1 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 13:34:14.50 SXuZJV1I0 1/112

西暦20XX年


企業のネットが星を被い


電子や光が駆け巡っても


国家や民族が消えてなくなるほど


情報化されていない近未来――――――

元スレ
紬「ゴーストの囁き」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1297398854/

2 : >>1代行ありがと - 2011/02/11(金) 13:36:55.70 7a85sOFd0 2/112


―――いつからだろう

私にとって、ムギ先輩が大切な人になったのは…………


―――どうしてだろう

ムギ先輩がいるだけで、幸せを感じられるのは…………




広大なネットワークの中で高度に発達していく技術社会と、それを構成する膨大な数の人間…

その一人一人が本来の多様性を保持しながらも、集中化による個も同時に失われつつある現代において

私たちは出会った



中野梓の物語は、桜ケ丘女子高等学校への入学から始まる

3 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 13:46:00.35 7a85sOFd0 3/112

―――思考するだけで操作が可能なインターフェイスを持つ「電脳」―――

宗教的規制も特にない日本では数年前から爆発的に普及し始め、私が電脳化したのも

その流行が最も盛り上がりを見せていた時期だった。

一昔前で言うところの、携帯電話が普及し始めた頃と似ている。

今では日本の人口のおよそ半数以上が電脳化していて、情報機器の最先端として広く一般に使われている。

また、「電脳」が注目されるようになった背景には、「義体」というもう一つの電子デバイスとの共存において

電脳が重要な役割を果たしていることも大きい。

電脳化と義体化の技術の進歩には、単に人々の生活を豊かにするだけにとどまらず

高度な身体能力を保持するためにより適合した肉体との親和を追求した義体を制御するために

情報処理能力を補う形で進化していくという、もう一つの道筋があった。

言うなれば必要目的以上の、人間の知的好奇心と欲望を残さず昇華する上での道具として発展していった。

9 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 13:53:06.68 7a85sOFd0 4/112

桜が丘女子高等学校は近年の電脳犯罪の増加をうけ、早くから電脳教育を導入し
その実績は今では全国トップクラスを誇っている名門校。

私、中野梓は去年、新入生としてこの桜が丘女子高に入学した。

志望理由は至って簡単、家が近所だから。
私の両親は教育熱心で、小さいころからやれ勉強しろだの習い事に通えだのと厳しかったから
気がついたら私は周りよりも少し、ほんの少し賢くなっていた。

おまけに私が小学5年になった頃、両親は何を思ったのか私に電脳化を勧めてきた。
身体が急激に成長するこの年頃に電脳化するのは珍しいケースで、その影響もあってか高校2年になる今でも
体は中学生みたいにちっちゃいし、胸だってまるで成長していない。

でも、電脳化することでいいこともあった。
小学4年から始めていたギターは、電脳化と合わせて取り入れた義体のおかげでみるみる上達していった。
義体の制御能力も一緒に向上するし、電脳に関して悪い気分はしなかった。


そして私は中学を卒業、桜高の試験と適性検査に無事合格することが出来た。

16 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 14:01:34.93 7a85sOFd0 5/112

桜高は名門といっても、特別に勉強ができる生徒が集まるような、いわゆるエリート校とは違う。
どこにでもある普通の女子高に、電脳教育というカリキュラムが大幅に実装されているだけ。

でもこの電脳教育を受けるには当然、自分の脳を電脳化する必要があるわけで、
大抵の生徒は入学する前に電脳化を済ませる。

もっとも、電脳化にはたくさんのお金が必要になるし、メンテナンス代だって馬鹿にならない。
必然的に桜高は裕福な家の子が多くなるんだけどね。



とまあ、そんなこんなで桜高に入学した私は、紆余曲折を経てなぜか軽音部に入ることになってしまった。

桜高の軽音部は私を含めて5人。

この5人で私たちはバンドを組み、学園祭や新歓ライブに向けて日々練習に励んでいる。

嘘です。

本当は毎日お茶とお菓子を食べて、ぐだぐだとおしゃべりしています。

でも、時々練習もします。

17 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 14:11:39.73 7a85sOFd0 6/112

 ○   ○   ○

現在、私は高校2年生。

先輩方は3年生になり、これが高校生活最後の1年間になる。

もちろん私にとっても、先輩たちと一緒に部活が出来る最後の年。

悔いが残らないように、今まで以上に練習に精を出さないと……!


「あ~ずにゃんっ」

「にゃっ!?ゆ、唯先輩こんなところでやめてください!」

「えぇ~、減るもんじゃないし、いいではないか」


私が先輩方のために頑張る決意をしたちょうどその時、
唯先輩がいつものように私に抱きつき、頬をすりすりとさする。

甘いものと可愛いものが大好きな、ちょっと間の抜けた先輩…
このだらけた軽音部の原因の一つでもある。

25 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 14:25:49.65 7a85sOFd0 7/112

私を見つけるたびに抱きついて来る唯先輩に呆れつつも、内心そんなに嫌なわけじゃない。
でも……

「あ~っもう!いい加減にしてください!」

「あずにゃんが怒った~」

「暴力反対よっ」

なんだか子供扱いされてるみたいで、ちょっと悔しい。

唯先輩と一緒になって私をからかうこの人は律先輩。
部長なのに全然責任感がなくて、いい加減だし大雑把。

「誰がいい加減で大雑把だってぇ~?」

「えっ?」

「梓、防壁のロック外れてるんじゃないか?」

「はっはっは、梓もまだまだ甘いな!」

「だ、だからって勝手に繋がないで下さい!」

まさか律先輩にクラックを許してしまうとは……不覚。

27 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 14:33:31.13 7a85sOFd0 8/112

「律、校内でのハッキングは禁止だろ。全く……」

やんちゃな律先輩と唯先輩をたしなめるのは澪先輩の役目だ。
スタイルが良くてかっこいいし、ベースも上手な私の憧れの人。
実質的にこの軽音部をまとめているのはこの澪先輩だ。

「梓は電脳を自閉モードにしてないのか?」

「いえ、さっき電脳交信の授業で一時的に解放していたのでそのまま……」

「学校の中ならいいけど、外だと危険だからな。気を付けないと」

「はい……っていうか、部室で枝張ったりしないでください!」

「まあまあまあ。梓ちゃん、お茶のおかわりいる?」

「あ、すいません、ありがとうございます……」

「ムギちゃんのお茶パワーで大人しくなるあずにゃん…」

「現金なヤツだな」

「唯先輩や律先輩には言われたくありません!」

29 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 14:38:35.90 7a85sOFd0 9/112

「あ、ムギ、私にもおかわりくれ」

「わたしも~」

「お前ら少しは遠慮したらどうだ…」

「いいのよ澪ちゃん。気にしないで」

紅茶のおかわりを用意しながら、ムギ先輩が優しく諭す。

ムギ先輩は毎日お茶とお菓子を用意してくれる、軽音部になくてはならない人だ。

一年前に私が入部した頃は、部活中に飲食するなんて考えられないと思っていたけど

慣れとは恐ろしいもので、今は特に抵抗も感じなくなっている。

「よし、飲み終わったら練習するぞ」

「えぇ~、もうちょっとゆっくりしてからにしようよ~」

「わがまま言わないで下さい。唯先輩はだらけすぎです」

「あずにゃん先輩厳しいっす……」

32 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 14:50:44.22 7a85sOFd0 10/112

ムギ先輩の淹れてくれた美味しい紅茶を飲みほしたあと、それぞれの楽器を準備し始めた。

やっと軽音部らしい風景を見られる。

「久しぶりだな、皆で合わせるのも」

「新学期になってから、まだ一回も合わせてなかったもんな」

「なんだかわくわくするね!」

澪先輩やムギ先輩は私が心配するまでもないけど、唯先輩や律先輩の演奏には若干不安がよぎる。

「唯先輩、ちゃんとギターの弦変えましたか?」

「もちろん!あずにゃんと同じElixirにしたよ。
  よく滑るし使いやすいし、さすがあずにゃんのお気に入りだね!」

「弾き終わったらしっかり手入れしないと他の弦と同様にすぐ錆びますからね」

「唯にElixirなんて贅沢だな」

「そういう律だって、すぐスティック傷めるくせに……
  しかもアーティストモデルにこだわるから人の事とやかく言えないだろ」

35 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 14:56:33.84 7a85sOFd0 11/112

「…そういえば」

律先輩が何か反論しようとした時、ムギ先輩がぽつりと呟いた。

「ん?どうした、ムギ」

「今日はみんなで電脳通信しながら演奏してみるっていうのはどう?」

「電脳通信、ですか?」

電脳通信、または電脳交信は、電脳を持つ者どうしがネットワークを利用して行う会話のことで
俗に電通と呼ばれている。

「でも、あずにゃんはまだ無線で通信は出来ないんじゃ……」

「あ、そうか!」

律先輩が納得したように顔を明るくした。

「そういえば梓、2年生だもんな。もう電通の授業は受けてるんだろ?」

「はい。でも授業以外であまり使うなって先生が…」


電通、それも無線の場合は電脳ネットワークに接続する必要があるため
万全のセキュリティを実装していない私たち学生は特に危険が及ぶ可能性が高い。

36 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 15:00:47.10 7a85sOFd0 12/112

「大丈夫だって!この学校の中で使う分にはほとんど問題ないし…」

「そうなんですか?」

「うん、まあ、なんだかんだ言ってみんなやってるしな」

「なんだか面白そうだね!やってみようよ!」

確かに演奏している間は肉声では会話することは出来ない。
その代わり電通なら楽器の音に邪魔されずに会話することは可能だ。

桜高のカリキュラムでは1年次は電脳のシステムやネットワークの仕組み、
電脳犯罪の実態とその予防や対策についてなど、机上での勉強が主だったため
電脳通信や情報の解析といった技術を身につけることはなかった。

生徒の中には独学で電通を習得する人もいたけど、一般の学生にとっては必要となる機会が
まずないので、私も例にもれず実際に電通をしたのはつい最近のことだ。

37 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 15:09:50.29 7a85sOFd0 13/112

私たちは自閉モードを解除し、お互いのネットワークに接続した。

《もしもしあずにゃん?聞こえる~?》

《はい、聞こえてます》

《うん、これなら楽器の音に邪魔されずに会話できるな》

《一度やってみたかったの~》

見るとムギ先輩が一番喜んでいるみたいだった。

実際、電脳通信はコツさえつかめばそんなに難しいことではない。
もしかしたら私たちの演奏も上手く合わせることができるかも……。

《よし、じゃあまずはふわふわから!》

律先輩のカウントから、唯先輩のカッティングへと音が繋がっていく。

今まで何度も弾いてきただろうリフに、全員の音が重なるように奏でられていく。

ディストーションをかけた私のギターの、カリカリとしたバッキングが

この5人の演奏に溶け込んでいく。


まるで私と先輩たちの境界が綺麗に取れてなくなったような、不思議な一体感に包まれた。

43 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 15:38:16.79 7a85sOFd0 14/112

