――――――――――――――――――――――
這う這うの体で家までたどり着いたときには、既に夜だった。
『天網恢恢疎にして漏らさず』で確認したところ、能力範囲内にいるのは一人。気になるが仕方がない。くたくただ。とにかく、休まなければ。
親からはこの時間までどこにいたのとテンプレートなお叱りを頂戴した。それをごまかし、ベッドにダイブ。
『悪即斬』はどうなっただろうか。『門外不出』は? それもまた気になることであった。
知りたいことはたくさんあるのに、体がそれにおっつかない。休息を欲している。何よりも。まず第一に。
日付が変わるまであと三十分。
吐いた空気は鉛より重たい。
なぜ自分だけが出られたのか――否。出してもらえたのか、考えても考えてもわからない。それは僥倖で願ってもないことであったが、どこか負けたような気もした。お前には用はないと言われたようで。
いや、違うぞ、あたし。蛍光灯の明りをぼんやり眺めながら思う。手をかざしてみたり、なんかもしながら。
腕章「生きてる限りは負けじゃない」
五体は満足。ベッドの感触を十分に味わえる。負けただとか、そんなナーバスになる必要なんてないのだ。
腕章「あ……宿題やってない」
思い出しながらも睡魔には勝てない。入眠。
友人「珍しいね。報道が宿題やってこないなんて」
腕章「昨日は大変だったのよ、いろいろ」
本当にいろいろ。
後輩は死んじゃうし。
屋敷には閉じ込められるし。
あたしは口数も少なめに友人のプリントをひたすらに写す。まったく、持つべきものは友達だ。
しかし、残り六人である。七人から六人。この数字の減少が意味するところは、悪即斬か門外不出、どちらかの死亡に他ならない。
まさに漁夫の利。あたしの人生こんなにツイてていいのかしらん。
腕章「ツイてる、か」
鮮烈な彩人――福留大福――『棚から牡丹餅』。
邂逅は一瞬で最悪なものだった。僅かな時間で読み取れたものは多くはないけれど、ある種の危機感をあたしに抱かせるには十分で。
腕章「無差別は、困る」
『邪気眼』こと銀島路銀もそうだったけど、あまり派手に騒がれると、あたしとしてはやりにくい。自分の能力を過信しやりたい放題やる輩がとっても苦手なのだ。
だってあたしは『天網恢恢疎にして漏らさず』。攻撃力はないに等しい。手のひらで踊らせないと勝機も生まれやしない。
まだ見ぬ二人の能力者もいる。そして片方はこの学校にいる。目下のところ、火急の要件はそちらだろう。どこかでニアミスしている可能性だって大有りなのだ。
その気になれば同類のにおいを嗅ぎ分けることはできる。ただ、それはやはりある種の怪しさを覚えて初めて気づけるもので、手当たり次第にできるタイプのものでもない。
ムムは「安心しなよ」と言っていたけれど、安心できるはずなんてなくて。
考え事をしている間に宿題は写し終わる。友人に礼を言って、チョコレートの一枚でもくれてやると、顔をぱあっと明るくさせて剥きはじめた。甘いものに目がないのだ。
「もしもし」
顔を挙げれば目つきの悪い女がいた。生徒会会計、時任一時。国立理系の彼女が国立文系の我がクラスに来るのは珍しい光景だ。
腕章「なに」
会計「新聞部さんに印刷お願い」
そう言ってペラ紙一枚を差し出す。生徒会便りだった。
腕章「そんなの生徒会のコピー機でやんなさいよ」
この女は苦手だ。口先三寸をのらりくらりとかわしやがるから。
会計「うちの輪転機、調子が悪いのよ」
輪転機ってなんだ、輪転機って。コピー機って言いなさいよ。わざわざ面倒くさい言い方しよってからに。
あたしは生徒会便りに目を通した。最近不自然な交通事故が多発しているため、気を付けて下校しましょうというような趣旨だった。こんなの誰が見るんだか。
腕章「まぁ、いいけど。『天網恢恢疎にして漏らさず』、神様もあたしの善行、見ていらっしゃるかもしれないし。ねぇ?」
含みを持たせた視線を向ける。世の中は持ちつ持たれつ。生徒会とは仲良くしていたほうが、色々特だ。
会計「ありがとう、助かるわ」
腕章「いいってことよ。印刷しといてあげる。昼休みまででいい?」
会計「大丈夫よ。早ければ早いだけいいわ。『時は金なり』。でしょう?」
あたしと喋る時間も惜しいと言外に語る会計は足早に去っていく。あたしは彼女が完全に消えたのを見送ってから、鼻で笑った。
何が『時は金なり』だ。ネットワークが発達した現代社会において、時間の価値なんて相対的に薄れているというのに。
本当に金を生むのは情報だというのに。
あぁ、情報、情報、情報!
世界にはあまりにも情報が溢れすぎてる!
押しとどめることなんてできやしない。情報たちは洪水のように、プライバシーの壁を内から押し続けている。それを法律で縛る人間たちの何という愚かしさよ!
うふふふふふふふ。
くははははははは!
内心の笑いを自重しきれない。友人が気味悪げにこちらを窺っているのを察知し、努めて平静を保つ。
時計を見る。あと数分でホームルームだ。ぎりぎり宿題は間に合ってよかった。
と、クラスの男子が窓際に集まって、「なんだあれ」と騒いでいた。
途端に嫌な予感がする。
急いで能力を起動――周囲の能力者を網羅。
その数、三つ。
三つ――三つ!?
いつの間に、いや、誰が、くそ、思考がまとまらない。一つはもともといる分。もう一つは「なんだあれ」のぶんだとして、さらに一つは誰――いや、襲撃者に備える方が先なの!?
教室を飛び出した。この喧騒の中ならばきっとお咎めなどされるまい。
一階から轟音。
火の手があがる。
爆発が起こったのだということは想像に難くなかった。爆発。殺傷力に過ぎる。そしてあたしのデータベースには存在しない。誰だ。まだ見ぬ能力者がやっと姿を現したのか。
違う、と思考より先に直感がそう告げた。そして、ややあってから、思考が理屈をつけてくれる。
男子たちは「なんだあれ」と言った。「なんだあれ」。おおよそ人間に対しての呼称ではないそれを、なぜ男子たちは使ったのか。
侵入者がおおよそ人間とは思えなかったから?
たとえば。
たとえば、そう。
腕章「物凄いカラフルだった、とか!」
幸運を引き寄せる能力者。
偶然の行動が、結果として最善を招く、だからこその『棚から牡丹餅』。
彩人「やっぱりわたしってツイてる。そう思わない?」
彩人は、今度は全身がオレンジだった。まるでひまわりのようだ。
爆炎の中で笑っている。
頭がおかしい、と素直に思った。
スプリンクラーも作動しない。壊れているのか、運がいいのか。
炎があたしのぼさぼさの髪を一層かき回す。それを押さえつけながら、精一杯に笑ってやった。
腕章「ツイてる? あんたが? 冗談でしょ」
彩人「えー? だってわたし、今日の星座占い、一位だったんだよ?」
甘ったるい声。生ぬるい声。ふわふわと宙に浮いている。
腕章「あんたは今! ここで! あたしに負けるんだから!」
腕章「あたしに会ったのが運の尽きよ!」
彩人「困ったなぁ、もう」
彩人「滑って転んで死んじゃって?」
爆発の現場は一階の理科室。そこで何かが引火したのだ、「運が悪いことに」。誘爆の可能性は高い。そして、それ以上に、もっとよくない何かが起こる可能性だって。
教師「あ、おいお前ら! 危ないからそこを離れるんだ!」
消火器を担いだ先生たちがずんどこずんどこやってくる。彼らには悪いけど、ここを切り抜けるための道具となってもらわないと。
腕章「『天網恢恢疎にして漏らさず』」
能力を起動する。
確かに彩人は運がいいのかもしれない。それが能力であるのかもしれない。相対的に彼女は幸運で、あたしは不幸に見えるだろう。けれど、それは決して、あたしが絶対的に不幸であることを意味しない。
あたしの幸運はこの限定されたフィールド。感知の範囲を学校の敷地内に限定すれば、疲労の蓄積は僅少だし、土地勘もある。なにより、
腕章「あたしの手駒がふたっつも!」
『棚から牡丹餅』以外の能力者。そいつらに片付けてもらおう。
一階は職員室、保健室、事務室、体育館がある。体育館は使用されていない。事務室には事務員。職員室にいる先生たちは、現在、消火活動のためにこちらへ向かっている。それは見たとおり。
消火活動に来たのは全部で三名。職員室に二人いて、何をしているのだろう。電話と……避難誘導の準備、かな?
二階から教室がある。一年生の教室だ。全部で三クラスあって、先生も一人ずつついている。廊下に並びだした。図書館には誰もいない。当然、生徒会室にも。
三階は二年生の教室。こちらも避難が始まっている。四階、あたしたちの教室がある階も同様に。
だめだ、こんなんじゃ足りない。上っ面を舐めるような「情報」じゃだめだ。
もっと、深く、深く。
全てを知らなければ。
どこだ! この騒ぎの中で怪しい動きをしている人間は!
そいつこそが能力者!
「へろー」
そっと指先が頬を撫でた。悪寒が走り、思い切り後ろを振り向く。
ごつん。肘に鈍い感触。
会計「っぐあ」
腕章「え? あ、ごめん」
思わず謝ってしまう。
目つきの悪い女――生徒会会計。
会計「大丈夫。平気ってことよ」
そう言って、あたしの肩をがしっと掴み、
会計「さぁ、一緒に怪物退治と洒落込みましょう?」
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残り六人
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は? と新聞部は言った。とても、とっても辛辣な瞳が私を貫いている。こちらの正気を心底疑っている顔だ。その真剣さに思わず涎が出そうなくらい。
彩人が襲ってくるのは予想外だったけど、そのおかげで能力者が判明したのは僥倖だ。我が校にいたなんてのはさらに予想外。でも、私に有利に運ぶ予想外なら、いくらでも大歓迎。
会計「何がおかしいのかしら。あの彩人は、愛する学び舎を破壊しつくす害虫よ。駆除しなくては」
腕章「は? はぁ?」
会計「えぇそう。あなたにとって私は、私にとってあなたは敵。けれど、『時は金なり』、ここで諍いを起こすのはよくないわ」
腕章「ふざっけないでよ!」
胸ぐらをつかまれる。スカジャンの薬品臭いにおいが鼻を衝いた。
腕章「あんたが能力者だったなんてオドロキ。共闘だって構わない。けどね、あんた、どうやって移動した?」
会計「……」
思わず答えに詰まる。何と答えるのがいいか、わからなくなって。
もちろん答える義理はないし、何より私のクリティカル・ポイントを教えるつもりなどさらさらない。
それよりも――なぜ、この人は知っているのだろう。私が時間を買い取ったことを。
千里眼? 『天網恢恢疎にして漏らさず』?
ふぅん……。
私を掴んでいる手を払って、唇に指を添える。
会計「企業秘密」
腕章「ばっかじゃないの」
酷い言われようだわ。
腕章「でも、いいわ。やってやろうじゃない。共同戦線? 上等よ」
腕章「あたしの脚だけは引っ張んないでよね」
それはこっちのセリフだけれど、ま、許してあげるわ。
彩人「どこ行きましたかー?」
反響する彩人の声。先生たちが向かったはずだけれど、どうなったのかしら。もしや全員死んだ? 有り得る。
とりあえず、まずは距離を取らないと――って!
「どうしたんだろ」
「爆発?」
「誰だよ」
「なんか面白い」
「やめときなって」
友人「あ、報道、どうしたの!? 先生探してたよ!」
会長「お前らなにやっているんだ。これは避難訓練じゃないんだぞ」
腕章「え、あの、いや」
ぞろぞろぞろぞろ。
前方から、階段を下りてくる生徒たちの群れ! 群れ! 群れ!
かき分けて進める密度じゃない――「運が悪い」!
仕方がない。前言撤回には早すぎるけれど、ここを切り抜けるためにはやむなし!
会計「道山さん! 避難経路と被らない場所を教えて! 早く!」
腕章「くっ――反対側! 南階段!」
会計「オーケイ」
『時は金なり』。
私は新聞部の手を取って能力を起動する。
途端、世界の構成要素が一斉に停止。喧噪やしがらみから遠く離れた別世界に、私たちは入り込む。
道山さんは何事かときょろきょろしていたが、そんな時間すら惜しい。手を引っ張って先を促す。
腕章「時間停止? は。埒外ね」
会計「そっちの千里眼も十分埒外だと思うけど」
罵り合うのはやめよう。今は口よりも足を動かすべき。
たどり着いたのは南階段、旧校舎への渡り廊下。旧校舎に一般教室は入ってなくて、図書室と、会議室と、いくらかの部室が見える。当然人の姿も見えない。
逃げるならここだろうか。変な邪魔も入らないし、被害も極小。
新聞部も同じことを思ったのだろう。見合って、頷く。
図書室へと足を踏み入れた。
会計「道山さんもあいつを知っているの?」
腕章「知ってるも何も、あいつのせいで酷い目にあった。後輩も、死んじゃったしね。あんたも?」
会計「えぇ。ドンパチやらかして逃げてきたわ」
なら話は早い。恐らく、私以上に新聞部は敵のことを「知って」いるはず。あちらが不意の一撃を決められる可能性はないと思っていいだろう。
相手はこちらをまるきり勘案していない。それが余裕なのか、それとも生来のものなのかは判断しかねた。理屈を立たせなくともよいならば後者のようなにおいはするのだけれど、あの極彩色はどぶ臭くって長時間嗅いでいられない。
新聞部は臥せていた眼をそっとあげ、私を見た。
石か、駒か、ぱちんと鳴らす音が聞こえた。幻聴、のはず。
腕章「さて、折角協調路線に入ったのだし、情報公開と行きましょうか?」
獰猛な笑みだった。
否やはない。恐らくできない。この女――道山報道、情報に関しての並々ならぬ執着心が見て取れる。全てで負けてもそこだけで負けるわけにはいかない、そんな妄執。
そして私としても、自ら同盟を言い出した手前、敵とは知っていても情報の開示を行う義理がある。
初めてこの女に恐ろしさを感じた。
慎重に、慎重に。
会計「わかったわ。まず、私の生き様だけれど」
腕章「待った」
すかさず制止が入る。
腕章「そんなものはとっくに知ってるってのよ。あんまり舐めないでくれる? 『時は金なり』」
会計「……」
やはり、と言うべきだろう。あちらは情報を握っている。そしてそれを隠そうともしない。自分の能力の端きれを交渉材料にし、こちらに無言の圧力を加えてきているのだ。
けれど同時に、あちらが持っている私の情報もまた、端きれ程度に過ぎないのだという予想もついた。でなければ情報交換など意味はない。
腕章「時任一時十八歳、生徒会会計、叔父との二人暮らしで犬が一匹いて携帯の番号は――なんてのはどうだっていいことなのよ。そんな情報に価値はない」
腕章「あたしが聞きたいのは二点。たったの二点」
腕章「能力。そして、どうして彩人に執着するのか」
腕章「『知ってる』わよ。あんたの執着心は」
またしても新聞部は獰猛な笑みを浮かべる。
瞬時に駆け巡る打算。どうする。どうすればいいか。どこまで喋るべきか。そもそもこの女、情報を何に利用しようとしているのか。
私は大きく肩を竦める。
会計「わかったわ」
会計「私の生き様は『時は金なり』。能力は、『金で時間を買う』よ」
腕章「金で、ね。へぇ。随分と資本主義的」
会計「千円で一秒。それがレート」
懐にしまってあった懐中時計を取り出す。お母さんからもらった懐中時計。そして、お母さんがお父さんからもらったものでもある。
会計「で、なんで私があいつに執着するのか、だけれど」
怒りがふつふつと込み上げてくるのを私は隠そうとはしなかった。壁をだん、と叩きつけて、吐き捨てる。
会計「大嫌いなの。ああいう人間」
取り返しのつかないことなんかない、全ては可逆で、なんとかなる。最後にはきっと必ず何とかなるだろう。壊れた物も、人も、まぁ、大丈夫だろう。
もしかしたらあの原色は、そんな希望的観測すら持ち合わせてはいないのかもしれないけれど、とにかく。
時任一時という女は、過去の尊さを知らない人間が何より嫌いなのだ。
だから私にこの生き様が宿り、能力が宿ったのだろう。
過去を買い戻すために。
腕章「あいつとの間に何かあった? ……ってわけでも、なさそうね」
会計「えぇ。何もないわ。ただ、あの女がどぶ臭くって、見るのも嫌ね」
腕章は僅かに沈思黙考していたが、頷く。
腕章「ま、いいわ」
どうでも、と前後についていそうな口調だった。
腕章「あたしは『天網恢恢疎にして漏らさず』。『情報を得る』という能力よ。この学校の敷地内位なら十分にカバーできる」
腕章「ちなみに聞くんだけど、あんたが時止めてる間にナイフでざくってのはだめなの?」
それは最もな質問だった。私だって一番初めはそれが可能だと思っていたのだが。
会計「だめね。時間を止めれば、私に触れていないもの全てが止まる。止まったものは動かせない。ナイフを突き立てることなんか無理よ」
時間停止に巻き込まれないのは私の触れているものだけ。でなければ、私は全裸で動かなければいけなくなる。
そして時間が止まっているということは不変ということで、それは存在として強固であることを意味している。傷もつかない。弾力もない。凍結した存在。
会計「敵が普通だったら時間を止めて接近、解除して突き刺せばいいんだけれど……なにせ相手があいつでしょう。解除した瞬間に不幸に見舞われて死ぬかもしれない。それだけがね。懸念よ」
一瞬、本当に一瞬だけ、新聞部が眉を顰めたのがわかった。なに? 私の推察に問題が?
