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フィアンマ「助けてくれると嬉しいのだが」トール「あん?」 #1 #2 #3 #4


736 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:22:28.93 ybYJ3hO90 385/658


丁寧に丁寧に林檎の皮を剥く。
魔術師は何かと手先の器用さを求められる。
トールはパワータイプだが、霊装を用意するにあたってそれなりに器用な感覚を持っている。
なので、リンゴを剥くにあたって指を切るなどという初歩的なミスを犯すこともなく。

「くぁ……ふ、」

芯を取り除き、擦り下ろす。
水気をしっかりと切り、その果汁は漉して冷蔵庫へ。
コップへ移せば天然林檎果汁百パーセントジュースとして飲める。

「ボウル……ここか」

しゃがみこみ、シンク下の場所からボウルを取り出す。
冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、林檎と同様に水を切った。
ボウルを軽く水で洗い、砂糖とヨーグルト、生クリームを投入。
しゃかしゃかと泡立て器でかき混ぜる。目安としては七分立てだ。

「んで、林檎……」

水気を切っておいた林檎を投入し、丁寧に混ぜた。
片手間に容器を用意し、零さないように注げば、後は冷凍庫で凍らせるだけ。

737 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:22:57.39 ybYJ3hO90 386/658


「凍るまで待機。具合はどうだ?」
「……喉が痛い」

少しだけだが、とぼんやりした表情で返し、手を伸ばしてくる。
喉が渇いた、といった様子が見て取れる。

「スポーツドリンクと水、どっちがいい?」
「前者だ」

そちらの方が喉に痛くない、と付け加え。
彼女の要望に応え、トールは冷蔵庫から出してきたドリンクをコップへ注ぐ。
ストローつきのコップなので、横になったままでも飲みやすい。

「ん、」

ストローを吸う彼女の姿は、やや幼く見える。
彼女としては『みっともない』の範疇なのかもしれないが。
トールにとっては、自分しか知らない弱味のようで、ただ愛おしい。

「……アイス」
「だからまだ出来てねえって」

738 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:23:30.52 ybYJ3hO90 387/658


三時間後。
出来上がったアイスを食べる彼女は、随分と上機嫌だった。
それも当然、少し眠って熱が下がったからである。

「甘すぎなくて良いな」
「買うヤツは濃厚過ぎるとかあるしな」
「美味しい」
「そりゃどうも」

ちなみに彼女のほめ方は五段階程である。
『まあまあ』→『悪くない』→『評価に値する』→『美味だな』→『美味しい』の五段階。
今回の手作りアイスは、要するに特にお気に召したようだった。
自分の好きな相手が自分の為に作ってくれた、という感情面での評価も関係があるだろうが。
それにしたって、自分が一生懸命作ったものを褒められて嫌になる人間はそうそう居ない。
彼女と同じく機嫌の良い笑みを浮かべて、トールはひえひえ以下略に手を伸ばす。
彼女の額に既に貼られているものを剥がし。
新品の方はぺりぺり、と透明なセロハンをはがしてから、そっと貼った。

「ひ、ぇぅ」

条件反射で身体をビクつかせ、彼女はぎゅっと目を瞑った。
赤い前髪で隠されつつもやっぱり見えるひえひえ以下略は、ちょっと間抜けで。
すごく可愛い。病人萌えといってしまうと不謹慎になるが。

「もっかい寝ろよ。良くなるだろ」
「……その前に服を換えたいのだがね」
「そういやそうか」

用意するから待ってろ、と彼はあくせく働く。

739 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:24:24.04 ybYJ3hO90 388/658


服を着替えるにしても、汗を拭かなければならない。
フィアンマはぶんぶんと首を横に振ったが、トールは見て見ぬフリをして。
洗面器に溜めたぬるま湯にタオルを浸し、彼は黙々と絞った。

「……自分で、」
「洗面器ひっくり返したら一大事だろ」

ああ言えばこういう。

彼女を理解しているからこそ、つらつらと言い返せるのだ。
そもそも、本当に嫌なら突き飛ばせば良いだけの話である。
トールはフィアンマに手を挙げないが、逆ならば絶対に有り得ないというものでもない。

「……ん、」

濡れタオルで身体を拭かれるのは気持ちが良い。
ただ、それを素直に声に漏らすのは少し恥ずかしい。
ふる、と小さく身体を震わせ、フィアンマはトールの髪をいじった。

740 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:25:02.78 ybYJ3hO90 389/658


「綺麗な髪だ」
「前もそんなような事いってなかったか?」
「一度褒めたら同じことを褒めてはならないというルールはないだろう」

綺麗なものは綺麗だよ、と彼女は愛おしそうに言う。
何となく恥ずかしい気分になって、トールは口ごもった。

「別に気を遣ってるとかじゃねえけどな」
「切らないでくれ」

お願い、と彼女はイタズラっぽく、すがるように言った。
わかった、と答えて、彼は作業を終える。
彼の髪から手を離し、彼女はいそいそとパジャマを着込んだ。

「…っくしゅ、」
「おやすみ」

言いながら、彼は毛布をかけた。
もこもこと包まり、彼女は目を閉じる。

「……勿論、一番好きなのはトール自身だよ」
「……早く熱下げろよ」

それだけ言うのが精一杯で、彼は彼女に背を向ける。
薄く薄く笑みを浮かべて、彼女は幸せな夢の世界へ駆け下りていく。

741 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:25:35.07 ybYJ3hO90 390/658


一日貸切プライベートビーチ。

とってもリッチな響きの場所。
その更衣室に、トールとフィアンマはそれぞれ立っていた。
例のごとく、彼女が使用チケットをくじ引きで当てたのだ。
世界で一番幸運な彼女の場合、何があってもおかしくない。

「…どんな水着買ったんだろ、アイツ」

風邪の快気祝いも兼ねて遊びに来た訳だが、トールは彼女の水着を知らない。
先日、ショッピングモールで別行動購入したからだ。

(露出度高くないと良いが、…いやでも俺しかいねえしな)

どうせ自分にしか見せないなら、思いっきり露出度が高くても良いかもしれない。
そんなことを考えながら、トールは咄嗟に自分の表情の緩みを抑え込む。
流石にニヤニヤしながら彼女の前に出る訳にはいかない。みっともない。

742 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:26:45.81 ybYJ3hO90 391/658


もう少し地味なものにすれば良かったかもしれない。

服を脱いで水着に着替えながら、フィアンマはひっそりと後悔していた。
つい、つい店員の口車に乗せられてしまったのだ。

胸元に蝶。
腰、サイドに太めのリボン。
肩に細めのリボン。

色は赤い生地に白い装飾。

「………」

鏡を見てみる。
やっぱり恥ずかしいかもしれない。

「……、」

やっぱやめた、という訳にはいかない。
何しろ予備はないし、普通の服では入れない。

「……」

どうせトールしか見ないのだ。
そう割り切って、彼女は背中でリボンを固結びした。

743 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/30 22:27:44.55 ybYJ3hO90 392/658


そこそこ派手な、赤いフリルビキニ。
白の装飾リボンが眩しい。
肩にリボンがあるので、傷痕が目立たない。
それを見込んで購入したのかもしれない。
出会った頃よりずっと伸びた髪は、一つに結ばれている。

「………似合う、か」
「勿論」

笑って、髪を撫でる。
あくまでも崩してしまわないように。
気まずそうにもじついていた彼女が、嬉しそうにはにかむ。

本当に。

本当に彼女が好きだな、とトールは改めて実感する。
何気ないことの一瞬一瞬で、こんなにも楽しくて幸せな気持ちになる。
巡ってきた地獄の分を超えて尚、彼女と一緒に居て、この気持ちを味わっていたい。
たとえどんなことがあっても、彼女には笑っていて欲しい。




―――たとえ、どれだけ底抜けに世界が滅茶苦茶になっていったとしても、彼女に傍にいて欲しい。


「入るか」
「そうだな」





……彼女の微笑む此処が、自分の帰る場所だと、そう思う。

751 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/31 21:29:06.46 X4XriL7N0 393/658


プライベートビーチの帰り道。
水着をしまった鞄をそのままに、二人はジェラート店へとやってきた。
普通の食べ物を口に出来るとはいえ、彼女にとってやはり親しみがあるのは甘いもので。
もっとも、一番の理由は『運動をしたから』なのだが。
水分の少ないジェラートは濃厚な味わいで、フルーツ系のものもとても美味しい。

「どれにすっかな」
「んー」

レモン系とベリー系の間で視線をうろうろさせ、フィアンマは頭を悩ませる。
トールはそんな彼女の様子をのんびり眺めつつ。

「俺がクランベリーにするから、お前はレモンにしろよ」
「……気を遣う必要はない」
「レモン味は食ったことねえからな、俺」

彼女に気負わせぬよう、適当な嘘をつく。
その嘘を見抜きつつも、彼女は追及することなく。

「…なら、半分残った時点で交換としよう」
「そこは"あーん"じゃねえのかよ」

752 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/31 21:29:33.76 X4XriL7N0 394/658


「綺麗な星だな」
「ん、」

ホテルまでの、なかなかに長い帰り道。
見上げた夜空には、いくつもの星が浮かんでいる。
今日はよく晴れている。明日もきっと晴れるのだろう。

「フィアンマは星が好きだよな」
「色々と逸話があるからな。利用がしやすい」
「そういうことかよ」
「……願えば叶うというものもある」

七夕とか、と彼女はぽつりとこぼした。
確か、中国で誕生した逸話であったように思う。
恋人同士の逢瀬に便乗して、願いを叶えてもらうお祭り。

「何ひとつ叶わなかったが」

トールと出会う前、まだ幼かった頃。
自分の持つ力がなくなりますようにと、祈った。
自分に微笑みかけてくれる人たちと、幸せになれるようにと。

753 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/31 21:30:04.56 X4XriL7N0 395/658


「ま、神様なんてそんなもんだよな」

『雷神』を冠する彼はそう吐き捨て、ため息を吐き出す。
彼にも、祈った記憶があるのだろう。

「結局のところ、自分で何とかするしかねえよ。
 目の前に積み重なる無理難題だとしてもな」
「Heaven helps those who help themselves.」
「そういうことだ」

そして、ここまで来た。
手が届く場所をいつしか踏みつけて、高みへ辿りついた。
努力の賜物が、今のトールの全て。
人生にしろ、武器にしろ、強さにしろ、……愛する人にしろ。

「……と、いつまでも外じゃ風邪引いちまう」
「先日はすまなかったな」
「気にすんなよ。お前だって俺の看病するんだし」

お互い様だ、と告げて。
彼は彼女の手を引き、少し前を歩く。

754 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/31 21:30:58.94 X4XriL7N0 396/658


本を開く。
近頃は寝る前に一冊読むのが習慣になりつつある。
欠伸を噛み殺し、トールは文字を視線でなぞった。
神話を元にした恋愛小説だ。
なかなか文学的な表現が多く、読んでいて目に楽しい。
こういった何でもないものから術式のヒントを得ることもある。
勉強はしておいて損はない。人生という観点で見れば。

「……」

もそ。

少し肌寒いのか、フィアンマはトールのストールを引っ張った。
しゅるしゅると解き、さながら恋人マフラーのように自分の身体を包んだ。
彼女の身体が細めとはいえ、ストールはそんなに大きくない。
若干の身狭さに眉根を寄せ、トールはフィアンマを見やった。

「…そのまま寝るなよ」
「んー……」

聞いているのか、いないのか。

生返事をしながら、彼女はうつらうつらとしている。

「………」

妥協して、本を読み直す。
今は読書の方が大切だ。それに、密着することが不愉快という訳ではないのだから。

755 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/03/31 21:31:28.00 X4XriL7N0 397/658


彼女なりの甘え方なのだろうか。
本を読み終えて横を見たトール。
しかし、フィアンマに目を覚ます様子は見られなかった。

「……また風邪引くだろ」

毛布を引っ張り、彼女の体にかける。
あまり揺らすと起こしてしまうので、それ以上は触れないでおいた。
部屋の電気を消し、手を伸ばす。
座ったまま寝るとなると、明日どこかが痛むことは免れない。
けれど、今は明日のことより、今この瞬間を優先しよう。

「……おやすみ」
「……ん…」

トールの肩に頭を乗せたまま、彼女は僅かに身じろいだ。

「……動き辛え」

呟きながら、トールも目を閉じる。
愛とは、どこまで譲歩出来るかである。

764 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:28:30.24 evUITb5r0 398/658


「お帰り」
「ただいま。……って何だこりゃ」

トールが帰ってきて最初に目にしたものは、ハンバーグのようなものだった。
ただし、何やら輝きが違う気がする。

「ハンバーグ型プリンだよ」
「……プリン?」

確かにカラメルのような匂いはする。
恐らく、このデミグラスソースのようなものだろう。

「たまには趣向を変えて菓子作りをしようと思ったんだ」
「ケーキ屋でも始めた方が良いんじゃねえの」
「『恋が叶うクッキー』とかか?」
「ああ、『恋が叶うクッキー(黒魔術)』みてえな」
「俺様は黒魔術など使わんぞ」
「知ってるよ。っつーか、ローマ正教は悪魔崇拝と程遠いだろ」
「媚薬の数滴なら」
「なあ、俺はそれに対して突っ込むべきなのか?」

ひとまず席について、一口。
まずくはない。プリン部分はおいしい。

「……カラメル苦いな」
「手が滑った」
「やっぱ普通のハンバーグ食いてえ」
「カラメルソースで良いか」
「おいコラ」

765 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:29:08.05 evUITb5r0 399/658


「……何だ、唐突に」
「いいから座ってろって」

午前十時半ちょっと過ぎ。
椅子に座らされ、フィアンマは困惑していた。

「日頃の報復」
「…報復?」

何かしただろうか、とフィアンマは小首を傾げる。
動くなよ、と窘められて元に戻した。
何となく落ち着かないのは、髪に触れられる感触のせいか。

「んん、……」

トールの指先が、肩を少し越えた程度の髪を撫でる。
前髪こそ切ってはいるが、近頃後ろ髪は放っていた気がする。

「いつも俺の髪ばっか触るだろ?」

やられっぱなしは気に入らない、とトールはフィアンマの髪をいじり。

「ついでだからあれもやっとくか」
「……『あれ』?」

766 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:29:36.06 evUITb5r0 400/658


かれこれ一時間程髪の毛に香油を塗られている。
こんなに甘い昼下がりは初めてかもしれない。

「……」

トールの触り方は丁寧で優しい。
美容院で眠くなるのと同様に、徐々に眠気が押し寄せてくる。
添い寝と同じ理屈である。人肌は心地が良い。
蜂蜜のような甘い匂いが、ことさらに眠気を誘う。

「ん……」
「眠いのかよ」

ぺたぺたと髪の毛にトリートメントを馴染ませつつ、彼は問う。
素直に頷き、フィアンマは我慢して目を開ける。
しかしやはり眠気により、うつらうつらと身体が揺れた。
自分とはまったく違う色合いの彼女の髪に触れつつ。

「寝ちまえよ。飯は適当なのでいいだろ?」
「……」

こくん。

頷いて、そのまま眠りに堕ちる。

767 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:30:14.81 evUITb5r0 401/658


