まぁ仕方のないことだ。
三人を玄関で見送って、部屋の片づけを始める。
俺と妹しかいなくなると、家の中は突然静かになったように感じた。
片づけを終えてから、両親の部屋を覗いた。
どちらも、もう眠っているらしい。結構騒いでしまったのだが、大丈夫だったのだろうか。
しかし、説教を受けたその日のうちにバカ騒ぎって、いくらなんでもアホかという話ではある。
幸いあんまり騒がしい性格の奴はいないし、盛り上がるにしても静かだったので良かったが。
もうすぐ冬休みなんだ、とふと思った。
そしてクリスマスがきて大晦日がきて、正月がきて、あとそれからいろいろある。
さて、と俺は考え込む。
明日のことを考えると、少し気が重い。
問題はなにひとつ転じていない。明日も説教はあるだろう。
窓ガラス代のこともあるし。
とはいえ、なんだか昨日までよりも、気分が優れている。
これは何のどんな効用なのか。
いずれにしても、もうすぐ休みだ。
心配事はそんなに多くない。
ベッドで眠っていると、なんだか揺れている。
これは地震か。そう思いながらも、まぁ家がつぶれるならそれもよかろうと眠ったままでいる。
すると、声がした。
「起きて」
と言われて、起きる。妹がいた。
「……なぜ起こした?」
と俺は問う。
「ねぼけてるの?」
妹は呆れ顔だった。
「そうではなくて。近頃は起こしてくれなかったような気がするのだが」
「こないだも起こしたでしょう」
そうだったっけ。
「わたしではご不満でしょうけれども」
「何のお話ですか」
「べつに」
なんだか嫌な感じの態度である。
「まだ寝てたっていいよ。今日も起こしにくると思うから」
「あ、そう?」
何の話か分からないが、俺は一分一秒でも長く惰眠を貪っていたい。
俺の答えを聞いて、妹はすねたような顔でそっぽを向いた。
こいつも何を考えているのやら、と少し考えたが、眠かった。
「おやすみ」
と俺は言った。目をつぶる。眠気はすぐにやってくる。二度寝は至福だ。冬の朝は寒い。
なんだか頭がぼんやりする。
少しすると、また揺れる。またか、と俺は思う。もう時間なのか。
いいから寝かせておいてくれ。どうせ休みになるんだし。
でもだめ。今度はさっきより激しい。どうやら時間らしい。
体を起こすと、幼馴染がいた。
「おはようございます」
「……おはよう」
彼女は俺の寝癖をぽんぽんと叩いた。
「今日も一日がんばりましょう」
からりとした笑顔で言う。こいつが言うとなんとも空々しい。
さて、と俺は思う。
それでもやっぱり学校なのだ。今日も今日とて。
教室につくと、窓際の俺の席で、タカヤが何か思い悩んでいるようだった。
「どうした?」と声を掛ける。
「いや」
彼は首を横に振る。何が「いや」なのか。
「なんだか、すっきりしないなと思って」
「何が?」
「なんだか、よく分からないんだけど……」
何の話をしているんだろう。
「このままでいいのかな。何か忘れてる気がする」
そうは言われても、俺にはなんとも答えられない。
タカヤの表情をよそにモスはひとりで練けしを作っていた。
こいつはこいつで何をやっているのやら。
俺たちが教室で世間話をしているうちに、教師が俺を呼びに来た。
嫌な話だ。俺は職員室に連行される。曳かれ者の小唄。
なんだか月並みな話を聞かされる。
ついでに反省文という言葉の上でしか知らなかった存在にまで直面し、俺のテンションは下降した。
でも仕方ない。それが俺のしたことなのだ。
教室に戻って、平然と話の輪に戻る。
なんだか気分が冴えなかった。
昼休み、幼馴染に呼び出される。
「お弁当は?」
「今日はありませんよ」
「なぜ」
当てにしていた自分を棚に上げ、幼馴染の行動の意図を問いただす。
「いつまでもわたしをあてにしないでください」
スパルタめ。
「ところで、俺たちはどこに向かっているのでしょうか」
俺たちは廊下を歩いている。何度も通った廊下。なんだかこのままだと、知っている場所にたどり着いてしまいそう。
「新聞部の部室です」
なぜ。
部室では先輩が待っていた。彼女は俺の姿を見て、なんだか微妙な顔をする。そりゃ、そうもなるだろう。
彼女自身のことも彼女の弟のことも、どちらも俺と関わっている。
「あのさ、ほっぺた、平気?」
彼女はまず、気まずげにそう言った。
「平気ですよ。弟さんの方は平気そうですか?」
「うん。いや、ごめんね」
どうして謝るんだろう。口には出さなかったが、なんとなく納得がいかなかった。
「なんというか、ね」
彼女は気まずげに溜め息をついた。なんとも言えない。
「まぁ、いろいろ。思うところとか、そういうあれがあって」
「すみません、何が言いたいのかまったくわかりません」
失礼だとは思ったが言わずにはいられない。
先輩は歯噛みした。
「わたしも、混乱してるみたい」
先輩は溜め息をつく。そうは言われましても。
ところで。
先ほどから先輩の弟君が、窓際からこちらを睨んでいる。幼馴染も先輩も、もうちょっと考慮してくれてもよいのではないか。
「こら!」
と先輩がうしろを振り向いた。
「何睨んでんの!」
……お姉ちゃんがいる。すげえ。お姉ちゃんだ。実物初めて見た。
「うっせえばーか」
そしてあっちはあっちで弟だ。なんだこの姉弟。
「あんたちゃんと謝ったの!?」
「知らねえよ。謝るかよ。黙ってろ」
俺は気まずい。
「謝んなさい、今すぐ!」
「やだね」
やだね、って。なんだそれは。言ってはなんだが見ていて面白い。
「ったく。ごめんね、ホントに」
「あ、いえ。こちらこそいろいろ申し訳ないことを」
したような、しなかったような。
まぁいいか。人間なんて誰だって悪でも善でもないのです。まる。
どうでもいい。
ふう、と溜め息をついて、先輩は苦笑した。
「何話すか忘れちゃった」
おもしろい人だ。
もうすぐ冬休みなのだと思うと、不意になんだか走りたくなった。なんでか分からない。
グラウンドは運動部が使っていた。うーん、と思う。気持ちが落ち着かない。
そこに、茶髪が来た。
「何やってんの」
と彼は平然と俺に声を掛ける。なかば呆れながらも、特に思うところもなく返事をする。
「別に。走りたいなぁと思って」
「走れば?」
「なんともね」
「走れよ」
なんだこいつ。俺は怪訝に思う。いったい何が言いたいんだ。考えてることが分からない奴ばかりだ。
当たり前のことだけど。
「なあ、じゃあ走るか」
茶髪は言った。
「お前も走るの?」
「それでもいい」
唐突な奴だ。
校舎には夕陽が差している。冬なのだ。空気は冷たい。
「俺はさ」
と茶髪は言う。
「お前には謝んねえ。謝んねえけど」
「けど?」
「悪かった」
謝ってんじゃん。
「じゃあ、俺もだ」
「何が?」
「俺もお前には謝んねえけど、悪かった」
「なんだそりゃ」
お前が言ったんだよ。
でも、まぁ、そうなのだ。
謝れる部分と謝れない部分がある。悪い部分と悪くない部分がある。どんな人にも。
そういう違いだ。
「外周走ろう。どっちが早いか、競争な」
茶髪が言った。俺は頷く。
「先に五周した方が勝ち。勝った方が負けた方に一個だけ命令できる」
「五周?」
「三周がいいか」
「十周の間違いだろ」
茶髪は笑った。俺は肩をすくめる。
立っていた場所をスタートラインにして走り始めた。コースは裏門から出て外を大回り。
校門の方に回ってそのまま学校の敷地を走る。それを十周。最後にスタートに戻る。
当然だけれど全力疾走を続けて走り抜ける距離じゃない。かといってペースを乱さずに走るなんてできる気分でもなかった。
俺もそうだったし茶髪もそうだったと思う。
なんだか知らないけど、俺は茶髪という人間を嫌いになれない。いや、嫌いなのだけれど。
どうも、彼に対して妙な親近感といおうか、そういうものを感じてしまう。なぜかは分からない。
一周二周なんて楽勝だろうと思っていたら、半周ほど走る頃には息が乱れていた。運動不足。怖い話だ。
制服のままだから動きにくいし、冬だから体を動かしていても指先が冷たい。
呼吸が乱れる。俺は長距離ランナーじゃなかった。
でもどうでもよかった。膝もまったく痛まなかった。二周目あたりで、茶髪が俺を引き離した。
俺はそれでも普通に走る。
なんで走ってるんだっけ。正直、疲れている。体力も体調も芳しくない。
第一寒い。よくもまぁ走る気になれたものだ。走りたかったのだけれど。
俺はいろんな問題から宙ぶらりんにされている気がする。なんだか浮かび上がっているような気がした。
別に負けたくないなんて思わなかった。ただ思い切り走りたくなった。なんとなく。休みになるし。
でも上手に走れなかった。手足が思うように動かない。
嫌になる。なんで俺の身体はいつだって俺の言うことをきかないのか。
でも仕方ない。俺は俺の身体で上手いこと走っていくしかない。
脇腹が痛んで、額に汗が滲んだ。まだ大した量を走ったわけでもない。
運動不足。
冗談のような話だ。
茶髪は俺のずっと先を走っていたが、視界からは決して外れなかった。
なんだって俺は走っているんだろうか。
俺は気付けば夕陽に向かって走っていた。今日の太陽はでかい。そう見えるだけかもしれない。
五周を越えたあたりでばてそうになる。もう歩いたっていいじゃないかという気分。
なんで五周にしておかなかったかな、俺の馬鹿。自分の能力をもっと把握しておけ。
でも、走ると決めた以上はやっぱり仕方ない。
……そうか? 別にやめたっていいじゃないか。逃げたって。
それはそれでありだろ。なんだってこんなに疲れるのに走り続けなきゃならないんだ。
走り終えたところでどうなるんだ? 仮に茶髪に勝ったって、奴にひとつ命令できるだけだ。
たかだかそんなもんのために走ってどうなるっていうんだ。
走り続ける理由と走るのをやめる理由だったら、どう考えても後者の方が多い。
下校を始めたうちの学校の生徒たちに遭遇する。俺のことを奇異なものを見るような目で見ていた。
実際、奇異なものなのだが。
それ以外の人にもたくさん出会った。
主婦っぽい人に犬の散歩をしている老人、それから付近の中学生。
俺はかなり無様に走った。できるものなら軽快に走りたかったが、できないのだから仕方ない。
こんなに走ったってどうなるんだ。別に走るのをやめたってかまわないのに。
でも、なんか知らないけど走っている。ペースが落ちてきた。でもまあ、走っている。
茶髪の背中が徐々に近づいてきたような気がする。街は黄昏。時間の流れが異様に遅く感じる。
途中で妹とすれ違った。俺は一瞬だけ目を丸くして、「よう」と言った。
「何やってんの?」
「不毛な戦い」
「なにそれ」
彼女は笑った。
十周を終えてスタート地点に戻ると、妹がいた。敷地内なのに。それから幼馴染。タカヤ、モス。
先輩と、「みー」。タカヤ姉。
こいつら暇なんだろうか。
