関連記事
勇者「王様が魔王との戦争の準備をしている?」 【パート1】 【パート2】
―――――――――――
振動で少女は目を覚ました。
カーテンの隙間から朝日が漏れ、差し込んできている。名前のわからない鳥の声も聞こえてきた。
どうやら昨晩は泣き疲れてそのまま眠ってしまったようだ。顔を見ればきっとひどい顔になっているのだろうと少女は思う。
部屋の隅には見るからに上等そうな化粧台が置いてある。少女はそもそも化粧などしたことがない。それに、泣き腫らした顔を見るのも嫌なので、見なかったことにしてベッドから立ち上がった。
いい部屋で、いい空気である。ここが敵地ではないのならば最高だっただろうに。
少女「地震……?」
やはり、床が揺れている。自らの呟きを、少女はすぐに撤回した。揺れが地震のそれとは違う。
地震ならば継続した揺れのはずだ。しかしこの揺れは、短く、断続的で、しかも存外に強い。
まさか塔が崩壊することはないだろうが、いったい外で何が起こっているのか。
少女は思わず早足になってカーテンを開いた。
あたり一面の森が広がっている。深い深い森だ。葉の色も、緑というよりは黒に近い。
視線を下せば河川が見えた。それを追っていくと、はるか遠くに見える山々と、その中間地点あたりに城壁が見える。
隣国にはあのようなものを建造する文化はないし、かといって少女の国にもああやって都市を防衛するところは少ない。共和国連邦か、宗教公国か、どこかだろう。
そこまで考えて少女は随分と遠くに連れ去られたものだと感じた。同時に、自分が諦念を覚えているということもまた。
窓からは一体何が起きているのかを把握することはできなかった。窓の向きが違うのだ。
部屋から出られないか――そう思ってドアノブを回すが、やはり回らない。
少女「当然か……」
厳密な意味での人質ではないにしろ、少女が囚われの身であることに変わりはない。そう簡単に出してもらえるはずもなかった。
そうしている間にも断続的に揺れは続いている。
気になる。気になるが――今の彼女にできることなど何一つない。
そしてそれが無性に彼女を刺激するのだ。
彼女の劣等感を。
お前にできることなど何一つないのだと言われているようで。
??「どうした」
突然の声に振り向けば、漆黒の甲冑が立っていた。首から上のないその姿は、塔の主、デュラハンである。
少女は警戒こそすれど、彼が見境なしに襲ってくるわけではないと理解していた。一定の距離を取りながら尋ねる。
少女「何か、起こってるの?」
デュラハン「あぁ、そこで戦があるらしい」
少女「いく、さ?」
たった三文字の言葉だのに、頭にすっと入ってこなかった。
デュラハン「二つの王国がぶつかっているようみたいだね。名前は……何と言ったかな。俺はほら、この通りだから、どうにも物覚えが悪くて」
緊張をほぐすつもりの冗談だったのか、デュラハンはにこやかに言ったが、少女としては気が気でなかった。
なぜなら、王国はこの大陸に二つしかないから。
少女の故郷を含む王国と、隣国。
それらが、戦争をしている。
理解できなかった。
確かに危険な雰囲気はあった。どちらの国も旱魃による凶作で、食料が足りなくなっている。鉱山や水資源の小競り合いも、最近は多い。
それに輪をかけた魔族の活動の活発化。地力を確保するためには合法、非合法問わない成長戦略がとられていたとも聞く。
だからこそ少女たちは魔王を倒すために出たのだし、勇者たちもそうである。
が、王城の中にいてなお、少女はそんな話を聞いたことがなかったし、予感もなかった。密かに準備を進めているという噂はあったものの、いったい何が火をつけたのか、判然としない。
無論少女は知らない。アルプが王城にてしでかしたあの一件が、王の口実として掬われてしまったのだと。
少女「まだ、アタシと戦いたいの?」
デュラハン「もちろん!」
ご機嫌にデュラハンは言った。
デュラハン「……と、言いたいところだけど、もうくたくたでね。いや、楽しかった。だけどやっぱり、疲れるもんは疲れるもんだ」
この異形の者が何を言っているのか少女には皆目見当がつかない。ただ、デュラハンが至極機嫌がよいのだな、ということは伝わった。
少女はかねてから疑問に思っていたことがあった。それは、魔族と魔物の違いについてである。
人間の中では魔族は魔物の上級としての扱いをされている。それはつまり、智慧の有無を指している。具体的には意思の疎通、ある程度の将来を見通した行動などが含まれる。また、純粋な戦闘力も。
その差は一体どこで生まれてくるのか。少なくともデュラハンをはじめとする四天王が、瘴気に侵された野生動物と根を同じくするものだとは思えなかったのだ。
デュラハンには喜怒哀楽がある。意思の疎通もできる。ジョークを介し、好む。自らの嗜好を理解したうえで存在している。そんな存在がいったいどこから生まれるのか。
人間のような生殖をするとは、どうしても彼女には思えなかった。血脈の存続を目的とした機能がそもそも備わっているようには見えない。
デュラハン「どうかした?」
少女「……妙に人間臭いんだな、って」
少女はデュラハンが所謂「悪人」だとは思っていなかった。自らの戦闘欲求を満たすために人身を誘拐するのは確実に「邪悪」な行いであるが、それでいて彼はどこまでも紳士的であったから。
少なくとも少女のその認識は、彼女にデュラハンとの会話を成立させる程度には警戒心を解かせていた。
デュラハン「人間臭い、人間臭い、か」
デュラハンは得心が言ったような笑みを浮かべている。
デュラハン「ま、それはしょうがないだろうね。俺たちは魔族だから」
少女「魔族だから、どうなの」
デュラハン「人間がどう分類してるかわからないけど、俺たちが使う『魔族』ってのは、魔王様から直々に生み出された存在のことを指してる」
デュラハン「種族ごと生み出すこともあるし、単一の存在として生み出すこともあるね」
少女「……」
いつの間にか少女は黙っていた。もしかすると、自分はかつてない情報を手にしたのではないか、魔族研究者が苦心しても手に入らない情報を、いともたやすく手に入れてしまったのではないかと思ったからだ。
デュラハン「それにしても」
デュラハンは器用に鎧の指を鳴らした。いつの間にそこにいたのか、子供程度の大きさの妖精が、部屋の隅でかしこまっている。
デュラハン「俺は疲れた。ひと眠りするよ。ウェパルに負けたのは悔しいけど――楽しかったなぁ」
少女「せっ、戦争って、どういうこと」
部屋を出ようとするデュラハン相手に少女は慌てて尋ねた。ここ数日で激変してしまった世界。彼女だけがそこから取り残されている。
それが怖いのだ。
肥大化する自尊心。誰だって自分が特別な存在でありたいと願うし、誰かにとって――もしくは世界や社会にとってかけがえのない存在でありたいと願う。それはちいともおかしなことではない。
人間の思春期にはありがちだという現象だ。だが、ゆえに根源的なものである。承認欲求はいつだってどこにだって付きまとう。
「ここ」にいる理由がほしいのだ。誰かとつながっている実感がほしいのだ。こんな自分でも生きていいのだと、存在してもいいのだと、誰か太鼓判を押してくれ!
と、思う。誰が? 別段彼女に限らない、世界中の人間が。
今まではそんなことを少女は思わなかった。彼女の世界は故郷の村で、家族と防人を務めていれば十分満足だったからだ。そこでは、彼女は確かに世界を守れていた。
しかし世界の外には更なる大きい世界が広がっている。そこへと足を踏み出したのは彼女の意思だ。その選択を彼女は後悔したことはなかったし、これからも後悔することはないと感じていた。
それでも現実は彼女を苛む。彼女は何も守れていない。そして、守れないことを正当化できるだけの論理も、無恥も、持っていない。
そんなことは無視してしまえばいいのだと心無い人間は言うだろう。そして彼女は言うのだ。無視できるものならしたい、と。
そうだ、あいつが悪いのだ、と彼女は思った。全てあいつが悪いのだ。全てあいつが悪くて、あいつのせいで、あいつがいなければこんな弱さを感じることもなかったのだ。
弱さを認めて、見つめて生きるなんて、そんなことはできない。
それだけが存在意義だったのだから。
何に縋り付けばいいというのだろう。誰がこんな自分の手を取ってくれるのというのだ? 中途半端にしか人を救えない、こんな半端者の手を。
思わず伸ばしてしまった手を思わず引っ込める。敵に対して手を伸ばすだなんてありえないことだ。考えられないことだ。
デュラハンは少女の瞳を見つめていた。それに気が付いて、少女は慌てて視線を逸らす。
デュラハン「……戦争のことは、俺にはわからないんだ。あの二人以上に強い存在がいるとも思えないし、興味はないね」
少女「だったら、早く戦って。あなたが満足するまで戦うから。だから、早くアタシを外に出して。戦争なんて放っておけない」
デュラハン「……」
デュラハンは無言のままに踵を返す。
少女「ま、待ってよ!?」
デュラハン「今の御嬢さんには戦う価値なんてない。参ったね。鈍った心じゃ誰も切れないよ」
そのまま音を立てて扉が閉まった。がちゃがちゃとドアノブを回すが、開かない。それはそうだ。監禁なのだから。
少女「待ってよ……」
少女「待って!」
そのままぺたんと地面に座り込む。なんで? 頭の中はそれでいっぱいだった。戦う価値なんてないと、なんで言われてしまったのか。
戦争に行かなければいけないのに。
この手で誰かを救わなければいけないのに。
少女「うぅううう……」
喉の奥から嗚咽が漏れる。少女は歯を食いしばるが、体の奥底からこみあげてくるものは到底堪えきれるものではない。
もしも、もしも自分が祖母のように強かったのなら、きっと何も悩む必要はなかったのだろう。誰かを守れないことに苦悩するなんてことは無縁の生活がおくれたのだろう。
しかし、現実として、自分は弱い。弱すぎる。
満足に誰かを守ることもできない、ちっぽけな人間だ。
少女は、けれど、知らなかった。彼女の祖母、老婆の苦悩を。
弱き者には弱き者の、そして強き者にだって、強き者なりの苦悩がある。彼女はそこにまで思い至らないが、それによって彼女が愚かだと断定するのは早計だろう。
少女「……!」
まとも地面が揺れた。どこかで、こうしている間にも人が死んでいる。自分は何もできない。それがもどかしくてもどかしくて、少女は思わず絨毯に爪を立てる。
少女「アタシは、無力だ」
何もできない。誰にも認めてもらえない。それはそうだ、何もできないのだから。
何かができれば、誰かに認めてもらうことだってできるだろうに。
あいつのように。
勇者のように。
思わず少女は自嘲が浮かんでいるのに気が付いた。嗚咽は止まらない。涙も止まらない。それでも口元は歪んで口角が上がる。
あまりにも愚かしかった。愚かしくて、おかしかった。これではまるで道化師ではないか。出口のない網の中でもがき続けるさまを誰かがどこかで笑って見ているのだ。
少女「なに見てるのよ、アンタ」
部屋の隅でたったまま微動だにしない妖精を見て、少女は不愉快そうに顔を歪めた。
妖精「マスターよりあなたの周りの世話を仰せつかっておりますので」
少女「アタシは客人ってわけ? さっきのアンタの主人の態度、見た?」
妖精「マスターはあなたを認めていらっしゃいます。機会を待っているのです」
少女「は! 認める? ふざけんじゃないわよ!」
少女はミョルニルを抜いて壁へと叩きつけた。壮絶なる破壊力でも壁は傷一つついていない。
少女「おべんちゃらはいいのよ。こんなアタシに何ができるっていうの」
少女「戦うことしかできないアタシが! 戦っても意味がないんだっていうなら! アタシに意味なんてないでしょう!」
妖精「申し訳ありませんが、あなたのおっしゃっていることが、妖精であるわた」
妖精の肩から上が吹き飛んだ。光る粉を霧散させて、妖精の姿が溶けていく。
ミョルニルを振りぬいた少女は、「は」と小さく顔を歪めた。
答えを持たない相手と会話をしても無駄だと判断したのだった。
手の中にずしりと重いミョルニルだけは、決して彼女を裏切らない。彼女はその重みだけを信じていた。自分すら信頼できない中、確かなものはそれだけだった。
こんな自分に何ができるのだろう。
人を殺すことしかできない人間に。
絨毯の上に横になった。体を起こす気力すらもない。
何をしても全て無駄なのだという確信があった。戦争は起こった。自分は塔に囚われている。今更できることなどない。そして、戦争にたとえ出陣したとしても、人を殺すことしかきっとできないに違いない。
救うことすら中途半端未満にしかできない、愚か者なのだ。
掬い上げようとした命は指の隙間から溶けて流れ出していく。手のひらに残るのは、救いきれなかった命の残滓ばかり。目に映るのも、また。
何もできないこの手を誰か取って、お願いだから。
それができないなら、いっそアタシを殺して。
こんな無力さを味わうなら、死んでしまったほうが幾分かマシだ。
こんなに辛いのもあいつのせいなのだ。
勇者のせいなのだ。
だって、だって、だって!
だって!
少女「なんで――!」
少女の言葉の先を掻っ攫っていったのは、耳を劈く爆裂音。そしてその音は確かに階下から聞こえてきていた。
少女(砲弾?)
少女がそう考えたのも仕方がない。なぜならすぐそばでは戦争の音が聞こえてきていて、明らかに森の中で必死の塔は異質だ。ここが狙われたとしてもおかしくはない。
けれど、爆裂音はそれにしたってすぐ階下で聞こえていたのだ。少女が囚われているのが何階かはわからないが、景色から鑑みても、三階より下ということはない。塔の中に砲弾が着弾するなんてことは、恐らくあり得まい。
少女「どういうこと……?」
これがイレギュラーであることは想像に難くない。その証拠に、扉の向こうの恐らく廊下では、魔物の唸りや人語が飛び交っているからである。
侵入者なのだと少女が判断するのはすぐだった。
「ここが四天王、デュラハン様の住まう塔だと知ってか知らずか、どのみち命知らずなやつめ!」
「実に。首と体を切り離したうえで、デュラハン様に献上しよう」
「そうだな。どうやらお疲れのご様子でもある。邪魔をさせぬ」
扉越しにそんな会話が聞こえてきたものだから、少女はまさしくその通りだと思った。必死の塔に攻めてくるなんて、命知らずというか、そうでなければ最高に不幸なやつだ。
爆裂音。
どうやら順調に侵入者は突き進んでいるようである。なるほど、流石に単なる雑魚ではないようだ。でなければここまですらたどり着けなかっただろう。
扉の向こうは次第に騒然としてくる。どうやら侵入者はたった一人で、それだのにざくざくと向かってくるのだから当然だろう。
少女「ま、アタシには関係ないことか」
もうどうにでもなってしまえばいいのだ。世界も、この身も。
そして、その考えがあまりに楽観的過ぎたことを、少女はすぐに身をもって知ることとなる。
部屋の壁が大きく吹き飛んだ。
あまりの大きな破壊に、少女は思わず両腕で身を守る。土塊や木材、砂埃が部屋中を満たす。
こんな状況でもミョルニルを握り締めているのが悲しいサガだ。
??「やーっと見つけたぞ、この野郎、迷惑掛けやがって」
聞きなれた声。大嫌いな声。気に食わない声。
少女「なんで……」
なんで、アンタがいるのよ。
その言葉を少女は飲み込んだ。飲み込まざるを得なかった。
薄れる煙の中に見えた勇者の姿は、なんで生きているのかわからないくらいの重傷だったから。
いや、勇者は死なない。死んでも生き返るという意味で、彼は不死だ。だからそんなことを心配する必要は、本当ならばないのだ。少女だってそれはわかっている。
それでも痛みは感じるだろう。気を失ってもおかしくないのに、勇者は立っていた。
左腕の肘から先がない。
左肩が大きく噛み砕かれている。
右脇腹に大きな穿孔があって、向こうの景色が見える。
剣を握る右手も、親指と人差し指、そして薬指だけがあって、中指と小指はあらぬ方向にひん曲がっていた。
脚こそは両方健在だが、酷く焼け爛れている。鮮やかな皮下組織の桃色が痛々しい。
外耳も両方失われていて、そこから垂れた血液が頬を真っ赤に濡らしている。
右目も潰れていた。縦に一本、大きな切り傷が走っている。
勇者「ここに来るまでに3Lvくらいアップしたわ」
少女「そっ、そういうことじゃないでしょぉおおおおっ!?」
彼の背後に迫る敵影。思わず体が反応した。
少女は跳ね、魔物を数匹まとめて砕き飛ばす。
少女「アンタなんなの、バカじゃないの、なんで一人で、こんなっ、アタシ、アタシなんか、アタシなんて!」
勇者「ばあさんと狩人は、よくわからん。はぐれた」
少女「はぐれたって」
勇者「デュラハンと戦っててな。俺だけ死んで、まぁいろいろとな」
少女「ここがデュラハンの住処よ!?」
勇者「あ、やっぱりか。どいつもこいつもデュラハン様が、って言ってたからな。そうなんじゃないかとは」
少女「なんでそんな軽い反応なのよっ、アンタはっ!」
勇者「いやーなんていうかさぁ、もう笑うしかねぇって感じ?」
少女「感じ? ってアタシに聞かれても……」
勇者「ま、お前に会えたからいいや」
少女「は、はははは、はあっ!?」
勇者「帰るぞ」
勇者は剣を鞘に納めて少女に手を伸ばした。
手。
少女は思わず体を強張らせ、息を呑んだ。
壁には穴が開いている。廊下が見えていて、このままもしかすると、逃げることはできるのかもしれない。
デュラハンは出てこない。休んでいるのか、それとも、勇者にも少女にもすでに興味は尽きたのか。
少女「やだ。帰らない」
自然と言葉が出ていた。いや、出てしまっていた、というべきだろう。
勇者は当然のように顔を顰める。
勇者「お前、何言ってんだ?」
少女「ここから出たら戦争に参加しなきゃならなくなる。アタシはもう、人を殺したくない」
勇者「……お前が参加しなきゃ、もっと人が死ぬ」
少女「なにそれ、脅し?」
勇者「そうだな。そういうことに、なるか」
少女「そりゃアンタはいいでしょ、人を守りたいんだから。十人死んでも十一人助けられれば十二分」
――なんで怒ってくれないのか。ふざけるな、馬鹿にするなと叫んでくれれば、こっちだって本望なのに。
どうしてそんな、可哀そうな目でこちらを見てくるのだ。
勇者「お前だってそうじゃないのか?」
はっとした。心の奥底を見透かされたようで、苛立ちが喉を突き破る。
少女「わかったような口を利くな! アンタに何ができる!」
勇者「俺を信じろ」
少女「は。誰がアンタなんて信じるのよ。うじうじうじうじ悩んでたくせにっ! アンタなんてアタシと同類じゃないっ!」
少女「――同類のはずなのに、どうしてアンタだけ強くなってんのよっ! そんな強い生き方できんのよっ!?」
そうなのだ。全てはこいつのせいなのだ。
こいつがあまりにも前向きだから。
例え弱くても、強く在るから。
例え弱くなくとも、強く在れない少女には、あまりにも勇者の姿は眩しすぎる。
見ているものは同じはずなのに。叶うはずもない夢を見ているはずなのに。
世界のすべてを救うなんてことは、とても人の身で実現できることではない。それこそ神か、統べる側に回らなければ。
勇者は少女よりは弱いのに、彼女より強い。それが彼女には癪に障るのだった。
同類なのに、なぜ自分はこうなのか。
なぜ彼はああなのか。
ああなることができたのか。
八つ当たりだ。八つ当たりなのだ、そんなことはわかっているのだ。
わかっているのだ!
だけれど、わかっていたところでどうにもならないのだ!
