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勇者「王様が魔王との戦争の準備をしている?」 【パート1】 【パート2】 【パート3】
勇者「……残る四天王は、ウェパルと九尾か」
老婆「そうじゃな。九尾が最上階にいるということは、必然的に次の階にはウェパルがいることとなるな」
ウェパル。嘗ての兵士A。二人とも、不思議な情が彼女には生まれていた。
当然隊長にまつわる様々は聞き及んでいて、それを納得も許せもできないのだけれど、しかし、確かに彼女は仲間だった。その時の絆は嘘ではない。彼女が白沢から救ってくれたことは事実なのだ。
僅かに下を向いて思考し、勇者は老婆を振り返った。
勇者「どっちが行く?」
老婆の姿がない。
勇者「え?」
勇者の認識は異なっている。老婆の姿が消えたのではない。そもそもそこはポータルではなかった。
限りなく灰色の部屋。
広く、広々とした、部屋。
中心に人影。その正体が何かだなんてことは考えるまでもなかった。
四天王、序列二位。海の災厄、ウェパル。
彼女は今回は二本の足で立っていた。半人半魚ではなく、れっきとした人間の姿で。
勇者「どういうことだ」
ウェパル「どういうことって言われてもね。九尾の考えだから、ボクには全部はわからないよ」
ウェパル「九尾はおばあちゃんと話がしたいんだってさ」
勇者「話がしたい?」
勇者は明らかに怪訝そうな顔をする。
勇者「戦うじゃなくて、話?」
ウェパル「そ。九尾の遠望深慮はボクにはわかりかねるんだけどさ」
勇者「……俺は、お前と戦うのか」
ウェパル「ん。まぁ、そういうことになるかな。ボクは乗り気じゃないっていうか、どうでもいいんだけど」
勇者「俺たちは急いでる。見逃してはくれないか」
ウェパル「……」
勇者「今も下では仲間が――敵だったやつも、今じゃ仲間だ。仲間たちが、戦ってる。九尾の召喚してる魔物と」
勇者「なぁ、なんでこんなことをするんだ? こんなことに何の意味がある?」
ウェパル「……九尾に会えばわかるよ」
勇者「お前も結局四天王ってことか」
ウェパル「ボクは別に、魔族とか九尾とか、どうだっていいんだ。どうだっていいんだけど――知り合いの努力に手を貸さないほど、非情でもない」
ウェパル「九尾は一生懸命やっている。傍から見てて痛々しいほどに。それを助けてあげたいと思うことはおかしなことかな」
ウェパル「安心して。手加減してあげる。最後には負けてあげるよ。でも、ある程度の時間は稼がせてもらうから」
ウェパルは空間に手を突っ込んで、何かを取り出した。
人くらいの大きさの何か。
勇者「!」
否。それは、人だ。勇者もよく知る人。
隊長の死体。
顔は青白いが、安らかな寝顔である。血に塗れた最期が嘘のように、幸せそうで、四肢の欠損もない。恐らくウェパルが魔法によって何とかしたのだろう。
修復、防腐、そんなところか。
ウェパルは驚愕に目を見開いている勇者など視界に入っていないように、隊長の死体と口づけを交わし、抱きしめ、部屋の壁へと背中を預けさせた。
ウェパル「隊長ッ、見ててくださいねっ! ボク、頑張りますから。頑張っちゃいますから!」
勇者は自らに走った怖気の甚大さに、自然と口角が引きつる気持ちだった。
なんと言えばいいのだろう。「気持ち悪い」か、「それはおもちゃじゃない」か、それとも他に言うべき言葉があったのかもしれないが、勇者には到底思いつきそうになかった。
ただ唯一、言葉がこぼれる。
勇者「……お前、やっぱり魔族だわ」
剣を構える。戦いたくはなかった。戦う気もなかった。しかし、生存本能が勇者にそうさせた。
目の前の存在は本当に正気なのか。
人間であった頃の、兵士Aであった頃の彼女を勇者はなまじ知っているだけに、余計に信じられない。もし彼女がいまだ人間の心を有しているのだとすれば、最早狂気に堕してしまったことは明白である。
そして、もしすでに人間の心を落としてしまったのだとすれば、完全に魔に堕してしまったこととなる。
どのみち、彼女との精神のずれは、どうしようにも避けようがない。
ウェパル「なに、愛する二人の仲を引き裂こうっていうの?」
ウェパル「そういうのはあれだ。あれ。えーっと、なんだっけ。こういう度忘れが最近多くて困るんだよなぁ」
ウェパルの文様が妖しく光る。どす黒く、紫色に。
爛々と目を輝かせて勇者を見た。
ウェパル「そうだ、あれだ」
ウェパル「馬に蹴られて死んじまえ、でしたよね、隊長ッ!」
衝撃。
高速で打ち出された不可視の何かが、音を置き去りにして勇者の上半身を吹き飛ばした。
べちゃり。勇者の上半身が容赦なく壁に叩きつけられ、赤い肉塊へと変貌する。
僅かに遅れて、ゆっくりと残った下半身が、その場に頽れた。
ウェパル「よわ」
ウェパル「……勇者くん、覚えてるかなぁ」
ウェパル「最初に王城で会ったとき、戦って、そしてボクは言ったんだ。今度は本気でお手合わせしようって」
ウェパル「それが、こんなふうになるなんて、思ってなかったよ」
ご、え、ご、うぁ
地震のような音だった。地の底から溶岩があぶくとなって弾ける、そんな音だった。
そう、声ではない。
頽れた下半身、その腰部から、次第に勇者の体が再生していっている。成長する筋肉繊維と神経。血管は繋がる血管を自ずから探し、幾重にも重なりあって皮膚が形作られる。
震えた音は声帯も満足にできていない勇者が発した「音」だった。骨と、筋肉の軋みと言い換えても問題はなかろう。
腱で固定されたばかりの、殆ど骨だけの腕で、勇者は体を起こそうと試みる。
ウェパル「わ。間近で見るのは初めてだけど……凄い加護だね。まるで呪いだ」
ん、ご、じ……お、い……あ、ちか、に、ぞぶ、がぼじで、ねぇ、だぁ
ウェパル「はは。何言っているのか全然わかんないよ、勇者くん」
のろ、い……たち、か、に……そうかも、じれねぇ、なぁって言ったんだよ!」
跳躍。すでに体は完成している。
両手に電撃をまとわせ、剣を抜く。
衝撃。
またも勇者の体、今度は剣を握っていた右腕から肩口にかけてが、ごっそりと消失した。
勢いに体を取られて勇者は転倒する。みずぼらしく、みっともなく、顔面を地面に擦り付けながら。
勇者の絶叫。一撃死でないぶんだけ、痛みはダイレクトに全身を駆け巡る。蘇生の加護も痛覚を消してはくれない。
ウェパル「死なないと再生はしないんだね」
ウェパルは人差し指を立て、振った。
切断面から白い粒が生まれ、山になり、ぼとぼとと地面に落ちていく。
いや、それは粒ではない。蛆だ。
肉食蛆は蠅が汚物に集るように肉を喰い、しかし本来の蛆とはことなって、壊死した部分以外も喰らいにかかる。
勇者の絶叫以外は何一つ聞こえない空間で、蛆たちは肉を、骨を、食む音すら響かせずに貪りつくす。
蛆は際限なく湧き、ついに勇者の全身を覆った。既に勇者の姿は人間のそれではなく、ただの白い蠢く何かとしてしか認識されえない。
増殖を続けていた蛆たちであったが、ある時を境にしてその体積が減っていく。否。減っているのは蛆の体積ではない。勇者の皮膚が食い破られ、体内に雪崩れ込んだ証拠なのだ。
やがて、骨と、僅かな肉片だけがその場に残された。
ウェパル「完食っと」
冗談めかしてウェパルが言った。その視線の先には、雷撃を両手に宿す勇者の姿がある。
勇者の耳が刎ねる。
不可視の衝撃は今度こそ勇者を戦闘不能に陥らせなかった。ぎりぎりで身を屈めて回避した勇者は、そのまま走りだし、同時に雷撃を放つ。
ウェパルはそれを避けなかった。彼女が手を広げると魔力障壁が展開され、雷撃を完全に無効化する。
その間にも勇者はウェパルに迫っている。依然として雷撃は放ちながら、右手で剣の柄を握り、胴を狙う。
物理障壁。剣は僅かに食い込むが、所詮そこまで。反撃として不可視の衝撃が来るのを回避して回り込む。
勇者「二回も喰らえば予期できないわけないだろうがっ!」
斬撃。ウェパルはまたも物理障壁を展開するが、今度の刃は帯電している。物理障壁では防ぎきれない。
物理障壁ごとウェパルの腕を切る。青味がかった、まるで魚類のような血液が、床に滴った。しかし致命傷には程遠い。こんなもの、生命力の強い相手にしては、擦り傷も同然だ。
すぐに反撃が来るのはわかっていた。しかし距離を取ることも考えられない。折角つめた距離を取り戻すのに、どれだけの労力が必要だというのか。
取る選択肢はただ一つ。
どうせ死んでも生き返るのだ。
ウェパルの左腕、ヒドラのように細かくうねる触手が、悪い雰囲気を放ちながら勇者へと飛びかかった。毒か呪いか、少なくとも悪い何かを帯びているだろうことは想像に難くない。死ぬよりも辛い目にあうことも。
勇者「はっ!」
伸びてくる触手をたちどころに切り落とし、さらに勇者は深くへと潜る。それを阻止する魔力の剣が、勇者の頭を狙って振ってきた。
雷撃で弾く。魔力の剣は内部から炸裂し、あたりに魔力を振りまいた。
柄の部分をしっかりと握り、乾坤一擲、攻撃を加えようとしたところで――
勇者「!」
剣が根元から腐り落ちているのを見た。圧倒的なまでの腐食。どう見ても、化学反応ではない。もっとおどろおどろしい何かに違いなかった。
魔力の剣が四方八方から迫る。ウェパルの魔力で編まれたそれは、錯覚だろうか、どこか毒々しい色をしている。
剣では弾けない。雷撃も間に合わない。
鈍い音がして、勇者の首と胸に、刃が深々と突き刺さった。
勇者「あ……が……っ」
声を出すのもままならない中で、勇者はかろうじて倒れる身を踏みとどめたが、それも所詮気休めだった。すぐに力が入らなくなり、地面に倒れる。
血だまりの中で彼は感じた。自分とウェパルの間にある、限りない断絶。力の差を。
しかし同時にウェパルも思っていた。これでは埒があかないと。
彼女は特別九尾に汲みしているわけではない。彼女が今ここで勇者と戦っているのは、先ほど彼女自身が口にした以上の理由はなかった。つまり、九尾の努力に敬意を表してということだ。
ウェパルは必要以上に何かをしない。また、彼と彼女は階下の二人――アルプと狩人、デュラハンと少女のように、大きなしがらみにからめ捕られてはいなかったというのもある。
しかし――いや、ここは「ゆえに」と言おうか。ゆえに、ウェパルは九尾の指示とは異なって、全力で戦わず、最終的には九尾の下へと通すつもりだった。それもまた彼女の言ったとおりである。
指示とは異なり、その実九尾の希望通りに。
九尾は全力で三人とぶつかるよう指示した。最悪殺してしまっても構わないと。その指示は事実だが、本意ではない。それを乗り越えて三人がここまで来ることを希望していた。
全ては目的のために。
魔王の復活のために。
勇者は一度出血多量で死に、そしてすぐに立ち上がる。突き刺さった魔力の剣を帯電した両手で無理やり引っこ抜いて。
不思議な感覚を覚えていた。これまで、蘇生がこんなに早く行われることはなかった。一日、早くても半日は蘇生までにかかったはずだ。ここに来て能力が向上する理由が彼にはわからない。
勇者「人外だな」
ウェパル「やっぱり、きみなら魔王にもなれるんじゃない」
勇者「俺は世界を救いたいんだ。魔族だなんて、ごめんだよ」
ウェパル「……ふーん」
ウェパルが手を上げると、魔力の粒子がある形を構築していく。限りなく濃密な魔力構築物。その密度と堅牢さは剣の比ではない。
砲台、であった。
無論、ただの砲台ではない。まずその数がおかしくて、おおよそ二十台ほどのそれが、口を勇者にきっちりとむけている。そしてそれらは全て宙に浮き、半透明の体の中に無色透明な魔力の砲弾が装填された状態で、火を放つ時を今か今かと待っているのだ。
ウェパルは九尾やデュラハンのような召喚魔法は使わない。結局、自分のものにならないものを、彼女は嫌っていた。それが彼女の業でもあるし、強さでもある。
勇者は帯電した拳を構えた。剣が折れてしまった以上仕方がない。
轟音。
空気を揺らす低く鈍い音とともに、全ての砲台から一斉に砲弾が射出される。
さながら死の驟雨である。砲弾は装填の必要がない。次から次へと勇者の命を奪いに来る。
同時に駆け出した。この雨の中を縫ってこそ勝機が掴めると彼は思った。でなければ、所詮ウェパルに勝つことはできないのだと。
ウェパルはまだ半分も本気を出してはいない。その程度に絶望して諦めるくらいならば、その程度にすら必死こいて本気出して、そうするほうが余程よい生き方である。
勇者「どうせ死んでも復活するんだしなぁあぁっ!」
己の加護に対する無辜の信頼がそこにはあった。
彼には狩人のような精密さも、少女のような膂力も、老婆のような魔力もない。彼が持つのはただ一つ、死んでも復活するという加護だけである。それを駆使することでここまでやってきたのだ。
階下、そして階上では仲間たちが命を賭して戦っている。勇者は彼女らが生き残り、勝ちあがってくれることを信じている。
だからこそ自分がくじけるわけにはいかないのだ。日和るわけにはいかないのだ。
例え何度死んだとしても。
腕がもげる。バランスを崩しながらも前進。
頭部よりも一回りは大きい砲弾。一つ一つの隙間はあるが、その隙間を埋めるように後続が向かってくる。無理やりに体をねじ込みながら進んでいくが、掠れただけでも肉と骨が持っていかれる。
勇者「ぐ、う、おおおおっ!」
全身がこそげ落ちていく激痛。肉片が、骨が、だらしなく地面に叩きつけられる。
生きたまま体積が減っていくというのは拷問に等しい。悲鳴を何とか噛み殺し、眼を剥いて、ただ足を動かし続ける。
勇者(あと、四歩!)
かろうじて残っていた右腕に力を込める。電撃。帯電した拳が音を立て、空気中に紫電を放出する。
砲弾。勇者は瞬時に回避が間に合わないことを悟る。
一か八かであった。そのまま魔力の砲弾を拳で殴りつけ、後方へと逸らした。
勇者「ぐっ、う……」
砕ける右拳。満足に力が入らない。剣があっても握ることなど到底無理だろう。
勇者(あと、三歩!)
僅かに高く浮いていた砲弾の下をくぐる。急な体勢の変化に、末端の筋肉がぶちぶちと悲鳴を上げていく。足首から先が、手首から先が、動きについていけずに置いてけぼりをくらったかのようだった。
口から洩れるのは、最早悲鳴でも苦痛でもなく、吐息でしかない。喉はすでに引きつって言葉も出ない。
勇者(あと、二歩!)
砲弾にナイフが加わった。至近距離では砲弾はそれほど有効ではない。一撃の殺傷力では砲弾に及ぶべくもないが、しかし、その分手数がある。
おおよそ七十と言ったところか。
勇者「怒れる空! 果てなき暗雲! 神が振らせる幾万の槍! 刹那の裁きに言葉は出ず、頭を垂れ、懺悔を持たずに滅する炎!」
勇者「ギガデイン!」
勇者の全身から雷撃が迸る。それは魔力のナイフを片っ端から消失させるも、勇者にのしかかる負担こそ甚大であった。
体の内からひねり出す魔力は、逆に体の内から魔力に引きずり出されることを意味する。それでも勇者は何とか堪え、鼻血を抑える手すら既になく、顔面を真っ赤にしてただただひた走る。
勇者(あと一歩!)
勇者の視界を水が舞う。
水の弾丸が勇者の全身を撃ち抜いた。
体から力が抜ける。足、腹だけでなく、頭も打ち抜かれた。視界が暗転する。
海の支配者たるウェパル。水を使わせれば彼女の右に出る者はいない。
ウェパル「惜しかったよ――っ!?」
最大級の賛辞の途中で、ウェパルは驚愕する。
弾け飛んだ勇者の全身が、即座に形を成していた。
ウェパル「なっ――死んだから、蘇生したって、こんな一瞬で!?」
既に勇者は肉薄している。
勇者「零歩!」
距離も、零。
ウェパルは反射的にナイフを魔力で編みこんで投げつける。同時に左腕の触手で勇者を狙った。
勇者の行動は迅速である。ナイフは左手で無理やり掴み、触手は雷撃で撃ち落とす。
痛みが全身を駆け巡るより、触手が再生するよりも早く、勇者はウェパルの肩を掴む。
速度は落とさない。
そのままウェパルに頭突きを繰り出した。
ウェパル「ぐっ!」
ウェパルは倒れない。出血する額に目を細めながらも、しっかりと勇者へ第二のナイフを投擲している。
刃はきっちり勇者の頸動脈を掻き切った。一気に血液が吹き出し、あたりの床を、天上を、赤く染めていく。
失血死までには時間があった。それはありすぎたと表現できるくらいにである。既に勇者の右腕は帯電していて、ウェパルの胸へと狙いが定められている。
勇者「うぉおおおおあああああああっ!」
ウェパル「ちょ、まっ!」
触手で右腕を固定しようとするも、あまりの電力に触れるたび触手が先から蒸発していく。並みの攻撃ならば再生力が上回るはずのそれでも、今の勇者には触れることすら叶わない。
拳を振り下ろす。
電撃が軌跡を描いて、ウェパルを大きく吹き飛ばした。
ウェパル「っ、ち、くしょぅ……うあああっ!」
雷撃がウェパルの体を蝕む。全身が麻痺して受け身も満足に取れないが、それでも何とか空気中の水分を凝固、緩衝材として勢いを押し殺す。
全身から煙が噴き出す。ウェパルは口の中から蛆を吐き捨てた。ダメージは全て蛆に吸い取ってもらったが、やはり依然として四肢に痺れが残っていた。
ウェパルの視界の中で、勇者の胸部がずり落ちる。
反射的に彼女が放ったウォーターカッターは、勇者の胸部を袈裟切りにした。彼はウェパルに攻撃するので精いっぱいで回避行動などとれるはずもない。
頸動脈の傷など比にならないほどの血液。錆びた鉄の臭いが部屋中に充満する。それでなくとも勇者はすでに何度も死んでいるのだから。
地面を引きずる音が聞こえた。蘇生した勇者が地面を這う音だった。
ウェパルが腕を振ると水の弾丸が勇者を襲う。それをなんとか電撃で弾くと、全身をばねにして勇者はウェパルへ飛びかかる。
勇者の左足が、膝から先が消し飛んだ。
圧倒的にウェパルの攻撃のほうが早い。
頭上からの雨が勇者の体を幾重にも貫く。それは単なる雨ではない。機銃の散弾だ。限界まで圧力をかけ、鋼鉄もかくやと言わんばかりの硬度を誇る水滴は、人間の体などものともしない。
勇者「俺は、まだ……!」
言葉を紡ぐ暇は与えられない。
蘇生し立ち上がった勇者の首をウェパルがわしづかみにした。そのまま無造作に、単なる腕力で勇者を振り回すと、遠心力に負けて勇者の胴体だけが壁に叩きつけられる。
ウェパルの持った頭蓋から、脊髄だけがだらりと垂れ下がる。
ウェパルは頭蓋を軽く握り潰すと、つかつか勇者へと歩み寄る。
勇者「負けちゃ」
つま先が勇者の腹部を撃ち抜く。勢いのままに壁に叩きつけられ、関節と関節の隙間から血液が溢れ出す。体が壁に張り付いたままという事実が、彼の体にかかった衝撃の置き差を物語っていた。
ウェパルは水から槍を形作る。二又の槍。根元が螺旋状になったそれを、大きく振りかぶり、投げた。
勇者「いな」
僅かに肘、膝から先だけが残る。
あまりの速度と衝撃に血液さえも残らない。
最早それは作業だった。そしてその無為さを、誰よりもウェパルが理解していた。
次から次へと現れる害虫を、一匹一匹潰し続けるような、嫌気の止まらないルーティンワーク。繰り返しの繰り返しに次第に表情が消えていくほどの。
砲弾が勇者の顔面を砕いた。
水の刃が勇者の脳天から股間までを断った。
蛆が勇者の肉を喰いきった。
それでも、勇者は生き返る。生き返って、立ち上がる。
眼には闘志を抱いたまま。
勇者「行くぞ」
ウェパル「あー、もう!」
地団太を踏むウェパル。かかとが地面に振り下ろされるたびに塔全体が大きく揺らぐ。
ウェパル「なんなのさ! なんなのささっきから! もう!」
ウェパル「……疲れた」
勇者「は?」
だらりと両手を下げたウェパルに対し、勇者は明らかに怪訝な表情をぶつける。彼女の発した言葉の意図が彼には全く理解できない。
しかし、恐らく、それは彼だけだったろう。当事者である彼にはわからないのだ。彼と対峙する者のやるせなさを。どうしようもないほどの実力差を理解してなお、死んでも死んでも突っ込んでくる敵の厄介さを。
換言すれば、面倒くささを。
踵を返すウェパル。手をひらひらと振りながら、壁にもたれかけさせてあった隊長の死体を、丁寧に、丁寧に、僅かの傷もつかないように、優しく抱きかかえる。
勇者「おい、ちょっと!」
ウェパル「は。もう終わり。もうおしまいだよ。ボクの役目はここまで。殺しても殺してもきりがないんじゃ、なんの感慨もわかないよ。ただ嫌なだけだ」
ウェパル「わかったよ。確かに君は『勇者』なんだね」
勇者が口を開くより先に、ウェパルが空間をこじ開ける。
ウェパル「ん。ばいばい。また今度」
ウェパル「どうでしたか隊長、ボクの雄姿! え、かっこよくてかわいすぎて困る!? そんなこと言われたボクのほうが困っちゃいますよ、もう!」
ウェパル「でも隊長は本当にいっつもボクのことをそうやって褒めてくれるんですもんね、ボクがこうして頑張ってられるのも隊長のおかげってやつで――」
姿が消えた。勇者はあっけにとられた様子で、彼女の消えた空間をぼんやりと眺めている。
勇者「そんなの、ありかよ」
音もなく現れたポータルの扉――九尾の部屋へとつながる扉だ――へ視線を移しながら、勇者は呟いた。
―――――――――――――――
―――――――――――――――
ポータルが動いている。ごうん、ごうんと。
魔力で動くそれは、九尾が制御している。即ち九尾には三人が今こちらへ向かってきていることがつぶさにわかった。それが例え、老婆と話している最中であったとしても。
九尾の目の前では、老婆が驚愕に目を見開いている。彼女と九尾は戦っていない。ただ言葉を交わしただけだ。そしてそれは、決して舌戦というわけでもなかった。
老婆「まさか、そんな、そんなことのためにっ!」
九尾「そんなこと、さ。よいことだろう?」
九尾は意識的に飄々と言った。老婆はまっすぐ睨みつけてくるが、反論はない。理は九尾にあり、利は互いにあることを知っているのだ。
老婆はたっぷり時間をおいて、頷いた。
老婆「わかった。お前の計画に乗ろう」
そうだ、それでいい。九尾は内心で鼻を鳴らす。お前も今更生き方を変えられないだろう。数千人を殺しておいて、たった一人を犠牲にすることに憤れるほど、厚顔無恥ではないはずだ。
ポータルの動きが止まった。三つ同時に。
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勇者「お前ら……」
少女「なんとか、無事よ。ま、ほんと、何とかって感じ、だけど」
狩人「倒してきた。あとは、九尾だけ」
扉があいた先はこれまでと違って一本の廊下だ。そして、その先に重厚な扉があるのが見える。そこが九尾の部屋である。
再開した三人は抱き合うこともせず、ただ頷いた。それだけでコミュニケーションは十分なのだ。
走り出す。最早体力も十分に残っていないだろうに、それでも。
いや、彼らは走ろうと思ったのではなかった。逸る気持ちが無意識的に足の動きを速めていたのだ。
いや、逸る気持ちを抑えられないのは、何も彼らだけでない。
あと数秒で彼らはやってくる。九尾の部屋へ。
この部屋へ。
私の部屋へ!