―――――演奏が終わった。

久しぶりに合わせたとは思えない、充実した時間だった。

「ねえ、今の感じ、すごく良くなかった!?」

唯先輩も手ごたえを感じたのだろう。
興奮気味に私たちを見渡す。

「確かに……今までにないくらいぴったり合ってたな」

「っていうか今の完璧だったんじゃないか!?」

律先輩もとても嬉しそうにはしゃいでいる。
ムギ先輩も、にっこりと笑顔を向けた。

でも――

「でも、全く電脳通信なんてできなかったな」

「私、ギターと歌うので精いっぱいで電通してる暇なんてなかったよ」

私もそのことをすっかり忘れて、自分の演奏に夢中になっていた。

44 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 16:07:03.54 7a85sOFd0 15/112

「そうなんだよなぁ。なんていうか、私もドラム以外のことなんて全然考えてなかったのに
  これだけぴったり息が合うってのも珍しいよな」

私は、実はその気になれば義体化した自分の腕を独立させて動かすことが出来る。
そうすれば、少なくとも私だけは全員の演奏を集中して聞き、電脳通信で会話することだって出来たはずだった。

「う~ん…もう一回合わせてみるか」

「そうですね…。今度は電脳通信も取り入れながら…」

《よ~し!頑張るぞ~》

「唯、あんまり無理するなよ。お前はギター弾きながら歌うわけだし
  基本的に私たちの会話を聞いてればいいんだから」

「そうだな。一番重要になってくるのはリズム隊だから、もし気になる所があったら
  梓やムギが指摘してくれ」

《任せて!》

意気揚々とムギ先輩がガッツポーズを決め、私たちは再び楽器を構えた。

《それじゃあ次は…ふでペンで!》

律先輩が見渡すように確認し、カウントを取った。

45 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 16:16:15.72 7a85sOFd0 16/112

ふでペンの入りは私のギターで弾き、バックは唯先輩だ。
ふわふわと違って最初から全員が一つにならないと気持ちの悪いアンサンブルになってしまう。

《律、もう少しテンポを遅くしてもいいんじゃないか?》

案の定、律先輩のドラムが走り気味になる。
澪先輩はやはり安定してリズムキープしているけど、今度は唯先輩が崩れ始めた。

《おい唯!お前がテンポ落としてどーすんだよっ》

《唯先輩はベースの音を聞いててください!》

唯先輩を見ると、混乱している様が顔に浮かんでいる。

《今度は梓ちゃんが引っ張られているわ》

気付くと、私の義体がリズムの変化に追いつけずによれてしまっていた。
急いで私の意識をつなげ直したけどもう遅い――。

46 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 16:23:47.89 7a85sOFd0 17/112

結局、バラバラなまま演奏は終わってしまった。

さきほど得たように思えた一体感は、もうこの部屋のどこにもなかった。

「…やっぱり演奏中に会話するのは無理があるかもしれないな…」

「そうね…」

ムギ先輩は肩を落とし、残念そうに言った。

「みんな、ごめんね…」

「唯が謝ることないだろ」

私も、義体に演奏を任せるなんて馬鹿なことしたな。
妙な罪悪感が残る。

「どうしたんだよみんな。そんなにがっかりすることないぜ!
  大体、これくらい酷いのは今に始まったことじゃないし、今回はたまたまだって!」

律先輩が持ち前の元気でみんなを励ましてくれる。

半分くらいフォローになってない気がするけど……

49 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 16:32:27.77 7a85sOFd0 18/112

 ○   ○   ○

桜の季節も終わりを迎え、暖かな日差しも容赦がなくなってきた頃

私はいつものように部室へと足を運んだ。

入口に立って、中の気配を探ってみる。

どうやらまだ先輩方は来ていないみたい。

少し早く来ちゃったかな、と思いながら私は扉を開け、中に入った。

(……先輩方が来るまで練習してようかな)

そんなことを考えながら、長椅子に鞄とギターを置いた、その時だった。


私はドキッとした。


ムギ先輩が、独りで椅子に腰かけていたからだ。

窓の外を虚ろな顔で見つめながら、まるで遠くに目をやられた瞬間に凍らされたようにピクリとも動かない。

私が側に近づくまで全くその存在に気付けないほど、ムギ先輩は部屋の空気と同化していた。

51 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 16:42:37.31 7a85sOFd0 19/112

「あっ」

思わず声を出してしまった。

「……あら、梓ちゃん」

ムギ先輩も私に気付き、さっきまでの虚ろな表情は消え、いつものようににっこりと微笑んだ。

「す、すいません!気が付かなくって……」

「ああ、私の方こそごめんなさい。少しボーっとしてたみたい…。
  梓ちゃん、今日は早いのね?」

「はい……ムギ先輩こそ、一人ですか?」

「ええ。他のみんなはそれぞれ用事があるみたいで、遅れるそうよ」

「そうですか…」

私は気持ちを落ち着かせ、会話を続けようと努力した。

でも、あの時のムギ先輩の表情が目に焼き付いて離れない。

普段は決して見せないような、存在しない先輩を見てしまったような感覚。

思えば、この時からだったのかもしれない……


私が、ムギ先輩は他の人とは違う特別な人だと認識するようになったのは。

52 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 16:50:34.12 7a85sOFd0 20/112

「どうしたの?座りましょ」

「は、はい」

ムギ先輩に促され、私は急いで椅子に座った。
きっと今の私は誰から見ても挙動不審に映っただろう。

「ねぇ、梓ちゃん」

「はい?」

「義体の調子はどう?」

「今のところ特に問題はないです。この間メンテしたばかりですし」

「そう……」

ムギ先輩はそう言うと、お茶淹れるわね、と言って席を立った。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

ムギ先輩の淹れてくれたお茶を飲む。
やっぱり美味しい。なんだか心が落ち着く味だ。

だけど、今日の紅茶は少し…濃いような気がした。

54 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:03:51.22 7a85sOFd0 21/112

「…ムギ先輩は義体化していないんですよね?」

「うん。でも、電脳化したのは中学の頃よ」

「そうなんですか?」

「当時は周りの子も結構電脳化しててね。何も特別なことじゃなかったわ」

「そういえば、ムギ先輩ってどこの中学校でしたっけ」

「私のいた学校は県外だから、言っても分からないと思うけど…
  新女子学院中学校っていう所でね。実際はこことそんなに離れていないわ」

「新女子学院中学校…?」

聞いたこともない名前だった。
でも、きっとムギ先輩のことだし、かなり良い家の生徒が集まるんだろうな。

「ね、梓ちゃん。梓ちゃんはどうして義体化したの?」

「小5の時に両親が電脳化を勧めてきて、その時に一緒に義体化もしたんです」

「小5かぁ…梓ちゃんは嫌じゃなかったの?」

55 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:11:06.21 7a85sOFd0 22/112

「う~ん…そんなに嫌な感じはしませんでした。
  頭が良くなるからって言われて、ああ、そうなんだ。じゃあやろう。と思ったくらい、
  軽い気分だった気がします」

「そうなの…。でもその年頃で義体化もするなんて、珍しいんじゃない?」

「確かに周りで電脳化と義体化を両方してる人はいませんでしたね。
  でも、そんなに気になりませんでした」

「ギターを弾く時は、やっぱり制御ソフトに色々組み込んでるの?」

「…はい」


私の両腕の義体は、電脳に組み込まれた専用の制御ソフトで動いている。
そのソフトにはギターを弾くための最適化が施されていて、そのおかげで私は他の人に比べて
比較的ギターの演奏が上達しやすくなっている。

義体化した当時はすぐに上達していくのが嬉しくて仕方なかった。
それに例え義体化しているとはいえ、自分の腕前にはそれなりに自信を持っていた。


桜ケ丘高校の新歓ライブを見るまでは。

58 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:21:07.96 7a85sOFd0 23/112

―――1年前の新歓ライブ。

薄暗い講堂でひときわ明るく照らされたステージ。

その時は名前も知らない先輩方の、お世辞にも上手とは言えない演奏。

最初は「ああ、高校の軽音部っていってもこんなものか」と思った。

ギターは私の方が上手いし、アンプの使い方だって素人なのが目に見えている。


なのに最後まで目が離せなかった。

技術的には私より拙いはずなのに、不思議と心地良く響くひとつひとつの音…

今まで聞いたどんな音楽やライブよりも私の心を打った。


私の音楽に足りない何かがここにある。

私の、義体に頼った演奏では到底たどり着けない音楽がここにある。


それが、私が軽音部に入った理由だった。

59 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:25:37.72 7a85sOFd0 24/112

「義体化していると、色々と便利なのよね」

「…実は、今は少し後悔してるんです」

「あら、なんで?」

「義体化した時は、単純に技術が向上していくだけで満足だった。
  でも、先輩方の演奏を聴いて、私の音楽が何か違うことに気付いたんです」

「そんなことないわ。梓ちゃんのギターはとても上手よ」

「そうじゃないんです。
  私の弾いているギターの音が、本当に自分の奏でている音なのか…
  もしかしたら義体が、ただ最適化されただけの制御プログラムに従って運動しているだけなんじゃないか…
  そんな不安があるんです」

「………」

「先輩方の音楽には心を感じます。
  でも、私の音楽にはどこにも心がない…そんな気がするんです」

「…それはきっと、梓ちゃんが独りだから。だからそんな気がするのよ。
  大丈夫。梓ちゃんの演奏には、ちゃんと心がこもってる」

「………」

60 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:30:17.14 7a85sOFd0 25/112

私の漠然とした不安について話したのは、これが初めてだ。

正直、ここまで真剣に話を聞いてくれるとは思わなかった。

ムギ先輩だからこそ、こんな悩みを聞いてくれる。

ムギ先輩は、私の音楽に心があると言ってくれた。

嬉しかった。


「私はしっかり感じ取れるわ。
  梓ちゃんのギターには梓ちゃんにしかない何かがあるってこと。
  でもそういうのって自分では分からないものなのよね」

「…そうなんですか?」

「うん。だから私たちはこうやってバンドを組んで、一緒に演奏するんだと思うの」

「………」

ムギ先輩の柔らかな表情が私を安心させる。

「せっかくだし、みんなが来るまで少し練習しよっか」

「はいっ」

なんだか、救われたような気がした。

63 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:43:19.82 7a85sOFd0 26/112

