関連
フィアンマ「助けてくれると嬉しいのだが」トール「あん?」 #1 #2 #3 #4 #5 #6


1 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/06 22:11:39.60 2l3uVMit0 528/658


・フィアンマさんが女の子

・雷神右方

・キャラ崩壊、設定改変及び捏造注意

・時間軸不明、新約以降

・エログロ鬱シーンが時々あります


元スレ
トール「フィアンマ、か。……タイプの美人だ」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1399381899/

10 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/09 22:19:43.13 OJBg946x0 529/658


目が覚めて最初に目に入ったのは、白い天井だった。
病院のそれだな、とあまり思考せず判断する。
右手に何かが触れている、と次いで気がついた。
ちらり、と視線を寄越すと、手を握られている。
見間違えるなどありえない、彼女の手だった。

その手の、繋がる先。

腕から上半身へと視線を移していく。
彼女は、トールの手を握ったまま熟睡していた。
すぅ、すぅ、と小さな寝息が聞こえてくる。

「………」
「……」

意識朦朧としていたものの、彼女に運ばれたことは覚えている。
思い返すのは、未来の自分が語った、訪れるはずだった未来。

「……俺は、離さない」

握った手をそのままに、宣言する。
誰にともなく、未来の自分に、或いは、神様とやらに向かって。

11 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/09 22:20:28.34 OJBg946x0 530/658


「目が、覚めたのか」
「…俺、何日寝てた?」
「二日程だよ」

答えつつ、彼女が剥いているのは林檎だった。
左手は、繋いだ当時よりもずっとよく動く。
危なっかしい動き一つ見せずに、林檎を四等分にして。
プラスチック製のフォークを刺すと、フィアンマは彼の口元に運んだ。

「ん、」
「腕が折れているんだ、無理はしない方が良いだろう?」

言われるがまま、林檎を食べていく。
最後の一切れを口に入れたところで、ノックもなしにドアが開いた。

「…思っていたよりも平気そうだな」
「オティヌス。……『トール』は」
「ああ、ヤツなら元の世界に。私が手伝ったんだ、失敗はないだろう」
「……そうか」

疑わず、良かった、と彼女は笑みを浮かべた。
本来の彼女は、疑心暗鬼に囚われているような人間ではない。
素直で照れ屋な、ヤキモチ焼きの女の子でしかない。
だからこそ、オティヌスが一つだけ混ぜた嘘に気がつくことはなかった。
うっすらと真実を嗅ぎ分けたトールは、何も言わずに林檎を咀嚼する。

「見舞いだ。受け取れ」
「トールは今腕が折れている。俺様が受け取るよ」
「わかった」

はい、と彼女が手渡したのはお見舞い用のフルーツバスケット。
高級そうなフルーツがぎっしりと編みかごに入っている。
様子を見に来ただけなのか、彼女はそのまま病室を去っていった。

12 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/09 22:21:18.47 OJBg946x0 531/658


「良いな。良質だ」

真っ赤な林檎やら薄緑が鮮やかなマスカットを眺め、フィアンマは一度だけ頷く。
お見舞い返し、なんて概念が頭を過ぎったが、恐らくオティヌスはそれを望まないだろう。
彼女の居場所を沈黙することが、フィアンマにとっての贖罪であり返礼でもある。

「クソ、体痛ぇ……」
「リハビリするか? 体も鈍っていることだろうし」
「リハビリルームみたいなヤツあんの?」
「事前に申し込みが必要だったような気がするが…少し出てくる」

立ち上がり、彼女は病室のドアに手をかけて振り返り。

「何か飲み物でも買ってくるか?
 医者曰く大量に飲み食いしなければ何でも良いそうだが」
「……何か甘いやつ」
「……甘いもの?」
「好みってのは移るんだよ」

長く一緒に居る相手と、と付け加えたところ、彼女は笑みを浮かべて出て行った。
恐らく、自分の分は自分の分として、甘ったるそうなものを買ってくるだろう。
果物、と歓喜の反応を示していたので、林檎ジュース辺りだと予想する。

「……二日も寝てたのか」

太った訳でもないのに、身体が重い。
筋肉が落ちてしまったかもしれない、とぼんやり不安に思いながら、彼はベッド上で転がる。

13 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/09 22:21:59.08 OJBg946x0 532/658


自動販売機の説明書を読みつつ、フィアンマは眠い目を擦っていた。
彼が眠っている間、不安感から浅い眠りと覚醒を繰り返していた影響で疲れが抜けない。
しかし、彼をあのような状況に追いやった元凶は自分だ。
文句など言う権利はないし、言うつもりもない。

「………」

いかにも甘そうな市販品のクッキーを見ると、昔を思い出す。
幼い日々、『神の右席』に在籍していた頃のことを。

姉のようなヴェントと。
父のような教皇。
もう一人の父と呼べるテッラ。
兄と呼べるような存在だったアックア。

心地の良い日々を突き壊して、終いには自分の幸せだけ手に入れた。
トールはそれでも良いと言って受け入れてくれるが、やはりいけないことのような気がする。
かといって罰を受けに行けば極刑は免れない。
そうすれば、先日の事件のように、トールは狂ってしまうかもしれない。

進退窮する。

ヴェントは連絡が取れず、教皇は既に教皇をやめてしまっている。
テッラは死亡していて、連絡どうこうの話ではない。

となると。

「……アックア、に」

謝りに行ったら、殺されるだろうか。
すり替えた後の記憶内容、第三次世界大戦時に仕出かしたことを思えばそれも当然

思いつつ、彼女はジュースを手に取る。

14 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/09 22:22:42.98 OJBg946x0 533/658


「……は?」

トールの反応は、概ねフィアンマの予測通りだった。
イギリスに行きたい、と延べた結果である。

「アイツの処刑塔の話聞いて…なかったか。
 イギリスなんざ、最もお前を処刑したい国だろ」
「それはそうだが」
「今は第四次世界大戦中だ。イギリスも当然参加してる」
「……に」
「……あん?」
「アックアに、…せめて一言謝罪を……」
「……それは、命を賭けてまで今やらなきゃならねえことなのか?」
「ヤツは傭兵だ。……俺様が聖人を下回る状態にしてしまった。
 この戦争にも当然参戦していることだろう。死んでからでは遅い」
「殺されたらどうすんだ」
「トールは俺様の味方なんだろう?」
「………あのなあ」

呆れた様子で、トールは深々とため息をつく。
それから、ゆっくりと深呼吸をして。

「ま、俺も参戦して戦いたいしな。リハビリも含めて」
「…感謝する」
「ああそうだ、言い忘れてた」

15 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/09 22:23:39.62 OJBg946x0 534/658


両腕が使えないため彼女にジュースを飲ませてもらい、飲み干したところで。
トールは彼女を見つめ、至極真面目な表情を浮かべ。

「…言いすぎた。ごめんな」
「……俺様の方こそ、…言ってはならないことを口にした。
 思ってもいないことだったが、口を突いて出たというのは弁解にはならない。
 すまなかった。……飛び出したりしなければ、こんなことには」
「その辺りは何とも言えねえな。攫いに来たかもしれねえし。
 ……一つ聞いておくけど、何もされてねえよな?」
「…………」
「……おい?」
「……恐らく、は?」

押し倒された程度のような、と思うものの。
口に出すと明らかにキレそうだったので、フィアンマは黙っておくことにした。
抱きしめられた、なんて話してもやはり怒りそうだったから。

「イギリスに行くのは、トールが全快してからの話だ。
 両腕がよくなるには時間がかかる」
「もうくっつき始めてはいるんだろ?」
「俺様も多少の治癒は施した。完治に要するのは…一週間程度かな?」
「もうちょい早めてくれよ」
「早死にしたいのか?」

自己治癒力を促し過ぎるのは身体に悪い。
ふるふると首を横に振り、彼女は編みかごに手を伸ばす。

「謝るの、辛くないのかよ」

トールには、彼らの記憶を消したことを、話している。
その事実を踏まえての質問に、フィアンマは息を吐き。

「……辛いことと、向き合う。
 トールが居るから、どれだけ苦しんでも、俺様は大丈夫だ」
「…そっか」
「そもそも、俺様がどこか被害者面をしているのも本来はおかしい。
 記憶を消されたのは彼らで、……俺様に殺されたのも、彼らなのだから」

24 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/17 23:41:09.72 jR4Y4T3M0 535/658


骨折自体は良くなったものの。
だからといって万全に動けるかといえばそうではなく。
トールは現在、地道なリハビリに取り組んでいた。
ぎこちなく動く手腕にはイライラとさせられる。
元より、トールという少年はさほど気が長い方ではない。
お世辞にものんびり屋とは言えないタイプだ。

「……あー、クソ」

積み木を崩し、彼はばたりとテーブルに上体を倒す。
細かい作業が嫌いという訳ではないが、指がまともに動かない。
こんなことならもう少し身体を温存して戦うべきだったか。
しかし、あの鬼気迫る戦場でそんな余裕はなかった。

つまり、未来の自分はあんな風に強くなるのか。

それはとても魅力的に感じるが、表面的なものだ。
あの強さは、『喪失感』を補填するために得たものであって。

「休憩にするか?」
「おー……」

目の前で笑っているこの少女を捧げても手に入れたい強さかというと、そんなことは決して無い。

25 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/17 23:41:37.27 jR4Y4T3M0 536/658