目を覚ますと、既に髪は乾かされていた。
目を覚ました場所はベッドであり、彼が移動させてくれたということは明白だった。
そもそもが彼の自己満足から始まった行動な訳だが。

「……、…」

髪はいつになくつるつるさらさらとしていた。
甘い匂いもする。
眠っている間ずっといじられていたのだろうか。
それにしても目を覚まさなかった自分には警戒心が足りない。

「…その必要もないから、か」

心のどこかで、危険な目に遭っても彼が守ってくれるとタカをくくっている部分はある。
それはきっと悪いことだけれど、良いことでもあるだろう。
少なくとも、彼は頼られると尚更パワーアップするタイプのようだから。

「トール?」
「ん、何だよ」

キッチンに立つ彼の姿が窺えた。
立ち上がり、フィアンマも手伝いに向かう。

768 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:31:06.60 evUITb5r0 402/658


作っていたのはサンドイッチだった。
トマトとハム、マヨネーズにレタスと彩の良いものだ。
切り落としたパンの耳を口に咥え、彼は黙々と作業をしている。

「…美味いものなのか?」
「いや、腹減ってるから食ってるだけだ」
「……」

あむ。

トールの口から長く飛び出たパンの耳を咥えて奪い、むぐむぐと咀嚼する。
特に何の味もしない。無味とまではいかないが、美味というものではない。

「……」
「……」
「…んー」
「人の口から奪っておいて微妙な唸り声出すんじゃねえよ」

トマトの切れ端を食べつつ、トールはそういって。
ぷい、と顔を逸らしたが、怒った様子はない。

「……段々わかってきた。照れか」
「うるせえ」

769 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:31:48.66 evUITb5r0 403/658


きゅ、きゅ。

ソファーに二人で並んで腰掛け、約一時間。
自分の手を握ったまま、何やら指先を動かすトールにフィアンマは眉を潜めていた。
何をしているのかさっぱりわからない。
痒みや熱い、或いは冷たいというのなら離せば良いだけの話。

「…先程から何をしているんだ?」
「いや、何も?」

誤魔化してはいるが、何かをしている。
自分の左手がそんなに珍しいのか、とフィアンマは首を傾げざるを得ない。
こと、頭脳戦において鋭い彼女は、得てして鈍い部分がある。

(細いな。……片側が…9号…ってやつか?)

脳内の知識と照らし合わせながら、トールは頭を悩ませる。
普通なら勘付かれるような行動で彼が行っているのは、指のサイズの計測だ。
握った感触と目測でもって、左手薬指のサイズを計測せんとしている。

「……」
「…こそばゆいのだが」
「悪い」
「……離す必要はない」

咄嗟に手を離したトールに対し、フィアンマはごにょごにょとそう告げる。
彼は少しだけ考えて、再び彼女の手を握った。

「……ん、よし」
「…何の話だ?」
「気にすんな」
「……?」

770 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:32:25.12 evUITb5r0 404/658


「…そういや好み聞くの忘れたな」

フィアンマからの通信術式はない。
つまり、彼女の身に危険はないということになる。
一人、外出中のトールは常に彼女のことを気にしながら、店の前に立っていた。

「おー、トールじゃねえか」
「あん?」

視線を向ける。
いかにも軽薄そうな青年が、ひらひらと手を振っていた。

「何見てんの?」
「見たらわかるだろ。宝石」
「へえ。宝石魔術はフレイヤ…はもう居ねえも同然だけど、あっちの専売特許じゃ」
「そうじゃねえよ」

プレゼントの方。

そう答えた途端、ウートガルザロキの表情が下卑た笑みに変化する。

「……"男の責任"取る位進んじゃった?」
「ぶん殴るぞテメェ」

実際には、そこまで至っていないのであった。
トールの暴言は八つ当たりである。

771 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:33:00.29 evUITb5r0 405/658


「やっぱコーヒーはコーヒー店に限るな」
「ああ、うるさいもんなトール」
「そうか?」

ちょっぴり汗をかいたグラスを手に持ち、アイスコーヒーを飲む。
ガムシロップもミルクも入れていないが、美味しい。
何も手を加えなくても美味しいのが真のコーヒーだ、とトールは思う。

「お前はどうしてたんだよ?」
「んー、ちょいちょい転々と。そうそう」
「?」
「シギンちゃん拾った」
「へえ。生きてたんだな」

素っ気ない言い方になるのは、トールもシギンも所詮『グレムリン』のみの付き合いだからだろう。
そもそもトールは裏切り者であるし、シギンは裏切る以前の問題だ。
ウートガルザロキはのんびりとメロンソーダを飲み。

「ま、ちょいと手足に問題は遺ってるみたいだが、概ね無事。
 今は『助言』してもらって色々やらせてもらってる。俺がね」
「戦闘とかか?」
「トールちゃんと一緒にしないでくれよ。ギャンブルとかその辺?」
「もうそれ『予言』だろ」

炭酸きっつー、などとぼやきながら彼は甘い液体で喉を潤す。
滅茶苦茶香料がキツそうだ、なんてトールは感想を抱き。

「トールの方はどうなんだよ」
「俺? 見た通りだ」
「指輪決めらんなくて帰れない感じ?」
「決められなくても必要ならいつでも帰るけどな」
「いいねえ、お熱くて。……ついでだし『助言』してもらうか?」
「……悪くない案だな?」

772 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:33:34.64 evUITb5r0 406/658


『久しぶりだね』
「ああ。で、早速助言もらっていいか?」
『私に出来るのは助言だけだからね。どうぞ?』
「恋人に贈る指輪」
『予算と、恋人の性別は?』
「予算は……二億九百七十三万二百七十八万ユーロ」

円にして約三○○万円、といったところ。
口笛を吹いて茶化すウートガルザロキを無視して、トールはシギンとの通信を続けた。

『ストロベリークォーツとダイヤモンド、と助言しておこう』
「ほかにはねえのかよ」
『細めのリング』
「……どうも」
『相手が喜んだら教えてね』

通信を終える。
いつも通り、というか、少し前と変わらない話し方だった。

「決まった?」
「ああ。結局セミかフルオーダーになっちまいそうだ」
「予算はたんまりあるんだし良いんじゃねえの」

773 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/02 22:34:06.41 evUITb5r0 407/658


ストロベリークォーツは天然石であり、恋愛に関する石である。
他人の欠点に対して寛大になる、なんて効果もあるらしい。

「ようこそ」
「オーダーしたいんだが」
「はい、ありがとうございます。ではこちらの…」

ウートガルザロキと別れてから、すぐ宝石店へ戻る。
内容さえ決まってしまえば、頼むことは辛くない。
そして、大して時間もかからない。

「ありがとうございました」

出来上がり次第連絡する、とのことで。
トールは店を後にし、ゆっくりと街を歩く。
のんびりとした雰囲気は退屈だが、悪くない。

「…喜ぶと良いけどな」

今まで、自分が何かをあげてフィアンマが喜ばなかったことはない。
泣く程嬉しがったこともあるし、はにかんだこともある。
ぎゅう、と抱きしめて嬉しそうにしていたことも。
それに、今回はシギンに『助言』してもらったのだ、なおのこと、きっと喜んでくれるはずだ。

「これから帰るけど、何か欲しいものあるか?」

通信を仕掛け、独り言のようにトールが問いかける。
対して、フィアンマはというと。

『耳栓が欲しい』

……隣部屋の喘ぎ声がうっすら聞こえて辛いので、とのことである。

779 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/03 22:55:15.01 xQ+WGhwm0 408/658


トールが戻って来たタイミングで、『行為』は終了したらしい。
気まずそうなフィアンマはというと、気をまぎらわす為にお菓子を作っていた。
痩せるだの何だのと言っていたのはどうなったのだ、とトールは思いつつも黙っておく。

「久々にウートガルザロキの野郎に会った」
「元気そうだったか?」
「まあな」
「そうか。良かったな」
「…で、何作ってんだ?」
「何だと思う?」

はぐらかしながら、彼女はオーブンに生地を敷いた紙皿を入れた。
既に余熱してあったらしいオーブンから漂う熱気に、トールは目を細め。

「シフォンケーキ」
「正解」

780 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/03 22:55:51.75 xQ+WGhwm0 409/658


クイズ正解者に素敵なご褒美。

とはいってもケーキだったが。
紅茶の茶葉を入れたらしいシフォンケーキは、甘さ控えめでとても美味しい。
品の良い味と言えば良いのか、紅茶の香りがほどよく鼻から抜けていく。

「紅茶のケーキを紅茶で食うってのがな…」
「何か問題があるのか?」
「矛盾みてえなやつを感じる」
「ミルクティー味のケーキをレモンティーで食べることに矛盾があるのか?」

首を傾げ、フィアンマは紅茶を啜る。
レモンティーはフレッシュレモンでも濃縮還元果汁でもなく、レモンピールで淹れた。
なので、砂糖が少し溶けていてほどよく甘い。
ちょっとお上品が過ぎて物足りないような、とトールは思いながら。

「そういや」
「ん?」

思い出した、といった様子で、彼は自らの懐を探る。

781 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/03 22:56:27.04 xQ+WGhwm0 410/658


「そろそろ居場所移そうと思ってさ」
「なるほど」

トールが取り出したのは、色とりどりのパンフレットだ。
多くのホテル名と、その特徴、相場が書かれている。

「国から出るつもりはないんだな」
「ちょっと野暮用があるからな」
「喧嘩相手でも?」
「んー、あー、そんなようなモン…ってことで」

じと。

不貞を疑う視線だ。
ピリリと辛い雰囲気をやんわりと口先三寸で誤魔化し。

「ケーキ部屋だってよ。内装が菓子なんだと」
「……ベターな選択だ」

パンフレットの中身、その一つを指差す。
彼女の視線は自然とそれに吸い寄せられ、目先の危険は回避した。

782 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/03 23:00:44.04 xQ+WGhwm0 411/658


景色が良くても特に意味はない。
安すぎると居心地が悪いかもしれない。

のんびりと、対立するでもなくホテルを決める。
一つの場所に滞在し過ぎると、襲撃を受ける恐れがあるからだ。

「朝食がビュッフェ形式か」
「ワッフルばっかじゃねえか」
「ワッフルだぞ…?」
「その『え、何で?』みたいな顔やめろ」
「こちらは良いな」
「ルームサービス充実してるな」

日が暮れていき、パンフレットを閉じる。
そろそろ夕飯時だ。
いつまでも遊んでいる場合ではない。

「今日の晩飯のメニューは?」
「ハンバーグと肉団子と…肉まん」
「何も考えてねえなら素直に言えよ!」
「ひき肉を買いすぎてしまった」
「あー………パスタにするか」
「ミートソースということか?」
「ボロネーゼとハンバーグ」
「……」
「…何だよ?」
「そんなに食べられるのかと少し心配になっただけだ」
「問題ねえよ」
「……」
「……」
「……そんなに状態の悪いひき肉なのか?」
「……一晩放置してしまったというか、……」
「……"えへへ"って顔で全部許されるなら世の中魔術師要らねえんだぞ」

783 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/03 23:01:55.59 xQ+WGhwm0 412/658


チェスをしよう、と言いだしたのはどちらだったか。
食後に頭を使って消化を促進する、という目的と。
お互いに相手にやらせたい罰ゲームを胸に、トールとフィアンマはチェスをすることにした。

「負ける気しかしねえ…」
「五番勝負にするか?」
「そうだな」

駒を交互に動かしていき、お互いに囲い込みをする。
トールは性格も手伝ってか、攻めを主体とした打ち方だ。
フィアンマはというと、じわじわと周囲から攻める。

「……性格が出るな。こういうゲームは」
「思考ゲームなんてのは大体そうだろ」
「罰ゲームは何をさせようかな」
「既に勝った気マンマンでいやがる…」

実際、トールは劣勢だった。
既に二回戦は敗北しているし、このまま一度でも負ければ終わってしまう。
フィアンマはニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべ、罰ゲームを考えていた。

784 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/03 23:02:32.93 xQ+WGhwm0 413/658


結果は引き分け…かに思われた。
トールの攻め一本の手が功を奏し、フィアンマを数度押し負かせた。
そして今は、延長戦。
二人のどちらかは、どちらかの要望を聞かなければならない。

敗者は勝者に陵辱されるのみ―――これは、古来からの決まりごと。

「………」
「……どうした? 続けてくれ」
「今考えてる」

ため息を飲み込み、トールは駒を手にしたまま眉根をぐっと寄せた。
負ける訳にはいかない。対戦中に浮かんだことを是非やらせたい。

「……」
「……」
「……」
「……ここだ」

駒を置く。
視線を向けた先、彼女は困った顔をしている。

「……俺様の負けだ」
「打たねえのか?」
「もう勝つことは不可能だ。打っても意味がない」

盤面から鑑みるに、そんなことはないはずだが。
勝ちを譲ったのか、はたまた。

「……それで」
「?」
「俺様にさせたい罰ゲームとやらは何だ」

腕を組み、脚を組んで優雅にふんぞり返る。
とても投了した人間の態度とは思えないが、それは置いておく。

785 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/03 23:03:15.58 xQ+WGhwm0 414/658



「聖天使ミカエロメイドと裸エプロンどっちがいい?」
「どっちもいやだ」
  

793 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:54:09.94 QDJ8uQLI0 415/658


時は日中に遡る。
忘れ物がある、と言いだしたウートガルザロキに付き合い、トールは駅に居た。
駅のロッカーからアタッシュケースのようなものを二つ取り出した青年は、のんびりと伸びをして。

「お待たせ」
「全部取れたか?」
「おー、これで全部」
「…で、渡したいものってのは?」

何もないのにロッカーへ寄るのに付き合う程、トールは女性的な感性をしていない。
彼が何故ここに来たかというと、ウートガルザロキの『あげたいものがある』という発言のためだ。
要らないから帰る、と急ぐ用件もなかった。

「これこれ、えーと……こっち」

アタッシュケースに付箋でもつけていたのか、ウートガルザロキは両方を見比べ、一つを手渡した。

「嵩張るな。中身だけくれよ」
「恥ずかしいと思うけど、俺」
「…何なんだよ?」
「ちらっと開けたらわかる。まー、あれだ。
 大親友の俺の心からの贈り物ってことで」
「……?」

唆されるまま、少し開けてみる。
中に見えたものは、二着の衣装。

794 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:54:38.05 QDJ8uQLI0 416/658


「………エプロン…とメイド服…か?」
「そうそう。メイド服の方は聖天使ミカエロメイド服とかいうやつ」
「何に使うんだよ、こんなの。霊装か何か?」
「何でも戦闘に結び付けんなよ。彼女にでも着せたら雰囲気出るだろ。
 本当は取引に使うモンだったけどやるよ。今日キャンセルされちまったし」
「どういう取引だよ……」
「これで脱どーていしてくれれば俺としては」
「童貞じゃねえよ」

ツッコミを入れつつ、トールはホテルに。
クローゼットにアタッシュケースを押し込み、チェスをして、今に至る。



そんな流れで、トールは先述の罰ゲームを提案した訳だった。
『どちらも嫌』なんてわがままは通らない。
選ばれなかったが故に、フィアンマは二着共を着用することになり。

