【前編】の続きです。
◇
昼休みには、感覚は平常通りに戻っていた。
屋上の空気は冷たい。
さすがに昼前には霧ではなくなっていたけれど、細かな雨はまだ降り続いていた。音のない雨。
霧というのは最悪だ。いつのまにか忍び寄って、小さな虫みたいにひそやかに身体に入り込む。
気付きもしないうちに、人を内側から底冷えさせていく。そこに躊躇はないし、礫ほどの愛情もない。
そして、誰もが忘れた頃に、鈍い痛みを連れてくる。
だから霧雨は嫌いだった。
それなのに、そんな日は無性に外の様子が気になってしまう。
どれだけ細かかろうと、雨の下に出れば濡れてしまうのは当たり前だ。
浮かび上がるような粒には、傘だって無意味だろう。こんな日に外に出る奴なんて馬鹿だ。
フェンスの近くまで歩く。靴の裏の濡れた感触が気持ち悪い。
それでも彼女はそこにいた。
「珍しいね。昼に来るなんて」
彼女は意外そうな顔をした。
「……そっちは、雨の日だろうとお構いなし?」
「今日はたまたま、そういう気分だったから」
「物好きだね」
雨の感触が不快だった。彼女の様子はいつもとまるで変わらない。
当たり前だ。天気なんてささやかな変化だ。いつだって少しずつ違う。
そんなものに影響を受けるなんて馬鹿げてる。
「何かあった?」
彼女は、いつもとは少し違う訊き方をした。
いつもよりずっと、不安そうな訊き方。
「……いや」
俺は一度否定してから、何を言うべきかを考えた。
「妹が熱出して寝込んでるんだよ。うん。だからかな」
「それは、心配だね」
彼女があんまりにも普通のことを言うので、俺も少し戸惑ってしまった。
雨は静かに制服を濡らしていく。十分も立っていたら授業に出られなくなってしまうかもしれない。
でも、そういうことはどうでもいいのだ。そういうのは、ここでは些細なことだ。
屋上というのは俺にとってそういう場所だった。たぶん彼女にとってもそうだろう。
現実から切り離された場所。俺はしばらくそこに蹲っていた。
文章を書き続けることによって、そういう場所に静かに自分の生活を移行させてきた。
けれど現実がひとたび牙を剥けば、そんなものはたちまち無価値になってしまう。
「小説は、やっぱり書かないの?」
そんなことを彼女は言った。どうだろう、と俺は思った。何もかもがよく分からなかった。
「わたしは、良いと思ったよ。去年の」
「……俺の?」
「うん。必死なのに、一生懸命なのに、身動きとれてない感じが。でも前向きでさ。そういうのって、分かる人にしか分かんないけど」
彼女はいつになく饒舌だった。何かを感じ取ったみたいに。
「選民意識とかじゃなくてね、結局、経験とか、境遇によるんだよね。教室とかでもそうでしょ?
Aに位置する奴は自分なりにがんばってて、Bに位置する奴はがんばっても仕方ないからそこそこにしようって思ってる。
Cに位置する奴は、どっちもバカで何も分かってないって思ってる。バラバラなんだよ。方法論も目的意識も違うんだ。
それってね、場合によっては一生そのままなんだよ。噛みあわない。理解し合えない。たぶん、どっちが間違ってるって話じゃないんだ」
彼女はそう言ってしまうと、しくじった、という顔になった。たぶん後悔しているんだろう。
「今年も、ちょっと楽しみにしてたんだよ。きっと、そういう人、他にもいるよ」
彼女はそう言った。それは嬉しかった。そんなことを言ってくれる人は、今まで一人もいなかったから。
でも、今更だったし、それは「彼女」の話であって、「俺」の話ではない。
「もう行くよ」
俺はそう言って、屋上をあとにした。制服に砂のような雨粒がしみていた。
◇
屋上を出たあと、俺は階段の踊り場で携帯を取り出して家に電話を掛けた。
従妹が電話に出たのは六回目のコール音の後だった。
「大丈夫そう?」
「うん。ちょっと寝苦しそうだったけど」
「そっか」
「たぶん、あの調子だったらすぐに良くなるよ」
「それならいいんだけど」
従妹は何か言いたげだった。それが気になって黙り込んでみたのだけれど、彼女は何も言ってくれない。
「それじゃ、早めに帰るから」
「……うん」
そんなふうにして会話は終わった。
◇
放課後、部室に顔を出すと、まだ編入生しかいなかった。
仕方ないので、部活は休むと部長に言伝するように頼んだ。
俺がそのまま帰ろうとすると、編入生は思い出したように声をあげた。
「あの、わたしたちってやっぱり、一緒の中学でしたよね?」
どうして今更そんなことを気にするんだろう。少し煩わしかったけど、俺は振りかえって頷いた。
「それと、お祭りのとき、会いましたよね?」
今度は少し答えに迷う。でも、結局頷いた。嘘をつく理由もなかった。
俺が黙り込むと、彼女は困ったような顔をした。確認してどうするのか、考えていなかったのかもしれない。
「あのときの携帯の持ち主、見つかりました?」
「ああ、うん」
これは本当だ。
「それなら、よかったです」
彼女の表情に、どこかしら含みがあるように感じた。なぜ今更こんな話をするんだ?
なんだか何もかもが面倒になってきた。
「実はね、あれ俺の携帯なんだよ」
「え?」
俺はポケットから携帯を取り出し、彼女に見せた。彼女は怪訝そうな顔になる。
「どうして、そんな……」
「うん。ナンパしようとして声かけたんだ。でも直前で面倒になって」
怖くなった、という言葉を、面倒になった、と言い換えると、いろんなことがごまかせるようになる。
編入生はすごく驚いていた。こっちがちょっと怖くなるくらいだった。
ああ、そうだったんだ、と笑ってくれることを期待したわけでもないけど。
「なんで、その……ナンパ、なんて?」
そんなに驚くことかな。痴漢ってわけでもないだろうに。
そんなふうに思いながらも、なんとなく言いたいことは分かる気がした。
「きみがかわいかったから」
と俺は言ってみた。身の毛もよだつような軽口。よくこんなことが言えたものだ。
「――そうじゃなくて!」
怒鳴るような声。神経質そうだし、気に障ったのかもしれない。
まあ、なによりも、善意の振りをした性欲だったわけだから。
「……すみません、大声出して」
彼女はすぐに気を取り直したのか、あっというまに元の表情に戻った。
まだ少しこわばっていたけれど、それは微笑みの形をしていた。
それから何かに気付いたみたいな顔になる。
「あの、そのときって……」
「一人だったよ」
被せるように言うと、彼女はちょっと気まずそうな顔をした。
「……そうですか」
そこで話が途切れたので、俺は帰ることにした。
「それじゃ」と声を掛けると、「あ、はい」と声が帰ってきた。それだけだった。
◇
部室を出てから(どうして?)と自分に訊ねてみた。
どうしてナンパなんてしたんだっけ?
(怖かったから)、と俺は答えた。
太陽が西の方に移動するのにつれて、街はふたたび白く染まり始めた。
窓の外で、覆うような霧雨が広がっている。
昇降口を目指す途中で、シィタ派が前から歩いてきた。
「あれ、どうしたの」
「いや、帰る」
そういえば、こいつに頼んだ方が早かったな、と今更のように思う。
どうも頭がうまく働かない。
彼はたいして気にするふうでもなく、「そっか」と頷いただけだった。
「それじゃ、また明日」
◇
家に着く頃には四時を過ぎていて、天気は再び霧雨へと戻りつつあった。
夕霧。秋の季語だ、と俺は思った。べつに意味はない。気分が落ち着かないだけだ。
家に帰ると、従妹がヤカンでお湯を沸かしているところだった。
「おかえり」と彼女は言った。
「ただいま」と俺は返した。
「あいつは?」
「さっき計ったときは、熱、七度六分くらいになってたって。でも、どうだろう。しんどそう」
「そっか」
俺は自室に戻って鞄を置いてから、妹の部屋へ向かった。
階段も廊下も、いつもより長く感じた。
部屋の中は薄暗かった。レースカーテン越しの白さが、雲なのか霧なのか、分からない。
妹は眠っているようだった。額に触れて温度を確かめようとすると、ぞわりとした。
まあ、冷えピタの感触がいやだっただけなんだけど。昔からこういう感触が鳥肌が立つくらい苦手だった。
冷たさはもうなくなっている。枕元に箱があったので替えようと思ったら、からっぽだった。
今貼ってあるものを剥がして、手のひらで額に触れてみる。
前髪が汗で張りついていた。触れられたことを知ったら嫌がるだろうなと、そんなことを考える。
熱はまだ下がっていないようだった。
「……お兄ちゃん?」
物音か、手のひらの感触か、どちらが原因かは分からないけど、妹は起きてしまった。
声はいつもより小さかったけれど、弱々しいというほどでもなかった。
「うん。ただいま」
「……おかえり」
「調子は?」
「……うん。朝よりはだいぶましになってきた、と、思う」
「食欲は?」
「あんまり、ないかも。あ、晩ごはん……」
作るとか言い出さないだろうな。そう思ったのが顔に出たのか、妹は言葉を引っ込めた。
さすがに、どうかしてる。こいつも俺も。
「……ごめんね」
「謝るなよ」
「……うん」
「寝てろ。夕飯できたら起こすから」
「……うん」
妹が瞼を閉じるのを見てから、俺は部屋を出ようとした。
けれど、扉を閉める途中に呼ばれた気がして、もう一度部屋を覗きこむ。
妹は上半身を起こしてこちらを見ていた。
「なに?」
「……なんでも、ない」
明らかに、様子は変だった。でも、なんでもないと言っているんだから、それ以上何も言えない。
俺は今度こそ扉を閉めて、自室に戻った。鞄の中から財布を取りだし、リビングに降りる。
従妹はヤカンのお湯をポットに入れているところだった。
「どっか行くの?」
「コンビニ。冷えピタ買ってくる」
「ん。分かった」
家を出ると、霧はいっそう濃さを増していた。
頭がズキズキと痛む。今朝からずっと、断続的に。
俺も風邪をひいてしまったんだろうか。
違うな、と反射的に思った。そうじゃない。大丈夫、ちゃんと分かってる。
妙な動悸が走った。でもそれだけだった。気にすることはない。
視界は、今朝よりは悪くない。人の声はしなかったけれど、だからといって感覚が遠ざかっている気もしなかった。
手のひらを握り込む。痛みが走る。まともだ。
早く用事を済ませて、帰ろう。こんな霧の中をいつまでも歩いていたくはなかった。
少し歩いたところで、後ろから物音が聞こえた。
気にせずに数歩先に進んだところで、とん、と背中に軽い衝撃があった。
「……お兄、ちゃん」
半ばぶつかるように、背中に何かが合わせられ、すぐに離れていった。
振り返ると、息を乱した妹が、俺の服の裾を掴んでいた。
とっさに何も言えなかった。
妹の顔は青ざめていたし、自分でも何が何だか分かっていないような様子だった。
パジャマ姿のまま、サンダルをつっかけて、髪も少し乱れたまま。熱に浮かされたような顔で。
すぐに従妹が後を追ってきた。彼女もまた、何が起こったのか分からないという顔でこっちを見た。
「……寝てろって言っただろ?」
と良い兄貴みたいなことを言ってみると、妹は俯けていた顔をあげて、俺と目を合わせた。
不安そうな表情で、こっちを見上げている。さっきよりずっと、今の方が具合が悪そうだった。
ほんの少しの時間しか経っていないのに。
「すぐに戻るから。な?」
そう言い聞かせようとしたとき、自分の声がすごく嘘っぽく聞こえた。
妹は一瞬、表情をくしゃくしゃに歪めた。泣きそうな顔。錯覚かと思うくらいに、短い間のことだった。
それから、数秒の沈黙が流れて、
「……うん」
と、掠れるような声で妹は呟く。
服の裾から手を離すと、ふらふらと従妹の方へと戻っていった。
従妹は何かを言いたげにしていたけれど、連れ帰るように促すと、結局それに従ってくれた。
ふたりの姿は、すぐに霧で見えなくなった。
◇
買い物を済ませて家に戻ると、リビングには従妹しかいなかった。
彼女は何かを言いたげにしていたけれど、そこには触れずに妹の部屋に向かった。
部屋の中は暗い。
でも、妹が眠っていないことは、なんとなくわかった。
「……おかえり」
という声を、追いかけるような咳の音。
ただいま、と俺は返した。
ベッドの傍らに置かれていた椅子に座ると、妹はこちらを見たまま眠たそうに目を細めた。
さっきよりずっと、気分は落ち着いているようだった。
「食欲は?」
「……お腹は空いてるんだけど、喉が痛くて」
声は掠れていた。
なるべく考えないようにしているのに、どうしても思い出してしまう。
「お粥なら食べられる?」
「……と、思う、けど」
作れるの? と目が言っていた。ひどい話だ。
「そんくらいなら作れる」
と俺は答えたけれど、作ったことはなかった。単に料理本に載っていただけのことだ。
妹は、苦しそうに笑って、咳をした。
「一応、飲み物、新しいの買ってきた」
そう言って枕元にコンビニの袋を置くと、妹はまた笑った。
しばらく、お互いに黙り込む。どうしてこんなことになっているのか、よく分からなかった。
「あのさ」
何かを言わなければならない気がして、口を開く。
何かというより、それはずっと前から言いたかったことだったのだけれど。
「……もっと、わがままとか、文句とか、言っていいんだぞ?」
不思議と、俺の声は震えていた。なんでなのかは自分でもすぐにわかる。
怖かったのだ。
妹はきょとんとした。それから一瞬だけ傷ついたような顔をする。でも最後には、ごまかすみたいに笑った。
「いきなり、どうしたの?」
俺が本当におかしなことを言ったみたいな顔で、妹はそう言った。
そうなると、こっちはもう何も言える気がしなくなった。
「あの、お兄ちゃん」
「……ん?」
「前にね、言ってたでしょ。えっと……」
妹は少し考え込むような顔をした。思ったよりも、真剣な顔だった。
「……何かしているって確信が持てないと、自分がここに居ていいのか分からなくなるって」
「そんなこと、言ったっけ?」
「うん」
言ったとしたら、そのときの俺はたぶん調子づいていたんだろう。
「それってさ……」
妹はそこまで言いかけて、結局言葉を続けるのをやめてしまった。
「夕飯、作ったら持ってくるから」
「……うん」
お互いに何かを言い損ねているんだろう。そんな気がした。
今度部屋を出るときには、呼び止める声は聞こえなかった。
扉を閉めてから、部屋の中に聞こえないように溜め息をつく。柄にもなく妙に緊張していた。
◇
「猫は甘さを感じないって本当なのかな?」
と、夕食時、不意に従妹が口を開いた。
夕飯のメニューは野菜炒めだった。あと白米。味噌汁もあるにはあった。
さすがに、昨日今日料理を始めたばかりの男に何品も作れというのは酷だと思う。
ましてや今日は食材を買いに行く時間もなかった。
「もともと肉食だから、甘味を感じる必要がなかったんじゃないか」
「肉食だと、甘味は感じないの?」
「肉にも甘味はあるだろうけど、それは砂糖の甘さとは違うらしいから、砂糖の甘さは感じないってことだと思う」
「……ふうん」
「まあ、友達が言ってたんだけどさ」
「でもさ。前に猫にカステラあげたんだけど、喜んで食べてたよ」
「いや、実際どうなのかまでは知らない。あんまり野良に余計なもの食わせるなよ」
「あ、うん……」
会話はそこで途切れたけれど、従妹はまだ何か言いたそうにしていた。
元々猫の舌の話なんて話のとっかかりのつもりだったんだろう。
「野菜炒め、どう?」
「……あ、美味しいよ。料理、ちゃんとできるようになってたんだね」
話しかけてみても、返事はとってつけたみたいな響きを孕んでいた。
しばらく黙々と箸をすすめる。従妹はどことなく上の空だった。
それもそんなに長くは続かなくて、やがて覚悟を決めたみたいに顔をあげたかと思うと、
「あの、さっきのことだけど」
そんなふうに切り出した。
「さっきって?」と俺はうそぶいた。
「だから、さっき、ちえこがさ、おにいちゃんを追いかけていったでしょ。あれって……」
さて、と俺は思った。どうしよう? どう答えればいいんだろう。
「どう考えても、様子がおかしかったよね?」
従妹は真剣な顔をしていた。それはそうだろう。本当におかしかったんだから。
でも、だからって的確な答えが用意できるわけではなかった。
妹が何を思ってあんなことをしたのかなんて、俺にだって本当のところは分からない。
想像がつくだけだ。
でも、それは「俺たち」の問題であって、「彼女」の問題じゃない。
かといって、ごまかしがきく雰囲気でもなかった。
「たぶんね、母親がいなくなったときのことを思い出したんだと思う」
「……えっと、おじさんとおばさんは、だいぶ前に離婚したんだよね?」
「そうだよ。俺が小三の頃だったな。出ていったのがちょうど今日みたいな天気の日でさ」
「そう、なの? ……でも」
それにしたってさっきの様子はおかしい、と、彼女は言いかけたのかもしれない。
でも、そんなことは本人になってみなければわからないことだ。
それに、半分は嘘だった。
さすがにそれ以上訊く気にはなれなかったのか、従妹は口を閉ざしてしまった。
◇
食事を終えて様子を見に行くと、空になった食器がベッドの脇の椅子の上に置かれていた。
妹は眠っているようだった。
食器を持って部屋を出るときに、ふと、さっき妹が何かを言いかけていたことを思い出す。
――何かしているって確信が持てないと、自分がここに居ていいのか分からなくなるって。
部屋を出て、キッチンの流し台に食器を置く。わけもなく溜め息が出そうだった。
自分ではもう覚えていないような些細な言葉。取るに足らない軽口。
そういうことをあいつはずっと覚えている。
だから俺は、人一倍、言葉にも行動にも気をつけなきゃいけなかった。
俺はそんなことを言うべきじゃなかった。
何度か頭の中で自分にそう言い聞かせたあと、そのことについては忘れることにした。
それでも、納得とも驚きともつかない奇妙な気持ちが、俺の中から消えなかった。
あいつはやはり、「自分はここに居てもいいんだ」と納得するために、必死に家事をこなしているのかもしれない。
それは、ずっと前から予想していたことではあった。
そう考えてから俺は悲しくなった。結局俺は、今まであいつに本当に何もしてやれていなかったのだ。
◇
自室に戻ったあと、鞄の中を整理していると、ふと部活のことが頭をよぎった。
小説、と俺は思った。それから屋上で彼女と交わした会話を思い出す。
(書けるか?)と俺は自分に訊いてみた。
……無理だ、今は。とてもじゃないけど。
(じゃあいつなら書けるんだよ?)と、また自分に訊ねる。
分からない。とにかく今は現実にどうにかしなきゃいけない問題がたくさんある。
それを全部片付けてからじゃないと……。
(そんなの、終わるのか?)