結局新聞部は何も言わず、「確かに」と呟いただけだ。が、今の対応は私の心の水面に墨汁を一滴垂らす。
しかし、と私は考える。
新聞部――「天網恢恢疎にして漏らさず」の能力は、やはりというべきか、予想通りの全知。彼女は学校範囲はカバー可能と答えていて、ならば当然私の仲間の侵入を知覚していないはずはないのだけれど、それを言うつもりはないらしかった。
どこまで行っても敵は敵、か。
私の仲間。そう、仲間である。現在、「弱肉強食」には即応できる体勢を取ってもらっている。彼がどこにいるのかの詳細はわからないまでも、学校の敷地内にはいる。
彼は彼であの原色を打ち倒す策を練っているはずだ。
彼は彼であの原色を蛇蝎の如く忌み嫌っているから。
腕章「でも、結局あたしらじゃあ肉弾戦を挑むよりほかにない。時間停止、接敵、相手の幸運をなんとか捌いて殺害、ほかに方法ある?」
会計「ないわね。ない」
だから苦労もするというもの。
会計「どう? 彩人は」
尋ねると、新聞部は片目を瞑って、
腕章「ゆっくりこっちに歩いてきてる。探してるわけじゃないけど、真っ直ぐに。まったく、なんて幸運だわ」
腕章「現在地、二階水飲み場前。到達予測時間はおよそ三分ってとこね」
三分か。三分はまだ遠く、そして長い。その時間をまるっと買うには高すぎる。
だから私は、否、私たちは、先手を打たれる。
一瞬眩暈かと思った。もしくは勘違いかと。
前後不覚を覚えて、足元が微動して、不安定さがそこに確かにあって。
微動はやがて鳴動へと変わっていって。
ぐらぐらと。
ぐぅらぐぅらと。
巨大な地震が――!
このタイミングで!
ばさばさと本が棚から落ちていく。揺れる蛍光灯。軋む窓ガラス。固定されていないホワイトボードが滑って壁へと激突した。椅子も、テーブルも、危うい。
大丈夫だ、落ち着け、地震は確かに脅威の自然災害だけれど、それそのもので死ぬわけではない。気にすべきは建物の崩壊と火事、そして煙。最低限それらに気を付けていればいい。
最悪、時を止めてでも走れば、きっと。
ごぐん、と音が体内に響く。
私たち二人を空間ごと切り取るように、床に、天井に、罅が入る。
断裂。倒壊。
床が抜ける。
会計「道山さんっ! 私の手を!」
腕章「わかってんよ!」
バランスを崩した世界の中で、私たちは手を重ねる。
途端に時間が停止。一目散に図書室の入り口を目指す。
会計「く! なに、これ!」
ぐ、と力を籠めても開かないのだ。能力のせいじゃない。とっくに効果は消している。
だから、ただ単に、扉が歪んだだけ。私たちの運が悪いだけ。
そして、能力を使用していないということは、崩落のさなかにあるということだ。
腕章「ちくしょう!」
会計「なんとかしないと――」
こんなところであっさりくたばるのは御免だわ!
と、不意に力が抜けた。扉がスライドして大きな音を立てる。開いたのだ。
それは場にそぐわぬ幸運だったけれど、逆に怪しい。彩人の能力下で扉が開くということは、果たしてそれが不幸だという証ではないのか?
それでも仕方がない。崩落に巻き込まれるわけにはいかない。破壊的な音を響かせている背後から脱出し、廊下で膝をつく。
地震は過ぎ去ったようだった。静かなものだ。まるで全てが幻想だったかのように。
だからこそ振り向いた。手抜き工事だったのだろうか、不自然にその一帯だけが歪み、崩れ落ちている。あまりにも「不幸なこと」に。
会計「どういうこと、かしら。調べてくれる?」
腕章「やってる。……はぁん、なるほど」
会計「ちょっと、勝手に納得しないでくれる?」
腕章「二人、戦ってる。彩人ともう一人の闖入者。効果圏内から彩人が離れていってるわ」
効果圏内――確かに今、新聞部は効果圏内と口にした。それは私がかねてから考えていたことと一致する。
彩人の能力は決して無限大でも無尽蔵でもない。地球の裏側にいる私たちに効果を及ぼしたりはしない。
恐らく、視認できる範囲。近づくにつれて私たちの身に降りかかる不幸も並はずれたものに深化していく。
会計「誰が戦ってるのかは?」
腕章「残念ながら、そこまでは」
本当に残念そうに言った。どうにも演技には見えない。
とはいえ、一応ポーズとして尋ねはしたが、私は知っている。闖入者の正体を。
うまくやって頂戴、『弱肉強食』。
――――――――――――――――――――――――
残り六人
――――――――――――――――――――――――
金髪「ったってよぉ!」
俺様はとにかく逃げ回っていた。一定の距離を保ちながら、迫りくる不幸をなんとか避け、もしくは超回復でやり過ごし、生き延びている。
近づけはしない。最初に近づいたときは廊下が水で濡れていて滑った。二度目は地震が起こって、三度目は蛍光灯が降ってきた。相手は何もしていないのに、だ!
俺様がここにいるのは作戦の内に過ぎない。能力者が集まれば、敵は能力によって「幸運にも」俺たちのもとに辿り着くだろうという目論見が、まんまとあたったのだ。
当たったからにはここで始末する。始末せねば不味い。ただでさえ学校は弱者のたまり場だというのに。
だが、ここはある意味いい場所でもあった。車が突っ込んでくることもない。逃げる通路も確保しやすい。運の悪さが足を引っ張り続けることは難しい環境なのではないだろうか。
彩人「よく逃げられますねぇ。よっぽど運がいいんですか?」
のんびりと、ゆっくりと、あくまで長閑な姿勢を彩人は崩さない。一歩一歩を楽しげに、こちらへ近づいてくる。
生徒は全員避難したらしい。静かな校舎内には声がよく響く。
金髪「こっちゃ精一杯だわ、ボケ」
彩人「精一杯?」
はて、と彩人が首を傾げる。
彩人「愚かだねぇ」
彩人「そういう行為に一体どんな意味があるのさ」
彩人「運の奔流に立ち向かえると思ってるのかな」
彩人「運命の翻弄に立ち向かえると思ってるのかな」
彩人「ほんと、愚かだなぁ」
一歩、彩人が踏み出す。
合わせて俺様は一歩下がる。
視界が白く染まった。
金髪「っ!?」
窓ガラスか、鏡か、とにかく何かに反射した陽光が俺様の目を穿ったのだ。気づくのに一秒を要し、次に目を開いた時には既に眼前に橙色が迫ってきている!
距離が。距離が距離が距離が、
金髪「近ッ!」
彩人「滑って転んで死んじゃって?」
か弱い力が俺様に加えられる。とん。まさに子供のお遊戯染みた。
しかし、目の前のこいつは「棚から牡丹餅」。世界のすべてはこいつのために回っていることを疑いやしない狂人。
遍く事象がこいつの味方。
「『弱肉強食』ゥウウウウウウウッ!」
ガラスを突き破って飛来してくる黒い影。一瞬の邂逅でそいつは俺様の左腕を喰いちぎっていく。
激痛と飛沫が視界を蝕む。
金髪「ぐ、くぅ、がはっ」
必死に喰いしばるが空気は歯と歯の隙間からこぼれ出していく。だが、それよりもまず反転――転戦しなければ!
ていうか、なんでてめぇがここにいやがる!
金髪「『悪即斬』!」
詰襟「それは俺が正義だからだ」
金髪「っ……このクソが! 脅威を履き違えてんじゃねぇぞ!」
彩人「仲間? いや、敵なのかな? あはっ!」
彩人「『運が悪い』ねぇっ!」
彩人の哄笑。頭が痛い。
失った左腕は既に修復が済んでいるが、けれども残りストックをこれでだいぶ消費した。「悪即斬」はだいぶん単調で直線的な攻撃だが、搦め手に割いていない分だけ威力は高い。相性はよくない。
詰襟「何が起こってるかは知らんが、どうせお前が何かをしでかしたんだろう」
金髪「ちげぇよボケ! てめぇの後ろにいるオレンジだ!」
彩人「私はなぁんにもしてないよっ!」
詭弁だ。そして、なにもしてないからこそたちが悪い・
金髪「いるだけで周囲を貶める、悪魔め」
彩人「あはっ! みぃんな運が悪かっただけなんだよ!」
「悪即斬」は依然として俺様への警戒を解かない。二対一の構図にはなんとかならずに済んだが、彩人と俺様のどちらかを狙うかと言えば、火を見るより明らか。
詰襟「問うぞオレンジ! お前は悪か!」
彩人「そんなわけないよ?」
彩人の言葉を受けて、悪即斬がこっちを睨む。あぁもう、この融通利かずの大馬鹿め!
しょうがない。
金髪「てめぇら全員ぶち殺す。かかってこいやぁ!」
詰襟「上等だ。お前に引導を渡してやる」
彩人「もう、二人とも張り切っちゃって。そういうの意味ないんだってば」
ばばばば、と羽ばたく音が聞こえた。
俺様には全くその正体はわからない。「悪即斬」もわからないようで、眉間に皺を寄せながら、音の方向――窓の外へと視線をやっている。
嫌な予感がした。
次第に音は大きくなっていって――
金髪「マジかよ」
校舎内ならば車も突っ込んでこないだろうと予想した己の浅はかさを、今更ながらに後悔する。
詰襟「ヘリッ……!?」
ヘリコプターが墜落してくる。
彩人「ほぅらねぇっ!」
―――――――――――――――――――――――――――――――
残り六人
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―――――――――――――――――――――――――――――――
地を揺るがす轟音とともに、ヘリコプターが学び舎へと突っ込んだのを、あたしと会計はぽかんとしながら見送った。
言葉が出てこない。漏れるのは「は?」という間抜けな音だけ。
会計「あったまおかしいんじゃないかしら!?」
怒声一喝、姿を消した。
あたしも連れて行ってよ……とは思わない。何せ彼女の行先は戦場のど真ん中。戦闘能力の欠片もないあたしが行ったところで意味がない。無駄な危険は愚の骨頂。こうやって、離れたところから観察するのがあたしの流儀。
対面する新校舎、その三階に四人。内訳は「時は金なり」「棚から牡丹餅」「悪即斬」と誰か。「棚から牡丹餅」と誰かの戦いに「悪即斬」が割って入った形になったけど、しかし、よく間に合ったものだと素直に感心する。
それにしても三階に突入って。全く人間離れしている。
そんな彼を呼びつけたのはあたしなのだけど、怖いくらいにうまくいった。三つ巴ならぬ四つ巴。流石にここまでお膳立てをしたのだから、最低一人、くたばってもらわないと困る。
生徒の避難は完了しているから、ヘリがいくら突っ込んでも生徒は無事……なはず。今は校庭でぽかんとしているだろう。
申し訳ないとは思う。ただ、それもあたしが生き残れば、もっとよりよい世界になるのだから、我慢して欲しい。
……ん? こっちに誰か来る?
「おーい! 道山!」
廊下を走ってくるのは優男……腹立たしい顔の生徒会長だった。状況に困惑しているのだろう、焦りが見える。
会長「お前何やってんだ! 先生探してたぞ!」
お叱りを受ける。責任感の強い男だ。別にあたしらの安否ぐらいどうってことない、というかそんなもの気にしてられる場合じゃないだろうに。
腕章「ちょっといろいろあってね。ごめん。すぐ戻るわ」
会長「勝手な行動は勘弁してくれよほんと、いやまじで」
会長「あと、時任見なかったか? あいつもいないんだよ」
今ヘリ突っ込んだ場所にいるけど? 答えたかったが堪える。そんなのは面白すぎた。
腕章「いや、ごめん。ちょっとわかんない」
会長「え? でもお前、さっきいたじゃんか」
さっき――あぁ、そう言えば階段ですれ違っていたか。面倒くさい。
腕章「それが途中でどっかいっちゃったんだよね」
会長「そうか。くそ、探しなおしか……さんきゅ、ありがと」
腕章「どういたしまして」
会長「じゃあな」
その言い方がなんだか印象的で、首を傾げる。
あたしのお腹から刃が生えた。
は?
はぁ!?
おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい――
真っ先に脳裏をよぎったのは、死の恐怖でも生への執着でもなく、ましてや激痛だとか怒りでもなかった。何よりも最初に、「おかしい」と思った。
絶対的に自信を持っていた能力が――全知が――「天網恢恢疎にして漏らさず」が――捉えきれない、感知できない存在なんて、有りはしないはずなのだ。だからこれは絶対におかしい。
有り得ない。
あたしが間違っているのではなくて、世界が間違っている。ルールが間違っている。
膝を突き、上体を捩じり、血の味が口腔一杯に広がることに頓着せず、刃を持つ生徒会長をとにかく見た。
腕章「ふざ、っけんじゃ、ない、わよぉ……!」
ようやく遅れて怒りがやってくる。激痛も。
だけれど、そんなことは最早問題ではなかった。あたしはこいつを倒すために存在しているのではなかった。優先順位は変わりきった。
あたしは遅かれ早かれ死ぬだろう。そして生死よりも大事な、確固として譲れないものがあるのだ。
腕章「あたしがぁ! 見逃す、情報なんてっ! あるわけ、ない!」
会長「言っていることがよくわからん」
生徒会長は手に持った刃を振りかぶった。
そこであたしは初めて、こいつが持っていた刃、あたしの命を奪おうとしている刃が、おおよそこの世のものではない奇怪な造形をしていることに気が付いた。
まるで炎のようだった。直刀でも彎刀でもない。うねり、たなびき、昇天する炎の様相を呈した武器だった。
腕章「わからなくても結構なのさ! 園田楽園!」
情報だ、情報だ、情報だ!
死の淵に突っ立ってても、あたしにゃ知りたいことがある!
園田楽園十八歳、生徒会長、両親健在妹一人、好きな食べ物は茄子の田楽、生き様は――「連理の枝」!
まだまだ――もっと!
なぜだ! なぜあたしはこいつを知らなかった!? なぜこいつはあたしに知られないでいた!? それはおかしい! 理屈が通らない!
