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/05
今起きたことが全て夢の中であるように願った。
前のめりに崩れ落ちるまどかへと駆け寄る。
転校生は呆然としたまま、背中からまどかを抱きかかえ、虚ろな視線を漂わせていた。
あたしは、ぽっかりとあいた、まどかの黒々とした胸の銃創を見つめながら、
こぽこぽとめどなく溢れ出す赤黒い血を止めようとそっと手を伸ばした。
血溜まりの中は、あたためた泥のように粘って指先から手首までを浸していく。
「まどか、しっかりして、なんとか、なんとかするから!!」
何をどうするというのだ、この状況で。
そもそも、周囲は燃え盛った建築物が、今にも自分たちの居る中庭にまで倒れてきそうだというのに。
知らず、泣いていた。
涙がぼろぼろとこぼれ、頬を伝う。歪んだ視界の向こうには、顔をくしゃくしゃにしたほむらが涙を流しているのが見えた。
どうして、どうしてまどかが殺さなければならないのだ。彼女は何の関係もないのに。
まどかは、ほむらを庇って銃弾に倒れた。どうしようもない事実だった。
「ち、違うの、こ、これは違うの。だって、私は暁美ほむらを……。鹿目さんが悪いのよ、そんなやつかばうから……」
尊敬できる先輩だと思っていた。
彼女の洗練された物腰や、力強い行動力にどれだけ憧れたのだろうか。
魔女や使い魔を一掃する時の彼女は、まるで物語のヒロインそのもので。
瑕疵ひとつなく、完璧だった。
それが今はどうだ。この期に及んで言い訳すらしている。
――こんなのは、あたしやまどかが憧れた巴マミじゃない!
「――ごろし」
「え」
「ひと――ごろし」
巴マミ。縁日の安い金魚のように口をぱくぱくしている。今のあたしには、彼女がこの世界の中で一番醜く見えた。
「ひとごろし!! まどかを返してっ!!」
「ち――ちがう、ちがうのよ、私じゃない、私じゃない!!」
彼女はきびすを返すと、未だ炎の燃え盛る出口の方向へと駆け去っていった。
彼女は普通の人間じゃない。魔法少女だ。なら、最初から逃げ出す算段はあったのだろう。
「逃げるな! 卑怯者!!」
罵声を逃げ去る後姿に投げつける。それらも、炎の渦に溶けた。
あたしは、校舎の鍼が彼女に墜落し、首の骨を折って焼き焦がされることを、天に祈った。
今は、あんな女気にしている場合じゃない。
ここから、まどかを連れ出す方法を考えねば。
息を深く吸い込み、ごほごほとむせた。
当たり前だ。火事場では深呼吸すら許されない。
ほむらは、先程から釣り糸が切れた繰り人形のように呆然としている。頼りにはならない。
下唇を噛んでしまう。どうにか、どうにかしないと。
「まずいな、ここでまどかが死ぬのはすこぶる計算違いだよ」
少年のような高い声。
そこには、先程ほむらに射殺されたはずのキュウべぇが、なにごともなかったかのように、毛ほどの傷もなく座り込んでいる。
「なんで、居るのよ?」
「僕のことかい、さやか。気にする必要はないよ。
マミみたいになりたくなければ、目の前のことだけに集中したほうがいい。危機は続いているみたいだし」
「そうじゃない。――なんなの、アンタ」
「僕かい? 僕は僕だよ。それ以上でも、以下でもない」
「だって、さっき撃たれて――」
「ああ、これのことかい」
そこには、先程頭を破壊された、もう一体のキュウべぇの身体が確かにあった。
彼は、もうひとつの自分をひきずってくると、まるでそれが自然のように、
端から噛り付くと、崩れた耳、長く伸びたピンク色の内臓、肉、皮まで余すことなく平らげた。
「――っ」
吐き気がする。
なんだ、これは。なんなんだ、この生き物は。
「きゅっぷ、エコでしょ。僕って」
真っ赤な澄んだ瞳。昆虫を思わせた。
世界が軋んでいく。ほんの少し前まで当たり前だったことが全て壊れた。
もはや、何が起きても不思議ではなかった。
ここは、全ての常識が通用しないのだ。
ほむらにも彼の声が聞こえているはずだが、彼女はもはや一顧だにしない。
ほむらがキュウべぇを撃ったせいで、まどかは巴マミに撃たれた。
あたしは、この小動物のような生き物の存在が、もう禍々しいモノにしか思えなかった。
晴れていた空が、流れていく分厚い雲で覆われ、光度が落ちていく。
炎上していく校舎は、まるで火勢が弱まらない。五メートルは離れているのに、熱気は肌を焦がすほどの強さだ。
胃が反転しそうなほどの不快感が、また込み上げて来る。苦い唾が口腔にあふれた。
「……さやかちゃ、ん」
まどかの震える小さな手を、そっと握り締める。
こんな熱気の中で、その指先は氷のように冷たかった。青白い顔が目に映る。恐怖で心臓が握りつぶされそう。
「大丈夫だよ、いま、病院に」
携帯を開き、連絡を取ろうと掛けてみるが、まるで通じない。
舌打ちがもれた。
あたしの中の焦りが幾何級的に膨れ上がる。
「通じない! 転校生、あんたのは!」
ほむらが、弱弱しく首を振った。
「どうして、誰も助けに来てくれないのよ!!」
「外部から、この地域を遮断している。そうとしか思えない」
震えるような声。こいつにこんな声で話されると、無性に不安になる。
まどかの唇が、小さく動いた。ほむらが、こちらを見ながら自分の口元に人差し指を立てる。
あたしは、耳をそっと近づけ、まどかの声を拾った。
「マミさんを、責め、ない、で――」
こんな時でも。まどかは、他の誰かを想っている。それこそが既に、奇跡だと。
「なんでよ、まどか。あいつに殺されそうになったのに」
「――わざと、じゃ……ない、よ。きっと」
どうして気づかないのだ、彼女は。
「キュ、べぇは……?」
魔法なんか使えなくても、まどかの存在そのものが輝かしく貴い。
だから、どうしても助けたかった。
「ほむらちゃん、へ、いき?」
「平気、平気だよ、まどか。だから――」
ほむらの受け答えを聞くと、まどかは儚げな笑みを浮かべ、目蓋を閉じた。
彼女の身体から力が完全に抜け切ったのだろう、ほむらの両目が大きく見開かれたのがあたしにもわかった。
「血が流れすぎてる。心臓は外れているみたいだけど、脾臓と肝臓を傷つけている」
「転校生、あんた魔法少女なんだろぉ。なんとか出来ないのかよ」
「出来たら、やってるわよ!! ――もう、魔力が足りないの。彼女を助けられる位相まで跳べない」
「ああああああ!!」
叫び声を上げる。なにか、何かないのか。この苦境をひっくり返す、何かが。
目の前のそれと、目が合う。
そうか。
――ただ一つだけあった。
「キュウべぇ、願い事、なんでも叶うんだよね」
「僕と契約する気になったかい、さやか」
「――美樹さやか! あなたはっ!!」
「悪い、ほむら。あたし、もう決めたんだ。それにもう、あたししかまどかを救えない、だろ?」
何かをいいたげにしていたが、今は構ってられない。
心はもう定まった。契約を行えば、魔女たちだけではなく、今後も今日のような目に何度だって会うかもしれない。
怖くないといえば、嘘だ。ううん、本当は怖い。
今すぐ、家に帰ってふとんをかぶり目をつぶってしまいたい。
そして、朝になれば、あたしとまどかと仁美で通学路をたあいないおしゃべりをしながら歩き、つまらない授業を受けて日がな過ごすんだ。
退屈な日常。
判を押したように決まりきった未来。
見飽きた顔ぶれと平穏。
今、この時、それらは過ぎ去ってしまった。
手を伸ばしても届かない、黄金よりも貴重な時間。
どうして、尊いものほど失ってから気づくのだろうか。
下唇を噛み締め、キュウべぇを睨みすえる。心残りは、ひとつだけ。
恭介の顔が最後に浮かび、彼方に消え去った。
「あたしの願いはたったひとつ。まどかを助けて!! これが契約の誓い!」
「お安い御用さ」
特別何かが起きたわけではない。
痛みも感慨もなく、全ては成立し、執行された。
気づけば、あたしの手のひらにはソウルジェムが、何の感慨もなく乗っていた。
「え、えーと、もう終わり?」
「契約は完了した。まどかの傷は、治ったよ。いや、元々なかったことにされたとでもいうべきかな」
キュウべぇの声が、何故かあたしには機械の摩擦のような、やたらに平坦なものに聞こえた。
「まどか!!」
ほむらが、抱きかかえている彼女の胸を見る。
制服こそ破れているが、そこに確かにあった大きな銃創は、綺麗さっぱり消えてなくなり、
まどかの小さな胸が小さく上下しているのがわかった。
「す、すご――、すごいよ! キュウべぇ! あは、あははははっはっ!!」
自分の中の情動は完全に破壊されてしまったのだろうか、無性に笑いがこみ上げて、押さえ切れなかった。
ほむらも、泣き笑いの表情で困ったようにこちらを見る。
その顔は、いつもの冷淡なものとまるで違い、初めて親近感を覚えた。
「はは、ほむら、あんた酷い顔だよ、くくく」
「あなたに、いわれたく、ないわ」
まどかが助かった。
この先どうなっていくかわからないけど、少なくともこの転校生が案外悪いやつじゃないってわかったような気がした。
気休めでも、それは希望だった。
「気をつけて、さやか。エンドロールはまだみたいだよ」
キュウべぇの声に注意を引かれ、巴マミが逃げ去った方向を見ると、炎で焼き崩れた廃材の中を突き破るようにして、大きな影が閃いた。
そして、その怪物が正体をあらわにした時が、再び自分たちが死地に居ることを思い出させた。
「はは、いつからあたしたちの学校は、ジュラシックパークになったんだ」
火の粉を撒き散らしながら、巨躯を見せたそれは、
象すらひと呑みにしそうな、巨大なくちばしと、中庭を圧するほど大きな羽を持った怪物だった。
「ケツァルコアトルス……」
「は、ケツァ、なに?」
「翼竜よ。どうやら、今度は私だけではなく、あなたのソウルジェムも狙っているのね」
「なんで、急に。いつ、あたしが契約したことを知ってるのよ」
「……今はここから逃げ出すのが先決ね」
それはそうだ。難しいことはあとで考えればいい。
翼竜は、のしのしと数歩歩むと、羽を二三度大きく羽ばたかせる。
空間を圧する風が巻き起こり、思わず片手を上げ粉塵から目を守った。
ほむらが抱きかかえているまどかの様子を見る。
危機は脱したようだが、まだ意識は取り戻していない。汗ばんだ手をゆっくりと開く。武器、武器が必要だ。強く念じながら、叫んだ!
