上条「約束したよな?例え地獄の底でも、お前を ――― 」【前編】
上条「約束したよな?例え地獄の底でも、お前を ――― 」【後編】
指の間を砂が滑り落ちていく感触が好きで、少女は飽きることなく砂をスコップで叩く。
崩さないように、慎重に力を加減して形を整えていく。
先ほどまで一緒にお城作りに精を出していた友達はすでに母親が迎えに来て帰ってしまった。
それを寂しいと思うことはない。
それ以上に、目の前の作品を完成させることが少女にとっては重要な命題である。
その集中力に絹旗は呆れるよりも感心する。
「せんせぇ、そこちがうの!!」
「ああ、ゴメンなさい。こうですか?」
「も~!ぜんぜんちがうの」
「超ゴメンなさい…」
時折、少女の意図に反し、その度に可愛らしいお叱りを受ける。
帰ってしまった少女の友達の代わりに、少女をサポートしているのは、少女の面倒をいつもみている彼女の役割だ。
空が青から橙へと夕暮れを色濃く表し始めていることも、少女から集中を削ぐには足らないようだ。
少女のイメージしているお城と目の前の不可思議な尖塔がどれほど近いのか、絹旗には皆目見当もつかないが、
頷きながら砂を継ぎ足しているところを見ると、それなりに納得しながら作れているようだ。
少し気取った顔で、尖塔を首を傾げて眺めすかしているさまに吹き出しそうになるのを絹旗はかみ殺す。
不意に、少女がぴくんと顔をあげる。
絹旗は少女のその仕草だけで何が起きたかすぐに察した。
少女はレーダーが反応しているかのようにきょろきょろと首を巡らせると、すぐにお目当てを見つける。
少女の視線の留まった先に、絹旗もつられるように目を向ける。
夕暮れの闇が下りかけている中、完全に溶け込んでしまっている小さな人影。
絹旗はとっさに姿を見つけ出せない。そんな絹旗を尻目に、少女は既に立ち上がっている。
その姿を横目でみてから、ようやく小さな人影が絹旗の視界におぼろげに浮かび上がる。
元スレ
一方通行「いい子にしてたかァ?」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1296040573/
一方通行「いい子にしてたかァ?」2
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1299954919/
一方通行「いい子にしてたかァ?」3
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1303142776/
一方通行「いい子にしてたかァ?」4
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1307285420/
まるで、遠くからの足音や匂いで、いち早く主人の帰りを察知する犬のようだ。
カツカツと、杖を突く乾いた音が夕闇のなかではっきりと聞こえてくる。
絹旗がようやくはっきりと人影を確認し終えると、少女は絹旗の横を風のように走り去る。
子犬のように、弾むように駆けていくその後ろ姿は見慣れていても顔が緩んでしまうものだ。
「あーくん!!」
少女が思い切り人影にぶつかる。
大好きなご主人様にぶつかっていく子犬のようだ。
(柴犬です。超柴犬です)
可愛いなぁと絹旗が顔を緩めて見守るなか、飛び込んできた少女を受け止めた男が乱暴に少女の頭に手を置く。
「コラ、危ねェからタックルすンじゃねェって言ってるだろォが」
それでも口調がいまいち厳しくなりきれないのは、少女の無邪気さのせいであろう。
少女はえへへへと気持ちよさそうに髪を撫でられるに任せている。
「ったく……しやァねェなァ……いい子にしてたかァ?」
覗き込む紅の瞳に、少女は喜びで満ち満ちた笑みを向ける。
エプロンで手に付いた砂を払いながら、絹旗が少女の後から駆け寄る。
「相変わらず超いい子ですよ。ねー?」
「ねー」
困っているのは口調のなのはその柔らかく緩んだ表情でも十分に伺える。
嬉しさを抑え切れぬ掠れた低音は、側で聞いているだけの絹旗までどきりとしてしまう優しさに満ちていた。
細くしなやかな指が、少女の栗色の髪を優しく梳いていく。
(超気持ちよさそうです…)
あまりにも気持ちよさそうなその表情に、絹旗も少し少女が羨ましく思える。
やがて、少女をひとしきり撫でた男が絹旗に視線を向ける。
「悪いなこンな時間までうちのチビに付き合わせちまって」
「いえいえ、好きでやってることですしね。それにこれが私のお仕事でもありますから」
「そォか。お前も大変だよな。まだガキなのに、ガキの世話なんてしないと…」
「成人してます!!超成人してますから!!いつもながら超失礼ですよね一方通行」
顔を赤くして怒りを訴える絹旗を小馬鹿にするように一方通行が口元をゆがめる。
先ほどまで少女に見せていた柔らかい表情など最初から絹旗の幻影か何かだとでも嘲笑うように。
「かかかか、安い挑発に乗ってるようじゃあまだまだだなァ~絹旗センセイ?」
「うぎぃ~~!!なんて保護者ですか!!」
「うぎぃ~、うぎぃ~」
「もう!ホラ、超真似しちゃったじゃないですか!!」
「それは俺じゃなくてお前のせいだろォ。なァ?」
「ねー」
一方通行に促されるように少女が頷く。
分が悪いことなど今更論ずるまでもないことに絹旗は今更ながらに気づく。
この少女が一方通行の味方につかない筈がないのだ。溜息を吐いた絹旗の頭を不意にぽんぽんと叩く感触がした。
はっと顔をあげると、いたずらっぽく笑う一方通行の顔があった。
思ったよりも近い距離に、頬が赤く染まる。
もっとも、夕暮れ時、すべてが赤く染まるこの時間帯にそれはうまく紛れることとなったのだが。
「ま、いつも世話になってるのはマジだからな。明日もよろしく頼むわ」
最後に、ひと撫ですると、絹旗は反射的にうなずく。
園児の前で子供扱いされたことの恥ずかしさと、
優しくさわられたことへの恥ずかしさがない交ぜとなって絹旗から言葉を奪い去っていた。
「むぅぅ~~~!!」
頬を膨らませた少女が一方通行の手を握る。
「あ、お前砂いじってやがったな。砂だらけじゃねェか」
「はう…」
「いつも言ってるだろォが、砂で遊んだら手を洗えって」
「だって…むぅ~」
大好きな人が自分以外の女の子を構ってる姿にいてもたってもいられなくなったのだと、
そんな乙女心などこの白い朴念仁にはわかるはずもない。絹旗は小さく溜息を吐く。
それにしても、こんな幼いというのに、そう、まだ四歳になったばかりだというのに一丁前にやきもちを焼くのだこの少女は。
そんなおしゃまな少女が絹旗は可愛くて仕方が無い。
少女と同じ目線の高さまでかがみこむと、少女の頬をつついた。
「超ゴメンね。一方通行をとっちゃったりしませんから安心してくださいね」
「何言ってンだァ?」
「鈍感は黙っていてください。それよりも、お手てを洗いましょう?綺麗にしてから見せないと、ね?」
「うん」
一方通行と仲良く手を洗い終えるころには、ようやく機嫌が直ったお姫様はにっこりと笑う。
「ねーね、あーくん。みてみて」
少女は大事なことを思い出す。
精魂込めて作っていた大作を見せると決めていたのだ。
ぐいぐいと小さな手で一方通行を砂場まで引っ張る。
「オイ、あんま引っ張ンな。転ンじまうだろォが」
「これこれ、あーくんこれ」
「あァ?」
一方通行が砂場に築かれた尖塔に目をやる。
少女の顔と見比べると、少女はどこか得意げに胸を張っている。
絹旗にちらりと視線を向けると、頷く彼女を見てようやく一方通行は察する。
「やるじゃねェか。かなりロックな城じゃねェかよ」
そんな褒め方があるかこの超馬鹿と絹旗は思わず顔を覆いたくなる。
「えへへへ」
少女の十分満足している様子がせめてもの救いだろうか。
一方通行はしばらくしげしげと砂山を眺めると、携帯を取り出す。
「せっかくなンだ、アイツにも見せてやンなきゃなァ」
「いつもながら超親馬鹿ですね」
うれしそうに携帯のカメラで砂山を収める一方通行の傍らでぼそりと絹旗が揶揄する。
既に見慣れた光景に、薄々彼ならそうするだろうと思ってはいても言わずにはおれなかった。
「違ェし。アイツに話したら絶対ェに見せろだずりィだうるせェしなァ。仕方なくだ仕方なく」
「はいはいわかってますって」
貴方が超々親馬鹿だっていうことくらい。
心の中でそっと付け加える。
どうせこの天の邪鬼は否定するのだろうから、言っても無駄というものだ。
「せんせぇ。さよぉなら」
「はい、さようなら。また明日ね」
舌足らずな少女の挨拶に、絹旗は相好を崩す。
少女は一方通行を見上げる。
一方通行は、少女が挨拶をきちんと済ませたのを確認する。
「じゃあ、行くか。想」
「バイバイ、想ちゃん」
「ばいばーい」
一方通行に手を引かれていく少女 ――― 御坂 想に向かって絹旗最愛は手を振る。
青年と少女の後ろ姿を見送りながら、絹旗は瞳を細めて笑う。
「ふふふ、ホントに親子みたいですね」
◇
「それでね、それでね」
少女と並んだ自分の影が夕日を浴びて長くアスファルトに映るのを眺めながら、少女の手を引く。
杖を付いていても、想の歩幅は一方通行のそれよりも遙かに小さい。
想の小さな身体を引っ張ってしまわないように、歩幅を調節してやる。
それは意識するまでもなく、一方通行の身体に染み着いたものだ。
「よっちゃんがお母さんでね、それでそれで」
少女は先ほどからひっきりなしにしゃべっている。
今日あったことを一から順に説明しなければ気が済まないのだ。
四歳にして朝からの出来事を時系列に従って話せるとはなかなか賢いなと、一方通行は満足感を抱く。
そういえば打ち止めも小さいころは学校であったことを逐一自分に報告していたなと思い出したところで、少女が不満そうに見上げていることに気づく。
「あーくん、想のおはなしちゃんときいてる?」
思わず吹き出しそうになるのを寸でのところで堪える。
「ままごとでよっちゃンとやらが母親役やったンだろ?ちゃンと聞いてるから話せよ」
「うん。それでね…」
女というものは、つくづくこんな年頃から女なのだなと、何だかおかしくて笑いがこみ上げる。
今の不服そうな表情はそのまま番外個体や打ち止め、そして少女の母親のそれとそっくりだ。
一方的に話して満足することが多い男に比べてなんとマセたものか。
掌の中の小さな温もりを握り直す。
こんなに小さくても一丁前なのだ。
そう思うと何故か心が温かくなる。
「はまちゃんがにろうしてひきこもってる息子やくなの」
「そいつは……なかなかへヴィーだな」
一方通行は、オレンジの光に照らされて、細く伸びた影に再び目を落とす。
小さなシルエットと、大きなシルエット。
二つのシルエットが手を繋いでる、それだけのことで小さな笑みが零れた。
「ただいま~」
「オイ、まずは手洗いだろォが」
「あ~い」
帰宅するとすぐに想に手を洗わせる。
台の上に乗って、一方通行にくっつくように想は手を洗う。
ハンドソープで手を大まかに洗うと、添え付けのブラシに手を伸ばす。
一方通行も爪の間を磨く。
彼は砂遊びをしていたわけではない。
当然磨く必要はないのだが、少女に手本を示すために洗う。
小さな花びらのような爪と指の間に挟まっている砂を、想は丁寧にこそぎ落としていく。
時折ちらちらと自分の手元をのぞき込みながら洗うさまに、一方通行は小さく唇を緩める。
想は洗い終えた手を一方通行に開いて見せる。
目を眇めながらじっくりと確認した後、一方通行は納得したように頷く。
「よし。綺麗になったなァ、やるじゃねェか」
想の頭を軽くあやすようにぽんぽんと叩いてやる。
きちんと言いつけ通りに出来たら褒める、それは彼が想の保育園の母親連中から聞いたことでもある。
元々褒めるのも優しい言葉をかけてやるのも苦手ではあったが、それを聞いてからは出来るだけ意識して褒めてやることにしている。
「うに~」
頭を撫でる手を、目を細めて享受する。
絹旗とも母とも違う、この少し骨ばった手が想はとてもお気に入りだった。
褒めると言って不器用なも一方通行である。
当然口下手且つ口の悪い彼に気の利いた言葉は吐けない。
しかし、幸いにもこの小さな少女は母親に似て聡明であった。
一方通行の不器用な言葉の裏に秘められた彼の優しい言葉を少女は無意識にしっかりと受け取っていた。
嘗ての打ち止めのように。
「さて、夕飯の仕度しねェとな」
「あーくんが作ってくれるの?」
一方通行の言葉に子猫のようにひくんと見上げる。
「まァ今日は…っつーか今日もだけどな」
「やった~」
想が一方通行の足下にくっつく。
ホワイトジーンズごしに少女の温かい体温が伝わる。
「オラ、離れろ。歩き辛いだろォが。さっさと仕度しなきゃならねェンだ」
「想もお手伝いする」
子犬のように足下にじゃれつきながら想が弾んだ声をあげる。
「包丁は使わせねェからな」
「ぷぅ~…」
「そンな声あげてもダメ」
予想通りの言葉に、一方通行は黒いエプロンを身につけながら釘を刺す。
子供ようの小さな桃色のエプロンを想の身体にかぶせると、かがんで背中の紐を結んでやる。
自分でやるの、と言う想の言葉は無視する。
うまく結べずにだらりと床に付けたままの紐を自分で踏んづけて転んだことは記憶にまだ新しい。
でかいたんこぶをこさえて泣きわめく少女をなだめるのに苦労したのだ。
もう少し少女が大きくなるまでは自分が結んでやるしかない。
一方通行は蝶々結びにしてやると、一人うなずく。
「今日のごはんなぁに?」
「なンだと思う?」
少女に意地悪をするように、質問を質問で返す。
少女はう、と短く唸ってから考え込む。
もちろん、既に準備はある程度出来てるのだが、少女挙げたものによっては明日の夕食の参考にもなる。
「あんきも?」
「……渋いなァ…」
参考になりそうにもない。
寧ろ自分の酒の肴だろうか。
少なくとも夕食のメインにはなりそうにもない。
「ハンバーグ」
「ほんと?ハンバーグすき~」
てててとキッチンに走っていく少女。
冷蔵庫に冷やしておいた挽き肉は既にタマネギを入れる段階だ。
刻んだタマネギを炒めるかどうかと一瞬迷う。
どちらでもいいが、炒めない方が楽だと考え、一方通行は想をみる。
「タマネギはシャキシャキがいいか?」
「うん、しゃきしゃきするのすきー」
そいつは助かると内心思う。
炒めなければあとは混ぜて焼くだけだから楽なのだ。
手早くタマネギを刻むと一方通行はうずうずとこちらを凝視している想にボールを手渡す。
「挽き肉とタマネギをよく混ぜろよ?」
「ぺったんぺったんするんだよね」
「ハッ。ちゃンとわかってるじゃねェか」
一方通行は挽き肉のうちのいくらかを小さいボウルに入れると空気を抜いて丸い形を作っていく。
想のこねた挽き肉が失敗しても、想の食べる分をきっちり確保しておく為だ。
ぺたんぺたんと慣れた手つきで挽き肉の形を整える。
楕円が手の中でできあがってから一方通行は暫し考えてから形を変えることにする。
大きな丸に小さな二つの丸。
それは世界で一番有名な国際的ネズミ。
千葉浦安にもいるヤツだ。
血統的には国民的ネズミである黄色いアイツにすべきだったかもしれないが、形としてはこちらの方が失敗するリスクが小さい。
よしと取り分けた小皿に想用のハンバーグタネを乗せる。
余ったタマネギにトマトとキャベツを刻むと、鍋の中にいれる。
沸騰したところでコンソメを入れて塩胡椒で味付ける。
一方通行は辛い方が好みだが、あまり入れすぎると想が食べられなくなってしまう。
少し物足りない程度で味付けを終えたところで、朝作っておいたゆで卵の残りを出す。
ゆで卵をつぶしてマヨネーズとあえる。
レタスとキュウリのサラダに入れたところで想の方を見る。
想は鼻歌を歌いながらぺったんぺったんとタネから空気を抜いている。
「ぺったん、ぺったん、ぺったんこ。ママのむねもぺったんこ。おねえちゃんたちはおっきいのにママのおむねはぺったんこぉ」
「……それ、ママには言ってやるなよ?アイツマジで泣くから…」
子供は時に残酷だ。
◇
「じょうずにやけました~」
「思ったよりもマシな出来じゃねェか」
想のこねたタネも焦げることなく焼き上がり、一方通行はこっそりと胸をなで下ろす。
消し炭を食べる羽目にならなくて済んだ。
皿を食器棚から出そうとしていると、ポケットの中携帯が鳴る。
表示を見て一方通行はイヤな予感と共に開く。
メールの文面を追っていくうちに、眉を顰める。
「ママは?」
想が母親のお気に入りの皿を両手に抱えて一方通行を見上げる。
暫しの沈黙の後、想の形のよい頭をそっとなでる。
「またケンキュウ?」
少女は一方通行の撫でる手つきそれだけで事態を察したように瞳を伏せる。
「あァ……そうだ」
「…いいよ、想はあーくんとごはんがたべれるんだもん。うれしいもん」
一緒に食事が出来ると思っていた母親の帰りが遅い。
四歳の少女が寂しくないはずがない。
それでも、少女は自分が寂しがると一方通行まで悲しむと思ったのか、にっこりと笑顔すら見せる。
意地張りやがって…チビガキのくせに。
そんな少女がいじらしくて、一方通行は頬をくすぐるように撫でる。
子猫のように喉を鳴らす少女を見つめる瞳は優しい。
二人きりの夕食を終えて、想の母親の分のハンバーグをラップで包み終えた一方通行のエプロンをくいくいと小さな手が引っ張る。
見下ろすと、手には着替えをしっかりと抱え、瞳をきたいに輝かせた少女。
やれやれとため息を吐くが、今更なのかエプロンを脱ぐ。
浴室で脱いだ服を洗濯機に放り込む。
色落ちしないか、確認をして、柔らかい繊維のものはネットに区分けする。
日頃から湯船に入る前に、身体を洗うように言い聞かせているため、想は身体に湯をかけるとボディーソープを泡立て始める。
広い浴室は、青年と少女が並んで座る余裕があった。
少女の母親が決めたこのマンションの目玉の一つがこの大浴室だ。