刃があたしのそばを駆け抜けていく。左ひじから先の感覚がない。けれど不思議と痛みもない。欠けた四肢など一顧だにせず、あたしはひたすら生徒会長を見続ける。
薙ぐ刃。削がれる皮膚。肉。骨。飛び散る血飛沫。全ての攻撃を能力によるナビでぎりぎり避けて、生徒会長のサーバー、情報が詰まった概念的なそれにクラッキング連打。
口の中が血の味で満ちている。
知の味で、満ちていく。
会長はまるでこちらに頓着しない。愛しげに刃を見つめて、陶酔の中で腕に力を込め、それを振り抜くばかり。
ついに切迫した。鼻と鼻がくっつく距離に至って、当然あたしの腹には深々と刃が食い込むけれど、同時に、解る。
腕章「あぁ……」
そりゃあ、あたしもわからないわけだ。
だってあんた、参加者じゃないんだもん。
自然と笑みがこぼれた。満足、とは言い難いけれど、満腹ではあった。
気付きを口に出す余裕すらなく、フランベルジュともまた違う禍々しいそれが、振り下ろされてそして
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『天網恢恢疎にして漏らさず』道山報道死亡
残り五人
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「殺し殺して殺しを殺し、死に死に死んで死を死なす」
俺様はぼそりと呟く。まるでそれが金科玉条であるかのように。
いや、事実それは俺様の人生だった。生き様ではないにしろ、それの体現であった。
この世は所詮弱肉強食である。だからとにかく弱者を喰いつくすことだけを考えた。学校になんて最初の数日しか行っていないし、あとはひたすら地下に潜った。そこは胸糞悪い世界で、だからこその心地よさも確かにあった。
殺し殺して殺し尽くせば、殺人さえも殺しきれると願った。
死に死に死んで死に尽くせば、死さえも死ぬのだと信じた。
だからきっと祈りが通じたのだ。俺様の目の前にムムが現れたのは。
手元まで手繰り寄せた本懐をここで手放してしまうわけにはいかない。
金髪「だから!」
金髪「死んでたまるかクソが!」
現在落下中。窓ガラスを突き破って、校庭へ。
流石に四つ巴は厳しい。厳しすぎる。「悪即斬」は俺様を目の敵にして憚らないし、同盟を組んでいる「時は金なり」もこちらの隙を窺っているのは明白。何より彩人が当たりかまわず不幸を撒き散らすもんだから、予測不能の事態が多すぎて。
俺様を吹き飛ばした致命的な一撃は木刀による殴打だったが、四階からの落下よりは威力は低い。あいつの木刀は能力までも切れるけれど、肉体まではそうはいかない。
そして四階からの落下すら俺様にとっては修復可能。
全身が弾けるとともにゆっくりとした痛みが深奥へとねじ込まれ続ける。骨の砕ける音。筋肉の引き千切れる音。重要な臓器が潰れ、血管も千切れた。
同時に即座にそれを回復。――がしかし、中途でふらりと意識が切れかける。流石に貯蓄も底を尽きたか。
生徒やら教師やらが軒並み呆然とこちらを見ていて、即ち隙だらけで、俺様の餌と言うことである。
弱者は守られるべき存在だけれど。
そのためにはまず、俺様の腹の足しになってくれ。
金髪「いただきまぁす!」
「させないぞ」
「カニバリズム? こっわぁ」
「人間の営為じゃないわね」
さんざんな言われようだ。お前らに俺様を断罪する資格があるとでも思ってるんだろうか……るんだろうな。
ぐぱぁ。
と開いた俺様の腹へ生徒、教師問わず片っ端から詰め込んでいく。
響く悲鳴と絶叫。校庭へ降り立つ三つの影。
金髪「おいおい、まるで俺様が悪者じゃねぇか」
詰襟「悪は殺す」
会計「邪魔はしないわよ、私は」
彩人「わたしだって戦わないよ? だから勝手に死んで?」
そうしてまた勃発する戦争。
木刀の一撃を、金属バットの攻撃を――ってクソ、この「時は金なり」! ちゃっかり俺様も狙ってきやがって!
回避し反撃しながら俺様の意識は現実の外へと落ち込んでいく。目の前の対処にリソースを割かなければいけないことはわかっていても、それでも。
古屋懐古は懐古する。
隣に一家が引っ越してくるらしいと聞いて、あぁやっぱりなと思ったのと同時に、当然わくわくもした。だって隣の立派な更地には少し前から大工さんたちがやってきて、測量をしたり、整地をしたり、基礎をつくっていたりしたから。
隣に一家が引っ越してきたと聞いて、一も二もなく飛び出すというわけにはいかなかったから、へえそうなんだと親の話を聞き流す振りをしていた。だってがっついたら格好悪いじゃないか。
そのくせ窓からちらちらと隣を窺ってばかりだった。塀に囲まれた大きな家。結構なお金持ちらしかった。そして、噂では女の子が一人いるらしかった。
名誉のために言わせてもらえば、それは単なる興味であって、決して下心ではない。
だから初めて隣の女の子を見たときも、陰気だなと思った程度で、落ち込んだりはしなかった。
きっと彼女は生まれてきたことが間違いだったのだ。
それでも、そんな真実は悲しいじゃないか。
弱肉強食。生まれつき心の弱かった彼女にとって、世界は強い存在で溢れかえっていた。その絶望たるや人語に絶するだろう。
だから、真実を捻じ曲げるしかない。
僕が。
俺が。
俺様が。
金髪「てめぇらをぶっ殺してよぉおおおおっ!」
速度に関しては「時は金なり」が数枚上手だ。というよりも時間を止められるのだから速度と言う概念を超越している。彼女は俺様や「悪即斬」にも警戒を払ってはいるが、実際攻撃しているのは彩人だけ。
そして彩人はその攻撃をなるたけ回避しようと振舞っている。不幸の余波がこちらまで被害を及ぼすが、さしたる問題じゃあない。校庭は何もない分不幸の起きる余地が少ないというのもある。
詰襟「殺人は悪だ。悪は殺す」
そして、こいつだ。
こいつは俺様を目の敵にしている。こいつの悪即斬の生き様と、俺様の弱肉強食の生き様とでは、決定的な乖離がある。消して受け入れられない水と油。
「悪即斬」の望む世界は苛烈な世界だ。正しく生きよ。前を向け。背筋をぴんと伸ばして、倫理に悖るな、人の子ら。それが人間として生きるということだ。獣として生きぬということだ。
対して、俺様の望む世界は弱者をこそ救う世界である。正しく在ろうとしても正しくなれぬ人間。強く生きようとしても強く生きられぬ人間。俺様はそんな人間をこそ救いたい。
「悪即斬」はけれど許さないだろう。正しくなれない人間は文字通り切って捨てる男だ、あれは。
木刀による斬撃をいなす。きっちりと頭部を狙ってくる一撃は読みやすいが、眼前を切っ先が流れてゆく光景はどうにも慣れないものがあった。ストックは十分。数回ならば復活も可能だろうが。
返す刀を潜り込んで金的。脚で防がれるのをそのまま力づくで押し倒し、木刀の有効射程、そのさらに内側の戦いへともつれ込ませる。
膝が俺様の頬を強か打った。頬が切れて口の中に血の味が滲む。一瞬怯んだが食らいつき、胸ぐらを掴みながらお返しのグーパン。しかし「悪即斬」も同じことを考えていたようで、図らずともクロスカウンターの形になる。
衝撃で視界が歪む。ぐらぐら揺れる。
たたらを踏んでよろめいた先には「時は金なり」がいた。背中をぶつけるようにして止まる。
会計「大丈夫?」
金髪「なんとかな」
会計「そう。それじゃあ」
姿が消え、次の瞬間には彩人へと躍り掛かっている。金属バットを振り回すが、不幸にも空き缶を踏んづけて転んでしまっていた。
そんなよそ見をしている間に正義が切迫する。
木刀の乱打。乱舞。必殺の一打は全て俺様の頭部を狙う。無論そんな単調な攻撃がいつかあたると期待しているバカではあるまい。だから、きっとこの攻撃は、何かの布石のはず。
と思った傍から、来た!
振り抜いた瞬間木刀を投げ捨て――幾分か身軽になった体で、こっちに突っ込んでくる!
身を屈めたその刹那、俺様の視界から「悪即斬」の姿は消失する。ぞくぞくとした焦燥感が湧きあがってくるが、混乱はしない。
意趣返しだろうか、金的狙いを回避して、カウンターで顔面へと膝を叩き込む。
驚異的な反射神経で「悪即斬」は顔を逸らした。首筋へめり込んだ膝を、しかし一顧だにせず、脚ごと俺様を掴んで頭突き。
鼻っ柱が折れた。それでも目を瞑らなかった自分をほめてやりたい。この位置関係では、俺様の視線をこいつは知れない。
無防備の側頭部に!
拳を叩き込む!
視界が翳る。
感じたのは灼熱感だった。顔面が燃えている。ひりつく感覚。歯も一本抜けた、か?
血を掻き出そうと舌を動かせば砂を噛んだ。じゃり、と口の中で鳴る。不快だ。
目の前には中天へと差し掛かろうとしている太陽があって、背中は硬くて、そこで初めて俺様は自分が校庭に倒れていることを悟った。
こいつ、俺様がわかっていることすらわかっていやがったな……!
能力を起動。全力で止血、再生。跳ね起きる。
詰襟「埒があかねぇな」
金髪「俺様のせいじゃねぇよ」
俺様はためを作り、そして一歩前に踏み出す――と見せかけて、
金髪「じゃあな!」
背後へ飛びずさる。距離にして十メートル先、そこには彩人と、木刀がぶっ刺さっている「時は金なり」の姿。
勢いのまま彩人を蹴り飛ばす。不幸は今回ばかりは発動しなかった。彩人は校庭を転がって吹き飛び、その間に頽れる「時は金なり」を回収、肩に担いで走り出す。
金髪「時間を止めろ!」
会計「……あと、五秒、だけ、しか」
鉄くさい吐息だった。五秒だって? かまわん。とにかく一歩遠くへ離れなければ。
そうして世界が停止する。
金髪「にしても、どぎつい不幸だな」
会計「えぇ、えぇ……」
虚をつくために「悪即斬」が放り投げた木刀が突き刺さったのだ。死角からの攻撃に、時間停止も叶わなかったに違いない。もしくは残り五秒と関係があったのだろうか。
会計「それにしても、どうして、私を助け、ようと……?」
金髪「俺様一人じゃどうにもならねェからな」
業腹なことだが。
金髪「まずは保健室か? つっても、怪我の治療なんてできねぇな。どうする」
どうやら追っ手は撒けたようだった。というよりも、あの二人が戦ってくれていれば、それに越したことは何もない。
会計「職員室……もしくは、教室、どちらでも、いいから……お金を」
金髪「金ェ?」
会計「えぇ……早く」
意味が解らなかったが言われたとおりにするしかあるまい。
職員室と各教室を回り、財布の中の金銭を全て奪っていけば、総額では三十万程度になった。そうして「時は金なり」の言うとおりに職員室へと戻ってくる。
「時は金なり」はよろめきながらも職員室の中央、恐らく校長が座るのだろう席の前で屈みこんだ。そこには金庫がある。
会計「三十万……これで、体の時間を買い戻す、わけには、いかなかった」
ぶつぶつと呟く内容を俺様は全く理解できない。
会計「私が、買い戻すのは、ここ。これ」
会計「『時は金なり』」
俺様はその時見た。超高速で金庫の鍵が回ってロックが外れ、次いでダイヤルが回転し、まるで導かれるようにその扉が開くのを。
中に入っているのは書類の束と、札の束。全部で二百万程度はあるだろうか。小銭の入った袋とケースもある。
会計「『時は金なり』」
もう一度呟いた。今度こそ彼女の傷が見る見るうちにふさがり……というよりは、血が逆流していく。まるで時が戻っていくかのように。
会計「……」
静かに眼を開いた「時は金なり」。恐らく大丈夫だとは思うのだが、それは外見からの判断であって、実際のところがどうなのかまでは……。
会計「あいつら、ぶっ殺してあげるわ、マジで」
冷たく言い放つ。どうやら大丈夫なようだ。
金髪「お前、時間停止だけじゃないんだな」
会計「えぇ、そうよ。ばれてしまった以上は仕方ないけれど、私の能力は時間操作。時間停止なんて温いわ」
会計「ま、より定義に沿って言えば、『時間を金で買う』ということになるんだけれどね」
時間停止ではなく、時間操作……金庫の時間を過去に戻した、ということか? そして同様にして身体の怪我も治した、と。
……強すぎじゃねぇか?
会計「あなた今、強すぎじゃねぇかって思ったでしょう?」
人の心を読むな。
会計「しょうがないじゃない。だって、なんだかんだ言ったって、この世で一番大事なのはお金なのだもの」
金髪「金ね。金か。ま、一番大事なもののうちの一つではあるだろうな」
会計「一番大事なものが複数あるのは矛盾だわ」
金髪「結局その金を守るためには力が必要だろうさ」
会計「あなたはそういう解釈をするのね。『弱肉強食』」
金髪「あぁそうだ。金よりも、自分自身の力こそが大事だぜ、『時は金なり』」
会計「私はこう考えるわ――力さえも金で買える、と」
「いいや。愛こそすべてだ」
リノリウムの床をきゅっと鳴らし、こちらへ歩いてくる男が一人。眼鏡をかけた優男風の、と人物評の途中でそれを撤回する。あまりにも現実にそぐわない、禍々しい刃が右手にあったから。
燃え上がる炎のような刃だった。剣でも刀でもない。柄も鍔も鎬もあるのに、それは確かに刃としか表現できない。
会長「金でも力でもなく、この世で必要なのは愛。それだけだ」
会長「愛こそが世界を救うのだよ」
金髪「……誰だてめぇは。いきなり現れてわけわかんねぇことぬかすんじゃねぇぞ」
会計「……園田楽園。うちの生徒会長よ」
金髪「へぇ、お偉いさんか」
確かに胸元にはそう書かれたバッチがつけられている。
会計「一ついいかしら」
金髪「なんだ。手短にな」
視線を目の前の男――生徒会長から逸らさずに尋ねる。
会計「すっごく! すっごく私、今、いやな予感がするわっ!」
金髪「はっはぁっ! そりゃ俺様も同意だぜぇっ!」
刃がのたくった。
身を震わせ蠕動するそれ。金属にあるまじき動きは、ただの揺れにとどまらない。
会計「来るッ!」
一気に刃が伸びて、俺様たちの足元を掬ってくる!
時間停止はない。使わないのか、はたまた使わないのか。
跳躍で回避し空中で「時は金なり」を投げ飛ばした。踏ん張りが利かなかったが、なかなかどうしてうまくいくものである。
こいつは死んだら死んだっきりだ。そして、あの原色を退治するためにも、ここで死なれてもらっては困る。
幸いにしてストックは十分にあるから、十回程度は殺されても死なないだろう。
金髪「なんだありゃ!」
わけわかんねぇ。
刃が生きているかのようにのたくって、意思を持っているかのように襲ってきた。事実だけを抜き出せばそうなのだが――そうなのだが!
あれが能力であるのは間違いない。けれど、ならば、どういうことだ? どこからどこまでがやつの能力なんだ?
