少女革命ウテナ×魔法少女まどか☆マギカ
・登場人物
少女革命ウテナ
天上ウテナ…世界を革命する少女
姫宮アンシー…薔薇の花嫁
鳳暁生…アンシーの兄 鳳学園理事長代行
桐生七実…生徒会長代行
薫幹…生徒会役員
御影草時…御影ゼミの主催者
魔法少女まどか☆マギカ
鹿目まどか…平凡な中学生
美樹さやか…まどかの親友
暁美ほむら…転校生
元スレ
まどか「世界を!」ウテナ「革命する力を!」
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根室記念館
人一人が何とか座れる、狭く、薄暗く、寒々しい個室。
冷たい壁には蝶の標本が飾ってある。中には白塗り椅子が用意してあり、前には鏡がある。
その作りは、さながら教会の懺悔室を思い出させた。
根室記念館。その面会室。
困った時はどんな相談でも聞いてくれるという秘密の部屋。
今は、そこに一人の少女が、訪れている。
「あの…。中等部1年、交換学生――」
部屋に、優しい声が響く。
「では、始めてください」
ゴウン…
面会室が動き出す。地下へ。深いところへ。
少女の悩みが語られる。
今の自分と、自分を取り巻く世界に不安があること。
人間関係に不安があること。
そして、もしかしたら何も変わらず、ずっとそのままではないかということ。
ゴウン… ゴウン…
そんな現状を、彼女は変えようとした。
何もしないのなら、何も変わらない。ならば、何かをしようと。
自分を変え世界を変えようと、彼女はした。
ゴウン… ゴウン… ゴウン…
「…これで何か変わる。もしかしたら新しい自分になれるかもって、そう考えていました」
部屋が、止まる。
静寂が部屋を包んだ。
「深く…。もっと深く」
青年は、その先を促す。
心の内を。ここに来た理由を。少女が隠す、その影を刺激する。
「…でも」
再び、面会室は動き出す。地下へ。さらなる深淵へ。
ゴウン ゴウン ゴウン
世界は変わらなかった。自分は変えられなかった。
蝶はサナギになる。
ゴウン ゴウン ゴウン ゴウ ゴウ ゴウ――
劣等感。自己に対する嫌悪。彼女は自身を傷つける。
サナギは幼虫になる。
ゴウ ゴウ ゴウ ゴウ ゴゴゴゴ――
願望、欲望、満たされない思い、行き詰った世界、抑圧された自我。
それまで、少女が目を背けてきたものが、隠されていたものが、反発する。
幼虫は卵になる。原初の姿へ。
そして、少女の心がむき出しなる。
ゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――――――――――――――――――
ガコン!
轟音と共に、部屋の動きは止まった。
どうやら、最下層についたようだ
告白が終わり、少女は力なく椅子に座っていた。
「わかりました」
背後に、いつの間にか一人の青年が佇んでいた。
「貴方は世界を革命するしかないでしょう。あなたの進むべき途は用意してあります」
その場所には、たくさんの棺が置かれていた。
「ここは…?」
根室記念館、最深部。仄暗い地の底。
その昔、根室記念館は火事で焼け落ち、その中にいた百人の少年が生き埋めになった。
ここは、その棺が眠る場所。
「出席番号 A-17」
その棺の一つ、その中から指輪が取り出される。
青年が手に取ったその指輪は、光を全く放つことなく、暗闇のように黒く染まっていた。
「黒い、薔薇の刻印を」
少女に、黒い指輪が渡された。
―――――
「初めまして。この学園の理事長を代行しております。鳳暁生です」
鳳学園の理事長は、二人の想像していた人物とは、大きくかけ離れていた。
「こ、こんにちは!」
思わぬ展開につい緊張してしまい、声が震えてしまった。
挨拶はしっかりするように何度も言われたのに、これでは早乙女先生に申し訳が立たない。
しかし…
(こ、こんな校長先生初めてだよ)
(うーむ、かなりのイケメン…。いやいや、アタシには恭介が…)
鳳暁生は、二人の予想をはるかに超える『若者』だった。
端正な顔立ちは間違いなく美形と呼べる。
何よりも特徴的なのは、浅黒い肌に、銀髪の髪の毛であり、その姿は現実の人物とは思えない。
まるで異国の王子様のようだった。
「こんにちは。鹿目まどかさん、美樹さやかさん。
あなた達にはこれから一か月、この鳳学園で過ごしてもらいます」
「はい」
「この鳳学園は、広大な自然の中にある、古くから続く歴史ある良き伝統を誇りとしている学園です。
しかし、伝統があるということは、時として保守的な考えに囚われ、歩みを止めることにも繋がります。
それは教育者という立場から見れば、あまり好ましい状況とは言えない。
そのために、わが学園では若い学校や新しい取り組みを行っている学校と相互に連携をとり、情報などをやり取りしているのです。交換学生も、そうした取り組みの一環でして。
いやあ、見滝原中学校のような新鋭の学校と交流を持てるのは、こちらとしても嬉しい限りですよ」
そういわれても、二人にはピンとこなかった。
(ウチの学校って、そんなに新しいの?)
他の中学に顔を出す機会がないため、当然と言えば当然なのだが、それでもそこまで言われるようなものとは到底思えない。
確かに、きれいな学校だとは思っているが。
(なんか、学校のイメージが変わったって、前にママは言ってたなぁ…)
外に出ると、新しい物の見方がある。
まどかの母・鹿目絢子は、ここに来る前にそう言っていた。だとすれば、これがそうなのかもしれない。
「見滝原中学校の設備や教育カリキュラムには、全国から注目が集まっているのですよ。
新時代の学校の在り方としてね」
「あ、ありがとうございます!」
「今回の交換学生では、わが学園と見滝原中学校、両者の長所を学び合うために企画されたものです。
見滝原中学校には鳳学園の古くから続く伝統を。私どもは見滝原中学校の新しい教育を学ぶためにね。
この取り組みが互いに良い結果になることを願っていますよ」
「は、はい」
そこで理事長・鳳暁生は小さく笑った。そんなに緊張しているように見えたのだろうか。まどか達は心配になる。先ほどとは違い、うって変わって声が優しくなった。
「そんなに固くならないで、心配するようなことは我が学園にはありませんから」
と言われても…。と内心、まどか達はツッコミを入れた。
理事長の姿も姿なら、理事長館の最上階に位置する理事長室も、まどか達の想像を遥かに超えていた。
まず広い、広すぎる。
他の理事長室がどういうものか。まどか達は見たことがないが、それはどこかの劇場のホールと同じくらい大きいものではないはずだ。
学園で一番偉い人間の部屋が豪華であることに否定はしないが、それでも、もっとこじんまりとしているものではないだろうか。
その広い部屋の床一面に敷かれた、赤い絨毯はまだ良い。
部屋の真ん中に置かれた、巨大な機械は何なのか。
さやかは見たことがなかったが、まどかにはそれがプラネタリウムの投影機であることを知っていた。
どちらにしろ、断じて理事長にあるべきものではない。
その前に置かれた執務机は、申し訳程度に「仕事しますよ?」と自己主張しており、それがかろうじて、ここが仕事部屋であることを保っていた。
格差社会、という単語が思い浮かぶ。
こんな部屋がエレベーターの最上階に存在しているということは、もしかしたらとんでもない費用が掛かっているのではないか。
まどか達は、早くも自分がこの学園に居ることがひどく場違いのような気がしてきた。
「君たちに何かしてもらうことはありません。
ただこの学園で一か月間、普通の生活を送ってもらうだけですよ。
何も怖いことなどありませんから、安心してください」
「す、すみません…」
そんな考えを見透かしたように、暁生が声をかけた。
「君たちには、東館の寮の方で過ごしてもらいます」
期間中は、住居も互いの学校が用意した場所を使う。距離の遠い学校同士が決めた取り決めだった。
まどか達は、これから寮に案内されることになっている。
「あそこは人が少なくてね、今は君たち以外には二人しか使っていないんだ。
君たちも、知らない人が多いところに入れられて大変だろうから。そのように手配したんだけど、大丈夫かな?」
「いえ、心遣いありがとうございます」
「その二人は、学園内じゃなかなか有名な生徒でね。だからこそ、彼女たちの素行の良さは理事長代行の僕が保障しよう。
何かあったらその二人に聞くといい。君たちに親身になってくれるはずだ。
一つ上だけど、きっと仲良くできるはずだよ」
そこで理事長である鳳暁生は、ニコリと優しく微笑んだ。
その笑顔は、実に爽やかかつミステリアスであり、見るものを魅了する。
その微笑みに、さやかはこれを見れただけでも来た価値があったかな、と思い、
まどかは、これからの生活にささやかな希望と不安を感じることとなった。
「あー、緊張したー!」
外に出て開口一番、さやか大きく声を上げた。
風が吹き、緊張していた体を優しく包みこむ。鳳学園は海に面しており、潮のにおいが風には混じっていた。
「でも、凄いカッコイイ人だったよね。理事長さん。優しそうな感じがしたし」
「くぅー、学園ともなると、理事長も一流なのかー! ウチの学校の校長とは大違いだなー」
「そ、そんなこと言っちゃダメだよ、さやかちゃん!」
とはいえ、まどかも内心、同じことを考えていた。
あんな男の人など、まどかは今まで見たことがない。
そんな人が理事長であることからして、既に鳳学園は他とは違う特別な学園だった。
まどかは、理事長館前を見渡した。
日曜日だからか、人の気配は少ない。高台に面したこの場所からは海が良く見える。
天気は良く、太陽が海を照らしてキラキラと光っている。まどかは、いつまでもこの景色を見ていられるような気がした。
たぶん、ゆっくりしていられるのは今だけだろう。
この後も、例の入居が少ない寮から迎えが来ると言われており、そのまま荷物を置いたら鳳学園内を案内してもらう予定だ。
今は、駐車場でその迎えが来るまで、時間をつぶしている最中である。
そんな、予定と予定の間の空白のような時間だが、まどかにはその時間が心地よく感じられた。
「にしても広いなー、この学校。これが学園なのかぁ」
ここまで来た道のりを思いだし、さやかはしみじみとその光景を思い出した。
鳳学園の敷地は広い。幼等部から高等部まである一貫校ということもあるが、そのことを差し引いても驚くべき広さの敷地を持っている。
パンフレットを見れば、農学用の牧場まであるらしい。よく見れば一角には『森』と呼んでも差し支えないような場所もあった。
ここまで学園内を回るバスで来たが、窓から見る限りでは緑も多く、天気が良ければ散歩をするだけでも一日が潰せそうだった。
「テニス場や野球のグラウンドがいくつもあって、乗馬のコースもあったもんね」
「何よ、乗馬って。初めて聞いたわよそんなクラブ。この分だと、寮や校舎の中も凄いんだろうね」
格の違いを見せつけられた貧乏人のように、さやかはブツブツと、ああ凄い凄いと、無関心を装っている。
しかし、内心ワクワクをしていることをまどかは知っている。
その凄い学園に自分はこれから一か月も過ごすのだ。
好奇心旺盛なさやかが、心が躍らないわけがなかった。
「…ねぇ、さやかちゃん。私、場違いじゃないかな?」
ふと、まどかが声を漏らした。
それは、ここに来た時から感じていたことだ。
鳳学園の広大さは、まどかも感じていた。そして、さやかとは正反対にまどかはこれからの生活に不安を感じている。
この学園はそれまで住んでいた場所とは違いすぎる。自分がこんなところに居ていいのだろうか、こういう学校はもっと凄い人間や、良家の人間が通う場所じゃないだろうか。
そんなことを考えてしまう。
(やっぱり仁美ちゃんみたいな子の方が…)
そこで、あわてて考えを止めた。
今回の話を受けたのは誰でもない、まどか自身の意思だ。
それを自分で否定するのは、あまりにも身勝手すぎる。
「大丈夫だよ、まどか! 私たちは、向こうから招待されてきた人間。いわばお客様なんだから!