全寮制のお嬢様学校、それも頭に超が五つくらい付くような学校の出だけあって、浴室やキッチンにはうるさいのだろうか。
身体中を泡だらけにしていく想を眺めながら一方通行は思う。
「あーくん、あたまあらって~」
身体の泡をシャワーで落としながら甘えるように想が見上げてくる。
少女の髪はうっかりすると溶けてしまうのではないかと心配になってしまう細く柔らかい髪質だ。
それが泡と共に指の間を滑るのは心地よくクセになる。
何度も洗ったことのる一方通行は、あの独特の感触を思い出す。
しかし、彼は即座に首を振る。
期待満面の少女はとたんに不服そうに眉間に皺を寄せる。
「あーくんずっと想のあたまあらってくれてたのに」
「ハァ…お前もう四歳だろ。いい加減甘ったれてンじゃねェよ。自分の頭くらい洗えンだろォ」
こつんと軽く額を小突く。
想は、ますます膨れ面をすると、うぅ~と唸る。
一瞬、洗ってやってもいいかなという考えがよぎるが、即座にそれを打ち消す。
甘やかすことと大切にすることは違う。
心を鬼にして一方通行は自分の身体を洗う。
想は諦めたのか、渋々シャンプーを泡立てて、肩まで伸びたセミロングの髪をわしゃわしゃと洗いはじめる。
泡が目に入らぬように目をぎゅうぅっと瞑っている姿に笑いをこらえる。
本人は一生懸命なのだから。
「しっかり耳の裏も洗ったか?」
「わかってるもん!あらったもん!!あーくん、お湯かけて~」
今度シャンプーハットでも買ってやるかなと思いながらゆっくりとお湯をかけていく。
湯船に入ると、足を開く。
少女が勢いよくそのスペースに身体を滑り込ませる。
そのまま一方通行に背中を預けるようにもたれる。
おぼれてしまわぬように、想のお腹に腕を回してやる。
このマンションの浴槽は大きいため、想が湯船に浸かる度に彼は心配になってこうして抱えてやる。
想は口にはしないが、そうやって彼が一方通行が抱きかかえてくれるのが嬉しくて、必ず一方通行に身体を預けるように入る。
幼い少女特有の、柔らかく、芯に弾力のある感触が大した重みもなくのしかかる。
「えう~」
「熱くないか?」
「はう~」
どうやら心配はないようだ。
少女は蕩けたように、力の抜ける声を出す。
目の前に小麦色の髪が湯に浮かび揺れる。
ゆっくりと指を絡めると、ほつれがないか確かめるように梳いていく。
「むふ~」
想が気持ち良さそうに可愛らしい唸り声をあげる。
「100まで数えるからなァ。もう覚えたか100まで?」
「うん。きぬはたせんせいにもほめられたの。『そうちゃんちょうすごいです。てんさいです』ってほめてたの」
「へェ~アイツがそんなこと」
ちゃんと先生してるじゃないかと、場違いな感想を抱く。
「ね、ね、ね」
「ンあ?」
「想、ちゃんとひゃうまでかぞえられるの。エライ?」
「あァ~~………」
褒めて褒めてと目で訴える想に苦笑する。
あくまでも彼女の為に100までと言ったわけであって褒めることそのものが目的ではないのだ。
しかし、四歳の少女に、物事の意味まで知れというほうが無茶な話だ。
褒めて欲しいから頑張る。
そもそも、砂のお城も、手をしっかり洗うのも、お料理のお手伝いも、そして、100まで数えられるようになるのも、すべては一方通行に褒めてもらいたいからだ。
褒めてもらいたいから頑張る、小さな子供はそれで十分なのだ。
だからこそ、一方通行は少女の望む一番の行動に出る。
「おゥ、スゲェじゃねェか想。最っ高だぜェ」
ぎゅうっと抱きしめてやり、褒めてあげること。
「わふ!!えへへへへ~~」
とろけるように想は笑う。
ご満悦といったその表情に、一方通行もつられて笑みを浮かべた。
結局、100をとうに過ぎてもじゃれあう二人はお風呂からあがることはなかった。
◇
「ただいま~」
御坂美琴はリビングのドアを開けるなり満面の笑みで言い放つ。
研究で期待以上の成果が出たことが彼女の気持ちを高揚させていた。
心なしか、歩くのに合わせて揺れるショートボブも弾んでいる。
「うるせェ、ガキが起きるだろォが」
一方通行はそんな脳天気にさえ思える声に、しかめ面で答える。
声を抑えている彼に、一瞬首を傾げるが、すぐさまその理由に気づく。
「大体ただいまじゃねェよ。ここは俺の家だろォが」
「細かい男ねぇ。お隣さんじゃない。気にしない気にしない」
スレンダーなモデル体型を包んでいたコートを脱ぎ、ハンガーにかける美琴はパタパタとスリッパの音を立てながらソファに駆け寄る。
目的は、一方通行の膝の上。
「気持ちよさそうに眠っちゃってるわね」
「今さっきようやく寝付いたところだ」
「ああ~~ん、想ちゃんったらカワイイ~~」
「声でけェよこのバカ」
一方通行の膝を枕に、想がかわいらしい寝息をたてていた。
そんな愛娘の寝顔に、美琴はとろとろに頬を緩ませる。
「だって仕方がないじゃないのよ。可愛いんだもん」
「ふン…」
一方通行は取り合うことなく、想の身体にかけた毛布がずり落ちそうになるのを直してやる。
可愛いということに否定をしない時点で、この素直じゃない男の本音が自分と変わりないことに美琴は十分気づいている。
「今さっき寝付いたって…もう11時じゃないの。こんな時間まで起こしてたのアンタ」
時計に目をやりながら美琴の声に若干責める色が混じる。
一方通行は呆れたように鼻で笑う。
「バカかテメェは。察しの悪い女だなホントに。お前に『おかえり』って言ってやりたかったンだよコイツは。少しは汲み取ってやれよ『お母さン』よ」
「……そっか」
カーペットに膝をついて、美琴は想の顔を覗き込む。
自分そっくりの幼い寝顔はあどけなく、無垢だ。
研究の疲れなど、それだけで吹き飛んでしまう。
そのマシュマロのような頬に、そっとキスをする。
小鳥が啄むように。くすぐったそうに身をかすかによじる小さな少女に、美琴は相好を崩す。
愛しさが美琴の笑みから溢れている。一方通行はそれを黙って横目で見ている。
「お前よォ……もう少し早く帰ってこいよ」
「……ごめん…」
「バカ、俺に謝ってるンじゃねェよ。コイツだろォが」
「そっか……そうだよね……ゴメンね、想ちゃん」
美琴がそっと想の額に掛かった髪を指でかき上げてやる。
露わになったおでこに、そっと柔らかく唇を落とす。キスというよりも、触れるように。
「………お前飯は?」
「妹と軽くサンドイッチを摘んだくらい…かな」
小さく舌打ちをする。
研究に没頭し過ぎて食事を疎かにしがちな美琴の悪癖を知っているからこその反応だ。
親指でくいっとキッチンを指す。
「ハンバーグ作ってある。時間が経ってるからスープは温め直せ。サラダはそのままテーブルにラップかけて置いてある」
もっとも時間が深夜に近い。
ハンバーグは流石にカロリーを気にして食べないかもしれないなと、一方通行は簡単な軽食でも準備しておくべきだったかと考えるが、美琴の反応は至ってシンプルだった。
「ハンバーグ!?ウッソ、嬉しい。お腹ペコペコだったんだ」
「……お前、こんな時間に大丈夫かァ?」
「だって殆ど今日は食べてなくってさ」
予想通りの答えにげんなりする。
そして、それ以上にハンバーグと聞いてからのはしゃぎようがそっくりそのままだ。
「……アホ親娘」
「あによ。何か今ぼそっと言ったわよね?」
「うるせぇ。ガキ起きる前にさっさと食え。俺はコイツを運ぶ」
起こさぬように注意をしながら、想を抱き上げる。
「お前はどうする?」
「へ?」
既にテーブルに置いてあるハンバーグの皿をレンジに入れ終えた美琴が間抜けた顔をする。
「もう想はこのまま俺の家に泊めるが、お前はどうする?」
「ああ」
ようやく一方通行の訪ねている意味を悟る。自分にも泊まっていくのかと聞いているのだ。
律儀な奴だと思いつつ美琴は時計に目をやる。
部屋に戻り、そのまま眠ってしまいたいのが、疲労の溜まった身体の正直な叫びだ。
しかし、想の寝顔を見つめているとそんな考えは即座に吹き飛ぶ。
こうして自分を待っててくれた娘がいるのだ。
それなのに、自分の都合で寂しい思いをさせた挙句に、自分の勝手で別々の部屋で眠る。
そんなことありえない、寂しすぎる。何より、自分自身許せない。
「…迷惑じゃなかったら私も泊まっていってもいいかな」
おずおずと尋ねる美琴に一方通行はなにを今更とため息をわざとらしく吐いてみせる。
「当然だ。寝るときまでガキのお守りは勘弁して欲しいからな。一緒に寝てやれ」
「アンタ本当に素直じゃないわよね」
クスクスと笑う。
優しく想を抱き上げている姿ではなにを言ってもさまにはならない。
それがわかっているのか、ふてくされたように一方通行はふいと視線を逸らす。
「ああ、泊まってくならタオル出さないとなァ」
「い、いや、流石にお風呂は帰って入るから」
流石にお風呂は恥ずかしくてこの部屋のものを借りることには抵抗があった。
いろいろと意識してしまうからだ。
湯上がりの姿など恥ずかしくて見せられるものではない。
頬を赤くしながら慌てて首を振る美琴に、いまいち彼女が慌てる理由もわからずそォか、と一方通行は首を傾げた。
「おわ、寝過ごした」
美琴は時計を見ながら慌てて着替える。
勿論、想を起こしてしまわないように、物音は出来る限り立てないように気を付ける。
想はウサギの抱き枕を抱きしめて未だに眠りの園にいるようだ。
ジーンズを手にしたまま、下着姿で愛娘の寝顔に見惚れる比較的駄目な母親。
あどけない寝顔に、顔を蕩けさせていた美琴は、我に返ると頬をぴしゃりと叩く。
このままでは気付いたら一時間経過という事態になってしまう。
名残惜しいが、早く大学に行かなければならない。
ジーンズを履き終えると、想の寝顔にそっと近づく。
ちゅっと赤みをおびたほっぺたに唇を当てる。
柔らかな感触はいつまでも触っていたくなる。
それを鋼の精神力で抑え付ける。
「いってくるね想ちゃん。ママ研究頑張ってくるからね」
カバンの中の資料を確認しながら、娘に語りかける。
後ろ髪引かれる思いを決死の覚悟でふりきりながらリビングに行くと、
新聞を広げた白い青年の姿が目に留まる。
青年は呆れたように美琴を見る。
上から下まで、品定めするような視線に、美琴は居心地が悪くなる。
「お前なァ……もう少し早く起きろよ。ノーメイクってどうなンだ?」
「う、うるさいな。私はノーメイクでも十分イケてるのよ」
「誰情報?」
「い、妹よ。文句ある?」
「滅茶苦茶身内贔屓じゃねェか……ま、いいか。ホラよ」
一方通行は包みを美琴に渡す。
きょとんとした美琴に、面倒くさそうに肩をすくめる。
「昼飯だ。朝食作り過ぎたンだよ」
「サンドイッチ?」
「おにぎりの方が良かったか?」
「手が汚れないからサンドイッチの方が寧ろ嬉しいかな」
「……そォか」
朝食を作りすぎたなどと、下手な言い訳だと美琴は苦笑する。
想の朝食は、作り立てを食べさせていることを美琴は十分に知っている。
サンドイッチ、こいつのことだから妹の分まで作ってるだろう。
学園都市の第一位は随分と家庭的だ。
「何笑ってンだよ」
「別に何でもないわよ。じゃあ行ってくるわ」
「精々頑張ンだな」
しっしと手で追い払うように見送る一方通行。
美琴は笑いを堪えながら玄関を出る。大学で会ったら妹達に何て言おうか。
ネットワークを介して半分は大笑いをして、半分は美琴を羨むといったところだろうか。
それを思うと、美琴は今から大学に行くのが楽しくなってくる。
◇
一方通行は三杯目になるコーヒーを注ぐ。
ブラックで飲みすぎると胃を悪くすると、何度も周りから言われてきた。
口煩い筆頭は想の母親と、その友人連中に妹達。おまけに想の担当保育士等々。
考えてみると自分の周りは口うるさい女ばかりではないだろうかと重大な事実に気付く。
なんだかなァ…
カップを傾けながらげんなりとする。
どいつもこいつもお節介ばかりだ。美琴のせいだろうか。
「おあよぉ…」
舌足らずな声が一方通行を引き戻す。
時計を見れば、まだ起きなければならない時間までは余裕がある。
目覚ましすらなっていないだろう。しかし、一方通行は殊更慌てることもなく声の方を見る。
ウサギのぬいぐるみを抱きしめた少女が目をこすりながらてこてこと歩いてくる。
転ぶのではないかと、若干冷や冷やしながら見守る一方通行の思惑を他所に、少女は一方通行の座るソファまで無事たどり着く。
ぽてんと一方通行の膝の上に頭を落下させる。
「あーくん、おあよ」
「“おはよう”な」
いい加減きちんと言えるようにならないものだろうか。
膝の上に甘えるように頭を乗せてきた想の髪に寝癖が無いか一方通行は確認していく。
毛繕いをするように、丁寧に髪を掻き分けていく指の感触に、想は心地良さそうにとろとろと眠りに落ちていく。
「てい」
「はうっ」
ぺしりと眠りかけた少女の頭に軽くチョップを下ろす。
眠りに陥りかけていた想の意識が浮上する。
「お前もう一辺寝たら確実に寝坊するだろォが」
少女の頭を膝の上から下ろしながら一方通行は以前のことを思い浮かべる。
二度ねしたら最後、目覚ましが鳴ろうとも起きない少女を起こしてやるのは至難のわざだ。
エプロンを身に着けながら一方通行は冷蔵庫から卵とミルク、そしてチーズを取り出す。
残り物のコンソメスープに茹でたブロッコリーを加えてやる。
ブロッコリーがやたらと多く茹でてあったことに若干疑問を覚えるが、すぐさま次の工程に取り掛かる。
刻んだニンジンも忘れずに入れてやると塩で味を整える。
最後に少しだけ生姜を加えてやるとそれだけで風邪の予防になる。
しっかりとニンジンに火が通る間に、卵をボウルに入れて軽くかき混ぜる。
砂糖とミルクを加えながら混ぜていく。
「顔洗って来いよ。洗面所あんま濡らすンじゃねェぞ」
「あーい」
本当にわかっているのだろうか。
元気の良過ぎる返事に不安を覚える。
かき混ぜた卵をフライパンに投入し、手首を返しながらオムレツの形に変えていく。
ピザ用のチーズを半熟の卵の中に入れて包み込むように楕円に整えてやる。
更にオムレツを乗せ、十分に火の通ったニンジン入りの野菜スープとパンを用意し終える頃に想は戻ってくる。
前髪をぐっしょりと濡らした少女に呆れながらも、一方通行は想を抱き上げる。
ソファに座り、自分の膝に乗せてやるとドライヤーをかけて、櫛を通していく。
細い前髪は熱風を浴びてすぐに水気をなくしていく。
「ほっ」
「ったく…お前は顔を洗うのが上手くならねェなァ本当に」
渇いたのを確認すると、想と向かい合うように朝食に移る。
「オムレツおいしいねぇ~」
「当たり前だろォが。ホラ、ケチャップ付いてるぞ」
「うにゅう」
余裕を持って朝食を摂り終えると、想を連れて保育園に向かう。
◇
想を絹旗に預けるところで、ようやく一方通行は一人になる。
「なん…だと…」
部屋に戻り冷蔵庫の中身を確認するなり一方通行は崩れ落ちる。
夕食の献立は
クリームシチューにするつもりだった。火曜特売で鶏肉も買っておいた。
そして、ようやくブロッコリーが多かったわけに気付く。
一段落着いた瞬間に思い出したのだ。
「夕飯のクリームシチュー用じゃねェか……白菜で代用…できるのか?」
芯が残らぬように予め茹でておく。普段からそうしているというのに、何故今日に限って忘れていたのだろうか。
これほどの敗北感はおそらく木原数多、エイワスに敗北したとき以来だろう。
一人の部屋で、一方通行は暫く跪いたまま立ち直れなかった。
◇
大学に着くと結局朝食を取ることもなく、美琴は実験に取り組む。
先日の研究成果を早くレポートにまとめたかった。
研究の余韻が残っている内にアウトプットしなければ気持ちが上手く切り替えられないのだ。
朝食代わりに少々摘むつもりだった彼のサンドイッチはやはりランチに持ち越しとなりそうだ。
研究室の前に立つと、微量の電磁波を感じ取る。
ロックを外してドアを開けると、自分と瓜二つの顔をした少女が立っていた。
腰まで伸びた髪をシュシュで纏めている。
「早いじゃない」
「ミサカのマンションの方が近いですから」
微かに親しげな笑みを浮かべる少女、妹は既に白衣に着替えている。
嘗ての無表情は若干柔らかくなっている。
しかし、それを見て表情が豊かになったと解釈できる者は限られているだろう。
機動音をあげているパソコンをのぞき込むと、そこには昨夜の実験結果が表示されている。
昨日の自分の記憶とのそごが無いかを確認して美琴は満足げに唇を微かにあげる。
「神経伝達率は…七割か」
まずまずの成果だ。
御坂美琴は現在大学院の院生であると同時に教授待遇として研究室と機材を与えられている。
同大学の院生である妹を助手として。
美琴は筋ジストロフィー治療における電気治療からのアプローチにおいて、目覚ましい成果を見せた。
成果というよりも、最大の課題を取り除いた。
医学会にもたらした彼女の成果は、研究室と最新鋭の研究機器、潤沢な研究費でもってしても、ささやかであるといえる。
彼女の提唱した治療法には、彼女と妹達のDNAマップが大きく貢献している。
もはや筋ジストロフィーは決して直らない病ではない。
現況の課題は如何に治療するかではなく、如何にリスクを無くし、経済的に余裕の無いものでも
受けられるように安価なシステムを構築するかという治療体制へとシフトしている。
美琴は、彼女が幼心に望んだ己のジーンマップの本来の利用法を10年以上の歳月を経て自らの手で達成させたのだ。
「残りの三割を阻害している要素としては」
妹がキーを叩く。
「加える電流の強弱。この場合は弱すぎるということでしょうね」
「確かに強い電流を流せば神経はつながるし活性化もするけど」
現在、彼女はクローン技術を応用した再生治療の研究に没頭している。
神経の分野には未だに不可解な点が数多く存在する。
それらについて、治療について決定的な確証を得るまで強い電流による治療は好ましくない。
美琴自身、臨床実験を繰り返すことを主とした現況手探りの状況は打破したいところだ。