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九尾は――私は、回想する。
九尾は常に見てきた。
勇者を。
狩人を。
少女を。
老婆を。
いや、正確な表現をするならば、勇者を見続けた結果として、彼女らを輻輳して見ることとなった――である。
九尾が彼を見始めたのは、彼が一桁の時である。最初は単なる偶然だった。魔王復活のための主人公役を丁度探していたとき、あまりにも正義感の強い、日常を生きるには不便すぎるほどのそれを持った少年の心を、偶然読んでしまったのだ。
天啓が降りてきたのはそのときである。使える、と思ったのだ。
九尾の気持ちを誰がわかるだろう!? アルプもデュラハンもウェパルも、深奥では九尾のことをわからない。ゆえに九尾は喜んだのだ。そこで絵図は整ったのだ。
九尾は――私は、その時から今日このときたった今を目指して生きてきたに違いない。
勇者にコンティニューの加護を与え、
鬼神に洞穴を治めさせ、
四天王をも動かして、
なぁ、そうだろう? 九尾はよくやっただろう? 褒めておくれよ、魔王。
お前が受け継ぎ、受け継いだ思いが、こうして成就されようとしているのだぞ。
記録をつけようと思ったのもその頃だ。計画がどれだけ進んだのか、勇者の行動を記録していくのは重要だった。何せ九尾は人の心がわからない。人の顔と名前も曖昧だ。そうでもしないと、誰が誰だかわからなくなってしまう。
それでもやはり名前を覚えるのは苦手だった。役職、パーツ、そう言った特徴を捉えて何とか書き続けたのだ。
頭がよいほうだとは、思っているのだけれど。
いつから手記を書き始めたのだったか……すでに分厚い写本が一冊終わろうとしているのを見ると、大層昔のようだ。そう、ちょうど勇者がとある村に着いた時だ。
その村で二人は少女と老婆に出会ったのだ。それは多分にイレギュラーで、同時に好都合でもあった。勇者には迅速に強くなってもらい、九尾の下へとやってきてもらわねばならなかった。
そこに迷いは不必要だ。否、迷いは不可欠である。ただし、その迷いを乗り越えた存在こそが、魔王たるにふさわしいのだと九尾は思っていた。
それは今も変わっていない。勇者はよく成長してくれた。
自動書記はこうしている間にも写本を続けている。千里眼で姿を見、読心で心を見、得られた情報は全て筆記される。
ちょうど一〇〇〇頁の紙は、すでに八〇〇頁を消費し、そろそろ終わりも近づいている。残り二〇〇頁で全てが終わるかどうか、九尾にも自信はない。
だがしかし、ここまで計画が進んできた以上、最早九尾にだってどうしようもできないのだ。動き始めたトロッコを押しとどめることは難しい。身を擲っても、どうだろう。
――いや、やめよう。不安はよくない。九尾は十分やってきた。多少の計算違いはあれど、順調に進んできているはずだ。
無意識的に尾を触る。柔らかい金色の毛並。自分でもきれいだと自負しているそれは、今は六本しかない。九尾ではなく六尾だ。
一本は勇者への加護で使った。一本は白沢の召喚で使った。一本は億を超える召喚魔法で使った。また九尾へと戻すには悠久の時間がかかるだろう。ゆっくりと体を休め、魔力を貯めなければ。
そのためには人間だ。人間を喰わねばならない。
老婆は地面へと視線を落とし、不気味に長い爪を噛んでいた。苛々している。不安に思っている。直観的にわかる。
それは九尾だって同じだから。
どれだけ万全に策を練り、第二、第三の矢を打ち立てたところで、運命というやつはそれを軽々しく乗り越えていく。その膂力に立ち向かうことは難しい。強い意志が必要だ。
だが、強い意志? そんなのがないわけはなかろう。だから、大丈夫だ。大丈夫なのだ。
必死に言い聞かせる。あと、三歩。
あと、二歩。
あと、一歩。
来た。
扉が開く。
勇者と狩人と少女がそこにいる。
自然と口角が上がるのを感じた。実際に会うのは初めてだった。歓喜か、感激か――否! 断じて否! こんな劇的な感情がそんな陳腐なものであるはずがない!
九尾「勇者! 九尾はお前を待っていた!」
真実だ。この日をずっと待ちわびてきた。彼がこの扉を開く日を夢想しない日はなかった。
勇者が剣を抜く。視線は真っ直ぐに九尾。
合わせて狩人と少女も武器を取った。虹の弓と光の矢、そしてミョルニル。体はボロボロでも殺意は十分。こちらの話を聞いてくれるかどうかも疑わしい。
だからこそ老婆と一対一で話す時間が必要だった。ありていに言えば、老婆をこちらに取り込む時間が。
九尾「安心しろ、九尾はお前らに危害を加えるつもりはない」
勇者「んなこたぁどうだっていいんだよ。魔方陣を消せ。召喚を止めろ!」
九尾「わかった」
指を鳴らす。窓のないこの部屋から確認はできないのだが、確かに魔方陣は消した。
九尾「すでに召喚した魔物は残念ながら消せないが、新たに生まれてくることはない」
少女「どういうことよ!」
九尾「どういうことって、お前らが要求したんだろう?」
理解はできる。敵であるはずの九尾がそんな単純に従うはずがないのだと彼らは思っていたのだろう。
まぁ、そのあたりは老婆がきちんと説明してくれるはずだ。九尾がちらと眼をやると、老婆は不承不承といった感じで頷いた。
老婆「勇者」
勇者「おい、ばあさん。なんであんた、そっち側にいる?」
老婆「話を聞け」
勇者「聞けるかよ。今更何を聞くことがあるっていうんだ」
老婆「聞け!」
空気を震わせる大声だった。老体の一体どこからそんな声が出ているのだろう。
老婆「何と言えばいいのか……誤解しないで、落ち着いて聞いてほしい。九尾の目的はわしらと同じじゃ」
九尾「そう」
老婆の後を引き継いで、答える。
九尾「九尾の目的、それは、世界平和だ」
雷撃が部屋の壁を穿った。勇者が拳を壁に叩きつけていたのだ。
彼の眼光はぎらりと鋭く、それだけで命を射抜けるほどである。ただしその眼光も、九尾の胆力の前では無力。こちらもこちらなりに退けない理由がある。そのための覚悟も十分してきたつもりだった。
目の前の三人の体には緊張がある。その緊張は九尾をいつでも殺しに来れる緊張だ。入念な下準備だ。
勇者「ここまでやっといて、どの口が世界平和をほざく?」
少女「そうだよおばあちゃん! 洗脳でもされちゃったの!?」
九尾「戦争を止めたいのだろ?」
戦争、という単語に勇者たちが反応した。
九尾「九尾はその方法を授けてやることができる。対症療法的にだが、世界を平和にすることだって、できる」
勇者「まだ言うか、てめぇ」
老婆「敵じゃよ」
三人が老婆のほうを向いた。しかし老婆は視線を三人から――特に勇者から逸らし、続ける。
老婆「結局のところ、みな、敵がほしいのじゃ。外部に敵を作っている間、国家は国家で有り続ける。目標がなければ、この頭打ちの世の中では、内部から崩壊せざるを得ない……」
そう、それはもはや仕方がないことなのだ。パイの絶対量は減少の一途を辿る。ブレイクスルーが起こる確率は天文学的確立だ。国家を運営し続けるためにはナショナリズムを高揚させるしかない。
そして、そのもっとも単純な方法は、不幸な境遇を誰かのせいにすることである。
老婆「そのための、魔王」
九尾「九尾たちは魔王を復活させようとしている」
殺す。
読心を必要としないほど強い思念が、真っ直ぐ九尾の心へ突き刺さる。
勇者たち三人が飛びかかってきていた。正面から勇者、左右から少女と狩人。
ぴたりと息の合った連携であった。全く隙のない、信頼が透けて見える連続攻撃。速度とタイミングは回避も防御も許しそうにない。
ならば反撃するのみ。
尾を振る。しゃらん、と鈴の音が鳴った。
魔力によって導かれた旋風が三人をまとめて吹き飛ばした。それでも闘志が衰える様子はない。受け身を取ってすぐさま突っ込んでくる。
煌めき。光の矢が大量に降り注ぐ。障壁でそれを防ぎながら、反対側から迫る少女のミョルニルを爆発魔法で本人ごと対処。
黒煙を抜けて突っ込んでくる勇者の拳を、九尾は無造作に掴んでそのまま捻り上げる。
削り折り砕ける音が彼の体内から響く。
九尾「おとなしく人の話を聞けないのなら、おとなしくさせてくれるわっ!」
それが一番手っ取り早い。
両手を広げる。重層する魔方陣が右手に、そして左手に生まれた。どちらも魔法式は異なり、数は十を用意している。
九尾「ピオラ!」
左手の魔方陣が十、解けて体内に吸収される。高速化の魔法は全ての動きを過去にする速度を与えてくれる。
九尾「スカラ!」
右手の魔方陣が十、解けて体内に吸収される。堅牢化の魔法は全ての攻撃を無意味にする防御力を与えてくれる。
勇者たちの反撃。真っ先に来たのは少女だ。イオラをものともしなかったようで、雷で編まれたミョルニルを手に向かってくる。
しかし、遅い。
振り上げられ振り下ろされる間に九尾はすでに彼女の背後へと移動している。首根っこを掴んで放り投げ、無抵抗なうちに爆発呪文を連打、地面に擦り付けながら丁寧に骨を砕いていく。
視界の端が光る。高速で飛んでくる光の矢を回避するのは少しばかり骨だ。着流しの端が少々撃ち抜かれ、反応速度の高い狩人はこの速度にも何とか追いついてくる。光の矢を引き絞りながら。
閃光。至近距離で放たれた矢は確かに胸へ命中したが、穿ちも抉りもしない。衝撃にたたら踏む程度である。
狩人が予想外の表情をした。彼女が一歩退くのに合わせ、脚部へと火炎弾を放つ。
火炎弾は命中するとはじけ飛び、一瞬だけ周囲を仄明るく照らす。狩人は火の粉散る中受け身も満足に取れず、肩から思い切り地面へと激突した。
間近へと迫っていた勇者の拳、その手首を軽く掴む。帯電は防御魔法で無視できている。そのまま手首を握力で砕き、魔方陣を展開。
九尾「バイキルト!」
震脚。踏込だけで地面が揺れ、僅かに勇者の体が浮いた。
その瞬間を狙って、拳を真っ直ぐに彼の腹部へとぶち込む。
命を奪った感覚があった。
地面を数度跳ねた勇者は壁に激突して肉片と化す。少しすれば復活するだろうから、それに先んじて束縛呪文を唱えた。
影から現れた手が、三人の四肢を拘束する。
老婆「……」
九尾「お前らは何か勘違いをしている。魔王は世界を破滅に導くものではない」
九尾「魔王はバランサーだ。少なくとも九尾はそう思っている」
九尾「魔王が敵となることで、人間界は平和になるだろう。そして九尾もそれを望んでいるのだ」
少女「その魔王と、やらが、魔物を生み出すん、でしょ」
九尾「全てではないがな」
狩人「でも、それが、何の罪もない人たちを殺すのだとしたら……」
少女「そんな平和は望んでない」
狩人「そんな平和は望んでいない」
二人の意志の籠った瞳を見ていると、なぜだか彼女らがいとおしくなってくる。いや、勇者も老婆も含めて、精一杯、人の身には大きすぎる想いを抱えている者というのは、どうしてかくも美しいのだろうか。
しかし彼女らは勘違いしていた。あぁ、そうか、とそこでようやく合点がいく。
九尾「それは魔王に頼んでくれ。九尾の知ったことではないのだ」
少女「だからっ……!」
狩人「私たちはそもそも、魔王が――」
九尾「次代の魔王は、そいつじゃよ」
指を指した。
九尾の指の先では、勇者が、今まさに目を覚まそうとしている。
九尾は繰り返した。
九尾「次代の魔王は、そいつじゃ」
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夢を見る。死んだときはいつもこうだ。
何度も死んで、何度も夢を見てきた。決まって先に死んだやつらが俺を苛む。そして俺はそれに謝り続ける。彼らに恥じない立派な生き方をと志を新たにして。
これは呪いなのだろうか? それとも、俺のうしろめたさの具現なのだろうか?
あぁ、だけど、そうなのだ。俺は結局、前へと歩くことしかできない。後ろを振り返ることはできても、戻ることはできないのだ。
ならば一歩でも遠くへ、一秒でも早く、目的地を目指す。それが合理的な帰結というやつだろう?
とはいえ、俺は所詮ガキに過ぎない。死んでも復活するというだけの。肉体はそうだが、精神は果たしてそうではない。一人では、生きていけない。
アルス・ブレイバという人間が生きていけるのは、仲間がいるからだ。
仲間たちには感謝してもしきれない。彼女たちがいなければ俺はとっくに心が折れていたし、四天王にも勝てなかった。戦争の渦中に身を投じて粉骨砕身するなんて、とてもではないができない。
もう少しだ。もう少しで全てが終わる。いや、終わらせてみせる。
俺は目を開けた。
目に飛び込んできたのは、九尾の狐である。着流し。金色の髪の毛と、金色の尻尾。九尾という名のはずなのに、今はそれは六本しかない。
そして、俺の右側に、虹の弓と光の矢を携えたクルル・アーチ。驚愕の表情で俺を見ている。
左側に立っていたメイ・スレッジも呆然と俺を見てきていた。
なんだ? 一体、なんだ?
顔に触る。何もない。
体に触る。何もない。
メイ「……なんで?」
ぽつりとメイが漏らした。
メイ「なんでこいつが魔王にならなくちゃならないのよ!」
こいつ――即ち、俺。
俺?
アルス「……どういうことだ」
立ち上がりながら言う。全身の魔法経路に働きかけ、両手を帯電させる。
アルス「俺が、魔王?」
九尾「そうだ。九尾としても、魔王の座と力を私利私欲のために使われては堪らん。魔王には重大な責任と、何より気高い思想が必要になる。世界を平和にするという」
九尾「勇者よ。お前が魔王となり、人類の敵となれ。それが平和の近道だ」
アルス「勇者って、なんだよ」
九尾「お前のことだ。お前には勇気がある。無謀と言い換えられかねない勇気が。それは誰もが持っているものじゃあない」
メイ「アルス、こんなやつの口車に乗っちゃだめだよっ!」
クルル「信用、できない」
それ以前に俺はたった今言われたことを咀嚼するだけでも一杯一杯だった。俺が魔王になって、世界を救う?
それは途方も突拍子もないことであったが、言わんとしていることは理解できた。
だって俺はすでに見ていたのだ。魔方陣から魔物が大挙して押し寄せたとき、手と手を取って共闘していた両軍の姿を。
合点がいった――というよりは、ああそうか、と思ってしまった。そういうことか、と。
体中から力が抜ける。俺一人が人間を止めるだけで、この戦争を止めることができるのだ。そして将来的な戦争をも。
つまりは戦争を管理しろということだ。万が一のときに勢力を拡大し、昂ぶった空気を一身に受ける。ガス抜き、ストレス解消、言い方はいくらでもある。九尾はその相手として魔王を設定していて、選ばれたのが、俺。
あまりにも壮大すぎる役割だった。九尾がどこまで本当のことを言っているかはわからないし、それこそメイやクルルの言うように、全て嘘なのかもしれない。それはそうだ。何せ相手は魔族きっての智将、九尾の狐なのだ。
古来より狐は人を化かす。今こうして話している俺たちが、彼女の手のひらの上で踊っていないと誰が保証してくれるだろうか。
ただ、その提案に魅力を感じている俺も、確かにいるのだ。
なぜ九尾が俺に執心し、俺を魔王に仕立て上げようとしているのか、それは単にコンティニューの加護があるからだけではあるまい。九尾の考えていた条件を、それこそ無謀と紙一重の勇気が俺にはある――らしい――からこそ、俺が選定された。
俺は一歩も動けなかった。二人の声も、耳に入らない。
不意に夢が思い出される。
みんな死んだ。みんな、死んだ。
あるものは凶刃に倒れ、またあるものは火炎に呑まれて死んだ。毒が全身に回って死んだやつもいたし、誰かの犠牲になったやつもいた。
ダイゴ隊長はウェパルに殺されて、ルニ参謀は国のために死んだ。鬼神に殺された兵卒もいる。彼らは生きたかったはずだ。死にたくなかったはずだ。
よりよい世界にしたかったはずだ。
誰もが自分の信じるものに基づいて進んでいる。それは俺も同じ。
俺は世界を平和にしたい。
何も世界を救いたいなどと大それたことを言っているわけではない。俺が全てを掬い上げる救いの形ではなくて、ただ懸命にもがくだけでよかった。
俺にはわかるのだ。わかってしまうのだ。目の前の妖狐の瞳の色を、俺は毎日鏡の中で見てきているのだ。
九尾と俺の目指すところは同じだと、わかりたくないのにわかってしまうのだ。
アルス「どうしたもんか」
呟く。わかってしまっては、もうどうしようもない。九尾の言うとおり、俺が魔王になることが、一番の近道なのだ、きっと。九尾は嘘をついていない。彼女は世界を平和にしたい。
それは果たして幾分度胸と覚悟のいることだった。さっきの今で答えを出せるような代物ではない。だけど、ここで拒否して、そのあとはどうする? 俺に、俺たちに、世界を平和にする具体案など出せるのか?
クルル「アルス……」
うつむいたまま喋らない俺を見て、クルルが心配そうに手を取ってくる。
仄暖かさ。そうだ、俺は一人じゃない。彼女らの住む世界もまた、俺の世界と同一だ。
俺が世界を平和にするということは、彼女らの世界を平和にするということと等しい。
クルルの家族は死んだ。一族の者も、全員死んだ。彼女は孤独だ。そして何より死を恐れ、死を拒み、命を尊重している。
俺が彼女の命を助けたのは完全に偶然で、幸運の賜物である。しかし、彼女が俺についてきてくれたのは偶然ではないし、彼女が俺のねじくれた精神を救いだしてくれたのも偶然ではない。
俺はメイを見た。彼女もまた、世界の平和を望んでいる。
メイの苦しみを俺は直接的には知らない。彼女が一体何に苦しみ、何を恐れ、何を克服したのかは、俺には断片的しか判断できない。
しかし、彼女もまた平和を希求していた。その上で、自分の無力さを痛感してもいた。彼女は俺だ。クルルのいない俺だ。
最後にばあさん――グローテ・マギカを見た。悲痛な表情をしている。彼女は恐らく、誰よりも責任を感じている。なぜなら彼女は王国の歴史を知っているから。
ばあさんは俺を魔王にさせたくはないが、俺が魔王になることが最もよい選択なのだと思っているし、知っている。合理的な選択だ。そしてそれが彼女を苦しめている。
息を呑んだ。喉の鳴るのが自分でもわかる。
世界を平和にしたいと願った。世界を平和にすると誓った。そして今、俺は世界を平和にする覚悟を要求されている。
必要なのは、あとは覚悟だけだ。それさえあれば。
視界は明朗。思考も明晰。後戻りはするつもりもない。
帯電を解く。俺は九尾に向かって踏み出した。
アルス「俺は世界を平和にしたい」
手を差し出す。三人が背後で何かを言おうとして、口を噤んだのがわかった。
九尾「あいわかった。後悔はないな」
アルス「あるさ。けど、戦争を止められるならそれが勿論いいし、そのために犠牲が必要なら、俺がなる」
九尾「恐ろしいほどの献身、あっぱれだな」
グローテ「……すまない」
視界の外で、ばあさんが呟いたのが聞こえた。きっと頭を下げているに違いない。
そんな姿は見たくなかったので、そちらを向かずに声をかける。
アルス「気にすんじゃねーよ、ばあさん。俺はずっと、このために旅をしてきたんだ。方法こそこんなふうになっちまったけどな」
九尾は袖から四つの珠を取り出した。角度によって虹色に輝く、何とも不思議な珠である。生きているようにも見える。
九尾「これは魔王の核じゃ。四天王が一人一つ持っていて、これを四つ体内に取り込むことによって、魔王の力を得られる。……持て」
手渡されたそれは冷たく、それでいて脈動を感じる。生きているように見えたのはこの脈動のせいらしい。
……俺はふと疑問に思ったことを尋ねた。
アルス「九尾、なんでお前は世界を平和にしたいんだ」
九尾「九尾か? 九尾は、そうだな……」
九尾「人を喰うためだな」
は?