理事長さんも言ってたでしょ? 怖いことなんて何もないよ、まどか」
「うん…」
「それに何かあったら、文句を言えば大丈夫! こういう古い学校は評判とかそういうものを一番に考えているんだから。
ちょっとそういうのをチラつかせれば、すぐに対応してくれるって」
さやかのあんまりな意見に、まどかは思わず笑ってしまう。
笑った拍子に、さっきまでの暗い考えは、どこかへ行ってしまった。
「うーん。でも、あんまりそういうことはしたくないかな」
「まぁ、すぐに慣れるってきっと。若いうちは何でもすぐ適応できるって、ウチの母親も言ってたし。郷に入っては郷に従えってね」
「さやかちゃん、それはちょっと違うよー」
あれ、そうだっけ?とさやかは首をかしげた。
さやかの透き通った明るい声は、まどかの耳によく響く。
さやかが何か喋るたびに、まどかの心からは不安が消えていく。
まどかにとって、さやかはかけがえのない友達だ。引っ越しをして、周囲に溶け込めないときに、手を差し伸べてくれたのがきっかけで、今に至っている。
いつも元気で、引っ込み思案なまどかを引っ張ってくれるのが、さやかという存在だった。
「そういえば、聞きたかったんだけどさ。まどかはどうして交換学生の話を受けたわけ?」
と、唐突にさやかはまどかに向き合った。
「え?」
「もー、びっくりしたよ。誰も行きたがってなかったのに、いつの間にか先生の話を進めてるんだもん」
「やっぱり、変かな…?」
確かに、自分らしくない行動だとは思う。話をしたとき、両親もびっくりしていたことを思い出す。
だが、まどかにとって、今回の件はおかしくも何ともないことだ。
交換学生の話を聞いたとき、まどかはすぐに立候補しようと決めた。
引っ込み事案の自分のことを、まどかはあまり好ましいことだとは思っていない。
いつも誰かに迷惑をかけている、それがまどかの悩みであり、取り立てて長所のない自分のコンプレックスだった。
このままずっと、誰かに迷惑をかけて生きていくのだろうか?
このまま、何もとりえのないまま生きていくのだろうか?
それを考えた時、漠然とした不安に襲われた。中学生になっても変わらない自分に、軽く自己嫌悪したこともあったものだ。
このままじゃ、いけない。それがここ最近のまどかの悩みだった。
だから、自分を変えようと思ったのだ。今回の事も、それがきっかけだ。
「別に変じゃないけどさ…。なんていうか、まどかがこういうのに興味があるとは思わなくて」
「さやかちゃんは、どうして?」
「あたし? あたしは、まぁ話自体には興味はあったんだけどさ。一人で乗り込むのはちょっと心細かったし、あんまり行く気はしなかったんだよね。
それをまどかが行くっていうからさ、それなら行ってもいいかなって」
「そうなんだ。わたしもそんな感じだよ? 何となく興味があったから、やってみようかなって」
さやかの目を見ず、まどかは言った。
もし悩みを話せば、さやかは親身になって相談にのってくれるだろう。
しかし、それではこれまでと同じように、さやかに頼ることになってしまう。それでは本末転倒だ。
「それに、まどか一人を見知らぬ土地に行かせるのは、お母さん心配で心配で…」
「もー、さやかちゃんたら! わたし、子供じゃないよ!」
「ほほう? こんなちんちくりんな体で、子供じゃないと? よくそんなことが言えまちゅねー」
「むー。いいもん。いつか私だって、さやかちゃんみたいに大きくなるもん」
「あたしはこのままがいいかなー。まどかの身体って抱き心地いいしー」
底抜けに明るく、さやかが言う。
まどかにとってあまり高くない背や、変わり映えしない体格は悩みの一つだ。
一時期だが、大人になっても体格が変わらないんじゃないかと本気で悩んだこともある。
さやかに悪気がないことはわかっているが、それでも少し心に刺さる。
デリカシーのない親友に対して、まどかは、つい意地悪をしたくなった。
「でもさやかちゃんは、私よりも上条君と一緒の方が良かったんでしょ?」
「ちょっ、何でそこで恭介が出てくんのよ!」
「残念だったよね。コンクールの予定がなかったら、上条君も来てくれたかもしれないのに。
鳳学園って音楽も有名みたいだし」
「な、ないない! 大体、恭介なんかと一か月も過ごしたくないし!
むしろ、少しでも離れることができてせいせいするっての!」
「ふーん」
上条恭介は、さやかの幼馴染である。バイオリンの奏者であり、様々なコンクールに出ては受賞をしている、天才バイオリニストだ。
まどかは、さやかがこの幼馴染に好意を抱いていることを知っていた。
本人は必死に否定しているが、一度、何気なしに聞いたときの取り乱しようを見れば、いくら恋愛ごとに疎いまどかでも、察することができるというものだ。
現に今も、名前を出しただけでこの反応である。
普段とは一味違うさやかの反応を見て、まどかはつい可笑しくなり、小さく笑った。
そんなまどかの姿を見て、さやかは逆襲に出た。
「こんのー、そんなこというのはこの口か! うりうりうり!」
「やっ…ちょっと、さやかちゃん! 止めて…止め!」
「ふっふっふ、かわいくないまどかにはお仕置きだー!」
さやかがまどかにセクハラに出る。ほっぺを掴み、むにむにといじくり回した。
さやかはこの技に『さやかちゃんスクリュー』と名前を付けていた。
まどかは必至の脱出を試みるが、その魔の手からは逃れられない。哀れなまどかのほっぺは、さやかの手によって弄ばれていった。
見滝原にいる時と同じようなやりとりが、この鳳学園でも交わされる。
こんなことは日常茶飯事の、まどか達にとっては普段通りの光景だ。
うん、大丈夫。
口には出さず、まどかはさやかに感謝した。やはり、一人では心細かった。
いつもと違う場所でも、さやかは何も変わらない。
それは、これからのここでの生活に対する不安を吹き飛ばすには、最高の薬だった。
「あー、ちょっといいかな」
「え?」
「あ、はい」
突然声をかけられ、二人は慌ててじゃれ合うのを止めてその方を見た。
見れば、背の高い少女と、浅黒い肌のメガネをかけた少女の二人が、前に立っていた
「君たち、交換学生の人? 暁生さんに言われてきたんだけど…」
「は、はい! そうです」
「ほんとに? よかったぁ。いやー、理事長室の外で待ってるって言われて来たんだけど、具体的な場所は教えてもらってなかったからさ」
背の高い少女はとても目の引く姿をしていた。
腰まで届くロングヘアや声を聞けば少女とわかるのだが、彼女は何故か男子用の制服を着ていた。
男子用の学ランなど、普通ならば少女に似合うわけがない。
だが彼女に限っては、高い背と独特な雰囲気と相まって不思議と似合っている。
男装の麗人、そんな言葉が脳裏をよぎった。
「兄は、変なところで間が抜けてますから。ごめんなさい、ウテナ様」
「姫宮が謝ることじゃないよ。聞き忘れてたボクも悪いんだし」
ぽりぽり、と男装の少女が、罰が悪そうに頭をかく。
その手には白い指輪がはめられている。
その指輪を見て、まどかはこの少女もやはり女の子であると思った。
「あ、あの…?」
「ああ、ごめんごめん。自己紹介しなくちゃね」
ウテナ様、と呼ばれた少女が、明るく声を上げた。
「ボクはウテナ。天上ウテナ。で、こっちが…」
「姫宮アンシーです。よろしくお願いしますね。鹿目まどかさん、美樹さやかさん」
―――――
あれは、昔々のお話です。
あるところに、お父様とお母様を亡くし、深い悲しみにくれる、幼いお姫様がいました。
そんなお姫様の前に、白馬に乗った、旅の王子様が現れます。
りりしい姿、やさしい微笑み。王子様はお姫様を、薔薇の香りで包み込むと、そっと涙をぬぐってくれたのでした。
「たった一人で、深い悲しみに耐える小さな君、その強さ、気高さを、どうか大人になっても失わないで。今日の思い出にこれを」
「私たち、また会えるわよね」
「その指輪が、君を僕のところへ導くだろう」
王子様がくれた指輪は、やはり、エンゲージリングだったのでしょうか。
…それはいいとして。
お姫様は、王子様にあこがれるあまり、自分も王子様になる決意をしてしまったのです。
でもいいの? ホントにそれで??
―――――
「しかし、かわいい子たちだったなぁ」
「そうですね、ウテナ様」
ウテナの言葉に、アンシーが返事をする。
特に同意を求めたわけではなかったのだが、アンシーはウテナのことに関しては敏感に反応する。
まだ、『友達』とは思われていないのだろうか。
そのことを考えると、かつてのことを思い出し、ウテナは不安になる。ただ『エンゲージした相手』として自分の言葉に従っているだけではないのか、と。
それでもかまわない、とウテナは思い直した。
それでも自分は姫宮に対して、友として接すると決めていた。自分の願望や望みを、彼女に押し付けたりはしない。姫宮を縛るのではなく、開放するために。
そのために、他のデュエリストたちと戦う。それが、ここ最近決めた、ウテナの決意であった。
「お風呂の使い方とか大丈夫かな? わかるといいんだけど」
「そんなに心配なら、鹿目さんたちの部屋に行ってみたらどうですか?」
「いや、まどかちゃんたちも疲れてるだろうし。あんまり先輩が顔を出して、緊張させるのもどうかなって」
学園内の案内は、特に問題もなく、予定通り終えることができた。
大方の予想通り、二人とも、鳳学園の広大さに驚いてばかりだった。
あれだけ反応してくれると、案内のしがいがあるというものだ。
今は夕食を終え、各自部屋で休んでいる。
まどかとさやかは相部屋だ。部屋は沢山空いているので、個別の部屋でもよかったのだが、二人は相部屋を希望したのでそうなった。
寮での約束事の説明も終え、明日から二人は鳳学園の中等部で過ごすことになる。
食堂での会話を思い出す。
二人は自分よりも一つ年下だった。だったら、ミッキーのことを紹介しようかな。ミッキーなら、二人のことも親身になってくれるだろうし。
あ、そういえば、さやかちゃん『美樹』もミッキーか。
同じく一つ年下の真面目な後輩を思い出し、ウテナは偶然の一致に少し笑った。
「夕食、喜んでもらえたかなぁ。腕によりをかけたつもりだったんだけど…」
「ウテナ様のお料理はおいしいですから。お二人も喜んでいましたよ」
「だといいけどな。明日からの料理当番はどうしようか。別にボクが作っても問題ないだけどなぁ」
鳳学園では、食事は自分で用意するのが主流である。
食堂もあるにはあるが、それは食事が用意できなかったときの駆け込み寺のようなもので、利用者はそれほど多くない。
生徒の自主性を重んじるのが、この学園の教育方針だった。
「気を使わせるのも悪いですから、手伝ってもらうというのはどうでしょうか。その方がお二人も気が楽だと思いますけど」
アンシーの提案に、ウテナは同意した。
二人はお客さんでもあるが、一か月はこの学園の生徒でもあるのだ。あまり他人行儀にするのは、失礼だろう。
一日も早く、まどか達にはこの学園に慣れてほしい。そのために、良き先輩でいようとウテナは考えていた。
ウテナ達の住む東館の寮は、ウテナとアンシー以外は誰も住んでいない。
それまで使われていなかった東館に住むことになったのは、『あの出来事』があってから決まった『生徒会』の取り決めである。
そのため、誰か料理の得意な他の寮仲間が食事を作ってくれるということはない。
幸い、ウテナは料理が得意なため、ここでの食事に不自由することはなかった。
ちなみにアンシーは、かき氷・焼きそば・たこ焼き、と妙に作れるものが偏っていた。
それを知った時は、今までこの学園でどうやって生きてきたのかと、この友人の食生活に対して不安になったものだ。
「この学園のこと、好きになってもらえるかな? なぁ、チュチュ」
チュ? とテーブルの上でクッキーを頬張っている、もう一人のルームメイトがウテナの方を向いた。
チュチュは、アンシーが良く連れているペットである。
サルのようなネズミのような姿をしているが、具体的にどちらなのかは聞いたことがない。
チュチュはチュチュだ、とウテナは勝手に納得していた。
「きっと気に入りますよ。ウテナ様がそうおっしゃるなら」
いや、ボクのことは関係ないんじゃないかな、とウテナは思った。
やはり姫宮のことは、まだまだよくわからないことが沢山ある。
「でも、やっぱり都会の子は何か雰囲気が違うよね。何ていうのかな、ボクたちとは違うものが見えているっていうか」
「鳳学園は、幼等部からありますものね。この学校を卒業するまで、外を知らないという方もいるんじゃないでしょうか」
「確かに。この学校の子って、ちょっと浮世離れしてる感じがあるよね」
そういうと、アンシーは少し驚いたように、ウテナの方を見つめた。
「あら、ウテナ様は違うんですか?」
「む。そういう姫宮こそ、人のことは言えないだろ」
アンシーに変わり者と呼ばれるのは、心外だ。
人のことを『様』付けで呼び、部屋に押しかけ、こちらの言うことには従順に従う。
アンシーほどの変わり者は、ウテナは見たことがない。
「そうですね」
あっさりウテナの言い分を肯定すると、アンシーはお茶を入れなおした。
もしかしたら、また自分の言うことに何の疑問もなく従ったのかもしれない。
出会った当初から変わらないアンシーに対して、ウテナはやれやれ、と肩をすくめた。
とはいえ、姫宮の言う通り、自分もあまり普通とは言い難い。
男装している時点で、既に普通の道を踏み外しているようなものだ。
それにいい年をして、昔出会った『王子様』のことを信じていることも、変かもしれない。
前に友達の若葉にそのことを話して、笑われたことを思い出した。
(それでも…)
それでも、ウテナはこの生き方を変えるつもりはない。
お姫様ではなく、かっこいい王子様に。それが天上ウテナという少女の生き方だ。
気高く、かっこよく生きる。それがウテナの行動の指針であり、在り方だった。
「とにかく、まどかちゃん達にはこの学園での生活を満喫してもらわないと。暁生さんにも頼まれているしね。
変な場所もあるけど、鳳学園はいい所だし」
変な場所、変な出来事、変な決闘。
ウテナはその渦中にいる。
が、これにまどか達が巻き込まれることはないはずだ。
これは、ウテナとアンシーと、そして生徒会の問題だ。
生徒会長である冬芽はしばらく学校に顔を見せていないし、副会長である西園寺は退学して行方不明だ。
今、生徒会に残る樹璃とミッキーは良識ある人物で、ウテナとも仲がいい。
彼らなら、まどか達に何かするようなこともない。
唯一心配なのは、生徒会長の妹である七実だが、冬芽のことが絡まなければ、無闇に敵意を向けることはないだろう。
「時間があったら、もっと色んなところを案内したいなぁ。姫宮、君の薔薇園にも案内してもいいかな?