「アイツだったらさっさと打開策でも考え出すんでしょうけどね」
ここにはいない人間を頼るような言葉は嘗ての美琴には見られなかった。
それは悪い意味ではなく、彼女が人に頼ることをこの10年で覚えたことだと妹はわかっている。
「相変わらず引きこもりですか彼は」
「なんだかんだで色々と依頼されては論文書いたりしたりしてるみたいだけど…本人的には小遣い稼ぎじゃないかしら」
第一、レベル5に生活費の心配など必要ない。
「アンタ達を救った時点でアイツはもうこっちの業界には興味がないんでしょ」
打ち止め、番外個体、そして数多の妹達。
少女達を救うことにその身のすべてを捧げてきた少年は、その目的を達成すると同時に医療科学への一切の興味を失った。
この都市において最高の頭脳が、現在その頭脳を割いているのは幼い少女の健やかな成長のみ。
莫大な利益をもたらしてくれるであろうその頭脳は、都市側としては喉から手がでるほどに欲しいものだろう。
しかし、一方通行に都市への愛着も恩も無い。
彼にそうさせたのは他ならぬこの都市だ。
だからこそ、これはもしかしたら一方通行なりの遠回しな意趣返しなのかもしれない。
「それよりもアンタきちんと寝た?昨日遅かったでしょ」
「それはお姉さまも同じでは?」
「私は大丈夫よ。アンタの方が問題でしょ?身体弱いんだから」
妹から手渡された白衣をまとう。
消毒薬と、自身の香水の混じった独特の匂いが美琴の鼻先をかすめる。
「大丈夫です。幸いミサカはまだまだ若いので。若さで無茶は何とかカバー出来ます」
若さ、と強調する妹の言葉に美琴は形の良い眉を顰める。
何処か挑戦的な言葉の響きだ。
「若いって、私だって若いわよ」
「年を取った人に限ってそういうセリフを言いますよねと、ミサカはお姉さまの悲しい意地を黙って流します」
「意地じゃないわよ。私はまだ22だもん」
「子供を産んだら女は一気に老け込むと聞いていますが」
ちらりと妹は視線を美琴の身体に向ける。
どこか探るような、品定めするような視線に居心地の悪さを覚える。
身体を妹の視線から庇うように美琴が自身の身体を抱きしめる。
「何よ…」
「なるほど。女は母親になると同時におばさん化の一途を辿るというのは本当でしたね、とミサカは若干摘めそうな気配を帯びているお姉さまの腹部に視線を向けます」
「あ、アンタねぇ」
「研究室で放電は不味いですよお姉さま」
◇
研究が思ったよりも捗った。
おかげで少し早めの昼食にありつける。
バスケットの中のサンドイッチは丁寧に、形が崩れないように敷き詰められている。
几帳面だと美琴は作り手の顔を思い浮かべて苦笑する。
料理や、その盛りつけはその人の人柄が現れる。
なるほど、真理だ。
黄色と緑のグラデーション。卵とレタスのサンドイッチを取り出す。
一口頬張ると、しゃきしゃきとした歯ごたえ。
レタスはパンが塗れてしまわぬように念入りに水切りされており、食感がしっかりと伝わる。
しっかりと固めに焼かれた卵焼きの甘さをケチャップの甘酸っぱさがアクセントとなって引き立てている。
一口食べた途端に急激な空腹に美琴は戸惑う。
研究に没頭している間は気づかなかったが、自分が如何に空腹に耐えていたのかを知る。
瞬く間に、サンドイッチの一つを平らげてしまうと、じっと見つめる妹の視線に気づく。
「美味しそうなサンドイッチですねとミサカはノーメイクで勢い良く卵サンドを頬張る
お姉さまの女の捨てっぷりにドン引きします」
妹の膝の上にはコンビニで買ったらしきパンが一つ。
美琴のバスケットに比べると彩り、見た目、ボリューム、食欲をそそる全ての要因において貧相に映る。
何処と無く美琴を見つめる視線は恨めしげだ。
「残念ね…もっと素直な妹だったら分けて上げようと思ってたのに。一方通行の手作りのサンドイッチを」
「飾らないお姉さまが一番素敵だとミサカはダブルスタンダードな女であることを宣言致します」
手でくれくれと催促する妹の額をぺしりと叩く。
憎まれ口ばかり年々身につけていく妹の捻くれ者っぷりにそうせずにはいられなかった。
妹は一番ボリュームのある照り焼きチキンのサンドイッチに手を伸ばす。
「おおぅ…甘い照り焼きのタレとマスタードとマヨネーズの絶妙のハーモニー……
鶏のぷりぷりとしたジューシーさがまた…おおぅ」
「アンタは料理評論家か」
もう一度軽ぺしりと額にくツッコミを入れる。
満足そうにサンドイッチを堪能する妹は、唇の端についたタレを拭うことも忘れない。
「恐るべきは一方通行。学園都市最高の頭脳には絶妙な味付けのレシピすらも搭載されているのでしょうか」
「アイツ凝り性なのよ基本」
料理を作り始めたのはここ数年。
「打ち止めもぶーぶー言ってたっけ」
打ち止めがどうして自分と暮らしていた頃に料理にハマってくれていなかったのだと不平を漏らしていたのを思い出す。
紅茶のおかわりを注ぎながら妹はくすりと笑う。
「上位個体のアレは美味しい料理を食べたいというよりも想ちゃんへの嫉妬だと思いますが」
「だよねー」
「あのモヤシはロリコンというか、父性の人ですからね」
庇護を必要とする無垢な存在をついつい構ってしまうのだろう。
立派に成長し手が掛からなくなった打ち止めよりも、まだまだ幼く甘えたい盛りの美琴の娘を可愛がってしまうのだろう。
「しかし……もう完全に父親と母親が逆転してますね、お姉さま達は」
「あはははは…否定したくても出来ないな…たまには早く帰ってきてやれって怒られたし」
「お母さんじゃないですか」
「というか、アイツ一人で親役こなせちゃってる現状が母親として情けないというか」
これは本音だ。
娘と接している時間は圧倒的に一方通行の方が多い。
最初に話した言葉はままではなく「あー、あー」。そのまま大きくなって「あーくん、あーくん」。
「ママ」と聞いたのはそれから果たしてどれくらいの時が経ってからだろうか。
「初めて立った時に立ち会ったのもアイツだし。初めて歩いた時なんて一方通行一直線だったし……」
「全敗じゃないですかお母さん…」
美琴は情けなさここに極まれりと言った顔で力無く笑うと、自棄のようにハムサンドにかぶりつく。
畜生、ハムとキュウリの組み合わせがまた美味しい。
美味しいのが腹が立つやら悔しいやら。
妹はこの料理を毎日食べられる姉を羨ましく思う。
だから慰めの言葉はかけない。お姉さまザマァとだけ思う。
研究が長引いて、今夜は帰れないという連絡をした美琴が、携帯越しに一方通行に平謝りをする光景を妹が拝めるまであと9時間40分である。
◇
一方通行は不可解、不審、困惑といった表情を浮かべて前方の光景をにらむ。
傍らの絹旗はちらりと横目で一方通行の様子をうかがう。
彼がここまで戸惑いを見せるのは珍しい。
しかし、それも無理はない。
初めて見たときは自分もそうなった。自分だけではない。
この園の保育士皆が、目の前の光景に彼と同様の表情を浮かべた。
オルガンの温もりを感じさせる篭もった音と共に園児たち
が歌いながらお尻を振る。
「「「にゃんにゃん、にゃんにゃん、にゃんにゃんにゃ~ん」」」
小さな手をきゅっと握り、子猫を模した格好であどけなく、少しちぐはぐに可愛らしい踊りを踊る。
来週の学芸会の演目。年少組は踊りだ。他愛もない、愛らしさを前面に押し出した踊り。
協調性を身につけるなどと、しゃらくさいと絹旗は思う。
要はみんなで何かやることが楽しいことなのだと知ることが大切なのである。
そして、あとは可愛ければそれでオールオッケー。
自分の子供達の愛らしい姿を眺めてこそ、保護者は仕事の休みを取った甲斐があろうというものだ。
絹旗は、メロメロといった風に頬をゆるめるが、一方通行は頬をひきつらせる。
確かに、可愛らしいと一方通行も思う。
想がこの踊りを踊る光景はさぞかし愛らしいだろう。
デジカメとビデオを買い換えておくべきだろう。
10000時間持続バッテリー、手ブレ補正完備、自動照明付き、昼夜完全対応の最新型に。
そう、踊れれば。
「……暗黒舞踏…なのか?」
「超お遊戯ですよ」
掠れた声で、呟く一方通行のボケとも受け取れるような言葉をさっくりと突っ込む。
そんなわけねぇだろうが、という意志を乗せた視線を受けても、一方通行にはまだ目の前の光景が信じられない。
「そォか……まさかまさかと思っていたが……あそこまでキレてやがったのかァ…」
痛みを堪えるように、苦渋に満ちた声をあげる一方通行。
絹旗は、彼のオーバー過ぎるリアクションに苦笑を浮かべざるを得ない。
確かに、彼がこれほど打ちのめされる理由もわかるのだ。
「にゃーにゃー、にゃーにゃー」
必死に周りの園児達に合わせようと身振り手振りをまねているが、決定的に違っている。
奇妙なリズムで奇妙な角度と奇妙な位置で突き出された手足は、結果奇妙な踊りと化す。
想は絶望的に運動神経が悪かった。
あと多分リズム感も。
それでも、何とか踊りきろうと想はぎこちない踊りを続ける。
絹旗には、想の気持ちが痛いほどよくわかる。
想は大好きな人、つまり隣りに立つ白い青年にいいところを見せたいのだ。
上手に踊って、あの細長い手で頭を撫でてもらって、不器用な青年の誉め言葉をかけてもらいたいのだ。
想のいじらしさに、絹旗はきゅんとなる。
しかし、一方通行の視線を意識すればするほど緊張を招き、緊張すればするほど焦りを招く。
焦りは失敗へとつながり、失敗は緊張を否応なしに増す。
つまりは見事な悪循環。
「にゃん、にゃん……にゃぁ…」
想の歌声だけ小さく、か細くなっていく。
上手くできない自分、一方通行にみっともない姿を見せてしまっている情けない自分。
そんな自分への苛立ちが少女の心を挫く。
一方通行の見てる前で失敗したくなどないのに、上手くいかない。
幼いながらも、一人の女の子なのだ。
想の目にぷっくりとした涙の膜が浮かび上がる。
できるなら駆け寄ってその大きな目に浮かぶ涙を拭ってあげたい。絹旗は胸を抑える。
「オイ……先生よ」
「はい?」
珍しく自分を先生と呼ぶ一方通行に、思わずぎょっとする。
彼の横顔は悔しげにしかめられている。薄い唇は口惜しそうに歪む。
そうだ、自分が胸の痛みを覚えずにいられない少女の姿に、この青年が平然としていられるはずがないのだ。
「……今夜空いてるか?」
普段ならば、心音を三拍は早める魅力的な言葉だろう。
色々と、耳年増な自分の期待を煽る言葉だろう。
しかし、この場において、絹旗は一切の期待など抱くことはない。
続く彼の言葉が容易に想像出来るからだ。
「アイツに……想に教えてやってくれねェか?踊り」
この超々親馬鹿め。
ため息がこぼれる。
「ハァ……なに言ってるんですか?」
そして、自分の言うべき言葉は決まっている。
自分は園児達の保育士なのだ。
「超当然でしょう」
すなわち、想の先生である。
泣きべそをかいてもやりとげようとする超可愛い頑張り屋さんを放っておくはずがないのだ。
「サンキュ」
顔を見ずとも、一方通行が薄く笑ったのがわかった。
訂正。少し期待してもいいだろうか。
105 : 貧乏螺子 ◆d85emWeMgI - 2011/01/30 00:47:48.74 PdaPkYDQ0 36/791補足という名の蛇足。
一方さんがorzになったのはシチューに入れる分の茹でておいたブロッコリーを
(・3・)「あるェ?」と思いながら全部投入したからです。
ブロッコリーの芯が万が一にでも残っていてお腹を壊すといけないので、一方さんは大きめの具材はあらかじめ個別に茹でておきます。
ベクトルクッキングは使いません。おチビがお手伝いを出来なくなるからです。
炊飯器も使いません。打ち止めみたいにまともに料理が出来なくなるといけないからです。
一方さんは父親『役』をやっています。父親は別にいます。
美琴は文中で書いているように『御坂』姓です。
地の文で小賢しい嘘は基本入れません。
電磁通行がカップリングになるかどうかは正直決めてません。
注意書きを読んで、判断してくれたらと思います。
絶対恋愛関係アリじゃなきゃ嫌だという人向けのお話ではありません。
基本、殺すだの、謀略だの、グロだのは入れません。前スレでお腹いっぱいになったので。
それでは蛇足でした。
「夕飯の食材がブロッコリー二つだけですか?」
絹旗が不思議そうに買い物袋の中をのぞき込む。
袋の中身は、ブロッコリー二つ。
他にはシナモン、ココアパウダー、おそらくお菓子作りでもするのだろう。
それから30分の攻防の末に一つで妥協した想のお菓子。子供達に最近人気の食玩だ。
一方通行は、視線を逸らしながら気まずそうに顔をしかめる。
「ちょっと足りなくなったんだよ…」
「あーくん、朝もブロッコリーだった…あだ!」
「余計なこと言ってンじゃねェっての」
てい、と軽くチョップを食らい、想はにへへへと嬉しそうに笑う。
一方通行に構ってもらえる事が嬉しくて仕方がないのだ。
絹旗はそんな少女の姿に胸をなで下ろす。
泣いた烏が何とやらとは言うが、呆れてしまうやら可愛いやらだ。
上手くダンスが出来ずに泣いていたのが嘘のようだ。
「せんせぇ、おててつなご」
「いいですよ~」
「あーくんも」
「おう」
想が右手で一方通行の左手を、左手で絹旗の右手をきゅっと握る。
想を真ん中に、三人で手を繋ぐと、想はご満悦と言いたげに笑う。
にこにことする想を見ていると、絹旗の心までぽかぽかとしてくる。
絹旗は子供の笑顔が好きだった。正確には好きになった。
昔、暗部にいた頃は逆であった。
何の憂いもなく、脳天気に笑う子供の笑顔が大嫌いだった。
けれども、暗部から解放され、自分がなにをしていいのかわからなくなったとき、ふと絹旗は保育士になろうと思った。
明確な理由があったわけじゃない。
大層な目的があったわけじゃない。
ただ、薄汚いもの、信じ難いもの、憎むべき大人を見てきた反動か、綺麗なものの側で生きたいと漠然と思った。
そして保育士の学校に入り、現在に至る。
「せんせぇのおてて、やわらかくてあったか~い」
「そうですか?ありがとう、想ちゃん」
「あーくんやママのおててよりふわふわ~」
「ち、超照れます」
無垢な、一切の含みを持たない笑みに思わず照れてしまう。
子供の無邪気であるが故の不意打ちには慣れない。
そして、それがどこかくすぐったく、心地よくある。
「そォいや、おまえ昔みたいな格好しなくなったな」
「昔…ですか?」
絹旗は自分の格好を見下ろす。
ジーンズ素材のレギンスに、お尻が隠れる程の丈の桜色のセーター。
嘗ての露出度の高さが信じられない程に、抑えた、言い換えれば大人びた服装だ。
「グループに刃向かってきやがったときがあったろ」
「ああ…」
誤解と謀略によって潰し合い寸前まで行ったグループとアイテムの抗争。
浜面の調停が無ければそのまま行くところまで行っていただろう。
もっとも、抗争と言ってもそれは一方的なものであった。
情報操作によって学園都市第一位の存在を伏せられていた絹旗達は、結果、この目の前の青年に徹底的に叩きのめされた。
青年が殺さないように全力で加減していてくれなければ今絹旗はここにはいない。
そう思うとぞっとする。
「あの時は超走馬燈が見えました……」
黒い翼を目の前で出された時には、フレンダが手を振っている姿がガチで見えたものだ。
もちろん、一方通行にしてみれば、跳ねっ返りの子供をビビらせる為の威嚇に過ぎなかった。
しかし、絹旗にはそのようなことはわからないし、何より関係がない。
唸り声を上げる虎を前にして、それが威嚇にすぎないと言われて、平然としていられる者がいないのと同じだ。
戯れに触れた爪で容易くズダ袋と化してしまうと本能が悟ってしまうのだ。
「かかかか、いいじゃねェか、滅多に見れるもんじゃねェぜ」
白い青年は、意地悪く喉を震わせて笑う。
「あの時はびびったぜ。今時のガキはンな痴女みてェな格好するのかってなァ」
「ち、ちち、痴女!?何て失礼な保護者ですか。っていうか想ちゃんがいるのに痴女って…
痴女なんて言葉使わないで下さい」
「………お前の方が連呼してンじゃねェか」
呆れたような赤い瞳が勘に障る。
「ま、ガキ丸だしのキャラパン見せられて俺も頭が冷えたからな。手加減する余裕も生まれたし……
ああ、そう考えると、キャラパンに救われたわけだお前」
「貴方、あの時人の下着見てたんですか!?超信じられません!!」
「せんせぇ?」
無垢な声に、絹旗はハッとなる。
教え子の前で、みっともない振る舞いをするわけにはいかない。
いつもの優しく、おおらかな絹旗先生にならなければならない。
絹旗は、深呼吸をすると、どうにか自身の動揺を押さえ込む。
一方通行にパンツを見られていたことは、とりあえず脇に置くことにする。
といっても、無効にするのではない。
あくまでも保留だ。
こほんと、咳払いをすると、絹旗は想の手をしっかりと握り返す。
「何でもないですよ、想ちゃん」
「へェ、流石は絹旗センセイ。キャラパンごときじゃ、園児の前で取り乱したりはしないってかァ」
「うぬぬぬ……ま、まぁ、そんな挑発には乗りませんよ。最初の質問だけに答えますとですね、
あの格好はスカートめくりの標的にされるんですよ」
初日に、悪ガキ共に全開で捲り上げられたことを思い出す。
すらりとした脚も、レース付きの水色の下着も、可愛らしいお臍も、フルオープンだった。
それは、絹旗に、ファッション革命を引き起こす程の衝撃であった。
挑発的な格好とは裏腹にウブな絹旗にとって、園児と保育士くらいとはいえ、衆目に曝される羽目になったのはトラウマと言ってもいい。
そこには、若く、可愛らしい女の先生をからかわずにはおれないという、幼い男の子の微笑ましい好意があったのだが、
新米保育士であった当時の絹旗にはわかるはずもない。
「まァ、ガキにキャラパン曝すわけにはいかねェもンなァ」
「いい加減キャラパンから離れて下さい。もぉぉぉぉぉぉぉ!!