……いつかは、終わるよ。きっと。
(ひとつ片付けたら、また新しい問題が出てくる。その繰り返しだろ?)
それでも、片付けなきゃいけない問題は目の前にある。
(根本的な転換が起こらないかぎり、おまえはずっと同じことを繰り返すだけじゃないのか)
上手い答えが見つけられない。
どうも頭がうまく回らない。俺も疲れてるんだろう。
しなきゃいけないことはたくさんある。今日は課題だって出たし、予習だってしなくちゃいけない。
読みかけだった小説の続きだって、しばらくほったらかしのままだった。
ミーガン・ロクリンはあのまま息絶えてしまうんだろうか?
とはいえ、生き延びたところでもはやどうにもならないという場面ではあるのだけれど。
「出口があればいいんだけどね」
と、俺は意味もなく呟いてみた。独り言。いつもより明るい調子で。
そう呟くだけで、ちょっとだけ前向きな気持ちになれた。
心が弱りそうなときは、そういうささやかな励ましが大事だ。嘘だってかまわない。
もちろん、出口なんてどこにもないんだけど。
◇
翌朝には、妹の風邪はほとんど治っていたようだった。
俺が寝惚け眼をこすりながら階下に降りたときには、既にキッチンに立って弁当を作っていた。
妹はこっちに気付くとにっこり笑った。普段より二割増しくらい元気に見えた。
「おはよう」
「……おはよう」
あんまりにも元気そうに笑うものだから、こちらとしても何も言う気がなくなってしまう。
「風邪は?」
「平気!」
……わざとらしいくらいに、元気だった。
わざとらしいというか、たぶんわざとなんだろう。実際体調は悪くないようだし、何も言わないことにした。
昨日の今日ではあるのだけれど。
何事もなかったかのような朝だった。それもべつに悪くはないんだけど。
◇
早めに登校して自分の席でぼんやりしていると、いつものふたりが俺のところに来た。
「よお」
とビィ派は言った。マスクをつけていたし、声の調子もなんだか変だった。
「風邪ひいたんだって?」
俺が訊ねると、ビィ派は眉間を寄せて頷いた。
「うん。布団掛けずに寝たせいかな。最近夜だけいやに冷えるだろ。昼間はまだ暑いのにさ」
「うちの妹も風邪ひいて寝込んでたよ、昨日、熱出してさ」
「変な風邪、流行ってるのかもね」
シィタ派がそう言ったところで、会話は一度途切れた。
みんないつもと同じような態度だと俺は思ったのだけれど、ビィ派はちょっと怪訝げに俺とシィタ派の顔を見た。
「なんかおまえら変じゃない? なに、喧嘩でもしたの?」
そう言われて、俺たちふたりは顔を見合わせた。
思い当る節がまったくなかった。それにしても、「喧嘩したの?」と素直に訊けるこいつの豪胆さには感心する。
ビィ派には俺たちふたりの様子がいつもと違うように見えたんだろうか。
「……べつに、喧嘩とかしてないよな?」
俺が訊ねると、シィタ派は妙な表情になった。何か言いにくそうな。
「部活で何かあった?」
と俺は訊ねた。昨日の放課後に顔を合わせたときは、いつも通りの態度だったはずだからだ。
あるいは、それ以前から様子はおかしかったんだろうか。
もしそうだったとしても、昨日の俺は気付かなかったはずだ。
「いや、何かあったってわけじゃないんだけどさ」
シィタ派がそれ以上話してくれそうになかったからか、ビィ派の目が今度はこちらを向いた。
「そっちは?」
「病み上がりの妹が心配でね」
「さすがシスコン」
と彼が笑ったので、話はそこで終わってくれた。
実際、その答えは嘘でもなかった。半分くらいはそれが原因だろうと自分では思う。
◇
「おー」
と部長に声を掛けられたのは、移動教室の途中に三年の教室の廊下を通ったときだった。
「元気?」
一緒にいたシィタ派が返事をすると思って黙っていたのだが、彼は何も言わなかった。
なんとなく間の抜けたやりとりだと思いながらも、俺は返事をする。
「ええ、まあ」
「昨日はなんで休んだの? 歯医者?」
「みたいなもんです」
「歯医者ってさー、一回行くと毎週みたいに行くことになるよねー。わたしも行かなきゃなあ」
部長は放っておくとひとりで勝手に話しているので、相手にするのが割と楽だ。
と思っていると、はっとしたように真面目な表情になって、
「……いや、みたいなもんって、なに? 歯医者なの? 違うの?」
深刻そうにそんなことを訊いてきたりする。ちょっと真剣に慌てている感じが可愛らしい。
部長の傍に居た三年の女子がクスクスと笑う。祭りのときに見た顔だという気がした。違うかもしれない。
「今日はちゃんと出ますよ」
俺がそう言うと、部長はちょっと戸惑ったような顔になった。
「あ、べつに用事があるならあるで全然いいからね? 顧問からして、まあ、あれだしさー」
部長の態度が、部室で会うときよりも明るい気がする。自分のホームだからだろうか。
……文芸部室もホームか。
特に話すこともなくなったから、その場で別れて移動を再開した。
「……あのさ」
少し歩いてから、シィタ派が口を開いた。
「やっぱり、俺よりおまえの方が部長と仲良い気がする」
「気のせいだろ?」
シィタ派の反応が薄い分、俺と話す機会が多いというだけという気がする。
それでも彼は、どことなく納得しかねるような顔をしていた。
◇
放課後、俺が顔を出した頃には、編入生を含めた全員が既に部室に揃っていた。
シィタ派は一人で紙面に向かってペンを動かしていた。だいぶなめらかな動き。
苦戦していたと聞いていたけど、うまく回り始めたんだろう。そういうタイミングがある。
どうやっても動かないんじゃないかと思うほど大きな重石が、些細な刺激で転がって跡形もなく砕けるようなタイミング。
後輩も一生懸命ノートに何かを書いていた。うしろから部長がそれを覗き込んでいる。
さて、どうするか、と俺は思った。
文章は書けない。かといって、部室にいて何もしないのも気が引ける。
仕方ないので鞄から小説を取り出して続きを読むことにした。
ページは残りわずかだったし、うまく集中できれば今日中に読み切ってしまえるだろう。
ふと気になって、そのまえに編入生の様子を見ると、彼女は彼女で原稿用紙に向かって何かを書いていた。
気になって視線を向けていると、こちらの様子に気付いてか、編入生は不思議そうな顔をした。
「何を書いてるの?」と俺は訊いてみた。
編入生はちょっと困った感じに笑った。
「部長に、練習代わりにって、お題に沿ってなんでもいいから文章を書いてみてって言われたんです」
彼女の様子は平常通りに見えた。頭の中で何を考えているかは知らない。
でも、質問の答えは納得のいくものだった。後輩もシィタ派も、似たようなことをさせられていた。
俺はたしか、「蝉のぬけがらについて思うこと」を書けと言われて、「そんなものには興味ない!」とだけ書いたら花丸をもらった。
部長はそういう価値観の持ち主なんだろう。
会話を終わらせて、俺は本を読み始めた。
みんながんばってるなあ、などと思いながら。
(俺は?)と俺は訊ねた。
(今はよそうぜ)、と俺は答えた。タイミングが悪い。こういうのは周期の問題だ。
余計なことを考えたせいで、目の前の文章に集中できなくなってしまった。
ほんとうに最後の最後なのに。あと少しで終わってしまうのに。
どうしても読み進められない。
そのとき部室の入口のドアが開いた。顔を向けると、顧問が立っている。
運動部だったら集合掛けて挨拶しに行くところなんだろうが、誰もなにも言わなかった。
みんな作業に熱中していた。俺以外。
だからだろうか。顧問は俺に話しかけてきた。
「どう、調子は?」
「はあ。まあ」
「部誌の原稿は?」
「……まあ、なんとか。そのうち」
「ぼんやりしてると間に合わないぞ。来月頭なんてすぐだよ」
「まあ、なんていうか、いろいろ、思うところがあって」
「なにが思うところだよ。あれか、スランプか。芸術家か、おまえは」
顧問はまるで面白い冗談でも聞いたみたいに大声で笑った。
死ね、と俺は思った。妙に腹立たしい。
俺がクスリとも笑わないのが気に障ったのか、彼の声は苛立たしげにこわばった。
「まあ、やる気がないなら無理強いはしないけどね」
顧問はそう言うと、他の部員たちの様子を見にいった。
すごい人だ。
何がすごいって、この人にとって、こういう人にとって、やる気とか精神力っていうのは無尽蔵のものなのだ。
そう信じてる。信じるだけの体験をしてきている。そういう経験がある。
だから、「やる気を出せない」とか、「やる気にならない」というのを、単なる怠慢の一種と判断する。
そしてそれは、一面の真実ではあるのだ。
真実だから、いっそう調子づく。
現実には、「やる気」も「精神力」もきわめて肉体的で、物質的だ。使えば消費される。
燃料が必要だし、新鮮さだって必要だ。時間の経過によって消耗も劣化もするし、燃費の差だって出る。
俺は気付かれないように溜め息をついて本を閉じた。さっきよりずっと集中できなくなってしまった。
――それってね、場合によっては一生そのままなんだよ。
そうだな、と俺は思った。歳をとるとかとらないとか、大人だからとか子供だからとか、そういう問題でもない。
どっちかが正しいとか、間違っているとかでもない。
経験したか、経験していないかの差。あるいは、強いか弱いかの違い。それだけだ。
俺がひとりで鬱々とした気持ちになっていると、不意に部長に声を掛けられた。
彼女はまだ後輩のうしろに立っている。
「あのね、きみっていつもどんなふうに書いてる?」
「……いつもって?」
「小説。わたしのやり方で説明しようとしたんだけど……うまく伝わらないっていうか、うまくいかないみたいで」
たしかに後輩はすごく困った顔をしていた。
俺は彼女が書いたものを覗き込もうとしたけれど、思い切り隠されてしまった。
「だ、めです!」
「……だめ、って」
部長には見せていたはずだし、そもそも部誌として発行されればどうせ俺にも見られることになるのだが。
「これは人様に見せられるような段階じゃないんで」
彼女の中では部長は人としてカウントされていないらしい。
部長の小説は割と起承転結がはっきりしているし、抽象的な部分も少ない。
わりとポピュラーで、感傷的なところもない。
まあ、そこが部長(シィタ派もだけど)のすごいところで、普通、素人が書くと真逆になる。
起承転結と呼べるものはなく、抽象的な表現が頻出する。
文章が自分の殻に閉じこもっていて、登場人物が何を考えているのか分からない。
無意味に長大で、すごく感傷的。……八割がた俺の話だ。
(素人小説のパターンはもうひとつあって、そちらは状況の読めないバトルマンガみたいなテイストになる)
だから部長の書き方は、書いたことがないという人には難しい。すごく難しい。
無意味に長大に感傷的に書く方がよっぽど簡単なのだ。
とはいえ、それは今は関係ない。
俺は内容を教えてもらうことを諦めて、質問に答えることにした。
「俺の場合は、毎回始まりと終わりが決まってるんで、参考にならないと思います」
「あ、そっか。そうだよね」
というか、シィタ派に訊けばいいだろう。
そう思ったところで、昼間に彼に言われたことを思い出し、ちょっと気まずくなった。
たぶんひとりで暇そうにしていたから声を掛けられたんだろうけど。
「……始まりと終わりが決まってるって、どういうことですか?」
後輩がひとり、不思議そうな顔をした。
「毎回、女の子が部屋の中で考えごとしてるところから始まるんだよね」
部長に読ませたのはだいたい二、三本だと思うが、まあそれでも分かるものは分かるだろう。
なにせ文章がまるまる同じなのだ。
「それで、女の子が出掛けるところで終わる」
後輩は感心したような顔になった。感心するところでもない。
「まあ、それだけ決まってれば、あとはどうにでもなるんで」
「ああいうの、わたし書けないんだよね。なんでなんだろう」
逆に書けない方が幸せなんだと思うけど、部長はちょっと悔しそうな顔をしていた。
俺は居たたまれなくなってきた。そもそもあれは小説なんてもんじゃない。
とはいえ、まあ、そんなことを言ったところで無意味なんだけど。
「まあ、何か書こうとするなら、やっぱり俺より部長のやり方の方が参考になると思いますよ」
それだけ言って、話を終わらせた。後輩は余計にわけがわからなくなったみたいな顔をしていた。
◇
部活を終えて帰ろうとしたところで顧問に声を掛けられた。
今日は珍しいことに、顧問も下校時刻まで部室に残っていたのだ。
その頃には他のみんなは帰ってしまっていた。
いつもなら、部室に最後まで残るのは俺か部長のどちらかだけだ。
部長は、なにかしらの責任感からそうしているのかもしれない。
でも俺の場合は、単にぼんやりしていたらみんなが既に帰ってしまっていた、ということが多いだけだ。
本当はすぐに帰るべきだったのに、足が動いてくれなかった。
何かやるべきことをやり残しているような、そんな感覚。
「ちょっと屋上で話でもしないか?」
顧問は俺にそう声を掛けた。俺は何か話でもあるのかと思って頷いた。
途中の自販機で顧問はパックジュースを二つ買い、その片方を俺に投げ渡した。
「奢りだ」
と彼は笑った。当たり前だろ、と俺は思った。勝手に買っておいて請求されるなんて冗談じゃない。
「ありがとうございます」
と俺は一応礼を言う。
ひょっとしたらと思ったけれど、鉄扉を押し開けた向こうに、彼女の姿は見当たらなかった。
ただ夕焼けに染まった空があるだけだ。
すぐに何かしらの話が始まるのかと思ったのだけれど、顧問は烏龍茶を飲みながらぼんやり夕陽を眺めはじめた。
俺は仕方なく自分の分のジュースを開封して飲み始めた。オレンジジュース。なんでオレンジジュースなんだろう。
話はなかなか始まらない。風邪が冷たい。俺は早く帰りたかった。
しばらく経ってから、顧問は溜め息をついて口を開いた。
「何かあったのか?」
「……は?」
思わずそう言っていた。顧問は表情すら変えなかった。
「急にどうしたんですか」
俺は笑いながら訊ねた。顧問は大真面目な顔を崩さない。
「いや」
彼は何かを言いたいようだったけれど、何を言っていいのか分からないようだった。
俺はなんだか無性に腹が立ち始めた。屋上の空気は冷たかったし、早く帰りたかった。
「なんだか、近頃様子がおかしいような気がしたからな。心配事でもあるのかと思ったんだ」
ずいぶん余裕のある教師だな、と俺は思った。
べつに彼は俺の担任でもなんでもない。それなのにいちいち気を回すなんて。
でも、特別感心したりはしなかった。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
なにが原因でこんなことになったんだろう。やっぱり愛想笑いくらいはしておくべきだったのか。
「特に何かがあったわけじゃないですよ」
「そうか」
彼がそれきり黙ってしまったので、俺は妙に不安になった。
おいおい、冗談だろ。まさかそんなことの為に呼び止めたのか?