あ、そうだ。あの森は立ち入り禁止だから近づかないように言っておかないと…」
思えば、普通の後輩ができたのは初めてだった。
遠巻きで歓声を上げる子はたくさんいるが、親身になった子はいない。
ミッキーも後輩といえば後輩だが、優秀すぎて、逆に勉強を教えられることばかりだ。
七実は、可愛がるにはあまりに敵意を持たれている。
「頑張らないとなぁ」
まどか達の顔を思い出す。
二人とも、とても良い子だった。
少々引っ込み思案のまどかに、元気一杯のさやか。それがウテナの二人に対する第一印象だ。
二人は友達で、端から見ていても仲が良かった。
聞けば、今回の話はまどかのほうから話を受けたらしい。
てっきり、さやかの方から誘ったものだと思い、意外に感じたものだ。
まどかは、ああ見えて行動力があるのかもしれない。なら、さやかは意外と臆病なところがあるのだろうか。
そんなことをウテナは考えた。
二人の関係は、ウテナにとってはとても好ましいものに見えた。
知らない場所でも、一緒なら安心できる。
それは、互いを信頼しているということだ。
友達か、と聞かれれば、迷うことなく彼女たちはそうだと答えるだろう。
自分と姫宮も、ああいう関係になれないだろうかと思う。
今のままでは、自分から彼女への一方的に友達と思っているだけだ。
姫宮は、おそらく自分のことは『エンゲージ』した相手としか考えていない。
誰かに彼女との関係を聞かれれば、おそらく自分は自信を持って友達だと答えることは出来ないだろう。
先輩としてしっかりしよう、と気持ちを入れ直す。
一か月間だが、この鳳学園で楽しい生活を送ってほしい。
そのためなら色々してあげたい、とウテナは思った。
それは、自分たちには無いものを持っている、彼女たちへのせめてもの手向けなのだろうか。
そんなことをウテナは考えた。
―――――
天上ウテナは、とある決闘ゲームに巻き込まれている。
『薔薇の刻印』と呼ばれる指輪を持つものが参加できる、剣を用いた決闘。
謎の人物『世界の果て』によって選ばれたデュエリストたちは、その決闘で『薔薇の花嫁』と呼ばれる少女を奪い合っていた。
決闘に勝利した者は、薔薇の花嫁と『エンゲージ』し、手に入れることができる。
そして薔薇の花嫁を手に入れたものは、やがて『世界を革命する力』を得ることができるといわれていた。
姫宮アンシーは、その薔薇の花嫁である。
初めて会ったとき、アンシーはエンゲージした相手に暴力を振るわれていた。
それでもアンシーは何も言わなかった。
薔薇の花嫁は、エンゲージした者に服従しなければならないという。
ウテナは、それが我慢ならない。
本人の気持ちを無視し、その身は決闘でやり取りされる。
そんなことを喜ぶ女の子がいるはずがない。個人の人格をないがしろにする、そんなシステムを許すわけにはいかなかった。
それから、ウテナはアンシーを守るために決闘を続けている。
ウテナは決闘を断ることができない。
断れば、退学。薔薇の刻印を持つものが集まる『生徒会』の権限でそれが行われる。
だが、元より決闘を断るつもりはない。アンシーを守り、こんなバカげた決闘ゲームから解放する。
それが、ウテナの目的だった。
我ながら、おかしなことに首を突っ込んだとウテナは思う。
アンシーのことにしても、最初は変な人間としか思わなかった。
勝手に「エンゲージしたから」といい同室となり、「ウテナ様」と呼びかける。
大体、最初の決闘は友達の若葉を傷つけた生徒会の人間に文句をいう、それだけの目的だった。
しかし、今ではアンシーはウテナの大切な友人だ。
アンシーには、もっと自分のことを大切にしてほしい。
自分だけでなく、他にも友達を作ってほしいと思う。
だから、アンシーを決闘で服従しようとするものに、負けるわけにはいかない。
この決闘ゲームはデュエリスト同士にしか知られていない秘密だ。
アンシーの兄であり理事長である暁生にも、このことは知られていない。
他の人間をこんなことに巻き込むことは本意ではなかったし、それは生徒会の人間も目的は違えど同じだった。
だから、まどか達は無事に学生生活を送れる。
何も心配することはない。そうウテナは考えていた。
その、はずだった。
ホームルームが終わると、どっ、と疲れが体から湧いてきた。
礼が終わり、クラスメイトはそれぞれ散っていく。
友達とたわいないおしゃべりをする人。日直で黒板を消す人。
図書館や部活に行く人。仲間と共にグラウンドに行く人。やることは様々だ。
そんな中、まどかとさやかは力なく、机に突っ伏していた。
「はー、疲れたねー。まどかー」
「そうだね、さやかちゃん」
夕暮れ、と呼ぶにはまだ日は高い。
遊んだり、学園内を散策する時間も十分にあるだろう。
しかし、今は少し休みたい気分だ。
疲れた体に、教室の窓から入る日の光は、思いのほか心地よかった。
学園生活一日目は、予想通りクラスメイトからの質問の嵐だった。
今回は失敗しなかったと、まどかは思う。
自己紹介を何とか上手くこなすことができた。小学生とき転校してきた時は、上がってしまい、上手にできなかった。
あれから学んだことは、リハーサルは大事ということだ。
あらかじめ、さやかに頼んで部屋で練習をしておいてよかった。
そのさやか自身は、何もしてないのにあっさりと元気良くこなしてしまったのだけれど。
放課後になり、教室に居る生徒はまばらだ。今日一日の喧騒が、嘘のように引いている。
怒涛の一日が終わり、まどか達はようやく一息が付けた。
「転校するなんて初めてだから、こんなに疲れるものとは思わなかったわ…」
さやかが、転校初日の感想を口にした。
まどかも、質問攻めは慣れない。
着慣れない制服と合わせて、いやがおうにも緊張してしまう。
自分のことを喋るというのに、意外と難しい。自分のことなのに、ままならないのは不思議なことだ。
鳳学園の制服は、古き良きセーラー服である。
少々スカートの丈が短いような気もするが、着心地は悪くない。
昨日部屋でさやかと見せ合いっこしたが、初めて着る制服を身に着けると、互いに別人になったような気分になった。
鳳学園は伝統ある学園のためか、色々なところがレトロだ。
建物自体は新しいが、教室は黒板だし、机も木製である。
まどか達の見滝原中学では、電子黒板で板書は大きなディスプレイに表示されていたし、机も床に収納できる最新式である。
それまで、自分たちの居た学校が最先端の技術がつかわれているという評判には、まどか達はあまりピンとこなかったが、あながち誇張でもないようだということをここにきて実感した。
確かにこうして他の学校を知ると、見滝原中学校の教室は技術の塊だということがわかる。
プロジェクターや電子黒板などその最たるものだろう。
教室の壁も透明な材質で解放感溢れるものだったし、ある種の新しい考えに沿って設計が行われていたことが感じられる。
鳳学園の教室が、個室のように区切られていたことには最初驚いたが、考えてみれば透明に設計することの方が、手間がかかるし、何か意図がなければそんなことはしないだろう。
違う場所に来て、初めて自分たちがいた場所の価値を知るとは、なんとも間の抜けた話だった。
だが、黒板や木の机も使ってみると意外と悪くない。
むしろ独特の温かみがあり、まどかはこちらの方が気に入ったくらいだ。
掃除のときの、机の移動にはさすがに疲れてしまったけれど。
「あんなに質問されると、なんか、あたしの人生を根こそぎ持ってかれるような気分だったよ」
「まぁ、あんな風になるのは今だけだよ。少し経てば落ち着くよ、さやかちゃん」
「おっ? 経験者は語るねー。いやー、そうじゃないと身が持たないっスよ。先輩」
からかうように、さやかが言う。確かに、この場合自分は先輩になるのだろうか。
そう思うと、まどかは不思議な気分になる。
さやかに先輩と呼ばれる日が来るとは、思ってもみなかった。
かつて、まどかは転校した時、なかなか周囲に馴染めなかった。
その時、色々と助けてくれたのがさやかだ。
それからまどかは友達を増えていき、クラスに溶け込めるようになったのだ。
さやかに助けられたのは、まどかの大切な思い出だ。
もしかしたら、今度は自分がさやかにそのようなことができるのだろうか。
もしさやかを引っ張れるようになれば、自分は変われるかもしれない。
「美樹さん、鹿目さん!」
と、そこでクラスメイトの一人が現れた。
「あ、その、えーと…」
とっさのことで、名前が出てこない。確かこの子は…。
「影絵さん、だよね!」
「そう! 覚えてくれてありがとうね!」
まどかが、まごまごしているうちに、さやかが答えてしまった。
それを見て、まどかは少し自分が不甲斐なく感じる。
こういうときこそ、転校の経験がある自分が答えるべきだったのだ。
やはり、変わることは一筋縄ではいかないようだ。
「美樹さんたちって、東館の寮に住んでいるのよね?」
「うん。そーだけど?」
「いいなぁ。東館ってことは、ウテナさまと一緒に住めるんでしょ? うらやましいわ~」
うっとりしたように、クラスメイトの影絵さんは羨望の眼差しをまどか達に向けた。
「天上先輩?」
「そう! この鳳学園に咲く強く気高い一輪の薔薇! それがウテナさまなの!」
「へ、へぇー…」
とても力強く、影絵さんは答えた。ぐっと、拳を握り。全身で、天上ウテナのことを自慢する。
それを見て、まどかとさやかは、改めてウテナの人気の高さを実感した。
あの男装をした先輩、天上ウテナに関しては、今日一日で何度もその名前を聞いていた。
曰く、彼女は全ての女生徒の王子になるために男装をしているとか。
曰く、スポーツ万能であらゆる部活動から助っ人として呼ばれているとか。
曰く、この学園で絶大な人気と支持を受けている生徒会からも一目置かれているとか。
曰く、様々な天才が集められる、通称『黒薔薇会』からも、お声がかかっているとか。
曰く、彼女は夜な夜な悪と戦う正義のヒーローとか。
休み時間に質問攻めにあいながらも会話をしたが、取り立て女生徒の話題の的は、あの天上ウテナという先輩の事だ。
どうやら、彼女は女生徒の間では凄い人気者のようだった。
「確かに、あの人カッコイイもんね。あんなに男子の制服を着こなしている人なんて初めて見たもん」
「でしょでしょ! ああ、ウテナさま~。わたしもラブレター書いてみようかなー」