想ちゃんからも言ってやって下さい。貴方のあーくん、とっても意地悪ですよ」
「お前があーくン言うな」
じゃれ合いのような言い合いをする二人に挟まれている想は、ふふふふと、可愛らしく笑う。
きょとんとして、思わず顔を見合わせる一方通行と絹旗。
「どうしたんですか?想ちゃん」
想はモジモジと恥ずかしそうに下を向くと、赤くなった顔で絹旗を見上げる。
「あのね、何だかね、パパとママに挟まれたみたいなの」
「え?」
想の言っている言葉の意味を計りかねて、絹旗は息を漏らすように、短く声を上げる。
一方通行は何も言わず、ただじっと少女の笑顔を見つめる。
「んとね、はまちゃんがね、この前パパとママがおでむかえにきたの」
そう言えば、浜面が仕事が休みだとかで、滝壺と二人で来たなと、絹旗は思い出す。
正確には浜面夫妻だろう。
ただ、絹旗は付き合いの長さ故に、未だに滝壺と呼んでしまう。
はまちゃんと呼ばれているのは、母親に似て可愛らしい顔をした気弱な男の子だ。
妻に似て可愛らしく穏やかな性格の息子に、父親はデレデレであり、絹旗はそれを見て
『超キモいです。今までの超キモいの記録を更新するくらいの超キモいです浜面』
と言い放った。
男の子は甘えん坊らしく、二人揃ってのお出迎えに終始笑顔だった。
両手をしっかりと繋ぎ、家族三人で、子供番組の歌を歌いながら帰る光景は微笑ましく、
保育士達や迎えに来ていた保護者達の笑顔を誘った。そして思い出す。
想はその光景を何処か羨ましそうに見送っていたのだ。
「はまちゃんちみたいなの。えへへへ」
はにかむように頬を薄紅色に染める少女は可憐の一言につきる。
絹旗は抱きしめてしまおうかと葛藤する。
そこで、絹旗はふと気づく。
浜面一家のようだと、喜ぶ想。
配役は真ん中の想が娘で、一方通行がお父さん。
そして、美琴には申し訳がないが、自分がお母さん。
ここまではいい。照れくさいが、可愛い少女にお母さんみたいと慕われるのは保育士冥利に尽きるし、素直に嬉しい。
しかし、そうなると、一つの事実がある。
先ほどスーパーでの買い物の際、レジで待っている間、買い物に来た主婦らしき女性に話しかけられた。
『あらあら、仲良くお買い物?いいわね、家事に協力的で』
持参したエコバックに食材を詰めていく一方通行を羨ましげに眺めながら言っていた言葉の意味に初めて気づく。
彼女はつまり正確にはこう言っていたのだ。
『家族で仲良くお買い物?いいわね。貴女のところは旦那さんが家事に協力的で』と。
すると、自分と一方通行は夫婦ということになる。
一方通行が夫で、自分が妻。
そしてさっきも、そして今も自分達はそう見えているということだ。
周囲にそう思われているということだ。
「せんせぇ?どうしたの?」
「オイ…大丈夫か?」
想が不思議そうに、一方通行が何処か気遣わし気に絹旗の顔をのぞき込む。
「せんせぇ、おかおが真っ赤だよ?リンゴみたいなの」
「え?」
慌てて絹旗は頬に手を当てる。
熱い、熱すぎる。冬も近いというのにそんな外気温など知らぬとばかりに頬が熱い。
「……お前風邪でも引いてるのか?」
「い、いえ、至って超健康ですよ」
「……ちょっとジッとしてろ」
「え?え?ちょ……」
不審な顔で絹旗をじっと見ると、一方通行がおもむろに顔を近づける。
不意に迫る端正な青年の顔に、絹旗は露骨に狼狽える。
こつん。
どもる絹旗の額に、一方通行の額が当たる。
一瞬絹旗はひやっとしたものを感じる。
火照った顔に、一方通行の低い体温が心地よかった。
しかし、息がかかる距離の一方通行の顔に、反射的に絹旗は飛び退く。
「な、ななな、何をするだー!?」
「何って…熱計ってンだろォが。なァ?」
「ねー」
少女にそう言って振ると、少女はうなずく。
「あーくん、いつもそうやってお熱計ってくれるよ」
「だ、だからって、そんな…」
「せんせぇ、お顔がもっと真っ赤になっちゃったよあーくん」
「お前やっぱり調子が…」
「悪くありませんってば。ほら、行きますよ。早くダンスの練習をしないといけません。超ダンシングですから!!」
これ以上つっこまれたら自分はいらぬ墓穴を掘ってしまう。
それはある意味好機なのかもしれないが、自分にだって覚悟とかタイミングとかがある。
絹旗は想の手を引くように、ズンズンと歩き出す。
首を傾げる一方通行と想。
学園都市第一位の朴念仁と、幼い少女には、絹旗の複雑な乙女心など到底察することなどできるはずもなかった。
◇
「ただいま~」
「お邪魔します」
「待ってろ、今コーヒー淹れてやる。ブラックは平気だったか?」
「出来ればカフェオレにしてもらえると超ありがたいです」
「想はねー、あーくんといっしょのぶらっくぅ~」
「ン、了解。カフェオレとハチミツ入りのホットミルクだな」
「むぅ~ちがうもん!!あーくんといっしょの!!」
「そォか、この前苦くて泣きべそかいてたのにまた泣きたいってかァ」
「んゃー!泣いてないもん」
「じゃあハチミツ入りのホットミルクはいらねェんだな?」
「………いる」
「よし。素直で宜しい」
絹旗は二人の可愛いやりとりに相好を崩す。
コートを渡されたハンガーにかけながら、一方通行の部屋を見回す。
浜面一家と同じマンションである以上、間取りは基本同じはずだが、絹旗にはまったく違う部屋に見えた。
一方通行の匂いとでも言い表せるのだろう、自分の部屋とは明らかに違う香りに絹旗は何ともいえない落ちつかなさを覚える。
綺麗に片づけられてるというか、無駄なもののない部屋だ。
カーテンもカーペットも、モノトーンで統一された部屋は男の部屋なのだと強く意識せずにはいられない。
ふと、硬質なはずの部屋なのに、何故か冷たい感じを抱かないことに絹旗は不思議に思った。
そわそわと部屋を見回すと、部屋に似つかわしくないものを見つけた。
独特の色彩で描かれた数冊の絵本。
子供に人気のゲーム機も目に付く。
「想ちゃん、よくここに来るんですね」
絹旗には、それらが何を意味しているのかすぐにわかった。
手を洗い終えた想の手を確認しながら、一方通行が小さく苦笑する。
「来るっつーか、こっちにいる方が長いな」
「あのね、あのね、想のおフトンもあるの~」
想が自慢するように絹旗に駆け寄る。
さらさらとした琥珀色の髪を撫でてやりながら、もう一度見回す。
硬質な感じがしない理由がわかった。
小さなマグカップ、子供向けのアニメの玩具、小さなエプロン、テーブルに置かれたクレヨンとスケッチブック。
所々に存在する小さな少女の息づかい。
柔らかな少女の名残が、この部屋を何処か暖かなものにしているのだ。
ちらりと一方通行を見ると、絹旗が何を思っているのか気づいたのか、恥ずかしそうに視線を逸らす。
くすりと笑みが思わず零れる。
このぶっきらぼうで無愛想な青年が父性愛の強い人間だということは知っている。というか周知の事実である。
彼がこの部屋で、この無垢でいじらしい少女と日常を過ごしている。その光景は想像するだけでも何とも可愛らしい。
(何この二人。超可愛いんですけど)
「想ちゃ~ん…えい!!」
「わぷっ」
そして、そんな空間に今こうして自分もいることを許されている。
それが無性に嬉しく、絹旗は思わず想をぎゅっと抱きしめる。
「想ちゃん、超頑張りましょうね」
「うんっ!!」
腕の中の想が子犬のようにすりすりと絹旗に身を寄せる。
「もう、超可愛いです!!」
「せんせぇくすぐった~い」
舌足らずな少女をさらにぎゅっと抱きしめる。
一方通行の呆れたような苦笑には気付かないふりをする。
浮かれている自分が、何だか恥ずかしくて誤魔化すように綿菓子のように甘くふわふわとした少女を抱きしめた。
176 : 貧乏螺子 ◆d85emWeMgI - 2011/02/02 22:58:32.22 ZGMn2MWE0 47/791
以下余談。
一方通行さんはこのお話では娘っ子や、打ち止めのお世話とかにかまけては彼女を放置⇒別れる、を繰り返してます。
丸くなったヤツは頭の良いヴィジュアル系のツンデレイケメンさんなのでモテると思います。
でも、見た目に吸い寄せられてくる馬鹿女も多いでしょうね。
本文でも書いたように娘さんは他のミサカに比べて髪長いです。肩より下はある。
佐天さんの長い黒髪とか黒子のふわふわ栗色の髪に密かに憧れてた美琴ママが伸ばしてるみたいな裏設定。
ボーイッシュ路線は出来るだけ選ばないのが美琴ママンの趣味です。でも朝のブラシで梳いているのは一方通行の役目。
「「にゃん、にゃん、にゃ~ん♪」」
手を猫のように丸めてお尻を振る想と絹旗の姿をぼんやりと見ながら一方通行はとりとめもない思考に耽っていた。
正直な話、暇で暇で仕方が無いのだ。
踊りの概要は知らないものの、絹旗と想の踊りが遠くかけ離れているという事はわかる。
ハリウッド版のDBと原作くらいは離れている。
せめてGTとZの距離までは詰めてもらいたいところだ。
少なくともそうすれば一応はDBを名乗れる。
「俺ァ絶対認めちゃいねェがな、GT」
自分のスタンスをしっかりと主張しておくのは忘れない。
一通り踊り終えた絹旗は、ふと一方通行の視線に気付く。じっと自分を見つめる視線が照れくさくてそっぽを向く。
想はやはり自分が上手く踊れないことに不服そうだ。
「な、何ですかジッと見て。超ヤラシイです」
「やらしいの?あーくん?」
「やらしくねェし。つか今のでどうやって劣情を催せってンだ…」
ガシガシと頭を搔く。
「………まァ、ガキのお遊戯がガキにしか許されねェもンだってのはわかった。
二十歳過ぎて『にゃんにゃんにゃ~ん』って、お前……」
「!?」
初めて絹旗は我が身を振り返ることが出来た。
22にもなって、猫ダンス。猫ダンスである。
いつも園児達の前でお手本として踊っているせいか、何の抵抗も無く踊れてしまっていたことに気付く。
顔を赤くして俯いている絹旗をフォローするように、一方通行が慌てて付け加える。
「あァ…気にすンな。園児と並んで踊ってても全然違和感ねェからマジで。
コレがあの馬鹿や麦野だと相当キツイけどよォ」
「それ全然フォローになってませン……」
大人っぽい、というか年相応なら寧ろ似合わなくて当然という意味ではないか。
そして、即ちそれは自分が本当にアレな女だということになる。
さっきから気に掛かっていたが、もしかして彼の中では未だに自分はキャラパンを履いてる子供のように見えているのではないだろうか。
割とガチで。
「せんせぇ……ゴメンね」
思い悩んでいた絹旗の耳朶をか細い声が震わす。
想がしょんぼりと肩を落としている。上手く踊れなかったことを言っているのだろう。
伏目がちのせいか、長い睫の影が頬に下りて一層寂しげな印象を受ける。
「なぁにがゴメンなんですか。想ちゃんが謝る理由なんて超ありませんよ~」
絹旗は、想の顔を覗き込みながら、柔らかな頬をつついてやる。
絹旗は常々疑問であった。想の踊りに対してだ。
確かに運動はやや苦手な想であるが、せいぜい他の子達よりワンテンポずれてしまう程度であった。
練習時は、それはそれで可愛らしくて良いのではないだろうかとも思っていた。
しかし、今日は見るも無惨な結果になっている。現在進行形で。
それも、徐々に酷くなっている。その理由は何だろうかと考えてから、すぐさま絹旗は原因に目が行く。
「ンあ?どうしたンだよ」
「………」
コーヒー片手に絹旗と想の踊りを先ほどからマヌケ面を下げて見ている男。
想の父親役にして、美琴を差し置いて母親役までこなしつつある学園都市最強の男。
そして、想がおそらく世界で一番大好きであり、いいところを見せたいと四歳じながら一丁前に思ってしまう相手。
この男に見られているからだろう。
視線を意識し、緊張、失敗、焦り、また失敗。
幼いが故に、自分が何故上手く出来ないのかがわからない想。
鈍感な故に、自分のせいで想が上手く踊れないのがわからない一方通行。
ならば、絹旗がすべきことは一つだった。
「想ちゃん」
そっと想の耳元で小さく囁いてやる。
「あーくんに内緒で二人で練習しましょう」
「ないしょで?」
きょとんと首を傾げる想。
「ばっちり踊れるようになって、あーくんを超ビックリさせたくないですか?」
「びっくり…」
幼いながらも、想はそのシーンをシミュレーションしてみる。
『ひゃっはァァァーー!!何だ、何だよ、何ですかァ?驚かせてくれンじゃねェかよ。何処のアイドル様の降臨かと思っちまったぜェ!』
『むふぅ~』
『いいね、いいね、最っ高だねェ!!ゴキゲンな踊りじゃねェかよォ』
『えへへへ~』
『こりゃァ、なでなでするくれェじゃァすまねェなァ』
『想ねぇ、あーくんにまたあたまあらってほしいの』
『おゥ、当たり前だろォが』
『あとね、いっしょにねてくれる?』
『いつもしてやってンだろォが』
『ヤンヤンつけぼーかってくれる?』
『箱買いするしかねェだろォが』
「にへぇ~」
うっとりと宙を見つめる想に、絹旗は母親の血を明確に感じ取った。
妄想癖は御坂のDNAに共通しているのかもしれない。少女の説得はとりあえずこれでいいだろう。
コーヒーのお代わりを淹れている白いのに目を向ける。
「一方通行」
「あン?」
「二人だけの秘密特訓したいので、部屋から出てって下さい」
「はァァ?ふざけ ――― 」
「あーくん、でていくの」
「……なン……だと…?」
◇
サラダを盛り付け終え、風呂の温度を確かめるといよいよすることが無くなる。
酒でも飲んでしまおうかとも思うが、夕食を食べる前に飲むのは抵抗がある。酒は食中か食後と決めている。
絹旗と想は、現在自分の部屋でダンスの練習をしている。
音楽とともに、きゃっきゃとした笑い声が聞こえてくる。楽しそうで何よりだ。
楽しんでやれているのならば、絹旗を呼んだ甲斐があった。
もっとも、絹旗以外に想を安心して任せられる者がそもそもいない。一方通行なりに絹旗を信頼しているのだ。
しかし、二人の笑い声が聞こえる程に、一人ぽつんと残されたことが寂しい。
「………コイツが親離れの第一歩か……もう少し猶予ならあると思ってたンだが」
リビングのソファーに腰掛けると、弱々しく呟く。
「……いや、打ち止めも4歳だったか」
もちろん、実年齢のことである。
肉体的には14歳の立派な思春期に掛かっていたことなど一方通行の脳裏にはない。
思春期の打ち止めは、正直全盛期の美琴もかくもやとばかりのツンっぷりだ。
美琴+番外個体、アイテムに何か加えますか?ああ、じゃあMNWのログを加えて下さい。
オッス、オラ打ち止め(思春期)、今後ともヨロシク。
と言った具合に、色々な影響を受けまくっているのだ。
言葉遣いはきつくなり、スキンシップも減った。
何よりも自分と距離を置くようになってから、一方通行はどうしようもなく寂しさを覚えたものだ。
あれだけ子犬のように自分に纏わり付いていた打ち止めが、14歳頃の御坂美琴のように、
やたらと自分へのあたりだけ厳しくなってきたのだ。
『アナタ』は『アンタ』になったのが第一ステップ。
『大好き』は『大嫌い』、『ウザイ』、『気に入らない』、とバリエーション豊かに殺傷力も豊かになった。
その癖、やたらと突っ掛かってくるのだ。
一方通行としては年頃になった少女のやりたいことが理解不能であった。
勿論、此処には、思春期の少女特有の不器用さ、姉譲りの気になる異性への不器用な態度が
顕れているのだが、如何せん姉同様にお相手は朴念仁。
姉の相手が鈍感大王なら、一方通行はさしずめ鈍感大魔王だろう。
ツンデレがカワイイのは端から見る分であって、実際いたら面倒くさい。
鈍感男にとっては、ツンしか映らないのだから、嫌われているとしか思えない。
一方通行は、そのまんまに打ち止めのツンを諸に受け、娘にウザがられる父親の気持ちを20歳にして味わうこととなった。
「夕食も準備終わっちまったしなァ……」
夕飯の仕度は既に済んでいる。元々切り分けておいた野菜をシチューにぶち込むだけだ。
野菜も牛乳も取れるクリームシチューは偉大な料理だと一方通行はしみじみと思う。
クリームシチューを生み出した人間は素晴らしい。
嘗て存在した水槽に引きこもっていた神気取りの馬鹿よりも遥かに偉大だ。
何せ人の役に立っているのだから。
練習は中々の出来だったようで、具合を聞いた一方通行に、二人は笑い合うと笑顔でこう答えた。
「ないしょだも~ん」
「ええ、一方通行には超内緒です」
「ねー」
「ねー」
「………」
父親の疎外感ってこんな感じなのだろうか。
だとすると、全国のお父さんは一体どれほど強いメンタルをしてるのだろうか。
一方通行は涙を堪えた。
◇
(超緊張して眠れません……)
間に想を挟んで、絹旗は一方通行と向かい合うように床に就いている。
間の想は、一方通行の胸にぎゅっと身を寄せている。
それが少し、そう、ほんの少~しだけ羨ましい。羨ましいというのは、温かそうだからだ。
決して他意はない。そう、それだけに決まってる。
(私は一体誰に超言い訳してるんでしょうか……)
どうしてこうなったと、絹旗は数時間前のことを思い出す。
夕食は賑やかなものであった。
まず最初の洗礼の如く、絹旗は一方通行の手料理の味に愕然とした。
会社の異なる缶コーヒー(ブラック)を10缶並べて、味を全て当てることが出来るのだ、相当精密な舌を持っているとは思っていたがここまでとは。
というのが絹旗の率直な感想である。
これでこの男は平然と好みのタイプを「女らしくて、最低限、俺より飯の上手い女」と言ってのける。
イヤミとしか思えない。全国の飯マズ女に謝れと言いたい。
ショックから立ち直ると、想が絹旗の隣の席で、ひっきりなしに話す。
普段美琴の研究が中々都合が付かない為に一方通行と二人の食事が多い想には、三人での食卓が嬉しくて堪らないようだった。
保育園であったことを一方通行に報告する一方で、家であったことを絹旗に教えてあげたりと、終始想は落ち着きがなかった。
食事中、一体何度一方通行に「モノ食べながら喋るンじゃねェ」と額をぺしりとされていたことだろうか。
そんな想が可愛いのと同時に、一家の団欒に飢えている少女を痛ましくも思った。
「ねーねー、せんせぇとまってってよぉ~」
「ええっと…そうは言われましても」
絹旗の腕にくっ付いてぶらぶらと離れない想に、顔をでれでれにしながらも、絹旗は困ったように眉を寄せる。
ちらりと一方通行を見ると、食後のコーヒーを啜りながら面倒くさそうに絹旗達を見る。
「つーか、今更送ってくのなンざかったりィンだよ。泊まっていけ」
明日は休みだろうが、と言われては言葉が無い。
コイツ本当にわかっているのか、と絹旗は見返す。
自分の部屋に女を泊めるということの意味が、どういうことなのか。
(きっと超わかってません……)
美琴の服を絹旗の着替えに持ってくることからも伺える。
美琴は今日は研究室に泊まるから気にするなと、一方通行は気配りを見せた。
しかし、そういう問題じゃねぇと喉まで言葉が出かかった。
平然と他の女の服を用意するとか、無神経にも程があるというものだ。
他の女の痕跡を見せるという時点でいただけないのに。
要は、彼にとって絹旗はさしずめ「お泊りに来た親戚の子」という感覚なのだろう。
それでも、しがみつく子犬のような想の瞳に負けて結局絹旗は泊まることになった。
そして、今に至る。
『せんせぇいっしょにねよ~』
可愛らしいおねだりに、頷いたのは不味かった。
少女は嬉しそうに、ウサギの着ぐるみのようなパジャマのフードの耳をピコピコ揺らしながら一方通行を見上げた。
『あーくんもいっしょ~』
頬を赤くしながら甘えた声を出すおませな少女に、『世界一想に甘い男』という呼び名も高い一方通行が断ろうはずもなかった。
返す刀で切りつけられたかのような衝撃とはこのことだろう。
しかし今更『やっぱそれなし』などと言えるはずもない。
親子で川の字という形態に、緊張しながら、ギンギンの目を瞑って寝たフリをして一体どれだけ経っただろうか。
それでも目を瞑っていれば眠気が少しずつ、少しずつ、寄せる細波のように意識を削り、ふわふわとした世界へと誘っていく。
絹旗は、とろとろとまどろむ意識の中、でそれを耳にした。
妖精。
最初はそう思った。
小さく、囁かれる耳に心地良い愛らしい声。
妖精が内緒話をしているような、柔らかな響き。
しかし、それが聞きなれている声だと気付き、絹旗の意識は一気に覚醒する。
そっと薄く瞼を上げる。
「――― !?」
紅い瞳と目が合い、息を呑む。
しかし、一方通行は絹旗から視線を逸らすと、すぐに、下へと視線を向ける。
下、つまり想の方へ。
一方通行の視線は彼の腕を枕にしている少女へと注がれる。
「それでね、それでね……」
可愛い妖精のおしゃべりかと思ったのは、想のひそひそとした囁きだった。
すぐに寝付いてしまった想が起きている。きっと途中で目が覚めてしまったのだろう。
「ママがね、このまえ泣いてたの」
「………」
絹旗は、思わず聞くんじゃなかったと後悔する。
妖精の声が、僅かに翳る。
一方通行が微かに眉を動かしながら、そっと聞き返す。
「お前の前でか?」
美琴を、母としての彼女を信頼した聞き方だと、絹旗は思った。
泣いたことではなく、娘の前でそんな少女を不安にさせるような振る舞いをするはずが無いという信頼に裏打ちされた言葉。
その言葉と、声の響きに、ちくりと胸が痛んだ。
少女は、ゆるゆると首を振る。
「あのね、いっしょにねててね、よるにおトイレに行きたくなったの。そしたらね、ママがね……」
少女が話し易いように、そっと頭を撫でてやる。
「ねながらね、言ってたの。“とーま”って…言ってたの。泣きながら……」
一方通行の手が止まった。絹旗も密かに息を呑む。
「ねー、ねー、あーくん。とーまって人……だぁれ?」
不安を微かに帯びた少女の声。
一方通行は、そっと瞳を伏せる。薄く覗く紅の瞳に絹旗はどきりとした。
その瞳に優しさと、何かを堪える悲壮さが、紅の色を何倍も艶やかに映したのだ。
一方通行は、少女を心の底から愛しむように撫でてやる。
想は腕枕にしている一方通行の腕に、子犬が親犬に甘えるように頭をすりすりと擦り付ける。
「ママの大切なヤツだ」
何かを思い出すように、そろりと紡がれた言葉。
何を思ってその言葉を選んだのだろうか。絹旗は聞き返したい衝動を堪える。
想は、おずおずと見上げる。
母親譲りの大きくて、――― 父親譲りの僅かに穏やかに垂れ目がちの瞳で。
少女の瞳に立ち上る親友の面影を見て、一方通行は小さく笑う。
「ばーか。お前のママは世界で誰よりもお前のことが大好きなンだぜ?ハンパなくなァ」
「本当?」
少女の声に、安堵が混じる。
絹旗も釣られてホッと胸を撫で下ろしたくなる程に、無垢な感情が声から伝わってくる。
一方通行は、少女の頭を抱き寄せると、そっと前髪をあげてやる。
その額に薄い形の良い唇を当ててやる。
まるで、少女の抱えている不安を消してやる為のおまじないのように。
「にへへへ……」
「さ、ガキがいつまでも夜更かししてンじゃねェよ。さっさと寝ろ」
「うん」
ぎゅっと想が一方通行の薄い胸にしがみつく。
絹旗は何故か泣きたくなった。
二人のあり方の綺麗さと、その根底にあるモノの痛みを感じ取ってしまったからだ。
鉄橋を見上げるとむき出しの骨のようにどこかグロテスクな鉄柱の間から覗くのは鉛色。
みっしりと重たげな鉛雲が広がる空。
今夜は雨が降ると言っていた。
衛星もなく、外れることが多くなった天気予報を思い出す。
どうやら今夜は的中らしい。
思わず漏れた溜息でさえも飲み込んでいくような憂鬱な黒に息苦しさを覚える。
今夜は月が見えない。
そこで、ふと苦笑が浮かんだ。
何を考えているのだか。
そもそも自分は月を眺めて季節の巡りに思いを馳せるような情緒を解する人間ではない。
見上げていた空から、視線をゆっくりと下ろしていく。
闇にすぐに紛れてしまいそうな細いシルエット。
高校生だろう、紺色のブレザーに身を包んだ細身の少女が20メートル程先に立っている。
少女の瞳をよく見ようとして、ゆっくりと近づく。
夜の静寂の中、杖を突く音が白々と響く。
半分ほど距離を詰めただろうか、パチッと何かが弾ける音がした。
足を止める。
少女の周囲に青白い火花が散った。
シャンパンゴールドの前髪に隠れていた少女の瞳が初めてまっすぐに自分を見つめる。
見つめるというには生やさしい、射抜くと言うのが妥当だろうか。
焦点の合わない瞳。
宝石を填めたように美しく澄んでいるはずの瞳には力がない。
少女の口が、微かに震える。
下唇を噛みしめると、一拍置いて口を開く。
「なんでアンタが笑ってるのよ…なんでアンタが幸せそうにしてるのよ…」
少女の瞳から涙がこぼれた。
「なんでアタシが泣かなきゃいけないのよぉッ!!!」
バチンッ。
街灯が激昂する少女に呼応するように割れる。
舞い散る硝子の欠片が乾いた音を立てて鉄橋に零れる。
「 」
言葉は聞こえなかった。
おそらく自分が何かを言っただろうということはわかった。
特別重要な何かを言ったわけではない。
ただ、覚えていないのだこのときの自分の言葉を。
大した問題ではなかったから。
もっと優先すべきことがあったから。
自分の全神経が目の前の少女へと注がれてる。
少女の能面のようだった顔に徐々に感情が浮かび始める。
先ほど見せた激昂に、ようやく表情が追いついたように。
その表情には様々な感情が浮かんでいる。
憎悪
憤怒
悲哀
嫉妬
絶望
失望
嫌悪
渇望
極彩色の感情同士が混ざり合い、鮮やかな色のすべてが塗りつぶされた果ての、何者でもない顔。
少女にそんな表情をさせる自分に反吐が出そうになる。
「アンタ…なんで生きてるのよ!!