丁寧に積み木を積む細い指を眺め。
フィアンマはジュースを飲み、手伝うでもなくトールを応援していた。
たとえ好きな相手であろうとも、何もかも手伝っては意味がない。
リハビリというものは基本的に辛いものだが、彼ならば耐えられると信じている。

「フィアンマは、こういう遊びはしたのか?」
「ん? 昔か?」
「そ。何かそういう子供っぽい遊びのイメージないからな」
「あまり経験は無い。パズルならばあるが」
「へえ。……何食ってんの?」
「全粒粉チョコレートクッキーだが」
「俺も食う」
「………あー…ん」

個装の、大きなクッキー。
パキパキ、と何度か手折って分割し、彼女は一欠片取り出す。
口元に運んでもらい、積み木を積みながらトールはクッキーを口にした。

「……思いのほかボソボソしてんな、コレ」
「安いという理由で買ったんだ。…確かにさほど美味ではない」

全粒粉は健康に良いのだったか、と彼女は首を傾げてクッキーを食べる。
以前よりお菓子に煩くなくなったのは、普通の食べ物を身体が受け付けるようになったからだろう。
本質的に、彼女は偏食者ではない。

「後もう一息だな。…ふー」

息を吹きかけられた積み木が揺れ、

「……今のわざとだろ?」
「完成したらそれで終わりとしてしまうだろう」

にっこり。

恐ろしく美しい笑みに項垂れ、トールは積み木を積む。
惚れた弱味というやつだった。何をされようとぶん殴ったり出来ない。

26 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/17 23:42:27.06 jR4Y4T3M0 537/658


「これは?」
「二本」
「………これは?」
「ご……三本。引っ掛ける意味あったのか、今の」
「とっさの判断能力と動体視力を見ようと思ったんだ」

戦闘中に頭を打ったということもあり。
フィアンマは握り拳から指を伸ばし、それが何本か、というテストをしていた。
トールは見たままに、二本、三本と回答している。
どうやら問題はなさそうだ、と彼女はほっと胸をなで下ろし。

「脚は問題ないのか」
「ああ、歩くのは。走るのは体力が保たねえ」

体力作りもしなければ、とため息をつき。
トールはベッドから降りて立ち上がり、窓の外を見た。

「良い天気だな」
「ああ。………此処は戦地から遠い病院だし、平和だ」
「これから中心地に行くことになるんだけどな」

ぽん、と彼女の頭を一度だけ撫で、トールは服を手に取る。
入院患者用のパジャマのボタンを緩め。

「支払い諸々はもう済ませたんだろ」
「それは、そうだが。……本当に、もう行っても大丈夫なのか」
「勿論。……あー、でも仮眠してから行くか」

服を元の場所に戻し、思い立ったようにそう告げて。
彼はベッドに再度横たわり、彼女を見上げた。

「お前も寝る?」
「んー。…俺様は起きてる」

27 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/17 23:42:58.48 jR4Y4T3M0 538/658


眠る。
浅い眠りは深い眠りへ。
意識は、階段を下るが如く霧散する。
ぼんやりと浮かびくる、夢。
それは時として神様からの神託であり。

類似の世界を垣間見る時間なのかもしれない。

かつて、トールがオティヌスと共に巡った地獄のように。
夢という曖昧な意識のみの状態に、身体の在処は関係ない。

28 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/17 23:44:18.09 jR4Y4T3M0 539/658


『あしが、いたい』

か細い声だった。
紛れもなく、フィアンマの声である。
トールが近寄ろうとした途端、ドアが開く。
入ってきたのは、ウートガルザロキだった。
いつもばっちりと決めている髪は下ろされていて。
服装はワイシャツとシンプルなズボンのみで、お洒落という概念はそこになかった。

『フィアンマちゃん』

近づいて、彼は彼女の横になっているベッド脇に膝をつく。
懺悔をするような形で、彼女の手を握った。

『好きだよ』
『……うん、…俺様も、うーとがすきだよ…』

毛布の下がどうなっているのかはわからない。
ただ、彼女の両脚に何かがあったことは確実だった。
泣きそうな声で『すき』、と繰り返し、フィアンマは彼の頬に手を伸ばす。

『ウート、……きす…して欲しい』
『………俺で、いいの?』
『……ん』


今にも死んでしまいそうな表情で、声音で。
くちづけをねだる彼女は、儚かった。

目の前で、二人はキスをする。

映画の中のワンシーンのように、緩やかな口付け。
綺麗で、出来すぎていて、完成されている。

『ウート、』

病床の彼女は、愛おしそうに彼を見上げていた。
薄く笑んで、彼の身体を抱きしめる。
告白の言葉を何度も繰り返しながら、飽きもせず。

29 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/17 23:45:01.53 jR4Y4T3M0 540/658


「………すごい冷や汗だな」

眠るトールの様子を眺め、フィアンマはぽつりと呟いた。
起こすべきなのかどうか、判断に迷う。
ひとまず手近なタオルで彼の顔や首を拭いたが、汗は止まらない。

「…………」

寝付いたと思えば。
夢見が悪いのだろうか、と首を傾げ。
彼女は手を伸ばし、トールの身体を揺さぶることにした。
本当はほぼ起きかけの状態に優しく声をかけて起こすのが好ましい。
好ましいのだが、そんなことを言っていると彼の夢見はますます悪くなるだろう。

「トール」
「う……」

反吐が出る、とでも言わんばかりの表情を浮かべ。
彼は目を覚ますと同時、だいぶ強引に彼女の手を引っ張った。
思い切り倒れこむ彼女を毛布の中に引きずり込む。
ホラー映画さながらの強引さに狼狽しながらも、彼女はトールを見た。

「ふ、」
「…ん」

抱きしめられ、口づけられる。

「ん、ん、」

それも、なかなか長い。
何かを探るかのように、舌が入ってくる。
くすぐったく、官能的で、動揺せざるを得ない。

30 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/17 23:45:31.70 jR4Y4T3M0 541/658


淫夢でも見たのか。
それならば、こんな怒った顔ではないはずだ。
自分が浮気する夢でも見たのかもしれない。
こんなに独占欲が強い男だっただろうかと疑問は残るけれど。
とはいえ、先日のトールを見やれば、自分を喪っただけで彼はおかしくなる。
それを考えると、なかなかに独占欲は強いタイプなのかもしれない。

「ふ、ふぁ…」

何十回何百回と口内を蹂躙されながら、フィアンマはそんなことを考えていた。
息苦しさに突っぱねようとした手首を掴まれ、更に深く口づけられる。
少し催すものがあったが、そこは貞淑に足をもじつかせることで我慢した。
病院でそういうことをするのは若干いただけない。

「は、」
「ふ、……げほ、」
「………」

長いキスが終わり、抱きしめられる。
骨を折られるのでは、と不安になる程強い力だった。

「………」
「………」

トールは終始沈黙している。
『俺のものだ』、と誰かに宣言するかの如く、腕の力は緩まない。

「……トール」
「…………」
「……トール」
「…………」
「……俺様はトールの恋人だよ」

ほんの少し、力が緩まる。
抱きしめ返し、今度はフィアンマがふて寝をする番だった。

36 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/18 23:33:08.98 xF520frv0 542/658


すっかり正午を過ぎてしまった。
医者に別れを告げ、二人で外へ出る。
金こそあるものの、荷物は何もない。
ホテルに置いてきてしまったし、取りに行くのは面倒だ。
本当に大切なものは身につけてあるので、無くすことはない。

写真だとか。
指輪だとか。
プレゼントだとか。

そういうものは、いつだって手元にある。

「んじゃ、イギリス向かうか。…腹減ったな」
「今の内に何か食べておいた方が良いんじゃないか?」
「流石にクッキーだけじゃ足りないな…」

きょろ。

営業しているのはファーストフード店。
以前、激辛バーガーを食べて二人で四苦八苦した店の、系列店だった。

「今日は、冒険せずに食事を済ませよう」
「ああ、そうだな。今日はお遊びナシだ」

37 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/18 23:34:44.99 xF520frv0 543/658


「んで、相手方が何処に居るかは掴めてんの?」
「サーチをかけた。大まかな範囲は掴めている」
「…初っ端から斬りかかってきたら?」
「……どうしよう?」
「フィアンマ、お前そんなに頭弱い子だったっけ」
「少なくとも初撃では倒されんよ。ヤツも一般魔術師以下の存在だ」

緩く首を横に振り、チーズバーガーを食べる。
こってりと濃厚なチーズソースが口の中に広がった。
塩気が過ぎる、と感じつつ甘いジュースと水を交互に口にして。
フィアンマはトールの言葉に逐一回答し、欠伸を噛み殺した。
先程までのふて寝が響いているのか、未だちょっぴり眠かったりする。

「なら、そのまま向かっちまうか。飯終わったら」
「ん」

くしゃ、と食べ終わったゴミを握りつぶし。
フィアンマは視線を落とし、息を吸い込んだ。
緊張する。面と向かった謝罪など、あまりしてこなかったから。

「……どのみち何も覚えてはいないんだ。緊張する必要も、あるまい」
「あんまり重く考え過ぎんな。何も、それがフィアンマの全てって訳じゃねえ。だろ?」
「わかってはいるのだが」

でもやっぱり緊張する。

冷えかけているポテトをつまみ、息と共に呑み込む。

38 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/18 23:35:24.00 xF520frv0 544/658


イギリスは生憎の雨だった。
所々が焼け野原になってしまっている。
爆撃は一時止んでいるようだった。

「……」

自分が、間接的な戦争の原因かと思うと気が滅入る。
ただ、これに関して事情を理解している人間は少ない。
一から十まで説明したとして、その内の一体何人が信じるだろう。

