荒れ果てた世界。
憎しみと苦しみが辺りを覆いつくし、生きる者の気配はどこにもない。
空間に漂うのは、不気味なまでに眩い光。
光源は正面に在った。
男性のような彫像のような、白色物体。
その名は魔獣。
世界の理に反する侵略者。
守ろうとした仲間はみんな消えてしまって。
それでもこの世界はまだここにある。
自分自身の力に限界が訪れていることも理解しているけれど、それは歩を緩める理由にならない。
翼を広げる。
黒く黒く染まった翼を。
ほぼ爆発に近い推進力を一気に生み出し、神々しさすら感じさせる白の世界を侵食せんと突き進む。
数条の光が空間を裂く。
推進力を翼で揚力に変換し、舞い上がることでこれを避けるが、その攻撃は本命ではなかったらしい。
飛び上がった空間に遮蔽物は何もない。
代わりにその空間に存在していたのは、空を埋め尽くすほどの魔獣の群れ。
その全てがエネルギーを集束させる様子を、私は他人事のように眺め。
視界が光の束で埋め尽くされ、意識がぶつりと刈り取られる。
その世界で最後に感じたのは、私を労う一つの声。
「おつかれさま、ほむらちゃん」
元スレ
ほむら「幸せになりたい」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1307282019/
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漆黒。
意識を取り戻した私を包み込む世界は、そう形容されるべきものだった。
激しい頭痛を堪えながら、仰向けに横たわる体を後ろにひねる。
ともすれば自分自身すら見失ってしまいそうになる闇の中に、私以外の存在がもう一つ、目の前に。
まばたきを数回して、これが目の錯覚でないことを確かめる。
「まど、か」
「迎えに来たよ」
返される声はただただ懐かしく。
でもどこか、その響きに違和感を覚える。
最後の魔法少女となった自分。自分が事切れるこの時まで、彼女はどれだけの命を看取り続けてきたのだろう。
指摘することはできなかった。
そうしてまどかは、最後の仕事として私に両の手を伸ばす。
私の覚悟は、とっくに出来ていて、
「…………?」
力を振り絞り、その手を一度押し返す。
差し出されたその手に、預かり物を返すために。
「まどかのもの、だよ。 ありがとう」
返事はない。
ただ、下を向いていた手のひらが、上を向いて広げられる。
掌の中に、ふわりとリボンが舞い落ちる。
そして、時間が止まる。
「おかえりなさい、私だけの時間」
まどかの力を受け取って、私の力は根本的に変質していた。
その媒体として機能していたリボンを返すことで、過去の力を再び得られると予想して、
それは正解だった。
もう一つ的中した予想があった。
全ての魔女を消し去る概念となったまどかも、その力を振るう時だけは魔法少女の形を取ること。
それは即ち、ソウルジェムが実体化するということ。
立ち上がる。
ここで転んでしまったら、再び立ち上がることはかなうまい。
四肢に力を込め、凍りついたまどかと目線を合わせる。
「ごめんね、まどか、本当にごめん」
聞こえているわけはないが、それでも言わずにはいられない。
どれだけの謝罪を繰り返せばいいのか、自分には皆目検討もつかない。
守ると誓った世界は荒廃し、挙句の果てにはこの手を彼女のソウルジェムに伸ばして。
たとえ平和な世界に至れた所で、そこに自分の居場所はないのではないかとすら思う。
これから行うことへの罪悪感がさらに増し、唇から謝罪が零れる。
「ごめんなさい」
「ほむらちゃんは、本当に優しいね」
そして、予想外の声を受けてしまう。
その衝撃はほとんど物理的に、私の心臓を叩いた。
「いいんだよ、わかってるから」
ぎゅっと抱きしめられる。
本当にこの子は、神のようなものになってしまっていて、私の力が及ぶようなものではなくて。
そうであって欲しくはなかったけれど、それが現実で。
どうしようもない現実で。
感じるはずのない暖かさを胸の中で感じながら、言葉を。
「魔法少女というストッパーがなくなった魔獣は、いずれまどかの領域に踏み込んでくる」
「……わたしが世界に与えた歪みを、正すために」
「全時間軸におけるあなたという存在の消去、そして世界改変という事実の消去という形で」
淡々と、
吹き飛ばしたはずの絶望を。
「わたし、何もしなかったことになっちゃうんだね。
契約したあの瞬間に戻って、
だけど一つだけ違って、きっとそこにわたしはいない」
彼女の声は、かつて聞いたものとは比べ物にならないほど弱弱しい。
そんなことをさせてたまるものかと、そう思うのに。
そう決心して立ち上がったのに、こうして声を発する彼女の前に、私はどうしても。
最後の一歩を踏み出せず、いつまでも弱虫なままで。
そんな自分を後押しするのは、いつだってこの子。
「だから、お願い」
この一言にだけは力が込められていて。
桃色のソウルジェムが、私の胸元へと差し出された。
胸の中にまどかのソウルジェムをかき抱き、地面に倒れ伏せる。
一発の手榴弾と共に。
拳銃の引き金を引くような力はもう、残っていなかった。
「これからワガママを言うけど、許してね」
「私ね、幸せになりたい。
みんなで揃って、笑ってられる世界が欲しいよ」
きっとその思いは、まどかだって同じなのに。
他を救おうとして、自分の幸福を諦めてしまう。
そんな彼女をまっすぐに見つめ、振り絞るように言葉を吐き出す。
「お願いだから、あなた自身を犠牲にしないで。
まどかなしで幸せになれる私なんて、この宇宙のどこにも存在しないから」
まどかは微笑んでいる。
その目に涙をいっぱいに貯めながら。
「あなたのいない世界で生き続けることは、私には耐えられない」
私は泣いている。
再会と幸せな未来を心から願い、必死に笑顔を繕いながら。
「どうか私と同じ時を生きて」
そして、胸に強烈な熱を感じる。
捻じ曲がる世界の中、まどかの返した声を、私の耳はきっと捉えていた。
ゆらりゆらりと世界は歪む。
上も下も分からない空間の中に、いくつもの映像がフラッシュバックしていく。
彼女が願い、彼女が願うように改変された世界の記憶が流れていく。
消え行く世界の記憶の中、いくつかの場面が私の周りに漂い止まる。
美樹さやかは地下鉄のホームで息絶えた。
巴マミは無数の魔獣に囲まれ、大立ち回りの末に息を引き取った。
佐倉杏子は私を守るため、ソウルジェムを起爆させて跡形もなく消え去った。
まどかの命は、この手で。
各々はそれで満足していたのかもしれない。
でも私は、そんな結末を受け入れられない。
だから私は、この道を何度でも進むと決めた。
世界の歪みは次第に収まり、空間に色が戻り始める。
その色は灰。
そして赤。
幾度となく繰り返したその夜が、私のもとにまた訪れる。
「これは一体どういうことなんだい、暁美ほむら」
「話す義理はないわ」
世界は巻き戻った。
時をこえて偏在するまどかのソウルジェムを破壊したことで、彼女の干渉はなかったことになり。
死者を囲い込む夜へ、全ての存在は回帰した。
回答を拒否されたことに何の感慨も覚えていないのか、キュゥべえは私に再度問いかける。
「契約と同時にソウルジェムが砕け散るなんて、聞いたことがないよ」
「わたしが壊した。 ただそれだけ」
彼女の亡骸は私に覆い被さる。
瓦礫に足を挟まれ身動きの取れない私を、ワルプルギスの夜から守るかのように。
いつになっても、私はこの子に守られる。
彼女を守る私は一体どこに。
まだ暖かいその体は、まるで眠っているだけのようだけれども。
抱きしめた所で反応はない。
あるわけも、ない。
残された力でなすべきことは、ただ一つ。
無限の回廊へとまたこの身を投げ打つ。
「君はまた時を遡るのかい」
「当然でしょう」
「結果より大きなエネルギーを得られるのだから、僕達としてはありがたいところだ」
「まどかをエネルギーになんて、絶対にさせない」
私の最高の友達を。
この宇宙の犠牲になどしてたまるものか。
「絶対に諦めない」
天に左腕をかざす。
強く強く拳を握りこみ、腕をひねって盾の砂を逆流させる。
再び世界は歪み、意識は白色に塗り潰されていった。
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『こいつはあたしが倒すから。 あとのこと、よろしく』
『暁美さん、佐倉さん、早く逃げなさい。 こいつらは私が引き受けるわ』
『最後くらいはさ、誰かのために生きたいんだよ』
『 』
頭の中で声が響く。
どれも彼女達の最期の言葉、私がここに戻るために犠牲になった魔法少女達の遺言。
もう聞くことはないと、そう思っていたけれど、それはただの錯覚で。
世界はこんなにもあっけなく、迷宮に逆戻りしていた。
「っつ、いた……」
頭に鋭い痛みが走る。
動くこともままならないため、ベッドに体を横たえたままソウルジェムを輝かせる。
痛覚をある程度操作して、ようやく自由に体を動かせるようになった。
体の調子は、いつかとさほど変わらないのだが。
何しろこの時間軸に戻ってくるのも久し振りだったため、その違和感もさほど不思議なものではない。
それより私は、動かなければならない。
始点に戻ってまずやるべきことは、武器の調達。
だが、普通の武器による攻撃は、ワルプルギスの夜に通用しないことが証明されてしまったために、
何か別の手を考えなければならない。
考えなければならないが、少なくとも当面の魔女との戦いに武器は必要になる。
窓を開け放ち、夜の闇へと飛び出した。
風が全身へと吹き付ける。
この風を、彼女達もいまどこかで感じているのだろうか。
世界の改変がなかったことになったのだから、きっと正しく時は巻き戻されているはず。