ガチャ

「おーっす!ごめん、遅れちゃったー…って、あれ?
  まだムギと梓の二人だけか?」

「うん。これから二人で練習しようと思ってたんだけど」

「おおっ、やる気満々だな」

「これが普通です」

「まーまー。澪は何やってんだか知らないけど、もうすぐ来るだろ。
  それから唯なんだけど、外せない用事があるから今日は部活休むってさ」

「そうですか…」

「うっし!じゃあさっそくムギ、私にもお茶頼む!」

「だから今から練習するんです!」

「そうね、りっちゃん来たからお茶にしましょ?」

「ムギ先輩まで…」

「なんだ梓、いらないのか?」

「………」


私はしぶしぶ席に座った。澪先輩が来たら絶対に練習するんだから。

64 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:46:25.28 7a85sOFd0 27/112

―――部活が終わり、帰り道

「じゃ~な!ムギ、梓!また明日!」

「じゃあな」

「また明日~」

「お疲れさまでした」


今日は結構練習できたかな。
唯先輩がいないとここまでしっかり部活動ができるとは…
でも、やっぱり5人そろわないと意味がない。


「あつくなってきたわね~」

「…そうですね。もうしばらくしたら夏至ですし…月日が経つのはあっという間です」

「そうね…」


心なしか、帰りのムギ先輩は元気がないように思えた。

65 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:52:45.35 7a85sOFd0 28/112

「…そういえばさっき、私の義体の話がありましたけど…」

ムギ先輩と二人で帰る機会なんてあまりないし、なるべく沢山おしゃべりしたい。
そう思って私は話題をふった。

「律先輩や澪先輩は義体化してないんですよね」

「りっちゃんはしてないけど、実は澪ちゃん、体の一部は義体なのよ」

「ええっ!?そうなんですか?」

私は意外な事実に驚いてしまった。澪先輩が義体持ちだったなんて…

「で、でも見た目は全然義体化しているようには見えないですけど…」

骨格や筋肉を義体化していないなら、考えられるのは内臓系の義体化。
それはすなわち、体のどこかに障害や病気をもっているということだ。

「澪ちゃんの場合は、そんな目立った部分を義体化しているわけじゃないもの」

「…?」

66 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 17:59:22.85 7a85sOFd0 29/112

「このことは他の人には内緒よ?」

ムギ先輩がいたずらな笑みを浮かべて言った。

「…どういうことですか?」

「澪ちゃんはね、体の機能を補うための義体化じゃなくて、見た目を綺麗にするための義体化なの」


…どうりで澪先輩、スタイルがいいわけだ。

「確か義体化してるのは歯と、顔の一部の骨格と、骨盤あたりだったと思うわ」

「どうしてムギ先輩はそんなことまで知ってるんですか?」

「うふふ、ヒミツよ」

先輩はまたもやいたずらに笑う。

まるで子供みたいに。

68 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:05:53.71 7a85sOFd0 30/112

「唯先輩はどう見ても義体化してなさそうですね」

「唯ちゃんは義体化しなくても、そのままの唯ちゃんで十分魅力的だもの。
  梓ちゃんもそう思うでしょ?」

確かに唯先輩は義体化するような人じゃない。
それに電脳化だって、むしろ違和感があるくらいだ。

まあ、唯先輩は電脳に関しては誰よりも才能があるって憂が言ってたっけ。
他の勉強はてんで駄目みたいだけど。

「魅力的かどうかは……わかりませんけど」

「澪ちゃんやりっちゃんだってそう。何もしなくても、そのままの姿でも十分魅力的だわ。
  そして、例え唯ちゃんが全身を義体化したとしても、その魅力は何も変わらない」

「…はい」

ムギ先輩が何を言いたいのか、私には良く分からなかった。
私はただ、普段あまり話したことのないムギ先輩の色々な考えを知ることができた、そのことが嬉しかった。

71 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:08:57.85 7a85sOFd0 31/112

「そうだ、梓ちゃん」

「なんですか?」

「今度のお休みに、一緒にどこか出かけない?」

「二人でですか?」

「うん。もしかして、都合悪い?」

「い、いえ、そんなことありません。大丈夫です」

「ほんとに?やったぁ!」

先輩が私の手を取り、無邪気な仕草で喜ぶ。
そのあまりの可愛らしさは、先程までの真剣な表情をかき消すほどに私を惹き付けた。


「じゃあ後でメールするから」

ムギ先輩と駅の前で別れる。

また明日会えることをお互い確認するように

私も笑顔で手を振った。

75 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:18:01.21 7a85sOFd0 32/112


 ○   ○   ○

休日のムギ先輩とのデートは、私の提案で遊園地に行くことになった。

先輩と二人で遊園地…

なんだか妙に緊張してしまう。

おかげで待ち合わせの時間より30分も早く来てしまった。

(早く来すぎちゃった…何してようかな)

時間にルーズになるよりいいけど、早すぎるのも問題だ。
私がどうやって時間をつぶそうか考えていた、その時だった。


「わっ!!!」


「ぎゃーーー!!」

まんまとムギ先輩にしてやられた。
うら若き女子高生がみっともない叫び声をあげてしまい、ついでに目から涙まで…

「び、びっくりしました…」

「うふふっ。大成功!」

81 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:29:58.65 7a85sOFd0 33/112

おちゃめなムギ先輩も可愛い。
可愛いけど、何も本気で驚かさなくても…

「ごめんね、梓ちゃん。一度やってみたかったの~」

「…今度は律先輩にやってあげて下さい…。
  それにしても先輩、ずいぶん早いですね。まだ待ち合わせの時間まで30分ありますけど」

「それはもちろん梓ちゃんを驚かすためよ~。
  梓ちゃんが来るのを今か今かと待ちかまえるの、すごい楽しかったわ~」

「それは…喜ばしいことです」

ムギ先輩のやんちゃぶりは、時に律先輩と唯先輩をも軽く凌駕する。
そんな時、私の本来のツッコミはなりをひそめ、ムギ先輩のペースに見事に巻き込まれてしまうのだった。

「じゃあ早く集まったことだし、さっそく行きましょっ」

ムギ先輩は嬉しさを隠しきれないと言った様子で私の手を掴み、入口へと歩いて行った。

私は半ば呆れながらもわくわくしていた。


今日は忘れられない日になる。

そんな予感がした。

82 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:33:05.29 7a85sOFd0 34/112

「わぁ~…」

ムギ先輩が目を輝かせながら辺りを見渡す。

「先輩はこの遊園地は来たことないんですよね」

「わたし、遊園地自体初めてなの~」

「ディズニーランドとかにも行ったことないんですか?」

「うん。あっ、梓ちゃん!あの乗り物は何!?」

ムギ先輩はジェットコースターを指差し、期待の眼差しを私に向けた。

「あれはジェットコースターですね。最初はあれに乗りますか?」

「はやく!梓ちゃんこっちこっち!」

乗るかどうか聞く前にムギ先輩は走って行ってしまった。

「ま、待ってください!」

慌てて追いかける私。

まるで子供に振り回される親だ。

83 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:38:50.53 7a85sOFd0 35/112

搭乗の順番を待っている間、私はムギ先輩と色々なことを話した。

学校の授業、軽音部のみんなのこと、普段何をして過ごしているか…

ムギ先輩は私の話をとても楽しそうに聞いてくれたけど、先輩自身についてはほとんどしゃべらなかった。

依然として私はムギ先輩について知ることが出来ないまま、順番が回ってきてしまった。

「こ、これに乗るのね」

声だけ聞くと怖がっているようだけど、先輩の顔を覗く限りでは怖がっている様子は微塵もない。
むしろ私の方が少し怖気づいていた。
ジェットコースターに乗るなんていつぶりだろう。

「ドキドキしてきたわ~」

「わ、私もドキドキしてきました…」

頑丈な手すりが降りてきて、係り員の合図が響いた。

私たちの体を縛り付けている乗り物が、ガコンと音を立てて動き出す。

そこから先は何も考えられず、気付いたら終わっていた。

84 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:45:15.69 7a85sOFd0 36/112

「すごい面白かったわ~!」

ふらふらと出口へ向かう私の横で、ムギ先輩が肌をツヤツヤさせながら喜んでいた。

「あっ!今度はあれに乗ってみない!?」


先輩はよほどジェットコースターが気に入ったのか、
次から次へと絶叫マシンに梓を誘っていった。

「ム、ムギ先輩…少し休みませんか…」

流石に私も限界を迎え、先輩と一緒にベンチに腰掛け休憩した。

「遊園地ってこんなに楽しい所だったのね~」

売店で買ってきたジュースを飲みながら、ムギ先輩は言った。

「梓ちゃん、ありがとう。こんな楽しい所へ連れてきてくれて」

「そんな、お礼なんていいです。私も、ムギ先輩のおかげですごく楽しいですし…」

85 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 18:51:27.99 7a85sOFd0 37/112

「わたしのおかげ?」

「先輩は、何かを楽しむことにかけては天才だと思うんです。
  今まで色んな人と遊びに行ったことがありますけど、ムギ先輩と居る時が一番楽しいです」

「そうかしら?なんだか嬉しいわ~」

そう言ってムギ先輩は頬を赤らめて喜んだ。


「それにしても今日は暖かいですね。私、汗かいちゃいまいた」

私は持ってきたタオルで汗をぬぐい、手元のジュースを飲んだ。

「ムギ先輩はあまり汗かいてないみたいですね。羨ましいです」

「昔からなぜかそういう体質なのよね」

先輩は苦笑いして言う。



突然、遠くで叫び声がした。

91 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:23:47.55 7a85sOFd0 38/112

続いて爆発音。

私は一瞬、何かのアトラクションだと思った。

園内に次々に叫び声が上がる。

「何かしら…?」

ムギ先輩も異変を感じたのだろう。警戒するように辺りを見回す。

見ると、私たちのいる所からそう遠くない所で黒い煙が立っていた。

「なんですかね…事故ですか?」

私は立ち上がり、煙の方へ歩こうとした。


「梓ちゃんっ!!」


強い衝撃と共に私の体は硬直した。
次の瞬間、私のこめかみに冷たい鉄の芯が当てられていた。

92 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:25:57.49 7a85sOFd0 39/112

「動くな」

耳元で知らない男の声がささやく。

正面にいるムギ先輩が、私と私の後ろにいる誰かを凝視している。

「動いたらこいつの命はない」

ポケットに手を入れようとしたムギ先輩に、男が淡々と警告する。

同時に、園内のスピーカーから物々しい放送が流れた。


『現時刻をもって、この遊園地は我々の支配下におかれた。
 これは犯行声明である。
 我々は政府に対し、義体輸出の完全撤廃と、電脳開発規制提案の凍結を要求する…』



テログループがこの遊園地を占拠し、私を人質にとったことを理解するのに時間はかからなかった。

男は私に拳銃を突きつけたまま、じりじりと後ずさりする。

93 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:32:16.37 7a85sOFd0 40/112