(なんかすごいね、まどか)
一人盛り上がり始めた影絵さんを見て、さやかはまどかに視線を向けた。
(うん。こういうのって本当にあるんだね…)
噂や恋の話は、まどか達の見滝原中学校でもあったよくある話のタネだ。
だが鳳学園では、それとは一味変わった、独特なものが多いとまどか達は思う。
例えば生徒会のことだ。
生徒会のメンバーでは誰が一番カッコイイかなど、まどか達は話したことがない。
生徒会など、まどか達にとっては、嫌々に推薦された生徒が無風選挙でなるものだった。
それが、この学園ではメンバーになることはとても名誉なことであり、文武両道でなければ勤まらないものらしい。
アイドルのような人気のある生徒がいるのも驚きだ。
ウテナもそうだが、生徒会のメンバーも負けず劣らずの人気があり、色んな派閥があるらしい。
人気者はどこにもいるものだが、プレゼントやラブレターを送ることなど聞いたことがない。
しかし、この学園ではそれが、さも当然のように行われている。
噂も変わったものが多い。
誰も知らない謎の部活『劇団カシラ』。
どんな悩みも、たちどころに解決してしまう根室記念館の面会。
その昔、100人の少年が行方不明になった建物。
夜な夜な徘徊するカンガルー。
永遠があるという幻の城。
食べると人格が入れ替わるカレー。
噂なのだから、荒唐無稽なのはわかる。
だが鳳学園での噂は、それにしても突拍子の無いものが多かった。
この広大な学園の、果てのないような雰囲気がそうさせるのだろうか。
広すぎて何が起きても、誰も気づかない。そんな雰囲気が。
まるで、鳳学園が別の国のようにまどかは感じた。
見滝原とは別の世界にある学園。
自分たちの住んでいた場所と、この学園が地続きとは思えない。
「そういえば、今日ウテナ様はバスケ部に助っ人に行っているのよね。貴方たちも見に行かない? きっと、ウテナ様も喜ぶわよ」
―――――
ウテナが一瞬の隙を突き、男子生徒からボールを奪う。
その瞬間、見物していた女生徒から歓声が上がった。
素早い動きで、そのまま相手のゴールに向かう。
ディフェンスを難なくかわし、一気にゴール下まで距離を肉薄した。
そのままボールを持って飛び上がり…。
「だ、ダンクシュート?!」
「す、凄い…」
ボールを勢いよく、ゴールに叩きつける。
その手でゴールポストにぶら下がると、ウテナは難なく着地した。
その姿に、女生徒からの歓声は一層大きくなった。
ダンクシュートを決める女の子など、まどか達は初めて見た。
それ以前に、あそこまで男子に交じって互角にスポーツをする女の子など、見たことがない。
あー、こりゃ人気でるわ、とさやかは納得した。
確かに、ウテナは憧れるに足る存在だった。兎にも角にもカッコイイ。
結局、そのままゲームはウテナの居るチームが勝利した。
ウテナがグラウンドを離れると、たちまちタオルを持った女生徒が殺到する。
ウテナは律儀に、一人一人に話しかけていた。
「あれで、あたし達と一つしか違わないんだよね」
「うう…。私14歳になっても、あんな風になれる自信ないよ…」
「あたしだってないわよ。ありゃ、別次元の生き物だわ。うがー! 世の中はなんて不平等なんだー!」
さやかが、吼えた。
まどかもあんな風にかっこよくなれたらなぁ、と思う反面、そんな願いは自分には大それたことのように思う。
あんな風にダンクシュートを決める自分の姿など、どうしても想像できない。
「あ、まどかちゃんー! さやかちゃんー!」
ウテナがまどか達に気が付き、声をかけた。
追ってくる女の子に断りを入れ、まどか達に合流した。
「試合、見てたんだ。嬉しいなぁ」
「天上先輩! カッコよかったっすよ!」
「ありがとう。でもそれならもっと、気合を入れてやるんだったよ。折角見に来てくれてたのに。ボールも結構取られちゃってたし」
「いやいや。ダンクシュート決めた時点で、十分かっこよすぎですって」
「あはは、そういってくれると嬉しいな」
さやかの言葉に、ウテナは、少し照れたように顔を染めた。
恥ずかしいのか、髪を弄ったり頬をかいたりと落ち着かない。
その様子を見てまどかは、ウテナの人気の理由がわかったような気がした。
天上ウテナは、奢った感じがない気さくな人間だ。
自分のことをひけらかさないし、相手を威圧したりもしない。
おそらく、どんな人間とも自然体で向き合うのだろう。その姿に、色んな人が惹かれるのだ。
「ところで、姫宮先輩は一緒じゃないんですか?」
「姫宮は、あんまり人が多いところには顔を出さないから。たぶんまた温室じゃないかな?」
ウテナがやれやれ、と呟く。
寮のもう一人の先輩の姿を、まどか達は思い出す。
確かに姫宮先輩は、あまり人前に出るようなタイプには見えなかった。
どうやら、ウテナは引っ込み思案な友人に苦労しているらしい。
さやかはわかるわかる、といった表情をウテナに向けた。
「温室…ですか?」
「姫宮が世話をしている薔薇園があるんだ。まどかちゃんは温室に興味があるの?」
「パパが家庭菜園をしていて。少し、手伝いとかもやってたんです」
「いいなぁ、お父さんか。ボクは親なしだからなぁ。そういう話はうらやましいよ」
「え?」
「ああ、ごめんごめん! 気にしないで」
そういわれても、まどか達は反応に困ってしまう。
その表情を見て、ウテナはバツが悪そうに頭をかいた。
後輩に気を使わせるようでは、先輩失格だと、内心反省した。
「天上先輩」
と、そこに一人の少年が現れた。
「あ、ミッキー」
「へ? 『みっきー』って私ですか?」
「あ、ミッキーっていうのはさやかちゃんじゃなくて。こっちの…」
ウテナは現れた少年に、視線を向けた。
短髪の小柄な少年だ。
中性的で顔立ちで、どこことなく幼さを感じさせる。
もしかしたら、同学年かも、とまどか達は思った。
ただ、少年は普通の男子生徒は違う制服をしており、どこか異質な雰囲気を体にまとわせていた。
「ええと、君たちは?」
「交換学生のまどかちゃんとさやかちゃんだよ、ミッキー。生徒会にも話は届いているだろう?」
「ああ、この人たちが!」
合点がいったように、少年は声を上げた。
「初めまして、生徒会の薫幹です。同じ中等部の一年生です。よろしくお願いします、鹿目さん美樹さん」
「こ、こちらこそ!」
生徒会。その単語を聞き、まどか達は思わず頭を下げてしまう。
その様子を見て少年――薫幹は、慌てたように合わせて頭を下げた。
「そ、そんなに固くならないでください。生徒会と言っても、単なる雑用係みたいなものですから」
そんなはずはない。
噂で出てきた、生徒の間では絶大な人気を誇るその執行部員たち。
彼らの凄さは、何度も耳にしている。この少年もそんな人気者の一人なのだろう。
そんな人物を前にしては、つい緊張してしまう。
まどか達が互いに距離を測りかねていると、何も知らないウテナがすんなりと声をかけた。
「それより、ミッキー。どうしたんだい? 何か用事があったんじゃ」
「ああ、そうだった。天上先輩、姫宮さんがどこに行ったか知りませんか?」
「姫宮ならいつもの温室だと思うけど?」
アンシーは、放課後は大抵、中庭の温室で薔薇の世話をしている。
初めてウテナがアンシーを見かけたのも、あの温室だ。
鳥かごのような形の、色んな種類の薔薇が咲き誇る小さな温室。
薔薇とアンシーの小さな世界。
「そこは先ほど覗いたですけど、姿がなくて…」
「え、本当? じゃあ、どこだろう。暁生さんの所かな?」
「あ、いえ。大した用事ではないんです。
ただ…、その、一緒にピアノを弾いてもらえたら、と思って…」
声は、最後に向かうにつれて小さくなっていった。
自分の言葉に恥ずかしさを覚えたのか、幹は赤くした。
何ともわかりやすい、とウテナは思う。
これで気が付かない人間は滅多にいないと思うが、その滅多にいない人間が顔を赤くする相手なのだから、人生は険しいことを実感する。
薫幹が姫宮に気があることは、ウテナや生徒会には周知の事実だ。
問題は、アンシーの性格を考えるとあまり報われそうにないことだが、おそらく本人もそのことは理解しているだろう。
頑張れミッキー。ウテナは、内心でエールを送った。
(この人が、生徒会の人なんだ…)
(うーむ、噂にたがわぬ美少年。このレベルが何人もいるのか…)
(凄い人なんだろうな…)
後ろめたいことを話しているわけではないが、つい小声になってしまう。
同年代とはいえ、面と向かって話すにはまどか達には少々気が引けた。それほど、噂で聞いた生徒会メンバーという人物は遠い存在に思えたのだ。
生徒から絶大な人気を誇り、学内の秩序と風紀を守っている生徒会。
そこには各分野の秀才や天才が集まるという。
秀才や天才などという言葉は、まどか達にとっては無縁の言葉だった。
そのように呼ばれた記憶はないし、おそらくこれからも呼ばれることはないだろう。
学園全体に認められた彼らは、自分たちとは次元の違う存在のように思えた。
この鳳学園に認められたのなら、なおさらだ。
「鹿目さん、美樹さん」
「は、はい!」
「何かあったら、生徒会を頼ってください。我々は貴方たちの力になりますよ」
「わ、わかりました…」
幹と会話するまどか達は、どことなくぎこちない。
やはりまだ鳳学園に来たばかりで、緊張しているのだろうか。
もしかしたら、男子に話しかけられることに慣れていないのかもしれない。
微妙に的を外しているのだが、ウテナはそのことには気づかなかった。
「音楽室にも、よかったらぜひ顔を見せてください。僕は大体、放課後はそこに…」
「ああ、いたいた。幹! こんなところで何をしているよ」
そこで、幹の言葉を遮るように、けたたましい声が校舎の方から飛んできた。
驚き、何事かとまどか達がそちら方の見ると、小さい少年を一人携えた少女がずんずんとこちらに向かってきていた。
「七実じゃないか。石蕗くんもこんにちは」
石蕗、と呼ばれた少年はウテナにペコリとお辞儀をした。
小さい子はどうやら初等部の子のようだ。
弟のタツヤが少し大きくなれば、この子のようになるのだろうか。
まどかは、見滝原にいる弟のことを思い出した。
考えてれば、タツヤと離れたのは初めてだ。そのうち、電話をしてみるのもいいかもしれない。
対して七実と呼ばれた少女は、物凄く不機嫌そうな顔をしていた。