「まどかのこと頼んだわよ!! ここは任せて!」
ほむらは一瞬迷うようなそぶりを見せたが、すぐさま倒れたままのまどかを引きずって、校舎の中の火勢の弱い部分を探し始めた。
あきらめない。最後まで。何があっても、生きるんだ。絶対に。
あたしは、ようやく力を手に入れたんだ。
ここで戦わないという法はない。
願いを形にする。そう、信じるんだ。強く目を閉じて、ゆっくり開いた。
そこに居たあたしは、法衣に身を包み、剣を手にした正義の魔法少女に変身を遂げていた。チープですまん。
「うっそ、すごい……」
長剣に重みはなく、まるでいつも持ち歩いていたかのように、しっくりと手になじんだ。身体の底から力が溢れ出す。
怪鳥が眼前でわななく。脳内にアドレナリンが過剰分泌されているのだろうか、恐怖感は皆無だった。
その雄叫び、合図だったのだろうか。
ケツァルなんとかは、翼をはためかせながら、低空飛行で一直線に喰らいついてきた。暴風が、半ば焼け落ちた低木を根こそぎ巻き上げる。
まだ割れずに残っていた、校舎の窓ガラスが片っ端から風圧で粉々になっていく。
「――来い!」
あたしなんかひと呑み出来るほど大きな口を開き、真っ赤な口腔が直前に迫る。
長剣を上段に構え、前のめりに飛び込む。
敵のくちばし。寸前で身体を反転させ、かわした。刃を両手で円を描くように振るう。
何かにぶつかったと思った時、あたしの体は宙を舞っていた。
弾き飛ばされながらも、冷静に敵の背中を見る。
背後に迫る樹木の幹を後ろ足で蹴り上げ、翼竜の背中へと真っ直ぐに剣を向け飛び降りた。
翼竜の絶叫がほとばしった。
両手で長剣を垂直に突き立てる。
ドス黒い血潮が、間欠泉のように吹き上がり、あたしの頬を叩く。
視界が一瞬にして遮られるが、確かな手ごたえを感じた。
「どうだっ、って、ちょっ、きゃあああああっ!!」
刀身を半分以上突き立てられたまま、翼竜は身もだえする。
この両手を離せば、確実に死ぬ。必死で長剣にしがみついた。
大地を踏み込む轟音が、鼓膜をつんざく。
「こ、このおおおおっ!!」
あたしは翼竜の背中を蹴りつけて、刀身を抜くと、真下へと滑り落ちるようにして白刃を閃かせる。
痛みに耐えかねたのか、再び竜が咆哮する。
躊躇せず、竜のオレンジ色をした羽を深々と真っ二つに切り裂いた。
「げふっ!!」
気を緩めた瞬間、腹に衝撃を受ける。頭の中に火花が跳ねた。
内臓全てを揉みあげるような痛み。
あたしは、背中を校舎の壁に打ちつけながら、それがヤツの尻尾による一撃だと、ようやく理解した。
「ん、くっ!」
痛みをこらえながら立ち上がる。再び翼竜がくちばしをこちらに向けて突進してくるのが見えた。
仰け反ってその場を飛び退く。翼竜の攻撃は、地面に深々とクレーターを作った。
常軌を逸した純粋な殺意。
剣術なんか知っているわけじゃないから、ただ振り回すだけ。
「やああっ!!」
時代劇の立ち合いみたいに、長剣とくちばしが衝突し、硬質な音を立てる。
心臓がパンクしそうなほど早鐘を打っている。
柄を握る指が痺れていまにも取り落としそうだ。
滝のようにほとばしる汗が、首筋を伝って羽織っているマントまで伝う。
両腕が既にパンパンだ。
呼吸が荒い。
敵が首を伸ばす。
「このっ!!」
振った剣の軌道を完全に読まれたのか、いとも簡単にかわされた。
無駄振りが続く度に、どんどん腕が重くなる。
昔のお侍さんは、すごいな。こんなものいつも振り回してたんだもの。
「こんなの倒せるの、本当に」
視界が白く靄がかかったようになって、酷く見づらい。
自分でもこんなことが出来るとは夢にも思わなかった。
そもそも魔法少女っていえば、杖やらなんやらを使って飛び道具じみた魔法で敵をやっつけるものだろう。
接近戦を行うのはガッツだけで充分。
「んもおお! なんで、あたしの武器は剣なのっ!! 想像と違うっ!」
翼竜が、細かく羽ばたきながら頭から突っ込んでくる。大きく避けるので、当たりはしないが、こっちも剣が当たらない。
やっぱりかわいいステッキで華麗に戦いたかった。
どうして剣なのだ。これは絶対、魔法少女じゃない。断固抗議する。
「たあっ!」
気力を振り絞って、剣を振る。
もうほとんど腕の感覚がない。翼竜も羽を傷つけられ、動きが鈍くなっている。スピードは僅かにこちらが上だ。
だが、このままずっとここに居るわけにもいかない。その前に酸欠であの世行きの可能性が高い。
激しい疲労で、よろめいた時、背後から鈍い音が聞こえた。
振り返る。後方の三階の窓際から、ほむらがカーテンを幾重にも巻きつけ、地上にまでするするとおろしていた。
「あれに伝って登れって、ことね」
ほむらが必死に手を振っている。まったく、どうやってあそこまで登ったのだろうか。
あたしは彼女の行動力に、今度だけは素直に感謝することが出来た。
「さあ、どうやってあそこまでいこーかな」
目の前の怪物は、鎌首をもたげながらゆらゆらと、酔ったようにくちばしを動かしている。
あと、一撃。せめてあと、一合。
どう考えても、魔法少女になりたての自分が叶う相手ではない。
こうして構えて睨みあっているだけで、心臓が止まりそうなぐらい怖い。
剣をおろせば、すぐにでもこいつは、あたしの身体を引き裂くだろう。
あたしは、恭介の腕ではなく、まどかの命を選んだんだ。
後悔なんかしてないけど、このまま、まどかが本当に助かったかどうかを確認しなきゃ、死んでも死にきれない。
「じゃあ、やっぱやるしかないよね」
翼竜の感情を宿さない視線が、剣先にからみついて離さない。
上等。
――おまえになんか喰われてやらない!
地を蹴って駆けた。周りの風景が、あっという間に押し流されていく。
火の粉が爆ぜて、頭から降りかかる。構わない。
よりいっそう強く、足の親指に力をこめる。翼竜のくちばし。槍の穂先のように鋭いそれを、引きつけてかわす。
「出来る! 絶対出来る! あたしには出来る!!」
肩口を抉った。痛みはもうほとんど感じない。右肩をやられた。コンマゼロ秒で左手に持ち替え、刃を全力で水平に走らせる。
剣が、竜の左目を両断した。
「んんんっ――っ!!」
頭から前のめりに突っ込む。
竜が、こちらを踏み潰そうと片足を浮かせたのが見えた。
そいつが命取りだ。
あたしは勢いを殺さず、そのまま左手に握った剣を上段に構えると、
巨大な足の裏に刃を突き立てて、三分の二を割るようにして断ち切った。
岩を擦り合わせたような重い絶叫。
頭から、泥のような粘度を持つ怪物の血が降るようにして顔を叩いた。
ずん、と重い地響きと共に、翼竜の巨体が倒れる。
やった、これで逃げられ――。
「ぐっ――」
気を抜いた瞬間、身体を粉々にするように何かが巻きついた。
やつの尻尾だ!! なんで、気づかなかったのだろうか。
「は、な、せ――」
胸から足の爪先までを激しい圧迫感が襲った。
息ができない。めきめきと、全身の骨がこなごなに砕かれていく音を、他人事のように聞きながら、絶望感が脳裏を浸していく。
「こ、このっ! このぉ!!」
左手に握った剣を、巻きついている尻尾に細かく振るう。
だが、足場のないこの状態ではろくに力が入らない。指先から血が引いていく。頭に酸素がまわらない。苦しい、苦しい! 苦しいよ!
「あ、ああああああっ!!」
渾身の力をこめて剣を振るう。がきん、がきん、と巨岩を叩く音が、ぱちぱちと爆ぜる炎といっしょになって共鳴する。
「ん、んんんっ!!」
渾身の力でもう一度剣を振り上げたのが悪かったのか、汗で濡れた柄がすべっていく。
まずい!
剣を落としたら、もう戦えない!