「……久しいな」
「………」

男が立っていた。
こちらを真っ直ぐに見据える身体に、衰えは感じられない。
だが、先の戦争で、学園都市への派遣で、彼の身体はボロボロだ。
自分がそのように仕向けてしまった。

「少しは表情に変化を加えたらどうだ。
 ………今日、俺様がお前に会いに来た理由は他でもない」
「………話すが良い」
「………謝罪の為だ」

傘を、握り締める。
目の前の男は、相変わらず寡黙だ。
纏う雰囲気は堅く、静か。

「様々あるが、先んじて直近のことを。
 ……聖人としての力全てを喪わせてしまったことを、申し訳なく思う」
「………」
「……学園都市へ向かわせたことも。
 それから、…………お前の、記憶を」

39 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/18 23:36:02.49 xF520frv0 545/658


記憶を、消してしまったこと。
記憶を消すということは、殺すことと同義。
それまでのウィリアム=オルウェルという男の人生の一部を穢したことと同じ。

「俺様との関係性を塗り替えた」

より淡白な関係へと。
優しさも幸せも無かったと、そんな残酷なものに。

「謝罪したところでどうにもならないし、これは俺様の落ち度で、身勝手だ」

後悔していない訳ではない。
だが、加害者たる自分が被害者面をしてはならない。
これは区切りで、アックアにとっては戸惑いしかないだろう。
思いながらも、フィアンマは傘をトールに預けて頭を下げた。
びしょびしょに濡れていく服が、体温を奪う。

「………フィアンマ」

無骨な手が、頭に触れた。
このまま殺されるだろうか、とふと思い浮かんで、笑みさえ零れ出た。
謝罪したからどうだというのだ、という自嘲の思いが胸を締め付ける。

40 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/18 23:36:58.33 xF520frv0 546/658


「全ての選択権は私にあった。貴様が気負うことではないのである」
「だが、」
「それに加え」

ぐしゃ、と一度だけ乱暴に撫でられ、手を引かれる。
彼の声音は、珍しく狼狽しているように感じられた。
自分の謝罪があまりにも意外だったから、だろうか。
背後で、トールが警戒していることを感じ取る。

「そもそも私の記憶は、既に取り戻されている」
「……………。…………え?」
「ロシア雪原。私は一度死の淵を彷徨った。
 幾ら貴様といえど、記憶消去術の専門家ではあるまい。
 死の淵に立った時、自然と偽りの記憶の上から正しい歴史が加えられた。
 無論、貴様に関する事全て。その後ろの少年との戦闘に関する仔細たる情報も、である」
「………」
「ヴェントに関しては確認してはいないが、彼女も死の淵に立った身である。
 私と同じ術式を同じ度合いでかけたのであれば、恐らく解けていることであろう。
 彼女の性格から鑑みると、貴様に何度か連絡を試みているように思うが、連絡はなかったのであるか」
「……………お」
「……」
「…………俺様のシリアスな回想と反省は…?」
「知らぬ事情であるな。貴様の問題であろう」

やれやれ、と呆れた顔をされる。
泣きそうな、笑ってしまいそうな曖昧な表情で、フィアンマはアックアの腕をぺちりと叩いた。

「何だ………、…俺様の計画は、抜けばかりだったのか…」
「その様である」
「………なあ、解決したのか?」
「……自分が思っていたよりも無能で、失望したと同時に嬉しく思うよ。…ありがとう、トール」

48 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/28 22:07:54.64 lMiot1GF0 547/658


ヴェントも、思い出しているのかもしれない。

アックアの推測に、フィアンマはほんの少し、救われる。
勿論、彼らの記憶を一度殺した罪は大きい。
そんなことをしなければ、死ななかった人間が多く居たはずだ。
許しを請うたところで、自分が楽になるだけで。

「少年」
「あん?」

さり際。
どこか優しい光を湛えた男に呼び止められ、トールは振り返る。
フィアンマには聞こえなかったようで、彼女の歩みは止まらない。

「あの子を、頼むのである」
「……言われるまでもねえさ」

トールには、フィアンマが記憶を消す前に過ごした右席達との思い出などわからない。
そして、わからないからこそ、素晴らしいと思っている。
自分の交わっていない幸せがなければ、彼女は自分を喪ったときに崩壊してしまうだろうから。
その点に関して言えば、彼女以外の人との関わりに幸福を見出したことない自分には欠陥がある。
だからこそ彼女を喪うことを異常に恐れ、とある可能性では世界を滅ぼした。

「…何とかしねえとな」

ペットでも飼うか、とぼんやり思う。
彼女も自分も、もう追われてはいないから。

49 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/28 22:08:26.30 lMiot1GF0 548/658


「他に謝罪相手は?」

どうせならまとめて終わらせてしまおう、と思ったトールが質問する。
所謂相合傘をしてもらいながら、彼女は首をかしげて悩み。

「……禁書目録、かな?」
「学園都市か…」
「入ることは難しくないが…」
「ないが?」
「問題は会ってくれるかどうかだな。
 そもそも、上条当麻と共に出て行ってしまっているかもしれん」
「どっちかっていうと待機してんじゃなかったっけ」
「んー」

ひとまず学園都市に向かってみるのも悪くはない。
彼女が尻ごんでいるのは、正確にはインデックスの件ではなく。

「…右腕を」
「……ああ」

学園都市統括理事長のことだ。

トラウマ、という程ではない。
だが、腕を斬られたという衝撃は、記憶から消えない。

「なら、通信でもすりゃ良いんじゃねえの」
「通信? 禁書目録は自力で魔力を練ることは」
「そうじゃなくてさ」

ほら、とトールがポケットから取り出したもの。

ケータイデンワー。

文明の利器である。

「これ使えば良いだろ。危険を犯す必要があるか?」

50 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/28 22:09:10.65 lMiot1GF0 549/658


「も、………もしゅも」
『もしもし、フィアンマか?
 何緊張してるんだよ。っていうか番号、やっぱり知ってたんだな。
 携帯は何度か変わったけど、番号引き継いでて良かった。何か用か?』
「んん。………禁書目録は居るのか?」
『おお、隣でお菓子食べてるよ。ちょっと待ってろ。おーい、インデックスー』
『なにとうまー、今忙しいかもー』
『お菓子食べてるだけだろ! インデックス相手に電話』
『私に電話? 珍しいかも。あいさ?』
『いや、違う人。でも、インデックスは知ってるはずだぞ』
『ひょうか? じゃない感じだね。えーと、どうやって出るの? ぼたん押すの?』
『ボタン押したら切れちゃうだろ!』

もうこのまま切りたい。
緊張よりも疲れの方が大きく、フィアンマは脚をパタつかせる。
トールはというと、暇を持て余す為にストールを手洗いしていた。
意外と家庭的な男である。

『も、もしもし! 聞こえてる!?』
「ああ。……久しいな」
『………あなたは』

彼女は完全記憶能力者だ。
故に、自分の事、自分が彼女にした悪行を決して忘れられない。
どんな罵倒がくるだろうか、と思い。
深呼吸をし、フィアンマは携帯電話を握りなおす。

『右方のフィアンマ、……の妹さん…かも?』
「………そういえばそうだったな」

変装術式を使っていたので、多少の差異があったのだった。
適切に説明した後、謝罪の言葉を告げる。
彼女は、たっぷりの沈黙の後に

51 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/28 22:09:37.86 lMiot1GF0 550/658


『とうまは、あなたを許したの?』
 

52 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/28 22:10:11.99 lMiot1GF0 551/658


その一言だけを、問いかけた。
そうだよ、と肯定した。
実際、彼は自分を怒ってはいないだろう。
以前の『彼』に至っては、完全に。

『じゃあ、私が怒る理由はないかも』

自分の為に奔走した少年が許したというのなら。
修道女たる自分が、なおさら許さないということは有り得ない。

『謝るってことは、もう二度と、同じことはしないよね?』

彼女はそう言って、電話口の向こう側で微笑んだ。
そんな気配を感じ取りながら、もう一度だけ謝罪をする。

『私の魔法名は"献身的な子羊は強者の知識を守る(dedicatus545)"。
 あなたはあの時、確かに強者で、尚且つ知識を求めていた。
 だとすれば、仕方がないことなんだよ。私は、そのために居るんだもん』

上条との日常に戻ったから、もう良いのだと。

彼女はそう、優しく言った。
礼の言葉を告げて、通話を終える。

「……終わったのか? 清算」
「……俺様が思っていたより、世界は優しいようだ」

53 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/28 22:11:15.39 lMiot1GF0 552/658


トールの膝の間に座り、後ろにもたれかかる。
体重をかけて意地悪をしても、彼は少し笑うだけだ。

「………」
「……急に謝りたくなったな。やっぱ『俺』の影響か?」
「…それも、ある。幸せで、今生きていることに対して、だ」

元の世界に還ったという彼にこそ、もっと謝罪をするべきだった。
同時に、感謝の言葉ももっとかけておくべきだったと思う。
何もかもが過去形なのは、もう二度と彼とは会えないだろうと感じるから。