少女「アタシにはできない、世界を救うなんてできっこない! もうやだ、もうアンタと一緒にいたくない!」
少女「キラキラしないでよ! なんでそんな笑顔でいられるのよ! 叶わない夢を真っ直ぐ見続けて、それで平然としてられるのよ!」
少女「アタシにはできない! アタシは十人殺しても九人しか救えない!」
地面を叩く。叩かずにはいられない。高ぶった感情を、振り上げた拳を、ぶつける先がないと壊れてしまいそうだった。
勇者「うるっせぇ!」
勇者の体から発せられた雷撃が、背後の敵を軒並みなぎ倒す。それが最後の一団だったようで廊下はしんと静まり返った。
勇者はけれどそんなことお構いなしで、少女を真っ直ぐと見ながらまくし立てる。それこそ少女に負けないくらい。
勇者「気に食わねぇんだよ全部! 戦争も、九尾の暗躍も、お前が苦しんでるのも、全部だ!」
勇者「ずーっと前から俺ははらわたが煮えくり返ってるんだ!」
勇者「俺が気に食わねぇから、気に食うようにしてやろうってんじゃねぇか!」
少女「な、なにそれ。そんなの単なる我儘じゃん。我儘じゃんっ!」
勇者「そうだ」
短く言って、勇者は再度手を差し伸べる。剣を握ってできたマメの目立つ、武骨な、けれど優しい手のひらだった。
勇者「手を取れ! 俺が勝手にお前を幸せにしてやる!」
勇者はそう言い切った。到底信じられない、信じたくなる、大風呂敷だった。
少女はついぞ彼のことを我儘だと言ったが、それはまさしくその通りなのである。なぜなら、彼はこれまで、彼の気に食わないものを気に食うようにするために旅をしているようなものだったからだ。
つまるところそうなのだ。誰かのためではない、自分のために、彼は世界を平和にしたがっている。
誰かが悲しむなんてことはあってはいけないし、無辜の民が苦しむなんてことも、彼は許容しがたかった。
明確な堅苦しい理論なぞそこにはない。ただ彼の「気に食わなさ」だけがある。
彼は戦争が嫌いだった。
自国民を幸せにするために他国民を不幸にするなんてことは、本来あってはならないことだと思っていた。
魔王を倒す途中で、戦争をなくす方法が見つかりはしないかと、彼は常々思っていた。
彼は九尾が嫌いだった。
会ったこともない傾国の妖狐にいいように扱われるのは癪だった。ウェパルもアルプもデュラハンも、恐らく彼女の差し金のいったんなのだろうと思っていた。
いつか一矢報いてやるのだと、彼は常々思っていた。
彼は少女が苦しんでいるのが嫌いだった。
無論、誰かが苦しんでいること自体、彼には耐えられないことだった。それが仲間ともなればなおさらで、彼は仲間のためにではなく、自分のために、全てを擲ってどうにかしてやると思っていた。
そのためなら瀕死の怪我などはどうでもいいのだと彼は常々思っていた。
愚か者なのだ。少女に輪をかける形で愚か者なのだ。
だからこそ九尾は彼に目を付けたといっても過言ではない。
それくらいでなければ、九尾の計画には力不足だった。
少女「信じて、いいの?」
勇者「……」
勇者は頷くだけで、あくまで無言だった。これ以上の言葉はいらないとでもいうように。
彼を信じれば、本当になんとかなるのではないか。少女はそう思わずにはいられなかった。思いたかったということも含めて。
いや、違う、と少女は瞬きをして、滲んだ涙を押しやる。勇者は手を引き上げてはくれない。立ち上がるのは自分の力でなければいけない。
二人の手が重なった。
少女「信じたから」
勇者「おう」
少女「アタシのこと、幸せにしなさいよ」
そう言って、少女は立ち上がる。
勇者「おう」
少女「いい返事ね」
少女は勇者の手を握ったまま、左手でミョルニルを握り締める。
左手の重さと右手の暖かさ。どちらも確かにそこにある、大事なもの。
少女「さ、アンタの鎧、粉々に砕いてあげるわ。――アタシ、ちょっと戦場まで用事があるから」
いつの間にか部屋の中にいたデュラハンは、腕組みを解いて、にやりと笑った――気がした。
デュラハン「実にいい表情だ。――天下七剣、全召喚」
―――――――――――――――
――――――――
全てが静まり返っていた。
砲弾と剣がぶつかり合い、ウォーターカッターと天下七剣が切り結ぶ、空前絶後の争いにも終止符が打たれている。デュラハンの敗走という形で。
それでも、そもそもウェパルとデュラハンでは目的が異なっていた。デュラハンはただ戦闘欲を満たせればよかっただけであるので、彼の負けとは言い難い。その点では両者の勝ちとも言えた。
そうして対峙するウェパルと狩人。隊長は、すでに事切れている。ウェパルの腕の中で。
狩人「……死んだの?」
ウェパル「死んだっていうか、もともと死んでたよ。糸が切れただけだね。多分術者が死んだか、魔力が切れたか、じゃないかな」
狩人「そう」
ウェパル「ふふ。これで隊長は、僕のもの。永遠に、ずっと」
ウェパル「ね。だから、さ」
ウェパルは触手の左手を狩人に向けた。禍々しいその左手からは、紫色の瘴気が立ち上っている。
ウェパル「僕の目の前に立ちふさがるの、やめてくれない?」
狩人「……」
狩人「別に、もうあなたを止めるつもりは、ない。けど」
ウェパル「けど?」
狩人「それで、いいの?」
ウェパル「……」
ウェパルは大きく息を吐いた。すでにその姿は人間であった頃のそれに半分戻りつつある。
ウェパル「そんなわけないでしょ」
ウェパル「でもね、これはどうしようもないんだ。これはボクの、ウェパルの、衝動」
狩人「衝動?」
ウェパル「そ。人間にもあるけど、魔物と魔族のそれは一段と強い。抗おうと思っても抗え切れないもの。それが、衝動」
ウェパル「だめなんだ。頭では分かっていても、だめなんだ。手に入れたいと思ったものはどうしても手に入れたくなっちゃう。自分だけのものにしたくなる」
ウェパル「衝動が強いってことは、存在として強いってことさ。強い衝動――我を通すためには強い力が必要ってことでもある」
ウェパル「僕は一族でも特にそうでね。こんな左手を持って生まれたせいで、忌み嫌われて、困ったよ」
ウェパル「顔の呪印もそうさ。危険人物の恥晒し。ま、その一族も今はもうないんだけど」
狩人「そ、か。ないんだ」
ウェパル「うん。僕が皆殺しにしちゃったから」
狩人「……」
ウェパル「狩人、きみは気をつけなよ。人間は衝動に飲まれない強い生き物だ。だけど、たまに衝動に飲まれるやつもいる。目的のために手段を択ばないやつが」
狩人「魔族に心配されるのって、不思議な気分」
ウェパル「ここまで堕ちても、人間だった時の記憶はあるからね」
ウェパル「それに――九尾の思惑は、僕にもわからない」
狩人「九尾」
ウェパル「アルプと組んで何やらやらかしてるらしいけど、ね。あの快楽主義者は不気味だ。九尾のほうがまだかわいげがあると、僕は思うよ」
狩人「あのクソ夢魔には借りがある。絶対に返す」
ウェパル「うん、うん。あいつが命乞いをするところは見てみたい気もする」
狩人「九尾ってのはどんなの?」
ウェパル「わかりやすく言うなら最強の魔法使いってとこ。千里眼、読心術、空間移動、なんでもござれ」
ウェパル「定期的に人を食べたくなる衝動に駆られるらしくてさ。そこだけ魔物っぽいんだけど」
狩人「魔物っぽい?」
ウェパル「そ。僕ら魔族――魔王様から直々に生み出された存在って、別に人を喰いたくならないから」
狩人「なんでそんな情報をくれるの?」
ウェパル「敵なのに、ってこと? 別に意味はないよ。隊長を手に入れられた今、ほかの存在なんて些末だもん。どうだっていい。どうだって」
ウェパル「九尾にもアルプにもデュラハンにも与するつもりはないし、単なる気まぐれさ」
ウェパル「ってことで、そろそろ僕は行くよ。邪魔したら殺すから」
ぎろりと、そこだけ途方もない圧力を発揮して、ウェパルは空間に穴を開ける。空間に指を突っ込んで力任せにこじ開ける、老婆の空間移動よりは随分と乱暴な開け方である。
さすがに狩人にもそれを邪魔しないだけの分別はあった。一人でウェパルに挑んだところで勝ち目はない。そもそも勝ち目を語ること自体がおこがましいほどの実力差がある。
数秒も経たずに消し炭にされるのは、狩人とて本意ではない。それに収穫はあった。
音もなくウェパルと、腕に抱かれた隊長の姿が消える。
狩人は耳をぴくりと動かした。遠くで戦争の音が聞こえる。
それは最も恐れていたものだ。同時に、どうしたって避けられないものでもある。
だからこそ何とかしなければならないのだと狩人は思っていた。たとえ避けられなくとも、状況を改善することならまだできるのではないか。
そしてそれが勇者の望むことだと考えていたから。
狩人は地面を蹴って、大急ぎで戦場へと向かう。彼女の健脚をもってすれば数時間あれば戦場へとたどり着けるだろう。
全ては始まったばかりである。
――――――――――――――
――――――――――――――
デュラハン「うーん、この、ね」
必死の塔の一室、破壊の限りを尽くされた、もとはかなりの豪奢な部屋の中央で、デュラハンは困ったように呟いた。
いや、彼は事実困っていた。
鎧を木端微塵に破壊され、本体も原形をとどめられないほど消耗している。死とは縁遠い身であるが、ここまで完膚なきまでにしてやられたのは、本当に久しぶりであった。
自分の目は正しかったのだとデュラハンは確信する。あの少女は宝石だ。鬼神の如き強さを誰かに渡すつもりは毛頭ない。
彼女と、そして勇者は、すでに部屋を出て行った。満足そうな顔つきで。デュラハンもまた満足している。Win-Winの関係である。
ただ一つ問題があるとするならば……
デュラハン「動けん」
そう、動けないのだ。
デュラハンの鎧や運動機能はそのほとんどが魔法によって補われている。五人との戦闘、その後のウェパル、少女とのそれもあって、デュラハンの魔力は底をついていた。
時間が全てを解決してくれるのはわかっているので、この満足感を十分味わって損はない。とはいえある程度の暇も確かにあった。
妖精「何やってるんですか、マスター」
彼に仕えているうちの一匹、羽の生えた小柄な妖精が、殆ど霧になっているデュラハンを見やりながら言った。屈んだ状態で彼の鎧をつついている。
デュラハン「のんびりと昼寝さ」
妖精「マスターはどうしてそんなバカなんですか?」
デュラハン「酷い言われようだな」
妖精「自分で自分のことがわからないんですか? 魔力が枯渇してるから塔に戻ってきたのに、連戦だなんて」
デュラハン「ちょっと興奮しちゃって」
妖精「別にわかってますよ、マスターのことは。わざわざあの男性をここまで誘導したりなんかして」
デュラハン「あれ、ばれてた?」
妖精「ばればれです。もう。お掃除するのはわたしたちなのに」
妖精「そんなにあの女の子と戦いたかったんですか」
デュラハン「そうだね。そういうにおいがしたよ。強い人間だけが持つにおいが」
デュラハン「それに……俺は今日、人間に初めて恐怖したんだ。彼らには凄みがあった。俺を殺すために命を擲つ覚悟があった。またあれを見たいっていうのも、あったかな」
妖精「まったくもう」
デュラハン「悪いね。お前らには迷惑をかけるよ」
妖精「本当です。天下七剣も結局出せなかったじゃないですか。格好悪い」
妖精「ばたーんって倒れて。……召喚失敗するくらいなら寝てればいいんです。全力で戦えないのは不本意でしょう?」
デュラハン「あぁ。また今度、絶対にお相手してもらわないと」
妖精「そのために、今は寝てください。マスターが寝てる間に、お掃除と、ご飯の支度、済ませちゃいますから」
デュラハン「わかった。頼んだよ」
妖精「いいえ。それでは、おやすみなさい」
デュラハン「おやすみ」
妖精に手を取られ、デュラハンは意識を解き放った。
水中に沈む感覚。そのまま思考は白く染まっていき、眠りに没入するまでにそう時間はかからなかった。
――――――――――――――――――
――――――――――――――――――
戦争の開始から一か月が経過した。
両軍ともに、初戦に戦力の大きな部分を費やしたためか、その後の争いの規模は縮小気味であった。
こちらはルニ・ソウ参謀を筆頭にして、ゴダイ・カワシマ隊長、コバ・ジーマ隊長などを失い、あちらは五人いる聖騎士のうちの一人を失った。恐らくそれはどちらにとっても予想外の展開なのだろう。
いや、それすらも全て国王の手のひらの上なのではないか? あの稀代の戦略家――否。あれは戦略ではなく、純粋な愛国かもしれない――の考えていることは、俺にはおおよそ考えもつかない。
別働隊が兵站基地を予め殲滅していたこと(これは全てが終わってから小耳にはさんだことなのだが)で、当初より現在まで、こちらは比較的優位に戦争を進められている。しかし、その優位に胡坐をかくことは決してできない。
問題は進めば進むほどに抵抗が増すということだ。そしてそれは、単に敵の士気の問題ではない。周囲国の援助が増加するということでもある。
一強状態はどの国も望んでいない。バランスをいたずらに崩すようなまねは反感を買うばかりだ。
となるとこちらが有利なように落としどころをつけるのかもしれないが、それは上層部の判断であって、一介の兵士にすぎない俺には全く関係のない話である。
……関係ない、か。
そんなはずはない、はずなのだ。俺だって下っ端なりに矜持はある。なんらかの形でこの国に貢献してやりたいのだとは。
しかし、あの日に目の前で起こったことを、俺はいまだに信じられないでいた。
襲いくる黒装束の男たち。
為す術もなく倒れていく仲間。
そして一瞬で屠った、ルニ参謀。
悪運が強いにもほどがあった。第十三班、十四、十五班で生き残ったのは俺だけだった。
ルニ参謀は俺に「ここから逃げたほうがいいです」と言って、すぐさま駐屯地をあとにしたのだ。それに従っていなければ、恐らく、俺はここにいなかったろう。
そのあとに起きた巨大な魔法を目の当たりにしていれば、確信できる。
治療を受けながら俺は巨大な魔法の奔流を感じたのだ。素人でもわかるほど強力で強大な余波。
大勢が治療テントから外をのぞくと、雲の切れ間から光が幾条も差し込んでいたのが印象的だった。幻想的だなと思ったものだ。
そうして一秒後、地面が震えた。
遠くからでもはっきりわかった。明らかに今までは平野だった場所が、一瞬で森と化したのだ。
全員が死んだのだと俺は思った。その光景を見ていたほかの人らも、疑いようなくそう思っていたに違いない。
あんな存在と肩を並べて戦えるものなのか? 疑問に思ってなお、俺は依然軍隊に、戦場にいる。今はそこへの移動の道すがらであるが。
「セクラくん、なにやってるの?」
セクラ「あ、クレイアさん」
クレイア・ルルマタージ。俺の所属する儀仗兵団のトップだ。肩書きは確か、儀仗兵長、だったか。
クレイアさんは俺の手元を覗き込んだ。そこには手帳とペンがある。
セクラ「あ、日記、というか、はい」
しどろもどろになる。どうも女性相手に喋るのは苦手だった。相手は四十を過ぎたおばさんだとしても。
セクラ「この戦争のことを物語にしたら売れますかね」
クレイア「売れても、国家侮辱罪で発売中止ね。最悪手が後ろに回っちゃうかも」
セクラ「それは……ごめんです」
まさかそこまでは、と思ったが、あの国王ならばやりかねないとも思った。粉骨砕身した残骸すべてを国家のために捧げているような存在なのだ。
俺にはそこまでできない……と言ってしまえば、先の戦いで死んだ仲間に失礼だろうか。
クレイア「よく歩きながら読めるわね」
セクラ「実家が山の中だったんですよ。教会もアカデミーもなかったんで、魔法は自分で覚えるしかなくて」
クレイア「山の中を歩きながら?」
セクラ「はい。行商の途中とかに」
炭を焼くことくらいでしか生計を立てられない両親のことを思うと不幸だった。彼らを馬鹿にするつもりではないが、そんな生き方はあまりに狭量だと感じていたのだ。
セクラ「最近は平和でいいですよね。戦争のさなかだってのに、のどかで、鳥なんかも結構どこにでもいるし……」
クレイア「……」
クレイアさんは黙った。まずいことを言ってしまっただろうか。
だが、それを尋ねることもできない。行軍の中、気まずい間だけが流れていく。
クレイア「これは」
ぽつりとつぶやく。俺に話しかけているのか判然としない。
クレイア「平和なんかじゃないわ。ただ、静かな……そう、ただ静かなだけ……」
セクラ「……」
今度は俺が黙る番だった。静か。確かにクレイアさんはそう言った。そしてその言葉の意味するところを、俺は当然理解できない。
クレイア「ルニはよくやってくれた。ゴダイも……」
クレイア「白兵戦ではあの二人に敵うのなんて……。死んだのなら、それが運命だったのだとは、思うのだけれどね」
セクラ「……」
「セクラ・アンバーキンソン!」
セクラ「は、はい!」
突然名前が呼ばれたものだから、思わず声が上ずった。
俺を呼んだのは先頭を歩いていた上官だ。名前は覚えていない。「ア」だか「サ」だかがついた気はするのだが。
上官「索敵を頼む。もうそろ敵の哨戒圏内だ」
セクラ「はい」
俺は索敵魔法を唱え、周囲の生命体の反応を確認する。
雑多な声がうるさい。人間だけでなく、小動物などの存在も拾ってしまっているためだろう。
熟練者、それこそクレイアさんなどであれば、もっときっちり人間に対象を絞り込めるのだろうが……俺はまだ訓練中の身だ。いつかあのレベルに辿り着きたいものである。
索敵の限りでは、範囲内の半径百五十メートル圏内には、自軍以外の存在は確認できない。このまま無事に済んでくれればいいのだが。
今回の俺たちの目的地は、敵国の中央やや下の農耕地。そこで待機している部隊と合流し、周辺の村を制圧していくのが任務とされる。
最初の戦闘が敵国の西端、領土境界線付近であったためか、だんだん東へと移動していく形となっている。
とはいっても、最初の戦争からこれまで、殆どが残党狩りのようなものだった。そしてそれも条約によって取り決めがなされているため、所定の手続きを踏む事務的な色合いが強い。
それを暇だとは口が裂けても言えないし、大事な任務で、人が死ぬより何百倍もマシだ。
と、その瞬間、索敵圏内に侵入する存在を察知した。電気が肌の上を走り回る感覚。確実に、味方ではない。
セクラ「上官」
上官「なんだ」
セクラ「索敵圏内に自軍以外の存在を探知しました。距離、東に一三八、南に一七です」
二十人ほどの隊列が足を止めた。視線の集まるのがわかる。
上官「ルルマタージ兵長」
クレイア「はい」
クレイア「セクラくん、ご苦労でした。精密な索敵は私が引き継ぎます」
そう言ってクレイアさんは杖を振った。途端に、それまでの俺の緩い索敵結界とは違う、ぴんと張った静謐な結界が生み出される。
なら最初からあんたがやれよとは思わない。クレイアさんは俺とは違って、個人としても戦闘力に数えられている。出来うる限り魔力を温存しておくのは策として当然だ。
クレイア「……どうやら農民のようです。街道を防ぐ様に、五人……随分と多いですね」
兵長「自警団でしょうか?」
クレイア「その可能性は高いと思います。特にこの辺りは小作農から自作農へと、地主に対する蜂起で転換した土地です。団結力は高い」
兵長「殺しましょうか?」
兵長の言葉を受けてクレイアさんは若干眉を顰めた。血なまぐさいことが嫌いな人なのだ。
しかし、戦場では兵長のようなセンスが一般的であって、寧ろ彼女の感性は少数派だと言ってもよいだろう。
クレイア「ひとまず様子を見ましょう。条約に抵触する可能性もあります」
兵長「ルルマタージ兵長が言うなら。しかし、こんな辺鄙な田舎街道、どうせばれないのでは?」
クレイア「それでも、です」
変わらずにクレイアさんは言った。心なしか前を向く瞳に力強いものが感じられる。
条約とは多国間で決めた戦争に関する条約である。奇襲の禁止、非人道魔法の禁止、拷問の禁止、民間人への暴力の禁止、様々な禁止条項が存在する。
武装した農民とはいえ、民間人とみなされる可能性がないわけではない。兵長の言うとおり殺したってどこかで監視されているとも思えないが、あえて言うならば、見ているのは自分自身とお天道様なのだろう。
そもそも理由なんていくらでも作れるのだ。死人に口なし。正当防衛にするのは簡単だ。
兵長が手を挙げた。すっとその脇を巨漢、ディエルド・マイタが一歩前に出る。
ディエルドが兵長を見た。兵長は頷き、指示を出したようだった。
クレイア「来ます」
ディエルドの持つ戦斧が振り上げられる。二メートルもある体格と比較しても、何ら遜色ないくらいには、その戦斧も大きい。
街道を真っ直ぐにやってきたのは、それぞれ三叉の農具、鎚、古びた剣を手にした農民たちであった。想像を裏切らない人物たちの登場に、俺はそれでも驚きを隠せない。
こちらは二十人。あちらは五人。練度の差だって一見してわかる。だのに彼らは何をしに来たのか。
ディエルドが五人の前に立ちふさがった。いや、五人がディエルドの前に立ちふさがった、という表現が正しいだろうか?
一触即発の空気がある。それでも俺はあくまで自然体で、その光景を見ている。
どうでもいいと言ってしまえば語弊があった。けれども確かにどうでもいいのだ。戦争の趨勢も、この国の行く先も、隣国の行く末も。
俺は知っていた。知ってしまっていた。何が、というと、それは……
農民「あんたら、マズラ王国の兵隊さんだな?」
ディエルド「そうだ」
農民「悪いが、ここから先は俺たちの土地だ。よそ者を入れるつもりはない」
ディエルド「押しとおると言ったら?」
農民「俺たちの手にあるものが見えないのか」
ディエルド「……」
寡黙な男の目が細められた。兵長も同じような顔をしている。こいつら命が惜しくないのかと訝る視線だ。
ディエルドが戦斧を振りかぶる。それが彼の、そして俺たちの答えだ。
兵長「いいですか?」
クレイア「……」
不承不承という体でクレイアさんが手を水平に伸ばす。そしてそのままそれを振り下ろした。
殺人の指示は全て自分が出す――そんな覚悟が透けて見える。
クレイア「やってください」
農民「やれ!」
それを合図に両者が飛びかか――らない!
農民たちは腰から球を抜出し、それぞれ地面に叩きつける。
濛々と煙が割れた球から立ち込め、あたりが一瞬で白く覆われる。
兵長「密集陣形! 攻撃に備えろ!」
合図で一斉に俺たちは集まり、外を向いた。最も外に兵士、そのうちに儀仗兵。
しかし、一秒たっても二秒たっても、あちらの動きがみられない。時間の経過に伴って煙の晴れたその跡地には、
兵長「?」
誰もいなかった。
逃げたのだろうか。あそこまで啖呵を切っておきながら?
俺たちの目的はあくまでこの先に駐留している部隊との合流であって、この村にはまあったく関係ない。
「ま、待て! あれを見ろ!」
部隊の誰かが叫んだ。そいつが指しているのは街道の先、畑作地帯だ。
赤い光が木々の隙間から見える。風に乗って、どこか煤けた臭いも。
クレイア「まさか……」
誰ともなく走り出す。嫌な予感がした。まさかそこまでやるまいと思っていたことが現実となった感覚があった。
畑が、穀物倉庫が、民家が、燃えている。
あらかじめ街道に積んであったのだろう、乾燥した藁屑が、何より一際大きな火柱を挙げていた。恐らくこの先にも続々と火がつけられているに違いない。
馬が背後で落ち着かなさそうに動き回る。恐らく黒煙の臭いが鼻につくのだろう。炎も本能を刺激するのかもしれない。
クレイア「ここまでするとは……」
それほど彼らはこの先に進んでほしくなったのだろう。誰かに自らの土地を凌辱されるなら、自ら殺すのが親の役目。そんなある種盲信的な考えを感じる。
自分たちさえいれば、また一から作り上げられるのだと。
ここは迂回しなければならない。俺たちは待機している部隊に連絡を入れ、来た道を引き返し始める。
――――――――――――――――――
――――――――――――――――――
大急ぎで進路転換、来た道を引き返しつつ新たなルートの構築、同時に到着までの所要時間の計算が急ピッチで行われる。俺はルート構築班に放り込まれ、速度のためいつもより揺れる馬車で地図とにらみ合っていた。
セクラ「谷間を抜けていくっていうのは?」
ディエルド「そこは山賊がいる。また、桟橋も古い。馬が通れるかはわからないな」
クレイア「王国の紋章を頂いている馬車を襲う山賊もいないと思いますが」
ディエルド「そうですね。しかし、それを抜きにしても、ここは危険かと」
土地勘のあるディエルドが言うのであればそうなのだろう。
地図の上では途中の分かれ道まで戻り、谷を抜けていくのが最もの近道だ。そうでなければさらに戻ってもう一つの街道をゆくしかない。
ただし、時間はない。安全を支払って時間を買う選択が迫られているのも事実である。
俺はクレイアさんを見た。最終的な決断をするのは彼女である。
通信機から連絡はない。それが、果たしてよい意味なのか、それとも悪い意味なのかを類推することは、決して心によくない。俺は努めて平静を装うことにする。
クレイア「わかりました。谷間を抜けましょう」
ディエルドの頬がぴくっと動いた、気がする。
クレイア「山賊がいる? 結構。私はこの一団が山賊などものともしない武士-もののふ-であることを知っています」
クレイア「馬車が通れない? 結構。馬など捨てていきましょう。どうせ移動中の食料と飲料水しか積んでいません。一日二日程度なら、持つでしょう」
谷間の強行軍、か。確かに馬車には大したものは積んでいない。所詮二十名ぽっちの遊撃部隊だ。多少根性を出せばできないこともないだろう。
セクラ、ディエルド「了解しました」
御者「そういうことでいいんですねぃ? ルート変更させてもらいますよ、っと!」
御者は手綱を捌きながら、まっすぐ進んだのちに左へと曲がる。
谷間を抜けるルートが採用されたことはすぐにほかのやつらにも伝えられた。一瞬驚きの顔があったものの、すぐに覚悟を決めた顔になる。これくらいでへこたれる面子を集めたわけもない。
それにしても、このクレイアさん。優しそうな、ともすればなよなよしているふうに見えるけど、存外肝が据わっている。
いや、肝が据わってなければ戦争には加担できないか。
谷の入り口、平坦な均された道が終わりをつげ、勾配のある砂利道へと差し掛かった。俺たちはめいめい食料を背負い、武器を手にし、御者に別れを告げる。
全二十名による行軍。地図が正確で問題もなければ、一両日中にはつくだろう。
道は狭い。それまで二列縦隊だったものが、一列になっても微かにきつい。
右側は壁となっている。高い崖だ。左は斜面で、その先には沢が流れている。沢沿いを歩く限りにおいては水の心配はしなくてよさそうだが……。
セクラ「思ったより勾配が激しいですね」
ディエルド「そうだな。俺なんかは慣れたもんだが……」
ディエルドは後ろを向いた。兵士はともかく、俺を除く儀仗兵はみんな息が上がっている。一時間も歩いていないというのに。これだからアカデミー育ちのお坊ちゃんは困るのだ。
脳みそまで筋肉にしたいとは思わないが、体は資本である。例え儀仗兵であろうとも。それが戦争に参加するものならなおさらだ。
ディエルド「なんとかならないもんか?」
セクラ「回復魔法は俺使えないんですよねぇ。クレイアさんは?」
クレイア「私もです。が……まぁ、このままじゃあ進行に支障が出ますしね。仕方ありません」
クレイアさんは懐から何かを取り出した。
それは一見すると一枚の板だ。細かな模様が刻まれていて、恐らくそれは魔力経路であるようなのだが、俺にはその経路が何を示しているのかわからない。
ぱきん。クレイアさんが指に力を入れ、それを追った。
空気がわずかに震える。
不思議と体に活力の漲るのが感じられた。足元から熱量が、表皮ではなく体内を上っていく。血流に乗って。
足元?
視線を向けると、淡く光る魔方陣が展開されていた。橙色の仄暖かい光を放っている。
理解した。これは陣地構築だ。
クレイア・ルルマタージ。彼女を儀仗兵長の地位にまで高めたのは、その陣地構築の手腕に他ならない。瘴気を浄化し濁った水を透き通らせ、獰猛な獣や魔物からその身を守る、安寧の地。
陣地構築にもさまざまな性質があるが、現在クレイアさんが構築したのは、自動回復の陣地だろう。クレイアさんを中心に展開する型の。
なんだ、回復魔法が使えるんじゃないか。クレイアさんの中では、これは陣地構築魔法の扱いなのだろうか。
陣地構築のおかげで大分俺も楽になった。山登り自体は問題ないが、これが続くとなるとさすがに骨だ。しかも山を越えるのが目的ではないのだから、疲労は少ないに越したことがない。
後ろでもたもたしていた仲間の歩みも速度が上がる。なんとか時間通りに所定の位置までつくことはできそうだ。
いくつもの勾配と桟橋を通り過ぎて、一際大きな木が植わっているそばに差し掛かったあたりで、日はとっぷりと暮れていた。本来のルートならばもうそろ着いているころだろう。
実際はあと一つ、山の麓を縫っていかなければならない。それでもあと五時間程度。眠気と疲れを押してもよいのだが、繰り返すように目的地へたどり着くだけではだめなのだ。
俺たちは無事に目的地へとたどり着かねばならない。くたくたでは結局足手まといにしかならず、無駄死にだ。
そういうわけもあって、現在はキャンプを張っている最中だった。魔法であっても万能ではない。飯の支度は必ず自分たちで行う。杖を振ればできたてほやほやが目の前に! という世界ではないのだ。
無念。
そうは言っても俺はこの時間が嫌いではなかった。もともと料理は得手のほうだったし、何より空腹を満たせる期待に胸が高まり、高鳴る。
兵士としてはペーペーだが、戦場での楽しみが三度の食事位だというのはまったく同意だ。息もつかせぬ戦場の中において、唯一安らげるひと時がそれなのである。
俺は笑みがこぼれるのを止められなかった。もうすぐだ。もうすぐで自由な時間が俺を待っている。解放の時が。
今日の食事は銀シャリに携帯していた干し肉、野菜のスパイス炒め、そして偶然捕獲された猪である。干し肉と牡丹肉で肉が被っているが、なに、男だらけの部隊で困ることはない。
猪を殺したのはディエルドである。でかい図体に似合わず手先も器用で、猪を弓でいるところから解体までを殆ど一人でこなした。人は見かけによらないものだ。
す、と手が眼前を横切った。
セクラ「?」
そのまま手は俺の右頬をがっしりとホールドし、力任せに手前に引いてくる。首が首が首が首が変な音を立てながら!
セクラ「なん――」
大きくバランスを崩したの俺の眼前を、火球が通り過ぎる。
地面へ着弾したそれは食器類を粉々にしながら火の粉をまき散らした。威力は低い。しかし、その分数が多い。
数が多いのだ。
視界いっぱいに広がる火球と火球と火球!
思考の暇すら与えてくれないほどの!
「敵襲、敵襲ぅううう!」
「全員剣を抜け! 円陣を組め!」
「山賊か!? にしては、くそ、魔法なんて使ってきやがって!」
クレイア「セクラくん、大丈夫ですか!?」
セクラ「ま、まぁ、なんとか。……ありがとうございます」
どうやら俺を助けてくれたのはクレイアさんらしい。彼女はきっと闇の帳の降りつつある山中を睨みながら、陣地構築を再展開する。
クレイア「自動回復、身体能力向上、索敵結界、全部込みで陣地を構築しました。これで負けはない、はずっ!?」
素っ頓狂な声を上げた。俺は視線で尋ねる。いったい何がどうしたんですか、と。
クレイア「聖騎士……っ」
答えは迅速で、何より簡潔だった。
聖騎士。
隣国随一の戦士集団を指して、そう言う。
こちらの国ではおおよそ該当するのがクレイアさんや、先の戦争で亡くなったルニ参謀などだろう。個人の存在を作戦に組み込めるほどの逸材を、あちらでは総称して聖騎士と呼んでいる。
白銀の鎧と武具を持った聖騎士は、確かにすばらしい武芸者なのだろうが、敵としては忌まわしい限りだ。
それはつまり、懸念していた山賊ではないということである。クレイアさんはすぐにその情報を仲間へと伝えた。
聖騎士という単語を聞いて、僅かに部隊の中に怯え、尻込みといった感情が伝播するのを、俺は見逃さなかった。恐らくクレイアさんも。
クレイア「なぜここに聖騎士がいるのか、そのようなことは後回しです! 総員密集陣形のまま退却! 殿は私が勤めます!」
クレイア「敵の規模も目的もわからない以上、戦闘を続けるのは得策ではありません! 早く!」
言いながらクレイアさんは懐から一枚の板を取り出した。それを割りながら、呪文を詠唱する。
――呪文を、詠唱?