あの子達を殺しておいて……そんなアンタがなんで……
なんでそんな満たされた顔で生きてるのよ!!
それなのに……なんで…なんでアタシがこんな気持ちにならないといけないのよ!!
アンタの…アンタみたいな奴の周りにアンタの大切な人がいてくれるのに、
どうして、私の側に“アイツ”が居ないの?ねぇ、どうしてよ!!
ねぇ、答えてよ!!!」
涙を流しながら少女は叫ぶ。
支離滅裂で、脈絡の無い言葉。何があったのか少女は語らない。
しかし、叩きつけられる罵声の中に、少女の逼迫した精神の軋みがはっきりと感じ取れた。
詰られる自分の胸の痛みなどどうでも良いと思うほどに。
「 」
自分がまた何かを口にする。
どうせもっと他に言いようがあるだろうと、怒鳴りつけたくなるような気の利かない言葉。
優しくない言葉だろう。
少女の顔色が変わる。
破裂寸前にまで膨らんだ風船が破裂する直前のような、たわみのようなものが浮かぶ。
ぐにゃりと歪んだ顔。ふるふると小刻みに震える唇。それはほんの僅かな間だけ。
ひゅっと少女が息を飲む。
まとわりつかせていた火花がスパークしていき、明確に雷を成していく。
「あああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」
絶叫。
少女が腕を振るう。
白銀の矢が、自分に向けてまっすぐに解き放たれる。
直後、体中が焼け付くような感覚が走った。
目を覚ましてまず最初に一方通行は自分の手のひらを見つめることだった。
にぎっては開く。それを二度、三度と繰り返す。
動く。
痺れてやしないかと思っての行動だったが、そこでようやく今自分が見ていたのが夢だったと気づいた。
夢の中では痛みを感じない、というのは嘘である。
夢の中でも痛いものは痛いし、気持ちいいものは気持ちいい。
痛くないと言うのは、痛かったことを覚醒と共に忘れてしまうからだ。
腕の中で小さな寝息に気付く。
自分の腕の中ですぅ、すぅと、愛らしく寝息を立てている少女。
つと、視線をずらすと栗色の髪が覗く。
少女とは異なり、微妙に黒みを帯びたブラウン。
形の良いショートボブの女 ――― 絹旗最愛は、同じく少女に寄り添っ眠りについている。
湯たんぽのように暖かい少女を抱き枕代わりにしているのだろう。
その寝顔は、ただでさえ年齢よりも5歳は若く見える童顔を更に幼く見せている。
腕の中の少女と見比べると、まるで年の離れた姉妹だ。
自然と笑みが口に浮かんだ。
掌に汗がじっとりと滲んでいる。
ようやく、身体にタールのようにまとわりついていた緊張が解けていくのを感じた。
酷くリアルな夢だった。感覚がまだ身体に残っているようだ。
それも当然の話だ。
あれは現実に起こったことなのだから。
少女を起こしてしまわぬように、枕を差し込みながら腕を引き抜いていく。
時計に目をやると、時間はようやく一時を回ったかというところであった。
一方通行は溜息を吐く。
目が完全に覚めてしまった。
◇
研究が長引くのはいつものことであるが、それが他人の、それもどうでも良い雑用じみたものだとうんざりする。
妹の淹れてくれたコーヒーを飲みながら美琴は肩を回して、強ばった筋肉をもみほぐしてく。
微量の電流を指先から流して筋肉に蓄積された乳酸を分解することもできるのだが、それはしない。
凝りと一緒に、張りつめた集中の糸が切れてしまうのがイヤだからだ。
妹はコーヒーを啜りながらレポートを読み終えると、深く息をつく。
疲労が色濃く滲んだ溜息は自分と同じだ。美琴は薄く笑うとカップを空ける。
「どうしてミサカ達は、こんな時間まで同じ年の生徒の論文を読んで批評を書かないといけないのでしょう?
と、ミサカは愚にも付かない論文の山を読まされてうんざりします」
「まぁ、あの先生も多忙な方だから。それに研究室をもらう時にいろいろお世話になったのよ。
無碍にできないでしょ?」
コーヒーのおかわりを妹のカップに入れてやると、美琴はいましがた読んでいた論文とも呼べない代物を指で弾く。
書いた人間は知っている生徒だった。
確か、学園都市第三位ということは、学園都市で三番目に強いということなのかと、
怖いもの見たさの好奇心丸だしで近づいてきた男だ。
論文には、最強の能力者になるためのアプローチ法が書かれている。
己のオリジナリティに酔った独善的な文章に沿って、
何処かで目にしたことのある実験ばかりをつらつらとと並べ立てた論文だ。
曰く、如何なる攻撃も無効化出来れば、それが最強の能力だという結論に至っている。
もっとも、そこに至るまでの過程についての筋立てはもって回った言い回しで文字数を稼いだ挙げ句に、
『今後の遺伝子の研究次第』という大層な丸投げっぷりであった。
「何か未だに序列が勝負で決まってるって人多いのよね」
「第一位に勝てば、その能力者が第一位になるとかいう深道ランキング的な発想ですねと、
ミサカはジャンプの読みすぎだろpgrと内心思ってみます」
「口に出してるじゃん」
「でも、そう思われても仕方がありませんわ、レベル5の方々は圧倒的ですもの」
ごく自然に紛れ込んだ声。
美琴と妹は、一瞬はてと顔を見合わせてから、あわてて声の方へと振り返る。
「黒子!?」
「はいですの。貴女の白井黒子ですわ、お姉さま」
腰まで伸びたウェーブがかった髪をかきあげ、ツリ目がちな瞳を不敵に緩め、白井黒子が優雅に微笑む。
「アンタ、どうしてここに」
「これはこれは、ご無沙汰しておりますわ、妹様」
「いえいえ、こちらこそいつも姉がお世話に…」
「聞け!!」
お嬢様同士の挨拶のように、お淑やかに、柔らかくお辞儀をする後輩と妹に美琴のつっこみが入る。
「第一位様からお電話がございましたの」
「一方通行から?」
美琴は、数時間前に受話器越しで叱られたことを思い出すと複雑な顔になる。
幸い、今日は保育士の絹旗が泊まりにきているから、想を寂しがらせることは無いだろう。
しかし、まだ四歳の娘の側に母親はもっといるべきだろうが、ともっともなお説教を食らった。
「ハイな。夜分遅くでしたので、何事かと思いましたの」
苦笑する黒子に、嫌悪は浮かんでいない。
仕方がないなという呆れが大人びた顔には浮かんでいた。
『オイ、オセロ。テメェ暇か?』
「暇じゃありませんの。明日は朝早くに学会にお供するので今から寝ようと思っていたところですの。
夜更かしは乙女の大敵ですのよ」
『そォか、暇か。ソイツは良かったぜ』
「聞いてまして!?」
『今日、あのバカが大学に泊まり込みやがる。どォせまともに食わないだろォからテメェ何か作って持ってってやれ。
ああ、妹の分も忘れるンじゃねェぞ』
「お姉さまが?それはとても魅力的ですけれど、貴方が行けばよろしいのではないですの?」
『バカか、バカなの、バカなんですかァ?』
「バカ三段活用とか酷いですの!」
『うちにはおチビと客が来てンだよ。留守に出来るか』
「でしたら初春とか佐天さんに…」
『ハイ、またバカこいたよこのパンダ』
「パンダ!?」
『こんな夜遅くに花娘や佐天を出歩かせられるかァ』
「あら、優しい。それ聞いたらあの二人黄色い悲鳴をあげますわよ」
『はァ?なンだそりゃあ』
「………何でもありませんの」
『ま、ともかくテメェだったら最適だろォ。
いざとなったらアレだ、テメェの得意な脳味噌に矢を転移させ…』
「してませんの!殺人ですの!!得意技じゃねーですの!!!」
『まァ、とにかくテメェが適任だ。だから行け』
「……ま、お姉さまに会えるのは何物にも代え難き喜び。引き受けましたの。それにしても……」
『………ンだよ…』
「貴方、お姉さまに対しても随分過保護ですのね?それとも愛ですの?」
『何言っちゃってンですかァ?ベクトル操作でアフロにするぞアフロパンダ』
「モッコモコですの!?」
「ということがございましたの……」
「……ああ、何かゴメン。うちの白いのがホントゴメン」
「いいですの。お姉さまと妹様はお食事は?煮物とか色々作ってきましたの。
味があまり染みて無いのが心残りですが」
里芋の煮転がしのタッパやらを取り出す黒子に、美琴はぎくりとする。
痛いところを突かれたとばかりに、美琴と妹は顔を見合わせる。
どこと無く申し訳なさそうな二人に、黒子は眉を顰める。
「まさか……何も食べてないんですの?」
「いや、何て言うかタイミング逃しちゃってさぁ~」
「ハイ。一応ミサカ達もそれではいけないと思いどんべえを…」
姉妹揃っての無頓着ぶり黒子は肩を落とす。一方通行が過保護になるわけだ。
「お姉さま……少女趣味をようやく引退したと思ったら…」
「何よぅ…」
御坂姉妹は基本、自分の外見にそこまで投資するタイプではない。
しかし、それにしてももう少し年相応のおしゃれは身につけてほしいと黒子は切に願う。
特に美琴の無頓着ぶりがすさまじいのだ。
スッピンかつジーンズとブラウス。
シンプルにもほどがある。
それでも、美琴からだらしないとか、色気が無いという印象を受けない。
それは偏に『御坂美琴』という存在の持つ素材そのもののクォリティの高さだろう。
「そんなことだから女の子のファンばかり出来ますのよ」
大学内での美琴はもはや宝塚の男役だ。
母親よりも高い身長に、すらりとした長い手足。
ただでさえ整った顔が、知性と誇りの高さによって一層の凛々しさを醸し出している。
そして、他人に媚びずに優しい気配りと、頼りがいを持っている。
結果、常盤台ではないにも関わらず「お姉さま」呼びが浸透することとなった。
ちなみに、昨年の学祭におけるカッコいい生徒ランキングで男を差し置いて一位を獲得してしまっている。
「いいじゃんか~別にお洒落して誰かを誘惑しようとか、そんな目的なんか大学に無いんだし」
「お姉さま母親になってからさばけすぎですのその辺」
「おばさん化が着実に進行しつつあるのですと、ミサカはくろこんにひそひそと告げてみます」
「なるほどですの。納得ですの」
「聞こえてるわよ…アンタ達…」
こめかみをひくつかせる美琴から逃れるように、黒子は机に積み上げられた論文の山に目をやる。
「あら、お姉さまったら、もしや、生徒の論文批評を押しつけられましたの?」
「……まぁね…」
それはさぞかし苦痛だったろうと、同情的な気持ちになる。
ふと目に付いた論文のタイトルを読む。先ほど美琴が読んでいた論文だ。
黒子の浮かべたうんざりといった表情で、彼女が何を見たのか美琴にはわかる。
高レベルの能力者だったら誰もがこんな表情になるはずだ。
「ああ、こういう系統の論文は多いですのよね」
「本当ね」
第三位に勝てば第三位に、第一位に勝てば第一位になれると思っている人間は多い。
美琴からすれば馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
少年マンガじゃあるまいし、より強い奴が高いランキングを勝ち取っていくなどという単純なシステムでこの都市は動いていない。
確かに、第一位の超能力者がイコール最強の能力者であることは確かである。
しかし、それは結果論だ。
仮に、如何なる病でも怪我でも、それこそ欠損であろうとも修復し、命を甦らせることが出来る能力が現れたおする、
明日にでもその能力者はレベル5になれるだろう。
それが解析可能と判断されれば第二位、もしかしたら一位になれるかもしれない。
「要はあれですよね、キワモノ過ぎるギャンよりも万能なゲルググの方が評価は高い的な」
「ちょっと違うわよ」
「ヅタよりもザクということですのね?」
「もっと遠ざかったわよ」
他の分野に転用がどれだけ利くか、要はそこだ。
そもそも、それを解析して、科学技術に応用出来るか。
能力の優劣とは、どれほど汎用性に優れてるかとも言える。
故に、如何なる能力も消せる能力者がいたとしても、彼には第一位は与えられない。
せいぜいがレベル5の八位か七位止まりだろう。
更には、かかるであろうコスト面を考えればキャパシティーダウンの改良の方が遥かに安価である。
『原石』のような研究素材としての学術的な観点からの価値がある一方で、技術の転用幅が小さい故に。
「その理屈が通れば、今頃あの人が第一位でしたね、とミサカは一方通行を二度も撃破した彼をふと思い出します」
「………そうね」
美琴は複雑そうに笑うと、顔を隠すようにカップを傾ける。
コーヒーの苦みと共に、心の中に生じた苦々しさも飲み込む。
「そっか、そういやアイツ勝ったもんね…何だかスゴく昔のことみたい」
「懐かしいですね、とミサカは笑って話せる過去にしてはヘビーだったなオイと改めて…」
「あの類人猿の話は止めましょうお姉さま」
醒めた黒子の言葉を、美琴は表情を変えずに受け止める。
「アンタ、まだ怒ってるの?」
「当然ですの。というか、お姉さまが怒らなさ過ぎですの」
「ははは、そんなことないよ。私だって相当キレてたしあの頃は」
妹が黙ってコーヒーを啜る。
美琴は胸ポケットに手を伸ばし、煙草を取り出す。
箱の底をトンとたたくと、一本抜き出す。
グロスを塗ったように艶やかな唇に加えると、指先をそっと近づける。
バチッという火花と共に煙草の先に小さなな蛍火のような頼りなげな赤橙が点る。
ゆっくりと吸い込み吐き出された紫煙と共に、ふわりとしたバニラの香りが三人の間を縫うようにして広がっていった。
「五年も経てば流石に吹っ切れるわよ、色々」
過去にしたのだと、暗に示す美琴に、黒子は何も言わない。
◇
目が覚めると、目の前にいるはずの白い髪の青年がいない。
トイレかと思ったが、どうやらずっといないのか、彼の寝ていたベッドに温もりは名残すらない。
絹旗は、すぐ側の幼い想を起こさぬように、そっとベッドから抜け出すとリビングへと足を運ぶ。
美琴のものだというパジャマは丈が長く、手はすっぽりと袖に隠れ、裾を折り使っている。
リビングに足を運ぶと、ひやりとした風が頬を強く撫で、絹旗は身を縮めた。
肌寒さのなか、目に映ったのは、呑み込まれそうな真円の月。
そして、それを見上げる白い後頭部。
フローリングに直に座り、開け放ったバルコニーから月を見上げていた。
何故か、その後姿は昔見た、星空の下に一人ぼっちで座っていた猫の絵にダブってしまい、絹旗は胸が苦しくなる。
「こんな夜中に一人酒ですか」
だから思わず声をかける。
「……起きたのか」
一方通行の傍らにそっと座ると、絹旗は空になった数本のビール缶に視線を向ける。
「この寒いのに、よくビールなんて飲めますね…見ているこっちが超寒くなります」
「ほっとけ…」
ビールを傾けながら、ぼそりとつぶやく。
何となく、その横顔を眺めながら、想を間に挟まずにこうして二人きりになることなど初めてだと気づいた。
何か話題をと、絹旗は言葉を探す。
「そういえば、彼女さんと別れて随分経ちましたよね」
「そォだったか…?つーか思い出せね」
「思い出せないくらい昔でも無いですよ」
「いや、そうじゃなくて。顔?」
「超最低です!?」
この男本当に超酷い。
そもそも付き合い始める動機からして酷い。
『特に断る理由が思いつかない』
『泣かれたら面倒だ』
『さっさと話を切り上げたい』
そんな不埒な理由で承諾しているのだ。
それも「あァ」とか「おォ」といった返事とすら呼べぬ返事で。
何故絹旗が知っているのかと言うと、脳波で自在にネットワークを結べる少し変わった女友達からの情報だ。
「ダメですよ、彼女放置したら怒りますって」
「うるせェよ。大体向こうが私とのデートと、お迎えに行くのとどっちが大切なの?とか聞いてくるから答えただけだろ。
それをそっちが聞いてきておいて、勝手に怒るンだから意味がわかンねェよ」
空いたビールの缶をくしゃりと潰す。
その顔に、特に失恋の痛みに堪えるとか、苦い恋いの記憶を思い出してしまった切なさなどは無い。
理解不能の生き物の生態を思い出すような、そんな他人事のような醒めた表情が浮かぶだけだ。
少し、その事に絹旗は胸を撫で下ろす。一方通行の過去に対してまで嫉妬などしたくなかったからだ。
手持ちのビールが空になり、補充すべく一方通行は立ち上がる。
絹旗はキッチンに向かっていった一方通行の背中をしばらく見てから、月に目を向けた。
今しがた自分のした質問をもう一度反芻する。
何言ってるんですか私は!自分の頬をビンタしたくなった。能力全開で。
何故いきなり園児の保護者と恋バナなど切り出すのだ。
どこの世界にそんな保育士がいるのだ。
そんな、恋心丸だしの思春期の女子中学生のような保育士が…
「……いましたここに。超私です…」
両手で赤くなった顔を覆う。
気恥ずかしさがようやくやってきた。
「何がだ?」
「に゛ゃッ!」
上から降ってきた不思議そうな声に、奇妙な悲鳴を上げてしまう。
「アレ?それって…」
絹旗の視線は一方通行の手の中にあるカップへ。
絹旗の鼻孔をくすぐるアルコールの匂い。
絹旗の前に差し出された琥珀色の液体は、白い湯気を立ち上らせている。
鼻を近づけると、それがホットウイスキーだとわかった。
「あんまりお酒強くありませんよ?」
「安心しろ、ガキにストレートを勧める程馬鹿じゃねェ」
「ガキって!!」
「酒は少ししか入ってねェよ。寝酒には丁度いいだろ」
ぶっきらぼうに、そう言うと、一方通行はさっさと自分の分のウイスキーを飲み始める。
絹旗はおそるおそる、舐めるようにウイスキーを飲む。
喉を滑り落ちると同時に、身体がぽかぽかと暖まっていくのがわかる。
こんなにもウイスキーは飲みやすいものだかったか。
ウイスキーの癖のある香りをシナモンがうまく和らげているのだ。それから、ハチミツも入れてある。
辛党の一方通行が一人では絶対飲みそうにないもの。
彼が自分の為に作ったのだと思うと、胸の奥がむずむずとする。
「……なァに笑ってやがンだよ」
「何でもありませんよ~」
両手でカップを持って、一方通行の傍らで絹旗はくすりと笑う。
お酒のせいか、先ほどと同じように無言が続いているというのに、緊張感のようなものが幾分も軽くなった。
一方通行につられるように空を見上げる。確かに彼が一人酒と洒落込む気持ちもわかるような気がする。
酒が飲めればもっと共感できるものだろうか。
「今日はすまねェな」
ぽつりと呟かれた一方通行の言葉。
うっかり取りこぼしてしまいそうなほどさり気無いものだった。
絹旗は、きょとんとしながら見つめると、頬を搔き照れくさそうに青年は言葉を濁す。
「つまり、アレだ、その、想のことでよォ」
ようやく合点が行く。
おそらくは泊まるのも込みで、彼女に一日付き合ってくれたことを言ってるのだろう。
本当に不器用な男だと呆れる。
きちんと目を見てお礼が言える分、想のほうがずっとしっかりしているのではないだろうかと本気で考える。
「良いですよ別に。想ちゃん可愛いし、美味しいご飯食べられたし、想ちゃん超可愛いし、一方通行の過保護ぷりも見れましたし」
「うるせェ」
「でこチューですか~超羨ましいです」
「忘れろ!からかうンじゃねェ」
(羨ましいのは超本音なんですけどね…)
絹旗は鈍感男への苛立つと同時に自分のヘタレぷりに嘆く。
想が羨ましいのは常々思っていることだ。
親に捨てられた、親の記憶の薄れた絹旗には、想が堪らなく羨ましく思えるときがある。
想に向けられるこの青年の、慈しみに満ちた愛情溢れる瞳を目の当たりにするときだ。
もし自分が想の立場だったらどうだっただろうか。
あんな、フカフカの毛布に包まれるように、柔らかで温かな愛情に包まれたら。
きっと自分だったら蕩けてしまう。
「一方通行は想ちゃんが本当に、本当に超可愛いんですね」
「………かもな」
十全の肯定を示さないところは本当に素直じゃないが、彼がここまで肯定するというのも珍しい。
一方通行は何か遠くを見つめるように紅の瞳を細める。
不意に、煙草の箱を取り出すし一本指に挟む。
口にくわえるとジッポで火をつける。
「……想はよォ……」
ゆっくりと吸い込み、細い煙を静かに吐き出す。
「救いなンだよ……俺にとっても……アイツにとっても」
「救い……ですか?」
「ああ」
それ以上は何となく聞けず、絹旗はホットウイスキーをちびりと飲む。
一方通行が煙草を口に咥えると、咥えた拍子に彼の鋭い犬歯が見えて、絹旗は顔を逸らす。
何となく落ち着かない。
ちらりと見ると、細い指に挟んだ煙草の光が、ふわりと舞うようだ。
一方通行が煙草を吸う仕草を、絹旗は綺麗だと思った。
これほど綺麗に煙草を吸う姿を見たのは初めてかもしれない。
すぱすぱとせわしなく吸う者や、ぼそぼそと背筋を丸めて吸う者を見る度に、絹旗は煙草を吸う姿を軽蔑していた。
吐き出す煙の匂いが染み付く以上に、その姿が見っともなく、『汚い』とさえ思っていた。
しかし、一方通行は静かに、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
時間にせっつかれているわけでもなく、煙草に飢えて飢えて仕方がないというわけでもない。
何となく、吸いたくなったから吸っている。さり気無く。
バニラの香りに気付いたのはそれからだ。
「甘い匂いですね……煙草にもそんなのがあるんですね」
「想が嫌がるだろォ……まァ、それでも月に二、三回しか吸わねェけど」
「ホントにまず想ちゃんありきの生活ですよね……」
想がたまに言っていた「あーくん、甘い匂いするの」というのはこの事だったのかと納得する。