薫幹と同じく、他の生徒とは違った制服を着ている。彼女も生徒会の人間なのだろうか。
しかし、幹とは違い物腰柔らかな態度ではない。
まどか達には目もくれず、ただウテナを鋭く見つめていた。
さやかは、この七実の態度に不快感を持った。
こちらを完全に無視をしているのも気に食わないが、それ以上に気になったのはウテナへの視線だ。
あれは、羨望や憧れといったものではない。
目の前の相手を心の底から憎んでおり、隙あらば自分の世界から排除しようとする、そんな目だ。
明らかな敵意を、七実はウテナに向けていた。
(何か、嫌な感じだな)
初対面だが、七実の性格の悪さを、さやかは感じていた。
決めつけるつもりはないが、何となくわかってしまう。
自分の気に入らないものは徹底的に排除する。そんなことを感じさせる目を、七実はウテナに向けている。
当のウテナは、気づいているのかいないのか、特に睨み返すこともなくのほほんとしていた。
やがて効果がないとみると、ふん、と七実はそっぽを向いた。
「ちょっと幹! 生徒会の仕事が溜まっているのだから、サボらないでくれるかしら。頼んでおいた報告書がまだ上がっていないのだけれど?」
「サボってたわけじゃないよ。今日の集まりときに提出するよ。それに、提出期限はまだ先だろう?」
「過ぎていなくても、早く出してくれないと困るのよ。やってもらいたい仕事は山ほどあるんだから。期限の一週間前には提出してもらわないと困るわ」
「そんな無茶苦茶な…」
「無茶でも何でもやってもらわないと困るの。私だって書類を書いているのだからおあいこでしょ」
ツリ気味の目が、一段と吊り上った。
言葉には怒気が満遍なく振り掛けられており、ウェーブ掛かった髪は怒りで逆立ったような錯覚を見る者に与える。
余裕がないなぁ、とウテナは心の中で呟いた。
ここ最近の七実は、いつにもまして落ち着きがない。
わがままなのはいつも通りだが、誰にも彼にも当たり散らしている。
交換学生でお供の三人娘がいないからだろうかと、ウテナは考える。
石蕗くんがいるが、それでも寂しいのかもしれない。
「それもこれも…天上ウテナ!」
「え、ボク?」
「全部アンタが悪いのよ! 貴方のせいで、お兄様は学校にも顔出さずにずっと部屋に閉じこもって…。
それもこれも、アンタがお兄様を傷つけたから!」
あー、なるほど、とウテナはようやく七実が不機嫌な理由を理解した。
物凄く理不尽な理由だが、それを貫こうとするのが七実の七実たる所以である。
ギリギリ、と七実は歯ぎしりを立てる。
石蕗が、どうどう、と落ち着くように促す。
それがますます気に障ったのか、七実は彼の頭をハタいた。
あんっ、と石蕗が嬌声の声を上げる。
やれやれ、と再度石蕗に当たろうとする七実を、ウテナ止めた。
「なんで、そうなるかな。大体、先に決闘を申し込んできたのは冬芽じゃないか。
ボクだって一度負けたけど、こうやって普通に生活できているし。冬芽のことは冬芽自身の問題だろうに」
「うっさいわね! アンタがお兄様に負けていれば、こうはならなかったのに! やっぱりアンタって空気が読めないわね!」
「空気を呼んで真剣勝負をするヤツなんかいないよ」
ウテナの正論を華麗に耳から排除し、七実は勢いを増した
「そーよ。全部アンタが悪いんだわ! お兄様の元気が無いのも、そのせいで生徒会が忙しいのも、茎子たちがいなくてアタシが苦労しているのも全部ね!」
「あのなぁ、七実…」
いいかげんに…、とウテナが口に出そうとしたとき、さやかが割り込んだ。
「ちょっと。何よアンタ!」
そこで、七実は初めて、見慣れない生徒がいることに気がついた。
「アンタこそ誰よ? 見ない顔だけど」
「この人たちは、交換学生の人たちだよ。君も話は聞いているだろ?」
「交換学生~?」
幹に言われ、ジロジロ、と七実はさやかを観察した。
「な、なによ…」
「ふん。やっぱり部外者は品がないわね」
その言葉に、さやかは一瞬で七実を嫌な奴と結論を出した。
「あんだと!」
「あら、見ての通りじゃない。話し方も下品ね。ここは貴方たちの本当の居場所じゃないんだから、大人しくしてなさいな」
もう既にさやかのことなど眼中にないように、七実はウテナに視線を戻す。
その態度が、さらにさやかの神経を逆なでした。
こちらを気に食わないのは別にいい。
人には好き嫌いがあるし、気に食わないことも当然あるだろう。
だが、それを隠そうともしないのはどういうつもりなのか。
七実は本心を隠そうともしない。我慢というものをしないのだ。
それは、世界は自分が中心だと疑わないことと変わらない、傲慢だ。
そして高慢な物言いは、明らかにこちらを見下していた。
まださやかが自分を睨みつけていることに気が付くと、七実はとことん人を馬鹿にした目つきでさやかを睨みつけた。
「鳳学園は選ばれた者のみが入れる、高尚な学園よ。
本来なら貴方たちのような人が入れるような場所じゃないんだから。期間中は大人しくしておくことね」
「七実くん! 失礼じゃないか」
「あら、本当のことでしょ。幼等部から過ごしてる者がほとんどなんだから。知性も肉体も作りからして違うのよ」
頭に血が上り、シュシュ、とさやかは素振りを始めた。
あわてて、まどかは止めに向った。
止めるなまどか、貴族に庶民の意地を見せてやる。
さやかは視線を送り、さらに素振りを行った。
「僕はあまり勉強出来なかったけど、普通入れたけどな」
と、そこでウテナが口をはさんだ。
「アンタは裏口入学でしょ! どーせ!」
「酷いな。暁生さんはそんな人じゃないよ。それに君の言う『高尚』な学園がそんなことするわけないじゃないか」
「くっ、天上ウテナ…! どこまでも忌々しい…」
ウテナに、顔に泥を塗られ、ますます七実は不機嫌になる。
その様子を見て、さやかは勝ち誇ったように声を上げた。
「ほーら、アンタだってあたし達と何も変わらないんだから。調子に乗るんじゃないわよ!」
「ふん。阿呆だからって、他の生徒まで阿呆になるわけないでしょ。それにこいつはしょっちゅう追試を受けているんだから。やっぱり落ちこぼれよ!」
「おやおやぁ、そんなこと言っていいのかなぁ? 天上先輩はファンが多いんだし、この学園の生徒はそんな人に憧れるような生徒ってことになっちゃうけどぉ?」
「ふん。高潔な人間は、時として下賤な人間に憧れるものなのよ。色んな責任を持たなくてもいい、そんな生き方をね」
「何よ、やりたくもないことしてるだけじゃない。好き好んで高いところに居るのに、震えているんじゃないわよ」
「ぐぎぎ…」
「うぐぐ…」
さやかと七実は真っ向からにらみ合う。
七実に、こうまで食いつく人間は珍しい。
七実は自分の意見を曲げることは絶対にしないため、大抵は相手が先に折れるからだ。
しかし、頑固者なのはさやかも変わらない。
一度決めたら突っ走るのがさやかの美徳であり、融通が利かないという欠点でもある。
もしかしたら、良い友達になるのかもしれない。
バチバチとにらみ合う二人を見てウテナは思った。
意外とこういうタイプは長く関係が続くものだ。
互いに互いが目につくからである。
仲良くはなることはないかもしれないが、互いに歯に衣着せぬ物言いが出来るのなら、それは良い友達と言えるだろう。
やがて、にらみ合いを不毛に感じたのか、ふんと七実は鼻を鳴らすと、幹に言葉を残した。
「幹! とにかく早く来てちょうだい。お兄様がいない間は、わたくしが生徒会を守らなくてはいけないんですから。
貴方たちも、大人しくしていることね。何か問題を起こして私たちの手を煩わせないでちょうだい。じゃあね!」
「あ、七実くん! 天上先輩、またあとで!」
「ミッキー。がんばれよー」
呑気に、ウテナは七実と幹を見送る。
さやかは去りゆく七実の後ろ姿に、あかんべーを送った。
嵐のような七実の登場に、まどかはただ圧倒されるばかりであった。
―――――
寮に戻った後も、さやかは七実に腹を立てていた。
「何なんですか、アイツ! 天上先輩に喧嘩売るし、アタシたちもバカにするし!」
夕食時になり、まどか達は食堂に集まっている。
食堂は広いが、ここにいるのはウテナとまどか達だけだ。
木の長いテーブルに真っ白なテーブルクロスが一面に覆われているのは、なかなかに壮観だが、それが余計に寂しさを際立たせている。
しかしそれとは対照的に、ウテナ達の間では話に花が咲いていた。
食堂のテーブルの上にはウテナが作った料理が並んでいる。
今日の夕食は、ハンバーグに、残っていた野菜をオリーブオイルと塩コショウで和えた簡単なサラダだ。
さやかは怒りでお腹が空いたのか、がつがつと目の前の料理を食べていた。
真っ白なテーブルクロスを汚さないかまどかはハラハラしたが、器用にこぼさず脇目を振らずに食べていた。
さやかの食べっぷりを見て、ウテナは気持ちがよくなる。
今日の献立は、冷蔵庫の整理ついでだったのだが、思いのほか見栄えの良いものができたと、満足する。
それに、まどか達が手伝ってくれたことも嬉しかった。
やはり、大人数で料理するのは楽しいものだ。
古びた寮だが、人数が増えて雰囲気もどことなく明るかった。
「もしかして、七実さんのことですか?」
「わかりますか、姫宮先輩!」
「まぁ、その言動を聞けば何となく」
ねぇ、チュチュ? とアンシーがチュチュに話しかける。
チュ! とチュチュは同意するように鳴くと、すぐに食事に戻った。
今日の夕食も気に入ったのか、食事に夢中だ。
「くっそ~。今度会ったら絶対鼻を明かしてやる…」
「さやかちゃん、ケンカはダメだよ」
「だって、まどかは悔しくないの! あんなふうに上から言いたい放題言われてさ!」
「うーん…」
悔しくなったほうが、いいのだろうか。
確かにいい気分はしなかったが、かといってあの七実という少女に何かしたいとか、そのような気持ちはまどかは湧かない。
思えば、あそこまで面と向かってバカにされたことはなかった気がする。
悔しいというより、どんな反応をすればいいのかわからないのが、正直なところだ。
「七実は別に君たちを嫌っているわけじゃないよ。ボクと一緒だから嫌みをいっただけさ。
君たちに特別な感情を持っているわけじゃないよ」
「はぁ」
「くっそ、それにしても腹が立つなぁ。ああいうのって、自分が世界の中心だと思ってるんですかね」
「七実さんの世界の中心は、冬芽さんですよね?」