「……まだかよ?」
『まだだ』

脱衣所に引きこもり、かれこれ一時間程出てこないのだった。

795 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:55:06.39 QDJ8uQLI0 417/658


(………考えろ)

かつて世界の流れ全てを我が物顔で掌握していた少女は、衣装を手に迷っていた。
まずはメイド服を着るにしても、そのままではプライドに傷がつく。
何としても自らの自尊心は保ったままにメイド服を着用したい。
幸いにも目の前で着替えろとの指定はなかった。
ということは十分に工作時間が与えられたも同然。

(俺様に出来ることを)

助けはない。
自分の体ひとつで、目の前の現実と戦わなければ。

絶対にある、たったひとつくらいは突破口が―――。

「……、」

しゃがんだ状態から立ち上がり、フィアンマは今着ている服を脱ぐ。
黙々と脱ぎながら片手間に、懐から取り出したチョークで魔術記号を描いた。
もう使う必要はないだろうと思っていた変装術式である。
見目を青年のそれにすればきっと恥ずかしくない、と思った次第だ。
変装術式を使ったところで衣装は変わらないものの。
ぱんつじゃないから恥ずかしく以下略理論で、フィアンマは衣装を着用する。
身長が伸びた分、スカート丈は短くなったが、問題はない。

「……堂々としていればかえって羞恥心は消えるはずだ」

うん、と頷いて。
衣装を身につけ終え、フィアンマは脱衣場のドアを開ける。

796 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:55:37.65 QDJ8uQLI0 418/658


脱衣所からようやっと彼女が出てきた。
トールは退屈そうな表情をやめ、そちらを見やる。
非童貞だろうが雷神だろうが男は男だ。
自分が好意を抱く女の子が可愛い衣装を着れば見るに決まっている。

赤を基調とした長丈シャツ。
ふわふわとした白パニエで膨らませた、赤いミニスカート。
絶対領域を形作る、白いガーターベルト。
白レースのエプロンはややシンプルな仕上がり。。
胸元には、トールがプレゼントしたループタイがいつも通り揺れていて。
ヘッドドレスは天使の輪っか仕様になっており、部屋の照明光を受けて艶めく。
シャツは襟がレースになっているもので、ボタンはさほど開いていない。
しかし、多分に透け素材を使用されているため、ほとんど素肌が見えていた。
重要な部分はエプロンで隠されているのが、一段と卑猥で。
袖は所謂ドレス袖であり、二の腕部は締まり、手首側につれ、広がるデザイン。

スカートから伸びる脚は細く。
ヘッドドレスは彼女を可愛らしく見せた。
大幅に控えめな胸はエプロンをほんの少し押し―――押し上げ―――、


「……何で男の見た目なんだよ」
「羞恥心を徹底排除するためだ。残念だったな?」
「………」

変な気起きそう、とトールは頭を抱える。
彼女のことは愛しているし、男の見目でも判別は出来る。
出来るが、ここでいやらしい気分になってはいけない気がした。

「ちくしょう……」
「充分だな。ならこれで」
「いや待て。俺はまだ裸エプロンを見てねえ」
「……」

話を終わらせようとするフィアンマに対し、トールはそう告げた。

「このままの見目で良いのか?」
「好きにしろ。こっちにも考えがある」

797 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:56:30.54 QDJ8uQLI0 419/658


諦めの悪い。

そんなところに救われたのもあって、咎めはしないものの。
フィアンマはメイド服を脱ぎ、下着も脱ぎ、裸になった。
エプロンの着用は手馴れたもので、一人で出来る。
そもそも料理の際に何度もしている。
にも関わらず着せて何が楽しいのか、とフィアンマは首を傾げ。
自分にはわからないけれど、何がしかの面白みがあるのだろう、と頷いた。

「…しかし心許ないな」

青年の体ということはつまり、大事な部分も男である。
こんな丈の短いエプロンで大丈夫なのか、とフィアンマは眉を寄せた。
しかし背に腹は変えられないし、恥ずかしいよりはマシだ。
素の自分の肉体のまま着用しようものなら、きっと顔を上げられない。

「………」

ぐい、と地味に布を引っ張ってみる。
だめだ、伸びない。
そういう生地を使っているらしい。

798 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:57:06.87 QDJ8uQLI0 420/658


よもや、青年の体で出てこようとは。
彼女の扱う術式について完全に失念していた、とトールは机に突っ伏す。

「クソ……」

やられっ放しは性に合わない。
何としても、彼女を元の身体に戻してみせる。

「……あれは確か」

変装術式の解析。
天使に明確な性別はない、というところからの派生逸話によるものだったはず。
となると、使われている記号も割り出せる。
どうやって妨害すれば良いのか、一生懸命頭を働かせた。
魔術師の戦いとは、本来このようなものだ。
そのために、禁書目録などという図書館まで作り出された程、解析は重要な作業。

「こっちで味付けしておくか」

入ってきた瞬間、変装術式が失敗するように。
笑みを浮かべ、トールは懐から木の板のようなものを取り出した。

799 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:58:04.26 QDJ8uQLI0 421/658


もうそろそろ、とフィアンマは脱衣所から出た。
ぺたぺたと歩き、トールを探す。

「トール」
「着替え終わったのか?」

ニヤニヤ。

余裕に満ちあふれた者の笑み。

(……何だ…?)

本来ならば、まだ術式を解いていない自分に落胆するはずだ。
だというのに、どうしてトールは笑っていられる。

「………」

視線を四方八方に。
変わったところは見られない。

「……、…」

だとすれば、別のものを見て笑みを浮かべている?
そのようには見えない。彼は自分を見ている。

「まだ気づかないのか? おいおいフィアンマちゃんよ。
 俺も魔術師だぜ? 何も直接戦闘しか出来ないって訳じゃない」
「…………」

まさか。

まさか、まさか、まさか―――――

800 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 22:59:05.49 QDJ8uQLI0 422/658


自分の身体を見る。
何も変化はなかった。
いいや、正確に言えば『変化』が『なかったこと』になっている。
部屋に手を加えて、自分の術式を妨害したのか。

「っ、ぁ」

水着姿や裸姿は見せたことがある。
タオル一枚のあられもない姿だって。
でも、だけど、あの時は心の準備が出来ていた。

エプロンは薄い薄いピンク。
白に近い、パステルカラー。
一部レースがあしらわれているが、実際にはシンプル。
エプロンの生地は決して分厚くはなく。

「あ、ぁ、」

緊張による汗で透けているかもしれない。
それを思うと一気に体温があがった。
ぼっ、と顔を真っ赤にして、フィアンマは絨毯に座り込む。
咄嗟に自分を抱きしめ、自分を隠すものを探した。
ベッドの上に毛布はない。トールが悠々と畳んでいた。

「ひ、きょうだ、こんな、こんなの、」
「お前に言われたくねえよ」

毛布を壁際に寄せて、トールはフィアンマに近寄る。
そして彼女のエプロンの肩紐を指先でいじり、笑みを浮かべたまま。

「顔、見せろって」
「……う、ぐ、……」

801 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 23:00:08.30 QDJ8uQLI0 423/658


恥ずかしい。
勝利を確信していたのに、気づかなかった。
ぎゅ、とエプロンの生地を握り締め、フィアンマは脚をすり合わせる。
寒いのではない。ただひたすら、恥ずかしいばかり。
正に穴があれば入りたい、といったところか。

「……トール…」
「泣きそうな声出したってダメだ。お前が負けたのが原因だろ?」
「先程の衣装の方がまだマシだ、」
「そっちのチャンスで俺を騙したのはフィアンマだ」

ことごとくズバズバと言われ、フィアンマはじわりと目に涙を浮かべる。
結構打たれ弱いのはわかっているはずなのだが、容赦がないようだ。

「……」
「、っ」

髪を撫でられる。
嫌という感情は、当然ながら湧かない。
俯くその顔に触れられ、指先であげられる。

「可愛いってよりはエロいな」
「……変態なのか。お前は」
「どう思う?」

はぐらかし、トールは彼女のエプロンに手をかける。
脱がしはしない。ちょっとズラすだけだ。

「……恥ずかしい、からせめて毛布、」
「ダメだ」

802 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/05 23:01:32.88 QDJ8uQLI0 424/658


エプロンをずらして愛撫をされると、非常にインモラルな感覚がする。
日常的な、実用的なものを着ておきながら、していることは本来の目的と程遠い。

「ん、ん……」

肩紐を下げられ、やんわりと胸を揉まれる。
痛いような気持ちいいような、不可解な感覚。
腰を抱かれ、肩に甘く噛み付かれる。
キスマークをつける程には、強くない。

「トール、」
「何だよ」
「……好きだよ」
「ん」
「俺様が『こういう』ことを許すのはお前だけだ」
「………」

満足げな表情を浮かべるトールに、フィアンマは目を細める。
手を伸ばし、指先で彼のストールを解いた。

「キス、してくれないか」
「俺が起きて、"いつも隣に居る"しな」

約束を守っている、から。

喘ぎ声をかき消すように口づけられ、息を止める。
すきだ、とうわごとのように繰り返し、フィアンマは身を任せることにした。

810 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:05:44.20 Dfhriziv0 425/658



膨らんだ腹を、自ら摩る。
肥満したそれではなく、『中身』は命だった。

『トールに似れば良いのだが』
『どうだかな』

でも、どっちかには似るし、きっと可愛いだろう。

彼はそう言って、幸せそうに自分の腹に耳をつけた。
とすとす、と揺れ動く胎内。"蹴った"らしい。
医者からは女の子だろうと診断されている。
女の子は父親に似るというから、トール似だろうと思う。

『名前決まんねえな……』

名前占いの本を開き、青年は深々とため息をつく。
名づけを一任してしまったので、彼は非常に張り切っていた。
平凡で、幸せな運命が約束された名前がベスト。

811 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:06:21.67 Dfhriziv0 426/658


『…その様子だと子煩悩になりそうだな』
『俺自身もそう思う。悪いことじゃねえだろ?』

それにしても服などを買い漁り過ぎなのでは。
もはや浪費の域に達している育児道具購入量を鑑みて、フィアンマは苦く笑った。
しかし、それだけ、彼が子供のことを楽しみにしているのだとわかる。
優秀な助産師の居る病院を選び、絶えず体調を気にしてくれて。
今までも少々心配性気味なところはあったが、近頃は更にその傾向が顕著だ。
悪い気分にはならない。彼も自分も、両親は居なかった。
だからこそ、良い親になりたい。いや、平凡で、幸せな家庭を築ければそれで良い。
『特別』や『最善』がどれだけくだらないものが、よくわかっているから。

『女の子と言えば可愛い名前か…そうそう名前負けはしないだろうしな』
『あまり目立たせてもな……』

臨月に入って、悪阻はなくなった。
体調は比較的安定しているし、病院の定期検診でも何も言われない。

『…ま、俺が心配してるのはどっちかっつーとフィアンマだけどな』
『自然分娩の内は問題ないと思うがね』
『死ぬなよ、頼むから』
『俺様個人としては死ぬつもりなどまったくない』

ストールの端っこを弄り、トールは本を熟読している。
よもや自分が誰かと愛し合い、母親になるとは思わなかった。
思わなかったけれど、今この時を、心から幸せだと思う。

812 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:07:28.14 Dfhriziv0 427/658


「……ん…、」

目が覚めた。
昨日の性行為のせいか、妙な夢だった。
脂肪の少ない太ももで挟んで擦ったところで、彼は本当に気持ちよかったのだろうか。
あまり思い出すと羞恥でベッドから出られなくなるので、首を横に振って払拭。

「…んー……」

今朝の彼はまだまだ眠いらしい。
もぞもぞと身動き、未だ眠っている。

「……おはよう」

ぽつり、と挨拶をして。
まだ起き上がる気にはなれなくて、ひとまず下着だけ身に着ける。
近寄って手に触ると、無意識下で抱きしめられる。
もしかしたら抱きつき癖なんてものがあるのかもしれない。
以前、飲酒をした際には自分が先に酔ってしまって何も覚えていないので、断言は出来ない。

「トール」
「ん……」

目が開いた。
綺麗な目だ、とフィアンマは思う。
自分の髪と正反対の、青い瞳。

「……はよ」
「おはよう」

813 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:08:53.79 Dfhriziv0 428/658



「さて、」

長い髪を無造作にポニーテールにした青年は、退屈そうに伸びをする。
風に靡く金髪は、とても長い。
長身である彼の腰を軽々と過ぎる程度には。
透き通ったアイスブルーの瞳は、美しい景色を一瞥。

「……無事こっちに来られたことだし」

帰省した若者のような調子で、彼はそう言って。

「始めるとしますか」

うっすらと笑みを浮かべ、彼は右手を軽く振る。
たったそれだけの動作で、小さな村はまるごと『潰れた』。

814 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:09:39.81 Dfhriziv0 429/658


「内戦が起きたんだってよ」
「内戦?」

ほら、とトールが見せてきた新聞。
イタリア語で書かれたそれを、フィアンマはじっくりと視線でなぞる。

「自然災害……食糧の奪い合いか」
「こればっかりはどうしようもねえよな…」
「行くのか?」
「俺が行っても、どっちかが勝つだけだ」

戦争を止めるのは俺の仕事じゃない、と肩を竦め。
彼はのろのろとスクランブルエッグを口に運んだ。
今日の朝食は喫茶店で優雅にモーニングセットである。
むぐむぐとハニートーストを口に含み、フィアンマは新聞を読む。

「……突然雷鳴が鳴り響き、大雨洪水。
 片方の村が火災を起こし、混乱した住民が他の住民を撲殺。
 死体ひとつ残さない程の撲殺はあまりに猟奇的で、その住民の出身村が報復を開始……」
「妙な事件だ。若干、俺たち<オカルト>の香りがするな」
「…似たようなニュースがもう一件ある」

新聞を彩るのは猟奇的な事件ばかり。

「こちらは連続殺人。…撲殺か」
「妊婦専門の強姦魔に、少女誘拐殺人犯。
 罪を償って刑務所出たところを一撃で……」

喫茶店内に設置されたテレビは、控えめに新聞と同様の内容を報道している。

「……何なんだろうな。どっかの馬鹿が術式の試し撃ちでもやってんのか…?」
「………」

815 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:10:34.20 Dfhriziv0 430/658


小さな内戦は、第三次世界大戦後の殺伐さも手伝って戦争を生み始める。
個人同士の殺人のケースも増えてきていた。
新聞やニュースは、そういったニュースばかりを報道している。

『痴情の縺れか、男が交際相手を殺害』
『詐欺行為を働いたとして女性を集団暴行』
『いよいよ戦争か、――――が軍資金を増資』

「……いよいよ殺伐としてきていやがるな」
「誰も止められんのか……ああ、その辺りは俺様のせいだがね…」

自分の起こした第三次世界大戦の余波が、今も尚人々を凶行に駆り立てやすくしているのか。

フィアンマは目を伏せ、トールはそんな彼女を慰めることしか出来なかった。
今の彼女には、世界の流れを変えて戦争を止める術も持たない。
世界の流れをがらりと変える権力者は、フィアンマが使い潰してきた。