彼女達のいない世界になんて、着地することはないはず。
そう信じる。
「………………」
「………………」
こうして不思議なにらめっこを繰り広げている場所は、米軍駐屯基地。
一通り武器を扱えるようになってからは大体ここに忍び込み、銃その他を拝借する習慣がついていたのだが。
その中のたった一度も、こんな場所で出会うことはなかった。
佐倉杏子と。
こんな所で遭遇する少女が、年相応の事情を抱えているわけがない。
そう彼女は判断したのか、硬直を一瞬で解いて、槍を空中から生み出しつつ、後ろへと跳び退る。
「おい、あんた何モンだ? ひょっとしなくても同業者さんって奴かい」
「…………」
それはまさに一瞬の早業で、彼女をベテランの魔法少女たらしめている熟練の証。
そしてその力は、私を何度も助けてくれた力でもある。
ある程度覚悟をしてから探しにいくつもりだっただけに、この遭遇は本当に不意打ちだったから。
体は金縛りされたように全く動かず、口から一つの言葉も出ない。
そんな自分の硬直をほぐしたのは、目の前の彼女が抱えていた包みだった。
「それ、何かしら」
「……軍用レーション。 なんかおいしいって聞いたから」
「……まあ、非常食には適しているわね」
「何だよ、その超上から目線っていうか人を哀れむような目は……」
「ごめんなさい、そういうつもりではないのだけれど」
ああ。
まったく、私の気苦労なんてどこへやら。
「あなたと戦うつもりはないわ。 私もここに用があるだけ」
「ふーん? あたしとしても余計なことに魔力使わなくていいから楽だけど」
「お互い無駄は省きましょう。またどこかで」
「ま、機会があればな」
今はまだ、彼女と関わるべき時期ではない。
自分の中でやるべきことを決めてからでないと、感情のまま何をしてしまうか分からないから。
静かに彼女の傍らを通り過ぎ、また彼女も私に背を向け飛び立っていく。
胸の辺りが不思議とうずく。
手足の震えはしばらく、収まらなかった。
潜り込んだ基地の中を、私は一人歩く。
武器と弾薬、即ち拳銃やライフルにその弾丸、そして地雷を始めとする爆弾の数々を求めて。
だがふと、これら軍の備品を盗んでいることに対して罪悪感が湧いて降りる。
「終わったら、ちゃんと返します」
この基地で働く人たちにも、彼らなりの幸せがあるのだろう。
毎回のように繰り返すこの盗難で、彼らがどれだけ振り回されているだろうか。
どれだけの苦労をしているのだろうか。
返すなんて行為は私の自己満足でしかない。放った弾も元には戻らない。
それでも私がこの道を進む限り、この道を避けて通ることはきっとできない。
時を止めた空間の中、静止して動かない人たちの間をすり抜けて武器庫へと進む。
そこにいる人たちは、笑って、怒って、居眠りをして、みんなめいめいの表情をしている。
真剣に生きている。
「自分の幸せのために他人を踏みつける私を、どうか許してください。
私もあなたたちのように、真剣に生きようとしているだけなんです」
誰にも聞こえないことは分かっているけれども、私の口は勝手に動いた。
そして目的地へと辿り着く。
ワルプルギスの夜に重火器を用いても仕方ないことは、もう理解しているから。
必要最低限の銃器を盾に収め、その場を後にした。
「ひとまずは、こんなものかしら」
まどかの家の屋根に登って来たキュゥべえの群れを、遥か遠くから狙撃し終えて、一息つく。
一回ごとに場所を変えたから、私を特定できることもないだろう。
次にすべきことは、思考。
私は何をすればいいのか。どんな状態でワルプルギスの夜に向かい合えばいいのか。
自分ひとりの力では及ばない。それはこの身に痛いほど刻み込まれている。
ふと気付けば、その痛みは気のせいなどではなく。
いつの間にか噛み締めていた唇から血があふれていた。
どうすればいい?
ハンカチで血を力任せにぬぐいながら、頭を動かす。
誰一人犠牲にしたくない。
五人で笑いながら、ワルプルギスの夜の先にある日常を生きていきたい。
そこまで考えてようやく、簡単極まりない結論に辿り着く。
一度は不可能だと、諦めてしまった手段に。
みんなを助けて、みんなと話そう。
一度話して信じてもらえないなら、二度でも三度でも話して信じてもらおう。
私一人の力でどうしようもないことだけは確かだから。
それよりほかに、私に出来る事が思いつかなかったから。
思考をひとまずまとめ、歩みを進める。
夜の街はひどく暗くて。
明かりは道端の街灯のみで、その道路にも車はおろか歩行者すらいない。
ただそこにあったのは、空間の裂け目。
「結界……嘘でしょう」
魔女の出現する時間と場所、及びその確率は頭に叩き込んである。
世界は全て同一。
この時間この場所に、魔女が現れるはずはない、しかしながら、確かにそこに。
明らかな異常事態であることを理解する。
だが、体を硬直させることはない。
やるべきことは分かっているから。
幸せに生きる人たちの日常を壊さないために、魔法少女としてやるべきことを理解しているから。
体を結界の方角へ向け、強く足に力を込めて地面を蹴る。
まだ見ぬ結界へ侵入した。
結界の中は、ひたすらに暗かった。
光がない。道もない。障害物もない。
地面らしきものが闇の中にただ広がっているだけ。
時々ぬうっと空間を通り抜ける感覚があり、それだけが前進しているという証。
この結界を訪れた経験はない。
現れる魔女を見たこともない。
手元の武器も最小限。
正直、怖かった。
せめて使い魔だけでも現れてくれれば戦闘に専念することもできるのだが、あいにくその気配もない。
疲労を感じることはないけれど、ただ歩き続けるのは精神的に磨耗する。
手元の銃をもてあそぶことにも飽きてしまうほど歩いて、そして何度目かも分からない空間の壁を抜けたとき、
刺す様な光が空間に広がり、私の目を眩ませる。
開けた空間に存在していたのは、二つの驚愕。
一つは、
「巴、マミ」
そして、
「…………なんで、なんで魔獣が、この世界に!?」
絶対にこの世界には存在し得ない者。いや、物か。
改変世界と共に消え去ったはずの、魔獣が、この世界に結界を作って存在していた。
そして今は、巴マミと戦っている。
彼女も本来ならこの時間にこの近辺にいるはずがない。自分の家に帰っているはずだ。
この魔獣がイレギュラーであることは火を見るよりも明らかだった。
幸いにして、魔獣との交戦経験はありすぎるくらいにある。
体をすぐに動かし、魔獣の放つ光線を回避した巴マミのところへ、一足に跳ぶ。
「加勢する」
「……っと、助かるわ。 どうにも頑丈で困るのよ」
「少々勝手が違う。 狙うべきコアがあるから、そこを撃って」
「あら、詳しいのね」
「何回か戦っているから」
最低限の会話を交わし、
「首の付け根を狙って。 頭はフェイク、画像が浮かび上がっているだけ」
「……何もないところ撃ってたのね。 効きも悪い訳だわ」
また散開する。
左から回りこむ彼女をサポートするため、自分は正面から魔獣の意識を引き付ける。
奴らの攻撃手段は基本的に手から放つレーザー。
貫通力があるためそう防御はできないが、直線的であること、始点が固定であることさえ理解していれば対処できる。
ハンドガンで魔獣の手を射撃し、レーザーの軌道をあらぬ方向へと逸らした。
逸らしたのだが、
「ッ!?」
空間に鏡が幾百と浮かび上がる。
魔獣の放った光線は、鏡の間で反射を繰り返し、ジグザグの軌道を描きながら巴マミに襲い掛かる。
が、彼女はそう驚いた風でもなく、逆に現れた鏡をリボンの足場として利用し回避した。
伊達にベテランの魔法少女をやっていないなと、そう思う。
「ふう、リボンが使えるようになるのはありがたいのだけど、直線状に飛ばないビームって反則よね」
「そう、ね。 とても厄介」
「これのおかげで、ろくに攻撃態勢に移れないのよ。 何とか時間を稼げない?」
「やれるかと言われれば、できるわ」
とりあえずは平静を装ったが、汗が頬を伝うのが分かる。
ありえない。 魔獣がこんな能力を使ったことなど、これまで一度たりとも無かった。
だが、よく見てみれば、あの魔獣と外見が完全に一致するわけではない。
間違いなく類似点はあるが、その能力のことを考えても、魔獣であると判断するのは早計。
ひとまずは、
「存分に撃って」
「…………大した能力だわ。 じゃあ、お構いなく!」
巴マミの手をとって、時間を止める。
時間稼ぎとはまた少し意味合いが違うけれど、結果が同じなら構わないだろう。
盛大に撃ち込まれた銃弾。ついでに自分も数発加えておいた。
時間停止を解除すると、少々やりすぎだったか、見事に魔獣は吹き飛んでしまった。
光が消え、空間は闇へと終息していく。
この結界が消えるのも時間の問題だろう。
カランと乾いた音が響く。
音の主、落下したグリーフシードは、コマの中心軸が細長く尖ったようなもの。
つまるところ、魔女のもの。
今回出会ったのは、魔獣と魔女の性質を併せ持ったものと想像するのがおそらく妥当か。
魔物とでも名付けよう。
そこまで考えた所で、肩に手を置かれ、飛び上がる。
「協力ありがとう。 助かったわ」
「別に、礼を言われるようなことはしていない」
「私が言いたいのよ」
「……なら、ありがたく受け取っておく」
結界が解け、視界が晴れた。
いつのまにか夜も明けに近く、空は白み始めている。
そして緊張が解けたせいか、今更ながらに実感する。
彼女がそこにいることを。
私たちを守ろうとして散った彼女が、夢幻の存在ではなく、確かにそこに。
どうしてこうも、彼女たちは、不意打ちのように私のところへ。
心の準備くらいさせてほしい。
ともすれば溢れそうになる想いの数々を必死に押し留めるのに精一杯で、会話をそれ以上続けられない。