九尾「九尾は人を喰いたい。そういう生物なのだ。戦争で人口が著しく減られると、そのしわ寄せは九尾にも来る。だから、」
世界は平和でなくては困るのだ。九尾はそう言った。
アルス「……」
無言は俺だけではなかった。クルルもメイもばあさんも、平然としている九尾を注視している。
やはりこいつは魔族なのだと、どこか安心できる。完全に無害な、人間に与するだけの存在が、魔族であるはずがない。
人間とはどうしても相容れない衝動があるからこそ魔族。
九尾の体が吹き飛ぶ。
メイだった。
背後からの不意打ちを敢行した彼女の表情は、口の端が引きつっている。
メイ「やっぱり! やっぱり魔族はどこまで行っても魔族! 人間の敵ってことね、そうでしょ、アルス!」
ミョルニルを振り回しながら吹き飛んだ九尾へと追いすがる。
九尾の足首を掴み、引きつけながらの大振り。九尾の防御ごと吹き飛ばして壁を破砕した。
幾本もの光が土煙の中へ吸い込まれ、更なる破壊を引き起こす。メイとは反対側からクルルも九尾へと迫っている。
クルル「それは、流石に、許せない」
煙の中から生えた腕が二人の手首を掴む。
そのまま地面に叩きつけられ、反動で腕の主、九尾は立ち上がった。衣服はぼろぼろになっているが、その振る舞いからは全くダメージというものが見られない。
九尾の頭上に巨大な火球が出現する。それはぐんぐんと大きくなって、あっという間に頭と同じほどにまで成長した。
考えている暇はなかった。あんなものを食らえば死は免れない。一気に飛び出して、雷撃を全力で火球へと放つ。
視界で閃光が弾け、なんとか相殺することに成功する。
九尾は二人から俺たちから距離を取り、首をかしげた。
九尾「なんだ、何をする」
メイ「はっ、ばっかじゃ、ないの……」
クルル「世界は平和になってほしい、けど……あなたに食料を供給するためじゃあ、ない」
アルス「そういうことだ。悪いが、交渉は決裂だ」
九尾は目を細めた。苛立ちなのか、それとも別の感情なのか、判別がつかない。
九尾「解せん。何も九尾は毎日三食人間を取って食うわけじゃあないぞ。一日二日に一人で十分だ。おやつみたいなものだからな」
メイ「数が問題じゃあないのよっ!」
九尾「数の問題だ。その程度の犠牲で世界を平和にできるなら十分だろう。お前らの我儘で戦争を長引かせるつもりか」
九尾「なぁ、老婆よ!」
グローテが体を震わせた。なんだか泣きそうな顔をしている彼女は、メイと九尾を交互に見やって、なぜか笑う。
九尾「お前に選択肢なんてないのだ! いや、与えられるはずもない! お前が殺した仲間たちは、選択肢を与えられずに死んでいったのだから!」
九尾「頭では分かっているはずだ。勇者を魔王にするのが最も手っ取り早いのだ。今更一人の犠牲を厭うか!? これまで自分が殺してきた数を思い出せ!」
アルス「うるせぇ!」
俺は叫んだ。九尾の言うことはもしかしたら正論なのかもしれない。かもしれないが――例え部外者の勝手な意見だと罵られようとも、気に食わなかった。
ばあさんは俺の仲間であって、お前の仲間じゃあない。
俺が何とかしてやる。そう約束したのだ。
アルス「ばあさん、あんたは見てろ。こいつなんて俺一人で十分だ」
メイ「アタシと二人で十分よ!」
クルル「私たち三人で、十分」
すっかり臨戦態勢に入った俺たちが、老婆と九尾の間に割って入る形で立ちふさがる。そんなこちらの姿を見て、九尾は小さく舌打ちをした。
九尾「人間風情が、調子に乗るなよ」
九尾「四天王、序列一位! 傾国の妖狐、九尾の狐! お前ら程度に相手しきれる存在だと思うな!」
九尾の姿が消える。高速移動という次元の話ではなかった。恐らく、それよりももっと瞬間的な、転移魔法に違いなかった。
誰よりも先にクルルが反応した。振り返りざまに光の矢を放つ。これでもかというほどに。
背後に、老婆のそばに現れた九尾は、そのまま老婆を引っ掴んで転移する。光の矢は壁を大きく破壊しただけに終わった。
クルル「どこにっ!?」
爆発が俺たちの体を吹き飛ばした。と、メイがなんとか俺とクルルの服を掴み、体勢を立て直して着地。十メートルほど離れた九尾を見定める。
そばでは老婆が倒れている。死んではないようだ。ただ気絶しているだけ、だろう。
メイ「おばあちゃんをどうするつもりだっ!」
メイの行動は素早く、一瞬で九尾へと肉薄する。ミョルニルの一撃を転移魔法で回避した九尾は、彼女の背後へと現れ、火炎弾を叩きつける。
飛び込んだ俺と、俺の電撃が火炎弾を弾く。同時に背後から迫る光の矢。
九尾は光の矢をまとめて掴んで霧散させる。その行動には驚きを禁じ得なかったが、感情を動かす暇があるならば、全て動きに費やしたかった。
帯電。剣がないのが悔やまれる。徒手空拳ではリーチと取り回しに絶望的なまでの差異があるが、それでもないものねだりはしていられない。
地を蹴って距離を詰める。フェイントを交えたこちらの拳を、九尾は軽やかなステップで回避していく。振り下ろしざまに放った雷撃も、九尾は魔法障壁で難なく弾いてしまうのだ。
合わせてメイがミョルニルを振る。さすがにこれは防御しきれないと踏んだのか、転移魔法ですぐさまメイの後ろへと移動、そのまま打ち下ろしを見舞う。
小柄な彼女の体が大きく揺れた。それでもメイは戦士である。前につんのめった体勢を堪え、あたりもつけずにミョルニルを振り抜いた。
音もなく九尾は離れた位置に着地する。またも転移魔法だ。
九尾は智将であるが、足りない身体能力は十二分に強化魔法で補える。どこにも隙がなかった。歯噛みしたくなるほどに。
メイ「アルスッ!」
アルス「おう!」
即応するより先に俺の体は向かっていた。俺の背中を踏み台にしてメイが跳躍、俺は九尾の下半身を、メイは上半身を狙った。
九尾が転移魔法を展開する。一瞬で時空が歪み、しかし何度も見ているその魔法のタイミングを見逃すほど学習能力がないわけではない。遥か後方から光の矢が跳んできて、その歪みを寸分の狂いなく射抜いた。
錯聴染みたガラスの割れる音が聞こえて九尾の顔面をミョルニルがぶっ叩く。
確かに手ごたえはあった。九尾は大きく吹き飛ぶが、風をクッションにして勢いを殺す。
しかしすでに追撃は完了している。数十の光の矢が九尾へと降り注いだ。
九尾「イオナズン」
平静の声だった。
光の矢が爆裂。爆発が引き起こす突風に一瞬呼吸すら不全になって、眼を開けていられない。
九尾「メラゾーマ」
煙を巻き上げて飛来する火炎弾がメイを直撃した。メイの体が炎に包まれ、堪えきれない悲鳴が漏れるのを、俺は確かに聞いた。
だが、
メイ「きか、ないっ!」
震脚で火炎を全て振り払い、メイは再度九尾へ突っ込む。支援すべく俺とクルルも後を追う。
火炎弾が連続で向かってくるのを紙一重でじりじり回避していくが、それでも肌が焦げる音が聞こえてきそうだった。
九尾「マヒャド」
クルル「下ッ!」
地面を食い破って氷柱が突き出してくる。いや、それは氷柱ではなく、氷河にも等しいほどの巨大さだ。クルルの声がなければ胸を一突きにされていただろう。
みればメイの左腕に氷が突き刺さっている。青白い氷に赤い血液がひときわ目立って見える。
アルス「おいっ!?」
メイ「大丈夫、だけど――!」
何よりも問題なのはその氷河。
九尾「足を止めたな?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
氷と氷の隙間から九尾が真っ直ぐにこちらを睨みつけていた。両掌を向け、その間に魔力の塊が煌びやかに輝いているのを見ることができる。そう、まるであれは、俺とクルルのインドラのように。
九尾「これを受けて死ねることを光栄に思え」
みち、みち、と空気が震える。
耳鳴りがする。いや、これは耳鳴りなどではない。全ての物質が九尾の魔力の波動に共鳴を起こしているのだ。
体が震える。これは、恐怖だ。
アルス「あれはっ、だめだ! わかんねぇけど――あれはだめだっ!」
クルル「間に合えっ……!」
光の矢。
展開できる限りの本数をクルルは展開、九尾に対して射出するが、いまだマヒャドは生きていた。光の矢を食べるかのように襲いかかって打ち消していく。
その氷山を駆け上るメイ。だが、九尾までの距離は果てしなく遠い。
九尾「マダンテ!」
暴走した魔力が爆発を起こす!
部屋に光が満ちた。
衝撃はなかった。ただ体が浮かび上がって、真っ白に染まる視界の中、その白に体が塗り潰されて押し潰されて、喰われて、体だけじゃなく、意識も、
抵抗の意志すらも真白く染まる。
僅かに視界が翳った。翳ったというのに、俺は手で目庇しを作り、その遮蔽物へと視線をやる。
視界の中を揺蕩うローブ。不気味に長い爪を伴う指が、真っ直ぐに光源――九尾のほうへとむけられ、不可視の障壁が展開されているのを俺は見た。
ばあさん。
言葉が出ない。筋肉が失われたかのように全身が動かない。四肢だけでなく、喉までもそうだ。
誰かの咆哮が聞こえた。裂帛の気合いだった。
悲鳴でも、怒声でも、断じてない。克己するためのものだということはすぐにわかった。
満ちていた光が失われていく。
世界が元に戻ると同時に、俺は血を吐いた。両腕が、両足が、それぞれありえない方向に曲がっている。関節の部分からは血に塗れた骨すらものぞいていた。
体も腰を起点として捩じれていて、俺の上半身は真っ直ぐ前を見ていても、下半身そのものが九十度左を向いている。当然内臓だってぐちゃぐちゃで、骨もぐちゃぐちゃになっているはずだ。
ばあさん。
言葉の代わりに血反吐しか出ていかない。
残る二人の無事を確認したくても、頸も回らない。
九尾「遅い復活じゃないか。それで、なんだ。九尾に刃向おうと? そんなぼろぼろで?」
ばあさんは左腕がなく、右足も完全に折れていた。膝をついて息も荒い。障壁を張っていても、あの魔力の奔流が齎す破壊を防ぎきるなどできなかったのだろう。
グローテ「マダンテは、術者の全ての魔力を消費する……お前はもう、魔法はつかえまい」
クルル「そういうことなら」
メイ「アタシたちが、あとはやるわ」
地面の感触を踏みしめるように二人が立っていた。裂傷、擦過傷はいくつか見られるが、俺やばあさんのように大きなけがはない。恐らくばあさんは優先的に二人を守ったのだろう。
ナイスだぜ、ばあさん。それでいいんだ。
グローテ「形勢逆転――」
九尾「とでも言うつもりか?」
ばあさんの腹部が爆ぜた。
グローテ「っ!?」
メイ「おばあちゃん!」
二人が同時に駆け出す。クルルは右から、メイは左から。
しかし、
九尾「ピオラ――スカラ――バイキルト!」
身体能力向上呪文を九尾は連続で唱え、一瞬で二人の攻撃を掻い潜る。ミョルニルは肩口を掠り、光の矢は金色の髪の毛を散らすけれど、どれも決定打にはならない。
九尾の手刀がクルルの脇腹を抉った。カウンターでクルルは矢を放つが、九尾はそれを瞬間的に掴んで投げ捨てる。
返す刀で振り向くことすらせずに、氷柱をメイにみまった。絶妙のタイミングで挟まれたその攻撃にメイは反応せざるを得ない。ミョルニルで氷柱を砕き――その隙に九尾が肉薄する。
旋風魔法。足を掬われたメイはバランスを崩し、そのまま地面に叩きつけられる。そして九尾はそのまま左腕を踏み抜いた。
左腕、その二の腕から先が宙を舞う。
九尾はそれを途中で掴み、思い切りかぶりついた。
九尾「やはり人肉は若い女性に限るな」
メイ「アタシの体を、返せぇええええっ!」
九尾「うるさい」
ごぐ、と鈍い音がした。九尾がメイの頭を思い切り踏みつけたのだ。
踏み抜いたのではないようで、どうやらメイの頭は原形をとどめているが、血がじわじわと床に広がっている。
グローテ「どう、して……」
床に倒れたばあさんは息も絶え絶えで尋ねる。どうして魔法が使えるのか、ということなのだろう。
九尾「この塔は誰が作ったものなのか忘れたのか? 九尾が構築した陣地である以上、九尾の魔力に転換するのもたやすいことよ」
九尾「……なんじゃ、まだやるのか」
九尾は依然起き上がるクルルに対して冷たい視線を向ける。クルルは立ち上がれこそすれど、腹部からこぼれる内臓を押さえるのに手いっぱいで、まともに戦えそうな様相ではなかった。
九尾が一歩でクルルのそばに移動する。クルルはそれに対応すらできない。自分の顔が翳るの感じて、ようやく顔を上げるありさまだ。
頬を打たれてそのまま倒れこむ。起き上がろうとするその努力もむなしく、ただ指先が力なく地面をひっかくだけである。
見ているだけで涙がこぼれる。
俺はなにをやっているんだ。
歯噛みした。こうなるならいっそ早く死んで、万全の態勢で復活したかった。いや、それも逃げなのか? 次の復活が迅速に行われる保証なんてないのだから。
それでも、いくら自分を発奮させても、指の一本すら動かない。視界もだんだん霞がかかってくる。
いや、これは断じて死なのではない。ただの涙だ。そうでなければ眦が、液体の伝う頬が、熱いわけもない!
思わず目を拭った。何もできないなりに何かをしなければいけないと、俺は思った。
ん?
腕が、動く?
「ああ、そういうことだったんですね。納得です」
誰かの声が耳元で聞こえた。
誰の、声だ。
俺はなぜだか動く顔を、頸を、胸を、体中を稼働させて、声の方向を見た。
ローブ、だった。
ばあさんが身に着けているのと同じローブ。ねずみ色でフードのついたそれの背中には、王国の紋章が大きく金色で刺繍されていた。
しゃらん、と儀仗が鳴る。金属製の長い柄の先端には翼を模した飾りがついていて、そこからさらにいくつもの銀製の輪が連なりあっている。
クレイア・ルルマタージ儀仗兵長。
病院で安静にしているはずの彼女が、なぜここへ?
クレイア「わたし一人寝ているわけには、行きませんから」
九尾「貴様、どうやってここに入り込めた!」
クレイア「やはり、九尾、あなたですか。洞穴と同じ魔力のパターン、陣地の構築方式……一度見たから解析は用意でした」
九尾「どうやって入り込めたと聞いているっ! 幾重にもプロテクトはかけていたはずだぞ!」
クレイア「構築した陣地から魔力を削りましたね。綻び、見えてましたよ」
クレイア「これでも陣地構築のエキスパートなんです、わたし」
九尾「愚弄するかっ!」
九尾が飛び出した。魔法によって得られた圧倒的な速度を用いて、クレイアさんの喉首を狙っている。
アルス「させねぇよ!」
間に割り込む形で九尾の腕を取る。とてつもない力だ。片手ではとてもじゃないが抑えきれない。
顔面が爆ぜる。激痛。視界も奪われ、咄嗟のことで足元もふらつく。ただ、それでも、決して腕だけは離さない。離して堪るか!
電撃を流して九尾ごと地面に倒れこむ。マウントポジションを取ろうともんどり打って、強か体を打ちつけながら、九尾と転がりあった。
九尾「くそ、離れろ、離れろっ、邪魔だ貴様!」
腹部が何度も爆ぜる。そのたびに体が浮かび上がり、激痛が走り、内臓が口からそっくりそのまま飛び出してしまいそうになる。だが、痛みなどはどうだっていいのだ。どうせ癒えるものはどうだっていいのだ。
どうにもならないものが問題なのだ。
命とか。
九尾はついに転移魔法を使用していったん距離を取る。俺は九尾との距離があることを確認し、周囲を見回す。
戻ってきた視界ではクレイアさんが老婆に治癒魔法をかけていた。陣地構築を基とする、回復の魔方陣だ。
九尾「勇者ァ……お前に蘇生の加護をくれてやったのはこの九尾ぞ! その分際で刃向うというのか!」
アルス「そりゃ感謝だ。だけど、だめだ。お前の未来は次善だ」
アルス「俺が犠牲になるだけなら喜んでなってやる。ただ、お前に食わせてやれる人間は一人としていない」
アルス「俺は我儘なんだ。だから、目的のために手段を選ぶ」
九尾「老婆、こいつらを殺すぞ! 手伝え! どうせ勇者は復活する! 他の奴らは殺しても構わん!」
アルス「うるせぇ! 黙れ! 殺す!」
クレイア「アルスさん、これを」
クレイアさんが懐から剣を――否、刀を取り出した。鞘に包まれた彎刀。随分と使い込まれていて、それでもなお柄から鞘まで輝きに包まれている。
クレイア「ダイゴ隊長の遺品です」
俺は一瞬息を呑んで、丁寧に、しかし迅速にそれを受け取った。鞘を抜いて背負う。投げ捨てるだなんて真似は出来なかった。
跳ぶ。彎刀はずしりと手に重い。その重さが逆に安心できもする。それは命を預けるに足る重さだった。
俺は今ならわかる。ダイゴ隊長とルニ参謀のふるまいが。その真意が。二人は根っからの兵士で、軍人で、だから死んだ。常に死んでもいいと思っていたに違いない。国のためなら全てを犠牲にできていたのだ。
俺はその生き方を否定しない。ただ、もっと理想を抱いてもいいのではないかと、希望を持ってもいいのではないかと思う。
きっと、いつか、なんとかなる。もっとうまくいく方法がある。そう思えないものだろうか? それとも俺が理想主義なだけなのだろうか?
きっとばあさんもそうなのだ。個人と国の関係性。国があるから個人があるのだと、彼らは、彼女らは、おおよそ信じきっている。信じきってはいなくとも、そのために命を擲てる。
それはつまり命の軽視だ。全体主義的で、国家の形さえ成していれば他に何もいらないという、ある種の狂信だ。
だけど人間の精神がそれに耐えられるものだろうか。罪悪感に。
いや、誤魔化すのはよくない。素直に言おう。俺の生き様も相似なのだ。俺は世界が平和であれば他に何もいらないという狂信を胸に抱いている。そして、一度は精神が耐えられなかった。
手を差し伸べてくれたのはクルル。俺は世界を平和にするためでなくて、彼女の世界を平和にするためにやっているのだ。そうやって目標を意識的に矮小化しているのだ。
九尾が言ったのは、きっとそういうことなのだと思う。国のために個人を殺し続けてきたばあさんは、今更後戻りできない。小のために大を犠牲にする選択肢をとれない。
苦しんでいるのは明らかだ。ならば俺に何ができる? 俺は何をすればいい?
簡単だ。
俺がその選択肢を代わりに選んでやればいい。
どんな罰だって受けてやるから。
神様。
俺の仲間に、安寧を!
特攻――爆裂で腹が吹き飛ぶ。反射的に、さらに強く地面を踏みしめ、体幹をぶらさずにそのまま走り抜け!
火炎弾の連打。喰らえばひとたまりもない。しかし今更速度も落とせない。大丈夫、ウェパルの驟雨よりは密度は薄い。何より今の俺には刀がある。
帯電させ、九尾までの最短距離を行く。火炎弾は切り落とし、真っ直ぐ、ひたすらに真っ直ぐ。
光の束が横から火炎弾を全て打ち落とした。それで一気に視界が開ける。
クルル「アルス! あとは!」
俺はにやりと笑って返事を返す。
九尾の姿が消える。転移か、それとも高速移動か。
考えて、途中でどうでもいいと思考を打ち切った。余計な思考に割くリソースなど存在しない。
僅かにずれた位置に九尾。手をこちらに向けて呪文を詠唱している――呪文の詠唱。九尾のレベルで?
九尾「地の怒り、終わりなき鼓動、打ち倒す者の屍。十五里を行き、広がるは死肉ばかり。招く亡者の手を払うことは何人たりとも許されない」
九尾「流転。震動。隆起し、歓喜せよ。滂沱の涙と忘我の涙を具し、我が名を諳んじ賜え」
九尾「奉れ! 死の顕現こそ足元にあり!」
九尾「ジゴスパーク!」
クレイア「マホカンタ――ッ!」
急いでクレイアさんが反射結界を張る。が、九尾から放たれる圧力はそれすらものともせず、急激に世界がそちらへ引っ張られていく。
黒い、帯電する球体。それは絶え間なく雷撃を放ち、しかもその雷撃の一つ一つが、俺の全力よりも遥かに強い。
打ち砕く。
打ち砕く。
打ち砕き続ける。
空気が振動して髪の毛がなびく。
早く九尾を倒さなければ!
反射結界が割れた。
発せられた極太の放電。白い光線としてしか捉えられないそれは、俺をきっちり呑み込めるほどに巨大で、俺は蒸発を覚悟する。
だけど、それでも。
アルス「俺はっ!」
脚を、止めない!
メイ「退きなさい!」
むんずと俺の襟を掴んで、メイが放り投げる。ぐんと体が浮いて、俺はそのまま地面に落下した。
俺とメイは入れ替わる形で――つまり射線上にメイが、
言葉は出ない。涙は出る。それでも確かに、俺は九尾のそばに辿り着いた。
アルス「うぉおおおおああああああっ!」
刀を握る。握らずに敵が殺せるか。
九尾「温すぎるわっ!」
九尾が斬撃を掻い潜って俺の懐に飛び込んでくる。ぞっとするほど冷たい九尾の瞳と、視線が合う。
速い。力も倍増している。九尾の拳が握り締められているのを、俺は確かに見た。
腹部に衝撃。九尾の腕が肘まで突き刺さっていた。あまりの衝撃と激痛に眼を剥くが、しかし、俺の役目は忘れていない。
刀はすでに捨てている。その腕を掴んで、
九尾の背後、俺の視界の中に、こちらへ向かってくる煌めく数多が見えた。
同時に周囲に張り巡らされている結界も。
クルル「虹の弓と、光の矢ッ!」
クレイア「陣地構築、結界!」
アルス「俺の仲間をなめんじゃねぇええええええっ!」
九尾「貴様は死なない、九尾は死ぬ、そういう算段かっ! だが、しかし!」
九尾「まだ温いわっ!」
九尾の足元が急激に膨れ上がる。現れたのは大量の水の奔流だ。
それらは猛烈な勢いで渦を巻き、結界と光の矢すら飲み込み破壊し、部屋中を大渦に飲み込んだ。巨大なうねり、メイルシュトロムに太刀打ちできる体力など残っているはずもない。
壁に叩きつけられる。腹の大穴からは血液とともに内臓も飛び出し、見るに堪えない。呼吸すら怪しくなっているが、徐々に治癒して言っているのは、クレイアさんが部屋全体に構築してくれた治癒の陣地のおかげだろう。
全員が倒れている中、部屋の中央で九尾だけが立っている。
俺は立ち上がった。立ち上がって、そして血を吐いた。
クルルも立ち上がった。左足が折れている。壁にもたれかからなければ立ち上がれない状況で、それでも。
メイもまた、なんとか上体だけを起こす。右手には依然としてミョルニルが握られていて、死んでも離すまいという意思が見て取れた。
九尾「まだやるか。いい加減あきらめたらどうだ」
アルス「まだ、まだだ……」
九尾は大きくため息をついた。こちらはほぼ全員満身創痍、しかし九尾は五体満足で、攻撃自体まともに喰らってはいないのだ。その時点で実力差は明白なのだが、俺たちには引けない理由がある。
自己満足と言ってしまえばそれまでだった。だがそんなことを言えば、この世はすべて自己満足と自己満足のぶつかりあいだ。
九尾「それで、お前はどうするつもりだ、老婆」
九尾が唐突にばあさんに声をかける。俺は思わず九尾の視線の先を追った。
ばあさんが杖を九尾に向けていた。
二人の視線が交わっている。
は、と九尾はばあさんを嘲笑する。
九尾「結局お前はどちらにも与できん。邪魔だ。己の葛藤に押し潰されて死ね」
グローテ「儂は、誰にも死んでほしくはなかった。それが不可能だと気付いた時、次にとれたのは、一を切り捨て十を助けることだった」
九尾「誰もお前の話になんて興味はない」
火炎弾がばあさんに向かって飛ぶ。ばあさんは旋風を巻き起こし、火炎弾を拡散、無効化した。
グローテ「だが、わかった。わしは何も、信念を曲げる必要などないのだと」
グローテ「葛藤する必要などないのだと!」
グローテ「クレイア!」
クレイア「はい! 準備は、できていますよぉっ!」
俺とクルル、メイの三人がいる地点のみが、淡く光り出した。それに伴って俺たちの体もまた発光しだす。
この体験は初めてではなかった。転移魔法を使う際の感覚とまるきり同じだ。
それはつまり、クレイアさんが転移魔法を俺たちに対して使用しているということの証左に他ならない。何のために? ――考えるまでもない。俺たちをここから逃がすために。
自分たちだけで九尾と戦うために。
アルス「だめだっ! 二人だけじゃ!」
勝てるわけがない、と言おうとして、ふととある考えが脳裏をよぎる。まさか。
勝てない戦いを二人がするだろうか? 無駄死にを一番厭いそうな二人が、である。もし仮に勝機があるのだとして、その上で俺たちを逃がすのだとすれば、思い当たる可能性はただ一つ。
体が粒子に溶けていく。
言葉を発したいのに、それが届かない。
メイとクルルも当然それに気づいたはずだ。眼が見開かれて、表情が引きつって、大きく口を開ける。しかし言葉は出ない。聞こえていないだけかもしれない。
グローテ「お前らと一緒の旅は、楽しかったよ」
だから、なんで過去形なんだよ!
ばあさん、あんたやっぱり――
アルス「死ぬつもりなんだろう!?」
声が届いたのかどうか。
ばあさんは、グローテ・マギカは、困ったようににこりと笑った。
光が収束していく。だめだ。転送される。そして――そして、ばあさんとクレイアさんが、死んでしまう。
気に食わない。それはだめだ。それは俺の専売特許だ。
犠牲になるのは、死んでも生き返るやつがやるべきなのだ。そうだろう?