「俺様が殺されると、トールはああなるのだな」
「必ずしも、って訳じゃねえだろうが…多分、なるだろうな」

それ程までに、自分の根幹に彼女を置いてしまった。
それを後悔したことはないけれど、時々怖く思う。

「費やした努力の絶対量の関係かね」
「つまり好意ではなく財産に対する執着だと」
「そういうことじゃねえよ。ただ、普通の男女関係とは違うだろ」

あまりにも違って、入り組んだ事情ばかりだ。
彼女は嘘をつき、随分と遠回りをした。

「だからさ、……俺の労力を思うなら、勝手に罰を受けに行くなよ」
「俺様は、お前の隣に居るよ。……命の許される限り、ずっと。
 それで、トールが幸せだと思えるのなら」
「俺が不幸になると思ったら、離れるのかよ」
「俺様は、トールに今現在の人生を貰った。……何度も喪ったものだ」
「…ま、お前が居なくなった方が幸せだと思う日なんざ来ないだろうけどよ」

もう少し追いすがっても良いのでは、という態度を眺め。
実際にそうなったらみっともなく追いすがるかもしれない、と彼女は笑った。




予想出来うる事態は、全てが起こり得るというのに。
様々な不幸に振り回されながら、彼らは想像も出来ていない。

61 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/01 22:57:36.46 0aCDmpte0 553/658



目の前が霞む。
近頃、その症状は頻繁に起きていた。
きっと寝不足や、眼精疲労だろう。
そんな風に片付けて、トールは彼女に何も言わないでいた。
純粋に、彼女を心配させたくないという理由が過分だった。

「新作か」

彼女が、立ち止まって言う。
嬉しげな声に、服の話ではないな、とトールは瞬時に判断した。
その予想は大当たりで、今月のジェラート新作ラインナップの看板が傍に。
彼女は看板の内容を眺め、それからトールを見やる。

「今日は暑いしな」
「そうだな」

店に入って、一つを半分こして食べる。
経済的には一つずつ買っても問題なかったが、食欲がなかった。

「体調でも悪いのか?」

勘付かれた。
そんなことはない、と首を横に振る。

62 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/01 22:58:07.51 0aCDmpte0 554/658


頭がぼんやりして、思考力が下がっている。
ぶんぶんと首を横に振って、冷たい水を飲んだ。
少し、楽になった気がする。首をコキリと鳴らした。

「で、何作ってんだよ」
「ん? パンだよ」

昔習ったんだ、と彼女は振り返って微笑む。
へえ、と適当な相槌を打って近づいた。
生地を発酵させるためか、ボウルに丸めた生地を入れている。
濡らした布巾の余分な水気を絞り、ボウルに被せて。

「暫くしたら成形して改めて焼く」
「何の味?」
「ドライフルーツを数種入れようかと考えている」

美味そうだな、と返して、抱きしめる。
首を傾げ、彼女がこちらを振り返る。
気がつかぬ内にまた身長が伸びたらしい。
彼女が、少し小さく見える。

「昼寝しようぜ。疲れただろ?」
「んー? トールがそう言うなら構わんよ」

63 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/01 22:58:42.13 0aCDmpte0 555/658


「おはよう」

朝の、挨拶だった。
女の声に、目を開ける。
時計を見やると、昼のようだ。昼寝していたのか。
視界には、赤い髪の女が居た。
自分と同じ年頃だ、というのはわかる。

「トール?」

自分を呼んでいる。
自分のことを知っているらしいが、何者なのか。

「どうかしたのか」

不安げな表情で近づいてくる。
ぺた、と額に触れられた。

「………、…」

忘れてはいけない。

そうだ、目の前の相手のことは、何よりも自分がよく知っている。

「何でもねえよ、フィアンマ」

先程までの自分を信じられない気持ちで自虐する。
きょとんとしている彼女の髪を撫で、頬へ一度口づけた。
挨拶のキスを返し、彼女はくすくすと笑う。
ベッドに引き込み、じゃれあった後、ベッドから出た。
焼きあがったパンからは、甘い果実の匂いがする。

64 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/01 22:59:08.45 0aCDmpte0 556/658


近頃、トールの様子がおかしい。
ぼんやりとしていたり、何もない場所で転んだりする。
以前はそんなことはなかったように思うが、単純な疲れだろうか。
休養をとるよう勧め、眠りは妨げないようにしている。
夢の有無を聞けば覚えていないという。
寝返りは少ないので、深い眠りには落ちているはずで。
にも関わらず、彼の調子はどうにも悪かった。
一度だけ医者へ一緒に行ったが、問題は特にないとのことで。
結局、夏風邪や夏バテ、或いは五月病が長引いているのでは、とスポーツドリンクを奨められ。

「トール」
「あん?」
「一度総合病院や、そういった場所で診察を受けた方が」
「問題ねえよ。年寄りじゃあるまいし」

肩を竦め、彼はベッドに転がる。
確かに、彼の年齢で脳の病気はなり辛いだろう。
しかし、彼は魔術師で、沢山の汚染を受けていて、何より普通の人間だ。

「……本当に、調子は悪くないんだな?」
「ああ、悪くねえよ」

嘘をついている様子はない。
それなら何も言うまい、と自分のシャツをつかみ、フィアンマは言葉を飲み込んだ。

70 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/02 22:31:09.47 Av34Uu/40 557/658


目も眩むような夏。
ぼーっとしながら、二人は公園のベンチに腰掛けていた。
噴水が涼やかに、背後で水の音を奏でている。

「あっつ……」
「……ストールを巻くのをやめたらどうだ?」
「これは全部霊装ひと揃えして初めて意味があんだよ」

自分の快適さ優先で死ぬなんてのは洒落にならない。

肩を竦め、トールは空を見上げる。
眩しい程の快晴は、徐々に夕暮れへと変化していく。

「何もしないで一日終わっちまったな」
「帰ったらトレーニングでもするか?」
「悪くねえ案だ。流石に身体がまた鈍る」

そろそろホテルに戻ろう、とフィアンマが立ち上がる。
日光に当たり過ぎて、若干の疲れも感じた。

「そうだ、」

な、と返答しかけ。
立ち上がり、そのまま、トールは前のめりに倒れた。
慌てて彼の前に回った少女の腕の中に、抵抗なく少年の身体が倒れこむ。
その身体に一切の力はなく、制御する意識は感じられなかった。
ずん、と死体のような、無気力の重み。

「トー、ル?」

困惑しながら、呼びかける。
が、彼からの返事はなかった。
ただ、静かに呼吸を繰り返すだけ。
じっとりと頬を伝ったのは、痛みを堪える脂汗にしか思えなかった。

「っあ、」

弾かれたように、携帯電話を取り出す。
咄嗟に頭に浮かんだのは病院と、それから。

71 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/02 22:31:43.80 Av34Uu/40 558/658


病室。
精密検査を終えた少年は、ベッドに横たわり、目を閉じていた。
鎮痛剤の副作用は眠気であり、彼の傍らの点滴は正に眠気を強く与えるものだった。

「…………来たか」

ドアが開いた。
入ってきたのは、金髪碧眼の青年だった。

「オティヌスの方がこの手の問題には詳しいかもしれないよ」
「これ以上俺様の事で煩わせる訳にはいかない。
 それに、………俺様が取り乱した時、お前の方が適任だ」
「病院側の診断結果は…」
「原因不明だが、高熱が出ている。
 点滴を打って入院し、暫く様子を看ようとのことだったが、……」
「納得出来ないから私を呼んだ、ということで合っているかな」
「……そうだよ」

近頃の様子は、と聞かれるまま。
フィアンマは話し、トールを見つめた。
看護師に促されるまま、着替え等は持ってきた。
ホテルはチェックアウトしてきたし、入院道具は配備してある。

ただ。

今回は、怪我をしただとか、そういうレベルのものではない、と直感を得ていた。

72 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/02 22:32:10.51 Av34Uu/40 559/658


「………恐らく」
「……調べは、ついたのか」
「予測も含まれるが、ほとんど現実だと思ってくれて構わない。
 彼の記憶が、彼の脳と精神を同時に圧迫している」
「…な、に?」
「通常であれば有り得ない。彼は絶対記憶能力者ではないし、何より百年程度の記憶では脳はおかしくならない。
 ただ、……彼の場合は、百年程度では済まない記憶があるんだろう? 加えて、『汚染』を何度も受けている」
「………、…」

魔術を究めるということは、脳に負担をかける。
魔神を目指して死に逝った魔術師の、何と数多きことか。

「二万年、…を超える」
「フロイライン=クロイトゥーネのように特殊な体質であれば、まだどうにかなったかもしれない。
 或いは、禁書目録のように何度も精神を調整していれば。彼はそのいずれにも当てはまらない。
 君やオティヌス、かつての私のように、『異法則』で脳を書き換える術も持っていない」

異常な耐性を得るにしても、その基盤が彼の生い立ちには無かった。
自由にやってきた魔術師だからこそツケの回ってきた、デメリット。

「だが、……だからといって、全ての記憶を消すのか?」

記憶を消す。

フィアンマにとっては、最もやりたくないことだ。
アックアが自分を覚えていたということで、泣きたくなる程嬉しかったのに。
泣きたくなるくらい後悔したことを、またしようというのか。

「それが一番確実だろうけど、そこまで徹底する必要はないだろう。
 彼の脳や精神を圧迫しているのは『二万年』の記憶と、そこから学んだ魔術の知識だ。
 その二つを消すことが出来れば、彼の記憶はほぼそのままに、保護をかけることが出来る」
「その記憶を消さなければ、……脳の保護は、出来ない、か」
「時間がない。……もって、三日だろう。もし、タイムリミットを過ぎてしまえば」
「………しまえ、ば?」