「……捨てっぱちになったロシアが死力を尽くすかもしれんな」

核爆弾を改造するかもしれない、とフィアンマは呟いた。
喫茶店で見たニュースからたった三ヶ月で、状況は最悪のものになりつつある。
第四次世界大戦勃発か、などという煽り文もよく目にするようになってきた。

「出かけてくる」
「フィアン、」
「……少し。一人にしてくれ」

トールの手を振り払い、フィアンマは外へ出た。
部屋に居れば、際限なく甘えてしまいそうだったから。

816 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:11:07.61 Dfhriziv0 431/658


「相席をさせてもらいたい」
「ああ、構わな―――」

人気の少ないカフェに、一人。
大して混んでもいないのに、とフィアンマが顔を上げた先。
そこに立っている少女は、ふんわりとした金髪の。

「……、」
「…久しいな」

魔神オティヌス、だった。
薄く笑みを浮かべ、フィアンマは首を傾げる。

「…元気だったか?」
「お陰様で、といったところか。……ブレンドをひとつ」

店員にそう注文し、彼女は黒いタートルネックセーターの首元の生地を折り返す。

「ヤツとは一緒に居ないのか」
「トールのことか。……少し、一人になりたかった」
「私は邪魔か?」
「そういうことではない。……甘えてしまいそうだったからな」

カフェモカを一口飲み、口に広がるチョコレートの甘味に息を吐く。
甘ったるい吐息に嫌な顔をするでもなく、オティヌスは運ばれてきたブレンドを一瞥し。

「近頃世界の様子がおかしいことには」
「気づいているとも、勿論。…だが、俺様には何も」
「その件で言っておくことがある」
「言っておくこと?」

ブレンドにミルクをたっぷりと混ぜ、オティヌスは僅かに言いよどむ。

そして。

817 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/06 22:11:43.87 Dfhriziv0 432/658
















「先日起きた撲殺による大量虐殺事件。未だ特定されない――――犯人は、雷神トールだ」

823 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:16:24.41 7yf7VPgC0 433/658


オティヌスの発言と同時。
フィアンマの脳裏に浮かんだのは、週刊雑誌のニュース欄。
とある宗教団体の集められたビル内で行われた大量殺人事件。
三百人を優に超える人々は、一人残さず女教祖に撲殺された。

「……だがあの犯人は」
「女教祖という話だったな。…犯行を否定している」

その時間、違う場所に居た。
アリバイこそあるものの、残された指紋などは全てその女教祖のもの。
証拠は充分、自白の裏付けを取り次第死刑だろう、という話が流れている。

「……トールは犯行時間、俺様と一緒に居た」
「………」
「だから、トールがそんなことを行える訳がない。
 そもそも動機がないだろう。どうしてそんなことをする必要が?」
「私にもそれはわからない。だが、見たことしか話していない」
「見た…? トールを、現場で?」
「ああ」

オティヌスを、見つめる。
嘘をついているようには思えない。
そもそも、そんなことで嘘をついても意味がない。
困惑させて苦しめるような関係ではない。
既に和解しているのだから。

824 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:16:55.46 7yf7VPgC0 434/658


「魔術師は唐突に発狂す(到達す)ることがある」

(元)魔神たる少女は冷静にそう告げて、コーヒーを啜る。
温かい飲み物を口にしているはずなのに、フィアンマの体温は下がっていった。
血の気が引く、という感覚に近い。

「それは、……わかって、いるだろう?」

魔術師。
もとい、魔術とは人間にとっての『毒』だ。
魔道書図書館にいくつもの防護機構が組み込まれているように、その知識は危険なもの。
目を縫って毒を抜く必要がある原典は、その最たるものだ。
魔術を学ぶ過程で多少の『汚染』は免れない。
特殊な才能や体質を持っていない限り。そして、トールは正にそのパターンだ。
努力だけで世界のトップランカーと渡り合う程の実力を持つ彼は、それに見合う努力をしてきたはず。
戦闘行為だけでなく、多くの魔道書を読みあさって今日を迎えているはずだ。
となれば、今更になって『汚染』のツケがあってもおかしくはない。
ましてや、彼は過去よりフリーの魔術師。術的防護に、教会世界の支援は望めない。

「………、……」
「……もしそういった精神状態で一連の事を起こしているのなら、」
「お前の見間違いかもしれないだろう?」
「……フィアンマ」
「そんな状態なら、俺様が気づかない訳がない。
 きっと他人の空似だ。こんなに広い世界ならば、何人かトールに似た男だって居る」

ふるふる、と首を横に振って否定し、フィアンマはカフェモカを飲み干した。

「……そんな訳がない。……無いんだ」
「仮にそうであった場合危害はフィアンマにも」
「だから、……違うと言っているだろう」

空っぽのカップを置き、フィアンマは立ち上がる。
オティヌスの前に自分の分の代金を置き、外へ出た。
吐き気がする。目眩も、だ。

825 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:17:40.14 7yf7VPgC0 435/658


「………戻った」
「おお、お帰り」

あまりにも退屈だったからか、トールは霊装の手入れをしていたようだった。
笑顔でフィアンマを迎えいれ、彼は霊装を片付ける。
何か飲むか、と彼は冷蔵庫を覗き込んで。

「……トール」
「ん? 何だよ」
「…トールは、俺様を信頼しているか?」
「な、…何だよ急に。そういうのは口に出すもんじゃねえだろ」

恥ずかしいし、と苦笑いして、トールはミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
硬水か軟水かを意味もなくチェックして、栓を開けつつ首を傾げる。

「何かあったのか?」

彼の様子はいつも通りで。
はぐらかしたということは、つまり、信頼してくれているということで。

「…………」

何でもない、と言い切るには、息が詰まった。
オティヌスの表情は心配そうだったし、きっとあの言葉は本物だ。
誰かがトールに化けているのなら、オティヌスが見抜いたはずで。

「……少し歩き疲れただけだ」
「そうか? 寝ても良…うおっ」

826 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:18:47.75 7yf7VPgC0 436/658


ペットボトルの蓋を締めた事を確認してから、抱きついた。
ぎゅう、と強く抱きしめる。
気持ちが伝わっている訳ではないだろうが、抱きしめ返された。

いつも通りだ。

おかしいなんて思えない。
何かが狂っているだなんて感じられない

なのに、どこかで疑っている自分が居る。

もしも、トールが本当に一連の事件に関わっているのなら。
真相を聞き出して、場合によっては戦う必要が出てくる。
彼のことは大切だが、無闇に人を殺して良い理由なんて存在しない。

「………トールは、疲れたりしていないのか」
「あー…まあ最近ちょっとばかし睡眠不足か。大したことじゃ」
「…一緒に寝よう」
「それは良いけど…本当に何かあったのか?」

不可解そうに首を傾げ、トールはフィアンマの髪を撫でる。
表情も、動作も、何もかも普通で、日常のそれ。

827 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:19:23.89 7yf7VPgC0 437/658


『……良い感じに温まってきたか』

口元に薄く笑みを浮かべ、青年はベッドに横たわる。
欠伸を飲み込んで、愛しい一人の少女について考えた。

無慈悲に奪われた少女。

自分が愛した、世界にたった一人の人。
彼女を守る為になら、世界を滅ぼしたって良い。
善悪は問わない。彼女の安全が確信出来るまで、自分は世界を殺す。
そうして"以前"は自分を除く全人類を滅ぼしたのだから。

『まだ会うには早ぇかな……』

でも会いたい。

会って、この手に抱きしめたい。
目一杯甘やかして、もう一度彼女の笑顔を見たい。
出来ることなら、手を繋いで一緒に歩きたい。

その為に。

障害は少ない方が良いし、今はあまりにも邪魔が多すぎる。

『仮眠して、再開するかね…』

828 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:19:57.03 7yf7VPgC0 438/658


甘えてくるのは良いのだが、ちょっと様子がおかしくないか。

眉を顰めそう思いつつ、トールはフィアンマを見つめる。
ぬくぬくと毛布の中で温まっている彼女は眠っていた。
寂しそうな、不安げな寝顔だ。

「ん……」

服、或いは手を握られる。
寝相代わりにその手の位置は少々変化する。
それ程までに、自分が何処かへ行くことが嫌なのか。

「……何なんだ?」

何かをした覚えはない。
近頃はさほど外に出ていないし、命に関わる喧嘩もしていないはずだ。
流れるニュースに彼女が不愉快になるのはわかるが、自分は一切関係がない。
多少、『グレムリン』として動いた事は関係があるとしても。
彼女の様子は、自分が傷つくことを恐れているような、しかし、少し方向性が違うような。

「……フィアンマ」

言ってくれなければわからない。
一人で抱え込まれて泣かれたって、助けに行くことは難しい。

829 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:20:37.54 7yf7VPgC0 439/658


この動乱の中でも仕事は仕事、きっちりやり遂げるらしい。

出来上がった指輪を取りに、トールは宝石店へと来ていた。
フィアンマは眠っていたようなので、置き手紙を残してきた。
何かあれば連絡がくるだろう、と思いつつ、店員と話をする。

「こちらです」
「……よく出来てるな」
「よろしいでしょうか」
「ああ、サイズも問題なさそうだ」

内金を差し引いた代金を支払い、店を後にする。

小さなストロベリークォーツで彩られた、美しいダイヤモンド。
ブリリアントカットだったか、と彼はダイヤの切り口を眺めながら考える。
細身のシルバーリングは、彼女の華奢な指にきっとよく似合う。

「……」

これはあくまでも婚約指輪。自分の分は作っていない。
そして、自己満足だということも理解している。
それでも、彼女が笑みを浮かべてくれたら嬉しい。

「……帰るか」

830 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/07 22:21:28.39 7yf7VPgC0 440/658


「ん……」
「はよ。今日は寝坊だな」

戻ってみると、彼女はぐっすり眠っていた。
置き手紙は不要になってしまったようなので、丸めて捨てる。

「………」

ぐしぐし、と目元を擦るも、やはり眠いようだった。
たまにはゆっくり休養も良いだろう、とトールは眠気を促すように毛布をかけてやる。
指輪は今すぐ渡さなくても良い。後で渡せば良いのだから。

「トー、ル……」
「朝飯か? 二度寝したら昼飯になっちまうけど、何がいい?」
「………」

ぐい。

手を掴まれ、霊装の手袋を脱がされる。
握られて引かれ、手の甲にほっぺたをくっつけられて。

「……女物の香水の臭いがする」

何もやましくないはずのトールの背中に、冷や汗が伝った。

836 : 小ネタ:ガリガルくん  ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/08 21:56:37.50 lM4Pa0kb0 441/658

小ネタ:ガリガルくん


フィアンマ「近頃のアイスクリームのラインアップは面白いな」

トール「そっちは氷菓子だろ」

フィアンマ「シュークリーム味がある」ぱあっ

トール「へえ。このコンビニ限定みたいだな」

フィアンマ「トールはナポリタン味で良いか」

トール「良い訳ねえだろ、何でそんな珍しいやつなんだよ」

フィアンマ「男には負けるとわかっていても戦う時が」

トール「確かにあるがそれは今じゃねえ」

フィアンマ「致し方ない、定番の味にするか…」

トール「季節毎にフレーバーが違うのか。流石日本と言っておくべきかね」

フィアンマ「枝豆味……」

トール「……お前は俺に何と戦わせようとしてんの…?」

フィアンマ「右から左までひとつずつ」

トール「駄目」

842 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/09 22:56:16.49 I9rJvgbr0 442/658


「…………き。…のせいだろ」
「………俺様の嗅いだことのない臭いだ。
 ……フルーツ系か。…仕事をしている若い女のものだ」

確かに指輪を渡してくれた女性店員は若かった。
加えて、ふんわりと甘いフルーツ系の香水をつけていたように思う。
まだ眠いのか、理性を大して感じられない瞳がこちらを見る。
常より笑っていないことの多い目だが、今日は一際恐ろしい。

「…考え過ぎだっての……」
「………」
「………」

真実を話せば良いのだが、言い訳のように指輪を渡すのは嫌だった。
気分的にこう、納得出来ないものがある。

「買い物行った先の店員が女だったからちょっと移っただけだ」
「…何を買ったんだ?」
「……クレープ」
「…………まあいい。一度目は許す」

嘘はバレたらしい。

追及をやめ、フィアンマは毛布を抱きしめる。

843 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/09 22:57:12.69 I9rJvgbr0 443/658


ブランチはフレンチトーストとスクランブルエッグ、というありふれた取り合わせ。
むぐむぐと食べながら、フィアンマは徐々に機嫌を良くしていった。
『一度目は許す』という発言が気がかりだが、トールは黙々とスクランブルエッグを頬張り。

「俺の記憶が正しければ」
「ん?」
「今日の夜は何もなかったよな?」
「そもそもほぼ毎日何も無い生活だろう。特に俺様は」
「お前が傭兵稼業やると世界のバランスが今以上にマズいことになるからな。
 ん、それだけ確認出来りゃ良いんだ」
「何かしたいことでもあるのか」
「ちょっとな。デート」
「……デート?」

トーストを口に含んだままもごもがと返して、彼女はやや嬉しげにはにかんだ。
どうやら修羅場は完全に抜けたらしい、とトールはほっと胸をなで下ろし。

「たまには待ち合わせしてみるか」
「通信霊装もきちんと整備してあることだしな」

844 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/09 22:57:48.39 I9rJvgbr0 444/658


婚約指輪を渡すにあたってどんなことをすれば良いのか。
ひとまずもう少し状況が落ち着かなければ、どこぞの国で籍をいれることはままならない。

「……プロポーズ、すれば良いんだよな」

しかし、不慣れだ。
そもそも、プロポーズに慣れている男もそうそう居ないだろう。
シギンに連絡するべきだろうか、とふと思う。

思うのだが。

「んー……」

後ろで立体パズルに取り組んでいる彼女の前で女に通信を仕掛けるというのもどうだろう。
それも、何か戦闘に悩み悩んでかける訳ではないのだから。
また浮気を疑われると思うと恐ろしい。
物理面では何があっても彼女に手は挙げないと堅く決めているが、精神面でも対立はしたくない。
勿論、自分の意見とまるで合わず、お互いに妥協も出来なければ口喧嘩はするだろうが。

「……花束か。定番からすると…」
「……駄目だ解けん」
「珍しいな。俺もやる」

845 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/09 22:58:57.13 I9rJvgbr0 445/658


待ち合わせは夜七時。
それまでに買い物を済ませてしまえば良い。
トールは花屋の店頭で立ったまま、首を傾げていた。

彼女の好きな花を知らない。

好きな色は赤と白、そして金色にアイスブルー。
どうしてアイスブルーなんて限定的な色なのかはわからない。
水色が好きなのだ、と語っていたので、深く突っ込んで聞いてはいないのだ。

「お決まりですか? お好きなお花でお包みしますよ」
「恋人に包む花なんだけど、色がな…」
「お色はどのようなものを?」
「赤と白、金、アイスブルー」
「うーん……」