クレイア「東の最果て、南の滝壺、遍く生命の傍ら、飲み込むもの!」
クレイア「ザラキ!」
ずん、と空気が――地面が、震える。
俺の前方、進行方向から見ると後方、敵の攻撃源に向かって、巨大などす黒い魔方陣が現れている。
思わず吐きそうになった。
なんだ、なんだあれは。
あれもまた陣地構築だというのか? そんなの俺は認めない!
魔方陣から溢れ出す瘴気。死臭。地面もまたぶすぶすと黒く変色していって、その上にある木々や大岩を、全てその暗闇の中に飲み込んでいく。
聞きなれない悲鳴が合奏していた。
僅かに遅れて、倒れる音。
セクラ「今のは……?」
クレイア「……生命を、冒涜する呪文です」
クレイアさんはそれだけ言った。
殿を務める俺たちの先では、仲間が層になっていた。見れば既に敵に回り込まれている。
いや、初めからこれだけの数がいたのか?
だとしたらご苦労なことだ。
視界の端が明るくなる。
反射的に体を捻って、火炎弾を光源へと叩きつけた。が、俺は大きな勘違いをしていた。光源はただそこにあるのではなく、迫ってきていたのだ。
セクラ「くっ!」
陣地構築で身体能力が向上していたのは僥倖だった。超高密度の魔力体であるそれをぎりぎりで回避し、俺は続けて火炎弾を叩き込む。
確かに魔力の減りが遅い。いつまでも戦え続けそうだった。
炎の燃える中から現れたのは、一人の白銀と、配下の部下。
聖騎士「クレイア・ルルマタージ……まさかこんなところで出会うとは」
クレイア「その声、イクシフォン・ドロッドですね」
声の主――どうやらイクシフォン・ドロッドというらしい――は、しわがれた声を大きく揺らした。
イクシフォン「こうなったのも神の采配よ。戦争には、邪魔だ。死んでもらおう」
魔力の粒子が敵の体から噴出する。それを見て、クレイアさんも俺も体を強張らせた。
クレイア「セクラくん、あなたはあっちと合流して」
敵から視線を外さずにクレイアさんは言った。逡巡するも、確かにそちらのほうがよさそうだと判断した俺は、頷くだけして踵を返す。
クレイア「いつかの裏切りの借り、返してもらいますよ、伯父さん」
最後にそれだけが聞こえた。
後ろ髪を引かれる思いで走る。交戦場所に辿り着くまではすぐだ。人数はあちらのほうが多く、それでなくても登山を経てのこれである。当然のように押されていた。
セクラ「退けろ!」
杖を振る。炎が夕闇の迫る空間をぱっと照らし、敵兵へと襲いかかる。
ディエルド「遅いぞっ」
セクラ「クレイアさんが聖騎士と戦ってます。こちらを片付けて向かわないと……」
ディエルド「お前はあの人が聖騎士に負けると思ってるのか」
セクラ「いえ、そうではないですが!」
ディエルド「後のことを考えるな、今のことだけ考えろ。そうしなきゃ一秒後も危ない」
戦斧が一閃。敵兵を鎧ごとぶった切って、嫌なにおいが鼻をつく。
死の臭い。血の臭い。何度嗅いでもこれだけは苦手だ。
斬撃、斬撃、斬撃!
刃と刃がぶつかって火の粉が散る。それを鼻っ柱に受けて痛みが走る。鋭い痛みで汗が滲む。
舞い上がる土埃。怒声。喊声。悲鳴。
視界の端で兵長が倒れるのが見えた。慌ててそちらに駆け寄るところを、槍で阻まれる。脇腹の肉を持っていかれた、くそ!
火炎弾で敵の顔面を砕く。肉の焦げる臭いに今は気を取られている場合じゃない!
セクラ「大丈夫ですか!?」
兵長「あ、おぉ、セクラ、か」
脈を測ろうと取った左腕が、肘の部分からぶちぶちととれる。鋭利な傷痕。考えるまでもなく、剣戟でできたものだ。
いや、それよりも、鎧を突き破って胸に深々と折れた剣が突き刺さっている。
兵長「俺は、だめだな」
全てを理解して兵長は言った。
あきらめないでください、などと言えるはずもない。俺は口を結んで、「はい」と呟く。
兵長「この戦争が終わったら、結婚する、つもり、だったんだけど、なぁ」
ひときわ大きく血を吐いて、兵長の首が横になる。安らかな顔だ。血が顔についてなければ、ともすれば眠っていると思えるほどの。
まだ体温はある。暖かい。人のぬくもりが残っている。
この体温は恐らく次第に失われていくのだろう。そして腐敗し、野犬に啄まれる。
恐ろしい。
俺は死ぬことが怖い。
生きたい。生きていたい。
すぐそばで敵兵の足音があった。ざく、と土を踏みしめる音。俺は気づけば血まみれになっていた右手を握り締め、
――詠唱を始める。
詠唱は危険なものだ。普段儀仗兵がそれを省略するのは何も時間の短縮のためだけではない。省略することによって、オーバーワークを回避する意味合いをも兼ねているのである。
唱えるということは正しい手順を踏むということである。ゆえに消費する魔力も段違いとなる。
無尽蔵に魔力を注ぎ込んでやれば、無尽蔵に呪文は育つ。術者が魔力の枯渇で干からびない限り。
一つの蝋燭、三つの松明、五つの篝火、焦土の地平線、肌を焼く原初の風!
セクラ「ぐ、く……っ、うぅっ! くぅっ!」
体が引っ張られる。
魔力を己の内側からひねり出す行為は、同時に魔力に己の内側へ引っ張られることを含意している。
筋肉が千切れる!
唇を噛み切った!
だけど、まだ足りない。
これでは足りない。
さらに、さらに、さらに。
もっと、もっと、もっと。
セクラ「放浪する点滅! 恐怖の根源! 飲み込み、圧倒し、降り注ぐ赤い潮!」
セクラ「ベギラゴン!」
脳の奥で閃光が弾ける。
全てを、ただ無我夢中で解き放つ。
熱波と衝撃があたりを舐めた。立っている者、倒れている者、どちらも一定数いる。立っている者はみなふらふらであったが。
ざん、とディエルドが敵を切り捨てる。俺など恐らく眼中にあるまい。ただ敵に猛進し、切り捨てるだけなのだ。
俺に向けられているきれいな背中がその証。
ナイフを引き抜いた。俺もぼーっとしているわけにはいかないのだ。
魔力は枯渇気味だが、しかし、満身創痍の人間相手に後れを取るほどでもない。
刃を突き刺す。手にずっしりとくる衝撃。だのに妙に柔らかくて、その不協和が俺を一層不安にさせる。俺が殺しているのは本当に人間なのかと。
いや、現実逃避はよくない。俺は生き抜くと決めたのだ。人を殺してでも。
視界の中でついにディエルドが倒れた。眼を見開いて、口をぱくぱくとさせ、何かを発したいようであったが、それも叶わない。巨体が音を立てて地面に倒れる。
最早立っているのは俺だけだった。生きているのも、俺だけだった。
感傷に浸っている暇はない。そんなことは時間のある人間のすることであって、今の俺がその権利を有するとは、到底思えなかった。
走り出す。クレイアさんのもとへ。
そのまま体に鞭を打って、おおよそ三十秒。視界の中にクレイアさんを捉えた。木に体を預けて腰を下ろしている。
そしてその前に、数多の死体。
その中には聖騎士のものもあった。
セクラ「クレイアさん!」
クレイア「セクラ、くん? その声は」
どうやら目が見えていないようだ。魔力の酷使による弊害だろう。身体の疲労もまた。
時間経過で回復するとはいえ、この人をここまで消耗させるとは、やはり聖騎士である。驚きを禁じ得ない。
いや、あの聖騎士相手に勝利を収めたこの人こそが驚愕の対象なのだろうか。
セクラ「あっちは俺以外全滅です……クレイアさんは大丈夫ですか」
クレイア「えぇ、なんとか、ね。一時間も休めば、きっと」
そうか、大丈夫なのか。
セクラ「それは困る」
ナイフがクレイアさんの腹に突き立てられる。
否。
俺は、ナイフを彼女の腹に突き立てた。
クレイア「がっ! ……え、な、んで……ぐっ」
刃を捻ってやるとクレイアさんは声にならない声を出して意識を失った。ディエルドと同じである。
??「よくやってくれた」
木陰から姿を現す、白銀。
死んだはずの聖騎士だった。
イクシフォン「お前がここまで連れてきてくれなかったら、この先で負けていただろう。礼を言う」
セクラ「本当ですよ。他の誰かに思考が読まれていてもいいように、直接的に意識はせず、遠回りで情報を考えるのは骨なんですから」
イクシフォン「まぁまぁ。その労力に見合う程度に報酬は弾んだつもりだ。ほら」
イクシフォンが懐から大きめの袋を取り出した。揺れて、じゃらり、と音を立てる。
イクシフォン「金貨五十枚。色を付けておいた。ご苦労だった」
セクラ「俺が仲間を殺すくらいだったら、あんたらが殺せばよかったのに」」
イクシフォン「なに、クレイアのやつは強敵で、俺よりもお前のほうが警戒心がないだろう。それにあの大男……」
セクラ「ディエルドですか」
イクシフォン「そうだ。俺がクレイアにかかりきりになる以上、そいつを倒せるやつはうちにはいない。お前にやってもらう必要があったのさ」
セクラ「ま、そういう事情ならしょうがないですけどね」
イクシフォン「これからどうする気だ?」
セクラ「……」
イクシフォン「いや、なに、単なる好奇心だよ」
セクラ「それは、まぁ、こうします」
先ほどクレイアさんの命を奪った刃が、今度は目の前の白銀の喉を切り裂いた。
金貨の入った袋を手渡しできる距離。呪文よりもナイフのほうが早いのは、考えるまでもない。
イクシフォン「え?」
数秒彼は何をされたか気づいていないようだったが、それに気が付くと、こちらに攻撃をするのも忘れて頸へと手をやる。しかしそんなことで噴き出る血が止まるわけもなく。
イクシフォン「き、きききっ! き、貴様ぁっ!」
向けてきた杖を掻い潜って、今度は顔面に中心へと刃を叩き込んだ。頭蓋骨を貫いて刃が埋没すれば、まぁ、死んだだろう。
びくんびくんと痙攣したままイクシフォンは倒れる。
セクラ「死んだら負けなんだよ。覚えておきな」
そう、死んだら負けなのだ。
俺以外の全員が死んだあの日、俺は理解したのだ。死なないことが何よりも大事なのだと。たとえば誰かを守ったり、誰かの死を悼んだりするのは、確かに上等なことかもしれない。仲間殺しなんて下の下の所業だ。
けれども死んだ奴に一体何の価値があるだろうか。俺は絶対に死なないと決めたのだ。死にたくないと思ったのだ。
セクラ「こんな戦争なんかで命を取られてたまるか」
金はたっぷり手に入れた。放蕩しなければ数十年は楽に過ごせるだろう大金だ。これをもって他の国へ逃げよう。俺はきっと、死んだことになるだろう。
死体は腐乱する。誰が誰だかわからないに違いない。
「ちょっと、アンタ」
唐突に肩を掴まれる。
え?
俺の眼前に女の子がいてハンマーを
――――――――――――――――――
―――――――――――――――――
勇者「……殴るだけでよかったのか」
少女「何、殺せっての?」
勇者「そうじゃなくて。軍に引き渡したっていいんだし」
少女「勘弁してよ。こんなクズのために使う労力も時間も、アタシたちにはないわ。そうでしょ?」
勇者「まぁそうだけど」
狩人「それより、勇者。この人、まだ、息がある」
狩人が儀仗兵長の傍らに屈んで言った。
近づいてみると、確かに微弱ながらも息がある。
しかし、それでも出血がひどい。内臓に傷がついているのかもしれなかった。そのあたりの医学的知識は勇者にはなかったけれど。
問題はここが山中だということだ。病院に運び込むにも一旦降りねばならない。
勇者「ばあさん、頼めるか?」
老婆「無論じゃ。こいつまで死なせるわけにはいかん」
老婆の従軍時代からの知り合いも、だいぶその数を減らしている。そして彼女は老婆の嘗ての弟子でもある。老婆の言葉にも力が籠る。
狩人「山を越えたところに駐留してる部隊があって、そこと合流するつもりだったみたい」
勇者「ってことは……来た道を戻る形か」
老婆「どのみち魔力もそれほど残っておらん。あまり長距離はいけんよ。ちょうどいい」
老婆が杖で地面に真円を描くと、それが発光を始める。それを見た三人が円の内部に入って、光はやがて光の柱となる。勇者は儀仗兵長を背負う形で。
光が消えたとき、五人の姿はない。
―――――――――――――――
―――――――――――――――
勇者たちがやってきたのは麓の町の病院であった。ここは占領下にありながらも、大した制限を受けずに生活を営める稀有な町だ。
周囲を見渡せば、勇者たちと同じ兵服を着た人間が何人も見つかる。しかし彼ら彼女らの様子は緊張した戦争のそれとは違っていた。
ここはいわゆる療養所なのだ。前線で傷ついた兵士たちを癒すための。
勇者「おい、頼む」
医者「あんたらまた……って、どうしたんだ!?」
狩人「道すがら、交戦の後に全滅している部隊が、敵と味方であった。その生き残り」
勇者「治せそうか?」
儀仗兵長を診察台に載せた勇者が尋ねると、医者は患部にひっついた衣服を鋏で切り離しながら頷く。
医者「見たところ間に合う。が、治癒魔法でどうにかなるレベルは超えているな。開腹してみて、次第によっては長く入院生活だ」
勇者「金はこっちで持つから、なんとかしてやってくれ。頼む」
医者「いや、金なんていいさ。軍のほうから給金は出てる。これも仕事のうちだ」
医者「それに……」
言って、ちらりと勇者の顔を見やる。
医者「あんたらから金をとるなんてできんよ。最近、随分と活躍してるそうじゃないか」
思わず勇者は視線を逸らし、頬を掻いた。どうにも無性に恥ずかしくなったからだ。
勇者たちはこの一か月、たった四人で戦場を駆け回っていた。
東では砦の攻略に手を貸し。
西では略奪を行う自軍の不届き者を捉え。
南では境界線を割ってきた敵を食い止め。
北では魔物に襲われた村を救った。
本来ならば老婆は王城にいなければいけないらしいのだが、帰還連絡を彼女は常に無視し続けてきた。現場で活躍しているためお咎めなしの状態である。
勇者や狩人、少女も本来ならば軍属であって、現状は軍規違反も甚だしい。それでも何ら処罰がないのは、前述したことと、老婆という後ろ盾があるからだろう。
しかし、最早彼らには軍などどうでもよかった。狩人も、少女も、老婆も、戦争の行く末を見据えてはいなかった。
彼女らが見ているのは、勇者の向く方向。
この戦争の中にあって、世界を平和にする方法を、何とか探り当てようとしているのだった。
人は恐らくそれを愚かしいと思うだろう。夢に飲み込まれた狂人と後ろ指を指すだろう。もしかしたら、めくらと揶揄する者だっているかもしれない。
それでも、目が離せないものが確かに遥か彼方で光っているのを、彼らは知っていた。
だからこそ勇者たちはなるべく人を殺さないようにしていた。強く在ること。揺らがない自身を持つこと。誰かを助けるために人を殺すことに抵抗はなかったが、だからこそ殺そうとは思わなかった。
殺すしかなくなってから殺せばいいのだ。
いや、殺せばいいのだという表現は、命の軽視である。殺すしかなくなったときに初めて、それを実行できる。
ひと月たった今も世界を平和にする方法は見つからない。九尾の企みもわからぬまま、四天王もめっきり現れなくなった。ただ戦争が続いているだけである。
勇者たちが山岳地帯にいたのは、敵軍に不穏な動きがあることを突き止めたからだった。単なる駐屯所ならまだしも、そこに聖騎士が出入りしているのであれば大事である。王城から受けた依頼を、勇者たちは断らなかった。
それは結果的に良い方向へと向かった。彼らがあのタイミングであそこにいなければ、恐らく儀仗兵長は死んでいただろうから。
勇者たちは医者に礼を言い、病院を後にした。夜も更けている。山岳地帯に建設されかけていた魔道砲場は完膚なきまでに叩き潰したため、今夜は枕を高くして眠ることができるはずだった。
とりあえずひと眠りして、今後の行動はまた明日考えよう。
そう思いながらやってきたのは宿屋である。戦場で休養を取ることが多かったため、たとえ固くともベッドで眠れるのはうれしかった。
勇者「四人なんだけど、何部屋空いてる?」
店主「二部屋だね。どっちも大きさは変わらないけど、片方はベッドが一つしかないんだ。毛布なら貸し出すけど……」
勇者「ということは、誰かが床で寝ることになるな。俺が寝るよ」
狩人「だめ。勇者はベッドで寝て。私が」
少女「ちょっと待ってよ。ここは頑丈なアタシに任せてって」
勇者「うーん、そう言われてもな」
少女「じゃ、一緒のベッドで寝る?」
狩人「ちょっと待って」
少女「?」
狩人「なんで、一緒の部屋の前提?」
少女「べ、別にそんなつもりはないけどさっ」
狩人「私は勇者の恋人。私が一緒の部屋」
少女「狩人さんがこいつの恋人だってことは認めるよ。うん。疑いようのない事実。でもね、アタシたちは四人で旅してるわけじゃん?」
少女「つまり、一心同体。四人で一つ。みんな仲間。そこに、ほら、そーゆーのを持ち込むのって、危険じゃない?」
狩人「危険なのは、勇者のていそ……」
勇者「ちょーっと、ストップ! ストップ! お前ら何の話をしてるんだ」
宿屋の主人の好奇の目に耐え切れず、勇者は叫んだ。
勇者「俺はばあさんと寝る! お前らが一緒の部屋! 以上!」
老婆「わしと寝るだなんて……勇者もなかなか積極的じゃのう」
勇者「うるせぇ。なんかしてきてみろ、ぶっ飛ばすぞ」
老婆「ひゃひゃひゃ。空間移動できるわしを捉えられるかな?」
狩人「……貞操が危険なのは、依然変わらず」
少女「ってちょっと、置いてかないでよ!」
云々やりながら四人は渡された鍵を受けとって寝室へと向かう。
部屋が分かれる前に立ち止まり、今後の予定を口頭で確認しあう。
勇者「今日はこれ以上は予定はない。オフだ」
少女「もともと帰ってくる予定なかったしね」
勇者「そういうことだな。魔道砲場は潰した。ま、問題はないだろう。残党は見逃すこととして」
狩人「今後は?」
老婆「近々平原と林の境界線に場所を移して、規模の大きめのドンパチを繰り広げるらしい。わしらは裏から回り込んで、対象の首を取る」
少女「殺す、の?」
老婆「さぁな。重要な情報源じゃし、殺しはしないじゃろ。確保になると思う」
少女「そっか。そっか」
狩人「召集があるまでは、待機? それとも、また、どこかへ行く?」
勇者「一応、待機。近くで何かが起きればそっちへ行くけど、話を聞く限り次の戦場のここは近いから、あんまり離れたくはないな」
老婆「何かあれば指示を出してくれよ。お前の言うことなら何でも聞こう」
狩人「私も」
少女「アタシだって、聞いてやらなくもないし」
勇者は思わず自身の顔がほころぶのを感じた。
勇者「じゃ、各々ゆっくり過ごしてくれ」
狩人「勇者は?」
勇者「俺は食料と消耗品の調達に行ってくるよ」
少女「アタシも!」
狩人「行く……」
少女・狩人「「ん?」」
二人は顔を見合わせた。少女が無理やり笑顔を作り、狩人は逆に眉を顰める。
少女・狩人「「勇者はどっちと行く?」」
ぐるんと捻られた二人の視界に、しかし勇者は入ってこない。ついでに老婆も。
二人は叫んだ。
「「逃げられた!」」
――――――――――――――
老婆「逃げてもよかったのかえ?」
勇者「いいんだよ。ここ最近のあいつらは、なんかおかしいからな」
老婆「朴念仁」
勇者「は?」
老婆「――と、言われても仕方がないのじゃよ」
勇者「わけがわからん。ついにボケたか」
老婆「抉るぞ」
勇者「抉るってなに!? こわっ!」
老婆「ふん。まぁいい。ちょうどわしもお前に話があったところじゃ。行くぞ」
場所は路地裏。老婆が先行し、勇者はそれに続く形で歩を進めていく。
戦争中でも賑わいはある。療養と慰安のために作り替えられた町なのだから、寧ろ賑わいのないほうがおかしい。二人のいる路地裏まで往来の声が届いていた。
勇者「で。話ってなんだよ」
老婆「なに、大したことじゃあない」
老婆「孫のことで、ちょっとな」
老婆「あの子を助けてくれてありがとう」
老婆は真っ直ぐにお辞儀をした。
思わず面喰ってしまい、勇者は一歩後ろに後ずさる。こんな殊勝な老婆を見るのは初めてだった。いや、別に彼女に常識がないというわけではないが。
勇者「大したことはしてねぇよ。それに、俺にはあいつが必要だ。だから助けた。仲間だしな」
くさいセリフをしゃべっている自覚があった。しかし言ってしまった以上は止まらない。ええい、ままよ、と一気に言葉を紡ぐ。
勇者「俺一人だけの力じゃどうにもならないってことを、俺はわかってるつもりだ」
勇者「それにしても急にどうした。礼なんて前にも聞いたぞ」
老婆「最近のあやつの顔を見ているとな、昔と違うんじゃ。それはきっと、勇者、お前のおかげが大きいのだと、わしは思っている」
勇者「やめてくれ。俺は俺のことで精いっぱいだ」
老婆「魔王を討伐するために村を出てから、わしは孫の笑ったところを見ていなかった。今あんなに楽しそうにしているのは、わし一人じゃできんかっただろう……」
老婆は真っ直ぐに勇者を見据えた。なんとなく視線を外しそうになるが、そこでふと気が付く。老婆が泣きそうになっていることに。
一瞬、感極まったのかと思った。が、すぐにそれが違うことを知る。小さな、掻き消えるような声で「頼む」と呟いたからだ。
老婆「この戦争を止めてくれ」
勇者「……」
老婆「この戦争は、止まらん。王は各国の停戦勧告を受け入れるつもりがないらしい。敵国もじゃ。わしのあずかり知らんところで、危険な魔道具も開発されていると聞く」
老婆「『核』という大規模な殺戮兵器じゃ。わしの樹木魔法を量産化したような、ひどい……ひどい、ものじゃ」
老婆「本当なら今すぐ王城へでも乗り込んで、王の頭をひっぱたいてやるべきなのじゃろう。あぁ、そうすべきなのじゃろう」
老婆「しかし、勇者。恥ずかしい話じゃが、わしにはそれができん。国のために何百何千と、敵と味方の区別なく、人を森の養分としてきたわしには、そんなことはできん」
老婆「罵りたければ罵るがええ。こんな時になってまで、わしは過去の妄執に囚われているのじゃ!」
老婆「だから、頼む。都合のいいことを言っているのはわかっている。この老いぼれの代わりに、戦争をなんとかしてくれ」
ともすれば土下座までしそうな勢いであった。老婆の必死な姿はこれまでに何度か勇者も目にしたことがあるが、今回のこれは度を越している。
今言われたことがどれだけ大変で、問題で、恐ろしい出来事なのか、勇者にもわかった。戦争を止める。短いながらも壮大だ。果たして一介の人間、ただコンティニューの奇跡があるだけの人間に、できるだろうか。
いや、しなければいけない。しようとしなければいけない。勇者はそう思った。
そうでなければ、世界を平和になぞできるものか。
そう思える者でなければ、世界を平和になぞしてくれるものか。
勇者「俺は」
老婆「!」
老婆は自然と体が震えた。勇者の言葉を、返事を聞くのは勇気のいることだった。
恐らく自分には勇気がないのだと老婆は感じる。彼が彼女に対して大きく秀でているその一点が、彼に期待してしまう要因なのだ。
勇気のある者。
ゆえに、勇者。
勇者「……約束はできない」
空を見上げる勇者。それ以降言葉を紡ぐことはない。
それでも老婆には分かった。省略された次の言葉。「それでも」。
約束はできなくとも、それを目指すと。
その言葉が聞きたかった。勇者と志が同じなのだと、確信できたから。
老婆「さ、買い物にいくぞえ。腹も減った。あいつらも腹をすかしているじゃろ。さっさと買って、帰るぞ」
勇者「はいはい」
老婆「『はい』は一回でいいのじゃ」
勇者「はーい」
老婆「……」
勇者「……」
二人、肩を並べて歩く。
どちらも無言だったが、やがて老婆がぽつりと言った。
老婆「ありがとうな」
勇者「それほどでも」
―――――――――――――――――
――――――――――――――――――
ついに大規模な戦闘の開始を告げる法螺が吹かれた。遠くまで響き渡る低音は、当然林の中にいる勇者たちにも聞こえている。
四人は林の中を突っ切って敵の側面から攻撃する算段であった。無論、敵も同じことを考えているに違いない。つまり敵の攻撃の手を予め潰しておくということでもある。
少女「アタシ、正直、気が進まないんだけど」
勇者「何がだ」
少女「目的のためにでかい戦いを見て見ぬふりしなきゃいけないってのが。アタシはやっぱり、敵陣中央に突っ込んでいきたい派なのよねぇ」
狩人「でも、必要なこと。早く敵を倒せば死人も減る」
少女「わかってんだけど、わかってんだけど……うー」
勇者「さっさと終わらせるぞ。行くぞ」
不承不承少女は頷き、歩き出す。
林の中は視界が悪い。光が差さないので昼でも薄暗く、索敵を怠るのは恐ろしすぎた。
勇者たちの索敵手段は主に老婆による魔法と狩人の五感である。老婆は索敵が本職ではない。全員、どちらかと言えば狩人の五感を頼りにしている節があった。
そういうこともあってか一団の戦闘は狩人である。遅れて勇者、老婆、少女と続く。
時たま地響きを足の裏に感じることがあった。仲間が、敵が、戦っているのだ。がむしゃらに。
戦争の必要性は勇者にだってわかる。しかし、代替可能性に一縷の望みを託さずにはいられなくもあった。
狩人「待って」
老婆「待て」
二人の声がシンクロする。四人は視線を前方からずらさず、僅かに緊張に体を強張らせた。
狩人「なんか、変な感じがする」
老婆「狩人の言っていることは確かじゃ。前方に魔法的な侵入警報が仕掛けられている。敵の存在を教え、罠のスイッチにもなっているやつじゃ」
老婆「しっかし、お前、よく気が付くな……」
感嘆が老婆の口から洩れた。魔法によって仕掛けられた不可視のトラップを、霊視もせずに看破するのはもはや人間業ではない。
狩人「なんか最近、凄い感覚が鋭敏になってる」
勇者「この先に、敵がいるってことか」
老婆「そうじゃな。敵か、営舎か……そこまではわからないが」
勇者「『しのびあし』で行くぞ」
狩人「任して」