わざわざ屋上まで連れてきて? ジュースまで買って?
たかがそんなことのために?
「今日は夕焼けが綺麗だな」
と彼は言った。青春ドラマのセリフみたいに空々しい響きだった。実際そのつもりだったのかもしれない。
「夕陽を見てると元気にならないか?」
「なぜです?」
「明日もがんばろうって気になるだろ」
ならねえよ。
「高校のとき、自転車で下校してる途中にさ、夕陽を見ながらいろいろ考えてたんだよな。
その日にあった嫌なこととか、腹が立ったこととかを思い出しながら。
ときどき何もかもに嫌気がさしたりするだろ。そういうときに夕陽が綺麗だと、よし、明日もがんばるかって気になったんだ」
そうなんだ、と俺は思った。
「なんだか、その日起こった嫌なことの全部が、取るに足らない、くだらないことに思えてくるんだよ」
それから彼はこちらを見て照れくさそうに笑った。
夕陽は確かに綺麗だった。でも平凡な綺麗さだった。
よくある感じの夕焼けだ。よくある秋の夕暮れ。悪くはないけれど。
なるほど、と俺は思った。
要するに俺と彼は根っこの部分から異なっているんだろう。
そしてそれは、どっちが正しいとか、どっちが間違っているとかの話ではない。
俺だって、彼みたいな生き方ができればそれが一番なのだ。
取るに足らないこと。くだらないこと。そうやって割り切ってしまえばいい。
自分のささやかな失敗。ささやかな友達との喧嘩。ささやかな言葉の選び間違い。
ささやかな情報のすれ違い。そうしたささやかなやり取り。
それは実際、自分の身にどれだけ大きく思えようと、相対的に見れば些細なことだ。
でも、日常はその「取るに足らないもの」「くだらないもの」の集積物だ。
「取るに足らないこと」を軽んじ、蔑ろにすれば、手痛いしっぺ返しを食らうことになる。
(母が家を出て行ったように?)
(それは……でも……)
頭の奥が軋むように痛んだ。
取るに足らないこと。
(違う)、と俺は思った。取るに足らないことなんかじゃない。
客観的に、相対的に見れば、それはとてもくだらないことだ。
比較で語れば、自分より不幸な境遇なんてありふれてる。
でも俺たちは、客観的な場所で生きているわけじゃないし、いつも相対的な見方をしているわけじゃない。
主観的に物事を見ている。俺は俺であることをやめられない。絶対に。
だから、取るに足らないことなんかじゃない。他人からはそう見えるだけだ。
……俺にはそのことが、妙に腹立たしく思えて仕方ない。
きっと彼にも彼なりの経験があって、だからその価値観にもちゃんと理由があるんだろう。
悲しい経験や、手痛い打撃だって受けてきたんだろう。
そうした結果として、そうしたものごとの集積物として、今の彼の価値観がある。
でもそれは俺にとっては取るに足らないものだった。彼にとって俺の価値観がそうであるように。
顧問が反応を窺うような視線を寄越したので、俺は適当に、
「そうですね、夕陽が綺麗ですもんね」
と分かったようなことを分かったふうな態度で言ってみた。
顧問は気恥ずかしそうな表情で頷く。それで話は終わった。
彼はそれから何か俺に何かを言ったのだけれど、うまく聞き取れなかった。そして去って行った。
扉の閉まる音。
ひとり屋上に取り残された俺は、べつに好きでもないオレンジジュースを飲みながら冷たい風に震えた。
それから無性にむしゃくしゃしてきて、
「あーあ、世界とか滅びねえかなあ!」
とわめいてみた。夕陽が遠くの山の向こうに隠れはじめている。
妹が病み上がりなんだよ、と俺は思った。
あいつが気にするといけないから部活にはちゃんと顔を出したけど、早めに帰りたかったんだ。
風邪をひきずりやすい奴なんだよ。肺炎に悪化して入院したことだってあるんだ。
それなのになんでおまえの青春ごっこにつき合わされなきゃいけないんだよ、ふざけるんじゃねえよ。
頭の中でそれだけ言ってしまうと、少しだけすっきりした。
でも、それは俺のせいでもあったのだ。俺が「普通」を上手く装えてさえいれば、彼も声を掛けてはこなかっただろう。
それに、ぼーっとしながら部室に残っていたのは自分だった。早く帰ればよかったのだ。
夕陽が綺麗だった。でも、だからって励まされたりはしない。
だって俺と夕陽の間には何の関係もないのだ。
夕陽が綺麗だからって、なんで自分も頑張ろうなんて思えるんだ?
できることなら教えてほしいくらいだった。
俺は何をやってるんだろう。
小説も書かない。家事もやらない。バイトしたり勉強に精を出したりするわけでもない。
せめて誰かの役に立てよ。
それでなくても、おまえはこれまで散々人に迷惑を掛けてきたじゃないか。人を傷つけてきたじゃないか。
そして今度は自分を責めたふりをして、気分だけで反省してるのか?
違うだろ? おまえがするべきなのは手足を動かすことだろう?
でも動く気になれなかった。不思議なくらい悲しい気分だった。その気になれば涙だって出せそうなくらいだ。
自分でも、どうしてここまで動揺しているのか分からない。
「ああ、ちくしょう!」
と俺は叫んだ。それでも収まりがつかなくて舌打ちを三度くらいした。
そして長い溜め息をついて、両方の頬を三度叩いてから屋上を後にした。
◇
家に帰ったときには、夕食の準備はほとんど終わっていたようだった。
「遅かったね?」
従妹は何の含みもなさそうな調子でそう言った。
俺はどうしてか責められているような気持ちになる。
夕飯が出来上がる頃には珍しく父も帰ってきていた。
食卓に並んだ料理を見ていると奇妙な気分になる。
妹は父が早く帰ってきたことを喜んでいるようだった。体調が悪そうにも見えない。
俺は段々と居たたまれなくなっていく。
父はいつものように、何を考えているのかよく分からない顔で、俺たちのことを見ている。
その視線に、俺はいつも居心地が悪くなるのだ。
たぶん、後ろめたさから。
なるべくそれを顔に出さないように、俺は普段通りの態度を装った。少なくともそういうつもりでいた。
食事を終えて、逃げるように自分の部屋に向かう。
灯りもつけずにベッドに倒れ込む。妙に体が重い。
なんでこんなに気分が暗くなるんだろう。俺は何に腹を立てているんだろう。
俺の生活。俺の行動。それはちゃんと他の誰かに影響を与えているんだろうか。
いてもいなくても変わらないんじゃないか。あるいは、いない方がマシなんじゃないか。
そう思ってしまう。
生活の中で起こる大半の出来事は、俺の行動とも感情とも、まったく無関係に起きている。
部長やシィタ派は小説を書く。妹が家事をする。編入生が文芸部に入る。父が働く。ビィ派はゲームでもしてる。
従妹が家にやってくる。あの女の子は俺がいてもいなくても屋上にいる。俺がいても屋上に現れない。
……なんでこんなことで落ち込むんだろう。我ながら面倒な奴だ。
どうかしてる。
不意に、ノックの音が聞こえた。
扉が軋みながら開いていく。姿を見せたのは従妹だった。
「電気、つけないの?」
「……あ、うん。つけて」
俺は立ち上がってカーテンを閉める。従妹は灯りのスイッチをつけると、部屋の内側に残って扉を閉めた。
「どうした?」
「あ、えっと、わたし、そろそろ帰ろうと思って。思ってというか、今週の土曜日に、帰ることにしたから」
「あ……そうなんだ」
来るのが急なら、帰るのも急ということなのか。
俺は自分でも意外なほど驚いていた。ちょっとした寂寞すら感じている。
「うん。いろいろ、お世話になりました?」
「ああ、うん」
うまく反応できない。何を言っていいか、分からなかった。
「……おにいちゃんさ、わたしが来た理由、訊かなかったよね、一度も」
「そうだっけ?」
「うん。わたしが言うのも変な話だけど……どうして訊かなかったの?」
「訊いた方がよかった?」
「そんなことはないよ、ぜんぜん。すごく助かったんだけど……ちえこだって、おじさんだって理由を訊いたよ。
訊かなかったの、おにいちゃんだけ。そりゃ、話したいことでも、ないんだけど」
想像がついた、というわけでもない。
でも、本人が積極的に言いたがらない時点で、やすやすと訊いていいこととも思えなかった。
「でもさ、こんなこと言い方したら変だけど、そうなるだろうって分かってたんだよね。
おにいちゃんは理由を訊いてこないだろうと思ってたんだ。だっておにいちゃんはそういう人だから。
人の弱い部分とか、ぜんぶ分かったうえで、受け流す人だから。本心で何を思っていてもね」
従妹の言葉は、まるで自分自身でも整理がついていないというように、途切れ途切れだった。
「だから、他の誰が何を言ったって、おにいちゃんだけは、わたしが逃げたり、卑怯なことをしたりしたりしても、責めたりしないって思ってた」
俺は、なぜか、責められているような気がした。
「だからおにいちゃんといるのは、すごく気持ちが楽なんだよ。でもそれってダメだよね」
「そんなことはないよ」
と俺は口を挟んだ。
「うん。そう言うと思ったけど、でもダメなんだよ。それじゃ、ダメなんだよ」
さっきより強い口調で、彼女は言った。俺は言葉を失った。
「だってわたしが逃げたくないんだ」
従妹と目を合わせるのが怖かった。自分のことを言われているような気持ちになる。
「だから、わたしは帰る。あの街、すごく嫌いだけど、やっぱりわたしは、あそこにいるしかないから。今のところは」
それから彼女はちょっと寂しそうな声で、
「逃げ場所にして、ごめんね」
そう言って笑った。
「それじゃあ、おやすみ」
軋むような気配。
扉の閉まる音。
溜め息が出た。彼女の中で、たぶん話は完結したんだろう。俺の感情とは無関係に。
◇
従妹が出て行ったあとも、俺はベッドに腰掛けてしばらく部屋の中でぼんやりしていた。
蛍光灯の青ざめた灯りに照らされたまま、何かを考えている。
でも、何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。
頭の中が霧に覆われているように判然としない。
少しするとまたノックの音が聞こえた。扉がもう一度軋んだ。今度は妹の姿が見えた。
「どうした?」
「……うん」
返事ともつかない頷きだけをよこして、妹は部屋の中に入ってきた。
「風邪は平気?」
俺がそう訊ねると、妹はわざとらしく笑った。
「朝も言ったでしょ? もう平気」
それっきり妹は黙り込んでしまった。
彼女は何も言わなかったし、俺も何も訊かなかった。
いつもそうだ。だから俺たちは、ずっとこんなふうに黙り込んでいる。問いもせず語りもせず。
俺は何かを訊くべきなのかもしれない。でも口を開く気にはなれなかった。
結局先に口を開いたのは妹の方だった。彼女が来てから五分ほど経ってからのことだ。
「あの、最近、お兄ちゃん、元気ない、よね?」
窺うような態度。
「そんなことはないよ」
俺は即座に否定した。自分でも驚くくらいにすんなりと。
「うそだよ」
妹もまた、俺の言葉をすぐに否定する。俺はこの会話の意味がいまいちつかめなかった。
「それって、わたしのせい?」と妹は訊いた。
「違う」と俺は言った。
でも、きっとその否定に意味なんてなかった。
妹はもう自分なりに解釈してしまっている。俺は落ち込んでいる、それは自分のせいだ、と。
俺が否定したってきいたりしない。
「お兄ちゃんが家事を手伝いたがったのって、わたしの負担になってると思ったから?」
俺は何も言い返さなかった。
「……そう、だよね?」
「そういう面もあるよ」
俺が返事をすると、妹はほっとしたような顔になった。
この際だから気になっていたことを全部言ってしまおう、と俺は思った。
いざとなると、それは上手く言葉になってくれない。
けれど声に出して伝える努力くらいはしたっていい。
「俺は、おまえが家の犠牲になってるんじゃないかって思うんだよ。
おまえはもっと自分のことだけ考えて生きていくことだってできるはずなんだ。
おまえがやっていることは、本当なら俺がこなしているべきだったんだ」
「……どうしてそう思うの?」
言わなければよかった。そう思った。妹は悲しいくらいの無表情だった。
俺はその顔をずっと見ているのが怖くなった。
「だって、おまえが家事をしなきゃならないのは……」
どうしてか。
頭がズキズキと痛む。
「たぶん、俺が……」
――良い子にしてないと、置いてっちゃうからね?