「何やってるんです?」
と幼馴染は言った。
「特には」
言って、荒い息を整える。立ち止まると、途端に膝が痛みだした。
「そっちこそ、何をやっているのか。勢揃いで」
「別に、何も」
と、皆が顔を見合わせる。俺は疲れたので、地べたに座り込みたかった。
足がうまく動かない。折り曲げることすら難しい。
「五周にしとけばよかった」
「いらない見栄を張るからだ」
茶髪もまた、ぜえぜえと息をしながら乱れた髪を直している。
「なんだかなぁ」
と言いつつ、俺は「みー」に視線を向けた。この子はここにいて大丈夫なのだろうか。
なぜここにいるのだろう。何かあったのだろうか。そう思ったけれど、上手に問いかけることはできない。
いて悪いわけでもない。俺は疲れていた。達成感も爽快感もなかった。
「はい」
と、妹が飲み物を差し出す。レモンウォーター。俺は受け取る。
「どうも」
俺は何をやっているのやら。
不意に、モスがこらえきれないというように笑った。
「なんで急に走ったんだよ」
「知らねえ。なんかこいつが」
と俺は指差す。
「いや、お前だろ?」
「……そうだっけ?」
よく思い出せない。幼馴染は笑った。
「あほですか、きみらは」
たぶんその通りだ。としか答えようがない。
俺と茶髪の不毛な争いが、勝者なしという不毛な結果に終わった翌日の土曜日。
幼馴染は平然と俺の家にやってきた。
前日の消耗が残って全身を疲弊させていた俺に対して、彼女はごく普通の態度で接した。
あたかも何も起こらなかったように。まぁ何も起こっていないようなもんなんだけど。
「なんていうか」
「なんていうか?」
「昨日、みーがいたじゃないですか」
「ああ、うん」
「わたし、知らなかったんですけど、タカヤくんに声を掛けてみたらしいんです」
「……掛けてみたって、なぜ」
彼女は首をかしげた。
「さあ? 機会があったのかもしれませんし。詳しいことは分かりませんけど」
俺は何を言おうか迷った。
「つまり、昨日の「みー」は、お前と一緒にいたんじゃなくて、タカヤと一緒にいたの?」
「そうなりますね」
なんだそれは。
「まぁ、あのふたりがどういう話をしたのかは知りませんけど、なんというか」
なんというか。と幼馴染は首をかしげる。うーん。
「いいんじゃない?」
「なにがです?」
「いや、よく分からんけど」
俺たちが変に首を突っ込むよりは。
幼馴染は用事があるといって早々に帰って行った。来週からは起こしにきませんよと言葉を添えて。
どうせ来週をやり過ごせば冬休みだ。好きなだけ眠りたい。
ベッドを這い出てリビングに向かう。もうすぐ休みになるのだ。
妹はコタツにもぐって本を読んでいた。
「なあ」
と声を掛ける。
「なに?」
「出かけない?」
「……どこに?」
「どこでもいいんだけど」
なんとなく気分が落ち着かないのだ。妹は少し迷ったような顔をしていたが、やがて頷いた。
「……うん」
外は寒い。息は白い。このあいだ初雪も降って、街はいよいよ冬めいている。
「どこに行こうか」
「決めてから出掛ければいいのに」
「なんだか、据わりが悪いんだ」
「なにそれ」
「落ち着かない」
「そんなの知らない」
妹は拗ねたようにそっぽを向く。俺はふと疑問を口にした。
「……なんか、近頃、態度が変じゃない?」
「どこが?」
「昨日から、冷たい」
妹は呆れたように溜め息をつく。まぁ、冷たくされても仕方ないのだが。
「べつに」
とりあえず街に出る。何の目的もなくぶらつく。そういう日がある。
何もこんな寒い日に、とも思うのだが、夏は暑いし冬は寒い。春は花粉、秋だって十分寒い。
出かけない理由なんて、いつだって山ほどある。
筋肉痛だって体調不良だって。まぁ、さすがにそこをおしてまで出かけようとは思わないのだが。
「なんで、急に出かけようなんて言うの?」
「なんで、って?」
「今まで、こんなことなかったのに」
「そうだったっけ?」
「そうだよ、兄さん、中学入ってから、ずっとわたしと距離置いてた」
「そんなことは」
あったかもしれないが、無意識だ。実際、コタツでの距離とか異様だし、あんまり理屈で考えてはいなかった気がする。
「兄さん、最近おかしいよ」
「そんなことはない」
おかしいといえば、まぁ、最初からおかしかったのだろうと思う。
「なんていうか、悪かったな」
「なにが?」
「いろいろ、迷惑かけたような気がする」
「……何の話?」
「情緒不安定なもんで」
「いいよ、それは別に。いつものことだし」
彼女は本当に気にしていないように言う。
しばらく出かけたりしなかったので気付かなかったが、街中はクリスマスに染まっている。
「でも、なんていうか、嫌われても仕方ないっていうか」
こういうことを口に出してしまうあたり、なおさら鬱陶しい部分なのだが。
「……アホだからさ」
いつもぐだぐだ言い訳をならべて、話をぐしゃぐしゃにして、誰かを傷つけたりして。
当たり前といえば当たり前のことなのだけれど。
当たり前と割り切るのは身勝手すぎる。
「別にいいよ。アホでも」
妹はマフラーに口元を埋める。
「兄さんにはいいところなんて一個もないかもしれないけど、それでもわたしの兄さんだから」
「さらっと傷つくことを言うなぁ」
「でも、仕方ないんだよ。なんか、そういうふうにできてるんだよ」
いつのまにか、彼女の声音は真剣なものになっていた。
俺は不意に黙り込む。何を言えるだろう。
「たとえばさ、兄さんより頭が良くて、性格ももっとしっかりしてて、運動ができて、誰も傷つけずにいられる人がいるとしてさ」
嫌な想像だ。自分より出来のいい人間のことを想像と気分が暗くなる。小者だから。
「その人がわたしの兄貴になってくれるっていっても、別にいらないんだよ、そんな人」
照れくさそうでもなく、ごまかすふうでもなく、ごく当たり前の口調で、妹は言った。
「だってその人は兄さんじゃないから。当たり前だけど」
どうして、こんな話をしているんだろうと、不意に思った。
「そこまで言ってもらえると、何ともむずがゆいんだが」
でも、
「俺はそこまで良い兄だったか? 代わりがいらないくらいの」
「……良い兄では、なかったかもしれないけど」
だったら、疎んじたり、嫌ったりしたってよさそうなものなのに。
どうして彼女は、こんなふうな言葉を向けてくれるんだろう。
後ろめたさが募る。
「でも、わたしが寂しかった時に傍に居てくれたのは兄さんだから」
「……それって、いつの話?」
「分かんないなら、別にいいよ」
と、ほんとうに、そのことは重要ではないというふうに、彼女は言った。
「でも、だから、兄さんが寂しいときは、傍にいてあげたいって思うよ」
不意に、強い感情が胸を衝いた。
俺は何を言えばいいんだろう。なんだか涙が出そうな感覚。
「兄さんは、別にわたしがいなくても平気みたいだけど」
――と、沸きかけたところに、水を差される。
「……その心は?」
「彼女にご執心のようだから」
「……しつこいね、お前も。彼女じゃないって」
「でも、わたしが傍にいたって落ち込んだままだったのに、あの人がきたら元気になったじゃん」
「……え、それは」
「一昨日の話」
「そんなことはなかった」
と、思うのだけれど。
「いいけどね、別に」
妹は言う。
「付き合っちゃいなよ。その方がわたしも、気が楽だから」
拗ねたような声で言う。こいつがこんなにもはっきりと感情をあらわすのは、初めてかもしれない。
「気が楽って、どういうこと」
「べつに」
俺は深く考えないようにした。
「どこかに入るか」
誤魔化すように提案する。妹は頷いた。
どこにも入る気が起きなかったので、適当に町はずれの喫茶店のドアをくぐった。
前々から気になっていたのだけれど、入る機会がなくて、ずっと素通りしていた。
喫茶店に入るなんて、なんだかきざったらしいような気がしたのだ。
席についてコーヒーを頼む。よくわからなかったので適当に。
「あいつとは」
と俺は言う。
「本当に、なんでもないよ。いや、なんでもないって言ったらおかしいけど」
「けど?」
「あいつだって、俺のことをそんなふうに考えていない気がする。母親っつーか姉っつーか、そういう立ち位置なんじゃないか」
「兄さんがそう思ってるだけかもしれないよ」
「仮にそうだとしても、おんなじだよ」
「なにが?」
「いや……」
きっと、アキのことの反復になるだけだ。
このままじゃずっとそうだ。
「ふうん」
妹は、さして思うところもなさそうに頷く。
納得したようではないが、なんだか、気まずそうな顔をしている。
叱られる前の子供のような。
「俺は」
と言い掛けて口籠る。さすがに、これを言ったら、まずいような気がした。
「……なに?」
妹は不可解そうに目を細める。
視線を逸らさない。何があっても追及する目をしている。俺は溜め息をつく。
「俺は、お前がいないと困るよ」
彼女は、面食らった顔をした。目をあちこちに泳がせて、やがて拗ねたように窓の外へ顔を向ける。
「なにそれ」
口癖のように妹は言う。俺は妙に気分が高揚している。言わなくていいことを言ったのはそのせいだ。
たしかに、こんなふうに過ごすのは久し振りだったかもしれない。
夢の中で俺は走っている。なんでかは分からない。
とにかく走ることが必要だったのかも知れない。
そうしないと俺の中の何かが狂ってしまいそうだったのかも知れない。
とにかく俺は走ることで安定を得ることができた。走ることでようやくまともだった。
あくまでも夢の中では。病的だ。
そういう夢を、近頃頻繁に見る。最近では、走りつかれて頭が朦朧としているのか、夢の中の俺は幻聴さえ聴く。
声はひたすらに「どうしてお前は走っているんだ」と問い続ける。
なんでだったかなぁと俺は考える。でも、いつも上手に答えられない。特に理由はなかったのだ。
そんな夢ばかりみていたので、近頃の朝は寝覚めが悪かった。のだが、今日のそれはもっとひどかった。
ほとんど悪夢だ。
「判決を言い渡す」
裁判長が木槌を振り下ろす。俺はその様を見上げている。裁判長は俺の顔をしている。
天井は高く声は響く。巨大な建物。法廷だ。俺は被告人だった。
「有罪」
「待ってくれ、納得がいかない」
俺は必死に言いつのる。第一、何の罪で俺はこんな場所に立っているんだ。
「分からんと言うか。分からんというのか。自分が何の罪でここに立っているのか」
「まったく分からない。説明がほしい」
裁判長は溜め息をつく。俺がいつもそうするように。
「まったく分からん。説明しろ」
俺は声を荒げる。なんでかは分からないけど、そういうことがある。
「血の繋がりはないと言ったな」
裁判長は、嘲るように言った。
「だから許されるとでも思っているのか」
「別に、許されると思っているわけでは」
「ならば、有罪ではないか」
……そう、なるのか?