佐倉杏子と基地で会った事を思い出し、さらに感情の波は揺れ動く。
どうしようもなかった。
「ちょっといくつか聞きたいことが……ってどうかしたの? ひどく震えているけれど」
「ごめん、なさい。 色々と話したいことが、あるのだけれど、また日を改めたい」
おかしな素振りを続ける私を見かねたのか、巴マミが声を掛けてくれるけれど。
私はもう完全に背を向けていた。
ぐしゃぐしゃになったこんな顔、見せられる訳がない。
「そうね、私としても準備があるしそのほうが好都合かも。 ただ早い方が助かるのよ」
「明日で、いい」
「なら家の住所を渡しておくわ。 明日の昼にでも来て頂戴」
「必ず」
手にメモ用紙が乗る感覚を確認し、時間を停止させる。
振り向き。
「助けてくれて、ありがとう。 また会えて本当に良かった」
ひどい涙声だった。
聞こえなくて本当に良かったと思う。
凍った空間の中を、私は逃げるように飛ぶ。というか逃げた。
「……いない。 まったく、不思議な子ね」
**********************************************
家に帰り着いた。
巴マミだけではなく、自分にも準備がいる。こんな状態で話などできるわけがない。
落ち着くこともそうだが、自分の中で情報を整理する必要がある。
「まずは、魔物のこと」
魔女とも魔獣とも取れる、奇怪な存在。
姿かたちは魔獣をベースにしているが、魔女のような能力も持ち、グリーフシードは正真正銘魔女のもの。
巴マミの反応を見るに、彼女もアレと戦い慣れているようには見えなかった。
ごく最近発生したものであると考えるべきか。
そうすると、通常通りの魔女もおそらくは存在するということになる。
ただ、何よりも意識しなければならないことは、
「まどかを狙っている可能性がある」
魔獣はまどかを消滅させるための存在。
世界改変の事実が消失した以上、魔獣も本来消失していなければおかしいのだが、確かにここに。
先ほど出会ったものは魔女の性質も混ざっていたし、まどかの消滅を目的としているようには見えなかったが。
先の世界における魔獣そのものがもしこの世界に存在していたら、奴らは間違いなくまどかを狙う。
二つある目的のうち、未だ達成されていない片方を果たすために。
これまで以上にしっかりと警備しないと、そもそも彼女の存在を守れなくなってしまう。
どのような形で魔物と遭遇したか、巴マミに聞いておかなければと思った所で、思考が移る。
「それから……みんなのこと」
幸いにして、佐倉杏子と巴マミには既に接触できた。
明日、巴マミと話ができるとして、残りの3人とはどうすべきか。
佐倉杏子には、協力を取り付けなければならない。
どのような規模で魔物が広がっているのかは分からないけれど、数によっては手に余ってしまう。
どちらにせよワルプルギスの夜を迎える際には、彼女の力は不可欠となるのだし。
ただ、彼女は一人でいた方が生存確率は高くなる。
危険を背負わせてしまうことになるし、ゆっくりと話すべきだろう。
美樹さやかについては、何よりも契約を阻止すること。
魔法少女としての彼女は、魔女と戦っては魔女化するわ、魔獣と戦っては相討ちするわで、どうしようもない。
一般人のまま日々を送らせ、問題を解決してやらないと、彼女の平穏はない。
この状況下、彼女を戦力として頼ることができたなら、それは助かるかもしれないのだが。
あまりに危険が高すぎた。
そして、まどか。
今の彼女はただの一般人だけれども。
一度神の立場を得てしまった代償は、計り知れなく大きいのかもしれない。
彼女の突発的な契約は阻止しなければならないが、心から彼女がそれを願った場合、私はどう動けばいいのか。
分からないことが多すぎるが、キュゥべえを妨害することも含め、影ながら護衛するくらいしか出来る事はないだろう。
新しいことが分かれば、それを元にまた考え直せばいい。
そこまで考えた所で、とりあえず思考は一段落した。
頭の痛みにまた襲われ、自分が疲労しているという事実にようやく気が付く。
ぼふり。
ベッドに沈み込む感触が、なんとも嬉しい。
明日は巴マミと話ができる。
本当に久し振りに、安らぎを感じながら、心地よい安息へと落ちていった。
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倒しても倒しても、魔獣が減らない。
それどころか無限に沸くのではないかと思うくらい、後から後から現れる。
『これはまた、大勢でお出ましね』
『何だこの量、いくらなんでも捌ききれねーぞ!?』
目の前に広がるのは、さらなる魔獣の大群。
私は佐倉杏子と巴マミと、この絶望的な風景をぼんやりと眺めていた。
この開けた土地において、疲弊した力を以って、もはや抗える規模ではない。
逃げるしかなかった。
光線が飛来する。
直線的なその攻撃は、しかして無数の方角から発射された時、面を制圧する攻撃の波と化す。
凄まじい密度だったけれども、巴マミのリボンと、佐倉杏子の槍が作り出す足場のおかげで、ギリギリの回避に成功した。
しかし、こうして回避を続けても、根本的な解決にはならない。
時を止めて少しでも距離を取ろう。
一度身を隠してから、各個撃破して少しでも数を減らし、対処できる数まで落とし込むしかない。
あまりに厳しい状況だが、やるしかない。
だが。
時を止めることができない。
それどころか、私の口が動くことすら、ない。
ただ硬直する私に向かって、声が飛ばされる。
『暁美さん、佐倉さん、早く逃げなさい。 こいつらは私が引き受けるわ』
『ふざけんじゃねえ! てめえだけ置いて逃げられるか!』
『あなたが残った所で、私と一緒に死ぬだけよ』
『…………てめえ、囮になる気すらねえじゃねえか……!』
『そうね。 でも、全員共倒れよりまし』
やめて。
みんな一緒に死んだほうが、まだいい。
そう叫ぼうとするのに、私の口は動かない。
それどころか、未だ抗弁する佐倉杏子を抱え、走り出した。
そして理解する。
これは夢だと。
二人に会い、ぬるい幸せ気分に浸っていた自分を、現実に引き戻すための夢だと。
そうだ、私は。
『じゃあね、二人とも。 あなたたちを守れただけでも、私は満足よ』
『クソッ、離せ! 離せよ! あたしはこんなこと望んでねえぞ!』
巴マミがマスケット銃を無数に呼び出し、一斉に発射する。
私達と彼女の間の地面めがけて。
地割れが長く走り、土煙が立ち込め、完全にその空間は遮断された。
それから、長く長く銃撃音が響き続け、
やがて止んだ。
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最低の目覚めだった。
吐き気がするし頭痛も酷い。ベッドから立ち上がる気すら起きない。
だけれども、ここでもう一回寝たら夢の続きを見てしまう気がして、強引に体を起こす。
頭痛はさらに酷くなる。
今日はこれから巴マミに会いに行く予定だが、あの記憶を呼び起こしてしまった今となっては、
「どんな顔をして、会いに行けばいいの」
迷いばかりが頭を巡る。
私は彼女を見捨てたのに。
それでも会いに行かないと、私は前に進めないから、どっちみち選択肢はないのだけれど。
ぼさぼさになってしまった髪を掻き毟る。
顔を洗って来よう。怖いだとか辛いだとか、そんな甘えを言う権利など私にはない。
彼女達の命を何度も犠牲にしたのは、他ならぬ彼女達を救うためだろう。
冷水を顔に叩き付け、目を覚ます。
手短に髪を整え、着替えを済ませ、家を出た。
足を向ける先は、巴マミの家。
彼女の家の住所を紙に書いて渡されているけれど、それは持ってきていない。
とっくの昔にこの体が覚えている。
日差しがかなり眩しい。太陽は既にほぼ真上まで昇っていた。
こんな時間まで寝ていたのかと、ちょっと自己嫌悪に陥って。
手を太陽にかざしながら空を見上げると、そこに不可思議な歪みを見つける。
「…………また、結界」
頭痛と耳鳴りが止まない。
少々約束の時間に遅れてしまいそうだったが、今は少しありがたかった。
今度の魔物は、比較的魔女に近い存在だった。
見た目は彫像のような魔獣のそれなのだが、何故かシルクハットを被っていて。
さらに決定的な違いとして、使い魔を有していた。
しかしながら、魔獣としての特質も忘れてはおらず、攻撃の端々に右手からのレーザーを織り交ぜてくる。
結界の中は前と同じようにひたすら闇が広がっていて、障害物はないが足場となるものもない。
厄介だった。
ひとまずは距離を開けて、様子を見る。
宙に浮かぶ7つのシルクハットから、鳩の使い魔が湧き出る。
その白は空を埋め尽くすほどで。
私は魔物を見失ってしまう。
薙ぎ払って視界を確保しようと、散弾銃をそちらに向けたところで、鳩たちの目が一斉に光り。
レーザーが放たれた。
「ッ!!??」
幸いにして、鳩たちの方がレーザーの威力に耐えられなかったのか、ほとんどの光線はあらぬ方向へと飛ぶ。
が、いくつかは私をかすめて、いくばくかの肉を削り取っていった。
レーザーを放った鳩たちは、その威力に自身を溶解させている。
魔物はその姿を露出していた。
機は逃さない。即座に時を止め、手榴弾を放り込み、安全域へ離脱。
どうにかこうにか、討伐に成功し、グリーフシードを得る。
昨日に続き、これもまた魔女のもの。
二体も連続で持っていることは珍しかったが、それだけの力は有していた。
それにしても、全く腑に落ちない。
統計はやはりこの遭遇を否定している。
また、魔獣と魔女の混ざり方は個体によって違うようだ。
世界改変の余波がこの世界に残っており、魔女が魔獣の影響を受け、魔物と化したというのが現状の予想。
なぜ世界改変の余波が残ったのか?