「そうだろうね」
七実は実の兄である、桐生冬芽のことが大好きだ。
そのため兄に近づく女性は、全て『悪い虫』と決めつけ、目の敵にしている。
ウテナのことを嫌っているのも、冬芽がらみのことが原因だった。
「あの、冬芽さんって、生徒会長の?」
まどかには聞き覚えがある。
生徒会、その会長の名前として聞いたのが『冬芽様』だ。
確か、ルックスも人気も飛び切り抜群の生徒会長だ。
「そう生徒会長だよ。高等部二年・桐生冬芽。七実の兄貴さ。今はちょっと学校を休んでるだけど」
「今は、七実さんが会長代行として生徒会を仕切っていますよね」
「げっ。じゃあ、アイツが今は生徒会長なんですか!?」
「うん。ちゃんと一生懸命やっているよ。何か失敗して、兄貴の顔は汚したくないだろうし」
うへぇ、と心底嫌そうにさやかは声をあげた。
「七実さんは、お兄さんの冬芽さんが大好きですから」
「ブラコンかよ…」
「まあ、何か嫌がらせをされたらボクに相談してよ。
あれでちゃんと常識はあるし、兄貴絡みじゃなきゃそんなことはしないだろうけどさ」
その冬芽も、今は学園には姿を見せていない。
何かの間違いで出会うようなことがなければ、問題はないだろう。
もし出会えば冬芽は口説きにかかってくるかもしれないが、そこは運を天に任せるしかない。
桐生冬芽のプレイボーイっぷりは、鳳学園でも有名だ。
「冬芽さんのことになると、本当に見境がなくなりますものね、ウテナ様」
「本当にね。全く、悪い兄貴だよ、冬芽は」
事実、冬芽は妹である七実を体よく利用している節がある。
妹の愛に気づき、それを利用する。
『策略家』と言ってもいい。
その能力が彼を生徒会長という立場に立たせている所以かもしれない。
高い上昇志向にして、自信家。
それが桐生冬芽という人間だ。
そしてウテナは桐生冬芽の言葉には、様々な毒があることを、身をもって経験していた。
(嫌いじゃないんだけどな…)
冬芽のしていることを許すことは出来ない。
が、冬芽との出会いで得るものは大きかったのもまた事実だ。
彼との一件がなければ、ウテナはアンシーのことを理解することも出来なかったし、他のデュエリストと同じアンシーを抑圧するだけの存在となっていただろう。
それに、助けてもらったこともある。冬芽自身の目的があったにしろ、それでこの身を守ってくれたこともあったことは変わりない。
そうした理由から、ウテナは冬芽のことを何となく憎むことは出来ない。
悪い奴ではあるが、休んでいれば心配にもなるし、見舞いにでも行こうかと思う存在なのだった。
「天上先輩とその桐生冬芽って、何かあったんですか?」
「へっ? な、なんで…?」
突然のさやかの質問に、ウテナは狼狽した。
そんなことはないだろうが、タイミングがタイミングだ。
心を読まれたかのような錯覚に陥った。
「だって七実って、天上先輩のこと目の敵しているし。それなら、その兄貴のことで何かあったのかな、と」
まどかは思い出す。そういえば、あの時七実は何かを言っていた。確か…。
「そういえば、七実さんも決闘がどうとか…」
「決闘?! どーいうことよ、まどか!」
「え、えっとね。七実さんがね、お兄さんが学校に来なくなったのは『決闘』に負けたからって言ってて」
「天上先輩! どーいうことですか!」
さやかは目を輝かせていた。
さやかの中では、既に天上ウテナは学園のヒーローという認識になっていた。
そのウテナが『決闘』である。
『決闘』。聞くだけで、心躍る言葉だ。
「え、えっとそれは…」
「ウテナ様は、私をために冬芽さんと決闘したんですよ」
「ちょ、ちょっと姫宮!」
「あら、いいじゃありませんか。嘘をついてもしかたありませんよ」
「いや、そこはつこうよ。なんでこんなときだけ正直かな、君は」
「どうもどうも」
アンシーが照れたように返す。いや褒めてないって、とウテナはツッコミを入れた。
「姫宮先輩を巡って決闘?!」
「な、なにかあったんですか?」
既にさやかは聞く気満々だ。
まどかも、控えめであるが興味津々といった感じである。
こりゃ話すまで終わりそうにないな、とウテナは腹をくくった。
冬芽とウテナの間にあったことを要約するとこうなる。
生徒会長である桐生冬芽は女ったらしであること。
姫宮が気に入ったのか、手を出してきたこと。
話し合いで解決する問題ではなかったため姫宮を守るために勝負し、そして一度負けたこと。
しかし後日リターンマッチをし、勝ったこと。
無論、実際にどのようなことがあったのか、話したりはしなかった。
この学園で行われている決闘ゲームに、まどか達を巻き込むわけにはいかない。
それに、そんなことを話せば、まどか達はこの鳳学園をおかしな学園だと思い、嫌ってしまうかもしれない。
ウテナは、決闘ゲームが行われていること嫌っているが、この学園そのものは気に入っているのだ。
嘘をついているわけではない。
桐生冬芽は、たしかに『薔薇の花嫁』である姫宮アンシーを狙い、ウテナに勝負を挑んできた。
一度敗北し、そして二度目の決闘で姫宮を取り戻したのも本当だ。
が、事実を話しているわけでもない。
真実を話さないなら、それは嘘と何が違うのだろうか。
むしろただ嘘をつくよりも、言い訳を用意しているだけ卑怯なことだ。
あまり褒められたことじゃないな、とウテナは話しながら心の中で自嘲した。
これでは王子様失格だ。
「――と、いうわけ」
「凄いっすよ天上先輩! 友達を守るために決闘までするなんて。くっそー、その生徒会長は女の敵ですね!」
さやかはどうやら、冬芽のことを悪の親玉と認定したようである。
頭の中では、七実と合わせて、黒いオーラを纏っているように見えているのかもしれない。
「別に酷いことするわけじゃないけどね。誰にでも優しいってだけで。プレイボーイって大体ああいうものじゃないのかな?」
「それでも許せないですよ! 姫宮先輩を無理やり自分のものにしようとするなんて! 何でそんな人なのに人気があるんですか?」
「うーん、文武両道だし、仕事はきっちりこなすからなぁ。女の子たちも、冬芽がそういう奴だって知っていて慕っているし」
「冬芽さんは、優しいですから。ラブレターを貰えば返事は必ずしますし、その人が望めば甘い愛のささやきもしてくれる人なんですよ」
そういえば、姫宮もそうだったのだろうか。
ウテナが敗北した後、一時的だがアンシーは冬芽の元で生活を送っている。
その間に冬芽や嫉妬した七実に何かされなかったのだろうか。
今更ながら、ウテナはアンシーのことが心配になった。
「ボクはそうは思えないけどな。いらないって言ったのに、パーティのドレスを贈ってきたりするし」
「ド、ドレス…?」
あまり聞きなれない言葉に、まどかは反応する。
『ドレスが贈られる』なんて、普通は使わない言葉だ。
「ああ、たまに生徒会主催で開くんだよ。パーティやら、舞踏会やら。誕生会の場合もあったかな。
七実が取り巻き連れてブランド品見せびらかしたりするだけだから、あんまり好きじゃないけどね。
呼ばれたら顔を出さないわけにはいかないしなぁ」
ブランド品を自慢する七実。簡単に想像できるところが、なんともいえない。
このネックレス、どう?
綺麗です七実様!
おじさまに買っていただいたの。なーに大したことなくってよ。
さすが七実様!最高の着こなしですう!
グッチのデザイナーが、是非私にってね。ちょっとモデルをしただけなんだけど、困っちゃうわぁ。
さすが七実様!最高の着こなしですう!
なーに大したことなくってよ。おほほほほほほ。
そんな光景が目に浮かんだ。考えただけで、さやかは気分がげんなりした。
「なんだか、聞いていたよりまともじゃないなぁ生徒会って。もっと天才とか秀才が集まってて、何かキラキラしてると思ってたのに」
「まぁ、行事の企画やら自治やらちゃんと仕事はしてるから。それに冬芽たちだけじゃなく、ミッキーや樹璃先輩もいるしね」
「ミッキーって、あの男子ですよね。やっぱりすごいんですか?」
「凄いなんてもんじゃないよ。ミッキーは、あの年で大学のカリキュラムを受けている秀才で、優秀なピアニスト。あとフェンシグの選手」
「すごっ! 文武両道で、おまけに芸術家かよ! 数え役満じゃないですか!」
「あははははは! 面白いことを言うね。さやかちゃん」
まどかは、あの少年・薫幹のことを思い出す。
礼儀正しく、気取ったところのない男の子だった。
見滝原のクラスに居た男の子とは大違いだ。
まどかは、男の子というのが苦手だ。
自分の知っている男の子とは、何かとえっちな話をしているし、立ち聞きだが口を開けば女の子の話ばかりしている。
大きな声を出し合うのも、どこか恐怖を感じた。
男子とはそういうもの、とさやかは言っているが、それでもある種の苦手意識を自分が持ってしまっていることは否定できない。
例外は家族である父と弟だが、そもそも男性として意識して見たことはない。
まどかにとって、男とは未知の生き物であり、不可思議な存在だった。
そのため、今日の幹という少年との出会いは、軽く頭を揺さぶられた。
ああいう、男の子もいる。思いもしなかったことだ。
今まで見てきた、男性という存在とは何もかもが違う。
礼儀正しいし、暴力的な雰囲気もしない。
これまで、男の子とはあまり話が進まなかったが、彼とは何となく上手く話せるような気がした。
が―――。
「樹璃先輩はフェンシング部の主将で令嬢。
冬芽だって成績は学年トップ。
西園寺は剣道部主将っと。
伊達や酔狂で生徒会の役員に選ばれたわけじゃないからね、みんな選ばれるだけのものは持ってるよ。
まぁ、イコール尊敬できる人ってわけじゃないけどさ」
大学のカリキュラムにピアニスト。
今日話した同学年の生徒だというのに、それだけでまどかにとっては遠い存在だ。
同い年なのに、何が違ったというのだろう。
それだけで、気後れしてしまう。
これまで、自分が何もしてこなかったのではないか。そんなことを考えてしまうのだ。
「やっぱりすごいんですね、生徒会の人って…」
思えば、この学園に来てから、そんなことを感じてばかりだ。
これまでいた場所とは何もかも違いすぎる。
学生主体のパーティなど、まどかは出たことはない。
そういうのがあることは知っていたが、現実に行われているなど思ってもみなかった。
(これが、世界が変わるってことなのかな?)