喉が渇く。
嫌な汗が、背中を伝った。

「彼は発狂する。脳自体は耐え切れても、神経の幾つかは焼き切れる」

73 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/02 22:32:40.24 Av34Uu/40 560/658


二万年を忘れる。
オティヌスについて全て忘れれば、と思ったがそうもいかないようだった。
大元のきっかけになるものを忘れなければ、人間は直様思い出してしまう。
まして、トールの意思は強靭で強固だ。
生まれて来る運命すら消された少女を、思い出してしまう程。

「近頃の様子から鑑みるに、苦しかったと思うよ。
 『汚染』ダメージのしわ寄せ、魔術の知識による混乱、…君を忘れたくないという気持ち。
 恐らくは、最後の一つがキーになる。………この先は、正直に言って告げたくない」
「言われずともわかる。……そこまで愚かではない」

自分<右方のフィアンマ>に関する記憶を抜き取る。
関係する物品も、全て廃棄する。
脳の保護を終えた後ならば、思い出して問題はない。
ないのだが、記憶をバックアップする術はない。

一生、思い出す事のない可能性は、九割。

残りの一割。
下手をすれば、百パーセント中の一パーセントへの賭け。
百回同じ人生を繰り返して、一度だけ再び結ばれる可能性。
絶望的だった。奇跡は、そう易易と何度も起きるものではない。

「記憶消去は、……私がする」
「いいや、俺様が」
「君の術式は、不完全だ。自覚があって、補填もしていないんだろう?
 それに。………それに、…君を傷つけるのは、私であるべきだよ」

唇を噛む。
血の味がした。

「……一度、廊下に出よう」
「そう、だね」

74 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/02 22:33:27.86 Av34Uu/40 561/658


廊下には、誰も居なかった。
廊下の端にある病室前のソファーには、二人しか居ない。
壁一枚隔てて、トールは未だ静かに眠り続けている。

「その後、シルビアとはどうなんだ」
「一応、……一応だけど、結婚も視野に入れてるよ。
 もっとも、彼女が断らなければ…だけど」
「断らないだろう。お前が思っているよりも、お前は良い男だよ」

くすくすとからかって、フィアンマは時計を見つめる。

「三日。……72時間か」
「………」
「この世界では三年間。…総計にして7301095時間以上かけて築き上げたものを喪失するための選択に与えられた時間が。
 …………たったの。………72時間か…」
「……彼に説明をするなら、」
「必要ない。……俺様との全てを忘れる位なら、トールは死や発狂を選ぶだろう。
 自分が自分でなくなるその最期の一秒まで、俺様を見て笑っている。
 そういう男なんだ、トールは。……そんな男にしてしまったんだ。俺様が」

時計の針が動き、規則正しく時間を過ぎ去らせていく。
患者服へ着替えた時に受け取ったトールのストールを握る。
それから、ヴェールにでもするかのように、顔を隠した。

「………俺様のこと、もう、名前で呼んでくれなくなるんだな」
「………、…」
「一緒に帰ろうと、愛していると、そう言ってくれなくなるのか」
「………」
「二人で不味い物を食べて暴言を吐くことも。
 二人で美味しい物を食べて笑顔で話をすることも、」
「………」
「抱きしめたり、……頭を撫でたり、…そんなことも、……して、くれなく、」

瞳から滲んだものが、ストールに染みて消える。

「泣いても慰めには来ない、……笑っても、理由を聞いてくれない」

忘れられるとは、そういうことだ。
かつて、確かに経験したことだった。
なのに、トールに忘れられるということが、たまらなく嫌だった。

「……個人としては勧められないが、…彼に、何もしないという手もある」
「世界を壊して回るぞ? 大きな戦争を起こして笑っている男になる。
 俺様の顔を見ても、俺様だとわからなくなるかもしれない。
 ……八方塞がりだ。そもそも、俺様の答えは決まっている。…決まっているんだよ、オッレルス」

彼は、自分に未来をくれた。
夢も、希望も、幸せも、何もかもを。
だったら、今度は自分がそれを返す番だ。
彼の幸せを、一番に考えるべきだ。

「二人きりで話をしてくるよ。……終わったら呼ぶ」

75 : 次回予告  ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/02 22:33:58.58 Av34Uu/40 562/658






「お前が俺を嫌っても、憎んでも、殺しても。
 何をしたって、何をされても、俺は。

               ――――俺はさ、お前の味方(こいびと)なんだ」

                       ヒーローになれた少年―――――トール





「きっともう、俺様のことはすきにならないよ。……すきに、ならなくていい」

                      ヒロインだった少女―――――フィアンマ




 

81 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/03 22:56:08.14 3AjQrl1g0 563/658


今にして思えば。
きっかけや兆候なんて、いくらでもあったはずだった。

自分の事を、知らぬ相手を見るような目をされた日がある。

動揺しながらも話しかけ続けると、記憶が戻った。
あの時、何らかの手を打っていれば良かったのか。
だが、早く手を打つも何も、そんなことはまるで無意味だ。
何にしても、彼の脳を圧迫している記憶は消さねばならないのだから。
彼の事を世界で一番愛している自分が、世界で一番彼にとっての猛毒であるとは、何という皮肉だろう。
それも、記憶を消すことで救えるというのも、また皮肉だ。

「……天罰か」

それも仕方のないことだろう、とフィアンマは思う。
散々身勝手にやってきたツケが回ってきたのだ。
何人かの被害者から許されて、それでおしまいであるはずがないとは思っていた。
世界は、そんなに甘くない。優しくもない。

ドアを開けて、病室の中へ戻る。
トールは、既に目を覚ましていた。
虚ろなアイスブルーの瞳が、天井を見つめている。
彼らしからぬ、無気力な姿だった。

82 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/03 22:56:48.40 3AjQrl1g0 564/658


「ん………フィアンマ、か?」

だるそうな声で、呼びかけられる。
返事をして、傍らにパイプ椅子を組み立てた。
手を伸ばし、彼の身体を起こす。
触れた感じからすると、だいぶ熱は下がったようだ。
元より、脳が圧迫されての高熱だろう、病質的なものではない。

「……トール」
「何、だ……ベッド、か…? 病院っぽいが…」
「病院だよ。……倒れたんだ。覚えていないのか?」
「いや、まったく……熱中症、か?」

困ったように、彼は笑みを浮かべた。
自分自身を情けないと思っているようだった。
だが、熱中症なんてものではない。

「トール」
「ん…? 何だよ…?」

点滴の針を懐かしむように眺め。
トールは、フィアンマの方を見た。
彼女はトールに背を向け、時計を見つめている。

「もし、俺様が死ねと言ったら、どうする?」
「…………怒ってんのか?」
「そうではない。……世界の平和の為に死ねと言ったら」
「…………何だよ、その質問」
「………答えろ」
「何かあったのかよ」
「良いから、……」

暫くの、沈黙。
さぞ不愉快になっただろうな、とフィアンマは思う。
しかし、聞いておかなければならなかった。
彼の意思で、現実が変わる訳ではないけれど。

83 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/03 22:57:30.33 3AjQrl1g0 565/658


「もし、俺が死なないことで、世界が何らかの危機に陥って。
 回りまわってお前が辛い目に遭うって話なら、死んでも良い」

怒りや自虐的な色はなかった。

「逆ならお前の事を死なせたりはしないけどな。
 俺が死んでもお前が幸せなら、仕方ねえとは思う」

どうしてそんなことを言うのだろう。
彼が隣に居なければ、万全の幸せなど手に入るはずがないのに。
そんな気持ちを無理やり呑み込んで、質問をしているというのに。

「――――俺は、死ぬのか?」

直球な質問だった。
息が詰まる。答えられない。
唇を噛み、舐め、息を吸い込み。

「………俺様が、殺す」

そう、言った。
実際に手を下すのは他人でも、記憶上の死だとしても。
やはり、自分がトールを殺すことには変わらないから、と。

「そ、っか」

返答は、存外に軽かった。
予想していた、とでも言わんばかりに。

「お前は無駄な例え話しないからさ。
 何となく、そんな気はした。……何らかの原因で、俺は化け物になるのか?」
「……そういう、ことになる」
「じゃあ、仕方ねえな。世界のために死んでやるよ。ははっ、ヒーローみたいじゃねえ?」
「トー、」
「語弊があるな。……お前がそう望むなら、生きる事を放棄する」

何度も喪われた命だった。
彼女を救うために捨て、得た命だった。
彼女と過ごすことで、満たされてきた人生だった。

彼女が、心身の全てをトールに救われたように。
トールも、彼女に救われたり、励まされてきたことが沢山ある。

「俺様と、世界のために死ねと言っているんだ。…失望しないのか」
「元々、お前はそういうヤツだろ。……そういう性格なら曲げられねえよ」
「嫌いになったか」
「ならない。……俺は、フィアンマに会って、喧嘩以外にも満足はあるんだって知ったんだ」

誰かを守るということの幸せを。
誰かが隣で笑っているという安息を。

「別に寂しくはなかったが、俺は孤独だった。
 お前と出会って、好きにならなかったら、きっとあのままどこかで死んでた。
 死ぬのが怖いと思ったのはお前と会ったからだし、死んでも構わないと思えるのはお前が生きてるから」
「嫌いになっては、くれないんだな」
「なるなら、もっと早くなってる。……諦める機会なら、それこそ二万回以上あった」

84 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/03 22:58:12.47 3AjQrl1g0 566/658