どうやって魔女と魔獣は融合しているのか?
疑問は尽きないが、ひとまず推定はこれくらいにしておかないと、他の行動が進まない。
あとは、どう巴マミに説明するかが問題か。
どこまで伝えれば棘が立たないだろう。私が彼女に隠さなければならないことは山ほどある。
ソウルジェムの秘密。 これは×。
魔法少女の秘密。 これも×。
私の能力の秘密。 ×。
まどかの世界改変について。 当然×。
キュゥべえの目的。 ×。
巴マミの辿る運命。 何があろうと×。
魔物についての予想、それから魔獣。 世界改変に関することは話せないから△くらい。
……ほとんど何も話せない。
請われている、魔物に関する情報だけ伝えるしかないか。
どこか遠くの場所で魔獣を狩ってたとでも伝えれば角は立たないだろう、あながち嘘ではないし。
そこから先は、彼女の信頼を勝ち得てから。
彼女を犠牲にしないために。
私の足は確かに動き、巴マミのマンションへと辿り着いていた。
頭痛はまだ止んでいない。
しかし、こんなものに屈していられるほど、私に余裕はない。
ドアを開けて。
私は、固めた覚悟を一瞬で粉砕される。
「いらっしゃい。 待ってたわ」
そう応えた彼女の後ろに。
「おーう。 あんたがマミの奴を助けたっていう」
佐倉杏子が、一緒にいた。
「っ、あ、」
ああ、どうしてこうも私は、想定外の事態に弱いのか。
頭の中に記憶がフラッシュバックする。
基地のときは平気だったくせに。
彼女を失ったときの記憶が。
もう逃げ場はない、彼女はそこにいる。
私がたった独り、残されたときの記憶が。
**********************************************
『くそ、追い詰められた』
私と佐倉杏子は、廃ビルのとある一室にいた。
魔獣どもの巣窟と化していたここに攻め入ったまではよかったのだが。
隠れて潜り込んだのに、いつの間にか私たちの存在は知覚されてしまっていて。
こうして追い詰められてしまっている。
それでも勝算はあった。
あったのだけれど。
どうしても私たちは、ある一人の仲間を喪った痛手を引きずりすぎてしまった。
その結果として散々に打ち負かされ、こうして敗走すらも出来ず立て篭もっている。
『あの防火扉、数分も持たないわね』
『……壊れた瞬間に反撃するしかない。 いちにのさんで、一気に薙ぎ払うぞ』
息を呑む。
もはや唯一となる障害物は、所々から異様な匂いを放っている。
黒い染みが段々と広がり、そして、
光が収束し、シャッター奥の空間までまとめて吹き飛ばす。
壁が吹き飛ばされて開けた視界。
その目の前に、佐倉杏子が立ち塞がる。
『……ごめんな』
そして突き飛ばされる。
光線が突き抜けて、たった今背後に開いた穴めがけて。
『…………杏子、杏子! あなた、何を!?』
慣性に引きずられる私は、容易く穴を通り抜ける。
疑問符を叫びながら落下していく私は、耳に辛うじて一つの声を捉えていた。
『最後くらいはさ、誰かのために生きたいんだよ』
ビルからは金属音と爆発音が響く。
私はその結末を確認することもできないまま、ただ逃げるばかり。
何度も何度も、恨みの言葉を吐きながら。
**********************************************
「――――、………っ!」
限界だった。
私の心は決壊し、玄関で崩れ落ちる。
涙が止め処なく流れ、声にならない声が上がる。
二人が驚いた目でこちらを見てくるのが分かるけれど、感情を抑えられない。
手で口元を覆い、嗚咽の音を殺すのがやっと。
「ごめん、なさい」
聞こえないのを承知で、私は謝罪を口にする。
ごめんなさい。
あなたたちを何度犠牲にしたことか。
私なんかのために。
諦めて、見捨てて、囮にして、見殺しにして。
私は。
私はもう。
耳鳴りが響く。
頭が割れるように痛い。
それ以上何もできず、抗えず、そのまま意識を失った。
**********************************************
私は澱み切った水の中に、
彼女たちは月の映る水面の上に。
「――――――、―――――――――!」
私の声は届かない。
ただ泡となり身体の回りを漂うのみ。
私の身体は沈んでいく。
深い深い水の底へ、黒い靄にまとわりつかれながら。
私は手を伸ばすことができない。
そんな権利、私にはない。
そのはずなのに。
物好きな光が一筋、差し込んだ。
**********************************************
浮かび上がる感覚。
ぼやけた視界は次第に定まり、暖かい電灯をその内に捉える。
「ん、あ」
「目が覚めたかしら」
体を起こしてみれば、自分はベッドの上に横たわっていた。
巴家の玄関で倒れたところまでの記憶はある。
つまるところ、ここは彼女の寝床だろうか。
もう頭痛は消えていた。
体を起こし、ベッドから降りる。
「動いて大丈夫?」
「問題ないわ。 迷惑をかけてしまって、申し訳ない」
「あなたも魔法少女なら、ソウルジェムの濁りには気をつけなさい。 緊急事態だったから使ったわよ」
そういえば、完全に忘れていた。
最近の情緒不安定はそれによるものだろうか。
と思ったが、巴マミと視線を交わしていると、涙が自然に溢れてきて。
残念ながら、ソウルジェムのせいにはできなかった。
「…………」
「もう、しょうがないわね」
ぐしぐしと目元を擦っていると、彼女が私の元に歩み寄ってきて、
私をその胸元に抱きしめる。
「泣きたいだけ泣きなさい。
事情は後で聞くわ、どちらにしてもこのままじゃ話せないもの」
彼女の暖かさは、
何よりも激しく心を焼いた。
もはや嗚咽を堪えられずに、泣き喚く姿はまるで子供のよう。
「ただいま……ってうぉ! なんだよこれ何が起きてるのさ!?」
「マミの声ではないね。 ってことは、目を覚ましたかな」
「ちょっと、泣き虫さんの世話をね」
声を上げて。
ひたすらに涙を流しながら。
二本の腕で、強く強く彼女を抱きしめて。
「あー、なんかトラウマでも刺激されたのかね」
「私を見た途端泣き出したのよ。 分かるはずないじゃない」
「……まあ、無理に堪える必要はないよな。
後でザンゲならいくらでも聞いてやるから、そうしてな」
足音がこちらに近付く。
何かと思ったら、頭に手を置かれていた。
どうやら、私が泣き止むには、もうしばらくの時間が掛かりそうだった。
「――私には守りたい人がいた。 あなたたちにとてもよく似ていた」
「思い出して、取り乱してしまった。 迷惑をかけて本当に申し訳ない」
端的に説明をして、頭を下げた。
……本当に、すまないと思う。
巴マミの制服をびしょぬれにしてしまい、今彼女は部屋着に着替えている。
「まあいいわ、それであなたの気が晴れたなら」
「ただし、あたしたちはその誰かさんとやらじゃねーからな、そこは勘違いすんなよ」
「大丈、夫」
私の返事に、納得してもらえたかどうかは怪しい。
こんなナリでは当然か。
あと、勘違いするなと言われても、かなり無理があるのだけれど。
その感情は無理やりに押し込め、ここに呼ばれた目的を果たすべく、語り始める。
「…………話すわ。 あの魔女とも違う存在、魔獣について」
その力のこと。
その性質のこと。
そこまではよかったが、その存在意義については、どうしても推測を混ぜなければならなかった。
「魔獣の求めるものは力、世界を変えてしまうほどの力。
この世界の安定を求めて奴らは彷徨い、人々からエネルギーを吸い取っていると思われる。
より効率的にエネルギーを回収するため、似通った存在である魔女とその形を融合させながら。
ひとまず私は、区別のためこれを魔物と呼んでいる」
しばしの沈黙のあと、声が返る。
「……世界の安定か、なるほど、筋は通っているね」
「どういうことだよ、キュゥべえ」
そして、佐倉杏子の返しを受けて、ようやく気付いた。
キュゥべえがそこにいることを。
しかしながら奴は、自分のことよりも、魔獣改め魔物のことに気を取られているようで。
珍しく、考え込むような素振りを見せていた。
「あるがままの状態が一番自然で、一番安定しているってことさ」
「人が次々と食べられていく状態が、あるがままの状態だって言うのかしら?」
「自浄作用って言葉を聞いた事があるだろう? そういうことさ」
「人類はこの地球に必要ない存在だってか。 ケッ、気に入らねえ」
当たり障りのない発言だが、的を得ていた。
奴らはある程度の合理性があれば、おそらく理解ができるのだろう。
ならばそれを逆手に取る。
インキュベーターには、一つ釘を刺しておかなければならない。
「何よりも、強大な力に奴らは惹き付けられる。
たとえば、世界最強の魔法少女となってしまえるような、素質を持った人間に」
「……興味深いね、君も彼女の素質に気付いていたのか」
「魔物どもは、彼女に引き寄せられてこの街に発生していると、考えるのが妥当」
「ちょっとちょっと、置いてけぼりにしないでちょうだい。 素質を持った人間って誰のこと?」