一歩一歩踏みしめるように狩人は先行する。魔法的な仕掛けは重層的に、線のように張り巡らされていたが、その切れ目を四人は抜けて行った。
いったいどれほどの距離を歩いたのかわからなくなるほどの時間が経つ。それでも一向に敵の姿は見えてこない。疑問が全員の脳裏をよぎり始めたころ、不意に老婆が舌を打った。
老婆「やられたっ」
少女「どうしたの、おばあちゃん」
老婆「これは罠じゃ! わしらが歩いてきた道順それ自体が、魔法的な――呪術的な意味を持っているっ!」
見れば四人の身体の周りに、うっすらと、黒い光がまとわりついていた。老婆の魔法によるものでないのだとすれば、それが敵の手によるものだというのは明らかだ。
しかし、問題はその魔法が一体どのような類のものなのかということである。解呪の類は老婆が一通り覚えているとはいえ、適切な魔法を唱えなければ魔力の無駄になる。
老婆はぎりりと奥歯を噛み締めた。
老婆「この魔法……見たことがない。かなり高度な魔法じゃ。解けるか……?」
少女「解けなかったらどうなるのっ?」
老婆「それすらもわからんっ!」
狩人「誰っ!?」
反射的に狩人が弓を射る。矢は十数メートル離れた幹に突き刺さり、木を揺らした。
狩人「誰か、いる」
僅かな空白が続いて、ぱき、という踏みしめる音とともに、一人の偉丈夫が姿を現した。
同時に、少女顔が引きつる。鉄面皮の狩人もまた、僅かに。
現れた偉丈夫は、下駄にふんどし、上半身裸という露出の多いいでたちの、中年男性だった。
筋肉の盛り上がりが遠目からでもわかる。それも腕だけでなく、足、腹、胸と全身がとにかく太い。デュラハンに負けるとも劣らない恵体の持ち主である。
少女「変態だ――――っ!?」
狩人「汚い、殺すっ……!」
咄嗟に武器を構えた二人に対して、偉丈夫は叫んだ。
偉丈夫「その言いぐさはなんだっ!」
体を震わせる咆哮に、思わず二人の女子もたじろいでしまう。
偉丈夫「健全なる精神は健全なる肉体に宿る! 即ち、健全なる精神の持ち主が健全なる肉体であるのも、当然のことよ!」
偉丈夫「我は聖騎士! この林を進むものを待ち構える者なり!」
聖騎士の単語にやおら四人が色めき立つ。聖騎士。彼らはいまだ聖騎士とは戦ったことがなかった。それは不運でもあり幸運でもある。ただ、この土壇場で出会ってしまったことに関しては、不運としか言いようもない。
少女「この裸ふんどしのおっさんが聖騎士!? 信じらんない!」
とはいえ、恰好はともかく、目の前の偉丈夫が放つ圧力は確かに実力者のそれであった。その事実を認識してなお、四人は目の前の人物から目を離せなかった――もしくは離したかった。
狩人「とにかく、倒す」
少女「えぇそうね、そうよ。アタシ、こいつを倒したいもん、今ものすごく!」
偉丈夫「たわけがっ! 口でだけならどうとでも言えるわ!」
偉丈夫「すでに貴様らは我の呪術にかかっている! 歴代最高と謳われる呪術師の力に慄くがいい!」
勇者「武闘派じゃない、だと……」
偉丈夫が踵を返して走り出す。
少女はそれを追った。魔法の罠を力任せに突っ切りながら、偉丈夫を追う。
偉丈夫は確かに健脚だったが、少女には当然敵わない。随分とあった差が一瞬にして縮んでいく。
少女「アンタ、寝てなさい!」
偉丈夫「健全なる精神を持たぬものに、健全なる肉体を持つ資格なぁああああしっ!」
ミョルニルが振るわれる。すんでのところで偉丈夫はそれを回避し、手で印を結んだ。
僅かな間をおいて、偉丈夫の姿が消えてゆく。
少女は舌打ちをして、ミョルニルを握る右手を見た。なんだか先ほどから違和感をそこに覚えていたのだ。
少女「え」
信じられなかった。
少女の薬指と小指、そして手首の手前の部分が、黒く抉り取られていたからだ。
手は動く。血は出ていない。つまりそれが物理的な仕業でない――聖騎士の直接的な攻撃によるものではなく、たとえば呪術的な――理由によるものだとは、少女も理解できた。しかしそれ以降がわからない。
呪文の詠唱、発動、着弾。詠唱は省略されることも多いといえ、発動と着弾は必須である。それだのに聖騎士の攻撃にはどちらもなかった。それがあまりにも不可解だった。
勇者「少女!」
勇者の声が背後から聞こえる。
勇者「大丈夫か!?」
少女「攻撃をっ、受けてる……っ!」
苦々しく呟いて、少女は自らの右手を見せた。
黒い抉れ。断面は黒煙のようになっていて、肉も見えない。異次元に近いのかもしれない。
勇者「なんなんだ、これ」
少女「わかんないよ、追って、攻撃したら急に……」
勇者「全員固まれ! 何が何だかわからないけど、これはヤバイ! そんな気がする!」
狩人「なにされてるか、わかる?」
老婆「いや、皆目見当もつかん。あの変態の攻撃なのは確かじゃろうが、正体が見えん」
少女「って、ちょっと待ってよ」
少女が勇者と狩人を指さして、叫んだ。
少女「なんでアンタらも抉り取られてるのよぉっ!?」
勇者の左ほほと狩人の手の甲に、イチゴ大の黒い抉れができていた。どうやら二人は指摘されるまで気が付いていなかったらしく、自らのその部位に触れ、ようやく驚きをあらわにする。
老婆「お前もじゃ!」
少女は言われて全身を見回した。次いで顔を触って――首筋に同程度の抉れを発見する。
狩人(血が出てない、ってことは……怪我ではない、ってこと、か……)
狩人の考えは皆思っていた。即ち、この抉れによってすぐに死に至るわけではないという、ひとまずの安心は得られたということだ。
が、安心が問題解決に直接結びついているわけではない。血こそ出ないが確かにその部位は「ない」のだ。このまま進行が進めば命を失う可能性も出てくる。それこそ、抉れが心臓に達するなどしたら。
勇者「ばあさんっ! これ、本当に攻撃を受けてるわけじゃあねぇんだよなぁ!?」
狩人「勇者、また……!」
今度は少し大きい抉れが、勇者の左ひじに現れる。
勇者「くっ……」
だらりと下がる勇者の腕。どうやら力が入らないらしい。
関節を抉られればそれ以降が使えなくなるのは、普通の怪我と同様。恐らく目を抉られれば目が見えなくなるのだと思われる。
問題は、その条件。
敵が攻撃を逐一行っていないことは明白だ。すでに呪術はかけ終っていて、何らかの行動がキーになって発動している。老婆もその考えであった。
そのキーさえわかれば、それを回避して敵の下までたどり着ける。わからなければ、いずれ死ぬ。
老婆「とりあえず、落ち着け。冷静になろう。現状の把握じゃ」
老婆「三人とも、痛みはないんじゃな?」
全員が頷いた。痛みはない。
老婆「感覚は?」
全員が首を横に振った。痛みはないが、感覚もまたない。
老婆「なぜお前らが抉られ、わしだけが抉られていないのか。そこに恐らく鍵があるはずじゃ」
老婆(この抉れが、穴が心臓か脳に達すれば、死ぬ……)
老婆(なんじゃ? なにが発動のキーじゃ?)
焦る内心を抑え、老婆は必死に頭を回す。が、あまりにも答えを導き出すにはヒントが少なすぎた。犯人は明白だというのに。
そして、敵も考える暇を与えるつもりはないようだった。
木陰から兵士たちが続々と姿を現す。素直に考えれば、先ほどの聖騎士の部下に違いない。
勇者「ちくしょう、なんだってこんな時に!」
狩人「ここを通すわけには、いかない……っ!」
両者が激突する。
狩人が弓を絞り、放つ。木々の僅かな隙間を縫って尚急所に命中させる手腕は感嘆しか出ないが、やはりパフォーマンスの低下は避けられない。焦燥が顔に滲んでいる。
勇者は三人と切り結んでいた。コンティニューという奇跡があると思えば、死への恐怖も恐れる。それに彼は幾度も死んで、死ぬこと、そのさじ加減に関しては誰にも負けるつもりがなかった。
鈍く光る刃が首筋を撫でていく。一瞬首筋に熱。大丈夫、それくらいで死ぬわけないと彼は知っていた。
切り落としを剣で防ぐ。その間に片手に電撃を充填し、
少女「危ない!」
遠方から飛んできた火炎弾を少女が壁となって吹き飛ばした。
煤のついた顔を拭って、少女は「はん」と鼻を鳴らす。
少女「アンタ、なまってんじゃないのっ! ――っ!?」
新たな抉れが少女に現れる。脇腹に、拳大のものが。
少女は思わず膝をついた。
少女(くっ……忘れてたっ! しかもだんだん大きくなってる!?)
そうしている間にも抉れの進行は止まらない。太ももと胸部に同程度のものが二つ、新しく現れる。
少女(どういうことよっ!)
勇者「大丈夫か!」
少女「わかんないわよ!」
そして、抉れがまた一つ。
二人の隙間を風が通り過ぎる。
狩人の放った矢が、たった今二人に襲いかかろうとしていた兵士の顔面に突き刺さった。兵士は勢い余って二人に倒れこむ。
さらにその後ろから十人ほどの兵士がやってくるのが見えた。どれだけ控えているのか想像もつかない。
しかし逃げることはできなかった。友軍は聖騎士には勝てないだろう。ここで食い止めなければ不利な状態になるのは火を見るよりも明らかだ。
しかも……。
狩人「もう一人、来る」
二刀を携えた銀色が、森の奥からやってきた。彼が一歩歩くたびに兵士は横に避け、さながら海を割る預言者のような光景に、四人は途方もない圧を感じずにはいられない。
聖騎士――しかも段違いな強さを持つ。
老婆「あいつ、見たことがある。聖騎士団の……団長だ」
老婆がぼそりと呟いた。
聖騎士団の団長。その言葉が意味するところを分からない勇者たちでは無論なかった。寧ろ、聖騎士団の団長クラスが出陣するほど、この戦場に意味があることのほうが驚愕の種でもあった。
銀色に隙はない。一歩一歩距離を詰められるたびに、勇者は一歩一歩後ろに下がりたくなる気持ちすらしている。
狩人「やるしか、ない」
狩人は矢を番えた。殺さずに済まそうなどと虫のよいことは言っていられなかった。
放つ。
「無駄だ」
声が狩人の背後から聞こえてくる。
狩人「――ッ!?」
思わず反転――した先に、二刀のきらめきが眼を穿つ。
反応できなかったのは狩人ばかりではない。少女も、勇者も、老婆も、誰もその速度に追いつくことはできていなかった。
勇者が飛ぶ。
刃はそのまま勇者の左腕を断ち切って、狩人の肩へと食い込む。噴き出る血液。二人は声を押し殺しつつ、体勢を立て直す。
横からミョルニルが迫る。その勢いに僅かに驚きの反応を示した聖騎士だったが、一拍遅れて、今度は老婆の後ろに姿を現していた。
少女「速い!?」
勇者「っていう次元じゃないぞ……!」
刃を動かそうとしたその瞬間、聖騎士が大きく弾かれ、四人との距離が開かれる。
老婆「障壁を展開した。ないよりはマシじゃ」
それでもジリ貧には変わりない。多勢に無勢。聖騎士団長。呪術の解除すらままならない状況は、前門の虎、後門の狼だけでは窮地が足りない。
白銀の姿が消えた。
四人の頭上で空気の弾ける音が聞こえ、障壁を無理やりこじ開けて白銀が降ってくる。煌めく二刀を携えて。
もっとも反応の速かったのは狩人だった。矢を番える暇がないことを即座に察知し、鏃を素早く引き抜いて、振り向きざまに投擲する。
四つの鏃は二刀によって防がれた。が、狩人はそれでいいのだと思った。
両脇から勇者と少女が迫る。
唸りを上げるミョルニルと長剣。しかし聖騎士は二刀を巧みにさばいて、攻撃を受け流す。
勇者(これも無駄かよっ! ……けどっ)
大きく開いた上体目がけて、老婆が火炎弾を放った。
突如として現れた火炎弾は、さすがに聖騎士でも回避が間に合わない。着弾、炸裂し、内包されていた大量の熱が拡散する。
空中で吹き飛ばされたため、聖騎士は受け身も取れずに木に激突した。そのままさらに後方へと転がり、茂みの中に突っ込んでいく。
周囲の兵士が慌てて四人へと向かう。今まで聖騎士に加勢しなかったのは、単に実力差故、彼らが聖騎士の足手まといにしかならないためだった。
それぞれが剣を抜いて四人を囲む。その数、二十強。遮蔽物の多い林の中であるため平原よりも人数差の脅威は減るが、だからといって消耗する体力にそれほど差が出るわけでもない。
聖騎士「なかなかやるな」
恐ろしい声が聞こえた。それも勇者の眼前から。
勇者(いつの間に――!? ノーダメージかよ!)
既に聖騎士の刀は振るわれていた。限りない速度と鋭さをもって、勇者の首へと迫る。
狩人「くっ!」
思わず狩人は弓を放り投げた。勇者と聖騎士の間に割って入る形で、弓は刀の進路をふさぐ。
しかし刃は軌道を変えることすらなく、そのまま金属製の弓を両断する。
鮮血が散る。
勇者の胸部が横一文字に切り裂かれた。鎧の上からでもなおその傷は深い。狩人が弓を投げた際の一瞬の反応が聖騎士になければ、刃は勇者を上下に分割していたことだろう。
体がぐらつきながらも、勇者は両手に雷撃を貯め、聖騎士に放った。白銀の鎧は高い魔法抵抗力を持っているようで、衝撃にたたらを踏みはするものの、昏倒する気配などは微塵もない。
舌打ちする暇すら与えてくれはしなかった。聖騎士が一歩、踏み出す。
老婆「ここは一旦、引くぞ!」
ぶつかり合おうとしていた少女と勇者の首根っこを掴み、老婆が転移魔法を起動する。座標の指定も適当に、老婆は慌てて飛んだ。
どさり、と衝撃が尻に来る。景色は依然林の中だったが、周囲に人影は見えない。どうやら距離を取ることはできたようだ。
老婆(これで終わりじゃないんじゃがな)
そう、これは敗北であった。あの聖騎士たちの進軍をこれ以上許してはならなかったし、逆に彼女らは進軍しなければならなかった。打ち倒す策と、呪術を解除する術を考えなければ。
が、現実は非情である。勇者は死んではいないものの、胸には大きな傷が刻まれている。脂汗を勇者はぬぐいながら平気そうに笑ってみせているけれど、それが単なる強がりであることは明白。
狩人もまた、己が愛用していた弓が、勇者を守るためとはいえ破壊されてしまったことに大きなショックを受けているようだった。咄嗟に拾ってきた残骸の一部を握り締めながら微動だにしない。
少女もまた、黒く抉れた部位がしっくりこないようである。先ほどから何度も手の握りを確認し、膝の屈伸を続けている。
最早これまでか、という言葉が老婆の脳裏をよぎる。そしてそれを無理やり力技でねじ伏せる。諦めることが真の敗北を生む。死の瞬間まであきらめてはならない。
老婆(とはいってもどうする? どうすればいい?)
老婆にも、なにもわからなかった。
思わず前後不覚になって、近くにあった石に腰かける。
なんだか腹部に違和感を覚えて、老婆は無意識にそこに手をやった。
ぬるり、と。
短剣が突き刺さっている。
老婆「こっ、これ、はっ!」
真っ先に反応したのはやはり狩人である。背後に向かって狙いも定めず鏃を乱射、弾く音を頼りにして、ナイフを抜いた。
振るうよりも先に、二刀が振るわれる。それはナイフの刃を容易く切断して、周囲の木々を数本まとめて切り倒す。
白銀。
聖騎士!
少女「なんで――!」
勇者(異常だ、あまりにも、異常すぎるっ! 人間を超えた速度ッ!)
狩人(弓も、ナイフも、失った。どうする? どうすればいい?)
反撃を許さず聖騎士の姿が消えた。と思えば、次の瞬間には全くの反対方向から攻撃が降り注ぐ。
少女がミョルニルで防いでいる間に勇者がカウンターを狙うが、剣は虚しく空を切るばかり。そして聖騎士はまたも全く違う方向から命を狩りに来る。
速度という次元を超えている速さ。勇者は一つの予感を覚える。
勇者「少女、狩人! 多分、こいつの能力……時間操作だ!」
――――――――――――――――
――――――――――――――――
九尾の部屋に四天王が集まっている。
九尾は椅子に腰かけ、デュラハンは地べたに腰を下ろし、アルプは胡坐をかいたまま宙に浮き、ウェパルはやる気なさげに壁へ体を預けていた。
九尾「さて、そろそろ佳境だ。ついに九尾も動く」
アルプ「首尾は上々だよー。デュラハンもウェパルも協力してくれるって言ってるし」
デュラハン「ま、そりゃ、ね。もう一度彼女と戦えるっていうおいしい話に飛びつかないわけがない」
ウェパル「……」
アルプ「もー、ウェパルは陰気くさいなぁ」
ウェパル「魔王様の復活なんか、僕にはまるで興味がないんだけど」
アルプ「でも、参加するんでしょ」
九尾「あぁ、そうだ。九尾はそれに対して礼を言わねばならない」
ウェパル「やめて、やめてよ。僕じゃなきゃだめだってんなら、別にいいよ。僕だけのことでもないんだし、ましてや四天王だけのことでもね」
デュラハン「そんなぐちぐち考えて面倒くさくないのか?」
アルプ「本当にねー」
ウェパル「きみたちは特別でしょ」
九尾「いったん話を戻してもいいか」
九尾「タイミングは九尾が教える。してもらう仕事は先ほど教えたとおりだが、やりたいようにやってくれ」
ウェパル「もし、失敗した場合は?」
九尾「そんなことはないと信じたいが、そのときは……九尾の見込み違いだったということだ」
アルプ「手加減はしちゃだめなんでしょ」
九尾「無論。全力で、殺しあってくれ」
九尾「勇者の一行と」
―――――――――――――――
―――――――――――――――
聖騎士「……そのとおりだ。俺の魔法は時間停止」
訥々と聖騎士は喋りだす。その口調にはどうも抑揚というものがなく、宙に浮いた語りであった。
勇者「自分から、ばらすのか」
聖騎士「どうせお前らに勝つのが目的じゃあないんだ」
勇者「じゃあ、何が?」
老婆に治療を施す狩人を背後に、勇者は聖騎士に尋ねた。
聖騎士「俺の、過去のために」
まさか答えが返ってくると思っていなかった勇者は思わず変な顔になる。しかも、それがどうやら軍隊がらみではなく、個人的な事情ならばなおさらだ。
聖騎士の意図が読み取れなかったのは勇者だけでない。その光景を見ていた誰もが、聖騎士の言葉の意味を理解できない。
剣を構える勇者。老婆の治療の時間を稼がなくてはならないが、あまり悠長にもしていられない。休んでいても戦争は進むし、呪術もいつ体を蝕むかわからないのだ。
聖騎士「俺には記憶がない。ある日、気が付いたら王城のベッドで横になっていた」
勇者は跳んだ。聖騎士に言葉をかけたのは大きな間違いだったと、今更ながらにひしひしと感じている。もっと焦るべきだった。聖騎士を一人の人間ではなく、単なる化け物として対峙しておけばよかったのだ。
近づく勇者に聖騎士は全く動じない。白銀の甲冑の下の表情は窺えないが、訥々と喋る様子から察するに、さほども動揺はないのだろう。
聖騎士「病院にもいった。高名な魔術師にも罹った。それでも、誰も俺の失われた過去を救っては――掬いだしてはくれなかった」
少女も合わせて走り出す。勇者の剣が空を切ったその瞬間に、時間操作の解除地点へミョルニルを叩き込む算段だった。
聖騎士「途方にくれて、一つの光明を得たよ。人間は死ぬ間際に走馬灯を見るっていうだろう? 生死の淵に足をかければ、もしかしたら俺は過去が垣間見えるかもしれない」
勇者の剣が振り下ろされる。しかし、一瞬前にはそこにいた聖騎士の姿は、いつの間にか掻き消えている。
時間操作は超を幾つ重ねても足りないほどの高騰魔術だ。努力ではたどり着けない、素養が全ての世界。老婆も、九尾でさえも、それを操ることはできない。
聖騎士、彼には速度という概念が存在しない。本来連綿と続くはずの時間軸を唯一断絶できる彼は、認識したものからダメージを食らうなど、考えられるはずもない。
勇者の剣が、やはり空を切る。
聖騎士は勇者の背後へと姿を現していた。
しかし、そこまでが少女の読み通りである。
そこに合わせてミョルニルをすでに振るっている。
少女「――っ?」
少女の視界に銀色が入る。白銀の鎧ではない。もっと、いわゆる銀色然とした銀色が、一つ二つではなく、十数視界の中で煌めいている。
狩人「危ない!」
四方八方からナイフが少女を狙っていた。
少女「いつの間にっ……!」
言ってから少女はそれがまったく見当はずれであることに気が付く。時間を止めている間にナイフを投げれば、こんな芸当は他愛もない。いくら少女がまばたきすらも止めていたとしても、である。
叩き落とすか、差し違えるか。その逡巡が、けれど命とりであった。
聖騎士の姿が消える。
少女(後ろ――っ!)
わかっているのに体が動かない。目の前の脅威、ナイフの豪雨に備えてしまっている。
既に初動は始まっている。ミョルニルを振り、その風圧でナイフを叩き落とすが――
聖騎士「無駄だ」
背後から声が聞こえた。
わかっていた。そこに聖騎士が現れるだろうことを、少女は想定していた。していたが……
少女(間に合わない!)
それでも振り向く。腕の一本、腹の肉はくれてやる。だから、その命を。
戦闘不能になるだけの怪我を。
少女「アタシによこせぇえええっ!」
その刹那、少女の視界の中で火花が弾けた。それが、端からやってきた何かが聖騎士の剣に激突した衝撃であることを、少女は当然理解しているはずもない。それでも確かに体は動く。
体を捩じりながら、一息で聖騎士の肩口へとミョルニルを叩きつける。
肉体だけの堅さではなく、鎧だけのそれでもない手応え。恐らくは物理障壁を発生させる魔法が鎧に刻まれているのだろうと少女は思った。
ミョルニルの一撃は物理障壁を容易く打ち破り、聖騎士をそのまま森の奥へと吹き飛ばした。しかし油断はできない。先ほども彼はすぐに復活し、勇者たちに追いついて見せた。それがまぐれでも偶然でもないと、誰もが思う。
事実、聖騎士はむくりと起き上がったのだ。
狩人「二人とも!」
少女「おばあちゃんは!?」
狩人「気を失って……血の量はそうでもないけど、あたりどころがあんまりよくない。早めに何とかしないと」
勇者「魔法救護の道具が一つだけある、けど」
勇者は二人を見た。二人の考えも同じであった。
少女「あいつが許してくれはしない、か」
がちゃり、と聖騎士の鎧が音を立てる。今回は時を止めて近づいてこない。魔力が切れたわけではないようなので、単調な攻撃が利かない相手であると理解したのだろう。
勇者は苦し紛れに雷撃を放った。紫電はそのまま、まっすぐに聖騎士へと直撃する。
勇者「避けなかった……?」
白銀の鎧の魔力抵抗の高さでダメージは微々たるものらしいが、確かに命中した。勇者はてっきりまた時間操作で回避されると思っていたのだ。
いや。彼は考える。本質的に、雷撃を回避できる人間などいやしない。もし回避できるのだとすれば、それは発動を事前に予測したうえで射線上からずれているだけであって、雷撃が放たれてからでは遅いのだ。
恐らく聖騎士の時間操作は自動で行われない。誘発しない以上、聖騎士が自ら魔法を使っているのだ。
であるならば、雷撃は意識よりも早く聖騎士を襲うことができる。ダメージの多寡はともかくとして。
そう、問題はダメージなのだ。あの鎧を破壊するか、それともより強い雷撃を見舞うか……しかし勇者の雷撃は先ほど放ったもので精いっぱいである。あれ以上の威力は、先に彼の魔力が枯渇する。
解決の糸口は見つかりそうなのだが、途中で道がなくなっている。歯がゆい思いだ。
狩人もまた歯がゆい思いをしていた。弓を失くした彼女はもはや狩人ではなく、ただの少女であった。鏃も先ほど少女を助けるのに最後の一個を使ってしまい、腰に括り付けた袋の軽さは彼女の無力を現している。
なにをどうすればいいのかがわからない。いったい自分に何ができるのか。それを考えてはいるものの、これといった結論は探り当てられなかった。
せめて自分にも魔法が使えれば。生身で戦える強さがあれば。悔いても詮無いことを、けれど悔やまずにはいられない。
ずい、と狩人の視界の端で、少女が一歩前に出る。ところどころ黒く侵食されたその体は、万全の体調でないのは明らかだのに。
それを狩人は素直に凄いと思う。囚われ、勇者に助けられてから、彼女は明らかに変わった。
恐らく勇者が変えたのだという確信を狩人は持っている。そしてそれは事実である。
誰もが勇者に頼りたくなる、不思議な何かを彼は持っているのだ。
彼なら大言壮語が、本当に実現するのではないかと思えるほどの何かを。
少女「つまり、こういうことでしょ」
少女「認識よりも早く――意識されるよりも早く、アイツにミョルニルを叩ッ込めば!」
音もなく、今度は少女の顔面が――右の眼窩から耳、頬と額の一部に跨る形で、黒く抉り取られた。
何がスイッチなのか、彼らにはわからない。
少女はそれで己の視界が確かに半分になったことを知る。遠近感覚もうまく働かない。脳もいくばくか削り取られているはずだが、とりあえずは前後不覚になっていないし、思考もきちんとできている。
少女(わかった、わかった。オーケー。アタシにはどうせ考えることなんて似合わない)
今度はつま先から足の甲に至るまでが消えた。地面を掴んでいる感覚がない。
下手の考え休むに似たり。ただミョルニルを自分のために、何より勇者のためにふるえていれば、彼女は畢竟問題なかった。
心臓さえ働いていてくれれば。
地を蹴る少女。消える聖騎士。雷撃を放つ勇者。
聖騎士に攻撃は当たらない。しかし、聖騎士の攻撃もまた、彼らには当たらなかった。
いや、すんでのところで勇者と少女が避けているのだ。
これではだめだ、と狩人は思った。自分はいったい何をしているのだ、と。
狩人(私にも何か)
できることを。
狩人は嘗て勇者に、彼女の窮地を救いに来てと頼んだ。結果的にその言葉が勇者の窮地を救ったけれど、決して勇者を救うために言ったのではない。彼女は確かに一人の女として恋人に守ってもらいたかった。
それを少女趣味が過ぎると言うのは女心を理解していない人間だけだ。
が、今は違った。今は彼女「ら」の窮地であって、彼女の窮地ではない。今はむしろ、彼女が仲間を助けなければいけない場面。
狩人(もう、仲間を失うのは、いやだ!)