出発前に母である絢子に言われたことを思い出す。
たぶん世界が変わるよ、と笑って送り出してくれた。
その時は大げさだなぁ、と思ったが、こうして実際に経験してみると、それが大げさでも何でもなかったことがわかる。
これは革命なのかもしれない。まどかの小さな世界の革命だ。
ならば、自分も何か変わることができるのだろうか。
「七実は。…なにかあったっけ?」
「お兄さんへの愛じゃないでしょうか?」
「それって、褒めることなのかな?」
―――――
「たっくんは元気? うん、うん。たっくん、こんばんは。おねーちゃんだよー」
『ねーちゃ!ねーちゃ!』
「あははは。たっくんも元気そうだね!」
まどかは部屋で、家に電話をしていた。
久しぶりに聞く母や弟の声は、普段と変わらず元気だった。
部屋で携帯電話を使っているのは理由がある。
寮に電話はあるが、いまどき珍しいレトロなベル式で、まどか達は使い方がわからなかったのだ。
穴に指を通すところまではいけるが、その先がわからない。
『回す』ということは知っているが、何をどのくらい回すのかが想像がつかない。
ウテナ達に使い方を聞くことも考えたが、夜も遅いことだし、そのために邪魔をするのは気が引けた。
明日にでも使い方を習おう、とまどかは決めた。
部屋での電話は。同室のさやかに悪い。
同じ部屋なのに一人黙々と電話をするのは、失礼なことだろう。
「うん、うん。大丈夫だよ。寮の先輩はかっこいい人だし。…うん。
えっ、そ、そんなことないよ! もー、ママったら…。
うん、気を付けるよ。じゃあね」
ピ、と電話を切る。
見るとさやかは、クッションを抱きながら床に転がっていた。
イヤホンをつけているところを見ると、音楽かラジオを聞いていたようだ。
まどかに気付くと、さやかはイヤホンを外した。
「まどかのお母さん、元気だった?」
「うん。元気だったよ。さやかちゃんは電話しないの?」
まどかが聞くと、さやかは首を振った。
「うちは、ほら、仕事で遅いからさ。いつ帰ってくるかわからないし、電話したら疲れちゃうかなって」
「そんなことないと思うけど…」
いいの、とそれきり言うと、さやかはティーポットを持って部屋から出て行った。
中学生になってから、さやかは両親とたびたび些細なことで衝突している。
もしかしたら、今回の話も、少しでも両親と離れたいから受けたのかもしれない。
まどかは、さやかの出て行った扉を見つめた。
さやかがいなくなると、とたんに部屋が寂しくなる。
一人で使うにはこの部屋は大きすぎるし、静かすぎる。
一人の方が気楽かもしれないが、それでもまどかはさやかと同じ部屋で良かったと思う。
まどか達の部屋は、二段ベットのある二人部屋だ。
十畳の間取りに、ベット・クローゼット・テーブルがあり、クローゼットには制服が収納されていた。
窓にはクリーム色のカーテンがついており、備え付けの花瓶には薔薇が差してあった。
ベッドは上をさやか、下をまどかが使っている。
どちらがいいか決めた時に、さやかが上の方がいいと言ったからだ。
そのまますんなりと、双方の合意を得てこの形になった。
本音を言えば、まどかは少し上のベッドも気を引かれていたが、転げ落ちた時のことを考えて止めてしまった。
まどかは寝相が良くないのだ。
古びた寮だったが、中は意外と清潔であり、部屋に入った時も埃一つ落ちていなかった。
もしかしたら、ウテナ達があらかじめ掃除しておいてくれたのかもしれない。
薔薇も姫宮先輩の薔薇園のものだろう。
薔薇の香りは、独特の香りでこの部屋を包んでいる。それは、とても落ち着く匂いだ。
やがて、さやかがお茶の入ったポットを持って戻ってきた。
中には紅茶が入っている。
ティーカップに注いでお茶を入れると、何気なしに会話が進んだ。
「しっかし、凄いところだよね。鳳学園って。秀才ぞろいの生徒会に、男装の麗人! 理事長はイケメンだし、不思議な噂は山盛り! まるでおとぎの国だわ」
「建物も、なんだか不思議な感じがするよね。根室記念館とか」
「いやいや、理事長館の方がぶっ飛んでるでしょ。理事長室にプラネタリウムとか、不思議なんてレベルじゃないわ」
凄い、不思議、見たこともない。
それはまどかが鳳学園に来て、何度も繰り返した言葉だ。
見滝原とは、何もかもが違っている。
緑も多いし、流れる空気すらも別のものに感じる。
どこか、異界のような雰囲気がこの鳳学園にはある。
まるで、世界から隔絶された箱庭のようだ。
「私、大丈夫かな…」
「何? もしかしてまどかは、もうホームシックぅ?」
「ち、違うよ! なんていうか、この学校ってすごい人ばっかりだし、ちゃんと授業とかについていけるのかなって」
自分とは何もかも違う。天上ウテナは格好良いし、今日会った薫幹は天才だ。
自分なんかとは違う、才能や長所を持った人たち。
この鳳学園で出会った人は、皆そういったものを持っている。
彼らを見ていると、自分という人間がいることは、酷く場違いなのではないか。
否応なくそんなことを考えてしまう。
変われば、自分も彼らのようになれるかもしれない。
しかし、今の自分は何のとりえもない人間だ。
ふと、持ってきたバッグに目を移す。
中には着替えや、各学科のノート、家から持ってきたお気に入りのものが入っている。
その中に、さやかにも見せていない秘密ノートがある。
何のことはない、ただの落書帳だ。
その中には、まどかが何となく描いた色々な絵が書かれている。
整合性はない。
テレビで見たアイドルの絵もあるし、アニメのキャラクターもある。
友達である仁美やさやかの絵もあった。
ただ気に入ったり、描きたくなったものを気ままに描いている。
それは、家族にも知られていない、まどかのささやかな習慣の一つだ。
あの絵に描いた何かになりたい。まどかはそう思っている。
今はまだ無理だが、いつかあそこに描かれた何かになるのが、まどかのささやかな野望だ。
だが、今の自分はそこには到底及ばない。
千里の道も一歩からというが、自分はまだその一歩を始めようとしているだけだ。
あんな凄い人たちの中に入って、やっていけるのか、まどかは不安だった。
しかし、さやかは笑って、大丈夫!と答えた。
「凄いっていっても、みんながみんな天上先輩みたいな人じゃないんだから。
それにあの生徒会だって七実みたいな奴がいるんだし、気後れすることないよ、まどか」
「でも…」
「あー、なんでアンタはそんなに自己評価が低いかな。まどかにはまどかの良いところがあるんだから、心配しなくていいの! ここの生徒にも負けない人間だってことはこのさやかちゃんが保証してあげるから、安心しなさい!」
「さやかちゃんに保証されても、あんまり安心はできないかな?」
「あんだとー!」
怒ったさやかが、まどかに襲い掛かった。
脇に手をやり、くすぐりを始める。
思わぬさやかの攻撃に、まどかは悲鳴を上げた。
大丈夫、一人ではない。
さやかもいるし、何より自分は自分の意思でここに来たのだ。
まどかは、気持ちを引き締めた。確かに自分には人に誇れるものはない。
だったらこれから作ればいいのだ。これはその一歩であり、始まりだ。
必ず、この交換留学で変わろう。新しい自分を見つけるのだ。
鳳学園の世界の果てに近い、塔の上。そこに生徒会室はある。
「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく」
「我らが雛で、卵は世界だ」
「世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく」
「世界の殻を破壊せよ」
「世界を革命するために!」
「…なぁ、止めようよ。二人でこれやっても空しいだけだよ」
「うっさいわね。これをしないと、始まらないでしょ」
「というか、前の七実くんが考えたバージョンはどうしたのさ。あれ一生懸命考えたんだろ?」
「あれは失敗。やっぱりお兄様の生徒会なんだから、お兄様の言葉の方が相応しいわ。
今日からこっちに戻すから、よろしくね幹」
「はいはい」
「…で、幹。ちょっと聞きたいんだけど」
「うん?」
「何で生徒会に召集かけたのにアンタしか来ないのよ! 樹璃はどうしたの樹璃は!」
「樹璃さんは、今日は用事があるとかで、もう帰ったよ。何でも知り合いにモデルの仕事を頼まれたんだって」
「全く、樹璃にも困ったものね! 生徒会の自覚があるのかしら」
「十分前に、いきなり緊急召集かけてもそりゃ無理だよ。もっと前もって、予定を立てないと」
「仕方ないでしょ。一刻を争う事態みたいなんだから」
「大体、どうしてこんな急に招集したのさ」
「アンタが生徒会と天上ウテナ以外に、薔薇の花嫁を狙う勢力があるっていうから、招集したんじゃない」
「え。信じてくれたのか?!」
「それを決めるために、生徒会に招集をかけたの! 私は信じてないけど、もし第三勢力を本当に現れたなら、何とかしないといけないじゃない」
「七実くん…」
「それにしても情けないわね。わけの分からない連中に、一杯食わされるなんて。お兄様がいないからって、ちょっと気が緩んでんじゃないの」
「それは…! その、相手が梢だったから…」
「あの子は、操られてた時の事、覚えてないんですって?」
「うん、何にも。決闘で負けたあと気絶して、天上先輩が運んで来たらしいけど……」
「とにかく、生徒会の人間に危害を加えてきたのなら放置はできないわ。下手をすれば学内の治安にも影響が出るじゃない。お兄様がお休みしている間は、この私が学園を守らなくちゃいけないんだから」
「そうだよな。姫宮先輩のことも心配だし、早く正体を突き止めないと」
「姫宮アンシーのことはどうでもいいの。どうせ天上ウテナが守ってくれるでしょ。それよりも、私たちを舐めてかかったらどうなるか、思いしらせてあげないと」
「あれ、天上先輩の事、信頼しているのか?」
「そんなわけないじゃない。でも負けることはないでしょ。忌々しいけど、アイツが生徒会全員と戦って勝ったことは紛れもない事実なんだから。むしろ負けてもらっては困るわ」
「まぁ、確かに負けないだろう。でも、だからといって放置するわけにはいかない」
「当たり前でしょ。この学園を仕切るのは、この生徒会なんだから」
「そうだね」
「とにかく、樹璃がいないと話が進まないわ。これで今日は解散。帰り道は注意しなさいよ。なんてったって、アンタは一度油断して付け込まれているんですからね」
「わかってるよ」
「あと、あの変なうるさい女を何とかして頂戴。会うたびに突っかかれたんじゃ気が持たないわ」
「美樹さんのことかい? あれは君が挑発するからいけないんだよ。ケンカできる仲なんだし、自分で言えばいいじゃないか」
「う、うっさいわね。とにかく任せたわよ。私は忙しいんだから。じゃあね!」
「やれやれ……」
薫幹は思い出す。
あの時、目の前に現れた双子の妹のことを。
黒薔薇。
指にはめられた、黒い薔薇の刻印。
胸に延ばされる手。
そして…。
(――っ)
あの時の感覚が湧きだし、思わず胸を押さえる。
あの時、引き抜かれたのは、間違いなく自分が使っていた『剣』だ。
しかし、ただ単純に剣が引き抜かれたというだけでは、あの感覚は説明できない。
自分の思考、感情、理想、心。
そういったものが引きずり出されたような感覚。
梢によって、自分の中から引き抜かれたものは、一体なんだったのか。
今でもそれはわからない。
しかし、ある種の嫌悪感が体に残っていた。
自分の渡してはいけない、見られたくないものを、他人に見られたような気分だ。
梢を操っていた人間を見過ごすわけにはいかない。
しかし、それ以上に『あんなこと』を行うことができる謎の勢力に、幹は漠然とした恐怖を覚えていた。
だからこそ、放っておくことは出来ない。
奴らを野放しにしては、必ず誰かに不幸をもたらすことだろう。
だが、敵の姿が全く見えないことに、幹は不安を抱く。
ふと、幹は学園を見下ろした。
生徒会室のテラスからは、鳳学園が良く見える。
眼下に広がる学園では生徒が行きかい、それぞれの生活を送っている。自分もその一人だ。
その影では、何か得体のしれないものが蠢いている。
そのことを想像したとき、幹には見慣れている学園が、得体のしれない不気味な黒い世界に見えた。
―――――
鳳学園の、薄暗い地の底。
そこに、黒い薔薇は咲いている。
「ねぇ、先輩。何もしなくていいの? このままだと薔薇の花嫁を亡き者に出来ないよ」
黒薔薇を前に語りかけるは、浅黒い肌の少年。
その隣には長身の青年が、同じく黒薔薇を見つめている。
少年の名は、千唾馬宮。
青年の名は、御影草時という。
「焦ってはダメだよ、馬宮」
「でも、先輩。僕は永遠が欲しいんだ」
「分かっている。それには薔薇の花嫁を亡き者にし、君を薔薇の花嫁にしなければ」
「花婿、でしょ。僕は男の子だよ」
「君には花嫁の方が似合っているさ、馬宮」
何度も繰り返された問答を、二人は答え合う。
それは、もう意思の確認ではない。彼らの閉じた世界を構成する、一つの要素だった。