「第一、お前の妹はまだ子供ではないか。子供に手を出すのは犯罪だ。一般常識だ」
裁判長は自らの言葉に深々と頷いて続ける。
「そして、お前も子供だ。経済的に自立していない。精神的にも幼稚だ」
「その通りだが」
「だが、なんだ?」
俺は押し黙る。
「分かるか。そこが貴様の思い違いなのだ。もし赤の他人ならば、経済的自立など視野に入れんでもよい。どうせ長くは続かんのだから」
裁判長は厳かな声で告げる。声は法廷に響く。真黒な傍聴席がざわめく。
「だがお前たちは家族ではないか。その場の勢いでどうこうしていい立場か。上手くいかなかったとやめられる関係か」
「……いや、待て。俺は何もそこまで、現実的に考えているわけでは」
「考えていないのか。それはそうだろう。お前は子供だ。将来にまで責任は持てない。それはそうだ」
声には憤りがこもっている。
「赤の他人なら簡単に捨てられる。気分の悪い話だが。だが、妹ならどうだ? 飽きたといってお互い綺麗に捨てられるのか?」
「捨てるなんて」
「しないとどうして言い切れる? 単なる一時の気の迷いではないのか。単に性欲の対象として見ているだけではないのか」
「下種が」
「下種は貴様だ。恥を知れ」
俺はまたも押し黙る。
「貴様は今までだってそうだったじゃないか。手に入らないから欲しがるだけで、手に入ってしまえば見向きもしない」
裁判長は言う。
両親はどう思う。仮にそんなことになってしまったら。
第一、血の繋がりがなかったところで、お前たちは世間から見れば兄妹なのだ。風当たりは強い。
ならばどうする。誰も知らない街にでも引っ越すか。二人きりで。それもよかろう。金さえあれば。
巨大な屋敷でも立てて、そこに引きこもるのもよかろう。金さえあれば。だがない。
それに、お前の友人たちはどうだ? ひとりはああ言ったが、他のものまでああ言ってくれる保証はない。
お前はどうやら今すぐにでも妹を手に入れたくて仕方ない様子だ。だがその先のことを何も考えていない。
一切何も。物欲しそうにしていれば手に入るものだと勘違いしている。
第一血の繋がりがないことなど、何の免罪符になる?
お前は仮に血の繋がりがあったとしたら、あの子を好きにならなかったのか。
どうなのだ。仮に血の繋がりがあったとして、お前は同じなんじゃないか。
近親相姦によって出来る子供に障害が起こる可能性は高齢出産のそれと大差ない。
であるなら遺伝的問題は後でつけられた理屈にすぎない。
高齢出産が禁忌とされていない以上、近親相姦がタブー視されるのは文化的な、倫理的な問題だと。
現に近親相姦が禁忌とみなされなかった社会だって歴史の上には世界中に見ることができると。
第一優生学的な視点を理由とするのはあまりに時代錯誤に過ぎると。
単に大衆の感情が問題になっているにすぎないと。
そんなふうに屁理屈を並べたのではないか。結果生まれてくる子供の気持ちなんて考えもしないだろう。
要するに自分に都合の良い言葉だけしか聞く気がないのだ。
吊るされた餌に飛びつくのと変わらない。
お前はどんな境遇だろうと適当に言い訳を並べるだけだ。
だがそんな言い訳が、現実に社会で何の役に立つというのだ。
現に社会に認められることがないという事実がその後の人生では最大の障害となるのに!
そもそもお前は、彼女の側の気持ちを一度だって考えたことがあるのか。
俺は何も答えられない。
「そらみろ!」
裁判長が叫ぶ。傍聴席から飛ぶ怒号。投げつけられるゴミ。ポップコーンとジュースの容器。
出来の悪い脚本に、観客が怒っている。
俺の頭にコーラがかかる。べとべとと服を汚していく。容器が頬をかすめて裂いていく。
「お前は何も考えていない! 分かるか! それがお前の罪だ! 今さえよければいいと思っている! 下種が! 恥を知れ!」
怒号はいつしか耳鳴りのように鼓膜に馴染んでいく。俺の世界から音が消えていく。
傍聴席から真黒な人々が身を乗り出す。俺に向かって親指を下に向ける。
さまざまな声が俺を罵っているらしい。その声はもはや俺には聞こえない。
どろどろどろと、傍聴人が溶けて俺の視界を覆っていく。
俺はどうして走っていたんだったか。
ふと目を覚ます。
部屋の中は赤く染まっている。夕方なのだ。俺は息を整える。ひどい夢だった。
汗を掻いていた。ひどく寒い。ベッドから抜け出す。喉が渇いている。
頭が痛い。夢見はいつも悪い。
日曜の夕方。休みを寝て過ごしてしまったが、後悔はない。もうすぐ、どうせ休みなのだ。
キッチンで冷蔵庫を漁る。飲み物はなかった。俺は財布を持って散歩に出ることにする。
公園の自動販売機でスポーツドリンクを買う。アクエリアス。そういう気分だった。
ベンチに座って喉を潤していると、なんだか時間の流れから取り残されているような気分になった。
このまま取り残されてしまいたいもんだ。俺は自棄になったように思う。
そうして誰も彼も俺を忘れてくれればいいのに。大真面目に考える。
いつまでこんなことをぐだぐだ考えてるつもりなんだか。
この公園も、なんだか小さくなったなぁ。いや俺が大きくなったんだけど。
昔は何もかもが巨大だったのに。
自分でも、気味が悪い。
どうしてあんな夢を見るほど真剣な想像を膨らませているんだろう。
不意に、声を掛けられる。
「なにしてるんです?」
肉まんをかじりながら、幼馴染がやってきた。
「寒くないんですか、そんな薄着で」
「そんなには」
と答えかけて、空気が冷たいことに気付いた。
「あほですか」
言いながら幼馴染は俺の隣に腰を下ろし、肉まんをひとつ差し出した。
俺は受け取る。
「何考えてたんですか?」
「別に、何も」
「妹ちゃんのこと?」
「……だから、別に何も考えてないって」
「昔から」
と、幼馴染は特に思うこともなさそうに言う。
「きみはずっと、妹ちゃんのことばっかりしか考えてませんからね」
「なんすか、それ」
俺は溜め息をつく。
「だって、ずっとそうじゃないですか。わたしが知る限りではずっと」
「お前が知る限りって、それさ」
俺の人生のほとんど全てなんですが。
「状況によっては、違う形で発露されたりもしますけど、結局向いてるベクトルはおんなじなんですよね」
「……なんつーか。お前もお前で、物おじせずにがんがん言うね」
「アキとのことも、そうですけど」
幼馴染は平然と言う。俺の表情にどんな変化があったのか、自分では分からないけれど、彼女はさとすように言った。
「言ったらなんですけど、きみだけじゃなくてあの子だって悪かったんですよ。相手の気持ちとか、まったく考えない子だった」
「やめろよ」
「目の前の相手がどんな表情をしているかとか、どうでもよかったんです。あの子は。だから……」
「やめろって」
幼馴染は押し黙った。俺はなんだか頭が痛い。
「ごめんなさい。わたしも、きみの気持ちとか、あんまり考えてないかもしれない」
幼馴染は言う。
俺は溜め息をつく。それを言ったら、俺だってこいつの気持ちなんてまったく考えていないのだが。
「なんか、疲れたな」
不意に、幼馴染は言った。
「どうして?」
「時間切れまで持ちそうにないって話です」
「何の話?」
「べつに、いいです」
ふてくされたような口調だった。
「だめだったかあ」
そう言って、彼女はおおきく伸びをする。西日のさす公園で、その影は長く伸びた。
「何が」
「そのうち、どうにかなって、上手いところかっさらえるんじゃないかなぁと、ちょっとだけ、期待してたんですけどね」
からりとした声で、彼女は言う。
「別に良いんですけどね。分かってましたし」
「何の話? 自己完結されてもわかんないんだけど」
「こればっかりは、言えませんね」
最後は、ささやくような小さな声だった。
「言えませんよ、ぜったい」
学校に登校する。モスもタカヤもいなかった。幼馴染も、今朝は起こしに来なかったし、教室には来ないらしい。
誰も傍にいないままで、教室に人が増えていく。うーん、と俺は考え込む。
せっかく暇だったので、将来のことを考えることにした。
先のことなんてさっぱりわかんねえよなぁと俺は思う。
何かの保証があるわけでもなければ、誰かが教えてくれるわけでもない。
要するに自分で考えていくしかないのだが。
めんどくさい。
ぶっちゃけめんどくさい。
とはいえ働かざる者食うべからずが世の習わし。
俺は芸人じゃないし(ぱくり)。
やがてモスがやってくる。眠たげな顔。朝見るには少し辛気臭い。
「怠いな」
こいつがぼやくのは、珍しい。
「どうせすぐ休みだろ」
「だから怠いんだよ」
分かるけど。
モスは溜め息をつく。俺たちの間にほとんど会話らしい会話はない。
「あのさぁ」
ふと思い出して、モスに話を振る。
「なに?」
「こないださ、俺んち来たとき、お前言ったじゃん」
「何を?」
「引かないって」
「何の話?」
「言わせんのか」
「……ああ、あれか」
うーん、とモスは言う。
「まあ、そうな。だって、つまるところお前らってさ」
モスは口籠る。俺は頷いて続きを促した。
「……言ってしまえば、赤の他人同士が同じ家で暮らしてるってだけだろ?」
「……バッサリ言うねえ」
俺は割と傷つく。
モスは気まずげな顔になった。
「じゃあさ、仮に俺とあいつの間に血の繋がりがあったら?」
モスは眉を寄せる。しばらく考え込んでいるようだった。やがて、首をかしげて口を開く。
「分からん。どうだろ。そうなってみないと。でも、そんなに変わらんような気がする」
モスの言葉は曖昧だ。
「でも、実際、最初は義理って知らなかったしなぁ。大差なかったんじゃないか」
「お前、変わってるね」
「かもね」
溜め息をついて、モスは窓の外に目を向けた。
教室のざわめきは、俺たち二人の会話なんて意にも介さずに続いている。誰もこちらを見ていない。
教室の扉が開いて、タカヤがやってくる。
一日が始まるのだなぁと俺は思った。
「デートに誘われた?」
と、タカヤから聞かされたのは昼休みのことで、俺たち三人は教室で食事をとっていたところだった。
重々しく頷くタカヤは、どこからどう説明したらいいかと考え込んでいるようにも見えた。
「それって、あの子だよな。ちょくちょく一緒に昼飯食った」
「「みー」だ」
俺が言うと、タカヤは驚いたように目を見開いた。
「お前はそう呼んでるのか」
「いや、俺じゃなくて」
少し軽率だったかもしれない、と考えて、幼馴染が呼んでいるのがうつっただけだと訂正する。
でも、あの「みー」が?