誰も目の前で死なせたりなんてしない。
そう念じた瞬間、指先に暖かさが募るのを狩人は理解した。
ゆえに、理解が、できない。
「ソレ」の正体は、魔力。本来彼女の体内には未熟な回路しか備わっていないはずの、魔力。
狩人自身はその正体を知らないが、ただ、何に使うためのモノであるのかはわかった。長年彼女の右手にあったもの。生きる道具。守る道具。自己同一性が形を成したもの。わからいでか。
虹の弓。
光の矢。
魔力によって具現化された武具。
たとえば、ウェパルの武装船団の同質の。
狩人「……っ!」
まるで誘われるように矢羽へ手を伸ばした。手に吸い付くような感触が伝わって、そのまま筈を弦にかけると、力を入れてもいないのに引き絞れる。
射る。
光の矢は確かに光であった。ただひたすらに真っ直ぐ飛び、直線のままに聖騎士の腕へと突き刺さる。
聖騎士は咄嗟に踏ん張りを利かせて転倒こそ避けたが、数メートル地面に足の痕跡を残すこととなった。
三人の視線が一斉に狩人へと向く。
狩人「虹の弓と光の矢」
狩人「正確に、関節を――」
狩人「撃ち抜く!」
光が集まって自然と矢を形作り、狩人はただ指を離すだけでよかった。
白い奔流が聖騎士へと降り注ぎ、鈍い音を立てながら鎧を穿っていく。それでも聖騎士の鎧の魔法抵抗は十分で、大したダメージを与えられているようには見えない。
狩人(威力が足りない……でもっ)
少女「隙ができれば十分ッ!」
光の僅かな隙間を縫って、少女は聖騎士へと逼迫する。
数度二刀とミョルニルが打ち合って、その間に光が聖騎士の足元を掬った。
少女「アタシたちの邪魔を、すんなぁあああ――!」
ごぶり。
ミョルニルを振り上げて、そして、そのまま少女の口から血が噴き出す。
胸元に大きく黒い抉れ。心臓はかろうじて回避している位置であるが、胃と、肺と、横隔膜が根こそぎ奪われている。
脚を踏み込んで押しとどめようとするが、すでに聖騎士は少女の眼前にはいない。
勇者「ちっ!」
勇者はあたり一面へと雷撃を降らせる。追撃だけは何としてでも避けなければならなかった。
草木を踏み倒す音の方向には聖騎士が立っている。おおよそ三人から十メートルといったところだろう。彼には一瞬で詰められる距離だ。
勇者「大丈夫か」
少女に迂闊に駆け寄ることはできなかった。聖騎士がにらみを利かせていて、不用意になど動けない。
少女「なんとか、ね」
それが強がりなことは一目瞭然だ。口から下は血まみれで、脂汗も酷い。足も常に震えている。
狩人「二十秒、耐えて」
少女「それだけで、何ができるって、言うんですか」
狩人「できる。やって見せる」
少女「……」
少女「やってもらなくても、死ぬだけ、か」
狩人はすっと手を勇者に差しだした。
その動きのあまりの自然さに、勇者も少女も、聖騎士さえも、動作が終わってからようやく気が付くありさまだった。
狩人の穏やかな顔。パーティ会場で「エスコートしてくださる?」とでも言わんばかりの、優雅な、そして何より満ち足りた表情。
思わず勇者はその手を取った。敵の眼前であっても、手を取らねばならないような気がしたから。
二人は互いの手を握り締める。
体温が交換される。
狩人「勇者、行こう」
あなたとならば、どこまででも行ける。
聖騎士の姿が消えた。同時に数十本のナイフが空中へと突如現れ、二人へと四方八方から襲いかかる。
しかし二人は動じない。二人の眼前には少女がいて、五体不満足が極まりながらも、しっかりとミョルニルで全てのナイフを打ち落としたからだ。
少女(なによなによなによっ、見せつけてくれるじゃないっ! もう!)
少女「わかったわ! 二十秒、命を懸けて稼いであげる!」
言いながらミョルニルを頭上に振るった。金属と金属のぶつかる音。そこには聖騎士がいて、またも姿を消す。
ナイフの雨の出現。打ち落とす。背後から現れる聖騎士と斬撃。切り結び、弾き飛ばし――数メートルの距離などゼロだ。聖騎士の二刀を回避しながら反撃。
二刀での連撃をミョルニルの大ぶりで迎え撃つ。数度のかち合いの後、ついに一刀が刃の中腹から砕け散る。それでも聖騎士は止まらない。人を殺すにはその命さえあればいいという気概で突っ込んでくる。無論、少女も小細工なしで迎え撃つ。
剣戟。手数では聖騎士に分があるが、重みでは少女に分がある。聖騎士は打ち合いをなるべく避けつつ、死角を取ろうと試みる。対する少女は木を背にするなどしながら、なんとか正面に聖騎士を出現させようともがく。
一刀の振り下ろしを少女は寸でで回避した。回り込んで攻撃。しかしそのときすでに聖騎士はおらず、変わりにナイフの雨が眼前へと迫る。
聖騎士が背後から一刀を振り上げた。
少女は反転を試みる。しかし抉れでどうしても反応は鈍い。意識も、体も。
この時点まで、僅か五秒。
悠久に感じるほど濃密に圧縮された時間の中、少女の左腕が、体という制約から解き放たれる。
血は出ない。剣戟の鋭さに、体は攻撃に気が付かない。
少女は吠えた。無意識の行動だった。
こんな奴に負けるわけにはいかないと、少女は先ほどからずっと思っていたのだ。
何が「こんな奴」なのかはわからないけれど、確かに目の前の聖騎士は所詮「こんな奴」にすぎなかった。その程度の男だった。
だから、負けるわけがない。
少女「負けるわけが! ないっ!」
左腕を右手が掴んだ。そのまま切断面と切断面を無理やりに押し付け――また吠える。
自分の体は自分のものだ。切り離されても、抉られても、自分のものなのだ。
自分の思い通りにならないわけがない。
少女はそのまま左腕で、
左?
左。
左腕で!
聖騎士を、殴り飛ばした。
高速で吹き飛ぶ聖騎士に、地面を蹴って追いすがる。聖騎士は時間を止めて対処しようとするが、時間を止めても止めても止まらない少女の追撃に、焦燥を感じずにはいられない。
圧縮された濃密な時間が解放される。
少女「二十秒! 確かに、稼いだわよ!」
血をまき散らしながら少女はまた吠えた。勝利の咆哮であった。
狩人と勇者が何をするかはわからないが、狩人が言ったからには勝利なのだ。そう信じられる程度には、少女は彼らを信じていた。
他の何においても信じられる程度には。
少女の視界の中で、手を固く結んだ二人の残った手、その間に小さな、けれど渦巻くほどの雷撃が現れていた。矢の形をした雷。いや、雷の姿を持った矢なのかもしれない。
ひどく中間的なその魔力体から聖騎士へと視線を向けて、狩人は呟く。
ぽつりと、一言。
狩人「インドラ」
―――――――――――――――――
―――――――――――――――――
聖騎士は「あぁ」と呟いた。そこには何の感慨もなく、ただ「あぁ」という呟きだけが漏れた。
光が聖騎士を照らす。雷撃の生み出す光。触れただけで溶け落ちそうな魔力の矢は、一瞬の思考、意識、反射すら待たずに彼の首から下を持っていく。
即死だった。僅かに時間があれば、彼は反応して時間操作を行い、逃げおおせるつもりだった。それもできないほどの威力と速度だけれど、なぜか不思議と、残る意識がある。
渦を巻き、尾を引く思考。
彼とともにあった、四人の仲間の姿。
彼は確かに見たのだ、彼が求め続けていたものを。
不完全ながらも。
それは決して彼の願いをかなえたわけではなかった。結局、彼は最後まで、自身のルーツを知ることはなかった。なぜ記憶喪失になったのかも。
しかし安穏の一助にはなった。自分にも確かに過去はあって、仲間がいたのだと思えたことは、彼の短い――記憶の上では――人生の中で、最大級の幸福だった。
そうして、やがて意識も絶える。
嘗て「魔王」と呼ばれた男は、こうして最期を遂げたのだった。
そんなことなど露知らず、勇者たちは老婆に駆け寄る。少女もふらふらになりながら、己の祖母のところへと、向かっていく。
勇者「ばあさん、大丈夫か!」
勇者が老婆の肩を揺さぶると、瞳が苦痛に歪みながらも、ゆっくりと開いた。
老婆「そんなに、叫ぶな……大丈夫じゃ、生きておるよ」
腹をさする老婆。破けたローブの隙間からは血の滲んだ包帯が見え隠れしている。
少女「本当に大丈夫なの?」
老婆「大丈夫じゃ。やられる寸前、治癒の陣地を体内に構築した……とはいえ、痛みはどうにもならんが、いつつっ!」
確かに老婆の腹から血液の流出はない。ナイフの刺さっていた箇所は、包帯の下ですでに瘡蓋になりつつあるのだろう。
聖騎士の攻撃が腹を一突きであったのが幸いだった。これがたとえば首を刎ねられたりしていたら、如何な老婆と言えどもどうしようもない。
とはいえ、どうしようもないのはむしろ聖騎士だった。時間操作によって停止した対象には、文字通り刃が立たない。ゆえに聖騎士は時間操作を主として移動のみに使っていたのだし、攻撃手段もナイフの物量に頼った。
勇者「大丈夫っていえば、お前も左腕、大丈夫なのか?」
一度は切り離された左腕。少女は自らの腕を上げ、手を握ったり開いたりして、なんでもないことを示して見せる。
まさか、という気分であった。あまりにそれは人間業ではない。
勇者「……お前もだんだん人間離れしてきたな」
少女「死んでも生き返るアンタに言われたかないわよ」
勇者「狩人もいつの間にあんな魔法を……狩人?」
狩人「……」
狩人は己の手を見る。突如として現れた弓と矢。それが出てくる原因を、意味を、狩人自身が図りかねている。
もし普段から魔法の訓練を積んでいたならば、結実とみることもできたろう。しかし狩人はいまだかつて魔法の訓練など行ったことがない。運が良かったと、ご都合主義だと思えばよかったのだろうか。
確かに己の体内に熱を狩人は感じていた。それは灯だ。ついぞ存在しないと思われていたものだ。
狩人は、なぜだか安らかな顔で転がっている聖騎士を見て、呟く。
狩人「私たちは過去を乗り越えて、未来のために生きている。過去のために生きてるあなたが勝てる道理は、ない」
後ろ向きであることを否定するつもりはないが、聖騎士の生き方は目的と過程において同一化のなされた、あまりにも後ろ向きすぎる営為であった。その営為の生み出す熱量は、所詮あの程度である。
前を向いて泥の中をもがく者たちに比べれば、とてもとても。
老婆「しかし……だいぶ魔力を消費してしまった、な。済まんが、このまますぐに行動というわけには、いかなさそうじゃ」
それもそのはずである。老婆はもともと陣地構築を得意としているわけではなかったし、ただでさえ本来ならば準備の要する呪文である。即座にその展開を可能にしたのは、老婆の類稀なる魔力量に他ならない。
必要とする行程はすべて魔力ですっ飛ばした。その結果として魔力が枯渇に近づいたとしてなんらおかしくはない。
少女「しょうがないね。おばあちゃんはゆっくり休んでて。アタシたちだけで、あの変態を――」
ぐらりと少女の体が傾いだ。勇者と狩人が手を伸ばすが、それよりも先に少女は地面に倒れる。
いや、さらにそれより先に、少女の全身が黒い抉れに飲み込まれ、消失した。
勇者と狩人の手は虚空を浚う。
脳が理解を拒んだ。
あまりにあっけなさすぎる結末。
勇者「は……?」
全ては油断が招いた結果だった。そのような誹りを受けても、誰も否定はできない。即効性のなさに後回しにしていたことが全ての問題だ。
寧ろ誹りを受けるくらいで過去を修正できるならば、どんな罵倒も拷問も受けるつもりだった。
だが現実はあまりにも苛烈で、過去はどこまで不可逆である。
名前を呼んでも、応えはない。
勇者「なんだよこれぇっ!」
勇者「ふざけんじゃねぇぞっ……!」
勇者はあたりを見渡した。どこかに偉丈夫がいて、この周囲からこちらの様子を窺っているのではないかと思ったのだ。
当然そんなはずはなかったし、勇者もそんなはずはないと思っていた。体を動かさなければ重責に押しつぶされてしまいそうだったのだ。
無論、勇者たちは知らない。偉丈夫の呪術の効力が及ぶ範囲を。その途方もなさを。
偉丈夫の呪術は、基本的に彼が死ぬか解除しなければ、隣国に逃げようともついて回るほど強力なものだということを。
狩人「勇者! とりあえず落ち着かないと!」
勇者「って言ったって!」
狩人「ここはもう敵陣で、戦場。なんのために私たちがここにいるのか思い出して!」
世界を平和にするのだ。わかっている。そんなことわかっている。忘れこともない。
それでも。
勇者「はいそうですか、って言えるわけねぇだろ……」
勇者が苛立ちを隠せずに舌打ちをした、その時である。
ずしん、と。
否。ずぅううううううん、と。
地を鳴り響かせる轟音が、林の奥、恐らく平原の戦場から、聞こえてきた。
それは単なる轟音ではなかった。地震を彷彿とさせる揺れを伴って、魔力の余波が、確かに彼らにも届く。
たっぷり三十秒ほど揺れて、ついに音も揺れも収まる。
勇者「……」
狩人「……」
老婆「……」
顔を見合わせる三人。一体奥地で何が起こったのか、想像だにできなかった。
狩人「あれが、核、ってやつなの?」
呆然と狩人は尋ねた。老婆は音源から顔を逸らさず、僅かに顔を横に振る。
老婆「あれは途方もない熱波を伴う。この辺りが焦土になっていないということは、あれは核魔法では、ない」
狩人「なら……」
あれはいったい何なのか。
狩人はその言葉を飲み込んだ。が、二人も気持ちは同じだった。
魔法に精通している老婆に正体がわからないということは、滅多なことではありえない。そこにある何かは、恐らくイレギュラーだ。そしてそのイレギュラーがプラスに働かないことは明白である。
考える間もなく勇者は立ち上がる。頭に上った血はだいぶ降りてきていた。
勇者「行くぞ」
狩人「……うん」
老婆「わしを置いて行ってくれるなよ」
老婆も何とか立ち上がって言った。
声が一人分足りないことはいまだに精神を苛む。しかし、勇者は知っていた。悼むことはいつでもできるのだと。そして全てが終わってから悼むことこそが、少女にとって本当の悼みになるのだと。
三人は視線を交わらせる。そうして頷いたのち、駆けた。
木を避け、藪を突っ切り、下草を踏みつけながら走る。
勇者(おかしい)
先ほど狩人が言ったように、ここは戦場で敵陣だ。それだのに……
勇者(敵兵が、いない?)
あの轟音が敵軍のものならば、敵兵は恐らくそのことを知っているはず。敵兵がいないということは、轟音のもとを対処するために持ち場を離れたのだろう。
その事実は逆説的に、あの轟音が勇者たちの国のものであることを意味している。しかしその仮説は、老婆が轟音の正体を知らないことで否定される。彼女の知らないほどの機密だというのは考えにくい。
曲がりなりにも彼女は兵器としての個人で、さらにかつての戦争の英雄なのだ。
ならば導き出せる帰結はただ一つ。あの轟音は恐らく第三者が引き起こしたものだということ。
勇者「っ!」
剣を抜き、走りざまに切りつける。
手ごたえがあって、トロールの脂肪のついた首から上が、地面に転がった。
数度痙攣して緑色の体もまた崩れ落ちる。
狩人「トロールなんて、この辺にいたっけ?」
老婆「いや、いないはずじゃ。が……」
勇者「いるんだから、いるんだろうよっ!」
三人の視界いっぱいに魔物の大群が押し寄せていた。
トロール。コボルト。スライム。ゴブリン。キメラ。ローパー。そしてそれらの眷属たち。明らかに地上にいるはずのない、水棲の魔物まで這いずってきている。
勇者「なんだ、これ……」
十や二十では利かない数の魔物に、思わず体の力が抜ける勇者。誰だってわかる。これが異常事態であることに。
ゴブリンメイジが放った火球を、狩人が光の矢で相殺させる。
狩人「ぼーっとしちゃだめ」
勇者「あ、あぁ。悪い」
老婆「轟音と関係があるんじゃろうな、きっと」
そして、魔物たちはここにだけ押し寄せているわけではあるまいとも、老婆は思った。
轟音の正体が敵軍でも自軍でもないのだとすれば、それは第三者以外が引き起こしたものに他ならない。そしてその第三者足りえるのは、この現状を鑑みるに、魔王軍しか考えられない。
魔王軍の目的が何なのかはひとまず置いておくとして、意味もなくこのような事態が起こるはずはなかった。
老婆のその考えはほぼ十割が的中している。あの轟音の正体は確かに九尾によるものであるし、この魔物の大群も、全て九尾が用意したものであった。
その数、一億八千万。
数を多く用意した分個々の強さは落ちたが、九尾がほしいのは質より量。軍隊の足止めができればそれでよいのである。
勇者「くそっ! 倒しても倒してもキリがねぇ!」
狩人「勇者!」
狩人が手を伸ばす。魔力の奔流がその手のうちに生まれている。
勇者はそれに合わせた。手を取り、己の魔力を手のひらに顕現、狩人の魔力と練り上げる形で雷に形を付与していく。
狩人「私たちの邪魔は、させないっ――インドラ!」
閃光が魔物たちを食い尽くしていく。あくまで貪欲な悪魔の矢は、彼らの前方に位置した魔物たちを、一体一体ではなく塊として焼失させる。生物と無生物の区別なく、焦土が広がるばかりだ。
しかし魔物たちは止まらなかった。もとより恐怖という感情すらないほどの低能である。焦げ付いた地面に足の裏を焼かれても止まることなく、ずんずんと向かってくる。
狩人「もう一発!」
インドラが作った禿道の上を走りながら、二人はもう一度、インドラを魔物たちに向けて放った。閃光とともに一瞬で魔物が蒸発するが、しかし、全滅には程遠い。
インドラが弱いわけではない。ただ、雷の矢は限りなく個人を殺すためのものだ。百の強さの一人を殺すことはできても、一の強さの百人を殺すには不向きである。
何より行く手を阻まれては、単なる固定砲台にしかならない。専守防衛ならばそれもよいが、彼らの目的はこの先に向かうことである。インドラでは役割が違うのだ。
老婆「退いておれ、二人とも」
僅かな魔力から特大の火球を生成し、それを大群に向けて解き放つ。速度こそ決して早くないけれど、火炎は木を飲み込み、魔物を飲み込み、止まる様子を見せない。
老婆「この後ろについて走れ! 行くぞ!」
熱気と火の粉が肌を撫でていく。それでも確かに、僅かに、前へとは進めていた。
時折左右から迫りくる魔物を蹴散らしながら、三人は火球の後を追って走る。
と、突如として火球が押しとどめられる。それどころか段々と縮小し、僅かな光とともに炸裂、雲散した。
前方に鋼のウロコを備えた、燃えるように赤い巨大なトカゲが、舌を出しながら三人を睨みつけている。
老婆「サラマンダーッ!?」
回避行動をとるよりも先に、サラマンダーが灼熱の息を放つ。骨すらも残さない高熱の炎は、周囲の木々と、仲間であるはずの魔物すらも炎で包み、構わず根絶やしにしてゆく。
老婆は対ブレス用の障壁を張って被害を軽減するが、サラマンダーの目つきを見る限り、どうやら逃がしてはくれないようだ。
口から放たれる火炎弾を狩人が打ち抜き、その隙を狙って勇者は切りかかる。固いウロコに剣の利きは悪いが、電撃は普通に効果がある。サラマンダーは距離を取ってブレス攻撃を続けてきた。
狩人「ふっ!」
光の矢が幾本も降り注ぐ。それらは正確にサラマンダーの関節を撃ち抜くが、すぐに炎で燃え、炭になった。
勇者「埒があかない! 逃げるぞ!」
ブレス攻撃の隙をついて三人はサラマンダーの脇を抜けて走り去る。後ろから地響きとともにサラマンダーが追ってくるも、その速度は脅威ではなかった。
寧ろ脅威は目の前の魔物たち。肉の壁となって立ちはだかるそれらを、勇者は切り、狩人は穿ち、老婆は薙ぎ払っていくが、進むにつれてその密度もだんだん濃くなっていく。
「これはどういうことなのよっ!?」
声とともに三人の後方からサラマンダーが吹き飛んできた。
赤熱するその爬虫類は、体液もまた赤く燃えている。それを周囲の魔物にぶちまけながら、まとめて吹き飛んでいく。
少女であった。
彼女は険しい表情をしながらも、ミョルニルを構えて魔物の集団に突っ込んでいく。
勇者「おい、なんで……」
少女「アタシだってわっかんないわよ! 気が付いたら戻ってきてたの! それとも、なに、アタシなんて必要なかった!?」
全力でスイングしたミョルニルは、トロールの腹を撃ち抜いて、そのまま前方に吹き飛ばす。そうして空いた空間に少女はさらに躍り出る。
少女「何が何だか分かんないなら足を止めないほうがいいんじゃない!?」
その言葉に行動でもって三人は返事とした。少女の後に追従して、あたりの魔物を薙ぎ払いながら突き進んでいく。
やはり純粋な突破力という一点で言えば、それは少女に分があった。力任せに殴りつけて遠くまで飛ばすという、原初の攻撃は、けれども前に進むだけならば有効だ。
そうしてどれだけ進んだろうか、ついに森の先に切れ目が見えてくる。光が差し込んで白く輝いているのだ。
四人は光の下へと踏み入れた。
勇者「っ!」
目を凝らすまでもなかった。地平線のように固まり、並び、蠢く魔物と、その中心に一つの塔が立っているのがわかる。
塔は窓もない角柱で、ただただ白い。まるでオベリスクだ。
蠢く魔物たちの動きを見ていれば、彼らがあの塔の周辺に設置された魔方陣から、次々と生み出されているのが見て取れる。
そして魔物たちをさらに囲むように、兵士たち。
身に着けている鎧に違いはないものの、それぞれ二つの旗印を中心とした軍勢があった。赤と青を基調としたものが勇者たちの軍、白と灰色を基調としたものが敵軍のものだ。
最初三つ巴なのかと勇者は思ったが、違った。兵士たちは魔物たちと戦っていて、決して人間同士で戦いを行おうとはしていない。その余裕がないのか、何らかの取り決めが一瞬でなされたのかは、わからないが。
人間の抵抗虚しく、じりじりと魔物の軍勢は拡大し、塔を中心とする黒い円もその直系を広げていた。何せ魔方陣から生み出される数が途方もないのだ。所詮数千人の人間で止められるわけもない。
勇者たちは急いで塔へと向かっていく。何が起きているのかはわからないが、どうすればいいのかは一目瞭然だった。
途中で数人の兵士たちと出会った。勇者らは彼らを知らないが、彼らは勇者を知っているようで、うれしそうな、しかし緊迫した様子で声をかけてくる。
兵士「おう、あんたらも来てたのか! こりゃ助かる!」
勇者「どうしたんだ、これ」
兵士「俺たちにもわからん! ただ、急に地面が揺れたかと思ったら、あんな塔が出てきやがった。そして魔物もだ! ちくしょう!」
狩人「敵軍は」
兵士「それもわからん! 俺たちは最初敵軍の秘密兵器かなんかだと思ったんだ、でも、魔物は敵兵も喰った。どうやらあっちのものじゃあないらしい」
兵士「だから今は停戦だ。そんなお達しがあったわけじゃねぇが、ま、暗黙の了解ってやつで、とりあえずは魔物をぶっ殺すって話だぜ」
勇者「そうか。ありがとう」
兵士「なに、いいってことよ。お前らには期待してるんだ。悪いが、一緒に食い止めてくれ」
少女「合点!」
「お前ら、生きていたのか」
声のする方向を向けば、そこには上半身裸、衣類はふんどし一枚の男が、剣を振るう兵士の後ろで脂汗を流していた。
彼らに呪いをかけた偉丈夫その人である。
少女「あ、あんた――!」
偉丈夫「待て。我はもう呪術を解除した。いや、解除せざるをえなかった」
老婆「魔物か」
偉丈夫「そうだ。今、両軍で魔物を抑えにかかっている。魔方陣の解除の仕方はわからなかった。が、恐らくこの塔の中に、犯人がいるのだとは思う」
偉丈夫「……団長を倒したのか」
いささか驚いたふうに偉丈夫は言った。聖騎士として彼の強さを知っている者としては、なおさら信じがたかったのだろう。しかし、勇者らがここにいることが何よりの証左だった。
