33
この深夜、自宅のパソコンの前で、見滝原中学の二年担当教師・早乙女和子は、独り言をぶつぶつ、呟いていた。
部屋はまっくら。
電気もつけないで、青っぽいパソコンの画面だけ、メガネ越しに映している。
なんて健康に悪い環境だろうか。
そして、早乙女和子がつぶやいている独り言とは、こんなつぶやきだった。
「1910年……ハレー彗星が地球に接近……地上から空気がなくなって世界は滅びる」
パソコンの画面には、宇宙を飛ぶハレー彗星の画像検索結果が出ている。星が軌跡を描いて光っている画像だ。
その画像が和子のメガネにも青く映る。
「1938年10月30日……アメリカのCBSラジオは火星人の襲来を発表。人類は滅亡してしまう」
カチカチ。
クリックの音がなり、パソコンの別の画面が表示された。
「1944年……彗星が地球にいよいよ激突、人類は滅びる…ムニョス・フェラーダス」
インターネットのサイトの記述を、熱心に目を通す先生。
「1999年、7の月……恐怖の大王が空から降りてくる……人類は滅亡する」
ぶつぶつ…。ぶつぶつ…。
カタカタというクリック音がなり、ノストラダムスの大予言の中身が表示される。
「2012年、12月23日。マヤ文明が地球滅亡を予言した月、大災害が起こる…。
人類は滅亡する」
カチカチ。
無言。
ついに和子は、あーっと叫んで頭を抱え、過去に予見された人類滅亡がことごとく外れて、
人類は今だって地球でぴんぴんしている現実を思い知った。
「いったいいつになったら人類滅亡の予見は当たるのようー!」
あと40年もしないで、神の子が再臨する?
おそすぎる!
いつ本当の人類滅亡がくるのか。
いつ本当の終末がくるのか。
もっとも現実的な可能性は、大きな隕石が地球に落下すること。これは、地球に何度もおこっている。
恐竜は滅亡したし、なにより、月があること自体が、地球に隕石が激突した証拠だという。
月とはそもそも、地球の一部が剥ぎ取られたものという説があるからだ。
隕石がぶつかったとき、地球の地表がえぐりとられて、月になった。
それから、巨大な天体が、太陽系を通りかかる可能性。
遠心力と太陽の重力でかろうじで保たれている地球の公転は、巨大な天体にちょっとひっぱられた瞬間、
公転の軸を外れて、太陽系の外のどっかにすっとんでしまう。
太陽と地球はおさらばする。
すると、人類の生きる地球の環境に、どんな変化が起こるかなど、日をみるより明らかだ。
人類など、あっさり滅亡する。
とっとと、火星でも木星の衛星エウロパでも、移り住める惑星をさがさないと、油断してたら、あっさり滅亡する。
だというのに、アメリカでは、NASAに予算案が決議されていないそうだ。
NASAは閉鎖した。
人類が未来、宇宙人の仲間入りを果たすなら、NASAこそ、その役割を担っているかもしれないのに。
ロケットでもなんでも飛ばして、人類の未来を拓くべきだ。
しかし、思えばロケットは、人類を滅亡させることもできる。
核弾頭は、いま世界に、一万7千発あるらしい。
スペースシャトルを宇宙空間に飛ばす技術は、人を数十万人殺す技術だ。
戦争は万物の父。
よくいったものだ。
何も、人類滅亡の予言なんて待たなくっても、今日だって、明日だって、人類は滅亡する崖にいつも立っているのが、
今の世界ではないか。
中世の騎士たちが他国を荒らしまわっていた時代とも、戦国武将たちが天下をとろうと下克上を繰り返していた時代ともちがう。
そんな時代よりも遥かに壮大な死と隣り合わせだ。
世界は滅亡への準備が整っている!
中世よりも、戦国時代よりも、今が、もっとも危険だ。
「ああ、今こそ世界など、滅びてしまえば、いいのにっ!!明日など、いらないわあ──っ!!」
なんて叫んだ早乙女和子の様子に、変化が訪れた。
金色に光る大きなお星さまの粒がきらきらと、暗くしたPCデスクの部屋に舞い始める。
星の粒は、天井から、床や壁、あらゆるところに降ってきて、部屋を星で埋め始める。
ずぶずぶと。
いまや雪のように降り注ぐ星は、和子の部屋を満たし、和子は腰のあたりにまで黄色い星の海に浸かっていた。
すると、星のつぶつぶは、和子の部屋を満杯に埋めて、やがて窓から屋外に飛び出しはじめた。
きらきらとした星のつぶつぶが、夜間の街路や歩道、電灯の立ち並ぶ公園の道などに蔓延りはじめて、
見滝原のあらゆる場所を星粒で埋め始めた。
空に浮かんでいた本物の星は、すべて偽物の星にかわっていた。絵本の中の夜空となり、月は絵となる。
星は黄色のクレヨンで描かれた絵の星となる。
絵とかわった夜空は、布のツギハギが覆い、パッチワークのように変化した。
その、町を覆う空が布片のツギハギとなった世界には、木星や土星や、冥王星や海王星が、
びっくりするほど大きく空に描かれて、絵となって浮いた。
一体、何事だろうか。
そして、和子の自宅の上空に、そとつの大きな頭でっかちの人形が浮き、月の下に舞った。
キャンディーをなめるように舌をぺろっとだして、ツギハギに変わってしまった見滝原の夜空を、自由に舞う。
これは、暁美ほむらの望んだ世界だ。
見滝原の夜は、ときに悪夢に変わる。
しかしここは魔女の結界ではない。
ここは、暁美ほむらの創造した世界。
ほむらの望む世界。
暁美ほむらの望みの世界とは、悪夢を打ち倒すために、魔法少女たちが団結して、夜に戦いを繰り広げる
世界だ。
34
それは、鹿目まどかが帰国子女として転校してきてから4日目の夜のことであった。
美樹さやかと佐倉杏子の2人は、見滝原のはずれにある野原で、夜景を眺めていた。
が、とつぜん、夜景は絵本の世界に変わってしまった天体の空を見上げて、はっと瞠った。
「なっ、なんだよこれっ、どうなってんだよ?」
狼狽する杏子の隣で、ぐっと歯を噛み締める美樹さやか。
そう、さやかには、何が起こったのか、すぐに分かった。
この夜の景色が悪夢と化した世界を、だれが創造したのかを、知っていたからだ。
「あたしはこの敵を知っている」
ぐっと拳を握り締める。
「ほむらの遊びごっこに付き合わされるのは、あれでおしまいだと思ってた。魔女を倒したあの時点で…。
でも、これからも続くんだ。一体ほむらは、どんな世界を創造するつもりなんだ。世界創造の完成に、
何の理想を見るつもりなんだ?」
「さやか、アンタ、何をいって…」
杏子の唖然とした目がさやかを見る。
だがさやかの決意は早かった。ほむらの遊びごっこに付き合ってやる、という決意ではない。
あいつに、世界を好き勝手にさせないという決意だ。
「杏子、魔法少女に変身して」
夜空が悪夢と化した、パッチワーク手芸をしたツギハギの絵本の宙に、頭でっかちで舌をぺろっとだした人形がいる。
ナイトメアのぬいぐるみだ。
「さやか、何が起こってるんだ!こいつは魔獣の結界か?それにしてはでかすぎる!グリーフシードの
気配さえないのに!」
杏子には、この敵がわかっていない。
それもそうだ。佐倉杏子は、この世界が、暁美ほむらって悪魔の、創造の庭だと気づいていない。
ナイトメアなんて、ほむらの妄想の産物が具現化した敵を、しるはずがない。
美樹さやかたちは、またしても、ほむらの妄想の敵のイタズラに付き合わなければならない。
「杏子、あたしがあの敵の倒し方を教える。だから、あたしから離れないでついてきて」
35
その頃、鹿目まどかは自宅に戻っていた。
部屋のベッドに腰掛け、電気の明かりもつけないで、茫然と首をかしげていた。
「卒業アルバムにも誰の記憶にも、私の存在がない……」
鹿目まどかの部屋は暗い。夜に消灯していた。寝ているわけでもないのに。
ベッド棚のぬいぐるみたちが、目を光らせているだけだ。
目覚まし時計の、タッタッタという秒刻みの音が、聞こえる。
まどか。ごめん。
パパ、家じゅう探してみたけど、小学校の卒業アルバムはどこにも見つからないんだ。
どうにも、アメリカから戻って、どこにしまったか忘れてしまったみたいで……。
父の言葉が、脳裏に蘇る。
それに、さっきの美樹さやかとの通話。
「さやかちゃんの、うそつき……」
鹿目まどかは、すでに不信に心が侵されはじめていて、さやかに、わざとひっかけの電話をしてしまった。
つまり、私がアメリカから戻るのは三年間だよ、といったことを覚えている?という問い。
本当は、そんなこと言わなかった。
いつ日本に戻れるかわからないけれど、私のこと忘れないでね、これが本当の鹿目まどかの台詞だった。
小学五年生の頃の、まどかの言葉。
それに対して、さやかは、忘れるわけないじゃん、親友でしょ、あたしたちと答えてくれた。
「さやかちゃん…ひどいよ…」
たったの三年間で忘れられてしまった。
それも、小学校の頃の約束だけじゃなくて、自分の存在そのものが。
やっとの気持ちで日本に帰ってきたら、ただの帰国子女だと思われていた。
初めてお会いしましたね、みたいな顔だった。
しかも、そうでありながら、うそもつかれた。
三年間、アメリカにいってくるけれど、また一緒のクラスになれたらいいねという、口にもしなかったことを、
さやかは覚えてると答えた。
うそ。
うそ、うそ、うそ。
私は、さやかちゃんのことを本当に親友だと思ってたのに。
三年間で一度も忘れたことはなかったし、アメリカでできたたくさんの新しい友達のなかでも、
さやかちゃんだけが特別だったのに。
それとも、ひょっとしたら、私なんて鈍くさい子は、友達以下だったのかな。
一緒にいても楽しくないだろうし、価値も大してない。足を引っ張るだけ。
さやかちゃんが私に伝えたいことは、たぶん…。
中学校では、私たち友達同士はやめよう、ということなのかも。
どうして?
私が帰国子女だから?
アメリカの暮らしがあまりにもつらくて、日本に帰りたいと思う毎日だった。
学校のクラスメートたちと言葉も通じなくて、ときには差別すらされて。
毎晩毎晩のように、家に帰ったらまどかは泣いて日本を想った。
さやかを想った。仁美を想った。
あの暖かい日々がまたほしい……。
しかしとはいえ、アメリカでのつらい日々は、さやかと、仁美に再会できる日を楽しみにしていたから、
心を保てた。
日本に戻ってきたら、忘れられていた。
それが、鹿目まどかを今いちばん、苦しめていた。
36
百江なぎさは巴マミに居候生活を送らせてもらっていた。
マミは、なぎさのことを心配したけれど、許してくれた。
「ご両親は?お家は?」
マミがきくと、なぎさは答えた。
「なぎさの家は病室です。あんな退屈なところは、戻りたくないです」
どうやら学校にも通ってないらしいが、両親の家にも戻らないらしい。
巴マミは、じゃあ家に戻る決心がつくまで、と条件つけて、なぎさの居候を許した。
さてなぎさは、気づいたらベッドで暖かく布団に包まれていて、しかも隣には、胸の大きな巴マミが、
パジャマ姿になってブラジャーもなしに眠っていた。
すーすー寝息たてると、胸がベッド上で浮き沈みした。
暖かい日々だなあ…。
看護婦が絵本を読み上げてくれるしか愉しみのなかった病院生活よりよっぽど楽しい。
友達がいて、仲間がいて、魔法少女だけど、正体を隠さず語れる。
魔獣退治は、怖いけど、マミたちと一緒に戦える。
なんて、美しい日々だろう。
これが、暁美ほむらという悪魔が創ってくれた日々。
円環の理という神だけが存在した世界は、なぎさは、魔法少女になって病院を抜け出すことはできても、
同じ魔法少女の友達がいなくて、1人で魔獣と戦わないといけなかった。
戦い方もわからず、グリーフシードを得ることはできない。
あっという間に円環の理に導かれた。
魔法少女の命の灯は、とても短命だった。
今は、マミという仲間がいて、さやかという仲間がいる。できたら、杏子とも友達になりたい。
ケーキを食べて、夜にマミと2人で紅茶をのんで、たまに絵本も読んでくれる。
ああっ、なんて暖かな毎日だろう。
病室の冷たさがうそのようだ。病気にさえならなければ、こんなに楽しい日々があったのに。
生まれつきの病気は、それらを奪っていたのだ。
マミの部屋には、もはや夜に子守唄がわりによみきかせてくれる絵本が棚に山積みになっている。
正直な木こりの話、赤ずきんちゃん、ヘンゼルとグレーデルが迷い込んだお菓子の家の話、白雪姫。
カエルとお姫さま、ブレーメンの音楽団。
お菓子でできたお家?
なんて素敵なんだろう!
けれど、今は、巴マミの家こそ、お菓子の家だ。
毎日、ケーキがでてきて、紅茶が出てくる。
食べつくそう!毎日、でてくるケーキは。お菓子の家は。
寝息をたてる巴マミは、べべという、不思議なあだ名でなぎさを呼んで、ベットのなかで、
なぎさの白い髪を撫でてくれる。
もっとも、そういうあだ名で呼んでほしい、といったのは、なぎさのほうだったけれど。
マミに甘えたかった。人形のようになって。
恥ずかしいけれども、こうしてマミに髪を撫でられていると、とても幸せな気分になる。
いつまでもこうしてほしいって思う。
なぎさちゃんの髪はきれいなのね、これからも、大切にケアしましょう。
そんなことをいってくれた。
この世界には、悪魔がいる。女神もいる。そして、神の子は、そのあいだにいる。
さやかは、神の子が、悪魔の側に落ちる前に、私たちの側につけるべきだ、取り戻すべきだみたいなことをいっていた。
でも、なぎさは思う。神の子は、神の子の意志に任せればいい。私たちが、どうこういったって、仕方ない。
だって、神の子を創ったのは、悪魔なんだから。
創造主が、子に対して何をするのも自由ではないか。
暁美ほむらは、悪魔と呼ぶわりには、あまりに私たちに、割のいい世界を与えてくれている。
さやかは、プライドが高いだけだ。今の鹿目まどかを、神の子ということも無視して、かつての幼馴染の鹿目まどかに、
むりやり当てはめようとしている。
でももう、その鹿目まどかはいない。世界のどこにも。円環の理の一部が、人格化された神の子がいるだけだ。
ひょっとしたら、鹿目まどか自身が、そのことに気づきはじめているかもしれない。
だとしたら、なおさら、神の子の意志に任せればいい。
円環の理に戻ることを決めたなら、神と悪魔の戦いが始まるだろうし、人間として生きていくことを決めたなら、
いまの世界がつづく。
それだけだ。私たちから何をしろというのか。
なぎさは、とても楽観していて、未来をそんなふうに考えていた。
しかし、10歳の子供には、今の生活が楽しくて仕方なくて、これを壊す可能性のあるどんなこともしたく
なかった。
親の愛情が欲しい年代だった。その愛情は、いま、マミが注いでくれる。
そして、愉快そうにも、歌を口ずさみはじめたのだった。マミと一緒の布団の中で。
「さあめしあがれ、生きた鳥いりのパイ」
「パイを切ったら、黒つぐみが歌いだす」
「王様の大好物のパイ」
こうして、1人でずっと歌をはじめて、ロンドン橋おちた、とか、あの子が山にやってくる、とか、いろんな歌を
歌った。
「ピンクのパジャマを着て……あの子が山にやってきた……チョコレートクリームを口につけて…」
だんだん目がとろんとして、眠たくなってきた。
歌い終えたとき、空が変化をはじめた。空に浮かぶ天体が、絵のように変化して、クレヨンの黄色になった。
月にはなんと吊り糸がぶらさがって、空中ブランコを魔女が乗った。
夜が変わる。
なぎさ目が覚めた。
この敵を、なぎさは知っていた。
37
美樹さやかと佐倉杏子の2人は、空がツギハギになった見滝原の街を飛びまわり、宙をぷかぷか浮いている人形を追っていた。
ナイトメアの人形は、ふわふわ浮いているけれど、魔法少女たちが近づくと、その気配にきづいて、
さーっと逃げ差ってしまう。そのちょこまかした素早さときたら、強風にふかれた風船のようだ。
「おい!この結果って、魔獣じゃないんだよな?」
杏子は、見滝原の街で、ビル群の建物から建物へ飛び移りながら、さやかを追って叫ぶ。
「杏子は勘が鋭いね。そのとおり」
さやかは答え、魔法少女姿になって、サーベルを手に、ナイトメア人形をおって飛ぶ。
すぐ人形は逃げ去り始める。
その合間、人形からおもちゃのロケットがとんできた。
ひゅごーっと火をつけて飛んできたロケットは、おもちゃの核弾頭だった。
煙の軌跡あげながら、魔法少女たちに飛んできた。
美樹さやかは、空中で音符の結界をつくって、踏み台にして別方向にとび、核弾頭をよけた。
直後、おもちゃのミサイルが、ぼぉん、と爆発して、煙の中から出てきたリボンがあちこちに飛んだ。星粒と共に。
「いったいなんなんだこいつは!」
杏子は、人形が腕から飛ばしてくるおもちゃミサイルを、槍でバギっと叩いてわる。
また爆発と共に、くす玉が割れて、垂れ幕が垂れた。
「説明はあと!あの人形を捕まえて!」
さやかは、どっかの建物の屋上に着地すると、思い切り足に力をこめ、ツギハギが覆った空に飛び上がる。
飛翔したさやかは、人形を追う。
すると、人形は反撃に、核ミサイルを放ってきた。
「とりゃ!」
さやかはおもちゃの核弾頭を叩き割る。核弾頭は左右にゆれて、バチバチと火花たてつつ煙をあげ、
ついにくす玉になる。
「くらえーっ!」
ミサイル攻撃をおっぱらったあとは、一挙にナイトメアに距離をつめ、サーベルで斬りかかった。
「妄想ごっこはもうおしまいだっての!」
ひゅっ。
ナイトメア人形はすばしっこく、さやかのサーベルの軌跡をわずかにそれてよけた。
「くっ…!杏子!」
さやかは杏子を呼んだ。宙を飛んだ体は、落ち始めた。「あだだっ、あー!」
魔法少女が自由に空を飛べるわけでもないことを忘れていた。
魔力維持が、ふとしたとき途切れる。
むなしく体が落ち始める。
「わかったよ。そら!」
杏子は、どっかの建物のガラス張りの壁に足をつけて、蹴って、宙へとぶ。
そしてナイトメア人形の背後をとり、槍で切り裂きにかかった。
槍の一撃がふりおちる。
これまた、ひゅっとすばしっこくよけたナイトメア人形にかわされた。まるで蝶を手で捕まえようとする
みたいに、攻撃をすると自然とナイトメアが槍先から逃げてしまう。槍の矛先は、ぬいぐるみを捉え損ねる。
「魔獣はこんなすばしっこくないぞ!」
杏子は顔をしかめた。こんな敵ははじめてだった。
しかも、ナイトメアは、攻撃がすかって勢いを失った杏子むけて、おもちゃのスペースシャトルを飛ばしてきた。
アポロ11号の模型をしたおもちゃのスペースシャトルが火をつけて飛び、杏子の腹につっこんだ。
「うおおお!」
杏子の腹につっこんだアポロ11号の模型は、そのまま杏子を吹っ飛ばしてゆき、杏子は見滝原のどっかのガラス張りのビルにつっこみ、
ガラスを木っ端微塵にわって、たたきつけられた。
ガラスのビルが蜘蛛の巣みたいなヒビを波紋状につくり、杏子はその中心にいた。
「いただ…やってくれるじゃねぇか」
杏子は、胸にささった小さなスペースシャトルを引き抜いた。
さやかは地面の道路にスタっと一度おりたった。
再び、足で強く地面を蹴りだして、ツギハギだらけな夜空に、もういちど飛び立った。
音符のついた魔法陣の踏み台をいくつも宙につくってゆき、ぴょんぴょんと、アメンボのように飛び跳ねてゆき、
ナイトメアが月の下を舞う同じ高さのビルに降り立つ。
マントを一度、体に包み、覆い隠す。そのあと、ばさっと白いマントをひろげた。
すると、さやかの足元に、これでもかという数くらいのサーベルが置かれていた。
「数うちゃあたる!そりがあたし戦法だ!」
ずばずばっ。
足元に並べた20本くらいのサーベルを、ナイトメア人形むけて、ばしばしと飛ばしはじめた。
まったくあたらない。サーベルとサーベルの隙をぬって飛びまわるだけだ。
そうこうしているうちに、ナイトメア人形の腕のような部分から、おもちゃのスペースシャトルがとんできた。
アポロ12号の模型おもちゃであった。
「うっ、うわあ!」
慌ててビルを飛び立つ。さやかは空に飛び上がる。
まっすぐ飛んできたアポロ12号は、さやかの立っていたビルを破壊した。
爆破し、火に包まれた。
「うわ!よけてなかったら、アタシ死んでた!」
シャトルの追突事故現場を見届けるさやかが叫ぶ。「早乙女先生ったら、一体なんの夢みてるの!?」
「美樹さん!佐倉さん!」
巴マミの声がした。
「マミさん!」
ツギハギの空をひゅーっと飛びながら、増援にきた頼もしい先輩魔法少女の名をよんで、さやかは見滝原のビル屋上に降りた。
スタッ。着地すると、マントがはためいて、浮き上がる。着地が済むと、またさやかの白いマントは背中に垂れ落ちた。
マミは、さやかとは別のビルの屋上にたっていた。
なぎさも一緒だ。
「あっ…そうか、なぎさならこの敵の倒し方しってる…」
さやかは、ビルからビルへ飛びうつって、マミたちの来たビル屋上に降り立ち、合流した。
杏子も、おくれてこのビルに降り立ってきた。柵の内側の屋上に、降り立つ。
こうして、4人の魔法少女が集結。
佐倉杏子、美樹さやか、百江なぎさ、巴マミ。
いつかのナイトメア退治のときの五人の集合のようだ。
だが、メンバーも中身もちがう。
前回の集合は、魔法少女五人の集結、にみせてかけて、そのうち1人は、円環の理の使者だったが、今回は、
正真正銘、全員が魔法少女。
いないのは、悪魔になった暁美ほむらと、神の子となった鹿目まどか。
「美樹さん、あの敵は一体?」
変身した先輩魔法少女は、柄にもなく、動揺した様子で、ナイトメアをみあげている。
たぶん、ほむらの魔女の結界の中で戦ったナイトメアの記憶がないのだろう。
「あれは魔獣とは別の、私たち魔法少女にとっての新しい敵です、マミさん」
さやかは言った。
「詳しい説明はあとにしたほうがいいと思います。あの敵の動きを封じる方法はありませんか?」
ツギハギの夜に舞うナイトメア人形を、さやかは白い手袋をはめた手で指差す。
ぬいぐるみは楽しそうにちょかまかと踊っている。空中で。あの頭でっかちな人形が。
「一応…拘束魔法があるけど…」
マミは動揺を隠せないでいる。想像しえなかった未知の事態に、弱気になっている。
ほむらめ。マミさんたちからナイトメアの倒し方の記憶を消し去ったな。
いやちがう、この世界は、元々は魔獣の世界だから、マミさんがナイトメアをしるはずないんだ。
「隙をついて、あの人形を拘束してください。私と杏子で、その隙をつくります」
さやかは言って、杏子を呼び、また空へ舞った。
ぴゅーん、とさやかの体が見滝原を飛ぶ。
「さやか!なんでお前だけあの敵を知ってるんだ。アタシは、きいたことないぞ、こんな敵!」
さやかのあとを追うように飛ぶ杏子が、叫ぶ。杏子も、さやかも、風に髪をふかれて烈しく靡いている。
「だーかーらー、詳しい説明はあとっていったでしょうがー!」
ビルに着地する。
また、ぽーんと飛んで、ナイトメアに切りかかる。
「あたしが斬って、あいつが逃げたら、杏子が仕留めて!」
サーベルをもったさやかがナイトメアに迫る。
魔法少女と人形の距離が縮まる。月にむかう馬車のように。
「てりゃーあっ!」
サーベルをふりおろす。斬撃が夜に走った。ナイトメアはかわした。
そして、さやかが攻撃を終えて隙になったところに、ロケットが放たれた。
ロケットは途中で爆発、墜落した。ぼぉん、と大きな音たてて、煙からリボンが飛び散る。
「うわ!」
この爆発にさやかは巻き込まれる。宙で魔法少女になった体が吹っ飛ぶ。
そして、どっかのビルに激突した。がしゃーん、とビルはガラスを散らかした。さやかはビル内部まで入った。
杏子は、ナイトメア人形がさやかのサーベルをよけた拍子のところを、背後から狙う。
ひゅっ!