「え、それはどういうやりとりの末に?」
モスが混乱しきった表情で訊ねる。俺にしてもそうだが、こういう話はまったくの未知なので反応に困る。
「いや、それが、このあいだ突然告白されて」
「告白!」
俺とモスの声が重なる。
「……え、それはあの、いわゆる、告白だよな?」
「うん」
「好きですっていう?」
「……うん」
俺とモスは沈黙する。
率直に言って驚いた。あの子にそんな行動力があるようには見えなかったし、実際なかったのではないか。
幼馴染からも何もきかされていないから――彼女が俺に話す義理はないのだが――たぶん、みーの独断なのだろう。
それもこの時期に。なんともいいがたい話だ。
信じがたい、と言ってもいい。
「人生って不平等だよな」
モスがぼそりと呟いた。妙に真に迫った声だ。俺は反応に困る。
いまさらのことだ。
「で、どうするの」
俺が訊ねると、タカヤは首をかしげた。
「どうしよう?」
おいおい、と思ったが、口には出さないでおく。もう首をつっこまない。
「デートって、どこで?」
「映画?」
そういえば、それ以外ないんだった、娯楽が。
「受けるべきだと思う?」
「それは、誘いをって意味?」
「うん」
「断りたいの?」
タカヤはうーんと考え込んだ。
「断りたいっていうか、引き受けても仕方ないというか……」
だって別に彼女のこと好きじゃないし、というかよく知らないし、という顔をしている。
まぁ、そりゃそうなのだ。好きでもないのに期待を持たせたってしょうがない。
「でもお前、女の子と普通に話せるようになりたいって言ってたじゃん」
「……正直、今となっては別にいいかなぁ、と」
先輩とのことがあったばかりだし、タカヤとしてもあまり乗り気になれないのだろう。
「じゃあ、断れば?」
というと、タカヤは「うーん」と再び唸った。なんなのだ。
「それも惜しいような」
「惜しい」
思わず反芻する。タカヤとは思えない発言である。
「いけめんってこわい」
「世の中って不平等だよなぁ」
「……待て待て。そんなに不思議なことを言ったか、俺は」
不思議というか、勝手に聖人君子的印象を持っていただけなのだが。
告白以来タカヤはオーラに包まれている。余裕というオーラ。それだけでこうも変わるのか。君子豹変す。
「というより、せっかくの機会なんだし」
「せっかくの機会」
「お近付きになりたいというか」
「お近付きに」
「……俺へんなこと言ってる?」
「やや、滅相もござらん」
ナンパ男の常套句にしか聞こえない俺の耳がおかしいのだ。
「なんか、お前らひょっとして、俺の話どうでもいい?」
タカヤが拗ねたようにこちらを見る。やめろよ、そんな子犬系のまなざしでこっちを見るなよ。
中身は猛犬になってしまったのに。……より一層たちが悪い。
「人様の恋愛ごとでぎゃーぎゃー盛り上がるような時期でもないでしょう、俺らは」
自分にそんな時期があったのかははなはだ疑問だが。
「好きにしろよ、タカヤ。お前が遠い国の住人になったって、俺たちは友達だゼ?」
「なにその良い笑顔」
その場のノリです。
疲れているのかもしれない。妙にハイテンションな自分を発見せずにはいられない。
……いや、逆か? 俺が勢いに任せて暴走するのはどんなときだって話だったっけ。
誰かがそんなことを言っていたような気がする。
「受けてみようかな」
とタカヤは言った。
「会うだけ会ってみても、別に」
彼は同意を求めるように俺たち二人の様子をうかがった。肩をすくめる。
「先輩に振られて自棄になってるんじゃなけりゃ、いいんじゃねえの」
「そういうのとは、違うけど」
じゃあいったい、なんなのか。
「もうちょっと、目の前に振りかかった出来事に対して、積極的になってもいいかなって思うんだよ」
タカヤも良いことを言う。良いことを言うが、もし芳しくない結果に終わったときの「みー」の気持ちは考えているのだろうか。
……いや、考えたところで、芳しくない結果なら、どうしたって傷つけてしまうのだろうが。
アキとのことを思えば、俺が彼にできる助言なんてひとつだってない。彼は俺のようなことはしないはずだ。
……たぶん。そんな具合に昼休みを過ごした。
放課後、俺が中庭のベンチで暇を潰していると、茶髪がやってきた。
冷戦状態からは解放されたものの、お互いなんだか距離がある。
当たり前と言えば当たり前だ。彼は俺が嫌いだとはっきりと言ったし、俺も彼が嫌いだとはっきりと言った。
でも、今となってしまえばそんなことはどうでもよかった。
アキとのことは俺にとってアキとのことでしかなく、茶髪とのことは、それとはまったく違う話なのだ。
だから、もうちょっと仲良くなれてもいい。俺は彼を嫌いだと言ったが、実際そこまで嫌いじゃない。
でも、普通に話しかけても、
「うぜえ。死ね」
「あ? なんだお前」
という二言しか返ってこない気がする。そしてあまり傷つく気もしない。不思議な話だ。
それでも、彼は俺のもとにやってきた。不思議なことだ。
彼は何も言わなかった。うーん、と俺は考え込む。何かを言えばいいのだろうか。
謝ればいいのか。いや、それはもうした。
じゃあ何なのだ。いったい何を話せばいいのか。
そういえば俺は、見ず知らずの他人と上手にコミュニケーションをとれない類の人間だった。
茶髪はベンチに腰を下ろして、きざっぽく溜め息をついて長い前髪を揺らした。
「ねえ、そういえばお前って、友達いないの?」
ふと思い出して口に出す。
出してから、自分の無神経さに呆れかえった。
「ああ?」
案の定、彼はどすのきいた声をあげてこちらを睨む。ごめんなさい。
そりゃ、真面目な奴らばかりのこの学校じゃ、彼みたいな人は浮く。
じゃあ、なんでこの学校に来たんだろう。そのあたりには、俺の知らない彼なりの話がある。
そういうもんだ、と俺は悟ったふりをする。
茶髪は気だるげに溜め息をついてから、それでもしっかりと答えてくれた。
「この学校にはな」
「へえ」
「友達なんていらねえよ」
彼には、こういう言葉を吐く人間特有の突っ張った雰囲気が微塵も存在しなかった。心の底からそう思っているようだった。
「いなくても困らん。困ったように感じたときも、寝れば治る」
「参考になる話だ」
「お前は無理だろ」
茶髪はまんざら冗談でもなさそうに言う。
「お前には無理だよ、そういうやり方は」
やけに知ったようなことを言う。
「もうすぐ冬休みだねえ」
俺は話をずらした。都合の悪い話は受け流すに限る。
茶髪は頷きすら返さなかった。
「ご予定は?」
「寝る」
「……あ、そう」
会話の膨らませ方って奴を理解しない奴だ。
いや、単に膨らませる必要を感じていないだけか。
俺にはこういう要素が足りていなかったのかもしれない。うーん。
自分とまったく違う人種に出会うと、学ぶものが多いと言うけれど。
あるいはそもそも、俺は「他人」と対話しようとしたことがなかったのかもしれない。
「あのさあ」
不意に思いついて、俺は茶髪に訊ねる。
「俺ってどんな人間?」
「さあね」
と茶髪は言った。俺は肩をすくめる。
「やっぱ、あれか。男の風上にも置けない系?」
「さあね」
彼の反応はつれない。
じゃあ彼は、どうしてここに来て、こんなふうに俺の近くのベンチに座っているんだろう。
俺には分からないことがたくさんある。
まぁいいか、別にどうだって。
何もかも、俺の手にはあまりすぎる問題。考えるだけ無駄なのだ。
よきにはからえ、めぐり合わせ。禍福はあざなえるなんとやら。
困ったときの神頼み。
学校が終わって、冬休みになった。
俺は誰とも会わずに休みを過ごすつもりだった。というより、順当に考えてそれがあたりまえだ。
今までそうだったし、今回だってそうに違いない。そんなふうに考えていた。
のだが、初日にいきなり予定が入った。タカヤだ。
タカヤは「一人じゃ不安だから遠くから様子を見ていてほしい」と言った。デートのことだ。
そんな奴がいるもんだと思っていなかった。
普通は恥ずかしくていやだと思う。見られるなんて。
でもタカヤは違った。よくよく考えると彼の行動は普通じゃない。すべて。
おかげで俺は休みの初日の朝を寝て過ごすことができなかった。
駅前の映画館は学生が多かった。休みに入ったところが多いというのもあるだろう。
もともと最近できたばかりで盛況な場所だった。近くに食事や買い物ができる店が多い。
おかげで、俺とモスは人ごみに紛れてタカヤの様子をうかがうことができた。
「うーん」
モスが唸る。
「俺たちは何をやってるんだろう」
「デバガメ」
「せつない」
俺とモスはふたりでタカヤの様子を見る。遠巻きに眺めていると、本当にいい顔をしている。
そこらへんじゃ、ちょっと見かけない。