……頭が。
ずっと、動いているのに、言葉としての結論を出してくれない。
軋むように痛むだけで。
考えるだけの材料はあるのに。
うまく働いてくれない。
誰かが俺を責めているような、そんな気がする。
頭の中は霧がかかったみたいにぼんやりしている。
現実から遊離するような浮遊感。眩暈。
「あの」
声を掛けられて、我に返る。妹はこちらを心配そうに見つめていた。
「うん」
俺は意味もなく頷いた。うまく物事を考えられない。
「あの、わたしは、負担とか、そんなの、思ったことないから」
言い募るような調子で、妹はそう言った。俺は後悔していた。
「わたしは、好きでやってるから。だからお兄ちゃんが、負い目とか感じる必要、ないんだよ?」
そう言うんだろうな、と思っていた。そう言って欲しくなかった。
やりたくないのになんでこんなことって、文句を言われた方がずっとましだった。
これでこいつは、今までよりもっと不満を漏らせなくなってしまった。
「……うん」
俺は結局頷いた。そうする以外に手段が見つからなかった。
妹はまだ何か言いたげだったけれど、結局部屋を出ていった。
扉の閉まる音。繰り返している。
ひとりになると、また頭が痛んだ。
◇
翌朝、俺が登校したときには、シィタ派は既に教室に来ていた。
頭を掻いたりしながらノートに向かってペンを動かしている。
なんだかすごく苦しげに。
その様子がちょっと怖かったので、俺は普段より気安げに声を掛けてみた。
「よお」
シィタ派は驚いた様子で顔をあげた。怖いくらいの驚き方。
「ああ、うん。おはよう」
そしていつものように笑う。俺はちょっと面食らったけれど、その表情でちょっと安心した。
「……部誌の?」
訊ねると、彼はちょっと気まずそうな顔で頷いた。
「調子は?」
「まあ、うん」
彼にしては曖昧な答え方だった。あまり芳しくないのかもしれない。
俺は何も言わずに近くの席に座り、シィタ派の様子を眺め続けた。
真剣な表情。熱心にペンを動かしている。
「……どんな話?」
俺はためしに、そう訊ねてみた。
彼は意外な質問を受けたように戸惑った顔になる。
「うーん……。手帳の話」
「手帳?」
「うん。主人公は高校生なんだけど、学校の廊下で落し物を拾うんだよ」
「それが手帳?」
「そう。近くにいた人に訊いてみても、持ち主だって言う人も、心当たりがあるって人もいない。
だから手がかりを求めて、仕方なく手帳を開くわけ。どうせ落し物として職員室にでも届けるんだけどって思いながら」
「ふうん。それで?」
「開いてみると、どうもこの手帳の持ち主は主人公のクラスメイトらしい。というのも、内容が日記みたいになってたんだ。
それで、主人公のクラスメイトのことを名指しで悪く書いてある。その文脈から、同じクラスの人間だと判断するわけ。
字面や手帳のデザイン的に、どうも女のものみたいだ、と主人公は思う」
「主人公は男?」
「女。さいわい主人公についての悪口は書いてなかったんだけど、教師に届けるわけにもいかなくなってしまった」
「なぜ?」
「教師が落とし主を特定しようとして手帳の中を見たら、まずいことになるかもしれないだろ」
「気の利く主人公だなあ。俺なら見て見ぬふりして教師に託すけど」
「まあ……まあ、そこはね。主人公がそういう性格だったってことで」
「うん。それで?」
「……なあ、退屈じゃない?」
「いや。なんで?」
「……いや、退屈じゃないならいいんだけどさ」
「それからどうなる?」
「それから、まあ、主人公も授業があるから、一度保留にして自分が手帳を持ったまま教室に戻る。
だけど、運悪く友達にその手帳を見咎められる。で、中身を見られちゃうんだ」
「……その友達についての悪口が書いてあった?」
「そう。まあ、クラスの中心みたいなところがあって、割と嫌われ者なんだけど、誰も逆らえない相手、みたいな感じ」
「それはまた……」
「うん。あっというまに主人公はクラスの女連中から避けられるようになるわけ。説明しても、拾ったなんて言い訳にしか聞こえないしな」
「……いじめ系かあ。なんかいつも書いてるのと雰囲気違うな」
俺がそう言うと、シィタ派は苦笑した。
「そういうつもりで書き始めたんじゃなかったんだけどね。なんかこうなってた。なんでだろう。
まあ、で、そのあと、手帳の持ち主が主人公にだけ名乗り出るんだよ。手帳の持ち主は自分だって。
主人公がひとりでその事実を明かそうとしても、リーダー格が信じてくれるわけがない。
だから主人公はそいつに協力してもらって、自分が本当に書いてないってことを他の人に信じてもらおうとする」
「そいつ、協力するの?」
「しないよ」
「だよね」
「持ち主は主人公に泣いて謝るわけ。ごめんなさいごめんなさいって。
もともとリーダー格にひっついてる腰巾着みたいな子だったんだな」
「だったら手帳に実名で悪口書くなよ」
俺がそう言うと、シィタ派はちょっと考え込んだ。
「いつもは持ち歩いてないんだよ。鞄の底に入れてたんだけど、他の物を出す時に落としちゃったんだな。
それをとっさにポケットにしまってたら、まあトイレの帰りにでも廊下に落としたんだろう」
迂闊な話だ。油断と偶然が人一人を窮地に追い込むわけか。
「馬鹿げた話だ」と俺は半分本気で怒りながら呟いた。シィタ派はちょっと笑った。
「まあ、たしかに」
「で、続きは?」
「どうなるんだろう?」
「……オチ決めないで書き始めたの?」
「いや、うん。書いてるうちに、どんどん方向ずれてきて。最初は怪談のつもりだったんだけど」
「まあ、それもありだとは思うけど、珍しいな。おまえいつもがっつりプロット作るじゃん」
「いろいろね、気分の問題だけど」
そこで話が一度途切れた。紙面をペン先が擦れる音だけが続いている。
「おまえは、どう終わると思う? この話」
「え?」
シィタ派の質問に、俺はすぐに答えを返せない。
「まあ、参考までに訊くだけだけどさ。どう終わると思う?」
「……うーん」
どうだろう。俺は少し真面目に考えた。
「……逃げるんじゃないかな、主人公」
「逃げるって、どこに?」
「どっか遠いところ。あるいはヒキコモリになるとか」
「……うーん。それ、根本的な解決にならないよな」
「ならない、もちろん。要するに、治療期間っていうか、そういう出来事に適応するための猶予期間っていうか」
「でもさ、猶予期間をこじらせて、そのまま不登校になられるわけにもいかないだろ」
「うん。だから最終的には学校に通わなきゃいけないんだよ、普通に。きっと経済的に余裕のない家庭とかなんじゃない?」
「勝手に設定足すなよ」
「不平不満とか、家ではあんまり漏らせないんだな。だから親に心配かけないようにしないといけない。
それでもどうしたって我慢ならないときってあるだろ。どう考えてもマトモじゃないものが平然とのさばってるとさ。
マトモじゃないものに立ち向かうのはエネルギーが要る。だから、猶予期間」
「……ふうん。で、自分からは結局なにもせず、学校に通い続ける、と」
ビィ派はしばらく、俺が言ったことを飲み下そうとしているみたいに考え込んだ。
「参考になった?」
「……うーん。俺が書くなら、主人公はやっぱり逃げたりしないな」
「俺が書くならっていうか、おまえが書いてるんだけどな」
「つまり、主人公がなんらかの策を講じて、手帳の持ち主を明らかにして、和解するなり、報復するなりする」
「なんていうか、そういうのって疲れるじゃん」
「……どういう意味?」
「いや、うまく説明できないけど……。本人がそうしたいなら、そうするべきかもしれないけどさ」
「だってそうじゃなきゃ、主人公はずっと今の境遇から抜け出せないんだよ」
「……まあ、そうだな」
俺はそれ以上何も言うことができなかった。
会話がそこで途切れたまま、結局俺たちはビィ派がやってくるまで一言も喋らなかった。
本当なら、俺だって何かを書いているべきだったかもしれない。
◇
放課後の部室には誰もいなかった。
俺が早すぎたのかもしれないし、他の部員は用事でもあるのかもしれない。
理由はわからない。とにかく誰もいない。それが事実だった。
せっかく誰もいないわけだし、何か普段人がいるせいでできないことをやってみたいと思ったのだが、思いつかない。
ようしと俺はパイプ椅子に腰かけて、やってみたいことを考えてみることにした。
ここには誰もいないんだ。やりたいことだって好きなだけやれる。何がしたい?
……せいぜい、裸になって踊り狂うくらいしか思いつかなかった。発想力の乏しさがここにきて露呈している。
あるいは全裸になって自慰に耽るというのも考えたが、方向性が同じだし、あまりにも馬鹿げていた。
ついでに言うとべつにやりたいというわけでもない。困った話だ。
やりたいことがなかった。一人になってやることなんて、本を読むか、ぼーっとするか、寝るくらいしか思いつかない。
それだって暇つぶしでしかない。
大勢の中にいるといつもうんざりした気持ちになる。上手く会話に混ざれない。相槌を打つくらいしかできない。
だからひとりの方が楽だ。ひとりでいるのは疲れない。
でも、ひとりになりたいわけじゃない。面倒な話だ。
他人の中にいれば他人にうんざりするし、一人で居れば自分にうんざりする。
誰の役にも立たない自分。何の成果もあげられない自分。
部室のドアが開いた。最初に来たのは部長だった。俺に声を掛けたあと、いつもの席に座った。
次に来たのは編入生と後輩。廊下で会ったのだろうか、一緒にやってきた。
シィタ派は最後に顔を出した。どことなく考え込んでいるように見えた。
いつものように、みんなそれぞれに活動を始めた。俺はぼんやりとしていた。
ノートを開くことも本を開くこともない。何もすることが思いつかなかった。
同じだ、と俺は思った。一人でいるときと。何も変わらない。
それはそうだろう。自分が同じことをしているんだから。
「どうかしたの?」と声が聞こえた。振り返ると部長が立っていた。
「ちょっと考え事をしてたんです」と俺は答えた。
部長は何か言いたげな表情をしたあと、「そっか」とだけ言って自分の席に戻った。
今日は気持ちのいい秋空だった。少し空気は冷たいけれど、晴れていた。
なにがいつもと違うんだろう。
小説。小説の続きは書けるだろうか?
「彼女」はどうやったら外に出るんだろう。
いつもより真剣に、その方法を考えてみることにした。
でも、もう無理なんじゃないかという気がした。「彼女」は何をしても外に出てくれないような気がする。
電話が鳴っても出ない。ノックが聞こえてもドアは開けない。呼び声も届かない。
結局「彼女」はそこに納得してしまう。まあいいか、と思う。仕方ない、と。
それが相応だ。そもそも決まっていたことなんだ。そういうふうに。
それも仕方ないことだ。だって、誰も「彼女」に出掛けて欲しいなんて思ってはいないんだから。
誰も「彼女」が出掛けることを求めていない。必要としていない。
「彼女」だって、そこにいる自分自身を認め、納得してしまえば、それで構わないはずだ。
べつに必要とされていない。
俺は鞄から読みかけの小説を取り出して続きを読むことにした。
今までがなんだったのかというくらいあっさりと読み進めることができる。
物語は終わりに差し掛かっていた。当然のような結末が当然のようにあらわれる。
人が死んだ。何人かが当然のように生き延び、何人かは死んだように生き延びた。それで話は終わった。
最後のページを読み終えた後、俺はぼんやりとその小説について思いを巡らせた。
それから今朝シィタ派から聞いた小説のあらすじのことを思い出した。
避けられるだけならばまだいい。けれど行動が伴えばどうなるだろう?
一人の人間の尊厳を集団で踏みにじる行為は、一種の狂乱だ。
誰にも、その行為がどこまでエスカレートしていくのか分からない。ブレーキが壊れている。
だとすると、シィタ派の言うように何らかの解決をもたらすのが一番なのかもしれない。
とはいえ、解決法だってそれほどないし、そのどれをとったところで後味は悪い。
和解できるとは思えない。糾弾するにしても、今度は手帳の持ち主が悪意にさらされるだけだ。
解決手段。こういうときシィタ派が取る手法は、爽やかでない結末をいかにも爽やかに描写する、というものだ。
どう考えても何も終わっていない、何も解決しない。そういうのを雰囲気だけ爽やかに描写する。
するとなんとなく、何もかもがすっきりと終わったように見える。見えるだけだけれど。
結局、デイヴィッドがもっと早く行動を起こせばよかったのかもしれない。
そうすればメグだってあそこまでひどい目には合わなかっただろう。
けれどあの無力なデイヴィッドの態度は、まちがいなく俺自身のどこかと一致していた。
そんなことを考えているうちに、俺はなぜか従妹のことを思い出した。
それから彼女が昨夜俺に言ったいくつかの言葉を思い出した。
こっちに来た理由を訊かなかったのは、気を遣ったわけではない。分かったようなつもりになっていたわけでもない。
面倒だったからだ。どうせ何か面倒な理由があるに決まっていると思った。
他人の問題になんて最後まで関われない。
最後まで責任をとれないなら最初から関わらない方がマシだ、というのが俺の考えだった。
何が起こっているのかを知れば何かを言わなきゃならない。
だから最初から距離を置いた。何かの責任を負うなんてまっぴらだ。
そういう意味では、たった今読み終えた小説は、ある種の暗示と言えるのかもしれない。
とはいえ、聞いたところで何ができるというわけでもない。
あるいは、それでも聞くべきだったんだろうか。
よく分からない。
◇
部活の終わる時間まで、俺はそんなふうに考え事を続けていた。
その日、顧問は顔を出さなかった。それだけが救いだった。
部室に最後まで残ったのは俺と部長だった。他のみんなは早々に帰ってしまった。
誰かに話しかけられたような気もするし、誰も俺に声を掛けなかったような気もする。
気付けば窓の外は橙色に染まっていた。
「……大丈夫?」
椅子に腰かけたままぼんやりしていると、部長はそう声を掛けてきた。
俺はとっさに返事ができず、部長の顔をぼんやりと見返した。
そういえば、俺は彼女の名前も知らないのだ。
「大丈夫です」
そう答えても、彼女はまだ気がかりなようにこちらを見続けていた。
態度に出すな、と俺は俺に言った。でも無理だった。普通の態度がよく分からない。
「あの、文化祭、間に合いそう?」
「……」
「書けないようなら、無理しなくてもいいからね? 結局、強制じゃないし、何かあるわけでもないから」
「……そう、ですよね」
書けないようなら、書かなくてもいい。
当たり前のことだ。何かの義務でやっているわけでもない。普通のことだ。
誰も必要としていないことなんだから。
「部誌の方は、なんとでもなるし、だから、ホントに厳しいようだったら……」
「……はい。分かってます」
「……うん」
部長はまだ何か言いたげな顔をしていた。こんな顔を、何人もの人が俺に向けた。
いったいみんな何が言いたいんだろう。何が言いにくいんだろう。
でも、べつに問い詰める気にはなれなかった。だってそれは面倒だ。
結局部長は何も言わずに去って行った。部室には俺ひとりだけが残される。
扉の閉まる音。
◇
帰る気にはなれなかった。家に帰ったところで、どうなるわけでもない。
俺の態度は、きっとまだいつも通りじゃない。家事を手伝おうとしたって、妹にまた心配させるだけだ。
だからって、家の中で何もせずにいるなんて、俺には耐え難い。
だからって、部室に残って何かができるわけでもない。
小説なんて書けないし、書けないなら書かなくてもいい。
俺は何だったらできるんだ?