ずるずると、数秒に満たないその時間は、永遠にも似た苦痛だった。
「あ」
得物が落下していく。
呆然と見つめながら、もう、ほとんど抵抗する気力を失ったあたしに残されたのは、
いっそうくっきりと浮かび上がっていく死のイメージだった。
軽く、コイツをあしらって、この場からエスケープする。
至極簡単な作戦だったはずなのに。
「や、だよ」
指先に全力をこめる。爪が引っ搔くのは鉄のように硬い怪物の鱗だった。
一段と締め付けが強くなった。
全身が、みしみしと音を立てて破壊されていく。
喉から、熱いものが逆流し、口元からだらだら流れていく。
苦しい、苦しい。
頭の中が真っ白になっていく。
圧迫されて、目玉が弾けそう。
「ん、くぅ」
腕に力が入らない。
世界の景色が溶けていく。
あたしは、こいつに殺されて――。
なにもかもが、おわってしまう。
それが、ただ、ただ。
イヤ、だった。
――。
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僕たちがようやく学園を探し当てたどり着いた時に凶事は起こっていた。
「か、火事だ。学校が燃えてるよー」
「落ち着くんだ、アキちゃん」
動揺する彼女に声を掛け、周りを見渡す。
校庭には逃げ出した生徒達が、それぞれクラスごとに集団を作り、遠巻きに燃え盛る校舎に見入っている。
それらを押しのけるようにして、遠巻きに火事見物をしているのは周辺地域の住民たちだろうか、
彼らもしくは彼女らはまちまちの服装年齢層で、その中に混じる僕らもたいした違和感なしに校門をくぐれたのは幸いだったというべきか。
関係者以外をシャットアウトするべきの警備員も、今はその任を放り出し、校舎を舐めるように這っている炎を熱心に見入っている。
続けざまに消防車と救急車が並ぶように校庭へと到着し、さながらここは戦場だった。
耳を聾するサイレンの音。
怒声と押し詰まった人々の悲鳴。
真昼に起きた惨事は、いともたやすく、人間の理性を崩壊させる。
消防隊員の放水作業を見ながら、本日において収集できそうな情報の精度と確率を心の中で推し量りながら、僕はある違和感を覚えた。
「アキちゃん、何か違和感を感じないかな」
「どうしたの、フィリップくん。そりゃ、こんな真昼間から学校が火事になるなんて、あんまりないと思うけど」
「そう。まず、こんな昼間から、しかも教育機関である学校で火を出すなんてことまずほとんどないだろう。
工場などと違って火を出す薬品・材料・機械などはほとんど常備されていないだろうからね。おまけに、ここ数週間の湿度は極めて高い」
「うん。そだね、最近よく雨降ってるし」
「今は乾燥する季節じゃない。特に燃え方が変だ。
また、今日はこの学校のカリキュラムでは、全学年全クラスで火を使う調理実習は一切行われていない。
しかも、一番火を出す確率の高い科学室や調理室の棟を避けるようにして、火災が発生している」
いずれも、地球の本棚で検索した情報だ。間違いは、ない。
僕は、地面に座り込むと、地べたに簡単なこの学園の見取り図を指先で描いた。
彼女はふんふんと首を縦に振って僕の話を聞き入ると、何かに気づいたように、顔を上げた。
「もしかして、これって……」
「そう、火勢の強い部分は全て、この校舎のデッドスポットから発生している。
極めて意図的だ。本来の目的は事件のデータ収集だったけど……案外あたりかもしれない。急ごう
「うん、って何をどう急ぐの」
「校舎の裏手。そこにたぶん手がかりがありそうな気がする」
「つまりぶっちゃけていうと、人目につかない場所に火をつけた悪いやつ、がいると」
「人心を混乱させ、陽動を行うのにもっとも簡単な方法だよ。
火を見れば、人間は簡単に理性を失う。これだけ人間の集まる場所なら尚更さ。
財団Xの狙いは、もちろんソウルジェムだろう。……いやな予感がする」
校舎の裏手に回ると、そこは一際延焼が酷かった。
不意に窓ガラスの割れる音が鳴る。
振り向けば、傷だらけの少女たちが、窓枠から身体を滑らせるようにして転がり落ちたのが見えた。
「君は、暁美ほむら。もうひとりが鹿目まどかで間違いないね」
息も絶え絶えな様子で、意識のあるほむらがもうひとりの少女をかばうようにして立ち上がる。彼女の中では、まだ危機は続いているのだ。
「君の事は翔太郎から聞いている。僕はフィリップ、彼の相棒だ。何があったか、話してほしい。出来る限り力になる」
相棒の名前を聞いたことで安堵したのか、力を失った彼女はこちらに向かって倒れ掛かる。
咄嗟にアキちゃんが彼女を支えるようにしてかかえこむ。血と髪の焼け焦げた匂いが鼻を突いた。
「おわっとと、フィリップくん。この子、すっごい怪我してるよ! 早く病院に連れてかなきゃ」
「――待って。まだ、校舎の奥にドーパントが」
「ドーパント。予想はしていたが、こんな昼日中から仕掛けるとはね」
「左さんに連絡を取って下さい。中庭にはまだ美樹さやかが」
「今から呼んでも間に合わないよ。ところで、その子は君の友人かい」
「いえ。……でも、まどかの親友なんです」
苦しそうに眉根を寄せる。何かしら、含むところがあるのだろう。それは、彼女の表情から見て取れた。
「わかった、僕が行くよ。アキちゃんは彼女たちを頼む」
「任せてよ!」
心配げに傷ついた少女が僕の顔を覗き込んでいる。
無理もない。僕は外見上では格闘に向かない体格だ。だが、今は彼女の憂慮を払拭している時間も無い。
「大丈夫。翔太郎の依頼人は僕の依頼人でもある。全力でその期待に答えてみせるよ。何故なら、僕らは二人で一人の探偵なのだから」
彼女の無言を是と取り、走り出した。熱と火勢で歪んだ窓枠に脚を掛け、校舎内に乗り込み、火柱を避け、リノリウムの床を疾走する。
「君、待つんだ。そっちは危険だ!」
消防隊員の制止を振り切り、まっすぐ中庭目指して進む。校舎のマップはデータとして既に登録してあり、迷う気遣いは一切無い。
まもなくして、中庭に通じる渡り廊下の前まで到着した。
そこには、どう見ても人間が足の踏み入れることの出来ないほど大きく燃え盛る炎の壁が立ちふさがっていた。
ここを通過しなければ、目的地にはたどり着けない。
「こいつはまた、チープなトリックだね」
それが、瑕疵だった。
これだけの炎にしては、感じる熱エネルギーが低すぎる。
炎の壁に近づくと、そのオレンジ色の火に腕を突っ込む。しばらくすると、硬い何かに手が当たった。
「子供だましだ」
それは、実にコンパクトな映写機だった。
ボックスのスイッチを切ると、辺りに映し出されていた炎の壁が消えうせる。
つまりは、この場所に集中して人の出入りする必要があったのだ。
――トリックを知っている人間のみ。
僕は翔太郎に携帯を繋ぐと、二、三これまでの経緯を話し、心を整理した。
『気をつけろよ、フィリップ』
「ああ、こっちは僕が片付ける。君は、せいぜい頭を打たないように気をつけて」
『――いってろ』
翔太郎との通話を繋げたまま、中庭に歩み出る。
「ギリギリ間に合ったみたいだ」
そこには、以前倒したケツァルコアトルスドーパントが、一人の少女を殺そうと、
巻きつけた尻尾を高々と天に突き上げている最中だった。
大蛇のようにとぐろを巻いた翼竜の尾が、全力で引き絞られれば、全身の骨を粉砕することなど容易いだろう。
つまりは、あのドーパントの中には、まだ遊びがあったということだ。
甘い、といわざるを得ない。
その一点が、戦場では命取りになる。
「翔太郎、変身だ!」
『おう、行くぜフィリップ!』
『ファング!』
牙と野獣の記憶を内包したガイアメモリをかざし、高らかに響かせる。
ダブルドライバーの右スロットにファングメモリを差し込み、スロット左右に展開。
メモリの竜に模した白銀の本体を中央部に回し、合体・装填させた。
――『FANG/JOKER!!』
僕はWのフォーム中、最高スペックを持つファングジョーカーに変身すると、後ろ足に力を溜め、蹴り上げる。それが、戦闘開始の合図だ。
走った。
燃え盛る業火が世界を嘗め尽くしている。
視界の全てをきらめく火の粉が、紅蓮の蝶となって舞い落ちる。
疾走しながら、タクティカルホーンを叩く。野獣の咆哮が木魂した。
『アームファング!』
右腕に全てを引き裂く刃、アームセイバーが出現する。
ドーパント、初めて気づいたようにこちらを向いた。だが、遅い。蹴り足を速め、ギアを上げる。
僕とケツァルコアトルスドーパントの間合いは一瞬で詰まった。
尾に巻き込まれたままうな垂れた美樹さやかが視界に入る。
大地を蹴って跳躍。
満身の力を込めて、幾重にも巻きついた尾に向かってセイバーを振り下ろす。
翼竜の絶叫。