さて、と俺は思う。タカヤに頼まれたといっても、どうせ映画を観てちょっと話をするくらいのことしかしないだろう。
なんでこんなもんを見なきゃならんのだ、と思っているところに「みー」がやってくる。
俺たちは身を隠す。
当然だが、距離があるので会話は聞こえない。どうもお互い緊張しているようには見える。
「こんな寒い日にこんなに人がいるなんて」
「インドア派だから世情には疎いよなあ」
「今やってる映画って何?」
「知らない」
なんとも微妙な話だ。
「券買いにいったな」
「俺らもちょっとしたら並ぶか」
「ポップコーン食う?」
「歯に挟まるからいらない」
「嫌な話だ」
俺は溜め息をつく。
「あいつらジュース買ってるな」
タカヤにあらかじめ聞いていた映画のチケットを購入し、俺とモスはふたりの様子を遠巻きに眺める。
と、不意にうしろに衝撃があった。何かがぶつかってきたらしい。
「あ、すみません」
と過失ゼロパーセントの俺は謝った。なぜか。
「すみません」
と返ってきた声に聞き覚えがあり、視線を向ける。
「ん?」
「あっ」
「お、おう?」
両手にジュースのカップを持った妹の姿があった。
「なにやってんの?」
と問いかけると、「いや、べつに……」と返される。
「デート?」
軽めのジョーク(牽制)。
「誰とですか」
彼女はなぜか敬語で返した。苦笑する。
そのとき、彼女のうしろから、もう一人女が出てきた。
幼馴染。
なぜこのふたりが、と思ってすぐに勘付く。
「……どうやら目的が重なっているようだ」
幼馴染は気まずげに苦笑した。
「ごめんなさい。一人だとなんだったので、妹ちゃん借りてます」
……さすがにそこで妹を誘うのはどうかと思うんだが。
「そろそろ始まるよ」
と妹が幼馴染に声を掛ける。
ということは、俺たちも時間なわけだ。見れば、例のふたりは入場している。
「追いますか」
一応、席は後ろの方を取ったので、見られないと思うのだが、入るときは気をつけなければならないだろう。
俺は何かを忘れている気がしたが、考えないことにした。
スクリーンにしばらくの間諸注意の映像が流れ、やがて新作映画の予告が始まる。
予告映像ってなぜ面白そうなんだ? って面白そうにしなきゃまずいのだろうが。
映画がはじまる。ここ最近のドラマでよく見かける俳優が山ほど出てくる邦画。
うーん、と俺は思う。映画なんてよく知らないしなぁ。
そもそも今日の目的は、タカヤの付添みたいなもんであって、あんまりいる意味がない。
どうせ映画を観ている最中は声も言葉も交わさないわけであって。
俺は今朝は眠かった。だから寝たい。寝よう。
俺は寝た。
ふと目を覚ましてスクリーンを見ると、女が泣いている。夜の部屋だ。二人きり。画面はやたらと暗い。
蛍光灯の灯りが寒々しい、フローリングの床で食器が割れている。
女はうずくまって泣いている。台詞がないまま男は静かに部屋を出た。
夜の繁華街に向かい、ひとりで歩いている。携帯電話が鳴った。どうやら友人かららしい。
突然呼び出され高架下に行く。
二人の関係性はよく分からないが、友人の方はさっきの女と主人公の関係に対して思うところがあるらしい。
真剣に、心配そうな言葉をだらだらと並べ立てる友人に、うんざりとした表情で主人公は言う。
「うるせえな、俺の勝手だろう」
友人は激昂して主人公に掴みかかる。主人公は抵抗すらしない。友人は殴らずに手を放した。
「分かったよ、勝手にしろ」
友人はそう言って背を向けて、足早に去っていく。ひとり高架下に残された主人公は、疲れ切ったような表情でその場に座り込んだ。
胸ポケットから煙草とライターを取り出す。口にくわえて火をつけようとするが、ライターの調子が悪くなかなか火が付かない。
彼はライターを近くの草むらに向かって投げ捨てる。しばらく火のついていない煙草をくわえたまま、じっと夜の闇を睨んでいる。
なにこの映画。
隣の席のモスを見ると、どうやら熱心に見入っているらしい。
タカヤと「みー」はというと、ここからは後ろ姿なのでよくわからないが黙ってみているようだ。
妹と幼馴染を探そうとしたが、振り返らなければ見えない位置だったので自重した。
スクリーンの中には朝が来る。狭い部屋。シングルベッドでさっきの男と女が起きる。
二人とも裸だ。窓の外から朝日が差し込んでいる。
男が煙草をくわえて、ライターを探す。でもない。当たり前だ。さっき捨ててたんだから。
舌打ちをして、男は仰向けに寝転がる。女が起きて、「おはよう」と掠れたような声で言った。
なんなのこの映画。
俺は疲れたような気分だった。
なんやかんやあった末に、結局主人公は友人と分かり合うこともなく、女とだらだらとした生活を続ける。
しかも周囲から認められるわけでもない。鬱屈とした生活態度。
最後、堤防の上を、手を繋いで二人は歩く。薄曇りの空の下、犬の散歩をしているおじいさんとすれ違う。
女は何かを言いかけて、結局何も言わなかった。主人公は苦笑する。
たぶん彼が笑ったのはその映画で初めてだっただろう。見ていないけれど、そういう気がした。
で、なんなのだ、この映画は。
エンドロールに入って早々に、俺とモスは立ち上がった。
あの二人はしばらく動き出さないようだったし、何より俺の喉が渇いていた。
映画館を出て自販機でコーヒーを買う。ひどく眠くて、頭がはっきりしなかった。
すると幼馴染と妹がやってくる。
「どうやら移動するらしいですよ」
「ここらへんで、やめとかない?」
俺が提案すると、幼馴染は目を丸くする。
「どうしてです?」
「これ以上つけまわす必要、なさそうだよ。ふたりとも普通にリラックスしてるように見える」
実際には見えなかったが、それでも俺たちがわざわざ監視する必要はないように思えた。
「うーん」と彼女は唸って、結局頷いた。
「かもですね」
そして、なんだか寂しそうな目で「みー」の後ろ姿を眺める。
「なんていうか」
「なに?」
「わたしとあの子、何が違うんでしょうね」
「何の話?」
「いえ。境遇的な?」
「何もかも」
俺が言うと、彼女は切り傷に消毒液がしみたような顔をした。
「なんか、羨ましいところでもあるの?」
「まぁ、そうですね」
彼女はちらりと妹を見た。見られた方は首をかしげている。
「なんか知らないけど、羨ましいなら真似してみたら?」
幼馴染は苦笑した。
「きみが言うことじゃありませんね」
何の話だろう。
タカヤとみーが映画館を出るのを確認してから、念のため時間を置いて四人で外に出る。
「さて、どこに行きましょうか」
少なくともあの二人が行きそうな場所は候補から外さなくてはならない。
「大丈夫ですかね」
幼馴染が心配そうに言う。大丈夫だとしても大丈夫じゃないとしても、放っておくべきだ。
それよりも俺は、さっきの幼馴染の態度の方がずっと気になっていた。
いったいどういうことなんだろう。
――いや、深く考える必要はない。こいつが思わせぶりなのは今に始まったことじゃない。
ちょうどいい時間だったし、どこか適当な店に入って、昼食を取ることにした。
タカヤとみーの行動圏を気にしつつ、あまり遠くなく、財布に優しい場所。
すべてにおいて適当な場所はなかったが、少し移動して近場のファミレスに向かうことにした。
道を歩きながら、俺の意識は微妙に揺れ動いている。中途半端に寝たせいで、頭がぼんやりしてるんだろうか。
なんだか嫌な感じがした。身体のどこかで何かが渦巻いているような違和感。
俺は何か思い違いをしていないだろうか。
……今更、何を考えることがあるんだろう。
それでも、なんだか不安を感じずにはいられない。
四人で街を歩いていると、奇妙な感覚に陥る。
俺たちはどうしてこんな場所を歩いているんだろうか。
いや、移動しているからだ。そりゃそうなのだけれど、何がどうなって、このメンツで歩いているんだろう。
去年の今頃だったら想像もできなかったことだ。
――去年の今頃。
不意に、視界の端に見知った顔を見つけた気がした。俺以外の人間は誰も気付かない。
すれ違った相手。立ち止まって後ろを振り向く。モスは足早に歩いていく。
幼馴染は、俺が立ち止まったことに気付いて、自分も足を止めた。
振り向いた先で、目が合う。
声が出そうになって、抑える。
彼女はひとりで歩いていた。だからどうというのではない。同じ町に住んでいるのだから、会ったところで不思議はない。
ついこのあいだ会ったばかりの顔。以前と変わっているようで、やはり面影を残している顔。
彼女はこちらを面食らったように眺めてから、後ろに立ち止まった幼馴染にも意味ありげな視線を向ける。
その口元が、微笑のかたちに歪んだ。
混乱する。
いったいなぜ、彼女が俺たちを見て微笑んだりするんだ?