刃そのものか、それとも無機物を自在に操るのか……試してみるしかない、か。
金髪「おい『時は金なり』」
会計「なによ」
金髪「俺様が突っ込んでやる。マジでやばそうになったら援護しろ」
会計「マジでやばそうってどういう基準よ。頭の悪いこと言わないで頂戴」
金髪「黙れ。行くぞ」
了解の返事も聞かずに俺様は跳んだ。廊下を駆け、やはり能動的にこちらを狩りにくる刃の煌めきを避け、壁すらも走る。
たった今俺様の足場だったところが弾け飛ぶ。切り刻まれ原形をとどめることのなくなったそれは、最早ただの粉塵である。それを可能にする攻撃は斬撃と言うのも生ぬるい。
そしてそれが追尾してくるのだ。
金髪「く、う、ぉおおおおおおおっ!?」
脚を駆けた窓枠ごと粉砕される。
廊下を断った刃がそのまま蛍光灯を破壊した。
右と左と上と下から同時に殺意が迫ってくる。
左手首が吹き飛んだ。激痛に身が捩れる思いだが、眼を見開いて能力を起動。すぐさま再生される。
跳ねて刃の上でワンステップ。ぐんと加速をつけ、一気に喉元に迫る。
しかし喉元に迫ったのは俺様だけではなかった。白刃の切っ先もまた俺様の喉元へと押し付けられている。
刹那にも満たない時間、刃先が肉を押し、ぷつ、という断裂の音を確かに聞いた。
会計「吹き飛びなさい」
同時に「時は金なり」が俺様を空中で蹴り飛ばす。先ほどとは奇しくも逆の立場となった。
俺様の喉から刃が離れる。それは皮一枚を切り裂くにとどまり、命を奪うには至らない。
そして今、俺様は完全にフリーとなった!
金髪「殺ったッ!」
「『連理の枝』」
誰かが呟いた。
――誰だ?
常識的に考えて、それは生徒会長しかありえない。しかしたった今聞こえたその声は、生徒会長のものではあり得なくて。
首を肩に擦り付けるような甘ったるさを包含する、まるで恋に恋する少女の声。
拳が止まる――否、誰かに手首を掴まれた。
会計「……な」
金髪「ん、だよ」
呆然。俺様も「時は金なり」も言葉を失している。
なんたって刃から人の腕が生えているのだ。
いや、違う。それすらも最早正しいのかわからない。刃は次第に人の形を成していき、最初こそ刃から人の腕が生えたのだと思ったのだけれど、今では人の体から刃が生えているのだと思えてもくる。
現れたのはセーラー服の少女だった。瞳孔が開いている。死んでいるわけではないが、とにかく目に光がない。
既に刃は人へと変態を遂げた。
「殴ろうとしたね?」
「殴ろうとしたね? 殴ろうとしたね? 殴ろうとしたね?」
「お兄ちゃんを殴ろうとしたね?」
「花園のお兄ちゃんを殴ろうとしたね?」
「ころころ殺すすすころ殺すころ殺すぶっ殺す」
ぐ、と襟首を掴まれた感覚。それが時は金なりによるものだと認識した瞬間には、俺様は数メートル背後へと移動していた。
「死ね?」
少女の体が刃となって、辺り一帯をミキサーにかけた。
物体は全て粉塵と化す。床や、壁や、天井の粉末によって、二人の姿は視認できない。
ややあって煙から歩いてくる影。
仲睦まじく手をつなぎ、寄り添いあう生徒会長と少女。
少女はにこやかにお辞儀した。依然として瞳に光はない。
「お兄ちゃんに怒られちゃった! だから、挨拶します」
「花園の名前は園田花園。お兄ちゃんの妹で、お兄ちゃんの恋人で、お兄ちゃんの女だよ!」
妹「あと、能力者」
妹「『連理の枝』」
少女の体が一瞬で刃となった。
繋いでいた手は柄となり、生徒会長がそれを握り締め、振りかぶる。
馬鹿な。五メートルは離れてるんだぜ?
けれど、馬鹿だと思いながらも一笑に付さなかったのは、走馬灯が一瞬脳裏をよぎったからだ。超回復を持つこの俺様が。
「お兄ちゃん」
「大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き」
刃の軌跡で何も見えない。
踊り狂う刃はけたたましい愛の呪詛を吐きながら校舎を叩き割った。
足場が傾いていく。様々なものが切れ目に落ち込んでいく音が聞こえる。
会計「今日はこんなのばっかりねっ!」
時間停止。俺様たちは瓦礫を駆けあがり、一刻も早く生徒会長と刃へ逼迫した。
振りかぶると同時に停止解除。俺様と「時は金なりの」同時攻撃。
「花園はお兄ちゃんの矛!」
刃が愛を呟く。これ以上の愛はなく、これ以上の幸せもないかと言うように。
会長「そして俺が花園の盾」
少女の体が現れる――同時に生徒会長の体が変態し――二枚の盾となった。
「花園」
「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」
滝のような愛の呪詛を盾が垂れ流す。
拳も金属バットも全て受け流し、俺様たちはそのまま地面に叩きつけられる。体がみしみしと音を立てて軋む。
金髪「クソッ……タレェッ!」
ダメージは既に回復しきった。即座に跳ね起き、反撃。
伸ばした腕を二枚の盾が挟んだ。
骨の断裂する音が体内に響く。
妹「花園に触れていいのは、お兄ちゃんだけ」
「汚れた手で花園に触るな、下郎」
大きく振りかぶられた盾が俺様の顔面に叩きつけられた。鼻っ柱が折れる。首が急角度に傾き、危うく頸椎をやるところだった。
仰向けに倒れるのを無理やり方向転換。勢いのままに後ろへと転がり、四つん這いの体勢をなんとかキープ。視界を追う前髪越しに、狂気のカップルへと視線をやる。
追撃の様子はない。ついでに、「時は金なり」の姿もない。逃げたか?
意識を僅かに逸らした間に、盾は優男へと戻っていた。仲睦まじく手と手を取り合って、二人は熱っぽい視線を送りあっている。
そうしてキスをした。舌を舐めあい、唾液を交換し合う、深いものだった。
金髪「……ガチかよ。気色悪いな」
会長「妹を愛するのがそんなに変か」
金髪「妹は愛でるもんだ。愛するもんじゃない」
会長「妹を愛したわけではない。愛した女が妹だった、それだけだ」
妹「そう。誰も花園たちの仲を裂くことはできないの。お母さんも、お父さんも、先生も。そしてこの世の中だって!」
妹「花園とお兄ちゃんは『連理の枝』! 決して結ばれることのない、悲劇のアダムとイヴ!」
妹「だから、ムムが花園に能力をくれたのは、この世界をエデンにするためなんだ!」
会長「花園には何人たりとも触れさせない」
妹「お兄ちゃんに危害を加えるやつは、誰であろうとぶっ殺す」
それはチャペルで囁く愛の誓いだった。あまりにも内側に閉じていて、血に塗れてはいるけれど。
二人の世界はここで完結している。他者を全く必要としない自給自足の完璧な関係。まるでウロボロス。
金髪「……近親相姦は、タブーだぜ?」
会長「知っている」
妹「だから花園は、世界を作り替えるの」
あの宇宙人によって。
と、二人は揃えて言った。
思考を回す。
二人一組。それはいい。わかった。
だが能力者が二人と言うのは考えにくい。確かにあの宇宙人は十人と言った。二人が一心同体だから一人としてカウントした、なんて気の利いた冗談はあの宇宙人は言えないだろう。
ならばどちらかが正式な能力者で、もう片方はその恩恵にあずかっているだけのはず。
これまでのやり取りを考えれば、妹の方が黒だろうか。
拳を構える。二対一。能力の強弱はともかくとして、数の多寡は絶対的だ。多ければ有利。それはこの世の真理。
弱肉強食。弱ければ所詮肉だ。人として生きていくことなんてできやしない。俺様は確かに不利な立場にあるかもしれないが、決して弱者に堕すわけにはいかなかった。
こつん、こつん。階段をゆっくりと登ってくる音が響く。そして足音に紛れ、硬いものが床に規則的にぶつかっているような音も混じって。
そう、例えば木刀のような?
「近親相姦は悪だ」
「悪は殺す」
金髪「おいおい……」
金髪「てめぇはお呼びじゃねぇんだよ」
詰襟「誰かが俺を呼ばずとも、正義が俺を呼んでいる」
詰襟「不善を正せと叫んでいるのだ!」
悪即斬は傲慢に叫んだ。
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残り五人
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愛は添い遂げるものだとずっと思っていた。思っていたし、思っている。それはこれからも変わらない。ずっと信じて生きていくことだろう。
そして、愛が添い遂げるものならば、生まれたときから一緒にいた家族にこそ最上の愛が存在するはずなのだ。
だから、わたしが――園田花園が楽園おにいちゃんを愛したことも、逆に楽園おにいちゃんが花園を愛してくれたことも、まったく問題はなくて、寧ろ当然の帰結と言えた。
まぁ、そのために両親は離婚しちゃったけど。
お前の育て方が悪いんだ――あなただって家庭を顧みなかったくせに――とか、テンプレートな喧嘩の末の離婚。花園に言わせればどっちもナンセンス。愛の深奥をパンピーが理解しようたって無駄なことだよね。
そもそもきょうだいでセックスして何が悪いの? って聞いても、誰も口をまごつかせるだけで、納得のいく答えをくれなかったし。
だけど悲しいかな愛の力を以てしても親と言う権力には勝てない。花園とお兄ちゃんは離れ離れ。電車で一時間あれば会える距離なのが不幸中の幸いだったけど。
それでも不満はたまるのだ。なんで? どうして? 二人の愛が引き裂かれなくちゃならないの? 花園たちが悪いことをした? お母さんたちだって愛し合ったから結婚して、愛し合ったから花園たちが生まれてきたんでしょ?
わからない。どこが間違いなのかわからない。
「間違っているのはね、世界だよ」
と、路の傍らに行儀よくお座りしていた人形が、そう言った。
人形は自らをムムと名乗った。
ムム「やぁ。きみとお兄さんが人目を憚ることなく、誰にも邪魔されることなく愛し合える世界を作る方法があるんだけれど、聞く?」
なぜ人形が喋ってるんだとかそう言う一切合財は全部無視して、花園はその話に飛びついたのだ。当然でしょ。それくらい、その人形の言った世界には、甘美な響きがあって。
ムム「勝ち残ればいいのさ。さすれば与えられん、ってね」
ムム「見たところきみは中々に禍々しい生き様をしてるみたいだ。いいね。実にいいよ。観客好み、だね」
ムム「参加者は十人。全員殺して最後の一人になれば、なんでも願いをかなえてあげる。それこそ、近親相姦が赦される世界だって可能だ」
妹「参加します」
と、一も二もなく頷いた。だって二人は悲劇のアダムとイヴ。神様が世界を変えてくださるまで、きっと二人は赦されない。
だから赦されに行くのだ。虐殺の果てに。
ムム「わかったよ。園田花園、きみの参加を承認しよう」
ムム「生き様は『連理の枝』。能力は――」
花園がお兄ちゃんの矛に。
お兄ちゃんが花園の盾に。
成る、力。
愛の具現。
魂の絆。
なんて――なんて、うってつけ!
お兄ちゃんに触る人間みんな殺してやるんだから。だって花園はお兄ちゃんのもので、お兄ちゃんの恋人で、お兄ちゃんの女なんだから、お兄ちゃんだってそう。
お兄ちゃんは花園のもの。
お兄ちゃんは花園の恋人。
お兄ちゃんは花園の男。
この世界に他に誰もいらない。
花園に言い寄ってくる男はごみくずだ。ビンタ一発かましたら情けなく逃げて行った。お兄ちゃんに言い寄ってくる女は毒婦しかいない。包丁をちらつかせて言うことを聞かせてしまえ。
この世は所詮愛が全て。歌にだってあるように、必ず最後に、愛は勝つ。
妹「だから、邪魔しないでよっ!」
いきなり現れた学ラン短髪の木刀男。お兄ちゃんにそれを向けた。お兄ちゃんに危害を加えようとした。お兄ちゃんに敵意を抱いた。
許せない。
死ね。
死んじゃえ。
殺す。
お兄ちゃんが飛びかかる。木刀男は木刀を構えて迎え撃った。
木刀男の能力が、生き様が何であろうと、花園の手数に勝てるはずがない。手足髪の毛全部刃に変化させて、それをただただ振り回すだけなのだけれど、ゆえに回転数だけは超一流。
一振りで廊下も、壁も、天井も、ぐずぐずの粉々に崩れ去る。
お兄ちゃんが握った部分から体温が感じられる。それが花園のエネルギー源。愛と言うフィルターが全てを核融合してくれるのだ。
「あははははははははははははっ!」
愛だ。愛だ、愛だ、愛だ! これが愛の力だ!
詰襟「そうか。それが愛の力か」
吹き飛ばしたガラス片が木刀男の視界を奪う。それらを全て木刀で叩き落としたとて、一瞬の怯みはどうしようもない。
お兄ちゃん!
会長「花園」
愛してる!
会長「あぁ、俺もだ」
勢い良く振りかぶって、全ての刃を木刀男へと叩きつける。
銀閃の烈風。数百では足りない殺意の断裂が木刀男を細切れにする。
――はずだったのに。
詰襟「くだらん」
詰襟「近親相姦は悪だ。悪は殺す」
木刀の一閃が、花園の刃を断ち切っている。
刃が。
花園の体が。
お兄ちゃんに綺麗だと褒めてもらった指先も、つややかだと褒めてもらった髪の毛も、似合ってるよと言ってもらった服も、
全部ばらばらに!
妹「あ、が、ぎっ!」
衝撃で変身が解ける。元に戻った体は、手首の先が消失していて、そこから断続的に真っ赤な液体が噴き出していた。
それがなんなのかなんて、考えたくない。
大上段に木刀が構えられている。花園は瞬間的にお兄ちゃんを盾に変化させ、その打ち下ろしを無理やり防いだ。
骨の砕ける音が聞こえる。
勢い余って花園ごと廊下を滑っていく。リノリウムの廊下は肌がつっぱってとっても痛い。手首の先がないから受け身も取れず、自分の血でずんずん滑ってしまう。
ようやく止まったのはお兄ちゃんが体勢を立て直したからだ。左手で花園の襟首を掴んで、片膝を立てて木刀男へ視線を向けている。
よく見れば、左腕が変な方向に曲がっていた。さっきの攻撃のせいだ。
妹「よくも、よくもお兄ちゃんを!」
撤退の文字などはなからなかった。お兄ちゃんは花園のものだ。花園のものを傷つけた人間など赦しておけるはずがない。捨て置けるはずがない。
木刀男は今ここで殺す!
花園たちは同時に飛び出す。体勢を立て直し、廊下の端と端、狙いを容易く定められないように緩急をつけ、同時に飛びかかった。
木刀の一閃はお兄ちゃんに。一瞬でアイコンタクトを済ませる。刃になろうかと言ったけれど、答えは首を横に振る。
攻撃をお兄ちゃんはすんでのところで掻い潜った。こっちまで空振りの音が聞こえてきそうなほどの轟音をだ。さすが。
もちろん花園だってぼけっとしてたわけじゃない。一度警察沙汰になってからは控えてた包丁を、この段になってようやく懐から取り出した。ぐ、と柄に力を籠めれば懐かしの感触がよみがえってくる。
お兄ちゃんと木刀男が戦っている隙に素早く背後へ回りこむ。詰襟だから首筋がむき出しになってないのが残念だったけど、なんてことはない。包丁は切るものじゃなくて突き刺すものだから。
妹「死ねぇっ!」
突き出した包丁は空を切り裂いた。え、と思うと同時に、翻った詰襟が視界を一杯に覆い隠して、鼻っ柱に肘鉄が入る。
顔面の中心部で何かが潰れた音がした。
会長「花園に手ェだすんじゃあねぇっ!」
お兄ちゃんが手を伸ばしてくる。当然花園はその手を取る。
瞬間、変化。体は欠けても刃は残っている。お兄ちゃんに仇なすもの全てを切り裂いて、花園とお兄ちゃんのエルドラドを形作るのだ!
愛だ、愛だ、愛だ!
これが愛の力だ!
愛の力の真髄を思い知れ!