槍が一突き。
が、ナイトメアには、まるで後ろにも目があるみたいに、杏子の攻撃すら感づいて、はらりはらりとよけてしまう。
この人形を斬ることは、薄い紙を手刀で切るように難しい。
まったく攻撃があたらない。
そこで、巴マミの拘束魔法が登場。
黄金色のリボンが見滝原の空を覆い、ナイトメアをおいかける。
これまた、見事にナイトメアは突破口をみつめて、マミの拘束魔法から逃げる。
逃げるし、捕まりそうになれば、おもちゃロケットを放って、リボンを破壊してしまう。
「うっ…」
マミは、十八番の拘束魔法があっさり崩されて、自信喪失した表情をする。
さやかは、どっかの破壊されたビルの内部フロアにいた。
鉄筋鉄骨コンクリート構造をしたビルの、赤い骨組みの鋼材が剥き出しになったフロアで、よろよろと起き上がる。
サーベルを杖代わりにして立ち上がる。
壁にも天井にも大穴があいていて、パラパラとコンクリートの破片と砂塵が落ちてきた。
「あいったた…もう」
ソウルジェムが肉体の本体じゃなかったら、骨折してただろうなあ…。
と思いながら、また、ビル外部に飛び立った。
ひゅーんと、さやかの体が、ビルの30階から道路まで降り立つ、その途中で、音符つき魔方陣をだし、
踏み出しにして、バネのように空へ飛び立つ。
ナイトメアのぬいぐるみが、けたけた笑って、ロケットを発射してきた。
「そう何度もくらうかっ!」
さやかは、飛びながら、サーベルでロケットをどんどん弾いた。
ロケットはあちこちの方向に軌道をずらしてとんでゆき、あらゆるビルにぶつかって爆発する。
ビルはどんどん倒壊していく。
おもちゃの弾頭は使い果たされた。
「なぎさっ!あたしらの攻撃じゃ範囲が狭くて、当たらない。あんたが一番、有効範囲の大きな魔法をつくりだせる。
ナイトメアを閉じ込めて!」
「はい、なのです」
どっかのビルに巴マミと一緒に立っていた百江なぎさは、魔法少女姿に変身していた。
手にストローを取り出し、ふーっと息をめいっぱい、ふきかける。
すると、透明なシャボン玉が出現した。
しかもそれは、ただのシャボン玉でなくて、みるみるうちになぎさ本人よりも大きくなって、それでも膨張をやめない
とてつもない巨大なシャボン玉だった。
虹色の色がのる透明な泡が、なぎさのふきかける息にしたがって、何十倍にも大きくなってゆく。
もう、ビルを丸ごと包み込むようにでかい。
「杏子、なぎさの結界の中に、あいつを閉じ込めて!」
さやかが呼びかけた。
「あたしの指示だしなんか、はえーぞ、さやか!」
なんて文句はいいながらも、さやかの作戦どおりに動き出す杏子だった。
ビルから飛び立ち、ふわふわと浮くナイトメアのぬいぐるみの、一方向から徹底的に切りかかって攻め込み、
ある方角へぬいぐるみを追い込んだ。
「そりゃ!」
杏子の槍攻撃が、目にも留まらぬ速さで、斬撃が何十回も繰り返される。槍の軌跡が無数に空気中に走る。
ナイトメア人形は、すばしっこく、ひょこひょこと、杏子の槍の全てをかわし、ツギハギの腕から、小惑星を発射してきた。
「うお!」
隕石をかろうじで杏子はかわした。空中で身をよじって、腹のすれすれを小隕石が通り過ぎる。
小惑星はビルに当たって、ビルを爆破した。ビルは倒壊した。悪夢でも見ているような光景だ。
「マミ!今だぞ!」
杏子はマミに呼びかけた。チャンスだ。
「えっ、…ええ!」
いきなり呼ばれて、少し驚いた様子をみせたマミが、本調子を取り戻す。
手にマスケット銃が召喚される。
このマスケット銃を、ビル屋上から構え、狙いを定めて、片目をつぶる。
その狙いの先には……シャボン玉に背中を追われつつある、舌をぺろっと出したぬいぐるみ。
マスケット銃の叉銃環にかけた指が引き金をひく……銃身をきちんと持って支えて…
発射装置に括りつけられた火縄が、銃の火皿に接触する…
というマスケット銃の、魔法銃バージョン。それは、マミの魔法オリジナルの銃。
いつもの、乱射のために使う銃でなく、一撃必殺のオリジナル銃。ティロ・フィナーレほどの破壊力はないが、
狙撃(エイミング)を重視したタイプの銃。
「私の弾をかわせる?」
マスケット銃の照星を睨んで狙いを定めたマミが、ついに魔弾を発射した。
バシュ!!
火縄の赤々とした先端が火薬に接触、発砲の途端、火皿から赤々とした火花が吹き出し、噴煙が吹き出た。
と同時に、魔弾が飛ぶ。轟音!
まさに大砲だ。ガス圧によって飛ばされた魔弾は、空を裂きながら飛んでゆき、ナイトメアのぬいぐるみに直撃だ。
命中だ。
「いいぞ!」
杏子が喜びの声をあげた。
魔弾を受けて、吹っ飛ばされたナイトメアのぬいぐるみが、なぎさのつくったシャボン玉に接触、またたくまに中に取り込まれた。
こうなっては逃げ場がない。
「やーりー!」
さやかも成功の喜びで、指を握り締めた。
さて、なぎさのつくったシャボン玉の中に閉じ込められたナイトメアの処理だが…。
まさか、またちまちまと、この夢を食い物にするバクの口に、いちいち妄想の食べ物を食べさせて満腹にしてやる必要もない。
シャボン玉に捕われたナイトメア人形は、なぎさの結界の中で暴れるが、自力ではどうがんばっても脱出ができない。
美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子の三人が、封じ込めたぬいぐるみのまわりに集結した。
なぎさは、ストローほまだ口に咥えている。
「いったいこいつは……」
杏子が、怪訝な顔で、意志もって動く人形の挙動を眺めている。
やっとの想いで、ナイトメアを捕まえた4人の魔法少女たちのソウルジェムは、どれも、半分くらいまで黒く濁った。
「こいつは悪魔の産物なんだ」
さやかが、思いつめた顔して呟くと、魔法少女たち4人の頭上に、何か落ちてきた。4人の頭に影ができる。
ナイトメアが、結界の中で、腕をふるったのである。
「あっ!あぶない!」
さやかが最初に気づいたが、遅かった。
「あいた!」さやかの声。
「うっ!」杏子の呻き。
「いたい!」マミの悲鳴。
「あっ!?」なぎさの金切り声。
魔法少女たち4人の頭に、それぞれ天体が落っこちた。ごつん、と脳天を直撃する。タライのように。
マミには金星の模型が、杏子には火星の模型が、さやかには海王星の模型が、なぎさには木星の模型が。
全員が同時に頭を抱えて、あいたた…とたんこぶのできそうな頭を撫でる。
「これどういう意味?」
マミが、頭上に落っこちてきた天体をみて、呟いた。
「たぶん……色、だと思います」
さやかは自分の予想を言った。「みんなの色です」
そうなのか?
さやか以外のみんなが疑問符を浮かべた。
さて、こいつをどう満腹にさせようか。
天体にはさまざまな栄養価が満点だ。
火星には鉄分がふんだんにあるし、木星にはメタンガスがいっぱい、海王星は水素だらけ、金星にはいやというほど濃い二酸化炭素がある。
みんなくらってしまえ。
ナイトメアの口に天体が放り込まれる。腹がふくれてぬいぐるみは弾け飛んだ。
早乙女和子は元の姿を取り戻した。
しかし、しばらくのあいだ、見滝原中学の担当を休職した。
38
4人の魔法少女たちは、巴マミ宅に集った。
セイロンティーの紅茶が4人分、だされて、会議をひらく。
「今日、あたしたちが戦った敵の名前は、ナイトメア」
あとでくわしく説明する、とさっき言っていたさやかは、約束どおり、杏子とマミに、今日戦った新たな敵のことを話していた。
「ナイトメア?」
マミの顔が曇る。「悪夢…?」
杏子の顔つきも深刻そうだ。あぐらかいて座り、指先で膝を叩いている。
「そうです。マミさん、杏子、これでわかったでしょ?この世界が、もう普通の世界じゃない……何かが起こり始めている世界だってこと」
「でも…どうして美樹さんがそんなことを?」
巴マミは、湧き出てきた疑問を口にする。
「私たちは、まったく気づかなかったのに…」
「それは…」
少しどもるさやか。「あの敵は、ほむら、暁美ほむらが創った敵なんです。アタシらは、その遊びごっこにつき合わされてる……
それが真実なんです」
「私には気づけなくて、美樹さんにはそう思える、ワケが知りたいわね」
マミはこういうとき、鋭い。
自分は円環の理の一部だった。円環の理の使いだった。いうなら天使。
そんな話、信じてくれるだろうか?
「マミさん。円環の理は、マミさんなら知っていると思います」
マミはもちろん、全世界の魔法少女が知っている話だ。
「ええ。もちろん。私たちをいつか導く円環の理………希望を求めた因果は、この世に呪いをもたらす前に、
消え去るしかない。私たち魔法少女の運命…」
「そうです。そうでした」
さやかは、自分が記憶している、悪魔と化したほむらがしでかしたことを語った。
それは、ある1人の少女の犠牲によって創られた”理”だった。
私たちがシステムのように考えていた円環の理とは、1人の少女の願いであり、実は、私たちと同じ、
1人の魔法少女の奇跡がつくった世界のルールだった。
世界で、たった一人だけ、それを知っていた魔法少女がいた。
暁美ほむらだ。
ほむらは、さやかには分からないけれども、円環の理となった少女に、とても強い執着心があった。
それを、愛だといった。
神に叛逆する者、悪魔となり、神としてルールとして、ほむらを導きにきた円環の理を、一部はぎとり、
人格化してこの世に強引に閉じ込めた。
いうならその人格化された少女は、神の子とでもいおうか。
世界は、悪魔と化したほむらに、すべて都合のよいように作り変えられている。
だから、ナイトメアなんていう、わけのわからぬ敵が発生するし、たぶん、これからもっと不吉なことがたくさん起こり得る。
「そんな……じゃあ…」
巴マミは、ショックを受けた顔をしていて、今話されたことが、まだ心から信じられない様子だった。
「私たちを導く円環の理……その少女が、いまこの見滝原にいるというの?」
神様が、私たちと同じ街にいま、暮らしている。
そんなこと語られたら、驚かないわけない。
だが美樹さやかは、はっきり伝える。
「そうです。私たちを導く神様が、この街にいるんです。つい四日前、見滝原中学に転校してきた……」
「えっ!?ちょっとまって!」
マミの思考がショートしそうだ。慌てて、さやかの言葉を切った。
「見滝原中学ですって!?私たちと同じ学校なの?」
神様が、私たちと同じ中学校に転校してきた。つい、四日前。
そんなこと話されて、混乱しない人間はいない。魔法少女は人間じゃないけれども。
「そうなんです、マミさん。だって悪魔だって私たちと同じ見滝原中学にいるじゃないですか!」
なぎさと杏子は、2人のやり取りを、あっけにとられて見守っている。
「そんな、話がとびすぎだわ!」
巴マミはまだ信じようとしない。
「円環の理は、固体を持たない、概念のようなものよ。宇宙に固定された概念としてのルール……それが、私たちと同じ中学に
転校してくるですって?からかっているの!?」
「それが、ほむらのしでかしたことなんです!マミさん、あたしは一昨日も、同じことを相談しました。
覚えてますか?」
「ええ……覚えているわ…」
マミは胸を撫で下ろす。興奮してきた胸を手で押さえて、自分を落ち着かせる。深呼吸をとる。
「暁美ほむらが悪魔とか……転校生とか……。美樹さんったら、てっきり私をからかうことを覚えたんだと…」
えっ、なにその印象?
「信じられない気持ちは分かります。でも、今なら真実だって、わかってくれると思います。
ナイトメアが発生したんですし…」
「そんな……」
マミは、突きつけられた真実に愕然としている。
今までずっと知らないで魔法少女生活をしていたなんて。偽りの世界だったなんて。
「世界の他の魔法少女のみんなは気づいているの?」
「それは……分かりません」
見滝原には、悪魔も神もいるが、たとえば日本列島のどこか、それから中国、東南アジア、アフガニスタン、
ヨヘーロッパと地中海、アフリカ大陸にカナダにアメリカ合衆国にブラジルにオセアニア。
世界の魔法少女たちはどれくらいこの真実に感づいているのか。
すでにナイトメアという理解不能な敵に遭遇して、おかしいと勘ぐっているのか。
「でも、あまりうかうかはしていられません。世界はもっとこれから、おかしなことがたくさん起こると思います。
この世界は不安定です。すべてはあの悪魔と、神の子にかかっています」
「へえー。なんだかね…」
杏子は、セイロンティーを飲み干した。
セイロンティーは、純粋に茶葉の味を楽しめるから、巴マミのお気にいりだった。
柑橘系とか、ローズとか、その手の香りがブレンドされたティーよりも、リーフの味と香りを楽しめるティーが好きだった。
「悪魔とか神の子とか、世界がおかしくなるとか、小さい頃、親父によくきかされたけど、さやかの口から聞くことになるとは、
思わなかったねえ。んで、」
杏子はティーカップを皿にカツン、と置いた。
「その神の子ってだれさ?」
核心部分をつく杏子の問いかけ。
マミのリビングが静まり返った。
さやかは心臓がばくばくした。
神の子の名前を口にだすことが、恐ろしいことだと思った。
何でかは分からない。あの少女の名前を、神の名として口に出すことが、ひどく残酷なことに思えた。
禁忌を犯すような気さえした。神の名をみだりに仲間たちに伝えていいのか。
けど、悪魔を倒すなら、神の子の力を借りなければならない。
神の子を悪魔に渡していいものか。
さやかは腹を決めて、その名を魔法少女たちに告げた。
つまり、円環の理が、誰なのかを。
「その子の名前は、見滝原中学に四日前、中途入学した転校生───」
魔法少女たちの集中が高まる。
自分たちをいつか導く神の名を知る瞬間に、マミと杏子、なぎさの瞳孔が大きくなる。
「鹿目まどか。円環の理が人格になった、わたしたちと同じ見滝原中学の二年生。鹿目まどかという女の子です」
「かなめ……」
杏子たちが、神の名を口に唱える。
「まどか…」
その名がついに明るみに出た。
「へーえ。明日、マミの通う学校にいけば、その鹿目まどかってやつに会いにいけるのか」
杏子が最初に、喋りはじめた。陽気な声がマミのリビングに響いた。
「あたしらをいつか導く円環の理が、どんなやつなのか、拝みにいけるってことだな。面白いじゃん」
「そんなこと、いってる場合じゃない…」
さやかの胸を、よくわからない罪悪感が打っている。
「まどかを、鹿目まどかを、悪魔の手から取り返すんだ。これ以上、世界をほむらの好き勝手にさせないように」
「なんだかどでかい話で、どうにもさあ」
杏子はあまり乗り気でない。「でも、まあ、鹿目まどかってのがほんとに神様なのかどうかくらい、興味あるかな。
よし、明日見滝原中学に乗り込もうじゃん?さやか、制服かしてよ」
「あんたに貸したらあたしの着る分ないでしょーが!っ…てか、制服きたって、あんた名簿にのってないし」
「しけたこというなよー、幻覚魔法でなんとかしてやるさ」
「幻覚魔法でなんとかなるなら、最初っからあたしの制服いらないじゃん!」
なんて言い合いが続いたが、とにかく明日は、魔法少女のみんなで、鹿目まどかという子を確かめよう
という話の流れで落ち着いた。
これで……よかった、んだよね?
さやかの胸中に胸騒ぎがする。
夜明けを迎えた見滝原の道路を歩き、自宅のマンションにむかいながら、さやかは自問した。
39
まどかは転校してから五日目の登校日、中学校に通う。
この日も1人だ。
川辺のほとりの、いつもの木漏れ日の照らす通学路を歩き、かばんを両手で前に持ちながら、登校する。
やがて、見滝原中学の校門をくぐる。
校庭へ来て、朝練に励む部活動の生徒たちを横目にしながら、昇降口を通り、校内へ。
三階まで階段をのぼったら、ガラス張りの廊下を通り、教室に入る。
壁一面がガラスの教室は、ドアすらガラスであった。
「おはよう」
まどかが教室に入るなり、挨拶すると、すでに集っていた女子生徒たちが、挨拶を返した。
「おはよう、鹿目さん」
「おはよう」
いつもと変わらない、朝。
朝の登校。
鹿目まどかは席につく。
一限目の授業のノートを取り出す。
「授業中さ、空気よめてないよねえ…」
声が聞こえはじめる。
「先生が説明中なのに、質問ばっかして。鹿目のせいで授業すすまないじゃん」
「帰国子女だからねえ」
「…」
鹿目まどかは、教室の自分の席でだんまりしていると、いきなり教室の空気が変わった。
「暁美さんだわ!」
女子生徒のどよめき。
暁美ほむらは、ロングの黒髪を香り放ちながらなびかせ、席について、かばんを机のフックにかけた。
「ねえ暁美さん、今日放課後カフェいかない?」
「またコスメのこと、教えてよー」
なんて会話から始まり、だんだんと、女子生徒同士の会話は、変わってきた。
「暁美さんは……鹿目さんの敵?味方?」
まどかがわずかに席で反応する。
「一緒に無視しない?」
女子生徒は、まどかを無視しよう、という一派に、暁美ほむらを加えようとしていた。
何せ、クラスで最もリーダー格な女子なのである。
もちろん、まどかを無視する一派もあれば、帰国子女のまどかと仲良くする一派も、クラスにある。
志筑仁美とその一派だ。
こうしてクラスの女子グループは、派閥と亀裂の空気を生む。
暁美ほむらは、非常に微妙な答えを出した。
「私は鹿目さんの味方かもしれないし、敵になるかもしれない」
えーっ。
どういう意味?
まどか無視一派の不満げな声が教室で騒がれる。
そのとき、新たな生徒が1人、現れた。
「いやーっ、実に3日ぶりの登校ですなー。おっはよー!みんなは元気してる?」
「美樹さん…」
志筑仁美が、教室で目を潤わせた。
まどかと仲良くしよう一派の、心強い味方の登場だ。
ところで、一方の、まどかを無視しよう一派は、暁美ほむらが悪魔でなくて、魔法少女として見滝原中学に
いたときは、シャンプーなにつかってるの、とか、どんな部活してたの、とか質問攻めしていた生徒たちだった。
鹿目まどかの転校初日、英語ぺらぺらなの、と質問攻めした生徒でもある。
「さやかちゃん…」
まどかが、僅かに目に涙の粒を滲ませた。
「まーどか、久しぶり。ごめんっ、昨日はちょっと、隣町のほう、いっててさ……」
さやかは、謝りながら、まどかの席の後ろに座る。「とにかく、今日はよろしく…」
けど、まどかはさやかの着席を無視して、ホワイトボードのある教室の前を向いた。
「ん?」
さやかは違和感というか、教室の空気に気づく。
何が起こってるんだ?この教室で?
ほむら一派の女子生徒たちが、険しい目でさやかを睨んでいる。
「はっはー。なるほどね…」
さやかは、早くも事態を理解する。
「心狭いクラスメートさんがいらっしゃるようでー」
「さやかさん。この三日で、何がありましたの?」
志筑仁美が、心配そうに尋ねてくれる。
「あー。ちょっと調子悪くてね…3日間だけ……」
頭痛のしたフリをする。「ま、これでアタシがバカじゃないことが証明されたつーか……いや、風邪ってわけじゃないんだけどね……
仁美、3日分のノート、たのむわ」
仁美は微笑んだ。
「なら、また私の放課後に付き合いくださいね」
「うん、わかってるって。…えっ、付き合い?恭介は?」
きょとんとなるさやか。顔の動きが止まる。
あんたら放課後にデートしないのか、という意味だった。
仁美が、ちょっとだけ暗い顔をした。
「今日は、さやかさんに相談事ですわ」
「え…うんまあ、いいけど…」
一限目がもうすぐ始まる。
英語の時間だ。
さやかが席について、英語の教科書とノートを広げたとき、脳裏にマミの声がテレパシーで伝わってきた。
”どう?美樹さん?その、鹿目まどかって子はいるの?”
そう。
今日さやかが登校してきた理由。
それは、魔法少女たちと共同で、鹿目まどかという生徒が、実は円環の理の一部が剥ぎ取られて、
人格化した少女であることをみんなと確かめる目的があったから。
巴マミは、一限目の始まる時刻になるや、さっそくテレパシーしてきた。
さやかはテレパシーで答える。
”はい。マミさん。います。あたしのまん前の席です”
鹿目まどかは、寂しげな背中をして、席についている。
どうして寂しげなんだろう…?