最初はお菓子作りをしていたのだろうかこの家庭的な男はとも思ったのだが、匂いが染み付くような甘いものをこの男は作らないらしい。
それでは一体何だろうかと思ってきた疑問の理由がようやくわかった。
こうして、考え事をするとき、彼はこうして一人でぼんやりと空でも眺めながら煙草を手にするのだろう。
けれども、少女が嫌がらぬように、甘い煙でそんなことなど微塵も悟られぬように覆い隠す。
少女に対する過保護であると同時に、少女に嫌がられない為のこの男の可愛い予防策なのだろう。
ふと、煙草を吸わない絹旗は何となく好奇心を持って尋ねる。
「ちなみにどんな時に吸いたくなるんですか?」
一方通行は、意地の悪い笑みを浮かべながら絹旗を見下ろす。
何かよからぬ事を企んでいるときの顔だ。
「……あァ……そォだなァ…やっぱり……
「やっぱり?」
「セックスの後とかだなァ」
「セッッ!?」
絹旗は言葉に一瞬詰まる。
「ぎゃはははははッ。オイオイ、センセェよォ。今時中学生でもそのリアクションはねェよ」
「あ、あなな、貴方…超最低です!!こんなのが想ちゃんの保護者だなんて…」
「安心しろ、想の前じゃ言わねェよ」
「超当たり前です!!」
真っ赤な顔で怒鳴る絹旗を、からかうように笑って見下ろす一方通行。
じゃれ合いながらも、絹旗の頭の片隅ではずっとその言葉が反響し続けていた。
『救い』という言葉が。
「放て心~に刻んだ~夢を~♪」
嘗て流行った懐かしくすらある歌を口ずさみながら美琴は久しぶりの休日を満喫していた。
満喫といっても、どこかに出かけたり、何かに打ち込んでいるというわけではない。
リビングのソファに座りながら雑誌を読んでいるだけ。
傍らには白い湯気の立つコーヒー。
膝の上には四歳になる愛娘が美琴の膝に覆いかぶさるようにして、ころんと寝転がり絵本を読んでいる。
美琴は時折手慰みに膝の上にいる愛らしい生き物の髪を指に絡めたり、丸くて手触りのよい頭を撫でたりする。
更には柔らかいお腹を突っついて擽ってやったりする。
くすぐったいせいか、小さな身体を捩ってゴロゴロと動くさまは、子猫か子犬のようで、美琴の頬が可愛らしいさに緩む。
元々可愛いものが好きな美琴にとって、愛娘の可愛らしい姿は母性を擽るだけではすまない。
雑誌を傍らに置くと、両手で柔らかくぷにぷにとした丸いお腹を擽り始める。
「おりゃ!こしょこしょこしょ」
「んにゃ~。あはは、あはは、にゃふぅ、あにゃ、あふはは~くす、くすぐったいの、ままぁ」
「ここか?ここがええのんか~?」
「あにゃははははっ」
「こやつめ、こやつめ。ええい!」
「あははっはははっはははにゃははは」
舌足らずの甘い声に、美琴は更に擽る手を強める。
少女はそれだけで嬉しいのか、美琴がちょっかいをかける度にきゃっきゃっと笑って美琴のお腹に自分の腕を回して抱きつく。
大好きな母親を独占して、たっぷり甘えてやろうという幼くストレートな意思表示。
美琴の上機嫌のパラメーターが更に更新される。
彼女の日常の大半を占めている研究は彼女のライフワーク兼趣味と化している。
その一方で、彼女自身のプライベートにおける趣味は皆無に等しかった。
中学生の頃はそれでも可愛いものグッズの収集が趣味と言えば趣味だったのかもしれない。
可愛いものグッズというよりもゲコ太であるが。
強いて挙げるならば他にはゲームセンターに行ったり、あまつさえコンビニに立ち読みに行ったりすることであろうか。
しかし、一児の母になって趣味とするにはどれもこれも相当キツイ。相当キツイ。
というよりも、女の子の趣味として挙げるにしても相当キツイ。相当キツイ。
笑い疲れてぐったりと美琴の膝の上で横になっている想の捲れてしまった裾を直してやり、
荒い息を吐いている少女の背中を落ち着けるように撫でてやる。
美琴は淹れたてのコーヒーを一口飲むと、満足そうに微笑む。
妹が研究室で淹れてくれるコーヒーも悪くはないのだが、やはりコレには敵わない。
「結局ウチのコーヒーがやっぱり一番な訳よ」
「他人様の家に上がりこんでおいて何言ってやがる……つーかその口癖…いや、いい…」
キッチンで調理をしていた一方通行は頭痛を堪えるように眉間に皴を寄せる。
黒いエプロンが本当にサマになっているな、と美琴は感心すらしてしまう。
鼻を甘い香りが擽る。
一方通行がフライパンから大き目のフレンチトーストを皿に盛り付けていく。
似合うついでに言えば、コーヒーを淹れる姿もサマになっている。黒いエプロンで美味しいコーヒーを淹れる姿は喫茶店のマスターのようだ。
豆が違うのだろうかとも思ったが、自分が淹れてもこの味は不思議と出ない。
「オラ、テーブルの上さっさと片付けねェとブッ飛ばすぞ」
御坂母娘は積んである読みかけの雑誌や、読む予定の本、想の玩具をささっと慣れた手付きで片していく。
大皿に乗せられたフレンチトーストは五枚。一枚は想、二枚ずつ一方通行と美琴。
白い湯気を立てる出来立ての淡いタンポポのような色のフレンチトースト。
その上にかけられた黄金色のハチミツの甘い香りが食欲をそそる。
フレンチトーストをそれぞれの小皿に美琴が取り分けていると、キッチンから一方通行が自分のコーヒーが入ったカップとデザート皿を持ってくる。
バナナとキュウイとリンゴをカットした上にヨーグルトをかけたものの内、二つにハチミツをかける。
一つはすっぱいヨーグルトの味が苦手な想の為。
もう一つは美琴の為に。
「美味しそう~」
「おいしそ~」
「ね~」
「ね~」
普段よりも少し遅めの朝食に、美琴と想はそっくりの顔を輝かせる。
「ただの余り物で作っただけだろォが、こんなモン」
一方通行は興味無さ気に顔を逸らすと、コーヒーを一口飲む。
一瞬御坂母娘はきょとんとしてから互いの顔と一方通行の横顔を見比べる。
色白というのも考え物だ、照れているのが一発でわかるのだから。
想もそれがわかっているのだろう。
幼いながらも何処か一方通行を見る目に「しかたがないなぁ」と言った慈しみの感情の芽が垣間見える。
美琴と想は顔を見合わせてこっそり笑う。
「ハイハイ、アンタが朝からツンデレ絶好調なのは美琴さんちゃんとわかってるから」
「あーくん、ツンデレうさぎさんだもん、ね~」
「ね~」
「うるせェ!黙って食え!!」
耳まで真っ赤にしながら一方通行が怒鳴る。
しかし、今更そんな声を少し荒げた程度で怯む御坂母娘ではない。
二人は、一方通行の声など聞こえていないかのように手を合わせる。
「「いた~だきます」」
「……いただきます」
普段から想にきちんといただきますとごちそうさまを言うように教えている一方通行は言いたいであろう言葉をグッと飲み込むと二人に続く。
一口齧ると、フレンチトーストはフワリと容易く歯で噛み切れる。
口の中でミルクと卵の優しい味わいと、ハチミツの何処かホッとするような甘さが広がる。
ナイフなどいらないのではないだろうかと、フォークで器用に切りながら美琴は思う。
一方通行はナイフで想が食べやすいように切ってやる。
過保護だと、美琴は呆れてしまう。
そういえばコイツは打ち止めにも過保護だったし、番外個体さえも妹どころか娘扱いしていたなと思い出す。
もしかしたら、親しい年下の女は皆彼の中では妹か娘に区分けされてしまうのかもしれない。
だとすれば、何とも浮かばれない話だ。勿論、彼に好意を寄せている娘達がだ。
想がふと期待に満ちた眼差しで見上げていることに気付く。
「ね~ママ。あーんって、してほしいの」
切り分けられたフレンチトーストにちらりと視線を落とすと、想は甘えた声を上げる。
もじもじとした仕草で察しは付いていた。
美琴は当然だとばかりにフォークで刺すと、やけどしないようにふーふーと息を吹きかける。
「想ちゃん、ハイ、あーん」
「あーん」
小さな作り物のような可愛らしい歯が並ぶ口を元気良く開ける。
そこに覚ましたトーストを入れてやると、想はふにゃりと笑う。
はにかむような娘の可愛い仕草に、美琴は悶えそうな衝動を堪える。
「あーくん、あーくん。あーくんもあーんして」
「アホ。冷めないうちにさっさと食え」
「あうぅ」
「唸ってもダメ」
「ぷぅ~」
「膨れてもダメ」
「にゃぁ」
「甘えてもダメ」
想は、フレンチトーストを一方通行に食べさせて欲しそうに見上げている。
拾って拾ってと訴えかける子犬みたいに。
あの瞳によく打ち勝てるものだと感心する一方で、彼が甘やかすだけの男ではないことに安心する。
元々が娘を溺愛してしまう上に、寂しい思いを味あわせてしまう負い目も重なって美琴は想に甘い一方だ。
彼が折に触れては、所々でこうして締めるところを締めてくれているおかげで想は我が侭放題にならずに此処まで育ってきているのではないだろうか。
そう考えると頭が上がらない。
(フレンチトーストか……)
一方通行の作る料理で、美琴は彼のその日の機嫌がわかる。
朝食にチーズオムレツが出てくる時。
その日は機嫌が良いとき。彼の好きな作家の本が面白かった時。
機嫌が悪い時はスクランブルエッグ。
おそらくイライラしながらオムレツを作ろうとして失敗した名残であろう。
そして、フレンチトーストの時。
これは美琴がゆっくりと休む日。
想とまったりとした時間を過ごす日。
ハチミツたっぷりの甘くふわふわとしたフレンチトースト。
疲れた身体に良いとされるハチミツたっぷりのフレンチトースト。
想のハチミツでベトベトになった口元を拭ってやりながら、美琴はちらりと白い青年を見る。
無愛想な顔でハチミツの代わりにシナモンシュガーを振っておいた自分用のフレンチトーストに齧り付いている。
(ホント、コイツ素直じゃないんだから………意外にみんな気付いてるのに)
嘗ての自分だったら、お前が言うなというツッコミが入っただろうか。
今日は、想のお洋服でも買いに行こう。そして、不意打ちで一方通行の服も。
買い物は長くなるだろう。自分もそうだが、一方通行も想の着る服にはうるさい。
金に糸目をつけずに余り高級ブランドの物を買い与えるのは気をつけないといけない。
年相応の、可愛らしいものが良いのだと以前絹旗が言っていた。美琴もそうだと思う。
(せっかくの休みなんだもんね、想ちゃんを思い切り可愛くプロデュースしなきゃね。コイツも付き合うだろうし)
二切れ目のトーストに取り掛かりながら、今日のスケジュールを組み立てる。
そのことをぼんやりと思い浮かべながら美琴はコーヒーを飲む。
カップの底に視線を落としながら自然と笑みが零れた。
絹旗最愛は最近溜まってきている疲れを揉みほぐすように、こめかみをさすりながら周囲を見渡す。
色とりどりの折り紙でデコレートされたホールには無数のパイプ椅子。
ほとんど座る者はなく、周辺でざわざわと話し声がする。
それぞれは大きくはない話し声が、ひとつになり、ホールにざわめきという一つの塊となって反響する。
今日は12月5日。絹旗が働く保育園では学芸会の日。
園児たちが今日という日を迎える為に親をびっくりさせてやろうと内緒で練習を重ねてきた成果の発表の場である。
内緒とは言っても家でも練習をする子はするだろうし、早い時間帯に迎えに来た親などは保育士と共に練習を見学したりもする。
故に、バレバレだ。
隠し通せているつもりなのは園児のみ。
保護者は知ってて知らぬフリをし、保育士はそれを承知でおくびにも出さずに保護者が満足の出来る水準まで子供たちの芸を指導してやる。
絹旗は断言しても良いと思っている。
学芸会とは子供たちの芸を発表する場ではない。
子供たちの頑張り、時に失敗、そして一人で出来たつもりになって得意になっている小憎らしさに萌える日なのだ。
そう、園児たちのドヤ顔に悶える日なのであると。
そして、目の前の光景を見る。
絹旗の前には二組の家族。
絹旗は、すでに予感めいたものを覚え疲労を蓄積し始める気の早い自分の身体にうんざりする。
もうすぐ保護者の席へと案内をしなければならないのであるが、園長の計らいによってしばし、絹旗は歓談の時間を与えられていた。
一組目の家族に目を向ける。
ビデオカメラを片手に、数年前よりも体つきのがっしりとした男。
その傍らで、ぽややんとした空気を嘗ての3割増の女。
美人の部類に間違いなく入るはずなのに、ピンク色のジャージのせいで台無しになってしまっている服装がっかり美女。
息子の晴れの舞台の為に仕事を休みにしてきた父親、家事を切り上げて同じく駆けつけてきた母親。
お手本にしたいくらいの良い両親だ。
ただ難癖…もとい、注文を付けるとしたら一つ。
「カメラ片手にニヤニヤ顔の浜面…壮絶にキモいです。もはや犯罪の光景の一部ですよ。保育園より鉄格子が超似合いそうです」
「ちょっとぉ!!最近の保育士さんはみんな保護者にこんな態度なんですか!?」
「頑張ってしあげ。そんな田代の再来と言われているしあげを私は応援している」
「超健気な妻の愛です。浜面には超もったいないくらいの」
「保護者になっても変わらないのね、俺の立場…」
「ま、きちんと休みを取って馳せ参じたことは評価してあげます。あの子ずっとお父さんも来てくれるかな…って心配してましたから」
「そ、そうかぁ!!いや~ホント参ったな~男なんだからもうちっとしっかりしねーといけないのに」
言葉と表情の見事な乖離。
父親 ――― 浜面仕上の顔が瞬く間にデレデレになる。
キモいと心の底から思いながら、絹旗は隣の旧姓滝壺に目をやると、彼女は相変わらずにこにことしている。
お母さんっ子にして、お父さんっ子である二人の子供の不安そうな顔を思い出す。
一体どれだけこの男は甘やかしてるのやら…とため息が出そうな時がある。
「まぁ、奥様方の下着をそのカメラで盗撮したりしない限りはキモい浜面でも保護者らしく見えますからね」
「どんだけお前の中の俺の地位は犯罪者よりなの!?」
「大丈夫。しあげはそんなことはしない」
「理后……」
「しあげを私は信じているから」
心ない妹分の言葉に涙目になりかけていた浜面の手をそっと彼の妻が握る。
優しい言葉に、浜面の顔が生彩を取り戻してく。
「もししたら地下室ね、しあげ」
「ひぃぃぃぃーーーーッ!!」
最後に押された念押しに、浜面が悲惨な声を上げる。
締めるるところは締める、釘を刺すところはきっちり刺すのがこの数年間の夫婦生活の賜だろう。
そして、絹旗はもう一組に目を視線を移した。
絹旗の疲労を更に増加、否、倍加させうる問題の一家だ。
「ちょっと、ビデオの充電はばっちりなんでしょうね?」
「あァ?てめェ誰に物言ってやがるンですかァ?満タン、メンテもばっちりの最新型だコラ。原子崩し食らってもビクともしねェ未元制だ」
「ああ、初春さんの彼氏さんの手作りか…」
「てめェこそ、興奮し過ぎて放電すンじゃねェぞ?他の親御さんのビデオまで壊したら想の立場がやべェンだからなァ」
「壊さないわよ!!レベル5何だと思ってるのよアンタ」
「ハンッ。この前ゲコ太の映画見て劇場スパークさせたのは誰だっけなァ」
「あ、あれは仕方がないのよ。ゲコ太がまさかあんなことになるなんて…」
「サブタイで気付よ。「ゲコ太最後の日」って思い切りネタバレしてンじゃねェか。想の方が冷静だったぞ」
「うううう、うるさい……大体ね、想は単にゲコ太よりもラビ太郎派なのよ」
「ああ、あの目つきの悪いウサギかァ…アイツの趣味もわかンねェなァ…」
「………まぁ、アンタならそういうと思ってたわよ。ええ、そうでしょうね……あ!絹旗先生。ゴメンなさい、煩くしちゃって」
「主に煩かったのはお前だけどなァ…」
「うるさい!!あ、ゴメンなさい…」
「いえいえ~超気にしないで下さい。そこの白いのが誰とイチャコラしてようと超々どうでもいいですから」
こめかみをひきつらせながら絹旗は全力で笑顔を作る。
本当は、イチャイチャしてるんじゃねぇこの真っ白白助!!と言ってやりたいのをグッとこらえる。
やべぇ、もう少しで窒素パンチが出るところだったよ、とエプロンのポケットの中で右手を抑えながら絹旗はかろうじてこみ上げていた怒りを飲み込む。
だって絹旗、先生ですから。
そう、こちらが問題の一組だ。
「よォ、何変な顔してやがンだ。笑ってンだか怒ってンだかわかンねェツラだな」
遠慮もなく、ズバズバと言葉を選ばない白髪の青年。
手には浜面の手にしていたものと0の数が二つばかり違いそうなビデオ。
黒のジャケットに、緩くシルバーアクセの付いたネクタイを締めてると、まるでヴィジュアル系かホストだ。
長身痩躯の美形、白髪に赤目のアルビノは目立つのか、周囲の奥様がたがしきりに熱い視線を送っている。
正直、面白くない。
「何でもありませんよ!!想ちゃんの晴れ姿しっかり撮るんですよ」
「言われるまでもねェンだよ、ボケ。それよか、さっさとテメェも戻らねェとなァ。年長組だったけか?テメェのお遊戯は」
「鉄板ですか!超鉄板ネタですか!それでとことんイジリつくすつもりですか!!」
「だってよォ~お遊戯の練習してっと見分けつかねェしィ~」
「こら!先生にそんな口のきき方する保護者がいるか!!ごめんなさいね、絹旗先生」
ぺこりと申し訳なさそうに頭を下げるのは先ほどまで一方通行と漫才じみた言い合いをしていた女。
絹旗よりも10センチ以上高い背に、スレンダーな体型。
典型的なモデルのようなルックスに、短くばっさりと切られた琥珀色の髪。
娘そっくりの顔立ちと髪の色。それもそうだ。
御坂美琴、絹旗が受け持ち、もっぱら目を掛けて可愛がっている少女 ――― 御坂想の母親だ。
「いえいえ、それにしても今日はよくいらっしゃいましたね。てっきりまた、一方通行だけが来るのかと」
「研究はもう今日は妹に任せても大丈夫だったんで。いつもいつもコイツばっかり想ちゃんの可愛い姿リアルタイムで見られるのも悔しいですし」
「けけけけけ、雛祭りも七夕も月見パーリィーもハロウィンも制覇した俺に死角はねェ」
「ずるいわよアンタばっかり…ビデオカメラで想ちゃんの可愛い姿見てても、副音声ばりに隣で、想ちゃんと思い出話で盛り上がっちゃってさぁ」
「ケッ…だったら、ちったァ少し家にいるンだなァ」
「わかってるわよ、もう」
唇を尖らせる美琴と、意地の悪い言葉とは裏腹に、優しい眼差しを彼女に送る一方通行。
周囲には美男美女の若い夫婦に見えているだろう。
絹旗だって、事情を知らなければそう思う。
そんな二人を見ていると、胸が苦しい。
そんな色っぽい空気はないというのに、それ以上に飾らない、力の程良く抜けた空気が絹旗の知らない年月を感じさせる。
「そうですよ、御坂さん。想ちゃんいつも「あーくんが、あーくんが」って言ってるんですから。そろそろママの存在感も出しておかないと」
「……先生までコイツと同じこと言う……ってまぁ、自業自得なんだけどさ」
美琴があはははと、自嘲気味に笑う。
その笑みを見ながら、絹旗は安心する。
彼女がどれだけ忙しい立場なのか、一方通行や妹から聞いているだけに絹旗はわかっている。
それでも、こうして何とか時間を作っては想の為に使っている。
そのことに絹旗は安心するのだ。
彼女は、しっかりと想を愛しているのだと、絹旗にはわかるから、安心するのだ。
あの無垢でいじらしい少女が、きちんと母に愛されていることが、絹旗は嬉しい。
「それじゃあ、もうすぐで始まりますから。今のうちにお手洗いとか済ませておいて下さいね」
「やっとか。待ちくたびれさせやがって…」
「想ちゃんは年少さんですから、一番手ですよ」
絹旗は手を振ると、その場を立ち去る。
◇
そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、ぽつりと美琴が呟いた。
「可愛い人だよね、絹旗先生って」
可愛いもの好きであり、自身、年々「凛々しい」と表現される姿に成長していく美琴にとって絹旗は羨ましかった。
一方通行よりも頭一つ分は小さい、華奢な身体。
厚手のセーター越しにもみっしりと存在感を示す胸。
幼い顔立ちに、くりくりとした大きな瞳。
人懐こい笑みがそこに加われば、天下無敵の可愛い保母さんだろう。
「あんなに可愛かったら男は放っておかないわね」
「だろォな。確かに可愛い奴だからな」
絹旗が去っていった方をしばらく眺めていた一方通行は、ビデオの操作を確認している。
興味の無いような横顔に、美琴はチェシャ猫のような笑みを向ける。
「へぇ~~」
「なンだよ気持ち悪ィ笑いしやがって。沈めるぞ?」
「別に~アンタ本当にツンデレよね。先生の前じゃ憎まれ口たたいてるくせに、いなくなるとデレるのね」
「はァ?意味わかンね。何言ってるンだ」
「さっきのを先生に言ってやれっていうだけの話」
「フン…」
◇
準備を終えた年少組の子供たちの中に少女の姿を絹旗は探すべく見回す。
今日のお遊戯、猫をモチーフにした踊りに合わせ、園児たちは猫の格好をしている。
猫の耳に、猫のしっぽ。
男の子は着ぐるみのモコモコ姿。
女の子はファーをところどころあしらったワンピースに毛皮の手袋とブーツ。
多少媚びているとはいうものの、犯罪的な可愛らしさに絹旗はくらりと来る。
今日だけはショタコンじゃなくて良かった。
さらって行きたくなる可愛らしさだ。
目的の少女を見つけると、すぐに絹旗は駆け寄る。
「想ちゃん。ママ来てましたよ」
「ホント!?」
茶色のスカートにしっぽ、手袋にブーツ。
鈴が付いた赤い首輪に、茶色の猫耳。
贔屓目ではなく、純粋に想は年少組の中でもダントツで可愛らしかった。
絹旗は抱きしめたくて仕方がなくなる。