「鹿目まどか。 マミと同じ、見滝原中学の二年生だよ」
「ふうん。 そいつを食おうとして、その魔物とやらは集まってきてるって訳か」
「魔法少女として契約していない以上、その力は水面下に隠されている。
そのおかげで、魔物もあまり活性化はしていないけれど」
「契約してしまったらその限りではない、そういう理解でいいのかい」
「あくまで予想に過ぎないけれど、その通り」
そこまで説明して、深く息を吸う。
そして、吐き。
「その上でお願いしたいことがある。
魔物について、私も詳しいことは分かっていない。
今の状態のまま、彼女が魔法少女になることは、あまりに大きなリスクを伴う。
どうか不確定要素が消えるまで、彼女に契約を迫らないで欲しい」
”頼む”。
インキュベーターへ。
「ああ、確かに合理的だ。 そうだね、今のところは様子見とさせてもらうよ」
そしてあまりにあっけなく、その言質を得た。
「ただ、僕にもお願いがあるんだ。
質問があるんだ、とにかく不思議で仕方がないんだよ。
僕には君と契約した記憶がないし、魔獣なんてものを聞いたこともない。
だが現実、君は魔法少女で、魔獣とやらはここ見滝原に出現している。
さあ答えてくれ。 君は何者だ?」
その引き換えに、核心を突いた質問が飛ばされるけれど。
「あなたではない存在と契約して、魔獣と戦い続けてきた魔法少女よ」
私の中に眠る長い永い日々が、私にその答えを与えてくれた。
インキュベーターは黙り込む。
欲する答えは与えられただろうと判断し、彼女達の方に向き直る。
「何か、他に聞きたいことはあるかしら」
「色々とあるわね、でもまずは一つ。
いい加減、あなたのことを名前で呼びたいのだけれど」
なんか、かっこわるいなあ。
「暁美さんはこれから、どうするつもり?」
「鹿目まどかの所属するクラスに転入し、護衛にあたろうと考えている」
「そうすると、私とも同じ学校になるのね。 でも私は三年で学年が違うし……うーん」
「何を悩んでんのさ」
声を掛けた佐倉杏子を見て、巴マミの顔に浮かぶのは、
何かを得心したような満面の笑み。
「あーそうだ、そうね、それがいいわ。 佐倉さん、あなたも一緒に転入しなさい」
「…………はぁ!?」
ビックリしたのは彼女だけではなく。
私も表情を変えないようにするのが精一杯だった。
「いやいや待て待て! どうしてそうなった!?」
「あら、あの魔物とやらが厄介なのは分かっているでしょう。
私がすぐに駆けつけられる訳でもないし、一人よりは二人の方が絶対にいいわ」
彼女の言っていることは正論で。
そして、事実上の協力宣言とも取れた。
「私としては、とてもありがたい、けれど。 彼女の意見はどうなのかしら」
「イヤに決まってんだろ! あたし今更学校とか行きたくないし!!」
「そう言わないの。 私が学校に行く昼間、暇そうにしているでしょう」
「いや、でも街パトロールとかしてるし」
「その子に魔物が引き寄せられるなら、あまり意味はないわね」
「うっ…………」
「いいじゃないの。 それとも、私と一緒に登校するのは、イヤかしら?」
巴マミは執拗に粘る。
私としても彼女を応援したいところだが、今更ながらこの二人が一緒にいることを不思議に思う。
前の世界では長い付き合いだったが、ワルプルギスの夜を巡る時間において、二人が顔を合わせることはなかったはず。
やはり何かが、この世界に影響を及ぼしているのは間違いない。
その確信を抱いた所で、ついに嘘泣きモードに突入した彼女の前に、佐倉杏子は折れた。
「あーもーわかったよ! わかったから! 行けばいいんだろう!?」
「ふふ、みんな同じ学校になっちゃったわね」
「……本当に感謝するわ。 これから、よろしくお願いします」
これからどうすればいいのか、私はずっと一人で思い悩んでいたけれど。
蓋を開けてみれば、驚くほど順調に事態は進んでいく。
疑問など何処へやら、とても穏やかな気分で巴家を後にした。
「……嬉しそうに帰っていったな」
「嬉しそうだったわね」
「なあ、そこまで警戒しなくてもいいんじゃないか? あの感じ、わざわざ監視するまでもないと思うんだけど」
「念のためよ、文字通り。 彼女は私たちの知らないことを知りすぎているもの」
**********************************************
「今日は皆さんに転校生を紹介します。 さあ、自己紹介いっちゃってー」
「暁美ほむらです。 よろしくお願いします」
「……佐倉杏子だ。 よろしくな」
そうして、見滝原中学に私たちは転入した。
二人まとめての転入とだけあって、色々と手間も掛かったが。
最終的には杏子が魔法でなんとかしたらしい。つくづく便利だと、そう思う。
「二人は従姉妹だそうですよ。 暁美さんが心臓の病気で入院していて、その介添えとして…………」
(………………)
(あんまり仏頂面は、しないほうが)
(誰のせいだ誰の)
(強いて言うなら、巴マミかしら)
(聞こえてるわよ?)
(覚えてろよ……相応の礼はさせてもらうからな)
二人の念話が微笑ましい。
また、私たちの中学生活が始まった。
「ねえ、暁美さんって前はどこの学校にいたの?」
「部活って何かやってたのかな?」
「佐倉さんって暁美さんの従姉妹なんだねー」
「運動神経よさそうだけど、なんかスポーツやってたの?」
「二人ともキレーな髪だねえ、うらやましいなあ」
いつものごとく、最初の休み時間は質問攻めとなる。
けれど二人になったおかげか、その質問の量は余計に増えていて。
佐倉杏子は珍しく慌てたような顔をしていた。
(おいほむら、どーにかしてくれこれ)
(久し振りに私以外の同年代の子と話したんじゃない? もっと喜べばいいのに)
(うっせーぞマミ!)
彼女の弱り果てた頼みなど、滅多に見れるものではなかったし。
私もやるべきことがあったから、それを断る理由もない。
……あえて意識しないようにしていたけれど。
この空間には、私がただ会いたい会いたいと切望し続けた人が、その人が、確かにいる。
震える足を。
高鳴る胸を。
掠れる声を。
全てを総動員して、行動に移す。
「すみません、ちょっと疲れてしまったみたい。
このクラスの保険委員は誰かしら? 保健室まで案内して欲しい」
「あ、ああ、じゃああたしも行くよ。 場所知っといたほうがいいのは同じだしな」
「あ、えっと…………私です」
「よろしく頼むわ」
「鹿目、まどかさん」
時間停止とは全く便利なものだと思う。
どれだけ声を上げて泣いても、誰にも聞かれることはないから。
ここから。
また進んでゆこう、茨の道を。
**********************************************
『どうかあなた自身を、大切にして』
何度も何度も繰り返した警告。
キュゥべえを牽制した以上、あまりここでの警告に意味はないのだけれど。
私はまた、その言葉を口にすることを止められなかった。
彼女は随分と怪訝な反応を返していたが、無理もないだろう。
そこまで思い返し、静かに思考を隣の声に傾けた。
「こんなまだるっこしいことしなくてもよ、普通に一緒にいればいいだろうに」
「…………それができたら、苦労しないわ」
今は放課後。
まどかへの警告を終え、最初のパトロールへと佐倉杏子を伴って出向いているところ。
彼女たちはこの後魔女の結界に囚われる。 いつでも駆けつけられるよう、こっそりと尾行していた。
数十メートル先にいるのは、鹿目まどかと、美樹さやか。
出来れば私がそこにいられればよかったけれど。
それを実行に移せるほど、私の心は強くなかった。
佐倉杏子の指摘はあまりにもっともなので、反省はしているのだけれど。
「私、だって」
「ん、何か言ったか?」
「いえ、別に」
「まどか、CD買っていってもいい?」
「うん、いつものやつだね」
「にしても、転校生二人ってーのはびっくりしたねえ」
「そうだね。 二人ともすごく綺麗な人だから緊張しちゃった」
「あっちの赤い子は別に気さくそうだったけどねー。 黒い方はちょっと分からなかったけど」
「杏子ちゃんにほむらちゃんだよね……名前で呼んであげようよ」
「なんか保健室連れて行ったんだよね? やっぱ体調悪いのかな」
「うん、心臓の病気だって言ってたよ」
「はー、それはさすがに大へ」
ゆらりと空間が歪み、また戻る。
言葉も半ばに、二人が、空間の歪みに飲み込まれていた。
とうに準備はできている。
ソウルジェムを空にかざし、身体を魔力で包み込む。
「行きましょう」
「ああ」
地面を強く蹴り、結界へと突入した。
[薔薇園の魔女 ゲルトルート]
薔薇園の魔女。
性質は不信。
なによりも薔薇が大事。
その力の全ては美しい薔薇のために。
結界に迷い込んだ人間の生命力を奪い薔薇に分け与えているが、
人間に結界内を踏み荒らされることは大嫌い。
ハサミを持った使い魔たちが辺りを駆け回る。
この魔女の結界はほぼ、繰り返した世界でのそれと一致しているようだ。
かつて見た魔物の空間のように、使い魔もオブジェクトも存在しない、吸い込まれそうな暗闇ではなかった。