狩人「……うん」
偉丈夫「いや、何も言うまい」
偉丈夫はそこで一度会話を打ち切り、黒い光に包まれた両の手を、胸の前で勢いよく合わせた。
黒い波動が両手を中心に迸り、生物の体を貫通していく。
ぐらり、と魔物たちの体が揺れた。見れば体中が抉れに侵されている。
倒れた魔物の上を後方から来た魔物が踏みつけて進んでいく。それに合わせて銀色の甲冑を身に着けた偉丈夫の部下たちが迎え撃った。
密集した長槍の穂が無計画に突っ込んでくるゴブリンを串刺しにするが、さらにその後ろからの圧力に、じりじりと後退を迫られている。
兵士「聖騎士様! このままでは埒があきません!」
偉丈夫「何としてでも耐えろ! 全身全霊を振り絞れ! 今本隊と交信を行っている最中である!」
兵士たちが一斉に「はい!」と答え、唸った。
偉丈夫はそれを険しい表情で見つめている。彼は交信など行っていなかったからだ。
塔が姿を現したその時、すぐに彼は本隊に今後の策を尋ねた。そして本隊は答えなかった。状況の把握ができていなかったことと、それでも彼らの手に余る事態であることを、保身に長けた上層部は知っていたからだ。
この防衛線の先には未来がない。ただ事態の先延ばしがあるだけである。それでも、偉丈夫はそれを行っている。
理由など考えるまでもなかった。
兵士「右前方で一部防衛ラインが決壊、一部の魔物が漏れ出しています! あそこから崩されます!」
少女「アタシたちが――!」
偉丈夫「行くな!」
偉丈夫が手を向けたその先に紫色の杭が撃ち込まれる。大人一人はあろうかという杭は、兵士たちをなぎ倒しながら進む魔物の進路を塞ぎ、それだけではなく鼓動も止める。
杭から放たれる毒素の霧を吸い込んだ魔物は、ばたばたと倒れ伏していく。
偉丈夫「我はこの場を離れられん。なんとかして、食い止めなければ」
偉丈夫「ここはまだいい。人気が少ないからな。しかし、数キロ離れた地点には村がある。町がある。そこに住む人がいる。そいつらに牙を向けさせてはならないのである」
偉丈夫「そのために我ら兵士はいるのだからな」
ここは偉丈夫たちの国土なのだ。緊迫も勇者たちの比ではないのだろう。
彼らが決死の覚悟で防衛線を築いているのはそのためだ。
とはいえ畢竟勇者たちも同じではあるのだ。だけでなく、自国の兵士もまた。このまま際限なく魔物が湧き続ければ――そんな怖気もよだつような思考はどうしても頭から離れない。
愛する者のため、家族のため、命を賭しても成し遂げなければならないことがあるのだった。
偉丈夫「お前ら、我が道を開ける。塔へと突っ込め」
狩人「……いいの?」
勇者「そんな大役……」
偉丈夫「怖気づくか? 団長を倒したお前らなら、あるいは、な」
勇者はちらりと三人を見た。狩人も、少女も、老婆も、その視線を受けて小さく、だがしっかりと頷く。
偉丈夫「済まない、頼むぞ!」
偉丈夫「裂ける地、割れる空、静謐なる澱み、ぬかるみの恍惚! 心の拒絶千里を走り、その道程に敵は無し!」
偉丈夫「マヌーサ!」
魔物の頭上で黒い粒子が拡散していく。数秒後、周囲の魔物は一斉に、あるものは同士討ちをはじめ、またあるものはその場でぐるぐると回りだした。
初歩的な眩惑呪文である。しかし、それを数百数千という対象のかけて見せるとは、さすが聖騎士の一員と称賛できよう。
勇者「今のうちに、ってことかい」
老婆「あとは任された」
狩人「なんとかしてくる」
少女「期待して、待っててよ!」
誰よりも早く少女が駆けた。地を蹴り上げたその速度は、それまでの呪術に蝕まれた体が嘘であるかのように軽快で、あらぬ方向を向く魔物たちを蹴散らしながら進んでいく。
それをサポートするのは老婆と狩人だ。頭上から降り注ぐ光の矢と火炎弾に魔物たちは為す術もない。胸を穿たれ、頭を焼かれては、たとえ生命力の強いキャタピラーであろうとも一瞬である。
背後や側面から迫るインプは勇者が雷撃で撃ち落とす。閃光が放たれるたびに、焼け焦げた醜悪な使い魔は地面へと無残に落下してゆく。
光の矢が最後のぶちスライムを粉々にしたとき、勇者たちはすでに魔方陣の上に立っていた。
淡く光る六芒星と、それを取り囲む三重の円。円と円の間には細かなルーン文字が書かれている。あくまで一般的な召喚魔法陣ではあるが、ただそれが塔をぐるりと囲んでいるとなると、結果として途方もない召喚魔法陣と呼べるだろう。
入り口はあったが先は暗闇で何も見えない。時刻は昼で、太陽の光は確かに差し込んでいるはずなのに、薄暗いという次元を超越している。
老婆「魔法的な処理が施されている。空間転送か、遮断か……」
少女「入れないってことは?」
老婆「それはない。そういう処理はされていない」
勇者「誰でもウェルカム状態ってことか。逆に怪しいな」
狩人「でも、行かなくちゃ」
少女「そう、その通り! 行くっきゃないっしょ、おばあちゃん!」
制止をする間もなく塔の中へと歩いていく少女。それを勇者たちは慌てて追って、漆黒の中へと体を埋めてゆく。
気が付けばそこは四角い空間であった。三十メートル四方の、正方形の空間。茶色い土壁のような印象を受けるが、その実どこもかしこも魔法的な障壁が張られている。
部屋の隅に丸く魔方陣があって、薄く光っている。転移用のポータルとして起動しているそれ以外は、出入り口がない。たった今四人が入ってきたはずの入り口でさえもなくなっていた。
四人はとりあえず寄り添って一塊になる。どこから何が襲ってきてもいいように。
「もし。お前ら、元気か」
虚空から声が響いた。彼らにとって聞きたくのないであろう――そしてしばらくぶりの声だ。
勇者の顔が歪む。老婆もまた、「やはりか」といった表情で、眉根を寄せた。
その声は九尾のものだ。
九尾「魔方陣と魔物を生み出しているのは、九尾だ」
四人に動じるところはない。恐らく想像はしていたのだろう。
もしかするとちょっかいをかけすぎたかな、と九尾は思う。もしそうなのだとすれば、それは恐らくアルプの影響を受けてしまったのだとも、思った。
しかし。九尾は考え直す。計画は絵図通りに進んでいる。ここまできての計画変更はあり得なかった。
九尾「魔方陣を止めたければ――世界を救いたければ、この塔の最上階まで登ってこい。以上だ。健闘を祈る」
老婆「待て!」
老婆の声が響くよりも先に、彼らが感じていた九尾の気配が消失する。そしてそれと入れ替わり形で、部屋の隅に害悪的な存在感が、重みをもって現れた。
桃色の髪の毛と光彩。燃えるように赤い唇。絶世の美貌。そして恐ろしいまでに蠱惑的な表情。恐怖が不思議と彼女にスパイスとなって降りかかり、老若男女を問わずに死地へと追いやる。
魔王軍四天王、序列四位、夢魔・アルプ。
彼女は壁にもたれかかるように立って、にやりと笑った。
―――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――
アルプ「へろー、久しぶりだね」
あくまでも気さくにアルプは言った。それに対する四人の返事は、武器を構える。
アルプ「待って、今からルールを説明するから」
勇者「ルール? 俺とお前らは敵だろう」
アルプ「それでも、だよ。何事にもルールはある。戦争にもあるようにね」
アルプ「勘違いしないでよ。あくまで攻めてるのはこっち。ルールに従えないって言うなら、交渉は決裂。人類は滅亡。オーケィ?」
勇者「……」
アルプ「とりあえず武器を下ろしてよ」
無言のままに四人は武器を下ろした。アルプに攻撃の姿勢が見えないというのもその一助となった。
とはいえ、アルプは目を合わせるだけで人と物を魅了できる。そのことを特に勇者と狩人が忘れているわけはなかった。アルプの瞳を視線に入れないように、足元に視線をやっている。
アルプ「じゃ、ルール説明。この塔は四階建て。最上階に九尾がいて、九尾を倒せば魔方陣は止まります」
アルプ「で、各階、つまり一階と二階と三階には、四天王がいるよ」
アルプ「きみらは各階で四天王と戦って倒してください。全員倒せば魔方陣は解除されるっていう寸法だから」
アルプ「ただし、一人だけ。戦うのは一人。残りの人は次の階に行って、また別の四天王と戦う。あくまでフェアにやる」
アルプ「何か質問は?」
老婆「なんでこんなことを」
アルプ「おっと、ストップ。それは関係のない質問っしょ。ま、いずれわかるよ」
アルプ「ほかには?」
勇者たちは顔を見合わせる。アルプの、ひいては九尾の意図が彼らにはわからなかったし、だからといって暗闇の中に飛び込んでいくほど愚かでもなかった。
ただし時間がないのもまた事実。一刻も早く魔物の召喚を食い止めたい彼らにとっては、たとえ暗闇が地獄であったとしても飛び込まざるを得ない。飛び込む覚悟でやってきていた。
狩人が一歩前へと踏み出した。
狩人「私が、行く」
勇者「大丈夫なのか」
狩人「大丈夫。それに何より、こいつとは、因縁がある」
ぎろりと狩人はアルプを睨みつけた。三白眼にひるむことなく、アルプは適当にあくびを一つして、「ふん」と笑い飛ばす。
アルプ「根に持つタイプだねぇ」
狩人「生きることは遊びじゃない」
アルプの顔が皮肉っぽく歪んだ。
アルプ「生きることは娯楽だって」
狩人「……本当に、あなたの存在って、反吐が出る」
アルプ「お、奇遇ゥッ! 実は私もそうなのよねぇ」
狩人「勇者、早く」
既に臨戦態勢の二人を見やりながら、三人はじりじりと後ろへと下がっていく。
ポータル乗り込むと光が三人を包み込んだ。そうして、ややあってから三人は光とともに消えていく。一つ上の階へと進んだのだろう。
狩人は左手に虹の弓、右手に光の矢を顕現させ、無言のままに跳んだ。
既に戦闘は始まっている。三人が消えきったのがその合図。
アルプ「どういう裏技を使ったのさ。きみ、魔法なんて使えないはずでしょ」
返事を射撃に変えて狩人は放った。数条の光線が弧を描きながらアルプへと襲いかかる。
アルプの反応よりも先に、すでに彼女は壁を蹴って方向を転換。異なる方向から斉射を浴びせかけた。
光の矢が壁へと突き刺さっていく。ひらりと身を翻して十数の矢を全て回避したアルプは、羽を一度大きく羽ばたかせ、その勢いで狩人に切迫する。
アルプは真っ直ぐに狩人を見た。桃色の瞳が、まるで炎のように揺らめいている。
見てはいけないと思う暇もなかった。ぐんと引力に精神と肉体が支配される。
狩人「くっ!」
小指を自力で折る。激痛で思わず息が漏れていくが、脳髄に延ばされた手は確かに振りほどけたようだった。
狩人はそのまま光の矢を乱射しながら、極力アルプの首から下だけを見つつ、距離を開ける。
そこをアルプが追いすがる。彼女の精神攻撃を耐える術は限られている。対抗ではなく、予防が必要だった。
狩人「しつこい!」
弦が鳴る。
放つたびに現れる光の矢は、それこそ狩人にとってはいつまでも撃ち続けられる弾丸である。張られた弾幕にアルプも一旦たたらを踏んだ。
しかし、
アルプ「私の魅力に酔いしれるがよいさっ!」
光の矢が急激に方向を転換し、地面、天上、壁へと突き刺さる。そしてアルプは速度を落とさない。驚きで歩みを遅らせた狩人とは対照的に。
アルプの魅了は生物だけではなく無生物すらも支配下に置くことができる。当然、対象が魔力的なものであっても例外ではない。
アルプ「あと! 私がチャームしかできないなんて、思ってるんじゃないよね?」
壁際へと追いやられていた狩人はそれを嫌って、だが、不自然に足が縺れた。そのまま背中から壁へと激突する。
違和感があった。手の先と、足先が、ぴりぴりと確かに痺れている。いや、それだけではない。脹脛は痙攣までしているではないか。
身体の酷使か――一瞬だけ狩人の脳裏にそんな疑問がよぎるが、そんなはずはない。確かにハードな生活を送っているとは言っても、この程度で根を上げる体のつもりはなかった。
狩人「麻痺……ッ」
アルプ「私が操るのは精神だけじゃなくて、神経も」
反射的に弓を構え、番えようとして、その腕を思いきりアルプが踏みつけた。
狩人「うあっ!」
アルプ「させないよ」
アルプ「ねぇ、なんで急に魔法が使えるようになったの? 私、それだけが気になって気になってしょうがないんだけど?」
狩人「そんなの、私が聞きたい」
アルプ「ふーん。わかんないんだ」
狩人の前髪をアルプは掴みあげ、無理やりに己のほうを向かせる。
三白眼と桃色の瞳が、否が応でも真っ直ぐに交じり合う。
狩人「よそ見してていいの?」
アルプ「!?」
確かな魔力の存在を感じて、アルプは思わず振り返った。その瞬間、アルプの羽を穿つ形で、数本の光の矢がアルプを襲う。
飛び散る血液。体をかきむしる激痛。けれど、久しく感じていなかったその痛みという感覚は、アルプにとってはまさしく甘美なものだった。思わず口元に笑みが浮かんでしまうくらいには。
アルプの力が弱まった瞬間を見計らって狩人は飛び出す。まだ麻痺は継続しているが、動けないほどでも弓を握れないほどでもない。
状態異常を操る敵を相手取って、こちらに回復薬がいないのだとすれば、それは短期決戦しか攻略法がない。
そもそも時間をかけるつもりもなかった。狩人はアルプと戦いに来たわけではない。ここはあくまで通過点に過ぎないのだ。ゆえに、より迅速にアルプを倒し、あの魔方陣を解除しなければいけない。
それはつまりここでの勝利条件が単にアルプを倒すだけでは駄目だということをも意味していた。倒したうえで生き残り、勇者らと合流しなければいけないのだ。
結果的に偶然授かった狩人の新たな弓と矢であるが、彼女はすでにその能力を我が物としつつあった。単純な弓と矢の性質に加えて、光は収束し、ある程度彼女の意思に従った軌道を描く。
一度に放てるのは四発が限界だが、速射が従来の比ではない。矢を引き抜いて番え、引き絞り、放つという工程の一切を省いた結果、詰め寄られてからすら射出は間に合うようになった。
とはいえ、彼女がまだその能力の深奥を測りきれていないのも事実だった。魔力はいったいどこから供給されているのか。残弾の有無は。そのあたりは丸ごとブラックボックスに押し込まれている。
狩人(だけどっ!)
そんなことを気にしないという選択肢を彼女は選んでいた。
光の矢を顕現。同時に、それをすぐさま放つのではなく、顕現した場所に停滞させていく。
移動しながら設置し続け、ぐるりとアルプを囲むように走る。
アルプはその行為が意図するところをすぐに察したらしく、穴の開いた羽を一度はばたかせ、その勢いで素早く立ち上がった。
アルプ「殺すなって言われてるんだけど、なぁっ!」
アルプの体から緑色の霧が吹きだされる。
狩人はその正体に心当たりがあった。猛毒の霧。殺意を噴霧するその技は、アルプレベルともなると、一体どれだけの少量で人を死に至らしめるのか全くわからない。
息を止めるだけでは生ぬるい。皮膚からも粘膜からも毒素は沁みこんでくるはずだ。
足元にたまる毒素に耐え切れず、狩人は光の矢を一斉に射出した。その勢いでもって猛毒の霧を散らし、中を掻い潜って今まさに突っ込んできているアルプと、真っ向から対峙する。
狩人が撃った矢をアルプは魅了してそらし、桃色の瞳で狩人を見る。一瞬だけだがその瞳をまともに見てしまった狩人は、大きく前後不覚に陥る。
アルプ「『スタン』したね! でもそれだけじゃ、まだまだ――もうちょっとゆっくりしてもいいんじゃないの!?」
途端に狩人の体が重くなる。麻痺だ。
一体いつ、どこで麻痺を受けたのか、狩人にはわからない。力の入らない体に鞭をうって、一発、矢を放つ――魅了されて壁へと突き刺さる。
アルプのつま先が狩人の鳩尾へとめり込んだ。勢いよく床を転がる狩人と、容赦なくそこへと追いすがるアルプ。床には毒素がまだ沈殿している。
狩人(これは、危険……っ!)
ある程度なら毒素に抵抗のある狩人も、アルプの毒素にまで抵抗はできない。起き上がろうとするも、四肢は確かに麻痺しているのだ。
狩人(なんとか起き上がらないとっ!)
光の矢を床に向けて放つと、大きな炸裂が起きた。魔力は狩人の体を弾き飛ばすと同時に傷つけても行くが、あのまま毒に侵され続けるよりはましだと彼女は思った。
アルプ「『麻痺』にも慣れちゃった? なら今度は頭にゴー!」
アルプが指を鳴らすと同時に、アルプの姿が四人に増える。否、狩人は妙に重い頭を無理やり振って、その事実を否定した。
なぜなら、四つに見えるのはアルプの姿だけではないからだ。
自らの手も、弓も、矢も、すべてがぼやけて増殖して見える。
それだけではない。空間のところどころは捩じれて歪み、陽炎のように揺らめいていた。
狩人(混乱ッ……)
アルプ「状態異常なんて一つ与えれば十分! 私が指揮してあげるから、好き勝手に踊ればいいよ!」
アルプの恐ろしさは何よりその性格にあるが、それでも能力もまた強力かつ無比であることに違いはない。
彼女は状態異常の性質を変えることのできる能力の持ち主である。
即ち、スタンを麻痺に、麻痺を混乱に、そして混乱を毒に、変化させることができるのだ。彼女の前では状態異常の耐性など無意味に等しい。それこそすべてに完全なる耐性を持たないのでない限り。
そして意識を混乱へと導かれている間に、すでにアルプは狩人へと切迫している。
甘ったるいアルプの芳香が、狩人には確かに香った。それだけで脳をくらくらさせる、淫靡な香りだ。
狩人(光の――)
アルプ「遅い遅いね遅いよ遅いとき遅ければ、遅い!」
光の矢を掴んでいた右手が大きく火炎に包まれた。まとわりつくように粘ついたその炎は、じりじりと狩人の右手を燃やしだす。
同時にアルプの左手が狩人の首へとかかった。反射的に手首を掴み、首の骨を折られるのは避けたものの、がら空きになった胴体へアルプの蹴りが決まった。
なんとか解いて狩人は地面へ手を叩きつけるも、それで火が消える気配はない。針で皮膚を何度も突き刺されるような激痛が絶え間なく神経を苛み、混乱と相まって世界が赤と黒に明滅し続けている。
唐突に胸から込み上げてくるものがあって、手を口にやるよりも早く何かがこぼれていく。ぼやけた視界の中でもそれが何か分かった。血だ。
狩人(毒が……回ってきてるっ……)
狩人(なんとか、しないと。なんとか……)
死が近い。
足音がすぐそばで聞こえる。
「あいつ」は、すぐそばに来るまで気が付かないほど静かだ。そのくせ隣に来たときはこれでもかというくらいに自己主張をしてくる。狩人は「あいつ」、死という存在が自らのそばで顔を覗き込んでいるのではないかと思った。
家族のみならず一族郎党まですべてがあいつの鎌の餌食となった。しかし、狩人は死を恐れこそするが、憎みはしない。死は誰にでも平等で、いつか彼女の下にもやってくることは自明だったからだ。
ゆえに、許せないのは魔物だった。そして魔王だった。
人間に仇なす存在がいなければ、愛する人々は死ななくても済んだのに。
そのためにここまでやってきたのだ。もう二度と、自分の愛する人を、誰かが愛している人を、失う/失わせることのないために。
世界を救うために。
そうだ、世界を救うのだ。大仰な、大言壮語。それを狩人は不可能とは思えなかった。なぜなら彼女には勇者がいる。彼と一緒ならば、どこにだって行ける気がした。
彼は不思議とそう思わせる人種なのだ。
狩人は旅を通して、何より戦争を通して、わかったことがある。世界を救うことは魔物を倒すことでも、ましてや魔王を倒すことでもないのだと。
ならば一体世界を救うとは何か。その答えを、けれど狩人はいまだ用意できていなかった。ただ従来のそれでは世界を救えないことだけはわかった。
方法はこれから探す。
ここで死んでなんかいられない。
死が平等で、いつかは自分のそばに立つものだとしても。
「いつ」はいつかで、今ではない。
狩人(動いて、私の足)
狩人(動いて、私の手)
狩人(動いてよ、私の体ッ!)
狩人「動けぇええええええっ!」
絶叫を中断させるようにアルプの炎が、今度は左手も焼いた。さらに蹴りまでもが飛んできて、大きく吹き飛んで壁へと激突する。
体中の骨が軋んだ。どこかが折れているのかもしれない。
だのに、心は折れない。不思議なことではない。
だから、立ち上がれもする。
狩人「うご、けっ……!」
アルプ「執念は認めるけどさ、どうやって私に勝つつもりかにゃ?」
狩人「まだ、インドラが、ある」
あの雷神ならば、たとえアルプでさえもチャームできないに違いない。もしされた場合には……それこそ一貫の終わりだ。
アルプ「……ま、期待しないでおくよ」
アルプの姿が消える。同時に砕けた壁の破片が周囲から狩人を目指して向かってくる。
彼女はそれを光の矢でなんとか撃ち落とし、精神と皮膚の端を削りながらも、なんとか命だけはとどめていく。
体と生命の原型がだんだんと擦り減っていく中、確かに狩人は、自分のそばに死が立っているのを見た。
狩人(こっちに来るな! まだ私は、やれる!)
踏み込むたびに体が歪む。最早片足では体重を支えられない。
口の中が血まみれで不快極まりなかった。血を吐いても吐いてもたまるので、すでに狩人は対処するのを止めている。
アルプはそんな狩人を見ながら、最初は楽しそうな、未知の生物を見るような眼をしていたが、そのうち次第に眉根を寄せ始めていた。その感情は嫌悪であり、忌避に近い。
アルプ「なんでそんな頑張るのさ」
アルプの指の一振りで、狩人の体内の毒が、全て四肢への麻痺へと変換される。途端に狩人はバランスを崩し、受け身も満足に取れないまま地面へと倒れこんだ。
アルプ「どうせみんな死ぬんだから、楽しまなきゃ損でしょ。誰かと遊ぶよりも誰かで遊ばないと」
狩人「あなたの……人生観なんて聞いてない」
アルプ「私は興味がある」
吐息がかかる距離まで顔を近づけたアルプは、まっすぐに狩人の目を見た。麻痺している狩人の体はそれを拒むことができない。
アルプ「夢魔族は滅亡した。先代の魔王様が生み出してくれた八六人の夢魔は、私を除いてみんな殺された。人間に。それはしょうがない。どうせいつか私も死ぬ。なら私は、誰に迷惑をかけたっていい」
アルプ「迷惑をかけて楽しむような畜生に、私はなりたい」
アルプ「恋慕だとか、情だとか、それに基づいて誰かを守るだとかがそんなに大事? それがそんなに強い力を生み出すもん?」
アルプ「私にゃ、わっかんねぇなぁ……」
狩人の脳内に何かが流れ込んでくるような気がした。いや、寧ろ引っ張って外に流れ出しているのかもしれなかった。
脳髄をまるごとわしづかみにされているようなこの感覚は、嘗て感じたことのあるものだ。アルプが催した趣味の悪い「ゲーム」の入り口と、どこか似ている。
狩人「させ、ない」
その声があまりに意志の籠った声だったから、アルプは思わず振り返った。
彼女の視界のいっぱいに、燦然と煌めく数多が見えた。
アルプ「いつの間にっ!」
狩人「あんまり、私を、見くびるな……」
狩人「これでも、私は狩人だから」
アルプ(さっき!? さっき、壁の破片を打ち砕いた時に――ちっ!)
アルプ「うぉおおおおおっ!? しゃらくせぇ真似してんじゃねぇよ、くたばりぞこないのくせにぃっ!」
アルプ(光の矢が十本――十三本! 避けられるか? いや、この距離だとこいつが、こいつが!)
迂闊だった。アルプはすでに狩人に近づきすぎている。息も絶え絶えとはいえ、今の彼女に背を向けることなど、恐ろしくてできやしない。
アルプ(それでもこれはヤバイ! これは、ヤバイ!)