どれか二色にしましょう、と店員はそっと提案する。
じゃあ赤と白で、と指定した後。

「やっぱ花言葉って重要なモンなのか?」
「そうですねー…特に女性の方は気にする傾向が強いです」

トールが視線を迷わせた先、黒赤色の薔薇が一輪。
もう一度迷わせた先、白い薔薇が一輪。

前者は『決して滅びることのない愛』。
後者は『相思相愛』。

二つを組み合わせ、白薔薇と同量にすると『結婚してください』というメッセージになる。

「んじゃ、あれと……白い薔薇多めで……やっぱ同量で」
「…プロポーズですか?」
「まあ、……ん、そうだな」

歯切れの悪いトールに、店員は小さく微笑んで。

「じゃあ、一生懸命おつくりしますね。うまくいきますように」

846 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/09 23:00:10.56 I9rJvgbr0 446/658


「……なかなかこないな」

噴水公園前、何の変哲もないベンチ。
待ち合わせ五分前、トールは姿を現さない。
勿論遅刻ではないのだから、責めるつもりは毛頭ない。
自分が退屈だから出てきただけのこと。

「………」

夕暮れの空は赤く、美しい。
少し、不気味な色とも思える。

「……俺様の考え過ぎだ」

トールは事件や、世界の流れの変化に何の関係もない。
そう信じなくては。
自分の、世界にたった一人の味方を信じずに誰を信じろというのだ。

「………来ないな」

約束時刻二分前。
足元の鳩を眺めつつ、フィアンマは今暫く暇を持て余す。

853 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:25:09.25 QaAtKMoF0 447/658


やはり緊張する。

赤い薔薇が三本に白い薔薇が七本という取合せの花束を手に、トールは深呼吸した。
生花の花束から漂う薔薇の香りで頭がスッキリとする。
古来よりアロマオイルなどに使われるだけあって、様々な効能がある薔薇。
もしかすると薔薇を渡すことで相手の精神を変調させられるのでは。
だからプロポーズやデートには花束を渡すのでは、なんて考察しながら。

「…フィアンマ」
「ん、時間は丁度だな……」

じゃあ行こう、と言葉を紡ぎかけ。
トールを見上げたフィアンマは、珍しく素直にきょとんとした表情を見せた。
完璧に刺の抜かれた美しい花束を差し出して、トールは笑みを浮かべる。

「プレゼントだ」
「…俺様に?」
「あー、花束苦手か?」
「花束が嫌いな女は少ないと思うが」

思っていたより淡白な反応だった。
とはいえ、表情は嬉しさというものを雄弁に語る。
幸せそうな柔らかい笑みを浮かべ、フィアンマはベンチから立って、彼から花束を受け取る。
その花言葉を少し考えてみたのか、思案の表情。

「……それで、夕飯はどこで食べるつもりだ?」

花束の意味するところに気がついたのか、フィアンマは誤魔化すようにそう問いかけて。
決めてある、とトールは彼女の手を握って前へ前へと進み歩き始める。

854 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:25:51.81 QaAtKMoF0 448/658


高級ホテルの最上階。
そんな場所にあるレストランともなると食事はお高い。
お高いが、毎日食べる訳ではないのだから大した金額でもない、とトールは思う。
もっとも、彼女にケーキを買わされる日々の中で金銭感覚が若干狂ったことは否めない。

「……珍しいな」
「あん? 何が」
「こういう店で食事をすることが、だ」

嫌という意味ではなく、とぱたぱたと片手を振りつつ。
フィアンマはそうコメントしながら、花束を店員に一時預ける。
確かに珍しいかもな、と相槌を打って、トールは懐の指輪を再認識する。

「こちらへどうぞ」

店員に案内され、白いテーブルクロスの引かれた席につく。
おとなしく座り、フィアンマは景色に目をやった。
大きな窓から見える夜空は美しい。

運ばれてきたのは前菜から。

イタリア料理のフルコースは慣れ親しんでいるのか、彼女に緊張はなかった。

「美しい景色だ。料理も美味しそうで」

良い店だな、と評価して、フォークを手にする。
食欲を駆り立てるトマトソースの前菜は舌に甘い。

855 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:26:19.16 QaAtKMoF0 449/658


前菜二種にパスタ、メインに肉料理。
サラダを食べ終えたところでチーズの盛り合わせ。
年代物のワインにはチーズがよく合う。
酔っ払わない程度に呑んで、デザートに手がかかる。
予想通りというべきか、彼女は食後のドルチェに最も目を輝かせた。
本当に素直だな、とトールは笑みを浮かべつつ思う。
勿論、政治の場ではこんな風に笑うことなんて出来なかっただろうが。

「……何を笑っているんだ?」

む、とほんの少し不服げに彼女がこちらを見る。

「可愛いと思っただけだ」

酔っているのか、そんな言葉がするりと出てきた。
ん、と言葉を飲み込み、彼女はティラミスを口に運ぶ。

「なあフィアンマ」
「ん?」

ドルチェを食べ終え、話しかける。
少しずつ食べていた彼女の器の中身も、ほぼ無くなっていた。
スプーンを置き、フィアンマが首を傾げる。
トールは深呼吸すると、懐から小さな宝石箱を取り出した。

856 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:27:08.42 QaAtKMoF0 450/658


苦いエスプレッソが運ばれてくる。
これでフルコースは終わり。
程よい酔いと満腹に目を細め、フィアンマはじっとトールを見つめた。
中身同様高級感のある宝石箱は小さく、灰色をしていた。

「………」
「……」

わずかな緊張を唾と一緒に飲み込み、トールは宝石箱を開けた。
中身を見せながら、彼女に向かって差し出す。

「………トール」
「…婚約指輪だ」
「……俺様に?」
「……フィアンマに」
「……、…くれるのか?」

戸惑いながら、フィアンマは指輪を見つめる。

小さなストロベリークォーツで彩られた、美しいダイヤモンド。
ブリリアントカット。
別名をアイデアルカットと呼ばれる手法で切削された形状。
細身のシルバーリングが、レストランの照明を受けて輝いている。

857 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:27:41.52 QaAtKMoF0 451/658


「もし俺とずっと一緒に居てくれるなら、…貰ってくれ」

格好良い台詞を考えて考えて、やっぱり浮かばなかった。
そもそも、彼女をときめかせるだけの素敵な言葉なんて識らない。
考え出せる程のレパートリーもない。
つい最近まで戦闘一辺倒だったのだから仕方ないとは思う。
思うものの、もう少し良い台詞は出てこないものだったか、と少し後悔して。

彼女は何も答えない。

受け取ってくれる、という確信はあった。
一秒経つ毎に、その確信は揺らいでいく。

自分が魅力的だと思うのだから。
彼女を魅力的だと思う人間はたくさんいる。
恋愛は尽くした度合いによって決まるものではない。
自分が彼女の為に何万年も戦ったところで、彼女が自分を必ず選ぶ訳ではない。

徐々に視線が落ちていく。
もしかすると、『重い』と感じたかもしれない。
彼女は結婚のけの字も口にしていない。

858 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:28:09.14 QaAtKMoF0 452/658


「………俺様で良いのか」

か細い声だった。

859 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:28:36.81 QaAtKMoF0 453/658


「俺様は、トールに沢山のものをもらった。
 右腕も、未来も、幸福も。…信頼も、恋心も」

これ以上貰っても許されるのか、判別がつかない。

混乱から飛び出した言葉だった。
彼女を安堵させて、確信を持たせる言葉をトールは知らない。
彼はいつでも自分の為に振る舞い、その結果が彼女の居場所に繋がってきた。

「俺様にこんなものを渡して、それがトールを縛り付けることにはならないのか」
「つまり、受け取ることは嫌じゃねえんだろ?」

うん、とまたか細い声で返答があった。
トールに関することではすぐに緩む涙腺に息を吐いて、フィアンマは指輪を見つめた。

「なら、受け取ってくれよ」
「俺様は、」
「世界中が何と言おうと、お前自身が何と言っても、俺はお前が好きだよ」

縛られるだとか、不安だとかは思わない。
自分がそうしたいのだから、怯える必要はない。
この先今日という日を後悔する日がくるとすれば、それは彼女が死んだ時だ。
彼女に恋なんてしなければと思うのは、彼女が自分の前から永久にいなくなったとき。

「俺も、お前に色んなものを貰った」

初めて、守りたいものが出来た。
他人の笑顔で幸せな気分になれることを知った。
心から心配されることの心地よさを知った。
繋いだ手を離したくないと思ったのも、初めてだった。

「お前はどうなんだ」

受け取る程好きなのか、突き返す程好きではないのか。

860 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/13 00:29:28.86 QaAtKMoF0 454/658


華奢な手が、指輪を取った。
はめる指に少し迷って、動きが止まる。
そうして迷いなく、左手の薬指にはめた。
トールの見立ては間違いなかったらしく、ぴったりとはまった。

「……一生、大切にする」

死んだら棺桶に入れてもらう、と言って、彼女は左手を右手で握った。
ぐし、と人差し指で目元を拭う。
本音を言えば抱きつきたかったが、公衆の面前でそんなことをするつもりはない。

「いつ作ったんだ?」
「ま、秘密裏に。つい最近」

冷えてしまったエスプレッソは口の中を苦く苦く染める。
心の中は甘くて温かい気持ちでいっぱいだった。

「俺様も渡すものがある」
「渡すもの? 今か?」
「ホテルに戻り次第渡す」

宝石箱に一度指輪を戻し、フィアンマは改めて指輪を受け取った。
嬉し涙と笑顔を両立させたその表情が一番好きだと、トールは思う。

866 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:48:29.59 FagYvP010 455/658


ホテルに戻るなり、フィアンマは再び指輪を左手の薬指に填め。
がさごそと周囲を漁ると、紙袋を取り出した。

小物屋の紙袋だ。

白に黒の水玉。
とてもシンプルなラッピングを施された贈り物。

「これを渡そうと思ったんだ」
「…お…ストールか?」

黒い毛皮のストールだった。
手触りはとても滑らかで心地良い。
身体に巻いたらさぞ暖かいだろう、とトールは思う。

「こちらは髪留めだ。…伸ばせと言っておいてそのままもどうかと思ってな」

シンプルな、金色の髪留め。
小さなプラスチック埋め込み飾りは、アイスブルー。

「前々から気になってたんだけど、アイスブルーと金色に何か思い入れでもあんのか」
「……ルの」
「…?」
「トールの髪と、瞳の色だからだ」

だから好きになったのは最近のこと、と彼女はぼそりと付け加える。
なるほど、と納得すると同時、ニヤニヤとトールは笑みを浮かべ。

「結構乙女なところあるんだな?」
「…文字通り乙女なんだがな?」

867 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:49:03.35 FagYvP010 456/658


ホイップした生クリームと卵黄、バニラエッセンス。
ストロベリーシロップをかき混ぜて冷凍庫へ。

それから、かれこれ一時間。

じっと忍耐強く冷凍庫を見つめるフィアンマにデコピンを食らわせ。

「見つめたってすぐ凍る訳じゃねえから」
「……少しは早く」
「なんねえよ」

いつから俺はツッコミキャラになったんだ。
頭を抱えるトールを見、フィアンマは冷凍庫にぺたぺたと触った。
ホテルの備品にしては良い冷蔵庫、もとい冷凍庫だったようである。
『急速冷凍』モードは、見事に彼女の期待を叶えてくれた。

「出来上がったようだな」
「……そんなに苺アイス好きだったか?」

上機嫌にスプーンを取り出し、タッパーに突き立てる。
危うく鉄の食器が折れかける程、そのアイスクリームは硬い。

「………」
「……確か何回かかき混ぜながら凍らせるんじゃなかったか?」

急速冷凍が通用するのはシャーベットだったような。
首を傾げるトールを前に、フィアンマは右手でスプーンを握りこんだ。

今流行りのヤンデレってやつかな。

ぐちゃぐちゃとアイスにスプーンを突きたてかき回す少女に、トールはぼんやりとそう思った。
髪留めもストールもまだ使っていない。大事に、しまっておいたまま。

868 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:49:44.59 FagYvP010 457/658


曇りの日。
雨が降りそうで未だ降らぬ、黒い空。
このホテルの部屋の住人は見ていないが、ニュースでは雷雨の予報がなされていた。

夕方から夜にかけて、嵐が起きる模様です。

そんなニュースを聞くこともなく。
仮にテレビを点けていてもそれをかき消す勢いで、二人は言い争いをしていた。
何がきっかけだったのか、さっぱり思い出せない程のヒートアップ。
口論が口喧嘩に発展し、言い争いの内容は苛烈なものになっていく。

「俺様のことを何も理解していないくせに、」
「ならお前は俺を理解してんのか? してねえだろうが。
 何なんだよ、さっきから偉そうに御託ばっかり並べやがって」
「お前はどうなんだ。自らの態度を振り返って反省点はないとでも?」
「どっちもどっちだろ。細かく追及しやがって、しつこいんだよ」
「俺様はただ、」
「自己満足もいい加減にしろって言ってんだ。
 お前のそういうとこ本っ当可愛くねえ。俺はお前のそういうところが大嫌いなんだよ」
「っ、」

思ってもいないようなことが口から飛び出すから、口喧嘩は危ない。
素手同士の喧嘩ならば強い方が勝つが、口論には際限がない。
どちらかが諦めるか、冷静になるか、徹底的に言い合うか、第三者が割り込むかしか解消法が無い。
そして、現在のトールとフィアンマには三つ目の選択肢しか選べなかった。

869 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:50:45.47 FagYvP010 458/658


「……所詮、俺様を救おうと思ったのも経験値に繋がるからだろう。
 戦闘狂は何があっても変わらない。俺様よりも戦闘の方が重要……そうなんだろう?」
「テ、メェ。言って良いことと悪いことが―――」

魔術師として根幹に関わる部分への暴言。

あんまりにもあんまりな言いように、トールの頭へカッと血が上る。
武器を使うことすら忘れて、彼は手を振り上げた。
そのまま振り下ろされれば、彼女の頬は赤く染まったことだろう。
下手をすれば傷を負い、血を流したかもしれない。

その、暴力を振るうギリギリ手前で。

トールは右手を震わせ、それから、握り締めた。
歯を食いしばり、静かに下ろす。
別に、フェミニストを気取っている訳ではない。
敵が女であっても殴る時は殴る。

それでも。

どんな理由があろうとも。

トールは、自分が彼女を傷つけることを許せない。
魔術師とはエゴと誓いの生き物で、自分に逆らうことは出来ない。
そんなトールの姿を見つめ。
フィアンマは背を向け、部屋のドアに手をかける。

「……頭を冷やしてくる」

宣言するなり、彼女は部屋から出て行った。

870 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:52:02.64 FagYvP010 459/658