剣はやすやすと敵の戒めを真っ直ぐ切り捨てると、彼女の身体を拘束から開放した。
僕は落下する彼女を受け止めると、そっと地面に下ろした。
「あ、誰……」
「もう大丈夫。敵の弱点は閲覧済みだ。しばらくここで休んでいるといい。あのドーパントは、僕の獲物だ」
敵に向き直る。翼竜は大仰に身体を揺らしながら、踏みつけようと足を振り上げる。だがそれも予測済みだ。
がら空きになった片足へと、回し蹴りを連続で叩き込む。骨を穿つ鈍い音と共に、巨体が地響きを立て倒れこんだ。
『油断するな、次が来るぞ!!』
翔太郎の声が響く。僕は咄嗟に飛び退くと、倒れざまに伸ばしてきた足の爪をかわした。
その一瞬の隙を狙っていたのだろうか、敵は傷ついた羽を無理やり動かすと、ゆっくりと上体を起こして天に向かって大きくいなないた。
「――逃がさない」
羽ばたいて上昇するケツァルコアトルスドーパントを追って、今にも炎で崩れ落ちそうな校舎の壁面を駆け上がる。
たわんだ鉄の窓枠。剥がれ落ちる、コンクリの破片。
踏み抜いて走る。
重力などものともせずに、トップスピードで屋上まで昇り詰めると、
待っていたかのようにドーパントが羽を細かく動かしながら、襲い掛かってきた。
敵の全てを切り裂く刃。眼前に迫っていた。
首を仰け反らしてかわす。
ドーパントのくちばしは、鋼鉄の柵と金網を溶けた飴細工のように容易く折り切ると、首を振ってその穴を押し広げた。
なんという咬筋力。僕はアームセイバーを半回転させると、真っ向からヤツの顔目掛けて切り付けた。
――が。
ヤツは目玉を庇い、一歩下がった。
その隙を逃さず、屋上に転がり込んだ。
僕は足場を確保すると真っ直ぐドーパントと対峙する。
地上戦を嫌ったのか、ヤツはさらに上空へと舞い上がると、細かく旋回しはじめた。顔を挙げ、敵の一挙一動に視線を凝らす。
集中力を先に切らせたほうが、死ぬ。
不意に日が翳り始めた。黒雲が空を塗りつぶしていく。雲の切れ間から、時折陽光が絞るようにして落ちてくる。雨の匂いを嗅いだ。
天を仰ぐ僕と、空を舞うケツァルコアトルス。
世界が急速に閉じていく。
雨粒が、やがて滴り落ちてくる。
――そして、時は至る。
敵の旋回行動。ポーズを掛けたモニタ画面のように全てが制止した。
翼竜が落下を始めたのだ。
両拳を握りしめる。
決着は一撃で決まる。
小細工はいらない。
敵の巨体と落下エネルギー、それに攻撃力。受けきることは出来ない。
「なら――」
全力で迎え撃つ。精神を研ぎ澄まし、殺意を刃に収斂させる。
腰のタクティカルホーンを三回連続で弾く。
野獣の絶叫が鳴り響いた。
『ファング・マキシマムドライブ!』
天を仰ぐ。撃破すべき対象が急速に近づいてくる。
――迎撃準備完了だ。
右足のセイバーに必殺の気合が溜め込まれる。
荒れ狂う暴虎のエネルギーが、拘束した鎖を噛み切らんと、唸り舌を出して喘ぐ。
ケツァルコアトルスドーパント、お前の最期の時だ。
『ファングストライザー!!』
解き放つこの一撃は。お前を滅して余りある、一撃だ!!
全力で飛び上がり、竜巻のように全身を回転させる。
集約された破壊の暴風は、輝く刃となりドーパントを真っ二つに切り裂くと、爆炎を上げ、敵の偽造メモリを完全に破壊した。
僕は傷ついたセキセイインコをてのひらに載せると、ゆっくりしゃがみこんで肩膝を突いた。空は屋上の埃を洗うように雨脚を強めていく。
小鳥の瞳は、つぶらで黒い宝石のように美しかった。薄い水色の羽が小さく動く。かすかに、ぴぃと鳴き声が漏れた。
「君は何も悪くない」
この小さな命を刈り取ったのはまぎれもない僕自身だ。
今の呟きは、醜い自己弁護でしかない。傍らで破壊した偽造メモリが、雨粒を受け、蝉の断末魔にも似た音をじりじりと立てる。
乾いた電子音が耳障りだった。
財団Xはまたしても罪の無い命を弄んだのだ。
目の奥が燃えるように熱く、泡のようにぷつぷつ湧き出る不快感が背中から全身を満たしていく。
小鳥が僅かに手の中で身じろぎする。
僕は目を閉じ、再び見開くと、そこには羽を閉じた小さな妖精がそっと身を横たえていた。
もう羽ばたくことはない。
さえずることもない。
あの太陽を仰ぎ見ることもない。
その事実が、悲しかった。
立ち上がり、扉に向かって歩き出す。不意に降り出した雨は次第に強まっていく。
僕は自分の足音を聞きながら、出口に向かう。不意に、背中へと突き刺すような視線を感じ、振り返る。
彼女は、音も立てず、雨に打たれたまま、じっと僕を見つめていた。
「貴方は……」
詰襟の白いスーツ。短く切り揃えた髪。
その眼差しは、酷く陰鬱で暗い輝きを宿していた。顔立ちは彫が深く整っているが、表情というものがまるでなかった。
よく出来た石膏像のようだ。知っている。僕はこの人物を知っている。ユートピア・ドーパントを倒した際に現れた、財団Xの局長。
「ネオン・ウルスランド!」
「これが、最初で最後の通告だ。園咲来人、戻ったら左翔太郎にも伝えろ。我々の邪魔をするな、と」
白いストップウォッチを携え、小刻みにカウントを行っている。
視線の先は、こちらを向いているようで、焦点が合っていないようにも思える。その仕草に、酷い不完全さを覚え、気分が悪くなっていく。
「貴女がこの事件の黒幕だったのか。いったい、ソウルジェムを集めてどうするんだ」
「その問いには、答える必要を見出せない。
猶予を一日だけ与える。その間に見滝原から離れろ。
財団は、お前たちと争う必要はないと結論を出した。幸いにもデータの収集は充分に取れた」
「それは、偽造メモリについてのことか」
「そうだ、本来ならば、Mとの戦闘による実験を予定していたのだが、Wとの代替でも、理論値を算出することに成功した。これ以上は蛇足」
「待て!!」
駆け寄ろうと踏み出すと同時に、彼女は足元から蜃気楼のようにゆっくりと揺れながら、
やがて霧のようにあやふやになり、虚空へ溶けるようにして消え去っていった。
「ホログラフィか」
一日で出来ること。
一日で出来ないこと。思考を巡らせる。
「一日ね。つまりは、無限に近い」
そして、確信を抱いた。
それだけあれば、充分だ。僕と翔太郎で、今回の事件の謎を解き、返す刀で財団Xの陰謀を打ち砕いてやる。
――もう二度と、天を駆けることのない小さな命に誓って。
各々の情報の最終的な公開及び統合は、暁美ほむらの自宅で行った。
参加者は、鳴海探偵事務所の僕ら三人と、暁美ほむら、鹿目まどか、美樹さやかの計六人である。
散逸していた情報を逐次、開陳・情報データに蓄積し、細分化していく。
その情報の中でもっとも、衝撃的だったものがあった。
すなわち、契約によって行われる魔法少女の特性に、その人物の魂をソウルジェムに移管するという非人道的な行為があったことだった。
結論から言うと、戦闘によって本人の肉体が破壊されても、ソウルジェムが無事であれば、いくらでも再生は可能である。
だが、それは、もはや人間を捨てるという行為に他ならない。
暁美ほむらは、何度も通い慣れた道を辿るように、至極淡々とそのくだりを述べた時、
もっとも顕著な反応を示したのは、美樹さやかだった。
最初は笑い飛ばし、虚構であると思い込もうとしたが、暁美ほむらが自分の身体を使って全てを証明した際、
それが逃れえぬ真実だと直視したのだろう、表情は虚ろになり、眼差しはぬぐいきれぬ陰りで淀んだ。
「うそ。だって、それじゃあたし、ほとんどゾンビじゃん」
「否定はしないわ。考えてみれば、これほど効率的なシステムはないと思う。
私たちの肉も血も、魔力を失わない限り恒久的に保持されていく。完璧な戦士ね。永遠に戦い続けることも不可能ではないわ」
「ひどいよ、ひどいよ、なんで、そんな」
まどかは、大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼし俯く。
その背中を、アキちゃんが言葉を掛けることもできず、そっと撫で下ろしている。
僕も翔太郎も言葉を失って、黙りこくってしまった。
無言で、さやかが立ち上がった。なんと声を掛けていいのだろうか、僕にもわからなかった。
「さやかちゃん、どこへ。あ、私も――」
「ごめん、今は一人になりたいんだ」
閉じられた扉の音が、やけに大きく響いた。
室内には陰鬱な空気が立ち込めていく。
ほむらの青白い唇が目に入った。顔を上げる。
彼女もこころなしか、瞳に力を失っていた。
彼女も、こんな事実を望んで告げたいと思ったわけではない。
だが、前に進むためには冷静な状況認識が必要だったのだ。
彼女は、常に全力で努めている。ここで、僕たちも諦めてしまうわけにはいかない。
「翔太郎。彼女を一人で帰すわけには行かない。家に着くまで見送っていくよ」
「あっと、フイリップ。オレが行こうか」