被っていたストールを剥がし、畳み、ベッドに置く。
オッレルス相手ならばともかく、トールに対して表情を隠す必要はない。

「……俺様と出会わなかったことになるのと、死ぬのと。…どちらが良い?」

意地悪な質問だ、と我ながら思って。
フィアンマは苦く笑い、下を向く。
後ろで、トールが身じろぐ音がした。
毛布の衣擦れの音や、ベッドの上で人が動く音だ。

「難しい質問だな、おい」

深々とため息をつかれて。
それから、後ろから、ぎゅう、と抱きしめられる。
右手で、濡れた目元を覆われた。

「お前が俺を嫌っても、憎んでも、殺しても。
 何をしたって、何をされても、俺は。

               ――――俺はさ、お前の味方(こいびと)なんだ」

だから。
出会わなかったことにされるくらいなら。
それならいっそ、死んでしまった方が辛くない。

そう答えて、彼は震える腕で彼女を抱きしめた。
一方的に殺されると聞かされて、怖くないはずがない。
彼は自殺志願者ではなく、戦闘狂なのだから。

「フィアンマ」
「……恐らく、そう答えるだろうとは思っていたよ。
 俺様も、同じように問われれば同じような答えを返すだろう」

温めるように、手を握る。
こんな風に抱きしめられるのも、愛を語り合うのも、今日が最期だ。

85 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/03 22:59:28.42 3AjQrl1g0 567/658


「もし記憶喪失になったら、どうなると思う?」
「遠まわしな言い方、やめたんだな。わかりやすくて良い」
「………きっともう、俺様のことはすきにならないよ。……すきに、ならなくていい」
「どうだかな。好きなものは好きだろ?」
「食べ物じゃあるまいし」
「何も覚えてなくたって、お前を知らなくたって、知ることが出来なくたって、俺はお前のことを好きになるよ」
「ならないよ、」
「二万回人生を繰り返して、その全てでお前のことが好きだったのに?」
「馬鹿馬鹿しい。…俺様は、もうひとりでもだいじょうぶ、」
「なあ、泣くなよ。…俺、フィアンマの泣いた顔は好きじゃねえ」

嬉し泣きして、泣きながら笑った顔が好きなんだ。
その顔が一番可愛くて綺麗なんだ、とトールは呟いた。

「お前を忘れないと、俺は化け物になるんだろ。
 『汚染』か、或いは脳へのダメージか何かか」

現実を言葉にして出力し。
事実を整理した上で、彼は入院服の袖でフィアンマの目元を拭った。
淡い水色が青くなるまで、何度でも、優しい手つきで。

「好きだ」
「俺様も、好きだったよ」
「愛してる、」
「俺様も、愛していたんだ」
「過去形にすんなよ」
「もうすぐ過去になる」

こんな気持ちになるくらいなら、出会わなければ良かった。

などとは、絶対に思わない。
出会ったことで失ったものもあったかもしれないが、得たものの方が多かった。

「忘れられたくない、」
「……」
「他人に戻りたくない、俺様のことを知らない人間を見る目で見られたくない」

何より、こんなにも喪うことを恐れる宝物が手に入った。
一人の人間として、女の子として、幸せに過ごすことが出来た。

「一欠片も思い出せなくてもさ、俺、お前に会うんじゃねえかな」
「どうして、そう思える?」
「一回目はともかく、二回目の再会の時。
 あれはお前から声をかけてきたけど、偶然だっただろ」
「……、…」
「だから、今度は俺から声をかけに行く」
「覚えていないのに? 俺様とトールに、何の接点がある」
「『右方のフィアンマ』じゃない唯の女の子と俺じゃ、接点はないだろうな」

左手の薬指はまった指輪を、少年の指が撫でる。
小さなストロベリークォーツで彩られた、美しいダイヤモンドのリング。

「無いだろうけど、………偶然ってのは、そんなものだろ?」

恋愛映画の主人公だって、ぶつかっただけで恋をする。
きっかけなんてどこにでも落ちている。ただ、素通りしやすいだけで。

86 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/03 23:00:05.48 3AjQrl1g0 568/658



「その時は、婚約指輪じゃなくて、結婚指輪贈ってやる」



「俺様は、トールさえ居れば、何もいらなかったんだ」


「フィアンマは、俺と出会えて、本当に良かったのか?」


「勿論だ。……さよなら、トール。俺様の知らない何処かで、いつまでも」


「さよなら、って言葉は生憎嫌いでね。こう言うことにしてるんだ」







                             「またな、フィアンマ。何処かで、必ず」

87 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/03 23:00:41.17 3AjQrl1g0 569/658


「話は終わった」
「……70時間話し込んで、結果は変わらなかったようだね」
「痛い思いをするのも、記憶を消されるのも、俺様ではない」
「…手に抱えているそれは?」
「俺様がトールに贈ったもの、思い出の品、諸々だ。
 もう会うつもりはない。……これだけ持ち出せば、俺様の名前の一文字すらわからんだろう」

オッレルスの横をすり抜け、後を任せて外へ出る。
もう、あの病室に自分の要素は欠片もない。
髪の毛一本すら無いように掃除してきた。

「………」

廃ビルの屋上で、黙々と物を燃やす。
数少ない写真の類も、贈り物も、全て。
燃やさなかったのは、指に嵌めている指輪位なものだ。

「………、」

廃ビルから降り、単身でイタリアへ向かった。
トールの身柄については、オッレルスに保護を頼んである。
そんなに心配しなくたって、彼は一人で生きていけるだろう。
幼い子供ではないのだから。自分とは違って、きちんと自立している。

「………あめ」

空を見上げる。
示し合わせたかのように、大雨が降る。
同時に雷鳴も轟いたが、何もかもが気にならなかった。
ぴちゃぴちゃと、雨水で服を、髪を、身体を濡らして、あてもなく歩く。
このまま、ローマ正教徒に捕まえられて殺されても構わなかった。

「…何やってんの、アンタ」

のろのろと振り返る。
そこには、一人の修道女が立っていた。
とはいえ、黄色い修道服に、ピアスだらけの顔はお世辞にも修道女らしいとは言えない。
フィアンマは、彼女の顔をよく知っていた。
記憶を消す前に、沢山、沢山慕っていた、姉のような存在だった。

「…ヴェント」
「風邪、引くでしょうに。傘とか持ってないワケ?」

一緒に入ろう、と手を引かれた。
今更傘で雨を防いだって、何にもなりはしないのに。

「ん、帰ろ」
「……俺様に、もう帰る場所はない。今しがた、潰してきたところだ」
「なら、私が作ってやる。……だから帰ろう。
 アンタの『誤魔化し』は、もう無視するからね」

自分の手を握る手は相変わらず細くて、温かった。
まるでねだったクッキーを焼いてくれるかのように、彼女は居場所を作ってくれると言った。
何度も断りの言葉を口にして、しかし、足はヴェントと同じ方向へ歩みを進め。

「記憶の件、帰ったら問い詰めるから。そこんトコよろしく」
「………ん」

93 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/04 22:51:13.72 mifjCt1j0 570/658


少女が去っていった病室で。
トールは独り、窓の外を眺めていた。
雨が降りだしている。彼女は濡れずに行けただろうか。
彼女の安堵出来る場所は、自分のところしかないと思っていた。

けれども。

『馬鹿馬鹿しい。…俺様は、もうひとりでもだいじょうぶ、』

泣いて、しかし泣きながら、大丈夫だと、彼女は言っていた。
元より、彼女は一クセあるだけで、好かれやすい性格だと思う。
自分が居なくても、それなりにやってはいけるだろう。

「………実行者は、あんたなんだな」
「………適任だと思うだろう?」
「そうだな。………なあ」
「うん?」
「フィアンマのこと、……たまに、見てやってくれ」

自分は彼女を忘れて、きっと思い出す事は出来ない。
だから、とトールはオッレルスへそう頼んだ。
青年は小さく笑って、一度だけ頷き。

「似ているね。頼むことも、言い方も。……夫婦は似るというが、恋人でも同じようなものか」

出来ることなら、二人を祝福する立場に立ちたかった。
そんな台詞を残し、オッレルスはトールを眠らせる。

94 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/04 22:51:45.36 mifjCt1j0 571/658


「………バカ」
「…………」

記憶を消した理由。
神の右席を離れてからの足取り。
自分がしてきたこと、トールとのこと。
トールに忘れられ、居場所を完全に失ったということ。

全てを洗いざらい話した結果、ヴェントからの返答は単純な罵倒だった。
流石に、罵倒された位で泣くような心は持ち合わせていない。
気まずさに目を伏せ、ココアを啜る。
自分好みの甘さの茶色い液体に息を吹きかけ、カップをテーブルに置いた。
ヴェントに連れてこられたこじんまりとした教会は、ローマ正教の持つ建家だった。
祭礼などほとんど出来ないのでは、と思うようなこじんまりとした建物。
廃墟一歩手前の場所を譲り受けたのだ、と彼女は語っていた。
何でも、今は見習い神父の世話をしているらしい。
一度は離れたものの、ローマ正教の穏健派方向の様子を見て戻ったようだった。

「どうしてそうそう毎回、辛い方ばっかり……」

腕を伸ばされ、彼女も自分も座ったまま。
フィアンマは抱きしめられ、静かに項垂れる。
それが一番良いと思ったから、という理由しかない。

「俺様は、幸せだったから。その幸せを投げ打ってでも、救いたいものが出来たんだ」

後悔なんてしない。
割り切ることなんて、忘れることなんて、一生かかっても無理だろうけれど。
それでも、後悔して、後ろを振り返って、泣き喚いたりなんてしない。
自分を忘れた彼の隣で、尚、奇跡に賭けて生きていくという道を選ばなかったのは、他ならぬ自分だから。