いや、そんなことより、俺には考えるべきことがあるのかもしれない。もっと他の、自分のことではなく……。
昨日からずっと頭の奥が痛んでいる気がする。
いったいいつまでこんな考え事を続けるつもりなんだろう。
たとえば、誰でもいいから俺を好きでいてくれる女の子が一人でもいたら、自分も少しはがんばれるかもしれないと思ったことがある。
でもそんなのは馬鹿げているし、「誰でもいい」というのは大嘘だ。
俺を「不安にさせない」「プライドを傷つけない」「望むことを叶えてくれる」。
それでいて「容姿もまあまあ」くらいの条件は無意識につけている。いずれにしても馬鹿げている。
相手の人間性をまるで無視しているし、実際にそんな子が現れても俺はまともに会話すらできないだろう。
ましてやそんな子が仮にいるとしても、俺のことを好きになるわけがない。
さて、と俺は思った。家には帰りたくない。かといっていつまでも部室にはいられない。
とにかく移動するしかない。どこでもいい。そう考えたところで屋上のことが頭に浮かんだ。
屋上。
仕方ないか、と俺は思った。昨日あんな話をされたあとに、夕陽なんて見る気にはなれないのだけれど。
それに、今日こそは彼女がいるかもしれない。いたからといって、どうというわけではないのだけれど。
部室を出て屋上に向かう途中に、シィタ派の後ろ姿を見た。
誰かが隣にいるようなので覗き見ると、どうも編入生と一緒に歩いているらしい。
邪推するほどのことでもないだろう。
俺は屋上への階段を昇る。踊り場の窓が開きっぱなしになっていて、吹き込む風にカタカタと音を立てていた。
校舎に人の気配はしない。外から誰かの話し声から遠く聞こえるだけだった。
鉄扉を押し開ける。
夕陽の逆光。フェンスの傍らの影。彼女は今日もそこにいた。
「元気ないね?」と彼女は言った。振り向いているのかどうかすら、俺には分からない。
「まあね」と俺は言った。取り繕う気にもなれない。
「……前からずっと、聞いてみたかったんだけどさ」
彼女は珍しく、そんなふうに口を開いた。ちょっと口籠るような様子。
何かを言いあぐねているような。
「どうしてあんたは、屋上にくるの?」
二人称ですら、彼女に呼ばれるのは初めてだという気がした。
「……ダメかな」
「別にダメとは言ってないけど。理由が気になるんだよね」
「きみがいるから」と俺は言ってみた。やっぱりどこかしら軽薄になりきれない気味悪さが残っている気がした。
彼女は一瞬目を丸くして、こほんと咳払いをする。
「嘘だよね?」
「なんでそう思う?」
「だって、わたしに興味ないでしょ?」
「……そんなことはないよ」
「じゃあ、わたしのことどう思ってる? どんな存在?」
「いつも屋上にいる女の子。わりと変なことを言う」
「それ以外は?」
「……それ以外?」
見とれるくらいの美人だ。それくらいだった。
「じゃあ、初めて会ったときのこと、思い出せる?」
「……屋上にきみが居た。俺が話しかけた。なにしてるのって」
彼女は押し黙った。少しだけ傷ついたような表情になった気がした。
でもたぶん気のせいだろう。だって俺は、彼女が傷ついたときにどんな表情をするのか知らないのだ。きっとそう見えただけだ。
それから少しして、彼女は諦めたような、納得したような、そんな溜め息をついた。
「そう」
その言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。
「今日はどうかしたの?」
気を取り直すみたいな感じで、彼女は口を開いた。俺は今の表情の変化を頭の中で処理しかねていた。
「ちょっとね」
「小説のこと?」
「……書けないなら書かなくてもいいって言われた」
「ふうん」と彼女はどうでもよさそうに頷いた。
それから当然みたいな顔で言葉を続ける。
「で、書くの?」
そのなんでもない質問に、俺は一瞬、言葉を失った。
「……え?」
俺があんまり奇妙な顔をしていたのだろう、彼女もちょっと驚いた顔になった。
それから言い直すように、
「……書かない、の?」
そう訊ねてきた。
「……いや、書かない、っていうか」
「うん」
「別に、強制ってわけでもないし」
「……うん」
「誰かが必要としてるわけでもない、だろ?」
「ねえ、そんなことないよって、言ってほしい?」
「……そういうつもりじゃないんだ」
「わたしも、そういうつもりで訊いたんじゃないよ」
彼女はちょっと怒ったような顔をして、まっすぐこちらを見つめた。
こんなふうに真正面から顔を合わせたことは、あっただろうか。
「書くか書かないかは、書きたいか書きたくないかで決めるものでしょ?」
俺はまた、何も言えなくなった。何も言い返すことができない。
だって彼女の言っていることは正しいのだ。
「……なんか、ごめん。変なこと言ったかも」
「いや」
俺が反応をしなかったせいだろうか。彼女は自分が変なことを言ったと思ったらしい。
俺はそれを否定したかったけれど、その余裕が今はなかった。
「……わたし、今日、帰る」
「あ、うん」
「また明日」
「……うん、また明日」
彼女は俺がそう返したあとも、こちらの反応を窺うように視線を向けてきた。
どうかしたのだろうか。
しいていうなら、「また明日」という言葉には、違和感があったけれど。
彼女は小走りして屋上を去って行った。鉄扉が軋む。ドアが閉まる。
扉の閉まる音。
みんな扉の向こうに去っていく。いつまでも残っているのは俺だけだ。
誰かが俺と会う。俺と話をする。そして誰かは俺を残して去っていく。
扉の内側に残るのは俺だけだ。
俺はフェンスの向こうの夕陽を眺めてみた。やっぱり元気になんてならなかった。
特別綺麗でもないし、かといって色あせても見えない。何もかもが平坦に伝わってくる。
どうかしてる。
もう全部やめてしまおう。文章を書こうとするのもやめて、家事も妹に任せて、勉強もそこそこにして。
普段通りに過ごしてしまおう。そうするのだってべつに悪いことじゃない。
でも、そう考えると、たまらなく不安になった。
不意に強い風が吹いた。
背後で扉が軋む音がした。
振り返ると、さっき去ったばかりの彼女が、入口からこちらを見ている。息を切らして。
「……どうしたの?」
彼女は息を整えたあと、右手に握った何かをこちらに差し出した。
「これ、渡しておいてもらおうと思って」
俺は彼女に歩み寄り、それを受け取った。
小さな紙片。
「……なに、これ? 誰に渡せばいいの?」
彼女はちょっと辛そうな顔をした。
「……なんで、気付かないの? ほんとうに覚えてないの?」
「え?」
錯覚かと思うほど、心細そうな表情。それは一瞬で溶けるみたいに消えてしまった。
「開いてみて」
少し躊躇ったけれど、彼女が厳しい目でこちらを見ていたので、俺はその紙片を広げた。
『穴倉の 熊をくすぐる 春の風 枝野』
一瞬、そこに何が書いてあるのか分からなかった。
「……枝野?」
「うん」
「……文芸部の?」
「うん」
「……きみが?」
「わたし、名札、つけてるんだけど」
「……」
たしかに、枝野と書いてあった。
「ていうか、わたしたち、中学一緒だから」
「……そう、だっけ?」
「ついでに言うと、わたし、中学のとき、一回あんたに告白したことあるから」
「……あ、え?」
「……やっぱり、覚えてないんだ」
押し殺すような声で呟いていた。彼女の顔はあっという間に真っ赤に染まった。
それを隠すみたいに背を向けると、「ばか! 死ね!」とだけ怒鳴って、見たこともないような速さで走り去っていく。
残された俺は途方に暮れた。頭がまったく動かなかった。
◇
彼女の言葉が頭の中でぐるぐる回り続けていた。帰り道がやけに長く感じた。
途中でどんな道を歩いたのかすら思い出せない。とにかくずっと、さっきの出来事が頭を支配していた。
帰路の途中で猫が唸り合っていたことだけが、なぜか印象に残っている。
部屋に戻って俺が真っ先にしたのは中学の卒業アルバムを探すことだった。
正直あまり見直したいものではないが、そうも言っていられない。
見つけ出したアルバムのページを順番通りにめくり、枝野という名前を探した。
「……」
すぐに見つかった。と言うより、
「同じクラス、だな。これは」
集合写真も個別写真も俺と同じページに載っていた。
今より少し幼い雰囲気はあるが、髪型も変わってないし、眼鏡を掛けているわけでもない。
そのまま、あの子だ。
枝野。
「……告白?」
告白。
されたか?
いや、された。中学時代に一度だけ。それがあの子だった?
そうだったっけ?
……いや、たぶんそうなんだろう。本人がそう言ってたんだから。
「我ながら……ひどいな」
さすがにショックを受ける。
「ここまでくると、コミュニケーション能力って言うより……」
「言うより?」
「人間としての欠陥だな」
答えてから、部屋のドアが開けっぱなしになっていたことに気付く。
立っていたのは従妹だった。
「……どしたの、いきなり」
彼女はちょっと困った顔をしてそう言った。
「まあ、いろいろと」
「女か?」
にやりとした顔つきで、従妹は言った。
「……なんでわかった?」
「あ、やっぱり」
「勘か?」
「勘だよ?」
「……」
真面目に考えるのをやめたほうがいいんだろうか。
従妹は一人で何度も頷いていた。べつにかまわないのだけれど。
「おにいちゃんにもいろいろあるんだね。ま、それはそれとして、ごはんの時間だよ」
「了解」
◇
食事を終えた後も、部屋の中で何もできずに過ごす。ずっと頭がぼんやりしていた。
なんだか胸の奥がざわざわとして不快だ。重苦しい。
原因は明白で、やっぱり屋上でのやり取りが尾を引いていた。
何をしても考えることは同じだ。どうしようもない。
もう小説のことも家事のことも妹のことも従妹のことも頭からすっぽ抜けていた。
「……」
今まで何を考えて生きていたんだ、というくらい、自分が何も考えていなかったことに気付かされる。
いや、もっと言えば、考えなくてもいいようなことを、ぐだぐだ考え続けていた、という方が正しいんだけど。
なんだか心底自分が嫌になってきた。
告白だぜ、と俺は思った。今までの人生でたった一度しか経験したことのないことだ。
どうして相手の顔を忘れたりできるんだ?
あまつさえ相手の顔を忘れて、平然と話しかけていたわけだ。それも頻繁に。
最初に話しかけられたときの彼女の戸惑いを想像すると普通に死にたくなる。
……そもそもどんな経緯で告白されたんだっけ?
たしか、話したこともなかったんだ。だから断った。
でも、冷静に考えて、彼女が――あの子が、話したこともないような相手に告白するか?
あの枝野が?
……むしろ自分の記憶の方を疑う方が自然だという気がする。
とはいえ、そんな判断をできるほど、俺は彼女のことを知っていたんだろうか。
いや、現に名前すら知らなかったわけだが。
考えれば考えるほど分からなくなる。
……実は嘘とか。
――ばか! 死ね!
……嘘で、あの表情はないか。
じゃあ、彼女が言ってることは本当で、俺はそのことをずっと忘れてたのか?
忘れて平然と話しかけたりしてたのか?
それってもう、何か取り返しのつかない失敗という気がする。
「俺はいったいどうすれば……」
あ、いや。どうもしなくていいのか? 一応告白されて断った、っていうところで話は終わってるわけで。
そう、もう終わった話なのだ。
彼女はもう俺のことなんてなんとも思っていないわけで、そうだとすると……。
……問題はそこじゃないか。大事なのは、俺がそれを忘れてたってところだ。
告白されたこと自体は覚えていたけど、それが彼女だったとは気付かなかった。
あのときに会ったのが最初で最後だと思っていたし、相手の顔なんて即座に忘れてしまっていた。
「……我ながらひどいな」
他人事のように思う。
どうかと思う、という気持ちと、忘れてたもんは仕方ない、という気持ちがせめぎ合っていた。
告白。いつされたんだっけ?
