桜高軽音部。そこに私が居たのはもう六年も前の事だ。
部内の同級生四名で結成され、その後下級生が一名加入し、2G1BKDの形に落ち着いたバンド『放課後ティータイム』。
私が担当していたのはB。ベース。レフティーのベーシストだ。あと、ボーカルも少し担当した事がある。
胸を張って言えることではないが、この部活には真面目に練習していた時間など殆ど無かったと言っていい。
年に数回ライブをするだけの部活。ライブが近くにならなければ本腰を入れる事などまず無く、
高校生らしいかと言われればそれすらも実に怪しく。
そんな温く緩いティーンエイジライフを私と仲間四人は共有して過ごした。
まあ語りたい事は胸や脳の中に山積しているのだが、全てを吐きだすには少し長くなりすぎるので、
ここは割愛させて頂こうと思う。ご了承を。
さて、今回私が語ろうと思っているのは、ここ数カ月の出来事だ。
先述の通り、私が高校を卒業してからはもう六年の月日が経過している。
今の私は二十三歳。高校卒業と共に地元の町を出て東京都内の国立大学へ進学、無事卒業。
その後は東京のど真ん中にある割と大きな会社でごく平凡なOLなんて職業に就いている。
現在社会人二年目、上場企業の営業課で働いていて、手取りではなかなかいい額の給料も貰えていると言って良いだろう。
まあ最初営業に配属された時には酷い立ち眩みを覚えたが。
必死に「何とか変更をお願いできませんか?」と申し出たのだが、そこは社会の荒波。
私一人の勝手な懇願が押し通る訳も無く、同課叩き上げの先輩方に一から十までの対人スキルを叩き込まれたのだった。
それこそ研修期間の間は毎日胃薬が欠かせなかったというのは言うまでもない。
何とか仕事にも慣れ始め、気のいい上司や優しい先輩に恵まれたおかげというのもあるのだろうが、
厳しいながらも充実した入社二年目という日々の流れは、私からカレンダーの月数時を確認する余裕も奪っていたようだった。
外回りの途中、公道の脇に併設された花壇に所狭しと植えられたコスモスが薄紫の花弁を脱ぎ捨て始めたのを確認した時、
私は初めて秋の足音が遠ざかって行っている事に気付いたのだった。
元スレ
澪『同じ窓から見てた空』
http://live28.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1275742207/
「えっ……?」
呟いて立ち尽くした後、私は手をブランド物のバッグに差し入れ、携帯電話のサブディスプレイを点灯させる為にサイドキーを強く押し込んだ。
無機質なアラビア数字が大きく現在の時刻を映し出すが、私の目的はその上のごく小さな数字の方だ。
斜線を挟んで『11』と『28』という数字が隣合わさっているのを見て呆気にとられた……。
というのは社会人として良いやら悪いやらなのだが、
そういえば日付なんてスケジュール組みの上での記号としか意識をしていなかったというのもまた確かな事で、
残念ながら私は間違いなく、今この瞬間に、もうこの一年が終わりかけているという事に気が付いたのだった。
「秋山さんさ、正月は地元に帰るの?」
研修期間中、私の指導社員だった三つ年上の先輩がビール片手に話を振ってくる。ここは我が班御用達の創作居酒屋。
今日は会社発足以来、一番大きなと言っても過言ではない契約をウチの班が取って来た記念の打ち上げだ。
今年の社長賞の受賞も報告と同時に決定し、班の社内評判はまさしく右肩鰻の滝上り。
その班のリーダーである彼女は来年の異動で昇進が確実となったというのも相まって、超の付くご機嫌だった。
「そうですね」
間髪を容れずに返す。営業はトークが命。
私はこの一年半でトーク技術の向上に重点を置いていたので、それなりに人と話すのが得意になっていた。
それはもう高校時代の自分に教えてあげたくなる程に顕著な成長を見せたと言っても過言ではない。
当時を知る人間には別人と言われてもおかしくないだろう。本当にその位喋るようになったのだ。
「せっかく五日も休みがあるし、たまには両親に顔を見せないと忘れられそうで」
はにかみながら言う私に、先輩は一喝。
「こんなか~いい娘を忘れる親が何処に居るってのよ! 秋山さんちゃんと鏡見てんの? 割れてない?」
我が班が占拠しているテーブルに大きな笑い声がこだまする。皆、先輩につられるかのように上機嫌だ。
だがそれもそのはず。この契約を取る為に皆ゴールデンウィークもお盆も休まずに働き詰めだったのだ。
それがこうして結実したのだから、今日はもう飲めや騒げやの大宴会というわけ。
「でも秋山さん入ってからウチの班変わったよね」
こちらは私の二つ年上の先輩社員。色黒のいかにもというダンディーな男性だ。遊んでいそうに見えて実は病的な愛妻家。
何でも学生結婚をしてから六年間一度も喧嘩をした事が無いそうなのだが、それは尻に敷かれまくっているからなのだという恐妻家情報も出回っている。
よく喋り、よく働く、模範社員を地で行く人だ。
「何かこう……めちゃくちゃ雰囲気良くなったしさ。気も効くし、リーダーの右腕をしっかり務めてたもんね」
べた褒めなのは嬉しいが、どうも男性にこういう事を言われると靡いてしまう節があるので、自ずと苦笑いになってしまう。
「そんなことありませんよ」
と否定するものの、「いや」とすかさず声が飛んでくる。
「確かに秋山さんの働きは目を見張るものがあったよ」
リーダーが大ジョッキの中身を飲み干して続ける。
「確かに最初入って来た時はひよっこだったけどさ、今じゃウチの班のエースだね! 間違いない!」
えっ……いや……と反応するが、周りの同僚達が拍手喝采を浴びせてきた為、ややこそばゆくなりつつ、私は一礼してそれに応えた。
「みんなも秋山さんに負けちゃダメだよ! まだ入社して丸二年も経ってないんだから!」
その声に何だか訳の分からないテンションになった男性社員の一人が鰌掬いを始めたので、皆爆笑しつつ手拍子でそれを煽った。
私は今本当に、心の底から愉快になって笑っていた。
それこそこの短い人生の中では数少ない大歓声を浴びた『最後』の思い出に並ぶ程楽しい時間を、私は今過ごしていた。
あくまでベクトルが違うので比べられはしないのだが、と付け加えておこう。
二次会でやって来たカラオケのトップバッターは何故か私。
皆のテンションに負け、マイクで乾杯の音頭まで取らされ、リーダーの選んだ一曲目を歌う羽目となってしまったのだ。
だが、正直嫌な気分では無い。歌うのは好きだったし、カラオケは私の数少ない趣味の一つだったから。
それに何より、もう五・六杯は飲んでいたというのも大きいだろう。
私は誰に言われるでもなく、大部屋のど真ん中にあるプチステージに立ち、誰でも知っているであろう九十年代後半のポップソングを歌い始めた。
イントロ後、私が歌い始めた時、何故か皆の手拍子が暫しの間止み、その後何故か起こった拍手に首を傾げつつ、私は乱雑な手拍子を目一杯受けてその曲を歌い上げる。
そして律儀にも後奏まで付き合ってくれた同僚達に頭を下げ、私はトップバッターの役目を終えたのだった。
「すげえええええ!!」
「ちょっとちょっと! 上手すぎでしょ?!」
口々にそんな言葉を飛ばしてくる同僚達。
些か褒められ過ぎでドッキリではないかと疑ってしまいそうだったが、打ち合わせをしているとも思えなかったので、とりあえず弁明(?)をしておく。
「私、高校の頃バンド組んでたんです」
「へえええええええええ!」 とか「なるほどねぇ」などという感嘆の言葉を全身で受け止めつつ、私はマイクを鰌掬いの先輩に渡した。
「おっ! こ、これは……!」
「掬わなくていい! 掬わなくていいからな!」
「いや……ほ、発作が!!」
そう言って鰌掬い先輩は本日二度目の鉄板芸を繰り出し始めた。この人は何が何でも笑いを取らないと気が済まないらしい。まあ実際面白いからそれでいいのだが。
そして、案の定全員が爆笑の渦に巻き込まれたというのもまた言うまでも無い事だった、と付け加えておこう。
「凄かったねー、秋山さんのオンステージ! 男連中湧いてたよ~!」
「後ろから見た鰌掬いもなかなか凄かったです……」
「はは、どんなコラボレーションだっつーの」
タクシーの中、リーダーと二人きりになった私はまだ先程までの余韻に浸っていた。
セーブしたつもりだったのだが、王様ゲームで飲まされたカクテルの一気がなかなか視界を揺らしている。
テキーラサンライズだったか? 色合いに騙されて一気を渋々受け入れはしたものの、
あれのせいで明日二日酔いになる確率は小学生の腕相撲大会にサイヤ人が出場して優勝するのとほぼ同率になってしまった。
どうやら洋酒はあまり体に合わないらしい。やはりこの時期は年齢不相応に見えても熱燗が一番な気がする。魚は炙った烏賊で良い。
「それにしてもバンドかー」
リーダーはニヤニヤしながら私の顔を見つめてくる。こんなに表情は初めてだ。
「正直意外だね。もっと大人し目な事やってたかと思ってた」
「大人し目?」
「うん、文芸部とか」
「ああ……」
くすりと笑みが出る。ガラスに映った半透明の自分と目が合い、その表情を見て今日はやたらと気分が良いのだと始めて気付いた。
「最初は文芸部に入ろうと思ってたんです」
でも、と続ける。
「無理矢理軽音部に入れられちゃいました」
今となっては微笑ましい限りのあの頃の自分。
別に愛着も何も無い所から始まったあの軽音部黎明期は、思い出すだけでまだ半端で浮ついた入学当初の自分の姿を如実に浮かばせる。
恥ずかしがり屋、臆病者、陰でひっそり生きていたいマイナス思考の塊。
そんな私を眩い光が当たる方へ、自然と視線の集まる場所へと手を取って導いてくれた幼馴染の姿が、薄曇りの空に霞みつつ浮かんだ気がした。
「へぇ~」
話し出せばきっとキリが無くなる思い出が脳の中から今にも溢れてきそうだったが、それを語り出す前に黒塗りのタクシーは私の住むアパートの前へと到着した。
些か残念な気がしないでも無かったが、リーダーは「今度じっくり聞き出すからね!」と告げて笑い、
私の「お金半分出します」という一応の提案を軽いジェスチャーだけで取り下げて再び夜の街へとタクシーを向かわせた。
それが曲がり角で見えなくなるまで私は手を振って見送り、すぐに感謝のメールを送って心のオアシス・我が家へと帰還を果たす。
次にリーダー含め皆に会うのは……二日後、月曜日の朝だ。
じっくりシャワーを浴びて浴室から出てきた私の目に飛び込んできたのは、携帯の着信ランプが放つエメラルドの光が点滅する様子だった。
すぐさま頭の中に浮かぶ四人の顔。
この色の光が瞬いているという事は、つまり先程先輩との会話に出てきたバンドのメンバーの誰かから連絡が入ったという事なのだ。
冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、それを右手に携えて左手をシルバーの携帯に伸ばす。ストラップが一つだけぶら下がっているシンプルな携帯。
二つ折りのそれをゆっくり開くと、比較的見慣れた一文字が着信履歴の一番上に刻まれていた。
すぐさまその番号へとリダイヤルを掛ける。聞き慣れたコール音は一つ目の半ばでキャッチされ、これまた耳に馴染んだ声がすぐさま飛び込んで来た。
『どもども! お久しぶりです!』
相変わらずのテンションに口元が緩んだ。
「昨日も電話したろ?」
そうでしたっけ? という何ともふざけた返答に思わず鼻を鳴らす。
それを聞いて受話器の向こう側にいる通話相手はこう続けた。
『今どうです?』
来た来た。
「空いてるよ。暇で暇でしようが無い」
後半部分をわざと誇張して言うのも最早定型句のような物だ。挨拶代わりだね。
『了解です!』
その言葉と共に通話は向こうから一方的に切られ、代わりに今度は我が家のインターホンが二回鳴り響いた。
やれやれ、またこの手か。
私は玄関まで行き、すぐさま告げる。
「あ、私仏教徒なんで間に合ってます」
「え゛!?」
「あと、こんな時間に宅配は頼みません。太るし」
「え゛え゛っ!?」
面白い。実に良い反応だ。
チェーンを開け、鍵を回し、ドアノブを捻り、開け、そこに佇む客人を招き入れる。
「や、やられました……」
ガクッと首を垂らす小さなギタリストが、そこには居た。
「いつまでもこの時間に宗教の勧誘やピザの配達が来られちゃいい加減迷惑だからな。私だって流石に学習す……」
言いながらふと眼をやれば彼女が背負っているケースがいつもと違い事に気付く。
「お……おい、そのギターまさか……!」
ハッと我に返った彼女はバッ!と顔を上げ、満面の笑みで言う。
「そのまさかです!」
思わず声を上げそうになるが、時間が時間だという事に気付き、取り敢えず中へ招き入れる事にした。
「お邪魔します!」
律儀に靴を揃えて我が家へ上がり込んだ彼女は一目散にリビングへと滑り込み、早速厳重に施錠されているセミハードケースの解錠を始めた。
「おい、飲むか?」
「勿論です! これが飲まずにいられますか?」
「いられません!」
完全にグロッキー状態でカラオケ店を後にしたのがものの一時間前だというのに、
私は冷蔵庫の中から取り出した日本酒を何の躊躇いもなく徳利二本になみなみ注ぎ、電子レンジへと放り込んだ。
そしてすぐさま彼女の待ち構えるリビングへと踵を返す。
「……いきますよ?」
「お……おう……!」
そう言って彼女はゴツ目のケースから一気にそれを取り出した。
黒く輝くボディー、それと同色のピックガード、当たり前のように張られたライトゲージのエリクサー、あちこちに見られる小さな傷。
それら全てが渾然一体となった珠玉の逸品が私の目の前に姿を現したのだ。
「うわああああ! テレキャスター様だ! フェンダーのテレキャスター様だ!」
「誰もが憧れるオールドのテレキャスター様ですよ! 頭が高~い!」
「ま、参りました!」
黒塗りのボディーが重厚で鈍い光を放つ。そのまるで黒真珠のようにひどく尊い御姿に、思わず圧倒され平伏してしまった。
「あははは! 是非手に取って見てみて下さい!」
「い、いいのか?」
「勿論です!」
私は彼女が差し出した大凡全てのミュージシャンが憧れるであろうそのギターを厳かに受け取り、じっくりとその感触を味わった。
ギターなんて殆ど弾けない私でも何の躊躇いも無く名器と呼べてしまうこれを、彼女はようやくその手中に収めたのだ。
これを手に入れる為に彼女が流した汗と涙の量は、本当に計り知れない。
「思ったより軽いんだな……」
思わず唾を飲む程に逞しく美しいそれを、私は暫く撫で回すかのように弄っていた。
「コードも抑えやすいし……」
と、私が陶酔しきっていた時だった。
「……ぷっ」
ん?
「……あはは!」
「あ、あず……」
「あははははははははは!!」
突然彼女が笑いだした。正直近隣から苦情が来るレベルのその声量に軽く慌てふためきつつ、訊ねる。
「ど、どうしたんだよ!?」
「せ、先輩……!」
「何だよ! 静かにしろって!」
「やっぱり癖抜けてないんですね!」
そう言って再び腹を抱えて笑いだす彼女。だが私にはその原因が全く以て分からない。
やがて、一分ほど床を転げ回った彼女はようやく服の袖で涙を拭い、最早彼女専用と言っていい程に形が馴染んだ座布団へと座り直した。
「すいません、あんまり可笑しかったんで」
「まったく……何がそんなに可笑しいんだよ?」
彼女は再びプッ……と吹き出しながら私の顔を見た。
「だって……」
「……?」
「何の躊躇いも無く右手でネック握るんですもん」
「……えっ?」
言われて気付いた。このギターは当然ながら右利き用だ。だが私は何の躊躇いも無く、何の違和感も覚えず、
じっくりとレフティーの構えでこのギターを撫で回していたのだ。やはり癖とは抜けない物なのか……。
「おまけに今のコード、ふでペンでしょ?」
「う゛っ……!」
バレていた。やはり本職には敵わない。……てか、恥ずかし過ぎるだろコレ。
「そんな真顔で『コードも抑えやすいし』とか言われても……絃反対に張ってるのに……!」
またしても笑いだす彼女。余程ツボに入ったようだ。
「ああもう! せっかくあの日本酒熱燗にしたのに! もうあげない! 私が全部飲む!」
「に゛ゃっ!!??」
すかさず土下座をして詫び出す彼女。
「す、すいません! 私が悪かったです! この通りです! 先輩は神様です!」
「……本当か?」
「はい! 大明神です!」
ふふ……と鼻を鳴らし、何処となく勝ち誇った気分になる。何とも惨めではあるが、面白いのでそれでいい。
「よし、じゃあ電子レンジの徳利持ってこい。熱いからタオルで挟んでな。お猪口も二つ」
「はい!」
それこそ猫のような身のこなしで台所へと掛けて行く彼女。……ああそうだ。
「烏賊も忘れるなよ~」
はいっ!っという育ちの良さが伝わってくるような返事をし、彼女は台所を漁りまわる。
その音を背で受けつつ、私は敢えて右手でテレキャスターのネックを握り続け、先程コードを押さえていた曲のベースラインを奏で始めた。
「お前がこっちに来てからもう一年半が経つんだな」
「そうですね~」
ちびちびと貰い物の高級日本酒を味わいつつ、何故か話は少し前の過去へと飛んで行く。
自身がやや固く焼き過ぎたと申し出た失敗作の烏賊の炙り。
それをパリパリと小気味良い音を立てながら美味しそうに頬張る彼女の名は、中野梓。
私の高校時代の後輩で、同じバンドにギターで所属していた。
学業面では推薦が取れるほど優秀な成績を修めていたのだが、ミュージシャンになりたいという幼少の頃からの夢を捨て切れず、
結局は高校卒業後に音楽の専門学校へと入学。
在学中に抜きん出た演奏力の高さと周りに合わせた音作りの素晴らしさが買われ、晴れて地元の小さな音楽事務所からスカウトを受ける。
売出し中のバンドのサポートメンバー、インディーズミュージシャンのレコーディング、と多忙な日々を送った後、
昨年の四月に東京の音楽事務所から引き抜きを受けたのだった。
現在はバイトをしつつレコーディングやアシスタントのレベルで音楽を生業にする、いわいるミュージシャンの卵というポジションだ。
最早私達と一緒にやっていた時のレベルとは比べ物にならない程のテクニックを体得しており、
所属事務所の中でも一・二を争う若手成長株というのが現在の梓のミュージシャンとしての立ち位置らしい。
本人曰く「あと一・二年もすれば完全に音楽で食べていけるようになる」そうで、
そうなったら事務所の大先輩の下でプロデュースの勉強も始めたいと言っていた。
ちなみに、先程彼女が私に握らせてくれたオールドのテレキャスターは、
彼女が四年も前から欲しがっていた至高の一品で、悲惨ともいえる東京での貧乏生活を続けてようやく手に入れた、まさしく『逸品』なのだ。
私は地元ショップに売っていたというこのギターの話をそれはそれは幾度も聞かされていたので、
梓が今日どれだけ喜び勇んでこのギターを担いで我が家へ来たのかがよく分かる。
これからこのギターは大変だ。これ以上ない溺愛を受け続け、
梓が死ぬまで酷使され続けるというヘビースパルタな日々を送るに違いない。
……まあ本業はこのように前途洋々な彼女ではあるのだが、その実先述の通り生活の方は全くと言っていい程潤っていない。
梓の住んでいる所が家から近いという事もあり、私はいつも暇を見つけては彼女をここに招いている。
共に食事をしたり、時々ショッピングに出かけて服を買ってあげたり、無理矢理酒の相手をさせたり。楽しいものだ。
彼女の貧乏エピソードの中で最も衝撃的だったのはギターを買うお金に手を付けられず、本当に餓死寸前の栄養失調で倒れたことがあるというものだ。
その当時の食事が五日でキャベツ一玉だったと聞いた時はこちらが立ち眩みをした。まったく……青虫じゃないんだから……。
とにかくそんな事情もある為、現在三日に一回程の割合で我が家へ上がり込ませている。
お互い気兼ねなく話せる間柄と言う事もあり、いつしか互いに接する態度も軟化していき、気付けば随分とフランクな会話をする関係となっていた。
ここには部活時代の些か生真面目な態度を取る梓も、そして同じようなポジションだった私も居ない。
営業の仕事ですっかりトーク力を培った私と、その影響をもろに受けた梓。なかなか面白いコンビだと自分でも思っている。
「先輩は正月帰るんですか?」
「もちろん」
即答だ。
「家のお雑煮は美味いんだぞ~。今回は年末からちゃんと帰れるから是非アレを覚えなきゃな」
「なるほど、じゃあこっちに帰ってきたら是非私に披露して下さい」
ん?
「お前は帰らないのか?」
あー……と、梓。
「帰るんですけど、どっちみち先輩が作る雑煮が食べたいですから」
「こんにゃろ」
軽く徳利で額を小突く。
「あでっ……って……」
「何だ?」
「せ、先輩もう一合飲んだんですか?!」
「ん」
「早っ! 相変わらずの酒豪ですねぇ……。ん? あ、あの……ひょっとして……」
「おかわり」
「やっぱり!」
渋々立ち上がって台所へと向かう彼女を見て、私は何だか妙な溜息を一つ虚空へと送り出した。
「地元……か……」
地元を離れてから六年。この間私は三日以上連続で実家に帰った事が無かった。
ある年はゼミが忙しく、ある年は飛行機代が勿体無く感じ、去年に至っては社会人一年目という事もあって一日も帰る事が出来ず、
年越しの瞬間はこの部屋で一人酒を煽っていた。
まあおかげで両親がこちらに遊びに来るというイレギュラーなイベントが発生したのだが、それはまた別の話。
「みんなどうしてるのかな……」
私は暖房の効いた床へゴロンと横になり、台所に居る彼女へと質問の矢を飛ばした。
「梓~」
「はい?」
ピョコっと愛らしい顔を覗かせる憎い奴。その小動物的な外見に些かの羨望を覚える。
「梓は皆の近況知ってるか?」
目を逸らして聞く。
「ああ、軽音部のメンバーですか?」
「そう」
まあそれ以外にこれといって友人など居ないというのは黙っておこう。
「ん~……私正直地元の人たちとあんまり連絡取って無いんで……。澪先輩こそ詳しいんじゃありません? 皆さん同学年ですし」
そう言われてしまえば普通はそうなのだが……。だとしたら私はマイノリティーに分類されてしまうのだろうか?
「いやさ、実は私も卒業してから殆どみんなと連絡取って無いんだよ」
「そうなんですか?」
「うん」
近くに転がっていたふかふかのクッションを取り、両腕の中に収め、吐息を一つ宙に向かって溶かし出す。
「律先輩ともですか?」
ん……、と一瞬答えに詰まるが、まさしくその通りだ。
「律とは特に、だ」
「特に?」
その言葉と共に湯気を上げる徳利を手に携えてリビングに戻ってくる彼女。待ち詫びたブツの到着に私は上体を起こして歓迎の意を示す。
「そう」
差し出したお猪口に熱い酒を注いでもらい、チビ、と一口啜って机に戻す。
「あいつとは卒業式の日以来一度も会って無いし、電話もメールも全くしてないんだ」
「ええっ!?」
梓はその一言が余程衝撃的だったようで、口に含んだ烏賊を喉に詰まらせて噎せた。
おいおい、とその口に酒を流し込んでやると、彼女は顔を真っ赤にしつつ何とか数回の咳で落ち着きを取り戻し、涙目で私に問う。
「どうしてですか!? 幼馴染で高校までずっと一緒だったんでしょ!? あんなに仲良かったじゃないですか!」
「ん……」
と、天井を見て力無く返す。
「そんな急に連絡しなくなったなんて……。喧嘩でもしたんですか?」
いや、と私。
「喧嘩なんてしてない。お互い恨み恨まれるような事は絶対、な」
「じゃあどうして……?」
「分からない」
即答だ。
「分からないけど……私も律も互いに連絡を入れてないって言う事だけしか私には分からないんだ」
そして、それがどうしてなのかも分からない。と付け足した所で、私は熱々の徳利をタオルで挟み、お猪口に酒をなみなみ注いだ。
そしてアテの烏賊に手も付けず、一気に飲み干す。
流石に少々熱かったが、何だか取りとめのないもやもやが込み上げて来たので、もう一度それを繰り返した。
梓はそんな私の行動に何も言うことは無く、ケースの上でふん反り返っているテレキャスを取り上げ、何か知らない曲を奏で始めた。
「私が知ってるのは……律先輩が短大に行ったって事くらいですかね」
その位は私も知っている。割と偏差値の高い所だったからな。
合格と分かった時には泣いて喜んでたし。……っていうか梓以外の全員で合格発表見に行ったしな。
「ムギ先輩は志望校の女子大に受かって、途中で留学したんですよね。えっと……イギリスでしたっけ?」
そうそう。
「で、唯先輩は料理が出来ないのはこの先の人生に置いてマズいよ!……って言って調理師専門学校に……」
「でも願書書いてる途中でパティシエ専攻科みたいなのがあるのを見つけて、結局そのコース取っちゃったんだよな」
「仮にちゃんとパティシエになってたとして、唯先輩を雇ってくれる店……あるんですかね?」
「う゛っ……」
痛い所をズバリと突くな、こいつは。
「ま、まあ……あるんじゃないか? そんな風変わりな店が……」
「ニートになってなきゃいいですけど……」
ギターを再びケースの上に戻し、烏賊をポリポリと味わいつつ遠い目で天井を眺める梓の脳内では、
きっと二十四歳になった唯が未だに妹の憂ちゃんに家事一切を任せてぐうたらしている図が浮かんでいるのだろう。
……というか、唯の高校時代の私生活を少しでも知る者には、その光景以外浮かばないのではないだろうか。
本人には悪いと思うが、節々のインパクトが強すぎてどうしてもそういう想像になってしまう。
―――皆、今……一体何をしてるんだろう……?