しかし、これ以降どうすればいいというのか、まったく考えが浮かばない。このまま戦ったところで犬死だ。俺は復活するとして、四人を見殺しにはできない。
ばあさんたちが自らの命と引き換えに九尾を倒せるなら、それは現状では恐らく最良なのだ。俺の制止を恐らく彼女らは聞きもしないだろう。それだけの覚悟を秘めた顔がそこにはある。
アルス「……」
一つの恐ろしい考えが浮かぶ。それは、なんというか、考えてはいけない考えだ。
九尾と目が合う。九尾は口角をひきつらせ、眼を見開いて、こちらを見ていた。
あぁ、そうか、と思う。噂によれば彼女は心を読むことができるそうだ。もし彼女が今の俺の思考を読んでいたとするならば、当然そんな表情にもなるだろう。
九尾「正気か? 頭がおかしいんじゃあないのか? 実行に移すかどうかというより、考えが至るだけで、狂っている」
アルス「思いついちまったんだから、しょうがねぇ、だろう」
唐突に会話を始めた俺たちを、周囲は黙って見ている。何が何だかわからないのだろう。それはそうだ。
クレイアさんは転移魔法を解いた。光は柔らかく散っていく。怪訝な表情だ。
九尾「勇者よ。本当にそれを――世にも恐ろしいそれを実行に移すだけの気概が、お前にはあるのか?」
九尾「九尾は、心配をする立場ではない自覚はある。が、……お前は九尾の予想以上で、予想外だ。はっきり言って人外だ。気持ち悪いよ」
アルス「は、ご心配ありがとうよ。だけど、知るか。俺は世界を救いたい。俺は仲間に死んでほしくない。お前に人を喰わせるわけにもいかない。四方八方丸く収まる最適手、だろ」
九尾に向かって手を伸ばした。決して握手をしようなどと思っているのではない。
アルス「九尾、俺を喰え」
アルス「お前が人を喰いたくなったら、俺に言え。俺を殺して、喰え。どうせ復活するんだ。何度も殺されてやるさ」
メイ「なっ、ばっ!」
反射的にメイが罵倒の言葉を吐こうとする。しかし、あまりに想定外だったのか、それ以上の言葉は紡がれない。
グローテ「本気、なのか? 自分を喰わせると?」
クレイア「そんな! きみが犠牲になる必要は――!」
アルス「あるんですよ。例え俺の自己満足だとしても」
クルル「……」
クルルは泣きそうな、困った顔でこちらを見ていた。彼女との付き合いは最も長い。言い出したら聞かないこともわかっているのだろう。
心配をかけて、悪いな。
クルル「……ばか」
アルス「悪い」
アルス「九尾、お前はそれでいいのか。誰も喰うな。俺だけを喰え。それでお前は同意してくれるのか。誰も喰わないと誓えるのか」
九尾「ただ、やはりお前は愚かだ。九尾は男の骨ばった固い肉なんて喰いたくはない。お前を喰っても、九尾にはメリットがない」
九尾の目的が世界平和――何より人肉の供給にあるのだとすれば、その返事は予想してしかるべきであった。事実俺は九尾のその返事を予想はしていた。
九尾は俺たちに頼らなくとも人を浚い、喰える。安定供給の意味合いは僅かにここでは異なっている。
だが、俺には脅し文句があった。これ以上ない、人間ゆえの根性というものを、覚悟というものを、所詮魔族でしかないこいつに見せつけてやる文句が。
アルス「俺たちは立ち上がり続けるぞ」
九尾「……」
アルス「お前がどんなに強かろうが、絶対、必ず、どこまでもお前に刃向って、逃げても追い続けて必ず殺す。俺たちは負けない。少なくとも精神は」
アルス「一生お前の邪魔をし続けてやる。人生をかけて、お前の人生をめちゃくちゃにしてやる」
アルス「それでもいいなら、人間を喰え。それが嫌なら、俺を喰え」
真っ直ぐ九尾を見据えて呪詛を吐く。脅し文句と言ったが、単なる脅しではなかった。本気の脅しだった。
今も俺たちが九尾への闘志を絶やさないように、今後も俺たちは九尾を宿敵とすることができる。
強さの差は限りない。それでも肉体の敗北は精神の勝利で上書きできる。俺たちは今まで何度も立ち上がってきた。
自称正義の味方の言うことかと思った。しかし、正義の味方だからこそ言えるセリフのような気も、またした。
九尾は逡巡しているようだったが、ややあってから頷く。そして、嘆息。
九尾「わかった。この九尾、こんな形で収まるとは思っていなかった。正直、お前だけを喰うなぞ御免被りたいのだが……お前の気概に折れてやろう」
九尾「九尾の名に誓って証言しよう。九尾はお前だけしか喰わん」
九尾「しかし、逆に聞こう。お前は本当にそれでいいのだな? お前の加護は九尾が与えたものだ。血に刻まれた魔法は膨大だが、決して無尽蔵というわけではない。いつか復活できずに死ぬぞ」
アルス「人間、いつかは死ぬさ。俺は死にすぎたくらいだ。
九尾「違いない」
くつくつと笑った。強者の余裕が垣間見える。こちらははったりと気勢で何とか意識を保っているというのに。
メイ「まったく……なに、考えてんのよ、ほんと……」
メイがクレイアさんに肩を借りる形で近づいてきていた。左腕は依然としてないが、血液の流出は止まっていて、顔色も少しずつだがよくなってきているようだ。
彼女はそのまま自立して、俺の肩を掴む。
なぜかメイは背伸びをして、俺と顔の高さを合わせようとしてくる。「んー、んー」と唸る姿は年相応に幼くて、俺は笑みがこぼれるのを抑えきれない。
そのままひざを折って高さを合わせる。
こつん、と、額と額がぶつかった。
近い。
気まずいくらいに、近い。
メイ「アンタが魔王になっても、アタシはアンタのそばに居続けるから。問題ないでしょ?」
アルス「……お手柔らかに」
クルル「当然、私も」
俺の腕を抱きしめるクルル。俺の服も彼女の服も血まみれだが、最早気にしてなどいられない。
クルル「私、正妻だから。あなたは、側室。愛人」
メイ「は、はぁっ? 全然わけわかんないんだけどっ!」
クルル「っていうのは、ちょっとだけ嘘」
クルルは上目づかいにこちらを見てくる。だけれどその視線は至って真面目だ。
クルル「私は、ずっとアルスの味方。辛いことは、私となんとかしよう。楽しいことは、私としよう」
クルル「好きだよ」
アルス「お、おう」
なんだかドギマギしてしまう。
だけど、そうなのだ。クルルの言う通りなのだ。納得はされていないかもしれないが、進むべき進路は決まった。大事なのはこれからなのだ。
魔王の役割。それをどうやって果たしていくのか、課題は山積みだ。
九尾「それについては九尾がサポートする」
アルス「……心を読むな」
九尾「お前ら三人は四天王――三人だから厳密には違うのだが、側近となってサポートしてやってほしい。そのためにあいつらをぶつけたのだ」
無視して話を進める九尾であった。
グローテ「やっぱりお前の差し金だったのか」
九尾「おいおい、これでも九尾は気を使ってやったのだぞ? 魔王になれば狙われる。そのためには身を守る武力が必要だ。あいつらに勝てないようなら、人間の軍勢にも勝てないさ」
それはつまり、裏を返せば、ウェパルやデュラハン、アルプが軍勢一つと同程度の実力を持っているということである。今思い返せば実に恐ろしい。
しかし、彼女らはそれに勝利してきたのだ。俺のそれは勝利とは決して言い難いが、彼女らのそれは恐らく紛うことのない勝利なのだろう。
クレイア「王国に具申しますか?」
グローテ「いや、どうだろう。あの王のことだ、きっと勇者を自国に引き込もうとするだろう。それはよくない」
九尾「デュラハンも、アルプも死んだ。ウェパルも、最早こちらには興味がないだろう。さびしくないと言ったら、まぁ、嘘だな」
アルス「まぁ、何はともあれ、なんていうか」
息を吐く。心の底から。体の隅々から。
アルス「疲れたぁ……」
アルス「なぁ、そうだろ?」
メイとクルルを振り返る。
二人が死んでいた。
クルルは頭を潰されて。
メイは泡を吹き、白眼を剥いて。
アルス「な――」
驚きの声は、それよりも大きな声にかき消される。
九尾のそれによって。
九尾「なんでお前らがいるっ!?」
九尾「デュラハン! アルプ!」
―――――――――――――――――――
アルプ「ちゃお」
デュラハン「やぁ九尾。久しぶりだね」
九尾「貴様らは死んだはずでは――いや、なぜあの二人を――どういうことだ!」
アルプ「そんな一気に喋らないでよ。ま、わかりやすく言うなら、こうかな」
アルプ「いつからチャームされていないと思ってた?」
アルプ「九尾が見てたのは、九十九パーセント真実だよ。ただ、私とデュラハンが死んだのは、偽り」
九尾「なぜ殺した! 必要はなかったはずだ!」
アルプ「九尾にはなくても」
デュラハン「俺たちにはある」
口論を続ける化け物たち。そんな彼らの会話の内容は、最早途中から耳に入ってこなかった。
よろよろと、自分でも危なっかしいと思うくらいに足に力が入らないまま、倒れ伏した二人の下へと近づいていく。呼吸がない。鼓動もない。クルルに至っては頭がない。
クルルはデュラハンに殺され、メイはアルプに殺された。何もわからない中でそれだけが明らかだった。
思考が生まれてくる。いや、違う。思考はもともと生まれてくるものだ。勝手に生み出されるものだ。これは、感覚が異なっている。
言うなれば、まるで注入されるかのような。
殺す。
息をするように、あぶくが生まれた。
俺はそれを遠くからぼぉっと見ている。
そんな、イメージ。
アルス「殺す」
腰に括り付けた道具袋が光を放っている。そこには確か、九尾からもらった珠が入っていたはずだ。
脈動を太ももに感じる。
どくん、どくん、と。
殺す。
なぜ、彼女らが死なねばならなかったのか。違う。間違っている。それは、誰にでもあてはまる。だから、彼女らについてのみ言及するのは、正しくない。
殺す。
あいつらは今更何をしに来たのか。
殺す。
全てがうまくいくはずだったのに殺す。
俺は殺す。
選択を間違え殺すていたのか。
殺すでも、ほかに殺すどんな殺す選択肢があった殺すって言うのだろう。
デュラハン「天下七剣ッ! 其の一、破邪の剣!」
歓喜の声とともに刃が俺に迫る。ばあさんの火炎弾を切り裂き、クレイアさんの結界を切り裂き、漆黒の騎士の剣が今まさに俺に。
太ももが熱い。
体中が熱い。
何より、目頭が熱い。
あぁ、そうか。俺は泣いているのか。
そうとわかってしまえば話は早い。向かってくる刃の腹を叩き、まるでつららを折るように、根元からぽっきりとやってやる。
アルス「殺す」
俺の邪魔をしないでくれ。
ん。
んん?
思考と言語の境界線があいまいだ。
返す刀で漆黒の鎧、その胸に深々と突き立てる。
ぐ、と漆黒の鎧が呻きを上げて、それでも至極楽しそうに、粒子を散らせながら距離を取った。
両手に二本の剣が現れる。
デュラハン「いいね、いいよ! 塔にきたときよりも、数段――いいっ!」
強い踏込み。一瞬の移動。障壁を展開しながらの攻撃は攻防一体で、そもそも高速移動する障壁に触れるだけで体が吹き飛ばされるのだろうと思ったけれど、だからなんだっていうんだ?
俺は無造作に腕を突っ込む。
障壁を貫通して、そのまま鎧の左腕を掴んだ。
捥ぐ。
捻って、金属の塊を地面に打ち捨てる。
相手は首無し。クルルの頭を潰したのは、仲間がほしかったのだろうか? 魔族の分際で?
残念だ。頭が最初からないのなら、クルルと同じ状況にしてやれない。それとも、それすらもこいつには過ぎた死だろうか。
デュラハン「其の四、まどろみの」
左腕も捥いだ。
デュラハン「っ!? 、しっ、信じられ、ないなぁっ!」
肩の付け根から光が漏れ出し、新たな腕を構築する。更なる魔方陣が展開され、新たに三本、剣が現れる。
いつの間にか心臓へ深々ナイフが突き刺さっていた。いつの間に、と思う暇もなく、漆黒が眼前へと向かってくる。どうにもせっかちな奴だ。そんなに慌てて何がしたいのだろうか。
何が彼をここまで死に急がせるのだろうか。
デュラハン「だけど、これこそ! 俺の望んでいたものっ!」
デュラハン「人間の強者と戦って、四天王とも戦って、だけど、俺は、魔王様とは結局一度も戦えなかった! だから!」
アルス「殺す」
俺は魔王じゃない。
刃が俺にずぶりずぶり浸み込んでいく。俺はそれを確かにスローモーションで見ることができる。
通った先から肉体が再生していくのも。
切った後には、元通り。
鎧の脇腹に手のひらをあて、一気に外へと押し出す。
ぐんと加速。そのまま壁に叩きつけ、左半身を真っ平にしてやる。
限りない圧縮、そのまま平らになった接壁面を擦りながら、鎧は地面に落ちて砕けた。
突風。
光とともに、光の中から漆黒が生まれていく。頭はなくて、頸、肩、腕、胸、腹、腰、足と順繰りに顕現していく。手には当然二刀が握られていて、圧力ではなく、事実として体が先ほどよりも大きい。
超高密度な魔力体。今の俺にはわかった。
デュラハン「ははっ、こりゃ大当たりも大当たり! わかった、俺はきみに殺されてもいい――違うね、殺されたい! 殺してくれ!」
デュラハン「ようやくこの、不毛で、不毛な、不毛に、終止符を打っておくれ!」
デュラハン「俺の衝動に、俺はもう飽いた!」
デュラハン「ははっ、はははは、あは、ふははあはははっ!」
アルス「殺す」
勝手なことを言うんじゃない。
デュラハン「そうだ! その意気だ!」
九尾「老婆、儀仗兵長、さっさとそいつを転送――だめだ、隔離しろ! 次元のはざまにぶち込め!」
老婆「だが、あいつの破邪の剣は!」
九尾「違うわ馬鹿者! 勇者を消せ! デュラハンごとでいい! こいつはもう、だめだ!」
九尾「反転した!」
九尾が何やら叫んでいる。ばあさんも、クレイアさんも、何やら叫んでいる。それまではわかるのだけど、一体何を叫んでいるのか、わからない。
どうでもいいことではあった。だからわからないのだと思った。
クルルとメイの仇を殺す取ってやる以外は瑣事に過ぎない。
体が熱い。太ももの熱さは消え、代わりに全身へと拡散、撹拌している。
頭の中で鐘が響く。警鐘を鳴らしている。三点鐘。実にうるさい。
九尾「こいつはもう、魔王だ!」
アルプ「おーい、無視するなよぉ」
九尾「アルプゥ……ッ!」
クレイア「師匠! アルスさんが!」
グローテ「くっ、ぐぅううううううっ!」
魔力が俺の周囲を流れ、渦を巻いている。
それを切り裂いて突っ込んでくるデュラハン。
グローテ「すまん、勇者! 必ず助けるから――」
クレイア「早く、師匠! もうこの空間が持ちません!」
クレイア「一緒に隔離術式を!」
グローテ「ちく、しょおおおおおおおおおっ!」
デュラハンの胸を俺の素手が貫いた。
視界が歪む。
世界が歪む。
そこから先の記憶は、ない。
―――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――
即座にクレイアが結界を展開したのを受けて、わしは周囲に火炎弾を展開、デュラハンにもアルプにも、そして万が一の可能性を考えて九尾にも対応できるよう、にらみを利かせる。
この現状。この惨状。九尾は驚いていたが、果たしてそれがあいつの演技でないと誰が保証できるだろう。ここまで含めてあいつの策略のうちである可能性は、十分にある。
けれど、疑っておいてなんだが、わしには九尾のそれが演技には決して見えなかった。自尊心の高い九尾が例え演技でも声を荒げ、驚愕の表情を形作るだろうか?
九尾「なぜ殺した! 必要はなかったはずだ!」
アルプ「九尾にはなくても」
デュラハン「俺たちにはある」
デュラハンが剣を顕現した。
孫と、クルルは死んだ。悲しいのに涙すら出てこないこの心が憎い。
大事な存在を守れない己の無力が憎い。
何より、命を奪ったあいつらが憎い。
あぁ、けれど、戦場で培ったのは人の殺し方だけではなかった。自分の心の殺し方も、戦場で培ったものの一つだ。
真っ当な人生には全く必要のないその技術を、わしはもう二度と使うまいと決めていたのに、まさか戦場ではないこんなところで使うことになるだなんて。
追悼はいつでもできる。だからこそ今は眼前の敵を。
わかっている。わかっているのだ。
それでも心は軋みを上げる。
ぎちり、ぎちり、手と足と首と胴体と……全身を輪のついた鎖が拘束していた。その先には何かとてつもなく、とてつもなく重いものが括り付けられている。
頭を振ってそのビジョンを吹き飛ばす。何が括り付けられているのか、何を引きずっているのか、わからいでか。
だからこそ、死者に恥じない生き方を。
ちらりと勇者に視線をやる。呆然とした表情。それは当然だが、しかし、わしの視線は別のところへ向いていた。
彼の太もも、道具袋が発光していた。
なんだ? 何が起きている?
確かあそこには、魔王の珠が……?
背筋に悪寒が走り、体が自然と震える。嫌な予感しかしない。何が起こるかは未知であるが、何かが起こるとわかった。出なければ歯の音が噛みあわないはずがない!
がちがちと鳴る歯を喰いしばって、デュラハンとアルプに対し、火炎弾を放つ。
斬、と音がして、火炎弾が切り裂かれる。
次弾を放つより先にデュラハンはアルスへと切迫している。速い。さすが四天王などと暢気なことは言っていられなかった。今のアルスに迎撃の余裕など――
殺す。
くぐもった低い声が、耳に届いた。
幻聴でないのかと思った。いや、幻聴であってほしいと願った。人間の口から地獄が飛び出してくるなんてことは考えたくもなかったから。
一拍おいて、対照的な甲高い音が空気を震わせる。
光に反射して鉄の粉が煌めいている。
破邪の剣、其の刃が途中から折れ――もぎ取られ、流れるような動作でデュラハンへと突き立てられる。
速度がおかしい。動きと、表情がおかしい。
グローテ「九尾ィッ! お前、アルスになにをしたぁっ!?」
九尾「魔王の珠の影響だ! あれは濃密な魔力構造体で、吸収した者を魔王にする!」
アルプ「そう。最早彼は人間じゃあない」
ぎろりと九尾がアルプを睨みつけた。アルプはそれを受けて肩を竦め、けれど、こちらを嘲笑するでもなく、寧ろ逆に悲しそうな顔をした。
なんでそんな顔をしているのだ。それではまるで、こんなことを望んでいないようではないか。
アルプ「ごめんね、九尾」
九尾の息を呑むのがこちらまで伝わってくる。わしにはわからない何かが、恐らく二人の間で交わされたに違いない。そして九尾は今の一瞬で、アルプを赦した。
九尾「そうか、そういうことか……」
九尾「あいわかった。お前を殺す」
アルプ「うん、うん。お願い」
クレイア「ししょぉおおおっ! 結界が持ちませんっ、二人の戦闘の余波が、こっちまでっ!」
アルスとデュラハン、二人とこちら側を魔法的に隔てていた障壁が、みしみしと悲鳴を上げている。
あと数秒で限界が来る。瞬時に悟ったが、結界の向こう側にいる二人の戦闘は寧ろ激化の一途を辿っている。
デュラハンは呵呵大笑しながら突っ込み、アルスはそれを容易く迎撃。まるで飛燕だ。重力すらも振り切る身体能力。
あれが、魔王の力なのか。
デュラハン「ははっ、こりゃ大当たりも大当たり! わかった、俺はきみに殺されてもいい――違うね、殺されたい! 殺してくれ!」
デュラハン「ようやくこの、不毛で、不毛な、不毛に、終止符を打っておくれ!」
デュラハン「俺の衝動に、俺はもう飽いた!」
デュラハン「ははっ、はははは、あは、ふははあはははっ!」
まさしく人外だった。わしら人間には想像もつかないような、歪な精神構造と行動理念。
だが、恐らく、同じ人外には理解できるのだ。九尾が歯を噛み締めているのがその証左である。
アルス「殺す」
感情の欠落した声をアルスが漏らす。加勢に行きたいが……今の彼に、わしとデュラハンの区別がつくかどうか。
そもそもわしがあの戦いについて行けまい。
デュラハン「そうだ! その意気だ!」
九尾「老婆、儀仗兵長、さっさとそいつを転送――だめだ、隔離しろ! 次元のはざまにぶち込め!」
慌てたように九尾が言った。そうだ、二人の戦闘にこの塔がいつまで耐えられるかわかったものではない。ただでさえ塔は疲弊しているというのに。
言われなくともとクレイアが呟いた。舌打ちを一つして、彼女は結界の範囲と性質を変化、無理やりに空間転移を試みる。
しかし、出力が足らない。わしも力を貸さなければ。
老婆「だが、あいつの破邪の剣は!」
九尾「違うわ馬鹿者! 勇者を消せ! デュラハンごとでいい! こいつはもう、だめだ!」
九尾「反転した!」
反転。その言葉の詳細まではわからないけれど、なんとなく、方向性はわかった。魔王の力が諸刃の剣でないわけがないのだ。
恐らく九尾は大丈夫だと思っていたに違いない。「反転」しないと。それは彼の精神と、何より仲間がいたからだ。
だが、それは裏切られた。この絵図は九尾が描いていたものから逸脱している。
九尾「こいつはもう、魔王だ!」
九尾が叫ぶ。うるさい。わかっている!
アルスはもはや、人間にとっての脅威でしかない!
脅威は屠らねばならない。世界のために。国のために。
今までわしが何人もそうしてきたように。
グローテ「ぐ、く、ううっ!」
噛み締めた奥歯のさらに奥、魂の深奥に位置する魂から、嗚咽が漏れていく。
目頭が熱い。液体が頬を、顎を伝っている。
わしはこんな生き方しかできない。
手のひらをアルスに向ける。詫びはいれない。そんなことはおためごかしにしかならない。非情に、冷徹に。それが屠殺者に求められるもの。
アルプ「おーい、無視するなよぉ」
九尾「アルプゥ……ッ!」
ずるりとアルプが九尾に切迫する。伸びる腕。かわす体。九尾は容赦なくアルプの命を取りに行って、アルプもそれを急かす。早く自分を殺してくれと。
九尾「お前は、黙って、立っていろ! そうすれば一瞬だ!」
九尾の爪がアルプの耳を切断した。徒手空拳なのは、せめてもの心遣いなのだろうか、などと考えてしまう。
魅了された空気が、壁の破片が、九尾を襲う。それすらも九尾は爪で切り裂いて、右手に火炎、左手に氷をまとわせながら、高速で突っ込んでいく。
クレイア「師匠! アルスさんが!」
猶予はない。
迷っている暇など、ない。
ないのだ!
グローテ「くっ、ぐぅううううううっ!」
グローテ「すまん、勇者! 必ず助けるから――」
ぎちぎちと空気が震え、今にも塔は倒壊しそうだ。アルプと九尾も戦いを始めているのだからなおさらである。
クレイア「早く、師匠! もうこの空間が持ちません!」
クレイア「一緒に隔離術式を!」
グローテ「ちく、しょおおおおおおおおおっ!」
時空を揺るがしながら、空間にあくまで二次元的な切れ目が開く。それは途轍もない圧力を持って、結界ごと二人を飲み込んでいく。
そして、そんなことなどお構いなしで、デュラハンとアルスは戦いを続けている。
最後に彼の雄叫びが聞こえたような気がした。
―――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――
皮膚が、肉体が、削れていく。
身を襲う激痛。焼けた鉄の棒を押し付けられているかのようだ。痛いのではなく、ただ熱い。それはもしかしたら血液の熱さなのかもしれないと思う。
こんな私でも血は赤い。こんなどうしようもない存在でも、確かに血は赤いのだ。
それは誇りでもある反面、心を苛む原因でもあった。私の血が赤くてよいはずがない。こんな、歪んだ心の持ち主には、それは重すぎる。申し訳なさすぎる。
九尾「お前は、黙って、立っていろ! そうすれば一瞬だ!」
九尾が叫ぶ。でも、ごめん。そういうわけにはいかないんだ。
こんな屑だけど、生きる資格なんてない鬼畜生だけど、生存本能は足を引っ張っているから。
それに私は、きみに罰して欲しいんだよ。
それが夢魔アルプとしての生き様にふさわしい。
あぁそうだ。私は一度たりとも曲がってはいなかった。私の性質と本分を紛うことは、ただの一つもなかった。そしてそれが、私の幸せが、誰かの不幸せの上に成り立つことを私は自覚していたのだ。
人を騙し、裏切らせ、弄び、踏み躙り、何もかもをおじゃんにさせて。
崩壊するものすべてに愛をこめて。
楽しければいいのだ。それが私に課せられた衝動なのだ。
だって、人間に一族全員殺された時も、私は笑っていたのだから。
ま、私が煽動したんだけど、さ。
あぁ、ごめんね、ごめんね九尾。
アルプ「でもこの生き方はどうにもできない!」
クルル――九尾の言う狩人との戦いで、すでに体力も魔力も底を尽きかけている。勝てる要素は一つもない。勝つつもりも微塵もない。
それでも体は動く。動いてしまう。
アルプ「これが私の全力全開ッ!」
アルプ「チャアアアアアアアアアムッ!」
眼を限界まで見開く。見る者/物すべてを魅了する誘惑の瞳。
九尾だけでなく、老婆と、儀仗兵長も目を瞑った。
でも遅い。でも温い。
そんなんで私の魅了を避けられると思ったか!
世界が変わる。まるで霧吹きで色水を噴霧していくかのように、さぁっと、世界は世界でなくなった。
広がる菜の花と蒲公英。道はただ、人が踏みしめた跡が残っているだけ。
青空が透き通っている。幾つもの丘の先に、白い雲がぷかぷかと浮かんでいた。
風が吹くと草のにおいが届いてくる。その空気の静謐で力強いことと言ったら!