「いや、今回は僕に任せてくれないか。少し、考えがあるんだ」
「わかった。何かあったら連絡をくれ」
席を立つと、靴脱ぎに腰を下ろす。小さな足音が、背中に近づいてくる。顔を向けると、まどか何か云いたげに佇んでいた。
「伝言があるなら、どうぞ」
「――さやかちゃんを、お願いします」
「ああ、僕に任せてくれたまえ」
これでも、僕だって、探偵なのだから。
軋んだ音を立てるドアを開き、前を歩く少女に並ぶ。
街灯に照らされた少女の顔は青白く見え、皮肉なことに僕にジョージAロメロのビデオムーヴィを想起させた。
美樹さやかと視線がかち合う。彼女は静かに歩行を止めると、俯いたまま、うめくように声を出した。
「なにか、まだ用が」
「これから、すぐに日が暮れる。一人歩きは危険だ、ことにこういう夕暮れはね。家まで送ろう」
「結構です」
「結構? それは、了解であると意図的に解釈しても構わないかい」
彼女は、不快げに眉をひそませると、こちらを無視するかのように、歩を早める。
この際彼女の心情を慮るのはあまり意味がないだろう。ソフトのストレスよりも、ハードのセキュリティに対して優先順位を上げる。
無言の行を続けたまま、移動を行う。僕たちの座標は、刻々と位置を変え続け、それに伴う時間も流れていった。
歩きながら、思いはやがて財団Xに至った。
ネオン・ウルスランドが僕たちに提示した一日という期限の意味を言葉通りに受け取ることは出来ない。
Wとの戦闘を財団が望まなくても、ソウルジェムを敵が必要とする以上、僕ら干戈を交えることは必定。
おそらく敵は、実験によるドーパントの逐次投入はやめ、戦力を集中させて一挙にぶつけてくるだろう。
「……と、なるとやはりソウルジェムについての特性が焦点となる」
ふと、顔を上げるとさやかが、陸橋の中央に立ち止まり肩を震わせている。
何かが起きたのだろうか。
「どうしたんだい。ちなみにデータから推測すると、ここを通って向かいの歩道に出ると、
君の家に到着するのは、最短ルートから一分十八秒ほどの遅延が発生する。参考までに情報を開示しておこう」
「家には帰りません。病院に寄るから」
彼女は病院名を告げると、再び黙り込む。こちらとしては、その中継地点も検索済みであり、想定の範囲内だった。
「なるほど。こちらはかまわない」
「……勝手にしてよ、もう」
データによれば、彼女の幼馴染である上条恭介は将来を嘱望されたヴァイオリニストであったそうだが事故により将来を絶たれたそうだ。
以来彼女はこまめに見舞いを欠かさず通い続けているらしい。
薄幸のヴァイオリニスト少年と献身的な幼馴染の少女。
出来あいすぎる設定は、前世紀の三文芝居小屋ですら掛けそうもない手垢の付いたものだ。
一抹不安を覚え彼女の後を付いていく。
さやかは、通い慣れた病室への道筋を、淀むことなく歩き続ける。
僕は、一抹の漠とした不安を胸に、病院の消毒臭に鼻を震わせ、無機質な院内の風景を眺めた。
嫌な予感とは、往々にして当たるものである。
「どうしたんだい」
上条恭介と書かれた個室の入り口で、彼女は凍るようにして立ち尽くしていた。
僕が背後から覗き込むようにして、室内を見ると、その中では夕暮れを背景にして、
上条恭介と少女が抱き合うようにして唇を合わせているのがありありと見えた。
「……仁美」
「これは、また」
二人は愛の交歓に没頭しているのか、こちらの視線にはまったく気づかない様子で互いを貪りあっていた。
なすすべもなく、病室を後にする。受付を素通りし、車回しを抜けてこじんまりとした中庭のベンチに、
どちらからということもなく揃って腰を下ろした。
さやかの手。自然に視線が延びた。そこには、渡しそびれたプリザーブドフラワーの籠が寂しそうに乗っていた。
さすがの僕もこれには掛ける言葉がなかった。
美樹さやかの顔。完全に表情を失っていた。
「――その、勘違いということもありえる」
「あれの、どこを?」
「どこだろうか。すまない、僕にも思いつかない。君の案に期待する」
「あたしだって、そう思いたいわよ」
さやかは、死人のような顔つきで、ぼそりぼそりと誰に聞かせるでもなく、吐き出すようにして語りだした。
病室で上条恭介と抱き合っていたのは、志筑仁美といい、彼女の友人だったそうだ。
「こんなことなら仁美に会わせるんじゃなかった」
そうか。
「あたしに内緒で、ふたりはこっそり会ってたのよ」
かもしれない。
「――考えれば、二人はお似合いかもね。恭介とあたしじゃ住む世界が最初から違ったんだもの」
ヴァイオリニストを目指すような富裕階級の家に生まれた少年とお嬢様。
さやかの頭の中では、おそらく事実とは違った 二人の愛の過程が創作され、完結づけられたのだろう。
だが、人間とはそうやって虚妄を真実に塗り替えなければ、心の安定を図れないものである。
献身むなしく恋に破れた少女の最後の心の拠り所まで否定することは僕には出来なかった。
「ねぇ、フィリップくん。聞いてくれる?」
「――続けて」
「あたし、本当は契約の願い事、恭介の腕を治してもらおうと思ってたんだ。
でも、今は、先走って契約しなくてよかったなー、って思ってるよ。
だって願いを残しておいたからまどかを助けることができたんだもん」
ははは、と彼女は力をこめて自分を嘲笑うと、持っていた花かごを地面に叩きつけた。
「ほんっと、よかったぁ。あんな男だってわかってたら、あたしの貴重な時間を割いて見舞いになんてこなかったわー、あはは」
さやかは、立ち上がると足を上げ、勢いよく地べたの花を踏みにじった。
幾度も、幾度も。
「見てよ! これが、あたしの本体!!」
ソウルジェムをかざす。暗い陰鬱な火照りが、彼女の頬にあった。
「じゃあ、この身体は!? 偽者! がらんどうの化け物じゃない!
そもそも、化け物が誰かを好きになったって、何がどうなるわけでもないじゃん!!」
もう戻れない、と。彼女は訴えているのだ。その心の嘆きは、僕の心をうがち、捉え、はなさない。
「ぜんぶ、ぜんぶこうなるって最初から決まってたのよ。あたしは、卑怯で、打算的で、ずるがしこくて、ほんとバカ」
潰れた花弁がひらひらと幾度か舞いあたりに散った。
酷く、悲しい光景だった。
「――でも、本当はそんなこと思ってないんだろう、君は」
「あたしは――」
「自分を傷つけるのはやめるんだ。何の意味もない」
「あんたになにがわかるっていうのよ!!」
「わかるさ! 人を愛するっていうのは綺麗ごとばかりじゃない。
誰かを愛したからって必ず報われるとは限らないし、ほとんどははかなく消え去ってしまうものだ。
だからといって、君が彼に対して行った全てが虚構だったなんて、論じるだけで冒涜だよ」
「ぼう、とく」
「そう、その時の美樹さやかに対しての誠意を貶める行為だ。例え君自身であっても」
「そんなの、詭弁よ」
「詭弁でもいいじゃないか。それに、誰であろうと全ての過去を否定することはできない。
間違った選択肢も、たわんでしまった道筋も、全てが重なり合って今を形作っているんだ。
いいかい、過去を許せるのは自分だけなんだ。
君も、君自身を許してあげようよ。そうしなければ、人間は誰しも前に進めなくなってしまう。進むんだ、勇気を持って!」
「……あたしは、恭介になにかしてあげられるのかな。自信ないよ」
「君と彼の関係は変わってしまうかもしれない。でも、変わらないものもあるはずだ」
「変わらないもの」
僕たちは、いつだってそれを探してる。
「あたしひとりじゃ探せそうにないよ」
「そんな時は、探偵を雇うといい。僕と翔太郎は、いつだって依頼人を待っている」
泣き崩れる彼女の横に立つと、僕は彼女の悲しみが消えゆくことを願い、そっと手を差し伸べた。
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/07
やってしまった。
やってしまった。
鹿目まどかをやってしまった。
「おえぶっ!!」
ステンレスのシンクに向かって、えずく。
「うぇえええっ!!」
もう何度目かわからない。
私は涙目になりながら、黄色い液体を吐き出すと、ふらつく頭を振りながら蛇口をひねりこみ、流水で汚物を流した。
「違うのよぉ、違う、私、そんなつもりじゃなかったのぉ」
時間を刻む時計の音だけが規則的に聞こえてくる。
「べつに、魔法少女なんかなりたくなかったんだもぉん」
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
全ては夢。今も、こうやって泣き喚いて、座り込んでいれば、パパとママがやってきて、優しく慰めてくれる。
そんな幻想を全力で願い、ぎゅっと目を閉じる。
まだかな。
……ねぇ、まだ?