さやかは、ふと考えた。学校で、何かあったのだろうか。
”おい。さやか。おしえてくれ。あたしたちを導く円環の理さまは、どんなやつなんだ?あたしにも見せてよ”
”あんたは学校に来るなっ!”
”元気なのか?”
”ええと…なんかちょっと寂しげ…”
”美樹さん。お昼休みになったら、屋上で一緒にお弁当食べましょうって誘ってくれる?私も、その子とお話してみたいの”
”ええ…分かりました。マミさん”
”なぎさちゃんも一緒よ”
”えっ…なぎさもって…”
さやかが、教室の席でぎょっとなる。目を大きくさせる。
”学校に?”
”今は人形の姿をしているわ”
”ああっ、そんな魔法使えましたね、なぎさのやつ……”
”その子は、自分が円環の理の一部だって自覚があるの?”
”たぶん…ないと思います。ほむらに妨害されてるから……本当の自分を思い出すのを…”
さやかは、まどかの背中を見ながら、マミとテレパシーを交わす。
口では、何も喋ってないのに、テレパシーの会話にあわせて、表情がころころかわる。
隣の志筑仁美は、首を傾げてさやかを不思議そうに見つめていた。
”もしそんなことできるとしたら……たしかに、悪魔だな。魔法少女にできることじゃない”
杏子の声。
”うん…そうだよ”
さやかが答えたとき、ふと視線を感じて、ふりかえった。
後ろのほうの席につく暁美ほむらが、さやかむけて、うっすら目を細めて視線を送っていた。
”やばっ…そろそろこの会話、ばれます”
といって、さやかは慌ててテレパシーを打ち切った。
チャイムが鳴る。
先生が教室に入ってくる。ガラス張りの教室に。
ホワイトボードに、昨日の復習、と先生が言って、英文を書き始める。
oh , I don't have time do the hand work any more.
But it's hard work , and sometimes I get too wrapped in it.
鹿目まどかがすぐに手をあげて翻訳を読み上げた。
「はい、先生。”えっとね、わたしには、もう手仕事する余裕がなくて。でも、大変な仕事で、たまに没頭しすぎてしまう”という意味です」
40
お昼の休み時間になると、生徒たちがわーっと騒ぎ出す。
途端に、教室を飛び出して、校庭にむかう男子生徒たち。
それから、お弁当を持って、一緒にどこかへ食べにいく女子生徒たち。
鹿目まどかは、教室に残って、1人で席でお弁当の包みをひろげていた。
すると、さやかに声をかけられた。
「まーどか、屋上で一緒に食べない?」
まどかは暗い顔をした。
ピンク色の瞳に、一瞬だけ生気がなくなった。死んだような目になった。目が怖い。
けれど、それは気のせいだったらしい。
「うん。一緒にたべよ」
えへっ、と笑って、にっこりした顔で、まどかはさやかの誘いに応えてくれた。
嬉しそうに。
すると、見計らったかのように、ほむらがやってきて、まどかとさやかの中に割って入る。
「鹿目さん、私と食べましょ?」
「あっ、暁美さん!」
まどか無視一派の女子生徒たちがたじろく。
「ちょっとほむら、あたしが先にまどかを誘ったんだ!」
さやかがきいーっと歯を噛み締めて、金切り声をだす。「まどかは渡さない!」
「なんですって?」
悪魔の目が鋭くなる。「それはこっちの台詞よ。美樹さやか」
「そのフルネームで冷たく呼ぶのやめろーっ!」
さやか、きいーっと歯をかんだ、怒った顔になる。
「なんか、アンタにフルネーム呼ばれるとすっごいむかつく!」
「ええと…」
困ったように苦笑いするまどか。お弁当の包みを結ぶ。
「あの…美樹さん…暁美さん…それから、鹿目さん…」
「え?」
「えっ?」
「?」
三人が同時に、声のしたほうを向いた。
遠慮がちに、志筑仁美が、首を傾げて笑い、そして三人に言った。
「わたしもご一緒させていただけません?」
さやかとほむらの、まどかの取り合いだと思っていたら、仁美が参戦してきた。
さやかとほむらが目を互いに交し合う。無言の会話。言葉なきやり取り。
その2人を、上目でそーっと見上げる神の子・鹿目まどか。
「えーっとじゃあ…」
まどかが、指をたてて、困った顔で苦笑いしつつ提案した。「み…みんなで食べる?」
まどかがいったのだから仕方ない。
さやかもほむらも同意して、2人とも頷き、停戦は結ばれた。
「ええ」
「うん」
一時休戦だ。
41
あたかもミラノ大聖堂と見間違えるような壮麗な屋上のベンチに、まどかが腰掛け、膝元にお弁当ばこを広げて、箸を握る。
その右隣に、美樹さやか。左隣に、暁美ほむら。
まどかはちょうど2人に挟まれていた。
さて、円環の理と直接会って話する手筈の巴マミは、屋上へ出る校舎の出口前で、胸を押さえ、とても緊張していた。
さやかがテレパシーを送りつける。
”マミさん、どうしたんですか?今、まどかと一緒にご飯たべてます。マミさんも来ないんですか?”
”ええ、ええ、行きたいところは山々なんだけど…”
マミは、不安な顔を浮かべ、臆病になっている。なかなか、屋上に出る一歩が踏み出せない。
屋上階段の出口一歩手前で、おどおど、行ったり来たりを繰り返している。何往復も。
”私たちを導く神様に会うと思うと、緊張しちやって……私、神様と何を話したらいいのかしら……”
たしかに、神と会話するとなって緊張しない人はいないかもしれない。
特に巴マミは、円環の理の実在を疑問視する魔法少女も世にいるなか、きっとその実在があると信じて疑わない魔法少女だった。
その神様とお弁当を食べるなんて、急すぎる。
私たちの呪いを受け止めて、天国へ導く人。どんな人なのだろうか?
”ふつうでいいですよ。今は、ただの女の子です。むしろ、ちょっと気弱なところがあるくらいです”
杏子との仲が長いせいか、すっかり租野が身についたさやかは、こんな繊細な女の子と親友でいた自分が想像できないくらいだ、
と思っていた。
いったい、まどかとは、本来はどんな関係だったのだろう?思い出せない。
”そ、そう…じゃあ…”
マミは、一息、深呼吸いれて、屋上にでた。
ベンチに腰掛ける4人の姿が目に映る。狭いベンチにひしめきあっている。
その内、2人は分かる。黒い髪の人は、暁美ほむら。正体は悪魔だと噂がある人。
奥の人は、美樹さやか。後輩の魔法少女。隣にいるのは緑色の髪したお嬢様風情な人。
そして、その真ん中に座っている、見知らぬ少女……はじめて目にする女の子。
赤いリボンをむすんだツインテールの髪型。
お弁当の包みを膝元にひろげて、箸でミートボールを食べている。
”この子が……。”
巴マミの脈が速まった。
”初めまして、円環の理。初めてお目にかかります”
心の中で挨拶を告げたマミは、鹿目まどかたち三人の前に現れた。
「あっ、マミさん、どうもです!」
美樹さやかが、打ち合わせどおりな台詞を吐く。「今日も屋上ですか?よかったらご一緒しません?」
「えっ、あ、でも、そのお友達と食べているのでしょう?」
マミの視線は、だんだんと、さやかとほむらの間に挟まれてる子。
鹿目まどかへと、移る。
すると、ピンク髪の少女が、そっと顔をあげて、マミを見上げた。
鹿目まどかのピンク色の目と、マミの瞳の、目が合った。
眼差しを交し合う2人。
”この子が円環の理……今まで、何千年も、世界の全ての魔法少女を導き出した人……なんて、可憐そうな子なの?”
マミは、円環の理が人格化した少女の印象を心で呟いた。
なぜなら、鹿目まどかは、マミと目が合うと、ちょっと怯えたように、身構えているからだった。
「まどか、この人はね、あたしの先輩なの」
さやかはマミを紹介した。まどかの警戒心が解けるように。
「先輩?」
とてもか弱そうな女の子の声が口からこぼれた。
ああっ、まるで小鳥の囀るような華奢な声!
”おい!あいつが円環の理なのか?あたしでも勝てそうな魔法少女だぞ!”
どうやら、見滝原の時計塔から、この屋上を見張っている佐倉杏子も、同じ印象を持ったらしく、テレパシーで語りかけてきた。
”てゆーかさ、さやか、その状況は一体なにさ!神様と悪魔が、隣同士で飯くってるじゃん!”
それも、仲よさそうに。
暁美ほむらは、ピンク色をした髪に赤いリボンを結んだ女子生徒に、自分の弁当の食べ物の一つを、箸で分け与えている。
鹿目まどかは、照れた顔して、やがて小さくあーんと口をあけると、その口にほむらの食べ物を受け入れる。
”おい!”
杏子のテレパシーが、頭にがんがん響く。
うるさいなあ…もう。と、心で毒づいたのは、美樹さやか。
”なんだよあのおままごとは。ほんとに暁美ほむらは悪魔なのか?あいつは神様なのか?”
疑問を浮かべる杏子の声のテレパシー。
暁美ほむらは、隣に座る小さな少女を、とても懐かしむように、愛しそうに、じっと眺めている。
優しい、母親が子を見守るような視線。
鹿目まどかがやがて、その視線に気づいて、戸惑いはじめる。
「ほむらちゃん……どうしてずっと私のこと見て……あの、お弁当、食べづらい……んだけど…」
視線をおろおろさせる。ちょっと怖がっている。
ほむらは、はっとなって、顔を背け、言う。
「別になんでも……」
なんていいながら、幸せそうに、ゆるやかな笑顔になるほむら。まどかの隣にいるなら幸せだ、とでも
いいたげな顔だ。
「…」
”しらけた。こりゃあ、神様と悪魔なんて壮大なモンじゃあないね。ただのお弁当ごっこだ”
”あっ。いうの忘れてた……。この悪魔は、まどかのことが好きなんだ。それも、愛の意味で”
”ええっ!?”
マミ、箸から卵焼きが落ちる。
”はあっ!?”
目を丸めた杏子の隣で、シャボン玉を吹くなぎさの瞳が空をみあげた。
”それってどういうこと?だって円環の理は、見る限り女の子でしょう?”
”そうなんだけど……んー、まあ愛の形っていうのかなあ…”
”それでこのべたべただってゆーのか!つーか、サフィズムか?”
”女の子が、女の子を好きになるの?”
マミが狼狽している。
「どうしましたの?おふた方……お話を交わすこともなく目と目で語り合って…」
仁美がついにしびれを切らして、時折みせる妄想モードに入ってしまった。
「もしかしてっ!?目と目だけで通じ合う仲ですの?」
きらきら目が光り始める。
「はっ、!いけない、仁美のいつもの妄想癖が…!昔っからそうなんだから…!」
さやかが気づいた頃には、手遅れだった。
そのとき、まどかが、えっ?という顔をして、悲しげにさやかを見上げた。
「でもいけませんわ、おふた方、女の子同士で、それは禁断のっ、恋のっ、形ですのよーー!」
仁美の、頬を両手に包んだ、赤面した顔が、そんな言葉を紡ぐ。
きゃあああっ。くねくねと腰をまげて喘ぐ。
すると、暁美ほむらが立ち上がり、たん、と仁美の両手を包み込んで、そして優しく、語りはじめた。
「志筑さん。」
「はっ、はい?」
おい、悪魔、仁美になにする気だ!
さやかが唖然となる。
ほむらは、仁美の両手を、すっぽり手で包んで握り、話した。
「禁断の恋なんて、ないと思うわ。」
何をいいだすんだっ、こいつ!
さやかの内心で悲鳴があがる。
「女の子同士の恋がいけないこと?愛という感情は、どんな壁だって越える力を持っていると思うわ。
どんな奇跡も呼び起こせる、すばらしい感情なのよ。」
うっ、うわあー。
ほむらがいうとすごい説得力…。引くわ…。
「あっ…暁美さん…!」
感動したように、目をきらきら、うるうると潤わせる仁美。
「愛さえあれば、どんな奇跡も実りますか?乗り越えられますか?壁を?」
「ええ。どんな障壁にだって、愛が打ち勝つ。それが、この世界のルールなのよ。」
くあーっ!!
ほむらが言うと、めっちゃむかつく!
実際にそうなんだから、言い返せない!
くそう、茶々いれてやる。
「は、はん。何が愛は素晴らしい、だ。欲望と履き違えてほしくないもんだね?」
さやかが、反撃にベンチで、喋り始めた。両手を肩の位置で広げて、呆れた仕草をだす。
きっ、と悪魔が物凄い形相でこっち見た。
おっっと。悪魔が怒ってるぞ?
心当たりがあるんだな。
「愛ってのはさ、相手が応えてくれてこそ愛だよね。そうでないのに、本人だけ愛って思ってるのは、
ストーカー?妄想?妄想で世界を創っちゃう人っているらしいね。あたしはそこまでなれないけど…」
「相手が応えてくれてこそ愛ですって?あなたは何もわかっていないわ」
悪魔が反論してきた。
「愛の本質とは、相手を好きだという気持ち。それがすべて。その気持ちさえあれば、世界を変えることだってできるのよ。ちがう?」
くっー!!
ちがうぞ、と言い返せたら、どんなに気持ちいいか!
悪魔め!
鹿目まどかは、あんたに、渡さない。
今にみてろ。
とりあえず、ここでの口論は悪魔が勝利したところで、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「ほむら!放課後、アンタに話がある。逃げるんじゃないわよ!」
びしっと指さして、さやかは釘さして、教室にもどった。
42
鹿目まどかは転校して五日目の登校を終えて、帰宅の道についていた。
この日も1人だった。
学生かばんをもって制服姿で帰路につき、夕日の光を浴びながら、歩く。
赤い空。
きれいな空。町の夕空。
また電灯はつかない暮れの時間帯。
鹿目まどかは橋を渡る。橋には格子状の手すりがあり、歩道もある。
自動車が通る橋の傍らの歩道を、手すり沿いに歩いていたら、まどかの目の前に、小さな女の子が現れた。
髪は白かった。
まだ小学生くらいの、本当にちっちゃな女の子が、物珍しそうな渦巻いた瞳でまどかを見上げていた。
「鹿目まどか、なのです?」
「えっ?」
自分の名前を、見知らぬ幼い子に呼ばれる。
驚いたまどかは、目前に立った小さなせけたの女の子を、見つめた。
すると、幼い子もまじまじ、まどかを見上げた。
興味津々な目。
「どうして私の名前を?」
「なぎさ、百江なぎさです」
女の子は名乗った。
「マミと暮らしているです」
「マミさん…?ああっ、今日、屋上で…」
屋上で初めて知り合った人。
けど、何の会話したかよく覚えてない人。むしろ、無言でずっと突っ立っていただけな記憶も…。
さやかちゃんの先輩。
でも、何の先輩なんだろう?部活かな?あれっ、さやかちゃんは、何の部活動してるんだろう。
巴マミさん。三年生の先輩。
なんだか、私に、畏敬でも込めたような視線を注いでいた気がする。
どうして、だろう?
初めて会う同士のはずなのに。
「なぎさ、まどかと話したいです」
幼い子は言って、まどかの制服の袖を引っ張った。ちっちゃな子供の目がまどかを上目でみあげた。
「一緒にいくです」
「えっ…うん、いいよ」
一体わたしと何を話したいのかなあ…?
見当もつかないまどかは、疑問に思いながら、なぎさ一緒に、見滝原の道を散歩することにした。
43
同じたそがれ、見滝原中学では。
真っ赤な夕空に覆われた屋上で、悪魔である暁美ほむらと、美樹さやかと、佐倉杏子と、巴マミが、
つまり魔法少女と悪魔たちが、集結していた。
「昨日のこと、説明してもらおうか。ほむら?」
美樹さやかが、ひどく真剣な顔をして、ほむらに問い詰めている。
ほむらは、余裕の表情を浮かべてうっすら笑っているだけ。
「なんのこと?」
「とぼけるな!」
さやかはほむらに怒鳴った。本気で怒っていた。「昨日、ナイトメアが出現した。あんたの仕業なんだろ!」
杏子とマミの目つきが鋭くなる。
昨日の、あの新しい敵は、本当にほむらが原因なのか。さやかの話が、本当かどうかが、わかる瞬間。
2人の集中力は高まる。
緊張が包む空気。
「やだわ。私のせいにしないで…」
さやかたちに背をむけるとほむらは、壮麗な見滝原の屋上の仕切りフェンスに指をかけ、呟くように答えた。
ほむらは屋上から赤い空を眺める。
「ナイトメア?そんな敵もいたわね。そういえば……」
「あんたが作った敵でしょうが!何のつもり?ここはあんたが創った世界。そこにナイトメアが出るってことは、
あんたがそう仕組んでいるから。ちがう?」
「ちがうわ」
ほむらの即答に、さやかが、気圧される。悪魔の回答ときたら、あまりに巍然としていた。
「なんっ…!」
「ナイトメアというのは、私が生むんじゃなくて、ナイトメアになってしまう人自身の心が生み出すもの。
さしずめ、早乙女先生が、何か悪い夢でも見たんでしょうね。それがナイトメアになった…私は何もしていないわ」
フェイスに手をかける悪魔の黒髪が、ふわりと冷たい風にゆれる。夕日の冷たい風に。
「じゃあなにさ、これから、悪い夢でもみた人全部が全部、ナイトメアになる可能性があるって、そういいたいの?」
「…さあ」
ほむらは、しらばっくれている。
「自分のしていることが分かってる?」
さやかの怒気を含んだ声は、悪魔を責めたてる。
「この世界は、もうあのときのような、あんたの結界だけの世界じゃない。宇宙すべてが、あんたの都合に振り回される。
今、世界にどれだけ多くの人が生きている?70億人超えたんだっけ?その誰もが、ナイトメアになるかもしれない。
それがアンタの創ったこの世界。そう理解していいんだね?」
「さあ……未来のことなんて、神のみぞ知るんじゃ、ないかしら…」
ほむらの余裕は消えない。
うっすり微笑みを浮かべた瞳は、恍惚に浸って、赤い空を眺めている。
「今日は、楽しかったわ…」
いきなり、そんなことを語りはじめた。思い出したように。
「は……、はあ…?」
さやかが顔を曇らせ、奥の杏子とマミの眉もひそまる。
「あなたたちも見たでしょう?あの子の笑顔…」
幸せそうなほむらの微笑みが、フェンス越しに景色を眺める顔に、浮かぶ。
その悪魔の微笑みは、夕日に照らされて、暗く映る。
「あの……子?」
巴マミが、体を震わせる。厳然たる事実に、鞭打たれている。
「じゃあ、やっぱりあいつが……」
杏子も、込み上げる畏怖の感情とともに、口に声をこぼしてしまう。
「そう……鹿目まどか」
神の名が再び唱えられる。
「あの子が、円環の理。いつか私たち魔法少女を導くことになる子……そして私は」
ほむらの黒髪が、いきなり強風にふかれ、するとカラスの羽のような黒い羽が、とこらじゅうに飛び散るような、
そんな錯覚を魔法少女たちは見た。
「円環の理の一部を奪い取った悪魔……見方はそれぞれでしょうけど、円環の理に叛逆した者」
「うっ…」
マミ、杏子、さやかの三人が、ほむらの持つ異様な禍々しさを感じ取り、みんな数歩も引く。
ダークオーブを持つ者の、激烈なる渦巻く欲望の、世界を変えた邪悪な力の気配を、感じ取ったからだ。
「私はあの子の笑顔をみたかった。今日、それを見ることができた……あなたたちのおかげね」
悪魔は、魔法少女たちに感謝を告げる。
「もっとこんな日が続いたらいいのにって、本当にそう思うわ…」
悪魔は夕空をみあげる。赤い日は、沈む。世界創造の五日目の、夜がはじまる。
ほむらは懐かしむ目をしている。儚げな瞳。まるで、この先”こんな日”は到底続きそうもないと、
知っているかのような悲しい目だ。
────たとえ、世界が滅んでも。
「だったら……どうしてナイトメアなんか出現させたり…!?」
こんな日が続いたらいいのに、本当にそう思っているのなら、なぜ私たち魔法少女の敵を増やすのか。
それがさやかの問いかけだった。
すると、ほむらは背をむけて、壮美な壁に手をかけ、また答えた。
黒い羽根が舞い飛ぶ。ばささ、と。
「私は、心のどこかで、あなたたちを排除するつもりなのかも、ね」
さやか、杏子、マミの三人が、慄いた顔をする。
「だってあなたたちは…!」
フェンスに手をかけていたほむらが突然、顔をふり向かせた。
「えっ…?」
さやかは、ほむらの瞼から伝う透明の滴をみた。夕日の空に赤く照らされて、きらりと光った雫の一滴を。
「まどかを神に戻す気なんでしょ…?」
世界を歪みから救うためには、悪魔を倒すしかない。
神の子が再臨し、魔法少女が神の軍団となって、一丸して悪魔を滅ぼす。そういうシナリオではないか。
悪魔は知っていた。
魔法少女たちの考えてる企みを。
人間として世界に降り立った、神の子を、悪魔との戦いに繰り出そうとする魔法少女たちの作戦を。
私の愛する人を私の敵に立てようとする魔法少女たちの邪心を!
「させないわ!」
悪魔は叫ぶ。悲痛な想いを叫ぶ。
たしかに、悪魔であるなら、神との戦いは避けられないものかもしれぬ。いつか敵になるかもしれない。
それは、ほむら自身もわかっていて、まどかにはもう伝えてあることだ。
けど、望まない。そんなことは。
「たとえ世界が滅んでも、そんなことはさせない!あなたたちが、まどかを神に戻そうとするなら、
私はあなたたちに不幸をばら撒く。70億人がナイトメアになろうと構わない。私が、いつかまどかとたたかうのは、
そのあとでいい。世界が滅んでからでいい!」
悪魔の台詞の数々には、圧倒される魔法少女たちだった。
全員が硬直し、立ち尽くすのだった。
もし、まどかを神に戻す気でいるなら。
悪魔は、おまえたちに、不幸をばら撒いてやる、という宣告を、動揺と共に心に噛み締めるのだった。
44
鹿目まどかは、いきなり現れた幼い子・百江なぎさと道端を歩いていた。
見滝原の川を渡り、橋を過ぎたら、川辺にきた。
川辺の隣に、ちいさな林がある。仁美とさやかと、この林公園の、池で遊んだことがある。
けれど、仁美のなかにも、さやかのなかにも、まどかの記憶は無くなっていた。
まどかだけが覚えていた。
まるであの思い出を求めるように、まどかは百江なぎさを連れて、この池にきていた。
「昔と、変わってないなあ…」
まどかは、林公園の、夕日の赤い日差しに照らされた池をみて、なぎさに語った。
「昔、友達とよくきたの……」その瞳に、湖のきらきらした光が映る。
なぎさは、円環の理が人格化した少女が、過去を語るのがとても不思議だった。
宇宙を統べるような概念が、とつぜん、思い出を呟きはじめたのだから、意外だ。
そしてなぎさは悟った。
暁美ほむらの欲望が具現化したこの少女は、創られた身でありながら、1人の少女として意識を確立している。
しかも、円環の理である自覚もない。自分を人間だと思っている。
くわえて神になる前の記憶さえある。世界から抹消されたはずの記憶が。
こんな奇跡ってありえるのだろうか?