またどこかで悲鳴が聞こえた。

間を空けずに乾いた発砲音が響く。

「来い」

男が私の腕を縛りあげ、乱暴に引っ張る。

私は恐怖に体を震わせ、こちらを見つめるムギ先輩へと視線を向けた。


助けて。


叫び声を出すこともできず、私は口をぱくぱくさせてムギ先輩に助けを求めた。

先輩はそれでも表情ひとつ変えず、私をじっと見ている。


男は乱暴に私の髪をたくしあげると、首にある電脳の外部端子へとコードを刺した。

94 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:36:23.28 7a85sOFd0 41/112

いくら電脳を自閉モードにしているとはいえ、直接コードで繋がれてしまっては
侵入を防ぐ術はほぼ無い。

きっと犯人は私のゴーストをハッキングするつもりなんだ。
ゴーストハックされた人間は完全に乗っ取られてしまう。

「いやぁっ!!」

私は恐ろしさのあまり抵抗した。
すると意外にもあっさりと男の手ははがれた。

「!」

何が起きたか分からず、必死にその場から逃げ、ムギ先輩のもとに駆け寄った。

「梓ちゃん!」

私は思い切り先輩に抱きつき、息を切らした。

「先輩…怖かったです……うっ」

「もう大丈夫…男は気を失っているわ」

96 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:43:05.23 7a85sOFd0 42/112

「…?」

恐る恐る男の方を見ると、白目をむいてその場に倒れていた。

「な、何が起きたんですか…?」

「今は説明している暇はないわ。とにかく逃げましょう」

ムギ先輩は私を強く抱きしめながら言った。
その温もりが私を安心させる。

とにかく今は逃げないと。

「は、はい」


ムギ先輩が私の手を引っ張り、どこかへ向ってまっすぐに歩いていく。

「どこへ逃げるんですか?もう遊園地の周りは武装グループに囲まれているんじゃ…」

「大丈夫。心配しないで」

先輩はなおも歩き続ける。

97 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:47:45.88 7a85sOFd0 43/112

ふと前を見ると、物騒な格好をしたテロリストが2人ほど待ちかまえている。

「ムギ先輩!こっちは駄目です!他の道から…」

「しっ!梓ちゃん、少し黙ってて」

先輩が口元に指を立て、そのまま犯人たちの方へ歩いて行った。


(!?)


「………」

すると、ムギ先輩は何事もなかったかのように犯人の真横を通り過ぎていった。

《梓ちゃんも早く!》

いつの間にかムギ先輩が私の電脳ネットに無線で繋いでいた。

《は、はい…》

私は急いでムギ先輩の後についていき、同じように犯人に気付かれずに通り過ぎた。

102 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:53:44.34 7a85sOFd0 44/112

《ムギ先輩、何を…》

私が質問しようとしたとき、どこかから人の声がした。

《まさかテロリスト…?》

《梓ちゃんはここに隠れていて》

私はムギ先輩に促されるまま、近くの陰に隠れた。

段々と声が近づいて来る。
私は息を殺して物陰からムギ先輩の後ろ姿を見ていた。

既に声は私たちのすぐ側まで来ている。



突然、ムギ先輩が飛び出した。

《先輩っ!!》

104 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 19:58:56.18 7a85sOFd0 45/112

いきなり飛び出したムギ先輩に向って、テロリストが「誰だ!」と叫ぶ。

次の瞬間、ものすごい音とともに私の目の前に大きな男が吹っ飛んできた。

「!?」

男はよだれを垂らしながら伸びている。
何が何だか分からない。

ムギ先輩は無事なのか?

鈍い音と、物が壊れる音が聞こえる。

私はムギ先輩が駆け出した方向へ、恐る恐る顔を出した。

そこには別の男が壁に叩きつけられ、気絶している姿があった。


ボキッ


もう一度、鈍い音がした。

ムギ先輩が、最後に残った大男の腕をへし折る音だった。

107 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:03:56.56 7a85sOFd0 46/112

「ぎゃあ…」

大男が悲鳴を上げる前に、ムギ先輩がみぞおちに掌底を放つ。

「…っ!」

そのまま流れるように顎へと掌底。

大男は気を失い、大きな音を立てて倒れた。

「………」


私は自分の目を疑った。
一人の女子高生が、屈強な男3人をわずか数秒で倒したことが信じられなかった。

先輩は全く息を乱すことなく、大男の外部端子にコードを繋げる。

「………」


しばらくした後、ムギ先輩がコードを回収し、私の方へ歩いてきた。

110 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:10:19.06 7a85sOFd0 47/112

「遊園地の南の壁を乗り越えて脱出できるわ。そこはテロリストの配備が手薄みたいだから」

ムギ先輩は淡々と説明する。

「一体どうやって…?」

「この男の電脳にアクセスして遊園地の地図情報とテロリストたちの行動を調べたの。
  相手は防壁迷路を組んでいたから、こんなふうに強行突破せざるを得なかった…」

先輩が悲しそうに言った。

「強行突破って…でも今のは……」

「…ごめんなさい。私、梓ちゃんにウソついちゃった。
  私の体は生身じゃない。全身義体のサイボーグなの」



私はショックで言葉も出なかった。

色々な感情が頭の中で渦巻き、正常な思考ができなくなっていた。

112 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:16:55.97 7a85sOFd0 48/112

「梓ちゃん、とにかく今は逃げましょう」

私は先輩の言葉で我に返り、南へ向かって走った。

途中、何人かのテロリストたちのそばを通りかかったけど
やはり私たちのことが見えていないかのように無視していた。


「はあ…はあ…」

「後はこの壁を登るだけ…」

ムギ先輩はそう言うと、ふわりとジャンプし、壁の上にのぼった。

「さあ梓ちゃん。私の手をとって」

ムギ先輩が私に手を差し伸べる。

「せーのっ」


どさっ

私たちはうっそうと茂る森の中に落ちた。

どうやら無事に脱出できたみたい。

114 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:21:08.91 7a85sOFd0 49/112

「いたたた…」

「大丈夫?」

結構高い所から着地したせいか、足がしびれる。
私は先輩の肩を借り、二人で民家の方へ歩いて行った。


生きてる。


人通りの多い道に出た時、私は安心しその場に崩れるようにへたってしまった。

「梓ちゃん!しっかりして!」

「だ、大丈夫です…ただ、安心したら力が抜けちゃって…」


私たちはとりあえず、近くのファーストフード店に入り、気持ちを落ち着かせた。

115 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:25:58.07 7a85sOFd0 50/112

「…せっかくのデートだったのに、大変な目にあっちゃったわね」

「ムギ先輩のおかげで助かりました…。
  私、もしかしたらここで死んじゃうのかなって…すごく怖かったです」

私は恐怖から解放され、自然と涙が出る。


するとムギ先輩が隣に座り、そっと抱いてくれた。

「もう大丈夫。梓ちゃんは私が守るから」

私は先輩の服をギュッとつかみ、包み込むような優しさを感じた。



ムギ先輩の存在が私にとってかけがえのないものになった瞬間だった。

116 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:31:36.27 7a85sOFd0 51/112

「…先輩は、どうやって私を助けてくれたんですか?」

私が最初に犯人に捕まった時、なんの前触れもなしに犯人が倒れた。
きっとムギ先輩が何かしたのだと、私は直感的に思ったのだ。

「あの時は時間がかかってしまってごめんなさい…。
  梓ちゃんの電脳に攻性防壁を組み込むのに手間がかかっちゃって…
  迂闊に犯人に電脳ハックは出来なかったし、それしか手段がなかったの」

「攻性防壁をあの短時間で組んだんですか!?」

「簡単なものだったけど、まさか犯人も一般人が攻性防壁を装備しているとは思わなかったでしょうね」



防壁とは、電脳への不正なアクセスを防ぐためのプログラムのことだ。
私たち桜ケ丘高校の生徒は全員、ある程度の防壁を電脳にあらかじめ入れているが完全に防げるわけではない。

防壁にも色々と種類があって、今回ムギ先輩が組んだ「攻性防壁」というのは
アクセスを防ぐだけではなく、ハックしてきた者を逆探知して攻撃するという優れたものだ。

ただし、一般人がこれを装備するのは違法であり、普通は警察や公安などの極秘情報を取り扱う
組織でしか使用されることはない。

それに、普通の防壁だってプログラムを組むのは並大抵の電脳知識じゃできない。
しかも攻性防壁となると、一部の電脳適合者でさえ小一時間はかかるとされているほど高度な技術だ。

117 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:36:53.47 7a85sOFd0 52/112

「…ということは、途中でテロリストたちが私たちに気付かなかったのも…」

「わたしが彼らの視覚素子をハックしたから。逆探知されないようにするのは大変だったわ」

「リアルタイムで視覚情報を上書きするなんて…ムギ先輩は一体…」

「何者か……って?」


先輩はいつになく真剣な顔つきで言った。
いつもの笑顔がそこにはなかった。

どことなく悲しんでいるようにも見える。


「私が何者なのか、知りたい?」

「………はい」

今まで知ろうと思ってもなかなか教えてくれなかったムギ先輩という人物について

私は知りたかった。

好奇心からではなく、それが私にとって必要だと思えたから…

118 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:40:18.88 7a85sOFd0 53/112

「…梓ちゃんになら話してもいいかもしれない。
  でも、約束してくれる?」

「何をですか?」

「私の事を、絶対に他の人には洩らさないということ。
  理由は聞けば分かるわ」

「分かりました。絶対に他の人にはしゃべりません」

もとより他人に話すつもりなんてない。
私だけが知ることのできる、ムギ先輩という存在。
それだけで私にとって十分だからだ。

「これは最重要機密事項だから、無線の電通でも話せない。
  だから有線で繋ぐけど、いい?」

「はい…」

ムギ先輩が私の髪をめくり、外部端子にコードを差し込んだ。

122 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:45:19.02 7a85sOFd0 54/112

《…梓ちゃん、聞こえる?》

《はい、しっかり聞こえます》

《何から話せばいいかしら…。
  そうね、まずは私のこの体について》

《さっき言った通り、私の体はほぼ全て義体化されているわ》

《…でも、見た目は全然普通の、生身の体に見えます…》

私はまじまじとムギ先輩の体を見た。
骨格や筋肉を義体化している場合は、よく見てみるとなんとなく違いが分かるものだ。
だけど先輩の体はまるっきり生身そのもの…

《これは現在一般に出回っている普通の義体とは違う、特殊な物なの。
  だから一目見ただけでは生身となんら変わりがない》

《特殊…?》

《…梓ちゃんは、私がなぜ桜ケ丘高校に入学したか分かる?》

《それは…名門校だからじゃないんですか?》

123 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 20:50:56.42 7a85sOFd0 55/112

《それもあるわ。だけど本当の理由は、普通の女子高生と同じように授業を受けながら
  電脳教育も受けることができるということにあるの。私の他にもそういう生徒はいると思う》