それは、冬の始まるほんの数日前。いつものように烏賊を齧って日本酒を心行くまで飲み続けるという何とも安いイベントの中盤、
彼氏も居ない二人のうら若き乙女が昔の仲間の事を考えた、ただそれだけの事だった。
こんな広い東京の、こんな狭い部屋の片隅で、私達は天井を見ながら少しだけ……、
そう、少しだけ……皆に会いたくなったのだった。
リンドバーグやライト兄弟、かの偉大なる先人型のお陰で制空権を得た人間ではあったが、鳥からすればこんな傍迷惑な話も無いだろうな……。
などと、誰が得をするでもない思考トレースじみた愚考の行き着いた先にあった答えは、
『どうでもいいから早く家に帰りたい』だった。実家、東京の家、どちらでもいい。
本日は十二月三十日。会社は今日から五連休で、世間でもいわいる正月休みと言う奴が始まっていた。
おかげ様で空港内は右を見ても左を見ても人・人・人。機内もビッチリ人・人・人。
これだから帰省ラッシュは嫌だ。まあ新幹線で帰ろうが飛行機で帰ろうが結局は同じなのだろうが。
ひょっとして予約が取れただけでも良しとしろと言うのだろうか?
まあ、そんなの誰にも言われる筋合いは無いし、どうせ誰も言わないんだろうけどな。
……それにしても。
「梓……おい!」
アホ猫は「んん~……」と呻るだけで、揺すっても揺すっても起きやしない。
まあ飛行機に乗る直前まで近所のスタジオで徹夜のレコーディング作業をしていたというのだから無理もないかもしれないが……。
「さっさと起きろ! もうすぐ着陸だ! さっさと座席を戻せ!」
「に゛ゃっ!!??」
漸く飛び起きた彼女ではあったが、何を思ったか混乱した顔になると身体を拘束していたシートベルトを外しだした。
「おおおい! 怒られるからしっかりしろ! CAさんに迷惑を掛けるな!」
……というかまずは私に迷惑を掛けないで欲しいのだが。
「み、澪先輩! ここは何処ですか!? 私何でこんな所……痛っ! 耳が痛いです! 破裂します!」
「ああもう……!」
「ほら、ぷくって! 鼓膜がぷくって!!」
「やかましい! それは鼓膜じゃないし破裂もしない! いいからさっさと目を覚ませ!」
飛行機に乗ったのも覚えてないのかこいつは? ただでさえこっちだって酒の飲みすぎで頭がガンガンしてるって言うのに……。まったく……とんだ災難だ。
機内から着陸後にかけて繰り広げられた一悶着の後、ようやく人で溢れる空港の敷地内からレンタカーで抜け出した私達ではあったのだが、
正直この時の私の頭は二日酔いのせいで開店休業状態となっていた。
にもかかわらず、ペーパードライバーである私を無理矢理運転席に押し込んだ梓。……もう軽く呪っていた。
こう言うのは普通率先して後輩がハンドルを切るのではないのだろうか? 嗚呼……あの優しくて気の利く高校時代の梓は一体何処へ……。
「あれ? ひょっとしてナビが付いてないの借りたんですか?」
「……この期に及んで文句ですか子猫さん?」
「あ、そういうわけじゃないんですけど、最近のレンタカーショップって何処も全車ナビ搭載がデフォだと思ってたんで」
「ふ~ん……。ま、同調してやらんでもないが、私が敢えてこの車を選んだのには明確な理由があるのさ」
「へえ~。まさか高給取りの先輩が安かったからこれに決めたなんて言いませんよね?」
「…………」
「おいぃ!? まさか図星ですか!?」
「か、可愛かったからだ! こういう時にも外観にこだわるのが大人のオシャレだろ!」
今のは自分でも随分と苦しかった気がするな。梓もやや白い目でこちらを見ている気がする。
……でも言えない。単に値段表の一番下にあった激安の文字に釣られたなんて絶対に言えない……。
というかこの車全然可愛くない……。
その後はもう酷かった。
ダッシュボードに入っていた難解極まりない表記の地図を梓に持たせてナビゲートさせたのだが、このネコナビがまあ役に立たない立たない。
高速では降りるべき出口を全力で間違えたり、今通り過ぎたばかりの角を曲がれと言ったり、
本当に帰巣能力が片鱗も垣間見えない究極の方向音痴っぷりをまざまざと見せつけてくれた。
一時間程で到着する筈の道のりを四時間掛けてドライブした末ようやくホームタウンに到着した瞬間には、
町のシンボルである小さなタワーがまるで喜望峰の様に見えたものだ。
その勇ましいまでの御姿に覚えなくていいはずの感動を無意味に覚え、互いに本日三本目の缶コーヒーで乾杯をしたというのはここだけの話である。
そんなこんなで、狭い車内で全力の歓喜に沸きつつ、拍手も喝采も無い凱旋を果たした私達なのではあったが、
ホッとしたせいか遂に私の体力と梓の眠気が限界に来てしまった。
家はもうすぐそこなのに、何故だか全く辿り着ける気がしない。
「梓……」
「先輩、皆まで言わないで下さい……」
「……ん」
私がハンドルを切って突撃したのは、学生時代に通っていた通学路の脇にあるスーパーの駐車場だ。
まさかこんな所でダウンを奪われるとは……などと自分の不甲斐なさに頭を痛めつつ、
どうやら普段の運動不足が祟ってこうなったのかもと考えると何だか恥ずかしくなってきた。
私はサイドブレーキを引いてエンジンキーを回したのと同時に、シートを限界まで倒す。
ちなみにアホ猫さんならもう一時間前もから既にその体勢を取っている。
「もう無理だ……」
これ以上無理をしたら確実に事故る。それだけが妙にハッキリと自覚出来ていた。
「右に同じです……」
梓の言葉は最早半分寝言だ。そのふてぶてしさに無駄な神々しさすら感じられる。
それと同じくらい無駄に広い駐車場のど真ん中に車を止めたおかげで、フロントガラスからは惰眠の世界への案内人である日光様が入り込んで来ていた。
『どうやら今日は休寒日らしい。……よし、それなら私も今日は休肝日だ!』
……こんな事を口にしたらどうせ全力でバカにされるんだろうな……。
まあこんな時にバカにされるのも癪なので、自重して口には出さない事にしよう。
……ああ、下らない事ばかり考えていたら意識が……遠のい……て…………。
――――――ャ
……ん?
―――――シャ
……んん………………なん……だ……?
―――パシャ!
パッと目が覚める。何だか聞き覚えのある電子音だった気がするのだが……。
―――パシャ!
……んん!?
バッと上体を起こした私が最初に見た物は、太陽がゆっくりと山々の間に消えて行く頃の空の色だった。
まさしく誰そ彼時、時刻はもう夕方の終わり頃だ。
「う、うわぁ! 起きろ梓!」
ん~……と、日曜の十一時頃に決まって長々と耳にする事になっている猫なで声が、今回ばかりは一瞬で収まった。
「ほえっ! ゆ、夕方!? ってか夜!??」
やってしまった。午前中の便で帰って来てこの有様は何だ。一体何時間寝ていたと言うんだ。
「い、急ごう! 私お節料理作るの手伝うって言ってあったんだ!」
「私も今日は親戚が集まって年に一度の大宴会なんです!」
「ああもう! と、と、とにかく出発だ!」
二人とも慌ててシートを起こし、私は大慌てでエンジンキーを回す。弱い馬力のエンジンが火を噴いたのと同時にヘッドライトを点け、いざ出発!
……という、まさにその瞬間だった。
「ひっ!!」
「わっ!!」
何と車の目の前に人影が二つ立っていたのだ。ライトを点けるまで全く気付かなかった為、
不意打ち喰らった私達は互いにしがみ付き合って目の前のそれにひたすら怯えた。
「なななな何なんだ!! 金ならないぞ!!」
「そうです! 東京バナナ位しか持ってませんよ!! お金持ちなのは先輩の方です!!」
「お、お前私を売るのか!? 売るならお前のテレキャスを売れ!」
「嫌です! 金目の物なんてアレとムスタングとエフェクターしか持ってないんですから! 先輩ならそれなりの貯蓄が…………って、アレ……?」
梓は突然両目をパチクリさせてフロントガラスの向こう側を注視しだし、やがて五秒程が経った時、
「あ~っ!!!」
そう叫ぶと、何を思ったかシートベルトを外してドアを乱雑に開き、外へと一目散に飛び出して行った。
そのあまりの勢いに私がポカンとしていると、ヘッドライトに照らされた二つの影の内一つが梓を抱き上げ、きゃっきゃとそこら中を飛び回りだしたではないか。
「な……何だ?」
だが、私が呆けていたのもまたそこまでだった。梓を抱きしめるその人物のシルエット、髪の色、そしてはしゃぎ方。
その後ろ姿は私を一瞬であの音楽準備室へと連れ戻すのに十分すぎる物だったのだ。
エンジンを切り、梓に倣ってシートベルトを外して外へ飛び出し、その人物の名を呼ぶ。
「唯!」
梓から離れた栗色の髪の彼女はこう返す。
「やっほ~澪ちゃん!」
そしてこちらに駆け寄って来る彼女は、私を押し倒す程の勢いで抱擁という名のダイブをかまして来たのだ。
「六年振りぃ~!!」
その軽い身体を必死に抱き止め、十分に抱擁を味わって地面へと彼女を解放する。それと同時に目に入ったのは、あの頃のままのやや幼いキュートな童顔だった。
だが、何もかもがあの頃のままと言うわけではない。首筋辺りから仄かに香る柑橘系の香水、薄く纏った化粧。
ほんの少し、だけど年相応に成長した平沢唯が、そこには居た。
そしてその唯の肩越しに見る同級生同士の抱擁。二つ並んだ影の内のもう一つ。その正体は、同じく栗色の髪を靡かせる彼女の妹、平沢憂だ。
地元の友人との思わぬ再会。ただそれだけの事だったのだが、実に六年振りともなればその喜びは天まで届く様なものだった。自然と表情も緩む。
今回の帰省は何かが起こる。そんな事を朧気ながらに考えつつメランコリーなドライブをしていた数時間前の自分を褒めてやりたい。
その第六感は、紛れもなく正しかったのだ、と。
「澪ちゃんとあずにゃんの寝顔は相変わらず可愛いねぇ~」
何処の親父だよ、なんてベタなツッコミを後部座席の天然少女に入れつつ、私達は夜の始まった町をゆっくりとドライブしていた。
ドライブと言ってもただ平沢宅まで二人を送っているだけなのだが。
話を聞くとどうやら二人はスーパーに買い物をしに来ていたらしく、その帰り際に私達が簡易ベッドにしていたこの車を発見したらしい。
そして、自称悪戯心を決して忘れない乙女の唯が私達の寝顔を携帯で撮影していた時、タイミング良く東京帰りの美女二人組が目を覚ました。
……というのがこの感動的なまでの再会のプロセスとなったらしいのだ。通りでパシャパシャ五月蠅かった訳だな。
「二人の寝顔は待ち受けにします」
「おいおい……止めろよな」
「そうですよ。私は恥ずかしいからせめて澪先輩のソロ写真にして下さい」
「じゃあそうするね」
「おい梓! っていうか唯もソロ写真まで撮ってるんじゃない!」
「まあまあ澪ちゃん、油断する方が悪いんだよ」
「そうです。あ、信号青ですよ」
どうもペースが掴み辛い。そういえばいつもこんな感じで練習するのを後回しにされていたんだっけな。あの頃は確か梓はこちらサイドだったと思うのだが……。
「憂ちゃん、唯はこんなんでちゃんと生活出来てるのか?」
「何それ澪ちゃん!? ちょっとひどくない!?」
憂ちゃんはその唯の物言いに少し苦笑を浮かべつつ答える。
「大丈夫ですよ。お姉ちゃんが働いてるお店凄く評判いいんですから。この前雑誌にも載ったんですよ」
「へぇ~、意外だな」
「それに、もう家事も一対一なんですよ。料理なんて私が教わるくらいです」
「ほお~」
憂ちゃんがそこまで言うなら間違いないのだろう。
まあ唯を嫁に貰うような人は日本でもトップクラスの包容力が無ければ務まらないだろうから、相手探しにはさぞ苦労するだろうがな。
「あ、私恋人いるよ?」
ブスッと音を立てて胸に言葉の刃が突き刺さる。梓に大声で促されなければ赤信号の交差点に突撃してしまう所だった。
「ほほほほ本当か!?」
「やだなあ澪ちゃん。私だってもう二十四だよ?」
何でも相手は専門学校時代の同級生で、今は唯と違う店でチーフを兼任しているやり手の若手パティシエなのだとか。
「もう少ししたら二人の貯金で開店資金が溜まるからさ、そうしたら結婚して一緒にお店やるって約束なんだ~!」
まるで捲くし立てるかのように惚気の洪水を浴びせてくる唯。
「け、結婚!!?」
まさかそこまで話が進んでいるとは……。あの唯が……ねぇ……。
「じゃ、じゃあ結婚したら家を出るのか?」
ん~ん、と首を横に振る唯。
「来年の秋頃に駅周辺の再開発があるの。それで新しく大きなビルが出来るんだけど、そこの責任者が彼の知り合いでね、かなり良い条件で出店させてくれる予定なの。
厨房とディスプレイしか無い狭いお店だからって、テナント激安にしてくれたんだよ!」
「それは……凄いな…… 」
ただただ驚嘆するしかない。あの唯がこんな近未来の、それも至って建設的にして堅実な人生設計を行っていたとは……。
勝手に想像していた二十四歳ニートの唯の姿はもう思い出せそうにない。
「じゃあもう結婚は近いんだな。彼氏さんの御両親への挨拶とか大変だったろ?」
先に言ってしまおう。これは唯にとってNGワードだった。
その口から出たのは「ん……」というやや詰まった短い返事で、それと共に少しばかり顔を顰めさせた唯は、まるで呟くように、そして言葉を選ぶようにこう言った。
「彼ね、孤児院出身なの」
少しトーンを落としつつ、その言葉は続く。
「中学までは施設で過ごして、高校は寮。専門学校に通ってた時は友達とルームシェアしてて、まあ……一言で言うと、両親が居ないの」
あ……と口を噤む私。結果論とはいえ、聞くべきではなかった質問を発してしまった自分を軽く呪う。
「だからね、私がせっかく広い一軒家に住んでるんだし、どうせ結婚するならもう一緒に暮らそうよって事で今は私の家に住んでるの。
結婚してもあの家にずっと住んで、多分この街からは一生出て行かない。憂も相手見つけて結婚するまでは家で一緒に住んでくれるし、三人家族も楽しくて良いよ!」
落としたトーンを元に戻し、唯は明るくそう言った。
両親は相変わらず帰らない事が多いらしく、結婚の了承もあの家で彼氏を暮らす許可も取っているらしいので、最早あの家は九割方この姉妹+1の物なのだそうな。
「じゃあ今家にその人がいるのか?」
ううん、と唯。
「今はフランスの提携店に出向して半年間の武者修行中。二月になったら帰って来るよ。向こうでもなかなか評判が良いみたいでね、
もうこっちに住んじゃえよって言われてるんだって」
可笑しそうに眉を八の字にして笑う唯がバックミラーに映る。その隣では憂ちゃんも幸せそうに笑っていた。
「憂ちゃんは? 彼氏とか、結婚の予定とか」
姉の惚気話を黙って聞いていた優しい妹からは、「えっ!? え、えっと……」と、まあ何とも歯切れの悪い返事が戻ってきた。
「今は仕事が忙しくて……なかなか」
確か風の噂によると……
「OLしてるんだっけ?」
「はい」
そして、それは驚きの言葉へと続く。
「K社の支社で働いてます」
…………。
『ええっ!?』
私と梓のユニゾンが車内に響く。
「ど、どうしたんですか?」
些か狼狽した言い方で憂ちゃんが訊ねてきた。そんなに恐い声でも出していただろうか?
「私K社の本社勤務なんだよ! 営業で!」
「ええっ!?」
今度は憂ちゃんが大きく目を見開いて私に訊ねてくる。
「じゃ、じゃあA社との契約取って来た本社の営業チームの事詳しかったりします?」
「それ私のチームだよ!」
思わず二人の間だけで笑いが出た。まさかこんな偶然があるなんて……。
「凄いです! 今あのチームはウチの支社でも英雄扱いですよ!」
「そんな名が売れてるのか、ウチのチームは……」
まあ多少の自覚はあったが、こうして改めて第三者的な人間の話を聞くとそれが一気に実感へと変わる。不思議なものだ。
「もう次のプロジェクトに取り掛かってるんですよね? 本社の営業は凄く忙しいけど待遇もそれだけいいってウチの部長が言ってました」
「ああ、基本的に本社は待遇良いね。でもあの契約のお陰で今年はウチのチームだけ別格扱いだったよ」
「そんなにですか?」
「忘年会が料亭でフグのフルコースだった」
『えええええええええええええええええ!!!?』
私を除く三人分の絶叫が車内にこだまする。そのあまりのボリュームに思わず怯んで急ブレーキを掛けそうになっってしまった。
まあ何とか冷静さが勝って普通のブレーキを踏めたのは、日頃の行いの良さを神様が見てくれていたからだろう。私達四人は無事、平沢宅へと到着を果たしたのだった。
「そうだ澪ちゃん! あずにゃんも! 一日の夜空いてる!?」
目的地に到着したにも関わらず、車内から降りる素振りすら見せずに唯はそう訊ねてきた。
「えっ? まあ……空いてるけど?」
「私もです」
唯はそれを聞くとビシッ!とこちらを指さし、仰々しくも高らかに提案をしてきた。どこぞのアニメの団長様みたいだとは言うまい。
「じゃあ家で飲もうよ! 久しぶりにみんなで集まろう!」
思いがけない突然の提案だったが、顔を見合わせた私と梓にはそれを断る理由など櫛に絡まった髪の毛程にも見当たらないのであった。
「いいな! 集まろう!」
「是非お邪魔します!」
唯はふんす!と鼻から息を吐き、してやったりな決め顔で言う。
「決まりだね。じゃあみんなで集まって鍋でもつつきながら……」
くわっ!と目を見開き
「澪ちゃんのフグ大食い事件を激しく糾弾します!!」
そう高らかに宣言した。
「え、ええっ!?」
「二人とも、一日は寝かさないからね! 飲み比べだよ!」
唯はそう言うと後部座席から車外へ飛び出し、中身がぎっちり詰まったスーパーの袋を二つ手に取って憂ちゃんに続くよう促した。
「あ、そうだ。憂ちゃん、トランク開けて」
車外に出た憂ちゃんが「ん?」という表情を作りながら車の後部へと回り込む。カチャ、と鳴った音でそこが開かれたのを確認し、私は続ける。
「大きい袋があるの分かる?」
「はーい」
「中身一個出して持って行っていいよ」
わあ! という小さな歓声が一つ、夜道の虚空へと溶ける。
「ありがとうございます! お姉ちゃん! 澪さんから東京バナナもらったよ!」
「わっ! 澪ちゃんありがとう!! 早速頂くね!」
「夜にお菓子食べたら太るぞ?」
「大丈夫だよ~。 私いくら食べても太らな……」
「に゛ゃああああああああああ!!」
「うわあっ!」
「あ、梓落ち付け! あれは敵じゃない!」
「敵です! あの体質を手に入れる為に唯先輩を食べます!!」
「お前はもののけ姫の猩々か! ネタが分かりにくいんだよ! じゃ、じゃあ唯、一日はお邪魔するな。また連絡するから!」
「うん! 今日はありがとね! お休み~!」
「お休みなさ~い!」
私は今にも唯に飛びかかろうとしている獰猛なアホ猫を必死に押さえつつ、クラクションを一つ鳴らして再び夜の車道を走り出した。
バックミラーにはいつまでも手を振る仲良し姉妹の姿が映り込んでいて、それは私達が角を曲がるまで、ずっと続いていたのだった。
「綺麗になってたな」
特に唯が、とは言わなかったが、言葉のニュアンスで梓にもそれが伝わったようだ。
「まあ恋をすると変わるって言いますもんね」
「そうだな」
「彼氏……か」
何処か遠い目をして虚空を眺める梓。まあ星を眺めて感慨に浸ったりするような奴じゃないのは私が一番よく知っている。
「何だ? ウエディングドレス姿の自分でも思い浮かべたか?」
「まさか」
すっかり冷たくなったミルクの缶コーヒーの中身を一気に飲み干し、梓は続ける。
「去年のあの事を思い出しただけです」
「ああ……アレか」
確かにひどかった。色々とな。まあ一番ひどいのはあのバカ男のお気楽な脳味噌だったのは間違いない。
あちこちの女に手を出して四股五股と掛けておきながら、謝りもしないで飄々と梓を捨てようとしたんだからな。
もし私があの話し合いの席でぶん殴らなかったら梓の心に一生治らない程の傷が残っていた事だろう。
結局私のグーパンが皮切りとなり、チャラ男は本命の女に携帯を真っ二つに折られて別れを告げられ、
その他の女達から五発ずつ位のビンタ……というか張り手を受けてその場にへたり込み、
梓にフィニッシュブローの罵詈雑言をこれでもかと言う程叩き込まれてその場は解散になったのだが……、
それでも梓の心が癒えたかと言えば絶対にそうではないだろう。
なにしろあれが梓の初恋だったのだからな。もしも私が梓の立場だったら、どんなに頑張っても立ち直れない自信が多いにある。
「荒れてましたね……私」
「ああ……、荒れてた」
何だか哀愁漂う梓の表情を横目で眺める。その行為が何だか自分には恋愛と言う物をとても遠く感じさせた。
二十三歳にして累計男女交際日数ゼロ日の天然記念物女。C?B?それって何の事? 私は異性とキスもした事が無い。
毎夜この唇に触れるのはお猪口か缶ビールのプルトップの根元くらいなものだ。……いや、それ以前の問題か。
私は一方的にも恋というものをしたことが無いのだ。六十数億居る人間の中で、誰にも女として愛し愛された事が無い。
貞操を守っているわけでもないが、自ら捧げる事も無く生きてきた二十三年間。来月の十五日にはもう二十四になる。何か変わるのか?
二十三では見えなかったものが二十四では見えるのだろうか?
……いや、考えても分かる訳が無いな。
「……まあ」
―――恋なんてゆっくり探せばいいさ。
梓に言ったやら、自分に言ったやら。溜息を一つ、そいつでフロントガラスを曇らせる。
妙にかさつく唇にポケットから取り出したリンゴ味のリップクリームを塗り付け、それを軽くキスに見立ててみた。
……何と一方的な接吻だろう。などと一人勝手に思いつつ、私の唇の貞操を捧げられた哀れなリップクリーム。
後二日もすればゴミ箱へと去って行ってしまうであろうファーストキスの相手を、私はゆっくりポケットへとしまう。
「……エロい塗り方しますね~。色気ムンムンじゃないですか」
ヤンキーみたいな言い方をして梓は続ける。
「このシュチュで私が男だったら黙ってませんよ」
「はは、それは光栄だな。でも生憎お前は男じゃ無いし、私も百合じゃない」
「そりゃそうですよ。こんなか細くて可愛らしい男が何処に居ますか」
「……そうだな」
そして
「こんな男が居たら脱がして写メ撮ってショタサイトに投稿してひと儲けだな」
そう言って盛大に笑い出した私に、梓はひとしきりの冷ややかな目線と罵詈雑言を送った後
「昔の先輩はこんな人じゃありませんでした」
と捨て台詞を吐いた。そしてすかさず私も返す。
「お前だって昔はもっと素直でいい子だったぞ」
梓はムッとした顔でフロントガラス越しの町をへと視線を向け直した。その顔を見て、私は言う。
「でも、私は今のお前の方が好きだ」
ピクッと反応して、だけどあくまでこちらに視線をやらないそのふてぶてしい駄々猫的な態度。そこら辺が、私は好きだ。
「……まあ、私もどちらかと言えば今の澪先輩の方が好きです」
車内に満ちる不思議な空気。温かくも冷たくも無い二人、遠くも近くもない二人。私は少し、梓が本当に男だったら……
なんて思ってしまい、また一人で勝手に笑い、その私を見て梓もまた少しだけ笑った。
十二月三十日、レンタカーは街を西へ。小さな凱旋者二名は愉快に夜道を走るだけ。本当に、本当にそれだけの為の夜だった。
大晦日終了&本年開始から二時間三十四分。私はがっちりと分厚いコートを着込んで近所の神社の階段をゆっくりと登っていた。
無論、自ら望んでこんな所に居る訳ではない。私の望みは炬燵で蜜柑だ。
「寒い……」
漏れる息は当然白い。
「眠い……」
半開きの両目は濁っている。
「もう帰りましょうよぉ~……」
この……アホ猫め……。
「やかましい。そもそも初詣に連れて行けって言ったのはお前だろうが! 責任取れ!」
「でもまさかお賽銭入れるのに何時間も掛かるだなんて思ってなかったんですよぉ~……」
「これくらい我慢しろ。それよりちゃんと五円玉用意して来たのか?」
「当たり前じゃないですか……」
もう、と仰々しく溜息を吐いてポケットから穴開き硬貨を取り出すアホ猫。
「私はロットを乱されるのが大っ嫌いなんです」
……?