万能にもなった神が、1人の少女に変わる。自分が神であることの自覚なしに!
暁美ほむらの発揮した愛と執着は、とてつもないものだったことになる。
「その友達とは今も仲良しなのです?」
一体、神は、どのあたりまで自分を人間であると信じ込んでいるのか。
信じ込まされているのか。
なぎさはそれを知りたかった。
なぜなら、この神の子が、神である自分の使命を思い起こすときこそが。
この世界の終わる時。
終焉のおとずれであるのだから。悪魔と神の戦いがはじまり、全世界の魔法少女は神の兵となる。
なぎさの想いは、望みは、何か。
それは、実に子供じみた希望だった。
なぎさの希望は、ただ今の世界が続いてほしい。それだけだった。
悪魔の創った世界だろうと、今の世界が好きだ。マミと一緒にケーキを食べられる。さやかと一緒に、魔獣退治ができる。
ナイトメア退治ができる。杏子ともきっと友達になれる。
一体この世界の、なにが不都合なのか。
悪魔にだまって従っていれば、この世界はつづくではないか。
叛逆しようとするから、世界はおかしくなるのだ。それに、いくら暁美ほむらが悪魔だっていったって、
それは鹿目まどかという神の理に叛逆しただけであって、何も私たちに悪いことをしようとする存在でもない。
だから、なぎさが、鹿目まどかに話をもちかけたのは。
この少女が、どれだけ神としての自分を忘れているのか、ということを知りたいがためだった。
そして、自分を人間だと思っていれば思っているほど、都合がいい。
神と悪魔の戦いは延期される。遠い未来の話となる。悪魔と戦うための兵にはされたくない。
こんな楽しい世界を、お菓子の家のような世界を与えてくれた悪魔と、なぜ戦うのか?
「今も……仲がいい…ううん……どうなのかな…」
自信のなさげな神の子が話した。
とても自分が全知だと思っている少女の声には聞こえない。
それは、なぎさにとっては、よい傾向だった。
「たぶん……みんなは私のことを友達って思ってくれてるのかも……でも、私は…」
なぎさが、瞳を上にみあげる。「もう友達でないのです?」
「わからないの…」
なぎさが色々な思惑を抱いていた一方で、鹿目まどかは、とつぜん、両手で目を覆って、震えだした。
「でも、わたし、すごくさみしい。悲しい。なんでだろう……まるでわたしが、日本に帰ってきたのが、
なにかの間違いだったかのような……つらいの。いま、友達に会うのが」
鹿目まどかは、泣いていた。
友達との思い出の池の前に立って。
なぎさは、どうして神の子が涙をこぼしているのか分からない。
「会うのがつらいなら、会わなければいいのです」
なぎさは、オレンジの瞳で赤い夕日をみあげて、まどかに言った。
「…え?」
ショックを受けたまどかが、そっと、隣に立った小さな子を見つめた。
「なぎさは、会ってないです。会いたくもない友達になんて…」
なぎさは、まどかに学校のことを話した。
つまり、なぎさの通う小学校の話を。
ある日病院生活になった。小学二年、入ってそうそうのことだった。もとより、生まれながらの病気があったから、
こうなることは、クラスメートも知っていた。
一年間友達だったけれど、二年間も病院生活を続けていて、ようやく学校に戻ると、友達だったクラスメートは
うそのようになぎさに冷たかった。つまり、落ちこぼれだと思っていたのだ。なぎさのことを。
失意のなか、魔法少女として、魔獣とも戦わなくちゃいけない。一人で。仲間の魔法少女なんて、誰もいない。
円環の理に導かれて、短命の花は散った。絵本の世界に心をおきながら…。
いいことない短命人生だった。
この悪魔の創造世界に降り立って、マミと出会った。
マミは、何もかも優しかった。助けてくれたし、お家に呼んでくれた。ケーキもつくってくれた。
わたしは、この人と一緒にいたい。
マミと暮らしたい。
その幸せは、学校生活を離れることで、実現している。
「なぎさは、今の毎日がすきなのです」
と言って、オレンジの渦巻いた瞳が、神の子を見つめる。
「まどかは、今の毎日、好き?」
「今の毎日…」
問いかけられて、まどかは、今の日々を思い描く。
果たして今の日々が好きなのか。
池にアメンボが泳いで、水面の波紋がいくつか連続して広がった。
人気のない静かな林公園。
夕日は池の中に映り、ぐらぐらと形を湾曲させた。
「いつか、世界を変えなくちゃいけない、そんなときがきても…」
なぎさは、まどかの制服の両腕の袖をぎゅっとにぎって、まどかを寄せ付けると、顔をみあげてた。
まるで母に駄々こねる子のよう。
まどかは、ちょっと戸惑った顔になりつつ、小さな女の子の抱きつきを受け止めた。
「この世界が好き。そう思っている人のことも、忘れないでほしいのです」
まどかは、この神秘めいた女の子の言葉が、分からなかった。
45
夕日が沈み、空が青色になる頃。
見滝原の空が夜に染まる景色を、2人の少女が眺めていた。
美樹さやかと、佐倉杏子の2人だった。
「んで?どう思った?」
街の外れの丘の花畑に尻つけて、体育座りになっているさやかは、見滝原の工業地帯が並ぶ夜景を眺める。
悪魔がつくった世界の夜景を。
「どうってー?なにが?」
杏子が、ここにくる途中でさやかと一緒に寄った駄菓子屋のよっちゃん丸を食べつつ、聞き返した。
串に甘ダレを漬けた魚肉が刺されたお菓子だ。
「いや、なにがって、決まってるでしょ…」
呆れたさやかの声。体育座りしていたら、花畑にふいた風が、さやかの制服スカートをひらめかせた。
花畑には一面のタイムの花が咲いている。淡紫色の花びら。そして、緑の葉。
「わかったでしょ?もう、この世界がオカシイって…。悪魔が誰かって…」
「まあ……確かに、自分で悪魔って認めちゃってたしね。それに、あいつの持ってるソウルジェム、
たしかに、あたしらのと違ってたね。邪気そのもの、つーか?」
といって、よっちゃん丸の串にささったお菓子を、はむと食べる。
「だけどさあ、だからって、騒ぐほどか?」
瞼を閉じたすました顔で、片膝たてて座った杏子がいう。赤い髪がふわり、とゆれた。
「なに?じゃあ悪魔に加担しようって?この世界ごっこに付き合う気?」
さやかは、うっすら目を細めて、横の杏子を眺める。
「あたしが、悪魔を自称した暁美ほむらの話を聞いて思ったこと。それは」
杏子は語った。
今日の学校の屋上で、悪魔を名乗ったほむらの話を聞いた杏子なりの感想を。
「あいつは世界を滅ぼすとか、魔法少女に悪意があるとか、そういうやつじゃない。聞いたかんじ、
惚れた女を取り戻そうとしてただけってゆーかな」
お菓子を食べ終わった串を、指にはさみ、新たな串のお菓子を食べ始める。
五本の指に、三本のよっちゃん丸の串がまた持たれる。
「まっ、もしあたしが今も教会の娘だったら、そんな愛は、やめなさいって思うところなんだけどさ。
天国に入りたければ、ね」
「…」
さやかは、体育座りした両膝を、腕で抱えて、思いつめた顔をしている。その青い前髪も風にゆれた。
「でも自称悪魔じゃあねえ。天国に興味あるわけないし…」
はむっ、と、二本目の串のお菓子を、ぺろっと平らげる。
「それにあたし思うんだけどさ……この悪魔の世界は、便利ってね。あたしらに都合がいい」
「なにそれ…どういう意味?」
冷めた目をしたさやかが、杏子に問う。体育座りしたまま。
「考えてもみなよ……あたしらは魔法少女だよ?」
すると、杏子は、にかっと、口元をほころばせた。
何か、企んだというか、ずる賢いことを思い浮かべたときの杏子の顔だった。
なんだかんだいって利己的なところもある杏子は、打算的な性格もある。
それは、さやかと違って、家庭もなくて身よりもなくて、みなしごとして、食べ物さえ自力で得てきた杏子だからこそ、
たまにみせる、損得に関したシビアな部分。
魔法少女として必要な素質でもある。仲良しごっこで魔獣退治している魔法少女は長続きしない。
杏子みたいなタイプこそ、魔法少女として頼りがいがある。
なぜなら、魔法少女にとってソウルジェムの消費とグリーフシードの獲得という損得計算は、毎日のように、
死活問題として向き合わねばならないから。
「さやか。あんたさ、もし現実の世界だったら……このニセモノの世界が終わって、現実に戻ったとしたら…
あんた、どんな人生歩む気だ?」
「どんな人生って…」
いきなりそんなこときかれても。
答えは出てこない。さやかは、体育座りしたまま、花畑を見つめる。
「たぶん、あたしの思うところじゃ、あんたは中学校の二年生から三年生になって、高校受験して高校生になって、
そのうち大学を卒業して、社会へ出てそこで結婚相手を探すんだろ?」
「…」
そうなのかもしれない。
考えもしなかった。魔法少女になってから、将来のことなんて。
「それって、無理じゃん」
と、杏子は、きっぱりいってしまう。三本の串を食べ終えて、その串を、指の間に挟んでたてる。
「だってあたしらは魔法少女だよ?魔獣と命かけて戦わなくちゃいけないのに結婚して子育てに励む気か?
いっとくが、あたしはそうなるつもりなんかないよ。理由は簡単、魔法少女だから」
「…」
さやかは何も言い返せない。
確かに、夢見てた。お嫁さんになる日とか、結ばれる日とか…。だれのお嫁さん、かはいわないけれど。
でも、魔法少女になったら、もうそれは叶わない夢だ。
いつか円環の理に導かれて消滅する。それを待つしかないのが、魔法少女の運命。
「魔法少女になった時点で、もうアタシらは例外なく世捨て人なのさ」
杏子が、はっきり言う。分をわきまえている、ということなのか。
でもそうなのかもしれない。
もう普通の恋愛なんて出来ない。だって、私もう、死んでるし…。ゾンビだし…。
花畑の花びらが散った。
「世捨て人にとって元の世界なんて、不都合なだけだ。悪魔の創った世界は、好都合だ。
それにアタシ気づいたことあるんだけどさ…」
杏子が打算的な顔をみせた。いたずらっぽい笑みを浮かべている。なにか得になることを見つけた、という顔だ。
「この悪魔の世界とやらは、時間が止まってるんだ」
「時間が?」
さやかは、冷めた目から驚きの目に変わって、杏子を見つめた。「どういうこと?」
「つまりあんたは永遠に中学二年生ってことだよ」
にかっと笑い、杏子は、さやかに告げた。
「おおかた、その暁美ほむらって魔法少女は、悪魔になる前は、時間停止の魔法でも使ってたんじゃないの?
この世界は、時間がとまっている。あたしらは、歳をとらない。永遠に、あんたは中学生だろうし、
あたしは孤児の娘。いいじゃん、それで。高校生になって社会に出て男さがすより、よっぽどあたしら魔法少女には、
大変、都合がよろしい」
それでも、せっかく悪魔が創ってくれたこの世界を壊す気か?
杏子は質問を付け加える。
「どうしてそんなことに気づいたの?」
さやかは尋ねた。
すると、杏子は、花畑に座りなおし、首をあげて、夜空をみあげた。「月、かな」
「月?」
さやかも顔をみあげた。
「そう、月。ほらみてごらん。今夜も半月だ」
さやかは杏子にいわれて、月をみあげた。半月。きれいに。夜と昼がきっかり分かれたような、
真っ二つに裂かれたかのような月。
「昨日も半月、一昨日も半月。この世界が始まってから、ずっと半月のままだよ。時間が止まってるじゃん」
杏子は得意気な笑みをみせた。
「気づかなかったかい?」
よっちゃん丸を食べ終えた杏子は、今度は、駄菓子の、ソースせんべえを取り出した。袋から。
「この世界は同じ日が繰り返されてる。もちろん、見かけでは毎日が進んでいるように見えるだろうし、
毎日の変化もある。あたしがいいたいのは、時間軸だけが止まってるってこと。同じ時間軸にこの空間が
閉じ込められてる…それがこの世界の正体かな、ってあたしは読んでるね」
時間が止まっていたほうが大変よろしい。
それは魔法少女たちにとってそうだし、ほむらにとってもそうだ。
だって、ほむらは、まどかの為にこの世界をつくったようなものだから、まどかには、永遠に中学二年生であって
もらわないといけない。
「…」
さやかは、この世界の未来を思い描いた。
永遠に中学二年生。それってどんな人生になるのだろう?毎日同じ授業を受ける?
でも、確かに、魔法少女をつづけるなら、そのほうが都合がいい。たしかに杏子のそれはいえてる。
魔獣退治を続けるなら、中学生のままでいたほうがいい。
それでいいのかな?本当に?
「まっ、様子見ってところだよ」
すると杏子が結論を先に告げた。
「あの悪魔は、あたしらが逆らわない限り、何もしないって話だろ?あたしらが叛逆しようっていうなら、
容赦しないぞ、っていってたけどね。要するに、鹿目まどかってやつに近づかなければいい。それか、
お前は神様なんだぞってことを吹き込まなければいい。それで今の世界がつづくなら、あたしのとる選択肢は様子見」
「様子見……。そういえばなぎさも…」
おんなじようなこと言っていた気がする。
今の世界が好き。
悪魔は、円環の理を現世に戻したかっただけだ。だから、今は、何もしないでおく。それがなぎさの口からでた言葉。
「なんかみんなして呑気すぎない…?」
自分の心が声となって口からこぼれた。
「杏子もなぎさも……なんだかあたしは思うんだ」
野原で立ち上がる。黒い夜空に浮かぶ巨大な半月を、立ってみあげる。風に青い髪がゆれた。
「時間が止まってる……今の世界がずっと続く……時間のとまった世界。世界は今のままであるように見えて、
実は取り返しのつかないことになってるんじゃないかって……ものすごい速さで、滅亡にむかってるんじゃないかって……」
巨大な半月に黒雲が差す。
「今すぐあの悪魔を倒さないと、ひどいことになる……なんでかっていわれたら…ちょっとよくわかんない…
でも、そんな気がする」
杏子は、それには何も答えず、ソースせんべえをサクっと食べた。
野原の花畑は、月の影に暗くなった。
46
百江なぎさは、鹿目まどかとの対話を終えて、マミの宅へむかう見滝原の道端をとぼとぼ歩いていた。
神様に伝えたいことは伝えた。
それに、神の子は、自分が神だとは片鱗も思ってなさそうだ。
世界は平穏であり続ける。
神と悪魔の終末的戦いは、遠い未来の話だ。
あとは、マミ宅について、ケーキと紅茶を食べて、一緒に時間を過ごしたら、魔獣退治に出る。
そんな幸せな日々が、もっとつづく。
それでいい。ううん、”それがいい”。
夜に浮かぶ月が黒雲に隠れる。覆い隠される。こがね色の月光が黒くなり、見滝原の街が暗くなった。
「もう遅い時間なのです……マミが心配するです」
呟いて、林に沿った道を、早足になりはじめると、何か呻く声がきこえた。
「たす……けて…」
「えっ?」
なぎさが、ピタと足をとめる。
「たすけて……おね……がい……」
女の子の声?
なぎさは、この声を無視してはいけない気がした。
マミの宅に、はやく帰りたかったのは山々だけれども、道をそれて、林の中にはいった。
「…だれです?」
一歩一歩、草木をかきわけ、林の奥へ。公園に生やされた木々の茂った中は、暗い。夜に入ると、ほとんど何もみえない。
「おねがい……しーど……」
林の奥へ出ると、空間がひらけて、公園のベンチの傍らに、倒れた少女がいた。
横たわって、震えている。
その手元からこぼれ落ちているのは、うっすりオレンジ色の光を放つ…
「ソウル…ジェム…?」
なぎさはこの子が、魔法少女だと知った。
誰もいなくて、人気のない公園。街灯の光には蛾が群がる。
「たす……けて…!」
横たわった少女は、なぎさを見つけると、地面を這ったまま、腕だけ伸ばしてくる。
助けを求めてくる。
「ぐりーふ…しーど……!」
「グリーフシード?」
なぎさは、恐怖にひきつった目で、少女を見下ろす。
オレンジ色の少女のソウルジェムは、黒ずんでいて、光を失いかけている。
濁りに澱み、どろどろした光に変色しつつある。
「た…すけて…!」
少女は懇願する。同じ魔法少女であるなぎさに、情けを懇願する。「わけて……ぐりーふしーど…!」
なぎさは震えた。
同じ魔法少女が、ソウルジェムを濁りきらす寸前で死にかけているのを目撃してしまったのが、
あまりにも唐突で怖かった。
「ごめんなさい……なぎさ、今はグリーフシード、持ってないのです…」
昨日は、ナイトメアと戦ったせいで、魔力がかなり消耗した。
だから、マミ宅に帰ったときに、ストックを使い果たしてしまった。
「ああ……あ…ア!」
すると、救われようがないと悟った濁りかけの少女は、絶望の表情を浮かべた。
顔は震え、目は涙を零し、なぎさを見上げながら、なにかを訴えた。
「なに…なんです?」
なぎさは、一歩、退いてしまった。
「えん…かん…」
少女は、ついにソウルジェムに亀裂がぴしぴしと走りはじめたそのとき、何かの単語を言い残した。
「の…ことわり…」
そして、避けられぬ命運の刻がきた。
「───アウッ!」
少女の口が噛み締められ、苦痛に喘いだ。ソウルジェムは、黒く黒く染まってゆき、全ての光を飲み込んだ。
ぎんぎんと、邪悪な光を放ちはじめた。
「あう…あああ…あア゛!」
苦痛にのたうちまわり始める。
「えっ…?」
なぎさは、あまりの光景に絶句した。
ソウルジェムが濁りきると、そんなに苦しいのか。
目の前の、倒れこんだ少女は、ソウルジェムが黒い光を放ちはじめるたび、呻き声をもらす。
胸を苦しそうにかきむしる。
これじゃ、まるで安楽死とは程遠い、苦痛そのものな死だ。
「あっ…あああっ…!」
少女は何かをこらえている。
何かを押さえ込もうと抗っている。
なぎさには、少女の苦痛の意味と、何かに抗うかのよな、絶望的な抵抗の意味が分からない。
ただただ、戦慄の気持ちに打ち震えていた。
そして。
抗いはむなしかった。少女は絶望に負けた。
「あああああっ────あああっ!!」
最後の悲鳴とともに、ソウルジェムから……。
真っ黒な雲が飛び出した。
地震と衝撃派が同時に起こり、なぎさは吹っ飛ばされかけた。
「いやっ…!」
猛風が吹き荒れ、なぎさは近くの樹木にしがみついた。
そして、なぎさが見たのは、倒れた子のソウルジェムが黒くなって、見たこともない結晶に変化して、
濁った世界を築き上げた魔法少女の結界だった。
「……っ!?」
なぎさは、目を疑った。光景が信じられなかった。
私たち魔法少女に訪れる宿命とは何か。
円環の理に導かれて消滅すること。
その建前より、遥かに禍々しくて気味の悪いものが、そこで起こっていた。
なぎさは逃げた。
魔法少女の結晶から出てきた結界の形成から逃げ、林を抜け、見滝原の車道にでた。
車道では、ガードレールに守られた道路を、自動車が行き来していた。街灯に照らされて。
「見なかったことに……なぎさは……見なかったことに…」
ぜえぜえ、息を吐きながら、自分に言い聞かせた。
「なぎさは、何も見なかったことにするです……!!」
47
鹿目まどかは部屋で、ベッドに座り、受話器を耳に当てていた。
部屋は暗い。夜になったのに、明かりをつけていない。夜には半月が浮かぶ。
ぬいぐるみたちの目が光る。
丸いめざまし時計の針は、8時半ごろをさしていた。
「あっ……ちさとちゃん…わたし……わたしです…鹿目まどかです…」
受話器のプルルルルが終わって、相手が電話に出ると、まどかは受話器に話した。
「はい…誰ですか?」
まどかは、必死になって自分の名前を相手に伝える。
「鹿目まどかです!小学校のクラスで一緒だった…」
「ええと…」
受話器のむこうの相手が戸惑う。「いつごろ?」
まどかの声が震える。「3、4年生のとき……ちさとちゃんのお家に何度か遊びにいって……ああそうだ、
あの水槽の金魚、今も元気にしてる?」
「…」
受話器の相手、無言になる。
「ごめんなさい。でも、私はたぶん、あなたと遊んだことないと思うわ」
「…そん、な」
まどかの目に悲しさが映る。「……わかった。ごめんね」
プチ。
ツー。ツー。ツー。
受話器の通話終了ホダンを押した。
頭を落として、ぼーっと部屋の地面のカーペットを眺めた。
まどかの手元には、小学校の頃のクラスの連絡網のプリントがある。
母に、電話器のそばの引き出しにあるといわれて取り出した。
まどかはそれを取り出して、小学校の頃の友達に話しかけようと思った。
連絡網のプリントを見て、まず驚いたのは、そこに鹿目まどかの名前と、連絡先、電話番号が一覧から
消えていたことだった。
ない…?
どうして…?