その笑顔はひどく暗示的だった。
「分かるでしょう?」と彼女が言っている気がした。
「なにひとつ終わってなんかいないんだよ」と。
アキ、と俺は口だけを動かした。その様子を見て、なぜか満足そうな笑みを浮かべ、彼女は去っていく。
分かるかな、なにひとつ終わってなんかいないんだよ。
そう語る彼女の声が、耳元に聞こえた気さえした。
幼馴染の態度は、アキとすれ違って以来奇妙なものになった。
どうにも挙動不審で、ときどき機嫌をうかがうような目で俺の方を見る。
その態度はいつになくおどおどとして自信なさそうだった。俺は彼女のこんな姿を見たことがない。
何が原因かと言ったら、間違いなくアキとの接触が理由だろう。
だが、どうしてアキの顔を見ることで、幼馴染の態度が変わったりするんだ?
ファミレスで食事をとる間も、幼馴染はほとんど喋らなかった。
ときどき目が合うと、彼女はすぐに逸らして、取り繕うような笑みを浮かべる。
顔はいつになく青白く見えた。
嫌な感じが消えない。なぜだろう。
終わったはずのことだ。自分がどれだけ悪くても、結局は過ぎたことだったはずだ。
アキはアキなりに上手くやっているのだろうと――勝手に、希望的な見方をしていたけれど。
それでも、そうなるはずだと、思っていた。
なぜ、彼女が俺たちに向けてあんな顔をしたりするんだろう? なぜ、知らないふりをして通り過ぎなかったんだろう?
「ごめんなさい」
と幼馴染は口を開いた。
「ちょっと体調が悪いので、先に帰りますね」
本当に具合が悪そうな顔をしている。
俺とモスは顔を見合わせて、頷き合った。
「じゃあ、ここで解散にしよう。送っていく」
「いえ、大丈夫ですから」
「そういうふうに見えない」
はっきりと告げると、幼馴染は苦しそうな顔をした。
本当に具合が悪いようだ。
「分かりました」
しぶしぶと言った調子で、彼女は返事をする。
その声も、普段に比べて力がない。
途中までは四人一緒の帰り道だった。最初にモスと別れ、次に俺の家について、妹を先に帰す。
最後に幼馴染を家まで送る。道順的に、彼女の家が一番遠かった。
「……ごめんなさい」
と彼女は謝る。なぜ謝るのか、まったく分からない。
家の前につくまで、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。
幼馴染は凍えているようにすら見える。俺は何をしてやればいいのか分からずに黙っていた。
アキの顔が脳裏をちらつく。
「それじゃあ」
玄関まで送り届けて、幼馴染に背を向ける。なんだか俺も、ひどく疲れていた。
……当たり前と言えば、当たり前、なのだろうか。
立ち去ろうとすると、後ろから引っ張られる。
上着の裾を幼馴染が掴んでいた。
何のつもりかたしかめようとして振り向くが、彼女は俯いていて、表情が良く見えない。
本当に、こんな姿を見るのは初めてだった。
「あの」
切迫した雰囲気の声だった。必死そうな、と言い換えてもいい。
「……きみは」
背丈の違いのせいもあって、俯かれてしまうと表情が見えない。
不安とか、心配とか、そういう感情が綯い交ぜになっている。
「俺は別に、平気だぞ」
心配をかけたのかと思って言ってみると、どうやら違ったらしく、彼女は意外そうな顔をした。
それから、何かを後悔しているような顔で、こちらを見た。胸のつかえがとれないような、息苦しそうな表情。
「……そう、ですよね。これだと、立場が逆ですね。本当ならわたしが心配してなきゃなのに」
幼馴染があんまりつらそうに言うものだから、俺は苦笑しそうになった。
「無理せずに寝てろよ」
「……うん」
珍しく、彼女は敬語を使わずに素直に頷いた。
俺は言いようもなく落ち着かない気持ちになる。
「ごめんなさい」
最後にもう一度彼女は謝った。
なぜ、謝るのだろう。俺にはその理由がまったく分からない。
彼女はなかなか家の中に入ろうとしなかった。早く入るように促すと、早く帰るようにと言われる。
このままだとしばらく話が動きそうにないと感じて、俺は仕方なく歩きはじめた。
振り向くと、幼馴染はこちらをじっと眺めている。
俺は溜め息をついて歩き続ける。またしばらく経ってから振り向く。目が合う。
彼女は手を振った。俺は肩をすくめる。
数歩歩いてまた振り向いていると、ちょうど彼女が玄関の扉をくぐるところだった。
家についてすぐ、疲労感に襲われる。特に何をしていたわけでもないのになぜだろう。
理由は分からなかったが、気分がまったく落ち着かなかった。
なぜだろう? 何かが起こっている気がする。本来ならすべて終わっているはずなのに。
厄介ごとはぜんぶ、身の回りから離れたように感じていた。
タカヤのこともみーのことも、俺の手から離れた。茶髪とも、まぁ曖昧ではあるが、片が付いた。
それで、いまさらいったい、何が起こるっていうんだ?
幼馴染の蒼白な表情と、アキのあの微笑が、頭に焼け付いて離れない。
妹に幼馴染を送ってきたことを告げて、自室に戻る。
ベッドに倒れ込むと、全身が鈍く痛んだ。
しばらく休んでいると、ポケットの中に入れっぱなしだった携帯が鳴る。
いったいなんだよ、と思いながらディスプレイを見る。
息を呑んだ。
『電話してもいい?』
素っ気ない文面。見覚えのあるメールアドレス。
アキからのメールだった。
「アドレス、変えてなかったんだね」
甘ったるい、鼻にかかったような声が、電話越しに聞こえた。
俺はなんだか奇妙な錯覚に陥る。アキがいる、と思った。この電話の向こうに。
「ああ」
頷くと、彼女はくすぐったいように笑った。奇妙に安らいだ声だ。
アドレスを変えていなかったことに、たいした意味はない。
もし彼女がしつこく連絡をとろうとしたなら、すぐにでも変えていただろう。
でも、そうはなかなかった。彼女は意外なほどすぐに事実を受け入れて、俺に対してどのような接触も試みなかった。
だから、変える理由がなかった。そうでなければ、疎遠になっていた幼馴染から、俺の携帯にメールが届くわけもない。
「いま、何してた?」
本題に入る前に、軽い世間話でもするつもりなのだろうか。いやそもそも、『本題』などあるのだろうか?
彼女はそういう人間だった。特に理由もなく、人を混乱させるのが好きだった。人を困らせるのが好きだった。
……あるいは、それは俺に対してだけだったか。
「別に。寝てた」
答えてから、そういえばこんな言葉を以前もアキに向けて言ったことがあると思って、妙に据わりの悪い気分になる。
いったい、何が起こっているんだ。
どういうつもりか、俺の答えに彼女はおかしそうに笑う。その静かで甘ったるい声音は、以前とまったく変わらない。
なぜ、以前とまったく変わらないなんてことがあり得るんだ?
「どうして――」
どうしていまさら、連絡をよこしたんだと、聞いていいものか悩んだ。
俺は、彼女に対してどんな言葉を掛ければいいのか分からない。
どんな言葉を掛けることが許されるのか分からない。
「どうしたの?」
こいつはなぜこんなにも平然としているんだ?
なぜ、何事もなかったような態度で話ができるんだ?
「どうしたのって、そっちが連絡してきたんだろう」
俺はやっとの思いで答える。用件を早く言ってくれ。
「べつに、ただなんとなく」
ただなんとなく、なんてあるわけがない。
何か意図があるはずなのだ。そう感じるのは、俺が後ろめたさを感じているからか?
彼女が俺と言う人間に恨みを抱いていて、何かの復讐をするつもりなのではないかと、そう考えるのは自意識過剰なのか?
疑問が頭の中で膨らんでいく。
何よりもタチの悪いことに……俺は昔から、アキという人間を、けっして嫌いではなかったのだ。
もちろん恋愛ごとは抜きにしてだが――もういちど話せるようになったなら、どれだけいいだろうとは、思っていた。
「ねえ」
とアキは言った。普通の、声音だった。何も特別なことのなさそうな。
気まぐれに隣の席のクラスメイトに話しかけるような、気安げな声だった。
「本当に、なんとなくだよ。別に何かを考えてるわけじゃない。不安になった?」
「少しね」
「そっか」
彼女は嬉しそうに笑う。なぜ嬉しそうなのかは、俺には分からない。そういうことが、彼女にはある。
時間をおいたせいか、以前とは関係性が違うからか、俺はアキに対して以前のような鬱陶しさを感じなくなっていた。
そのことがより一層俺を不安にさせる。俺の気持ちを知らずに――あるいはすべて見透かしてか――アキは話を続ける。
「会いたいって言ったら、笑う?」
「どうして?」
と俺は問い返した。
「分からないけど、もういちど会ってみたい」
「なぜ」
「だから、分からないんだって」
彼女はくすくすと笑う。アキは怒ったり苛立ったりすることがない人間だった。
俺は今、彼女を恐れている。
「このあいだの……」
俺は話題を変えた。
「コンビニでも、会っただろう」
「やっぱりあのときの人、あなただったんだ。そうかなって思ったんだけど」
「あのときの男、彼氏?」
「そうだよ」
アキはなんでもないことのように言う。俺は少しほっとした。
「いつから付き合ってるの?」
「先月からかな。ちょうど一ヵ月になるくらい」
よかったね、と言おうとして、さすがに思いとどまった。
そして、こんな電話はさっさと切ってしまうべきなのだと考える。
なぜ俺たちは今更こんな話をしているんだ? もう終わったこととして扱うべきなのだ。
――いや、扱ってほしいのだ。俺は。それは逃げだろうか? 俺は彼女と向かい合うべきなのか?