「パパぁ、ママぁ」
耳を澄ます。何の音も聞こえない。
誰の気配もしない。
窓の向こうは既に夕日が落ちきって、夜が訪れていた。
ドアの向こう側に、こつこつと乾いた靴の足音が聞こえる。
その足音を聞いていると、いつも無性に寂しくなるのだ。
汚れた唇を袖口でぬぐうと、なんとか立ち上がった。腰から下が抜け落ちたように力が入らない。これからどうすればいいのだろうか。
「ひとごろしだ、私は」
美樹さやかの鬼のような形相が、脳裏にちらついて離れない。
頭をぶんぶんと、左右に振って忘れようと努めた。そういえば、彼女はこの家に来たことがある。
途端に、激しい恐怖心が全身を浸した。
「に、逃げなきゃ」
美樹さやかが来る。
私の中で、鹿目まどかを殺した罪悪感と、断罪される恐怖心がせめぎあい、相克する。
申し訳ないと思う気持ちとは裏腹に、私の足はアパートを飛び出すと、自然と目的地も定まらないまま駆け出していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃ」
人ごみを避けてふらふら歩き続ける。一度も通ったことのない住宅街をくねくねと周り、
就業時間を過ぎた工業団地を通り抜け、光のない場所、暗い場所へと移動していく。
時間が欠落していく。
感情が欠落していく。
人間性も消えてなくなる。
――そうだ。
私の中にあるのは、申し訳ないという気持ちよりも、
もうこれで本当に後戻りできないという悔しさにも似たいやしい気持ちの方がはるかに大きかった。
「鹿目さんが悪い、鹿目さんが悪い、私はわるくないもん、私はわるくないもん」
彼女の名前を呟く度に、胸が抉られるようにずきずきする。
呼吸がしづらい。目の奥がちかちか発光するように、鈍く痛んだ。
気づけば、いつの間にか見滝河堤防の下に辿りついていた。
高い草と草の間にしゃがむと、私の背丈程度はすっぽりと包まれて遠目には、まったくわからなくなった。
そのことが、随分と心を落ち着かせた。
随分と長い間、人の手が入っていないのだろう、橋の下にはお決まりのホームレスの気配すらなかった。
「おなかすいたよぅ」
きゅうきゅうお腹が悲鳴を上げていた。
もう出ないと思っていた涙が、ぼろぼろと零れ落ちてくる。
擦りすぎた目蓋がはれ上がり、視界がぼんやりと、白い膜がかかったように見えなくなっていく。
川面を撫でる荒涼とした夜風が草叢まで及ぶと、自然に骨身まで寒さが食い込んでくる。
私は両手で丸めた膝を抱え込むと、ぎゅっと目をつぶって、今までの楽しかったことを思い出そうとしたが、
脳裏をちらつくのは、大きく目を見開いたまま倒れこんでいく、鹿目まどかの顔だけだった。
「うぅううう~、消えて、消えてよう! もう、いいじゃない、いいじゃないのぉ!」
魔女なんてどうでもいい。
元の生活に戻りたい。
パパとママに会いたい。
会って抱きしめて欲しい。マミはいい子ね、って頭を撫でて欲しい。
ひとりが嫌だったから、あの二人を誘ったのだ。いや、理由なんかどうでもいい。私の気持ちを紛らわせてくれるのなら誰でもよかった。
それを、手に掛けてしまったのだ。
私は、自らの手で絶望と孤独を掴み取ってしまった。
ふと、伸ばした指先に何かが触れた。
そっと、拾い上げる。
それは、薄汚れたちいさなくまのヌイグルミだった。
そっと、取り上げて星明りにかざす。
わずかな月のあかりを受けて、くまの瞳はきらきらと輝いて見えた。
「くまさん、私もうひとりなの。あなたも? ね、今夜はとっても寒いの。いっしょに寝ましょう」
彼はなにもいわず、つぶらな瞳でじっとこちらを見つめている。そっと抱きしめると、目をつぶった。
もう、ひとりじゃないような気がした。
「マミ、起きて、マミ!」
どのくらいまどろんでいたのだろうか、どこかで呼ぶ声が聞こえる。
顔を上げて声の主を探す。草叢を掻き分けて、堤防を上ると、まだほの暗い橋の欄干に立つそれをようやく見つけることに成功した。
「キュウ、べぇ? ――なん、で?」
「そんな、化け物を見るような目で見ないで欲しいな。僕は僕だよ、マミ」
そこには、確かに撃たれた筈のキュウべぇが何事もなかったかのように存在していた。
「キュウべぇ!! 私、私!」
「ちょっと、そんなに強く抱きしめないでくれよ、きゅっぷ」
「だって、だって、私、私ぃ!」
――嬉しかった。先程まで、もうこの世界でひとりぼっちだったのに。
「うれしくて、うれしくてぇ、ああ」
「大げさだよ、マミ」
ここに彼がいる。言葉が通じて、手でふれて感じ取れる存在が。
喜びと、嬉しさで胸がはちきれそうだった。
先程とは違った涙が溢れてくる。
夜明けの星星は、私たちを祝福しているように見えた。
「でも、なんで? 確かにあなたは、暁美ほむらに」
キュウべぇの赤い瞳。
「あのくらいでやられはしない、僕には僕の奥の手があるのさ、マミ」
なんだろうか、彼の瞳を見つめているうちに、疑問だけが掻き消えて、もういちど彼に会えたという喜びだけでいっぱいになった。
理屈なんてどうでもいい。彼が、ここに居るという事実だけで満足だ。
「――でも、私」
「そう、鹿目まどかのことかい? まさか、あそこで飛び出すなんてね。さすがに今回の彼女は危なかったが」
急速に現実に引き戻された。再会の嬉しさと安堵感が凍結し、深い罪悪感が胸の奥でじわりじわりと頭をもたげていく。
胃が反転しそうだ。無意識のうちに唇を噛み切っていたのか、口の中が鉄錆の匂いで溢れた。
「美樹さやかの力で事無きを得たよ。よかったね、マミ」
キュウべぇの話によると、私があの場を走り去った後に、
美樹さやかが鹿目まどかの蘇生を条件に魔法少女になる契約を交わして一命は取りとめたそうだ。
「でも、彼女たちは、私のことを、もう許してくれないでしょうね」
「そんなことないよ。君が悪いんじゃない。どちらかと、いえば元凶は。――暁美ほむら、さ」
「――え」
ぐらり、と世界がねじれた。
「覚えているかい。あの、ドーパントとかいう怪物。
どうやら、暁美ほむらは、あの怪物を送り込んできた組織とどこかつながっているらしいね」
怪物。
「現に、彼女はあのドーパントを倒せるチャンスは幾度となくあったにも関わらず、止めを君にささせた」
――暁美ほむら。
「みんな騙されているのかもしれない。まどかも、さやかも、そしてマミ、君もだ」
――だまされている?
「マミは、まどかを撃ってしまったことを悔やんでいるのかもしれないけど、それすら彼女の誘導によるものだったとしたら?」
――みんなが?
「確かに撃ってしまったことは事実だ。変えようのない現実かもしれない。
けれども、ちょっとした過ちを恐れて真実に目をつぶることが、僕らにとって本当の意味で進歩に繋がると思うのかい?」
キュウべぇの声が、一段と深みを増して、響く。
疑うな。
疑うな。
彼を信じよう。
だって彼は、私を心配してくれた。
ここまで来てくれたのだ。
――疑うなんて、失礼だ。
「でも、美樹さんは私のことを、酷く責めて」
――私を、ひとごろしと。
「勇気を出すんだ、マミ。この失敗を糧にして前に進もう。
とどまっていたのでは、なにも始まらない。
行動することが、現実を打開するんだ。壁を突き破って進まなければ、どこにも辿りつけない。
君の力で、もういちど時間の針を推し進めるんだ」
「ねぇ、キュウべぇ、私はまず、何をしたらいいのかしら」
「僕に、いくつか腹案がある。もっともこれを、どのように理解し行動するかは、全てマミの決断しだいだけどね。
僕は厳しいことをいっているのかもしれない。
けど、これはこの街の、いやそんなちっぽけなものじゃなく、この世界全てを安定に導く最良のものなんだよ。
今は理解できないかもしれない。でもいずれは理解できる。君にはそれが可能だと、信じているよ」
「教えて、キュウべぇ。私、やるわ。それが世界の為になるなら」
「これから君の為すことは、とても勇気のいることだ。けれども、ひるんじゃダメだ。マミ、それが魔法少女の宿命なんだから」
「しゅく、めい」
もお、考えるのが億劫だ。でも、キュウべぇがいる。私はひとりじゃない。ひとりぼっちじゃない。怖くない。勇気を出さないと。
私には優れた知恵はない。
でも、彼に従っていれば平気だ。彼に間違いはない。
「ねえ、これだけは答えて。キュウべぇ、私たち友達よね? 信じて、いいわね?」
だって、友達だから。
「マミ、僕はいつでも君のそばに居て、見守っているよ」
私はひとりじゃない。だから、間違えても、支えてくれる彼が居る。
「――だったら、やれるわ」
必ず、鹿目まどかと美樹さやかを守ってみせる。
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オレはゲート越しから見える白亜の巨大な建屋を前にして、いささか気おされ気味に、ため息をついた。
「なんというか、ここまで堂々としていると、こっちが気後れしちまうな」
「別に可笑しいところはないさ。財団Xはフロント企業をいくつも経営している。