力強いのは何も薫風だけではない。陽光もまた差し込んでいて、体から湯気が出ると錯覚するくらいに、柔らかく暖かい。
九尾「ここは……」
クレイア「別の空間……いや、空間そのものを、チャームした……!?」
儀仗兵長が目を白黒させている。そんなことができるのか、といった具合だ。
できるんだよなぁ。
アルプ「ま、実際に挑戦したのは、初めてなんだけどね」
アルプ「ここは外界から完全に隔離された場所。いくらドンパチしたって、影響は出ない」
アルプ「あ、大丈夫だよ。私が死んだらチャームは解ける。殺してくれさえすれば、無事に戻れるはずだから」
九尾「お前、ここまでして……」
死にたいのか。続くそれを飲み込んで、九尾は構えた。
九尾「……お前も、辛かったんだな」
アルプ「私が辛いなんて言ったら、私の犠牲になった人たちに申し訳なさすぎるってもんだね。でも、ま、なんてーの?」
アルプ「なんでこんな衝動、持っちまったんだろーなぁ……」
九尾が魔王を復活させようとしていたのは、かなり前から聞いていた。世界平和という目的も、九尾の食人衝動も、わかっていた。
純粋に九尾を応援していたのだ。前魔王が消えて、新たな魔族は生まれない。私たちは兄弟みたいなものだったから、九尾に協力するのは当たり前だと思った。
デュラハンのために少女を捕まえてきたのも結局はそういうことなのだ。九尾も、ウェパルも、デュラハンも、みんな幸せになればよかった。そのためなら私は何だってするつもりだった。
事実してきたのだ。例えそれが全く関係のないことだとしても。
だけど、衝動からは逃れられない。
ふと、思ってしまったのだ。それはいつだったか……この戦争が始まったときか? 具体的な時期は、最早忘却の彼方だけれど。
九尾の目論見を潰せば、彼女はどんな顔をするのだろうかと、どれだけ楽しい顔が見られるのだろうと、思ってしまった。
それはやっていけないことだ。倫理ではなく感情でわかる。頭と心がそれの実践を必死になって止めている。だけど、鎌首をいったんもたげてしまったどす黒い魂の片鱗は、そんなものなど容易く吹き飛ばして……。
デュラハンも、耐え切れなかった。彼は少女との戦いだけでは満足できなかった。より強い相手を求め、その相手として魔王を選定した。それくらいしか彼には衝動を満たせる相手が残っていなかった。
何度九尾に心のなかで謝ったろう。ごめんと、ごめんなさいと。
幸いにも九尾はこの衝動をわかってくれた。どうにもならないものなのだ。私が私でいる限り。そして、だからよしとはせずに、きちりと裁いてくれるという。それが、何よりうれしい。
裁かれるのは人格があるからだ。私はこんな屑だけれど、確かに一つの個体として殺される。それは涙が出てしまうくらいの過ぎた幸せだと思った。
同時に、私の願いが叶えられてはいけないとも思った。だって、そうだろう。今まで散々他人の邪魔をして、計画を、希望を、ぶち壊して踏み躙って楽しんできた私に、幸せな死が訪れるだなんて……。
まとまらない思考。二律背反。葛藤。ぐるぐる渦を巻く涙の螺旋。
九尾の突撃。限界まで素早さを上げ、攻撃力を上げ、防御力を上げたその肉体は、まさに意思を持った砲弾だ。間に合わない。
自動で地面がせりあがり、壁を作る。この世界は私の匣庭。全てが私を守ってくれる。
九尾「無駄ァッ!」
所詮土塊。砲弾には叶わず、壁を打ち砕いて九尾が逼迫してくる。速い。
ぼろぼろの羽をはばたかせて回避。追いすがる九尾のほうが速度は上だ。毒霧をまき散らしながらの攻撃も、全てフバーハで散らされる。
やっぱり、九尾は強い。
拳が腹にめり込んだ。内臓ごと持っていかれそうだが、神経が苛まれるよりも高速で、景色が前へとぶっ飛んでいく。いや、ぶっ飛んでいるのは私の体だ。
地面をバウンドすること実に八回。皮膚は削げ、口の中は歯と土と血で大変なことになっている。それらをまとめて吐き捨ててから、
背後に殺意。
煌々と明るい右手と、燦々と煌めく左手。
メラゾーマとマヒャド。
九尾「合体魔法――!」
本気だった。舐めプではない。
自然と口角があがる。今は痛みも、恐怖も、心地よい。
熱と冷気を伴った光線が向かってくる。チャームで軌道をずらそうとするも、軌道の振れ幅が速度に圧倒されていて、命中の進路は変えられそうにな
アルプ「――っ!」
右腕が、右肩が、右肺が、根こそぎ持っていかれる。なんとか直撃は回避したが、掠っただけでもこの威力だ。
呼吸が乱れる。というよりも、全然うまくできない。吸っても吸っても肺は空気を交換してはくれなくて、だんだん視界がしらけていく。
だけど、それでも、この世界は私の匣庭。
失われた組織が魔力によって補填されていく。
自動回復。九尾相手にどこまで持つかはわからないが、せめてこのひと時を、もう少し、僅かでも、
アルプ「っ!?」
脚が動かない。
手が動かない。
九尾のせいではない。九尾は目を見開いている。
ということは……人間か。
九尾「おい人間、これはこちらの問題だ、手を出すな!」
グローテ「……」
老婆は無言だった。ここに来てのその対応は恐ろしさしか感じない。
いや、逆に当然かもしれない。だって、私は彼女の孫を殺したのだ。恨みを抱かれても、なんらおかしくはないだろう。
ぱきぱきと音を立てて世界が刷新していく。元の世界に戻っていくわけでもない。チャームされた世界の内部に、さらに新しい世界が……陣地が、構築されようとしているのだ。
刷新の時間は僅かに数秒。
何もない世界だった。砂漠。だだっぴろいそこには、何もない。草木も、水も、雲もない。風もない。太陽もない。青空というには色の単一すぎる空が広がっていて、臭いも何もあったものではない。
グローテ「アルスは死んだ」
人間としての、ということかな。
さすがにここで、「いや、隔離したのあんただし」とは言えない。
グローテ「クルルは死んだ」
グローテ「メイは死んだ」
グローテ「お前らが殺したのじゃ」
うん、そのとおりだ。そのとおりすぎて、別に何も言うことがない。
グローテ「だから死ね」
目の前に迫る火球。四肢は依然として拘束されている。
既に世界は魅了から解き放たれている。私の自動回復も、きっと意味をなさない。
……死んだな、こりゃ。
アルプ「ごめんね、九尾」
全てを台無しにして。
でも、私が死ねば、もうこれで、そんなことはないのだ。
九尾「謝ってどうする!」
九尾が私の前に現れて、火球を無造作に握りつぶした。
グローテ「……」
火球の連射。その数は両手で足りないくらい。
対する九尾も火球でもって応戦する。飛んでくるそれにぶつけ、相殺し、なんとか無傷で切り抜けた。
九尾「お前の始末は九尾が責任を持つ。あんな人間にやられてたまるかっ」
クレイア「師匠、準備はできています!」
老婆の隣にいた女性の言葉で、ようやく私は、この陣地が老婆の手によるものでないことを理解する。魔力の波長が先ほどの火球のものとは異なっている。
こちらも二人、あちらも二人……数に不足はない。実力にも。
グローテ「十人を救うために一人を見捨ててきた。千人を救うために、百人を巻き添えにしてきた。そんな人生、よかったとは到底思えないが……今更宗旨替えもできん」
グローテ「九尾、お前を殺して、お前に食われる何人かを救えるのなら……わしはお前を殺すことを厭わない」
九尾「御託はいいからやってみろよ、人間! たった二人でこの九尾を殺せると思うか!」
九尾は跳んだ。速い。瞬きの瞬間に首を刎ねられる速度だ。
切迫した九尾は、けれど大きく弾かれる。帯電する空気。老婆と女性の周囲に不可視の障壁が張り巡らされているのだ。
九尾「小癪な」
火炎弾を放つ。障壁に直撃し、互いの魔法が粒子を飛び散らせて拮抗していく。
そこへ九尾が拳を叩き込んだ。鼓膜を直接震わせる高音が、障壁の破壊を示唆していた。
だけど、
老婆が剣を――刀を握っていた。骨ばった老体には全く不釣り合いな彎刀。事実彼女はそれを持ちきれず、切っ先を接地させ、柄の部分だけをなんとか支えている。
それは確か、記憶が正しいならば、女性が持ってきて勇者に渡したものだ。確か誰かの形見だとか遺品だとか、そんなことを言っていたような気がする。
グローテ「わしは国のために殺してきた。見殺しにもしてきた。わしのためじゃない。国のためにじゃ」
グローテ「であるなら、志は全く同じ!」
九尾は老婆の言葉に聞く耳を持たない。追加で出現した障壁を三枚同時に叩き割って、魔力の奔流の中、空気に渦を作って突進していく。
グローテ「行くぞ、クレイア!」
クレイア「はい、師匠!」
莫大な魔力を感じた。それは当然九尾も感じたようで、地を蹴って横っ飛び、その後空間転移で私のそばまで戻ってくる。
虚飾に満ちた空っぽな世界に、一瞬、光が満ちた。
グローテ、クレイア「「ザオリク!」」
九尾「……」
アルプ「……」
ずらり。
と。
立ち並ぶ黒い影。
いや……人、人、人。
兵士の海。
その数はいったいどれだけだろう。百、二百……それだけでは全く足りない。何しろ奥の奥まで視認ができないレベルなのだから、きっと千は楽に超えているんじゃないだろうか。
みな甲冑を身に着けていた。しかしその意匠はばらばらで、同一国家なら統一されているはずの紋章すらばらばらである。
周辺諸国の連合? そこまで考えて、固定されている首を脳内で横に振った。あれは事実として、同一国家の兵士じゃない。
ならば一体何か。老婆はザオリクで、一体どんな集団を蘇生させたのか。
グローテ「さっき、たった二人と言ったな。わしらは二人ではない! わしらの目的のために犠牲になった者たちが、全員背後にいるのだ!」
グローテ「わしが殺したその数一六八九人! これだけの人数を――いや! これだけの意志を相手に、それでも九尾、お前はまだ軽々と勝てると言うか!」
老婆が眼を血走らせて叫ぶ。魔力の消費が尋常ではないはずだ。これだけの魔法……ザオリクとは言っているが、厳密には完全な蘇生ではなく、召喚の類。
この陣地内でのみ、彼らはもう一度生を受けられる。
がふ、と音を立てて、女性が血を吐いた。地面についた両膝ががくがく震えている。完全に魔力枯渇の症状だ。
老婆はそれよりも比較的症状は軽微だったけれど、血涙を垂れ流しながら歯を噛み締めている。力を籠めねば生きていけないとでもいうつもりだろうか。
アルプ「はっ、人外かよ」
人外の私たちに言われるのも心外だろうけど。
一人で一六八九人殺した? そりゃあんた、ちょっと、私たちより極悪じゃないか。
いや、何よりも人外なのは、二人の凄絶なまでの意志。あそこまで体を傷つけても、私たちを倒さなければいけないと思える精神が、すでに人のものではない。そして目的は自分たちのためではないというのだから驚きだ。
誰かのために、ましてや国のために全身全霊を捧げられる人間が、どれほどいるというのか。
そんなのいるはずがないと思う。思った。思っていた。事実、私はずっとそうだった。ずっと私の娯楽のために全身全霊を捧げていて、それ以外は知ったこっちゃなかったのだ。
しかし、どうだろう。勇者は、少女は、何よりあの腹立たしい狩人の娘は、そして目の前にいる二人の女は、まるで自分のことなど意に介さない。人間とは果たしてそんな生き物だったか。私の人物評が、間違っていたのか。
楽しい。
心の奥からふつふつと込み上げてくるただ一つの感情がそれだった。
真っ黒な色。翳っているのではなくて、もともと漆黒なのだ。光を反射することしかない、どす黒さ。
あの心を折ったら、あの希望を打ち砕いたら、
アルプ「一体どんな顔すんのか見てみてぇなあっ!」
四肢はまだ固定されている。かなり頑丈な封印だ。濃縮された固定の陣地。やはり、あの二人はどっちもかなりの手練れらしい。
だけど。
アルプ「私の衝動を止められるなんて、馬鹿言っちゃだめだってば!」
私でさえ止められないというのに。
寧ろこの程度で止めてくれるならどれだけ幸せだったか!
ぶちぶちと関節が音を立てて引き千切れていく。痛い痛い痛い痛い! 肺から息が全部毀れていく!
だけど、これで抜けた!
既に眼前では軍勢が始動していた。とてつもない圧力を持った個々が、集団として九尾に襲いかかろうとしていたのだ。
戦闘には中年男性。先ほど老婆が持っていた彎刀を握り締め、苦い顔をしながらも、真っ直ぐに視線は九尾。
そのあとを槍兵、騎兵、一兵卒と続いている。人数が多いから兵種も多種多様だ。
私は羽ばたきながら、先の無くなった肩関節、股関節にチャームをかける。魔力による補填がなされ、半透明な力場が、四肢の代わりを形作る。
ダイゴ「状況は理解したが、流石にこれはむちゃくちゃすぎるだろう、ばあさんよっ!」
中年男性が叫んだ。
九尾の神速になんとか男性は刃を合わせるが、それにも反射神経の限界がある。九尾は容易く攻撃を回避して地を蹴り、宙に跳びあがる。
火炎が手のひらに集まっていく。
「全軍、よぉおおおおおおおおおい!」
後方に控えていた儀仗兵たちが障壁を築いた。数百人がまとめて作った、まさに戦術級の特大障壁。九尾でもこれを破壊するのは難しい、か?
アルプ「だけど!」
あぁ――楽しい!
デュラハンみたいに戦闘狂いなつもりはないんだけどなぁ!
アルプ「目に見えるもので、魅了できないものなんて、ないっ!」
障壁をひたすらに「視る」。
魔力的に物質/非物質に働きかける私の瞳。障壁の魔法構造に侵入して、無理やり装甲を薄く、がりがりと削っていく。
アルプ(それでも、なんてぇ物量だいっ)
一際両者が輝いて、僅かに九尾が勝った。火炎弾は散り散りになって兵士の集団へと降り注いでいく。
ジャライバ「第三隊から六隊まで消火準備! 七隊以降は次撃に備えて魔力充填!」
ハーバンマーン「第一、二隊は俺たちについてこい!」
高射砲撃が九尾を狙う。同時に打ち上げられた数人の魔法戦士が足元に起動力場を生み出しながら、それを蹴って九尾へと迫った。
二人の首が一瞬にして落ちる。それでもあちらに戦意の喪失は見えない。寧ろ発奮を促したかのようだった。
アルプ(そうかい、そこまで私らは、敵ってことかい)
そうじゃなくちゃ「面白」くない。
ルニ「お噂はかねがね」
優男風の青瓢箪が言った。瓢箪が喋るほどに世界は進んでいたらしい。
九尾は返事をせずに爪を、火炎を振るった。青瓢箪は身体強化の魔法でもかけているのか、信じられない速度でそれをいなしながら接敵、九尾と格闘戦を繰り広げる。
アルプ「九尾、今――!」
九尾「構わん! まず数を減らすぞ!」
あいよ、と返事をして、私は大きく息を吸い込んだ。
アルプ(あれ、九尾と共闘するなんて、はじめてじゃね?)
だからかもしれない。こんなにも楽しいのは。
毒霧の噴霧。羽ばたきながらそれを全体に拡散させていく。高射砲撃をなんとか回避しながら。
ルニ「ぐっ……」
青瓢箪の胸を九尾の腕が貫通する。向こう側にとおった九尾が握っているのは、恐らく彼の心臓だ。
青瓢箪が倒れ、九尾はそれを打ち捨てる。
そこへさらに襲いかかる二人。手にした短刀が僅かに九尾の髪の毛に触れていくが、次の瞬間にはその腕が根元から消失する。そうしてバランスを崩し、地面へ落ちた。
九尾「老婆、貴様は本当に見境がないな!」
ルニ「それがいいところなんですよ」
九尾「なっ!」
九尾の背後に、なぜか青瓢箪が立っていた。そのまま打ち下ろしで九尾が吹き飛び、地面に叩きつけられる。
当然、今まで下で戦いを見ていた兵士たちが、それでよしとするわけもない。寧ろ待ちわびていたかのように、地に付した九尾に剣を突き立てる。
炸裂。
大量の肉片が長い滞空時間を得て、ぼたぼた降り注ぐ。
九尾「き、さまぁ……!」
イオナズンを唱え、なんとか制空権を確保しなおした九尾は、這いつくばりながら舌打ちをした。
九尾「バギクロス!」
不可視の殺意が兵士たちを切り刻む。が、それも後方からの障壁で弾かれ、目立った効果は得られない。
私が散布している毒も、いくらかは効果があったようだったけれど、思ったよりは倒れ伏している人間は少ない。解毒魔法の持ち主がかったぱしからかけて回っているのだろう。
うーん。さすがにこの人数は……。
アルプ「きっついなぁ! ひゃははははは!」
頬が濡れているので拭えば、手の甲が血に塗れていた。恐らく血涙だ。私も、やっぱり魔力がなくなっているってことなんだろう。
このまま毒を撒き続ければ、チャームをし続ければ、当然死ぬ。
でも、遅かれ早かれ死ぬもんでしょ?
ビュウ「ポルパ! そっちはどうなってる!」
ポルパ「今のバギクロスで負傷者多数! でも、死んだ奴は少ない! まだいける!」
コバ「あまり無茶な攻めをするな! 相手は九尾の狐と夢魔アルプ、城砦を落とすように攻めるんだ!」
ルドッカ「教官、七時の方向よりアルプが突っ込んできます!」
コバ「全員気張れ! 間違っても目を見るんじゃあないぞ!」
私は高速で飛んだ。飛んだ。飛んだ。
構築されたこの世界に果たして本当に空気が存在するのか疑わしいほど、風を切るはずの羽に何も当たらない。ただ、どこまでも飛べそうな気がした。
自然と犬歯がむき出しになる。笑みがこぼれるのだ。
アルプ「ひゃはっ」
手を交差して頭上に掲げる。
炎のイメージ。
僅かな風にも揺らぐ、頼りない炎。だけどそれは仄暖かく、どこか卑猥で、妖しい。見る者を魅了する妖艶さを湛えている。
まるで私じゃないか、なんて。
アルプ「燃えて狂って死んじゃえ!」
眩惑の炎を投下する。
それはれっきとした炎だけれど、焼くのは肉体よりもむしろ精神。じりじりと蝕むように、相手の心を焦がしていく。
頭が痛い。息切れが激しい。視界がちかちか瞬いて、今自分がどの高度を飛んでいるのか判然としない。
それでも前方は見える。宙に浮かんだ魔方陣から氷が生成されていて、それはきっちりと、ざくざく人間をなぎ倒している九尾に向けられている。
九尾に群がる大軍。さまざまな角度から迫る刃を、九尾は紙一重で回避し、もしくはなんとか致命傷を避け、手の一振りで五人の頭をまとめて潰す。
だけどその後ろにも兵士は控えている。その後ろにも、その後ろにも、その後ろにも。
唯一大立ち回りを演じているのは、人間では二人。彎刀を持った中年男性と、九尾を叩き落とした青瓢箪。彼ら二人が跳びぬけて強い。
九尾が負けるとは到底思えなかった。ただ、この先の見えない戦いが、まるで人類の総力を結集してぶつけてきたような数の暴力が、九尾を追い詰めることはあるとも思った。
だから、私は敵陣に突っ込む。
速度を上げて、上げて、上げて。
高度なんてわからないから、地面に突っ込むかもしれないけど。
それでも。
衝撃を体が襲う。不時着ではあるが、チャームで全てを誤魔化して、敵軍の中央へと落下。周囲数メートルの兵士が肉片と化したのがわかる。
降り注ぐ血液と肉片の驟雨の中を、私は一息で加速した。チャームと炎を振りまきながら、ただひたすらに同士討ちを狙う。
制御を失った頭上の氷塊が落下し、人間を、そして私の羽を穿った。もう空も飛べない。逃げることはできない。
もとより逃げるつもりもない。
例え魔力が枯渇していたとしても、人間より遥かに高い膂力を私は有している。なんたって魔族なのだ。魔王の眷属。身体スペックは段違い。
千切っては投げ、千切っては投げ……そんなふうにいっていたかは実際怪しいけれど、私は剣先を掴み折り、相手の腕を捥ぎ、腹を抉って、ひたすらに戦い続ける。
命の削れていく音が聞こえる。
ごりごり。
ごりごりごりごり。
身にまとわりつく血の一滴すらも重い。
これは決して懺悔なんかじゃあない。私は九尾に許してもらいたくて、申し訳なくて、だからこんな特攻をしかけているのでは、決してない。
これは純粋な善意なのだ。私が善意だなんて、ちゃんちゃらおかしい。所詮衝動の前でははかなく消えてしまう灯のくせに、確かにその感情は、私のこのクソみたいな魂の中に息吹があるのだ。
胸を掻き毟りたい。そうして心臓を抉った先に、私の許されざる魂があるはずだ。それさえなければ、もしくは感情さえなければ。
いっそ魔物になりたかった。どうしてこんな、感情の欠片があるんだろう。
どうして両方を持ち合わせてしまったんだろう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
辛いよぅ!
視界が歪む。どっちだろう。涙か、枯渇か。
伸ばした腕が何人目かもわからない人間の命を奪った。その腕にまとわりつく何か――恐らく、人間。
反応が遅れた。そうしている間にも、兵士たちは私の腕へ、足へ、背中へ、手を伸ばしてまとわりついてくる。
戦法を変えたのだとわかった。こいつら、私を殺すためならなんだってする!
グローテ「国のために戦い、死んでなお、国のために儂に力を貸してくれるのじゃ。それくらいはするさぁ」
老婆の声が聞こえた。その姿こそ見えないが、声
は……死にそうだ。私といい勝負かも。
そうか。死者は、死んでからも、国の行き先を憂うか。国のために再度死ねるか。
なら、きっと私も同じ。
私は九尾を憂うだろう。だからこそこんなことを、
アルプ「ひゃはっ! こんな無駄なことをして、馬鹿なやつだよ私ってばさ!」
さようなら、九尾。
私の最高の……友達? わかんないや。ひゃはっ。
剣がついに私の首を刎ねたのを、宙に舞う頭部で、確かに見た。
吹き出す血液。
薄れゆく意識の中、私は思った。
かかった。
―――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――
アルプが死んだ。
彼女の首を刎ねた兵士の視界は共有されている。それを通して、わしには光景が見える。
全ての兵士はわしと魔術的に感覚を共有していた。流れ込む膨大な情報に神経が焼かれている。倒れないのが不思議なくらいの明滅が常に脳内で繰り広げられている。
そして、兵士たちもわしの感覚を、思考を、共有している。彼らは全ての情報を知っていた。なぜこのようなことになっているのか。世界がいまどのような状況になっているのか。
彼らが戦うのは決してわしのためではない。この呪文はあくまで蘇生、召喚の類であって、操作ではないのだ。それがルニとの最大の違いである。
彼らは現状を知って、そして自らの意志で戦っている。人間には計り知れない、人間とは相容れない存在を打倒するために。
クレイア「し、しょう」
倒れ伏している弟子が呟いた。最早彼女の眼は見えていない。重力に逆らう体力もない。いつ死んでもおかしくないのに、依然として小康を保っているのは、ひとえに気力のおかげだろう。
彼女が死ねばこの空間は解ける。この空間が解ければ、蘇生も意味をなさない。
何もかもを擲って、明日の命もいらないと、クレイアは陣地を構築し続けている。
グローテ「アルプは死んだ――!?」
言いかけて、眼を見張る。
光の柱が屹立していた。
ちょうどアルプが死んだ場所、そっくりそのままである。
ぞわりと脳髄に手が伸ばされかけて、すんでのところで精神共有を打ち切った。
思わず体を半歩引いてしまう。
伸ばされかけた手、つながった精神を介して迫ってきた精神汚染の残滓が脳にくすぶっている。動悸が治まらない。よくわからなかったが、それでもわかった。あれはアルプの置き土産だ。
兵士たちが倒れ伏していくのが数字で分かる。どれだけの数が召喚され、死んで召還されたのか、こればかりは精神を共有していなくてもわかるのだ。
一一〇〇、一〇五〇、九五〇……まだ、減る!