恐怖は、ない。
「ここには使い魔がいるな」
「そうね、見慣れた光景」
佐倉杏子の返す見解も、私のものとほぼ同じ。
やはり彼女も見ているのだろう。
虚無とでも形容すればいいのか、ただ黒しか存在しない世界を。
「ありゃ別の意味で気分が悪くなる」
「よく無事だったわね」
「ナメんなってーの」
言葉を交わしながら、結界の中を駆ける。
その感覚も実に久しかったが、そう長く浸れるようなものでもなかった。
足の裏の感覚が変わったことを感じ、盾を回す。
重力に従い、落下するは手榴弾。
「ちょっ」
「先手必勝、行くわよ」
さらに数歩進み開けた視界に。
二人の人間と、一体の魔物。
視認するより早く、私は数発を魔物の足元に投げ込む。
爆音が響き煙が巻き起こるが、しばしの時間の後、ほぼ健在の姿をまた現す。
「効いてねーみたいだが」
「そのようね」
それ自体は、さほど驚くことではない。
薔薇園の魔女・ゲルトルートは、ほぼその形を残しながらも、やはり魔獸との融合を避け得ていない。
その力も増幅している。いつもより苦労するかもしれない。
でも、こちらは二人。
負ける気など欠片もしなかった。
一息に飛び、魔物と彼女たちの間へと割って入る。
「う…………、ぁ、あれ……?」
「後ろに下がりなさい」
「巻き込まれないように注意しときな」
「ぁ、あ、あんたたち、今日の」
「話なら後で」
蔓が伸びる。
伸びた蔓は、強烈な運動量を持ち振るわれる。
衝撃で地面が割れ、裂け目が生じる。あの裂け目はどこに続くのだろうか。
そんなことをふと、まどかを抱き飛びながら考える。
あの時感じた熱をまた、この胸に感じながら。
「助けに来た」
今度こそ。
あなたを光のもとへ。
ただ平和で当たり前の日常へと、連れていく。
魔力で結界を作って、その場を離脱した。
彼女たちを庇いながら戦うのは、いかに二人がかりでも無謀だろう。
即座に床を蹴り散開する。
光線がコンマ1秒前にいた空間を貫いていく。
壁を蹴り天井を蹴りジグザグに移動する。
複数の蔦が空間を暴れまわる。
その勢いは凄まじく、回避行動に徹するのがやっとだった。
(攻撃手段は蔦と光線か)
(直線と曲線の攻撃手段を持つのなら、遠距離から攻めるのは得策ではなさそうね)
(そーいうこったな、あたしの出番か)
(援護する。 一気に仕留めて)
近接は得意ではないけれど、無限に近い機動力を活かせば撹乱は出来るか。
爆弾は巻き込み性能が高すぎて使えない。代わりに、大量のアーミーナイフを取り出す。
時を止め接近し、ナイフを片端から蔦の根本目掛けて投擲する。
停止解除と共に、蔦がその運動量を失い。
魔物は耳障りな叫び声を漏らす。
光線が四方八方にばらまかれるが、単純な直線軌道しか描かないそれを回避するのは容易い。
だが、再び接近し、さらなる攻撃を加えようとしたところで、
生き残りの蔦がしなり、私の胴体を縛り上げ。
そして私はこれ幸いとM72-LAW、口径66mmの凶悪ロケットランチャーを構える。
「支えてくれて感謝するわ、反動きついのよ。 これ」
自由に動く両手を操作し、至近距離の空中からロケット弾をお見舞いした。
かつてゲルトルートであった魔物は、爆発とその衝撃で吹き飛ばされ。
また私を縛る蔓は反動で千切れ、さらに私を後方へと飛ばしていく。
佐倉杏子の攻撃範囲外へ。
身体の自由が奪われているため、着地はどうしてもスマートにならないけれど、特に問題はない。
「ナイストス」
待っていましたとばかりに、空中高所から極大化した槍が振り下ろされ、魔物を地面へと縫い付けた。
着弾してなお、彼女はその力を緩めない。
とどめとばかりに力を圧縮させ、穂先で爆発させた。
「…………まだね」
それでも、まだ結界は消えない。
この魔物は力尽きていない。
魔物を串刺しにした槍の柄に立つ彼女もそれを確認し、一つ呟く。
「しゃーねえ。 マミ、頼むわ」
「任せなさい」
そう言い放ち、現れたのは巴マミ。
杏子と入れ替わるように、踊るように、槍の元に降り立ち、
リボンで槍を包み、強大な砲身とした。
「せめて穏やかに。 ティロ・フィナーレ!」
掛け声と共に、莫大なエネルギーがゼロ距離で着弾する。
光が晴れたとき、魔物は跡形もなく消失していた。
「ごめんなさいね、ちょっと前に着いたんだけど。
しばらくあの二人にちょっかいを出そうとする使い魔を片付けていたの」
「想像以上に使い魔も力を付けているね、魔獣を吸い込んだ弊害か」
「ちぇ、最後においしいところだけ持って行きやがって」
「想像以上に頑丈だった。 感謝するわ」
空間が収束して元の風景が戻ってくる。
転がるグリーフシードを回収し、もう一つ残された課題に向き合う。
「――――大丈夫かしら、鹿目まどか、美樹さやか」
「ぇ……あ、うん、平気です…………」
「何よこれ……何がどうなってるの…………」
「無事で何よりよ。 色々と説明しないといけないけれど、まずは場所を変えましょうか」
「ほらよ、立てるか?」
佐倉杏子は、美樹さやかに手を貸した。
まどかは完全に腰が抜けているので、これ役得と私が背負っている。
「あ、ああ……ありがと。
ごめん、一つだけ聞かせて欲しいんだけど、あんたたち……何なの?」
「魔物を狩る者、魔法少女よ」
ただのクラスメートでありたかったけれど。
その願いは胸にしまい込む。
腕の中に重みを感じる。
重みを伝えるその存在は、ついさっきまでの恐怖に震えて、泣いてしまっている。
私はもはやただのクラスメートではない。そのことに、後悔はない。
時は夕暮れ。
所在は巴家。
三人がかりで、魔女と魔獣についての説明を二人に済ませる。
「……説明は以上よ。 この街は今、異常なまでに魔物の数が増えてしまっている」
「あたしも、本当は別の場所に縄張りがあるんだけどな。
この街の状況があまりにもおかしくなってるってんで、こいつに呼ばれた」
「その原因が……わたし、だって、言うんですか」
「そんな、そんな出来の悪いファンタジー映画みたいな……」
「君に莫大な才能があるのは、紛れもない事実さ」
「……ええ、そして魔獣についても同様。
でも、それはあなたのせいじゃないから、罪悪感を覚える必要はない」
「でも、だって、そんな、
わたしのせいで、死んじゃう人が」
「出ないように私たちが動いているのよ。
そもそもあなたに引き寄せられるように魔物が出現するお陰で、逆に捉えやすくはなっているし」
「まあおかげさまで、グリーフシードをかなり集められるようになったからな。
今のところ不都合は出てないよ」
ひとまず事実を伝えることは終わった。
これから先は、交渉。
どうなるかは分からないけれど、ただ私に出来る事は誠心誠意頼み込むことだけ。
「そしてお願いがある。
あなたの護衛を、私たちにさせてほしい」
「魔獣が現れたのはごく最近なのよ。必ず何らかの原因がある。
その原因を突き止めて解消すれば、このおかしな状態も元に戻るはずだわ」
「…………それ、あたしからもお願いします。
まどかのこと、あたしじゃあ守ってあげられないから……」
「でも、でもそうしたら、ほむらちゃんや杏子ちゃんも危ないんじゃ」
「あたしらは、その危険を受け入れて魔法少女やってるんだ。
街にいようが、あんたの横に居ようが、やることは同じさ」
「私は学年が違うから、すぐに駆けつけることは出来ないけれど。
二人ならある程度柔軟に動いて、対応してくれる筈よ」
「……わかり、ました。
迷惑かけてごめんなさい、どうか、よろしくお願いします」
これで彼女の安全は、直接この手で確保することが出来るだろう。
契約を迫る存在もない。あとは魔獣について新しいことが分かるのを待つのみだろうか。
ワルプルギスの夜に加えて、魔物の存在。課題は山積みだけれど、とにかくやれることをやっていくしかない。
今私のすべきことは、この目の前の状況への対処。
二人はとても辛そうな顔をしている。
一人は己の無力さに、
一人は己の強大さに、
それぞれが対照的な悩みを抱え、心を惑わせている。
私は、私の伝えたいと思うことを伝えよう。
そうすることで彼女たちはきっと楽になれると信じて。
「……いきなりこれだけの情報を与えて、申し訳ないと思う。
でも、きっとあなたたちを守ってみせるから、どうかいつも通りの日常を送って欲しい。
そしてどうか、魔法少女になるなどとは思わないで欲しい。
この道は、そうするしか他に方法がない人にだけ与えられる茨道。あなたたちの幸せは、そんなところにはない」
後ろ二人の雰囲気が変わる。
彼女たちもまた、それぞれに悲劇を背負った。
これ以上そんな被害者を増やすわけには、いかない。
**********************************************
今日聞かされたことは、どれもこれも訳が分からないほど非現実的だった。
この世には魔女とか魔獣とか魔物だとかっていう人を食う化け物が居て、それと戦うのが魔法少女?
そんでまどかの魔法少女としての素質がすっごく強くて、それに化け物どもが吸い寄せられていて?