この研究所も新薬開発では地元に相当金を落としているそうだしね。もちろん末端の部分に限られてはいるが」
オレ達は、あれから話し合った結果、いくつかの方針を決め、敵が攻め寄せてくる前に正面からぶち当たってみることにした。
虎穴に入らずんば虎児を得ずとは、前漢の班超の言であったか。
フィリップの検索を使わずとも、敵の居場所があっさり判明した時は拍子抜けしたが、それだけ余裕を持っているということだろう。
オレとフィリップとほむらは、直接敵地である、見滝原バイオ医学研究所に乗り込んでいる間、
亜樹子たちには、もうひとりの魔法少女である巴マミの捜索を頼んだ。
彼女は昨日から連絡がまったく取れていない。
照井にも連絡を取り、地元の所轄にも応援要請を頼んでもらったが、今のところ成果はゼロである。
それにしても、この研究所、見たところはおかしな部分はほとんど感じられない。
もっとも、異常が理解できるほど、この手の企業に出入する経験もないのだが。
それだけに、場合によってはいきなり戦闘になるかと身構えていたが、
正規の手続きを経て、入門ゲートを通れた時は、振り上げた拳の落とし所がないような、不安定な気持ちに駆られた。
「どうぞ、お進みください」
受付嬢から発行されたIDカードを受け取ると、オレ達はゲートに付随するスキャナに接触させ、至極平凡に入場した。
オレ達の前後を挟むように、企業保安員がぴったりと付き添い、目的地である所長室が置かれている建屋へと移動する。
研究所の中は、オレが想像していたような近未来的なものではなく、ひどくありふれた建屋が、一定の距離を置いて存在していた。
特徴的なものはほとんどなく、個々それぞれが芸術性を剥ぎ取ったような、実質本意な大きな箱のように見えた。
研究所の外側は、古代中国の都城のように、高い壁で遮られており、中はまるでひとつの街のように整然とした構内道路が敷かれていた。
今は、就業時間中なのか人の姿はまるでない。
「ゴーストタウンだな、こいつは」
「翔太郎、この研究所はそれだけ機密を徹底しているということさ。
気をつけたほうがいい。ここでは、人間が何人かいなくなっても、まるで騒がれることはないだろう」
歩いていたのは、数分だっただろうか。ある建屋に到着すると、入り口にセキュリティシステムのアクセスポイントがあり、順番にIDカードかざして扉を解除する。
先導されるままに進んでいくと、一番奥に所長室と書かれたプレートのある部屋にたどり着いた。
保安員に促されて中に入ると、そこでも幾人かの研究者がデスクのPCにかじりつき、業務を行っている。
一番奥の席に座っていた女―ネオン・ウルスランド ―は、モニターから顔を上げずに、硬質な声で言葉を発した。
「時間はあまりない。簡潔に用件を述べなさい」
フィリップは一歩前に進み出ると、世間話をはじめるような気楽さで語りかけた。
「こちらも時間が惜しい。手早く済ませよう。第一、あなたたちはこれからソウルジェム及びグリーフシードの回収を行うのか。
第二、先月起きた集団自殺事件について関わっているのか。第三、僕たちとの停戦は可能なのか」
「第一はイエス。第二は、間接的であるという点では無関係ではない。第三は、答えることの出来る権限が私にはない」
「ふむ。間接的であるという意味は?」
「良質なグリーフシードを手に入れるには、相応のエネルギーが必要だ。
件の事件は、『M検体』の成長を促進するため、幾らかの便宜を図った」
M検体。この言葉が、魔女を表しているということは、オレにもすぐに理解できた。
「便宜を図ったというのは」
「この街の人間を贄にして、命令を実行した。『M検体』は人間の生命エネルギーを喰らい、収束させる機能を持っている。
その結果、極めて精度の高いサンプルを入手できた。実験に協力してくれた人間には、財団としても感謝の意を表する」
その言葉に、頭の回線が焼け切れそうになった。
「っの野郎!!」
「待て、落ち着くんだ、翔太郎。君たちは既にグリーフシードを手に入れている。もうサンプルは充分なのでは?」
「我々の計画では、とある人物の助言により、もっとも上質なソウルジェムを構成できる人物がピックアップされている。
試算を行った結果、誤差はほとんどなく有益な情報だ。見逃す手はない。
これは、ひとつの提案なのだが、その人物を引き渡してもらえればダブルとの停戦も不可能ではない」
「その人物とは? 誰なんだい?」
フィリップの声は確実に怒気を孕んでいた。
そう、ぶち切れそうなのはオレだけじゃない。深く息を吸い込むと、肩の力を抜く。二人の話にじっと聞きいった。
「――結論。適合者は、市内に住む鹿目まどかという中学生」
ネオン・ウルスランドは、続けて彼女の本籍地、家族構成、生い立ち等をよどみなく述べる。
時折、ちろちろ見える彼女の赤い舌は、うごめく蛇を連想させた。
「彼女は最良の検体を排出できる」
「なんて、ことを。あなた達にそんなことを吹き込んだのは――」
ほむらの搾り出すような声が響く。彼女の語尾は僅かにかすれていた。
「なに、それは僕だよ。どうしても、まどかには契約を行って魔法少女になってもらわないとね」
少年のような声が、不意に割って入ってきた。
薄暗いラボの中に目を凝らすと、白いリスのような小動物が、デスクの上の書類の山から顔を覗かせている。
一番過剰に反応したのは、ほむらだった。彼女はリボルバーを構えると、撃鉄を起こし、銃口を小動物に向ける。
「ちょっと待ってくれないか、まだ話の続きなんだ」
その行動を止めたのは、フィリップだった。
「暁美ほむら、君は少し短気すぎる。
それに、そもそも交渉とは、先にテーブルを蹴った方が負けなんだ。彼の冷静さを見習ったほうがいいね」
ほむらの眦は今にも裂けんばかりに震えている。鬼の形相とはこのことだ。
「……別に、僕もまるきり冷静という訳じゃないんだが。インベキューター、質問を君に切り替えさせてもらってもいいかな」
「構わないよ」
「それでは。君は、財団Xと正式に手を組んでいる、と考えていいのかい?」
「彼女たちが、僕の存在をどう考えているかは正式に認識は出来ないが。とりあえずは協力体制を取っていると思ってもらって構わないよ」
「じゃあ、かなり根源的な部分に迫るんだが。どうして、君は彼女たちと契約し、あまつさえ願いを叶えたりしているんだい」
フィリップの質問に、インキュベーターはかなり懇切丁寧に答えた。
曰く、彼は外宇宙からやってきた生命体で、目減りしていく宇宙のエネルギーを枯渇させないため、
生命体の感情をエネルギーに変換させる装置を発明した。
だが、彼ら自体は感情を持たないため、代替として地球の人間に着目し、
これらの願いを叶える代わりに、魔法少女として覚醒させ、結果生じるエネルギーを回収する。これが、目的の全てだと語った。
インキュベーターが話し続けていくうちに、ほむらの顔から表情が消えていく。
反して、フィリップはひととおりの話を聞き終わった途端、突如として噴出すと身体をくの字に折って笑い声を上げだした。
その姿は、ほとんど常軌を逸し、倒れこむようにデスクの上に覆いかぶさると、
事務用品を払い落とし、あまつさえ尖った何かに当たったのか、手にうっすら傷すら負って、滲むような血を滴らせた。
「おい、どうしたんだよ!」
オレは、フィリップがどうかしてしまったのかと心配になり腕を掴んだ。
彼は、瞬間真顔になると、右手の傷を指先でなぞると、顔をしかめ、
とりつくろうようにして、ぐるりと室内を見渡すように視線をめぐらせた。
「……い、いや。失敬。時に、ほむらちゃん。君はなぜそんなに恐ろしい顔をしているんだい。よかったら理由を聞かせてくれないか」
「そいつが、肝心な部分を黙っているからよ」
「暁美ほむら。君も、肝心な部分はその二人には話していないんじゃないか。やれやれ。僕を一方的に悪者扱いして、自分は被害者気取りかい」
「それは――」
「何の話だよ、それはっ!」
「彼女も話しにくいだろう。魔法少女の成れの果てが、人々に混沌と破壊をもたらす魔女だっていう現実にね」
「おい、その話本当かよ……」
ほむらは答えず顔を伏せた。長い前髪で、表情が隠れてしまうが、その姿はインキュベーターの言葉を完全に肯定していた。
「まあ、君たち魔法少女にとっては皮肉な話だね。地球の人間のため、あるいはただの概念上の存在である“正義”という金看板の為に戦い続けても、ちょっとした心の揺れや不注意で、敵役といっていい“魔女”という存在に反転してしまう。もっとも願いを望んだ結果だから、それも自己責任としかいいようがないけどね」
「テメェ、それじゃあ、ハナっから彼女たちが助からないとわかって、契約しろ契約しろってわめいてたのかよ」
「助からない? 心外だな、左翔太郎。彼女たちは救われていたはずだよ。少なくとも願いが叶ったその時点では。
もっとも、この世界で最初から最後まで、いわゆる相対的に幸運なまま生き、しかもそれを持続して、
全てを堪能したまま死を迎えられる存在があるわけないだろう?