《ただ、私の場合は電脳の授業を受けることによる成績向上が目的じゃない。
  私の電脳を狙うハッカーや電脳ウイルスを外部から守ることにあるのよ》

《ムギ先輩は狙われているんですか?》

《狙われる時もある。なぜなら、私が琴吹商社の社長の一人娘だから…》

琴吹商社。
それはムギ先輩のお父さんが社長を務める日本でも屈指の総合商社だ。
その話は前に軽音部で聞いたことがある。

《それは…誘拐されて、身代金を要求されたり…?》

《いいえ。それよりももっと大きな価値が私のボディと電脳にある》

《…?》

126 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:08:46.81 7a85sOFd0 56/112

《…ここ数年、琴吹商社では新興事業として独自に義体と電脳システムを開発していたの。
  私の体は、脳と脊髄の一部を除く全身が琴吹商社が新たに開発した義体で出来ている。
  聞くところによるとボディの素材や制御ソフトは通常、絶対に手に入らない超高級、高品質なもの…》

《そしてこれらの開発過程や設計、構造など全ては開発部の最重要機密事項…
  その存在すら表向きに発表できないほど、私の義体やシステムは現在の技術の数歩先を行っているのよ》

《そ、そんなにすごいんですか…?》

《だから私の義体と電脳システムは定期的なメンテナンスが欠かせない。
  そのメンテナンスとシステムの更新だけで会社の経営を圧迫するくらい莫大な資金が動いている》

《当然、私のこの体はそれ以上の投資を得て作られたもの…
  だから私の存在そのものが、会社の最重要機密事項ということなの》

《…そんな》


これがムギ先輩の真実。

私は知ってはいけないことを知ってしまったのかもしれない。

だけど、後悔はしていなかった。

127 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:15:47.34 7a85sOFd0 57/112

《…それだけ重要なら、護衛とかはつかないんですか?》

《ええ、いつも学校に行く時と帰る時、それから授業中も外でSPが見張っているわ》

《授業中もですか!?》

《桜ケ丘高校自体が万全のセキュリティだから最低限の護衛だけど、一応居ることは居るわ》

《じゃあ、今日も…?》

それだけ完璧にムギ先輩を守っているなら、今日だってSPの一人や二人いてもおかしくない。
むしろ当然のことだ。

《ううん。今日は私、自分の動作記憶を復元したAIを搭乗させたコピーアンドロイドを家に置いてきたから
  きっと誰も遊園地に遊びに行ってるなんて知らないわ》

先輩がいたずらな口調で言った。

《そ、そんなので大丈夫なんですか?》

《さあ…念のため周りのSPには部屋に入らないように言ってあるからバレないと思うけど…》

129 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:20:02.92 7a85sOFd0 58/112

《……ふふっ》

私はなんだか可笑しく感じてきた。
ムギ先輩のやんちゃぶりに振り回されているSPを考えると笑えてしまう。

「あははは……」

「なんで笑うの~?」

私が意外な反応をしたせいか、ムギ先輩が思わず言った。

「なんだか可笑しくって…そんなに遊園地に行きたかったんですか?」

たぶん先輩も窮屈な思いで普段過ごしているんだろうな。
たまには思いっきり遊びたくなるのもしょうがない。

「う~ん、それもあるけど…一番はやっぱり梓ちゃんと一緒に遊びたかったから、かな」

「あはは……えっ?」

はっとしてムギ先輩を見ると、先輩も私の目を見つめていた。

吸い込まれるように大きな先輩の瞳に私の姿が映り、
いつのまにかお互い顔を近づけていた。
ムギ先輩の吐息を感じるほどに。

130 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:29:14.00 7a85sOFd0 59/112

「…梓ちゃんは今の話を聞いて、私のこと嫌いになった?」

じっと見つめあったまま、先輩が言った。

「そんなわけありません。たとえどんな体だろうと、ムギ先輩はムギ先輩です」

「それにこの間、先輩が言ってたじゃないですか。
  そのままの姿でみんな十分に魅力的だって…もちろんムギ先輩だってそうです」

「今わたしの目の前にいる先輩が私の知る先輩の全てです。
  新しい事実を知ったからといって、私の中のムギ先輩は変わりません。
  だから、嫌いになるわけないじゃないですか」

私は自分の思っていることを正直に口にした。

先輩はそれを聞くと優しく微笑んだ。
その頬に一筋の涙が伝う。

「…ありがとう、梓ちゃん」

そう言って、先輩は私の唇に自分の唇を重ねた。

柔らかい、濡れた感覚が私に伝わる。

二人だけの世界が、そこにはあった。

132 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:35:54.46 7a85sOFd0 60/112

―――数日後

あの日、遊園地の集団テロは警察の活躍により、犠牲者を一人も出さずに鎮圧した。
軽傷を負った人もいたが、幸いにも後遺症が残るような重度の被害者は出ず、
ゴーストをハッキングされたことによる障害もなかった。

ただ、純から聞いた話では本当に事態を解決に導いたのは警察ではなく、公安9課という
攻性の特殊治安部隊の暗躍によるものだということだ。
一体どこの情報ソースなんだか…

「梓ちゃん。はい、どうぞ」

あの出来事から、私はムギ先輩のことを常に考えるようになってしまった。
対する先輩は、前と変わらずに私に接する。

「…どうしたんだよ梓、ボーっとして」

「…へっ?べ、別にぼけっとなんてしてません!」

「そうかな?なんだか心ここにあらずって感じだよ~」

「そんなことないです……熱っ!」

「……大丈夫か?梓」

136 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:41:39.05 7a85sOFd0 61/112

「しっかりしてくれたまえよ梓君」

「すいません…」

「さてはあずにゃん、恋ですな!?」

「!!?」

こういう時の唯先輩の謎の鋭さには感心する。

「そうなのか?」

「ち、違います!私に好きな人なんか…」

「その割には顔が真っ赤だぞ」

「これは…その…
  そ、そんなことより練習です!そうしましょう!」

「ごまかした…まさか本当に…!」

「だーっ!違いますってば!」

「梓が怒ったぞ~」

137 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:43:55.66 7a85sOFd0 62/112

「まあまあ、梓ちゃんがかわいそうよ」

「ムギ先輩…」

「…オホン。ま、ふざけるのはこれくらいにして…」

「澪もノったくせに…」

「うるさい。とりあえずもうすぐ夏休みだ。
  私たちも今年は受験勉強があるし、軽音部の活動は少なくなる」

「こんなクソ暑いなか学校なんて行きたくないしな」

「今までより練習する時間が少なくなると思うけど、夏休みが明けたら学園祭がある。
  あんまり楽器の練習をしてないと学園祭に間に合わなくなるかもしれないから、
  各自しっかり練習しておくように!」

「大丈夫だよぉ澪ちゃん。私毎日ギー太に触ってるから」

「触ってるだけじゃ意味ないですから…それに唯先輩はちゃんと立って弾く練習をしないと
  本番で思うように弾けなくなりますよ」

「心配すんなって!こんなんでも今までのライブは成功してたんだしさ!」

「でも今年のライブは先輩方にとって最後なんですよ!?
  確かに勉強も大事ですけど、もっと真剣になって下さい!」

「ん……まあ、それもそうだけどさ」

「梓の言うとおりだ。私たちにとって最後のライブ、悔いのないようにしよう」

138 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:46:59.81 7a85sOFd0 63/112

「そうね…最後の学園祭なのよね…」

最後の、という言葉を強く印象付けるようにムギ先輩は呟いた。
私だって出来ればずっと軽音部でバンドをやり続けたい。
だけどそんなことは不可能なんだ。

「そうだよね…。うん、わたし頑張る!」

唯先輩のやる気に火がついたようだ。
律先輩もやれやれ、という仕草をしたけど、その顔はやる気が垣間見える。

「よし。じゃあ今日はこれで解散だな」


帰り道。

私と唯先輩、そしてムギ先輩は楽しくおしゃべりしながら歩いていた。

139 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:51:54.36 7a85sOFd0 64/112

「帰ったら猛練習だねっ」

「唯先輩、勉強は大丈夫なんですか?」

「あ、そういえば勉強もしなくちゃ」

「ふふっ。唯ちゃんったら、何か一つに全力投球したら他のことは目に入らないものね」

「その極端さがまた唯先輩らしいです…」

「ムギちゃんとあずにゃんは楽器も上手いし、勉強も出来て羨ましいなぁ~」

「そんなことないですよ」


こんな風に私たちは他愛もないことをずっと話していた。

でも時々、ムギ先輩の顔に暗い影が落ちるのを私は見逃さなかった。

最近、部活中でも発見することがある。

ムギ先輩が、私たちでない何か別のものを見つめているような…

私がそれに気付くのは、決まって学園祭や卒業の話をしている時だった。

140 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 21:56:44.00 7a85sOFd0 65/112


 ○   ○   ○

―――時は一息に飛び、秋が終わり肌寒さを感じる季節

放課後ティータイムの学園祭ライブは大成功のまま幕を下ろした。

梓は学園祭が終わった後、達成感と充実感で放心状態の日が続いた。

それほどまでに素晴らしいライブだった。


軽音部の3年生は引退し、本格的に受験勉強に取り組んでいる。

しかし引退したとはいっても、ほぼ毎日部室で変わらず紬の淹れるお茶を飲み、

お菓子をほおばりながら勉強している。


梓はせめて勉強の邪魔にならないようにと気を使っていたが、

3年生たちは勉強の合間に楽器に触れては軽く演奏するので

次第に梓も遠慮がなくなり、結局いつもの部活のように過ごしてしまうことが多かった。


梓は寂しいとは思わなかった。

ただし、先輩が卒業した後のことを考えると、不安でたまらなくなるのだった。

144 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:07:23.54 7a85sOFd0 66/112

「なあムギ、この問題なんだけどさ…」

「どれ?ああ、これは確か…」

「律、あんまり人に頼ってばかりじゃ実力つかないぞ」

「分かんないことは人に聞けってな。ばあちゃんがそう言ってたぜ」

「それとこれとは話が違うだろ」

「…ごめんなさいりっちゃん。この問題、私も分からないわ…」

「なに、そうか…」

「自力で解いた方が身につくぞ」

「う~む、こうなったら最後の手段!答えを見る…」

「余計に駄目だ!」

「あははは、りっちゃんズルはよくないよ~」


澪が律の頭を叩く。

見慣れた光景だが、梓はいつもと違う姿があることに気付いた。

(ムギ先輩、最近なんだか元気がないな…どうしたんだろう?)