「世の中和を乱すのは大抵時間にルーズな人間ですからね。後は事前学習を怠る人間と空気の読めない奴がそれに続きます」
「何の話だよ?」
「恐らく澪先輩には一生縁が無い物ですが、一応レクチャーするなら黄色い看板と行列には注意して下さいとしか私には言ってあげる事が出来ません。
若輩者で申し訳ないです」
「……言ってる事は全く分からんが……何だか哲学的だな」
「最早この感情は信仰に近い物があります」
「ん~……まあ何と言うか……熱心なんだな、お前」
「ええ、天地をひっくり返す程の力を有していますからね」
「何だそりゃ」
「何でしょうね」
やたらかっこいい口調で私に何かを説いて来る梓に些かの危険臭を感じつつ、それでも五円玉をピックに見立ててカッティングの練習する姿を見ると、
やはりいつもの梓に変わり無い。
一体この小さな背中に漂う怨念めいたオーラは何なのだろう? 少しだけ私の知らない一面が顔を覗かせたと考えればいいのだろうか?
それにしては些か恐すぎる気がしないでもないのだが……。
「いや~、甘酒美味しいですねぇ!」
「途端に上機嫌だな。甘酒も良いけど、早く書けよ」
年末年始専用の拡張版賽銭箱にできるだけ綺麗な五円玉を二人で計四枚放り込み、手を合わせた後、さっさと次の参拝客に順番を譲った私達。
そして今は何だか随分割高な気がする絵馬に今年一年の願いなんかを書いている途中だ。
私はあらかじめ考えていた事を書くのみなのでもう完成間近なのだが、どうも隣のアホ猫さんは甘酒と言う名のミルクを啜るのに御熱心なようで、
まだ綺麗な木目の板がそこにはあるだけだ。
「そういえば、何で五円玉三枚も入れたんですか? 相乗効果ですか? それとも賄賂ですか?」
アホか。神様を政治家扱いするな。
「私、去年こっちに帰って来れなかったろ? だからあれはその分と今年の分だ。後の一枚は去年の利子分」
「神様を金融業者扱いするのは良くないですよ? おまけに闇金っぽい利子率だし……」
闇金ねぇ……。
「……やかましゃあ。人の銭の回し方にケチつけとらんと、ワレはとっとと絵馬ぁ書かんかい」
梓、ついて来れるか?
「なっ……! せ、せやけど萬田はん! この甘酒飲み干さんと絵馬なんか書きだしたら! さ……冷めてまうやないですか!」
おっ、きたきた。流石だな。
「あぁ?」
「ひっ……!」
「……ふっ、まあええわ」
「ま、萬田はん……?」
「ムッたん言うたか? アンタん所のお子さんは」
「!!」
「じゃあムッたんにちょっとばかり知り合いの店でピンクの照明でも浴びてもらおか」
「ま、待って下さい! それだけは! それだけは堪忍したって下さい!」
「ほんだら早よ書かんかいドアホが!!」
「わ、分かりました……! 迅速に! 迅速に書き上げます!」
「当たり前や。早よせんかい。……あ、それとも一つ言うとくで」
「な……何ですか?」
「ワシは南の鬼言われとるんや。もしも絵馬ぁ書かんと逃げてみぃ。……地獄まで書かせに行くで?」
「は……はいっ!」
「昔からよ~言うやろ。ふでペンにはボールペン、カレーの後にはライス……。もう一つは何か知っとるか?」
「な……何ですか?」
「私の恋はホッチキスに決まっとるやないか!! 閉じるぞこんガキャアアアアァ!!!」
「し、失礼しましたあああああっ!!」
うん、即興にしてはなかなかだ。やはりへたれキャラを演じさせたら梓の右に出る者は居ないな。
「澪先輩は『健康』ですか」
「ああ、どうだ?」
「ん~……正直意外です」
「そうか? 座右の銘なんだけどな。」
絵馬を板に掛け終えた私に早速梓が絡んで来る。どうせまたろくでも無い事を言い出すんだろう。
「ち・な・み・に、何て書くと予想してたんだ?」
「天上天下唯我ど」
ドカッ!
「に゛ゃっ!!」
手刀一発 to 脊椎。
「蚊が止まってたんだ」
「真冬ですよ! 明らかに私を仕留めに来ましたよね?!」
「いいだろもう……。そう言うお前は何て書いたんだよ?」
「教えません」
「いいか……らっ!」
「あっ!」
アホ猫の一瞬の隙を突き、ひょいと小さな手から絵馬を取り上げる。
こいつの事だ、一体どんな絵空事を書きこんでいる事やら。
「なになに……『ギターがもっと上手くなりますように』……?」
「…………」
ん~……。方向性は決して間違っていないと思うのだが、この書き方は少し違うんじゃないか?
それにいつも酔っぱらう度に目標は常に高く!とか言っている奴がなんて事書いてんだよ……。
「お前……仮にもプロだろ? もう少し大きく行けよ」
「とは?」
「いざ武道館!とか、横アリ・サマソニ・味の素!とかさ」
「あ……味の素?」
「味の素スタジアムだよ。元東京スタジアム。ネーミングライツで名前変わったろ?」
「ああ……そういう事ですか。何で最後だけ化学調味料なのかと思いましたよ……」
「それもダウトだ。今はうま味調味料っていうんだぞ」
「ええ~……」
「自炊をしないお前には分かるまい」
と、わざと勝ち誇った顔でそう言い放ち、拙い文字で願いが書かれた絵馬を私のそれの隣に掛ける。
「ま、足して二で割ったら『仕事を頑張ります!』って事になるんですかね?」
「そんなとこだろうな。今年も仕事人間確定って事か」
「お互いしっかり稼ぎましょうね!」
「お前はまず人間として成長しろよな」
「澪先輩こそ。今年こそ大人の階段を上って下さい」
「な゛っ……!!」
こいつ……涼しい顔をしてさり気なく痛い所を突いて来やがる。悔しいが図星すぎて反論も出来ないじゃないか。このアホ猫め……。
「じゃ、行きましょうか」
そう言うと梓は私の手を取り、出店の立ち並ぶ石階段の下へと歩を進めだした。
やれやれ、どうやら神社に連れて来られた本当の理由はこちらにあったようだ。まあ今更気付いても遅いのだが。
「私はお節があるから何も食べられないぞ」
「じゃあ私が食べるの見てるだけで良いです」
「おいこら」
こいつは本当に……いつからこんな奔放な人間になったんだ?
まあダイレクトに言えば猫に近い物を感じるのだが、この際そんな事はどうでもいい。
この著しいまでの性格の変化を成長と呼んで喜ぶべきか、はたまた態度の肥大化と位置付けて嘆くべきなのか、焦点はその一つだ。
「あ、忘れてました! 御神籤引いてないです!」
「ああ、そう言えば……」
「戻りますよ先輩! 御神籤でデュエルです!」
「デュエル!? 対戦型なのか!?」
「大吉はニャーの翼神龍ですからね! 猫神から恩恵を受けている私の勝ちは決まったようなもんですよ!」
「ツッコミ所が多すぎてもう訳分からん……」
縺れる足と徐々に襲い来る睡魔に苛まれつつ、私は只々無邪気なアホ猫に腕を引かれ、どうせすぐに忘れてしまう内容しか書いていない御神籤を買う事となった。
子供の頃は木に結んでしまう迄にその一字一句までを記憶しようと無駄な努力をした事もあるが、今の私はもう大人。
明日の夜には何を引いたかも覚えていない可能性すらある。こんな物の為に三百円も出している今の自分が、ちょっと憂鬱だ。
「お互いに見せ合ってから自分のを確認ですからね!」
「望む所だ!」
とか言って結局楽しんでいる大人の私。こんな事で笑えているというのは、何だかんだでまだまだ子供な証拠なのかもしれないな。
『せぇ~……のっ!!』
梓の手は中吉。なかなかの強豪だ。残る問題は私の手。吉か大吉以外に勝つ術は無い。
勝率は低いが、丸の内OLの仕事人間パワーをなめてもらっては困る。
「な、なかなかやるじゃないですか先輩! でもどうせ私の勝ちです!」
「営業経由エリートコースまっしぐらの私に死角など無い! 行くぞ!」
心にも思っていない事を口にし、私は来るその瞬間へと胸を高鳴らせた。
三……二……一……!
『せーのっ!!』
バッ!と音を上げて紙をひっくり返す。来い……! 来い……っ!!
「……あっ」
「あ、ありゃりゃ……?」
……ダメだ、一気に白けた。互いに肩を竦めて交互に文字を読み上げ合う事にしよう。
因みにこういう時は暗黙の了解で、私が号砲を放つ事になっている。
「仕事・学業」
「学べば学ぶだけ吉。ただし、範囲・科目は絞る事」
「健康」
「至って良好。各方面に向け励むべし」
「生活」
「文句無し。充実の一言に尽きる」
「金」
「黙っていれば貯まるが、口を出せば大損」
「夢」
「昔から願っている物があれば、叶う」
「待ち人」
「すぐそこに」
「探し物」
「失った物があれば探すべし。見つかる」
「恋愛」
「出会いはまやかし、育みは幻想。捨てられる、ろくなことが無い、止めておけ、ろくなことが無い」
「礎」
「もう築いている」
「転居」
「絶対に止めるべし。不幸の始まり」
以下オリジナル。
「秋山澪」
「可愛い後輩にじゃがバターを奢るべし。敬われる」
「中野梓」
「生まれもっての勝ち組。栄光のロードを突きす」
ベシッ!
「に゛ゃっ!!」
張り手一発 to 額。
「何で神社の御神籤に商品名や横文字が出てくるんだよ!」
「先に固有名詞を出してきたのは先輩じゃないですか!」
「はあ……。二人とも中吉なんて……本当に面白くない」
「それ私のセリフですよ。デュエルにならないじゃないですか……」
「てかさ、この御神籤作った奴、絶対プライベートで嫌な事があったんだろうな」
「間違いなく私情を持ち込んでますよね。特に恋愛」
「ろくなことが無い、を心の中で反芻している内にこうなったんだろうな」
「きっとそうです。同じ事を二回も書くなんて常軌を逸してます」
それから数秒の沈黙の後、何だか少し重くなった空気の中で「あ~あ……」と二人同時に頭を掻き、
どちらともなく木の枝へと忌むべき白い長方形の紙を結びに歩を進め出した。
早く忘れよう。本当にそれが一番の望みだった。
「御神籤って結ぶと叶うんでしたっけ?」
「だっけか? よく知らないな……」
まあ叶うのなら是非ポジティブな所だけが叶って欲しいものだ。
「一番早く叶いそうなのは……待ち人ですかね? すぐそこに、ですし」
「待ち人って恋愛と定義が曖昧なんだよな……」
「そうなんですか?」
「そう。まあ一般的には会いたい人ってことでいいとは聞いた」
「誰にです?」
「律」
「じゃあアテになりませんね」
「だよな……。そう言うと思ったよ」
「でもまあ面白そうじゃないですか。どうです? 実験してみませんか?」
ニコニコの悪戯顔。また何か至らない事を思いついたようだ。
「言ってみろ」
呆れ顔で目も合わせず返す私。もうこれが二人のテンプレであると言わざるを得ないのは、楽しいやら悲しいやら……。
「御神籤を木に結んで、この神社の敷地内を出るまでに私達が待ち人と出会ったらこの御神籤の効果は本物!
尚且つ御神籤は木に結ぶと叶うという二つの事象がトレース的に証明される事になります! それを今から実験しましょう!」
ほお……と力なく返し、同時に御神籤の木と化した何かの木の袂に行き着く。
「じゃあ待ち人を決めないとな」
「ですね」
う~ん…………。
「ムギでどうだ?」
「奇遇ですね。私も今ムギ先輩の事を思い浮かべてました」
梓は苦虫を噛み潰す様な顔をして続ける。
「おそらくですが、選定理由はダブルブッキングになると思います」
「……だよな」
きっとそうだろう。とても簡単な事だ。ムギは恐らく、私と梓の共通の知り合いの中で一番この神社に用が無さそうな人物だったからだ。
留学、別荘、旅行。実に都合の良いバックグラウンドを持ち合わせておいでの琴吹財閥の御令嬢が、こんな所に居るはずが無い。
……というか居てもらったら困る。ムギとこの神社の敷地内で出会う事。それはつまり、私と梓の今年一年の恋愛運が無条件で沈没してしまう事を意味するのだ。
これは一応、割と重要だと言わせてもらおうか。
「じゃあ……結ぶぞ」
「はい」
縦長の御神籤をくるくると丸めて細長い円柱を作り、私は小指サイズの太さの枝に、梓は木に巻かれた注連縄の細い部分に、それぞれの願いを込めて括りつけた。
「これでよし、ですね」
「そうだな」
健康、生活、金運が上々だったのは嬉しいが、恋愛がズタボロだったのは流石に二十代の女性としては非常にいたたまれない。
もしも私がゆるかわ巻きのスイーツ女子だったら本気で泣いていたかもしれないな。
まあそもそもは機械で刷っている御神籤なんかに信憑性など欠片も感じてなどいなかったのだ。
後輩に諭されたからと言って、それだけで丸々信じてどうする。自分の恋くらい御神籤に逆らっても罰は当たらないだろう。
「よし、じゃあ連想ゲームでもしながらじゃがバターを食べに行きましょう」
アホ猫もこの調子だし、な。
「ん~……。ま、私はお前が食べてるのを見て我慢の精神を鍛えるとしよう。付き合うだけ付き合ってやるよ」
「よし、じゃあ行きますよ! あ、連想ゲームは先輩からスタートで」
「そうだな……」
隣を通り過ぎる晴れ着姿の女の子が手にしている焼きモロコシが目を引く。
遠くに光るケバケバしい祭提灯の明かりを浴びた黄色い粒達が上げる湯気は、家で待っているお節の存在を霞ませる程私の目と胃袋と鼻孔を刺激した。
……ま、まあ我慢だ、我慢。
「じゃあ、最初はトウモロコシ」
「ず、随分と独特なセンスをお持ちで……」
「うっさい」
旋を拳でぐりぐりと押し、次を促す
「トウモロコシ……トウモロコシ…………」
思考を巡らせながら石の階段を下りはじめる梓。
その小さな頭の中は今、黄色い粒の塊が積もりに積もっている事だろう。そこから何を連想するのか。
「あ、コーンウォール!」
「何だそれ?」
トウモロコシで出来た夢の家の事か?
「地名ですよ。イングランド南部の」
ほお、梓のくせに博識なんだな。
「ん~……じゃあイギリス」
「チップアンドフィッシュ!」
あのまずい事この上ない最悪のつまみをよく知ってるな……。
「……ん、つまみ」
「つまみときたらお酒!」
居酒屋だったら
「とりあえずビール」
「麦っ!」
「は~い!」
途端に梓が渋い顔をする。
「いや、は~い!って何ですか? 麦ですよ麦! 返事してどうするんですか?」
「ああ? まだ何も言ってないぞ?」
階段を下り終え、人で溢れる石の階段を背に先程アホ猫が甘酒を買った屋台ゾーンへと突撃する。
「じゃあ早く答えて下さい。麦っ!」
「麦……麦…………」
「は~い!」
「いや、だか……」
「……んん?」
梓は後方から飛んできた第三者の声に気付いてそちらへ向き直り、それと同時に石の様に固まって歩を止めた。
その顔を横目で見る限り、どうもその額に浮かんでいるのは冷や汗というか青色の縦線と言うか……。まあ、そのジャンルに分類されるであろう陳腐な感情表現だ。
「梓ちゃん、久しぶり」
私も「いやいや……」とか「そんなまさか……」などと心のどこかで思いつつ、梓に倣ってゆっくりと振り返る。
「澪ちゃんすっごく綺麗になったわね! 私の事……覚えてる?」
振り返った先に居たのは、晴れ着姿に何故かお面を被って手を振っているという、世にも奇妙な出で立ちの成人女性だった。
ユーモラスなデザインの牛のお面の向こうから発せられたであろう声が、頭蓋骨の中でこだまする。
その一見小馬鹿にしているかのような態度を取る二本足歩行の牛さんではあったが、その特徴ある声の正体に私達二人が気付かないはずもなく、
しかし何故か返事をする事も出来ず、久々の再会を目の前にしてただただその場に立ち尽くすしか出来なかった。
そんな私達に、牛の彼女はこう続ける。
「迷惑じゃ無ければだけど、もしこれから暇だったら……」
後頭部に掛かった極細の紐をどこか気品ある所作を見せて外し、彼女は大事そうに牛のお面を胸の前に持ってきた。あまりにも美しいその素顔。
そして、型良く整った唇から発せられるその一言に、私の心はまたあの音楽準備室へと帰って行く。
ほんの数十時間前、あのスーパーの前で唯と梓の絡みを見た時と同じように、一気に。
「久しぶりにお茶しない?」
そして、ダメ押しの一言。
「それとも二人は練習がいいかしら?」
提灯の薄明かりを趣ある照明にし、石畳の上に凛と佇む笑顔の美女。
晴れ着姿の琴吹紬が、そこには居た。
「あらあら、じゃあその御神籤は当たっちゃったのね」
ああ……、それはもう見事なまでにな……。
「まさかこんなに即効性のある御神籤がこの世にあるとは思わなかったよ……」
「松屋で牛丼が出てくるより早かったですもんね……」
バイパス沿いにある深夜のカフェレストランもといダイニングバー。
大晦日、元旦と続くこの日は人と言う人が街中や神社へと雪崩れ込んでいるらしく、割と郊外にあるこの店は閑散とも言えない程静まり返っていたのだが、
今はこのテーブルのせいでやや賑わっているという風に見えなくもない。
メニュー表を見るまでは温かいアールグレイとチーズケーキで六年振りのティータイム……と決まっていたはずだったのだが、
何故かアホ猫と琴吹財閥の御令嬢は中ジョッキ片手に枝豆と焼き鳥の盛り合わせなんかを口へ運んでいる。
何故だ……何故私は運転手なんて買って出てしまったんだ……!
「ムギ先輩イギリスに留学してたんですよね?」
「ええそうよ。梓ちゃんの出たライブを見に行ってからすぐね」
むしゃむしゃとタレのトリ皮を貪る梓の質問に対し、ぐびぐびと四杯目のビールを顔色一つ変えずに飲み干すムギがそう答え、
空になったジョッキを置いたその手がそのまますかさず注文ボタンを押す。もう一体何回目だろうか?
「ロンドンはどうでした?」
「ん~、物価が高かった以外でこれと言った印象は残ってないわね。向こうの食事に馴染めなくて外食が出来なかったのはいい思い出だわ」
「結局どの位あっちに居たんです?」
「二十日間くらい」
梓はビールを、私は烏龍茶をそれぞれ吹き出し、思い切り噎せた。二十日間?何じゃそりゃ。
「そ、それは留学じゃ無くてもう観光なんじゃないのか?」
んー……、と眉を顰めて、ムギ。
「本当はロンドン一年とフランス一年の予定だったんだけど、ちょっとホームシックが激し過ぎて……。
あ、生中一杯とシーザーサラダと軟骨の唐揚げをお願いします。梓ちゃんは?」
「野菜スティックとイカゲソの大を。野菜スティックのマヨネーズは大盛りにして下さい。あ、ムギ先輩、よかったら焼酎飲みませんか?」
「あっ、いいかもいいかも!」
嗚呼……年の始めからこれかよ……。運転手を少しは敬え梓。もう……何と言うか…………不幸だ……。
「じゃあもうボトルにしましょう。私この焼酎大好きなんです。普通は酒造会社のある九州くらいにしかボトルで置いてる店は無いんですけど、
ここは本当によく分かってますね。この酒類、特に焼酎の値段と品揃えは一瞥するだけで店主の酒に対してのこだわりと並々ならぬサービス精神を感じ取れます。
さぞや凄まじい嗅覚をお持ちの方なのでしょう!」
バン! と机を叩き、拳をつき上げ、梓。
「私は今、猛烈に感動しています! こんなにいい店が実家のそばにあったなんて!」
オーダーを取りに来た中年の女性店員が目をパチクリさせて梓を見ている。
賢者モードに入った梓を相手にすれば、誰でもこうなるというものだ。すいません、本当にすいません。
「何だかよく分からないけど、ここは梓ちゃんにお任せするわ。私はロックで飲みたいかも」
「分かりました。じゃあさっきの生中取り消しで、『巡風の寶』のボトルを。あとは氷と割る用の烏龍茶を下さい。
グラスは二つで、トングとマドラーは一つずつでいいです」
梓の無駄に荘厳な一人語りに呆けていた店員ではあったが、すぐさま注文を繰り返して店の奥へと消えて行った。
一年の始まりからこんな煩い客に対して丁寧に接して下さるその笑顔には正直もう脱帽だ。
何だか無意味に申し訳なくなってその中肉中背の背中に頭を下げたくなってしまう。それも九十度くらいに。
「で、何の話でしたっけ?」
「ムギのロンドン滞在談だろ」
「ああ、そうでしたね。二十日何をしてたんですか?」
「引きこもり」
私はまたしても烏龍茶を盛大に吹き出し、激しく噎せた。
「初めの五日間くらいはまだ我慢して学校に行く手続きとかしてたんだけどね、もう何って言うか……町の空気から合わなくて、本当に外にも出られなかったの。
それで、もう無理~!って親に泣きついちゃった」
舌を出してウインクしつつ、悪戯っぽく笑うムギ。何だかその表情を見ると高校時代から一皮も二皮もむけた感じがする。
「で、結局さっさとこっちに戻って来ちゃったんだけど、元々大学もあんまり面白くなくてね。だったら、って思ってそれからすぐ辞めちゃった。
その後は無理を言って全国各地を丸一年掛けてバイクで一人旅。お金が無くなったらその行く先々で日雇いのバイトを探したりしてね。
栃木で工事現場のお兄さん達と一緒に飲んだ時は本当に楽しかったわ。まあ朝まで飲んで全員潰したんだけどね。
で、その旅が終わってからは親の会社で働きながら専門学校にも行ったりして、今も色々と勉強してるの。普通に大学を卒業するよりよっぽど楽しい数年だったわ」
これには流石に驚嘆した。言っちゃ悪いが、正直高校を卒業する時には
「あのお嬢様の事だからきっと何の不自由も束縛も無い一生を悠々と過ごすんだろうな」と思っていたからな。
それがどうだ、この超の付くアグレッシブな攻めの人生。成人女性が一人でバイク旅なんてどんなに暇な一般人でもなかなか出来る事じゃない。
「じゃあ今は親の会社でOLか。秘書でもやってんのか?」
「ううん」
すかさず首を横に振るライダームギ。
「今はジュエリーショップのオーナー。留学する前からジュエリーデザインの勉強をしてたんだけど、
親が出資してくれるって言うから思い切ってオリジナルブランドを立ち上げてお店を出したの。
来年の……あ、もう今年ね、夏には大阪と福岡に支店を出して、そこで成功すれば京都と広島にも。って感じかな」
「き、起業家なんだな……」
「血は争えないものね。何だかんだ言っても私は琴吹家の人間だわ」
それが誇りをもって言った事なのか、それとも自嘲気味に言った事なのかは分からない。
だが、目の前のムギはとても幸せそうに付け合わせのキャベツを齧っている。それは何だか「今、私は十分幸せなの」と言っているように感じた。
「梓ちゃんは何を?」
「聞いて驚いて下さい!」
高速ピッキングやら超絶タッピングの入り混じったジェスチャーを交えながら
「プロのギタリストです!!」
と、誇らしげに、梓。そしてそれに対し
「すごーい!!!」
と、絶叫のムギ。周りに他の客が居なくて良かった。
女二人がハイタッチを交わしてキャッキャッとはしゃぐ姿はなかなか見栄えがするものの、どうか私も含めてかしましと銘打たれない事だけは切に祈っておきたい。
「お待たせしましたー」
先程の店員が焼酎のセットを大きなトレイに乗せて器用に運んで来る。
そして広いテーブルの上へ真っ先に置かれたボトルのラベルを見て、
私は梓が何故数あるラインナップからこの焼酎をチョイスしたのかをおおよそ百パーセントに近いであろう確率で理解した。
アホ猫らしい、けれど洒落の利いた、いかにもこいつらしいチョイスだ。
「なるほどね……『麦』焼酎、か」
「あ、バレました?」
にへら笑いを浮かべ、早速二人分の焼酎を作り始める梓。
その手がトングを持って氷を逆台形型の洒落たグラスへ放り込んでいる隙を突き、私は「あっ! ダメですよぉ!」という制止の声を無視して、
割る用の烏龍茶を自分のグラスへと注ぎ、本日二度目の乾杯に備えた。
「も、もう……のめ゛ませ゛ん……」
すっかり白んできた冬空の下、ムギの家までの道をひた走る軽のレンタカー。
その後部座席で鉄パイプにやられたゾンビのように伸びているアホ猫の呻き声を無視し、私はムギに問う。
「なあムギ、今日の夜空いてるか?」
忙しそうなものだが、一応訊くだけ無駄ではあるまい。もう既にバンド内で三人の参加が確定しているのだ。是が非でもムギにも参加してもらいたいものだ。
「あら、私はもう唯ちゃんからお誘いを頂いたわ」
「そうなのか? じゃあ今でも唯と親交があったり……」
「ええ、もちろん」
間髪を容れずに次の言葉が飛んで来る。
「結婚指輪もウチの店で予約済みなの。まだ口約束だけど」
「何だ、随分と楽しい間柄だな」
「数少ない高校時代からの友達だもん。同じ町に住んでるんだし、使ってるスーパーも同じでよく会うの。
唯ちゃんがお店を出そうとしてる所の向かいのビルに私の店が入ってるのよ」
へぇ~、と感嘆の意を込めた返事をし、チラとムギの顔を見る。
梓があんなになるまで同じペースで飲んでいたというのに、遂に最後まで朱に染まる事は無かったその顔。
シミ一つない肌、晴れ着に合わせた化粧、高校時代より少し短くなっている髪。何処を見ても相変わらず綺麗なものだ。
改めて振り返ってみると、軽音部で一番美人だったのはやはり間違いなくムギと思う。それでいて一番空気が読めて、一番気の遣えるオトナ高校生。
……きっと、ムギはムギのまま大人になったんだな。過程はどうあれ、今を優しく頼もしく生きている。
「あ、澪ちゃん!」
運転席側の窓を指さし、ムギが子供の様に叫んだ。やはり少しは酔っているのだろうか?