プロのアスリートだって、急坂をトップスピードを保ったまま走り抜けられるわけがない。
ましてや、コンディションの保ち方の知らない素人なら尚更だ。
マラソンでいえば、僕はその素人に最初の三十秒だけプロ並みの速力をプレゼントしてあげただけさ。
感謝してもらうことはあっても、なじられるなんて。理解できないよ」
「破滅を前提にした願いなんて。知ってりゃ首を縦に振るわけねーだろ!」
「僕は聞かれなかったから答えなかっただけさ。
本当に感情を持つ生命体は扱いづらい。
それに、これは僕一個人の問題ではない。
宇宙の寿命と秩序を保つためには、膨大なエネルギーが必要なんだ。
魔法少女が魔女へと変わる瞬間。
つまりは、ソウルジェムがグリーフシードに相転移する時莫大なエネルギーが生成される。
それを回収し活用しなければ、この宇宙全体は秩序を保てない。
全体の為に、少数の個が犠牲になるのはしかたがないことなんだ。
全てを理解し、万全の態勢で協力して欲しいのだけど、君たちの知性と未成熟な文化では、それは不可能かもしれないね。返す返す残念だ」
「どんな理屈をこねようが、オレたちとはどうあっても相容れないようだな」
「僕や財団Xは君たちや、暁美ほむらと無駄な争いはしたくない。ここでひとつ提案があるんだけど、聞いてもらえるかな」
「……どんな提案かな」
「フィリップ、聞く必要はねーぜ」
オレの相棒は唇に人差し指を当てると、沈黙を促す。
それに従うのは随分な忍耐が必要だった。
「鹿目まどかに契約するよう、説得して欲しい。彼女のエネルギーは膨大だ。僕らには、彼女という贄がぜひとも必要なんだよ」
オレとほむらは、示し合わせたように、飛び掛ろうと身構えたが、相棒の言葉がそれを制した。
「待つんだ、翔太郎」
フィリップは、両手を組みながら、ラボの正面に吊られていたモニタへと視線を送る。
そこには、荒い映像ながら、どこかの薄暗い部屋に、一人の少女が椅子に座らされたまま目隠しをされているの映し出されていた。
少女の両脇には、まるで中世の死刑執行人のように顔面を黒い布ですっぽりと覆った男が二人、
大きな斧を両手で胸元の位置に持ち上げ、よく磨かれた刃先をぬらぬら光らせていた。
「まどか……」
ほむらの、気弱そうな声が、耳朶を打った。
「おっと妙な考えはしないほうがいい。別に五体満足でなければ、契約は出来ないわけじゃないからね。
ほむら、君は時間遡行者みたいだけど、まどかを救出するほどの魔力は残っていないのだろう?」
「上等だ!」
今すぐ、お前たちをぶちのめして、こんな所叩き潰してやる。
ジョーカーメモリを取り出そうと、右腕をするすると動かすと、細く冷たい指がそれをとどめた。
すがるような少女の視線。
ほむらは、無言のままオレの顔を見つめ、静かに首を振った。
自分の顔が怒りで歪み、引き攣る。
何も出来ない敗北の苦さが、口中の唾にじんわりと広がる。
「くそっ!!」
「翔太郎、ここは我慢だ。まどかちゃんの安全を優先させよう」
極めて理性的な相棒の声が遠くで聞こえる。
怒りで、脳みその真ん中が焼けきれるようにクラクラした。
「それが、賢明だよ」
オレは握り締めた拳をゆっくりと開き、ぐっしょり濡れた汗を、デスクの上に散乱していた書類で拭う。
キーボードを打っていた研究員が、神経質そうに眉をひそめた。
インベキューターはひらりとデスクから飛び降りると、床をすべるように歩きながら、
オレの足元まで来ると、見上げるように首を動かして、極めて冷静に語った。
「左翔太郎、フィリップ、暁美ほむら。わざわざ、朝早くからここまでご足労願ったんだ。
ゆっくりとしていいくといい。
もっとも、僕はここの研究所において何の権限もないのだから、可能な行動は君たちを獄まで案内する間、お喋りをすることくらいだけどね」
選択肢は二つあったが、人道的に片方は選びようがなかった。
ネオン・ウルスランドはストップウォッチを止めると、自分の机に戻り再びモニタとにらめっこを開始する。
背後から聞こえてくるのは、重々しい靴音と、幾人もの屈強な男たちが発する、陰惨な殺気だけだった。
オレ達は、無言のまま男たちの拘束を受けると、目隠しをされて連れまわされ、おそらく研究所のどこかと思われる牢獄に叩き込まれた。
両手を後ろ手に金属の枷を嵌められ、所持品は全て没収された。
「翔太郎くーん、捕まっちゃったよぉ」
何だ、この緊張感のない声は。
オレ主観の中で、ほとんど活躍のなかった亜樹子があっさりと足を引っ張ったことに一瞬激しい苛立ちを感じたが、
なにも出来ぬまま同じく捕縛された自分の境遇を振り返って、声を荒げるのは自粛した。
研究所内に拘置所らしきものがある時点で、充分怪しいが、中の広さはおおよそ八畳くらいだった。
天井に明かりはなく側面は打ちっぱなしのコンクリートで夜になればやたらに冷えそうな印象を受けた。
薄暗い室内には、亜樹子とさやかの二人が身を寄せ合うようにしてうずくまっている。
その奥には、我関せず、一人スナック菓子の袋をがさごそいわせ、足を投げ出している少女がいた。
「――佐倉杏子」
オレの後ろに立っていたほむらが、呆然としたように呟く。
フィリップと顔を見合わせると、彼は両手を水平に開き、困ったように眉根を寄せた。
「あん? アンタどっかで会ったっけか。と、そっちの兄ちゃんには、昨日世話になったっけ。妙な所で会うもんだな」
「ああ、って何でこんな所に」
「彼女も魔法少女よ。捕まった理由はそれ以外にないわ」
ほむらはそこまで喋ると興味を失くしたように部屋の隅に移動し、座り込んだ。
押し黙ったまま視線を合わせようとしない。まるで、出会ったばかりの彼女に戻ってしまったようだ。
オレは杏子に名乗ると捕まった経緯を尋ねた。
彼女はファミレスで食事をした際に一服盛られたらしい。
魔法少女とはいえ、人間である以上生理機能は変わらない。
不運としかいいようがない。そもそも、こんなことを続けていること自体が、そもそも付いていないのだろう。
彼女もソウルジェムを取り上げられたらしい。話を聞いた以上では、当面どうにも出来そうにないという点においては、同じ穴のムジナだ。
「……よく、そんなにのんきにしてられるわね」
「あ? なんだ、いいてーことがあるならはっきりいってみろよ」
割り込むようにして、さやかが会話に加わる。
もっとも友好的な感触は微塵もなかった。
「おい、喧嘩は!」
「ワリィ、ちょっとアンタは黙っててくんねーか。こいつは、アタシにお話があるみてーだし」
「別にあんたにいいたいことなんてない。
ただ、どーしてソウルジェムを取られてそこまで平静でいられるか、そのカラッポなアタマん中くりぬいてやりたくなっただけ」
「別にあれがどーいうモノか知らないわけじゃない。
キュウべぇには聞いてんよ。だいたい、お前みたいにメソメソしたって、体力の無駄な上、鬱陶しいだけだろーが!」
「なによ!」
「なんだよ! だいたいな――」
よほど鬱憤が溜まっていたのか、二人は鼻を突き合わせた猫のように、聞くに堪えない口げんかを始めた。
「亜樹子、仲裁頼むわ」
「え、え? ちょっと、私、そんなの聞いてない」
オレは耳を塞いだまま、二人から距離を取ると、眉間の辺りを強く揉んで、大きく深呼吸をした。それから、もういちど周りを見渡す。
廊下に面した部分は、鉄の格子が張り巡らせてあり、
自動小銃を持った看守が二人ほど離れた位置のパイプ椅子に腰掛けて人形のようにじっとこちらを監視している。
メモリもダブルドライバーも取り上げられた今、脱出の方法はにわかに考え付かなかった。
「さて、どうしたものか、と。なぁフィリップ」
「たぶん彼らは、まどかちゃんを直接傷つけたりはしないと思う。
――その逆は、おおいに考えられるけどね。
ほむらちゃん、彼女はどちらかといえば自分の痛みより、他人の痛みを優先するタイプに見えるけど、どうだい?」
ほむらは、無言のまま視線だけをゆっくり動かすと、静かに伏せた。
彼女の整った長い睫が、ふるふる震えている。その姿は、神託をじっと待つ、清らかな巫女のようだ。
「おい、フィリップそれって」
「つまり、僕らが痛めつけられることはあっても、彼女はたぶん平気だ。確率的にはかなり高い。それにしても、インベキューター、か」
「ああ、あの白い小動物か。悪魔だぜ、まったく」
「悪魔、ね。本当にアレは外宇宙生命体なのかな」
「かなって。まあ、自己申告だし。あんな生き物図鑑に載ってないだろうな。少なくともオレは見たことないぜ」
「この銀河には千億ほどの恒星があり、宇宙には数千億の銀河がある。
恒星の数は兆の単位を超え、恒星の持つ惑星に命の生まれる割合が少ないとしても、数百万の文明があってしかるべきだ。
なのに、僕たちは、公的に地球外生命体に出会わなかった。
フェルミのパラドックスだ。
人類の持つ科学は、有史以降飛躍的に発達したが、月にも火星にも生命はまるでない。
単純なバクテリアの痕跡さえもね。
あのインキュベーターが宇宙外生命体なら、僕らはものすごい体験をしていることになるよ。歴史に名を刻むほどのね」
「何が、いいたいの」
ほむらがようやく顔を挙げた。その瞳には、戸惑いの色が濃い。
「あの、インキュベーターは非常に優れた知的生命体だ。
感情を持たず、それこそ他の惑星だけでなく、この宇宙全体の秩序すら統括的に守ろうと尽力している。
僕ら人類と、他の惑星の生命体が邂逅すること自体魔法みたいなものなんだ。
だいたい、知的生命体というものは自己破壊的なものなんだ。
高度な文明を気づいた知的生命は、短期間に絶滅するといわれている。それが、今、この時期に、何故? こんなお節介を?」
「おい、フィリップ。さっきもそうだけど、いきなりどうしたんだよ」
「うん。ごめん、もう少しで考えがまとまりそうなんだ。いや、しかし」
フィリップは、頭を抱え込むと、ブツブツ呟きながら、牢内を飢えた熊のようにぐるぐる歩き回りはじめた。
そして、おもむろに懐からマジックを取り出すと、コンクリートの壁面に、思いつくままの数式や語句を並べ始める。
その様子を初めて見た彼女たちはあっけにとられ、口論をしていたさやかと杏子すら唖然とし、やがて確かな怯えを見せはじめた。
「何だよ、翔太郎。アイツ、マジ気持ちわりー」
杏子の心無い言葉。初対面ではしかたないのだろう。
「どうしたんですか、フィリップくん」
「あ、あははー。ああなると、フィリップくんはもう他の事目に入らないから」
オレは彼女のたちの会話を聞き流しながら、これからのことを考えていると、鉄格子の向こう側から、固い靴音が聞こえてきた。
「……あなたは」
さやかが、その人物を見て息を呑んだ。
フィリップは、気配に気づいたのか、ペンを置くと立ち上がって、膝についた細かい埃を払った。
そう。
この物語は、この時点で既に終着に向かって進んでいることを、オレはまだ気づきもしなかった。
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始まったの2年以上前だぞww