しかし、想を抱きしめれば当然他の子達も抱きしめなければならない。不公平だから。
それを鬱陶しい義務だとは思わない。
愛らしい園児達を抱きしめるのは、先生の特権だと思っているくらいだ。
ただ一人一人抱きしめてる時間も無い。
だから、グッとこらえる。
想は、母親が来ると聞いて頬を赤くして笑う。
滅多にこのようなイベントに来れない母親が来てくれていることが嬉しいのだ。
想はおそるおそる絹旗を見上げる。
「あーくんもいる?」
「当然。あーくんが今まで来なかったことがありますか?」
想はあわてて首を振る。
しかし、僅かな間を置いて想の顔が曇る。
想の不安はわかる。
滅多に来れない母親が来てくれたという喜び、幸せ。
だから逆に不安になったのだ。これは夢じゃないのか?と。
もしくは、一方通行が来れなくなったから、母親が代わりに来たのではないのかと。
母親には来て欲しい。しかし、一方通行が来てくれなくなるのも嫌だ。
だから不安になったのだろう。
二人いっぺんに来てくれるなどという幸福に、想はすぐに信じることができなかったのだ。
そして、もう一つ。
大好きな二人の前で、前のように失敗してしまったらどうしようかという不安。
二つの不安が想の表情を曇らせたのだ。
そんな少女の幼いながらも、健気で少し痛ましい想いがわかって、絹旗は想が愛しくなる。
まさに文字通り子猫な想の頭をなでてやる。
「想ちゃん、いっぱい頑張りましたよね」
「うん」
少女は強くうなずく。
絹旗はにっこりと笑う。
「でも、上手に出来るのか不安なんですよね」
「………」
沈黙の後、想はこくりと頷いた。
素直でよろしいと、心の中で想を褒める。
「想ちゃん……想ちゃんの大好きなあーくんやママは上手に出来ないと怒ったり想ちゃんのこと嫌いになったりするんですか?」
「え?」
少女には少々難しい問いだったかと、口にしてから後悔した。
想は、きょとんとした顔で、絹旗の言葉をゆっくりと咀嚼していく。
そして、ゆっくりと、首を横に振る。
しっかりとした、意志の宿る瞳。
自分で考え、意味を理解したという少女の瞳に絹旗は感心の息を漏らす。
この子は自分の言葉の意味を感覚で理解している。
一方通行も、美琴も想が上手に出来ないことに失望などしたりはしない。
当然だ、失敗など誰でもすることだと、幼い少女と違って彼らはわかっているから。
彼らは責めることなどせず、少女を褒める。そこまで頑張ってきた少女の努力を知るから。
上手に踊れるかどうかではなく、一生懸命に踊るかどうか。
彼らは想のそんな姿がみたいのだ。だからこそ、想の心配は杞憂にすぎない。そのことを絹旗は教えてあげたかった。
立場的に、失敗しても良いとはいえないからこそ、遠回しに、そして四歳の少女には困難な問いかけを行う。
「せんせぇ……想がんばる」
母親譲りの瞳が、力を帯びる。幼いながらも、凛とした光を宿した瞳だ。
「ママよろこんでくれるかな……?」
緊張をはらんだ瞳で見上げてくる。
マシュマロのような頬を両手で包み、額を当てる。
少し潤んだ大きな瞳と、絹旗の柔らかな瞳が合う。
「はい、とっても。ハグハグぎゅーってしてくれますよ」
「えへへへ…じゃあ…あーくんもうれしいかな」
「感涙するんじゃないですかね」
「おでこにちゅーってしてくれるかな」
「それはもう、何回でも。先生にもついでにしてくれるくらいテンション上がるでしょうね」
「せんせぇはだめ。でこチューは想の」
「あ、そこ超ハッキリさせるんですね」
どさくさ紛れの言葉でさえも、少女は聞き逃さない。
「想ちゃんは本当にあーくんが好きなんですね」
「うん」
「じゃあ、喜ばせちゃいましょう」
「うん」
「上手にじゃなくて、一生懸命踊りましょう」
「うん」
「きっと、頑張ったなァって言って喜んでくれますよ」
「うん!!」
「きっと大丈夫ですから。今日の想ちゃんにはあーくんと、ママと、それから……」
少女の紅葉のような手を握る。
「先生も付いてるんですから。超大丈夫ですよ」
「えへへへ。せんせぇもだいすき」
「先生も想ちゃん大好き」
「想はね、ちょーだいすきだもん」
「あ、超取りましたね~」
「ふにゅぅ~」
ほっぺたをぷにぷにとこねてやる。
すっかり緊張の抜けた少女のひまわりのような笑顔をみて、絹旗は一安心する。
もう、これでこの少女は大丈夫だ。
この前のように、泣き出したりなど絶対にない。
「さ、みんな」
絹旗が手を叩くと、それまで銘々騒いでいた子供達が絹旗をみる。
それを確認すると、絹旗は優しく、そして、イタズラを企む一人の子供のように笑う。
「にゃんにゃん可愛く、一生懸命踊りましょう。お父さんとお母さんを超びっくりさせちゃいましょう!!!」
「「「「おー」」」」
絹旗が手を振り上げると、園児達も、楽しそうに手を上げる。
「さぁ、超楽しんできちゃいなさい!!」
愛しくて可愛い子供達を、絹旗は、安心出来る温かな笑顔で送り出す。
さて、ダンスの結果であるが、ある意味当然の、絹旗の危惧した通りのものになった。
「んきゃーーーー!!!!想ちゃん可愛いーーよ!!!にゃんにゃんにゃん~ああんも~可愛い~~想ちゃぁ~ん」
「ええっと…お母様、他の保護者の方々もいらっしゃるのでフラッシュとあと放電の方はご遠慮下さい」
「いいねェ、いいねェ~最っ高にゴキゲンに踊れてンじゃねェかァァァーーーーーー!!!エンジェル爆誕かコラァ!想、マジ天使ってかァ!!くか!!……くか、かかきききかくけけここかきくけこかかかこくききくけかきくけーーーー」
「天使は貴方ですから、輪っかと羽をしまって下さい、超しまって下さい………しまえぇぇぇぇーーー!!!!」
345 : 貧乏螺子 ◆d85emWeMgI - 2011/02/09 22:24:15.03 ilscuxnU0 106/791
以上で投下終了。
周りに誰も居ない時の一方さんは娘さんのおでことかにチューくらいします。
前々回は絹旗が寝てると思って油断してたのです。
でも、娘さんは自慢したくて仕方が無いので、話まくってます。絹旗先生やママやお姉ちゃんズに。
先生経由で浜面夫妻や土御門等元グループメンバーに伝わり、ママ経由で佐天さんや初春や黒子に伝わってます。
ばれてないと思ってるのが一方さんだけです。
それではまたノシ
一方通行は緊張をはらんだ瞳で、じっと女の唇を見つめる。
その瞳には、紅の色に劣らぬ情熱が立ち上る。
女の唇のなまめかしい動き、その一つ一つを見逃さぬように、じっと見つめる。
女は、舌の上に溶けて行くほろ苦い甘みを吟味するようにゆっくりと神経を舌に張り巡らせる。
やがて、女の手がゆらりと上がる。そして、白く細長い親指が突き立てられる。
「合格!!」
佐天涙子はサムズアップをする。唇の端にチョコレートを付け、満面の笑みで。
一方通行はホッと小さく溜息を吐くと、すっかり冷め切ってしまったコーヒーを飲む。
佐天はチョコレートマフィンをぺろりと平らげると、物足りなさ気にじっとマフィンが乗せられたプレートに視線を送る。
一方通行が佐天の視界から隠すように間に割り込む。
彼女の視線に軽く危機感を覚えたからだ。
「もう一個…」
「ダメだ。他にやる分が無くなる」
眉間に皴を寄せて、軽く睨む。
軽いといっても、気の弱い者ならば失神してしまいそうな鋭い視線である。
しかし、佐天は何処吹く風とばかりに、にぱっと笑う。
「うんうん。よくぞここまで苦手なお菓子を自分の物にしましたね。先生嬉しい!!」
腕を組んで頷くと、佐天はそっと自分のお腹を見下ろす。
「……ホント、味見に協力した甲斐もあったというものです。私の摘めてしまいそうなお腹も草葉の陰で…」
「どれどれ」
「ひゃんッ」
それは本当に何気ない行為であった。
佐天の言葉に対して一方通行は純粋に疑問に感じた。
腹が摘めると嘆く佐天。
太ったようにはとても見えない彼女。
スレンダーな身体で、唯一スレンダーという枠組みから外れているのは胸部のみ。
美琴が酔うたびに『胸に脂肪が全部行ってるのよ!!』と羨望と妬みと嫉妬と、嫉みと僻みと憎しみを吐き出す相手。
だから、不思議に思ったのだ。
『嘆くほど太ってンのか?』と。
むにゅっと佐天涙子のお腹を指で摘む。
「これくれェならいいンじゃねェのか。寧ろ ――― 痛ェェ!!」
寧ろ健康的で良いじゃないかとほめようとしたところで思い切り足を踏みつけられる。
「馬鹿!!変態!!最低!!助平!!」
顔を真っ赤にした佐天が眦を釣り上げる。
「この……踵で踏むこたァねェだろォが。たかが腹摘んだくれェで……乳揉んだわけじゃねェだろォが」
「当たり前です。揉んでたら責任取ってもらいます!!」
「なンのだよ!!」
そんなキッチンでのじゃれ合いを忌々しげに眺めている視線が二組。
瓜二つの顔、姉妹としか思えぬ二人。片方は凛とした瞳に、まだ子供らしさが抜け切らぬ幼い輪郭を持つ少女。
もう一組は、程よく熟した果実のような艶かしい身体付きに、優雅な長い手足を持つ女。
少女に似て美しいものの、瞳の鋭さが近寄りがたさを生み出している。
「チッ…いちゃいちゃしてんじゃねーっての…」
忌々しげに番外個体と呼ばれている女は舌打ちをする。
優雅に組んでいる長い足のつま先を苛立たしげにぶらぶらとさせる。
「あの人って、ああいうのが好きなのかなってミサカはミサカは……ど、どうでもいいけど、一応気に掛けてみる。ホント、どうでもいいんだけどね」
セーラー服姿の少女が背中まで伸びた髪をかき上げる。
どこか不機嫌な猫の如きつんとした表情は、少女の心境を言葉よりも遙かに雄弁に物語る。
「せっかくクソ忙しい合間を縫って義理チョコくれてやりに来てやったミサカを放置プレイとかあり得ないんだけどあのクソアスパラ」
「ミサカだってテストも終わって、友達と遊びに行きたいのを我慢して来てるんだよ?一応、保護者だし。義理だけは立てておかないといけないしさ」
「何様だってんだよアイツ。勝手に出ていってさ」
「ホントそうだよね。ミサカ達のこと守るって言っておいて、この数年思い切り放置だし」
「マジでロリコンだろ。アンタがでかくなったから興味が失せたんじゃない?」
「そ、そんなことは無いんじゃないかな~もっとも番外は最初から眼中に無かっただろうけどさ。番外なだけに」
「は?ブチ殺されたいのかにゃーん?クソガキ」
「やれるもんならやってみたら?言っとくけど、この前の測定でミサカもレベル4になったから。 もうアンタに劣る要素なんて一つも無いよ?ってミサカはミサカは痛んだ髪を誤魔化す為に
未だにセミロングにしてるミサワをあざ笑ってみたり」
「けけけけけけ。『ロングヘアで料理上手』っていうアイツのタイプに近づこうと涙ぐましい
空回りっぷりを発揮してるお子ちゃまにミサカが負けるはずないじゃん。
あとミサワって言うな」
姉妹のような二人は、口々に辛辣な言葉を口にしながらも、視線は決してキッチンの二人からそらさない。
視線の先の一方通行と佐天の一挙手一投足に注意を払っている。
互いに目の前の自分うり二つの顔を罵りながらも、彼女達の目は一番油断のならない相手をきっちりと見据えている。
二人はというと、マフィンの他にも様々なお菓子を作り終え、現在は一方通行の作る夕食の準備を手伝っている。
相変わらず惚れ惚れするような手際の良さだと、内心佐天の手つきに感心していた一方通行が、佐天の顔に視線を留めた。
「オイ、佐天」
「はい ?なんで ――― んんッ ――― 」
ポトフの微妙な味付けに没頭していた佐天が振り向くと、細長い指が彼女の唇に触れた。
「付いてたぞ」
白い指先に、先ほどのチョコレートが付いてる。
「あははは」
佐天は頬を赤く染めながら、照れ隠しに笑う。
子供のようにチョコレートを付けていたことへの羞恥心によるものだが、年頃の近い男に受けた不意打ちが彼女を少なからず動揺させた。
「ったく……想と一緒だな」
「あっ」
ぺろっと一方通行はチョコを舐め取る。
白い唇から覗いたぬらりとした舌の鮮やかさの艶めかしさに佐天は一層顔を赤くすると視線を逸らす。
落ち着かない気持ちを持て余すようにエプロンの裾を指でいじる。何でも無いように振る舞う一方通行が小憎らしい。
じとっと恨めしげににらむものの、彼は既に料理に集中している。何か文句くらい言ってやろうかとも思うが、先ほどの行為が佐天からその気勢を削ぐ。
「あン?どォした?」
「………想ちゃんにもよくやってるんですか?」
「やるって…ああ。まァな。アイツ結構食いっぷりがいいから口の周り汚しちまうンだよ。クリームやらシロップやらチョコレートやら……
飯食うときも飯粒つけやがるし。ミートソースなンざ超鬼門だな」
「で、それを取ってあげてると?」
「いちいち指摘するのもメンドクセェからなァ」
愚痴っぽく呟いてから、一方通行は何気に隣を見る。
うつむいて、真っ赤になりながら怒ったように鍋をかき回す佐天を不思議そうに見る。
佐天は責めるように一方通行を睨みつける。
やや、間を置いて佐天はぼそぼそと口を開く。
「そういう事をするから……色々誤解されるんですよ」
「誤解?……フン、俺はロリコンじゃねェぞ」
「そっちじゃありません。もう、絹旗さんの言ってた通りだ…」
諦めたように佐天が深いため息を吐く。
一方通行はわけがわからないという風に怪訝な表情を浮かべる。
何もわかっていないだろう一方通行の顔を横目に、佐天は唇を尖らせる。
「そんなんじゃ想ちゃんいつまで経っても親離れ出来ないんじゃないですか?」
「ハンッ。俺はガキの躾には厳しいンだよ。余計な心配だ」
料理の傍ら用意しておいた打ち止めと番外個体用の紅茶と、お菓子をトレイに乗せる。
その自信満々な表情に胡散臭さを覚えながらも一応、佐天は尋ねてみる。だいたいの予想はついているのだが、一応。
「じゃあ、例えばどんなことを?」
「もう自分で頭を洗うようにしてる。あと、手洗いとうがいも欠かさずにさせてるしよ。料理の手伝いもしてるからな。
チッ……コイツは予想以上に早く親離れするかもなァ…」
そう言って遠い目をする一方通行。
どこかその瞳は寂しげで、佐天ならずともきゅんときてしまう。もっとも、その内容が内容であればだ。
(今までずっと頭を洗ってあげてたってこと?というか、お風呂常に一緒ってことじゃないですか…お手伝いとか、どう聞いても一緒に想ちゃんがいたくてしてるだけのようだし…
絹旗さんが酔っぱらいながら「想ちゃんになりたい!!超なりたい!!」って言ってたけど…)
おそるおそる佐天は確認する。
「……ちなみに夜は一緒に…?」
「ああ、あの馬鹿が帰れねェ日とか遅くなる日は一緒に寝てるな。ガキの体温あったけェし」
(ハイ、アウト!!親馬鹿だこの人。過保護だ凄く。超溺愛してるよ)
この分だと、やはりデコチューの話は本当のようだ。
(あ……私も想ちゃんがちょっとうらやまし…いえいえいえ、何考えてるんだか)
「よォ、待たせちまったか」
「待たせすぎだよ第一位。ほ~んと薄い背中見てたらぶっ殺したくなっちゃった~~ぎゃはは」
「貴方ってさ、本当に礼儀知らずだよねお客を待たせておくなんて……ってミサカはミサカはこんなヤツが保護者という現実に嫌気が差してみたり」
「へいへい、そいつァ悪かったな。オラ、お前らの分だ」
紅茶と一緒に出されたのは、チョコマフィン。
自分と番外個体の分だということはわかっている。打ち止めは一口食べてからむっつりと口を閉じる。
「どォだ?美味いか」
自分のコーヒーを飲みながら一方通行が微かに瞳を柔らかく緩める。
この数年、家族や親しい人間にのみこの男が見せる表情だ。隣にちゃっかり腰掛けている佐天がちらりと盗み見しているのが、打ち止めの癇に障る。
しかし、それ以上に癇に障るのが、このマフィン。不味いのではなく、その逆。とても美味しいのだ。
彼らしい甘さ控えめな味付け。それが逆に何個でも食べたくなってしまう。女の子の敵のような味だ。
そして、自分が作るよりも数倍美味しいということもすぐにわかる。被らなくて良かったと安心すると同時に、自分の作ったものとの落差を感じる。
それはどうやら自分の隣りの番外個体も同じだったようで、唇を引きつらせながら、辛うじて強がりの薄笑いを浮かべている。
「何だか美味しいお菓子が作れる一方通行なんて逆に気持ち悪いんだけど?ってミサカはミサカはすっかり主夫になってる貴方に呆れてみたりする」
「ああ、ミサカもそれ思った~っていうかさぁ、これってあのおチビにはちょっと渋過ぎるんじゃない?」
「うん、想ちゃんはもうちょっと甘い方が良いと思うんだけど、こんなマフィンとか、ちょっと子供心をわかってないかもねってミサカはミサカは昔を思い出しながら言ってみる」
「ロリコンなのに、子供心がわからないとかマジ受けるんだけど~」
「…お前らなァ…ったく、年々口が悪くなってきやがる。番外はともかく、打ち止めァァ…お前そんな毒吐きまくってて黄泉川に怒られねェのか?」
「お生憎サマ。ミサカ達が口が悪いのは貴方限定だからって…ミサカはミサカは衝撃の事実を言ってみたりする」
「つまり保護者ぶって気に食わない第一位にだけ辛辣だっていうことよ、わかるかにゃ~ん」
「ふゥ~ん。まァ、他所ではマシな振る舞いしてるっつーンだったら俺からは何も言わねェよ」
「………フン…」
「………ケッ…」
二人の共同作業という言葉に、打ち止めと番外個体が若干イラッとする。
打ち止めに至っては、『想』という言葉が一方通行の口から出てくること自体が正直気に食わない。
自分の居場所を完全に奪った少女だと、たかが四歳の子供だとはわかっているが、嫉妬せずにはいられない。
もっとも、姉のDNAに従ってすっかりツンツンツンデレになっている彼女はそれを認めないが。
「ミサカ帰る」
番外個体が立ち上がる。
顔は不機嫌そのもの。
もっとも、彼女はデフォが不機嫌、仏頂面なのであまり違いがわからないのだが。
つられるようにして、打ち止めも立ち上がる。
それは弾みとか、反射的なものであったが、これ以上此処にいても一方通行に辛辣な言葉を浴びせてしまうだけだと思うと、今更座ろうとも思わない。
「おォ、そうか。チョコすまねぇなァ」
彼女の不機嫌に気付いた風もなく、一方通行が軽く手を上げる。
番外個体の奥歯がぎりっと軋む音が打ち止めにだけ聞こえた。
(あ……この子相当苛立ってる)
もっともそれは自分も同じだけど、と打ち止めはそっと呟く。
番外個体は馬鹿にしたようにハッと笑う。
「べっつに~彼氏と別れたからさぁ。本当はソイツにあげるつもりだったの。だから別にミサカは特別どうこうしたってわけじゃねーし」
「そうか。ってか、お前この前の野郎と別れたのか?いい加減だな…」
「ああ、うっさいうっさい。お説教は止めろっての。アンタ説教臭いオヤジになってきてんだけど?マジうぜぇんだけど?大体今更じゃん、ミサカが男と別れるなんて。
もうさ、ズッポズッポにやりまくりの乱交パーティーしまくりなんだから、また男適当に見繕うだけだし」
吐き出された汚らしい下品な言葉に、佐天が驚き、顔を赤くする。
慣れている自分でさえも正直ドン引きする。普段の番外個体は、一方通行と自分以外の人間が居る前ではそんなに下品な言葉を発することが無い。
つまり、それほど今の彼女は面白くないのだ。
「テメェでテメェの価値下げてンじゃねェよ馬鹿娘」
「 ―――― ッ!!」
番外個体が息を呑む。
静かに、諭すように向けられた言葉に、咄嗟に言い返すことが出来ず、黙り込む。
「で、打ち止め。お前も帰るのか?」
一方通行は、ちらりと打ち止めに視線を向ける。
その静かで、少し呆れた瞳にカチンとくる。
「ま、まぁね~ミサカは流石に彼と別れたりしてないからさ。今から彼と遊びに行くんだよってミサカはミサカは充実した交際をアピールしてみる」
声が上ずっていないかという打ち止めの心配を他所に、一方通行は「そォか」と安心したように、そして何処か寂しそうに呟く。
期待していたものとはまた違う彼の反応に、打ち止めはむっとする。
そうじゃない。
そうじゃないだろう。
もっと、他に言う事があるんじゃないのか。
そう言ってやりたいのは、打ち止めも、そして番外個体も共通していた。
「ガキらしい領分は守れよ。まだ責任も何も取れる年齢じゃねェンだ」
一方通行はぽんぽんと打ち止めの頭を軽くなでる。
一瞬、そのまま身を任せてしまおうかという甘い誘惑に駆られるが、すぐさま羞恥がこみ上げる。
手を振り払うと、打ち止めはキッと一方通行を睨む。
「だから、保護者面は止めて欲しいの!」
「そいつァ悪かったなァクソガキ」
しかし、一方通行はそんな言葉にも特に気にしたわけでもなく、からからと笑う。
少女が、順調に大人になって自意識を一丁前に持ち始めていることが、嬉しくて堪らないように。
「ったく……ガキ共がそろいも揃って色気づきやがって……気を付けて帰ンだぞ」
「バカ……」
一瞬、引き止めてもらえなかったことへの、落胆が番外個体と打ち止めの顔に浮かぶが、気付いたのは佐天だけであった。
◇
「おいぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーー!!!!全然ダメじゃねーーーか、この『嫉妬を煽って、気持ちに気付かせよう作戦』っての。
ミサカにビッチ設定が勝手に付いちまっただけじゃねーか!!」
「う、う、ううう、煩い!!ミサカだって彼氏とラブラブ設定ってあの人の中で定着しちゃったんだよ!!!