「……わぁ」
その橙の来光に思わず言葉と意識を奪われる。高校二年の冬だったか。こんなシュチュエーションで同じ光景を見たのを思い出すな。
あの時は何処かの高台で、おまけに五人全員揃っていたが。
「……あっ」
まあ、今は思う事はただ一つ。
「トラの猫耳持って来ればよかったな、梓」
その言葉に対し何事かを呻くアホ猫の声を聞き、初日の出に向かって私とムギは同時に笑った。
唯一無二とはよく言ったものだが、私は少なからず本気であいつをそう言う存在だと思っていた。
あいつもきっとそうだろう。親友と言う看板を互いに打ち付け合い、周囲にもそう認知されていたはずだ。
だが、そんな私達がもう実に六年もの間、何の連絡も取っていないという事実を知っている人間が一体どれ程居るのだろうか?
かさばる電話代と、古い順に消えて行くメール達。
それこそ明日会って話せばいいような事を、毎日毎日取りとめもなく電波に乗せていたあの頃。
あの頃の自分達が今のこの関係を見たら一体何と言うだろう。……あいつは否定してくれるだろうか?
よく考えれば別に冷えきっているというわけでもないし、そもそも何故こういう関係に委縮したのかも分からない。
……だが、その答えが出た今でさえ、私はあいつの番号にカーソルを合わせて通話ボタンを押し込む事が出来なかった。
「……はぁ」
だからこうして溜息なんかを吐きながら歩いているのだ。
通い慣れたと言ってしまえばそれまでだが、それこそ目を瞑ってでも辿り着ける自信がある、あの家までの道を。
最初は正直車で行こう思っていたのだが、お節を食べる際に金粉入りのありがたくも死ぬ程不味いお神酒を飲まされてしまった為、断念せざるを得なかった。
「あれ? 澪ちゃん」
携帯をいじりながら歩いていた為、突然自分の名前を呼ばれた私は変な声を上げながら思い切り身を竦ませてしまった。
「……あ」
必死に動悸を押さえつつ目線を上げた先には、今夜集まろうと言い出した愛らしいパティシエが立っていた。
「ゆ、唯か……。ビックリしたよ……もう……。あ、そうだ。明けましておめでとう」
「うん、おめでとう。あ、携帯いじりながら歩くと危ないよ? 」
「う゛っ……」
正論すぎて反論できない……。まさかこんな事で唯に説教をくらう日が来るとは、一体どうやれば想像がついただろうな。
「ひょっとして、りっちゃん家に行くの?」
「ああそうだ。親にお神酒飲まされちゃってな。仕方なく歩いて来たんだよ」
現在時刻は薄曇りの昼下がりだ。いくら分厚く着込んでもシャツの中へ入って来る冷気を完全にシャットアウトできる訳ではない。
そのもどかしさが酔いなどすぐに吹き飛ばしてはくれそうだったのだが、それと交通法規の遵守は全く以て別の問題だ。飲んだら乗るな。
「その言い方だと……もう行ってきたみたいだな?」
「うん」
少し困った顔になって、唯は続けた。
「せっかくだからいっぱい呼ぼうと思ってみんなに連絡してみたんだけど、りっちゃんだけ……ちょっとハプニングがあってね」
ハプニング? 何だそれ?
「久しぶりに電話掛けたら、番号……変わってて繋がらなかったんだ」
……は?
「ひどいよね、この親友に新しい番号を教えないなんてさ。家にも誰も居なかったし」
…………。
「だからここはりっちゃんの大親友である澪ちゃんに連絡してもらおうと思って、今から新年の挨拶がてら家まで行こうと……」
唯の言葉を途中で遮り、私は今日まであんなに押せなかった律の番号にカーソルを合わせ、即行でコールを掛けた。
「……澪ちゃん?」
心配そうに顔を覗き込んで来る唯。だが、言い方は悪いが私の意識はすでにそこへ向いていなかった。耳に着けた受話スピーカーから流れてくる音へと全神経を傾ける。
だが、唯の悪い勘違いであって欲しいという私の願いは、数秒の時間を掛ける事も無く、無下に取り下げられたのだった。
『お掛けになった電話番号は、げんざ―――』
すぐに切ってもう一度。
『お掛けにな』
もう一度……!
『お掛けに』
「……そんな」
そう呟き、スピーカーに向こうから流れ続けるインフォメーションメッセージを、左耳から脳も経由させずに外へ追い出していく。
思いつく言葉はただ一つだけ。
「どうして……」
本当に、ただそれだけだった。
「どうしたんだろうね……りっちゃん」
私と律が六年もの間連絡を取っていないと告げた直後、唯は歩みを止めずに言った。
「……ま、仕方ないよね。もう社会人なんだし、色々あるんだよ」
これからスーパーで買い出しをすると言った唯に付き添うべく、私はそのやや遅めの足取りで道を行く唯の隣を歩いていた。
正直家に居てもやることが無いので、これから直接唯の家に行って料理を手伝うというのも悪くないかもしれないな。
「澪ちゃんひょっとしてさ、もうちょっと早く歩きたい?」
「え?」
突然笑顔になって前に躍り出た唯の言葉に、私は首を傾げた・
「私、歩くの遅いでしょ?」
いや、確かに少しばかりはそう思ったが、別に気になる程度では無かったのだが……。そもそも何故そう感じたのだろうか? 私が何かそんな素振りでも見せたのか?
「この前ね、和ちゃんと会ったの」
「ああ、大学は京都だったよな」
うん、と唯。
「今は大阪で食品会社に勤めてるんだけどね。で、出張でこっちに来た時に時間があったから一緒にご飯を食べに行ったの」
唯は何処となく憂いを帯びたような声でそう続け、白い溜息を虚空へ送り出し、こう言った。
「歩くスピードが変わってた」
速くなってたの、と唯。
「幼稚園からずっと一緒だったからね、それがお互いよく分かったんだ。和ちゃん、今迄ずっと私に合わせてくれてたんだ……って。
それが私と離れてからは何の枷も無くなって、元のスピードに戻ったんだ……って」
「唯……」
くるっと振り返り、唯は続ける。
「でもね、和ちゃんはこう言ったの。『元のスピードは唯と同じよ。でも……私は変わったね。もう唯と一緒の早さで歩けなくなっちゃった』……って」
「和がそんな事を?」
うん、と唯。
「……寂しかった」
ポケットに手を突っ込んで、その言葉は続く。
「あんなに仲が良かったのに……たった何年か会わなかっただけで和ちゃんが取られちゃった……って思ったの。
誰に、とか……何に、とかじゃなくて、取られちゃったんだ……って」
そこで唯は「はぁ……」と、空まで届く様な長い長い溜息を吐いた。それは当然の様に白く濁り、
遥かオゾンの層までも揺らすかの様に、そこに留まることなく消えて行った。
「それに気付いたら、他の人のも気付いたの。最初は憂、次はムギちゃん。あずにゃんに……今は澪ちゃんもそう。みんな歩く速さが変わってる。
少なくとも高校時代よりはすごく速くなってる。横を歩くとすぐ分かるよ」
そして私の目を見て、眉を八の字に曲げ、こう言った。
―――みんな……大人になっちゃったんだね。
……何故か、胸がグッと締め付けられた。言われるまで気付かなかったのかもしれないし、気付かないフリをしていたのかもしれない。
だけど今の唯の一言は、こんな寂しい事を実感、そして自覚させた。
―――私達はもう一緒じゃない。
あれだけ楽しい時間を共有した仲間なのに、もう私と唯は同じ道を歩けないのだ。ムギも、梓も。
道が交われば何処かで会えるかもしれない。スクランブル交差点の様に皆が同じ空間に居る事もあるかもしれない。
だが、結局その先にあるのはそれぞれの道だ。私達は結局、自分の道以外を歩けない。
「何か……苦いな」
「……うん」
甘い紅茶を啜っていた私達。でももうその紅茶は目の前には無い。
「……苦いよ」
そう、苦いブラックの缶コーヒーなんかがお似合いの大人に、私はなってしまっていた。
それは決して悪い事では無く、世の理なのだと思える日が、思ってしまう日が、いつか来てしまうのだろうか?
……律
……私は
……お前は
…………………………。
「あずにゃん遅いよ~!」
「すいません! 本っ当にすいません!」
飲み会の席に社長出勤してきたアホ猫がただひたすらに頭を下げていた。うん、滑稽だ。
料理やらなんやらをしている内に時間はあっという間に過ぎ、時計の針は夜の八時半を指していた。
本日最後の出席者が息切れをしながら平沢家のリビングに飛び込んで来たのが約三十秒前。
罵声と歓声を一身に受けながら、梓はビールを注いで回りだした。
「もう絶対お前には鰤の刺身食わせないからな」
「ひえええっ! 後生を! 御慈悲をっ!」
「澪ちゃん、それは可哀そうよ」
ムギがフォローを入れ……
「つまぐらいは食べさせてあげましょう」
「に゛ゃっ!!?」
その一言に面食らったアホ猫がひどく動揺したのを見て、私はパックの刺身を梓の席から遠ざけた。
その先に居た人物のコップにモスコミュールを注ぎつつ、梓は話し掛ける。
「わっ! お久し振りです!」
「ええ、久しぶりね梓ちゃん。四年振りくらいかしら。澪から話は色々と聞いてるわよ」
「いや~、照れます~」
「とうとうAカップまで萎んだんだって? お気の毒様」
「ごるらぁ秋山あああっ!! ワレ何吹き込んどんじゃい!! わしゃ中二からずっとA+なんじゃアホんだらめ!!」
「プラスもマイナスも変わらないだろ?」
「義理と人情に於いてその発言は許さんぞおおぉ!!!」
「あ~肩凝った。梓、揉め」
「指詰めたろかワレ!!!」
梓迫真の演技。そのあまりの入り込みっぷりに、モスコミュールで満たされたコップを震わせる真鍋和が、そこには居た。
「ミュ、ミュージシャンになって性格が激変したのかしら? それともそう言う方達とお付き合いが……」
「無い無い! 無いですっ! 潔白! ホワイト!」
梓の演技力も凄いが、和の妄想力もまた酷いものがある。両者引けを取らず、凄まじい攻防だ。
「タバコ吸うんだ?」
「まあね」
リビングから聞こえる笑い声を背に台所で洗い物をする私の横、真っ白な換気扇の下で紫煙を燻らせる和。
どこか絵になっているのはモデルが良いからだろうか? メンソールのグリーンラベルが味を出している。
「仕事でストレス溜まっちゃって。休みの日は専らオールで雀荘に居たりするのよ」
「へぇ~」
意外と言えば意外だが、ウチの会社にもそういう人間は多い。OLと言っても皆が皆スイーツしてる訳ではないのだ。私も和もきっとそのジャンルに分類されるのだろう。
現に二人ともファッション誌を見たのは十代が最後で、先程それを唯達に激しく糾弾されてしまった所だ。
ちなみに現在のリビングの状況であるが、唯は顔が真っ赤、憂ちゃんは頬が朱に染まり、笑い上戸であることが判明した。
その他の面子はほぼノーダメージのままで既に飲み会開始から三時間が経過しており、
とても洗い物を任せられない状態にある平沢姉妹に変わって私が土鍋の底に付いたうどんをこそぎ落としている所である。
「澪は凄いわね。あんな大きな会社でバリバリ働いてるんでしょ?」
「凄いっていうか……毎日やることやってるだけだよ。職場も楽しいし、同僚も良い人ばっかりだし」
「楽しいお酒の相手もいるしね」
「ん~……ま、まあね」
その酒の相手といえば先輩に洗い物をさせておいて、顔色一つ変えずに日本酒を煽っているわけなのだが。
「和はどう?」
「どうって?」
「大阪、楽しい?」
数秒の間を置き、和はゆっくりと主流煙を換気扇に送って、呟くようにこう言った。
「全っ然……」
その言葉は何だか物悲しく、同じトーンで更に続く。
「受験に失敗したのがダメだったわね。滑り止めの大学で飲み会サークルに入って合コン三昧。好きでも無い男と寝たことも何度も有ったわ」
思わず菜箸を洗う手が止まる。
「そんな生活しててろくな就職先が見つかるわけないわよね。今働いてる所も親戚の紹介で入ったようなものよ」
「でも唯から聞いたけど、一応中央区にある会社なんだろ? 大阪城がそばにある」
そうよ、と和。
「でもね、所詮は下請けメインの中規模会社。女にはろくな仕事が回ってこないから薄給もいいとこよ」
煙を吸って一気に吐き出し、和はコークハイのロング缶に口を付ける。あまり美味しそうに飲んでいるようには見えない。
「会社から帰る時に大阪城公園っていう駅を使うんだけど、そこに行くまでに時々屋台が出てたりするの。
アーティストが大阪城ホールでライブをする時は一万人集まるからね。売出し中のミュージシャンがストリートライブなんてやってる時もあるわ」
「へえ、何だかすごいな。お祭りみたいだ」
「そう、お祭り」
遠い目をして、和は続ける。
「その屋台のイカ焼きが晩御飯の時もあるわ。すごく悲しくなる」
「……そう」
最後の大皿を洗い終え、水切り台のシンクに手を伸ばす。綺麗に手入れされているが、一応洗剤で殺菌しておこう。
「今思えばすごく楽しかったわ……高校時代。生徒会長やって、あなた達と受験勉強して……」
和はそう言って私の隣に移動し、蛇口の水を二秒程奪ってタバコの火を消した。
それは何だか線香花火が落ちるように寂しく、油蝉が鳴き止むように物悲しく、静謐な和の心の叫びを表しているようにも聞こえ、私の心をキュッと締めたのだった。
「澪さぁ~ん」
ハッとして二人で後ろを振り返る。
「お願いがあるんです! あははっ!」
そこには、見た事もない程の超絶スマイルで首を傾ける憂ちゃんが立っていた。
「お願い?」
私なんかが憂ちゃんに頼まれて出来るような事は、大抵自身で出来る事なのだと思うが……。
「はい! 梓ちゃんから聞いたんですけど、澪さんの作る五目チャーハンって凄く美味しいらしいじゃないですか!」
「ああ……、まあ時々作ってやったりはするけどな」
「ずるいです! 私も食べてみたいです! 澪さんの五目チャーハン!」
「え、ええっ?」
あのアホ猫め……また余計な事を……。
「そんな物珍しいものじゃないよ?」
「いいんです! それでも食べてみたいです!」
「ん~……あんまり期待されても困るけど……。まあ、材料があればすぐできるよ」
「じゃあお願いしても良いですか?」
「ん、分かった。飲みながら待ってなよ」
「やった! ありがとうございます! お姉ちゃん、澪さん作ってくれるって!」
『よくやった! よくやったよおおおおおぉ!』
『せ、先輩何で泣いてるんですか!?』
「お、お姉ちゃん!?」
慌ててリビングに戻って行くその華奢な背中を見つめ、私は一言。
「……唯は泣き上戸か」
先程までしていた話のシリアスさを完全に奪われていた事に気付いたのは、私がフライパンに胡麻油を敷いた頃だった。
「ほいひーよ澪ちゃん!」
「口に物を入れながら喋るな」
「ほーれふよ、ふいへんはい」
「お前もだこのタコ」
タコだか猫だか知らないが、こいつは本当に奔放だな。自由で見てて楽しいが、ミュージシャンをクビになっても他の職業には就けそうにないな。
その時は泣きつかれてもシカトしてやろう。
「あっ! ほーれふ! ンぐッ!! い、今何時ですか?!」
「はぁ?」
突然目つきを鋭くし、怒鳴るように訊ねてくる梓。いきなり何だってんだ?
「あ~……ここからじゃ時計見えないな。ムギ、見えるか?」
「えっと……日付変わって十二時二分ね」
「ホントですか!? よ~し!」
突然立ち上がるアホ猫。何だ? 芸でもしようってのか?
「大大大発表があります!!」
「お、おい! 声でかいって……!深夜だぞ?」
「おっ!? 何だ何だ~!!」
「行け~! 行くんだ梓ちゃ~ん!!」
「ああもう! うるさいっ!」
せっかくフォローしてやったってのに……、この酔いどれ姉妹はまったく……。
「それで、大発表って何なの?」
「よくぞ聞いてくれましたムギ先輩!」
そう言うと梓はポケットからチラシを取り出し、何やら能書きを垂れ始めた。
「まずは皆さん、『SPARKLING VINEGAR』ってバンドを知ってますか?」
いやいや、知らない奴なんて居ないだろう。今巷でブレイク中のガールズバンドじゃないか。
ちょっとでも音楽番組を見ている人間なら誰しもチャートの上位でその名を聞いたことがあるはずだ。
「スパビネ? 私大好き~!」
「お姉ちゃんアルバム全部持ってるもんね」
唯の向かいの和も口を開く。
「私も聴いたことあるわ。友達と大阪のライブ行ったし」
「ええっ!? ホントに!?」
「ウチの会社が大阪公演のスポンサーでね。上司がチケットくれたから行ってきたの。まあ楽しかったよ」
「ずるいよ和ちゃん! ファンクラブに入らないと殆どチケット取れないんだよ! 私も行きたかったのに……」
「あら、そうなの?」
「そうだよ~!」
意外や意外、唯がそこまでのファンだったとは。
「まあ落ち付け唯。ムギは知ってるか? スパビネ」
「ええ、もちろん」
まあそうだろうな。芸能ニュースなんかでもよく取り上げられているし、何より流行に疎い私が知っている位なのだから、ムギが知らないはずもない。
「皆さん知ってるんですね? じゃあ話が早いです!」
梓は畳んだチラシをさっと開き、こちらにその中身を「じゃーん!」という何とも古臭い効果音と共に見せつけてきた。
見たことはないが、昭和のバラエティーなんかはこんな感じだったのだろうか。レトロ。
「本日一月二日の午前0時を以て発表されるスパビネの最新情報です! なんとスパビネが……」
チラシをバン!と炬燵に叩きつけ、
「三月から四回目の全国ツアーを行うんです!」
と、梓。
「初日の横浜アリーナを皮切りにスパビネ初の福岡公演! 地元関西は大阪城ホールと神戸ワールド記念ホールをそれぞれ二日間ずつ!
続けて徳島と愛媛ではホールでライブを行って、仙台と新潟で東北計四日間! 北海道では初のワンマンを二百人規模のライブハウスで行います!