アルプはぺろりと舌で上唇を舐めた。思考の猶予は、もうない。
狩人から手を離し、意識も離し、十三本の光の矢全てにチャームをかける。
背後を狙われるのは織り込み済み。その上でアルプは覚悟を決めた。無傷で狩人に勝とうとしたのが、そもそも見くびりすぎたのだ。
嘗て、アルプの作った世界で彼女が見せた魂の輝き。それはまったく嘘ではなかった。ゆえにアルプは歓喜する。自分の人物評は間違っていなかったのだと。
全ての光の矢を視界に納める。それら全てに働きかけ、視神経が焼き切れるような激痛を走らせながらも、寸でのところであさっての方向へ誘導した。
はるか後方で爆発が起きる。
アルプ「ぐっ……」
予想していたことだ。アルプは自身の腹から光の矢が突き出ているのを見て、顔を歪めながらも笑う。
背後では光の矢を握り締めた狩人が、脇腹にそれを突き立てている。
アルプ「いったぁ……いったぁい、ねぇっ!」
アルプの放った火炎が地面を焼く。狩人はすでに後ろへ跳び、矢を弓に番えていた。
狩人「動きが止まることもないの……」
矢を抜くこともなく追ってくるアルプの姿を見て、狩人は眉を顰めた。曲がりなりにも相手は四天王。魔物よりも数段化け物染みた存在だとはわかっていたが、ここまで来るとうさんくさくもなる。
アルプ「その力の源って、やっぱりあれなの!? あれあれ、あれなのかなぁっ!?」
アルプはまたも火炎を放射した。ぼたぼたと、粘液のように粘つく炎が、毒霧に引火してあたりを火の海に染め上げる。
不思議な炎だった。赤でも橙でもなく、紫と桃色が基調の妖しい色をしている。
狩人は思わずそれから目を逸らした。ずっと見つめていれば精神がどうにかなりそうだった。
狩人「光の矢ッ……!」
光の奔流がアルプに向かって走る。アルプは一度舌打ちして、それら全てにチャームをかけた。
アルプ「そんな真正面からの馬鹿正直な――っ!?」
矢が弾かれたさらにその後ろ、完璧にぴたりと重なる位置に、さらにもう一本、光の矢が隠されていた。
狩人「誰が、馬鹿正直だって?」
胸を真っ直ぐ狙ったその矢に対し、アルプは反射的に左手で庇う。
鈍い音。
アルプの肉に深々と刺さる光の矢。
防御したアルプの右手は、胸に代わって犠牲となった。左手の肘から先が、自重に耐え切れずぶちぶちと肉が裂け、地面に転がる。
血飛沫。びちゃびちゃと床に滴る血液。
その血があまりにも赤く赤々しいものだったから、狩人は「魔族に流れているのも赤い血なのか」と場にそぐわないことをふと思ってしまった。
しかし、それでもアルプは止まらない。
止まるだなんて生き方は、彼女の性には合わないのだというように。
狩人「止まれ、止まれっ!」
またも光の奔流。幾条ものそれは確かにアルプを傷づけていくけれど、致命傷には至らない。そうなるより前にアルプが僅かに射線を逸らしている。
アルプ「ね、ねっ! 誰かのためとか、世界のためとか、それがそんなに美味しいもの?」
穿たれた羽をも器用に使って、素早く宙を舞うアルプ。その動きは狩人の矢でも捉えきることはできない。
炎が躍る。毒霧が満ちる。狩人はなんとかそれを散らしながら、飛び回る桃色を捉えようと必死だった。
アルプ「私にゃ、わっかんねぇーんだよなぁっ!」
壁を蹴って方向転換。光の奔流を避けて、そのまま狩人に突っ込んでいく。
狩人の反応は素早い。横っ飛びで体勢を崩しながらもアルプを視界から逃すことはしない。一発、矢を放った。
アルプ「壁ェッ!」
地面がせりあがって矢を弾く。
地面も、壁も、天上も、最早アルプの箱庭だ。
狩人(どっちから来る……右か、左か、上か!)
しかし、狩人の思考をあざ笑うかのように、アルプの手がぬるりと現れる。
壁をすり抜けて。
狩人「チャーム……ッ!?」
そんなことまでできるのか。
アルプ「もらったぁああああああっ!」
狩人「くぅっ!」
アルプが手を伸ばす。狩人も対抗して射出。そしてそれらにチャームをかけ、後方にどんどんと逸らしながら、アルプは無我夢中で狩人へと突っ込んでいく。
隠された光の矢がチャームを逃れ、アルプの肩口の肉を抉った。が、アルプは決して止まらない。そういう生命体ではないのだ。
アルプ「もっとお話をしようよっ! あんたみたいな生命、存在、私はずっと待ってたに違いないんだ! 誰かのために誰かを救おうとする、そんなやつをさぁっ!」
アルプ「楽しければいいじゃん!? 誰かを犠牲にしても、楽しければさあっ!」
アルプ「私はもうどっかが壊れっちまってるんだ! いや、それが魔族としての衝動! しょうがないっちゃ、しょうがないのかもしれないけどさ!」
アルプ「私はおかしいかな、狂ってるかな!? あんた、私のこと腹立つでしょ!? むかつくでしょ!? クソ畜生だと思ってるでしょ!?」
ついにアルプと狩人が逼迫する。
アルプの眼前には光の矢が、狩人の眼前にはアルプの右手が。
アルプ「――私もそう思う」
二人はぴたりと止まった。あと一歩で互いを殺すことができる。ゆえに、動けない。この至近距離でも、互いの攻撃が当たらないことを、本能的に理解しているのだ。
攻撃すれば負ける。一瞬の隙を、恐らく相手は見逃さないだろうと。
互いに息は上がっていた。肩が上下している。玉のような汗が顔と言わず体と言わず、肌を伝って地面に落ちる。
狩人「私は、勇者を助けることが、楽しい」
恐らくそれは独り言ではなかった。それは彼女なりのアルプに対する返答なのだ。
ずらりと二人を取り囲む光の矢。半球状に、それぞれアルプを狙っている。
アルプがチャームで弾いた光の矢を、狩人は支配下に取り戻したのだ。
狩人「これだけあれば、あなたも殺せる」
アルプ「桁が二ケタ足りないんじゃない?」
狩人「試してみる?」
アルプ「試してみなよ」
無言のうちに、全ての矢が射出された。
ひときわ輝きながら、矢がアルプを目指す。光の粒子をまき散らしながら、光の軌跡を描きながら。
アルプ「あはははは! あっははははあはははっ!」
アルプはチャームした光の矢を、まだチャームしていない別の矢にぶつけ、どんどん相殺させていく。視界に入る量には限りがある。苦肉の策だった。
既に第一波はアルプの下へと到着し、確実に彼女の肉を、命を、抉り取っていく。
けれどアルプは倒れない。次々と来る光の矢を次々と魅了し、次々と他の光の矢へとぶつけていく。
羽が二本とも付け根からもげた。破けた脇腹からは内臓がはみ出し、燃えるような髪の毛はすでに長さがばらばらだ。
肌の色すらもすでに赤い。
それでも、アルプは立っていた。
光の矢に紛れて狩人が突進する。泡を食ったのではない。もとより、こんな手軽にアルプを倒せるとは、彼女も思っていなかった。
右手に握った光の矢をアルプに突き刺す――弾かれる。
アルプの目の奥で、魅惑の炎が揺らめいた。
右腕が狩人の首根っこを掴む。
脳髄へと手がのばされる。
どすっ、と。
鈍い音が、二人の腹から響いた。
アルプ「……」
狩人「……」
アルプ「よく、やるわ」
狩人の背中から突き刺さった光の矢は、そのままアルプの腹へと突き刺さり、二人を同時に串刺しにしていた。
アルプは視界に入ったものしか魅了できない。狩人が彼女に矢をあてるには、身を投げ捨てるこの方法が、最も確実だった。
ごぶり、と血が噴き出される。誰の口から? ――両者の口から。
狩人「私は、死なない」
アルプ「いや、死ぬでしょ」
狩人「死なない」
頑丈で、強情だと、アルプは思った。
アルプの目が剥かれる。この距離では狩人は逃げることができない。しかし、それでよかった。
アルプの魅了など打ち破ってやるのだと狩人は思っていたからだ。
もう一度脳髄へ手がのばされる。柔らかく、甘い、桃色の世界。
ぼんやりとアルプの姿が消えていき、周囲には、代わりに彼女の最愛の人だけが残った。父。母。長老。そして何より、勇者、少女、老婆。
彼らは虚ろな目で狩人を見ていた。なぜ死なないのかと問う眼だった。
それはあくまで幻覚にすぎない。何より、勇者も少女も老婆も、まだ死んでいない。
それでも死は甘美であった。折れた骨、体内にたまってきた毒素、何より腹の矢。その他もろもろが生み出す痛みからの唯一の逃げ道が死だ。
疲れたら休んでもいいんだよ、と誰かが言った。その誰かに対して、また誰かが「そうだそうだ」と口を合わせる。
確かにそうだ、と彼女は思った。確かに疲れたら休まなければいけない。正論だ。反論の余地もない。だけど、今休んでしまってもいいのだろうか。疑問に思う一方で、肯定する自分も確かにいた。
何より、それが魅了だとわかっている自分も確かにいて、それでも誘惑は強い。
勇者が狩人の手を取った。
狩人(違う! 勇者じゃない!)
勇者は微笑んでいて、あぁ、自分はこの笑顔が見たいのだ。この笑顔を守りたかったのだと、狩人はほっとする。自分がいることで彼をこんな表情にできたなら、確かに自分はもう、死んでもいい。
狩人(違う! 勇者じゃない!)
疲れたろう、と勇者は言った。優しい声音だった。
勇者「あとは気にせず、休め。な?」
暖かい掌が頬に当たる。至福だ。涙すら出てきて視界を歪ませる。
狩人(これは、だから、勇者じゃあ……ない、のに!)
意識が遠のく。
狩人(勇者と一緒だったら、私も、もっと)
頑張れたのだろうか。
私がピンチの時は駆けつけてくれって言ったのに。うそつき。
ふと、勇者の温かみが、手のひらだけではないことに気が付いた。そこに触れている頬だけではないことに気が付いた。
胸の内。心臓から全身を駆け巡る勇者の波動が感じられた。
暖かい、春の日差しのような、勇気の湧いてくる温度だ。
狩人(勇者が、私のうちにいる……)
自信があった。それは確かに勇者の存在だった。
胸に手を当てる。それは勇者と手をつなぐことに等しい。
それさえあれば。
眼を開いた。
目の前には、驚愕した、どうしようもないほどに愉快そうな、アルプの顔があった。
アルプ「おいおいおいおい、なに、それぇ……ずるっこじゃん」
アルプ「やっぱり私、あんたに会えて楽しかったわ」
狩人の手のひらでは、確かに電撃が暴れていた。
矢の形すら持たないそれは、解放の時を今か今かと待ち望んでいる。
狩人「私を勇者と会わせたのが悪かった。例え夢の中だとしても」
アルプ「これだからっ! 生きるのって、たぁのしぃーっ!」
言葉を言い終わるあたりで、アルプの左半身を、雷が喰らいつくした。
ぐらりとアルプの体が揺れて、そのまま倒れる。光の矢も合わせて抜けた。
アルプは動かない。そして動けないのは狩人も同様。しかし、狩人は、自分が勝ったことを理解した。
不思議な、考えられないことであった。彼女は一体どこからインドラを持ってきているのか、まったく魔力の痕跡がつかめないのである。
狩人自身もそれは不思議に思っているようだったが、最早不問にしているようでもある。彼女としては、理屈はどうであれ、武器として攻撃手段としてきちんと運用できさえすればそれでいいという考えなのだろう。
それよりなにより、今はただ眠たかった。
死の存在は、感じられない。
ほっと一息ついて、狩人は目を瞑った。五分間だけ眠ろうと、そう思って。
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
狩人を見送ったのち、勇者たちはポータルの中で無言を貫いていた。
緊張と不安が半分半分といったかたちだ。今後がどうなるのか、まったく想像もできない。
ポータルは魔力で動いているのだろうが、中にいる三人には、本当に動いているのかの把握がついていない。老婆が感じる限りでは間違いなく起動していて、別段おかしなところはないようとのことであったから、少女と勇者はそれを信じることにした。
わずかにポータルが揺れ、三人の前方の扉が開いた。次の階へと着いたのだ。
部屋の中心では、漆黒の鎧が直立している。
四天王、序列第三位。首なしライダー、デュラハン。
少女は無言のまますっと一歩前に出た。勇者と老婆は何も口を挟まない。そうなるだろうと、あらかじめ分かっていたことだった。
デュラハン「久しぶり、でいいのかな?」
少女「アタシはあんたに会いたくなかった。けど、……ふん」
少女「勇者の障害はアタシが全部ぶっ叩き壊してあげるわ」
勇者「頑張れよ」
少女「は。アタシを誰だと思ってるのさ。もうちょっと、仲間を――うん、仲間を信じなさい」
勇者「そういうわけじゃないんだけど、さ」
少女「ま、どうしても頑張ってほしいんだって、生きて帰ってほしいんだって言うなら、そうだね……」
踵を返して反転。少女は勇者に近寄って、そして、
勇者と少女の距離が、一時的にゼロになる。
勇者「――っ!?」
少女「うん、これで元気出た。じゃ、行ってくるから」
勇者が何かをいうより先に、ポータルの扉がまた閉まる。
デュラハンは少女の視界の端で何やら楽しそうにしていた。顔がなくとも彼の場合はわかるのである。
デュラハン「見せつけてくれるじゃないか」
少女「あー、ほっぺたにしとけばよかったかなぁ。狩人さんに殺されちゃうかも」
デュラハン「でも、いい顔だ」
少女「ま、ね。恋する女は強いのよ」
少女「って、恋じゃない!」
デュラハン「俺は何も言ってないんだけどなぁ」
少女「ふん。さくさくっと終わらせて、世界を平和にしてあげる」
デュラハン「その意気だ! その意気じゃなきゃ、俺はここにいる意味がない!」
デュラハン「九尾はしきりに世界のことを気にしているようだったけど、俺はそんなのどうでもいいさ。ただ、強い奴と戦えさえすれば」
デュラハンは両手を広げた。魔力の渦が、両手を中心として生まれるのがわかる。
あわせて少女もミョルニルを構えた。
デュラハン「さぁ!」
デュラハン「戦闘をっ! 始めようっ!」
中空に七つの魔方陣が生まれた。規模こそそれほどではないが、その密度が段違いだ。幾層にも重なったルーン文字の中心には、一筆書きで多重円が描かれている。
空間に亀裂が走る。空気が震え、余波で部屋の壁に亀裂が走った。
デュラハンは魔方陣に手を伸ばした。
デュラハン「これが俺の全身全霊! 天下七剣――全召喚ッ!」
魔方陣のうちの一つから音もなく剣の柄が姿を現す。ルーンの刻まれた、けれどどこか無骨な造形だ。
デュラハン「其の壱ィッ! 破邪の剣!」
それを手に取ると同時に走りだす。いや、跳んだ。
一歩で間合いを詰める超人的な跳躍。さらに空中に力場を生み出すことによって、跳躍の途中で方向転換を行う。
少女の後ろに回り込みながら、破邪の剣を振るった。
甲高い金属音。デュラハンの速度に少女は真っ向から立ち向かうことこそできないが、それでも遅れない程度には目で追えていた。
しかし。
少女「!?」
少女の膂力をもってしても、デュラハンの剣は止まらない。ぎりぎりと押し込められていく。
少女(なんて力! いや、違う。私とミョルニルの能力が減衰されてる!?)
破邪の剣は魔力的な能力を全て掻き消す能力を持っている。
障壁を切り裂き、呪いを消し、支配の糸すら断てるルーン。当然それはミョルニルの魔力も、そして少女の中に宿る血液に刻まれた魔法式すらも弱らせるのだ。
少女「くっ!」
無理やりにでも剣を弾き返し、少女は後ろへと下がった。その途端に体に力が漲ってくるのがわかる。
当然デュラハンもそれを追う。破邪の剣は大きく円を描き、正確に少女の生命を削りにかかった。
少女(切り結んだら負ける……ってことは!)
少女は後ろ向きに跳ねつつ、腰をかがめて地面へと手を伸ばした。そうして幾つかの「何か」を手に取り、感触を確かめる。
それを投げつけた。
高速で飛来するそれは小石だった。もしくは建物の破片だった。
大きさはこの際問題ではない。少女は当然理解していたし、対峙するデュラハンも理解していた。手の銀色を翻して叩き落としにかかる。
少女「もういっちょ!」
横っ飛び。
一度速度を落としたデュラハンは韋駄天に為す術を持たなかった。破片を弾き、防御し、反撃の機会を窺っている。
少女(こいつが同時に叩き落とせるのは、六発が限界程度……)
少女(つまり)
少女は十の石の欠片を取って、投げつける。
空洞を叩く音が響いた。
ただの石とは言え、少女の膂力によって投げつけられたそれは、かなりの速度とエネルギーを有している。デュラハンの鎧に大きな傷が生まれ、大きくバランスを崩した。
ようやく少女はミョルニルを握り締める。ひんやりとした金属の感触は、けれど気分を高揚させた。
みちり、みちりと感触が伝わる。同時に音も。
ミョルニルの鎚が確かにデュラハンの腹部を捉えていた。
デュラハン「ぐぅっ!」
苦悶の声。何とか肘を挟んで直撃こそ避けたが、体勢が崩れていたのもあって踏ん張りがきかない。デュラハンは勢いそのままに壁に叩きつけられる。
部屋が震えた。激突した壁の一部が崩壊し、崩れる。
無論追撃を忘れる少女ではなかった。大きく飛び上がり、そのまま力一杯に叩きつける。
跡形も残さぬとばかりに。
今度こそ建物全体を崩壊させかねない揺れが襲った。各部屋は九尾が障壁魔法を幾重にもかけているとはいえ、あまりの威力にそれも心配になる。なにせ少女の膂力、血に刻まれた魔法式は、それだけ強力な代物なのだ。
だからこそデュラハンも第二の剣を引き抜かなければならない。
デュラハン「其の二、はやぶさの剣」
少女の眼前に立っていたデュラハンが、音も立てずに姿を消す。
いや、少女にはわかっていた。空間移動にも見間違えるほどの高速移動。そして、その速度を与える天下七剣の存在。
背後から迫るデュラハンの攻撃。少女は反射的に体を反転させ、地面に倒れこむ形で回避を試みる。
細剣が少女の肩を貫通した。激痛が神経を引っ掻き回すも、歯を食いしばって叫び声だけはあげない。その分、押しやった声が涙腺を圧迫し、涙が滲む。
だめだ、それすらもひっこめ。少女は一度だけ強くまばたきをして、涙を体外に押しやる。痛みに支配されているようではだめなのだ。そんな状態ではデュラハンには勝てやしない。
少女「脳内麻薬が足りないのよっ!」
デュラハン「致命傷を避けたか! さすがだ!」
デュラハンが感嘆の声を上げる。
しかし、少女が今の攻撃を避けることができたのは、殆ど直観と運の賜物だった。次があるかと問われれば難しいというのが実情だ。
それでも少女は果敢にも攻撃に転ずる。デュラハンの感触を確かめた後の突進。
少女の突貫には二つの理由があった。一つは、前方に向かって走っていれば、必然的にデュラハンは後ろから攻撃してこざるを得ない。移動の終着点がある程度読めるということ。
もう一つは、デュラハンがまだ五本の剣を残しているという事実に因る。二本目で防戦になるようでは今後を勝ち抜くことなどできない。
そもそもデュラハンが一度に全ての剣を一度に抜かないのだって手加減のような意味合いがあるのだと少女は思っていた。しかし、その考えは事実とは僅かに異なっている。
デュラハンの天下七剣はあくまで召喚魔法であって、いずれは召「還」される代物である。魔力を注ぎ込むことによって現界させているにすぎず、そして召喚状態を維持するのは、対象が高レベルであればあるほど消耗する。
一瞬でよければ七本すべてを召喚することも可能であるが、そうすると今度はデュラハンが干からびる可能性が出てくる。また、デュラハンの目的はあくまで戦闘欲を満たすことであり、少女を殺すことではない。
そう、彼が望むのは戦争ではないのだ。
彼はただ、少女がどこまで天下七剣に耐えきれるのか、その輝きが見たいのだ。
ミョルニルの一撃が空を切る――ここまでは予想通り。回避されるのは織り込み済みだ。
ここからが、賭け。
右か左か。
少女(ひ、だり!)
少女は左に回転しながらミョルニルを振り回した。
デュラハン「其の三ッ、竜殺し‐ドラゴンキラー‐!」
音もなくミョルニルの軌道が止まる。刮目するまでもなく、ミョルニルの先端にカタールの刃が付きつけられているのが見える。
ただ単に受け止められたのだ。その事実を把握すると同時に、デュラハンは竜殺しを大きく横に薙いだ。
ずん、と手応え。大岩を押しとどめたような衝撃に、少女の足が地面から一瞬で引きはがされる。
破邪の剣のような魔力減衰の気配はなかった。寧ろ逆、デュラハンの腕力や魔力を強化しているのだろうと思われた。
衝撃の中でも体勢を立て直し、少女は激突するはずだった壁へ足をかけ、そのまま宙へ飛び出した。
少女「はあぁっ!」
気合込めた一撃。しかしデュラハンに届くよりも先に、不可視の障壁によって押しとどめられる。
空間に閃光が迸る。ばちばちと魔法の粒子が跳ね、それでも少女は無理やりにでも押し込んでいく。
少女「叩き割るっ……!」」
音のない反響音が全身を劈く。ミョルニルが障壁を破壊した音だった。
だがそこまでである。勢いはすでに焼失した。少女は舌打ちを一度して、再度デュラハンに向かって突貫する。
デュラハン「竜の息吹すら耐える障壁なんだけど、なぁっ!」
少女「くっ!」
剣閃。竜殺しが生み出す風圧のみで、少女は自らの小柄な体が舞いあげられる恐怖さえ感じた。
一度距離が開く。互いに大きな怪我さえないが、解けない緊張が神経にくる。汗すらも拭くひと手間が惜しい。
肩の傷はすでに瘡蓋ができていて、痛みこそあるものの、出血は止まっている。勇者ほどではない回復能力が少女にも備わりつつあった。
デュラハン「前に戦ったときは、きみが見たのはここまで、だっけ?」
あくまで気楽にデュラハンが尋ねてくる。恐らく、そこに意図はない。番外戦術からデュラハンは無縁な男だった。
どこまで行っても魔の者は魔の者なのだ。確かに逆らえないものがあり、だからこそ人生のそのために費やそうとする性質がある。
階下では狩人が、階上では勇者や老婆が戦っているに違いない。命を賭して。
それだのに自分ばかりこんなのんびりしていていいものかと少女は思ったが、乱れた息を整えるためにも、この時間はありがたくもあった。
少女「そう。アンタ、すぐに倒れたから」
デュラハン「ははっ。あのときは連戦に続く連戦でね、不甲斐ない姿を見せたよ」
デュラハン「今度はそんな姿を見せるつもりはない。期待しててくれ」
少女「期待なんかしちゃいないわよ」
それは半分だけ本当だった。別段少女はデュラハンと戦いたくはなかった。寧ろ一刻も早く撃破して、上の階に上りたいとすら思っていた。
しかし、残りの半分、確かに少女は自らが高揚しているのを感じていた。それは幸せではないにしろ、不思議と口角の上がる感覚だった。
強敵との戦いを楽しむ素質が、素養が、彼女にはある。そしておおよそ一般人らしくないそれを、少女は無意識のうちに押しとどめようとしているのだ。
無言のままに少女は跳んだ。大きく振りかぶったミョルニルを、そのまま力任せに叩きつける。
戦術も何もなかった。ただ、人を超越した身体に任せた一撃を放つだけ。
デュラハンも合わせて前に出た。退くつもりは彼にはない。寧ろ真っ向から圧力を破ることこそが楽しみである。
障壁が火花を散らす。
竜殺しをデュラハンが振るう。
少女「アタシだってねぇ! ちぃとは強く、なってるんだから!」
あの日のままではいられないのだから。
いつか、誰かを救えるくらいにならなければいけないのだから。
少女の手からミョルニルへと光が流れ込む。体の震央から湧き上がる力。血に刻まれた魔方陣が、より強く、より早く、力を与えていく。
障壁ごと――
少女「殴り、飛ば、すっ!」
ついに障壁を貫けた。竜殺しとかち合ったミョルニルが一際大きく閃光を放ち、少女は負けじと足を踏ん張って力を込める。
無論力を込めるのはデュラハンも同様だった。小細工無用の力比べ。両者ともに裂帛の気合いが口からこぼれる。
少女「やぁああああああああっ!」
デュラハン「うぉおおおおおおおおっ!」
振りぬいたのは、ミョルニルであった。
竜殺しの刃が圧力に負けた。ついに砕け、そのまま勢いでデュラハンの手から離れる。すっぽ抜けたそれは壁へと激突し、巨大な破壊痕を生み出して召還される。
デュラハンの右手があらぬ方向へと曲がっていた。竜殺しを握っていたため、吹き飛んだ衝撃で右腕自体が持っていかれたのだろう。それほどまでの力比べであったというわけだ。
デュラハン「……竜殺しを破るか。驚きだけど、そうじゃないかって思っていた。きみなら、それくらいはやるんじゃないかって」
少女「お褒めに預かり光栄だわ」
デュラハン「ここから先は君の見たことのない領域だ。――天下七剣、其の四」
魔方陣の一つが起動し、それまでの剣とは明らかに毛色の違う、禍々しい粒子が漏れてくる。
おおよそおかしな形状であった。円柱の柄こそ珍しくはないが、何よりもその刀身が、あたかも針葉樹のような、もしくは槍の穂先のような形態をしている。
鋭利な一枚の鋼板を薄く延ばし、支柱の周りに螺旋状に据え付けたような、剣と呼べるのかすら怪しいその剣。
名前は――
デュラハン「まどろみの剣!」
名を諳んじるのと波動が迸るのは同時。それは鐘の音を空間に響かせながら、ぐらり、ぐらりと距離を歪ませにかかる。
少女は自らの平衡感覚がどこかへすっぽ抜けてしまったのだと思った。それほどまでに、視界は揺れ、地面は揺れていたのだ。
足を一歩踏み出した先が本当に前なのかもあやふやである。ただはっきりと感覚が捉えるのは、まどろみの剣が生み出す鐘の音だけ。
その音が彼女の平衡感覚を狂わせている元凶であることは明らかであるが、だからといって元凶を容易く叩くこともできない。
肩幅に足をひらいて、前を見つめる。
デュラハンを待つよりほかに安全策はなかった。
殺気。
出所は、真後ろ。
少女「でやぁあああっ!」
振り向きざまにミョルニルを振り抜く。踏み込んだ脚が掴む地面、その感触は綿のようで、思わず転倒しそうになるも、筋力でなんとか堪えた。
金属とぶつかる感覚が伝わる。歪む視界の中にははっきりと漆黒が屹立している。
だのに、少女は背後からの斬撃に、思わず膝をつく。
少女「どういう……」
少女(いや)
これは少女の失態であった。痛みが彼女の鈍っていた思考と視界を徐々に平静に取り戻させつつあって、初めて気が付いたのだ。
デュラハンは天下七剣を用いる。しかし、いつから天下七剣「のみ」を用いると言っただろうか。
そもそも彼は、最初に会い見えたとき、隊長や参謀を相手にどうやって戦っていた?