グローテ「ルニ。ゴダイ。無事か」
魔術を介して通信する。精神を感応させるのは、流石に恐ろしかった。
ルニ『五体満足であることを無事というなら』
ゴダイ『単刀直入に言う。蝶が飛んでる』
グローテ「蝶?」
ゴダイ『あぁ。そいつが体に止まると発狂して死ぬ。どうしようもねぇな、ありゃ』
ルニ『もう半分くらいが死にましたね。僕の操作も、利きません』
蚊柱ならぬ蝶柱、か。
やはり速攻をかけるしかない。時間が経てば明らかに不利だ。わし自身の直観と経験もそう言っているし、何よりルニとゴダイがそういうのでは、信頼性が段違い。
ゴダイ『俺とルニが先頭切って突っ込んでく。ばあさんはサポートを頼んだ。もう後衛はあてにならん』
ルニ『そういう言い方は、ちょっと傷つくんじゃあ、ないですかね』
ゴダイ『そんな余裕も、ねぇぞ!』
ルニ『九尾です』
短く二人が言って、通信が切断された。
なるほど、遠くでひときわ大きく炎のあがっている地点がある。光が走り、爆発が起こり、火炎が立ち上る。その繰り返し。
全部で何度そうなったろうか。十回? 二十回? そうしている間にもカウントはどんどん減っていく。七五〇。七三〇。七〇〇!
焦燥を感じた。このまま九尾が殺せないかもしれない――というのではない。
仲間を強敵に突っ込ませたうえで、自らは後ろで見ているだけのこの立ち位置に、だ。
つまるところわしは指揮官向きではないし、何より魔法使いにすらも向いていないのだと思う。腰を落ち着かせ、気持ちを殺すことが、どうにも不得手だ。それは孫にも受け継がれているように思う。
爪を噛んだ。異常に長い人差し指の爪。それはまじないだ。人を効率的に殺すための。
ガンド。指をさして人を殺す、まじない。それを象った人差し指の爪。
かりかり、かりかり。爪と歯が音を立てる。
落ち着かない。
叫び声が聞こえた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
九尾だ。
空高く力場を踏みしめ、兵士を握り潰し、燃やし、切り刻みながら、咆哮している。
九尾「ろう、ろぶあ、あああああぁっ! ろっ、ろうびゃ、老婆! 貴様!」
九尾「アルプを、アルプをアルプを、あいつを! よくもあいつを!」
九尾「あいつを殺していいのは九尾だけであったのだ!」
空気を蹴って突っ込んでくる。羽も生やさずに空を飛ぶなど、まるで化け物だ。いや、事実化け物なのだからしょうがないと言えばそれまでだが。
ルニ「させっ、」
ゴダイ「ねぇよっ!?」
二人が足に縋り付く。途端に射出される火炎弾を、ゴダイの彎刀が間一髪で切り裂いた。
ルニが力場を形成、二人はそれを蹴って九尾へと躍り掛かる。
九尾「ぬるいわ下種が!」
真空の刃が、九尾の足を掴んでいた二人の腕を切断した。
ゴダイ「てめぇに言われたかねぇなああああああ!」
咄嗟にゴダイが九尾の腹へと彎刀を突き刺した。飛び散る血液。九尾は一瞬顔を顰めるが、腹筋に力を入れて刃を砕いて見せる。
大きく息を吸い込んで、刀の破片を口から吹き出した。
くぐもった声。地上の兵士たちが頭蓋を撃ち抜かれて即死している。
九尾の肌には、すでに傷すらない。
ルニ「死ね、下種」
黒い、魔法的な神経節が、二人の腕を修復している。その腕はいまだ九尾の足へとすがりついていて。
ルニ「この拳と!」
ゴダイ「この刀で!」
九尾「くたばれ虫けら!」
暴走した魔力が爆発を起こす!
世界に魔力の光が満ちる。
炭化していく二人。千切れた肉片に伸びる黒い神経節すらも瞬く間に炭化して、けれど二人は追撃の手を休めない。
一歩進むごとに一歩分体が炭となろうとも!
老婆「も」
ういい、やめろ。喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。わしがそんなんでどうするのだ。駒をいつくしんで、どうするのだ。なにがしたいのだ。わしは。
わしは。
世界を救う。世界を救いたい。世界を救いたかった。
でも、わしにはそんな力はなくて、だからアルスに夢を見た。希望を抱いた。
彼のできなかったことが、こんな自分にできるだろうか? 答えは否。それでも、やらなければいけない。義務だ。
彼は、アルスは、決して諦めなかった。だからわしも諦めない。
唯一、アルスが目的のために手段を選んだのに対して、わしは手段を選ばないというだけ。
誰かを不幸にしたとしても、誰かを救えれば。
死者を再度殺して、国を救えれば。
アルプの体にルニの手がかかる――炭となった手が形を崩す。
ゴダイの彎刀はすでに溶けてなくなった。彼はせめてもの特攻として歯をむき出しにし、九尾の毛に覆われた耳を狙う。
どちらも九尾には効果がない。九尾の制空権は依然九尾のものだった。
腕の一振りで、ついに二人が地面へと落下していく。
カウントが二つ減った。
じゃが、これでいいんだろう!? 二人とも!
力場の形成――形成――形成! また形成!
頭が痛い! 割れる! 体液が沸騰する!
皮膚の内側に引きずり込まれる!
グローテ(保ってくれ、この老体よっ!)
階段状の、不可視の力場。
九尾へと至る勝利の階段。
そこを駆け上る、残り六九三人。
グローテ「頼んだっ……」
コバ「全軍ッ、かかれぇえええええっ!」
不可視の階段を駆け上って、全員、九尾の命を狙いにいく。
前衛も、後衛も。みなが一様に。
九尾とは直線距離にして40メートルを切っている。二人との戦闘、そしてマダンテに意識を集中していた九尾は、そこまでの接敵を許してしまった。
願わくばそれが敗因となることをっ!
ポルパ「ビュウッ!」
ビュウ「おうともっ!」
ポルパラピム・サングーストとビュウ・コルビサが真っ先に九尾へと突っ込んでいく。二人の得物は剣。九尾の放つ火球を弾き、もしくは後衛の補助呪文に任せ、一気に切りかかる。
九尾「遅い遅い遅い遅い遅いぞ雑魚どもめ!」
九尾の姿が消える。
空間転移の先は二人の真上。ぎらりと光る、身体強化されたその爪の硬度は、鉄すらもたやすく引き裂く。
振り下ろされる。
槍が投擲された。
反射的に九尾はそちらを迎撃、空中で体勢を崩したところを火炎弾の驟雨が襲う。
障壁で大したダメージは与えられなかったが、その隙をついてポルパとビュウは九尾の左手首を切り落とす。
やはり真っ赤な血液が噴いた。
ルドッカ「突っ込み過ぎでしょ、馬鹿!」
ルドッカ・ガイマンが叫ぶ。その間にも兵士たちは九尾へと剣を、槍を、儀仗を突き出していく。
九尾「イオナズン! イオナズン! イオナズン! ベホマ!」
数度の爆裂の後、九尾の出血が治まる。しかし手首が再生することはない。それはすでに治癒の範囲を超えている。
今の爆裂で十三人が死んだ。残り六八〇人。
九尾「くそ、人間のくせに、わらわらわらわらっ! 蟻なら蟻らしく地べたを這いつくばっていればいいものを!」
ハーバンマーン「狙えぇっ……撃てぇっ!」
ハーバンマーン・ホンクの号令とともに、儀仗兵が一斉にマヒャドを唱えた。城一つほどの氷塊が空中に生まれ、鋭利な破片に破砕しながら吹雪となって九尾を襲う。
九尾は咄嗟にフバーハを張るが、反面肉弾までの対処が遅れた。向けられる幾本もの刃をぎりぎりで回避するものの、兵士たちを割って突進してきた騎馬――コバの長槍を止めることはできない。
九尾の腹を長槍が突く。
ごぶり、と九尾が血を吐いた。
九尾「――――」
おおよそ聞き取れない呪詛も、吐いた。
ジャライバ「緊急術式起動――!」
ジャライバ・ムチンの反応は早かった。号令とともに、幾度も繰り返された動きなのだろう、部隊の全員が懐から符を取り出して、それを一息に破る。
防御障壁を閉じ込めた、詠唱破棄の符だ。
暴走した魔力が爆発を起こす!
光。
莫大な魔力の放出。コンマの差で生成された障壁一一四人分が瞬時に溶かされ、兵士のカウントが一気に三ケタ減る。
残り五二九人。
おかしかった。なぜ九尾はマダンテを連続で放てるのか。魔力を回復する隙などないはずだし、ここはわしらの空間で、魔力を分解吸収などの芸当はできないはずだった。
クレイア「魔力源、わかり、ます」
それまで倒れ伏していたクレイアが、震える指で九尾を指さした。
クレイア「尻尾、です。九尾。最初は、六本、でした。あの、塔で、会ったとき」
クレイア「今は、四……よん、ほん。二本減って……マダンテで減った分、補って、だから……」
つまり、最大であと四発のマダンテがやってくる。
そして、それに耐えれば勝てる。
……勝てる?
マダンテに、耐えられる?
そんなことは有り得なかった。儀仗兵が緊急時用の防御障壁を総動員したうえで、百人以上が死んだあの威力を、あと四発。それはあまりにも、あまりにも現実的ではない。
しかも次弾以降を防ぐ術はないのだ。至近距離での魔力の波動を軽減する術は彼らには備わっていない。頼れるのは数だけで、それも今や……。
頭を振った。冷静に、冷徹に、それは当然求められるものであるが、それが諦めに繋がっては元も子もない。どうせ逃げる先もないのだから。
九尾も――今や四尾であるが――全てを消費したくはないだろう。そして、魔力は何もマダンテだけに使用するわけではない。それを考えれば、マダンテは使えてもあと一発か、無理して二発。
イオナズン、メラゾーマといった高等魔法も、早々連打はできないはずだ。それが唯一の希望であった。いくら九尾でも、ここまでの多勢を相手に、生身で挑むなど想像していなかったに違いない。
超長期戦にもつれ込んだ現状は、こちらに利がある。危うい、僅かな利であるが、確かに。
……要は、わしとクレイアがくたばらなければいいだけの話。
我慢の先にある勝利が、微かにだが、見えてきたではないか。
ハーバンマーン「ジャライバ、メラゾーマの連打だ! 少しでも削るぞ!」
ジャライバ「俺に指図をするな! グローテ様の思念は、こちらにも届いている!」
火炎弾が飛んだ。まるで流星群のように輝き、偽りの空を染め上げるそれは、確かにまっすぐ九尾へと向かっていく。
あわせて歩兵団も突撃。メラゾーマの被害を気にすることなく、恐れも無理やり踏みつけて前へ、前へと。
障壁を張る魔力も惜しいとばかりに、九尾は数多の火球を拳で打ち砕き、残った片腕で兵士たちの相手をする。無論それまで通りとはいかない。さすがに身体強化の呪文もその効果が薄れてきたようだ。動きが眼に見えて鈍い。
そして、歴戦の強者たちは、その鈍さを見逃さない。
あくまで戦争。狡賢く利用する。
ポルパ「ビュウ! 生きてるか!」
ビュウ「おうとも、相棒!」
至近距離にいた二人は、運よくマダンテからの致命傷を逃れることができた。とはいえその体はぼろぼろで、剣も根元から折れ曲がっている。
しかし武器だけはごまんとある。彼らの足元には仲間の死体が転がっているのだ。
それを手に取り、走る。
目の前で戦っていた兵士が顔面を焼かれて倒れた。その背後から二人は二手に分かれ、満足に動かない体を何とか動かしながら、九尾を背後から切りつける。
九尾の反応はいまだ十分に早いが、当初の神速からは程遠かった。剣ごとビュウの右腕を切断し――ポルパのほうまでは文字通り手が回らない。体勢を逸らしてなんとか回避した。
ビュウの呻き声。一瞬ポルパがそれに気を取られた隙に、一歩九尾は後ろへ跳んだ。
火炎弾が降り注ぐ。
九尾「ちぃっ!」
マヒャドをぶつけて相殺させる。炎と氷がぶつかりあって、大量の蒸気が生み出された。
その霧を切り裂いて、兵士たちの雪崩。
九尾「退けろ!」
メラゾーマ。それは前方数十人をまとめてなぎ倒すが、兵士は前方だけではない。左右、背後からもまた迫る。
九尾は上空へと逃げた。そこへ槍がまたも投擲され、九尾の脇腹を掠ってゆく。
バランスを崩した九尾へと、またもメラゾーマの雨。仕方がなしに障壁を唱えながら、足元にいったん力場を生み出し、緊急回避的に集団から距離を取る。
九尾「行きつく暇も――」
コバ「与えない!」
九尾の言葉を遮ったのは、コバ。助走をつけて大きく騎馬が跳び、退避よりも早く追いすがる。
九尾が転移魔法を起動する。しかし、遅い。それよりも熟練の槍技が、僅かに上回っている。
狙うは顔面。そこを潰されては、いかに魔物と言えど、四天王と言えど、生きてられまい。
九尾「しゃあらくさいぞっ!」
爆発的に膨れ上がる魔力の波動。
二回目のマダンテ。
光にコバが、また後ろに控えていた数多の兵士が飲み込まれ、消失していく。
その数、三八一人。
残り一四八!
ビュウ「右手はなくても左手があるっ!」
誰も彼もが倒れ伏した中で、唯一彼だけが走っていた。
力場を大きく踏みしめて、左手で剣を持って。
九尾「な、なにを、貴様、なぜ!」
ビュウ「知るか! 俺を守って死んだダチ公に聞いてくれや!」
彼の背後には、倒れているポルパラピム・サングーストの姿を確認できる。ぼろぼろで、一瞬誰だかわからないほどに、焼かれていた。
ただ、彼の死に顔はとても満足そうで……。
ビュウが剣を振り下ろす。
利き手ではない。体力もない。そんな状態での攻撃は、あまりにも鈍重。しかし、条件は九尾も似たようなものだった。マダンテの反動からいまだ脱していない彼女は、その剣の軌道を見ていることしかできない。
普段ならば無論そんなことはないのだろう。しかし、塔での戦闘、そしてここに来ての戦闘と、彼女は戦いっぱなしだ。相当に疲弊している。
肩口に剣が食い込んで、腕を切断することはなかったが、確かに乳房まで傷が達した。
九尾がぐらつく――踏みとどまる。
ビュウの頭から上を吹き飛ばして、頭部を齧った。
九尾「に、にっ、人間の、分際でぇっ! よくも、ここまでぇ……やってくれたな!」
九尾「見たところ、残り、二百人は、切ったな。ふ、ふはは、もうそろそろ終わりに、しようじゃあないか!」
クレイア「だめですっ! アルスさん!」
唐突な叫びが戦場を劈いた。
「……」
無言である。
誰も彼もが、無言である。
九尾も、兵士たちも、わしも。
クレイアだけが忘我の表情で、さっきまでの疲弊はどこへやら、虚空を真っ直ぐに見つけている。
しかし、今、なんて言った?
アルス、と。
この弟子は言ったのか?
クレイア「……」
たっぷり数秒、もしかしたら十数秒の間を開けて、クレイアは呟いた。
クレイア「アルスさんが、次元の狭間を破って……現世に戻りました」
グローテ「!」
二つの意味で信じられなかった。
一つは、次元の狭間を破るということ。あれはそもそも空間転移の応用、基礎理論の発展途中に見つかったバグを利用する形で――いや、やめよう。ともかく、物理的にも魔術的にも隔離された空間から、逃げ出すなんて。
そしてもう一つは、あの状態のアルスが現世に戻れば、どのような被害を齎すか。
わかったものではない。あぁそうだ。わかったものではないからこそなお恐ろしいのだ。何がどうなるのかわかっていれば対処の仕様もあるものを。
……魔王と化したあやつ相手に、本当に対処の仕様があるかは、甚だ疑問であったが。
九尾は力場に直立したまま、ふん、と鼻を鳴らした。
九尾「よっぽどだな、あのバカは。魔王の力を好き勝手に使っているように見える」
グローテ「それを与えたのは、お前じゃろ」
九尾「その通り、だ。ふん。……ちっ」
九尾は両手を合わせた。その間から、限りなく明るい光の珠が生まれていた。
九尾「まぁ、いい。お前らを殺して、現世に戻ると、しようか。ジゴスパークで、全員、死ぬがいいさ」
息も絶え絶えではあるが、高等呪文を唱える程度の余裕はあるらしかった。反面こちらは頼みの綱である数にすら、最早頼れるほどではない。
しかし不思議と絶望はなかった。なぜなら、九尾が戦闘態勢に入っても、まだ兵士たちは戦闘態勢に入っていなかったからだ。
生き残った兵士総勢一四八名は、全員がわしのほうを見ていた。九尾などには目もくれず。
おかしな話であった。本来戦闘を放棄するはずもない彼らが、戦わないのだ。しかも臨戦状態に入った九尾を目の前にしても。
だが、それが意味することを、わしは理解している。
彼らは国のために戦っている。九尾を倒すためではない。それは過程であって、結果ではないのだ。
だから彼らは戦わない。九尾を倒すことは、既に過程ではなくなった。
国のため。世界のため。今重要なのは、九尾を倒すことではなく……。
笑いが零れる。涙が零れる。
あぁ、眼が、頬が、頭が、熱い!
彼らは九尾よりもアルスを敵と見做したのだ!
世界の秩序を乱す存在だと!
グローテ「九尾」
九尾「……今更命が惜しくなったか? 土下座でもすれば、考えてやらんでもない。こう見えて、九尾は結構、心が広い、ぞ、げほっ、げほっ!」
咽て血を吐く九尾。口の中の血を吐き捨て、口元を拭ってから、続ける。
九尾「それとも、なんだ。部下に裏切られたか?」
グローテ「わしと一緒にアルスを殺そう」
九尾「……は?」
グローテ「世界の秩序を乱す輩を、国に危機を齎す輩を、わしらは常に排除してきた。その業から、最早逃れられない」
九尾「……」
九尾は思案しているようで、もしくは疑っているのか、言葉を拙速で紬ぎはしなかった。
ジゴスパークを握り潰し、訝しむ目でこちらを見てくる。
九尾「その申し出に、九尾が乗るメリットがない」
グローテ「アルスを放置すればお前の食料が減る。それは、お前にとっても都合が、悪かろ?」
一瞬だけ意識が跳んだ。だめだ。もう少しだけ、あと五分でいいから持ってくれ、この体よ。
九尾「そのことにメリットがないと、言っている。九尾一人でも、勇者を」
グローテ「殺せるのか? 本当に?」
九尾の頭部、狐の耳がピクリと動いた。
九尾の頭部、狐の耳がピクリと動いた。
グローテ「残り三本の尾で、魔王と化したアルスに、勝ちきれるか? 念には念を入れて、損はあるまい」
半ば挑発だ。しかし事実でもある。消耗した九尾が、デュラハンすら容易く御して見せたアルス相手に、楽勝できるとは思えなかった。
よくて辛勝、悪くて相討ち、最悪……殺される。
九尾「……九尾が人を喰うのは、貴様らには腹に耐えかねよう?」
グローテ「それくらい、我慢するさぁ」
九尾「おっ――!」
九尾はそれから先を飲み込んだ。言いかけたのは、「お前ら、言っていることが違うぞ」とか、そんなあたりだろうか。
そりゃそうだ。九尾とのこの戦いも、九尾の人食いを阻止することが旗印だったのだ。それを下ろしたつもりはないし、下すつもりも毛頭ない。が、しかし。
グローテ「お前を生かすことで何十人、何百人死ぬかわからんが……アルスのほうが、もっと恐ろしい」
九尾は寧ろお前のほうが恐ろしいのだという眼でこちらを見た。そして、それは多分に侮蔑が含まれている眼の色だった。
小さく九尾の唇が動く。悪魔め、と、そう言った気がした。
その通りじゃよ、九尾。
九尾「今すぐ乗った、というわけには、当然いかぬよ。ただ……ふん。九尾もさすがに疲れたわ。その停戦協定、ここは呑もうぞ」
言質を取った。恐らく九尾は自尊心の高さゆえに、そうやすやす翻言しまい。これでひとまずは負け戦を引き分けに持ち込めたと、そうなる。
しかし、確かに、九尾も言ったが、
……疲れた。
わしは目を閉じる。
――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――
こんな話を聞いたことがあるか?
……なに、大した話じゃあない。それなりに有名で、それなりにありがちな話だ。英雄の噂話。
まぁ英雄って言ったって、名のある伝説のなんちゃら、とか言うわけじゃないさ。ただ、滅茶苦茶強くて、人助けが趣味の二人組。そういうのが出る……いる? んだってさ。
結構あるんだ。鬼神に襲われていたのを助けてくれただとか、暴れ牛鳥の群れを追い返しただとか、そうそう、ドラゴン退治ってのもあったな。……いいじゃねぇか、こういうのは眉に唾つけて聞くくらいがちょうどいいんだよ。
そう、二人組でだよ。軍隊が出るような案件を、たった二人でだぜ? しかも女らしい。あぁ、女なんだよ! どっちも!
胡散臭くはあるけど、だから眉に唾つけとけって言ってるんだよ。どうせ酒の肴なんだからよ。
「いるよ!」
「だって俺、助けてもらったもん!」
「こないだ森で遊んでたら、迷って、そしたらキラーエイプが出てきて!」
「女の人、二人組が倒してくれたんだ!」
「本当なんだよ! 本当に本当なんだってば!」
わかったわかった。わかったよ坊主。
あん? 名前?
「ケンゴ・カワシマだよ!」
坊主にゃ聞いてねぇんだよなぁ。
あー、それで、名前? なんつったっけなぁ。いや、いま考えるわけじゃねぇよ。英雄は名乗らず去る、そういうもんだろ。
……あ、待て待て、思い出した。いやだから考えてないって。作ってねぇって。
そいつらの名前な。
確か、グローテ・マギカとフォックス・ナインテイルズって言ったはずだぜ。
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歩き通しで足が棒のようだ。乳酸の溜まった腿が、脹脛が、硬く張っている。とはいえ休むことはできない。休んでしまえば、それこそ歩きだすことはできなくなるだろう。
惰性でなんとか歩くしかない。誰もがそれをわかっているから、パーティの一人として「休もう」と言い出すことはない。
俺のミスだ。こんなに魔物が増えているとは思わなかった。夜明けとともに森に入って、どんなに遅くとも日没までには抜け切れると思っていたのだ。
それがどうだろう。戦いに戦いを続け、道に迷い、最早現在地点も定かではない。盗賊が鷹の目で調べたところによれば、どうやら森の中腹であることは間違いないようなのだけど……。
中腹。その事実がどっしりと圧し掛かってくる。このままでは森の中で夜を明かすことになる。
魔物の多い森の中で? それはあまりにも恐ろしいことだ。
俺の前を歩く魔法使いの体が、ふらっと横に倒れた。
思わずその体を抱きとめる――あまりにも軽いその体。
魔法使い「あぁ、悪いねぇ、戦士。はは、研究ばっかりしているこの身には、ちょっとばかりきつかったかな」
戦士「ばか! お前、熱あるじゃねぇか!」
魔法使いの腕が熱を帯びている。暗くてわからなかったが、表情はおぼろげで、意識がはっきりとしていないようだった。
戦士「僧侶!」
僧侶「は、はい!」
治癒魔法をかける。が、僧侶にも魔力は残っていない。懸命に何とかしようとするも、逆に彼女が倒れそうな雰囲気だ。
盗賊「戦士、ここは一度キャンプを張ろう。どの道今晩のうちには抜けられない」
俺は二人に視線を向け、うなずいた。そうするしかないだろう。
盗賊「おれは薪を集めてくるよ。お前は二人を守ってやれ」
戦士「……一人で大丈夫か」
盗賊「なに、逃げ足の速さには自信があるさ。それに、お前らには恩がある。黴臭い牢屋から出してもらった礼だと思ってくれ」
どくいもむし、キャットフライ、おおめだま……出てくる魔物はそれほど強くないが、数が膨大だった。心配ではある。が、確かに二人を残していくわけにも、いかない。
サムズアップで答えた。盗賊も返してくる。
戦士「僧侶も休め。いざという時に動けなかったら意味がない」
僧侶「わかって、ます。大丈夫です」
全然大丈夫なようには見えなかった。
戦士「とにかく喋るな」
魔法使い「わたしも、鍛えとく、べきだったかな?」
戦士「お前もだ」
そうするうちに盗賊が返ってきた。想像以上に早い戻りだ……そう思ってみると、彼の腕には薪が抱えられていない。どういうことだ?
戦士「何があった」
魔物でも出たか。いや、盗賊の表情は決して切羽詰まったものではない。寧ろ朗報のようだった。
盗賊「民家を見つけた。って言っても、小屋だけどな。軒先でもいいから貸してもらえるよう交渉してみようぜ」
民家? こんな魔物の出る山奥に?