振り回す刃をけれど木刀は根こそぎ掻っ攫っていく。文字通り身を切り裂かれる痛みに苛まれるけど、脂汗がだらだら流れるけど、でも、負けない。負けるわけにはいかない。
花園の刃は物体を切断する以上に消失させる。木刀だってそのはずなのに、なのに。
「なのに、なんで立場が逆なのよぉっ!」
会長「安心しろ花園。落ち着け。何があっても俺がお前を守る」
会長「俺はお前の盾だ。安心して、あいつを斬り殺せ」
心の中にぽっと灯がともったみたいに、雲の隙間から太陽が顔をのぞかせたみたいに、一気に体温が上昇する。
心のエンジンが回る。
妹「わかっ――」
木刀。
会長「花園ォッ!」
お兄ちゃんが即座に盾に変身。骨の軋ませる音を響かせながら、それでも全身全霊で花園のことを守ってくれる。
返す刀で一閃。反射的に、今度は花園が刃へと変わる。
それまで頭があった位置は虚空になって木刀は空を切る。意趣返しだ。そして反撃の一手でもある。
脇腹ががらんどう。
この距離なら外さない! 木刀で断ち切られるより先に、花園の刃が肉にめり込む!
会長「花園! 後ろ!」
うし、ろ。
金髪「こっちこっちこっちだぜぇっ!」
言葉が意識を経ずに身体を動かした。木刀男を牽制しながら背後に刃の雨あられをぶちかます。
先ほどまで戦っていた金髪。それの腹部が爆ぜて飛んで、上半身と下半身に分離する。
そして激痛。刃の幾本かが木刀で切断されたのだとすぐにわかった。
それは致命的だった。致命的な隙だった。
特別に太い一本、左足が切断される。
妹「あ、ぐぁあっ! ぐ、がぁ、はっ、ああぁ……!」
叫びが声にならない。変身も解けた。目の前には木刀男がいてお兄ちゃんが手を広げて花園のことを庇ってくれているけれど花園たちは連理の枝で連理の枝だからお兄ちゃんがいないと花園は能力を使えないし花園がこの状態じゃお兄ちゃんも花園を使えなくて
妹「お兄ちゃんは、逃げて!」
だめだ死んじゃうこのままじゃお兄ちゃんまでもが死んじゃう。
お兄ちゃんはだって能力者じゃなくて花園が能力者だからムムに唆されたのは花園なんだから死ぬ必要はなくて部外者なんだから
会長「俺は、お前の、盾だ」
会長「お前が一秒でも長く生きてくれれば、それでいい」
今そんな格好いいこと言っちゃだめだよぉ!
詰襟「……相性が悪かったな」
木刀男は一言、たった一言だけそう呟いて、胸の前で十字を切った。
詰襟「正義を執行する」
意識を失う刹那、確かに花園はお兄ちゃんと手を繋いでいた。
死の先が天国でも地獄でも、二人一緒なら、きっとどこでも楽園で、花園に違いないのだと思った。
―――――――――――――――――――――――
『連理の枝』園田花園死亡
残り四人
―――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――
死屍累々と死体の山。
校庭に避難していた生徒や教員は、何もなくとも死んでいく。大したことがなくとも死んでいく。
ばたばたと。
運が悪いがために。
不幸であるがために。
きっと目の前の女は――否、化け物は、己が巻き込んだそれらが実は途轍もなくかけがえのないものであることを知らないのだろう。失くして初めて気が付くということに、気が付いていない。
いや……この原色にとっては、全てが運の良しあしで決定づけられるものなのだろうか。
死んでしまった。あぁ、運が悪かったねと。生き残った? そりゃ運が良かったな、と。
失ったものは戻らない。時間は不可逆性だ。
あぁ。あの時私にお金があれば。
有り余るほどのお金があれば。
私はもっと幸せだったのに。
買い戻そう。
買い戻さなくては。
あの過去を、もっと愉快なものに書き換えないと。
でなければ、私は――
彩人「ははははははははっ!」
哄笑。
運悪く根腐れを起こしていた木がこちらに向かって倒れてくる。木に反応をしている間にも彩人はこちらへと投石。それはどんな見当違いの方向へ飛んで行ったとて、運が悪く私に命中するようになっている。
距離は縮まらない。勿論「時は金なり」を用いれば一気に近寄ることだってできるけれど、近寄った瞬間に不幸が襲ってきては目も当てられない。
会計「うるさいわね」
実に、うるさい。
時間停止。同時に突っ込む。
渾身の力を込めた蹴りが彩人の脇腹にクリーンヒット。私は運悪く足をもつれさせて転倒するけれど、彩人だって勢いを殺しきれていない。グラウンドを砂まみれになりながら転がっていく。
立ち上がったのは私の方が早い。それでも、攻撃に移るころには彩人も立ち上がっていて、踵を返して走り出した。
当然追った。校舎を回り、倉庫の影に消えていく。
罠かもしれない。不幸が働くかもしれない。一瞬躊躇はあったが、そうしていても始まらないのだ。行くしかない。
彩人「やっぱりわたしって――」
ぎらりと陽光を反射して輝く銃身が、
彩人「運がいい!」
灼熱感がまず先にあった。
僅かに遅れて、鼓膜に突き刺さる炸裂音。
会計「――ぐ、っ!」
左肩の肉が吹き飛んだ。涙が滲むがそれでも目の前は真っ直ぐに見続けている。
彩人が猟銃を構えてこちらに狙いを定めている。
引き金が引かれるよりも能力の起動が早かった。時間の止まった世界を駆け、野球部が片付け忘れていたのだろう金属バットを手に取る。
ぎりぎりまで近づくと言った横着はしない。残りの金額も余裕があるとは言い難いし、まずはあちらの出方を窺いたい。
それにしても、天網恢恢! 厄介なものを落としていくんだから!
照準がこちらを向く。反射的に時間を止め、僅かに体の位置をずらした。一秒に満たない時間でもその効果は絶大で、体のそばを弾丸が二発とおっていく。
やはり能力を使わなければ弾丸は命中してしまうのだろう。そして弾丸が放たれてからでは能力は起動できない。弾丸の速度は人間の知覚を凌駕しているから。
ならばどうすればいいか。走りながら思考を巡らせる。
弾丸が放たれてからは間に合わないが、最初のような不意の一撃でない限り、弾丸が放たれるより先に能力を起動できるのはわかった。弾丸を回避するのに必要な停止時間も。
いくら相手が幸運であると言っても弾丸が無尽蔵にあるわけでもあるまい。ならばいずれ私に好機は巡ってくるはずだ。チャンスというよりはオポチュニティ。千載一遇のそれを見逃さないようにしなければ。
けれど、一抹の不安もある。仮に私が弾丸を回避し続けたとして、相手が「私が回避する」ことを前提として、「回避されても命中した」という幸運――私にとっては不幸だが――を実現したら。
益体の無い考えなのはわかっている。なるようにしかならない。だからやるしかない。
それでもよぎってしまう不可抗力があるからこその一抹の不安なのだ。
銃口が向いた。
会計「ちっ!」
校舎の一部が弾けとんだ。回避行動をとってなければ顔面が割れたスイカみたいになっていたはずだ。猟銃を握るなんてはじめてだろうに。
ばん、ばん、ばんと連射。残弾はいくつなのだろうか。生憎、銃の知識は私には皆無だ。せめてそれくらいは知っていれば対策も立てられたけれど、仕方がない、とにかく今は逃げに徹する。
彩人「ははははっ! あなたもだいぶ、運がいい!」
彩人「わたしとおんなじだ! おんなじくらい、運がいいね!」
会計「あなたのそれは確かに運かもしれないけれど、私のこれは、実力よ」
彩人「実力ゥ?」
彩人「そんなものは意味がないね。努力だとか、実力だとか、才能だとか、そんなものは押しなべて無価値だよ」
彩人「全てを決めるのは運の良さ。運がいい人間は、何もしなくても、最後には美味しいところが転がり込んでくる」
彩人「『棚から牡丹餅』が落ちてくるのを待ってればいいだけなのさ!」
なら、私はただ単に運が悪かっただけだと?
あの辛い過去を、そういうものだから仕方がないよねと受け入れて、甘受して、生きて行けと?
会計「ふざけんな」
彩人は一瞬あっけにとられた顔をして、舌をぺろりと出した。
彩人「へぇ。あなた、そんな顔もできるんだ」
どんな顔をしてるんだかわからないけれど、言われっぱなしも癪なので、こう返す。
会計「生まれつきよ」
ちょっと違ったかしら?
意思の疎通はなかった。あるわけがない。それでも私たちは殆ど同時に地を蹴る。
銃声が鼓膜を揺さぶる。刹那だけ時間を止め、体を銃弾が掠めて行く感覚に恐れ戦きながらも、視線は彩人からずらさない。本懐もぶれさせない。
頬を伝う汗がむず痒い。
金属バットのグリップを握り締め、力強く叩きつけた。彩人はそれをひらりと回避し、銃口を再度向けてくる。
「とき、とぉおおう……」
亡者の声が聞こえた。
いや、そんなわけはないのだ。それは単なる呻き声。
背後でクラスメイトの女子が倒れているのが見えて、彼女は恐らく流れ弾に被弾したのだろう、腹部を真っ赤に染めている。そして助けを求めている。
弾丸が放たれた。
と、気づいた瞬間にはすでにそれは私のあばらを喰いちぎる。
意識が一瞬で遠のく。体内に響く形容しがたい不吉な音。身体のどこか大事なところが大変なことになってしまったと、一切の具体性は欠いた、けれど焦燥感だけは煽る音。
破壊力もまた尋常ではない。地面をきっちり踏みしめていたはずなのに、私の身体は弾丸によって遥か後方へと吹き飛ばされる。
背中から地面に落ちるが、その痛みよりもまずあばらの痛み。
思わず咽て血を吐いた。
やばい、気がする。
彩人「運が悪かったね!」
まだ終わらせないで頂戴。
体内時計を買い戻した。時間は約一分。それだけで六万円の出費……だいぶ痛いが、仕方がない。こうしなければ死んでしまうだけだ。
時間は買い戻せても感覚までは戻らない。あばらを撃ち抜かれた感覚はまだ体内にわだかまっていて、僅かに体の動きを制限している。
会計「厄介……」
炸裂音。
左腕の肉が根こそぎ持っていかれる。
今の一発で奪われたのが肉だけでよかった。命が奪われていないのであれば、
左腕に最早力は入らないから、金属バットを右手だけで握り締めて、
ぐ、っつぅっ!
時間を止めることも、怪我を治すことも、もう満足にできやしない。そこまでの金銭的な余裕はなくなった。窮余の一策、そのために残しておかなければいけないお金が、私にはある。
決して手を付けてはいけないお金がある。
空気が震える。
弾丸は今度こそ私の命を奪いに来た。腹のど真ん中に風穴があいて、随分と風通しのよくなった私の体は、ついに言うことを聞いてくれない。
穿たれた部分から下がまるで私のものではないみたい。
売りに出され、所有権の喪失した下半身。
けれど慣性がある。私が彩人を倒そうとしていた慣性、そちらへ向かっていたという方向性、それはいまだに失われず、倒れこみながらも手を伸ばす。
みしり。空気の歪んだ音が上空から降ってくる。
砕けた校舎の破片、刻む刃、愛の咆哮。狂ったきょうだいの振り回す刃、それが破砕した様々な存在が軒並み降り注いでくる。理解はしているけれど――対応できるほど満足に体は動かない。
全く……運が悪い!
彩人「どっちで死ぬかな!?」
銃口がぽっかりとこちらを見ている。
会計「死ぬつもりはないわね」
瓦礫が私の脚を押し潰したのは言葉を言い切るのとほぼ同時だった。下半身の感覚がなかったのは幸いだ、これ以上痛みを感じなくて済むから。
とはいえ、これでもう動けない。両足がぐしゃぐしゃに押し潰されて歩けるはずもない。
彩人「安心してよ。なるべくうまく撃ってあげるから」
にこりと笑って、彩人はこちらに銃口を突き付けた。
ぐい、と額に冷たい鉄が食い込んでいる。
私はせめてもの抵抗として彩人の足首を掴んだ。離すものかと力強く。
それは所詮私の手の跡をつけるくらいの効果しか及ぼさない。まったく私は無力だった。どんな力も持たない、そして幸運さえも逃げ出した、愚かで矮小な小娘に過ぎなかった。
……まるで嘗ての私自身だ
南無三!
彩人「は」
彩人は笑った。口をぽかんと開けて、馬鹿みたいな顔をして、笑っていた。
私は知っている。人間、どうしようもなくなると、どうしていいかわからなくなると、笑うしかないんだってことを。
彩人「は、ははは」
弾丸は出ない。いくら彩人が引き金を引いても。
会計「弾切れ、よ」
彩人「な、なんでこんな――!」
彩人「こんな、『運の悪い』こと!」
そうだ、まさしく彼女は「運が悪かった」。
賭けだった。残弾など私にはわからない。そして、恐らく彩人にも分からないだろう。彼女はけれど確信していたはずだ。自分は運がいいから私を殺す前に残弾がなくなることはないだろう、と。
もしくは、残弾がなくなる前に私を殺せるだろう、と。
その驕りを衝いた。
狂乱している彼女の脚を引っ張れば、たやすく無様な声を出して地面に倒れこんだ。そうして私は、なんとか体を引きずって、無理やり彩人の上に乗る。
全身全霊で体重をかけて、とりあえず彩人の顔面を一回殴ってみる。
そしてついに、私に不幸は降りかかってこない。
鼻血で真っ赤に染まる顔面を拭うことすらせず、彩人は噛みつくような姿勢でこちらに詰め寄ってきた。
彩人「なんで! 今日は、最高の日だったはずなのに! 一年で一番の幸運で――!」
彩人「今日は……」
そこで彩人はようやく気が付いたらしかった。
周囲が真っ暗であることに。
冷たい風が頬を撫でるということに。
会計「ねぇ、あなた、知ってる? お金って凄いの。お金さえあれば何でもできる」
会計「ご飯も買える。飲み物も買える。自分の脚で歩かなくったっていいし、友情も、夫婦仲も、お金次第」
会計「時間だって買える!」
彩人「ま、さか、あなた!」
会計「『時は金なり』。お金で時間が買えるなら、時間を売ってお金にしたって、いいじゃない?」
会計「私とあなたの時間を売った――日付はすでに変わった!」
最初に納得できなかったのがいつだったのかは忘れたけれど、例えば私の「時は金なり」は「時間でお金を、お金で時間を買う」能力。お金がなければ時間を買えない。だから無尽蔵に、無計画に、お金を使うわけにはいかない。
「弱肉強食」もそう。超回復を発揮するには他者を食べなければ血肉にできない。そして血肉にした分は消費されて、ストックがなくなればどこかで補充する必要がある。
相手を不幸にする能力。近づけば近づくほど効果が増して、至近距離では触れることすら難しい、そんな「棚から牡丹餅」は、あまりに都合が良すぎやしないだろうか。
何かがおかしいと思った。
何かが間違っていると思った。
きっと相手にも、クリアしなければならない条件があるのだと思った。
いや――蓋を開けてみればもっと根本的なことを勘違いしていたようだけれど。
そもそも彩人の能力は「私たちを不幸にする」ことではない。その逆だ。
彩人の能力は「彼女を幸福にする」こと。
ゆえに、相対的に私たちに不幸が訪れる。
その可能性に至ったとき、真っ先に思い至ったクリアすべき条件。
会計「残念だったわね。あなた、今日の運勢、最下位よ」
携帯を操作して見せてやる。スマートフォンは便利だ。いつだってどこだって、多種多様な占いを見ることができる。
星座占い。十二位はおとめ座。
彩人が本当におとめ座かどうかの確証はない。けれど昨日の一位はおとめ座で、校舎にヘリを落とすほどの幸運が、三位や二位のものであるはずがないという勘だった。
なにより、今日の星座占いで彩人が悪い運勢でなければ、私は猟銃で撃たれて死んでいただろう。
最後の最後で彩人は運が悪かった。
手を彩人の首にかける。忘我の彼女はそこでようやく状況を理解し、全力で振りほどこうとしてくるが、まったく非力だ。それ以前に彩人が遮二無二になっている状況がなんだか滑稽にすら思えてくる。
彩人「ぐっ! や、やめっ、……! かは、ぁっ、や、めろ!」
彩人「ふ、ふざけ、ふざけんあ! わら、わたひ、が、ここ、こん、ぁ!」
違うでしょう? そうじゃないでしょう?