どれもこれも、普通とても信じられない。
けれど、あたしたちは実際にその魔物とやらに襲われた。
あとちょっとで死ぬ所だった。
その現実が、どうしてもあたしに逃避をさせてくれない。
「なんだってのさ、もう」
そしてその現実が、あたしに一つの選択肢を与えている。
願い。
魔法少女になることで、引き換えに与えられる可能性。
あたしにとっての願いはきっと、恭介の腕を治すこと。
それだけじゃない。
まどかが、いつの間にか命の危険に晒されているなんて。
ここで動かないあたしを、あたしは許すことが出来るのか。
しかし。
あの戦いは文字通り命懸けで、彼女たちもまた死を覚悟して戦っていた。
自分にその覚悟が出来るのか。
そう自信に問いかけていると、窓から客が訪れた。
「入ってもいいかい、美樹さやか」
「キュゥべえ……だっけ?」
窓を開けた瞬間、夜風が身体を打つ。
その音はまるで泣いているようで。
何故だろうか、不思議な胸騒ぎがした。
「悩んでいるのだろう、契約について」
「何で分かるのさ」
「僕も永いからね。 どんな子がどんな願いを持っているかくらいは、すぐに分かるよ」
「大したもんだわ」
「そして君には魔法少女の素質がある。 叶えられるよ、その願いを」
「治せるの?」
「ああ。 一切事故の痕跡などなかったような形で、治す事ができるだろう」
「………………そう」
その言葉はひどく甘い。
何をどうしても治らないと通告された恭介の腕を、治せる。
他でもない、このあたしが。
しかし。
あの転校生の言葉が、脳裏に蘇る。
あたしの幸せはその先にはないと。
希望。
恐怖。
願い。
いくつもの感情が、胸の中で交差し、考えをまとめられない。
「ごめん、もうちょい待ってもらえる?」
「当然さ、焦って決めるようなことではないんだろう」
どうするべきか。
その問いにはすぐ答えが出た。
とりあえずは誰かに、話を聞いてみよう。
**********************************************
そんなあたしの方針は、思いもがけない形で叶えられる。
「話がある」
「……うん、いいよ、あたしも聞きたいことあったんだ」
翌日。
学校で、転校生(赤)に呼び出しを食らった。
聞きに行く候補ナンバーツーくらいだったから、ちょうどいいといえばちょうどいいのだけれど。
「屋上があるんだっけ、案内してくれる?」
「はいよ」
廊下を先導して歩きながら、この子のことを考える。
何を願って魔法少女になったんだろうか。
その結果として何を得たのだろうか。
戦うことは怖くないのだろうか。
どこまで答えを貰えるかは分からないけれど、とにかく聞いてみよう。
屋上への階段を上りきり、扉を開く。
ざあっと、涼しい風があたしたちを出迎えてくれた。
「へえ、結構いい場所じゃん」
「あたしのお気に入りなんだよ。 まどかとよくここでお弁当食べてる」
「ああ、そうか。 今度食べにきてもいいかもな」
そこで一度、会話は途切れる。
この会話が本題でないことくらいは、あたしにも分かる。
言葉を選び終わったであろう彼女が、口を開いて。
「あんたはさ」
「さやか。 美樹さやか」
「ああ、さやかは、奇跡を信じるのかい」
「……あったらいいなって、そう思う」
「そうかい、じゃあ教えてやるよ」
言葉が切れる。
一体何を、
「奇跡なんてもんは、無いんだよ」
風はいつの間にか止んでいて。
不快な蒸し暑さと頬を伝う嫌な汗だけを、感じた。
向けられた言葉は、ただただ残酷なもの。
その意味を文字通りに理解することすら、今のあたしには難しい。
「世界ってのは残酷なもんでな。
願いを叶えた人間は、それと同等以上の絶望を背負い込まなきゃいけないんだとさ」
「……そんなの、誰が決めたのよ」
「知らねーよ。 神様かなんかじゃねえの?
願った内容は必ず壊される、より重い絶望が振りかかってくるだけだ。
だから人生の先輩として忠告しといてやるよ。
魔法少女になんて、なるんじゃねえ」
聞こうとしていたことは、およそ無駄になった。
こうまで真っ向から否定されるとは思っていなかったもの。
でも、まだ、信じたくない。
その思いの向かうまま、子供のような反抗を試みる。
「何で、そんなこと言うの」
「昨日様子おかしかったからな、釘刺しとこうと思った」
「何で、そんなことが言えるの」
「経験」
「……何を願ったっていうのさ、あんたが」
「佐倉杏子」
「……杏子は、何を?」
「父親が神父だった。
でも、あたしの父親はクソ真面目すぎてね、あまり受け入れてもらえなかった。
そして父親の言うことを、みんなが聞いてくれるように願った」
「で、どうなったの」
彼女の表情は変わらない。
それは意思によるものか。
それとも。
一つ息を吸い、彼女は言葉を紡ぐ。
「一家心中だ。 あたしを残してな」
「っ、な、」
「あたしに最後に向けられた言葉は、『この魔女が!』だったよ」
零された言葉には、到底受けきれない重み。
言葉を返せない。
何も言うことができない。
「心の底から後悔した。 契約なんてしなければよかったとね」
「今となっては、戦わないと生きていけないから、ただ戦っているだけさ」
「少しなりと思い入れのある相手はできた」
「けれど、あたしが最初に守ろうとしたものは、影も形もない」
「もう一度忠告しておくよ」
「こんな道を、進むんじゃない」
寄りかかっていたフェンスから体を起こし、杏子は屋上から立ち去っていく。
あたしに出来るのは、その後姿を見つめることだけ。
ただ彼女の言葉を、少しでも理解しようと頭を動かすだけ。
だけれども、その一つ一つ吐くように搾り出された言葉は、あたしの脳を完全に麻痺させて。
しばらくは、動くこともできなかった。
「補足がある」
放心するあたしに声を掛けるのは、もう一人の転校生(黒)。
暁美ほむらだったか。
いつから屋上にいたのかすら把握していなかったのに。
とても自然にまるで溶け込むように、給水塔の上に立っていた。
「まだ……あるの?」
「とても大切なことがね」
そう呟くと、彼女はかき消える。
そして私の背後に現れた。
掌に重み。
そこにあったのは、彼女のソウルジェム。
理解できない現象に頭はついてゆかず、ただのろのろと言葉を待つばかり。
「ソウルジェムについて、どのような説明を受けたか覚えている?」
「魔法を使うための、力の源だって」
「そこまでは正解。 ただ、そこから先があの説明には抜けていた」
「……もったいぶらずに、さっさと言ってよ」
イライラする。
理由もなく。
彼女の態度におかしいところはない。八つ当たりであることは理解していたが、理性がどうにも働いてくれない。
「なら単刀直入に。
その石は私の命そのもの。
その石が砕ければ私は死ぬし、濁り切ってしまえば私は壊れる。
その一方で、この身体が砕け散ろうと、魔力で修復すれば何の問題もない」
息が詰まる。
それだけでも十分過ぎるくらいの衝撃だったのに、私の口は勝手に動いて。
さらなる衝撃を呼び寄せてしまう。
「濁り切って壊れるって、どういうことよ」
「魔女になるわ。 絶望と怨念の果てに」
今度こそ呼吸が止まった。
「これが魔法少女の末路」
「願ったものは全て奪われ、絶望と戦いの果てに自らが呪いそのものとなる」
「理解したらその考えを捨てて。 あなたの幸せはこちらにはない」
一つ一つ、重みを込めて発した。
言わなければならない言葉はこれで全て。
けれど、まだここを立ち去るわけにはいかなかった。
膝から崩れ落ちた美樹さやかの元へ歩み寄る。
なおも震える手を、握って。
「あなたのような子を、私は、何人も見てきた」
反応はない。
「とても優しい子たちだった。 だからこそ、悩みの末にその身を捧げていった」
返事はない。
「そして例外なく絶望し、この手にかけられていった」
相槌はない。
「どうかお願い。 私にあなたを殺させないで」
手を握り返す感触が、あった。
それを返答として屋上を立ち去る。
最後に一つだけ注意を残して。
「今言ったことは誰にも言わないで、特に佐倉杏子と巴マミには。
この事実を知った魔法少女たちは、ろくな最後を迎えないから」
屋上を出て、いくつか階段を降り、踊り場に達すると。
そこに佐倉杏子が佇んでいた。
どこか物寂しげなその横顔に、声を投げ掛ける。
「ありがとう、杏子」
「あん? なんのことだよ」
「美樹さやかのこと。 私一人では骨が折れた」
「別に言いたいこと言っただけだし」
それでも結果的に、私はとても助かったから。
とはいえあまり強く出ても仕方がないし、この辺りで引き下がろうか。
窓の外では、体育をやっているらしい、歓声と土埃が沸き上がっていた。
あまり強くない日差しが彼らを熱する。生温い風が彼らを辛うじて冷やしている。
「あまりいい天気ではないわね」
「まあ、そうだな」
二人してぼんやりと、窓の外を眺める。
瞳に移り込む人たちはみな幸せそう。
「楽しそうね」
「ああ、そうだな」
「今日は雨が降るらしいけれど」
「暑いし、ちょうどいいんじゃね」
言葉に前後して雨が降り出した。
雨の日特有の土臭さが鼻孔を満たす。
暑さの中に涼しさが混ざり始め、先ほどまで外にいた一団は校舎へと避難してきた。
「強くなりそうね」
「せっかくだし、外行かねえか」
「何がせっかくなのよ」
そう返すけれど。
私の足は既に昇降口へ向いていた。
キャッチボールでもしようか。
[暗闇の魔女 ズライカ]
暗闇の魔女。
その性質は妄想。
闇が深ければ深いほどその力を増す。
完全な暗闇の中においてはほぼ無敵だが、
灯りの多い現代ではそれほど恐れる魔女ではない。
当たり前の日常がある日突然崩れていくのは、どんな感覚だろう。
こんな感覚です。
あの日CDショップで不思議な化け物に襲われて、それ以来わたしの日々は様変わりしてしまった。
今もわたしの目の前で、命を懸けたやり取りが行われている。
戦っているのはわたしではなく、三人の魔法少女たち。
わたしを守るためにと、その身を危険に晒している。
あれから毎日、放課後は三人と一緒に街をパトロールという名目で回って。
街を歩く度魔物に遭遇してしまう。
目の前で結界だとか、そんなものが出来たことすらあった。
正直言って、もう辛くて仕方がない。
わたしのために、わたし以外の人が傷つくことを、ただ眺めていることしか出来ないのは。
「そろそろ終わりそうね」
今、わたしの横にはマミさんがいて、ほむらちゃんと杏子ちゃんは魔物と戦っている。
二人で敵の相手をし、残る一人は護衛に残るというローテーションなんだとか。
周囲には深い深い闇が広がっていたけれど、爆発と閃光がその闇をなんとか照らしていた。
「閃光弾か、暗闇を力とするこの魔女には特に効果的だね」
そういうものなのだろうか。
キュゥべえの言うことは正直言って半分も理解できないのだけど。
なんとなく、その光は暖かさを感じさせるものだった。
その光に釣られて、わたしは心の内を吐露してしまう。
「あの、マミ、さん」
「何かしら?」
「……ごめんなさい。 わたしのせいで、こんなに、危険なことばっかり」
この状況はいつまで続くんだろう。
いつになったら解決してくれるんだろう。
ただ心の中に、申し訳ないという思いだけが募っていく。
解決する能力すら、わたしにはないのに。
「気にしなくていいのに」
「そんなこと、できないです。
だってわたし、何もしないで、ただ見ているばかりで」
「まあ、そうなんでしょうね。
あなたはきっとそういう子なんでしょう」
そうやって優しい言葉をくれるけれど、わたしはどうしてもそれを受け入れられない。
気付けば、目元に熱いものが滲んで。
「こんなのって、ない、です。
あんまりです、関係ないのに、わたしなんかのために」
「…………ふう、しょうがないわね、ちゃんと話さないとダメかしら。
あとで私の家に行きましょう、お菓子くらいなら出してあげるわ」
その一声と同時に結界が弾け飛ぶ。
月明かりが差し込み、元の世界が戻ってくる。
「はいよ一丁あがり」
「お疲れ様、暁美さん、佐倉さん。
今から私の家にこの子を連れて行きたいのだけど、いいかしら」
「ん? まああたしはかまわねーけど」
「……問題ないわ。 まどかをよろしく頼む」
「何言ってるの、あなたも来るのよ」
「……で、なによ。 これ」
「えっと――――お泊り会?」
「いらっしゃい美樹さん、待ってたのよ」
閑静な住宅街の中の高級マンション、その一室に呼び出されて何だと思ったら。
……お泊り会?