146 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:12:00.02 7a85sOFd0 67/112

梓は、学園祭が終わってから紬の様子がおかしいことに気付いていた。

唯たちが3年生になってからの紬は、時々さびしい表情を見せることはあっても
基本的には明るく優しい、そして軽音部を心から楽しんでいる人だった。

しかし学園祭後の紬は明らかに気分が落ち込んでいるように見えた。

引退したとはいえ実際はいつもどおりの軽音部。
紬以外の3年生は以前と変わらずに過ごしているのに比べ、
紬一人だけ寂しげで、悲しみの表情を隠せないでいた。



あの遊園地での出来事から梓は常に紬のことを気にしていた。

この軽音部の中で、紬の真実を知っているのは梓だけだ。

梓はあの日の紬との会話を思い出す。

147 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:16:01.35 7a85sOFd0 68/112

(ムギ先輩はあの日、自分の体が全身義体であることを私に話してくれた。
  なんで先輩はあの時、泣いたんだろう…?嬉しかったのかな…それとも悲しかったのかな…)

梓にはあの涙の意味が分からなかった。

紬の体について知ることは出来ても、紬という人間のことはまるで分からないままだった。


(それに…先輩は私にキスをしてくれた。
  なのに先輩はその後、何もなかったように私に接している。
  私はムギ先輩を見ていたのに、先輩は私を見てくれていなかったの?)


梓は、軽音部で独り寂しさにとらわれている紬に気付いても、何も出来なかった。

自分から声をかけることも、紬の気持ちを理解することも…。

148 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:19:24.22 7a85sOFd0 69/112

時は容赦なく過ぎていく。


梓の心にわだかまりを抱えたまま冬休みが過ぎ、
唯たちは本格的に受験に専念するため、部室へ訪れる頻度もめっきり減った。

日が経つにつれて梓は実感する。


――ああ、私、独りになっちゃうんだな。


5人でいる時は、そんなことは思わなかった。

しかし、いざ3年生が自分の近くに居ないと、どうしようもなく寂しくなる。


(…でも寂しいのは私だけじゃないんだ。先輩方だって分かってるはず…)

梓は3年生の前で悲しむ素振りはしないと決めた。

最後は笑って見送ろうと。

149 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:21:45.54 7a85sOFd0 70/112


―――凍りつくような冬の寒さを感じる時期

唯たち3年生は全員、第一志望の大学に合格した。

梓もわが身のことのように喜び、はしゃいだ。


残すところは卒業式だけ。

受験のしがらみから解放された唯たちは、悔いのないように精一杯
最後の学校生活を楽しんでいた。




そんなある日、梓が放課後に部室へ行くために階段を上っていると、

どこからか音が聞こえてきた。

150 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:24:50.34 7a85sOFd0 71/112

(…?ピアノの音…)

梓が部室の前で立ち止まる。

聞こえてくるのは、隣の音楽室からだ。

念のため梓は部室を覗くが誰もいない。

(誰だろう…放課後は音楽室は使われていないはず)

梓は無意識に音楽室の扉を開けた。



「…ムギ先輩?」



そこには、誰もいない音楽室で一心不乱にピアノを弾き続ける紬の姿があった。

汗をかき、息を荒くして目の前の鍵盤に夢中になっている。

扉を開けた梓の存在に全く気付いていないようだった。

151 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:29:48.06 7a85sOFd0 72/112

「………」

梓は紬の姿に見とれていた。

まるで狂ったように鍵盤を叩いている。

その目は見開き、全身に熱がこもっている。

普段の紬を知っている者なら、下手をすれば見苦しいとも取れるその姿に梓は心を奪われていた。


時に激しく、時になめらかに奏でられるピアノの旋律は美しく、

透き通った音が心地よく梓の脳を刺激する。


梓はこれが何の曲かは分からなかった。

初めて聞く曲。

それなのに、なぜか前から知っているような気がした。

152 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:33:55.54 7a85sOFd0 73/112

紬はひと時も休むことなくピアノを弾いていた。

豊かに変化していく曲調、見事にコントロールされたリズムとテンポ。

聞いている人の感情に直接訴えかけるような旋律に、

まるでストーリーを紡ぐかのような曲構成。


紬は笑っていた。

そして梓も、紬の喜びを全身に感じていた。


梓の目から自然と涙があふれる。

悲しくもないのに、なぜか涙が止まらなかった。



梓は気付き、理解した。

この曲が、紬という存在の全てを表現しているということを。

153 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:36:13.54 7a85sOFd0 74/112


「…表現の自由が、私を私という存在の限界に制約し続ける…」


演奏が止まった。

もしかしたら、この名もなき曲が終わりを迎えたのかもしれない。


紬が微動だにしないまま言葉を投げかける。

「梓ちゃんは、自分という存在を証明できる?」

「………」

梓は紬の問いの意味を上手く把握できなかった。

「私が私であるための証明…ゴーストを定義するための要素…」

「記憶とゴースト。人間が人間でいるために必要な二つの虚無、もしくは真実…」

「………」
  
「…私が卒業する前に、梓ちゃんに話しておきたいことがあるの」

154 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 22:37:58.07 7a85sOFd0 75/112

紬は口だけを動かしてしゃべり続けた。

「人は他人を介して始めて自己という概念を形成し、自己は記憶とゴーストによってその境界を作る」

「…いわゆる自己同一性とゴースト…梓ちゃんも知っているでしょう?」


梓は頷いた。




義体化と電脳化が進んだ現代において新たに考えられた「ゴースト」という概念。

一般的に人間は、自分が他の誰でもない自分であるという事実を確認するために様々な方法をとる。

最も分かりやすい方法は自分の姿形を確認することだが、
完全に義体化した人間にとってそれらは単なる工業製品にすぎない。

したがって、彼らは肉体的に自分が自分である確証を得る根拠が限りなく薄くなってしまう。

168 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 23:42:37.83 7a85sOFd0 76/112

完全義体化した人間は、自分が自分であるという事実を、肉体ではなく自身の精神に
その在り方を求めることになる。

しかし電脳化した人間はどうだろうか。

電脳化した人間は記憶や思考方法を外部にコピーすることができる。
また自身の記憶と思っていても、それが電脳ハックによって書き換えられた情報でないという確証はない。


自分が自分自身であるために最低限必要な物、またはその境界が

電脳化によって曖昧になってしまうという問題が浮き彫りになった現代において、

人間が本来的に持つ自我や意識、それらの複合系の現象である「自己同一性(アイデンティティ)」や

生命体の根源的な「魂」を表す言葉…。

それが「ゴースト」である


「…知っています。授業で習いました」

171 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 23:51:28.89 7a85sOFd0 77/112

紬は淡々と話を続けた。

「…自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要になる」

「他人との関わり、それを隔てるための顔や体、意識しない声、幼かったころの記憶……それだけじゃない。
  無限ともとれる膨大な要素の集合体の先に、私たちは存在する」

「梓ちゃんの存在を証明するための根拠を、梓ちゃんは知ってるかしら?」

紬はようやく梓の方を向いた。

「わたし…ムギ先輩が何を言っているのか、分かりません…」

梓は正直に答えた。


「わたしはね、梓ちゃん。過去の記憶がほとんどないの。
  これがどういう意味か、分かる?」

紬が問いかけた。

175 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 23:53:51.58 7a85sOFd0 78/112

「過去の記憶が…ない…?」

梓はショックを受けた。

紬の体が全身義体だと知らされた時のように、信じられないという思考だけが
梓の脳を支配していた。

「正確には高校入学以前の記憶がないの。
  前に梓ちゃんに話した新女子学院中学校のこととか、4歳からピアノを弾き始めたとか…
  記憶ではなく、記録として私の過去に残っている…」

「だから私の過去をどんなに探っても、断片的な点の情報しか記録されていない。
  それらの前後にあるはずの記憶…想い出と呼べるものが、私にはないの」

「だけど、私が桜ケ丘高校に入学してからははっきりと覚えている。
  そのなかでも軽音部での想い出は他の何物にも替えられない、大事な想い出…」

「そして、私にとって私が私たるべき存在の根拠はそこにあるの」


紬が立ち上がり、梓の目をまっすぐに見つめた。

梓はその感覚に覚えがあった。

遊園地での事件の後、紬が梓に義体であることを明かした、あの時と同じ感覚だ。

梓は吸い込まれるように紬の瞳を見つめ返す。

176 : 以下、名... - 2011/02/11(金) 23:59:49.13 7a85sOFd0 79/112

「それは、この軽音部での音楽活動であったり、皆とのティータイムであったり…
  そして梓ちゃんに対する特別な感情でもある」

紬は梓の方へ歩み寄って行った。


「梓ちゃんを想う時、私の心が、他の誰に対しても起き得ない特別な感情に支配される。
  自身と他人を隔てる境界を自ら破壊したくなる」

「梓ちゃんの奏でる音楽、梓ちゃんのさりげない動作のひとつひとつ、梓ちゃんの小柄な体…
  私と同じように義体化していながらも、その義体すら私の心を掴んで離さない」

紬は梓の目の前に立ち、言った


「私は、それが"好き"という思いなのだと気付いてしまったの」


梓は紬の瞳に映る自分を見ながら固まっていた。

心臓が激しく鼓動し、紬以外の景色が視界から消えさる。

178 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 00:04:48.41 tFQDbMz+0 80/112

二人はしばらく見つめあった。

梓は何か言わなければいけないと思いながらも、何を言えばいいのか分からない。

シンプルなはずの気持ちは、言葉によって伝えようもないほど梓の心で複雑に絡み合っている。

「…私は怖いの」

紬が静寂を破った。

「軽音部の想い出、梓ちゃんと過ごした2年間の想い出…
  私にとって、決して失いたくない、かけがえのない記憶」

「けれど、もしこのかけがえのない記憶が幻だとしたら?」


紬は表情を変えずに言った。


「…私は、怖いの…」

229 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 17:21:12.17 qyaDOLM80 81/112

「もしかしたら私は誰かによってプログラムされた、ゴーストのないただの人形かもしれない…」

「様々な機械によって塗り固められた体と、誰かによって組み立てられた電脳…
  本当は私という存在は、誰かによって定められた目的のために作りだされた、
  言わば偽物の生命体なのかもしれない…」

「それでなくても、偽りの記憶が自分自身を定義し得ないなら、私が私である根拠は
  ひどく弱々しいゴーストに委ねられてしまう」


「だから私は信じたいの」


紬が力強く言った。


「自分が自分であるための確たる証拠が、過去の記憶にはないということを」

「私が私であるために必要なことは、今現在の私の『意志』にあるということを」

「そしてその『意志』とは願いや希望、つまり自分自身の未来にあるということを…」

230 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 17:27:50.62 qyaDOLM80 82/112

「私は、梓ちゃんのことが『好き』」

紬は静かに言った。

「この特別な感情は決して失いたくない、私が私であるために大切なもの…」

「私の『意志』は、梓ちゃんとずっと一緒に居たいと願っている」

「そしてこの願いこそが、私が私であることの証明であり、
  結局自分と他者を分け隔てている事の根拠に他ならない…」

「…私の願いは他にもたくさんある。
  もっと軽音部にいたかった。
  もっとみんなとバンドをしていたかった。
  でも、そのどれも卒業してしまえば続かない…」

「私は、私の願いを叶えて初めて、信じることができる。
  自分が他の誰でもないオリジナルの自分であるということを…」


紬は梓をそっと抱いた。


「だから、梓ちゃんに私の願いを託すわ…」

「私が私であることを証明するために…」

「わたしと融合してほしいの」

234 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 17:33:57.52 qyaDOLM80 83/112