正解が分からない。どう接するのが正しいんだろう。
「あのね、ずっと考えてたんだけど」
アキは言う。
「……あのころは、ごめんね。わたし、自分のことばっかりで、あなたのこととか、何も考えてなかったのかもしれない」
俺は黙って聞いていた。
「わたしが一方的に甘えてただけなんだよね。怒っちゃうのも、当然だと思う」
俺は息苦しくなる。
「今なら分かるけど、あなたにだって不安とか、悩みとかあったんだよね」
心臓を直接揺さぶられているような気分だった。これは本当に現実なのだろうか、と俺は思う。
「だから、ごめんなさい」
俺は言葉を失った。どうして彼女がこんなことを言ったりするんだ。
いったい何があったんだろう。
「……なにか言ってよ」
アキは、照れくさそうな声で言った。
この言いようもなく落ち着かない気分はなんなんだろう。ひどく、不安になる。
自分の存在が揺らいでいる気がした。
「……ああ」
と、やっと漏れ出した頷きは、溜め息のようにかすかだった。
それでもアキは声を安堵の色に変えた。
「ありがとう」と彼女は言った。どうして彼女が「ありがとう」と言ったりするんだ?
俺の頭では彼女の言葉はいちいち理解できなかった。なにひとつ分からない。
「ねえ、もう一度会えないかな。もちろん、いまさらもう一度付き合ってなんて言わないから」
当たり前だ、と俺は思う。そんなのは当たり前のことだ。
彼女はなぜ謝ったのだ? 本当なら俺が謝らなくてはならないのに。
そして、俺は謝ってはならないのだ。本当に悪いことをした人間はそのことを謝罪するべきではない。
そうすることで許されようとしてはならない。謝ったら、きっと彼女は俺を赦すだろうから。
なのになぜ、彼女は俺を最初から赦していたような態度でいるんだ。
不可解なことが多すぎて、俺の頭は上手に働いていない。
「わたしはさ、あなたと話したいこととか、いっぱいあるよ」
「悪いけど」
と俺は答えた。
「……そっか。うん」
平気そうな声音だった。アキは努めてそういう声を出す人間だった。
何を思っていても平気そうな顔をする人間だった。それなのに、頭の中も胸の内も傷ついてばかりいる。
ひどく傷つきやすい人間だった。
俺は罪悪感に駆られる。ひょっとして俺は自分勝手な恐怖で彼女を蔑ろにしているのではないだろうか。
本当に、彼女は言葉以上のことを考えていないのではないか。
何が俺をこんなに不安にさせているんだ?
「ねえ、でもさ、また連絡してもいい?」
俺には、どう断ればいいのか分からなかった。自分に断る資格があるのかどうかも分からなかった。
アキが以前と変わらぬ口調で話を続けている間、俺の頭をよぎっていたのは、あの蒼白な幼馴染の表情だけだった。
電話を切ると、部屋は耳鳴りがしそうな静寂に支配されていた。
俺の頭は混乱している。努めて何も考えないようにしたが、どうしても暗い気分になる。
なぜ?
と、さまざまな疑問が頭の中で回り続けている。
なぜ、いまさら連絡をよこしたのか。なぜ、平然とした態度で俺と話すのか。なぜ、俺と会いたいというのか。
だが、しばらく経つと気分が落ち着いて、なんとか冷静に自分なりの説明をつけることができた。
彼女は今や恋人をつくり、普通に生活をできるほど回復している――少なくともそう見える。
そして、昔ひどいケンカ別れをした人と偶然会って、なんとか過去のことを清算したがっているのかもしれない。
ひどい思い出を、もうすこしマシな話に変えてしまいたいのかもしれない。
だから話したいのだ。対話。そうだろう、たぶん。いまさら彼女が俺になんらかの執着を抱えていると思うのは、自意識過剰だ。
そんなふうに感じるのはきっと、俺が彼女になんらかの形で執着しているからなのだろう。
どうせ連絡なんてしてこないに違いない。これで、この話は終わりだ。
冬休みの二日目を、俺は眠って過ごした。怠惰であることはとても大切なことだ。
ときどきみんな忘れてしまうけれど、一生懸命であることは別に素晴らしいことじゃない。
素晴らしいことは大抵、一生懸命にならなければ手に入らないというだけで、一生懸命それ自体が重要なのではない。
つまり、頑張らずに素晴らしいものが手に入るならそれに越したことがないのだ。
こんなことをいうと、努力をせずに得たものなんてむなしい、とかしたり顔で語る奴がいる。
金持ちは精神的に豊かでない、と貧乏人が言いたがるのと同じ理屈だ。
実際には金持ちの方が精神的なゆとりと余裕を持っている。欲にまみれているのは貧乏人も大差ない。余裕もないから怒りっぽい。
貧乏でも幸せな家庭もあるのは確かだが、だからといって金持ちが不幸だという理屈にもならない。
貧乏人は哀れだ。腕っぷしの強い奴は正義だ。そう言い切ってしまえばいい。
それなのになぜか、そうした動物的価値に即して優れた人間は、人間性を貶められやすい。
現実には、金持ちの心は別に荒んでいない。腕っぷしが強い奴にも優しい気持ちくらいある。むしろ強者であるぶん余裕がある。
貧乏人の心は金持ちの心を見下したくなる程度には荒んでいて、腕っぷしの弱い奴は強い奴を非難したくなる程度にひがんでいる。
神はちょっと前に死んだ。
などと、黴の生えたようなどうでもいいことを考えて現実逃避したくなる程度には、憂鬱な朝だった。
俺の頭は前日のアキからの電話に支配されていた。
だから、タカヤと「みー」のその後の顛末のことは、モスからの電話があるまですっかり頭から抜け落ちていたのだ。
モスから電話が来たのは一時半。俺が二度寝から覚めて、ベッドでごろごろとし始めて一時間近く経った頃だった。
「タカヤから連絡来たか?」
「来てないよ」
そっか、とモスは言う。そういえば、映画館に行ったのは昨日のことだったか。既にずっとまえのことのように思える。
「上手く行ったの?」
と俺は訊ねた。
「さあ」
とモスは答える。
「結論を急がないことにしたらしい」
ずいぶんな立場だ。
タカヤの話が一区切りしたあと、不意にモスが深刻そうな口調になった。
「……なあ、なにかあったのか」
「なにかってなんだよ」
と俺は笑う。なにかってなんだ? なにがあるっていうんだ。気にするようなことは何もない。
本当に、何もない。全部終わったことだ。
なぜいまさらアキのことなんて考えなくちゃいけないんだ?
俺は自棄になったような気分で思う。
そうだよ、何も善人を気取る必要なんてない。俺はもともと馬鹿で身勝手だった。
気にする必要はない。あいつのことなんて、これっぽっちも。ぜんぜん考えなくていい。俺は目を瞑る。
モスは何か言いたげに口籠ったが、結局押し黙ったあと、適当な言葉で話を終わらせて電話を切った。
階下のリビングに降りると妹がこたつで眠っていた。よく寝る奴だ。一時を過ぎているのに。
俺はコーヒーメーカーを動作させた。こぽこぽこぽ、とよく分からない音がリビングに響いて、独特の香りが部屋に広がった。
できあがるまで、椅子に座って目を閉じていた。すると不思議な気持ちになる。
何も考えないことができる。それはとても心地よい時間だ。
けれど少しすると、何かを忘れているような気分に陥る。それも、致命的なものを。
何かを考えなくてはならないような焦燥。けれど実際には、考えなければならないことなんて冬休みの課題くらいしかない。
目を瞑る。
幼馴染の顔を思い出す。ふと、俺はアキが嘘をついているような気がした。そのこともあまり考えないようにする。
コーヒーの香りにくすぐられてか、妹が目をさましたようだった。
「飲むか?」
「……うん」
寝惚け眼をこすりながら、妹が椅子にすわる。彼女が起き出したおかげで、俺は余計な考えをやめることができた。
出かけようか、と俺は言った。どこに? と妹は訊き返す。俺は言葉に詰まった。行きたい場所なんてどこにもなかったのだ。
「なにかあったの?」
妹にまで訊ねられる。俺は溜め息をつく。それ以外にできることがなかった。
妹は呆れたような顔をした。俺はどんな態度で彼女に接すればいいのか分からない。
このところずっとだ。
でも、考えてみればずっと前からこうだったのかもしれない。
近頃、俺を取り巻く環境が大幅に変わった――ような気がした――から、気付かなかっただけで。
本当のところ、俺を取り巻く問題はなにひとつ変わっていないのかもしれない。
ずっと前からなにひとつ。
「出かけよっか」
妹が、不意に言った。
「どこに」
「わかんないけど」
なるほど、と俺は思った。
で、出かけることになった。特に目的もなく。このあいだもこんなことをした気がする。
いつものように街に出る。人通りの多い道。その中で、言葉も交わさずに二人で歩く。
外は寒い。クリスマスシーズン。冬休み。なんとなく落ち着かないような気配。
「なんか、兄さん、ねえ」
「なに?」
「さむい」
冬だから、そりゃそうだ。
「カイロないの? カイロ」
「あるよ」
「貸して」
俺がポケットからカイロを取り出すと、妹はかすめ取るように受け取って、手のひらでこねまわしはじめる。
「ねえ、なにか考え事?」
妹は、妙にはしゃいだ口調で言った。
「まあね」
俺は答える。なんだかひどく疲れていて、外面を保とうと思う気力さえなかった。
「疲れてる?」
「とっても」
「そっか」
彼女は満足げに頷いた。
なぜ頷くんだろう。分からないけれど、すこし心が晴れた気がした。
「なんか、どこにも入りにくいね」
「そうかもね」
俺は適当に相槌を打つ。入ろうと思えばどこにだって行けた。ファーストフードも喫茶店も。
街角の寂れたブティック、昔からあるゲームショップ、ちょっと前にできた眼鏡屋。
用事がなくたって、いつだって入れる。でも、どこにいたってなんとなく、俺は場違いになってしまう。
「公園にでもいく?」
「なんで?」
「犬がいるかもしれない」
「未来予知の?」
「の」
妹は頷いた。俺は肩をすくめる。
けれど公園に未来予知の犬はいなかった。人一人いなかった。
この寒さでは当然だろう、と、俺は白い息を吐き出しながら思う。
俺はベンチに座る。妹は背の高い鉄棒を掴んで体を浮かせた。
「休みって、暇だね」
「だね」
俺は溜め息交じりに答える。もし毎日がこんなふうに過ぎていくなら、俺はなにひとつ考えずに済むのに。
……いや。
そこで気付く。俺は何を問題視しているんだろう。
俺が考えている問題とはなんなんだろう? 普通に生活するだけで、俺は満足できないのだろうか、やはり。
あたかも切迫した問題が目の前に迫っているかのように、俺の生活は不安定で歪だ。
俺は何を考えているんだろう? 何を考えなければならないんだろう。
失われた俺の中の指向性。俺は何をこんなに悩んでいるんだろう。
たぶんそれは、いま、俺の目の前で、冬の寒さに少しだけはしゃいでいる妹の姿と、無関係ではないのだろう。
このままでは、やっぱりだめなんだろうか。
俺は自問自答する。なんとかやり過ごせば、上手いこと時間切れが来て、そのうち何もかもが上手くいったり、しないんだろうか。
幼馴染の顔を思い出す。
彼女はいったい、どうして俺にちょっかいを掛けるんだろう。
モスが言う通り、俺は本当に妹のことが好きなのだろう、きっと。
――それで。
それで、俺はいったい彼女とどうなりたいんだろう?