戦士「……鬼婆じゃあないだろうな」
脳内でしゃありしゃありと包丁を研ぐ鬼婆の姿が想像された。
盗賊は肩を竦めて、
盗賊「さあな。一般人じゃあ、ないだろう。鬼が出るか蛇が出るか……」
戦士「前向きに考えれば、魔物にも手こずらないほどの手練か」
盗賊「このままじゃあ明日の朝を迎えられるかもわからん。ダメもとで行く価値はあると思うぜ」
戦士「……」
盗賊「どうする。リーダーはお前だ。おれはお前に従うだけさ」
魔法使いと僧侶をうかがった。彼女らはこちらの話が聞こえていないのか、うつらうつらとしている。やはりだいぶ疲労が蓄積しているのだろう。
次の朝日を拝めないかもしれないのはわかっていた。盗賊の言うことはもっともだ。
俺は僧侶と魔法使いを、そして盗賊を旅に連れ出した身として、三人の命を最大限守る義務がある。
戦士「よし、行ってみよう」
盗賊「わかった。すぐに場所に案内する」
俺と盗賊はそれぞれ魔法使いと僧侶をおぶり、件の民家へと足を運んだ。
なるほど、確かに民家というよりは小屋だ。炭焼き小屋に近いものがある。
木造二階建て。電気は通っているようで、窓から明かりがもれている。
中に人の気配。会話が聞こえる。一人ではないのか?
一息に吐き出し、扉をノックする。
戦士「す、すいませーん!」
戦士「俺、あ、私たちは旅のものです! 道に迷ってしまいまして、どうか軒先だけでも貸していただけないでしょうか!」
扉の向こうから聞こえていた会話がピタリと止まった。そのまま数秒の沈黙を挟んで、扉がぎしりと、蝶番を軋ませながら開く。
男だった。目つきの悪い、表情の暗い、厭世的な雰囲気の。年齢は二十代の半ばか? それにしては身のこなしが只者ではないように思えて、実年齢の把握が困難だ。
粗末な服を着て、男はこちらを値踏みするように眺めまわす。
男「……四人か」
戦士「あ、はい」
男「旅のものと聞いたが」
戦士「はい、私たちは――」
男「いや、いい。その先は言うな」
男はふと眼をつむった。何かに思いを馳せているのか、わずかに口元が緩んだようにも見える。それもすぐに苦虫を噛み潰した表情になったが。
そうして踵を返す。こちらを振り返って、
男「軒先と言わず、部屋を貸そう。ろくな部屋じゃあないが」
戦士「本当ですか! えぇ、えぇ、全然かまいません!」
まさか、だった。鬼婆なのか? いや、超人的な雰囲気はあるが、魔族でも魔物でもないと、俺の直感が言っている。
男「ただ、こちらのことには詮索しないでほしい。こちらも、そちらのことは聞きたくはない」
ただ泊めてくれるだけ、ということだ。だが、それでも出来すぎである。警戒をするに越したことはないかもしれないが、渡りに船とはこのことだ。
俺たち四人はおっかなびっくり小屋へと足を踏み入れる。
たたきには靴が三つ並んでいて、そのうち二つが女物。大きく一部屋あって、手洗いと台所につながっているのだろう、扉が二つあった。
大きな一部屋――居間の中央には囲炉裏がある。季節がら灰だけで、灯は点っていない。
あまりものはない。本棚が一つあるきりで、作業机も、映像/音声受信機もない。天井からランプがぶら下がっているのが印象的だった。
隅には二階へ上がる階段。会話の相手は二階にいるのだろうか?
男「二階に行ってくれ。二部屋あるが、手前の部屋だ。奥の部屋は……娘、たちの部屋だから、入らないでほしい」
戦士「娘」
思わず鸚鵡返しに尋ねてしまった。父一人、娘二人で、こんな森の中なにをしているのだろうという疑問は当然浮かぶ。が、先程詮索しないでくれと言われたばかりだ。
と、そのとき、どたどたと階段を勢いよく降りる音が響いた。そのたびに壁が軋む。相当な安普請らしい。
現れたのは二人の少女。
一人は大人しそうな少女だった。三白眼で、褐色の肌。それと対照的な白い髪の毛をポニーテールにしている。口元はきつく結ばれていて、こちらを窺うように視線をやっている。年齢は十代後半くらい。
もう一人は活発そうな少女だった。くりくりとした目に、卵のような肌。赤茶色の髪の毛はショートボブ。何が楽しいのか口を半月にして、きらきらした瞳でこちらを見ている。こちらの年齢は十代半ばだろう。
娘?
思わず首を振りかけた。この似ても似つかない、寧ろ鏡映しのように対照的な姉妹が、そして父親とも似ていない娘が、果たして真っ当な家族であるわけがない。そもそも年齢の計算も合わない。
だが、そうだ、詮索はしないのだ。旅先で出会った人々に必要以上に入れ込みすぎる必要はない。俺だってわかっている。
俺たちの目的は旅行などではないのだから。
活発そうな娘「あー! おじさんたち、誰!?」
大人しそうな娘「……誰?」
男「お前らは黙ってなさい」
男「うるさくて済まない。娘だ」
活発そうな娘「トールだよ!」
大人しそうな娘「……インドラ」
二人は名乗って、男に急かされるように二階へと戻って行った。
男の視線が「詮索するなよ」と訴えている。俺たちはそれに応えるべく、足早に二階へと上った。
二階、手前の部屋。そこは確かに男の言うとおりろくな部屋ではなかった。せまいし、汚いし、じめっとしている。虫も出そうだ。いや、これは出るな。
文句は言えないし、言うつもりもない。横になれるだけでどれだけ幸せなことか!
部屋についてラグを敷き、そこへ魔法使いと僧侶を寝かせてやる。二人はすやすやと寝息を立てていたが、時折痛みに顔を顰めていた。
盗賊「ま、戦いっぱなしだったもんな」
森に入ってからだけでなく、旅に出てからの半年間、確かにそうだ。
戦士「俺は、たまに後悔することがあるよ。こいつらは街で適当に過ごして、適当に旦那をもらって、適当に幸せに生きていればよかったんじゃないかって」
戦士「俺が連れ出したりなんかしなければ、ってさ」
盗賊「はっ、今更だな」
俺の心配を吹き飛ばすように、努めて明るく盗賊は笑ってくれた。
戦士「あぁ、今更なんだ」
盗賊「世界は変わった。システムも変わった。軍隊に任せて世界が平和になるのを待つなんて時代じゃ、もうねぇんだよ」
盗賊「それに、そういうタイプでも、あいつらはないしな」
数百人が、数千人が、一度にずらりと並んで殺しあう戦いはもう終わりを告げた。敵はすでに人間ではなくなっている。
ならば自警団でもとも思ったが、そういうことではないのだ、きっと。
戦士「小さな街で平穏に生きることをよしとするタマじゃあなかったか」
盗賊「そういうことだ」
戦争が終わって数年が経った。魔物は増え、軍隊では対処しきれない。あいつらは神出鬼没で、気がつけばその辺に現れてしまうのだから。
国王の判断は迅速だった。すぐに周辺諸国と和睦を結び、軍隊を解散させた。そして軍隊を各地に散らしたうえで、各都市・街・村の自治権を拡大、自衛の体勢を強化するように通達を出したのだ。
王国は小都市の集団から成立する都市国家へとその性質を変えつつある。
ならば、その根源たる魔王はどうするのか。専守防衛だけではジリ貧。
……そのために、冒険者がいる。
何も魔王を倒すことが目的である必要はない。未開地の開拓、魔物の討伐、移住地の確保、冒険者に課せられた役割と期待は様々だ。
兵士を盾とするならば、俺たち冒険者は、旅人は、国にとっての矛というわけである。
あまりにも急激な変化に当初こそ人々は戸惑っていたが、いまでは新たなシステムにも慣れ、そこそこ安定した供給はなされている。
盗賊「……寝るか」
戦士「そうだな」
さすがに俺たちも、疲れた。
剣を握ったまま、俺は壁を背もたれにして、意識を闇へと近づけていく。
雀の鳴き声で目が覚めた。
隣では三人が寝息を立てている。魔法使いが僧侶の胸を揉んでいて、僧侶はそれを引きはがそうとしていた。本当に眠っているんだろうか? こいつは。
盗賊は腹を出して、ぼりぼりと掻いている。こいつもこいつで自由なやつめ。
どうやら無事に朝は迎えられたようだ。が、あまり長居もできない。俺たちの旅路は先が長く、それを抜きにしても、あの男と娘たちに悪かろう。
俺は三人を叩き起こす。魔法使いはまだ熱があるようで、少しばかり辛そうにしていたものの、魔力の回復した僧侶に治癒魔法をかけてもらっているうちに状態はよくなったようだった。
戦士「あの、すいません」
おっかなびっくりと階下へと行き、座禅を組んでいた男へと声をかける。
男は反応こそすれ、声は出さなかった。こちらをじろりと見てくる。
戦士「ありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
男「お世辞はいい。行くのか」
戦士「はい。なにがあるかわかりませんから」
男「そうか」
トール「なになに、もういっちゃうのー!?」
インドラ「トール、うるさい」
トール「なによっ、アタシのほうが普通なんだってば!」
どたばたとモノクロ姉妹がやってくる。俺たちは苦笑しながら装備を確認し、その小屋を後にした。
小屋の入口に手をかけて、もう一度お礼を言う。
戦士「ありがとうございました。部屋を貸してくれなければ、魔物に襲われていたかもしれないと思うと、何と言えばいいか」
男「別にいい」
戦士「最後にお名前を聞かせてくれませんか?」
男「聞かせるほどの名前じゃない」
戦士「……」
男「すまない」
戦士「いえ、いいです。私はダーカス・ソイロンと言いまして――」
男「っ! それ以上を――!」
それまで表情に乏しかった男の顔が驚愕を形作る。
一体どうしたって言うんだ?
戦士「――魔王討伐の旅をしてるんです」
男「――言うな!」
光。
が、俺の視界を焼いた。
きらり、きらりと光る、光の矢。俺はそれを十五本まで数えて、あと数百単位でそれが顕現されたのを理解してから、数えるのをやめた。
点が線となり、俺の体を穿つ。
腕が、腹が、消し飛んでいく。
背後を振り向く余裕はない。ただ、命がなくなっていく気配はあった。
反射的に腰の剣を握る。同時に手首も吹き飛んで、俺は木の葉のようにバランスを崩した。
地面が揺れる。高速で俺へと迫る物体。白い肌と黒い髪の毛の何かは、左手で巨大な戦鎚を握っていて、俺は、
すっげぇ綺麗な装飾だなぁ。
だなんて、場違いなことを考えていた。
―――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――
トール「ね、ねっ! 綺麗に殺せたよ! 褒めて褒めて!」
インドラ「……私も」
俺、は、
……。
溜息を何とか呑み込んで、ぎこちない笑顔で――それすらも出来たかどうかわからないけれど――二人の頭を撫でてやった。
二人は、喜ぶ。
クルルとメイの顔と声と背格好をした化け物は。
いや、化け物だなんて、俺が言うのはおこがましい。
彼女たちを生み出したのは俺じゃないか。
前々から思っていた。なんで魔物は動物で、もしくは不定形で、少なくとも人型をしていないのだろうと。なんで魔族は人型なのだろうと。
皮肉なものだ。魔王になって初めてその意味がわかる。先代魔王よ。いや、歴代魔王よ。お前らは、きっと、
アルス「寂しかったんだな」
人外になってもなお、人とつながりを持ちたかったのだ。
人の形をした化け物になったからこそ、まだ自分は人だと思いたかった。
だけど所詮は化け物だ。化け物は化け物としかつるめない。
世界を救いたかった。戦争のない、争いのない、真っ当な世界にしたかった。
俺が魔王になって、どうやら戦争は終わったらしい。国々は和睦を結び、狙いは俺の殺害にシフトしている。それは万歳だ。万々歳だ。俺の目標は果たされた。俺の夢はかなえられた。
……だけど、どうしてこんなに悲しいんだ。
俺の犠牲なんてどうだっていいはずだったのに。
わかってる。わかってるんだ。
結局、俺は世界のために世界を平和にしたいのではなかった。所詮俺も人間だった。
俺は、仲間のために世界を平和にしたかっただけなのだ。
クルルも、メイも死んだ世界を平和にして、いったいどんな意味があるのだろう?
なーんて。
本当なら俺も死んでしまいたいのだけれど。
トールも、インドラも、魔族である以上、衝動が存在する。彼女たちの衝動は奇しくも同じ衝動だった。俺は何も意図していないというのに。
彼女たちの衝動は、庇護衝動。
彼女たちは、何があっても俺を守る。
それはすなわち、俺に敵対する全てを、完膚なきまでに殺すということだ。
ゆえに俺は自殺ができない。そうでなければとっくに自殺しているものを。
人目を避けて、避けて、避けて、避け続けてこんな森の中までやってきたのに、また人が死んでしまうのか。俺のせいで。俺は死にたくても死ねないというのに。二つの意味で。あぁ、そうだ、二つの障害があるんだ、畜生!
だから、だれか、お願いだから。
俺を殺してください。
四人分の墓を「追加」しながら、小屋の裏手で俺は泣いた。
―――――――――――――――――――――――
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「グローテ・マギカとフォックス・ナインテイルズで」
わしがそう言うと、受付の女性はふっくらとした手で鍵を渡してくれた。108号室。一階の一番隅。それなりに逗留する身としては、端の部屋は居心地の面でありがたかった。それとも、宿屋側が考慮してくれたのだろうか。
受付「宿屋を出る際は鍵をお戻しくださいね」
手と同様にふっくらとした声だった。優しい声音だ。
受付「食事は各自お済ませください。お申し付けくだされば、一応、軽食程度ならこちらで用意もできますけど」
グローテ「いや、大丈夫じゃ」
受付「そうですか。よいお時間をお過ごしください」
にこりと微笑む。わしも思わず微笑んだ。
グローテ「ここの特産品を食べてみたいと思うんじゃが、どこへ行けば食べられるかの」
受付「この地方は土地が肥えていますから、大抵の野菜はとれますね。特産といえば……大豆、でしょうか」
グローテ「大豆」
鸚鵡返しに呟いた。大豆。旅路では節約の日々なので、寧ろ大豆は白米よりも主食に近い。あまり期待しないほうがよさそうだ、などと思っていると、
受付「中でも加工品の豊富さは随一で、きっと見たことないものがたくさんあると思います」
ほほう。もしかしたら、多少期待できるのかもしれない。だなんて上から目線で考えてしまう。
旅路の楽しみは人との出会いと食事である。嘗ての旅から理解していたことだが、最近はそれをよりひしひしと感じていた。
グローテ「で、それはどこに行けば?」
受付「どこでも、ですね。ただ、きちんとした料理となると、それなりに値が張ります」
受付「雑多が気にならないんでしたら、酒場が一番値段と種類のバランスがいいと思いますよ」
きっと酒肴としてのそれが多いのだろう。
わかった、ありがとう。そう言って、「わしら」は宿屋を後にする。
背中に受付が声を投げかけてきた。
受付「お孫さんも、よい旅を」
フォックス・ナインテイルズは――九尾の狐は、むすっとした顔のまま、黙ってわしのあとをついてくるだけだった。
九尾「これだから人間は嫌なのだ!」
開口一番九尾は叫んだ。
わしは思わずぎょっとして、往来の人目を気にしてしまう。幸いにも人はいなかった。
まだこの街には数日、もしくは数週間いるというのに、悪目立ちしては困る。
九尾「この九尾を、卑しくも四天王筆頭たるこの九尾を指して、『お孫さん』とは何たる言いぐさかっ!」
グローテ「仕方あるまい」
努めて九尾に視線を向けないようにわしは言った。
わしの背丈は決して高くはない。曲がった背骨を考慮しても、155前後と言ったところだろう。しかし、九尾の背丈はそれに輪をかけて低い。なにせわしと頭半分の差があるのだ。
自己申告では140あると言っていたが、どうか。まともに背丈を測ったことなどありはしまい。
目立つ耳と尻尾は極力隠してもらっているため、確かに今の九尾は単なる子供にしか見えなかった。それが本人には気に食わないらしい。
泣く子も黙る四天王も、何も知らない人目に付けば単なる子供だ。もちろん内包されている魔力は莫大なものだから、単なるとは言い難いのかもしれない。
そもそも、四天王の肩書にも、「元」の一文字がつくが。
四天王は二人が死に、残る一人も隠居した。最早魔王を筆頭とするそのシステムもない。
ただし、魔王は依然として存在する。どこにいるのかはわからないけれど、九尾にはわかるのだという。
魔王が存在するのは同意だったし、世間一般の了解でもある。最近、とみに魔物の出没のうわさを聞くようになったのだ。
魔の者はどうしても瘴気を生み出す。それは、瘴気に中てられた魔物が増える結果ともなる。限界があるため世界が魔物で満ちることはないが、やはり、人の生活は脅かされつつある。
魔の者と言えば一人、そういえば、わしの隣にもいるが。
九尾「九尾は関係ないぞ」
ぼそりと呟かれた。
九尾「瘴気を漏らさないよう結界は張っている」
グローテ「心を読むな」
九尾「心を読むな、は契約条項には入ってない」
契約条項。それは、わしと九尾が――より具体的に言えば、嘗て敵であった者同士、そして今でも心を許していない者同士が、円滑に旅を進めるために必要な措置。
わしは寝首をかかれたくはなかったし、九尾もそうだ。とはいえ、個人では到底目的を達成できそうにない。魔法的な書面によってしか旅をすることもできないなんて、随分とひねた人間になってしまった。
条項は六つ。
一つ、この契約条項は魔王アルス・ブレイバを殺害するまで継続する。契約の破棄は両者の合意の下によってのみ行われる。
二つ、同行中はパートナーに危害を加える行為は禁止する。
三つ、九尾の人喰いは可能な限り人目につかない場所で行う。また、証拠隠滅も可能な限り行う。
四つ、上記の代償として九尾はわしに三つまで行動を強制できる。
五つ、上記細則。行動の強制はあくまでわしの力で可能な範囲、かつわし自身に危害が及ばない範囲で行われる。
六つ、以上の項目が順守されなかった場合、違反者は死ぬ。
契約条項は有効に、かつ有用に機能している。現時点では、まだ。
ぷんすか肩を怒らせながらわしの前を歩く九尾を見つつ、ぼんやりと周囲を窺う。
広い町だ。しかしそれほど賑わっているとは言えない。畑の面積が広いことが、ある種この街を寂寥としたものに見せている。
のどかであるが、当然道を自警団が歩いている。二人……三人か。練度は高そうには見えない。恐らくここ最近派遣されてきた新兵なのだろう。
システムが変わったのは魔族だけではなかった。人間のシステムも、あの戦争を通して大きく変化を遂げている。
あのあと……塔での一件が全て終息した後、わしらは何よりもまず事態の説明に口裏を合わせることとした。黙っていても調査団は派遣される。そして有耶無耶になった戦争の終着点も現れないわけにはいかないのだ。
わしらがすべきは終着点の誘導だった。理由はどうであれ、わしらと九尾の戦争終結という目論見は一致している。その意味では会話は容易かったというべきだろう。
結論は一時間ほどで出た。
単純である。魔族が戦争の機に乗じて人間を殲滅せんと企み、行動に出た。首謀者は四天王。わし、アルス、メイ、クルルの四人は異変をいち早く察知して、四天王を倒すことに成功した。そういう筋書きだ。
大きくは間違っていない。ただ、生存者がわしとクレイアだけであるという点のみが異なっている。
わしらが塔を出ると、待っていたのは歓声だった。かなりの兵士が倒れていたが、それよりも多くの魔物が倒れていた。
直観的にわしらは悟った。人間は耐え切ったのだと。
緊張の糸が途切れたのだと思う。わしはそこで意識を失って、気が付いた時は王城の医務室に横たわっていた。
医者の説明によるとどうやら十日近くも眠ってしまっていたらしい。隣のベッドではクレイアが既に起きていて、ぼおっと天井を見ていた。
クレイア「魔法の神経が焼き切れちゃったらしいです。魔法使いは廃業ですね」
彼女の第一声がそれだった。一瞬わしのことかと思ったが、すぐに感覚がそれを否定する。
グローテ「……」
わしは何も言えなかった。そうして、わしの目覚めを聞きつけたのであろう大臣がやってきて、車椅子にわしらを乗せ、謁見の間へと運んだのだった。
国王「ごくろうだった」
それが本心か疑うほどに彼のことを信頼していないわけではなかった。ありがたく受けて、しかし社交辞令も面倒だ、こちらから本題に入った。
グローテ「今回の一連の騒動についてですが」
真実と虚偽が七:三の顛末を話す。四天王にわしらが勝利を収めたことに王は――側近のものもみな驚いていたようだが、誰も口には出さない。わしらがここでこうしていることがその証左だと思っている。
一通り説明し終わって、王が「ふむ」と一息ついた。わしは王に言葉を紡ぐ隙を与えない。
グローテ「しかし、魔王が生まれました。四天王の撃破はなりましたが、申し訳ございません、魔王だけは逃がしてしまい……」
国王「いや、いや、仕方がない。そなたらにそこまで頼むわけにはいかない。寧ろ褒美をいくらやっても足りないくらいだろう」
グローテ「隣国との状況は?」
国王「有耶無耶に終わった。両軍ともに被害甚大。すぐさま体勢を立て直し、打って出るつもりではあるが」
グローテ「お言葉ですが、王。どうやら魔王は今までいなかったようなのです。魔王が新たに座したとなれば、魔物の動きも活発になります。それこそ戦争どころではないかもしれません」
国王「……」
国王はこちらをじっと見ていた。思考を巡らせているのだとはわかっているが、疑われているのではないかとちらりとでも思ってしまう。
いや、そんなことはない。九尾の存在もアルスの存在も悟られるはずはない。
国王「わからないことに対して予算と資源を大きくは割けない」
王は短くそう言った。
反論しようとして言葉を飲み込む。現実主義者の発言であった、それは。しかし気持ちはわかるのだ。眼に見えない脅威よりも、眼に見える脅威の威圧のほうが、特に民にとってはより身を焦がす。
王らしい返答であった。そして期待していた答えでもあった。
その言葉を待っていたのだ。
グローテ「でしたら」
三人で話したもう一つ。第二の矢。今後の世界の行く末。終着点。
それを誘導してみせる。
グローテ「皆の力を借りましょう」
旅人構想――もしくは、勇者構想。
軍はなるべく小回りの利くようにして、他国への牽制に用いる。そして魔物の脅威に対しては民間の武芸者を旅人とし、促進、援助する仕組みを作る。
宿屋はなるべく安価で止まれるようにし、村々への立ち入りについても関所をなるべく減らすよう努め、未開の地をできる限り減らしていこうという構想である。
この目的は大きく二つあった。一つは他国、特に隣国に対しての、新しい提案を生む目的である。共通の敵を掲げることは停戦を齎す。恐らく激増するであろう魔物被害とともに、他国もこれに乗らざるを得ないだろう。
そしてもう一つ。
グローテ「わしは無論、この構想の成立に尽力するつもりでございます。そして、うまくいった暁には、旅人として魔王を倒してまいります」
そう、わしが――わしと九尾が少しでも動きやすくなるように。これが第二の目的だ。
実を言えばすぐさま出発してもよかったのだが、重要なのは魔王を倒す仕組みを残していくことである。また、わしらが万が一途中で力尽きたときの保険という意味合いも含まれている。
結論から言えば、王は快い返事をくれた。そうしてわしは勇者構想の責任者となって指揮を執り、二年、システムの構築のために奔走したのだ。
グローテ「長かった」
九尾「ばか。待つこちらの身にもなれ」
グローテ「それでも待っていてくれたのじゃろ。すまんなぁ」
九尾「既に契約は交わしていたからな」
九尾はそっぽを向いた。照れているのか、不満なのか、こちらから窺い知ることはできない。
酒場にはものの数分で着いた。人の声は聞こえない。まぁ昼間から酒を飲むやからも少ないか。今日は天気もいいし、それこそ大豆畑に男たちは出てしまっているだろうから。
マホガニーの扉を開くと、来客を知らせる鈴が鳴った。こじんまりとした店、そのカウンターの奥から、主人であろう口髭の男が手を拭きながらやってくる。
グローテ「やってるかの」
主人「えぇ、うちは食堂も兼ねてますから」
四十名ほど入る店内には、わしらのほかには隅っこで黙々と酒を飲んでいる二人組と、ステーキの肉汁にパンを浸しながら味わう少年の三人しかいない。雑多と聞いていたがタイミングが良かった。
グローテ「この村では大豆がとれると聞いたが、何かいい料理はないか?」
主人「軽食、デザート、いろいろありますが」
グローテ「軽食でよい」
主人「でしたらすぐできるのがあります。お孫さんもそれでよかったですか?」
九尾「孫では――むぐっ」
グローテ「あぁ、うむ、同じものをこいつにも」
九尾「ぷはっ――何をするのだ」
グローテ「騒ぎを起こすな。自然に見られているということだ。問題あるまい」
九尾「それとこれとは別だ。癪に障る」
グローテ「これからも行く先々で問題を起こし続けるつもりか?」
九尾「大丈夫だ、うまくやる。目撃者などださん」
グローテ「そういうことではない」
九尾「わかっている、わかっているぞ。が、しかし、九尾にも魔族の矜持がある。人間どもと一緒にしてもらいたくないのだよ」
九尾「貴様とて蟻と同じ扱いをされたくないだろう?」
グローテ「気持ちはわかる。しかし、お前の目的はアルスだろう。ここで騒ぎを起こせば、それは遠ざかるぞ」
九尾は僅かに視線を逸らし、舌打ちをした。
九尾「あぁ、もう、まったく、人間という生き物はどいつもこいつも、どうして、こう、節穴ばかりなんだ」
噛み締めるように九尾は呟く。どうやら本格的に機嫌を損ねてしまったようだ。ぎりぎりと音がすると思えば、木製のテーブルに爪の跡が五本、きれいについている。
グローテ(なんとか落ち着いてもらわんとな)
怒っているのは空腹だからだ、なんて、そんなうまい話があるわけもないが。そう思いながらもわしは店主に注文をした。
―――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――
九尾「最高の気分だ!」
叫んで、九尾は最後の一つを口に放り込むと、咀嚼をしながら皿を突き出した。わしはそれを無言のままに受け取ってカウンターの主人に頼む。
グローテ「稲荷寿司、もう一つ」
九尾「いやぁうまいな! 人間も少しは認めてやらねばならんか!」
グローテ「口に物をいれたまま喋るな」
九尾「何を言うか老婆。言葉以外でこのうまさを表現できるものかよ! 店主、礼を言おうぞ!」
店主はにこやかな笑みを崩さなかった。これも一種のポーカーフェイスと言おうか。
新たな皿がやってくる。九尾は山盛りに乗ったそれをぽいぽいぽいぽい、まるでお手玉のように口へと放り込んでいく。
わしはなんとか平静を保つので精いっぱいだ。これが、こんな食べ物で、それこそ子供のように喜ぶ魔族なんて……わしがこれまで戦ってきたのは何だったのだ。
四天王序列一位、傾国の妖狐・九尾の狐。
ちょろい。
九尾「何がうまいってこの米を包む大豆の衣よ! なんというんだったか、そう、『アブラーゲ』とかいったか!」
九尾「甘く、しょっぱいこれが大豆とは――いや、中の米も単なる白米ではない。僅かに酸味があって……そして刻んだ生姜が入っている! この歯ごたえと風味が得も言われぬハーモニーを!」
九尾「おかわり!」
グローテ「おい、九尾。うまいのはわかったが食べ過ぎるな。首が回らなくなる」
九尾「なに、金なぞその辺の賞金首の頭を数個、ぽぽんと衛所に放り込んでやれば問題なかろう!」
だめだ、まったくちょろすぎる。前が見えなくなっている。
??「あの!」
と、そのとき、低い位置から声が聞こえた。
見れば小さな女の子がこちらに向いていた。服の裾をぎゅっと握りしめて……恐らくは九尾が近寄りがたかったのだと思うが。
九尾「なんだ、童。九尾は、おっと、フォックス・ナインテイルズは忙しい。あとにしてくれ」
女の子「おばあさんたち、強いんですか? だったら、あの、お願いが、あるんですけど」
女の子の無視に九尾は僅かに顔を顰めた。
女の子は、おおよそ十二、三といったところだろう。外見年齢は九尾と同じくらいだが、尊大な九尾におずおずとしているのを見ると、引っ込み思案なのかもしれない。
いや、これが普通なのか。旅人生活が長かったもので、どうにも普通の感覚というものを忘れがちだ。特に子供心なんて。
孫がいれば……いや、やめよう。センチメンタリズムはいらない。
女の子「宿屋のおばさんと話してるの、聞いちゃって。フォックス・ナインテイルズとグローテ・マギカ。強くて、助けてくれる、ヒーローだって」
九尾「そんなつもりじゃあない」
そっけなく九尾は言った。確かにそんなつもりではない。博愛精神よりももっと打算的で、血なまぐさいものだった。
賞金首を探していたら出くわしたり、森を突っ切った際に出遭ったり。
……九尾の餌のついでであったり。
しかし、過程はともかく、結果だけを見れば随分と多くの人を助けてきた。それでもまさかそんな噂になっているとは……。
グローテ「もうそろ偽名を使わねばならなくなってきたか」
人を助けることに否やはないが、目立ちすぎるのは困り者だ。何せこちらは九尾を擁している。正体がばれれば厄介どころの話ではない。
九尾は問答無用で押して参るだろう。それがまた困るのである。
九尾「九尾は偽名の偽名になる。あほくさい」
九尾「大体老婆、お前は誰彼構わず助けすぎなんだよ。こっちの身にもなってみろ」
それを言われると弱い。人を助けることは九尾の目的ではない。彼女はあくまで共闘してくれているだけで、決してその価値観は共通ではない。寧ろ人間の敵に属している側ですらある。
だが、それでもなお、わしは誰かを助けたかった。アルスがああなってしまった今、もう彼に頼ることはできないのだから。
彼を口実に戦争を終結まで導けたことを、彼は喜ぶだろうか?