中二、か、中三。部活はその頃にはやめてた。文章も書き始めていた。
中三の春? ……そのくらいか。もっとあとかもしれない。
卒業アルバムの写真をぼんやり眺めながら、当時のことを思い出そうと試みる。
中学時代のことなんてもう覚えていない。
それでなくてもあの頃は、いろいろ嫌なことが重なっていたし。
……それは言い訳か。
「……」
行事関連の写真を眺めていると、なんとか昔のことを思い出せてきた。
八割思い出したくないことばかりだったけど。
こうして考えてみると、楽しい記憶ってほとんどないような気がする。
どうしてだろう? なんで俺は楽しめていなかったんだろう。
よく思い出せない。
考え事をしながらアルバムをめくっていると、妹が部屋にやってきた。
普段なら相手をするところなのだけれど、気がかりが多すぎてかまっている余裕がない。
「どうしたの、アルバムなんか見て」と言いながら、妹は俺の横に座って、勝手にアルバムを覗き込み始めた。
「……あ。え、あれ?」
「……どうしたの、お兄ちゃん」
「いや……」
修学旅行の写真の中に、俺が大きく映っているものがあった。
遊園地。……遊園地、そうだ。二日目の昼頃から、遊園地で自由時間があった。
写真は、その遊園地の花壇の前。時間は夕方頃だろうか。
隣に写ってるのが、枝野だった。普通にカメラ目線だし、どっちも笑顔だ。
「あれ?」
「……あ、なに、この人。元カノ?」
目ざとく写真を見咎めた妹が真剣な表情でそう訊ねてきたけれど、気にしている余裕はない。
「なんで一緒に写ってるんだ?」
「……どうしたの、お兄ちゃん」
なんでもなにも、一緒にいたから写ってるんだろうけど。
でも、俺は男子と班を組んだはずだし、枝野と一緒にいる時間なんて……。
「……違うか」
遊園地内は自由行動だったんだ。好きな奴と一緒にいていいことになってた。
でも、接点がない、はず。
「……」
違う。
俺は最初他の奴とまわってたんだ。でもアトラクションの待ち時間が耐えきれなくなって……。
体調が悪いからって言って、一緒に居た奴らとは途中で別れた。
ちょうど集合時間が近付いてたから、ちょっと早めに集合場所に移動していたんだ。
そこに枝野がいた、のか。
いや、いたんだろう。早めについたら、俺より先に女子が一人立っていた。きっとそれが枝野だった。
それで、暇潰しがてら……修学旅行のテンションだったし、話をしてたんだ。普段だったら声を掛けもしなかったけど。
でも、それだけで?
……思い出せないだけで、まだ何かあるのかもしれない。
どっちにしても、俺の記憶はあてにならないことがはっきりわかってしまった。
俺が考え事をしているうちに、妹はぱたぱたとアルバムを勝手にめくりはじめた。
行事関連の写真が終わり、次に部活ごとの集合写真が貼られている。
野球、テニス、サッカー、吹奏楽、柔道、剣道、バレー、バスケ。
二年の頃にやめたから、俺の写真は載っていない。
「……あ、懐かしい」
と妹が声をあげた。
「え?」
思わず訊きかえしてしまった。冷静に考えれば、俺が三年の頃、妹は一年だったわけで。
懐かしいと思う写真があるとしても、べつに不思議ではないんだけど。
問題は妹が指差した写真の方だ。
女子バスケ部の集合写真。
「懐かしいって、どれが?」
「ほら、この先輩。けっこう優しくしてもらったんだよ」
妹が示したのは当時の三年生ではなく、二年生の方だった。
「え?」
写っているのは、毎日のように部室で顔を合わせている後輩が、バスケのユニフォームに身を包んでいる姿だった。
「……え?」
◇
とにかく頭が混乱して仕方のない夜だったけれど、明けてしまえば当然のように朝だった。
金曜の朝。明日には従妹が帰ることになっていた。
部誌の原稿の締め切りもそろそろのはずだ。
でも俺の頭に従妹のことはあまりなく、部誌の原稿のこともあまりなかった。
もっと別のことを考えていた。考えていた、というより、別のことに支配されていた、という方が正しいかもしれない。
とにかく、卒業アルバムの衝撃が大きかった。
それでも平日であるからには学校に向かわなくてはならないわけで、俺はいつものように起床し、準備し、登校した。
で、登校してみると、シィタ派もビィ派も既に教室に来ていた。彼らの態度はいつも通りだった。
当たり前の話だ。変わる理由がない。
「よう。眠そうだな?」
声を掛けてきたのはビィ派だった。元気そうな声。もう風邪は完全に治ったらしい。
「ちょっと寝不足で」
と俺は本当のことを言った。
「なにかあったの?」
今度はシィタ派の声。
「まあ少し」
「女か?」
とビィ派。
「……まあ合ってる」
「へえ」
興味深そうな溜め息。普段だったらごまかすところだけど、誰かに話して楽になってしまいたい気持ちが大きかった。
「あのさ」と俺はシィタ派に声を掛けた。
「文芸部の後輩いるじゃん。あの子」
「まだ名前覚えてないのか」
「うん。で、あの子さ、俺たちと同じ中学出身だったって知ってた?」
そこでシィタ派だけでなくビィ派までが意外そうな顔になった。
「あれ、おまえ知らなかったの?」
ビィ派にまでそう言われている時点で、知らなかった俺が異常なのだと気付かされる。
「……うん。知らなかった」
俺の言葉に、シィタ派は目を丸くしたまま考え込んでしまった。
それから思い出したように言葉を引き継ぐ。
「前にそういう話しなかったっけ? ……いや、したはずだよ。今年の春の顔合わせんとき」
「……顔合わせの、ミーティングのとき?」
「うん」
「俺、そのとき寝てたわ」
ふたりは「あー」という顔をした。まずいものを見たというように。
「でも、そのあとも何度かそういう話題になったはずだけど」
「いつ?」
「結構な頻度で。中学のときどうだったとか、何部だったとか。おまえもいるときに」
……たぶん、聞き流していた。自分とは関係のない話だと思って。
いつもだ。誰かが傍で話をしていても、他の奴同士で盛り上がっているときは、聞き流してしまう。
なぜか、分からないけど。癖や習慣みたいなものか。
「うん。してたよ、そういう話。ていうか……あの子、そうだよ。中学のときバスケ部だったって言ってたけど」
彼の記憶力を少しでいいから分け与えてほしいものだ。
「そうなんだよ。昨日、アルバム見てて気付いた」
「……それなのに覚えてないの?」
ちょっと呆れたふうに、シィタ派は溜め息をついた。
「そうは言ってもさ、俺二年のときにバスケ辞めたんだぜ。てことは、一年も一緒に活動してないわけだろ」
「でも、話す機会くらいあったんじゃないの?」
「ないよ。おまえ、俺は同学年の女バス部員とだってろくに話もしなかったんだぞ。
ていうか、男子バスケ部の部員とも事務的な会話以外ほとんどなにも話さなかったよ!」
そう怒鳴ってから、ちょっと悲しい気持ちになった。
「……そ、そうか」
憐れむような視線が切ない。
「活動だって、そりゃ一緒に行動することだってあったけど、基本的には別だし。
男女の活動の調整なんかは部長たちと顧問がやってたから、ヒラの俺は関係ないし。無縁。無縁です」
「それにしたって、見覚えくらいは……?」
「いや、あるにしてもさ、どっかで見たかな、くらいだろ。それで相手からも何も言われなかったら、気のせいかなって思うじゃん」
「……あのさ、ちょっと気になったんだけど」
と、そこでビィ派が口を挟んだ。
「覚えてなくても無理はないっていうのは分かるけど、おまえはいったいどうして言い訳してるんだ?」
「……いや、言い訳っていうか」
「俺にも入学当初、やたら馴れ馴れしく話しかけてくる奴がいたんだけど、あとで聞いたら、受験のときにちょっと話したことがあったんだって。
でもこっちは全然覚えてなかったわけ。それでも分かったときには笑い話になったよ。
相手が覚えててもこっちが覚えてるとは限らないわけじゃん。それってべつに覚えてない方が悪いわけじゃないだろ?
相手にとっては印象的なことでも、こっちとしたらたいしたことじゃなかったりしてさ」
「……そう、だよな?」
「うん。そんなに気にすることじゃないだろ」
一瞬、ビィ派の言い分に納得して安心しかかったけれど、すぐに枝野のことを思い出してなんとも言えない気持ちになった。
「うーん……」
「どうしたんだよ、いったい」
二人とも困り顔だった。良い奴らだ。とはいえ、枝野のことを言う気にはなれない。
結局そこで話は終わった。
◇
放課後、部活に出る前に屋上を覗いてみたけれど、彼女の姿はどこにもなかった。
それもまあ、昨日の今日では当たり前かもしれない。
よくよく考えると、俺は彼女を屋上でしか見かけたことがない。
……でも、それはたぶん嘘だ。同じ学校で生活しているんだから。
俺が気付かないだけで、たとえば廊下ですれ違うなり、しているはずだ。
――だって、わたしに興味ないでしょ?
……そんなことはない、と、思う。
――じゃあ、わたしのことどう思ってる? どんな存在?
……いつも屋上にいる女の子。
――それ以外は?
……それ以外?
頭をよぎったのは昨日見たアルバムに載っていた写真だった。
笑っていた。
でも覚えていないんだ、俺は。そのときのことも、それからのことも。
覚えていなかったとはいえ、そのまま平然と顔を合わせていたというのは、ひどい。
覚えていなかったからこそ、よりいっそうひどい。
でも、どうして彼女は、俺に一度もそのことを言わなかったんだろう。
言えなかったのかもしれない。もし俺が彼女の立場だったら、自分からは言いたくない。
でも、疎ましく思わなかったんだろうか。
彼女の視点に立てば、俺の態度はどう考えても無神経だ。
顔も見たくないって思われても仕方ない。口汚く罵られても、納得できる。
でも彼女は、そんな態度を見せなかった。
毎日みたいに顔を合わせていたのに。
普通に話をしていた。笑ったり、腹を立てたり、暗い顔をしたり、ぼんやり考え事をしたりしながら。
最初から分かっていたなら、どうしてそんなことを続けていたんだろう。
『そっちは、なんか体調悪そうだね?』
『わたしは憂鬱じゃないときがないから』
『結局さ、堂々巡りなんだよね』
『つらいなあって思う。ちょっといいことがある。またつらくなる。その繰り返し。
次にいいことがあるとは限らないでしょ。ずっと悪いことばっかりかもしれない。
でも、ひょっとしたらいいことがあるかもって思って、続けて……いいことがあって、でもやっぱり終わって』
『それは、心配だね』
『わたしは、良いと思ったよ。去年の』
『ばか! 死ね!』
……考える材料はいくつもあるような気がする。でも、俺はそれをあまり気にしないことにした。
仮に考えることで何かの答えが出せたとしても、それをどうにかできる気がしなかった。
◇
「と、言うわけで、そろそろ部誌の原稿の締め切りなわけですがー」
部員が全員部室に集まったところでミーティングが始まった。
部長はいつものように何かを書くわけでもなくホワイトボードの前に立ち、間延びした声で話を始めた。
「八人の部員中、まだ二名しか提出していません」
部長ははっきりとした口調で言った。
後輩とシィタ派の表情を見ると、どことなく気まずそうだった。編入生はまあ、ちょっと困った顔をしている程度。
「二名」と俺は繰り返した。
「何か?」と部長は訊き返してくる。
「それ、山田と定岡ですよね?」
「はい」
「部長は……?」
「とにかく、文化祭までもう二週間とちょっとしかないのです。このままではまずいー! 非常ーにまずい!」
……部長もまだらしい。
「というわけで、わたくし部長めといたしましては、みなさんに激励の言葉を投げかけたい所存ー!」
「日本語あやしいですよ」
「適当でもいいから完成させてー! おもしろくなくていいからー! それっぽいならなんでもいいからー!
このままだと川柳二本だよー! ぺらっぺらだよー! サボり部だと思われるよー!」
……サボり部じゃなかったんだ。幽霊部員三人も抱えてるうえに、顧問もあれなのに。
「部長」
「はい、なんでしょう」
俺は昨日受け取った原稿を取り出して、部長に手渡した。部長は「おおー!」と咽び声をあげた。
「昨日、枝野から渡されました」
「やった! ナイス! これで川柳三本!」
「……」
喜ぶところでもないと思うが、まあ放っておこう。
とはいえ、シィタ派も提出していないというのは意外だった。
部長は普段から何をやっているか分からないし、いざとなればストックを出してくるだろう。
後輩は書き始めたばかりだし、勝手を掴めていないんだろう。
でもシィタ派は、結構コンスタントに新作を書き上げる奴なのに。何か気がかりでもあるんだろうか。
編入生のこととか。
……頭の中で考えただけだが、妙にリアリティがあって嫌なので、忘れることにしよう。
ふと顔を向けると、シィタ派もこっちを見ていた。目が合うと、奴はちょっと困ったふうに微笑む。
まあ、いろいろあるんだろう。よくわからないけど、たぶん俺には関係ない話だろう。
世の中の大半のことは俺とは無関係に起こっているのだ。うん。
「そこ!」
と、不意に部長が声をあげて、俺のことを指差した。
「……え?」
「自分は関係ないみたいな顔しないで!」
「いや、無理なら書かなくてもいいって、部長、つい昨日……」
「撤回! 書け!」
……。
世の中の大半のことは、俺の都合とは無関係に起こる、が正しいかもしれない。
◇
ミーティングが終わってから、部員たちはそれぞれの活動に移った。
部長にあんなことを言われた以上は仕方ないので、俺も一応ノートを広げて何かを考えている振りをする。
頭が働いている状態とは言い難かった。
後輩の様子が気にかかった。といっても、彼女の様子はいつも通りなのだけれど。
それも当然の話で、彼女からすれば、今日は普段と何も変わらない一日のはずなのだ。
見れば、熱心にペンを動かし、既に何かを書き始めているらしい。
俺はしばらく彼女の様子を眺めていた。
ときどき、唸り出したり、伸びをしたり、ペン回しをしたりしながら、ノートに向かっている。
真剣な表情で。
どこかで、見たことがあるような気は、する。
まあ、見たことがあったっておかしくはないはずなんだけど。
とはいえ、まあ、交流はなかった(はずだ)し、仮に俺のことを覚えていても、それがどうというわけでもないだろう。
もし何かあれば、とっくにそれらしい話になっているはずだし。
つまり、気に掛けるだけ無駄、なはず。
まあ、単に中学が同じというだけなら、話をしたこともなくてもおかしくないし。
だよな、と思うのだけれど、いまいち自分に自信がモテないのはどうしてだろう。
じっと見ているうちに、後輩は徐々に落ち着きを失い始めていた。
もぞもぞと何度も姿勢を直し、ペン先でノートをつつき始める。
どうかしたんだろうかと見ていると、不意に、
「あの」
と部長が座ったまま声を掛けてきた。
「はい?」
「どうしたの?」
見れば、他の部員たちも俺の方を見ているようだった。編入生までもが。
「……あ、いや」
「今までにないくらいの熱視線だったけど」
からかうというよりは、本当に驚いたみたいな顔で、シィタ派が言った。
後輩は戸惑った様子で、ノートから顔をあげず、黙り込んだまま俯いている。
俺が黙ると、みんなも黙った。
「……いや、ちょっと気になって」
「気になる」
と繰り返したのは編入生だった。
「あ、いや。気になるって言っても、そういう気になるではなくて」
「じゃあ、どういう気になる?」
今度ははっきりと揶揄を含んだ声音で、シィタ派は訊ねてきた。俺は少し考え込む。
「……つまり」
「……つまり?」
「夏祭りのクジ引きの景品みたいな感じの、気になる、かな」
俺の答えに、シィタ派は困った顔になった。部長だけが納得したように何度も頷く。
「あー、実際は当たらないからやらないんだけど、よさそうなのがあるとつい見ちゃうんだよねー」
「……よさそうなのがあると、つい見ちゃうわけですか」
今度は編入生が言った。
「その言い方は語弊があると思う」
そう大真面目に言ったのだけれど、彼らは興味深げな視線をなくしてはくれなかった。
シィタ派に至っては、
「『あれよさそうだなー。どうせ当たんないけどなー』っていう卑屈さがおまえらしいと言えばおまえらしい」
笑いながらそんなことを言い始めるくらいだった。
「卑屈ってなんだ。悪気がなければ何を言ってもいいってわけじゃないぞ」
「安心しろ。悪気ならある」
「死ね」
と俺は二割くらい本気で言ったが、実際俺も似たようなものだった。
何を書いているのかが気になったとか、適当にごまかしておけばよかった。
後輩は部活が終わるまで、一度も俺の方を見なかった。
◇
部活中はそれからずっと、何をするでもなくぼんやりしていた。
この「ぼんやりする」というの、割と大切な時間だと思うのだが、まあ周りから見れば単にサボっているだけか。
帰り際にもう一度屋上を覗いたけれど、やはり彼女の姿はなかった。
それでもすぐに帰る気にはなれなくて、フェンスの傍から街を見下ろした。
急に、猫のことを思い出した。車に轢かれ、ばらばらに引きちぎられた白い猫のこと。
今日もどこかで死んでいるんだろうなあ。そんなことを思った。俺の生活とは無関係に。
あれほど無様で醜い死にざまもない。あんな無様な死に方は……。
どうして俺はそんなことばかり覚えているんだろう。
自分はひょっとして、何か致命的な欠陥を抱えているんじゃないかという気がしていた。昔から。
中二の冬に祖母が死んだとき、俺はすぐには泣かなかった。妹は泣いていたし、父だって悲痛な顔をしていたけれど。
俺は死というものをうまく飲み込めなかったのかもしれない。悲しかったような気はする。
今にして思えば滑稽な話だけれど、俺は人の死というものをテレビの向こうの出来事としてしかとらえていなかった。
だから、祖母が死んだら、テレビでニュースとして取り上げられるような気がしていたのだ。
もちろんそんなことにはならなかった。祖母はごく普通の人物だった。
ニュースとして取り上げるに足らない人物。取るに足らない死。
当時はそのことがすごくショックだった。
火葬場からの帰りのバスの中、よく知らない親戚の男の人が話しかけてくれた。
そして言い聞かせるように「泣かなくて偉かったな。祖母ちゃん、天国で誇りに思ってるぞ」と言った。
俺はそのとき、その人の言うことが本当なんじゃないかと思った。
祖母が本当に俺のことを見ているような気がした。俺はそのとき初めて泣いたのだ。
翌日の地方ニュースでは今年の初雪が例年よりもかなり遅い時期だということに触れていた。
情報バラエティは月末に迫ったクリスマスに向け、流行を取り入れたプレゼントを特集していた。
そのあとのニュース番組では、県内のとある住宅地で起こった殺人事件の詳細を報道していた。
愛憎のもつれについて、コメンテーターが沈痛な面持ちでそれらしいことを言っていた。
祖母の死については、誰もなにも言わなかった。どうしてそんなことを今でも覚えているんだろう。
どうして俺はこんなことしか覚えていないんだろう。
もっと他に覚えているべきことはあったはずなのだ。
古い記憶を漁ってみる。でも思い出せることはろくになかった。
幼稚園に入っていた頃のことなんておぼろげな記憶すらない。
一番古い記憶はなんだろう? 小学校低学年くらいのとき、従妹が叔母たちと一緒に家に遊びに来たときだろうか?