まるで最初から自分が存在しなかったかのように。連絡網の一覧には、どこにも自分がなかった。
それで諦めきれないまどかは、覚えのある友達の連絡網に、電話してまわった。
どの子に連絡しても、答えは同じだった。
「たぶん、人違いじゃない?」
「ごめん。覚えてない……てゆーか、ほんとに見滝原小学校だったの?」
「いや、ぜんぜん分からない。鹿目さん?わたし日直してたけど、そんな子いなかったと思うよ…
クラスちがったんじゃない?」
「…」
連絡網のプリントも受話器も手から落ちる。
まどかは、ベッドに背中を倒して、茫然と天井をみあげた。
「どうして……なの」
ここには私の部屋がある。ピンク色のカーテンがあって、ぬくぐるみが棚にあって、地球儀があったりして、
淡い緑のカーペットを敷いた部屋には椅子がいくつかある。
女の子の部屋。
これがタツヤの部屋とは思えない。だから、鹿目まどかは、この家に存在している。
しかし、家から一歩外にでると、鹿目まとかはどこにもいない。
「わたしって……誰なの?」
まどかは、自分が何者かを、自問しはじめていた。
48
百江なぎさはマミのマンションに帰った。
「なぎさちゃん?」
呼び鈴のボタンを押すと、マミが玄関のドアをあけてくれた。
「マ、マミ…」
顔の青いなぎさが、マミをみあげた。息を切らしていたし、渦巻いた目が、怯えを含んでいた。
「ど、どうしたの?なぎさちゃん…!顔色が悪いわ!」
マミはすぐ心配して、なぎさを部屋に迎え入れる。今晩のごはんのために料理していたエプロン姿で。
「少し…休むのです…」
なぎさは言って、マミに手を握られて廊下を歩くと、マミの寝室につれられて、ベッドに横になった。
「いま、暖かいモノをもってくるわ!」
マミはすぐキッチンへ急いで、部屋をあとにした。
バタン。扉が閉められた。
なぎさは、ベッドの暖かな布団のなかに入り、そして、目を閉じた。
さっきの光景が、瞼の裏に蘇ってきた。
さっきは、何かの間違いだった。
あれは魔法少女ではなかった。悪魔か何かの落とし子だ。
魔法少女が、あんな死に方をするはずがない。事実、自分が円環の理に導かれたときは、
なんの苦痛もなかったではないか。黒く濁って、ジェムが割れ始めたときに、すうーっと天国に導かれただけだ。
つまり、あれは魔法少女でなくて、他の生き物だった。
あれと魔法少女が同じであるはずがない。同じであってはならない。
そう考えることにした。
「なぎさちゃん。大丈夫?」
直後、マミが部屋のドアをあけて、中に入ってきた。
プラスチックのおぼんに、湯気のたったおかゆが器にのせられていて、マミはなぎさの横たわるベッド脇の棚に置いた。
「食べられる?何があったの?」
なぎさは、ベッドで身を起こして、マミの持ったスプーンが運ぶおかゆを、口に受け入れた。
はもはも。頬の中でおかゆを食べて、ごくりと喉に飲む。
「……」
なぎさは、無言だった。
口を閉ざしていた。
マミには、この話をするのはやめよう。
話したら、崩れてしまう。
この毎日が。この幸せな日々が、こわれてしまう!
マミはとても心配そうになぎさを見守っていた。
また、スプーンでおかゆを運んでくれる。それをまた、なぎさは口に受け入れて、食べた。
「ちょっと、具合が悪かっただけなのです…」
甲高い、幼い少女の声が答えて、ベッドにくるまった。
「マミ、ごめんなのです。なぎさは、眠らせてほしいです…」
「ええ。ええ。そうするといいわ」
マミは言って、なぎさを優しくベッドに寝かせた。つまり、布団を肩までかけてやって、明かりを消してあげた。
部屋は暗くなった。
「おなかすいたりしたら、いってね」
言い残して、マミはリビングに向かった。廊下を歩きながら、マミは不安な表情を浮かべて、独り言をつぶやいた。
「今日はみんな揃わないかしら……。でも、そろそろグリーフシードを獲得しないと……」
昨日のナイトメアという、予期もしない敵と戦ったおかげで、マミのソウルジェムは消費されていた。
49
杏子とさやかは野原で別れ、杏子は風見野に、さやかは見滝原に帰るところだった。
「あーあ……また父さんに叱られる…」
はあ、と息をつきながら、面倒くさそうに学生かばんを肩に抱えて野原をくだる。町へ。
「ウチに帰ったら叱ってくれる父がいるのはいいことだよ」
杏子が、さやかの独り言に対して、背をむけつつ、そういった。
「さあてあたしは……今日はどこで夜すごすかなあ……悪魔のやつ、そういうところ気をまわしてくれてないよねえ。
自分に都合のいい世界とやらに、あたしの姿もあったんなら、おうちの一つや二つくらい、建ててくれたっていいじゃん?」
「それじゃ悪魔じゃなくて気前のいい王様だよ」
さやかは呆れたように言い放った。
「なあさやか、ほむらの創った世界じゃ、あたしはアンタのところに居候してたって、いってたね?
もういちど交渉してくれないかい?」
「絶対やだ!」
さやかはぴしゃりと断った。
「あんたがウチに居候なんかしにきたら、あたしが魔法少女だって家族にバレる!」
「べつにいーじゃん。自分とこの娘が、正義のヒーローだって知って、喜ぶよ?」
杏子はからかう。見滝原のほうにふり返って、さやかをおちょくるのだった。
「やだ!家庭崩壊しかねない!」
さやかはきっぱり言って、すると、自分の言葉の過ちにきづいた。
「あ…ごめん」
「いや、いいよ」
杏子はまっすぐ野原に立つ。堂々然としていた。
「前にも話したろ。それは、あたしの自業自得だったって。それで決着ついてる話だ。あたしは気にしてねえ」
「自業自得、か…」
その言葉をさやかは噛み締めていた。杏子に背をむけながら。その髪が風にゆれる。
「ほむらが創ったこの世界ってのも、自業自得なのかなあ……?」
そんなことを呟いた。
自業自得。
まさに、杏子とさやかを結びつける一つのワードだった。
しかし、この言葉は、暁美ほむらにも当てはまるのだろうか。
「それはほむらにしか分からないよ。ほむらが創ったその新しい世界の満足度によると思うね」
杏子は言った。
「あいつが望んで創った世界なんだから、満足してるに決まってるでしょ……」
さやかは、夜空をみあげつつ、語る。
この世界の景色を一望して眺める。見滝原という名の架空の牢獄だ。
「自己満足の世界。ああ、そんな言葉がぴったりだ。人間って悲しいね。自分が満足するとき、
他の誰も幸せにならない。自分が不幸になるとき、他の誰かが満足の悦に浸ってる。世の中ってそんな仕組み。
バランスが成り立ってるんだよね。そうやって…」
さやかも杏子も、その仕組み、世の法則に、ふりまわされた。
だから、2人は心の奥底で分かち合った。
それは微妙な関係で、親友同士と呼ぶにはちょっと違う、傷のなめあいとも違う、けれど、
杏子とさやかでないと共有できない悲しい部分が、2人を寄せ付けた。磁石のように。
でも、もしその法則が今も発動しているなら。希望と絶望のバランスが成り立っているのなら。
ほむらの満足のために創られたこの世界は、何かが歪んでいることになる。
それは、やがて最悪の形を生む。
2人は、まだそのほんの、歪みにあたる世界の小さなほろこびを、目の当たりにすることになる。
先に気づいたのは杏子だった。
赤いソウルジェムが邪気に反応している。
「さやか!」
「え?」
さやかが野原でふりむく。
杏子は言った。手の平に、卵型のソウルジェムを載せながら。「魔獣だ!」
50
庭の創造、五日目の夜。
見滝原の深夜に、眠れずにいる少女がいた。
洋風な屋敷の、女の子チックな天蓋ベッドの下で、パジャマ姿になっている少女。
さて、親が寝静まった頃に、その少女は、深夜の通話を固く禁じられている親の目を盗んで、
そっと携帯電話を握り、通話をした。
恋愛相談中であった。
「…そうなんです。私からデートを予定することはあっても、上条くんからデートを予定してくれることがなくって…」
しかも、深刻な相談であった。
寂しげな少女の瞳が、切実さを浮かべている。何かに縋るような孤独さがあるといってもいいくらいだ。
「そう。それは、悲しいわね」
恋愛相談の声が電話でする。
「それは、何ヶ月くらいになるの?あなたたちが付き合い始めて、どれほど?」
「かれこれ1ヶ月くらいです…」
仁美は答えた。寝静まった屋敷の子供部屋は、暗くて、声がやけに鮮明に響く。窓から差し込む月明かりだけが子供部屋を照らす。
「一ヶ月、ずっと上条君のほうからのお誘いはないの?」
いっぽう、仁美に恋愛相談を持ちかけられている相手は、今、見滝原の野外の丘に、
黒いタイツ足を伸ばして座っている少女、暁美ほむら。
昼の休み時間に、禁断の愛などない、と仁美に力説したほむらは、仁美の目に、恋愛経験豊富なお姉さまだと映った。
そこで仁美は、お昼休みが終わって、放課後になったあと、ほむらに電話番号を交換して、恋愛相談をしたいと願った。
ほむらは、それをOKした。
仁美は、深夜にならないと親が眠らないから、こういう相談ができない、と言った。
これに対してほむらは、深夜でも構わない、と答えた。
今、ほむらは、夜空に浮かぶ白い半月を眺めながら、丘で携帯符電話を耳にあて、仁美の相談相手になっている。
「やっぱりこれって…上条くんは、私とのお付き合いを承諾いただきましたけど、
わたしは愛されていないのでしょうか…?」
泣きそうな声が、ほむらの持つ電話器のスピーカーから零れる。涙声だった。
「とても一方通行な気がします。私の片思いなのでしょうか?演奏の練習で、上条くんの頭はいっぱいな気がします。
いえ、気がするどころか、そうなのです。私のデートさえ、煩わしく思ってる気もしてきて…。
もっと、上条君の気を引きたい。でも、わたくしには、男の子の気持ちが分かりません。暁美さん、私はどうすれば…?」
「そうね」
ほむらは、携帯電話を耳にあて、ふっと余裕の笑みをこぼすと、答えた。
その黒髪が夜風になびいてゆれた。丘の風にのって、緑の葉が何枚か、はらはらと舞った。
「でも仁美さん。私にだって、男の子の気持ちはわかないわ。けれど、あなたにはあなたの良さがきっとある。
押してダメなら引いてみろともいうし。一度引いてみて、上条恭介に、あなたがいないことの寂しさを
思い知らせてみたら?」
なんとも悪魔らしい意見であった。
「それは…わたし、不安です」
仁美の、震える声が電話器からした。「今ひいたら、今度こそ上条君は、私のことを忘れる気がします。
恋人というか、友達になってしまいます。わたくし、怖い。怖いですわ。そうなったら、他の人に、
上条くんをとられる気がして……。上条君の心の中に、わたしがいないと思うと、不安で夜も眠れなくて…。
お付き合いしているはずなのに、お付き合いができてない。そうとさえ、思えてきてしまって」
よくわかってるじゃない。
と、言いかけたのは堪えて、悪魔は、優しい話をしてあげた。
「その気持ち、わかるわ。私もつらかったことがある……ううん。今もつらい。心でこんなにも想っているのに、
その人の心には、自分がいない寂しさ。……あなたのいってること、私にも共感できるところがあるわ。
片思いってつらいわね」
「あっ、暁美さんも、お慕いしている人が?」
仁美の驚いた声が電話からこぼれた。
「ええ……まあ、ね」
ほむらは電話に耳をつけて語った。黒タイツの足はすらりと伸ばされて、丘の地面につく。
制服姿のスカートは短い。スクールゴムベルトで調整されたスカートだった。
「そんなわたしから言わせてもらえば……一ヶ月も、相手からのデートのお誘いがないのは、
はっきりいって脈薄よ。遠距離恋愛でもないんだし」
「……そう、ですか…」
仁美の落ち込んだ声が聞こえる。
「ちょっと聞いてみたいんだけど、上条恭介のどこがいいの?」
ほむらはただ単に興味で聞いてみた。
まどかが円環の理になる前は、何度も繰り返した時間の中で、幾度となく美樹さやかを絶望させてきた志筑仁美の恋愛。
いったい仁美は上条恭介の何に惹かれているのか。
知ってもいいんじゃないしら、と思っていた。この機会に。
すると、仁美から答えが返ってきた。
「真剣に打ち込む姿とか……優しそうなところとか……知的そうなところとか……あと顔…ですわ」
あの楽器にかける真剣な瞳を、私にも注いでくれたらいいのに!
という、仁美の妄想まで聞かされた。
「志筑さん、付き合っているのに、女の子を大切にしてくれない男の子をいつまでも追いかけてはダメよ」
ほむらは言って、電話相談を打ち切った。
「そろそろ話しを終わるわね?」
「…はい。でも、この気持ちは変わらないですから…」
プチ。
ほむらは電話を切った。
「志筑仁美。あなたって一途ね。一ヶ月も相手にされないのに愛し続けるなんて…」
首をあげて、世界をみあげた。
見滝原を覆う空を。黒雲が月の下に流れる空を。
「かわいそうな子…」
ぽつりと呟くと、ほむらの胸の中に、想いを抱く少女の後姿が浮かんできた。
「あ……」
ほむらの頬に赤みがさし、目が潤って、何もない虚空に手を伸ばした。
明るい髪をリボンに結び付けて、ふりかえってくれる笑顔。ほむらちゃん。笑顔が呼んでくれる。
「まどか…」
ふらふらと、ぶり返った記憶が生み出した幻想に、縋るように、ほむらは丘を歩き出す。
その先には何もない。誰もいない。
「まどか…あなたが変えてくれた。何もなかった私に。弱かった私に。生きててもしょうがなかった私を変えてくれた。
私を助けるのに間に合ったって。今でもそれが自慢だって。そう言ってくれたでしょ…?まどか…?いいわ、
いっぱい自慢して。私を助けられたって、たくさん、自慢してまわって。だから、まどか…!」
もちろん、それを自慢だ、といった魔法少女のまどかは、この世に存在しない。
魔法少女と魔女の仕組みが改変されたときから、全く存在しない。
いまいるのは、強引に概念の世界から連れ戻された、神の子。魔法少女ではなく、神の片鱗。
ふらふらと、まどかのイメージに近づいていったほむらが、まどかに後ろからだきついた。
守るように。大切そうに。閉じ込めるように。
けど、まどかの感触はなかった。
すかっと腕がすりぬけて、気づけば幻想は消え、そこには自分の腕だけがあった。
「あ…ああ…!」
ほむらは気づいた。
そこにまどかがいないのではない。むしろ、いつもまどかがいる。
───腕の中に、まどかがいた。
「あああ…!」
ほむらは、円環の理から奪いとった力がこもるその腕を、崇拝するかのように、天にもちあげて、
それを愛しそうに眺めて、撫で始めた。
足が自然と曲がり、丘の野原に膝をつく。
手だけが、月夜の天に掲げられ、ほむらは自分の手を崇拝する。まどかを握った手を。
まどかを捕まえた手を。
「まどか…ああ!」
自分の手にかむって、愛人の名を叫んだ。
いつまでも、愛に酔った目が、腕を崇拝して見上げていた。
51
いっぽう、ほむらとの恋愛相談が終わった仁美は、洋風屋敷の天蓋ベッドの下でうずくまり、悶絶していた。
「脈薄……?」
ほむらからきっぱり言われた答えが頭から離れない。
つまり、愛されてない?
ただ、私が好きだから、といっただけで、上条くんはOKしただけで、別段愛があるわけでもなし…?
きみがつきあいたいといったんだから、いいよ。でも、そっちがデート組み立ててね。
あっ、ぼくは演奏の練習が忙しいから、断ることもあるかもしれないよ。それでも、よければ……
「そんなの付き合ってるっていいませんわ!」
枕を抱きしめる。
ふかふかの天蓋ベッドの上で転げまわった。
携帯電話の履歴をみる。
暁美ほむらさん
さやかさん
上条恭介くん
上条恭介くん
裕香さん
上条恭介くん
お母様
「……はあ」
ベッドで乙女がため息をつく。
天蓋ベッドのカーテンつき天井をみあげる。
ピンク色をしたシルクのカーテン。
「…。上条くん…」
愛する人の名を呼ぶ。
しかし、だんだん瞳の色が暗くなってきた。
「わたくしは、あなたの楽器に打ち込む真剣な姿、努力家なところ、ストイックな性格、お顔、
そのどれもが好きです。ですが……」
ぎゅっ。
抱きしめた白い枕が腕にきつく締められる。
「あなたは私とお付き合いくださると。そういいました。あまり、女の子の心を弄ばないでください。
あなたと結ばれるまでに、わたしは、友達を失いかけるところまでいきました……。上条くん、
どうかあなたを愛する人の気持ちを大切にしてください。私だけに限らず……」
目に悲しい水滴が浮かぶ。
「さやかさんのことも…わたしのことも……大切にしてください……」
仁美の部屋に、不思議な変化が訪れた。
天蓋ベッドのカーテンは、ふわふわ浮き始め、仁美の部屋じゅうのぬいぐるみと、鏡台テーブルと、
ねこ足のついた座面マット張りの椅子、アンティーク調の引き出しと、ガラスシェードのランプなども、
ぷかぷか水に浮かぶように、宙を舞った。
全体的にアール・ヌーヴォー様式な、仁美の部屋のインテリアが、意志をもったように、動き出した。
ごごごごご…。
地響きさえなり始める。がたたた。家具たちが地面をゆれうごく。
「女の子を好きにさせた男の子には、責任があるのです……!」
怒りとともに、喘いだ直後、仁美の体がベッドから飛び出した白い羽毛につつまれた。
羽に包まれて蚕のようになってしまい、天蓋ベッドから浮いて、アールヌーヴォー調なガラス窓から飛び出した。
夜へ。
その夜空は、ステンドグラス模様やら、百合の花柄模様やら、焼きレンガを敷き詰めた模様やら、
さまざまな模様のパッチワーク布地のツギハギに変わってしまい、見滝原の空を覆った。
空全体がアールヌーヴォー様式の美術絵画と化した。
宙はベッドや、ロココ調の家具やら、ガスランプやら、街灯やらが飛びまわり、厨房器具のフライパンや、
皿などまでがあちこち飛び交う。
今夜も悪夢がはじまった。
52
百江なぎさは、マミにいれてもらったおかゆを食べて、ベッドで安静にしていた。
この夜くらいは、静かに過ごそう。
悪い夢を見てしまったから。夕方に。
夕べに見かけた魔法少女の死が、なぎさには理解できないでいる。
ソウルジェムが濁りきれば、円環の理に導かれる。それが世界の仕組み。
昨日の魔法少女の死は、何かがおかしい。何が起こったのか分からない。
いや、本当は、頭で理解しても、心が受け入れようとしない。
この世界は、とっくのとに、魔法少女にとって悪魔めいた世界に変わり果てていることを。
受け入れたら、終わってしまう。この日常が。
マミとの楽しい日々が。
頭で理解している?
何を、血迷ったことを。
悪魔が創った世界を理解できるのは、悪魔だけではないか。夕べの魔法少女の身に起こったことを、
そう簡単に、決めてもいいのだろうか。
だって、円環の理!
魔法少女を導くルールがある!悪魔がそれを壊したとでも?まさか、そんな。
悪魔は円環の理の、ほんの一部の力を奪い取っただけだ。というより、”力”と”人格”を切り離しただけだ。
ということは、円環の理は、健在だ。神の子が健在であるように。
だから、見間違いだった。夕べのことは。
もしかしたら、あの魔法少女は、この世界が悪魔の天地創造であることに気づいて、
ほむらに逆らった魔法少女なのかもしれない。だから、あんな目に遭った。
そう考えたほうが、むしろ納得できる。気が軽くなるし、謎が解けたようなすっきり感もある。
ふう、と気持ちが落ち着きかけたとき、なぎさは自分のソウルジェムを取り出した。半分以上黒かった。
「もう……魔獣……倒さなくちゃ……マミと…みんなで…」
なぜか、自分の声に生気がない。
これからグリーフシードを得るために命を懸けないといけないと思うと気が重たくなる。
「大変、なぎさちゃん!」
そのとき、ダーンとドアをあけて、マミが部屋に慌てた様子で入ってきた。
「マミ…?」
なぎさがベッドで身を起こして、白い髪を垂らして、大切な友達を見つめた。
「どうしたのです?」
「空が……空が!」
マミはうろたえていた。顔が怯えていた。「また、あの敵が現れたの!」
53
鹿目まどかは、ベッドに座り、暗くした部屋でぼーっと床を眺めていたが、ドンドンとドアがノックされた。
父の知久が出てきた。
「まどか、手伝ってくれる?」
まどかは、顔をあげた。暗いピンク色の瞳が父をみた。
玄関にむかうと、酒でへべれけになった母が、泥酔して寝ていた。
靴を脱ぐ上がり框のところに、ぐでーっと頭をのっけて、母が玄関で寝転んでいた。ブランド鞄をもった手を投げ出して、
愚痴をこぼしつつ赤い顔になって眠っている。口だけだあーっとあけて。
「……また、かあ……」
気のないまどかの声。
知久一人の力で、抱き起こすのは無理だったので、まどかと知久の2人で、母の鹿目詢子を玄関から引きずりだし、
靴だけ脱がせた。
「あぁ…?」
廊下へ引きずられる感覚に、目を覚ました詢子が、わずかに酒のまわった目を開いて、赤いリボンを結んだ少女を見た。
母の目がまどかを捉え、ぽそっと、口にだした。「だれだ…?あんた」
「…え」
母の腕を引きずるまどかの顔が凍った。目が冷たくなり、ひきつった。
「……ああ。なんだ、まどかか」
酒に酔った母が、言った。誰か分かったようだ。「かわいいリボンつけてるなあ……だれにもらったんだ?
イメチェンしてて分からなかったぞお…」
母の問いに、まどかは答えなかった。
知久とまどかの2人は、母を引きずり、リビングに臨時でつくった布団に寝かせた。
数時間経った。
母は風呂場へいってあがると寝巻き姿になり、頭にタオルを巻き、リビングテーブルに座っていた。
そのテーブル面には、ブランデーボトルがあり、水割りにしてグラスにも注がれている。
アメリカでよく選んだ飲み方だ。
しばらく、母がテーブルで佇んでいると、二階からまどかがそっと、階段を降りてきた。
リビングルームは暗く、部屋の明かりは、ない。月明かりだけが窓から差込み、青白くリビングを照らしていた。
「ママ……ちょっといい?」
暗い顔をしたまどかが、母の前に立つ。
「まどか?どうした?眠れないのかい?」
「…うん」
まどかはダイニングテーブルのチェアに座り、オレンジジュースをグラスに氷とともに注いだ。
母はブランデーを。娘はオレンジジュースを。
寝静まった深夜に、母娘がテーブルで向き合う。
存在しないはずの娘と、実在の母が。
それは、奇跡の再会であった。
まどかは、ジュースをグラスから飲むと、テーブルに置き、そっと、話し始めた。
カラランと氷の音が鳴った。
「あのね…ママ…」
「なんだい?まどか」
「もしも……もしもだよ?」
まどかは、きっとそれがきっともしもなのでなくて、ほんとうのことなんだ、という思い込みに毒されながら、話した。
「わたしは本当は存在しない子で……なのに、今だけ魔法みたいに、ここにいる……それはきっと期限つきで…
まだどこかに、消えてしまうかもしれない、そんな子だったとしたら……ママは私を覚えていてくれる?」
母は驚いた顔をし、それから、くすと鼻で笑い出した。
「まどか?アニメかなんかのキャラクターの設定、てやつか?その友達とは仲良くなれたんだね?」
「…。」
まどかは、アニメかマンガがきっと好きなんだ、と思った暁美ほむらという友達のことを思い浮かべた。
仲良く、なれてるのかなあ……?