だなんて、まったく、この思考が恨めしい。
女の子「あの……」
女の子がしびれを切らして話しかけてくる。一層服の裾を掴む手に力を込めて、眼に涙すら溜めて、じっとこちらを見ていた。
九尾はちらりと横目でそれを見て、稲荷寿司の最後の一個を口に放り込んだ。咀嚼。
九尾「……」
女の子「……」
根競べに負けたのは九尾であった。
九尾「あぁもうわかったわかったわかったよ! キュウビは何も言わないさ! だからその目でこっちをみてくれるな」
その言葉を聞いて女の子はひまわりのような笑顔を浮かべた。
いやまて、わしは一言も助けるだなんて言っていないのだが……助けるけれど、助けるけれども!
子供に甘い顔をしているのだろうか? それとも単にポーカーフェイスが苦手なだけか。
九尾「まったくこのキュウビも落ちぶれたものだ……」
ぼやく九尾。いいことじゃないかとは言わなかった。流石にそれが彼女の望むところではないことくらいわかっているつもりだった。
グローテ「それで」
女の子へ水を向けると、ぽつりぽつり、噛み締めるように話し出す。
女の子「魔女を、倒してほしいんです……」
魔女。魔法使いではなく、魔女。ふむ。
聞かない言葉ではないが、珍しい単語だ。件の問題そのものがそう名乗っているのだろうか。
女の子「あいつは都への隧道付近に住家を構えていて、魔力を得るためならなんだってします。旅人や商人が何度も襲われて……」
女の子「魔物が増えてから大豆を都へ持っていくのにも一苦労なんです。肥料や水だってそうです。強い護衛の人を連れて行かないと、魔物に襲われてしまいます。けど、強い護衛の人を連れて行った時だけ、その魔女が……」
九尾の耳がピクリと動いた。眉を顰め、怪訝な、そして嫌そうな顔をする。
九尾「魔女と言ったな。身体的特徴を教えろ」
少女は質問の意図がわからないと表情で喋りながら応える。
女の子「……変な髪の毛をしてます。白い髪の毛に、赤いブチがまだらにあって」
九尾「ふむ。もうけっこう。わかった」
頷いて、溜息。やはり九尾は何かを知っているようだ。
グローテ「キュウビ、何か知ってるのか」
九尾「多少はな。誤解を恐れずに言えば、旧知の仲というやつだ」
グローテ「魔族か」
九尾の旧知と言えばそうだろう。
九尾「魔の者ではある。が、魔族ではない」
九尾「元は人間よ。図抜けた魔力の持ち主だった。禁忌を侵して、人を辞めた。人ならざる者の領分に足を突っ込んで、あろうことかそこに永住してしまった」
九尾「よく襲われたものだ。そのたび返り討ちにしたがな」
九尾に喧嘩を売るなど並みの度胸と実力ではできないだろうし、何度もということは、そのたびに生きて帰ったということだ。それは猶更生半可な実力ではない。
体が震えた。わしは自らの実力を過信してこそいないが、信頼は寄せている。しかしその『魔女』とやらは、どうやらわしよりも強いのではないだろうか。
グローテ「どんなやつなのじゃ」
九尾「なに、ただの魔力狂だ。乱痴気ヴァネッサ。ヴァネッサ・ウィルネィス。マジックアイテムの収集家でもある」
こともなげに言う九尾。
九尾「あいつにしてみれば、九尾たちは絶好の餌だろうな。探すまでもない、あちらから来てくれる」
グローテ「妙に乗り気じゃな」
九尾「ふん。単なる気まぐれだ。言質もとられたしな」
女の子「あの、それで、お礼なんですけど……」
女の子「わたし、お金なくて、お小遣い溜めて、それでも全然なくて……」
殊勝なことだった。別にわしらは用心棒でも傭兵でもない。もらえるものはもらっておく主義だが、しかし、こんな子供から金をもらうのも気が引ける。
と、ことんと音を立てて、白い皿がテーブルに出された。上には山盛りの稲荷寿司が乗っている。
店主「……」
黙って去っていく。
もしかして、いくらでも食べろと、そういうことか?
女の子「だ、だめです! 悪いです!」
店主「……」
店主はにこりと笑った。町のことだから、嬢ちゃんだけには苦労を掛けさせないよと、言っているように思えた。
九尾は山盛りの稲荷寿司、そのてっぺんの一つをつまんで、口の中へ入れる。
九尾「足りんな。あと五皿はもらわないと――腹が減っては戦もできん」
――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――
五皿をぺろりと平らげて、九尾は満足げに酒場を後にした。街道を歩くわしらの前では女の子がこちらをちらちら見やりながら歩いている。
道案内を申し出た彼女を断るはずもなかった。何せ異郷の地だ。先導者がいるに越したことはない。しかし問題は、このあと起こるであろう戦闘に、女の子を巻き込んでしまわないかということ。
魔女がどれほどの手練れかはわからないが、実力者ではあるだろう。わしの防御魔法で守り切れるか。
町の守衛に挨拶をする。守衛が心配して女の子に声をかけるが、事情を説明すると守衛ははっとした顔をしてこちらを一瞥したのち、敬礼して見送ってくれる。
……やれやれ、知らず知らずのうちに噂ばかりが独り歩きしているんじゃないか?
九尾「はっ、九尾たちにも箔がついたものだな」
グローテ「偽名を使えと」
九尾「こんなに有名になっては寧ろ偽名を使うほうが面倒くさいわ。どうせ誰も九尾が四天王だとは思わんだろう」
確かに、こんな矮躯の持ち主が四天王だと誰も思わない。まるで詐欺だ。
グローテ「……好きにせい。とりあえず、次の町では名前を変えよう」
九尾「それがいいな。人目は嫌いだ」
と、ふと思ったことを聞いてみる。
グローテ「お前、人の名前、憶えられたんじゃな」
九尾「は?」
グローテ「魔女。乱痴気ヴァネッサ……ヴァネッサ・ウィルネィス? お前、わしの名前も覚えとらんじゃろ」
九尾「人はどいつもこいつも同じに見える。でっかいか、ちっさいか、男か、女か、それくらいだな」
九尾「魔女は、まぁ見てくれがな。白髪に赤いぶちだ。自然と印象にも残るさ」
九尾「老婆、お前だって、緑色の犬がいたら流石に区別はつくだろうよ」
蟻の次は犬か。まぁ九尾にとってはしょうがないのかもしれない。実力があまりに違いすぎるのだから。
既に山道を歩いているわしらであった。とはいっても険しくはない。林の中の坂といった具合である。勾配もそれほど急ではないが、老体には堪える。身体強化の魔法をそっとかけた。
女の子「まっすぐ行くと林の中に隧道があります。商隊が都までの近道で使うんです」
木々が光を遮るが、鬱蒼という感じでもない。行楽に最適な近所の山、そんな雰囲気が漂うばかりで、決して人外の住処があるようには思えなかった。
ざあぁっと風が吹いた。生ぬるい風だった。
特筆すべきはその臭い。
九尾は鼻をひくつかせ、乾いた笑いを零す。
九尾「臭うぞ。あいつめ、どれだけ魔力を貯めこんだんだか。ここまで漏れてきている」
これは確かに人外の臭い。
どぶ臭くて、粘っこい、怖気の走る臭いだ。
ざざざ、ざざざざざ。
木々が揺れる。葉が揺れる。
わしら三人を中心として、明らかに異様な風がぐるぐると回っている!
女の子は恐怖で動けていない。いつでも防御魔法を展開できるように符を準備し、わしと九尾は周囲へとにらみを利かせる。
風が止まった。
上空から何かが降ってくる。
いや、何か、だって? 決まってるではないか!
わしらはすぐさま反応する。九尾はイオナズンを、わしはメラゾーマを無詠唱で展開、即座に降ってくる『ソレ』に放った。
同時に片手で符を破り捨てる。内包されていた防御魔法が展開され、女の子を包む。
??「うんまそーっ!」
黒い何かが伸びてきた。
それの正体が黒いシルクの巻かれた両腕だと気付いた時には、既にメラゾーマとイオナズンは――そう、爆発そのものであるイオナズンでさえも――ぐわし、と、
グローテ「掴ん――っ!?」
ぎらりと鋭い犬歯が見える。
魔法が二つ、血のように赤い口腔へと吸い込まれていく。
僅かに見えた口内は、まるで髪の毛のようであった。赤と白。鮮烈なくらいのそれが目にまぶしい。
咀嚼、そして嚥下。
さらには落下。
九尾の背中に覆いかぶさるように一人の女性が倒れていた。体格から見れば年齢は二十代の後半、立派な成人女性のそれだ。しかし忘れるなかれ、こいつは魔女。何百年生きているかわかったものではない。
白い髪の毛は腰まであり、赤いまだらが全体に点々と滴っている。その紅白のコントラストが一層人並み外れた感を演出し、わしはすぐさま理解した。
グローテ(こいつはイカれてるっ!)
根拠などはどこにもない。乱痴気ヴァネッサ。なぜ彼女がそう呼ばれているのかをわしは知らない。知らないが――わかる。
確かにこいつは、乱痴気に違いない!
ヴァネッサ「九尾!」
ヴァネッサ「九尾九尾九尾ッ! 会いたかったよぅっ! 久しぶりだねぇいつぶりかなぁ!」
涎すら垂らしながら、ヴァネッサが九尾の頭に手をやる。金色の稲穂のような髪の毛。九尾は髪越しに敵を睨みつけている。
既に九尾も臨戦態勢だ。獣の尾と耳を隠すことすら止めて、全身に魔力を迸らせている。
無論置いてけぼりを食らうわしではなかった。人差し指を目の前の紅白に向けて、言葉をかけるより先に火炎弾を放つ。
ヴァネッサ「邪魔よ、おばあさん!」
わしと紅白の間に立ちはだかる黒い何か。途端にあたりが翳り、瘴気に胸が軋みを上げる。
悪魔であった。
九尾の上に乗るヴァネッサの傍らに一冊の本が落ちている。高さが腰ほどもある巨大な本だ。それは中のページが開かれており、邪悪な気配を隠しもしない。
魔女――悪魔と契約した者!
九尾の言葉が思い出される。乱痴気ヴァネッサはマジックアイテムの収集家だと。
あの本の巨大さと悪魔の存在を考えるに、恐らくあれはギガス写本。悪魔の絵が描かれた最大の聖書。天使の代わりに悪魔を使役しているのは、本の持つ力というよりは、そこから得たイメージなのだろう。
ヴァネッサ「九尾九尾九尾――!」
ヴァネッサが叫ぶ。
だめだ、間に合わない!
九尾「うるさい」
ごつん。
鈍い音がした。
なんてことはない、九尾がヴァネッサの頭を殴っただけだ。
ヴァネッサ「ほんぎゃあ!」
情けない声を上げながらも彼女は九尾から手を離さない。うつぶせの九尾をどうにかして仰向けにしようと力を込めていた。
九尾に頬擦りしようとするヴァネッサと、何とかして魔手から逃げようとする九尾。不思議な構図がそこにはあった。
お互いが真面目も真面目、大真面目なのは伝わってくるのだが、どうにも緊張感に欠ける。先ほどまでのわしの焦燥を返してほしい。
グローテ「襲われるってそういうことか」
ヴァネッサ「一番簡単な魔力の授受は体液の接触でしょ」
こともなげに言われた。事実ではあるが、確かにこいつは魔女だった。そう思わせる口ぶりだった。
ヴァネッサ「さぁ九尾! わたしにあなたの愛液を飲ませて!」
グローテ「変態じゃ……」
九尾「昔から、こういう、やつだっ……」
九尾「いいから見てないで引きはがせっ!」
ごつん。怒りの鉄拳で今度こそヴァネッサは吹き飛んで行った。
ヴァネッサ「ようしわかった、キュウビを倒して組み敷けばいいのよねっ、いつもどおりだわっ」
すぐさま立ち上がる。顔についた土を払って、にやりと笑った。
一般人なら顎関節ごと下顎を持っていかれそうな拳を受けて、なお平気そうにしているのは、確かに実力者なのかもしれなかった。
九尾「うるさい」
しかし九尾の動きのほうが早い。捕まえようとする悪魔の腕をすり抜けて、たやすくヴァネッサへ逼迫、震脚を経て掌底を鳩尾に叩き込んだ。
ヴァネッサ「ほんぎゃあっ!」
ヴァネッサ「吐く! 吐くぅううぉおぼええええええぇ……」
九尾「今九尾たちは忙しい。お前に聞きたいことがある」
ヴァネッサ「えー! ずるい、わたしって殴られ損じゃない!」
九尾「お前を倒して組み敷いてもいいんだぞ」
ヴァネッサ「あ、それも素敵。抱いて!」
九尾の眼力をものともしないヴァネッサだった。
九尾は「ふむ」と頷いて、
九尾「首から上だけあれば十分か」
恐ろしいことを言う。
ヴァネッサ「わかったわよぅ。一晩だけでいいから! ね?」
九尾「……」
グローテ「……好かれておる、ようじゃの」
九尾「殺し屋に好かれてるようなものだぞ。こいつに好かれても嬉しくはない」
なら誰に好かれればうれしいのか――もちろんそんなことは聞きやしないけれど。
ヴァネッサ「力ずくだとさすがにわたしも抵抗するわよ。このあたり一帯を焦土に変えてやるんだから!」
ヴァネッサ「九尾が何を聞きたいかわかんないけど、情報はロハじゃありませんから」
噛みつかんばかりのヴァネッサ。彼女の足元にはギガス写本があって、いつでも悪魔を召喚できる体勢になっている。それに恐らく、まだいくつものマジックアイテムを隠しているに違いない。
この辺り一帯を焦土に変えてやるという発言は、あながちはったりではないはずだ。出なければすぐに九尾が動いているはずだから。
グローテ「……最悪すぎる女じゃな」
実力のある本能が最も厄介だ。
ヴァネッサ「おばあちゃんもかなりヤバイ系みたいだけど、残念! わたしはロリコンなのよ!」
グローテ「最悪すぎる……」
思わず腹から唸ってしまった。
さっきのわしの警戒を返せ。
九尾「九尾たちが知りたいのは、ヴァネッサ、お前、こういう男を見ていないかということだ」
九尾の指先から光が跳んで、ヴァネッサの体内へと吸い込まれていった。恐らく記憶の共有なのだろう。
そうか、九尾はだからこの魔女に出会いに来たのだ。アルスの手掛かりをつかむために。
ヴァネッサが他人を襲い、魔力を奪っているというのならば、莫大な魔力の持ち主であるアルスのことを知っていてもおかしくはない。
ヴァネッサは僅かに眉間にしわを寄せて記憶を掘り返しているようだった。が、すぐに大きく呼吸をする。
ヴァネッサ「……知っているにしろ知らないにしろ、だから言ってるでしょ。ロハじゃあ情報はやれないわよ、って」
九尾「良心というものはお前にはないのかよ」
嘲笑するように九尾が言う。儂にしてみればどっこいどっこいだと思うのじゃが……。
受けて、ヴァネッサも流すように笑う。
ヴァネッサ「魔力のためならなんだってするわよ。何たって、魔女だからね」
一瞬だけ二人の間に殺意が膨れ上がる。それを感じて水を差す。
グローテ「で、どうする九尾」
九尾「……こいつと寝るなどありえない。踏み潰す」
一歩九尾が足を踏み出した。半身になって、右拳を握りしめる。スカラとピオラ、バイキルトの魔方陣が四肢にまとわりつくように展開する。
途轍もないその迫力に、けれどヴァネッサは怯むことなく、唇をぺろりと舐めた。
ヴァネッサ「返り討ちして好き勝手ね!」
両者が同時に地を蹴った――
グローテ「待て」
瞬間、わしは大急ぎで植物魔法を詠唱、二人の体を拘束した。
二人の加速に蔓が何本も音を立てて弾ける。が、ぎりぎりなんとか保ってくれたようだ。
ヴァネッサ「ふがっ!」
ヴァネッサ「な、なに邪魔すんのよぉ」
グローテ「多少は弁えろ。その子を巻き添えにするつもりか」
わしは背後で震えている女の子を指さした。人外どもの殺気に当てられ、すっかり腰を抜かしてしまっているようだ。ともすれば失禁しかねない。
二人が同時に女の子を見る。
女の子「ひぃっ」
どうやらすっかり怯えてしまったようだ。わしらの話は聞いていても、流石にここまでとは思っていなかったらしい。まぁそうか。
九尾「九尾は別に構わないんだが?」
グローテ「わしは構う」
ヴァネッサ「わたしは構わないけど」」
九尾「わしは構うって言ってるじゃろうが」
ヴァネッサ「あなたの言うことを聞く必要はないわ」
九尾「まぁいいだろ老婆。九尾たちは先に進めるし、人間も喰えて、万々歳だ。最近は若い女を喰えていないしなぁ」
あっけらかんと二人の人外は言った。価値観の差という言葉だけでは言い表せない溝がわしには見える。
何とか声を振り絞る。
グローテ「それでもだ」
折れないわしに業を煮やしたのか、軽々蔦を引き千切って、九尾はこちらに向き直る。
九尾「老婆、貴様は九尾に命令できる立場か?」
グローテ「命令じゃない。お願いだ」
本心だった。九尾と争っては決してわしには勝てない。そしてここで女の子を殺害し喰うことは、契約の内容から外れていない。
九尾には悪いことを言っているつもりは多分にある。が、それでもわしは……。
いや、おためごかしはやめよう。わしは正直、この女の子に、メイの面影を見ているのだ。
九尾「……」
グローテ「……」
九尾「……仕方ない」
ヴァネッサ「九尾ッ!?」
驚いた声を出す魔女に対し、九尾は振り向きすらせずに一喝する。
九尾「黙れ魔女! この九尾がよいといったらよいのだ!」
九尾「……今宵、丑三つ時にここでだ。文句は言わせん。お前が勝てば、好きにしろ。九尾が勝てば、情報をもらう」
ヴァネッサ「……強引な九尾も、素敵」
ヴァネッサをまるきり無視して、肩を怒らせながら九尾が来た道を戻っていく。途中で立ち止まって、
九尾「行くぞ、老婆。そこの娘も。今回は気まぐれで喰わないでおいてやる」
九尾の考えはわからない。わしはまだ、この魔族のことをちいとも理解していないのだと理解した。
女の子に手を差し出すとおずおずとってくれた。子供体温は高い。体も、何より心まで冷え切ったこの老婆には、罪悪感すら想起させる。
振り向いた先では既に魔女も姿を消している。わしはため息を一つついて意識を切り替え、歩き出した。
勇者「王様が魔王との戦争の準備をしている?」【パート5】
に続きます。