そうやって必死になって何かをするのは、あなたの生き様ではないでしょう?
努力が無駄だと、必死になるのが無意味だと、そう嘲ったのはどこのどいつだったか覚えてるでしょう!
私は逆。
必死になって金をかき集め、必死になって私の人生をよりよいものにしなくてはいけないのだ。
会計「だからっ! 私が! あなたなどに負けるはずがないのよ!」
蛙の潰れる音が彩人の最後の声だった。顔を赤くしたり青くしたりした彼女は、眼を剥いて、そのまま全身から力が抜ける。
会計「は、はあ、はぁっ……やった、やったわ、ざまぁみなさい」
会計「で、でも……これは、やばいわ、ね。実に」
腹に穴が開いていて、両足は膝から下がない。既にアスファルトは血だまりになっている。
急いで私の財布と彩人の財布を漁る。十二時間ぶんの時間を売ったのだ、それなりにお金が増えていておかしくはないはず……。
開いた財布には二万円ほどしか入ってなかった。最後に入っていた額と併せて考えると、一時間当たり七百五十円程度。最低賃金? 私の時間も足元を見られたものね。
……まぁ、所詮私なんて、その程度の人間だったということかしら。
時間を戻すのはもうやめた。有り金はたいて時間を戻したところでたかが知れている。出血死は免れない。
死への恐怖は不思議となかった。ただ、つまらない人生だなと思って、つまらない人生過ぎたなと思って、残念で、残念、で何より悔しくて。
悔しくて、悔しくて。
お金がなかったことが、恨めしくて。
もしお金があったのならば、これまでの人生も、もう少し「つまる」ものになっていただろうか?
……だなんて、不毛よね、きっと。
と、路の向こうから歩いてくる人影があった。悠々と歩いてくるシルエット。私はそれに見覚えがあった。
会計「あぁ、あなたなのね。おめでとう」
校舎に残った二人の決着はとうについていたに違いない。だいぶ待たせてしまって申し訳ない。
会計「ごめんなさいね。最後に私のこと殺してくれない?」
会計「走馬灯を見るって言うじゃない。人間、死ぬ前に。私それっていやなの。どうして死ぬ間際に追い打ちをかけられなきゃいけないのよ」
どうしようもない、つまらない人生の走馬灯なんて、拷問に近い。
「……」
ありがとう。
嬉しくって、本当、欠伸が出ちゃう。
―――――――――――――――――――――――――――――
『棚から牡丹餅』福留大福
『時は金なり』時任一時 死亡
残り1人
――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――
木刀を構えなおす間に「弱肉強食」は復活を果たしている。上半身と下半身が分離した状況からの復活だなんて、まるで人間離れしている所業だ。
何度も見たから驚かないけれど、この非人を相手にするのだと思えば、心の肩が凝ってしょうがない。
全く、何度殺せば死ぬのやら。
どうせ死ぬまで殺すだけだが、一撃必殺がならないのは厄介だ。
こんな思考の流れの中でも神経は研ぎ澄まされていく。比例して、目つきも同様に。
俺は木刀を両手で握り、正眼に構える。どんな扱いをしても、こいつは必ずおれの手の中にあった。俺とともにあった。
辛い時も楽しいときも――と言おうとしたが、木刀を持っているときは大抵正義を執行するときだ。喜ばしいことではあるが楽しいことではなく、辛いことではあるが看過できることではあった。
金髪は指をごきんごきん鳴らし、まるで肉食獣のように犬歯をむき出しにして笑った。いや、もしかしたら笑っていないのかもしれなかったが、俺には少なくともそう見えた。
あくまで自然体である。背負った殺意が膨らんでいくのを気にしないのであれば。
金髪「なぁ、『悪即斬』」
詰襟「どうした、『弱肉強食』」
お互いに構えたまま口を開く。
金髪「お前はどんな世界を望む」
詰襟「悪が根絶された世界。正義が満喫する世界」
金髪「止むに止まれぬ犯罪者でも、悪は殺すか」
詰襟「殺す」
金髪「喰わねば餓えると盗んだ老婆は」
詰襟「殺す」
金髪「虐待に耐え兼ね親を殺した子供は」
詰襟「殺す」
金髪「わかった」
詰襟「そうか」
金髪「お前と俺様の生き様は、大事なところが真逆だなぁあああああああっ!」
詰襟「あぁ、そうだな」
俺たちは互いに飛び出す。
詰襟「残念だ」
本心から。
根っこの部分は俺と同じで、ついた枝葉が違うだけ。
そして負けたほうが徒花となる。
木刀の一閃。大ぶりの攻撃は金髪には当たらない。身を屈めて回避、踏込と同時の行動で速度が急上昇、懐に潜り込まれる。
脚を出した。それをタックルでからめ捕られる。そこまでは予想済みなので、完璧に脚がとられるより先に自ら後ろへと跳ぶ。
ハンドスプリングを駆使して距離を取った。即座に詰められる。俺と金髪のレンジは僅かに異なっていて、互いに互いの有利な距離を保とうとするのがこの追いかけっこの正体だ。
木刀の存在を考えると僅かに俺の方が不利。小回りではあちらに軍配が上がる。とにかくあちらの回転力が高い。
相性の有利不利もあった。先ほどの近親相姦カップルとは逆に、今度は俺の相性が悪い。
「悪即斬」は能力を斬る。刃だろうが、盾だろうが、問答無用。しかし金髪の超回復は能力でこそあれど、俺が斬れるタイプの能力ではない。超回復は過程だ。結果ではない。そして俺の木刀は過程を斬れない。
だが、勝ちへの道筋はいくらも残されている。
木刀を手で捌かれ、残った片手が鳩尾へめりこむ。今度は後ろへ跳ばなかった。体を捩じりつつ、こちらの射程のさらに内側、金髪の射程のさらに内側へと突入する。
首へと手をかけ、すれ違いざま――
詰襟「くたばれ」
一気に捩じる!
手加減はしていない。ごきごきぶちんと鈍い音が響いて金髪の顔が百八十度後ろを向いた。
が!
金髪「くたばるかよボケェッ!」
即座に体が首の動きに追いつく。伸ばされた手は詰襟の袖へ。その手を弾くことはできなかった。
痛恨。
距離が開かない。
金髪「昂ぶる昂ぶる昂ぶるぜぇっ!」
金髪「てめぇを殺し! 「時は金なり」を殺し! 「棚から牡丹餅」を殺し!」
金髪「所詮この世は弱肉強食! あぁそうだ! だからあいつはとって食われた! だからてめぇは俺に食われろ!」
あいつとは誰のことか。
脇腹を蹴られて強か吹き飛ぶ。体勢よりもまずは視界。金髪の位置の確保に努めなければ。
いや、その手間はいらなかった。
体勢を崩した俺へと金髪が視界いっぱいに躍り掛かってきていたから。
マウントを取られてはかなわない。滞空時に蹴りで応戦、なんとか接敵だけは防いで、反動を利用して立ち上がる。
また距離が開いた。およそ四メートル。互いに一歩踏み込んで、プラス木刀分ちょうどの距離ではあるが、金髪とて愚かではない。それはわかっているはず。だから俺が踏み込んでも向こうが踏み込んでくるはずはない。
すれば木刀は空振りに終わる。あちらの踏込を確認したのちに木刀を振ったのでは遅すぎるし……厄介だな。
逃げるという選択肢はない。悪は撲滅する。撲滅しなければいけない。その使命感は当然あって、それ以外にも、こいつはここで殺し切らないとあとあと面倒なことになるという直観があった。
恐らくそれはあちらにもあるのだろう。だからこそ俺に追いすがる。そんな因縁めいた何かを感じざるを得ない。
詰襟「……いちいちうるさい。躁鬱が激しすぎるんだ、お前は」
金髪「あぁ?」
やおら声のトーンを落とす「弱肉強食」。
金髪「最早まともじゃいられねぇだろう」
金髪「自分で自分を鼓舞してよぉ、なにしてんだかわかんねぇくらいにしねぇとよぉ」
金髪「だって俺たちゃ人殺してんだぜぇええええええっ!?」
地面が爆ぜた。超高速で向こうが接近。右の手を伸ばしてまずはこちらの木刀を奪い去ろうとしてくるが、俺にはわかる。それは確実にブラフ。本命は隠された左手――ではなく!
俺は限りない速度で後ろに跳んだ。
木刀が金髪の右腕を落とし、左腕も落とす。しかし再生速度は神速。まるで木刀が通り抜けたようにさえ見える。
攻撃を無効化する能力を最大限に生かし、捨て身がこいつにとっては捨て身ではないのだ!
金髪「殺し殺して殺しを殺し!」
金髪「死に死に死んで死を死なす!」
転がりのよい文句を叫んで、重たい拳が俺の肺腑を的確に抉ってくる。木刀で弾こうとしたが岩のような硬さだ。早々に諦め自ら飛んで威力を殺した。
金髪の追撃は止まない。着地と同時に地面を蹴って突っ込んでくる。体勢は限りなく低い。木刀との打ち合いよりも機動力を削ぐことに特化した攻撃は、低姿勢が故に、木刀の命中までの時間が僅かに多い。
下からの打ち上げも左手で掴まれる。手のひらを破壊はできるも、致命傷になり得ないその攻撃は、結局超回復によって無意味だった。
俺は覚悟を決めた。
両の脚をしっかりと地面に設置させ、踏みしめ、校舎と自分、そして大地と自分を同一化させる。脚に根を張り、木刀を振りかぶる。
金髪が足を掬ってくる。バランスを崩す俺の体――そして確かに、いま、体幹の存在を強く感じる。
そのまま打ち下ろした。
凄絶な音が骨を震わせて床に巨大な罅を入れる。頭からめり込んだ金髪は、恐らく頭蓋砕けているだろうに、数秒で起き上がる。
血まみれの顔。既に傷自治体は修復されてるのであろうが。
俺も崩したバランスを何とか元に戻せば、お互いの距離はまた開いていた。
俺たちの間に僅かな沈黙が生まれる。
金髪「なんでこうなっちまったんだろうな」
金髪が呟いた。俺に聞かせようとしているのではないらしい。ただ、こちらの反応を待っているような気はした。
……戯れに反応してみる。
詰襟「過去は変えられねぇからな」
金髪「あいつは買い戻そうとしてたけどな」
詰襟「『時は金なり』か」
あいつも不幸な女だ。
金髪「どいつもこいつも頭のおかしい奴ばっかりだ」
詰襟「頭がおかしくなきゃ、宇宙人の戯言なんて信じないだろうさ」
金髪「は? 俺は今でも信じちゃいねぇよ。うさんくさすぎる」
詰襟「否定はしねぇが」
「「ただ」」
言葉が重なる。
「「信じねぇけど、縋りたい」」
金髪「正義なんて弱者にとっちゃ重荷にしかならねぇ。正しく生きたくても生きていけねぇやつがいる。俺様はそいつらをこそ救いたい」
詰襟「そんなことをしてたら正義なんてザルになる。本当に弱者を救帯なら、世界を正義の枠にはめることこそが重要だ」
金髪「この石頭め」
詰襟「黙れ。悪の手先」
お互いの言葉に押し出されるように走り出していた。
木刀と拳がぶつかり合う。
流石に木刀の硬度に拳が勝てるはずはない。拳のひしゃげる音が響くのだけれど――
金髪「『弱肉強食』!」
能力で痛覚と怪我を全て無視してそのまま殴りこんでくる。
むちゃくちゃだな。
手を取られると厳しい。木刀を細かく振って捕まれないようにしつつ、反撃の機会を窺う。
金髪の不見出しに合わせて突き。僅かに体を沿って、逆に木刀を捻り上げられる。しかしそのときすでに木刀は俺の手から離れていて、一気に距離を詰めるべく地を蹴りあげた。
右ストレート。受けるにしろ避けるにしろ、金髪の行動はまず木刀を手放すところからスタートする。そのラグ、遅延は限りなく致命的に過ぎて、その一瞬の重さを金髪自身がわかっているからこそ、引きつった顔をしている。
首を折ってもダメだった。なら、窒息はどうだ?
首に伸びた手が滑っていく。
詰襟「――っ!?」
迫る金髪の顔。
距離を測り違えた!? というよりは……。
頭突き!
全身を擲っての飛込み気味の頭突きがクリーンヒット。鼻、そして頬骨が軋みを挙げる。髪の毛が眼に入って視界も一瞬奪われた。
一瞬の重さは致命的だ。図らずとも俺が意図したように。
詰襟「ぐっ!」
金髪「いただきまぁああああすっ!」
金髪の腹部が上下に裂け、巨大な口が――
これはやばい!
左腕が肘の先から消失する。金髪の腹部が咀嚼し満足そうにげっぷ。俺は失った左手を確認するより先に右手だけで木刀を再取得、短期決戦を挑むべく走りこんだ。
あぁ、廊下が俺の血で滑りやがる!
しかし片手で握る木刀は不安定で、何より俺が木刀に振られてしまう。
酷い量の出血だ。あとどれだけ保つのか考えたくもないほどに。
金髪は当然逃げ、俺の失血死を待つべきだとは思うのだが、そうする気配は微塵も見えなかった。なぜか疑問に思う反面、逆の立場であれば自分はどうするかと考えて、僅かに納得がいく。
詰襟「悪は即ち斬って捨てる。お前は俺に殺されろ」
金髪「てめぇの状態考えてからもの言えや」
金髪の両手を捌きながら的確に脚を叩き込んでいく。隙は大きいがこの際贅沢は言っていられない。金髪にとって脅威なのは能力を籠めたこの木刀の一撃で、即死することはないにせよ、再生復活までに大きな時間がかかるからだ。
出した脚を踏みつけられるがそのまま肩ごとぶつかる。一気に距離を詰めての後ろ回し蹴り。予備動作が大きく命中はしないが、離れた俺と金髪の距離は木刀の射程。
隙は見逃さない。一気に木刀を抜く。
金髪の左腕が宙に舞う。
詰襟「これで条件は対等」
金髪「一緒にすんなボケェエエエエエッ!」
金髪「『弱肉強食』ゥッ!」
腕が生える――なんて人間離れ。そしてそれを可能にする生き様たるや!
だが俺は慌てない。この状況は予想済みだ。すぐさま反撃が跳んでくることを念頭に置いておけば、とかく怖いことはない。
それよりも距離を離すことが今は悪手。一瞬で再生などしないのだから、それまでこいつの左側は防御が脆い。無論それは俺だって同じだけれど。
ハイキックが確かに金髪の顎を捉える。
俺は知っている。こいつの矛盾を。
生き様に開いた穴を。
最後に物を言うのはそういう部分なのだ。
体勢を立て直されるより先に飛びかかる!