なにか、もっと大切なところで、あの子とはすれ違っている気がする…。
「ママ……わたし、自分が消えてなくなってしまいそうって、最近、なんだか思うの…」
まどかは、近頃感じ始めた、大きな不安を、母に打ち明けた。
「いろんな人に忘れられていろんな人に存在を無視されて……最後には自分の意識さえ消えてしまうような……
そんな役割が……」
母は、娘は考えすぎだと思っていたけど、娘が、あまりに深刻で暗い顔をしているので、真剣に話をきいた。
「もしそうなったら……ママは覚えていてくれる?私のこと忘れないでいてくれる?」
まっすぐ母をみつめて、娘は問いかけてきた。
母は娘から目を逸らさなかった。
もし、娘が、全ての人から忘れ去られる存在だとしたら、母は娘を覚えているか。
なんて矛盾した問いかけなのだろう。
まどからしくもない。
だが、母は答えた。それも、迷うことも、くじけることもなく。
「覚えてるだろうね」
「…え?」
まどかが、暗い顔をあげて、目をおおきくさせた。わずかに、顔が明るくなった。
「といっても、全ての人から忘れられてしまうんだから、はっきりと覚えているのは難しいかもしれないけど…」
母は、くすと笑い、付け加える。
「なんとなくまどかが分かると思うぞ。たとえ、家族でなくなってしまったとしても、忘れていたとしても、
まどかはわたしの子なんだ、って……そう思える何かを覚えているはずだ。あまり母親をなめるもんじゃないぞ?
どれだけお腹を苦しめて生んだ子か……まどか、だからはっきり言う。まどかは私の娘だ」
「…ママ」
まどかが、ふわっと明るく、嬉しそうに微笑み、安心した表情をみせた。
転校してきたばかりの、学校生活に期待感をふくらませる、生き生きした顔にもどった。
母はそれをみて、笑みを口元にほころばせた。娘の幸せな顔をみるのは母の幸せだ。
そして、ブランデーを口に含んだ。
それを見たまどかが、母に言った。
「私もはやくママとお酒のんでみたいなあ…いつも楽しそうに飲んでるんだもん」
といった娘の手元には、オレンジジュースのグラス。
「おーさっさとお酒のめるようになっちゃいな。楽しいぞ、大人になって、酒をのむのは」
母は優しく笑って娘に言った。
指でグラスの注ぎ口を沿わせ、円環をぐるり、と描いた。
54
美樹さやかと佐倉杏子は、見滝原に発生した魔獣の結界に入り込んだ。
魔獣の結界に入り込むと、白い瘴気が、町々に満ち溢れる。道路、街角、路地裏、あらゆるところに、
邪気の霧が蔓延した。
「魔獣が相変わらず出るってところも悪魔はき前よくないよね!」
ひゅーっと、街の中を飛びながら、杏子は声を出す。
「どうせ全部、都合のいい世界にするなら、いっそ魔法少女のソウルジェムが濁らない世界とかにすればよかったのにさ!
悪魔だけじゃない。円環の理って神さまもだよ!どうしてそうしなかったんだ?」
「文句いってる場合かっ!」
杏子の高速の飛翔に、負けじと追いかけて飛ぶさやかが、口ばしって、サーベルを手に握る。
2人とも魔法少女の衣装になっていた。
スタッ、スタッと、2人とも並んで魔獣の結界が囲んだ見滝原の道路に立つ。
その先には、街灯が赤く光って、バチバチと漏電している車道を、行列になって行進してくれる魔獣の大群があった。
でかい。どの魔獣も。
「さてっと。今日も収穫の刈り入れどきだよ!」
杏子は、手に取り出した大きな槍を、クルクル振り回すと、肩の後ろに抱えて両手に持った。
余裕のポーズだ。
「さやか、2人で2分の1な。取り分の話だよ」
「わかってるって!公平原則!魔法少女のもつべき基本的な権利!杏子、それは?」
サーベルを、さやかはマントをまくって、たくさん取り出す。さやかの足元に、数十本のサーベルか並び立った。
「うーんと…なにかな?」
杏子は、灰色の曇り空が覆う魔獣結界をみあげ、考え始める。
「食いモンに困らないことと、寝るとこに困らないことと、着るモンに困らないことかな…?」
「ははっ。杏子らしいね。マミさんがいうには平等権!一緒に魔獣狩りした魔法少女の取り分は平等!
それから、生存権!魔法少女が魔法少女らしく生きられるように、ソウルジェムがやばい仲間は助けよう。
あと、自由権!仲間が魔獣退治にでるからって、魔獣退治に一緒に出ることは強制されない。本人の自由だよ。
それに加えて社会権!一緒に魔獣退治の輪に入りたいっていう新入り魔法少女を拒んだりしないように。
仲間に入れてあげてね。最後に、参政権!輪を組んだ仲間内リーダー格の魔法少女に、意見をいうことができます!」
「マミってのはそんなこと考えてたのか?」
杏子が顔をしかめていた。面食らっていた。槍を背中に抱えながら。
「ん、まあ、あたしら魔法少女がなるべく互いに仲間同士、長生きするにはどうしたらいいかってね。
ルールとか考えてた」
さやかが答えた。
「それでなぎさも仲間に入れたんだ」
「あいつの熱心さはたまに変な方向にいくからねえ」
杏子は、ぞろぞろと近づいてきた魔獣の群れを見据えていた。
槍を、いよいよ前へ向け、戦闘態勢になる。
「徒党組んだ魔法少女みんな丸ごとごっそり共倒れしそうなルールだねそりゃ」
「杏子がいうと、迫真さがあるね」
さやかも戦闘態勢に入った。
「マミのやつは、甘いんだよ。まるで魔法少女が、仲間同士になれることを当たり前のように考えてるじゃんそれ」
杏子の指摘が入った。
「長生きしようと思ったら、自分の取り分は自分でもぎ取る覚悟が必要だ。あたしはそれをやるが、
マミにはそんな気ないんじゃないか?仲間同士で魔獣と戦っていれば、みんなで仲良く生きていられるみたいな?
そういう魔法少女は、いつか本当の危機がきたとき決裂する。甘々だよ。まっ、ケーキ食べさせてくれるから、
本人の前では控えておくけどね…」
「なーんて、マミさん家でみんなにで集まれるの、好きなくせにー」
さやかはサーベルを持ち、魔獣たちに向けていた。白いマントが強風にはためいた。
その顔は笑っている。
「一人ぼっちは、さみしんもんね?」
「んなことねーよ!ばか!」
杏子は嘘ぶいた。
さやかにはそれが分かっていた。
友達も恋人も失って、一人になって、孤独になり、投槍だったあたしに、だれが寄り添ってきてくれたか。
瞼をいちど閉じ、感浸ったさやかが、そっと囁く。
「好きだよ、杏子」
「いきなり何いいだすんだ!おおばかか!」
「ははっ。ばかですもん!」
2人は魔獣に戦いを挑んでいった。
「おおおおー!」
さやかはサーベルに魔力をこめて。
「とりゃああ!」
杏子は槍に魔力をこめて。
魔獣たちを、蹴散らした。
55
見滝原の空はツギハギの模様が覆っていた。
アールヌーボーの芸術品のような絵画模様。
そこに星空はなく、月もなく、花柄の模様と、チェックの模様、衣に刺繍を施したようなレース模様と、
布地のパッチワーク。異空間の町と化してしまっていた。
ナイトメアがこの夜も出現したのだ。
この退治に向かうべく、ツギハギの空に飛び出したのは、魔法少女に変身した巴マミと、
それについてきた百江なぎさの2人だ。
しかし、ナイトメアの結界らしき空を舞いながら、なぎさの顔色はすぐれなかった。
青ざめていて、生気がなく、死を目の当たりにしたかのような顔だ。
「なぎさちゃん?どうしたの?今日は戦えない?」
マミが、変身姿となって、空を舞いながら仲間に呼びかける。
黄色いリボンをつかい、ぶらさがって、サーカスのように、街のビルからビルへ飛び移る。
風に乗ったかのように華麗だ。
いっぽうなぎさは、ナイトメア結界中に飛びまわるさまざま家具、ベッドから椅子、椅子からテーブル、
テーブルからロココ調引き出しなどに、ぴょんぴょんと飛び移って結界を移動していたが、やがて答えた。
「だい…大丈夫なのです…」
手にシャボン玉のストローを取り出す。
脳裏に、夕べみた魔法少女の死を思い出してしまう。
感づかれてはいけない。何か、よからぬものを目撃したことを、マミに。
「町の平和を守る…魔法少女の務めです。なぎさ、戦うです」
マミは、黄色いリボンに吊られて、ビルとビルのあいだの通路をとび、そして、あるビルの屋上にすたっと着地した。
途中、ガラスシェードのランプが隕石のごとく飛んできたので、マミはそれをマスケット銃で破壊した。
引き金をひくと、魔法のクリスタルに火縄が接触し、火を噴き上げて発砲される。
魔弾が回転軸の軌跡を描きながら飛び、ガラスのランプはがしゃーんと粉々にくだけた。
ガラス破片が結界じゅうにふわふわと浮いた。
「いたわ…あそこよ…!」
マミが指さした。
空を。
なぎさは、空とぶベットからカーペット、アールヌーボー様式の家具、箪笥、棚、椅子、
さまざまなインテリア用品の浮遊を足場にして、ようやくビルの屋上に辿り着くと、みあげた。
そこに、志筑仁美のナイトメアが存在した。
いつかは、6人の魔法少女で戦ったナイトメア。鹿目まどかと、美樹さやか、巴マミ、百江なぎさ、
佐倉杏子、暁美ほむら。
しかし、志筑仁美のナイトメアとの再戦、今回は2人しかいない。百江なぎさと、マミ。
しかもマミはナイトメアとの戦い方を知らない。ここは悪魔の世界。マミは記憶をなくしている。はじめからないともいえる。
なぎさだけが、この戦い方を知っているが、なぎさは別の心配事があった。
しかも、その心配事は、早くも的中する。
「なぎさちゃん。私は、あの敵との戦い方がまた掴めてないわ。だから、前回と同じ作戦でいこうと思うの」
どきっ。
なぎさの目が瞳孔を開く。
「また、ナイトメアを捕らえる結界をつくってくれる?私がなんとかして、ナイトメアをそこに追い込むわ!」
「…。…。」
なぎさの顔色が悪化する。
「…なぎさ、ちゃん?」
様子のおかしさに気づいたマミが、振り返る。「やっぱり、今日は具合が…」
「いえ、いいえ!大丈夫なのです!」
なぎさは嘘をついた。
しかし、もう取り返しのつかぬ方向にコトは進んでいた。
シャボン玉のストローを口に含み、大きな結界を生み出しはじめる。虹色をした透明のシャボン玉が、
大きくなってゆく。
なぎさのソウルジェムが消費されていく。黒色が増し、淡紫色の宝石は、輝きを失う。
「…これでいいです?」
なぎさの身長の五倍くらいのシャボン玉が生成された。
「もっと、大きく!」
マミは指示をだした。
自ら、マスケット銃を新たに手にとりだし、ナイトメアのぬいぐるみが発射してくるインテリア用品のロケットを、
破壊してやり返す。
なぎさは、ストローに魔力をこめて、ふーっと息をふきかけ、シャボン玉を二倍にした。
この中にナイトメアを閉じ込めてしまえば、いいのだが、マミ一人でうまくいくだろうか…。
魔力はさらに消費された。グリーフシードが必要だ。
手遅れになれば、円環の理に導かれてしまう。
─────円環の理?
なぎさは、どきっと、胸を悪寒が打つのを感じた。
夕べに話した鹿目まどかという少女の姿と、その会話が思い出される。
自らを神とは片鱗も思ってない。暁美ほむらに、記憶を呼び覚ますのを、邪魔されているから。
───邪魔されている?本当にそう?
なぎさは、魔法少女は、本当にあの鹿目まどかという少女に導かれる?
「うう…」
吐き気がこみあげる。
ついに悟ったのだ。自らの運命を。どうして今まで気づかなかったのか。
この世界には、いるはずの存在がいない。悪魔の世界が始まってから、一度も目にしたことがない。
もう手遅れだ。
悪魔はとんでもないことをしてしまったのだ。つまり、私たちを核弾頭か何かに変えてしまった。
それも、時限つきの。時限スイッチは、とっくに入っている。たぶん、起爆は、なぎさ自身が、いちばんはやい。
「あああっ…」
その場にへたれ込む。
黒色のソウルジェムが、ぽろり、と手にこぼれ落ちた。
どうしてこんなに消費が早い?
ちがうっ、消費じゃない。
なぎさは、絶望してしまっているのです…。
マミの家は、お菓子の家だった。
ただそこにいるだけで、お菓子と、ケーキと、紅茶が出された。絵本のようなお菓子とチーズケーキに溢れかえった家……。
ねずみのように、あらしまわった。食い散らかした。
あとは、残されたモノを食べるだけだ……。
「あう……う!」
渦巻いた目を大きく見開き、なぎさは口元を押さえた。体は震えはじめ、やがて訪れる時限つきの自らの魂に仕組まれた爆弾を、
起爆させる瞬間を待つのみとなった。
「…なぎさちゃん!」
マミが、舞踏会でもひらいてるかのように、空をくるくる飛翔して、ナイトメアむけてマスケット銃をばこばこ放ちながら、
呼びかけてきた。
「今いくわ!」
「…きちゃだめです!」
なぎさは、黒色に変色しつつある目をあげて、マミに叫んだ。「マミ、わたしから離れるです!」
そう叫んで、駆けつけてくれないマミではない。
ナイトメアに銃撃を撃ちつづけるのを休止して、マミは、なぎさの元に飛んできた。
「どうしたの?」
マミは、蹲って震える幼い少女の背中に手をかけ、心配する。
「大変!具合がわるいじゃない!どうしてちゃんと言わなかったの?ああっ、美樹さんか、佐倉さんが来ないと…!」
「マミ!」
なぎさは、黒色になった目で、マミをみあげ、そして懸命に言った。
「話をきいてほしいのです!」
「えっ…なに?」
マミは、なぎさの様子の変化に気づき、たじろく。邪悪な執念というか、執着みたいな黒い感情が、
魔法少女の変身衣装から、湧き出しはじめて、地面にどくどくと垂れ流れていた。
黒色の邪気は、なぎさの足元にひろがっていく。無邪気に。
「マミ、なぎさは、いつもいつも幸せでした…」
震える手を地面につき、力尽きながら、マミに言葉を託す。
「マミは、いつも優しかったです。いつもお菓子と、なぎさの大好きな、チーズケーキをくれました。
紅茶もくれました。いつも一緒にいてくれました。なぎさは、マミに甘えるばかりでした…」
「そんなこと、…」
マミは動揺している。急に、なぎさがどうして、こんなことを話し始めたのか。
「気にしなくていいのよ。わたしも、なきざちゃんがそばにいてくれて、すごく楽しかったから。
充実していたから。毎日が…」
なぎさは顔をあげて、マミを見た。
「でも、もうダメなのです。いえ、それがダメだったのです。なぎさは、マミに食べさせてもらってばっかりで、
なぎさはマミに何の恩返しもできませんでした。子供でした。マミにくっついてばかりで……マミだけ見てました。
なぎさにとって、マミの家は、お菓子の家でした」
「お菓子の家…?」
マミは、自宅が随分と妙ちんりくな表現されたものだと思った。
「そしてなぎさはなんでも食べてしまったのです。マミ、なぎさは悪い子です。だから、お願いです。
いますぐ、なぎさから逃げてくださいなのです。離れてくださいなのです。でないとなぎさは、なぎさは…」
ぶるぶる震えだすなぎさ。
「なぎさは、マミを食べちゃうのです!」
「…えっ!?」
マミが、なぎさの言葉に驚いて、動揺すると、直後、それは起こった。
────パリンッ
ガラスのヒビ割れる音。
それが、なぎさのソウルジェムの割れる音、孵化のはじまる音だと気づいたマミは、
あっという間になぎさの生成した結界の中にとりこまれた。
黒色の暗雲が、なぎさのソウルジェムから飛び出し、ナイトメアの結界の中に、ひろがり、
あらたな結界をつくりはじめた。
アールヌーヴォーな志筑仁美のナイトメア結界は、お菓子の家に変化する。
「…なに、これ!?なんなの!」
マミは、急激に変化をはじめた結界を見渡す。きょろきょろと。恐怖に襲われた顔で。
下を見ればクッキーとビスケットが散らかり、誕生日ケーキにささったキャンドルが結界を照らす。
誕生日ケーキは、ショートケーキ。クリームたっぷり。どのケーキも、マミより巨大。
壁は、お菓子でつくられた。ウェスハースに、色とりどりなマーブルチョコレートが模様を彩り、
天井からは茶色いチョコレートシロップがどろどろと垂れてきた。
なぎさの死体は結界に取り残され、浮いていた。ふわふわと。白い髪はゆらめき、目は閉ざされた。
「…!?」
お菓子のパッケージのごそごそという音。
中で、何かが蠢いている。
と同時に、パッケージがはじけて、ぶしゃあ、とチョコレートシロップやらクリームやらが、氾濫した。
マミは、チョコレートシロップが覆う天井に、一匹のかわいらしいぬいぐるみが浮いているのを見た。
「…これは、なに!?」
マミには事態が理解できない。なぎさがナイトメアになってしまったのか。
けれど、なぎさのソウルジェムは濁りきった。なら、円環の理に導かれる。その実在を、今日の昼休みに、
見滝原中学の屋上で見たばかりでないか。
その気弱そうな、ピンク色の髪を、赤いリボンでツインテールに結んだ少女。
あの子こそ、同じ中学の後輩こそ、私たちを導く神様。魔法少女の神様。
お菓子の魔女は動きはじめた。
使い魔たちがちょこまかと動き出し、ケーキを持ち運んでいた。四肢をうごかし、えっさほいさと。
と同時に、かわいらしいあのぬいぐるみも、動き出した。ふらりふらりと宙を舞う。
マミの立つ床に、天井から巨大なマーブルチョコが降ってきた。
「きゃあっ」
マミは飛び退く。落ちてきたマーブルチョコが爆発し、煙をあげた。本物のお菓子でない。
床にあふれ出したチョコレートシロップがマミの足をとり、とらえ、埋めた。
「う!」
チョコレートシロップの海にマミの腰まで沈む。
さながら溶けたチョコレートの底なし沼だ。マミは、顔まで沈んで窒息する前に、魔力をつかって、ぬけだした。
腰から下がチョコの茶色にべっとり染まった。
どうやらお菓子の結界は、マミにいろんなお菓子やケーキを付着させて、味付けしようとしているようだ。
クリームが大量にあらわれて、ざばっと波のようにあふれ出し、マミの頭にかぶさった。
「やめて!」
マミは、クリームからも脱出した。が、下半身はチョコ、上半身は生クリームにべっとり染まった。
クレープのようにあまく味付けされていく。
こんどはカラースプレーの粒粒がふってきた。ドーナツや、アイスクリーム、
ソフトクリームについている色とりどりなつぶつぶ。
結界じゅうまんべんなり降り注いで、マミの全身にもふりかかった。
すると、チョコレートまみれと生クリームまみれなマミの腕や、胸、足、腰、あらゆるところに、
カラースプレーがぺとぺとと付着した。
マミの全身は、色とりどりになった。
お菓子の魔女はすると、マミをおいしそうに眺め、ぺろっと舌をなめずりだした。
「あっ……ああ!」
マミの全身を、ミルクレープの皮が包んで拘束した。
さあめしあがれ、お菓子の家の主人、マミ!
お菓子の家を食い尽くしたあとは、家の主人を食べるだけだ。それが、お菓子の魔女の、隠された黒い欲望、
そして執着だった。
マミにいつまでも依存して、ついには食べつくしてしまう、舐め尽してしまう、そういう、ふくれあがった欲。
つまり、この魔女は、マミにウソついていたのだ。
マミは、この魔女が、実家に戻る決心が付くまでは、マミの自宅にいていいと言ったし、魔女もそれで約束したが、
この魔女ときたら、本心はそんなつもりなどこれっぽっちもなくて、いつまでもマミにくっついていようとしていた。
「やめて!」
クレープの皮に拘束されたマミは、叫んだが、歯をぎらぎらとぎらつかせた魔女の頭に、まさにすっぽり、
噛まれるところだった。
「きゃああああっ」
マミは、喰われる寸前に、かろうじで逃げて、全身をお菓子まみれにされながら、結界の中を飛ぶ。
魔法少女の魔力を最大限に出力して、拘束からのがれた。
「やめて!こないで!」
こんな化け物に人の言葉など通じるはずもないのに、なぜか、マミは、この化け物に対して、人の言葉で呼びかけていた。
「こんなことよして!わたしは、だれが悪いだなんて、思ってないわ!」
マスケット銃を両手に取り出し、バシバシと魔弾を放つ。
逃げながら。
マミの動きもさすがに洗練されていて、すばしっこいが、化け物の追尾も相当しつこい。
魔弾で化け物の頭を撃っても撃っても、マミを食べようとするばかりだ。
マミは、慣れた手つきで、魔弾を撃ちつくしていたが、化け物に対して通用しない。
魔獣相手なら、こんなことないのに!