95 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/04 22:52:11.36 mifjCt1j0 572/658


「戻りまし、…………あ!」

鍵を開ける音の直後、少年が入ってきた。
なかなかに長身の少年だったが、顔はまだ幼い。
精々が十三歳程度だろうか。神父服に着られている。
少年はココアを飲むフィアンマを見るなり、買い物袋を取り落とした。
重い食材に目もくれず、彼はフィアンマに駆け寄ってくる。

「あの時は、ありがとうございました」
「…………?」

誰だろう、と首を傾げ。
甘いココアを飲みながら、フィアンマは暫く考え込んでみる。

『おかあさんがね、ここですわっていなさいって』
『それからどの位時間が経過しているんだ』
『……ふつか』
『…そうか』

『……多分、俺たちが思ってる通りなんだろうけどよ』
『本人が知るのは、もう少し先でも良いだろう。
 教会ならば、適当な言い訳を用意してくれる』
『お前、結構子供あやすの上手いんだな』
『職業柄、幼い子供に接する機会は何度もあったからな』

思い出す。
トールと共に、クリスマスの翌日に外へ出た日のこと。
座り込み泣きじゃくる、母親に捨てられた幼い子供。

「……あの時の」
「お礼を言おうと思って、ずっと捜してたんです。
 けど、見つからないし、姉さんは捜すなって言うし…」
「…ん? 姉が居るのか?」

ちら、とヴェントを見やると、バツが悪そうな顔がある。
なるほど、姉さんと呼ばせていたのだろう。
納得して、言葉の先を丁寧に促す。

「あの時一緒に居たお兄……いえ、何でもないです。
 ……あの日、貴方が俺を拾ってくれなかったら、死んでいたかもしれません。
 一緒に母さんを捜してくれたお陰で、ある意味踏ん切りもつきました」
「……そう、か」
「一緒に暮らすことになるケド、問題ない?」
「勿論ないで…あっ、ジェラート溶ける!?」

少年は慌てて引き返し、食材を保冷庫に入れ始める。
その様子が何だかおかしくて、微笑ましくて、ようやくフィアンマは笑みを浮かべた。
トールとの思い出全てがなくなった訳ではない。
証拠は指輪という形にも、この少年という形でも、確かに遺っている。

96 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/04 22:52:39.46 mifjCt1j0 573/658


夜。
即興で作り上げた通信霊装を使い。
フィアンマはベッドに転がりながら、ウートガルザロキに連絡をしていた。
トールの記憶は、自分という存在を除外した形でつじつま合わせされる。
となれば、トールが彼と接触する事は十分に有り得ると踏んだからだ。

「聞こえているか?」
『ん、もしもし。何、どしたのこんな時間に。
 まさかデートのお誘い? いやいやー、そういう倫理に反するのはダメだって』

笑い混じりの軽薄な冗談に小さく笑って。
緩やかに息を吸い込んで、軽く状況を説明した。

『………そ、っか。…いや、ま、…だいじょぶ?』
「俺様のことなら、問題ない。…一つ頼みがある」
『なになに? 何でも聞くよ』
「トールに、俺様の事を知らせないで欲しい。
 何らかのきっかけで知り、俺様のことを気にする素振りがあれば、誤魔化してくれないか。
 騙す事を得意分野とするお前にしか頼めない」
『……けど、もう思い出しても大丈夫なんだろ?』
「理論上は。……だが、もう俺様には関わらない方が良い」
『…………まあ、いいか。フィアンマちゃんがそれでいいならさ。
 とりあえず、名前とか聞かれても教えないことにするよ。知らない素振りで』
「そうしてくれ」

俺にしか頼れないとか言われちゃうとね、と照れ混じりの笑い声に相槌を打ち。
暫く他愛も無い話をした後、通信を終え、霊装を握りつぶした。

これでいい。

自分はこれからこの場所で、ヴェントと、あの少年の為に生きていけばいい。
誰かを愛する必要などどこにもない。奇跡は起きない。
最初から諦めて何も期待しなければ、これ以上傷つくこともないのだから。

97 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/04 22:53:16.19 mifjCt1j0 574/658


オッレルスと会話をして。
トールは取り残された病室で、ぼんやりとしていた。
何か大切なものを無くした気がするが、思い出せない。

『困ったことがあったら頼って欲しい。
 とはいっても、喧嘩はあんまり好きじゃないんだけどね』

確か、第三次世界大戦後、『グレムリン』離反時に親交を得たのだったか。
まだ寝起きで混乱しているのか、うまく考えがまとまらない。
目を瞑り、涼しい部屋で目を閉じる。清潔なシーツからは、消毒液の臭いがした。
自分の着替え以外は何も無い簡素な病室。
何も無い、ただの、純粋で孤独な白。

「熱中症か……」

油断したな、と思いつつ、深呼吸を繰り返す。
徐々に眠気がやってきたので、全身の力を抜いた。
空調はきっちり整備されているし、心地よく眠れそうだった。

98 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/04 22:54:39.68 mifjCt1j0 575/658









無事退院することとなり、トールは入院服から普段着へと着替える。
霊装を適宜身に付け、んー、と伸びをした。

ぱさり

「…あん? 何だ?」

何かが懐から落ちた。
柔軟体操をし終わって、ようやくそれを拾う。
落ちたときの音からして入院関係の書類だろうと思ったが、違う。

「………写真?」

少し大きめな、メモ用紙程度な大きさの写真だった。
写っているのは、ブーケを持たされた花嫁と、彼女の手を握る花婿。
幸せを絵に描いたかのような、美男美女の微笑み。
化粧を施されているが、少女の顔は恐らく元が整っているだろうと予想出来る。
仮に化粧を全て落としたなら、冷たそうに見える美人なのではないだろうか。
新郎の方は、少し緊張した様子の自分だった。タキシードを着ている。
この少女が何者なのかは知らない。この写真を撮影した時の記憶がない。
何らかのモデル業を請け負ったのか、彼女はその相方だったのか。
写真下部、白い部分にはこう記してある。自分の筆跡で。

"フィアンマに、俺の全てを捧ぐ"

写真の中のような美しい微笑みをずっと見ていたい、と思う。
名前も、経歴も、接点も、写真を撮ったきっかけも、年齢も、出自も、何もかもわからない。
わからない上に、この湧き上がる気持ちに、覚えはない。
思わず写真をくしゃりと握りしめてしまいそうになりながら。
俗に言う『一目惚れ』という感情のまま、トールは少しだけ顔を赤くし、笑みを浮かべて呟いた。
















「フィアンマ、か。……タイプの美人だ」

105 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:21:23.61 7eE3JAEj0 576/658


ちゃぷん。

いつだったか、トールと浸かった日本の温泉を思い出しながら。
バスタブに珍しく張った湯に浸かり、フィアンマはうとうととしていた。
昼過ぎに買い出しに行こう、と誘われたのだ。
再会した時、十三歳の少年は、気がつけば二十三歳の美青年になっていた。

「……もう、十年も前になるのか」

あんなにも好きだった彼のこと。
忘れる為に、戦災復興のボランティアに精を出していた。
世界が活気を取り戻し始めたのは、つい最近のことだ。
未だ起こっている内紛を除いて平和過ぎる世界は、今日も粛々と時を進める。
十年経ったって、あの恋は忘れられない。忘れることが良いとも思わない。

「………いかんな」

風呂で眠ってしまっては、そのまま死ぬ恐れがある。

慌てて浴槽から出、タオルで体と髪を拭く。

「あがりましたー?」
「ああ。少し待て、準備をする」

のそのそと着替え、髪を乾かし、鏡を見ながら髪型を指先で整える。
ヴェントは本日、教会に行っている。じきに戻るだろう。

「それじゃあ、行きましょう」
「そうだな」

106 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:21:58.97 7eE3JAEj0 577/658


「……本っ当に、知らねえんだな?」
「だーかーらー、知らないって」

昼日中から酔っ払いに絡まれる不幸な男、ウートガルザロキ。
彼は相変わらず軽い調子で肩を竦め、隣の男のグラスに酒を注ぐ。
酒を注がれた男はというと、だるだるとそれを飲み干し、酒臭い息を吐く。
彼の手には、写真がある。指先で大事そうにつままれている。

「一目惚れなんだって、ちったあ協力しろよ……」
「協力したいのは山々だけどさ、トールちゃん。
 なあトール、よく考えてみろって。その写真から何年経過してるよ?」
「じゅうねん……ちょっと」

酩酊状態でぶつぶつとトールはそう答えた。
長い金髪が顔にかかり、若干ホラー染みている。

(教えないでくれって、言われてるしな……)

葛藤しつつ、ウートガルザロキはトールの様子を眺め。

「一目惚れだったら、キツいだろ。十年で見た目劣化してるかもしれないぜ?」

実際にはそんなことはない。
数週間前にフィアンマと話をしたので証明済みだ。
しかし、トールに諦めという概念を植え付けるべく、彼は続ける。

「………」
「性格キッツイかもしれないし」

だいぶ丸くなったけど、という言葉を呑み込む。
トールはというと、酒の入ったグラスを傾けて氷をグラス内でぶつけ。

「………でも、いい」

107 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:22:24.71 7eE3JAEj0 578/658