金髪「うぜぇえええええっ! うぜぇんだよ、てめぇはよぉっ!」
金髪「おとなしく俺様に食われとけ!」
木刀の一閃は生えたばかりの左腕をもう一度切り落とす。歪む金髪の顔。僅かに靄がかかって見える。くそ。
詰襟「うるさい。悪即斬、それだけは譲れん」
金髪「そこを譲れつってんだよクソが!」
金髪「畿内ィイイイイイッ!」
金髪の咆哮。叫んだそれは人の名前だろうか? だとしたら、この罪に塗れた野獣にも、大事な人がいたのかもしれない。
負けられぬ理由。
詰襟「俺にもあるもんでな」
残った右手が詰襟の襟首を掴んでくる。そのまま投げの体勢に。
合わせれば重心が崩れた。そこを足が払われる。
落ちる速度を利用し、そのまま蹴り。まるでカポエイラの要領で腹部を蹴るが、金髪は一瞬怯んだきりでそれ以上の効果を見せない。
逆に脚を掴まれた。
詰襟「くっ!」
意趣返しで脚を払う。同時につかまれていた脚を引く。金髪はつんのめって前へと倒れ、左腕はまだ再生しきっておらず、顔面から落ちた。
立ち上がるのは同時。
タックル気味に特攻。再生した左手と合わせ、両手で止められる。
膝が入るが体を捩じって鳩尾だけは守った。そのまま勢いで押し続ける。
金髪の足の甲を踏みつけながら、もう片方の足でハイキック。それは止められるが、先ほどと同様に脚を入れ替えての後ろ回し蹴り。これもまた止められる。
拳が俺の顔を打った。僅かな仰け反りも致命傷になる。奥歯を噛み締めそれをこらえ、本命の右ストレートを潜り込んで回避。
顔の横を通り過ぎた腕が曲がって、そのまま俺の襟首を掴んだ。
詰襟「しまっ――!」
金髪「いただきまぁああああっすっ!」
体を捩じる。
木刀を放った。
最短距離を往く最速の木刀。狙いは真っ直ぐ、金髪の腹部。
大きく開いた口。
それだけは、そこだけが、金髪の能力の中で唯一の結果。俺が斬れる部位。
詰襟「死ねぇえええええええええっ!」
金髪「てめぇが死ねぇええええええええっ!」
交錯。
詰襟「……」
金髪「……」
僅かに無言の間があって、俺は片膝をついた。
息が荒い。脂汗が止まらない。足元が自分の血で滑る。
それでも言わなければいけないことがあった。
詰襟「もし」
金髪「もし?」
詰襟「もし敗因があるとするなら」
金髪「するなら、なんだよ」
詰襟「お前、自分の生き様、信じてないだろ」
金髪「もちろん」
莞爾と笑った金髪は、腹部に刺さった木刀を引き抜いて、廊下に倒れた。
詰襟「それだ」
金髪「それか」
詰襟「『弱肉強食』を生き様として掲げてるお前の理想の世界は、『弱肉強食ではない世界』だ。その矛盾。おかしいとは、思わなかったか」
金髪「思わねぇな。今を変えたいと思うからこそ、宇宙人に乗ってやってんだぜ、こっちはよぉ」
それもまた生き様か。
金髪「なぁ」
詰襟「なんだ」
金髪「町のはずれによぉ、でっけぇお屋敷があってよぉ」
金髪「そこに、内村畿内ってやつが、住んでるんだけど、よぉ……」
町はずれ。
でっかいお屋敷。
金髪「悪いんだけど、そいつに」
……。
……死んだ、か。
最後に何か、聞いてはいけないような、聞くべきではないような、そんな遺言を授かってしまったような、そんな気分だった。
とはいえ、果たして俺が生きていられるのか、そこが問題だ。
最後の金髪の攻撃は、確実に俺を殺す一手。
結果がこれだ。
右の脇腹から肋骨にかけて、一気に削り取られた――食い千切られてしまった。
呼吸も最早苦しい。
言葉を出すごとに血が混じる。
視界も霞んで、両親の姿が、ぼんやりと見えてくる。
あぁ……俺は、死ぬのか?
「大丈夫だよ」
淡い光が俺を包む。まるで生き様を授かったときのように。
無邪気な声の主はムムだった。
ムム「さすがに優勝者なしなんてつまんないことはしないから、さ」
既に体は全快していた。腕は再生しているし、流した血のあとなどどこにもない。それ以前に、「連理の枝」やヘリによって破壊された痕がない。
なにより、数々の死体がない。
ムム「あぁ、だってそりゃ消すよ。死んだ人は死んだんだ。残したりはしない」
詰襟「……巻き添えを食らったやつらもか?」
ムム「どうせみんな君の世界再編に巻き込まれるんだ。考えるだけ野暮ってもんさ」
そういうものなのだろうか?
あまりに現実感がなく、あまりにあっさりしすぎていて、どうにも順応できていない。所詮俺たちなどこの宇宙人の手のひらの上、さして気にすることもない矮小な生物なのだと言われているようで、少し癪だった。
詰襟「……優勝?」
今更ながらに疑問がわく。
詰襟「『時は金なり』は? 『棚から牡丹餅』は?」
ムム「あの二人は明日に跳んだよ。だから、ある意味まだ決着はついてないともいえるし、でも絶対的な経過時間の面から考えれば、すでに決着はついたともいえる」
わけのわからないことを話す宇宙人だった。絶対的な経過時間? どういうことだ?
ムム「二人は『時は金なり』の能力で時間を跳躍した。『棚から牡丹餅』を破るためにね。跳躍してからの決着は存外あっさりとついたけど、時間軸的には今晩なのさ」
ムム「だから、一応厳密に行いたいと考えているボクとしては、現実的にあの二人が共倒れするまで願いをかなえてあげることはできない、ということになるかな」
共倒れ……そういう結末に、なったのか。
最早この宇宙人が未来を――それとも平行世界と言うのか?――見ることができるくらいでは驚きやしなかった。
詰襟「なら、待てばいいのか?」
ムム「それもたるいよね。観客も、飽きるだろう。ボクたちも時間を跳躍するよ」
と言うが早いか、世界が一瞬ぐるりと回転し、外は夜の帳に包まれている。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。汗が急激に冷えて体がぞくりとした。
……いや、ただ汗が冷えたからだけではないのかもしれない。冷えたのは恐らく、肝。時間跳躍を軽々行える技術力は、これまで数多の殺し合いを経験していたとて、なお信じがたい。
僅かに歩くと、街灯に照らされる中で、人間が倒れている。
会計「あぁ、あなたなのね。おめでとう」
地べたに「時は金なり」が倒れていた。
両足が潰れている。腹に穴が開いている。生きているのが不思議なくらいの重傷で、事実余命は幾許もないのだろう。彼女の瞳は焦点が合っていない。霞んで、澱んで、光が失われつつある。
僅かに離れた位置に彩人。結局最後まで洋と知れない奇人だった。こちらは外傷こそないがぴくりとも動かない。理由と手段はどうであれ、「時は金なり」が勝ったのだろう。
会計「ごめんなさいね。最後に私のこと殺してくれない?」
唐突な申し出だった。わからない、とは言わない。最早彼女は死を待つのみだ。ならばいっそ一思いに楽にしてやるのが正しい道ではないのかと思った。
会計「走馬灯を見るって言うじゃない。人間、死ぬ前に。私それっていやなの。どうして死ぬ間際に追い打ちをかけられなきゃいけないのよ」
彼女にそこまで言わせるものが何か、俺はなんとなく心当たりがあった。時は金なり。いくら金を積んでも惜しくない、買い直したい時間が彼女にはあるのだ。
一目見たときからなんとなくそんな雰囲気はしていた。嘗て新聞で見た名前と顔。時任一時。
「……」
同情しているのだろうか? 俺が? らしくもない。
ただ、ここでこいつを殺すことが、正義に悖るとは思わなかった。
だから木刀を振り下ろす。
単純な作業だ。簡単な行為だ。そして、この恐ろしく楽な動作によって、俺の優勝が決定する。
ムム「おめでとう。これできみの優勝が確定した」
思考をトレースした言葉をムムが吐いた。不思議と安堵の感情は浮かんでこない。叫びだしたくなるような歓喜も。
詰襟「……」
ムム「思ったより静かなんだね。疲れたのかな? それとも、今更ながらに罪悪感?」
そんなことはない。正義のための礎ならば、死者も満足してくれるだろう。
ムム「まぁ気にするもんじゃない。大事なのは、きみが生き残った。優勝したという事実、それだけさ」
詰襟「優勝……」
遅れて実感と感慨がわいてきた。俺はやり遂げたのだ。
ムム「なんだよ、もっと喜びなよ。喜んでくれよ」
詰襟「いや、悪い。なんか、まだ、飲み込めてなくてな」
ムム「きみは優勝したんだ。そのぶん喜んでもらわなくちゃ、僕たちも困るってもんだよ」
ムム「さぁ! 正田公正! 『悪即斬』! きみの願いをかなえてあげよう!」
詰襟「俺の、願い」
ムム「あぁそうさ。どんな願いだっていい。君の望む世界を形作ろう!」
詰襟「俺は」
俺は。
詰襟「悪の存在しない世界が欲しい」
ムム「だーめ」
え?
と口に出せたのかどうか、わからない。
だって俺の腹には風穴が空いてあったから。
倒れる寸前、とてつもなく、とてつもなく邪悪な――邪悪すぎる、どす黒すぎる、張り付いたような笑顔が視界をよぎった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――
ムム「うくく」
ムム「うはは」
ムム「うひゃははははははははははははははっ!」
あぁおっかしい。
おかしすぎる。
面白くて腹が攀じきれちゃいそうだ。
なに、今の顔。
え? って。
え? って。
なんて間抜けな顔。口をぽかんと開けちゃってさぁ!
どうして、どうしてこうも人間ってのは、
ムム「愚かなんだろうねぇ!? うひゃ、ひゃはは、うっひひひひはははははっ!」
詰襟「どう、いう……」
どてっぱらに風穴が空いて虫の息のクソ虫が呟いた。聞くに堪えない声だ。ボクの耳が腐る。
ムム「はぁあああっ!? お前、こうなってもまだ現状を理解してねぇのかあったま悪ィなぁ!?」
ムム「だぁれが未開の文明の野蛮人の願い事を叶えてやるよ? そんな無駄な労力を払うよ? ちったぁ足りない脳みそ使いな、もう」
ぎりり、と詰襟が奥歯を噛み締めた。激痛に身悶えしてもおかしくないはずなのに、それより怒りが勝っているのか、般若も裸足で逃げる修羅の形相。
詰襟「てめぇ、騙しやがったな!」
跳ね起きる。
わお、そんな元気がどこにあるのさ。
ムム「寝てなよ」
不可視の一撃が詰襟の膝を抉った。片足が取れては仕方がない。物理的に立っていることなどできなくて、立ち上がったのは全く無駄に帰す。
それでも詰襟は諦めていない。怒りと、絶望と、それらがまぜこぜになった表情で、ボクの方を一心不乱に見ている。
あぁそんなに見ないでくれよ。射精しちゃうじゃないか。
ムム「ボクらはハナからてめぇら野蛮人の願い事なんて叶えるつもりなんざなかったのさ! ただ見たかっただけ! そう! ただ、お前らの今みたいな醜悪な顔! それが見たくて見たくて!」
ムム「その顔を肴に飲む酒が、この世で一番うまいと思うからさぁ!」
詰襟「ふざけんな……ふざけんなっ!」
ムム「ふざけてねぇよこちとら真面目なんだよマジにてめぇらの絶望顔を見てぇんだよ!」
詰襟「この、極悪人が!」
ムム「猿がボクたちを裁こうだなんて驕るんじゃねぇぞ愚図ッ!」
不可視の一撃が残った片足も抉る。牛刀を振り下ろしたようなアタックで詰襟の脚は勢いよく宙に舞った。
形容しがたい絶叫が響く。
ムム「実験動物がよぉ、反抗したらだめだろうが?」
ムム「愛玩動物がよぉ、噛みついたらだめだろうが?」
ムム「ちったぁ自分の立場を弁えなよ。ね?」
詰襟「くそったれ、この、てめぇは許さん、殺す、ぶっ殺す!」
握り締めた木刀がかたかた震えるほどの力を込めた詰襟は、気概だけは超一流だ。しかし惜しむらくは体がそれについてこないということ。
両足が取れてちゃなにもできるはずがないよ。
最大限に笑顔を作って。
ムム「やってみなよ」
できるはずなどないのだけれどね。
ムム「じゃあ、ボクはもう行くね。別の都市でもやらなきゃいけないんだ。結構忙しいんだよ、ボク」
詰襟「ムム、てめぇ、待てこら、ムム、ムムゥウウウウウウウッ!」
死にぞこないの呪詛もまたいいものだ。ボクと猿の間に流れる深く長い川の存在を感じられて、ぞくぞくする。
ムム「……?」
ぴたりと足が止まった。止めるつもりなどなかったのに。
……どういうことだ?
体が動かない?
ムム「お前、何かしたか?」
尋ねながら自答する。そんなことは有り得ない。詰襟に渡した能力は『悪即斬』。詰襟が悪と断じた物を木刀で切断する能力。それ以上のことは有り得ない。いくら、彼がボクを巨悪だと判断したとしても。
が、ボクの体が縫われたように動かないのもまた事実。
この不合理。
どういうことだ?
「有言実行、しましょうか」
有り得ない声が聞こえた。
いやいや、それはおかしいだろう。
だってお前はとっくに死んだ。ボクを欺くなんてことはできるはずがない。
お前は確かにあのとき死んだのだ。
「邪気眼」に殺されたはずだろう!?
ムム「どうしてお前がそこにいるっ!? 『有言実行』ォオオオオオ!」
詰襟「……有田、どうして、お前、ここに」
少女「有言実行、しましょうか」
まるで亡霊のように――いや、事実こいつは死んでいるはずなのだから亡霊以外の何物でもない!
少女「有言実行、しましょうか」
亡霊はボクに語りかける。しつこく、しつこく、何度でも。
有言実行――相手の発言に言質を取って、それを無理やりにでも実行させる、ある種の願望実現能力。
『安心していいよ。きちんと約束は果たす。優勝者には、能力の授与と、願いをかなえる権利がちゃんと与えられる』
『有言実行してくださいね』
『大丈夫だって。しつこいな』
いつかのやりとりが脳裏をよぎる。
まさか、まさかお前!
ムム「死してなお! ボクに! あの時の約束を!?」
頭がおかしい。
どうしてそこまでできるのだ。何がそこまでさせるのだ。
執念。妄執。能力だけが依然として残って、化けて出るほど強い生き様。
そんなものは見たことない。聞いたこともない!
ボクのプランに入ってない!