そして広島グリーンアリーナ、セミファイナルの名古屋ガイシホールを経由し、何とファイナルが……!」
グッと握り締めた拳と高々と突き上げ、
「聖地、武道館で一万人ライブですっ!!」
おお~っ!!! と声を上げたのは私以外の全員だ。唯憂は抱き合って喜び合い、和とムギはチラシを凝視している。
「すごいよあずにゃん! 何でこんな情報知ってるの!? 昨日ホームページ見たけどそんなの書いてなかったよ!?」
「ふふん……」
興奮しきりの唯に、梓はしてやったりな顔をして答える。そのキリッとした顔がやや鼻につくが、どうもツッコミを入れられるような空気では無い。
「答えはそのチラシの中にあります」
ええ? と、唯憂はムギと和の間に割って入り先の二人と同じく、目を三日間何も食べていない荒鷲の様にしてチラシの文字を指でスクロールしつつ、言葉を続かせる。
「ん~っと……、地元関西でのアリーナ4Days、初上陸となる北海道・九州でのライブや、恒例となった四国でのホールライブも。
そしてファイナルの初武道館公演までを二カ月で回るスパビネ史上最大規模のツアー。
バンドメンバーは更なるステージへのこだわりと音の厚みを追及する為に最強のサポートメンバーを招集。
様々なアーティストのバックで活躍する……ピー……イー……アールの……?」
「Per。パーカッションだよお姉ちゃん」
「おお! さすがは物知り憂!」
「えへへ~」
「えっと、活躍するパーカッションの花蓮[RAINBOW]奈々と、インディーズ時代のレコーディングからライブのアシスタントを経て、
後にサポートメンバーとしてもツアーにも参加したスパビネの相方的存在、GtのAZUが四人の脇をしっかりと固める。
最早死角無しのスパビネ。春の日本を弾けさせるのは、この六人だ! 詳細は以下のオフィシャルHPにて。携帯の方はQRコードからどうぞ……」
全文を読み終えた唯はじめ、全員が目をまん丸と開いて視線をチラシの一点に集中させる。何処、なんて聞くのは最早無粋だろう。
満面の笑みを浮かべる梓が、早くそこを訊けというオーラを噴出させていた。
「あ、あずにゃん……? このギターのAZUって……」
してやったりの顔のまま、アホ猫がどこか慇懃な口調で答える。
「私の芸名です」
全員、開いた口が塞がらない。もちろん私も含めて、だ。
「じゃ……じゃあ……! じゃあ……!」
ええ、と揚々答える梓。
「私、スパビネのサポートで武道館に立ちます!!」
アホ猫がそう言い終った瞬間、深夜の一軒家には五人分の大絶叫がこだました。もちろん私もそれを咎めはしない。
……というか、後で聞けば私が一番大声を上げていたんだそうな。
後はもうメチャクチャ。唯は梓に抱きつきながら感極まって大声で泣き出し、憂ちゃんは一人で万歳三唱を延々繰り返す興奮ぶり。
ムギと和は黄色い歓声を上げながら唯と梓に駆け寄ってもみくちゃにし、私はその光景を見ながら一人、端の方から視界を滲ませていた。
梓が武道館に……。それはそれは……考えただけで、もう……。
「今日まで情報を漏らすのは厳禁だったんですよ」
みんなが寝静まった薄暗いリビングのソファーで平沢家秘蔵の年代物赤ワインをありがたく頂きながら、私と梓は身を寄せ合って話をしていた。
「どうしても外部に情報を漏らす事が出来なかったんです。今はネットですぐに情報が広まっちゃう時代ですからね。
サプライズ性の遵守を第一に考えて、メンバー、スタッフ一同は身内に話す事も禁止されました。澪先輩には伝えておきたかったんですけど……」
……ごめんなさい、と梓。
「バーカ」
ロックグラスに注いだワインを口に流し込み、アホ猫の頭を小突く。
「そんなの気にすんなよ」
梓が空になった私のグラスに紅色の葡萄液を注ぎ、私はそれをすかさず口へと運ぶ。
ちびちび飲むには本当に最高の酒だな。
「私だって社内機密をお前に話したり出来ないし、お前の所属事務所やその提携先だってまた然りだ。
それは企業として、社会として当たり前の事なんだよ。個人の感情なんかが入っちゃいけないし、それを掻き乱した奴はつまみ出されて当然だ」
梓は何故か目をパチクリさせ、こちらへ妙な視線を送って来た。そして、相変わらずな一言。
「床に落ちたねるねるねるねでも拾い食いしたんですか?」
甘噛み一発 to 耳朶。
「ふわっ……」
「変な声出すなバカ」
「も、もう! 身体を持て余した女にこんな事しないで下さいよ! だいたい……百合じゃ無いんじゃなかったんですか?」
おかしなことを言う猫だ。
「私は生れてから一秒たりともヘテロの枠内を飛び出した事は無いぞ?」
「……じゃあただの酔いどれ独女です」
ふん、と鼻を鳴らし、私。
「いいじゃないか。今日ぐらい酔わせてくれよ」
ちびりとワインを流し込み、グラスを置いて梓の小さな頭を反時計回りに撫でる。
「……可愛い後輩の大出世を祝いたいんだよ」
その言葉に身体を小さく跳ねさせる梓。暗がりの中でもよく分かる。こいつ、顔が真っ赤だ。
「……今日はやけにデレますね」
そう呟き、私の掌を頭に乗せたまま二杯目のワインをクイッと飲み干すアホ猫。可愛いもんだ。
「おう。私にはツンデレの師匠が居るからな」
「師匠?」
「そう、師匠」
再びグラスに手を伸ばし、軽く飲み干した所で視界がようやく歪んで来た。
「ツンデレの基本はツインテールだろ? あずにゃん師匠」
「な゛っ……」
その後、皆をたたき起しそうなボリュームで暫し続いた梓の罵詈雑言をスルーし、私は軽くブランデーなんかが飲みたくなった。
だが、そんな気の利いた物が台所に無かった事を思い出し、梓の口を手で塞いで本日五杯目のワインを注ぐよう促したのだった。
それから私と梓が眠りに就いたのは、もう空が白み始めた明け方の事。互いにもたれかかるように、それはもうただひたすらだらしなく。
後日、いつの間にかその決定的瞬間をカメラで収めていた唯から送られてきた写真を見て、二人して頭を掻いたというのは、最早言うまでもない。
吹き荒ぶ東京のビル風。この冷たさには正直いつまで経っても慣れない自信がある。身を切るような寒さと言うのはきっとこういう事を言うのだろう。
ジャック・ザ・リッパーの正体は限界まで加速したビル風、というあまりに非現実的な『犯人鎌鼬説』をも信じてしまえるような気分だ。
雪も降らないオフィス街で日々仕事に勤しむ独女。つまり、私。
早い物で、世間では最大の恋愛イベントと銘打たれるバレンタインデーがもう終わってしまっていた。
その手の行事に縁が無いと言えばそれまでなのだが、それがどうもあの御神籤のせいな気がしてならない。このままでは今年一年、本当にまた仕事だけで暮れてしまう。
「秋山さん」
ボーっとビルの谷間の茜空を見ていた私に、リーダーが話し掛けてくる。
「報告終わり。部長が直帰の許可くれたよ。久々の早上がりだから熱燗でも飲んで帰ればいいってさ」
「わぁ、嬉しいです」
これにて外回り終了。お疲れ様、今週の私。
「今日は疲れたねぇ~。秋山さんが相方じゃなかったらもう一時間くらい掛かってたよ。頼りになるなぁ、我が班のサブリーダーは」
そう、私は新年一発目の班内異動でサブリーダーへと昇格していた。今までとやる事はさして変わらないのだが、
リーダーが四月から主任を飛び越して係長に昇進するので、それに伴って現在のリーダーのポジションが空席となる。
そして、その後任に現リーダーからの推薦を受けた私が選ばれたというわけだ。つまり、今はリーダーの引き継ぎ期間中。
四月からは私が現在の班をリーダーとして任されるのだ。
話を聞けば現リーダーも今の私と同じ二十四歳で今のポジションになったという事なので、早すぎるという事は無いとの事。
プレッシャーはあるがリーダーに任された大切なポジション。頑張らない訳にいくまい。
「どう? 一杯?」
「ええ、お付き合いさせてもらいます。係長」
「ほほー! いい響きだねぇ、新リーダー君! 二人で営業課を盛り上げようではないか!」
「はい!」
……あ、そうだ。
「先輩、申し訳ないんですけどちょっとだけ寄りたい所があるんです。いいですか?」
「おっ? 何処だい何処だい?」
「吉祥寺です」
「ああ、電車で十五分ってとこだね。いいよ、付き合う」
「ありがとうございます!」
そう、この用事はどうしても今日中に済まさなければならないのだ。寛大な新係長に、感謝
「その代わり、今日はオールだぜ?」
「またカラオケですか?」
「いんや、今日は歌舞伎町のバーに行こう。朝までやってるバーでね、店員がみんないい男なんだわ」
「あら、お熱ですか?」
「いや、みんなゲイだから」
「ゲ、ゲイ?!」
正直驚いた。交友関係が広い人だとは思っていたけど、まさかそんなジャンルに迄手が伸びていたとは……。
「楽しいよ~。ホストよりよっぽどいい男達と遊んでるっていうのに、格安で飲み放題なんだからね。
あんなに女心の分かる男達はまあ居ないさ。おまけに絶対手を出されないっていうオプションも付いてるし!」
「は、はぁ……」
勇ましい……。この人は勇まし過ぎる……。ついて行けるだろうか……。
…………不安だ。
「こんにちは~」
「ああ、秋山さんか。どうもどうも」
自動ドアの開いた先に居たのは、もう数回顔を合わせている眼鏡の店主だ。
モスグリーンのエプロンの下からはややくたびれた黒のワイシャツと、同色のスラックスが顔を覗かせている。
何度来てもこの格好から変わることがないという事は、これが彼のデフォルトなのだろう。
「今日はお連れさんがご一緒かい?」
「どうも、秋山の上司です」
「あらまあ、てっきり双子の姉妹かと思ったよ。美人過ぎると皆顔が似るとはよく言ったもんだ」
そんな冗談を言いつつ椅子に座って新聞を読んでいる所を見ると、どうやら今日も客の入りは芳しくないらしい。
まあこの店が店頭品を生業の種にしていない事など、この怠惰に塗れた陳列状況を一目見れば分かるので、別に心配はしない。
「ほぇ~……それにしても年季の入った店だねぇ。店主さんからも燻銀な職人の臭いがするよ」
「はは、一応香水は振ってあるんだがね。妙な臭いは消えないか」
掛けて待っててくんな、と言い、にへら笑いで店の奥へと引っ込んでいく店主。その言葉に倣い、
何処かの廃屋から拾って来たとしか思えない程煤けた色合いの椅子に二人して腰を掛ける。
リーダーがドアを勢い良く引くと、そこには思っていたより三十倍程盛り上がっている男衆の姿があった。
「よっほ~皆さん!! おっひさ~!!」
その声に対し、おおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!! というけたたましいにも程がある歓声……いや、雄叫びが上がる。
なんだか大軍勢に向かって百人だけで挑んでいく勇敢な兵士達が脳裏をよぎった気がしたが、スルーした。
「みっちゃああああああああああぁん!! 会いたかったわよおおおおおおぉぉ!!」
「おっす忍! 私も会いたかったぜ!」
出迎えにやってきたレスラー体型の男が着ているタンクトップの真ん中辺りをバチン!! と叩いてスキンシップを図るリーダー。
そしてそれに「ああん! これがいいのおおおおおぉぉ……!!」だなんて黄色い叫びを上げてへたり込む忍さんとやら。ダメだ、予想の右斜め上を行く地獄絵図だ。
「やっほ~健史! この子は私の部下だよん! 優しくしてやってねん!」
カウンターの中に居るひと際精悍な顔立ちをしたワイシャツベスト姿の男性とやりとりを交わすリーダー。
男性の名札に『MASTER』という字が刻まれているので、この人が責任者と見て間違いないだろう。
「いらっしゃいませ! 『RISE』へようこそ! おい忍、早く荷物をお預かりしろ」
その声でへたり込んでいた忍さんとやらがリーダーと私の荷物一式をカウンターの中へ運んで行く。なる程、態度は乙女、身体は男、か。
「さ、どうぞどうぞ。みっちゃんに連れて来られて朝まで帰った人は居ないけど、大丈夫かな?」
私達をカウンターに座るよう促し、マスターは端の席二つにおしぼりと洒落たコースターを二つずつ、それと凝ったデザインのメニュー表を置いた。
「秋山さんは私よりお酒強いからね、ガンガン飲ませてあげてよ! ウチの班の男共なんて皆潰されちゃったんだから!」
ああ……そんな事も……ありましたね。
「秋山さんね。差支えなければ下の名前を教えてもらっても……」
「あ……えっと、澪です」
「澪ちゃんね。じゃ、早速その酒豪っぷりを見せてもらおうかな。ご注文どうぞ。みっちゃんはいつものアレでいい?」
「オケーイ!」
ファーストオーダーが黙っていても出てくる程通い詰めているのかこの人は……。じゃあ早く決めないといけないな。
「あの……、私洋酒が苦手なんで、焼酎って置いてたりしますか?」
「あらら、若いのに珍しいね。じゃあ……」
その場にしゃがんで何かを漁りだすマスター。やがて戻ってきたその手にはラミネート加工された別のメニュー表が握られていた。
「ウチが出せるのはこれだけだよ。まあその辺の店よりはいい物を出してるかな」
確かに言う通りだ。有名な焼酎やいつも私が自宅用に買い込んでいる美味しい日本酒の名前もある。これは嬉しい。
「じゃあ月見灘をロックでお願いします」
「渋いねー。オッケー! 少々お待ち下さ~い!」
そう言うとマスターは早速カクテル作りに取り掛かった。なかなかいいジーンズを履いてるじゃないか。あれ多分ビンテージ物だ。
「いい男でしょ~。普通にモデルやってても何もおかしくないもんねー」
「はは、元モデルだって何回言えば覚えてくれるかな?」
「まあまあ、御愛嬌御愛嬌! ね、秋山さん!」
「えっ? い、いや……、あの……その……」
「ほら~、澪ちゃん困ってんじゃんか。初めて連れて来た時は優しくしてやんねーと、次付き合ってくんね~よ?」
そう言ってマスターはテキパキとリーダーのカクテルを作り上げていく。
見た目は色が薄くとても綺麗に見えるが、一体何と言うカクテルなのだろうか?
「あれ何て言うお酒ですか?」
ふふん、と鼻を鳴らし、リーダーは胸を張って言う。
「カクテルの王様って言われてるんだけど、何か知ってる?」
「何だか聞いたことがあるような無いような……。私ほとんど日本酒しか飲まないんで……」
「そうなんだ、じゃあ今日覚えて帰ったらいいよ。ね、健史!」
その言葉に笑顔で応え、マスターはまず私の焼酎をコースターの上に置き、そしてリーダーのそれの上には煌々と輝きを放つ、
まるで宝石のような液体をいっぱいに蓄えたカクテルグラスを差し出した。そして、決め顔で一言。
「マティーニでございます」
それに見蕩れる私の視線に気付いたのか
「気になるなら後で飲んでみたらいいよ。時間無制限の飲み放題だからさ」
そんな事を言ってリーダーは妖しく笑った。……その笑顔が私の見た事のない、狂喜に塗れた物に変わるまで要した時間は僅か一時間余り。
王様は……やはり強かった。
「本当にすいません……」
「あはは! 澪ちゃんが謝る事じゃないさ。みっちゃんも久し振りだったからね。きっと楽しかったんだよ」
朝の山手線車内。ぐったりして動かない、そして何より酒臭い事極まりないリーダーを担いでマスターはニコニコ笑っていた。
先輩の完璧に近いボディーをその肌に当てながら動揺の欠片も見せない所を見ると、この人がホモセクシャルであるという事を深々納得できる。
「ウチの店に来るといつもこうだよ。朝まで飲んで、はしゃいで泣いて、担がれて俺の家まで連れて行かれて、夕方くらいまで眠って、んで起きたら地獄。
胃液しか出なくなるまでトイレの住人になって、気分が良くなるまで寝て過ごして、俺が出勤してる間に帰るんだ」
「そうなんですか……」
昨夜もまさにそう。
はしゃぎにはしゃいで、思い切り笑っていたと思ったらトイレから帰ってこなくて、マスターと一緒に様子を見に行ったら、何とあのリーダーが大号泣中。
「昨日は特にペースも早かったし、俺にはやけ酒に見えたよ。疲れてたのかな?」
確かにそうだろう。それに、色々と溜まっている物もあるのかもしれない。
いくら酒が入っているとはいえ、あんな子供みたいな泣き方をする様な人だなんて想像した事もなかった。
いつもクールで優しくて、でも羽目を外す時は人一倍はしゃいで、それでもちゃんとリミッターを掛けられる完璧な人だとばかり……。
その分、リーダーがマスターの胸の中で泣いているのを見た時のショックは、割と大きな物だった。
大人が泣いちゃいけないだなんて微塵も思わないけど、それでも……やはりあの泣き顔はズンと胸に来た。
「ま、寝て起きたらスッキリするよ。澪ちゃんも少し付き合ってあげて欲しいな。お茶くらい出すからさ」
「ええ、ありがとうございます」
どうせ帰る方向も一緒だ。マスター宅の最寄り駅は私と一緒。
おまけに家も割と近所だという事が昨夜分かっており、先輩が寝てしまった時からそうするつもりだった。
「あ~……驚かないでいいように先に言っておくね」
ん?
「俺、嫁と子供がいるんだ」
「…………」
……は?
マンションのエントランス。突然マスターの口から飛んできた告白に私は多大な衝撃を受けた。
「え……ええっ!?……で、でも……マスターは……あの……その…………」
「うん、ゲイだよ」
さらっと軽やかに、そんな告白。
「……で、ですよね? 昨夜熱弁振るってましたもんね?」
じゃあ……
「奥さんと子供って……」
マスターは笑顔を崩さず、ニコニコと答える。
「籍は入れてないんだけどね、訳ありで同棲しだしたらその生活に慣れちゃって。今は内縁の妻ってところかな。あ、肉体関係はもちろんないよ? 俺、男が好きだし」
「そ、そうですか……」
何と答えればいいやら。夜の街にはこういう夫婦の形もあるのだろうか? こんないい男に抱いてもらえない奥さんって一体……。
「あ、ボタン押してくれる? うち六階ね」
「あっ、はい」
無機質なエレベータに吸い込まれていく私とマスターとリーダー。この鉄の箱の内部と言う閉鎖空間が実はあまり好きでは無かったりする。
何故かは分からない。だが、嫌いだ。
「奥さん達寝てるかもしれないけど、別に気にしなくていいからね。今日は映画見に行くって言ってたし、寝ててもすぐ起きる時間になるから」
「はい」
「奥さん寝起き悪いけど、その時は勘弁してあげてね。仕事も育児も大変だから疲れてるんだ」
「分かりました」
入り口上部にあるパネルの 『6』部分が光り、『↑』から光が消え、扉が開いた。何だかそれだけで救われた気分になる。
目の前に現れた踊り場を見てハッとなり、扉を押さえてマスターを促した。
「ん、ありがと」
部屋はエレベーターからすぐの607号室。玄関のドアもなかなか立派だ。ウチのボロアパートとはえらい違いだな。まあマスターが頑張っている証拠だろう。
「えっと、ドアノブ捻ってくれる? 鍵掛かってなかったら奥さん起きてるから」
「はい」
ドアの右側に付いているノブを左手で回し、少し引くと『カチャ』と言う小気味良い音と共に何の滞りも無くドアが開いた。どうやら奥様方は起床していらっしゃるらしい。
「ありがとね澪ちゃん。さ、上がって上がって。お~い、帰ったよ~!」
「お邪魔します」
玄関から中を覗くとまたまた驚いた。何だこの綺麗さは。
白い壁、ベージュの天井、高そうな靴箱、ピカピカの廊下。照明だって普通の家にあるような物じゃないぞ。
バーの経営者ってのはこんなに儲かる物なのか? もう感心するばかりだ。
……なんて、人様の生活水準を興味深げに、おまけに卑しく探ってしまっていた私なのだが、
廊下の向こうからドタドタと音を立てて近付いて来るその存在のお陰でようやくきょろきょろと田舎者臭く周りを見渡すのを止めることが出来た。
「パパおかえり~!」
「ミサただいま~!」
父親の帰りを出迎える娘。それに抱擁で応える父。それだけなら何もおかしくないはずの光景だったのだが、私の目には酷く尖った既視感が突き刺さっていた。
父親の背に担がれた女性も、女性を担いだ父親自身も、今は霞んで見える。寧ろ眼中にないと言っても良い。
「わ~! くさい~!」
「パパまた飲みすぎちゃったよ~。ミサも早くパパとお酒飲めるようになろうな~」
「え~。くさいのやだ~!」
無邪気に笑うその女の子の笑顔。その顔に、私は間違いなく見覚えがあった。
無論、この子自身であるはずが無いのだが、この子自身で無いとおかしいとも思うくらいのレベルで、
この子の顔は私の頭の中で山積みになっている思い出のフィルム達に焼き付いた、あいつの顔とほぼ百パーセント合致していたのだ。
「り……つ……?」
そう言った私の顔をマスターは驚いた顔で、女の子は首を傾げて眺める。
そして女の子は二回程両目をパチクリさせた後、さも当然かの様な口調で、私にこんな事を言ったのだった。
「わたし……おかあさんじゃないよ?」
おかあ……さん?
「あれ~? お客さん?」
扉の向こうから聞こえてきたその声に、私の脈は徒競争をしている時のような急激な増加を見せた。
この声を他と聞き違うはずが無い。それにこの子の顔も、さっきの言葉も。
もうそうでなければ絶対におかしいとまで私は確信し、その扉の向こうから近付いて来る人物の名を頭の中で呟いた。
「またみっちゃんかな~? どうせマティーニでも飲みすぎ……」
その人物と目が合う。さしずめキャッチコピーを付けるとすれば、近所で話題の若奥様というところか。
白の清楚なワンピース、濃くも薄くもない化粧、しっかりとセットされた髪、……そこには乗っていない黄色のカチューシャ。
「み……澪…………?」
……私の知らない所で、すっかり女性らしく成長した田井中律が……そこには居た。
「ほらミサ、パンダさん乗っといで。これ入れるんだよ」
「わ~い!」
律からお金を受け取ったミサちゃんが一目散に駆けて行く。
「転ぶよ~! 気を付けて~!」
その背中が小学生の頃の律とダブり、思わずあの頃と同じ言葉を娘にも叫んでしまった
「だいじょうぶだよみおちゃ~ん!」
「う゛っ……」
激しくデジャウ゛だ。なまじ外見が幼少期の頃の律と似ているなんてレベルではない程酷似している為、どうにもこうにも反論できない。あの顔には、弱い。
「みおちゃんって……」
「しょうがないだろ? 私の娘なんだから」
律らしい言葉だ。……けど、話し方は昔のままでは無い。どこか上品に洗練されていて、何だか節々に違和感を覚えてしまう。
今の言葉だって、どこか無理矢理昔の言葉遣いに直している様な気がしてならない。
―――だが、そうなってしまったのも、また仕方が無い事なのかもしれないな。
桜高を卒業した後、律は保育士の免許を取って地元の保育園で働きだしたのそうだ。
そして保育園に勤め出して一年が経った時、短大時代から付き合っていた恋人が横浜に転勤するのをきっかけに結婚、退職。
五歳年上の素朴なサラリーマンだったそうだ。
曰く「優しくてね、すぐ惚れちゃったよ。何度もフラれたけどさ。押して押して押しまくったら折れてくれた」だ、そうだ。
いかにも律らしい。そんなこんなで幸せを『もぎ取った』のだそうだ。
だが、横浜に移り住んだ律を待っていたのは……あまりにもありきたりで残酷なシナリオだった。
それは突然やってきたという。テレビやドラマの中の絵空事だとばかり思っていた現代社会の冷たい風。
夫の会社の倒産。決らない就職先。そして酒浸りの日々の末、彼が選んでしまった……最悪の選択肢。
一生を添い遂げると約束したその人が飛び込んだのは律の胸では無く、近所を走るローカル線の踏切だった
「……今でも肉が食べられないんだ。……見てるだけで吐きそうになる」
肩を震わせながらそう言った律の顔を、私は見る事が出来なかった。
「とんだ未亡人だよ。……惨めな、ね」
その男は結婚する時、一体どれだけの想いで律を大切にすると言ったのだろうか? 自分がこの世を去った方が律を傷付けないとでも思ったのか?
……死人の悪口など言いたくはないが、随分とご機嫌な思想の持ち主だったんだな、そいつは。
律は鉄道会社から請求された多額の賠償金を退職金を前借して清算してくれた両親に合わせる顔が無く、最後に残った僅かな金で東京へ出てきたのだという。
「身体売って、少しでも親に金返して、さっさと死のうと思った」
でも……と、律。
「その前に…………澪に一目……会いたかったんだ……」
卒業してから疎遠になっていた私が東京に居るという事だけは分かっていた律は、覚えている限りの記憶を辿って東京を練り歩いた。
携帯電話は金が払えなくて止まり、両親に連絡を取るのも躊躇われた為、浮かんで来る地名を思い出しては歩き、
思い出してはまた歩きという生活を三カ月続けた結果、新宿のコンビニで水を買ったのを最後に財布が空となる。
自身の持つ全ての財産を失った律は、完全に憔悴しきっていた。最後に固形の食物を口に入れたのはもう二十日も前。
元々細かった身体に鞭を売って歩き回り、食事のメニューは水だけという遭難者のような生活をずっと送っていた為、
最後の方は自分が何をしているのかも分からなかったそうだ。
そんな律を助けたのが、マスターだった。
「歌舞伎町で風俗の面接に落ちてさ、近くのビルで雨宿りしてたら……ずっと座り込んでる私に気付いた健史が飯食わしてくれたんだ」
その時にマスターが出してくれたサンドイッチを、律は泣きながら食べたという。
「汚い顔してる私を見かねてさ、途中で店閉めて家に連れて行ってくれたんだ。
後で聞いたらアンパンマンに出て来るホラーマンみたいだったってさ。そりゃ風俗も落ちるよ」
くすりと笑い、律。
「で、そのままここに住んでいいって言われてさ。申し訳ないとは思ったんだけど……もうあんな生活に戻るのが嫌だったから、結局住ませてもらう事にしたんだ。
で、だらだら過ごす訳にもいかないから必死に仕事探して、結局小さな子供のおもちゃを作ってる会社で働ける事になったんだ。
現場で働いてた保育士がぜひ欲しかった!とか言われてさ。
お陰で少ないけど収入が入るようになったよ。健史も喜んでくれた」
そしたらがめついもんでね、と、律。
「自分が作ったおもちゃで遊んでくれる……子供が欲しくなっちゃったんだ」
隣に立つ父親もね、と言ってミサちゃんに手を振る律。なんだか母親の顔だ。
「そう言ったら……健史が抱いてくれたんだ……」
だがそこには疑問符しか残らない。それも、えらく根本的なものだ。
「でも……マスターって……ゲ、ゲ……ゲイ……なんだろ?」
一体どうやってミサちゃんを……。
「ああ、そこまでは聞いてなかったんだ?」
そこまでは? これ以上まだ私を驚かせるつもりなのか?
へへっ、と笑って悪い顔をする律。こんな顔で唯やムギの顔が浮かぶ自分の脳が、ちょっと嫌だ。
「健史さ、実はゲイじゃ無くてバイなんだよ」
……ん~?