魔弾が直撃した化け物の頭は、火をあげるが、かえりみずマミに歯をむき出しにしてくる。
まったく未知で、おそろしい敵だ。
「あっ…!」
足をチョコレートシロップのようなものにとられ、踵がつるんっとすべり、着地を誤った。
すてん、と尻もちついてしまったマミに、降りかかってきたのは、口をあけた大きな化け物の頭。
「ああああ…!」
マミは死を目の当たりにした。
その魔女の頭を、何かの矢が貫いた。
頭を貫いた紫色の閃光放つ矢は、爆発した。
すると、魔女の頭が、バラバラにはじけて、炎上した。
ぎゃあ、と魔女が叫びをあげて、マミを喰らおうとした魔女の頭は消し飛んだ。
結界も消し飛んだ。
すると、志筑仁美のナイトメア世界があった。
空はツギハギの模様だ。
「……あなたは…」
全身がお菓子みまれなマミの体は、元にもどった。
「命拾いしたわね」
紫の弓で、魔女を撃った暁美ほむらの、黒髪を爆風にゆらす後姿をマミはみあげた。
「今のは……なんなの!?あの敵はなに?なぎさちゃんの身に、何が起こったの!?」
マミは混乱していて、あまりに多くの質問を投げかけてしまう。
「…愚かな人」
すると、冷たいほむらの声がした。
「悪魔に質問をするなんて……。あの魔女に喰われそうになっておきながら、その正体にまだ気づけていない」
「…なに?どうこうことなの?」
マミが震えはじめる。ソウルジェムの消費が激しい。
心の中で、絶望を覚え始めている。
「これだけはいったておくわ、マミ。わたしは悪魔だから、あなたの味方になるなんてこと、期待しないこと。
それから、今後この先何が起ころうと、わたしはあの子を守る。誰から?あなたたちからよ」
それからほむらは、手に握った黒いグリーフシードを、マミの手に投げ込んだ。
マミはそのグリーフシードをキャッチした。
「使いなさい。魔獣のグリーフシードよりも、効き目があるわよ」
ほむらは志筑仁美のナイトメアの結界をあとにした。
マミは、ほむらに手渡された黒い塊をみつめた。
魔獣を倒した報酬に得るキューブとは別物だった。丸くて、軸が通ったグリーフシード。
恐ろしい気持ちになりながら、それを、黒ずんだソウルジェムにあてがった。
マミの黄色いソウルジェムは、みるみるうちに、浄化されていった。ざざざーっと、
黒色がマミのソウルジェムから消える。かわりに、グリーフシードがさらに黒ずんだ。
確かに、魔獣のキューブよりも遥かに効き目があった。
「なぎさちゃんのソウルジェムはどこ…?」
浄化の終わったマミは、ぽつり、呟いた。
空では志筑仁美のナイトメアが舞っていた。
現実の空は、とうとう最後まで戻らなかった。
マミは、戦意をなくしていたのだ。
56
世界は創造されて6日目の朝を迎えた。
赤いあけぼのの朝日が見滝原に昇る。
世間の人々は動き出す。列車にのったり、車が道路を行き来しはじめる。
誰も、同じ毎日の繰り返しに気づいていない。
朝日は鋭い。ビルのガラスに反射し、町を照らし出す。
寒々しい空気がはりつめる朝。
鹿目まどかは、制服姿に着替え、鏡の前でリボンを調整していた。
どちらかの帯が長かったり、短かったりすると、向きがへんになる。
朝の空気は冷たい。床も壁も、冷え込んでいる。
「おはよーママ。ハパ」
「ん。おはよーまどか」
「まどか。おはよう」
リビングでは、母が既に朝食のパンを食べていて、コーヒーを口に含み、新聞に目を通していた。
「行方不明者続出…?」
母は、新聞の記事をみて、怪訝そうに眉を細めた。
「…パパ……」
まどかは昨晩、父の知久と共に、自宅の階段下の倉庫と、屋根裏部屋を一緒に探し回った。
ごっちゃごちゃに過去の遺物、たとえばアメリカ滞在時に使った友人招待用バーベキューセット、
昔つかった絵の具グッズ、昔まどかが描いた絵、書道グッズ、いろいろ出てきたけれども、学校のアルバムだけは、
どうしても見つからなかった。
ところで、懐かしいグッズも出てきた。
それを父と一緒に発掘したとき、父は懐かしいなあ、と笑い、まどかは赤面した。
スイッチを押すときらりーんと効果音をだす、先端がハート型な魔法のステッキのおもちゃとか、
弓の形をしたおもちゃの魔法の武器とか。これまた、スイッチを押すと、きらりーんと光が点滅して音をならす。
ははっ、まどかは、小さいころから魔法を使う女の子が好きだったね。
掘り起こされた思い出と共に父が語り、まどかは、父に、やめてよ!と赤面して叫んだ。
朝食を終えた母の鹿目詢子は、父とほっぺたのキスをかわし───これもアメリカ流夫婦の朝の挨拶だ───娘と、
手のタッチをしようとした。
が、まどかは、母と手をタッチしようとしなかった。
詢子は、娘がいま、何か悩みを抱えていることには気づいていたので、とくに怒ったりもせずに、仕事に出かけた。
「まどか、どうしてママとタッチしないのかい?」
こういうとき、男はたまにデリカシーがない。
「うん……なんとなく今日は……」
まどかは、口を濁すだけ答えるに終わった。
ジュースを飲み干し、グラスを空にして、部屋に戻り、学生かばんを手に持って、駆け足ででかけた。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい。まどか」
父は娘を見送った。
そのあと知久は家事にあたっていた。
食器を片付け、除菌ジョイの洗剤をつけて、まあ、だいたいの洗剤は調合は同じ界面活性剤なのだけど───洗って、
ふきんでふいて、水切りかごに並べた。
掃除機をとり、コンセントに電源をいれて、コードをつなぎ、リビングから掃除をはじめたころ、妻の詢子からメールがあった。
「なにかな」
知久は携帯電話をエプロンのポケットから取り出して、メールを見た。
メールにはこう書かれていた。
”まどかの戸籍情報を役所で確認して”
57
巴マミはその朝、たった一人の朝食をとっていた。
リビングの窓ガラスから差し込んでくる朝日が眩しい。このリビングは、隅っこ一面がガラスになっている箇所があり、
そこから町の外が一望できる。朝はいつも、日の光が差し込む。
昨日の朝には、マミがいま一人でとる朝食のテーブルのむこう側に、なぎさがいた。
なぎさは笑って、マミと会話してくれた。朝食はマミがつくったが、なぎさはいつも嬉しそうに、
マミのつくったものを食べてくれた。
リビンクのテーブルは、ガラス製で低い。三角形の形したリビングテーブルで、下にはカーペットを敷く。
「なぎさ、ちゃん…」
マミは、お菓子の魔女の結界で昨晩、命拾いした末に、自宅に戻った。
そして、制服姿に着替え、朝食をとっている。
いつもはなぎさと2人でとった食事も、今は話相手が誰もいない。リビングにはマミしかいない。
朝はマミ一人の起床にはじまって、目覚まし時計に起されて、スイッチを止め、顔を洗って、
シャワーを浴びたら、髪をドライヤーでかわかして、カールにはしないまま朝食をキッチンでつくる。
すべて、一人だ。いつもなら、なぎさと2人で髪の毛をかわかしたりしていた楽しい朝は、ない。
なぎさはマミ寝室のベッドに寝かされている。
まだ、おきない。
なぎさのソウルジェムは、どこを探しても見当たらない。志筑仁美のナイトメアの結界に落ちてしまったのだろうか。
いや、ちがう。なぎさのソウルジェムは、濁りきってしまった。浄化されなかった。
だから、もう元に戻らない。
死体は持ち帰ったけれど、目を閉じたまま、白髪の少女は眠りをつづける。
王子様のキスを待つように。
眠っているといっても、脈も息もない。瞼をあけたら、瞳孔の開ききった目が、でろんとなってるだけだ。
マミの目に涙が浮かんでくる。
食事が冷たい。味が感じられない。じわり…とした感情が胸にわく。
ソウルジェムが穢れた。
不安はまだある。
近頃、魔法少女の敵が増えつつあること。
今までは魔獣だけだったのに、世界が渾沌としていくように、敵は増える。
ナイトメアと、そして、昨日の化け物。
お菓子の家と化した結界の中。
あの敵は何者なのか。
マミは理解しようとして、心のどこかでそれを拒んでいた。
受け入れてはいけない。その答えを。
だって、私たちを導く神様は、円環の理なのだから。同じ中学生の後輩ではないか。
でも、日に日に魔法少女の重荷が増している気がする。
その原因があるとすれば、暁美ほむら。
あなたたちに不幸をふりまく、と脅迫した悪魔。
いや、あの悪魔は、もう答えをくれている。つい、昨晩に。
”あの正体に、あなたたちはまだ気づけていない……”
「いやだ…。なんだか、いやだわ…」
心が重くて仕方がない。
魔法少女になって、毎日が充実した日々だと思っていたのに、一転して、この先をいきる毎日が、
暗黒の日々のように思えてきた。
しかもその日々は、命ある限り、ずっと続く。今後この先の人生で。
気だるさすらおぼえる体。
朝食のベーコンを食べ終え、キッチンのシンクにて食器をかたづける。
さみしい。
話相手がいない。一緒に食器を洗ったなぎさの姿が横にない。
背が足りないから、踏み台を使って食器洗いを手伝ってくれたなぎさが。
不幸のどん底に落ちた気分にすらなりながら、ヘアアイロンでカールをつくり、ケープでかためると、
学生かばんをもって出かけた。
「いってきます」
それに答える声もなかった。
58
鹿目まどかは教室に着いた。
ガラス製のドアをあけ、教室に入る。
「おはよー…」
元気のなくした声。
「…」
生徒たちは無視した。
どうやら、帰国子女無視一派の勢力が、クラスの中で強まっているらしい。
「…」
まどかは、何もいわず席につく。かばんにノートを取り出す。一限目は、理科。
志筑仁美の席をみたら、空席だった。いつもは、まどかよりも早く教室にいるのに。
「仁美ちゃん…休みなのかな…?」
ぼそっと、まどかが席で呟く。
「戻ってこなければよかったのに」
「ほんと。自分ひとりのためにクラスの授業があると思ってるよね」
まどか無視一派の、女子生徒たちの過酷な野次が聞こえ始める。
まどかは平気だった。
アメリカでも似たような経験をしていたから。
でも、ある言葉だけは、今のまどかの心にの癪に触れた。
「また消えちゃえばいいのに。アメリカでもどこでもいってさ」
「いなくなればいいのにね」
どくっ。
まどかの目の瞳孔が開いた。
「消えてなんていわないで!」
ガタっと席をたち、まどかは後ろふりむいて、なじる女子生徒たちむけて怒鳴った。
声が、本気で怒っていた。
「あっ…」
女子生徒たち、まどかの剣幕におどろき、声を失った。
全員がたじろいている。まさか、まどかのような女子生徒が、こんな急に怒り出すと思わなかった。
教室じゅうが驚き、そして、誰よりもまどか自身が驚いていた。
「あっ……えと…ごめん……え?」
ピンク色の瞳が金色に光っていた。
制服のスカートが光はじめ、変身がはじまって、神秘の力が溢れ出した。
強烈なパワーが教室に吹き荒れ、教室の机という机、ノートというノート、筆記用具という筆記用具が飛びまわり、
混沌となって、突風が室内を飛び交った。
「きゃあああっ」
女子生徒たち、スカートを押さえ込む。
「なんだなんだ!」
中沢ふくむ男子生徒たちが、叫び声をだし、まどかの放ち始めた強風に怯える。
「だれかアイツをとめろ!」
誰かの男子生徒が叫んだ。しかし、風が強すぎて、誰も身動きとれない。地面に蹲ってしまった生徒もいる。
教室が揺れる。上下に揺さぶられている。地鳴りが強くなる。
「なに…なんなの…!?」
まどかが、茫然と、壊れていく教室を眺めていると、誰かに手をそっと握られた。
すると、教室に吹き荒れる強風はやがておさまった。
「ほむら…ちゃん?」
まどかの姿が、純白のドレスから制服に戻った。
髪の毛にはきちんと赤いリボンが結ばれたままだった。
「どうしたの?まどか」
ほむらは優しく微笑み、まどかに顔をちかづける。「怖いことでもあった?」
「…その…わたしは……」
まどかは、ほぼ半壊状態となってしまった教室を見回した。
散乱したノートとかばん。吹き飛んだ生徒たちの教科書と筆記用具。ぜんぶ、すべて、散りばめられて、
ひっちゃかめっちゃかだ。
「なんなんだよおまえ!」
鹿目まどか無視派の女子生徒のリーダー格が、大声を出した。
「あんた怖いよ!教室を元に戻してよ!アタシらに何をしたの?」
他のクラスの生徒たちもぞろぞろ集まってきた。
一瞬にして教室が爆発的に壊されたのだから、注目が集まるのも無理もない。じろじろと、廊下から寄って来て、
ガラス越しに、まどかの教室を野次馬している。
というより、職員室まで報告をした生徒もいて、先生が何事だと叫びながら廊下を走って駆けつけている。
「わたし、は……」
まどかは、教室じゅうの吹き飛ばされた黒板けしや、クリーナー、落っこちた電灯など悲惨な状態の教室を見渡し、
自分の力に恐怖した。
「…いやあっ!」
鹿目まどかは、逃げ出すように、教室を飛び出した。駆け足で。
「逃げた!」
女子生徒が叫んだ。
「先生に報告して!」
そんな声が飛び交う中、まどかは懸命に走って逃げ出し、廊下を走り、校舎と校舎の渡り廊下に進み、
自分の手を見つめて、泣いた。
「わたしは誰なの!」
自分は何者か、と問うまどか。声は、上ずっていて、泣いていた。
「どうしてこんな……!こんな変なことが……私の身に……!」
父の台詞が脳裏に蘇ってくる。
まどかは、小さな頃から、魔法が使える女の子が好きだったね。
まさか。
わたしには、魔法の力が備わったとでもいうの?
そんなの、絶対おかしい。
学校から逃げ出したまどかの背中を、追いかける女子生徒の姿があった。
暁美ほむらだ。
教室ではもう大騒ぎ。鹿目まどかが、魔法のように強風を沸き起して、教室をメチャメチャにした。
ものの10秒で、教室は授業不可能な閉鎖状態になった。
落ちた電灯は、まだバチバチと火花を放っている。
美樹さやかが遅れて教室にきた。
「おっはよー!いやあ…昨晩は夜更かししちゃって……遅刻?間に合ったかなってえ、なんじゃこれ!」
教室の惨状を目の当たりにして愕然とした。顎が落ちた。
「美樹さん!」
女子生徒の裕香が、叫んだ。「あいつよ!帰国子女!鹿目がやったの!」
「ええ?まどかが…?」
あらためて教室をじっくり観察する。
壊れた机。吹っ飛んだ教室じゅうの生徒たちのかばんと、教科書と、ノート。筆記用具の数々。ぜんぶ、散乱。
台風でも通り過ぎたかのような惨状だ。
電灯は落ち、火を放っている。
「いま、暁美さんが追いかけていった!先生たち、警察に連絡するって!」
裕香が現状説明をしてくれる。
「まどかにほむら…かあ…」
うーんと腕を組んで考え込む。
「んまあ……考えてみたら神様と悪魔が一緒になってるクラスだし……いつかこうなる運命にある教室だったのかな…」
しかし、教室のみだけでならまだいい。
これを地球という世界を舞台にしてやられたら、ひとたまりもない。
そう思うさやかだった。
59
鹿目まどかは学校を出て、制服姿で、校庭をはしっていた。
手ぶらで。
一限目のチャイムがなる。
だが、おかまいなしに校門を出て、道路へでる。見滝原の街へ脱出。
「わたしは……変なんだ……!」
まどかは叫ぶ。
自分の奥底に備わった力に、怯える。「みんなに迷惑かけちゃう……!」
もう学校にいけない。
教室をこわしてしまった。そんなつもりもないのに。
「まどか!」
誰かが追いかけてくる。
しかしまどかは逃げた。「こないで!」
涙を零しながら叫ぶ。「私にかまわないで!自分でも分からないの!だから、なにきかれたって、
わからない!この力がどこからくるのか、どうして私だけにこんな力があるかなんて、わからない!」
「まどか!」
しかし、悪魔の足ははやく、まどかの腕をとらえた。
手首をつかみ、そして、引っ張り、無理やりまどかを、ほむらの側にむけさせた。
「いやあっ!」
嫌がって叫ぶまどかの体を。
ほむらは、強引に抱きしめた。
「……っえ?」
ほむらに、ぎゅっと抱きしめられたまどかは、呆然とした。体が硬直する。
「私が守る!あなたを守る!」
気づいたら、悪魔の目にも、涙がこぼれていた。
「ごめんね……あなたを不安定にしてしまって。だけど、わたしが守る。あなたといつか、約束したように……。
何があっても守るから……!」
「約束…?」
まどかにはその記憶が消えていた。というより、その記憶があったら、もうまどかは人間ではなくなる。
「そう、約束よ。あなたと交わした約束…忘れられない約束…」
ほむらの手が、まどかの背中を撫で、大切そうに抱え込む。しっかりと。
「あなたを守るって約束…」
愛する人を胸に抱くほむらの熱い鼻の吐息が、まどかの首筋にかかる。
まどかは、ぞっとなってしまった。何か、怖い悪寒がこみあげてきたのだ。
「さ…さわらないで!」
そして、まどかはほむらを突き放した。
どっと、胸を押される。
突き飛ばされたほむらは、ひどく狼狽したというか、傷心した顔をみせた。
「あっ……ごめん…」
ひどい拒絶に、罪悪感を感じたまどかは、謝った。
「ごめんね……ちょっと…怖かった…から…」
怖かった。
悪魔は、まどかの言葉に、心の傷を深めた。ダークオーブに絶望がみるみる深まっていく感覚がする。
絶望が深くなる。
目の前には、ほむらを拒絶するまどかがいる。
「ほむらちゃん……私ね……もう普通の女の子じゃないの…」
まどかは、悩みを打ち明けはじめた。
校庭で俯いて、そっと語る。
「なんでかな…?きっと魔法か何かで世界に降り立ったかのような、私の存在…。私、学校に通うのやめる…。
みんなに迷惑かけちゃう。つらいだけなの…。学校にいっても。自分が何者か、分かったら、戻ってくるね。
それまでは、さようなら…」
といって、とぼとぼ、ほむらに背をむけて歩き去り始めた。
まどかの、赤いリボンを結んだ後ろ姿が、ほむらから、離れてゆく。
手が届かなくなってゆく。
「まど……か…!」
ほむらは、何がなんでもまどかを追いかけなければならない、と心では理解していた。
けれど、魂がそれを恐れていた。
また追いかけたら、まどかに嫌われる気がする、怖がられる気がする、拒絶される気がしてしまう…。
ちょっとそれを考えただけで、まどかを追いかけることができなくなる。
なんて弱いわたし。
悪魔は泣いた。
地面に膝を崩して、地べたに座り、泣いた。
心の絶望が深まる。
この世界は、悪魔の庭だが、世界は何もかも悪魔の思惑通りに創られたのに、世界で一つだけ、
思い通りにならない存在がある。
それが、鹿目まどかだった。
悪魔の心に絶望が深くなる。
深淵まで堕ち込んだ魔力が、絶望を吸収して、より強くなりはじめる。悪の方向に。
どうしてまどかが思い通りにならないのか。
どうして、私の愛が通じないのか。
まどかが、私を怖がることが、許せない。嫉妬?いや、ちがう。これは、まどかへの憎しみだ。
私を拒むまどかへの怒りだ。
私の思い通りにならないまどかへの恨みだ…!
こんな感情は生まれて初めてだった。悪魔になったから、心にこんな感情が渦巻くのか。
愛憎とはよくいったもので、愛とは憎しみであり、憎しみは愛でもある。
愛すれば愛するほど、まどかが憎い。可愛さあまって憎さ100倍。憎いほど、まどかがさらに愛しくなる。
心は張り裂けそうだ。
「あああ…!」
悪魔は、まどかに拒絶された悲しみを、校庭で叫び、すると校庭の空が変色をはじめた。
悪魔に創造された世界は、悪魔の感情エネルギーにしたがって、様相を変化させる。
空の色は、美しい神の創造である青色から、禍々しい赤紫色にかわった。
両手をふりあげる悪魔。
叫ぶ悪魔。
地面はヒビ割れ、地震が起こり、ギザギサの亀裂が走った。
それは見滝原中学を遅い、学校はバラバラに崩壊をはじめた。
教室の中では、大地震の起こった校内で、生徒たちが机の席で揺さぶられ、驚き慌てる。
「机の下に隠れろ!」
先生が叫ぶ。
ひどい地震だ。
ガラス張りの教室は、砕け、ガラスの破片は廊下と教室に飛び散る。
「きゃああああ」
女子生徒が叫んだ。バリン!さらに教室のガラス壁が崩壊した。
巴マミは、その頃教室にいた。
生徒たちと一緒なって、机の下に避難する。
天井のコンクリートにヒビが入り、断片が落ちてきた。
机にふりかかる断片。
「避難経路を確保しろ!」
先生たちが声をかけあっている。
しかし、あまりの大地震なので、避難経路へ走り始めた先生が体をゆさぶられて、廊下でずっこける。
電灯は教室の床におち、火を放ち、教室内で燃えはじめた。
ギリリリリリリリリ。
激しい、火災報知器の音がなる。
生徒たちは混乱に陥り、もう机の中に隠れなくなって、それぞれの方向に脱出をはじめた。
床はヒビわれ、二階だてと、三階だての生徒たちは皆落ちた。
きゃあああああっ。
悲鳴。
落っこちていく生徒たちは、砂塵と煙の中に消える。
いっぽう、一階の生徒たちは、落ちてきた天上に潰され、みな、下敷きになった。
学校は全体が倒壊をはじめたのだ。
「全員、外に非難しなさい!」
教員が生徒に指示だす。
生徒たちは命からがけら逃げ始めた。
地震のおさまらない廊下を走り、ヒビわれる床の亀裂を飛び越えて、階段をくだる。
まさに、命がけの脱出だった。
昇降口へむかい、誰もが我先にと、校庭へ避難する。
巴マミもそのうちの一人だった。
「はあ……はあ」
大地震のなか、見滝原中学を脱出する。
そして、外の世界にひろがっている光景を目の当たりにして、絶句した。
世界は別次元のような、終末の光景と化していた。
まるで悪魔が暴走をはじめたかのような世界で、街じゅうの建物が倒壊し、廃墟の世界が広がっていた。
校庭も道路もヒビわれていて、破壊されていない地面はどこもなかった。瓦礫の野原だった。
空は紫の色が覆い、血の色のような雲が浮かんでいた。
ヒビだらけとなった校庭に、ぽつんと一人の少女の姿があった。
その少女の服装は黒くて、露出が高くて、カラスのような黒い羽根が生えていた。
「あっ……」
一瞬にして世界を滅ぼした少女の暴走を見た巴マミは、叫んだ。「悪魔……!」
悪魔、と呼ばれた黒い羽根のついた少女が、マミのほうにふりむいた。ゆっくりと。
悪魔は立ち尽くして、悲しさの涙をこぼしていた。涙は血だった。血が涙となって、目から零れて、
頬を伝っていた。
悪魔は悲しんでいた。
愛人に拒絶される悲しみを、世界に訴えていた。
60
学校は閉鎖されたので、生徒たちは皆、校庭で待機、避難という形になった。
倒壊したビルからも、同じように、避難した人々が、校庭に集まってくる。
体育館が公開され、避難所としてブルーシートと、ペットボトルの水と、非常食の物資調達の連絡がはじめられている。
巴マミは、この事態を理解していた。
ここは悪魔の創った架空世界のような宇宙だ。悪魔が傷つけば、世界が傷つく。
いったい、悪魔はいま、何に傷ついているのか。何を悪魔を傷つけているのか。
何に、あの血の涙を流したのか。
巴マミは、空が紫色に染め上げられ、血のように雲が赤い世界を、終末の始まりだと理解した。
大空から血の雨が降り注ぐ。火とともに。
予見されていた世界の終わりの通りではないか。
神と悪魔の戦いが始まる。
円環の理とその叛逆者。
その壮大すぎる戦いを見届けられる人間はいない。誰一人いないだろう。弱い人など、誰も生き残らない。
魔法少女だけが神と悪魔の戦いを見届けることができる。もちろん、悪魔を倒す兵として。
巴マミは、恐ろしい未来をそう予感していた。
だがしかし、あの悪魔さえ倒せれば、なぎさも元通りになる気がしたし、あの日常が戻る気がしていた。
悪魔はいうだろう。
巴マミ、愚かな人、と!