紬は梓を抱きしめたまま言った。

「……融合…?」

梓はやっとのことで口を開いた。

「そう。私の願い、つまり梓ちゃんとずっと一緒にいるという願いが叶った時、
  私は他の誰でもない自分に近づくことができる」

「…私の記憶とゴーストを、梓ちゃんに預けるわ」

「…それが、融合…」


梓は、紬の言う融合が具体的に何をもたらすのか
想像もつかなかった。


「融合したら、私たちはどうなるんですか?」

「それは私にも分からない。だけど安心して。
  私の電脳からゴーストと記憶を取り出して梓ちゃんの無意識階層に置いておくだけ。
  基本的に梓ちゃんがベースになるようにするから」


梓は抱きついたままの紬の顔を見れず、紬がどんな気持ちで
話しているのか分からなかった。

236 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 17:39:28.91 qyaDOLM80 84/112

「…待って下さい。それじゃあムギ先輩の体は、残った義体はどうするんですか?
  ムギ先輩は消えてしまうんですか?」

「私は消えないわ。残った体には、私の模擬人格のAIを格納しておくから
  私を構成していた義体と電脳は今まで通り私として振舞う」

「既に私の行動記録の全てをプログラムした電脳システムを作ってある。
  私の記憶とゴーストが外部に移動したときに起動するようにも設定してある」

「あとは梓ちゃんと融合するだけ…。
  今の私には梓ちゃんしか見えない。梓ちゃんでなければ駄目なの」


抱いていた腕を解き、紬が梓の目を見ながら言った。


「お願い梓ちゃん。これは私のわがままだけど、
  私のために……………お願い」

「………」


全てを知った梓は、紬の悩み、苦悩、葛藤する気持ちが、なんとなく理解できた。

全てを話してくれた紬が、梓だけを望んでいる紬が、自分と一緒になりたいと言っている。

そして何よりも梓は、自分が紬に求められていることが嬉しかった。

241 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 17:50:43.59 qyaDOLM80 85/112

融合した先がどうなるのか梓にも紬にも分からない。

だが、自分が紬の願いを聞き入れることで紬を救うことができるなら…

それに紬が卒業したら今までのように毎日会うことは出来なくなる。

独りで取り残されるくらいなら、紬と一緒になったほうが幸せだと梓は考えた。



「………分かりました。ムギ先輩の願いは、私の願いでもあります。
  それで先輩が答えを見つけてくれるのなら…」

「…ありがとう。梓ちゃん」


真剣な表情は崩れ、紬は幸せそうに微笑んだ。

「…最後は軽音部の部室でやりましょう。
  私のこの体ともお別れしなくちゃいけないから…」

梓は紬に連れられ、音楽準備室へと入っていった。



いつもと変わらない部室――

梓と紬は長椅子に隣同士で座り、お互いの外部端子にコードを刺した。

244 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:16:07.18 qyaDOLM80 86/112

二人とも正面を向き、電脳の接続へと集中した。

《梓ちゃんと話すのも、もしかしたらこれが最後になるのかもしれない》

《…!でも、ムギ先輩は私の中でずっと一緒にいてくれるんですよね?》

《そうね…。私は梓ちゃんの中で生き続けることになる。
  梓ちゃんは私を感じ、私は梓ちゃんを感じながら、ずっと一緒にいられるの》

《………》

梓は、自分の中に自分ではない誰かが存在するという感覚が想像もつかなかった。

しかし既に、梓は潜在的に紬を求めることを肯定していた。

自分が独りになってしまう不安が打ち消されることを望み、

より紬を理解できるという可能性に賭けて…

《…まずは私の記憶とともにゴーストをそっちへダイブさせるわ》

すると梓の電脳のゴースト障壁のすぐそばへ紬の意識が介入してきたことが感じられた。

このゴースト障壁を突破してしまえば、梓のゴーストに紬のゴーストも混ざることになる。

《…軽音部のみんなと放課後におしゃべりすることも、お菓子やお茶を楽しむことも、
  もうこれで出来なくなってしまうのね。
  私たち3年生が卒業してしまえば、この3年間は美しい想い出としてみんなの記憶に留まるだけになる…》

245 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:19:53.32 qyaDOLM80 87/112

《だけど私はちっとも後悔してないわ。私は十分、幸せだったもの…》

《ムギ先輩……》

《そしてこれからも…。梓ちゃん、今までありがとう》
  
《終わりじゃないんですよね?いつでも会えるんですよね?》

《うん。だからこれからもわたしのこと…宜しくね?》

紬のゴーストが梓のゴースト障壁に溶け込もうとしていた。

「……きっと、ムギ先輩は自分を見つけられると思います。私が保証します」

紬の意識が少しずつ電脳のネットワーク上から消えていく。

梓は震える声で隣に座る紬の義体に話しかけていた。

「先輩の優しさ、暖かさ、柔らかさ…私は知っています」

「他の誰よりもムギ先輩は私たち軽音部を愛してくれたことを知っています」

「先輩が毎日淹れてくれるお茶やお菓子、私たちのために作ってくれた曲の数々…」

「笑う顔、喜ぶ顔、私たちを想ってくれる気持ち、先輩の奏でる音楽…」

「その全てが私たちにとって大切なムギ先輩そのものでした。そしてこれからも…」

246 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:25:35.88 qyaDOLM80 88/112

紬の意識はもはや梓のゴーストとほぼ同化しつつあった。

「ムギ先輩!」

梓は叫んだ。

梓の中にいる紬の声が徐々に弱くなっていく。


《……ありがとう…………》

今にも消え入りそうな紬の意識が囁いた。




《…わたし…梓ちゃんを好きで……本当に良かった………》




「ムギ先輩!待って下さい!まだ私の気持ちを伝えていません!」

「私も、私だって……」


―――ムギ先輩のことが、大好きです――

247 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:28:17.57 qyaDOLM80 89/112

 ○   ○   ○

……さちゃん……ずさちゃん……!

―――誰かが呼んでいる

…あずさちゃん!起きて、梓ちゃん!

―――誰…?


「梓ちゃん!」


「………!」

梓は目を覚ました。
虚ろに瞳を泳がせ、ゆっくりと辺りを見回す。

「良かった!目を覚ましたのね!」

目の前には紬の姿があった。
梓は少しずつ意識を取り戻し、自分が眠っていたことに気がついた。

「私もさっき目を覚ました所なの。すぐ横で梓ちゃんも寝てたからびっくりしちゃった」

249 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:34:56.83 qyaDOLM80 90/112

「…ムギ先輩?」

梓はろれつの回らない口で声を出した。

「今日はもう誰も来ないわ。早く帰りましょう」

目の前の紬はそう言うと、鞄を持って部屋から出て行ってしまった。
梓は体を起こし、時計を見た。

(…私は確か、ムギ先輩と融合して…それから…)

上手く働かない頭で記憶を辿っていく。

(気付いたら眠っていた…。そしてムギ先輩に起こされた)

時間はそんなに経っていない。

―――あれは夢だったの?







251 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:43:08.31 qyaDOLM80 91/112

「…ムギ先輩?」

梓は自分に問いかけるように呟いた。

「そこにいるんですか?」

誰もいない部室に梓の声だけが響く。

(…融合は成功したの?)

梓はもう一度、自分の意識に耳を傾けた。

そして自分の中をどんなに探しても、紬の意識は見当たらなかった。



しかし梓は心で理解していたのだ。

今、自分の中に確実に紬がいるということを。

(私の中にムギ先輩を感じる…!どこにいるんですか?先輩…)



252 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:50:39.69 qyaDOLM80 92/112

梓がどれだけ意識を沈めても、居るはずの紬は何も答えなかった。

(先輩…私の声が聞こえますか?)

梓は紬の存在を確かに感じながらも近づくことさえできない。




それもそのはずだった。

紬のゴーストは、梓の意識の及ばない無意識階層の遥か下に存在していたのだ。

もはや紬のゴーストは誰にも認識されることはない。

宿主である梓でさえも、その存在だけをほのかに感じることしかできなかった。



融合が終わったいま、紬が紬であることは紬以外の誰にも証明して見せることが出来なくなってしまった。

254 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 18:58:35.82 qyaDOLM80 93/112

(そんな…!先輩は言ってたじゃないですか!私は消えないって…)

梓はなんとかして紬のゴーストを確かめようとした。

紬との会話を思い出す。

(…先輩は自分を証明するために私と融合したんだ。
  先輩が先輩であるために必要なこと…それを確認できれば!)


はっ、と梓は閃いた。


あの曲。

あの曲を弾くんだ。

そうすればムギ先輩は戻ってくる。


梓は急いで音楽室へ行った。

255 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 19:03:58.19 qyaDOLM80 94/112

梓はゆっくりとピアノの前に座った。


(聞こえていますか?ムギ先輩)

(あの曲を…先輩が弾いていたあの曲を今、私の体を使って弾いてください!)

梓は震える手で鍵盤に指を置いた。

体はその場でぴくりとも動かないのに、梓の額には汗がにじんでいた。


それでも紬は何も反応を示さない…

(先輩……)

梓が望みを捨てかけたその時だった。




ポロン…




257 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 19:08:58.86 qyaDOLM80 95/112

梓の指が、自然と白鍵に沈んだ。

「!」

梓は驚いた。
今のは自分の意志なのか、紬の意志なのか…
それ以上は続かず、また指は小刻みに震えたまま鍵盤を被っていた。

「………」

少し指に力を入れてみる。


ポロロン…


今度は並ぶように音が繋がった。

「…!」

次に梓は自分の思うように指を動かしてみた。

すると、今までピアノなんて弾いたこともなかったはずなのに
梓の指が自然な和音を作りだし、美しい旋律を奏で始めた。

258 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 19:11:21.72 qyaDOLM80 96/112

「……これは…」

梓は次にどの音を出せばいいか分かっていた。

鍵盤を押す力加減や抑揚、腕の動きの全てが今の梓には分かっていた。

自分の内側から音が溢れ出て来るように指先へ伝わる。

誰もいない音楽室で、梓は一人ピアノを鳴らし続けた。


「そこにいるのは……ムギ先輩なの?」

梓は呟いた。

「それとも、私……?」


梓は自らの体で奏でる曲が、紬がかつて演奏していた曲ではないことに気付いていた。

(これは…ムギ先輩の曲じゃない…)

しかし、梓はもう一つ気付いていた。
ひとりでに紡がれる自分の演奏が、紬のゴーストによるものだと。

(ムギ先輩は確かに私の中にいる…じゃあこの曲は誰の曲なの?)