それとももっと別のものだろうか。
ようやく思い出せたのは、また死んだ動物についての記憶だった。
雀の死骸だ。小学校の頃だ。学校が終わった後、校庭の隅に年下の子が何人か集まっていたから、何かと思って近付いた。
そうしたら、木の枯れ枝でスズメの死骸をつついていた。俺は無性に腹が立って怒鳴りつけた。
そうすると、彼らは、墓を作ろうとしたのだ、と弁解した。実際、傍には浅い穴が掘ってあった。
細い枝で体を押してそこに入れようとしていたのだ。
触って持てばいいだろ、と俺が言うと、気持ち悪いんだ、と彼らは言った。
俺はその倒錯に何を言っていいのか分からなくなってしまった。
何かしら耐えきれないような気持ちだけが残った。
俺は何も言わずに穴を深く掘り、素手で死骸を掴んだ。柔らかくてぐにゅぐにゅとした、気持ち悪い感触だった。鳥肌が出た。
それでも穴の中に動かなくなったスズメの死骸を置き、わずかに土を掛けた。そこが限界だった。
埋めろ、と俺は言った。ありがとう、と彼らは言った。そして木の棒を盛り上がった土に差したり、その前に形のいい小石を並べたりし始めた。
俺はもう何も言いたくなかった。いくら手を洗っても、死骸の感触は消えなかった。
◇
扉が開く音がした。とっさに彼女が来たのかと思い躊躇したけれど、結局振り返る以外に手段は見つけられなかった。
それでも、やってきたのは枝野ではなかった。部長だった。
「うわ、風、強いねー」
「……どうしたんですか?」
「いやあ。ちょっと居残りして、ようやく書き終わったからさ、屋上で祝盃あげようと思って」
「……一人で?」
手には烏龍茶、が、ふたつ。
「飲むかい?」
「俺がいるって、わかってたんですか?」
「まあ、うん。きみ、いっつもここでしょ。まだ帰らないみたいだったから」
よく見ているものだ。俺には真似できない。
俺は部長から烏龍茶を受け取った。彼女は嬉しそうに頷いた。
「さっきはああ言ったけど、書きたくないなら、書かなくてもいいよ」
「……また、言ってることが違う」
「わたし、わりと適当に生きてるから」
部長の笑い方は、見ていて気持ちがいい。そこには必要以上の衒いのようなものが一切ない。
本当に自然と湧き出るような笑み。
そういうのは、俺にはできない。
「ホントにね。無理ならいいし、書きたくないなら書かなくてもいいんだよ」
――書くか書かないかは、書きたいか書きたくないかで決めるものでしょ?
……結構、ダメージを食らったようだ。あのやりとり。
こんなに何度も彼女のことを思い出すことなんて、今までなかった。
「自分でもよくわからないです」
「よく分からないって?」
「書きたくないんですよ、俺は。書いてると心底うんざりしてくるんです。自分が嫌になってくる。
だから、書いてる最中は、これを書き終えたらもう二度と書いてやるもんかと思う。
でも、書かないでいると、今度は不安になるんです。物凄い無力感に襲われる。自分が一生何も手に入れられない気がしてくる。
たぶん、俺はどうかしてるんです。病気みたいなものなんですよ。書くことから距離を置くべきなんだと思う」
言ったあと、言わなければよかったと後悔した。部長は長い間を置いたあと、
「まあ、人によっていろんなこと考えながら書いてるよねえ」
と、そう、当たり前みたいに頷いた。
「……おかしい、って、思わないんですか?」
「ん。いや、うーん。でも、ほら。ホントに書く理由なんて人それぞれじゃない? お金がもらえるんなら別だけどさ。
ほら、女の子にモテたいってだけで始めても、売れるバンドっているわけでしょ?
書く側の都合なんて、読む側にはほとんど伝わらないよ。どんな理由でも書きたいなら書けばいいし。
ストイックになったり、サービス精神旺盛になったりする必要はないんじゃない?
まあ、でも、ちょっと不健全って感じはするけどね」
俺が何も言えずにいると、部長は言葉を重ねた。
「まあ、書けないからってそんなに落ち込むこともないと思うけどね」
「……そう、ですよね」
「いや、べつに落ち込んじゃダメってことじゃなくて。つまり、いろいろあっても、いいんだよ。と、わたしは思う」
そう言い切ると、烏龍茶をストローで啜りきって、部長は大きな溜め息をついた。
「それにしてもさ、夕陽って見てるとうんざりしてくるよねえ。明日も学校かあって」
その言葉に、俺はちょっと驚いた。
「綺麗なんだけど、綺麗なぶん落ち込んじゃうよね。なんかこう、切ない感じ? 分かんないけど」
「部長」
「ん?」
「明日、土曜ですよ」
「……た、たとえだよ、たとえ」
部長はごまかすみたいに笑った。
◇
それからすぐに部長は屋上を後にした。
俺はそのあとも少しだけ彼女が現れないかと待っていたけれど、やっぱり来てくれなかった。
よくよく考えてみれば、べつに会ったからといって言えることがあるわけでもない。
謝ったりするのもなんだか偉そうな感じがするし、かといって普段通りに話せるとも思えない。
そう気付いたあとには頭を切り替えて、早々に家に帰ることにした。
学校を出た頃から空が曇ってきたからまさかと思ったが、案の定帰路の途中で雨に降られた。
打ち付けるような強い雨だった。一瞬だけ街の中が台風の日みたいに荒れた。
鞄の底に入れていたはずの折り畳み傘を探したけれど、今日に限って家に忘れてきたらしい。
建物の軒先に隠れてなるべく濡れないように歩いたけれど、そういう日に限って交差点で信号に引っかかったりするものだ。
いつも寄るコンビニには傘がちょうど置いてなかったりして、もうそういう運命なんだろうと諦めた。
それでもコンビニの屋根の下にいるうちに雨が止んでくれないかと祈ってもみたのだが、が、結果はむべなるかな。
数分待っても止む気配を見せなかった。
結局、たいした距離でもないからと諦めて雨の下に飛び出した。
雨脚は更に強まっていた。大粒の雨が痛いほどの勢いで地面にぶつかり、跳ねかえった飛沫が視界を悪くした。
こういうときに限って気になるのは鞄の中身が無事かどうかだけだったりする。
ほとんどやけみたいな気持ちで家路を急ぎつつも、そういえば慌てて帰る理由もそんなにはないよなあと考えた。
冷静に考えれば家はすぐそばだったわけで、家でも電話でもして、従妹か妹か、どっちかにでも迎えにきてもらえばよかった。
そういうことを思い付いたときには既に戻るより進む方が早い距離まで来ていて、自分の考えの足らなさが嫌になったりする。
こうも不運が続くとなんだか自分が可哀想になってくる。
そんな調子だったから家に着いた頃にはなんだか無性に悲しい気持ちになっていた。
だから玄関のドアを開けてすぐに妹が出迎えに来てくれたときには本当に泣きそうになった。
「傘忘れたの?」
「うん」
「ちょっと待ってて」
慌てた様子で脱衣所に向かうと、すぐに大きめのタオルを持ってきてくれた。
二十代の若い夫婦がやっても違和感のないやり取りだよなあ、とぼんやり他人事のように思いながら体を拭く。
幸い制服はそんなに濡れていなかった。
「すごい雨だね」
「うん。参ったよ」
と俺は新婚夫婦の働き者の旦那風に答えてみたのだけれど、妹はなんとも思わなかったらしい。
鞄の中身の無事を確認しながら、拭いきれなかった雫を疎んで頭を揺すると、妹は「やめてよ」と言った。
それでも俺が何度も頭を揺するものだから、彼女は手を伸ばしてタオルを俺から受け取り、髪をわしゃわしゃと拭きはじめた。
なんだか無性に懐かしいような、物悲しいような気持ちになる。
鞄の中身は無事だったのでようやく安心して、頭を揺さぶられながら妹の顔を見ると、妙に楽しそうな顔をしていた。
なんだろう、と思いながらじっと見つめてみると、視線をさっと逸らされる。なんだかなあという気持ちになった。
「ちい」、と俺は昔からのそうしていたように、妹のことを呼んでみた。
「なに?」と彼女は当たり前のような顔で訊ね返してくる。
勝手に右手が動いて、妹の方に向かった。でも、その手が何をしようとしていたのか、自分でも分からなかった。
妹はちょっと意外そうな顔で俺の手のひらを見た。俺は仕方なく手近にあった妹の頬を軽くつねってみる。
「ご飯なに?」
と、そのままの姿勢で訊ねた。
「いろいろ」
と妹もつねられたまま文句も言わずに答えてきた。声の感じはいつもより間抜けだった。
「明日お姉ちゃん帰るから、ちょっと豪華」
「ああ、そっか」
「おふろわかすから、先に入った方いいよ。ごはん、まだ準備してるから」
「うん」
「……そろそろ離して?」
「うん」
と言いながら、俺は左手でも同じように妹の頬をつねってみた。
「……なんなの」
「いや、触り心地がいい」
「……せくはら」
「どこが。いや、おまえ、これは世界狙えるよ」
「……ばか?」
妹はなんとも言えないような顔つきで俺の手のひらを掴むと、それをそっと引き剥がした。
それから何も言わずに俺を置き去りにして、キッチンへと去って行く。
残された俺は濡れそぼった靴と靴下を脱ぎ、タオルで足を拭いてから脱衣所に向かった。
いつもと、自分の中の何かが違うのを感じた。
風呂をあがって着替えを終えた頃には夕飯の準備は済んでいたらしかった。
従妹はリビングのソファで気持ちよさそうに眠っていた。
こういう姿を見せられると、居候のくせに、などと心にもないことを言ってからかいたくなってくる。
俺は自分の気持ちがどこか落ち着いていないことに気付いていた。
なぜだろう、と考えて、すぐに気付く。金曜日なのだ。そして強い雨が降った。
「明日は休みだ!」
俺が両手をあげてわざとらしく言ってみると、妹はどうでもよさそうに「そうだねー」と返事を寄越した。
それからテレビの電源を入れてみた。ちょうどカレーのコマーシャルが流れていた。
俺は即座にテレビの電源を落とした。昔から夕方頃のテレビで流れるCMというのがすごく苦手だった。なんかさびしくて。
雨の音はうるさいくらいに家の中に聞こえている。
何か不安定な感じがした。気持ちがざわざわと落ち着かない。このところずっとそうだ。
俺は明日が休みだということを、言葉の上で思うほど喜んではいなかった。
いつからか、休みでも平日でも、大差ないように感じてしまっている。
感情が平坦で、起伏がほとんどない。
でも、今日は少し違う。何かが違う。なぜだろう。妙に落ち着かない。
俺はソファで横になる従妹の表情をぼんやりと観察してみた。
子供みたいな顔で眠る奴だ。毒気もない。
それにしたって、似たような遺伝子の持ち主のはずなのに、妹といい従妹といい、俺とはなんでこうも顔のつくりが違うんだろう。
もし赤の他人だったら、恐れ多くて話しかけられないかもしれない。
ひょっとして俺は橋の下で拾われた子供だとか。
と、バカみたいなことを自分で考えてから、すぐに否定する。
それにしたって、どうしてこう、安らかな顔で眠るんだろう。
どんな人でもそうなんだろうか。眠るときはこういう、子供みたいな顔をするんだろうか。
そんなことを考えているうちに、俺は自分の心が落ち着かない理由が分かったような気がした。
「帰るのか」
訊ねるでもなく、独り言として呟く。
「少し寂しいな」
一緒に何かをしたわけでもない。ただそこに居ただけの相手なのに。
こいつがいると、家の中がいつもより賑やかだった。
「勝手な奴め」
拗ねるような気持ちで呟いたとき、従妹の唇がかすかに動いて、鼻からふっと息が漏れた。
そして、何事もなかったかのように、また落ち着いた呼吸に戻る。
「……」
「……おい」
「……」
「起きてるな?」
訊ねると、
「……ふへへ」
と従妹は目を閉じたままわざとらしく笑った。
「なぜ寝たふりをしていた」
そこでようやく体を起こして、瞼を開けてくれた。
気恥ずかしい気持ちを怒りでごまかす。従妹はこほんと咳払いをした。
「……いや、寝てるところを傍でじろじろ眺めてる人がいたら、目を開けるタイミングに迷うというか、ね?」
……俺が悪いらしい。
「そっか、おにいちゃんは寂しいか。わたしが帰るの」
にやにやしている。こういうところは叔母にそっくりだ。
心底楽しそうな顔で笑う。
「何の話だろうか」
俺は必死に真剣な表情を作ってそう訊ねた。
「寂しいってさっき言ってたでしょ?」
「幻聴かと思われる」
「え、そうかな?」
「もしくは夢でも見ていたのではないか」
「……いやー、そっかー。夢かー」
それでもにやにや笑いは崩さない。もう何を言ってもごまかしようがなかった。
「そっか。おにいちゃんも寂しかったのか」
『も』。
……何も言うまい。
俺はまた右手を動かし、従妹の頭に手のひらを乗せた。
「……なに?」
ちょっと面食らった顔で、従妹は言った。俺は答えに困った。
「……いや」
それからごまかすつもりで手のひらを動かす。従妹は暴れるように抵抗した。
「こら、やめろ、髪ぐしゃぐしゃになるから、ほんと怒るぞ!」
「おまえがいなくなると寂しいよ」
「……お、おう? どうしたのいったい?」
「嘘だ」
「……蹴っていい?」
「いやだ」
従妹は俺の頭を平手でぽんと叩いた。それ以上は何も言ってこなかった。
◇
そんな出来の悪いラブコメみたいなやりとりをしている最中も、俺の心から奇妙な違和感はなくならなかった。
たぶん寂しいんだろうな、と自分で納得していたのだけれど、どうもおかしい。
その日、父は早々に帰ってきて夕飯に参加していた。
食事は妹が言っていた通り豪華だったけれど、俺は食べ終えた十分後には自分が何を食べたのか思い出せなくなっていた。
どこかふわふわと落ち着かない。現実的な手触りが薄い。
従妹は食事を終えたあと父と何かを話していたが、途中で叔母から電話が掛かってきたようで、部屋に引っ込んでしまった。
俺と妹とそれから父は、そのまま取り残され、交わす言葉もなく黙り込んだ。
父が三本目のビールを開けるとき、妹は「まだ飲むの?」と咎めるように言った。
父は照れくさそうに笑うだけで何も答えなかった。
俺はその何気ないやり取りを注視するでもなく眺めていた。
何もするべきことが思いつかない。
俺がぼーっとしている間に妹は早々に食器を片付けて洗い始めた。
父はテレビを見ながら何をするでもなくビールを啜っている。
誰も喋らなかった。
やがて食器を洗う音が途切れ、妹は宿題をすると言い残して自分の部屋へと戻っていった。
これで俺と父だけが取り残されてしまった。
そういえば最後に父と話をしたのはいつだっただろう。
ずっと前からろくに言葉も交わしていない気がする。
いつからか話さなくなった、というわけでもない。
もともと口数の少ない人だった。
何か用事があるとき以外は、黙り込んでみんなを後ろから眺めていることが多かった。
ときどき叔母と顔を合わせると、びっくりするくらい喋り出すものだから、子供ながらに驚いた記憶がある。
でもそれ以外は、いつも堅苦しい顔をしているか、あるいは不機嫌そうに顔をしかめているか。
ときどき感情をあらわにするときも、大声で怒鳴りつけるだけで……。
……そう、だったっけ?