まだ雨は降っていない。
にも関わらずあまり周囲が見えないのは、もしかして泣きそうだからか。
冷静に自分を客観視しながら、フィアンマはあてもなく歩いていた。

ひどいことを言ってしまった。
取り返しのつかないことを。


『自己満足もいい加減にしろって言ってんだ。
 お前のそういうとこ本っ当可愛くねえ。俺はお前のそういうところが大嫌いなんだよ』

『テ、メェ。言って良いことと悪いことが―――』


思い出されるトールの言葉の数々に、唇を噛み締める。
一方的に傷ついているつもりはない。
自分も、頭に血が上るまま、彼を傷つけてしまった。

だけど、彼は自分を殴らなかった。

短気な彼が、だ。
ある意味、暴力を好むと表現しても支障の無い彼が。

殴らなかったのだ。

あれだけのことを言われて。
それが意味するところがわからない程、頭は悪くない。

「………」

仕事と私どっちが大事なの、と聞く女は愚かだ。

そんな、どこかで聞いた言葉を思い出して視線を落とす。
腕が誰かにぶつかった。謝ろう、と振り返る。

「お。あれ、フィアンマちゃん?」

いかにも軽薄そうな男が、ひらりと手を振った。

871 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:52:33.51 FagYvP010 460/658


「雨降りそうだから急ぎ足で歩いててさ。痛いとこない?」
「問題ない。俺様こそすまなかった」
「俺も痛くないしだいじょーぶ。ま、上がって上がって」

こじんまりとしたアパートメントだった。
ウートガルザロキは部屋の奥に置かれたベッドの方へ声をかける。
少女の声音で返事があり、ベッドにもぞつきがあった。

「あそこで寝てんのはシギン。
 元『グレムリン』の…何つーかな。『助言』担当」
「……初めまして、で良いのか」
「こんにちは。…トールの恋人、で合っている?」
「………相違ない」

ベッドの上に座っているのは、手足が少し曲がった少女だ。
生まれつき、というよりは後天的なものに見える。
ただの骨折と違い、もうそのような手足の形になってしまったのかもしれない。
ウートガルザロキ曰く、戦闘中の後遺症で、まともに歩くのも難しいらしい。
ただ、相変わらず『助言』は素晴らしいので協力を受けつつ共同生活中、とも。

「……俺様にも助言を頼めるか」
「うん、いいよ。…指輪の件はうまくいったみたいだね」

フィアンマの左手を見、シギンは得意げにぼそりと呟いた。
首を傾げる彼女に、シギンは言葉の先を促して。

872 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:53:00.88 FagYvP010 461/658


ぽつりぽつりと彼女が語ったのは、トールとの喧嘩から今に至るまでの全て。

「…頭を冷やすと言って出てきたは良いが、……」
「…………難しくない案件だ」

うん、とシギンは考え込み。
それから、曲がった手首、その指先でフィアンマを指した。

「笑顔」
「……笑顔がどうかしたのか」
「笑顔を浮かべて謝れば、かなり高い確率で許される。…と、助言しておこう」
「…そんなものか?」
「男は好きな子の笑顔に弱いモンだし、大丈夫だと思うけど。俺も」
「……お前もそうなのか?」
「ま、多少のことなら許すかな。怒るってスマートじゃないし、そもそも」

青年の手からカップを受け取り、ココアを飲む。
身体が温まり、反対に思考は冴えていった。

謝りに戻れそうだった。

「…感謝する」
「あれ、もう行くの?」
「助言もいただいたことだしな。善は急げ…だったか。そういう故事成語もあるだろう?」

トールと離れてから優に三時間。
シギンの言う通り、笑顔で謝れば許してくれるだろう。
もし駄目なら、誠心誠意彼に尽くして何とか許しを乞うしかない。

873 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/15 22:53:34.21 FagYvP010 462/658



「見つけた」



とうとう降り始めた雨の中、独り。
青年は濡れるスーツも気にせずに呟いた。








「お帰り、フィアンマ」

879 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/17 23:28:15.93 PWy7IAd60 463/658


五階にスイーツバイキングの店がある、とあるビル。
フィアンマは大きめの屋根の下で雨宿りをしていた。
激しく降る雨の中では、まともに呼吸も出来ない。

「……トールは優しい」

だからきっと、謝れば許してくれる。
一生懸命頭を下げて、甘えて、目を見つめて謝れば、きっと。
彼は、当人が思っているよりもずっと優しい男だ。
そして何よりも愛情深い。執念とは、つまり言い換えるとそういうことだ。

「………」

無言で、左手を撫でる。
薬指にはまった指輪は、自分にとって幸福の象徴だ。
彼が自分を想って、きっと沢山の金を出して購入したもの。
高額な貢物なら覚えがある。しかし、それは擦り寄るためのもので。

「……っくしゅ、」

くしゃみが出た。
生憎ビルは改装工事中であり、中には入れない。
上に羽織るものもない。ほとんど飛び出してきたようなものだから。





ぽふ。

880 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/17 23:28:51.58 PWy7IAd60 464/658


唐突に身体に巻かれたのは、黒い毛皮のストールだった。
自分が先日、トールにあげたものと同じもの。
そして何より、そのストールからはトールの匂いがした。

「俺たちが最初に飯食ったのって此処だよな」

紛れもなく、トールの声だった。
ストールを握り、フィアンマは下を向く。
懐かしむような声は、とても優しい。
既に怒りはないのか、声のトーンは落ち着いたものだった。

「……俺様が強請って、ケーキバイキングに行ったのだったか」
「そ。んで、俺は気分を害したフィアンマに五階から突き落とされた」
「…………」
「別に怒ってねえよ。本当に」

くしゃ、と髪を撫でられる。
それから丁寧に指先で梳かされて、抱きしめられた。

温かい。

「…先刻は、本当にすまなかった」
「ん? あー、もういいって」

881 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/17 23:29:34.79 PWy7IAd60 465/658


ぎゅう、と後ろから抱きしめられる。
顔を見なくたって、トールが今どんな表情を浮かべているか想像出来た。
そして、とても安心する。許された、という安堵だ。

「……本当に申し訳ない」
「悪いと思ってるならキスのひとつでもくれよ。…なんてな」

悪戯っぽい、笑い混じりの声。
軽く頭を預けると、肩を貸された。
彼の腕の中でなら、自分は安心して死ねるだろう。

「トー………」

雨足が僅かに和らいで。
一緒に帰ろう、とフィアンマは言い出そうとした。
したのだが、ふと『違和感』に気がつく。


トールはこんなにもしっかりとした体つきだったか。
もう少し細くはなかったか。少女的な細さがあったはず。
身長はこんなに高かっただろうか。自分と数センチ差だったはずで。
声は低かったか。トーンが落ち着き過ぎではないか。

何かがおかしい。

882 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/17 23:30:09.20 PWy7IAd60 466/658


振り向くのが躊躇われたが、のろのろと振り返る。
そこに居るのは、確かにトールだった。
フィアンマが見覚えのない、少し年齢が上の。

「……トール、なのか?」
「ああ、そうだよ」

アイスブルーの瞳に、長い長い金の髪。
金の髪は大して高くない位置で無造作に髪留めで留めてある。
ポニーテールのように、長い髪は流れている。
髪留めもまた、ストールと同じく自分があげたものだった。
金色に、アイスブルーの小さいプラスチック細工の埋め込まれた髪留め。

纏っているのは地味目のスーツ。

黒灰色のジャケット。
黒いスラックスに、普段と変わらないベルト。
インナーは白ではなく、どことなくくすんだ灰。

全体の雰囲気でもって、『喪に服す』雰囲気。

美しい水色の瞳の奥は揺れ、底知れない。
ただ、フィアンマに対しての愛情は確かにそこにある。

「お前を助けに来たんだ」

そう言って、彼はいつものように屈託のない笑みを浮かべた。

883 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/17 23:30:46.71 PWy7IAd60 467/658


フィアンマが帰ってこない。

既に落ち着きを取り戻したトールは、眉を寄せて時計を見つめていた。
何の連絡もないし、彼女は戻ってこない。
何かあったのではないか、という心配が先に立った。

「聞こえてるか?」
『おー、トールか。何か用?』
「フィアンマに会ってないか?」
『ん、会った会った。ちょっとお茶出して、シギンの助言受けて帰ったけど』
「……あ? 帰った?」
『帰った。何、まだ到着してない?』

ウートガルザロキに連絡して、この返事。
とはいえ、襲われたのなら連絡がくるはずだ。
彼女が危険を感じた時点で、少なくとも通信が来る。
彼女が望まずとも、そうなるように設定してある。
怒ったばかりに霊装を壊していない限りは、必ず。
そして、彼女の性格から考えてそんなことはしていないはず。

「ん、それならいい。じゃあな」
『? おう』

通信を終える。
まだ、一人で居たいのかもしれない。
後二時間経過したら連絡をいれよう、とトールは思う。

898 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:47:04.02 8S7XW5N50 468/658


今から、約十三年後。
そんな未来から来た、と彼は言う。
つまり年齢が十三も離れているのか、とフィアンマは頷いて理解し。
二人は揃って高級ホテルの一部屋へとやってきた。
未来や過去というのは別世界と捉えた場合、移動はさほど難しいことではない。
魔術の知識を総結集して術式を構築すれば、異世界の法則に則って世界移動は行える。
勿論、『異界反転(ファントムハウンド)』レベルの大規模儀式魔術程の術式でるならば、だが。

「……随分と良い部屋だな」
「サービスは良いし、多少何やっても目を瞑ってくれる。値段は、サービス料の高さだな」
「こんな場所に長期的に宿泊してやっていけるのか?」
「ちょっと厳しい。そろそろアパートメントの一室で借りるべきかとは思ってる」
「…ん? ということは長く滞在するつもりなのか」
「ちょっと色々あってさ」

ベッドに並んで腰掛ける。
時計の音が部屋を満たす。
トールは手を伸ばし、美しい音色のオルゴールを再生した。
昔ながらの、ネジ
柔らかい音色が奏でているのは、チャイコフスキー交響曲第6番。

『悲愴』。

こんな音楽が好きだっただろうか、とフィアンマは首を傾げ。
しかし、十三年もの月日が経てば、人は多少なりとも変わる。

「未来のことを尋ねても構わんか」
「……、…ああ」
「俺様とトールは、どうなっている?」

無邪気な問いかけに。
トールは、十三年前、或いは三年後の出来事を思い返していた。

899 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:47:40.01 8S7XW5N50 469/658














20歳の誕生日をお互いが迎えた頃。
ようやく世界の均衡は元の状態に保たれ、一時的な平和が訪れた。

結婚式は、二人きりで行った。

こじんまりと、贅沢などせず。
神父の前で神に愛を誓った二人は、美しかった。
豪奢な婚約指輪は、質素な結婚指輪に変わった。
銀色の、とてもシンプルな細身のリング。

『……お前のこと、好きになって良かった』

強くなった。
守りたいと思うものを持つことの重要さを知った。
何より、彼女の笑顔ひとつで幸福になれた。

『俺様も、トールを愛して良かった』

未来も、幸せも、希望も、夢も。

その全てを貰った、と彼女は幸せそうに言う。
誓いのキスとやらは、彼女と一緒に食べてきたケーキのように、甘かった。

900 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:48:13.55 8S7XW5N50 470/658


幸せだった。
何気ない毎日の全てが、退屈で、平和で、心地良かった。
戦闘を好む自分が平穏に幸福を感じられるようになったのは、間違いなく彼女のお陰だろう。
軽い口喧嘩だって、仲直りしてしまえば笑い話にしてしまえた。

何度も彼女を抱いた。
嫌がられたことは一度もなかった。
行為自体に恐怖や緊張はあっても、自分が相手だからと拒まれたことは。
愛情を言葉にして囁き、何度愛し合っても飽きることはなかった。
明け方になって、少し疲れた様子ではにかむ彼女が一層愛おしかった。

『…トール。これから話す事に、嫌な顔をしないと誓うか』
『ん? 何だよ急に』

細い指に光る銀色のリングを見る度に、安堵と機嫌の良さを自覚する。
毛布を手繰り、ぎこちなく言いづらそうに、彼女は告げた。

『子供を、授かったようだ』

その時、自分がどんな表情をしていたか覚えていない。
ただ、驚きと、嬉しさと、それに派生する責任で、胸が満たされていた。
早く言えよ、なんて言いながら彼女を抱きしめて、産んで欲しいと強請った。
元より堕胎なんて考えていなかった、と彼女は首を縦に振り。
産まれてくる前に名前やら何やらを考えなければ、と二人で頭を悩ませた。

901 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:48:47.66 8S7XW5N50 471/658


悪阻は吐き気という形で出た。
それでも、一般的には酷い方ではなく。
お腹の子の経過は順調で、定期検診でも悪い事を宣告されることはなかった。
性別は恐らく女の子だろう、と医者から告げられた。

『名前か……』
『名前負けするとは思えないし、多少派手な名前でもいいな』
『大人になった時に困らない程度の華美に留めた方が懸命だろう』
『早く産まれてこねえかな…』
『そんな簡単産まれてくるのなら誰も苦労しないさ』

呼びかけると、お腹を蹴る音が聞こえる。
他人ならば何とも思わない。
けれど、自分の子供だと思うと、些細な事でも嬉しく思えた。

『産まれてきたら親馬鹿になりそうだな』
『ならねえよ、……多分』

言い切れない、と苦笑いした。
からかうように、腹を蹴る音が聞こえる。
見た目は彼女に似るだろう、とぼんやり予想して。

902 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:49:13.35 8S7XW5N50 472/658


臨月に入って、それでも経過は順調だった。
出産予定日には多少ズレがある。
なるべく動かないように、と慎重に生活をしていた。

『じゃあ行ってくるけど、一人でも本当に大丈夫か?』
『だから心配無いと言っているだろう、先程から』
『家事とかすんなよ。コケたら一大事だし』
『わかっているとも。恐らく昼寝で時間を潰すよ』

部屋に残して絶対安静にしてもらうか、一緒に買い物に行くか。

前者の方がより安全だ、と俺は判断した。
三時間程度なら、一人でもきっと大丈夫だろう、と。




――――その時に判断を誤らなければ、きっとああはならなかった。

903 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:49:55.79 8S7XW5N50 473/658


予定通り、三時間程の外出の後。

『ただい………』

言い切ることは出来なかった。
彼女の姿が、部屋のどこにも無かったから。

最初は、良い可能性から考えた。

もしかしたら出産が早まって、救急車を呼んだのか。
あまりにも退屈で、ごくごく一部の知り合いのところへ行ったのか。
はたまた自分を揶揄するために、外出しているのか。

だけれど。

そんな希望論で、自分を納得させることなんて出来なかった。
全身に冷や汗が伝い、否応なしに身体が震えた。

そんなはずがない。

彼女から連絡は一度もないし、何より身重で動くのは辛いはず。
ソファーを見やると、布の一部がほつれていた。

小さな違和感。

とても小さなそれは、胸騒ぎをいっそう激しくする。

904 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:50:32.65 8S7XW5N50 474/658


色んな知り合いを当たった。
そのいずれの答えも、『知らない』だった。

もはや恐怖と焦りしかなくなった。

どうして、世界は平和になったはずではないのか。
彼女より、オティヌスの方が人々の記憶には強く残っているはず。
顔を伝うのが恐怖による涙なのか、焦燥による汗なのかもわからないまま。
がむしゃらに走り、霊装を使い、世界中を探し。