肩甲骨のあたりに突き刺さった刀を放り投げ、少女は自らの血液の暖かさを噛み締めるように握りつぶす。
少女「投げた刀より速く移動とか、化け物じゃない」
デュラハン「事実、化け物だからね」
自嘲気味にデュラハンは笑った。
デュラハン「ウェパルはどうやら人間になりたかったみたいだ。化け物なんかじゃなくってね。それができたら、まぁ一番よかったんだろうけど」
その結果は知ってのとおりである。ウェパルは結局、人間にはなれなかった。いや、九尾がさせなかったという表現のほうが正しい。
しかし、もともと人間になることなど、初めから彼女には無理だったのだ。行きつく先は破滅しか待っていない。それでもなお、彼女は人間として生きることを――というよりも、愛する人を手中に入れたいと願った。
デュラハン「困ったもんだよ、魔族ってのは。衝動が勝ちすぎる。やっちゃだめだってことは、わかってるんだけど」
例え誰かに迷惑をかけ、悲しませるのだとしても、それをやらずにはいられない。
生きていること自体がすでに害悪。
それが、魔物。魔族。人ならざるもの。
デュラハンはまどろみの剣を握り締めた。すると鐘の音は強くなり、より強く少女の脳へと作用する。
もう片方の手で魔方陣を描くと、そこから数十の刀が地面と水平に、切っ先を少女に向ける形で現れる。
デュラハン「こういうのは趣味じゃあないんだけどね。ただ、見てみたい」
デュラハン「歪む視界の中、刃の散弾をどうやってきみが避けるのか!」
それら全てを、デュラハンは投擲する。
ごう、と震える空気。少女の足はまだ覚束ない。
視界の中で血飛沫が舞った。
串刺しにされる少女の肢体。腕から、足から、腹から、胸から、刃が貫通して覗いている。
しかし。
少女「そこ、か」
ぼそりと短く呟いて、跳んだ。
光のような初速を切った少女の踏込で、床に大きくひびが入る。感覚として揺れるそれを脚力でごまかしながら少女は走っているのだった。
半ば地面に足を埋め込んでしまえば、揺れなど関係ないとでも言うように。
加速についていけずに肉が千切れていく。ぼたぼたぼたと真っ赤な肉片をまき散らしつつ、少女の速度は衰えることを知らない。
咄嗟にデュラハンはまどろみの剣を構えた。刀の召喚と射出よりも少女の到着のほうが明らかに早かった。
少女「逃がさない!」
数度の打ち合いの末に、大きくまどろみの剣が弾きあげられ、がら空きになった胸部へと少女は潜り込んだ。
少女「全身全霊ッ!」
鎧がひしゃげ――潰れ――砕け――音速を超えた空気の破裂音が響いて、デュラハンは地面と平行に吹き飛んでいく。
少女「お前をぉっ!」
筋肉を引き千切りながら少女の右腕が伸びる。
デュラハンの足首に手をかけ、地面へ叩きつけた。
少女「倒すっ!」
振り下ろされるミョルニル。
それはデュラハンの胸部を完全なるまでに叩き潰した。金属特有の軋みすら経ずに、一気に。
少女は思わず尻もちをついて、すぐさま立ち上がる。デュラハンがこの程度で倒れるとは思わなかった。彼の中身はあってないようなものなのだから。
地面が光り、魔方陣が多重に展開される。
少女が後ろに跳び退いたのと、魔方陣から刃が生えてくるのはほぼ同時である。少女は距離が開いているうちに、自らの体に突き刺さった刀の類を一本一本丁寧に抜いていく。
刀が抜けるたびに血が噴き出すが、それと相まって、不快感もまた体外へ排出されているようだった。
不思議な感覚だった。彼女はここに来て、自らが今までで最高のパフォーマンスができているような気がしてならなかった。
少女(やっぱり、ほっぺたじゃなくてよかったのかも、しんないけどね! ははっ!)
いわゆる「女の子らしさ」なんて自分には一生縁のないものなのだと思っていた。ミョルニルを背負い、握り、叩きつける自分には、所詮「オンナノコラシサ」しか存在しないのだと。
こういうのを馬子にも衣装というのだろうか。それとも、自分の中にも「女性」が確かにいるのだろうか。
少女は考えながら、ぺろりと唇をなめた。心なしか勇者の感触と体温がまだ残っている気がした。そんなはずはないのに。
絶対に死なない上で、少女は思う。
少女「もう死んでもいいな、こりゃ」
デュラハン「まだまだだよ。俺はまだ、満足しきってない」
視界の中ではやはりというべきか、デュラハンが立ち上がり始めている。その姿は一目見てぼろぼろであるが、確かに生きていた。
デュラハンが右手を伸ばす。すると、熟練された執事の趣で魔方陣が展開、剣をデュラハンへと恭しく差し出した。
溢れんばかりの光。聖なる光。それは白銀の剣で反射して、さらなるハレーションを起こす。
デュラハン「其の五。奇跡の剣」
白銀の柄。白銀の刃。鍔はなく、鎬だけがある、すらりとした両刃の剣であった。
奇跡の剣はいまだに光を放ち続けている。召喚の光ではなく、剣自体が光を放っているのだ。そしてそれは右手からデュラハンの全身へとじわじわ広がり、彼自身を光で包んでいる。
聖なる守護。性質こそ異なるけれど、核に込められた神性でいえば、少女のミョルニルと同様の系統だ。
デュラハンの傷が、鎧につけられた傷が、次第に治っていく。いや、それは治癒ではない。修復だ。
生命が本来持つ機能を高めるのではなく、剣それ自体がデュラハンをあるべき姿に戻しているのである。
デュラハンの姿が消えた。合わせて、少女の姿も消える。
金属同士がぶつかり合う音が響き、そこでようやく二人の姿を捉えることができる。
空中で、剣と鎚をぶつけ合っている二人の姿を。
少女の一撃がデュラハンの左足を消し飛ばす。中に満ちていた黒い靄も霧散するが、流出より修復の速度が上回っている。当然デュラハンに隙は生まれない。
反撃としてデュラハンが片手を振るう。少女のスウェイ。眼と鼻の先にある切っ先をしっかりと目に焼き付けながら、少女はミョルニルでデュラハンではなく奇跡の剣そのものを狙いに行く。
が、デュラハンもその目論見は当然予想していた。空中に生じた魔方陣から、刃が生まれる。
舞う破片。刃の障壁を根こそぎ砕きながらも、ミョルニルは奇跡の剣へ迫る。
僅かに届かない。
勢いの落ちたミョルニルを、空いた手でデュラハンは受け止める。下へ押しつけながら、切っ先を少女へと。
少女は退かない。ただ、まっすぐに前へと踏み込む。
刃が胸へと吸い込まれていった。肋骨の隙間を抜け、肺と心臓と血管すらも抜け、皮膚を食い破って反対側へと貫通する。
神経がかき乱される。鉄が分子レベルで体を苛む。ぎりぎりと、ぐちぐちと。
だが、臓器は掠ってもいない。
死ぬ気はしなかった。
死ぬ気はなかった。
それは果たして度胸が齎した偶然なのか、それとも武の化身が与えた必然なのか。
デュラハンが奇跡の剣を捻る――撹拌される肉。それに巻き込まれる肺組織。
喀血。痙攣。自分の意に反して動く――動きやがる体。
そんな体だから。
そんな体だからだ。
身を捨てても再び浮かび上がってこれることを信じて、体の全ての反射をシャットアウトして。
そうでもしなければ、勝てない。
血を流しすぎた。だからなに?
肺が潰れている。それで?
腱が切れかかった。ふーん?
全幅の信頼を寄せるこの体。
少女「もっとやってくれるに決まってぐぼぁっ!」
血を吐きながら声にならない声を出しながらミョルニルを振りながら、彼女は、
ただ前へ。
ただ前へ!
彼女に勝機はなかった。勝機はなくとも突っ込むその動きは、正気の沙汰ではない。
ただ、そこには勝機と正気の代わりに信頼があった。彼女は自分の訓練と、身体と、ミョルニルを信じていたのだ。
少女の能力は身体機能の増幅。魔力経路を全て内向きにして、彼女は魔法が使えない反面、魔力を体内に駆け巡らせることができる。
魔力は全て、彼女の血肉。
無我の中で振ったミョルニルが、デュラハンの右手を、今度こそ引き千切った。握られていた奇跡の剣は、依然として彼女の体内に残っている。
まだ僅かに修復の奇跡は残存している。光がデュラハンの傷口に集まり、即座に修復を開始した。
そして少女はそれよりも早く、今度は肩口から吹き飛ばす。
重厚な鎧に包まれているはずのデュラハンの体が、まるで木の葉のように舞った。踏ん張りの利かないそのタイミングで、返す刀、いや鎚か、少女は渾身の一撃をデュラハンに見舞う。
魔方陣の展開。
刃が刃が刃が、襲う。
少女「まだるっこしいっ!」
少女はそう叫んで、三本の刃を全て掴み――無造作に掴んで、握力だけで砕く。
裂け、千切れる左手の五指。
残った右腕の掴むミョルニルが、デュラハンの上半身から上を、文字通り粉々にした。
鎧から黒い霧が吹き出し、そこを中心としてまた鎧が召喚、デュラハンの形を取り戻していく。
そんな隙など与えまいと少女は一歩踏み出し、そこでブレーキをかける。天下七剣、その魔方陣が起動していた。恐らくは先ほどの刃と同時に起動したのだろう。
だが、何もない。
少女「……っ?」
少女が率直に思ったのは、召喚を失敗したのではないかということだった。
魔方陣から剣は現れていない。
デュラハンの手にも、ない。
少女「……剣を抜かないの? それとも失敗?」
デュラハン「剣はもう抜いている」
そんなまさかと少女が周囲を見回して、思わず少女は膝をついた。
体に力が入らない。
少女はまた、そんなまさかと思った。
胸に小型のナイフが突き刺さっている。いつの間に? 何かを投げる動作はおろか剣の召喚自体少女には見えていなかった。それでも確かに胸にナイフは刺さっている。心臓を一突きにする形で。
まどろみの剣による幻覚とも思えない。確かに激痛がある。体の感覚もまたある。
少女は膝より上を支えることすらできなくなって、地面に突っ伏した。
ごぅん、とミョルニルが音を立てる。
デュラハン「天下七剣、其の六。アサシンダガー」
デュラハン「因果関係抹消武器」
因果関係抹消。即ち、過程と結果の乖離。
切る動作を経ずに、切った結果だけを生み出す、絶対的な必中の剣。
デュラハンはない頭を掻いた。
理由は二つ。一つは、純粋にこの武器が、彼の好むところではないということ。発動してしまえば片が付くというのは、最早武具というよりも魔法の範疇で、それはデュラハンの本意ではない。
そしてもう一つ。
デュラハンは嘗てアサシンダガーを三回抜いたことがある。一度は当然今回。その前には先のウェパルとの戦いで抜いており、最初に抜いたのは九尾との腕試し。
単純に、彼はアサシンダガーを信用していなかった。いや、効力は無論有意であるが、ジンクスというか、そういうものを感じていたのだ。
ウェパルも九尾も死んでいないという事実が、この剣に対するデュラハンの不信の源であった。
アサシンダガーは必中で、必ず心臓に突き刺さる。それは殆ど即死とイコールであるが、あくまで殆どにすぎない。
心臓に突き刺さったとしても死ななければ。
デュラハン「うーん」
一度唸って、アサシンダガーを召還する。
デュラハン「どうやら、こいつは俺とは相性が良くないみたいだ」
少女「悪いのは、運じゃ、ないの」
少女が立ち上がっている。
体から煙を立ち上らせつつ、少女は膝に手をついて、デュラハンを見やる。
体の傷が癒えつつあった。考えるまでもなく、魔力によるものである。目で追えるほどの細胞の再生速度に、さしものデュラハンも息を呑まざるを得なかった。
そしてそれは、不思議なことに、少女もなのであった。
いや、聖騎士団団長と切り結んだ際も、同様の再生を少女はした。切り落とされた腕を無理やりにくっつけるという、離れ業というよりも人間離れした技で、彼女は彼に一矢報いたことがある。
だが、彼女の能力は、元来そこまで強力ではないはずなのだ。
無論怪我は常人より早く治るし、皮膚と筋肉の硬質化――なにより高質化――によって怪我自体を受けにくくはなっている。それでも落ちた腕が、指が、切断面を合わせればすぐさま癒着するなんてことは、考えられないことだった。
自分の身に何かが起こっている。彼女はそれを理解していた。理由はともかくとして。
それは狩人にも通じていることである。理屈を考えるのはあとだった。まずは利用できる限り利用してから。
デュラハン「奇跡の剣でも持ってるのかい」
少女「さぁね。あんただって、不死身みたいなもんじゃない。何度も復活して」
デュラハン「これは召喚だからなぁ。そう何度も使えるわけじゃ、ないんだよね」
デュラハンはそこで言葉を止め、少し間をおいてから莞爾と笑った。
デュラハン「あぁ、でも、楽しいなぁ。幸せだ。こんなに満ち足りた瞬間は、滅多にあるもんじゃない。そうそうあるもんじゃない」
デュラハン「あの男性二人組といい、人間の潜在能力の高さには目を見張るものがあるよ」
デュラハン「ゆえに、惜しい」
デュラハン「戦争なんてくだらないことで、猛者の命が失われてしまうのは」
少女「……アンタの手だって借りたいくらい」
デュラハン「はは。そんな義理はないんだ、残念ながら、俺は」
デュラハンは両手を合わせた。一瞬紫電が走り、魔方陣が手と手の間に生まれる。
空恐ろしいほどの魔力が、魔方陣の先に潜んでいることは明らかだった。空気が、地面が、それぞれ唸りを上げる錯覚すら感じられる。
少女は対応してミョルニルを構えた。天下七剣の七。次で終わりだ。
これを乗り越えてなお生きていることができれば、その際は、デュラハンが負けているに違いない。
その自覚の一番の持ち主はデュラハンその人だった。天下七剣の召喚。漆黒の鎧の召喚。刃と剣の群れの召喚。魔力はだいぶ消耗してしまった。いや、それが彼の本望なのだが。
彼には常にガス欠の危険が付きまとっている。しかし彼はそれでよいと、それがよいのだとすら思っていた。全力で戦った末に打ち倒せないのならば、それ以降は蛇足であると、彼は考えていたからだ。
だからこそ彼は容赦をしない。攻撃全てが一撃必殺。
そして、彼の手から生み出されるそれもまた、そう。
デュラハン「天下七剣、其の七ッ!」
少女は地を踏みしめる。靴の底がこすれ、焦げ臭いにおいを生み出した。
一息でデュラハンへと向かう。
デュラハンは慌てない。一気に両手の感覚を広げ、一本の、無骨で、何より実用的な、金属を召喚する。
デュラハン「ロトの剣!」
金属の軌跡が空間を切り開いた。
少女はミョルニルに刻まれたルーンが解れる音を聞いた。
切断。そして破砕。
ミョルニルの頭部分が切り離されて、地面へと、ごとり。
少女の右腕部分が切り落とされて、地面へと、ぼとり。
少女「……え」
少女は自分の身が傷ついた覚えは何度もあれど、それだけは、唯一それだけは覚えがなかったし、そんなことあり得るはずがないとも思っていた。
神代の遺物であるミョルニルが、壊れるだなんてことは。
視界を自らの血が真っ赤に色づけしていく中、呆然と少女は欠けたミョルニルへと目を落としている。
デュラハン「ロトの剣。ミョルニルに負けず劣らずの、神代の遺物。特殊能力なんて大層なものはない」
ロトの剣。それは。
デュラハン「これは」
デュラハン「ただよく切れて、ただよく折れない、それだけの剣」
それだけで数多の強者の手に渡り、世界を救って来た剣。
ミョルニルさえも切り落とすほどの、ただそれだけ。
デュラハンが跳ぶ。少女はようやくはっとして、斬撃に対してミョルニルの柄を掲げる――
ざくんと。
音がすることすらなく、ミョルニルの柄は切断された。
大きく胸のあたりが一文字に切り裂かれ、またも地面に赤い花が咲く。
わずかに傾く少女の体。胸が痛い。心は痛くないのに、胸だけが痛い。
少女「う……」
少女「うぉあああああああああっ!」
咆哮。追撃をかけようとするデュラハンに、少女は片腕で特攻した。
斬撃。デュラハンの一振りを紙一重で回避して、懐に潜り込む。
握りこんだ左拳。ミョルニルがなくとも、彼女の膂力は健在だ。
爆弾が炸裂するかのような轟音と共に、デュラハンの体が大きく吹き飛ばされた。しかし壁に激突する直前に体勢を変え、壁を蹴って着地、そのまま一気に少女との距離を詰めにかかる。
少女は退かなかった。守りに徹すれば負けだと思った。事実それはそうだ。守れないのに守ってもしょうがあるまい。
が、綱渡りであった。木綿の糸一本の上をわたっているにも等しい行いだった。
デュラハンはひたすらに切る。斬る。
ロトの剣が振られるたび、空気が裂け、幾重にも結界が張られた壁や地面が裂け、少女の髪の毛が、服が、裂けていく。
恐らく彼がその気になって大きく振れば、老婆の植物魔法にだって耐えられるはずのこの塔も、たやすく両断できてしまうのではないかと思われた。
左拳を半身になって回避すると、がら空きになった側面に対して剣を向ける。が、少女はそのままの勢いで飛び込み、空中から踵を降らせてデュラハンの肩を狙う。
デュラハンの反応も早い。ただ、それでも僅かに掠った。ちっと、舌打ちなのだか掠れた音なのだかわからない擦過音が響いて、デュラハンは僅かに揺らぐ。
それでもデュラハンの剣先が止まることはない。抵抗すらなく剣先は少女の脇腹と、内臓の一部を持っていく。
それでも少女の猛攻が止まることもなかった。踏込は刹那。右腕の関節を極め、一気に折りにかかる。
空気が震えた。見れば地面と空中に、計四つ、魔方陣が展開されている。
デュラハンがわずかに苦痛の雰囲気を漏らす。彼もまた魔力の枯渇が見え始めているのだった。
刃と刃と刃と刃が四方から少女に向かう。逃げ場は残されているが、それはデュラハンが意図的に残したものに違いなかった。
ゆえに少女は刃へと飛び込む。
服と肉が裂けるが、命はまだ健全である。軽くステップを踏んでから急加速と急旋回、背後を取ろうと試みる。
対応して振り向きざまの切り付け。速度は、これもまた神速である。
屈んだ少女の髪の毛が、途中からそっくり霧散した。
足払い――そして、一閃。
コンマの差で、少女の左足が、彼女の制御を離れ
少女「アタシのもんだ!」
手が伸び、それを掴む。
少女「アタシの体は、アタシのもんだっ!」
少女「だからアタシに自由にできないことは、ないっ!」
少女の体が光を放った。無理やりに接合面をくっつけたそれは、瞬時に治癒する。どういう理屈かわからないままに。
デュラハン「おいおい、ウソだろ」
唖然としたデュラハンの体は、振り抜いた反動で大きく空いている。
少女「力ずくで!」
少女「ぶんっ……殴る!」
風が吹いた。
少女は自らの拳が砕ける音と――デュラハンの鎧が砕ける音を聞いて、笑みを浮かべる。
デュラハンは地面を二回バウンドし、土煙を巻き上げながら壁に激突し、そこでようやく止まった。土煙の中には脇腹から胸部にかけてが大きく粉砕されたデュラハンの姿がある。
しかし、デュラハンは依然として立ち上がる。
少女「おとなしく、やられておきなさいよっ!」
デュラハン「はっは! 言うね! でもでも、だめだよ、まだまだ、足りない!」
溜めすらなくデュラハンは宙へ駆け出す。鎧の修復は間に合っていない。そこから彼の生命たる黒い靄が流れ出てはいるが、そんなことお構いなしだ。
力一杯にロトの剣を振るった。横薙ぎに空間が断裂し、少女の遥か後方の壁が壊滅する。
今度は唐竹割。地面と天井が、真っ直ぐに亀裂の餌食となる。
血にまみれながらも少女は地を踏みしめる。あと三歩。たったそれだけの距離が、いまや彼女には数キロ先のように感じられた。
時間は遅々として進まない。泥濘の中をもがくような息苦しさと、ほんの少しの高揚が、世界を満たしている。
どうすればいいのだ、と少女は自らに問うた。どうすればデュラハンに勝てるのかと。
拳は砕けた。鎧を砕けても、あいつの命を、存在を、砕くことはできない。
酷く胸が熱い。そこから始まって、全身が熱い。血を流しすぎたら本当ならば冷たくなるはずなのに。
それとも、この熱は血液のそれか。
いや、違う、と少女は思った。
これは血液のそれではなく、血潮のそれだ。
彼女の内に流れる、魔力のそれだ。
誰かの手を少女は握っていた。しかしそれは錯覚だった。ここには誰もいない。少女とデュラハンしかいない。だから、彼女は、こんな切迫した中でも、なぜか冷静に「いやいや、違うでしょ、アタシ」と自分に対応できる。
それでも、誰かが手を握っているのだ。
否。誰かの手を握っているのだ。
デュラハンがロトの剣を振るった。少女にはそれがよく見える。回避できないだろうことも、防御できないだろうことも、ゆえによくわかった。
少女は、それを踏みつける。
触れた瞬間に足の裏がもっていかれる。皮と肉がずたぼろになり、勢いに飲まれて体が空中で回転する。
回る視界。だが、デュラハンの姿は視界いっぱいにある。
回る世界の中でも、居場所はわかる。
少女「ミョォオオオオオルニィイイイイイルッ!」
誰かの手を、少女は振るった。
そこでようやく少女はその誰かを確認する。
誰もいない。当然だ。ただそこには、ミョルニルがあるだけだった。
ミョルニルが?
思考の暇は与えられない。そのままデュラハンの腰が、腹が、胸が、全身が、
雷でできたミョルニル――寧ろトール・ハンマーなのではないか――によって!
飲み込まれ
デュラハン「勝手に終わらせないでくれよぉおおおっ!」
返す刀でロトの剣。
雷をすらも切り裂いて、少女に残された左腕すらも、一刀のもとに切り落とす。
無音。
無音。
無音。
うるさいくらいの無音が頭に鳴り響いていた。
たっぷり十秒ほどの間をおいて、ついに、世界に音が戻ってくる。
最初の音は、金属と金属が擦れあう音であった。
がちゃり。
がちゃり。
と、デュラハンの姿が揺らめいている。
デュラハン「参ったなぁ」
揺らめいているのではなかった。魔力が底をついて、すでに鎧を維持できないほどになっていたのであった。
漆黒の鎧は今や漆黒の破片となって、漆黒の破片は次第に漆黒の霧となって、消失していく。
少女「アタシの、勝ち、みたいね」
デュラハン「何秒か、何分か、わからないけどね」
少女「それでも」
デュラハン「勝ちは勝ち、負けは負け、か」
少女の両腕はない。血の海に横たわる彼女の寿命はデュラハンに比べればほんの少しだけ、数秒か数分だけ、長い。
ゆえに少女の勝ちである。
少女「でもね。アタシは、この先がある」
デュラハン「この先?」
少女「そう、この先」
少女「勇者と合流して、魔方陣を止めて、世界を平和にするっていう」
少女「アタシは、アンタとは違う」
デュラハン「そうか。そうだね。俺とは、違う」
少女「だからアタシは、死なない」
少女「死なないのよ」
語気は強くなかった。声も大きくはなかった。それでも、確かに言葉は空気を震わせた。
意志の籠った声だった。
血液が光り出す。横たわる少女の体もまた。
デュラハン「ま、楽しく、見させてもらうよ」
ロトの剣が地面へと落ちた。すでに漆黒の霞さえも霧散して、どこにも見出すことはできない。
やがてロトの剣すらも召還される。
少女は這いずって、這いずって、這いずって、自分の左腕が落ちている地点までたどり着く。きれいすぎるほどにきれいな切断面を合わせ、仰向けに寝転がった。
空は見えない。ただ、限りなく灰色な天井があるばかりである。
少女「勇者、やったよ……倒したよ……」
少女「疲れたなぁ、眠いなぁ」
少女「ね、勇者。寝て、起きたらさ。アタシ、頑張ったからさ、褒めてよ。ね。いっぱい褒めて」
少女「そしたらアタシ、頑張るから。頑張れると、思うから」
少女「ふぅ、疲れた。ごめんね、ちょっと寝るわ」
少女「あぁ――幸せだなぁ」
少女は目を閉じた。
寝息だけが、確かに聞こえた。
――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――
勇者(なんだってんだ、あいつは)
唇を半ば無意識に指先で触れながら、勇者は思う。
勇者(キスだなんて、あんな……)
老婆はそんな勇者の姿を見ながら、にやにやと笑い、同時に「困ったものだ」とも思う。
朴念仁は、というよりも、勇者が自らの特別性を理解していないことに。
彼は、なぜ彼が慕われるのかを理解していない。狩人から、少女から、老婆から、街を行く人々から、仲間の兵士から、どうして慕われているのかを。
誰しも彼が眩しくて、それでも託したくなるのだ。彼ならば自分の希望を託してもよいのではないかと思われる何かを、生まれつき持っている。それは決して才能という言葉では言い表せない。
しかし勇者は誰よりも自らのそれに無自覚だった。周囲の人間が彼を見るなり声をかけてくるのは偶然で、もしくは狩人や少女や老婆が強く、それのおこぼれを預かっているにすぎないのだとすら思っていた。
この世界に「世界を救う」と大言壮語を吐ける人間がどれだけいるだろう? ましてやそれを実行途中などと。
勇者「王様が魔王との戦争の準備をしている?」【パート4】
に続きます。