259 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 19:13:43.92 qyaDOLM80 97/112

美しくも哀しい旋律は、梓を不安にさせた。

「これは、私の曲……?」

次第に曲は不協和音を織り交ぜ、不気味に膨らんでいく。

(違う…私の曲でもない…!?じゃあ……)

名もなき音楽を遮るように、梓ははっきりと口を開いた。



「そこにいるのは、誰?」



演奏が止まった。

梓の腕が、手が、指が、次に鳴らすべき音を見失ったのだ。



「……わたしは……誰?」




260 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 19:15:56.27 qyaDOLM80 98/112

ひとつ、梓は理解した。

紬がいなくなってしまったことを。


自分の中でしか感じることのできない紬の存在は、もはや
外の世界において消滅したと同義だった。

ゴーストの、実質的な消失――


「そんな……嘘……」




梓は理解した。

私は殺してしまったのだ。

琴吹紬という、一人の少女を…




「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」





267 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:18:19.44 qyaDOLM80 99/112


 ○   ○   ○

――月日は経ち、唯たちは卒業し梓は3年生になった。

放課後、帰り道。

「唯先輩たち、上手く大学でやってるかな?」

「一人暮らししてもう1カ月も経つんだし、もう特に心配する必要もなさそうだよ」

「…先輩の心配よりも梓。あんたはどうなのさ」

「え?なにが?」

「いや、ここんとこずっと落ち込んでたみたいだし…」

「…ごめんね、梓ちゃん。新入部員のこと…」

「ううん。憂たちが気にすることないよ」

「でも…」

「いいんだ。私はもう十分楽しんだから」

「……梓ちゃん、変わったね」

「…そうかな」

268 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:20:38.21 qyaDOLM80 100/112

「私もそう思う。なんか優しくなったというか…」

「もとは優しくなかったってわけ?」

「ち、違う違う!なんていうか、雰囲気が柔らかいというか…」

「………」

唯たちが卒業した後、軽音部には憂と純が加わり
軽音部は存続したかに思えた。

しかし、梓たちが3年生になっても新入部員は一人も訪れず
梓たちの必死の勧誘も虚しく、軽音部は廃部となってしまった。

「それに、なんだか色々と吹っ切れてるようにも見えるよ」

「まあね。悩んでてもしょうがないから」

「…寂しくないの?」

「……寂しくないよ。会おうと思えばいつだって先輩たちには会えるんだし。
  それに私、気付いたんだ」

「先輩たちと一緒じゃないと、駄目なんだって。
  意味がないんだって。だから今年の軽音部はもう、いいんだ」

「…そっか」

270 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:22:09.12 qyaDOLM80 101/112

「梓ちゃん、私たちもいるからね?」

「ありがとう、憂。心配しなくても私はもう大丈夫だよ」

梓は笑顔で言った。

「…やっぱり変わったよ」

「え?」

「いや、なんでもない!
  私んちこっちだから、二人ともまたね!」

純は道を曲がり、行ってしまった。

「…純ったら、変なの」

憂と梓の二人は特に会話することもなく、
ただ並んで歩いた。

「…じゃあ梓ちゃん、私こっちだから…」

憂が梓に別れを告げる。

「うん…バイバイ」

271 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:37:14.70 qyaDOLM80 102/112

(…寂しくない…私は寂しくなんか、ない)

梓は心の中でつぶやいた。



―――嘘。



梓はどうしようもなく孤独だった。

態度や口でごまかしていても、唯たちが卒業してから
梓の心にはぽっかりと穴が空いてしまっていたのだ。

そして何よりも梓は、紬を失ってしまったあの日から
毎日のように罪悪感に苛まれていた。

自分の中に居る、かつて好きだった人はもう私に微笑みかけてくれることはない…

優しい笑顔を向けてくれることもない…。

梓の好きだった紬は消えてしまったのだ。

272 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:40:18.25 qyaDOLM80 103/112

(…ムギ先輩のいない軽音部なんて、私には必要ない)

(ムギ先輩のいない毎日なんて、意味がない)


梓は失って初めて、自分がどれだけ紬を求めていたのかを思い知った。

紬が梓を求めていたように。

梓もまた、紬を求めていた。


紬があの時話してくれた事が、今の梓には良く分かる。

(先輩は私と一緒になることを望んだ。
  そしてそれが、自分が自分であることの証明だと言った…)

(ムギ先輩…私はもう一度、先輩の笑顔が見たい)

(もっとたくさんおしゃべりしたかった。もっと先輩の事を知りたかった)

(その願いが、私が私であるために必要なことなのに…)



―――私は誰?




274 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:45:01.79 qyaDOLM80 104/112



―――暗い闇


刺すような冷たさが足元の皮膚を伝わり、次第に体を蝕み始める









―――恐れ、不安、孤独…


そして、希望










275 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:50:00.41 qyaDOLM80 105/112



孤立した自己は自分と他者の境界を曖昧にする。



夜の海に静かに溶け込んでいく、体。



朽ちてゆく肉体はやがて、そこに宿るゴーストを解き放つ。



…先輩は、自分を見つけることが出来ましたか?



…私の声が、聞こえますか?




死が、梓を孤独から救う



―――幸せな死を

                              おわり。

276 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 20:50:40.78 qyaDOLM80 106/112
284 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 21:03:17.39 qyaDOLM80 107/112

梓とムギの物語はこれで終わりです。
支援していただいた方々、保守していただいた方々、ありがとうございました。
色々と不快な思いをさせてしまった方々、申し訳ありませんでした。

今回はけいおん!というアニメ、または原作における琴吹紬というキャラクターについて
自分なりに深く掘り下げてみようと試みた結果、たどりついた設定です。

ムギは一見、他のキャラよりも強固なアイデンティティを持っているようですが
(お金持ち、才色兼備、百合属性、世間知らずのお嬢様、作曲担当、お菓子やお茶の提供、眉毛etc…)
それらの要素の一つ一つは実は誰にでも取って変わることのできる、言わばストーリーを組み立てる記号にすぎません。
(もしくは萌えキャラとしての記号ともいえます)

要するに他の主要キャラに比べて、内面を彩る要素が薄いのが琴吹紬というキャラなのです。
過去の描写や心境の変化の描写が極端に少ないのもこのためで、下手をすればそれこそムギ自身には何の魅力もないとも考えられます。
(断じてそんなことはあり得ませんが。実際アニメをしっかり見てみると、ムギの内面の成長や心境の推移は長期的に描写されています)

軽音部におけるムギの立ち位置と視聴者から見るムギ像の両方から考察し、
それらに共通する琴吹紬のアイデンティティという観点から、攻殻機動隊の世界観を拝借するに至った次第です。

最も自分は、押井守の映画版とアニメSAC1期くらいしか知らないにわかなので、色々と間違っている所があるかもしれないです。

291 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 21:18:05.04 qyaDOLM80 108/112

それからこのストーリーはムギの自己同一性だけにスポットを当てているわけではなく、
軽音部という舞台を通して、人間が人間たるべき根拠をどうやって証明するのか、という問いを
個人的な価値観のもとに示しているつもりです。
これはGhost in the shellのテーマをそのまま流用しました。

紬は自己の証明が記憶ではなく「意志」によって定義されると考えます。
ちなみのこの「意志」がそもそも誰かによってプログラムされたAIなんじゃないか、という疑問もありますが
ここで言う「意志」とはより高度で多様な表現のことを指しています。

しかしGhost in the shellで人形使いが「たとえ記憶が幻の同義語であったとしても、人は記憶によって生きるものだ」
と言っているように、必ずしもムギの考えが一般に共通するとは言えません。
そこは人によって様々な解釈が可能であり、当然答えのようなものも存在しないと考えます。
(なんだかんだ言ってムギも、軽音部の楽しかった記憶にすがるように最後を迎えたわけですし)


ムギが梓と融合した後、ムギが自分が自分である根拠を見つけることができたのか、それは誰にも分かりません。
ただ個人的な解釈としては、ムギは梓とゴーストの境界をあいまいにしたことによって、逆説的に自分が自分である証拠を
見つけることができたのかもしれないと思っています。

またムギと融合した梓を見ても、それが中野梓なのか、琴吹紬なのか、またはそのどちらでもない新しいゴーストなのか
解釈はいろいろあると思います。

292 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 21:23:07.08 qyaDOLM80 109/112

EDテーマ的に選んだ曲ですが、分かる人は分かる通り、この物語にはエヴァの「他者と自分を隔てるもの」という
テーマも少し意識しています。
ゴーストの融合と人類補完計画って結構似ているような気がしたので…。
(攻殻の原作を読んだことがないので分かりませんが、自分はゴーストの融合が境界線を無くすことだと解釈してましたので)

ムギにも梓にも共通する点として、他者との関わりが自分にとって重要であるということが挙げられます。
ムギは梓や他の軽音部のメンバーとの関わりを何よりも大事にしているし、梓は求める他者(ムギ)を失うことにより
破滅への道を選んでしまう。

エヴァではリビドーとデストルドーがそれぞれ目に見えない心の壁や肉体的な境界を作りだしたり破壊したりしますが、
この場合はそれぞれがアイデンティティの創造と崩壊を指してるということです。

295 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 21:31:35.60 qyaDOLM80 110/112

それから少し解説ですが、遊園地で義体輸出の停止と電脳開発規制提案の凍結を要求したテロは
実は裏で琴吹商社の思惑が絡んでいたりします。
オーバーテクノロジーを搭載したムギのボディと電脳システムを何かしらに利用する目的で画策していたのかもしれません。
もちろん表向きは違う意味を持たせたテロ行為だったとは思いますが、
その辺は例の公安9課が真相を暴いてくれるでしょう。

ムギがテロと琴吹商社の関係を知っていたかどうかは定かではありませんが、
自分が少なからず利用されていたことは気付いていたと思います。

それも含めてムギが自分の存在に疑問を抱いていく過程の上に、軽音部という居場所が
重要な意味を持つというのがこのSSの一つの流れです。

294 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 21:30:32.41 WoIWXXxm0 111/112

おつでした
攻殻知らないけど楽しんで読めた
紬は自己の存在を確かめる為に梓と融合したってこと?なぜ融合せずに梓と一緒に生きていくという選択がなかったんだろうか
それを受け入れた梓もなぜ?と疑問に思う
でもとにかくおもしろかったよ

297 : 以下、名... - 2011/02/12(土) 21:41:19.28 qyaDOLM80 112/112

>>294
ムギは自分がいずれ誰かに利用される未来が見えていたから…と勝手に自分は思ってます
まあ、ムギの梓に対する究極の愛の証とも言えなくも…ない?
そして梓もそんなムギの想いを理解して、そのうえで自分のためにも融合を受け入れたわけです。

どちらにせよ、ムギも梓も割と身勝手な理由だったりするわけでして…
つじつま合わせというか後付けっぽいですが、その身勝手も自分の「意志」を表現したいがため、と考えてもいいのかもしれません

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