それにアンタ元々ビッチだから関係ないじゃん!!ってミサカはミサカは世間一般の常識として言ってみる」
「ビッチじゃねーし!!バリッバリの処女だし!!大体、アイツと会った時のヤツだって、告白されて五分で捨ててやった糞だし」
「乱交云々なんてアンタの勝手なアドリブじゃんかぁぁ!!全員ドン引きだったよってミサカはミサカは負の感情受けなくなっても変わらない貴女に呆れてみたりプークスクス」
「オイ、こら、クソ上位個体。テメェ最後笑っただろ今。笑えるような状況に無いのは一緒だろうが。
つーか、お前アレなに?ツンデレキャラ?あれじゃあただの嫌なヤツじゃん。デレ無いだろ」
「ヤンデレビッチが吠えてらぁってミサカはミサカはテメェよかマシだよと嗤いつつ、あの部屋に最大の敵を残して来たことに気付いてみたりする……」
「いいよぉ………どぉせ妹扱いだって。最近ミサカわかってきたよ。アイツにとって親しい年下は全部娘か妹のカテゴリーに入るんだって」
「でも、あの先生は侮れないとミサカはミサカは危機感を募らせてみたりする」
「あのチビ巨乳か……超とか言ってガキっぽいくせに、あのアフロダイなミサイルとか……」
「あの人の貧乳属性に期待しようか……」
「それはそれで、お姉さまとか油断出来なくなるだろ……」
「………」
「………」
「………これからウチで作戦会議するけど来るってミサカはミサカはあの人から貰ったマフィンでお茶をすることを複雑な思いを抱きながら提案してみる」
「………ミサカも賛成するよ。作戦会議にも、お茶にも。マフィン美味しかったもんね」
「うん……」
◇
「想ちゃん、お手て熱くないですか?」
「だいじょーぶ」
真剣な顔で湯銭でチョコレートを溶かしている想を、絹旗は微笑ましく見つめる。
部屋中に漂う甘い香り。これは当分取れないなと、苦笑する。
エプロンはピンク。一方通行の家から内緒で持ってきたとは想の言い分だが、おそらくばれているだろう。
小さな少女の懸命な挑戦、それを邪魔する程野暮な過保護でもないということだろうかと、少し感心する。
今日はお休み。想は今、絹旗最愛の部屋に来ている。
目的は一つ。乙女の決戦の日、バレンタインデーのためだ。
今頃一方通行も想の為のチョコレートケーキを作ってる頃だ。
というか、余りに馴染み過ぎて違和感が無くなったのだが、何故あの男は毎年毎年バレンタインデーにチョコを用意するのだろうか。
それによってプライドを粉々に打ち砕かれた乙女達がどれほどいたことだろうか。
「まぁ……軽い気持ちでちょっかいかけてくるようなのが撃退されるのは超オッケーなんですけど…」
「ほぇ?」
「いいえ、何でもないです」
思わず口に出して呟いていたらしい。絹旗は慌ててかぶりを振る。
想はすぐに目の前の作業へと取り掛かる。砂遊びの時も、ダンスの時もそうだが、この少女の集中力の高さにはいつもながら舌を巻く。
余り見惚れているばかりではいけないと、絹旗はフライパンに意識を向ける。
コーヒー豆が程よく香り立つように、慎重にフライパンで炒めていく。
想は可愛らしくハート型のチョコレートを製作中。
絹旗はコーヒー豆をチョコでコーティングしたお菓子を製作中だ。
「ねーせんせぇ」
「はい?何ですか」
「あーくんよろこんでくれるかなぁ?」
「勿論ですよ。というか、想ちゃんのが一番喜ばれると思いますよ」
ホント、マジで。
想はパァっと顔を明るくさせると、いっそ目の前のチョコレートに集中する。
とろとろに溶けたミルクチョコレート。少女は、祈るようにかき回す。
大好きな人にチョコレートを贈る日と知ってから、少女の立てた計画。
『あーくんにないしょでチョコを作って、あーくんをビックリさせるの!!』
それは計画と言うよりも、所信表明だろうと、絹旗は野暮なツッコミを心の中で唱える。
フンス、と小さな拳でガッツポーズをつくる少女が可愛かったのもあるし、自分も作るつもりだったのだから、一緒に渡せればという思惑もあったりする。
「ところで、どうして一方通行は結構チョコ貰ったり……」
「うん。いつもあーくんいっぱいチョコもらってくるの。あーくん甘いの食べられないからいつもこまってるの」
彼は相当な辛党だったはずだ。
酒のあてにチョコレートが好きな者もいるが、生憎と彼はそうではない。
もっとも、それ以上に絹旗は『いっぱいチョコもらってくる』という件が気に食わないのだが。
「一方通行ってモテるんですよね結構……」
呟いてみてから、改めて認識する。
一体、あんな性悪男の何処が良いのだろうかと思うが、自分も人の事はとてもではないが言えないという事に気付く。
「だってあーくんやさしいもん。カッコいいし、ごはんおいしいし」
「ま、まぁ、カッコ悪くはないというか、良いといえなくもないというか…」
「それに、ぎゅーってしてくれるし、あたまあらうのとっても上手なの。それからねー、デコチューしてくれるし、えっと、えっとそれから…」
我が事のように想は嬉しそうにへにゃんと笑う。
そんな恩恵を受けているのは地球上で想ちゃんだけですよ、と言いたい気持ちをグッと堪える。
「だから、あーくん好きな人いっぱ~いいるの。ええとね…」
少女がかき回す手を止めて、指を折っていく。
その確認作業に、絹旗は思わず紅葉のような手を凝視する。一体何人数える気なのだろうかと。
「あいほお姉ちゃんとききょうお姉ちゃんでしょ。みすずちゃんもだし~」
ホッと小さく息を漏らす。
親愛というのも、少女の中では好きに当てはまるようだ。
というか、四歳の少女のに自分が何を期待して、何を不安に思っていたのだ。
「お姉ちゃん達でしょ、それからママに~」
不安が的中し始めた。
少女の上げるラインナップにグレー臭が漂い始めた。
「あとワーストとオーダーのお姉ちゃんでしょ~それからるいるい」
そして、友人の名前が出た。
無能力者であるが、心優しく、真っ直ぐな気性の持ち主。
美琴の紹介で友人になったが、個人的にも非常にウマが合う。
嘗て一方通行が上げていた『髪が長くて、料理が自分よりも上手い』という条件に、唯一当てはまるのは彼女ではないだろうか。
「それから~せんせぇ!!」
「んにゃッ!?」
「きぬはたせんせぇもあーくん大好きだもんね~」
にぱーっと笑う想。しかし、絹旗はそこまで余裕があるわけではない。
いきなり口に出されると、流石に心の準備もヘッタクレも無いのだ。
「そ、それは…その…」
「あーくんのこと嫌いなの……?」
「――― ッ!?……ああ……そうじゃなくてですね……」
ただ、急な振りにビックリしたのだ。
自分の大好きな人を大好きな先生が嫌っているのではという不安が少女の表情を曇らせる。
絹旗は自分の軽率さに舌打ちをする。こんな子供を不安にさせてどうするのだ、と罵る。
熱くなっている頬はきっと暖房の効きすぎなのだと、言い聞かせながら、絹旗はにこっと笑う。
「先生もあーくんのこと大好きですよ。ええ、本当………超大好きです」
10代の小娘じゃあるまいし、自分の感情がどんなものか、十分に把握している絹旗ははっきりと断言する。
これを本人に向かって言えればな、と自嘲気味に思いながら。
想は、その言葉を聞くと満足そうに頷く。
綿菓子のように甘くてほわほわとした想の笑顔につられて、絹旗もにっこりと笑う。
「想もね~あーくんのことちょー大大だ~い好きなの。せんせぇとおそろいなの」
マシュマロのような頬っぺたを桜色に染めて、何て可愛いことを言うのだろうかと、絹旗はきゅんとなる。
想は笑顔のまま、更に続ける。
「だから、せんせぇだったらあーくんのあいじんになってもいいよ~」
「ぶふぉぉッ!!あ、あい、あい、愛人ッ!?想ちゃん!?」
「ほんとはせんせぇもあーくんのお嫁さんになりたいんだよね?せんせぇ……ごめんね?」
「ええ、それは超残念で、出来れば私もお嫁さんに……ってそうじゃなくて!!想ちゃん、それ誰に…?」
「はまちゃんのね、おとうさんが言ってたの~お嫁さんは一人しかなれないから、他はあいじんっていうんだって。想ね、あーくんのお嫁さんになるの。だからせんせぇはあいじん。
せんせぇ……ごめんね?でも、そうすればせんせぇともいっしょだもん。この前みたいにあーくんとせんせぇと寝れるんだもんね~
あれ?でもママもいっしょに寝たいからママもあーくんのあいじんになるの?あれ?お嫁さんがママになるから、あれ?」
想はだんだんよくわからなくってきたのか、しきりに首を傾げる。
絹旗は、目の前の無垢な四歳児から飛び出した単語の破壊力にうろたえる。
(何純粋な想ちゃんに超教えてるんですか!!はぁぁぁぁぁーーーーーまぁぁぁーーーづぅぅぅぅぅぅーーーーらぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーー)
「へっきし!!」
「お父さん風邪?」
「いや、全然平気だぞーー?父さん強いからな!」
「しあげ、ハイ、これ」
「おお!!チョコレート。……そういや、この前想ちゃんにあんな事言っちゃって良かったのか?一応お前が説明してやれって言ったから教えたけど」
「小さいころからちゃんとした常識を教えるのが大人の務め。うさぎさんは照れ屋さんだから、きっとそうちゃんに教えてない」
「……うん、まぁ、一方通行が絹旗を愛人に云々なんて教えてたらママさんが黙ってないだろ……」
「大丈夫、私はうさぎさんに窒素デンプシーを食らうであろうしあげをポジティブに応援している」
「あれ?俺それって殴殺ルートじゃ……」
◇
年は取りたくないものだ。昔は何でもなかった徹夜がこうも身体に堪えるとは思わなかった。
親船最中は老眼鏡を外すと、目頭を指で揉み解す。
濃厚に疲労の滲む表情には、今までに積み重ねてきた時が年輪のように刻まれている。
60を越え、増々精力的に活動する老いを知らないとまで言われている学園都市総括理事長の人には見せない姿であった。
「でも、ようやく軌道に乗ってきているのだもの……多少の無理は…」
「ババァが年も考えねェで気張るのは無謀ってンだよ」
本来ありえないはずの闖入者の声。
彼女の立場であれば、それこそ一大事であるはずの事態にも関わらず、おや、と親船は大した驚きも見せずに、声の方へと振り返る。
黒いスーツに、一つに結んだ白い髪。紅の瞳は、悪戯をしている子供を叱る親のように、苛立ちと呆れが半々になっている。
彼の手にある箱に目が行く。
そして、彼女はようやく納得する。
「そういえば今日は2月14日なのね」
「オイオイ…大丈夫なのかよババァ……」
「時間の感覚が中々掴みきれなくてね。最近忙し過ぎて」
「ケッ……こンな窓のねェ部屋に居るからだよ」
白い髪の青年は親船のデスクまで近づくと、箱を置く。
親船は、苦笑する。
「毎年毎年、貴方も律儀な子ね」
箱を開けると、ふんわりと甘い香り。箱に触れるとまだ温もりが残っている。
「あら、マフィンなんてステキじゃない。いい紅茶があったし、お茶にしましょうか」
「俺は遠慮しておく。すぐに消えるから、その後で好きにしてな」
「そうするわね。それにしても……折角のバレンタインデーの夜にこんなおばさんのところに来てて良いのかしら? ―――― 一方通行」
一方通行は、親船の言葉を鼻で笑う。
何を今更下らないことを聞くのだと言わんばかりに。
「ハッ、盛ったガキ共がかこつけてヤりまくる日じゃねェだろ。元々は日頃世話になってるヤツ等に贈り物をする日だろォが」
「意外とそういうところ真面目よね貴方……ふふふ、ま、貴方の良いところかもしれないわね、そういう義理堅さ」
マフィンの箱を閉じると、脇に置く。
「それで、想ちゃんは元気かしら?」
「ああ、母親に似ようと父親に似ようと、アレが大人しいタマかよ。それから……今更になったが、保育園の件……すまねェな」
「バレバレだったみたいね」
「当たり前だ。レベル5のガキと、実質レベル5のガキが通う保育園の保育士がレベル3やら4ばかりなンざ、作為的じゃねェって思える方がどうかしてる」
皮肉げに笑う一方通行を、親船は静かに見る。
「対外的に今が正念場だからね。『8人』のレベル5、これが最大の武器であり、同時にネックでもある……だから全力で保護しないと……」
「魔術サイド対策か?だが向こうは……」
「まだいるのよ。そういう手合いは。世界は変わろうとしているのに、それを改悪だと言って騒ぎ立てる。まだ始まったばかりなのに一体何がわかるっていうのかしら……」
「屑共らしいじゃねェか。知らねェ、わからねェ、予測できねェ。だからしがみつく。悲しいくらい小物だなァ……」
親船は何かを思い出したのか、ふふふと笑う。
不審な目をする一方通行に、謝りながら彼女は晴れ晴れとした表情を浮かべる。
「もっとも、そんなに悲観することもないのよ。来月、ようやくイギリスが動くのだから」
その言葉に、一方通行の頬が強張る。
驚きに、微かに見開いた紅の瞳を、親船は少し小気味良い心地で見返す。
「そう、最大教主直々にお見えになるの。あのお嬢さん中々のタマだわ。お人形さんみたいに可愛らしい顔しておいて」
「………フン。新しい最大教主は学園都市に住んでたんだ、事情ってもンなら引きこもりの先代よりも遥かにわかってンだろ」
一方通行は、座っていたデスクから腰を上げると、扉へと足を運ぶ。
途中、親船はその背に声をかける。
それは、彼女にとって話しのタネについでに言っておこうという程度のものだった。
「そうそう、最大教主なのだけれど、彼女の……守護聖人っていうのかしら?」
あの露出侍か、と一方通行はとある年齢詐称疑惑の女剣士にしか見えない魔術士の顔を思い浮かべる。
「彼女の側近にあたるらしいのだけれど、二人も来るそうよ。へぇ……最大教主の側近兼……これは夫…でもあるみたいね」
一方通行は、思わず親船を振り返る。
親船は、不思議そうに手元の資料に視線を落としており、一方通行の表情に気付いていない。
「神浄……討魔っていうのね……物々しい名前だわ」
呆れたような、不思議そうな親船の言葉は一方通行には届いていなかった。
「上条……当麻……」
搾り出すような声が、一方通行の喉から知らず知らずの内に零れた。
これ通行止め?つか打ち止めどうしたの?
あとこの子供だれ