ようやく彼女の下へ辿りついた頃には、四日が経過していた。


イギリスの『処刑塔』の裏側。
そこに、彼女は幽閉されていた。

905 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:51:06.01 8S7XW5N50 475/658


部屋に入った途端、濃厚で厭な血の臭いがした。
ありとあらゆる拷問道具がそこかしこに落ちている。

『………、…』

落ちていたのは、血まみれの人形のようなモノだった。
それも、頭の部分がぱっくりと割られている。
中にはどろどろとした何かが残っていた。
一部は抉られたのか、欠けている。
それが『何か』を理解した瞬間、嘔吐しそうになる。

『う、ぐ……』

惨めに這いつくばっている場合ではない。
どうにかして彼女の所へ、一刻も早くたどり着かなければ。

思って、一歩踏み出して。

気がついた。
その人形のようなモノの、はがされた肉のような部分。
そこには、赤ん坊特有の柔らかくとても短い髪の毛。

906 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:52:14.37 8S7XW5N50 476/658



そして、それは。

とても見慣れた、美しい赤色に、よく似ていた。
 

907 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:53:21.18 8S7XW5N50 477/658


『う、ぇェええええッッ!!』

耐え切れなかった。
人形なんかじゃなかった。
自分と彼女が誕生を待ち望み続けた、目一杯愛するはずだった愛娘だ。
頭を割られ、脳みそを乱暴に掻き回されて殺された、小さな命。
ペースト状の、血液で染まったピンクの塊が、ぼとりと床に垂れる。
びしゃびしゃと床に胃液を撒き散らし、ふらふらと立ち上がった。
これを行った者はこの手で息を止める、と胸に誓って。
せめて、せめて彼女だけでも、と部屋を出て、隣の部屋のドアを開けた。

数人の男が、"彼女"に群がっていた。

陵辱しているのか、と頭に血が上り。
直後、一瞬で血液が凍ったような感覚に襲われた。

彼らは。
彼女の内臓を、むしり取っている。
その上、自分達の口に押し込んで、無理やり飲み込んでいた。

喰っている。

『う、ああ、あ、』

イギリス清教は多くの宗教組織を抱え込む。
故に、外側より内側に敵が多いと言われる程。
そして、彼らは『偉人を食すことで内にその知識を取り込む』思想を持った連中だった。
なまじ、フィアンマが行ったことに神性があったからだろう。
ただ殺すのではなく、その身に孕んだ赤ん坊を取り出して脳を食い、本人に至ってはその全てを喰らう。

理解した。
その先、記憶がない。

ただ、数秒で、男達はこげた肉の塊となって床に転がった。
そのことだけは、頭に残っている。

908 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:54:25.51 8S7XW5N50 478/658


薬を使われているのか、あるいは何らかの呪術か。
倒れたままの彼女は、力なくぼんやりとした表情を浮かべていた。
失血のせいで抵抗出来なかったのかもしれない。
薄い腹部は開腹され、だらだらと血液が床に広がっている。
内臓の一部は、床に転がっていた。

もう、どうすることも出来なかった。
何をしたって、彼女は助からない。

『とー………る……?』
『フィアンマ』

身体を抱えて、抱き寄せた。
べったりと否応なしに彼女の血が服を汚した。
もう痛みも感じない時期にきているのか、彼女は微笑んでいる。

『すま、ないな……子供、が心配、で…魔術、もまともに、』
『……わかってる』
『トールは、……やっぱり、俺様の…王子様、だ。ヒーロー、…って、言い換えても、いい』
『そんなことねえよ。…俺は、お前を助けられなかった。
 結婚したのに、お前の味方だって言ったのに。俺は……!』
『ゆうえんち、……覚えて、いるか?』
『遊園地…?』
『あの時も、…こんな風に、……トールが、抱き上げて、くれた。
 俺だけ、みていれば……こわくないと、…言って、くれたな』
『やめろよ、』
『あれ、……嬉しかったんだ。…俺様も、普通の女の子みたいに、……なれるきがして』
『やめろ……』
『俺様、と…トールの、…あかちゃん……あかちゃん、は…?』

真実を言えるはずがなかった。
流れ出す涙で、彼女の表情があんまり見えなくなってくる。
それでも、精一杯の笑顔を浮かべた。
せめて、彼女を安心させてあげたかった。

嘘を、ついた。

909 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:54:59.79 8S7XW5N50 479/658


『ああ、無事だよ。間に、合った。隣の部屋で、即席で作ったベッドに寝かせてる。
 お前によく似てるよ。髪が赤くて、顔も可愛い赤ん坊だった』
『そう、か……よか、った』

本当に、良かった。

心底ほっとした表情で、彼女は手を伸ばしてくる。
血液にまみれた手が、ストールを握った。
彼女はよく、自分の髪とストールを触っていた。
触り心地が良いから、と言っていたのだったか。

『性格は…トールに、似るかな…?』
『俺に似たら、……困っちまう』
『そう、だな…戦闘好きは…困る……』

くすり、と笑う。
その表情はいつも通りなのに、何もかもがいつも通りなんかじゃない。

『……俺、強くなるから。
 お前をこんな目に遭わせた奴ら全員ぶっ殺せるくらいに、強くなる。約束する』

彼女を助けなかった世界中の人間がひたすらに憎かった。

『約束、するから……、』
『とーる、』

ぺた。

頬に触れた手は、温かくて、酷く冷たい。
低い低い体温と、酸化し始めた生ぬるい血液。
何かを言おうとして、笑みを浮かべて、口を開いて。




―――――そこで、彼女は息絶えた。

910 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:55:58.33 8S7XW5N50 480/658


そうして、彼は大切なものを喪った。
その後の人生において、同じようなものも見つからなかった。
彼は欠けて、狂ったまま、全てが変わってしまった。
そしてそんな彼を、誰も慰めなかった。

せめて、子供が生きていれば違ったかもしれない。

彼は世界を恨みながら、子供に希望をもらって生きていたかもしれない。

でも、そうはならなかった。

そのことが、世界の命運を分けた。
それだけのことだった。

それだけのことに、過ぎなかった。

911 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:56:25.49 8S7XW5N50 481/658


世界中の恋人を、親子関係を、人間関係の全てを。
変装術式で欺き、利用して、瓦解させた。
その不和は世界中に広がり、戦争という形に出力された。

彼女が救おうとした世界。

彼女が居た、世界。
もはや、そんなことはどうでもよかった。
全て、消えてしまえばいいと思った。

彼女が遺してくれたものは、彼女と、娘の墓。
それから、『聖なる右』を利用した自動出力術式の算出方法。

それを使って、右手を振るだけで任意のものを全て壊し殺す『投擲の槌』を創った。

彼女の最期の血がついたストールも服も、保管するのみで、着ないことにした。
彼女の数少ない形見である血液だったから。
葬式の時に着た、モノトーンのスーツを着るようになった。

『髪を伸ばしてくれ』

彼女がそう言っていたから、髪は伸ばし続けた。
以前、貰った髪留めで髪を留め、以前貰ったストールを身につけた。

彼女が死んで、十年後。
自分以外の全人類は、死体になった。

その死体を上手に配置して、世界を移動した。
他の『自分』を絶望させてでも、彼女を取り戻したかったから。

912 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:57:38.83 8S7XW5N50 482/658


『……トールは優しい』

独り言は、とても愛おしいものだった。
きっと、喧嘩でもしたのだろう。
彼女の細い体は、とても寂しそうに見えた。

『……っくしゅ、』

くしゃみ。

生理現象がある。
今、目の前の彼女は、確かに生きている。
たったそれだけで、涙が溢れてきそうだった。

ずっと、会いたかった。
お前に、会いたかったよ。

言えない。
この世界の彼女は、何も知らない。

助けにきた、なんて嘘だ。
本当は、攫いに来ただけ。

913 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/04/27 22:58:21.64 8S7XW5N50 483/658














「……ル。…トール?」
「ん、悪いぼーっとしてた」
「疲れているのか?」

オルゴールの音が止んだ。
笑顔を浮かべて、彼女の髪を撫でる。
不思議そうな表情を浮かべる彼女に、俺はまた嘘をついた。

「結婚して、子供が居るよ。可愛い一人娘だ。
 もうすぐ十歳になる。第一次反抗期ってところだな」
「ほう」

目を閉じれば、すぐにでも思い浮かぶ。

『ぱぱ、だっこ!』
『――――は甘えたがりだな』
『何だよフィアンマ、やきもちか?』

「見た目はお前に似て、性格は俺に似てる。じゃじゃ馬なところも含めて可愛いよ」

そうなるはずだった。
そうなっていなければおかしいはずだった。
そうはならなかったから、俺は『此処』に来た。

フィアンマを喰ったあの宗教組織の女教祖になって、全員を殺した。

お前を傷つける恐れのある奴らは、全員殴り殺した。
だから、この世界は安全だ。

後一人、殺すのは。

この世界で、フィアンマと喧嘩をしたままの『俺』だけ。

「飯食いに行くか」
「…、…そうだな。長く滞在していて、大丈夫なのか?」
「了解はとってあるから問題ねえよ」






――――きっと許してくれるだろ?  フィアンマ。

925 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:18:14.73 Qx7dtyTN0 484/658


ファミリーレストランで提供されている料理は安っぽい。
しかし、それは安心を呼ぶという側面を確かに持っている。
お値段だったり、いつ食べても同じ味だったり、理由はそんなようなものだ。
食欲がさほどなくたって、そもそも料理自体が大した量ではない。

「……体調でも悪いのか」

ゆっくりとバジルチキンを口に運び、フィアンマは首を傾げた。
目の前の青年は、ポテトを二口食べたきりでそんなに食が進んでいない。
自分が知っている彼はもっともっと食べるのだが。
三十代にもなると、食べる量が減ってしまうものなのか。
それにしても極端過ぎる。しかし、比較対象がいない。
せいぜい比較対象出来る知り合いといえば今は亡き左方のテッラ位だが、彼は元々少食だった。

「そういう訳じゃねえんだけどさ」
「その割にはまるで手が動いていないじゃないか?」
「お前に見とれてた」
「……何だ、唐突に」
「本当だって。やっぱ十三年も前になると、綺麗なのは変わらねえが可愛いなと思って」
「…………」

頭を冷やせ、とでも言いたいところだが。
軽口の延長線か、はたまた本気の発言か位は判別がつくので、言えない。
無性に恥ずかしいので、支払いを増やしてやろうとメニューに手をかけて。

926 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:18:45.68 Qx7dtyTN0 485/658


仕返しのために余計なものを食べるのはどうなのか、と自制。
トールはというと、メニューに手をかけたまま沈黙する彼女を見て。

「ドルチェか? 頼めよ」
「………」
「体重なら二トンまでは増えても余裕で抱き上げてやるから」

何となく、冗談というより本気めの発言が多い気がする。
年月の差というものは存外に大きいのだな、とフィアンマは思い。

「橋の橋梁でもあるまいし、人がそこまで太れるとは思えんが」
「ああ、その前に死んじまうな」

死ぬのだけは駄目だけど、それ以外は何でも許せる。

そう告げたトールの瞳は昏く見えた。
ただ、何故そんな風に見えたのか、フィアンマは知らない。
彼女は、自分が辿るはずだったあまりにも残酷な運命や世界を識らない。

「雨、止んだな。食い終わったら何処か行くか」
「映画を見に行きたいのだが」
「おお、良いな」

半分食べる、と彼が言って、ドルチェを注文した。
二人でひとつの器からものを食べる。
何でもないことが、一番の幸福。

927 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:19:16.18 Qx7dtyTN0 486/658



――― 一方。

雷神トールは、不安と後悔に駆られていた。
どんなに喧嘩をしても、それが原因で今まで彼女が出て行ったことはない。
それに、こんなにも長時間も戻ってこないなんて。

誰かに攫われたか。

一番に浮上する恐れ。
二つ目は、殺されているのでは、というもの。
彼女がそんなに簡単に殺されるとは、トールとて思ってはいない。
だが、相手によっては有り得ない話ではない。

居てもたってもいられずに、ホテルから出る。

雨は止んでいたが、トールの気分は晴れなかった。

928 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:20:01.13 Qx7dtyTN0 487/658


映画館は、ファミレスから少し遠い。
そんな訳で、トールはレンタカーを手配した。
彼は常に上機嫌だ。彼女が隣に居れば、何も怖くない。

「運転は出来るのか」
「傭兵やってたしな。出来なきゃ不便だったしよ」
「免許はあるのか?」
「いくらでも偽造は可能だろ?」
「それはそうだが」

そもそも、魔術による『気配消し』は警察の目をすり抜ける。
そして、フィアンマはその幸運故にそういった検問に遭遇し辛い。

「車に乗るのは久しいな」
「昔はよく乗ってたのか?」
「幼少期は教皇さんについて回っていたからな」

勉強のために、と肩を竦め、シートベルトを締める。
なるほど、と相槌を打ち、トールは運転を開始した。
かっ飛ばす必要はまるで無いので、安全運転で。

「ところで車には心霊エピソードが多いらしいが…」
「やめろ」

929 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:21:05.17 Qx7dtyTN0 488/658


映画館は、雨が降っていたということもあり、空いていた。
ほぼどこでも席が選べ、チケットは雨天割引で少し安かった。

「あまり前だと首が疲れるな」
「真ん中辺りが良いだろ」

中央付近の席を二つ並べて取る。
選択した上映時間は二十分後なので、食べ物を購入して入る。
席はまだ明るく、客はカップルが多い。
それもそのはず、フィアンマが『見たい』と言ったのは恋愛映画だ。

「ん、……悲恋モノか?」
「ファンタジーの恋愛物語だな。悲恋かどうかはわからん」

世界を治める神様に対する、今年の生贄に選ばれたお姫様。
彼女は死ぬことを恐れ、世界中を逃げる旅に出る。
主人公はそんな彼女と出会い、世界中の意見が変わるまで護り通すことを誓う。

そんな内容である。

やがて、フロアは暗くなり。
映画の予告と、提供紹介、そして本編が始まった。

930 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:21:31.72 Qx7dtyTN0 489/658


追跡霊装の信号は消えている。
彼女が自らの意思で連絡を絶っているということだ。
念には念を入れ、あの霊装から発信される情報は自分と彼女にしか扱えないよう調整してある。

だとすれば。

彼女は、自分以外で心を許せる誰かといる。
それも、彼女に危害を加えないであろう人物と。
そうでなければ、流石に緊急信号をストップまではしないはずだ。

「信頼出来る人物……」

ウートガルザロキは嘘をついていない。
心底から困惑した声を出していたし、知らないで通さなかったからだ。
彼女が頼れる知り合い自体はとても少ない。

「まずは近場からあたってみるか」

よって、トールが向かった先はミラノにあるとあるアパートメントだった。

931 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:22:02.04 Qx7dtyTN0 490/658


『私が居れば、足手まといになる』
『だから―――さよなら』
『待てよ!!』
『俺は、お前を護るって約束した。絶対に離さない』
『でも、』
『俺は! ……どんなことをしたって、お前を傍に置きたい…隣に居て欲しいんだ』