しかもそこにいる面子は、まどかと彼女を守る魔法少女一団。
何の冗談だろうか。
「別に、冗談ではないわ」
「いやあたしとしては冗談であってほしかったんだが」
「いいじゃないの、たまにはこれくらい」
「…………何があったの?」
「あのね、マミさんがね……」
『お友達になりましょう』
『…………、え』
『知らない人に守られてると思うから卑屈になっちゃうの。
なら、お友達に守ってもらってると思えば少しは楽になれるでしょう?』
『マミお前、それ本気?』
『マジと書いて本気よ。
いいじゃないの、こんなに可愛いお友達、大歓迎だわ』
『ああ、そう…………』
『やれやれ、マミは言い出したら聞かないからね……』
『異論あるかしら? 暁美さん』
『……ないわ』
『決まりね。 ほらほらじゃあ早く行きましょう!』
『あ、待ってください!
あの、さやかちゃんも、呼んでいいですか』
『んー、まあいいんでねーの?
あの後もちょっと気になることだしな』
『そうね、じゃあ早く呼んでもらえるかしら』
『暁美さん、ずいぶんと嬉しそうね』
へなへなと体から力が抜けていく。
本当にこの子達は命懸けで戦っているのだろうか、いやそれはこの目で見ている。
それにしてもこの緊張感のなさというか、なんというか言葉にしかねて、
「あーまあもうなんかいいや、付き合いますよっと」
場の流れに任せてしまおうと思った。
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そして結論から言うと。
私とまどか以外は、酔っ払って寝てしまった。
「……この国では、未成年の飲酒は禁止されているはずじゃなかったかい?」
ああ、こいつもいたか。
「みんな寝ちゃったね。 あはは……」
「呆れるしかないわ」
原因は巴マミが隠し持っていたブランデー。
紅茶にちょっとだけと弁明していたが、未成年の飲酒なんてもってのほかなのに。
まあ魔法少女にあんまり関係はないが。
誰かが誤って混入してしまったらしく、こうして三人のよっぱらいが完成していた。
「まさか杏子ちゃんが泣き上戸だとは思わなかったよ……」
「美樹さやかが慰める側に回るなんてね」
「さやかちゃん、根は優しい子だから」
「大丈夫、知ってるわ」
「まあ、マミの酒乱っぷりに比べたらマシなんじゃないかな」
確かにこの二人はまだ大人しい方だっただろう。
巴マミの暴れ方と比べたら、そういう評価を下さざるを得なかった。
「彼女の家だから私たちが口を出すまでもないのだけれど」
「これはどうするんだろう……」
「というかキュゥべえ、あなたは知らなかったのかしら? 彼女の飲酒癖のことを」
「僕も初めて見たんだ、知るわけないだろう。 隠れてやることって自覚はあったんだろうね」
普段綺麗に整えられている彼女の部屋は、今となっては無残も無残。
よっぱらいが転がっているからという訳ではなく、単に調度品がめっちゃくちゃになってしまっていたからだ。
ソファに箪笥、机など、ありとあらゆるものに弾痕が残されている。
『もう飲むしかないじゃない!?』と謎の逆ギレを起こした巴マミ御自らの手によるものだ。
飲むことと撃つことはまた違うと思うのだけれど。
「まあ、本人が何とかするでしょう」
「そう、だね」
そこで言葉が切れる。
いびきが断続的に響いているため、沈黙が訪れるわけではないけれど。
漂う空気は心地よい。
私が何より待ち望んでいた時間が、そこにはあった。
これからやらなきゃいけないこともあるし、まだ解決していないことも山ほど残っているけれど。
この穏やかさが何よりも私の救いだった。
このまま時間が止まればいい。
そう思うけれど、でもそれをすることはない。
その力は確かにここにあるけれど、その力を行使することはない。
私の望みは、この迷宮から抜け出した後も、まどかたちと共に日々を過ごしていくこと。
だから。
静かに時の流れに身を委ねる。
せめてゆっくり流れてくれと願いながら。
「ねえ、ほむらちゃん」
長いような短いような平静を裂いて。
声が響く。
「何かしら」
「……ほむらちゃんは、何で私のために戦ってくれるの?」
その質問は、ぐさりと私の心に。
「難しい質問」
「あ、えっと、困らせたい訳じゃないんだよ。 ただ、何て言ったらいいのか、その」
「分かっているわ。 あなたにとってみたら、何もかもが突然すぎるものね」
あなたに何もかもを伝えることは出来ないけれど。
せめて少しくらいは。
オブジェのように突っ立っているインキュベーターを軽く皮肉りつつ。
「……何でもない日常を、大切な家族と、大切な友人と過ごしていくこと。
そんな当たり前の幸せを壊してしまうような仕組みを、許せないから」
「…………すごい、ね」
「自己満足よ」
結局の所、私も自分の幸せを掴むために戦っているのだから。
そのために本当に色々なものを犠牲にしている。
すごくなんて、ない。
そう思うけれど、今はその言葉は喉元で留めておくことにした。
その代わりに口を開くのは、まどか。
「わたしね」
「死のうと思ってたんだ」
穏やかな空気など。
幻想だった。
私の沈黙をどう捉えたのか。
彼女は言葉を続ける。
「わたしが死ねば、みんな戦わなくてすむかなって思ったんだ」
体は金縛りにあったように動かない。
ただ音が耳を抜けていく。
「でもね」
「怖くて、出来なかった」
「ずるいよね、わたし」
「戦うこともできないのに」
「死ぬことすら……」
そこで。
ようやく体に、力が戻る。
「バカなことを言わないで!!」
喉がはち切れんばかりに叫び、強く強くまどかを抱きしめる。
腕の中に震える感覚。
今すぐにでも消え果ててしまいそうな、手折られてしまいそうな、弱々しいもの。
「あなたが、あなたが死んだ所で、この世界は変わったりなんかしない」
「どうしてあなたはいつも、そうやって自分を犠牲にして!」
「それで傷付く人がいるって、どうして分かってくれないの!?」
息を切らして。
心を揺らして。
気が付けば、ただ思いのままに言葉をぶつけてしまっていた。
肩越しに呼吸の音が聞こえる。
それはとても早い。
とてもとても早い。
肩越しに声が聞こえる。
それはきっと。
「ごめんね、ほむらちゃん」
「こんなにも、わたしのために」
その言葉を区切りに、私たちは感情の波に溺れてゆく。
どこまでも、どこまでも。
ごめんなさい。
謝罪の声が聞こえる。
やめて。
あなたをこの迷宮に閉じ込めているのは、他でもない私。
ごめんなさい。
謝罪を繰り返す。
けれど。
全てを知っているのは私だけで、想いは正しく伝わらない。
何をすればよかったのか。
何をしてはいけなかったのか。
何も分からない。
涙の作る渦に、沈んでゆく。
どれほどの時間が流れただろう。
どれほどの涙を流しただろう。
静かに体に力が加えられる。引き剥がす方向へと。
お互いぐしゃぐしゃの顔で、それでも視線を互いに交わす。
「ねえ、ほむらちゃん」
「何かしら」
「わたしたち、どこかで会ったこと、あるかな」
「カッターを手首にあてた時ね」
「なんでだろう、頭の中にほむらちゃんの顔が浮かび上がって」
「すごく悲しそうな顔で微笑んでいて」
「何かを、言ってたんだ」
私の中に眠る記憶は、痛いほどその存在を主張する。
彼女を殺したときの光景を。
いや、それ以上に。
彼女との日々の全てを。
色褪せることのない、珠玉の日々を。
沈黙。
だがこの時間は、沈黙のまま終わらせない。
「ええ」
「あなたは覚えていないけれど」
「私は、あなたに助けられた」
「この命を、そして、心を」
「だから」
息を吸い。
想いと共に、言葉へ変える。
「私にあなたを、助けさせて」
「…………そう、なんだ」
「過去のわたしは、あなたを助けられたんだね」
「じゃあ、お願いしてもいいかな」
「どうかわたしを、この地獄から連れ出して」
返答は声にしない。
する必要はない。
【中編】 に続く。