怒鳴り声なんて、ずっと聞いた記憶がない。
不機嫌そうな顔をしているというのも、最近じゃむしろ、窺うような、後ろめたそうな顔を向けてくるだけで。
何か物言いたげな顔をしているだけで、そんな顔はもうずっと見ていない。
最後に真面目に話をしたのは、いつだったっけ。高校に入るときだって、ろくに何も言わなかった気がする。
そういえば、俺の受験が終わる前頃から、合格発表の日まで、父はずっと断酒をしていたんだって妹に聞いた。
ふうん、としか思わなかったけれど。
最後に話をしたのは……膝を壊して、病院に連れて行ってもらったとき?
どんな話をしたのか、もう覚えていない。
それ以前は、まともな会話なんてなかった。
ただ一方的に、俺が……。
……思い出すと、自分がこの場にいることがそもそもの間違いだという気がしてくる。
ずっと、この家に自分の居場所がないような気がしていた。
それは従妹が来てからもっと顕著になっていた。
何が理由なのかは知っている。後ろめたさだ。
だから、この奇妙な感覚は、きっと寂しさだけが理由じゃないんだろう。
俺は、どこかで安堵もしていたのだ。
母が出ていった後、俺は父を手ひどく責めたのだ。
母が出ていったのは父のせいだと。
覚えているかぎりの、母が父に向けていた罵詈雑言を使って。
でもきっと、母が出て行ったのは……。
俺が……。
――良い子にしてないと、置いてっちゃうからね?
なんで近頃はこんなことばかり思い出すんだろう?
夏休みの間も、その前も、こんなことはまったく思い出さなかった。
そうした記憶は日常の底の方で眠ってしまっていたはずなのに。
いろんなことを忘れて、それなりに楽しく……。
(本当に?)と声が聞こえた気がした。
人は自分自身が抱える本質的な部分からは、決して逃れられないものなんです、とどこかで聞いた。
そうだ。中学時代の担任だった男。バスケ部の顧問だった。
部活を辞めたあとから、落伍者でも見るような目で俺を見るようになった。
精神論が好きなバカだった。極めつけは卒業アルバムの文集に教師として寄せたコメントだった。
全員に向けた安っぽいメッセージの後に、バスケ部全員の名前を連ねたあと、「ありがとう」と一言、書いていた。
そこに俺の名前はなかった。あの頃、人を一人だけ殺していいと言われたら、俺はあいつを殺していた。
だから卒業アルバムを見返すのは嫌いだった。ページだけ避けようとしても、印象は強く残ってしまう。そういうものだ。
中二の冬、部活を辞めてすることがなく、かといって帰る気にもなれずに教室に残っていた俺に、彼は一度だけ話しかけた。
「なぜ帰らないんだ?」と彼は聞いた。俺は面倒だったけれど、少しだけ考えた。
「親がうざいから」と俺は答えた。その頃にはもう、父のことを憎んではいなかった。
すべては俺のせいだと知っていた。だって夢の中で母がそう言ったのだ。
「おまえくらいの年頃だと、まあ親っていうのは鬱陶しいものだからね。
でも、そのうち感謝するようになる。誰だってね。あまり邪険にするものじゃないよ」
そいつはそれだけ言うと、子供を見るとき特有の微笑ましそうな顔で笑い、体育館へと向かった。
本当に腹立たしいときというのは、怒りよりも先に呆れがくるせいで、まともに反論もできないのだと、俺はそのとき知った。
母さんは俺を捨てたんだぞ、と俺は思った。
あの女は家族を捨てて逃げたんだ。熱にうなされる妹を置き去りにして姿を消したんだ。
頭の中で教師をなじったあと、そのときの俺はどうしようもない無力感に支配された。
だってそれは俺のせいなのだ。
俺が良い子じゃないから……うるさく騒ぐから……勉強もろくにしない……言うことをきかないから……。
(そうじゃない)、と今の俺は言う。そうじゃないんだ。おまえのせいじゃない。
物事っていうのは、そういうふうに決まるものじゃないんだよ。今の俺は昔の俺に対してそう言うことができる。
(本当にそう?)と昔の俺は言う。
(仮にそれが全部じゃなかったとしても、原因のひとつではあったんじゃないかな)
俺は何も言えなかった。
(そうである以上、俺に何かを言う資格なんてあるんだろうか?)
母がいなくなった日、街には深い霧が立ち込めていた。
夕方過ぎに妹が目を覚ましたとき、母の姿はなかった。
痛む喉を鳴らして、妹は母のことを呼んだ。でも返事はなかった。
乾いた喉を潤すために部屋を出てキッチンに向かい、コップに水を汲み、それを一気に飲んだ。
それからダイニングテーブルの上に置いてあった一枚の紙に目がとまった。
母が記入すべき欄だけがすべて埋められた離婚届だった。
おおよそ非の認められない完璧な記入だった。署名と押印まで丁寧だった。
妹は重い体を引きずるようにして服を着替え、そのまま家を出た。
熱でうまく動かない体は、霧と焦りのせいで余計に体力を奪われていた。
霧の中、意識を失って倒れ込んだ妹の姿を、何十分かあとに近所に住んでいた女性が見つけた。
その後妹は肺炎で二週間入院した。家には俺と父だけが残され、俺は父を激しく責めた。
父は何も言わずに、状況が飲み込めていないような目で、俺を見た。
それからろくに会話なんてなかった。父はその翌朝、当たり前のように、学校へ行けと言った。
そして自分は当たり前のような顔で仕事に向かった。俺は何が起こっているのかまったく理解できなかった。
父のことをひどく憎んだ。自分たちをこんな境遇に追い込んだのは父が母を蔑ろにしたからだと思った。
でも、俺だって似たようなものだった。
妹が霧の中で野ざらしにされていたとき、俺は学校で友達と笑い合っていたのだ。
妹が風邪を引いていたって分かっていたはずなのに、両親の顔を見たくなくて。
今にして思えば、父はよく当たり前のような顔で俺と妹を育てられたものだ、と他人事のように感じる。
そして俺も、よくここに居続けることができたものだ。
俺は今も、父に一言も謝ってはいない。
謝るのが怖かった。
謝って、もし、許されなかったらと思うと。
だって父にまで見放されたら、俺に居場所なんてどこにもないのだ。
そして、見放されてもしかたないだけのことを、俺はずっとしてきたのだから。
だから、いつも、正面切って父と話すのが怖かった。
ふと、自分が「今ここ」にいることを思い出した。それで少しほっとした。
すくなくとも妹の病気は治っている。そして、俺は今父を責めていない。
そういう情報をちゃんと整理しておく必要があった。でないと、ぐしゃぐしゃになって何もかもが分からなくなるのだ。
相変わらず、俺と父しかここにはいない。テレビの音だけが鳴っている。
今かもしれないな、と思った。謝るなら、今かもしれない。
そう思ったことが分かったわけでもないだろうが、じっと見られていることに気付いたのか、父は俺の顔を見た。
「どうした?」
うってつけのタイミングではあった。
でも俺は、とっさに「いや」と否定する。
それからたまらなく嫌な気持ちになった。
父は「そうか」とだけ言ってビールを啜った。
「……美味いの?」
「……ん?」
「ビール」
「……んー。これは微妙だな」
「……」
しらねえよ、と言いたかったけれど、自分で訊いておいてそれはできなかった。
「飲みたいのか?」
「飲んでいいの?」
訊き返すと、父は少し考え込んで、
「飲みたいならな。やめといた方がいいと思うけど」
と言った。俺はべつに飲みたいわけではなかったから、何も言わなかった。
父はそれから一言も話さずに黙り込んでしまった。口数が少ないのにも程度というものがある。
俺は何かを言いたかった。でも、それを今のタイミングで言ってしまうことはできなかった。
「珍しいな」
不意に、父がそんなことを言った。
「……何が?」
「おまえがそんなふうに、口籠ったりするのが。いつもは、言いたいことを好き放題言ってるのに」
なぜか、責められているような気がした。たぶん、そんなつもりはないのだろうけど。
「何か、言いにくいことか?」
「……いや」
と、俺は一度否定しかけて、
「……うん」
と肯定しなおした。
「母さんが出て行ったときのこと」
父は何も言わずに、ビールの缶をテーブルの上に置いた。そして頷き、続きを促した。
「あのとき、俺、父さんを責めただろ?」
父はまた頷いた。
「……ごめんなさい」
「……ん?」
と父は首を傾げた。とても不思議そうに。
「……え?」
「今、何に対して謝った?」
「……いや、だから、父さんに」
「なぜ?」
「だから……責めたことを?」
自分で言ったはずなのに、父の態度があまりに変なので疑問形になってしまった、
「……ん、あ、ああ。そういうことか」
まだ何か納得いかないような顔で、父は何度も首を傾げていたが、やがてなんとか納得したのか、深く頷いた。
「そうか」
「……うん」
「ずっと気にしてたのか?」
「……ずっとってほどでも、ないけど」
「……そうか」
そうか、と。
それだけだった。
据わりの悪い、落ち着かない気持ちが、胸の底の方からずるずると這いあがってくる。
判決を待っているような気分。
そんな俺の不安が顔に出ていたのだろうか。
父は取り繕うように笑った。どこか乾いた、不安そうな顔で。
「そんな顔をするなよ」
「……でも」
「あのな」
父はそう言って、何かを話し出そうとした。でも、何を話したらいいのか分からないような態度で、今度は唸り始めた。
やがて、覚悟を決めたような、真剣な表情で、口を開く。
「おまえたちは、俺たちを責めていいんだよ。おまえが言ったことに間違いなんてなかった。
母さんが出て行ったのは俺の責任だ。俺は母さんがそこまで追い詰められていたなんて知らなかった。
その日その日をやり過ごすことで手一杯だった。たぶん今でもそうだよ。おまえが不安がっていることなんて気付かなかった」
そこで一度言葉を区切り、窺うような目でこちらを見る。今度は俺が続きを促す番だった。
「だから、つまり……おまえは悪くないんだよ。べつに誰もそのことでおまえを責めたりしない。
申し訳ないことをしたって思ってるんだ。ただ、そんなことを言うのは、とても卑怯な気がしたんだよ。
俺が、そんなことを言える立場だとは思えなかったんだ。だから、ちゃんと話もしないまま、ずるずる今日まで来てしまった」
まあ何か言い足りないというように、父は自分の頭を小突いた。たぶん言葉を探しているんだろう。
「親の都合で子供に悲しい思いをさせるなんて、そんなこと、あっちゃいけないんだよ。
俺は上手くやれなくて、母さんは出て行ってしまったけど。でも、本当はそんなことになっちゃいけなかったんだ。
もっと母さんのことを気に掛けるべきだった。言ったって、いまさらな話だけど」
父は一瞬だけ、すごく苦しそうな顔をした。
俺にはその表情の理由が、よく分からなかった。それ以上に、言葉の続きを聞こうとするのに一生懸命だった。
でも、父はそれ以上何も言わなかった。
まだ何かを言いたそうにしていたけれど、言うべきことが思い出せないみたいに、押し黙ってしまった。
「……悪かった」
と、父は最後にそう言った。
俺は今の話をうまく受け止めることができなかった。自分が最初に何を言われたのかも、思い出せなかった。
俺は何も言えないまま、その場を後にして自分の部屋に戻った。
(違う)、と俺は思った。でも、何が違うのかは分からなかった。
それから急に悲しい気持ちになった。その理由も分からないまま、俺は気付けば眠りに落ちていた。
つづく