定番に定番を重ねた展開だ。
四方八方を敵に囲まれ、せめて主人公だけでもと姫は外に出ようとする。
彼女を抱きしめ、主人公は決して離さないと宣言した。
そうしている間にも周囲を敵が取り囲み。

『俺が活路を開く。お前は逃げろ』
『そんなこと出来る訳が』
『任せろ。―――何たって、俺は伝説の旅人だぜ?』

そう言って敵に飛びかかる主人公と、泣きながら走り去る姫君。
数年後、姫君は彼とかつて逃げ込んだ場所に戻って来た。
当時は死体であっただろうものがそこら中に落ちている。
生贄の話はどうなったのか、その辺りは描かれないらしい。

そして。

主人公は、彼女の後ろに立った。

久しぶり、と声をかけ。
姫君は振り向き、人生で最高の笑顔を浮かべ彼に抱きついた――――。

932 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:22:33.24 Qx7dtyTN0 491/658


「思っていたよりも陳腐な作品だな」

つぶやきと同時に上映が終わり、場内は明るくなる。
周囲のカップルは女性側が泣き、男性側は優しい笑みを浮かべている。
彼らは連れ添って外へ出ていき、あっという間にフィアンマとトールは取り残された。
ゴミは清掃時に回収してくれるらしく、ドリンクホルダー等に置いておくだけで良い。
それにしても立つ気配がないな、と横を向いたところで。

彼女は、何の前触れもなくトールに抱きしめられた。

……良い匂いがする。

紛れもなく、自分の愛する人の匂いだ。

「……トール?」
「……フィアンマ、…愛してる」

『あの日』、最期に言ってあげられなかった言葉だ。
泣きながら約束するので、自分は精一杯だったから。
墓へいっても、花束を供え、謝罪をしてはすぐに殺しや騙しに戻っていた。
だから、彼女に愛を囁いてこなかった。ずっと、こうしたかった。
映画の中、何度も酷い目に遭わされる姫君が彼女の姿に重なった。

「何だ、映画に感化されたのか」

くすくすと笑って、彼女は抱きしめ返してくる。
その控えめな胸からは鼓動を感じるし、確かに呼吸していた。

933 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:23:07.19 Qx7dtyTN0 492/658


映画館から出て、高級ホテルに戻る。
ルームサービスで用意されていた飲み物を飲み、二人でベッドに腰掛けた。
もうすっかりと暗闇が空を覆っている。
手早くシャワーを済ませた二人は、ぼんやりと時計を見つめた。

(……このトールと一緒に居るのは心地良いが)

でも、と良心に陰が差す。

("今の"トールには、まだ謝罪をしていない)

楽しく過ごしている間に、気がつけば午後九時。
喧嘩をして出て行ってから、かなりの時間が経過している。
見つけられるのは気まずいので、霊装の通信は切っていた。

「トール、非常に言いにくいのだが」
「あん? 何だよ?」

乾かして尚ほんの少ししっとりとした彼女の髪を撫で、男は首を傾げる。
意を決して、フィアンマはこう告げた。

「今のトールのところに戻る。謝らねばならん」
「……………、……………………」
「お前とはまた会うつもりだが、もうそろそろ帰」

彼女の視界が、ぐるりと回った。

934 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:24:12.35 Qx7dtyTN0 493/658


その頃、雷神トールは見当はずれにも、オッレルスの下に居た。
シルビアが買い出し中の為、そこに居たのは彼一人。

「……フィアンマは何処だ」
「彼女? ここには来ていないけど」

彼が語っているのは事実だ。
実際、フィアンマはオッレルスへただの一言も連絡していない。
とはいっても、雷神トールがそれをそのまま信じるはずもなく。

「隠してるんじゃねえだろうな」
「そんな訳ないじゃないか」
「………」
「敵意を向けられても……」

心底困惑しながら、オッレルスは首を横に振る。
先日、彼とトールは和解し、現在地を教えあった。
謝罪だけでは、因縁や疑いはそう簡単に消えない。

「色々調べさせてもらうぜ」
「好きにしてくれ。本当に居ないんだけどね」

痴話喧嘩でもしたのか、という問いかけに、肯定とも否定ともつかぬ返答をした。

「見つからないんだよ。……通信も完全に絶ってやがるし」
「襲われた、とかじゃないかな」
「俺もそれは考えた。…けど、俺とアイツしかわからない通信霊装の術式も遮断してある。
 自分の意思で切ったってことだし、脅迫されて切る意味はない。
 だから、アイツは今信頼出来る誰かと居る。自分に危害を加えたりしないだろうと考えてるヤツと」
「それで、私の所へ来たのか。残念だけど、私は彼女からさほど信頼されてはいないよ」
「可能性のひとつとして来ただけだが、…マジで居ねえんだな」

家中を調べ尽くし、トールは静かに項垂れる。

「後はオティヌスだろうが、…流石にわからない」
「協力してあげられれば良かったんだけど…あ」

トールの扱えないサーチ術式で探そう、とオッレルスは提案する。
そして少年は、それに頼ることにした。他人に頼ることも、また力だと知っているから。

935 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/02 23:25:04.24 Qx7dtyTN0 494/658


「……何、………トール…?」

両手首を掴まれ、ベッドに押し倒された。
目の前の青年に、表情はない。
ただ、瞳の奥が、不安定に揺れている。
自分が現在交際しているトールよりも、彼の方が体格が良く、腕力が強い。

暴れるという選択肢が、撤去される。

口を開いて放たれた言葉には、得体の知れない怨念のようなものが窺えた。
世界中に悪意を向け、孤独に磨かれたその低い声。







   ・・・・・
「俺はもう二度と、お前を逃がさない」

941 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:14:11.18 wPSnM3M00 495/658


その一言で、身が竦んだ。
危害を加える宣言ではない。
むしろ、つい最近までよくトールが主張していたことだ。

フィアンマを放っておけない。
いつまた出て行くかわからない。

ただ、彼の表情はそれを指しているようには見えなかった。
心配というより、執着の二文字がよく似合っている。

ぎゅう。

掴まれた手首を、更にきつく握られる。
血を止められてしまうのではないかと、不安になる程。

「トール……」
「俺は、」
「お前は、俺様と結婚して、子供も居るんだろう?」

トールの動きが、止まる。

942 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:14:54.88 wPSnM3M00 496/658


「………ああ、もちろん」

彼の口元には笑み。
けれども、優しくも豪胆でもなく、不気味にしか感じられない。

「俺は、フィアンマと結婚してる。
 娘だって、十歳になる。可愛い、……可愛い、俺とお前の娘だよ」
「ならば」
「居るに決まってる。…そうじゃなきゃおかしい。
 狂ってるのは俺じゃねえ、この世界の方だろ…? なあ、」

様子がおかしい、と思うのに迷いは不要だった。
手首を掴まれたまま、せめて拒絶の姿勢を示そうとフィアンマは後ずさる。
引き腰の彼女の様子を見、トールの表情が一気に険しくなる。

「……どうして、俺を拒むんだ?」

不思議そうな声だった。

直後。

彼女の服に、男の手がかかる。

943 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:15:23.86 wPSnM3M00 497/658


「……途中で弾かれるね。干渉されてるみたいだ」

サーチ術式を実行しながら、オッレルスは首を傾げた。

「彼女自身が拒否しているのか、…同行者か」
「……連れだろ」

未だ、自分に怒っていたとしても、オッレルスを無視するのはまた別の話。
彼女は賢い女だ、感情的な判断を下す頻度は非常に低い。

「フィアンマに警戒されず、それでいて、アンタのサーチを弾ける。
 ……となると」

浮上する可能性は、もはや一人しかない。

魔神オティヌス。

事実だとすれば、彼女の下へたどり着くことは不可能だ。
オティヌスの居場所を知るのは、世界でただ一人、フィアンマだけなのだから。

八方塞がり。

浮かんだ言葉に、トールが項垂れると同時。



―――ミラノの街が、戦火に包まれた。

944 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:16:04.91 wPSnM3M00 498/658


「や、めろ」
「…お前は、俺の恋人だろ?」
「俺様は、」

服を脱がされることにこれまで恐怖を感じたことはなかった。
今日が、その初めての日だ。
ふるふると首を横に振り、必死に抵抗する。
それを嘲笑うかのように、彼は彼女の下衣に手をかける。

爆音がした。

それも、爆弾が地上に落ちた類のものだ。
トールの笑みが消え、表情もいつものものに戻る。
彼は彼女の上から退き、優しく抱き上げた。
唐突な雰囲気の変化に、フィアンマは困惑して彼を見上げる。

「爆撃だな。逃げるぞ」
「爆撃だと? 何故イタリアを」
「第四次世界大戦だ。まず、イタリアから潰す」

まるで、知っているかのような口ぶり。
『一度経験した』かのような。

「大丈夫だ」

彼は、真っ直ぐに窓越し、空を睨み。
そして、大きなプロジェクトを済ませた会社員のように、達成感に満ちた笑みを浮かべる。

「―――今度こそ、俺が守ってやる」

945 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:16:34.88 wPSnM3M00 499/658


「うおっ、」
「……爆弾のようだね」

家中がぐらっと揺れ、トールは壁に手をつく。
オッレルスは立ち上がり、サーチ用の霊装を破棄した。
きちんと壊さなければ、中途半端に作動して危ないからである。

「シルビアを探しに行く。君は?」
「俺も出る」
「必ず、仲直りをしてくれ」
「…言われなくても」

フィアンマによる、命を賭した後押しを受けて。
彼は、シルビアと正式に交際することを決めた。
近々結婚もしようかと話していた程に。
聖人とはいえ、放っておく訳にはいかない。
二つの分かれ道を左右に別れ、愛する女性のために、彼らは走る。

946 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:17:27.40 wPSnM3M00 500/658


トールに抱き上げられたまま、乱れた服装を正し。
混乱に逃げ惑う民衆を平然と見捨てるトールを見つめ、フィアンマは問いかけた。

「この先、結末はどうなる」
「ん?」
「お前は未来からここまで来たんだろう。
 ならば知っているはずだ、この戦争の末路を」
「聞きたいのか?」

走りながら聞き返すトールに、フィアンマは募る不安を抑え込む。
どうしてこんなにも、彼の言動が不安を掻き立てるのか。
柔らかな黒い毛皮のストールを握り、彼女は唇を舐め。

「……話せ。知りたい」
「人類滅亡。……程はいかねえだろうな」

今回は、という言葉を飲み込む。
『前回』、ほとんどの人類が死に絶えたのはトールが殺害したからだ。
今回は人類を率先して殺す必要がない。故に、被害は減るだろう。

「止められないのか」
「何で止める必要があるんだよ」
「人類が居なければ世界は、」
「人類の醜さに最も辟易してたのはフィアンマだろ?」

息が詰まる。
反論、出来ない。

「お前だけは、俺が守ってやるからな……」

947 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:18:14.95 wPSnM3M00 501/658


「だ、めだ。見つかん、ねえ」

オッレルスの協力により、イタリア国内に居るということはわかっていた。
しかし、そんな漠然とした情報だけでは見つかるはずもない。
手がかりはほとんどゼロに近い。
この爆撃だ、彼女だって流石に何処かへ退避しているだろう。
彼女が見つかる可能性は絶望的な数値を指し示している。
だからといって、はいそうですかと目を瞑って忘れることなんて出来ない。

「トール」

少女の声だった。
振り向いた先、既に魔神の座を降りた少女が立っていた。

「フィアンマは一緒に居ないのか」

その一言は、彼女の下にフィアンマがいないことを証明する。
意を決し、今までの流れ、現在の状況を手短に説明した。
オティヌスは眉を寄せ。

「一つ質問がある」
「何だよ、早く言え」
「お前は近頃、人を殺したか」
「何?」
「殺したか、と聞いている」
「殺してねえよ。傭兵として戦場に出る回数は随分と減ったしな」
「……ふむ」

品定めをするように、オティヌスはトールを見つめた。
そして、嘘ではない、と判断を下し。

「だとすると不味い状況だな。推測するに」
「………」
「フィアンマは今現在、お前の姿を騙った連続殺人犯と共に居る」
「……俺の、姿を?」
「加えて言えば、恐らくこの第四次世界大戦の首謀者とも言えるだろう。
 変装術式のプロなのかどうかはわからないが、きっかけは多く作っている」
「………」

自分の姿をしていれば確かに、警戒する必要なんてないだろう。

だけれども、経歴から考えて、彼女ならば見抜けるはずだが。

「私も彼女を捜す。…何か、取り返しのつかない過ちが起きる前に」
「…ああ。……頼む」

948 : ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:18:47.02 wPSnM3M00 502/658


重厚な結界に包まれた廃教会。
その中に入ってようやく、トールはフィアンマを降ろした。
ふらつきながらもしっかりと立ち、彼女は周囲を見回す。

「何故イタリアが攻撃される…?」
「ローマ正教が世界中から敵視されてるからな。
 ローマ正教徒は皆殺しにしろ、っていう感じだろ。
 近頃の殺人犯はローマ正教から輩出されてるし」
「……二○億もの人間を、…敵視…?」
「たかが二○億。潰れても、支配者次第で何とでもなっちまう」
「………たったの十三年で、何がそこまでお前を変えたんだ」
「……さあ。色々ありすぎて、今となっちゃ思い出せねえことばっかりだ」

コツ、コツ。

教壇に腰掛け、彼は不遜にも聖母の像を見やる。
彼の左手薬指には、指輪がはまっていた。
細身の、純銀のリングだ。
華美を必要としない、結婚指輪。

「……俺たちは、此処で結婚したんだ」

二人きりで、と彼は言って。
神父以外誰も呼ばずに、と。

「死が二人を分かつまで、なんて寂しいよな」

トールが、何の気なしに右手を振る。
聖母の像の首が、ごろりと堕ちた。

「死が二人を別つとも、だ」

あまりにも冒涜的な所業に、フィアンマは不愉快さを隠さない。
彼は、首を緩く横に振った。

「怒った顔も可愛いな、フィアンマ。
 ………このまま、お前は一生此処に居てくれればいい」
「………嘘を、ついていたんだな」
「しばらくしたら元の世界に戻るって話か? ああ、ありゃ嘘だよ」

んー、と伸びをして。
彼はスーツのジャケットを正す。

「俺は此処に残る。俺"が"、残るべきだろ。
 そのためには『俺』が必要だから、……行ってくる」

止める間もなかった。
異世界の、過去の自分を殺すと湾曲して宣言し、彼は教会を出て行く。
今のフィアンマに、そこから出る術はなく。
出たとして、その街に安全はなかった。

949 : 次回予告  ◆2/3UkhVg4u1D - 2014/05/03 23:19:31.98 wPSnM3M00 503/658






「テメェだって、フィアンマの幸せを拒絶した上で其処に居るんだろ?」
               
                   歪んだ愛に気がつけない全能神―――トール




「………沢山理由はあったけど、諦めるなんて出来なかった」

                   一人の少女の為に戦う雷神―――トール




「俺様のせいできっと、トールは狂った。だとしたら、俺様が取るべき行動は」

                    教会の奥に眠る少女―――フィアンマ





続き
フィアンマ「助けてくれると嬉しいのだが」トール「あん?」#6


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