「……バイ……って?」
その私の言葉に律は「へっ?」と間の抜けた返事をよこし、何やらまじまと私の顔を見た後、いきなり大声で笑い出した。
「あっはっはっは! 国立大出てバイも知らないのかよ澪ちゃんは! 世間知らずだねぇ~!」
その懐かしいリアクションに久々にイラっと来た私は、気付けば『ゴツッ!!』という鈍い音をデパートの屋上に響かせていた。拳一発 to 後頭部。
「だああっ!! な、何するんだよ澪?!」
「うるさいこのバカ律! だいたい六年も連絡よこさなかったお前の方が非常識だろ!」
「なんだよ! それ言うなら澪だって連絡してこなかったじゃんか~!」
そんな悪い子にはお仕置きだ!と私を指さし、律はミサちゃんの方へ向き直る。
「ミサ~! 悪の手先をやっつけるぞ! おいでっ!」
「ホントっ!?」
そう言ってまだ動いているパンダから飛び降りるプチ律ことミサちゃん。母親に似たのか、足が早い早い。
「ママ、どうすればいいの!?」
「澪のわき腹をくすぐるんだ!」
「分かった!」
「え、ええっ!? ちょ、ちょっとま」
「ミサ! かかれー!」
「たーっ!」
さすが親子なだけあって、阿吽の呼吸はダテじゃない。ものの一分後にはその場にへたり込んで悶絶痙攣をする私の姿があった。
大体狙いはわき腹じゃなかったのか? 色々揉みやがって……。性教育するのが早すぎだっての……。
「ううっ……もうお嫁に行けない……」
「思い知ったかー!」
「かー!」
「よしミサ、三人でアレ乗ろうぜ!」
「のろうぜー! みおちゃん、いこっ!」
「ええっ?! ア、アレに乗るの!?」
律とミサちゃんが指をさした先には、あろうことか私が大の苦手としている魔の乗り物、コーヒーカップが次の搭乗客を待ち詫びるかのようにエンジン音を上げていた。
「みおちゃんはやくー!」
「いやあああああ! ミサちゃんまだ乗れないだろ!」
「身長九十センチ以上の子は保護者同伴で乗れるんだよ! ミサは身長高いもんなー!」
「なー!」
「いやあああああああ!!」
その後、私は本気で嫌がったにもかかわらず、この凶悪な親子から無理矢理シートベルトで縛り上げられ、むざむざと回転地獄へ落ちて行った。
リーダー程ではないが私も一応二日酔いだったという事を思い出したのは、ミサちゃんが面白がって中央のテーブルをマックスまで回し終えた時だったと付言しておこう。
「じゃあ来れるんだな。よかった」
受話器の向こうからの声が五月最後の土曜日に開かれる大イベントに参加できることになった旨の言葉を告げ、それを聞いた私は先の言葉と共に安堵の溜息を洩らした。
良かった本当に。
『その日忍ちゃんが休みだかミサを預かってくれるんだってさ。健史も「たまには思いっきりはしゃいで来い!」だって! 幸せもんだよ私は』
「本当にな」
忍さんの髭を引っ張って遊ぶミサちゃんの姿が目に浮かび、思わず笑いが出てしまう。あの二人、本当にいいコンビだからな。
『梓の晴れ舞台を見に行かないわけにはいかないもんな。皆にも会いたいし』
「唯とムギと、あと和と憂ちゃんも来るんだぞ。みんな家でお泊まり会」
『さわちゃんは?』
「先生は三年生の担任だから東京まで来る余裕が無いんだって。でも神戸のライブには行くらしいよ。ヘドバンしすぎで首痛めなきゃいいけど」
『ああ……周りの客が引かなきゃいいけどな……』
大いにあり得そうでまた怖い。デスメタルのライブじゃないという事だけは強く注意しておこう。
「それよりどうだ? 律も家に泊まるか?」
もちろん! と、景気のいい声が返ってくる。
『みんな寝かさないぜぇ~! 部長権力使いまくってやる!』
「ほどほどにしとけよ。ああ、ちなみにみんな超の付く酒豪になってるから気を付けろよ。特にムギ。あいつのペースに付き合ってたらアフリカゾウでもぶっ倒れそうだ」
『そ、そんなに!?』
律が今日一番叫びを上げた所で、インターホンが高い高い呼び声を上げた。遅刻だな。時間にルーズな奴が大嫌いだと年の頭に聞いたばかりだったはずなのだが。
『あれ? インターホン鳴った?』
立ち上がり、玄関へ向かいながら返す。
「ああ、猫が来たよ猫が」
『ああ、ちびっ子ギタリストか。よろしく言っといてよ』
「うん、じゃあ切るな」
『おう! また明日!』
「ああ、おやすみ」
『おやすみぃ!』
電源ボタンを押して通話時間を確認。今日は十五分十二秒。最短記録だ。電話料金の請求書が投函される日が恐ろしい。
コンコン、とドアを叩く小さな音でようやく画面から目を離す。アホ猫め。お仕置きだ。
「二十分も遅刻する奴を入れる程、私は優しくありません」
ありゃりゃ……、とドアの向こうの声。
「じゃあこの泡盛は一人でのも」
奥義、瞬間扉開け。
「いらっしゃいませ」
「ひゃっ!」
「ようこそいらっしゃいました。荷物をお持ちいたしますのでどうぞ中へお進み下さい」
「せ、先輩……、目がマジですよ?」
「えらくマジです」
『海人ぬ風』という黄色いラベルの張られた青い瓶を受け取るというよりは奪い、梓を置き去りにして私はさっさとリビングへ向かった。
「に゛ゃっ!! 先輩! 話が違います!」
黙れ黙れ。お前の耳には波と風と琉球の大地の音が聞こえんのか。アホ猫め。
「いよいよ明後日からなんだな。初日が横浜だったっけ」
「はい」
古酒の何とも言えない香りが漂うリビング。梓はニコニコ顔でそう答えた。
「合宿とかリハも大変でしたけど、いよいよ本番だと思うともう楽しみで楽しみで」
ミュージシャンとして全国行脚だもんな。音楽を生業にしている者としては冥利に尽きるのではないだろうか。
「ツアー中は家に帰ったりするのか?」
んー……と梓。
「出来るだけ帰らないようにしたいと思ってます。私、一回スイッチがオフになるとなかなか入れ直せないんで」
「だな」
確かにそうだ。炬燵で丸くなると梃子でも動かないもんな。
「だから、長めに間が空く日を使ってベースのミキさんと沖縄に行ってきます」
「へえ、古酒でも漁りに行くのか?」
「いえ、今度レコーディングするカップリング曲に沖縄をイメージしたヤツが採用されたんです」
「おお、じゃあ観光兼半分仕事ってわけか」
「まあそれもあるんですけど」
泡盛をくいっと煽り、愛らしい目で笑う猫。
「三線が欲しいんです」
「ほお」
それはそれは。何とも楽しそうな話じゃないか。
「やっぱりミュージシャンたる者、自分で見て聴いて触ったやつを買わないと」
おいおい。
「その為に沖縄まで行くってか。えらく急に羽振りが良くなったな」
「誘ってくれたのはミキさんで、特典DVDの撮影も兼ねてるから私の旅費も全部経費で落ちるらしいです。それに、この業界当たれば大きいですから」
ん……まあそうだな。そうでなければミュージシャンを志す物がこんなに世に溢れている訳が無い。
既に一発当てた梓はいつの間にかバイトを辞めていたしな。
「あ、そうだ」
梓はトーンを変えてグラスを置く。
「何でこれ持って来させたんです?」
壁に立て掛けたギターケースを指さし、梓は不思議そうに問う。中身は例のテレキャスターだ。
そう、実はこれこそが本題。ありがたくも泡盛なんて持って来てくれたおかげで危うく忘れてしまう所だった。
「ちょっと中見せてもらってもいいか?」
更に首を傾げるアホ猫。だが「いいですけど……」という言葉と共に立ち上がり、大事そうにケースを取って私の隣に腰を落とした。
動きの一つ一つがいちいちちょこまか忙しい奴だ。
「開けるな」
「はい」
中から出てきたのは指紋が一つも付いていない程ビカビカに磨き上げられたオールドのテレキャスターだ。
黒ボディーに黒のピックガード。ピックガードはもともと白だったものをわざわざメーカーに頼んで黒く塗ってもらった特注品なのだとか。
確かに黒×白より締まって見えるな。このギターを無くしでもしたら梓は間違いなく卒倒して発狂する事だろう。
「ウチのテレさんが何か失礼でも?」
「テ、テレさん?」
ええ、と梓。
「私より遥かに年上ですからね。敬称略はできません」
「な、なるほど……」
納得していいものかどうかは甚だ疑問だが、やや唯化したあずさにこの手のツッコミを入れても無駄だという事は十二分に分かっている。止めておこう。
まあ、実を言うと私が用があるのはテレさんではないのだ。
「ああ、やっぱりな」
「えっ?」
私が取り出したのはテレさんでは無く、そのテレさんと梓を繋ぐ命綱。ストラップの方だ。
「何だこのストラップ?」
「え……あの……普通のストラップ……ですけど?」
そう、普通のストラップだ。三千円そこらのメーカー名しか入っていないような、普通の。
「色気の無いストラップだな。プロが使ってるなんて思えないぞ? 色も地味だし……」
その一言にすぐさま抗議のバズーカ砲が飛んでくる。
「高校の頃カッコよくて自分に似合ったのはなかなか無いし、結局シンプルなのが一番だよって言ったの澪先輩じゃないですか。覚えてないんですか」
「もちろん覚えてるさ」
途端にブスッと膨れて私から茶色のストラップを奪い取る梓。そんなに気に入っているのだろうか?
「これには思い出が詰まってるんです」
ほう。
「そうなのか?」
「楽器屋で買う時に五十円足りなくて店長さんがまけてくれた思い出が詰まってるんです!」
「情けないわ!」
間違いなくアホ猫だ。そろそろバカ猫にランクアップさせた方がいいかもしれない。
「まったく……ストラップにも五分の魂だ。ミュージシャンならかっこつけろよな」
「そんな事言ったって……」
しかめっ面で安物(五十円まけ)のストラップをジトッと眺める梓。その顔が……今から一体どう変わるやら。
テーブルに手を突いて立ち上がり、ソファーの陰に隠していた「ある物」を取って再び元の位置に戻ってくる。
その「ある物」とは、先日リーダーと共に行った吉祥寺のあの店の店主が、曰く魂を注いで作ったという最高の逸品が入った紙袋だ。それを梓に差し出し、受け取らせる。
「中野梓後援会からの気持ちだ。これ位しか出来ないけど、気に入ってくれたら嬉しい」
頭の上にクエッションマークを羅列させる梓に中を見るよう促し、私は再び腰を下ろした。
その紙袋の中を見た梓はまず
「えっ?」
と声を上げ、次に
「ほえぇ!?」
と驚愕し、中身を全て取り出して
「すごい!! すごい!!!」
と大声を上げ、最後に
「なんじゃこりゃあああああああ!!!!」
と、腹を打ち抜かれた刑事も真っ青な大声を上げたのだった。
話はあのMS. HIRASAWA主催の飲み会の日に戻る。
梓と夜遅くまで飲んでいた私が目を覚ましたのはもうお昼時を過ぎた頃の事だった。
ムギも和もまだ帰っておらず、憂唯を合わせた四人は炬燵で熱いお茶を飲んでまったり中。
そして私の起床に気付いた憂ちゃんが出してくれたお茶を啜るべく、その輪の中に加わった時、唯はこんな事を言い出したのだった。
「ねーねー澪ちゃん、あずにゃんってさ、プロのミュージシャンなんだよね?」
何を今更?
「プロだよ。武道館に立つような、プロ中のプロだ」
「だよね~……」
唯は醤油煎餅を齧りつつ、じーっと天井を眺めた後、お茶を一啜りして
「すごいなあ……」
それこそ何を今更、な事を言い出した。
「武道館で一万人でしょ? この四国のホールで多分一日二千人くらい、最低でも北海道の二百人……」
うん、間違っていない。
「そんな所でギター弾くなんて、やっぱり本当にあずにゃんはすごいんだよねぇ~……」
「そう、すごいぞ梓は。アドリブのセッションをやったら音楽学校の講師がついて来れなかったらしいからな。技術は本当にすごい」
それに、伝説ならまだある。
「去年の夏、梓がとあるバンドのライブアシスタントをやった時な、そのバンドのサイドギターが弾いてたエレキが本番中に壊れたらしいんだ」
ふんふん、と顎を机に乗せて聞き入る唯。こういう所は変わってないな。
「楽器担当のスタッフがとっさに別のギターを出してその場は凌いだらしいんだけど、現場は異常なまでに騒然。その壊れたギターは、
二カ月前に事故で亡くなったメンバーのギターだったんだよ」
「うわぁ……」
そのライブは梓にチケットを貰って私も見に行っていた。
躍進中のバンドを襲ったメンバーの死。それを薙ぎ払う為に行われた、小さな会場での特別な追悼ライブだった。
「アンコール最後の曲でどうしてもそのギターを使いたかったメンバー達、
そしてデビューの頃から彼らと一緒にライブを作り続けた現場のスタッフ達もこれには真っ青になってな、泣き出すスタッフも一人や二人じゃなかったそうだ。
アンコール予定曲は三曲。そしてギターが壊れたのはアンコール一曲目のイントロ部分だった。三曲続けて演奏する予定だったし、ノリにノッている客の事を考えると
最後まで演奏を止められる空気じゃなかったらしい。私も見てたけど確かに異常な盛り上がりだった」
そこで、と私。
「梓が動いたんだ」
炬燵に潜る全員の頭の上に浮かぶクエッションマークは、至極当然の産物だと思う。
お茶を一啜りして、私は続けた。
「オロオロとするスタッフ達を尻目に、梓はいきなりそのギターをバラし始めた」
「ええっ?」
言ったのは四人の内誰だろうか? 声だけでは判別できなかった。
「周囲のスタッフが制止するのも聞かず、物凄い勢いでネジを外し、蓋をこじ開け、神速的なスピードで故障の原因を判別。
脇に置いてあったサブのギターも異常なスピードでバラして、そこから取り出したパーツを壊れたギターに取り付け、目にもとまらぬ速さで蓋をしたそうだ」
「そ……それで……!?」
私はもう一度お茶を啜り、すっかり聴衆と化した四人に微笑みながら言う。
「大復活」
おお~!! と、何故か起きた拍手が止むのを待って、私は続ける。
「その時点でステージの上は二曲目の後奏部分が終わるところだった。梓はステージ袖を飛び出し、
サイドギターのメンバーにギターの取り換えを促して、即座にアンプのボリュームをダウン。
マジシャンみたいな手の動きでジャックを挿し替えた後、アンプの音量を戻して何事も無かったかのように袖へ戻ったんだ」
これは何の脚色も無く語っているだけだ。
実際、二階で見ていた私からは梓が壊れたギターと戦っている姿が丸見えだったからな。
「あ……あずにゃん……かっこよすぎるぜ……」
「私鼻血出そう……」
まあ伝聞だけで素人がこうなるのだから、あの時梓の周りにいたスタッフ達の驚きようも理解できるな。
まるで梓をどこぞのヒューマノイドインターフェースのパトロン様のように崇めていたのには、本人達には悪いがしこたま笑せてもらった。
「その一件を感激しまくったバンドのリーダーがブログで面白おかしく公表してな。梓はファンの間や業界内でもちょっとした有名人になったらしい。
本人は全く気付いてなかったらしいけどな」
まあ、と醤油煎餅に手を伸ばし、私は続ける。
「技術面でもメンタル面でもあいつはホントにすごいってことだよ。あいつの先輩であるってのは、ちょっとばかし自慢だな」
本人にはそんな事なかなか言えないけどな。と続けた時、唯は目を輝かせながら両手をパン!と叩いてその場に立ち上がり、盛大なモーションを付けて、一言。
「それだよ澪ちゃん!!」
ポカン、とそれを見つめる私と他三名。ま、突拍子もない事を言い出させたら天下一品の唯だ。
何を言い出しても私達は驚かないだろうし、ここにはツッコミ担当が二人も居る。オールオッケーだ。
「あずにゃんは私達の自慢の後輩だよ!」
私は同い年だけどね、と笑う憂ちゃんに親指を立てて返し、唯は続ける。
「だから自慢の後輩あずにゃんの為に後援会を作ろう!!」
おおっ! と炬燵軍団は目を丸くし、その裏四次元ポケットのような口から出たまさかの妙案に感嘆の声を上げた。
「会長はトンちゃんです!」
「おいこら」
和よりも先に私がツッコミを入れた。代わりにその和が続ける。
「こういうのは言いだしっぺが先頭に立つものでしょ。唯が会長」
「そうね、唯ちゃんを発足人兼終身名誉会長として会を引っ張ってもらいましょう!」
「うんうん! お姉ちゃんなら出来るよ!」
「そ、そうかな?!」
亀を会長にするという予想右斜め上を行く意見は即座に却下されたものの、後援会の設立に関しては誰一人として異を唱える者はおらず、
結局その日の内に軽音部OGと和と憂ちゃん、そして何処かでやけ酒でも煽っているであろうさわ子先生を勝手に加えた計七名によって、
中野梓後援会は本人未承諾、一名連絡つかずの状態で恙無く発足と相成ったわけだ。
そして梓に内緒で武道館ライブ出演の記念品を作ろうと言い出した終身名誉会長の一言によって、その日から会員全員が静かに動き始めた。
発案が唯憂ペア、デザインが私と唯、リサーチは和、素材となるパーツの調達はムギ。
各自仕事の合間を縫ってこそこそと準備し、つい先日それが形になった訳だ。あまり安い物ではないが、そこは社会人パワー。普段の貯蓄が物を言う。
そしてその結果、こうして二月末の私の部屋で無事、後援会一同からのサプライズプレゼント贈呈と相成ったわけだ。
「綺麗……」
プレゼントを用意した経緯を聞き終えた梓がうっとりして手にしているのは、先程渡した紙袋の中身。つまり、私達からのサプライズプレゼント。
それは、二本の特注ストラップ。そして、二百枚の0.7ミリピックが入ったビニール袋だ。
ストラップはシルバーとブラックで、それも本革。
シルバーのストラップの上では銀ラメ地の表面上をサファイアカラーのガラスで出来た猫が五匹走り回っており、
ブラックには金色の刺繍で描かれた巨大な龍が飛び回っている。
猫の体は凛々しくも煌々と輝き、刺青のような金龍がこちらを睨む様は大迫力だ。
そして、その二本のストラップの端と二百枚のピック一枚一枚にそれぞれ入ってあるロゴマークは唯の強い要望で入れられた物である。
放課後ティータイム初のライブハウス出演時にあいつが考えた、紅茶から湯気が上がっている例のマーク。
その真ん中にブランド名が刻まれているという進化バージョンだ。……繰り返す。安くはなかった。
「えっと……SUN MY ARTっていうブランドなんですか?」
「そう。まあそれは適当に付けただけなんだけどな。本当の意味は違う」
「えっと……?」と首を傾げるアホ猫。まあ普通に考えても分からないだろう。
「頭文字なんだよ」
そう告げると、ようやく満面の笑みになって梓は答えた。
「Sはさわ子先生のS!」
私が頷くのを見て、その答えは続く。
「憂がUで和先輩がN、澪先輩、唯先輩、梓、律先輩でMYARで、最後がムギ先輩の紬のTですね?」
「正解!」
嬉しそうにSUN MY ARTのストラップを抱きしめ、奇声を上げながら後ろに倒れ込むアホ猫。
空になりつつある泡盛の瓶の中身を死守すべく、私はさっと自分のグラスに残り全てを注ぎ、ついでに梓のグラスを空にした。
「すごい……コレすごいよ澪たぁ~ん!」
「おいこらバカ猫」
カーペットの上を転がりまわる梓の頭を右手で掴み、こめかみを親指と中指で締め上げる。アイアムベーシスト。
「のおおおおおおおおっ!! へこむ! へこみます!!」
「それは良かった。魅惑の天使澪たんが責任もって成仏させてやる」
「天使が成仏って何ですか! まず天使って何ですか天使って!」
「ぴぴるぴるぴるぴぴるぴ~♪」
「ぎゃああああああああぁ!! 殺られる! 撲殺されるっ!」
「エイザベス~。出番だぞ~」
「あれエスカリボルグだったんですか!? 許してえええええええぇ!!」
翌朝、梓はゲッソリしながら元気に横浜へと旅立って行った。前乗りしてミーティングやらリハやらがあるらしい。
ツアー初日が横浜で、翌日にはもう福岡か。さぞ過密なスケジュールになる事だろう。
まあターミナル駅で別れた後、「横浜と中洲の美味しいものを全部貪ってきます!」なんてメールが来たくらいだから、
あまり緊張はしていないんだろうな。あいつらしいと言えばあいつらしい。さすがアホ猫だ。
ちなみに余談ではあるが、その日の夜にスパビネのベース担当ミキ氏がアップしたブログに銀のストラップを肩に掛けた梓の写真が掲載され、
それを見た唯からの電話が残業帰りでほとほとに疲れ果てた私の耳を二時間支配したのは、また別の話だ。
異常気象のせいだろうか。
五月中旬にしてはやや涼しすぎるクーラーの風が、私の髪の中を泳いでいた。
私が土曜日の朝に九時起床というF難度の離れ技をやってのけたのには、もちろんちゃんとした理由がある。
そうでなければ、RISE……律の旦那さんのお店で飲もうという元リーダーもとい現新係長の誘いを断るはずが無い。
せっかく忍さんが美味しいハヤシライスを振る舞ってくれるはずだったのに……。惜しい事をした。
まあ、これからの予定を考えるととても二日酔いでこの日を迎える訳にはいかなかったので、こればかりは天命と言う便利な言葉を脳内で反芻して自分を慰めるとしよう。
ちなみに、私が今居るのは年末と正月三が日の最終日に使ったきり、来る事も思い出す事も無かったゴールデンウィーク終わりの空港だ。
用が無いのに来るはずもなく、けれど私自身用があるわけでも無いのだが、私は今空港内のレストランで割高のアイスコーヒーを啜っている。
では何故私がこんな所に居るかと言われれば、それは至極簡単な言葉で説明が付くのだが、後述の為、割愛させて頂こう。
「おっ」
短い着信音がグラスに反響して耳に入る。サブディスプレイに表示された文字の意味するところに倣い、
昼時を迎えてやや席が埋まってきたレストランを後にすることにした。
会計担当のお姉さん、あなたの笑顔のを見ていると、この原価数十円のアイスコーヒーに
居酒屋の焼酎一杯分の値段を請求された今とて怒りが微塵も沸かないのは何故でしょうか?
ぼったくりよりも寧ろそちらの方が腹立たしいのです。
……けっ。
到着ゲートで高校生が登下校に使うようなスポーツバッグを抱えて待っていたその人物は、正月に会った時から少しだけ髪が伸びているように感じた。
そう、私はこの空港に用は無い。用があったのは彼女の方なのだ。私はそのお出迎え役。そして、今日は東京の案内人を務める事となっている。
「ウェルカムトゥーザトーキョーシティー」
カタコト英語の私に苦笑いを浮かべつつ、彼女は礼儀正しく返す。
「こんにちは澪さん。お世話になります」
「ああ、今日の所はゆっくり楽しんでくれたらいいよ」
コクリと頷く可愛い彼女。これから二日、彼女は家で過ごす事になっている。
「領収失くすなよ? 高いし、本社は即行でバックしてくれるからな」
彼女をついて来るよう背中で促しつつ、モノレールの搭乗口目指して歩を進め出す。
「やっぱり対応が違いますね」
「本丸を守る武士達に厚待遇を受けさせないと城はすぐに落ちるからな。ようは餌付けだよ餌付け。私達は飼われてんの」
「そんな卑下した言い方をしなくても……」
「すぐ分かるさ。部長以下と以上の生活水準の差はそれこそ大名と家来ほど開いてるんだ。汚い諍いも起こるってもんだよ」
事実それで辞めて行った人間を、私は知っている。
「幹部とヒラの別れ目ってところですか?」
「そだね。整備員止まりか、操舵室の一員になるか、ってとこかな」
「シビアなんですね」
「ま、それでも本社勤務の正社員ならどんなに下っ端でもそこら辺の中小企業の課長さんよりは給料貰えるからね。
下手な上昇志向を持ってストレス溜めるより、敢えて下に居て堅実に生きる人も少なくないよ」
それに、と私。
「上に行けばプライベートなんて蔑ろだよ。私は週末にお酒も飲めない生活は御免だね」
「ああ……確かに」
やや強張った顔をしている彼女の肩を叩き、出来るだけのコワモテを作って訊ねる。
「ビビった?」
「え……いや……あの…………」
うん、なかなか面白い反応だ。だが、これからの事を考えるとあまりビビらせる訳にも行くまい。フォローを入れておこう。
「まあ大丈夫だよ。私の班に所属するからには、いっぱい歩き回って、眠い目擦ってキーボード叩いて、他愛もないような事で笑って、
週末には美味しいお酒が楽しく飲める生活を送らせてあげる。年末には忘年会で二年連続のフグが目標だよ」
事実、今掛かっているプロジェクトの遂行が四月中旬までのペースを遵守できていれば、我が班の二年連続の社長賞は決まっていたようなものだったのだ。
ただ、あのイレギュラーな因子のせいで今でも私や係長や班員が苦しんでいるのは確か。
だからこうして支社から人員を補充するといった強行策に出たのだ。年末には絶対に係長と肩を組んで高笑いをしてやる。
私達の手に掛かればこれくらい!なんて叫びながら浴びるように飲んでやる。そこに、是非彼女も混ざって欲しいものだ。
「その為に今日はささっと家の契約を済ませて、少しでも東京の空気に触れておこう。不動産屋の前に上野で鰻でも食べて、夜は私の班行きつけの居酒屋でいいかな」
「う、鰻ですか!?」
思いがけない反応だな。
「あ……ああ、取引先の課長さんが教えてくれたんだよ。あそこの鰻食べたらもうスーパーの鰻なんて食べられないよ」
「お、お供しますっ!」
こういう好きな物に実直な所は姉妹本当によく似てるな。目で渦を巻いて混乱しているこのリアクションなんて瓜二つじゃないか。
「よし、ついてこい憂ちゃん! 特上! 肝吸い! 香の物っ!」
「お、おーっ!」
国内線ターミナル内、自動ドア前。よちよち歩きのアヒルが親鳥の後ろについて行くような足取りで私に付いて来る平沢憂が、そこには居た。
彼女は五月の下旬から、我がK社の東京本社で働く事が決定している。
一刻も早く支社で評判だったというキーボードタイピング能力とテンキー弾きを見せてもらいたいものだな。
話は四月下旬、我が営業課に唐突に舞い込んだプチニュースが原因で、この緊急召集劇は起こる。
「えっ? 辞める?」
昼休み中、新係長が発した声は、特に遮る物の無いオフィス五階の中空に轟いた。
新年度開始早々のこんな時期にそんなネガティブなワードが空気を振動させるとは、なかなか穏やかではない。
係長のデスクの前に立っているのは、私の隣の班に所属している同期入社の女性社員とその班のリーダーの男性社員だ。
「彼女、昨日体調が悪くて早退したんですが、どうやら……」
空気を察した係長がその言葉を遮り、二人を会議室へ移動するよう促す。
二人を先に行かせた後係長は私に目配せし、口の動きだけでたった四文字「お・め・で・た」と告げた。
その無表情な顔から係長が祝福モードに入っていない事を察する事が出来たのは、二年の付き合いがあってこその事だろう。
だから、私は突然メールで告げられた「仕事上がったら会議室に残ってて」というメッセージを見ても、間髪を容れずスムーズに返信を送ることが出来たのだ。
絵文字の入っていないメールの文章を見る限り、事態はあまり芳しくないと見える。
最低最悪の男が、目の前に居た。
午後七時の会議室でがっくりと項垂れる隣の班のリーダーがそれに該当する。
今この会議室内に居るのは私、係長、隣の班のリーダー、同班の女性社員、そして営業課の課長と主任。そして部長だ。
「本当にすいません……」
ただただ頭を垂れ、脱力しきった男性リーダー。
「謝ってても事態は収拾しない。さっさと片付けよう」
慇懃な口調に怒気の欠片を散りばめて、部長は言う。相変わらずのオーラだ。
さすがは三十代半ばでこの地位まで昇りつめた同期内の出世頭にして今一番の幹部候補。
こんな問題ちょろっと片付けてしまおうという魂胆なのだろう。まあその意見には大いに賛成だ。
私だってさっさと帰って昨日買ったブルーレイのライブDVDが見たい。あのデュオのDVDは副音声まで全部見ると七時間弱掛かるんだ。
明日は祝日だから梓が送ってくれた愛媛の蜜柑酒をちびちびやりながらぶっ通しで見ようと思ってたのに……。
「それで? 対策は練ってあるのか?」
足を組んで係長に訊ねる部長。さすがに係長もこの人の前では委縮してしまうようだ。少しばかり震えているように見えなくもない。
「取り敢えず、今考えてある対応策から言ってしまいます」
ホワイトボードに私と男性リーダーの班員名を書き連ねて行く係長。
黒の水性マーカーを握ったその右手が最後の一人の名前を書き終るまで、会議室にはスーツが擦れる音すらも響かなかった。
「まず、そこに居る二名は今月中に退社してもらいます」
男性社員はそこで顔を上げ、
「そ、そんな! 」
と声を響かせる。
「不貞行為で結婚しても居ない女性を身籠らせるあなたが悪いんでしょう? このまま会社に残ってもあなたに居場所なんて無いわ。
出来れば自主退社してもらいたいんだけど、不満があるなら法廷で争いましょう」
強い口調で言い放つ係長。氷のように冷たいその口調は、私の聞いた事の無いドスの利いた物だった。
「あなた達の行き過ぎたお遊びのせいで営業課、牽いては会社全体に迷惑を掛ける訳にはいかないの。営業はイメージが命。知ってるでしょ?