そのことがさっぱり分からない。だから迷っている。
というよりは。
俺は彼女と、どうなれると思っているんだろう?
家に帰って、久しぶりに妹とゲームで遊んだ。
しばらくすると妹は眠ってしまい、俺は家にひとりになった。すると途端に寂しくなる。
眠ってしまおうと思って部屋に戻る。ベッドに倒れ込んだ。
なぜだか幼馴染の顔が頭をよぎる。
妹と一緒にいると、ときどき幼馴染を思い出すことがある。
すると決まって悲しくなる。なぜなのかは分からない。
幼馴染のあの蒼白な表情。
俺は考える。彼女はどうして、俺と一緒にいてくれるのだろう?
彼女は、俺のことなんて世話のかかる昔馴染みという程度にしか思っていないはずなのに。
――思っていない“はず”?
なんとなく、自分の思考に引っ掛かりを感じる。どうしてそんなふうに思うんだっけ?
考えごとをしていると、いつのまにかうたたねしていた。
目がさめると窓の外は赤く染まっていた。夕方なのだ。
俺はベッドの中で体をじっと動かさずにいる。
不意に携帯が震えた。
アキからの二度目の連絡だった。
「何の用?」
と訊ねると、アキは少し気まずそうに呻いた。
「だめだった?」
「そうじゃないけど」
「そっか」
ならよかった、と彼女は溜め息をつく。俺はなんだか嫌な気分になった。
「何の用?」
「別に、用とかはないの。ダメかな」
駄目だとは言わない。
彼女は適当な世間話を始めたかと思うと、不意に幼馴染の話を始めた。
「また仲良くなったの?」
「べつに」
俺はことさら素っ気なく答えた。どうしてそうしたのかは分からない。
俺はアキを警戒している。なぜなのかは分からないけど、そうしている自覚はある。
なんとなく、彼女と話していると不安になる。
「あの子とは、子供の頃からの付き合いなんだっけ?」
「まあね」
「ふうん」
どうでもよさそうに、アキは頷いた。
「ね、彼女はできた?」
「べつに」
俺は正直に答える。
「そっか」
アキはほくそ笑むような声で相槌を打つ。
そして彼女は、
「そうだよね」
と笑った。
当たり前のことをきいてしまったと、自嘲するような笑みだった。
俺は胸の奥でじくじくと何かが疼くのを感じた。
そうなのだ。
ずっと不安を感じていた理由に、いまさらのように気付く。
明るすぎるのだ。アキが。彼女はそういう人間じゃなかった。
嘲笑と自己憐憫と憧憬。以前のアキを構成していたのは、せいぜいそんなものだ。
アキは、以前に比べてマトモすぎる。そのことが、強烈な違和感という形をとって、俺を不安にさせているのだ。
“あなたみたいな人を好きになる女の子なんて、どこにもいないよ”
アキは呪いでも掛けるように、ことあるごとに俺にそういう言葉を向けた。
大抵の場合は人間性や生活態度について貶められた。
次に多かったのは容姿に関するそれで、あとはこまごまとしたどうでもいいいようなことについてだった。
“だってあなたは人間としてまったく魅力的じゃないから”
そして彼女は、最後に必ずこう言った。
でも、わたしはそんなあなたのことを愛しているし、あなたと一緒にいてあげる。
他の誰かが言ったなら、俺はその相手に病院に行くことを勧めただろう。
けれどアキには、そういった言葉を信じてしまうだけの説得力があった。
彼女の持つある種の性質が、おそらくはその言葉を信じさせたのだろう。
絶望的な気分にとらわれていたその頃の俺には、アキの言葉が、ときどき救いめいてすら聞こえたのだ。
それに比べて――この“アキ”はなんだ?
けっして以前のような歪さが損なわれているわけではない。
むしろ影にひそんでいる分、その歪みは以前よりも強まっているように感じられる。
あるいは、単純な話、関係性が変わった今となっては、俺にそういった自分を見せるのをやめたのか。
何かを教訓にして、人に暗い自分を見せるのをやめたのか。
いずれにせよ、俺とアキの関係は、今思えば恋人同士などという生易しいものではなかった。
手を繋ぎながらお互いの傷を抉り合うような不自然な関係だった。
「会って話をしてみたいな」
とアキは言った。
なぜそうなるんだと俺は思った。
いいかげん、俺も疑いたくなってくる。
こいつは、俺が嫌がっていることを分からずに無神経に電話を掛けてきたり会いたいと言ったりしているではないのではないか。
俺が嫌に思うことなど分かったうえで、そんなものはとっくに理解したうえで、それをかえりみずにいるのではないか。
そう考えて、俺はたまらない罪悪感に駆られる。
俺に、そんなことを考える資格はあるのだろうか。
だが、なぜそんなことを思うのか、まったくわからなくなる。
俺はアキに対して強烈な後ろめたさを持っているが、それはどうしてだろう。
ひどい別れ方をしたのはあくまでも結果であって、俺だってアキを傷つけたくて行動していたわけではない。
くわえて、アキだってさんざん、俺を傷つけたり蔑ろにしたりしていたのだ。
もちろんだから許されると思うわけではないが――俺が抱える罪悪感は、いったい何に由来するものなのだろう。
アキは電話の向こうでくすくすと笑う。
眩暈がする。
「だめ?」とアキは言った。
「だめ」と俺は答える。
一瞬の沈黙が生まれ、空気が張りつめた気がした。
俺はひどく怯えている。
「うん、分かった」
アキは笑う。
俺は、自分が今、たしかにあの冬の地続きに存在しているのだと、ふと思った。
俺は適当な理由をつけて通話を終わらせた。
彼女との電話が終わると、俺は疲れ切っている。
ともあれ、今日はやりすごした。
明日も連絡を寄越すようなことはないだろうと、思いたいのだが。
翌日の朝、モスとタカヤから連絡があり、どこかで会わないかという話になった。
俺たちは駅前のマックに集まった。モスが言うので幼馴染にも電話を掛けた。
彼女はまだ以前どおりという雰囲気ではなく、少なからず暗い気分を引きずっているように見える。
とはいえ、表面上は平気そうに振る舞っていたし、彼女がそうしている以上、こちらとしても問いただす理由はないように思えた。
タカヤとモスが話をしている間も、俺はなんだか会話に混ざれずにぼーっとしていた。
考えなければならないことがたくさんある気がしたけれど、よくよく考えてみればそうでもない。
妹のことなら、何もいますぐにどうこうしようとしなくてもいい。
幼馴染に関しても、問題があるようなら何かを言ってくるはずだし、言ってこないにしても、あまり様子がおかしいなら訊ねればいい。
アキのことは本来ならもっとも簡単だ。連絡するなと一言言ってしまえばいい。
けれど現実には、俺はそれらの問題にかなり思考をかき乱されていた。
特に、目の前にいる幼馴染に関してはどうしても気になってしまう。
一度アキについての話をしたとき、彼女は平然としていたのに。
それなのに、じっさいにアキと会い、目が合っただけで、ひどく憔悴しているようにみえる。
何の会話もなかったにもかかわらず。
いったい彼女とアキとの間に何があったというのか。それは俺と関係のあることなのか。
タカヤたちは彼女の友人である「みー」についての話をしているが、幼馴染にそれを集中して聞く余裕はないらしい。
本当に珍しい姿だ。
その様子が気になって、俺はタカヤが説明する話をほとんど理解できなかった。
幼馴染はまったく口を開かなかった。やはり何かを訊ねるべきなんだろうか。
俺にはいつだって、彼女の考えていることがさっぱりわからない。
だから、どこまで訊いていい話なのか、まったくわからない。それは俺に関係のあることなのか?
俺はアキから電話がかかってきたことを彼女に話そうかどうか悩んだ。
俺ひとりで抱えておくにはひどく息苦しい事実だったけれど、その結果彼女がまた沈んでしまうのではないかという危惧もある。
それはさすがに、自意識過剰だとは思うのだが。
結局、何も言わずに俺たちは別れる。
幼馴染はずっと、何かを言いよどんでいるような表情をしていた。
別れ際、俺は努めて明るい表情を見せたつもりだったが、たぶん彼女には見抜かれていただろう。
続き
妹「なぜ触ったし」【後編】