ほとんど眠ってしまいそうな様子で、青年は唇を舐め。
酒をまた一口飲むと、完全に酔いながら。
それでも、ひとかけらも隠しのない本心のままに。

「一度だけでいいから、…会って、……こくはくできたら、それで」
「………」

振られたら、それでいっそあきらめがつく。
会えない、見つからないというのが一番辛い。

「……………何だかなあ…」

フィアンマから聞かされた、トールの事情と。
目の前で彼女を求める、トール本人。

どちらの意思を尊重するべきか。

魔術師という生き物は、迷った時、実に個人的な選択をする。
それが良識に適っていなくても、自分の気分が良い方を選ぶ。
だから、ウートガルザロキはいつも通り騙すことを決めた。

ただし。

十年間騙し続けてきたトールではなく。
十年間、約束を守ってきたフィアンマに対して。

(そもそも、会う度にフィアンマちゃんもトールのこと口にしてるし)

元気なのか、変わってはいないか。
恋人は出来たのだろうか、自分のことはやはり思い出していないだろう。

会う度に、そんなことを言いながら目を伏せる姿を何度見ただろう。
正直に言って、ウートガルザロキはそういう女性の姿は好きになれない。
そして、彼女達が幸せになれるなら、泥を被るというのも悪くない。

(フィアンマちゃんからぶん殴られてもいいや)

思い出さなくたって。
もう一度、恋を始める事は出来る。

「眠いならホテル戻れー、トールちゃんはいたっち。スタンドアーップ」
「うあー吐くー」

108 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:22:55.20 7eE3JAEj0 579/658


「……ん?」

通信霊装の反応に、首を傾げ。
ハンズフリー通話でもするように、フィアンマは応答した。

『フィアンマちゃん、明日暇?』
「ああ、明日なら暇だよ。何も予定はない。何かあったのか?」
『いんや、そういう訳じゃないけど。デートしようよって話』
「デート? いつも通り会って話すだけだろう」
『意識の問題か。贈り物があってさ、出来れば明日の昼頃会いたいんだけど』
「贈り物……か。ああ、何時頃にするべきか」

ウートガルザロキと会話を重ね、待ち合わせ場所と時間を決める。
やけに上機嫌な様子が気になるが、珍しい『贈り物』なのだろうか。

『それじゃあまた明日ー』
「ん」

通信を終え、青年の紙袋を片方持つ。
今日は帰宅し次第アップルパイを作るつもりである。

「明日何かあるんですか?」
「少し出かけてくる。夜には戻るつもりだ」
「わかりました」

頷いて、青年はてくてくと歩く。
今日は快晴で、明日もどうやら快晴らしい。
熱中症にならないでくださいね、との青年の言葉に、フィアンマは笑って相槌を打った。

109 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:23:37.68 7eE3JAEj0 580/658



実は写真に写るフィアンマちゃんの事知ってた。


言い切った瞬間、強烈なボディブローが決まった。
吐く、とその場に膝をつき、ウートガルザロキはぷるぷると震える。
だが構うものか。とことん悪者になると決めたのだ。

「何で隠してやがった」
「俺も彼女が好きだったから。…待てって、もう諦めたよ」
「テメ、」

勿論嘘だ。
そんな気持ちは毛頭ない。
嘘々ストップ、と両手のひらを見せてトールを制止し。
深呼吸して立ち上がり、もう一度だけ深呼吸。

「ああもう嘘だって、友達だよ俺は。最初から今まで、んでもって最後まで。
 ……理由は色々あったんだけど、もういいかなって俺の方で判断しただけ」
「………」
「それでさ、」

ウートガルザロキは、一枚のメモを差し出す。
そこに書かれているのは、噴水公園の名前だった。
公園名の下には、午後一時半、と書かれている。

「彼女との待ち合わせ時間。
 俺はすっぽかすよ。その情報をどう使うかは任せる」
「………ウート」
「会うからにはうまくいく前提で頼むぜ?
 俺、どう転んでもフィアンマちゃんに殴られるの確定してんだから」

やれやれと笑って、彼は背を向ける。

「色々あったけど、何もしてあげられなかったから。
 俺の嘘で誰かが救われるならそれもいいかなって、思ってさ」

110 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:24:08.10 7eE3JAEj0 581/658


午後一時。
早く来すぎた、と思いながら、ぼんやりとベンチに腰掛ける。
照りつける太陽が眩しい。公園の周囲にはカップルが多く。

「………」

ウートガルザロキを急かすつもりはない。
彼は今まで十年間、会おうと言って約束をすっぽかしたことはない。
のんびり待っていれば、そのうちにやってくるだろう。

「…しかし暑いな」

ジェラートを食べよう、と立ち上がり。
スタンドで買って、再び元の位置へ。
さっぱりとしたレモン味のジェラートに、レモンピールの苦味。
涼しい風が吹き抜け、太陽によって火照った身体を冷やしていく。

「……ん」

ジェラートを食べ終え、ゴミを片付ける。
食べるのに時間がかかり、気がつけば午後一時二十五分。
筆記式の通信霊装に反応が起こり、一文が綴られる。

『ごめんフィアンマちゃん、ドタキャンする。
 だけど、贈り物は向かわせるからさ。喜ぶかどうかはわかんないけど』

「……なに?」

贈り物を向かわせる。
宅配業者でも来るのか、と考えた刹那。

視界にうつるのは、

111 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:24:51.31 7eE3JAEj0 582/658


髪型、服装、顔色、問題なし。
鏡から目を逸らし、トールはホテルから出た。

どんな姿だろう。
どんな声だろう。
どんな性格だろう。

何も知らない。
知らないが、浮き足立って仕方がない。

「何持って行けば良いんだ…?」

やっぱり、定番通り花束だろうか。
公園へ向かう道の途中、花屋へ寄る。

「赤い薔薇を三本と、白い薔薇を七本」
「ふふ、プロポーズですか?」
「まあ、そのつもり。……?」

花屋の店員を呼びつけて花束を頼み、トールは首を傾げる。
以前にも、こんなことがあったような気がして。
けれど、花束を贈るような相手なんていなかったはずだ。
それに、花の本数も、どうしてこんなにすらすらと出てくるのだろう。

「出来上がりです。お代金は、」

店員に渡された花束を持って、公園へ向かう。
ウートガルザロキ曰く、見た目はほとんど変化していないらしい。
目元が少し優しくなって、ちょっと髪が伸びた程度だとか。

「……マズイな、緊張してきた」

立ち止まり深呼吸して、歩き出す。
公園はもう、目と鼻の先。

112 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:25:30.93 7eE3JAEj0 583/658


ベンチに腰掛ける女性は、相も変わらずの美しさだった。
暑いのか、ぼーっとした様子で座っている。
やがて彼女は何かを見、不可解そうな表情を浮かべた。
恐らく、ウートガルザロキがドタキャン連絡でもしたのだろう。

「………、」

彼女の左手薬指には、指輪がある。
細身のシルバーリング。
小さなストロベリークォーツで彩られた、美しいダイヤモンド。
ブリリアントカットと呼ばれる技法で造られたダイヤは、太陽光で輝いている。

婚約指輪か。

思って、それを見ても尚、彼は"思い出す事"は"出来なかった"。
出来なかったし、尻込みした。ああ、フラれてしまうだろうと。

『たとえ、過去の自分から奪ってでも』

背中を突き飛ばされた気がした。
いつかの未来、いつしかの過去、『自ら』が口にした暴論。
無意識にそれを受け入れ、トールは公園に足を踏み入れる。

「……、……」
「………」

彼女が、こちらを見た。
琥珀色の瞳を瞬かせ、見上げてくる。

噴水公園のベンチ。
赤い薔薇三本、白い薔薇七本の花束。

十年を経て再現されたそれは、トールが婚約指輪を彼女に贈った日の風景と同様だった。

113 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:26:17.31 7eE3JAEj0 584/658


「一目惚れなんだ」

(何も覚えてなくたって、)

言って、彼はその場に片膝をつく。
慣れない気障な素振りで、花束を差し出した。
理由はわからないが、今にも泣きそうな彼女に。

「だから、その、」

(お前を知らなくたって、)

言葉が出てこない。

「結婚を前提に、」

(知ることが出来なくたって、)

息が苦しい。
心臓が限界まで高鳴っている。

「………俺と、付き合ってくれ」

(俺はお前のことを好きになるよ)

彼女は震える手で花束を受け取り、ぎゅう、と抱きしめた。


『またな、フィアンマ。何処かで、必ず』


その顔は赤く、泣きそうで、でも、笑顔だった。

トールがこの世界で一番愛おしいと思う、彼女に最も似合う笑顔だった。

幸せそうな、泣き笑いの顔だった。

「ああ、………贈り物か。
 何も知らなくても、きっとまた…すきに、………」



花束を握り締めたまま、彼女はトールを見つめ。
変わらないアイスブルーの美しい瞳を見据えながら。
世界中で最も幸せそうな女の子の顔で。









                               「――――――――喜んで」

114 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/06/07 22:27:46.73 7eE3JAEj0 585/658


終わり。


番外編、こちらです

とある学生の雷神右方-Reincarnation-
http://ayamevip.com/archives/40705823.html

115 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします - 2014/06/07 22:52:05.05 bQ2mI6VI0 586/658

涙が止まらない
乙です

120 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) - 2014/06/09 00:54:45.06 +O9H/B620 587/658

乙乙
素敵な話だった



番外編
とある学生の雷神右方-Reincarnation-


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