あなたみたいな人間を会社に残しておく筋合いは無いわ。お望みなら下請けの下請けのそのまた下請けの会社に転職を斡旋してあげてもいいわよ。
ま、今の奥さんとその娘への賠償金なんてとても払えないでしょうけど、私達には関係ないしね」
そこで部長が襷を受け取る。
「分かったか。明日にでも辞表か敗訴と書いた縦長の紙を持ってこい」
で、でも……、と立ち上がった男性社員の顔の数センチ横を机に乗っていた花瓶が飛んで行き、壁に当たって砕けて散った。
花瓶を投げた人物など、言わずとも分かるだろうが。
「てめぇの話なんか聞いてねぇ。辞めろっつったらさっさと辞めろ蛆虫が。悔しかったら試しに訴えてみればいい。
まさかウチの会社のバックについてる弁護士と葬式屋の存在を知らないとは言わせねぇからな?」
葬式屋とは裏稼業の方々の事だ。歌舞伎町にわんさか居る様な、あの人達の事。
まさか本気で言っているとも思えないが、この人ならあるいは……と思わせる所がすごい。
「とっとと出て行け。次は眉間には灰皿だ」
そう言われると、男性社員はまるで緑色の火星人から追いかけられているかの様なスピードで会議室を飛び出して行った。
彼の子を身籠ったという女性社員が怒りの顔でそれに続く。
「盛った猿どもが。ヤるならゴムは基本だろうが」
バタンと閉まったドアに向かい部長がそう言った後、事の顛末を見つめるだけだった係長は溜息を一つ吐き、眉を顰めて話を戻した。
「本当にごめんね……」
その言葉はもう幾度繰り返されただろうか?
がっくりと肩を落とした係長は柄にも無く二杯目のマティーニの半ばでもうべろんべろんのぐってぐてだった。カウンターに突っ伏し、
眠たそうな目でカクテルグラスを眺めている。
「気にしないでください。係長が悪い訳じゃないんですから」
うん……と言いながら、十八歳で辞めたと言っていたタバコを咥えるその姿を見る限り、どうもスッキリしてはいないらしい。
結局、今回の騒動はあの男性社員が全ての元凶だったと言わざるを得ない。
入社当時から女性関係に於いてとことん繁雑だったあの男性社員は、三年前に同僚のOLを身籠らせ出来婚。
しかし、結婚前からありとあらゆる女性と関係を持っていた猿の如き性欲は結婚後も治まる事を知らず、
結局結婚から三年が経ったこの四月末にそのどうしようもない行為は悪い意味で実を結んでしまった。
つまり、今回の不倫&妊娠事件がそれである。
結局二人は退社する事になりそうだ。会社に残ってもいい事など一つもないだろうし、それでいいと思う。
だがしかし、人間は居なくなっても仕事は無くならないのが世の理。
おまけにリーダーが居なくなり、計二名の人員が居なくなってしまったという事は、それを引き継げる人間はごくごく限られてくるということになる。
今回は私と係長が男性社員の分の仕事を引き継ぎ、私の班のサブリーダーを隣の班へリーダーとして回し、
女性社員の分の仕事を二つの班のメンバーが分担して請け負う形を取り、週明けからの仕事に備える形となった。
こうして言葉にしてしまえばあまり大した事ないように感じるかもしれないが、毎日の残業は当たり前。
最悪毎週土日出勤も強要されてしまうかもしれない程の量があるのだ。
「せめて優秀な人材が秋山さんの補佐に回れればいいんだけどね……」
マティーニをちびりと啜り、コースターに戻して大きな大きな溜息を吐く係長。
その目を見る限りは、営業課内で起こったしようもない事件を嘆いているわけでも、仕事との量が増えた事を憂いているわけでも無いというのが伝わってくる。
どうやら心から私に申し訳ないと思っているようだ。この人は、些か責任感が強すぎる。
「ん~……みっちゃん達の会社の事は良く分からないし、知った口をきくつもりもないんだけどさ、
本社内で人材が繕えないならどっかの支社から引き抜けないの? 優秀な人材が本社で働くのは結構当たり前だと思うんだけど」
マスターはそう言い、私が注文していたロックの米焼酎をコースターに置いて顔を顰めさせた。
係長の愚痴をずっと聞いていただけあって、感情移入はなかなかの物のようだ。
「ん~……正直ね、引き抜けない事は無いんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。でもね……ただでさえ本社と支社じゃ仕事の量と内容に差があり過ぎるから。いきなりこっちに呼ぼうとしたって、委縮して断っちゃう人が多いってわけ。
それぞれ生活とかあるし、強制はあんまりしたくないしね……」
マティーニのおかわりを要求して、係長は続ける。
「でも今回ばかりはそうはいかないかもね……。私がリーダーだった時は秋山さんって言う強力な右腕が居たから多少の無茶も出来たけど、
今の秋山さんの班でそんな優秀な補佐役に回れる人、正直居ないし」
隣の班のリーダーに回されることとなった我が班のサブリーダーがそれに該当していたのだが、今となっては後の祭りだ。悔いていても仕方が無い。
と、その時だった。
「あ、そういえばさ」
あっけらかんとした声でそう言ったのはマスターの奥さん。つまり、律だ。今日はヘルプで店に入って酒を作っている。
ちなみにミサちゃんは奥の部屋で就寝中。掛け持ちは禁止らしいので会社には内緒で来ているらしい。
今まで見た事もなかったが、アジアンテイストのロングスカート姿がかなり似合っている。
「憂ちゃんどうなの? 澪の会社の支社で働いてるんでしょ?」
ん?と顔を上げるリーダー。ああ、言ってなかったっけ?
「私と律の部活仲間の妹なんです。今は関西支社で働いてます」
「へぇ……」
「憂ちゃん仕事できそうだもんなぁ~。それに唯も結婚するんだろ? 幾ら仲がいいって言ってもさ、姉夫婦とひとつ屋根の下で三人家族ってのはキツくない?
まあ憂ちゃんがどう言うかは知らないけどさ。正直私だったらごめんだね」
確かに。唯は割とあっけらかんと婚後同居の事を考えていたみたいだが、あれはあれでキツそうな気がしないでも無い。
唯の旦那さんがどんな人かは知らないが、気ぃ遣いの憂ちゃんの事だ。支社の激務に耐えながらそんな生活を送ってストレスが溜まらないだろうか?
「そんなにスゴイ娘が居るの?」
「「完璧超人です」」
コンマ一秒の狂いも無く、ユニゾンで言い放つ私と律。
「その娘の姉……まあ私達の友達がだらしない奴でさ」
「お前が言うなお前が」
一番絡んでたのはお前だろうが。
「まあそうなんだけど」
係長のコースターに新しいマティーニを置き、律は続ける。
「だらしないそいつの代わりに十代半ばで家事一切をやっててさ、それでも文句一つ言わね~の。気は利くし、可愛いし、何でもほいほいっとやっちゃうし、頭も良いし」
「国立大を首席卒業だもんな」
「ぶえっ!? しゅ、主席!?」
まあ私をはじめ、皆と距離を取っていた律が知っているはずもないか。
「そんなすごい娘がどうして関西の支社なんかに? ちょこっと頑張れば本社とか余裕で受かりそうなもんだけど。未だに学歴主義だし」
考えずとも分かる。
「姉ラバーなんです」
「まあ重度のシスコンだな」
「シ、シスコン?」
訝しげな顔でマティーニに口を付ける係長。私も焼酎をぐびり。
「家事が出来ない姉を放って家を出られなかったんでしょう。近所で給料の良い就職先がたまたまウチの関西支社だったんでしょうね」
「そ、そんな理由で……。すごいね……」
「でも、今ではその姉も家事をこなせるようになって、もうすぐ結婚するんです。旦那になる人が事情あってその姉妹が住む家に入る事になったんですけど、
そうなったら三人家族なんですよね」
「そなの」
「ええ」
憂ちゃんか……。支社ではどんなものなのかな? まあ仕事もそつなくこなしていそうだが。
そして週が明けた月曜日の昼、関西支社の社員データを漁っていた私は驚いた。憂ちゃんは仕事をそつなくこなすどころか、
関西支社のセールス部門で堂々の断トツ一位を飾っていたのだ。
そして、あわよくば憂ちゃんを本社へ……という私と係長の心の何処かに小さく畳んであったプランは、一気に現実味を帯びだした。
「……というわけなんだよ」
『そう……ですか』
夜は八時。営業部以外の照明が落ちたオフィスの中で、私は白い受話器を握っていた。
隣にはブラックのコーヒーを片手にこちらの話に耳を傾ける係長。電話の相手は関西支社随一の実力を持つ若手社員、平沢憂だ。
「いい、憂ちゃん? これはね、イレギュラーな事態が原因だとはいえ栄転話に変わり無いんだ。憂ちゃんの実力を買って、
全国の支社の中から私と上司で憂ちゃんを選んだんだよ」
『それは……光栄です』
「贔屓目抜きにしてもデータを見る限り憂ちゃんは本社で働くべき人員だ。それに、データだけじゃ無くて憂ちゃんが十分すごいって事は私が知ってる」
『そんな事……』
「ある」
そんな事、ないことが無い。
「もしこっちに来てくれるなら、私が責任持って面倒見る。給料だって格段に上がるし、こっちには梓も律も居る。それに……」
この言い方はちょっと卑怯かもしれないが……
「私は……憂ちゃんに力になって欲しいんだ」
押されると弱い憂ちゃんの性格を利用した作戦。こんな事が平気で出来る人間になってしまっている自分がかなり憂鬱だ。今日の酒は、どうも美味しくなりそうにない。
溜息を吐き
「そっちの部長さんにはもう話は通してある」
『はい。部長からこの話を聞きましたから』
「だよな。でも、強制はしないように言ってある。私は憂ちゃんの意見を尊重したいし、上司もまた同じ意見だ」
だが、心の中では是が非でも本社に来て欲しいと願っている。
正直言えば、憂ちゃんに断られたら私と係長の盆正月祝日は間違いなく全滅なのだ。心中穏やかでいられるはずが無い。
『あの……』
「考える時間を下さい……か?」
『……はい』
まあ、当然の意見だろう。いきなり本社から転勤の要請を寄せられ、「はい、行きます!」なんて挙手する人間は殆ど居ないだろうしな。
まして、選択権をその手に委ねられたというのなら殊更だ
「申し訳ないけど、できるだけ早めに頼むな」
『分かりました』
……少し押しが弱いな。蛇足的とも捉えられかねないが、もう一押ししておくか。
「……憂ちゃん、唯のことが気掛かりなのは分かる」
でも……、と私。
「余計な御世話だろうけど、唯も憂ちゃんももう二十代なんだ。まして唯はもうすぐ結婚する。あの家で旦那さんと同居もする。
そうなれば今はどう思ってたって必ず弊害は出てくるんだ。そうなった時に憂ちゃんはどうする? きっと我慢するだろ?」
『わ……私はお姉ちゃ』
「憂ちゃんがどれだけ大切に思ってたって唯はもう旦那さんのものなんだよ?
何処かでつけきゃいけなかった踏ん切りをお互いがつけられなかったから唯が憂ちゃんに甘えて呑気に三人で暮らそうなんて言いだすんじゃないのか?」
そして、
「何時までそうやって唯の面倒を見るんだよ? 憂ちゃんは唯の面倒見じゃ無い。……妹なんだ」
姉離れが出来なかった妹には少々酷な言葉だと思うが、誰もツッコまなかったからこそ憂ちゃんはああなってしまったのだ。
それを代表して私が言うのは、ある種の義務だと思う。
「憂ちゃんは唯に括られないで幸せになる資格があるし、唯には憂ちゃんに頼らず生きて行く覚悟を背負う義務があるんだよ。
そうしないと片方がダメになった時、両方がダメになる。……分かるだろ?」
それは家事や生活という小さなレベルでは無く、彼女らの人生に於いての礎になる部分だと、私は勝手に思っている。
『…………』
憂ちゃんは答えなかった。
それから一言二言フォローの付言をした私は、最後に「東京で待ってる」とだけ言ってすぐ電話を切る事となる。
「なかなかな物言いだったね」
係長は私のコーヒーカップを差し出し、眉を八の字に曲げ、笑いながらそう言った。
それを受け取った私はすっかり温くなったその中身を一気に飲み干し、空になった係長のカップと一緒に給湯室へと運び、さっさと洗って帰宅の途に着いた。
何をやっているんだろうね……。私は……。
人様の生活に口を出せる立場かっての……。自分の仕事がキツくなるのが嫌なだけじゃないか……。
……嫌な奴になったもんだ。
―――が、世の中は本当に物事がどう好転するか分からない。
それは翌日、私が予想通りに美味しくなかった酒で二日酔いに苛まれつつ、ふらつく足でオフィスに出勤してきてから本当にすぐの事だった。
「秋山、居るか?」
席に着いたばかりの私に向かい、あの慇懃ヤクザな部長が招集をかけてきたのだ。
「関西支社の平沢、今朝一番で上司に異動を受けると言ったそうだ」
「え、ええっ?!」
さすがに目玉が飛び出るかと思った。二日酔いなんて何処吹く風、頭の中をクエッションマークの大洪水が凌辱しだした。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「は、はい……」
だが、昨日の今日だぞ? いくらなんでも状況が飲み込めないんだが……。
「ま、そういうわけだ。六月前には秋山のチームで仕事を始められるように調整しておいてくれ。
引っ越しの手続きとかその他諸々で分からない事があれば全部俺に聞け。迅速に対処してやる」
「よかったね秋山さん! これで何とかなるかもよ!」
「は、はい!」
「じゃ、仕事に戻ろう。秋山、M物産からファックスが来るから、お前の班の人間に俺の所まで持ってくるよう指示しといてくれ。
専務室で会社黎明期の武勇伝を聞かんといかん」
「分かりました。では松山に」
「ん」
ちなみに、松山とは鰌掬い先輩の事である。
三十代前半にして禿が目立ってきていたのだが、ある日突然スキンヘッドにしてきて出勤し、オフィス中の爆笑を攫ったのは記憶に新しい。
本人曰く、バリカンは正義なのだとか……。
ま、それは置いておいて、こんな流れで憂ちゃんの転勤話は終結した訳だ。
五月末からは東京本社の私の班で仕事をする事となる。
そして今日はそれに備え、住居の確保と各種手続きを兼ねた東京観光を、交通費に限り会社の金でしようという事になっていたのだ。
さすがは福利厚生がトップクラスの我が社。どんなに不景気でも本社の正社員だけは手厚い施しが受けられる。厚待遇バンザイ、だな。
「じゃ、少し早いけど……憂ちゃんの栄転を祝って、乾杯!」
『乾杯!』
四人でグラスを合わせて各自が飲み物を口に含み、コースターに置いた所で小さな拍手が起きた。それに軽く頭を下げる憂ちゃん。カウンターの向こうにはお馴染みのマスター&律のコンビだ。
「ウェルカムトゥーザトーキョーシティー!」
「律さん。それ澪さんにも言われました」
「げっ! 真似すんなよ澪!」
「後出しはお前の方だろうが!」
「澪ちゃんもウチのハニーも相変わらずだねぇ~。楽しく飲もうよ楽しく」
「あら嬉しい♪ ハニーだなんて照れるわん♪」
そう言い、やたらゴツ目のマスターの腕におどけて掴まる律。怨めしい……。何もかもが怨めしい……。
「ま、ゆっくり楽しんで行ってよ憂ちゃん。ちょっ~と忙しいからあんまり相手出来ないかも知れないけどさ」
そう言うと律は早速、忍さんが持ってきた団体客の注文票を見てマスターと一緒にドリンクを作り始めた。さすがは元走り気味のドラマー。手が動く動く。
「律さん……綺麗になりましたねー」
「そんな事本人に言うなよ? 絶対調子に乗るからな」
「あ、あはは……」
まあ確かに綺麗になったのは認めてやらんでも無いがな、と付け加えておく。
「それよりすごい色だな? そのカクテル」
「はい。真っ赤で綺麗です」
「まあ名前もすごいけどな」
「ブラッディ・マリーですもんね。何でそんな名前にしたんですかね?」
「おっ、そう言うことなら専門家が居るぞ」
「専門家?」
私は頷いて専門家にカウントダウン。
「マスター、このカクテルの名前の由来まで三、二、一、キュー!」
「ブラッディ・マリー。十六世紀のイギリス・チューダー王朝時代の女王メアリー一世が三百人以上にのぼるプロステスタントを処刑したことから名前が付けられた。
ウォッカベースだが、ジンに変えると『ブラッディ・サム』テキーラに変えると『ストローハット』アルコール抜きでレモンを加えると『バージンマリー』になる」
おお~! と上がる二人分の黄色い歓声。
「じゃあこっちのお酒の名前まで三、二、一、キュー!」
「月見灘。福岡の酒造会社『美咲酒造』が八十六年に増設した工場で初めて米焼酎を作った際、それがあまりに美味しくて社長が月見で一杯いった事から名前が付けられた。
灘というのは、会社の近くにある玄界灘から取ったとされる。とある品評会で満点を獲得、金賞を受賞。その名を一躍全国に轟かせるが、
製造量が少ない為プレミアがつきやすく、飲み放題のメニューに入っているような事はまず無い。
それを赤字覚悟で頑張っている店、歌舞伎町は歩靄ビル三階、エレベーター降りてすぐの『RISE』をこれからもよろしく!!」
おお~!! と上がる店中の人間からの歓声。この店は本当に愛されている。
マスターの人柄と、楽しい店員。それに最近では週末限定で店に出るママが目的の客も居るそうだ。
私も通い始めてから五カ月で十五回くらい来ているので、当然の如くリピーター扱いされている。こんなにハマった店は、今まで無い。
「澪さんに東京に来て欲しいって言われた後、二時間くらいお風呂に入って、それからお姉ちゃんに話したんです」
家のソファーで昼間買ったばかりのスパビネのブルーレイライブDVDを見つつ、憂ちゃんはそう言って少し笑った。
珍しく日付が変わる前に店を出たせいであまり酔えなかった私達は、家に帰り着くなりキリッと冷えた日本酒で二度目の乾杯をする事となる。
それから既に二時間半程が経っており、じっくり酔いが回って「今日はゆっくり眠れそうだ」なんて思っていた時、
憂ちゃんは唐突に転勤を受諾した理由を滾々と語り始めたのだった。
「そうか」
四十二インチモニターの中ではアンコール一曲目の『月光』をボーカルのサエが歌い上げている所だ。
作詞もしているという彼女。私と感性が似ていると梓が言っていたが、それがよく分かる詩だ。
「唯にはなんて言ったんだ?」
憂ちゃんははにかんで言う。
「そのままです。東京に行く事になるかもしれない、って」
「そしたら?」
「……ゴネました」
まあ、だろうな。
「何でいきなり!? 何で憂が!? ねえねえ!!? ……って」
でも、と憂ちゃん。
「それで澪さんの言ってる事が分かったんです。お姉ちゃんとずっと一緒にいたら、私もお姉ちゃんもきっとダメになるんだな……って。
東京行きをすっごく嫌がってくれるお姉ちゃんを見るまではすごく嬉しかったんですけど、私を本社に呼びたいって言ってるのが澪さんだって言ったら、
お姉ちゃんそこで澪さんに電話掛けだしたんです」
……ん?
「唯から着信なんて無かったぞ?」
「止めましたから。全力で」
そしたら……と、憂ちゃんは伏し目がちに続ける。
「お姉ちゃんが大声で泣き出したんです。澪ちゃんと絶交する、澪ちゃんなんて大嫌い、もう知らない……って」
胸にくる言葉だ。突き刺さる。だが、憂ちゃんが口にした次の言葉は、もっともっと胸を刺した。
「私……生まれて初めてお姉ちゃんを叩きました」
「ええっ?!」
憂ちゃんが? それも……唯を?
「私のせいで澪さんを嫌いになるなんて意味分かんない。澪さんはお姉ちゃんの友達じゃないの? そんな簡単に嫌いになれるの?
私の事を考えて転勤の話をくれた澪さんを嫌いになるんだったら私お姉ちゃんを嫌いになるからね? 私こそもうお姉ちゃんの事なんか知らないよ、って」
「そ、そんな事言ったのか?」
はい、それに……と憂ちゃん。
「ここだけの話ですよ? 正直……お義兄さんと上手くやって行く自信も無かったんです」
「唯の旦那さんか?」
「はい。あの人、正直私を邪魔者みたいな目で見てましたから」
「ええっ?」
「いや、でもそうでしょう? 澪先輩に婚約者が居たとして、結婚してその人の弟と三人で同居するなんて……考えられます?」
「それはそうだろうけど……、邪魔者……って」
考えすぎかもしれませんけどね、と憂ちゃん。
「でも、ずっとその事でもやもやしてたんです。お姉ちゃんの事は好きだけど、あの人の事は好きになれそうにないって思ってました」
そして、と言葉は続く。
「あんな人を好きになったお姉ちゃんを……嫌いになりかけてました」
これは私の中で人生ベストスリーに入る衝撃だった。あの憂ちゃんがそんな事を言うなんて、その男とよっぽど馬が合わなかったんだろう。
唯はこの娘にとって全てだと言ってもいい程の逸話が沢山あるのに、その唯を叩いただなんてな。梓が聞いたらなんて言うだろう。
「だから揺さぶってみたんです。ひどい事言って、ほっぺ叩いて、私が嫌いになるって言って。それでお姉ちゃんが何て言うのか聞いてみたかったんです」
随分と思い切った事をしたものだ。
「で、唯はなんて言ったんだ」
「分かりません」
はあ?
「何て言ってるかも分からない程泣き狂ってました。まあかろうじて聞き取れたのが「じょめんなじゃい」でしたね」
憂ちゃんは思い出すのもおかしいらしく、ぷるぷる震えながら続ける。
「で、その姿を見て心が固まりました。一回離れてみないとお姉ちゃんは絶対に理解してくれない。だったら私から離れなきゃいけない。
「それに、離れている間はお姉ちゃんの事を嫌いにならなくて済みそうですし」
だから、と憂ちゃん。
「実は今日もケンカしたまま家を飛び出して来たんです。もうずっと口を聞いてませんし、お姉ちゃんが納得するまで私が謝るつもりもありません」
そこまで言って憂ちゃんはお猪口に入った日本酒をくいっと飲み干し、息を一つ吐いた後、
「私はこの転勤を機に、姉離れをしたいと思います!」
そう高らかに宣言した。その随分と年齢不相応な宣言に私は笑顔で首肯し、そのままの勢いで憂ちゃんに本日三度目の乾杯の音頭を取らせる。
私の家で梓以外の声が響くなんて一体いつ振りだろう?