なんにせよ、戦いのときは近い。
マミは、なぎさを助け起すため、というより、ソウルジェムを失った体を守るため、自宅へと急ぐ。
避難命令のうるさいサイレンを無視して。
61
佐倉杏子は隣町の風見野の、父の廃墟だった教会に立っていた。
だが、そのとき猛烈な地震が襲い、大地は揺れ動き、世界は嘆きの声をあげ、
うなりと共に全ての陸の建造物を倒壊させた。
教会の建物も例外でなかった。
地震が起こると、教会の地面は、教壇からヒビが割れ、真っ二つに左右に裂けた。
古びた礼拝席はすべて砕け、ステンドグラスは粉々に砕けた。
父がよく立っていた教壇はヒビわれた裂け目に落ちた。
本部から破門された胡散臭い新興宗教の教会は、果てた。
「悪魔……の顕れ…?」
杏子は、思い出のある教会の倒壊に、嘆く気持ちに襲われながら、そっと呟いた。
あまりにも突発すぎる。
目の色に恐れが湛えられている。こんな力、魔法少女が持てるはずがない。悪魔のパワーは、邪悪で、
しかも、破壊的だ。
「とにかく……見滝原にむかおう!」
杏子は教会から一歩外に出た。
恐るべき光景が目に入った。
世界は廃墟と化しているではないか!
倒壊したのは杏子の教会だけでなかった。住宅地、工業地、ビル街に公共施設、すべてが今や灰だ。
大空襲の跡のように、焼け野原がひらけている。
だが、こんなことはほんの始まりでしかない。
この先もっと、破滅的なことが起こる。神と悪魔の戦いが起こるとき、それが予見されているのだから!
世界の果ての果て、終末の黙示録、神の子が再臨する。
「こいつはとんでもねえぞ……」
悪魔を野放しにしていた杏子は自分を呪った。
仮に、破門されていたとしても、自分は教会の娘だったではないか!
どうして悪魔ときいて、戦おうともしなかったのか?
魔法少女に都合のいい世界だから?
時間のまっている庭が、世捨て人にとって?
バカな!
魔法少女だって、人々の支える社会があって初めて生活ができていたのだ。悪魔はそれを無視した。
それにしても、親父の教会を破壊するとは!
「あたし、決めた。悪魔をぶっ殺す」
さやかの言う通りだ。アタシともあろうものが、呑気になっていた。
杏子は魔法少女に変身し、焼け野原の風見野を飛びまわった。
下では、避難をはじめた住民の人々が、道路に列をつくり、避難所へむかっている。
62
巴マミは自宅に戻った。
世界は廃墟と瓦礫の山と化していたが、耐震マンションは無事であった。
見滝原は、いつしかヴァルプルギスの夜が暴れまわったかのような、文明をひっくり返されたかのような、
灰の世界に変貌していた。
マミは、エレベーターが機能停止して電源が落とされていたので、階段から自宅のルームへ向かう。
鍵を入れ、カチっとドアの施錠を解除し、部屋に入る。
マミの自室は、何もかもが散乱としていた。リビングでは、皿と本棚の本、紅茶セット、花瓶、
鏡台のヘアアイロンやケープ、ソックタッチ、ヘアピンなどすべて床に散らばっていた。
キッチンも同様で、食器と洗剤、包丁にまな板、鍋類が、すべて落っこちていた。
マミは、日常世界の終焉を理解しながら、寝室の部屋に入った。
「なぎさちゃん!」
いつか目を覚ましてくれるはずの友達。
一緒にいてくれた友達。
悪魔さえ倒して、神の子が再臨すれば、なぎさは息を吹き返してくれるはず。
それまでの辛抱だ。それまでは、待たなくては。
なぎさの体は無事だった。
寝室もひどい有り様になっていたが、なぎさだけは、布団の中で、すやすやと……眠りつづけていた。
「よかったわ…なぎさちゃん…」
マミは、眠るなぎさの肩に手をそっとふれて、顔をマミのほうにむけた。
それが間違いだった。
「…きゃああ!」
マミは恐怖の声をあげてしまった。
なぎさの死体が、ごろんと首をまげてマミに顔むけたとき、顔の肌は崩れていた。
血が止まってから、はや一日、免疫機能を失い、腐乱がはじまっていた。
つまり、巴マミは百江なぎさの死体の鮮度を保つことをすっかり忘れていた。
マミはなぎさの肩から手を放し、飛び退く。腐り始めた死体から距離をとる。
マミのソウルジェムは、黒ずみを増し、この瞬間に大幅に穢れた。
「私も円環の理に導かれたら……こうなるってこと…!?」
なぎさの腐乱死体を見ながら、マミは震えた。恐怖に震えた。
そのとき、床に散らばった本の、あるページがマミの目に入った。
後ろへさがっていくうち、その本を踏んづけてしまったからだ。
それは、はらぺこあおむし。なぎさに読んであげた本だった。
はらぺこあおむしは、何もかも喰らい尽くそうと、町を這ってまわる青虫のはなし。
得にお菓子を好んで喰らいつくす。ケーキ、アイスクリーム、キャンディー、クッキー、チョコレート。
そのお菓子の絵柄の数々は、マミに、昨日死にかけたお菓子の魔女の結界の光景を思い起こさせた。
と同時に、なぎさの最後の言葉すら、脳裏に蘇ってきた。
”なきさは……マミを食べちゃうのです!”
「きゃああああっ」
お菓子の魔女の正体に気づいたとき、マミは、なぎさの腐乱死体が眠る寝室から逃げ出し、
マンションの外へ飛び出した。命からがらに。何に襲われているわけでもないのに、人生で一番こわい想いをした。
途端に、倒壊した町々の景色が目に飛び込む。心に絶望がひろがりだす。
「なぎさちゃんは……私を食べようとしていたの!?」
支離滅裂な台詞が口にでる。平静さは、今やマミの心にない。
わたしの家をお菓子の家にして、むさぼっていたというのか。しまいにはわたしも食べようとしていたか。
その本心が、魔女になったとき、露になったのか。
冷静を失った頭のなかで異常な発想がぐるぐる廻っていく。
「わたしもいつかああなるの……!?」
脈が早くなり、どくどくと、鼓動が鳴り、心臓は本能的な危機をマミに知らせていた。
そして、マミは、この危機を脱するため、”魔法少女として生き残る”ため、ある人を探し出そうと決意した。
なんとしてでもあの人を見つけ出し、救ってもらおうと決意した。
「探さなくちゃ……円環の理……」
なりたくない。あんなふうになりたくない。魔女になりたくない!
魔法少女が、そんな危険な存在になってはいけない。そんな世界は、正されるべきだ。
それを救ってくれる存在は、世界でたった一人しかいない。幸い、その人とは同じ中学校に通っている。
「探さなくちゃ……鹿目まどかさん!」
マミの目に、生き残りをかけた血の色がこもった。
63
鹿目まどかは、地震が起こって、町が倒壊したのち、命からがら、自宅に戻る。
耐震住宅は、町の他の家々とちがって、倒壊をまぬがれていた。
つまり、隣の住宅が崩れているなか、まどかの宅だけぽつんと、生き残って建っていた。
自宅に帰り、玄関を鍵差し込んで入ると、家の中はめちゃくちゃになっていた。
ゴミ屋敷のように乱雑だ。
鏡台や靴箱、花瓶、水槽、何もかもが床に散らばった。
「…パパ!」
まどかは、制服姿のまま家にあがり、リビングへ急いだ。ひっちゃかめっちゃかになったリビングが目に入ってきた。
「まどかかい?」
知久が、額に止血圧迫綿ガーゼを応急処置に巻きつけた状態で、娘を迎えた。
「パパ…!大丈夫…?」
父の、額に巻いた綿が、赤色に染まっているのを見て、まどかは怯えた顔をみせた。
不安と心配の瞳が父をみる。
「ああ…まどか…平気だよ。強くゆれたとき、ちょっと頭をぶつけてしまって…」
父は、娘を安心させようと笑う。
「それにしてもウチがめちゃくちゃだ……いや、そんなこといってる場合じゃないね。まどか、
ママの安全を確かめなきゃ。パパはママの会社に電話を入れたけど、通じない。携帯電話も全くつうじない。
回線が落ちているんだと思う。だからまどか、パパは、ママの会社に直接車でいく。まどか、一緒に来るかい?」
まどかは答えた。
「うん…」
なんだか、まどかは、悲惨になった町と、自宅の光景をみながら、罪悪感と恐怖が湧き出ていた。
今朝のことを思い出したのだ。
消えちまえ、とクラスメートにいわれたとき、怒りがこみあげてきて、まどかは何かを叫んだ。
激情が高まったとき、教室がゆれ、すべてがメチャメチャになった。
生徒たちは、お前はなんなんだ、と叫んだ。
「…わたし?」
鹿目まどかは自分を恐れる。
自分の中に眠る力を恐れる。
目覚めを待つその力を、恐怖で、押さえ込む。
「…わたしがしたことなの?」
この突発的な地震は、自分がしたことなの?
そんな想いに駆られたとき、まどかは目に涙が込み上げてきた。なぜ自分が?なぜ私が?
こんな力を持っているのだろう?
私が世界を破滅させてしまった?
その予感は、ある意味、ただしかったといえる。
鹿目まどかほど世界を滅亡させてきた少女はいない。何度もクリームヒルト・グレートヒェンとなって、
70億人の命をうばってきた。
その記憶の片鱗が、今の、神の子としての鹿目まどかに、蘇りつつあるのか。
「まどか。パパは荷物を車にまとめる。まどかも手伝って欲しい。倉庫の非常食とラジオ、
懐中電灯を持って来てくれるかい」
父の声によってまどかは我に戻った。「うん」と一声、小さく答える。
「よし。パパは車にまとめる工具をまとめるから、屋根裏部屋にいるからね」
といって、知久は二階へあがり、屋根裏へむかう。
まどかは呆然と立っていた。
たぶん、世界が滅亡にむかっているのも、地震によって多くの人の命が奪われたのも、
自分のせいだという理解があった。
でも、どうしてかは分からない。ただの人間が、どうして世界を滅ぼすことができるのか?
「…」
まどかは、ふとそのとき、リビングテーブルの上で音をたてはじめた、知久の携帯電話に目がとまった。
メールを着信していて、三回ほど、振動している。
ふらふらと、吸い寄せられるように、まどかは、今まで手のふれたことのない、父の携帯を手にとった。
ピ。
着信ボタンを押す。父の知久が受信したメールの内容に目を通す。
みるみるうちに、まどかの目が、恐怖に見開かれていった。
ピンク色の瞳が暗くなってゆき、やっぱりそうだったんだ、というような、諦念の色も浮かんできた。
メールにはこうかかれていた。
Frm:詢子
Sb:件名なし
やっぱりか。
私もまどかの誕生日が思い出せなくて。
いつ、まどかが生まれた?というより、
いつからまどかはウチの子だったんだ?
わたしには、まどかを生んだ記憶がない。
タツヤを生んだ記憶はあるというのに。
わたしの娘ってことは、分かるんだ。
でも、何か変なんだ。戸籍情報も見つ
からなくて当然だ。今度、血液型…
「もう、いい…」
まどかはメールを読むのを途中でやめた。
ピ。
携帯電話が冷たい電子音をならした。電灯の消えたリビングで、まどかは立ち尽くした。
「私はこの世にいちゃいけない子なんだ…」
暗い顔を落とし、床を見つめながら、静かにまどかは自室に戻る。
壊れたドアを通り、ぬいぐるみが散乱した子供部屋から、荷物をまとめはじめた。
財布と、自分の携帯電話、充電器、時計、懐中電灯、地図帳、着替えと下着、タオル。それからお菓子の数々。
遠足用のリュックを取り出して、冷蔵庫からペットボトルの水を数本とりだし、リュックサックにいれてまとめた。
チェック柄のかわいい女の子のリュックサックだ。
そして、父にも母にも内緒で、二度と家族に会わないことを心に誓った。
「さようなら……パパ。ママ。タツヤ…」
別れを告げて、玄関に出て、鹿目宅をあとにした。
灰塵と化した野原を、とぼとぼ、歩き始めた。あてもなく。家出して。
64
鹿目まどかは、灰色の暗い空が覆う見滝原の焼け跡を歩き、自然とその足取りは、
不思議と川辺へむかっていた。
川辺沿いの公園に進み、破壊されて廃れた噴水の、溢れ出して水びたしになった公園の石畳の地面を、
びちゃびちゃと踏みしめて、ヘンチに腰掛けた。
水は汚い。噴水の水など、汚れている。
ベンチにちょこんと腰掛けて、終末にむかいつつある厚い黒雲を首をあげて眺めた。
空は、暗雲が驚くべき速さで風に運ばれてゆき、強風は次第に強くなる。まどかのピンク色の髪をゆらした。
びゅうびゅうと。風はやまずにふきつける。赤いリボンもゆれた。
「お願いだから……」
まどかは、暗雲を瞳に映しながら、冷たい涙の粒を浮かべて、天に願った。
「お願いだから、これ以上、悲しいことにならないでください……」
しかしこの願いは裏切られれる。
そもそも、宇宙を、いちばん最初に変にしたのは、鹿目まどか本人であったのだから。
65
巴マミは余裕をなくしていた。
ソウルジェムの秘密に気づいたのだ。百江なぎさに喰われかけたことで。
探さなければならない。円環の理を。そして、彼女に、自分の役目を思いだしてもらわないといけない!
ソウルジェムは、黒い。染まっている。穢れに。
残された希望の光は、わずか。
魂に残された猶予は少ない。時限爆弾つきの魂は、起動スイッチが入ってから久しい。
マミは携帯電話を取り出し、円環の理を探すべく、友人に電話をかける。
おそらく鹿目まどかの友人らしい美樹さやかに。
「お願いだからつながって…!」
マミは、必死だった。
”おかけになった電話番号は────”
しかし、電話は繋がらない。
世界中がパニックだ。見滝原じゅうに住民が、回線を使って、ショートさせている。
「…テレパシーで通じなくちゃ」
もし、ソウルジェムの煌きが失われたら。
考えただけでぞっとする。しかも、それはカウントダウン式だ。心の持ちようによって、カウントダウンは早まってしまう。
なんて恐ろしい!
呪われた存在だ。魔法少女は!
神が、不在である限りは!
”美樹さん!美樹さん!きこえる?”
マミはテレパシーを通じた。黒雲の支配する見滝原を眺め、焼け野原のどこかに避難しているであろう、
美樹さやかに話かける。
”あっ!マミさん。無事だったんですね…!こっちはもう大変です。悪魔が地団駄ふんじゃって…大荒れです”
”鹿目さんは!”
マミは、さやかの会話がさして頭に入ってこない。
”鹿目さんもそこにいるの!”
”えっ…まどかですか?”
気圧されたさやかの声がする。
まどかをきょろきょろと探すかのような間があった。
”いないですね…まどか、あたしが登校したときからいなかったんです”
”…!どこにいるか見当つかない?”
マミの必死さが、さやかの心に伝わり始めた。
”マミさん、何かあったんです?……悪魔が本領発揮してきましたね。たしかに。
まどかがあたしらに残された最後の切り札……でも、見つからないんです。あたしも心配です”
”…そう。わかったわ…”
マミは、さやかとの連絡を絶った。
悠長な会話などしていられない。
たぶん、美樹さやかはまだ、事の重大さに気づいていないのだ。
説明は、あとにしよう。
………いや。
説明、しないほうがいいんじゃないかしら?
そんな考えが、頭によぎった。
これからは魔法少女が魔女化する仕組みになる。ということは、魔法少女が生き長らえるためには、
魔法少女のうち誰かが魔女になって、魔法少女に倒されるグリーフシードとならないといけない。
それなら、むしろ今は、このことは秘密にしておいて、美樹さやかたちがうっかり魔女に化けることを待ったほうが、
長生きできるんじゃないかしら?
「…やだ!私ったら…」
マミは、頭に浮かんだ邪悪な考えを振りほどく。
「なんてこと考えてるの……」
私はなんてことを考えてしまったのだろう。これは裏切りだ。
じわり……。
心に黒い感情が渦巻いたとき、ソウルジェムが反応した。魂は呪いに染まった。
「やめて…!」
マミは喘ぐ。「黒くならないで…!」
思えば思うほど、心が押しつぶされそうになり、ますます穢れに染まっていく気がした。
「キュゥべえ……びといわ!私たちを、こんなふうにしてしまうなんて……!」
マミは嘆いた。
魔法少女に課せられた使命の本質を知って、嘆いた。
ところで、マミはふと、あることに気づいた。
「キュゥべえ……どこ?」
66
巴マミは、地割れに傾いたマンションから道路に降りて、全壊の町をふらふらと歩いていた。
まさに終末の光景。ハルマゲドンだ。
行く先行く先は、すべてコンクリートの瓦礫。鉄筋のはみ出た瓦礫の山。
灰色の大地。
空まで灰色で、曇り空が覆う。赤色の空は、夕日というより、もはや血の雨を連想させる。
神と悪魔の最終戦争の舞台となるにふさわしい。
「どこ……どこなの?神の子はどこ…?」
もう、再臨したっていいはずだ。神の子はもう、日常生活を送る女子中学生の仮面を捨てて、
神様になって悪魔と戦うべきだ。
どうか、円環の理さま、私たち魔法少女を、希望と絶望の残酷なサイクルから救ってください。
私たちのソウルジェムが、のろいを生み出す前に、消し去る円環の理に、戻ってください。
こんな世界にしてしまった悪魔を、倒して、元の世界を取り戻してください。
しかし、どこを探しても神の子は見つからない。
先日に、屋上で挨拶を交わした、あのピンク色の髪の少女の姿が、どうしても見つからない。
どこを見渡したって、瓦礫しかない。コンクリートの砕けた断片の山しかない。
そこに下敷きとなる人々の死体が折り重なる。
神と悪魔の最終戦争を生き延びる人間はいないだろう。だが、神が勝利さえすれば、人は復活する。
巴マミにはみえる。未来が思い描ける。
神の矢と悪魔の矢が天界にて撃ち合う。それはとてつもない激戦だ。
神の矢と、悪魔の矢が一本ずつ、放たれるたび、町は灰となる。見滝原が灰となったように。
やがてそれはユーラシア大陸を灰に変える。アメリカ大陸を灰に変える。
アフリカ大陸を灰に変える。
地球を灰に変える。
だが、まだ悪魔と神の戦いは終わらない。宇宙改変の力を持つ者同士の最終戦争は、舞台を宇宙に変える。
矢が放たれるたび、惑星がひとつ、消える。太陽系から消える。
そして、矢の撃ち合いはつづき、一本の矢が放たれるたびに銀河系が消える。無数の銀河系のうち、
ほとんどが消え去って、宇宙の終末がくる。
宇宙は火の玉となる。
神が最後には打ち勝つ。人は蘇る。新しい世界となる。
なんて想像をして、ふらふらと廃墟の道を歩いていたら、マミの正面に誰かが走ってきた。
「マミ!おい、どうした?ここで何やってるんだ?」
佐倉杏子だった。
灰と化した見滝原の見晴らしのよい焼け野原を、杏子は渡ってきた。
「佐倉さん…」
マミの目の色は黒かった。
「神の子はどこ……?」
「神の子だ…?」
マミの腕をつかんだ杏子が、顔をしかめた。
「あの鹿目まどかって見滝原中のやつか?マミ、あんたまさか…!」
神の子を再臨させるつもりなのか。
と問いかけたとき、マミは涙を流しはじめた。
「わたし……もう何もかもがイヤなの!」
がくがくと膝がふるえ、終末の世界の地面に、へたれ込む。
手を地面について。下を俯く。
「私を食べかけたなぎさちゃんのことも……!魔法少女のことも魔獣のことも何もかもが全部…!もうイヤなの!」
泣き崩れるマミの肩を、杏子がもつ。何を泣き出すのか、と心配そうな顔して。
「マミを食べかけた?」
杏子は問う。
「なぎさに何かあったのか?」
「佐倉さん、私ね、最悪な女なの…」
マミが顔をあげた。黒い目から黒い涙がこぼれた。頬を流れた。
「みんなに内緒にしようとしてた……自分だけ生き残るために……」
「内緒?マミ、落ち着いて話してくれないと、わからないぞ!」
マミを杏子は懸命に励ます。マミの命の綱を握り締めようとする。今にも落ちそうな綱を。
「きっと私が魔女になったら佐倉さん……私を殺すでしょ……?だってそれが魔法少女だものね……」
絶望したマミが杏子に告げる。
「わたし、最後になって分かった。私は最後まで、自分のことしか考えない女だった……なぎさちゃんを家に入れたのも、
みんなと一緒に魔獣を退治しようって呼びかけたのも……全部自分の寂しさをまぎらわすため……いいのよ。佐倉さん。
こんな女が、魔女になったら、殺しちゃって、佐倉さんが生き延びるためのグリーフシードにすればいいの」
「マミ…あんた何を…!?」
魔女という単語が出たとき、杏子は目を見開いた。動揺に心が乱れている。
父にいわれたのだ。かつて。
おまえは、人の心を惑わす魔女だ、と。
マミは、なにを言い出すんだ。わたしたち魔法少女の敵は、魔獣じゃないか。
「ごめんね……佐倉さん」
マミの体から瘴気が噴出した。かすれた声が、涙ぐむ喉からしぼりだされた。
「魔女になった私が……あなたを襲ったら……ごめんなさい…!」
マミは事切れた。
パリンッという鋭い音がして、ソウルジェムの亀裂から、黒煙がもくもく飛び出した。
「マミ!!」
杏子が、かつての師匠の名を叫ぶ。
だが、遅きに失していた。
地割れが起こり、マミの立つ地面のあらゆるところが割れた。地響きがなって、結界が形成されはじめた。
何もかもを吹き飛ばすかのような強烈な風だ。瓦礫が舞い飛び、杏子の頬や額に、破片がささって、
血の筋がたれた。
「うわ!」
杏子はついに飛ばされる。
マミの魂が爆発したあとは、硝煙のように邪悪なもくもくとした霧が、たちこめていて、結界を広げていた。
「こりゃあ……なんだ!マミ、しっかりしろ!」
叫ぶが、声はとどかない。かわりに、瓦礫の破片がばしばし、杏子の顔にとんでくる。
杏子の顔につく血の筋が増える。
「魔女になったら私が襲ったらごめんって……どういう意味だよ!」
魔法少女が、魔女に変貌するとでもいうのか。
だったら、今まで戦ってきた魔獣という敵はなんんだ?円環の理に導かれるって話はなんなんだ?
その答えを知りたければ。
マミの結界に入るしかない。
「くそう……マミ、今、助けにいくからな!もう少しだけ、待ってろ!」
魔法少女に変身した杏子は、おめかしの魔女の結界に飛び込む。
槍を構えて魔女との戦いに挑む。
悪魔との決戦はそのあとだ。
【後編】に続きます。