ムム「なんだよお前……おかしいんじゃないのか……」
ムム「消えろよ。消えてくれ、消えろって!」
この感情が恐怖だとでも言うのか。
ボクの体から光が漏れ出ていく。ボクらの技術の結晶、理想を現実に変える能力。ボクらの故郷は全人類がこの能力を手に入れ、何もかも不自由しなくなった。
物質的に満たされた世界。けれど精神は満たされない。ボクたちは何よりも娯楽を求めていた。
ムム「く、くそ! くそぉおおおおっ!」
ムム「だめだ! 叶えてしまう! ちくしょう、どうして貴様ら猿ごときの!」
ムム「猿ごときに能力を使わなくちゃならないんだぁああああっ!」
少女「さ、先輩。願いを叶えちゃってください」
少女「有言実行――発言したことには責任を以て実行していただかないと」
少女「でしょう?」
詰襟「おい、くそったれ宇宙人。俺の願いを叶えてもらおう」
ムム「有言実行! 貴ッ様ァ――ッ!」
詰襟「いいか、よく聞け」
詰襟「『お前たちは地球に来なかった』」
詰襟「『そして金輪際、地球に来ることはない』」
詰襟「そういう風に、世界と過去を作り直してもらおうか!」
ムム「くそ! くそ! ちくしょおおおおおおおおおおおっ!」
光がボクを、詰襟を、亡霊を、そして世界を包み込んで、
全てが白く塗り潰された。
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―――――――――――――――――――――――――――――
目が覚めた途端カーテン越しの陽光に目を細めました。開くまでもありません。今日は快晴。いい気分。布団でも干したくなります。
折角の休日に天気がいいと気分も晴れやかです。これも日ごろの行いがいいからなのでしょう。有言実行。嘘をつかない私の善行を、神様も見ていてくださるはずです。
とはいえ確たる予定があるわけではありません。まぁアーケードの方をぶらぶら散歩するのもいいでしょう。あくせく生きるのは性に合いませんから。
お母さんと一緒に朝ご飯を食べ、ニュースを見ます。不穏なものは少ないでした。
今日はどこかに行くの? と聞いてくるお母さんに、アーケードの方に行くかもと返します。じゃあついでに買ってきてよ云々の会話をして、私は自室に戻り、支度をはじめました。
パジャマから私服へ。ブラをつけ、鏡で肌の調子を確認。……よし、にきびはできてませんね。
髪の毛に櫛を入れてお着替え完了。ポシェットに必要なものを入れて自転車に飛び乗ります。
脚を回せばぐんぐんと世界が後ろに流れていきます。
気持ちいい。
アーケードはしかし、残念ながら歩行者天国。自転車は駐輪場に止めなければなりません。
と、視界を原色がよぎりました。
「すげぇ」
思わず呟いてしまいます。
てくてくとこちらに緑色が近づいてきます。同じく緑色の自転車を、私のそばに止め、さっとどこかへ行ってしまいました。
こんな地方都市にもあんなおしゃれ上級者がいるんですね。
さて。気を取り直して。
今日は何を買おっかなっ。
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――――――――――――――――――――――――――――
今日の星座占いは四位。まぁ、悪くないかなって感じ。健康運はそれほどでもなかったけど、金運がそこそこ良かったから、買い物に行ってもムダ金は使わなくて済むはず。
自転車を止めてアーケードの中へ。やっぱり人が多い。みんな楽しそうな顔をしててわたしまで楽しくなってきちゃう。
どうしよっかな。占いの館に行くのは確定として、どういうルートを通ろう。占いには何か書いてあったっけ。吉凶は……北東が吉、南が凶、か。じゃあまずは服を見ようかな。
お気に入りの青いパンツが汚れちゃったのだ、そういえば。あれじゃ幸運が逃げていく。新しいのを買わないと。
アーケードにはいろんなお店がある。ホビーショップ。古本屋。漢方のお店。スポーツ用品店に刃物店まで。当然ファストフードもある。あ、岩盤浴なんてのもあるんだ。
お目当てのお店はこの通りにある。ちょっと珍しい、けどおしゃれな服をたくさん扱っているセレクトショップ。ちょっと値段は張るけど、幸せを引き寄せるためには、やっぱり身の回りからでしょ。
「うおー! これ凄い! 凄いッスよ、店長!」
「ははは。やっぱりそれがお気に入りかい」
「ジャストフィット・オブ・ジャストフィット!」
暑苦しい人がスポーツ用品店の前で叫んでる。靴を履いてるのかな? 陸上用っぽいスニーカー。ごつい割には軽そうで、確かにいいものなんだろうな。
幸せそうな顔をその女の子はしてた。つられてついついわたしも顔がほころぶ。
うん。やっぱりみんな幸福なのがいいよね。
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―――――――――――――――――――――――――――
気分は最高。空は晴れやか。なんて幸せな日だろう。思わず顔がにんまりにやけちゃう。
あたしはスポーツ用品店の店長さんにお礼をして、店を後にした。お礼は当然直角のお辞儀。
アーケードには結構人がいた。寂れてるところも全国的には少なくないってこないだニュースでやっていたけど、わが町はまだまだ大丈夫なようだ。
あたしみたいなジャージを着た人もたくさんいる。近くの高校や中学校、あたしの母校。
部活は休みでも体操服を着てれば体を動かしたくなってくる。グラウンドは他の部活が使っているから駄目だけど、河川敷でも公園でも、どこでも体は動かせる。新しい靴の履き心地も、もっと味わってたいし?
一人は結構苦じゃないタイプなのだ。外周を走ってるだけでも楽しくなれちゃう。体を動かすということ自体が楽しくて、なんだか自然と笑顔になってくるんだよね。
友達は気楽でいいなぁなんて言うけど、まさにその通りだと自分でも思う。特に考えることはなく、風の向くまま気の向くまま、体が動きたいように動くのがあたし流。
やっぱり体を動かそうかな。そう思って踵を返せば見知った顔があった。
「花園ちゃん、おはよう」
「あ、おはよう!」
隣に背の高い男の人。彼氏……とは思わない。この人がいつも話に聞く、花園ちゃんがべったりのお兄さんなのだろう。
二人は仲良く? 手を繋いでいた。ペアルックではないけど、花園ちゃんはツインリングのネックレスを、お兄さんは同じデザインの指輪をしていた。
「初めまして、あたし、花園ちゃんのクラスメイトの」
お兄さんに向かって挨拶を「物部っち?」
花園ちゃんがこっちを見ている。眼に光がない。
手がそっと差し込まれた鞄の中には何が入っているんだろう。
「そういうの、いいから」
にこやかを装って花園ちゃんが言う。どうして装っているかがわかるのかって……だって、口角が引き攣ってるし、こめかくがひくひくしてるし……。
この話題はタブーだな。あたしは愛想笑いをしながら、駆け足でその場を後にした。
こういう運動は、あんまり気持ちのいいものじゃないなぁ。
―――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――
「抜かなかったな。偉いぞ」
「うん! だってこんなところで出したら大変なことになっちゃうもん!」
「でも、友達は大事にしなきゃだぞ?」
「わかってるよ、もう。お兄ちゃんは過保護なんだから」
肘で脇腹を軽くつついてみる。全く、本当に過保護。
……でも、まぁ、そういうところが好きなんだけどさ。
だってわたしのことを愛してくれてるってことだもんね。
朝からお兄ちゃんとデート。ちょっと眠たかったけど、会った瞬間に眠気なんて吹き飛んじゃった。
あぁ、一週間ってなんでこんなに長いんだろう。
「今日はどこに行くんだ?」
お兄ちゃんが聞いてくる。私はごそごそと鞄から今日の行程表を取り出す。折角のお兄ちゃんとのデートなのだ、選んだり迷ったり、そんな時間は一秒だって惜しい。
「これから映画見に行って、それが二時間くらいだから、終わったらちょうどごはんの時間だね。近くのレストランを予約してあるよ。そのあとはこのあたりぶらぶら散策して、私は本屋に寄りたいかなって」
「俺もちょうど本屋には行きたかった」
「うん、お兄ちゃんそう言ってたなって思って。それで――」
「あら、会長じゃない」
はぁい、と手を挙げて雌豚がやってきた。酷く不快な顔をしている。私のお兄ちゃんにその顔とその声で
「話すな、ゴミが」
ゴミにしてあげようかな?
「落ち着け。学校の、生徒会のやつだ」
「……はぁい」
そりゃぶぅたれもする。
「妹さんと本当に仲がいいのね」
「……俺、お前に妹のこと言ってたか?」
「……あら、聞いてなかったかしら?」
首を傾げる二人。なんだかそのしぐさが妙に腹立たしかったので、私はお兄ちゃんの手を引っ掴んで、そこから足早に離れた。
まったく、こんないい日だってのに、泥棒猫ったら!
――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――
二人は行ってしまった。それにしてもかわいい妹さんだったわね。
……どこかであった気が、するのだけど。
別にナンパの文句じゃあない。気にするほどのことでもない、か。
でもこのデジャヴは鬱陶しいわね。
私は手で目庇を作った。天気はいい。狂おしいほどに太陽が頑張っている。陽光があまりにも眩しすぎるので、それは私の心にしっかりと陰を落としてくれやがる。
まぁアーケードに来た理由それ自体がネガティブなんだからしょうがないか。
「……まぁ、そりゃどういう言葉をかければいいか、わからないわよねぇ」
叔父さんたちと暮らし始めて五年が経つが、いまだに距離感は拭えない。それはただ私が外様なだけではないのだろうけど、それでもやっぱり、居心地が悪い。
遊園地に行こうと言われたけど結局断ってしまったし。
「はーい。元気?」
「……新聞部?」
「もっちろん」
手作りの腕章を見せびらかしながら道山さんは言った。隣には後輩らしき女の子もいて、ぺこりと頭を下げてくる。
……後輩はきちんとしてるのね。
「都市伝説のゴシップ記事でも書こうかなって」
「ゴシップねぇ」
顔にはあってる。ゴシップ顔だもの。
「案外都市伝説なんてその辺に転がってるものじゃない? 鮮烈な彩人とか」
「その辺に転がってたら伝説じゃないっての」
と、私たちの横を、ふらっと通り過ぎる何か。
真緑色。
「……いた」
ぽつりとつぶやく道山さんだった。
「行くわよ!」
「は、はいっ!」
二人が走っていく。
元気なものね。馬鹿って楽でいいわ。
私ももっと馬鹿になれればいいのに。
―――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――
「ちっ! 見失った!」
真緑は目立つはずなのに見失ってしまった。ちょうど信号で分断された形になる。
運が悪いなぁ、もう。
人ごみの中に消えていく原色の背中を見送りながら、あたしは大きくため息をつく。肩を落としたあたしを慰めるように、後輩はジュースを差し出した。先輩思いの気が利くやつだ。
だけど、不思議なことだった。あたしの中に、なぜか「あの原色と会わなくてよかった」というほっとした感じが生まれているのだ。確かに原色に取材を申し込みたいと思っているはずなのに。
知識欲と情報の収集に抜かりがあってはいけない。油断大敵、ちょっと気が緩んでいるのだろう。気をつけなくちゃ。
「先輩、あそこにも変なのいますよ」
と若干引き気味で後輩が指さした先には、おおよそ常人ではありえない銀髪――勿論ウィッグなのだろうけど――を被って、しかも、しかもだ。
マントって。
「銀島……」
「え?」
後輩が疑問符を飛ばす。あたしも飛ばした。銀島? 誰だそれは。
「先輩ってたまーに変なこと呟きますよね?」
「うそ!?」
どうしよう。全く自覚がない。
「インタビュりますか?」
「……」
あたしは少し考えて、そして頭を振った。
「どうして『コーヒー・ローザン』のパフェは美味しいのか、にするか」
「お腹もすきましたし、賛成ですね!」
―――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――
「もしもし? 『門外不出』さんですか?」
あらかじめ聞いていた電話番号は留守電になっていた。一応それにメッセージを吹き込むだけ吹き込んで、私は通話を終了する。
「どうだった?」
「ふむ。出ぬようだ」
オフ会の主催者にそう告げる。三十歳くらいの人当たりのよさそうな男性は、頭を掻きながら「困ったなぁ」。
「仕方があるまい。先に行こう」
今日はオンラインゲームのオフ会なのだった。私のハンドルは当然「ブリュンヒルデ・ノワール」。
メンバーは全部で八人。本当なら新人の「門外不出」さんも参加する予定だったのだけど、遅刻なのか欠席なのか、まだ来ていない。電話も通じない。
それにしても、今どき固定電話ってのもないと思うけどなぁ。
とりあえずカラオケ――と、そういう流れになっている。やっぱり同じ趣味を共有できている人たちの会話は、楽しい。クラスメイトなんていらなかったのだ。
でも、ここは休日のアーケード。あの無知で蒙昧なクラスメイトと出会わないとも限らない。もし出会ったら、いやだ。きっとあいつらはこっちの都合なんてお構いなしにやってきて、リアルをぶっこんでくるに違いない。
「それにしても、『ブリュンヒルデ・ノワール』って、あれだよね? 漫画の」
「あ、はい――じゃなくて、うむ。漆黒の剣士、ブリュンヒルデ・ノワール」
「俺もあれ読んでるよー。四巻の裏表紙のさぁ」
「あれいいですよね! じゃなくて、あれはいいものだった」
等等。
こんな有意義な会話もあまりない。
きっと私の世界の中心は、こういうところにあるのだろうなって思った。
――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――
家の電話が止まる。止まったらしい。わたしはそれをベッドにもぐりながら聞いていた。
家族はみんな仕事でいない。だから、きっと誰かが出たのではなくて、切ったのだろう。
相手はきっとオフ会の人たちだ。初心者のわたしにもよくしてくれた、人たち。
「社会復帰の、一歩、だ、って、言ってたの、に」
わかる。それは、わかる。言い出したのはわたしだ。でもだめなのだ。顔も見えず、声も聞こえないネットならまだしも、実際に会うことを考えてしまうと――だめなのだ。
動悸が早まる。手のひらに汗がいっぱい湧き出てきて、考えなくてもいいことまで考えすぎてしまって、パニックだ。パンクだ。
嫌われないかなとか言い過ぎたかなとか、自分の話をしすぎてないかなとかつまらなくないかなとか、そういうことにばかり気を取られて、注意を向けてしまって、最早会話どころじゃない。
「!」
わたしは思わずびくりと震えた。ぴんぽんが……チャイムが鳴ったのだ。
宅配便だろうか? どのみちわたしは出られないのだから、うるさいだけだ。
それなのに。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
あぁ、もう、うるさい!
部屋のカーテンを開けてこっそり入り口を窺った。門扉を開いて、誰かが入ってくる。
一瞬だけ泥棒かと思ったけれど、違う。見たことのない顔だけど、見たことのある面影を残していた。
忘れもしない。古屋のおにーちゃんだ。
「どう、して?」
数年間会わずじまいだった――わたしが会うのを拒否していた彼が、どうして急にこの家へ?
という疑問はあったけれど、でも、胸に去来する確かなものがあった。わたしは弱った足腰をなんとか駆使して、一階まで下り、覗き穴越しで顔を見る。
結局、出ることはできなかった。
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……。
やっぱり、出ないか。
俺様は踵を返す。その脚が重い。がっくりと肩を落としている自覚はあるが、どうしようもないのも事実。
それにしても、どうしてこんな急に、畿内の家へと行こうと思ったのか。彼女のことは常々心配しているけれど、恐らく、彼女には最早手の施しようはない。それこそ超常の力でもない限り。
わかっているはずなのに。徒労だと、無駄足だと。
よくわからない。苛々する。
だからつい、肩がぶつかっただけの通行人の胸ぐらを、掴んでしまった。
悪びれなどするものか。
「おい、ぶつかっておいて謝りもなしか、おっさんよぉ」
バーコード頭のおっさんは小さな悲鳴を上げて震えている。無様だ、と思った。そしてきっと、彼女も無様なのだ、とも。
「その辺にしておけよ」
「ンだコラ。てめぇにゃ関係ねぇだろうがよ」
「善良な一般市民としては、悪は見過ごせないんだ」
短髪の男がいた。鼻頭に絆創膏を貼っている、浅黒で目つきの鋭い男だった。
興が殺がれる。舌打ちしておっさんを離してやると、おっさんは短髪の男に例すら言わず、走って逃げていく。
俺様と短髪の目線がぶつかる。お互いの拳に僅かに力が入ったのがわかった。
「あー、先輩! なにやってんですか! もう!」
遠くから手を振り振り女子がやってきた。言葉から察するに男の後輩らしい。
声を受け、俺様たちはどちらともなく拳の力を抜く。やめだやめだ、あほらしい。誰彼かまわず殴りたい気分ではあるが、それは言葉のあやに過ぎない。まさかこんなやつをば。
「……お前、どこかで会ったことがあるか?」
「だとしたら路地裏だな。今度会ったらただじゃすまさねぇ」
「寿命を縮めるぞ」
「ひゃはっ」
その時は俺様が弱かったってだけの話さ。
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「大丈夫でした?」
駆け寄ってきた有田は眼鏡の奥の瞳を心配そうに輝かせた。わたしってばよくやったでしょう――そんな態度が透けて見える。
「……お前、褒めて欲しいのか?」
「なっ! わたしは先輩が絡まれてたから助け舟を出しただけでですね――!」
どうやら自意識過剰らしかった。反省しておこう。
「……ありがとうな」
「え? いや、別にいいですよ。先輩には休みが明けたら図書室の整理をしてもらわなきゃならないんですから」
「あぁ、そんなことも言ってたな……」
「はい。有言実行です」
「有言実行か」
俺は有田を見た。ショートカットの眼鏡。頑固な女。俺はこいつに何かを言わなければいけないような気がしていて、けれどその源泉を見つけられないでいる。正体がわからないでいる。
「有田」
「はい?」
「ありがとうな」
よくわからない顔を有田はした。もしかしたら俺もそんな顔をしているのかもしれないが。
それでも有田は疑問符を飲み込んで、花の咲いた笑顔を俺に向けてくる。
「どういたしましてっ!」
<了>