次は是非、あのアホ猫も交えて三人で乾杯をしたいものだな。明日は憂ちゃんが帰る前に一緒に合羽橋にでも行って、新しい徳利を物色するとしよう。
色はレモンイエローと藍があるから、次は蓬あたりが欲しいな。
そんな事を考えながら、私はスパビネライブの最後の曲が終わったのを確認し、どうせ元気が無いであろう唯の為にブルーレイのディスクをパッケージに直し、
憂ちゃんに持って帰って二人で見るよう言いくるめ、鞄に押し込ませたのであった。
このDVDいいぞ唯。見て元気出してくれよな。
……まあ早くも短い後日談になるのではあるが、憂ちゃんが東京から帰った日、唯は玄関で憂ちゃんを出迎えて「嫌いにならないで……!」と涙ながらに懇願したらしい。
それから演技でふてくされ気味な顔をした憂ちゃんの話をちゃんと聞いた唯は暫く離れてお互いが成長する事を何処かの神に誓い、またしても子供のように号泣したという。
それにつられて憂ちゃんも泣いてしまったというから、結局この二人は初めからケンカなんて出来ないように出来ているんだな……と、
私を色んな意味で呆れさせたのだった。
尚、余談の余談ではあるのだが、早朝出勤に備えるべく早寝をしていた私が唯から電話で起こされ、
「憂の事をどうぞよろしく!」という旨の懇願を三時間延々と受けさせられたのは、また別の話である。ああ……眠い。
一番始めはあいつとの出会い。二人で色々やったもんだ。中三の時の猛勉強の末、私達は同じ高校へと無事進学を果たす。
その高校で私達はバンドを組んだ。最初は四人、翌年後輩を加えて五人に。
六月は雨に憂い、七月は試験に憂い、八月は暑さに憂い、九月は残暑にも憂い、それでも十分楽しかった。
二十代までまだ遠く、三十日間は長く感じ、ぼんやりしては四十代の先生に怒られ、五十円で段が増えるアイスを食べながら帰った日々。
六十歳になって学校を去っていく事務員を見て人生を考え、偏差値七十の大学を志望校に選定。
八十点台後半のテスト結果に頭を抱え、予備校の九十分授業を必死でこなし、無事志望校に合格した私の事を、仲間達は百ワットの笑顔で祝福してくれた。
その仲間との卒業ライブに集まってくれた人間の数は何と二百。小さなライブハウスがぎゅうぎゅうになった光景は、今思い出しても感涙物だ。
その皆と泣く泣く離れて入った東京の大学。在学中に住む事となったアパートから大学までの距離は約三百メートルだったな。
色々と苦労したが、一番大変だったのはやはり卒論だ。四百字詰めの原稿用紙が悪魔に見えた。
五百倍の難関を勝ち抜いて奇跡的に今の会社へ就職。人に恵まれた環境が嬉しかったな。
いつも六百円のコンビニ弁当が昼食だったが、これではいけないと手作り弁当へシフト。
食材を買いに行ったスーパーで時給七百円台のバイトをしていた地元の後輩と再会。抱擁。
その夜、酒を酌み交わしながら後輩は数日前に八百人の観客の前でライブをした事を告白。こちらまで胸が震えた。
九百円のパック酒はすぐに空となり、千ミリリットル入りのミネラルウォーターで酔いを醒ました。
二千円札で全ての給料が出たという後輩の話に腹を抱えて笑い、その時見ていたアニメに出てきた三千世界という技を使うキャラに惚れたりもした。
四千倍の馬券を当てた先輩に昼間から超高級焼き肉を奢ってもらい、「お土産に」と持たされた五千円の高級焼き肉弁当を後輩にあげ、無意味に泣かせたりもした。
六千、七千人が住むと言われるアパート群の一室。そこで八千代のような時を共にし、未だに九千円の借金を返さないどうしようもない後輩。
そいつが今日、聖地で一万人の前に立つ。
私は、心の底から嬉しかった。
「九段下の~ 駅を降りて~ さぁ~かぁ~みぃち~を~♪」
「よく知ってるな。そんな古い歌」
「えへへっ、この前ラジオで流れてたんだ!」
「どうでもいいけど、コブシをきかせる曲じゃないからな?」
「えっ!? そ……そうなの?」
「どこをどう聞いたらサンプラザ中野の声が演歌に聞こえるんだよ……。それにその歌、結構切ないんだぞ?」
「そうなの?」
ああ、とブラックの缶コーヒーを啜って私は続ける。
「文通相手に会いたくて、貯金箱壊して武道館ライブのチケットを贈るんだけど、結局その相手は来なくて泣きながら帰るって歌なんだ」
「ほえ~」
「まあそもそもはサンプラザ中野が「俺達が武道館埋められる訳無い」って思って、
『空席があるのはペンフレンドに来てもらえなかった男の子が居るからだ』っていう言い訳をする為に作った曲なんだけどな」
「澪ちゃん……博識~……」
「ま、たまたまネットで見つけたんだよ。高校時代にな」
「高校時代か~……。懐かしいね」
私と彼女の髪を揺らす風を見送り、私は「ああ」とだけ答え缶コーヒーの中身を空にした。
「ムギは?」
「午後の便。どうしても片付けなきゃいけない仕事があるんだって。憂も同じ便で来るよ」
他のみんなは? と逆質が飛んで来る。彼女の手の中のミルクコーヒーも空のようだ・
「和はもうすぐかな。途中で律と合流して来るんだって」
「りっちゃん本当に久しぶりだな~。憂がすっごく綺麗になってたって言ってたけど、本当?」
そこで私は背後からこっそりと忍び寄る二つの影の存在に気付いた。
チラ、と振り返ってみるとその片割れは立てた人差し指を鼻に当て、「しーっ」というジェスチャーを送ってくる。あの頃のような悪い顔をしていた。
「それは自分で見てみなよ。ギー太を可愛いって言うお前のセンスだからな。今の律を見たらモナリザみたく感じるかもしれないぞ」
「えっと……今のは私、バカにされたって事でいいのかな?」
「おっ、賢くなったな」
「みーおちゃ……!」
途中でガバッ!と手で口を塞がれ、言葉を遮られた彼女。
そして彼女の口を塞いだ大悪党の如き笑顔を浮かべるそいつは言葉を放つ。
「綺麗になっただと~? 憂ちゃんも失礼な奴だな。お代マケてやったのに随分な言い口だなおい」
そいつは徐に彼女の両肩を掴み、身体をくるっと百八十度回転させ、両の頬を押さえて言う。
「美少女戦士りっちゃんは高校時代からずっと美人なのだ! そうだろ唯~!」
「うわぁ~お! りっちゅわぁ~ん!」
久し振り~!! と抱き合う高校時代の悪友同士の姿が千鳥ヶ淵の水面に映える。
そこに浮かぶのは六年振りの再会と、昼間の月。この日を祝う為に雲一つなく晴れてくれた澄んだ空の色に感謝し、振り返ればそこには光る玉ねぎが見える。
今日は五月の最終土曜日。スパビネ史上最大のツアーが幕を下ろす日。
そして、梓が武道館に立つ記念の日だ。
『それでは開場いたしま~す! チケットを手にお持ちの上、ゆっくりとお進みくださ~い!』
熱狂の渦を巻く開場待ちの客に向け拡声器で注意を促すスーツの中年男性。
が、そんな物がツアーファイナルを祝いに来てテンションがマックスまで上がっている客達の耳に入っていないのは一目瞭然だ。
皆一様に思い切りはしゃぎながらゲートを潜って行く。
ま、私達はそれを横目に人が殆ど並んでいない特別ゲートから入場させてもらっているのだが。
「いらっしゃいませ」
「えっと、中野梓から招待された秋山という者なのですが」
「はい、秋山様でございますね。少々お待ち下さいませ」
赤ペンでA4紙に書かれた文字を探る赤いジャケット姿のお姉さん。
まあバイトなのだろうが、そのハキハキとした応対には好感が持てる。こういう所まで教育が行き届いているのはさすがだな。娯楽興行は客が命、か。
「大変お待たせ致しました。確認が取れましたので、まずはこちらをお渡ししておきます」
手渡されたのはもぎり済のチケット六枚だ。再入場の際に必要なのだとか。記念にもなるし丁度いい。
「中野から伝言を言付かっておりまして、「ツアーグッズは全員の分を確保してもらってるので、買わなくて大丈夫です。
ライブが終わったら楽屋へ招待しますので、是非遊びに来て下さい」との事です」
「わっ! あずにゃんナイス! メンバーに握手してもらえるかなぁ~!」
夢見心地の唯に軽く微笑み、ジャケットのお姉さんは続ける。
「終演後はロビーに緑のジャケットを着たスタッフが待機しておりますので、そのスタッフにチケットをお見せ下さい。そのまま楽屋へご案内いたします」
「ご丁寧にどうもありがとうございます」
「本日の公演、どうぞ最後までお楽しみ下さいませ。では、Aゲートからアリーナへお進みくださいませ」
そう言って深々と頭を下げるお姉さんに私達は軽く頭を下げて礼を述べ、早速Aゲートとやらに向かった。
深夜のコンビニの店員も、あのくらいは礼儀正しくなって欲しいものである。
「おおっ」
全員にチケットの半券を渡そうとした時、私はそこに印刷された文字を見て少しばかり驚いた。何かの間違いじゃないよな?
「唯、卒倒するなよ?」
「え? なんで?」
その間抜け面が一体どう変わるやら。
「はいこれ」
チケットを渡して約十秒後。
「み゛ゃあああああああああああああああ!!!!」
通路に奇声と聞き違う程の叫びが轟いた。当然注目の的となった私達は慌てて唯の口を塞ぐ。
「お前は大声大会にでも出場しに来たのか!」
「その体からどうやったらそんな声が出るのよもう……」
「ん゛~!! ん゛~!!」
「唯ちゃん、チケットがどうかしたの?」
律の手で塞がれた口を必死に動かし、何かを訴える唯。そして律の手を漸く外して一言。
「わ、私達の席アリーナ二列だよ!」
ええっ!? と声を上げ、私の手からチケットを一番早く奪ったのは、意外にも和だった。あまり興味の無さそうな顔をしていた気がするのだが……。
「すごいわ! プラチナチケットよプラチナチケット! オークションに出回ったりしたら四万越えは堅いような席なのに……! ああ、梓ちゃんに感謝しなきゃ!!」
……和さん。そこまで喜んでくれるとチケットを用意した梓も冥利に尽きるとは思うのですが……。
「……あ、あれ?」
……今度はあなたに通路中の視線が集まってますよ?
「普通ね、武道館の招待席って言うのは、一階スタンドの中央……あそこね。あそこのはずなんだけど、梓ちゃんどんな裏技使ったのかしら?」
ん?
「あそこ一階スタンドなのか? 二階じゃ無くて?」
「そうよ。アリーナ、一階、二階って言うの。一階二階を合わせてスタンドって言う場合が多いけどね」
へぇ~。
「詳しいんだな。来た事あるのか?」
「無いわ」
無いのかよ……。
「無いけど。色んなライブのレポとか書いてる人のブログに「いつもあそこに芸能人が集まってる~」って書いてたから。
ライブのDVDとか見ても確かにあそこら辺は埋まって無い事が多いしね」
「なるほど。招待客専用のブロックか」
「そうね。ただ、あのブロックはそう言う業界関係者が多いからライブが始まっても立たなかったり、手拍子をしなかったりする人が多いらしいの。
見やすいと言えば見やすいんだろうけど、はしゃげないもんね」
よく知ってるな、本当に。和のこういう豆知識の量は本当に凄い。是非タバコを辞めて脳細胞の死滅を避けて欲しいものだ。
「ねえ和ちゃん、澪ちゃん。みんなにも話したんだけどさ、ちょっと面白い事しない?」
突然唯が悪~い顔をして話に割り込んで来た。それはそれはもう、ブラッディ・マリーのモデルとなった女王様の様に。
「またよからぬ事を……」
「もうりっちゃんとムギちゃんと憂の約束は取り付けてあるよ!」
唯の隣からピョコっと顔を覗かせる憂ちゃん。
「やりましょう! これは面白いですよ!」
こんな顔の憂ちゃんは見た事が無い。そんなに面白い作戦なのだろうか? どうも悪ノリの範疇を出ていない気がするのだが……。
「ん……まあ憂ちゃんが言うのなら……」
首肯するしかあるまい。
「よし、交渉成立だね!」
意気揚々とその作戦を私と和に語る唯。私の予想はやはり正しかったようで、どうも憂ちゃんはこのライブ前の高揚する雰囲気に負けてあくどい悪ノリをしてしまったようだ。
普段の憂ちゃんなら間違いなく制止する側に回るであろうこの作戦。私と和は憂ちゃんの笑顔に免じ、溜息を吐きながらその作戦に参加する事をしぶしぶ了承したのだった。
……というかさせられた。
異様に高まる会場のボルテージを煽るように照明が落ち、四つ打ちのオープニングSEが鳴り響き出したのは、それからおよそ二分後の事である。
テクノ調のSEが総立ちとなった客席を最高潮までを煽り、それが遮幕の向こうから鳴ったドラムのスネア一発で止んだ瞬間、
ここはもう三百六十度何処を見ても外的要因の入る込む余地のない、鍵のかかった箱となった。
ライドシンバル四発のカウントと共にエフェクターで歪ませたエレキギターのカッティングが大音量で掻き鳴らされ、四拍続いた所でもう一つギターが重なり、
更に四拍ずつでベースのチョッパー、シンセサイザーの劈く様な尖った音が続く。
そしてドラムがもう一度カウントを取ってタムを挟み、クラッシュシンバルを打ち鳴らした瞬間にステージと客席を隔てていた巨大な遮幕が落ち、六人のガールズバンドがその姿を現した。
LRの巨大スピーカーががなり立てる巨大な音の塊。それと真正面からぶつかり合うように半円形を模した百八十度の客席からは聞いてて耳が痛くなる様な大歓声が上がる。
この瞬間、スパビネこと『SPARKLING VINEGAR』のツアーファイナル、満員にして初の武道館公演が幕を開けたのだった。
私が真っ先に目を向けた先は、この会場の名前を叫ぶボーカルでも、笑って四つ打ちのドラムを鳴らし続けるドラムでも、
今にも泣き出しそうな顔で絃を弾き続けるベースでも、もう既に泣いているキーボードでも、その隣でタンバリンを鳴らしているパーカッションでもなかった。
その姿を確認すると安心する。暫く会えなかったが元気そうで何よりだ、と老婆心が疼いてしまう。
そして、シルバーのストラップを繋いだテレキャスターでオクターブ鳴らしているその顔を見て、私はもう涙を押さえる事ができなかった。
ちゃんと見ててあげないといけないのは重々承知だったし、その為に九段下に一番乗りして武道館を眺め、涙を涸らそうと一人さきがけの涙も流したというのに。
一緒にバンドをやっていたから分かる。ステージの上からはこちらが見えない。眩いフラッシュが焚かれているからだ。
しかも今回はあんな小さなライブハウスでは無い。フラッシュだって何十倍も強いだろう。
だからその分、私はこの視力の限り彼女を見ようと思う。
煌びやかな照明、華やかな舞台セット、一緒に旅をした仲間。
それら全てに包まれながら満面の笑みでネックを客席に向け、ライフルの様にバン!と撃ってみせる彼女を、私は見ようと思う。
……本当におめでとう、梓。
『それではサポートメンバーの紹介をしたいと思います!』
ライブ開始から四曲を歌い終えたボーカルがバンドメンバーの自己紹介の後に言い出したその一言を聞き、唯は全員に目配せをした。
先程言っていた悪巧みが今まさに、ステージ上の後輩を襲おうとしている。
……すまない梓、私には止める事が出来なかった。
文句は後で唯が責任もって受け付けるからな。
『私達をインディーズの頃から支えてくれていて、あの当時はライブサポート、レコーディングまで一緒にやってくれていました。
そして今回、念願かなって再びスパビネのサポートメンバーに復帰! このツアーを一緒に盛り上げてくれています! オンギター、AZU!!』
一万人分の歓声が頭を下げる梓に降り注ぎ、ボーカルが何か梓に言いかけた瞬間を狙って、唯は「せ~の!」と声を上げる。
私達が仕掛ける、悶絶級の悪巧み。
「あっずにゃああああああああああああああん!!!!」
その悪意に塗れた六人分の大声はアリーナ二列目という好条件も相まって、見事梓の側へと歩を進めるボーカルの耳に留まったのである。
『あ、あずにゃん!?』
作戦は大成功。こちらをキツネに抓まれたような顔で見るボーカル。そしてその顔が悪ノリに悪乗りするモードへ切り替わったのは、彼女の熱狂的なファンである唯が意図的に狙った展開だったのだ。
『よかったじゃんAZU~! もうファンが付いたじゃんか~! あずにゃんだってよ?』
爆笑に包まれる武道館とは間逆に、真っ青な顔にって首をブンブン振って否定する梓の姿がステージ左右の大型ビジョンに映し出される。うん、可愛いぞ梓。
『じゃあみんなで言ってみようか? 私が「オンギター!」って言ったら彼女の名前を叫んで下さい! 行くよ! オンギターー!!』
「あっずにゃあああああああああああああああああん!!!!!!」
一万人の第九ならぬ一万人の大苦に屈し、その場にへたり込んでがっくしと肩を落とすアホ猫ギタリスト。
いいぞ梓、ウケてるウケてる。めちゃくちゃ面白い。腹筋が攣りそうだ。
『じゃあもうメンバー間でもあずにゃんで決定ね! これからCDのクレジットとかもあずにゃんにしようよ?』
またしても首をブンブンと振りまわし、「それだけは! それだけはっ!」と懇願する梓。いいぞ、あの和が酸欠気味だ。
『あのね、話遮って悪いんだけど、私ちょっとあずにゃんに文句があるんだ~』
そう言ってMC用のコードレスマイクを持ち、ベースがボーカルと梓に歩み寄った。
『ちょっとカメラさん、コレ映して下さいコレ』
ベースがそう言った直後、大型ビジョンに映し出されたのは何と中野梓後援会がプレゼントしたSUN MY ARTのシルバーストラップだった。
『何このカッコいいストラップ?』
そのシュールな言い方に観客の笑いが響く。
『何処に売ってたの? 東急ハンズ? ドンキホーテ?』
『そんな所に売ってないっしょ?』
ボーカルがフォローするかと思いきや
『ダイソーだよねぇ、あずにゃん?』
ダメだこの人達、早く何とかしないと……的な顔をした梓だったが、相手は百戦錬磨の強豪。マイクを譲る気すら垣間見えかった。
『いや、どこで買ってても別にいいんだけど、ちょっとかっこよすぎだからさ』
『あんたツアー中それしか言って無いよね?』
『うん、私あんまりかっこいいの持ってないからさ。どうやってこのストラップを……』
『手に入れたか?』
『いや盗もうかと』
『盗んだらアカン!』
興奮すると地の関西弁が出てしまうというボーカルの自己紹介だったが、あれは嘘ではなかったようだ。
『てかさ、このガラス細工の青い猫がカッコいいよね~。べっぴんさんべっぴんさん一匹飛ばしてべ』
『ベタやなおい! この三匹目の何が気にくわんねん?』
『ん~……学歴?』
『学校行ってんの?』
『一橋』
『高っ! 偏差値高っ! せめて日体大ぐらいにしときや!』
『何で猫がエッサッサするの? 猫だよ? そもそも学校行く訳無いじゃん』
『あんたが言い出したんやんか! 結局何が言いたいねん?』
『あずにゃん今日も可愛いねぇ~』
『もうええわ……』
二人は取れるだけの爆笑を取って凹んだままの梓を残し、さっさとパーカッションのメンバー紹介を始めてしまった。和が狂ったように笑っている姿を見て唯が恐怖を覚えたというのは、また別の話である。
大興奮&大感動のステージが幕を下ろし、予定に無かったダブルアンコール迄を終えたメンバーがステージを去った会場内。
私達は六人横並びの席の上で、誰ひとり残らず涙を流していた。
あれは本当に卑怯だ。あんなに笑いを振り撒きながら喋って歌って演奏し終えたメンバー達が、最後は全員咽び泣きながらデビュー曲を演奏したのだから。
これで泣かない人間は余程悟りを開いた人間なのだろう。
だが、いつまでもここにいる訳にはいかない。場内清掃が始まるし、客の大半は帰っているし、それに楽屋であいつが待っている。
「行こうか」
そう言って一番最初に立ち上がったのはムギ。そして律、和、私、憂ちゃんと続き、最後に和が支えて唯が立ち上がった。
何て声を掛けようか……。そんな事を各々が考えていたに違いない。
「では、こちらでお待ち下さい」
そう言って笑顔で去っていく緑ジャケットのスタッフ。
私達より先にそのだだっ広いスタッフルームにはパッと見で五十人程の先客が列を作って待っていた。中にはちらほらと芸能人らしき顔も見える。
やはり武道館でライブをやるという事はこういう事なんだな、と改めて実感させられた。
冗談でもこんな場所を目指していただなんて、今考えれば少し小っ恥ずかしい。
「澪ちゃん、サイン貰えるかな?! 握手してもらえるかな?!」
さっきまで泣いていたはずの唯がもうキャピキャピと笑っている。切り替えの早さは相変わらずだ。
「さあな。梓か本人に頼んでみろよ」
「うう~……緊張するよぉ~……」
「ま、あずにゃんなんてニックネームを考えた張本人なんだからさ、そこを押せよ」
ハッとして、唯。
「そうだね! 私があずにゃんの名付け親だもんね!」
よ~し! と唯が意気込んで拳を握りしめた瞬間、スタッフルームには大きな拍手と歓声が巻き起こった。
何事かと二人して目をやれば、そこには深々と頭を下げて拍手に応える本日の主役四名と、その後ろで招待客と同様に拍手を送るサポートミュージシャン二名が居た。
皆一様にいい顔をしている。旅の終わりの気分はどうやら最高のようだ。
その内の一人が私達に気付き、仲が良いと言っていたベースに促されてこちらに近付いて来る。
「あっずにゃああああん!」
そう叫んで唯が梓に飛びつこうとした瞬間だった。
ガチッと唯の腕を取り、それを遮る人物が二名。
「唯ちゃん、違うでしょ?」
ムギと
「最初に飛びつくのはお前じゃ無いよな?」
律だ。
そして二人は私に笑顔を向け、同時に頷く。おいおい……と思うが、これ以上ありがたい思いやりは無い。私は二人に心から感謝しつつ、小さなアホ猫に歩み寄った。
……約三ヶ月ぶりに間近で見る顔、ちょっと痩せたか?
「お疲れ様」
私を見つめる二つの瞳がその言葉を受け止める。
「頑張ったな」
無言で頷くアホ猫。一文字に結んだ口がプルプルと震えだす。
「よくやったな」
……いい加減私も限界だ。
「……カッコよかったよ」
そう言った瞬間、梓は私の胸に飛び込んで大きな大きな嗚咽を漏らしだした。
私のシャツを涙で濡らしながら、アホ猫の腕はキツく私の体を締め上げる。
「痛いだろ……バカ」
そんな事を言いながら、私もまた梓の体を抱き寄せる。こんな小さな体で……あんな大きなステージに立って……。
そう考えると、いい加減涸れ果てていたと思っていた粒が梓の肩を濡らした。きっと生涯に於いてこの日の出涙量を超える日はやってこないだろう。
……だがそれでいい。可愛い後輩の為に泣けて、こんなに楽しい時間を仲間と共有できたんだ。これ以上を望もうものなら罰が当たる。
今日の酒は、とびきり美味しそうだ。
「だから何で和先輩の車を見失うんですか!」
「うるさい! 私は普通に走ってるだけだ! 和の運転が速すぎるんだよ!」
「急がないと先輩達の事だから私達を見捨てて乾杯しちゃいます!」
「う゛っ……、否定できない所が悲しい……」
時はさっさと流れ、もう年末。
今日は夜からSUN MY ART勢ぞろいで大晦日の大宴会 in 平沢家が行われるはずなのだが、
もう太陽が沈みかけているというのに私達を乗せた激安レンタカーはまだ高速も降りていなかった。
「だいたいお前が大晦日の朝まで仕事があるのがいけないんだ! 本当なら私は憂ちゃんと三十日に帰ってこれたんだぞ!」
「そんなこと言って私が仕事してる間に憂と二人でフグのフルコース食べたんでしょ!」
「お前だってライブの打ち上げでピンドン空けまくったらしいじゃないか! アルバム完成した時にはクリュグまで飲みやがって!」
「売れっ子ミュージシャンなんだから当然です! 役得ですよ役得!」
「だったら前に貸した九千円さっさと返せ!」
「お、覚えてたんですか!? やられた! やられましたっ!」
車が高速を降りている内にこの騒がしいにも程がある乗員二名の近況でも報告しておこうか。
私は相変わらずK社の東京本社の営業課で班のリーダーをしている。
これと言った大きな出来事は無かったが、気の合う楽しい仲間達と共に仕事をし、週末には係長と憂ちゃんの三人でRISEへ入り浸り、
律やマスターを交えて楽しく飲んだりしている。
あの御神籤の通り色恋沙汰は全くなかったが、今はこれが幸せ。とても楽しい毎日を送っている。
で、隣のアホ猫だが、ミュージシャンとしての実績は今年一年で積みに積まれたと言っていい。
五月の武道館ライブ後、夏までは様々なアーティストのレコーディング現場で大先輩のアシスタントをし、演奏に機材いじりにと多忙な日々を送る。
その後各地の夏フェスに参加したスパビネのサポートを見事に務め上げ、秋から行われたスパビネ五回目の全国ツアーにも参加。再び武道館に立つ。
ちなみに私達が見に行った五月のライブはブルーレイとDVDになって全国発売され、
スパビネファンからは「ギターのあずにゃん」というニックネームで名が通るようになったらしい。
街で二回程声を掛けられたのだとか。
「ところで澪先輩」
「ん、何だ?」
「初参りはもちろん行きますよね? あの神社に」
「ああ? 行くのか?」
「当然です! 負けでばっかりでいられますか!」
まあ恋愛に於いての良し悪しを勝ち負けに換算するのなら、今年は間違いなく二人とも負けだったな。御神籤に負けたと言っても過言ではない。
「逆に引かないで真っ白なままの一年にするってのもいいんじゃないか?」
すかさず「ダメです!」と梓。
「それは勝負を前にして逃げたも同然の脆弱な思想です!
意気地無し! 落ちこぼれ! すかぽんたんなバカ野郎の発想です!澪先輩はそんな人じゃないと信じています!」
「……」
「な、何ですかその目は?」
「いや、よっぽど恋でもしたいのかと思って」
「に゛ゃっ!!?」
そう言って喚きだした梓は、ひとしきりの冷ややかな目線と罵詈雑言を送った後
「昔の先輩はこんな人じゃありませんでした」
と捨て台詞を吐いた。いつかと同じ展開だと気付き、すかさず私も返す。
「お前だって昔はもっと素直でいい子だったぞ」
梓はムッとした顔でフロントガラス越しの空へと視線を向け直した。その顔を見て、私は言う。
「でも、私は今のお前の方が好きだ」
あの時と同じ反応して、だけどあくまでこちらに視線をやらない相変わらずな態度。そこら辺が、私は好きだ。
「……まあ、私もどちらかと言えば今の澪先輩の方が好きです」
車内に満ちる、えらく既視感のある空気。
私は少し、梓がもし私より先に結婚したら……なんて思ってしまい、一人で勝手に笑い、その私を見て梓もまた少しだけ笑った。
十二月三十一日、レンタカーは夕暮れの高速を降りる。小さな凱旋者二名は愉快に道を走るだけ。
トランクの中の東京バナナが、去年より少し増えていた。
192 : ◆/uf3rSAnrA - 2010/06/06(日) 07:42:33.72 4dQGTL8i0 102/102終わりです! 支援して下さった方も、お付き合い頂いた方も、ご意見を下さった方も本当にありがとうございます!
次があるかわかりませんが、あったら必ず見やすくなるよう努力します! 素人丸出しで申し訳ない!
あ、タイトルはコブクロの楽曲から取りました。いい歌です。
同窓生の歌なのですが、ボッチだった俺には逆に沁みたり……。
ま、そんなこんなで本当にどうもありがとうございました!
変わりゆく日々の中、変わり過ぎるものもあれば、変わらないものもきっとある!
とにかく乙!