「天上ウテナは強いデュエリストだ。彼女を倒すには簡単じゃない。
美しい薔薇を咲かそうとすることと同じさ。それには、相応の準備がいる。事を急いでも何もならないよ」
「次の薔薇の準備をしているの?」
「ああ。何も心配することはないよ、馬宮」
御影は馬宮の髪に触れる。
馬宮の存在は儚い。
気が付けば今にも消えそうな彼を、御影は触れることでこの世に繋ぎ止める。
しかし、それも一時的な対処だ。このままでは、馬宮は本当に消えてなくなってしまうだろう。
だから、御影草時は永遠を求める。
馬宮に永遠を与えるために。
「とはいえ、このまま天上ウテナに何もしないでいるのも気が引けるな」
世界の果てに、咲き誇る黒い薔薇。
たった一輪の薔薇は、ささやかな香りを二人に振りまく。
「たまには、野に咲く薔薇を見るのもいいかもしれないね」
黒薔薇の少年たちは、今日も黒薔薇を見つめる。
―――――
「美樹さん、鹿目さん。次の移動授業、一緒に行かない?」
―――――
鳳学園での生活が始まって、2週間が経った。
鳳学園での授業は特に問題なく進み、順調そのものである。
最初は乗馬やら何やらやるのではないかと緊張していたが、大方の予想を裏切って授業内容はごく普通のものであり、見滝原に居た頃と変わらない。
ペースで言えば、少し遅いくらいだ。
「ふーん、やっぱり都会の学校は勉強が進んでいるんだなぁ」
ほうれん草を鍋で茹でながら、ウテナがそんな感想を述べた。
やがて茹で上がると、冷やしに流し台に向かった。
「そんなことないです。進んでいるって言っても、一回分くらいですし」
「でも見滝原の学校じゃあ、黒板も机も全部機械なんだよね。やっぱりすごいよ。ボクじゃあ、勉強についていけないんだろうなぁ」
「そんなことないですよ。私でも付いていけてますし。さやかちゃんだって、赤点取っちゃうこともあるけど何とかなっているし…」
「あー、さやかちゃんはこっち側の人間かー。で、まどかちゃんは赤点知らず、と」
「い、いえ。私だって、油断してたまにとっちゃうし…」
ウテナに包丁包丁、と言われ、慌ててまどかは、まな板に目を戻す。
包丁を使う時は、目を離さない。
パパにも何度も注意されたことだ。
まどかとウテナは、現在夕食の準備をしている。
まどか達の寮にいる間の食事は、相談の結果、ウテナが主に調理を担当し、まどか達は補佐をするということに決まった。
そして、まどかは今まさにその手伝いをしている。
当初、まどか達は、食事は当番制で代わる代わる用意ことを提案した。
が、次の日の朝食でまどか達二人に料理の腕がないことが露見し、あえなくその提案は破綻してしまった。
焦げた朝食を見た姫宮アンシーのニコニコとした笑顔に二人が恐怖する中、ウテナが食事の準備は自分一人で構わないと助け船を出した。
結果、食事の準備そのものはウテナに任せることとなった。
が、流石にウテナ一人に食事を用意させるのは、いくら本人がかまわないと言っても気が引ける。
そのためまどか達は、用事がない場合は、ウテナの手伝いをすることを決めたのだ。
ちなみに、さやかは現在、音楽室に足を運んでいる。
あの生徒会執行部の、薫幹に会いに行くと言っていた。
なんでも、向こうがさやかの幼馴染である上条君の名前を知っていたらしい。
どこかのコンクールで演奏を聞いたことがあったそうだ。
「しかし『ミッキー』と『美樹』のコンビか。偶然とはいえ音楽の趣味も合うなんて、面白いなぁ」
「でも、薫くんの『幹』は名前なんですよね」
「双子の妹は『梢ちゃん』っていうんだけどね。そういえば、まどかちゃんはさやかちゃんと一緒に行かなくてよかったの?」
まどかの、包丁を動かす手が止まった。
切り終えた食材をまとめると、まどかは洗いものに取り掛かった。
ここから先の調理は、ウテナに任せなければならない。
自分では、まだまだ力不足だ。
「私、音楽のことはよくわからないし…。
さやかちゃんは上條くんの影響でクラシックとか色々詳しいけど、私は演歌くらいしか詳しくないから…」
「ミッキーは博学だから、知らなくても面白い話をしてくれるんだけどな…。って、演歌?!」
「あ、私好きなんです。小さいころからママが歌ってて、それで」
人は見かけによらないなぁ、と呟きながら、ウテナは炒め物に取り掛かる。
フライパンに食材を入れると、油で熱せられて肉や野菜の香ばしい香りが食堂を包んだ。
手早く調味料を入れながら、見る見るうちにおかずを作っていく。
やはり、普段から料理を作っている人は手際が違う。
まどかは、野菜を切るのにも時間がかかってばかりだ。
料理を作れるようになりたいと、主夫であるパパのもとで修行を行ってはいたが、なかなかその成果は表れない。
こうして手際の違いを見せられると、自分には料理の才能はないのではないか、そんなことを考えてしまう。
やがて、夕食の準備ができると、タイミングよくさやかが帰ってきた。
「ただいまー、っと。おお、なんかいい匂い! 今日のメニューは何ですか!」
「ほうれん草を茹でて味付けしたやつ…と、トマトスープに色々放り込んだやつ…と。
あと、よくわからない適当に作った肉と野菜の炒めもの、かな…?」
歯切れ悪く、ウテナが答えた。
どうやら作っている本人も、自分が何を作っているのかよく把握してなかったらしい。
それでこれだけ作れるのだから、まどかは尊敬してしまう。
「手を洗っておいで。姫宮は、今日は暁生さんのところに寄っていくって言ってたし。すぐに夕食にしようよ」
「はーい、天上先輩」
そう言い、さやかは部屋に荷物を置きに向かった。
戻ってくる間に、テーブルに料理を並べ、箸とお茶碗を用意する。
広い長テーブルに、料理と茶碗が三つ。姫宮先輩がいないから、今日の食卓は少し寂しい。
「あ、そうだ。まどかちゃん」
「なんですか? 天上先輩」
どことなく言い辛そうに、ウテナが答えた。
「食事が終わったらちょっと用があるんだけど…。ボクの部屋に来てもらっていいかな?」
―――――
「あっ、違いますよ。ここはこっちです」
「えっ、そうなの? あちゃー、またやり直しかぁ」
そういい、ウテナは布から糸を引き抜いた。
また一つ、布に穴が増える。
実は縫い終わっている部分もガタガタだが、こちらはもう仕方がない。
慣れない手つきで、ウテナは再度、布に糸を通した。
「そこはこうして…そうです。で、そこをくぐらせて…」
「ふむふむ…。こうして…こう、と」
ウテナの用とは、手芸に関することだった。
最初、部屋に呼び出されたとき、まどかは気が気ではなかった。
何かマズイことをしたのか、それとも気に障ることをしてしまったのか。
先輩の部屋に呼び出されることなど、まどかには経験がない。
何が待っているのか全くわからず、まどかはビクビクしてウテナの部屋に向かったのだ。
が、来てみれば何のことはない。
助けて! と部屋に入って開口一番、ウテナはまどかに泣きついた。
用とは、授業で裁縫の宿題があるのだが、分からないから教えてくれないか、との相談だった。
まどかは手芸部に所属しており、腕はそれなりである。
そのことをさやかから聞いて、一念発起、ウテナは教えを乞おうと決めたらしい。
最初は、そういわれても困ってしまった。人に教えられるほどの腕が自分にはあると、まどかは思っていなかったからだ。
だが、ウテナの不器用さは想像を超えていた。
教えているときは問題ないのだが、少し目を離すと、とたんにダメになっている。
これは、思いのほか時間がかかりそうだった。
「ごめんね、こんなことに付き合わせちゃって」
「いえ、それは別に…。って、天上先輩! 手!手!」
「うぉっと!」
目を離したウテナを、慌てて手元に向けさせる。
部屋には電気スタンドがあるため、手元が暗くなることはないのが、せめてもの慰めだ。
ウテナとアンシーの部屋は、殺風景なものだった。
自分とさやかが使っている部屋と、見た目はそう大差ない。
あまり荷物を運んできていない自分たちと同じとは、よほど私物が少ないのだろう。
自分も姫宮も物に執着するタイプではないので、色気のない部屋になっていると、ウテナは語っていた。
そのため、使っていない引き出しや押し入れは、アンシーが飼っているペットの寝床になっているらしい。
アンシーは動物マニアなのだそうだ。
無暗に開けると、中の動物に噛みつかれるらしい。
以前、例の桐生七実がそれでひどい目にあったそうだ。
ちくちくちく、とウテナは不器用に手を動かした。
「っと。うん、やっぱり教えてもらって正解だな、これなら明日までに間に合いそうだ。ありがとう、まどかちゃん」
「い、いえ。あんまり力になれなかったと思うし……」
「いやいや、助かったよ」
いや、本当に礼を言われるにはまだ早い。
出来上がりそうになって、やり直すのをもう三回ほど繰り返しているのだ。
ウテナの宿題を完成させるため、まどかの責任は重大だった。
「そいえば、まどかちゃんは何か作れたりするの? 手編みのセーターとか」
「セーターは無理ですけど、マフラーなら一度作りました。パパへのプレゼントで」
「プレゼントかぁ。ボクには手編みのマフラーを贈るような人はいないからなぁ。姫宮なら暁生さんがいるんだけど」
暁生さん。再びまどかはその名前を耳にする。この名前を口にするとき、ウテナはどことなく嬉しそうな顔をする。
一体どんな人なのだろうか。
謎の人物『暁生さん』。彼は、ウテナとの会話よく出てくる人だ。
姫宮アンシーはこの暁生さんなる人物に、たまに会いに行っている。
寮の門限を過ぎても、戻ってこないことも多々ある。
今日も、会いに行っており、帰ってくるのは遅い時間になることだろう。
「あの二人は仲がいいからなぁ」
「そうなんですか?」
「うん。何ていうか、暁生さんって包容力があるんだよね。星にも詳しいし、もしかしたら今日も姫宮に星の話をしているんじゃないかな?」
「星の話ですかぁ。いいなぁ」
鳳学園周辺は、とても空気が澄んでいる。
そのため、晴れた日の夜には星が良く見える。
満天の星空とはよく言ったものだ。
空いっぱいに星が広がる光景は、見滝原では見ることは出来ない。
確かに、今日みたいな夜ならば星を語るなら絶好の日和といえた。
暁生とは、男の人の名前だ。
そして姫宮先輩はその人物と、遅くまで時間を過ごしている。
星空の下で過ごすその時間は、とてもロマンチックだろう。
長い夜、真夜中の逢瀬、運命の恋人、有限の愛。
そんな単語が、まどかの頭の中をぐるぐると廻った。
「あ、あのっ!」
「ん?」
「暁生さんって、姫宮先輩の恋人ですか!?」
まどかの質問を聞き、ウテナはきょとんとした。
妙な沈黙が流れる。
そこから一呼吸置き、合点がいったように笑うと、ウテナは違う違うと否定した。
「暁生さんは姫宮のお兄さんだよ。君たちも会っているだろ?」
「え?」
「初日に理事長館で会わなかった? おっかしいなぁ」
理事長館。あんな奇妙奇天烈な場所を忘れるわけがない。
しかし、あそこで会った人物と言えば、鳳『暁生』理事長先生くらいしか…。
『暁生』?
「え。ええええええええええ!」
「どうしたの? まどかちゃん」
「ひ、姫宮先輩って理事長先生の妹さんだったんですか?!」
「あれ、言わなかったけ?」
「言ってませんよ! そ、それに苗字が…」
「暁生さんは、理事長の娘さんの香苗さんと婚約してるからね。苗字が違うんだよ」
思わぬ不意打ちにまどかは動揺した。
姫宮先輩が理事長の妹さん。
その驚きもあったが、そんなことより兄妹で男女の関係を想像してしまったことが恥ずかしい。
「ご、ごめんなさい。私、変なこと言っちゃって…」
「いやいや、知らなかったんならしょうがないって」
でも、とそこでウテナはまどかの顔をまじまじと見つめた。
「まどかちゃんも、なかなか想像力がたくましいなぁ」
「え?!」
「だって、『アキオ』って名前だけなら、女の人の場合もあるだろ? それなのに、姫宮が恋人と会ってるなんて、想像するとは…」
「い、いや。あの、それは…」
にやりと笑い、ウテナはとどめの言葉を浴びせる。
「えっち」
「あううう…」
ウテナに言われ、顔が熱くなってしまう。
おそらく、今鏡を見たら自分の顔は真っ赤になっていることだろう。
案の定そうだったのか、ウテナは冗談冗談、と笑って作業に戻った。
言われてみれば、理事長である鳳暁生と姫宮アンシーは似ていた。
肌の色もそうだが、どこかこの世のものとは思えない雰囲気。
まるで別の世界から来たような、そんな印象が二人にはあった。
「妹って言っても、学園で何か特別な待遇を受けているわけじゃないよ。そもそも、そのことを知っている人も少ないし。
あんまり固くならずに、これからも姫宮に接してくれると嬉しいな」
「あ、はい」
「姫宮、あまり人前に出たがらないんだよなぁ。クラスの集まりにも顔を出さないし、友達を作るのも苦手なんだよね。
親しい後輩ができれば何か変わるかもしれないし、遠慮しないで話しかけてあげてよ。見かけたときでいいからさ」
はい、と答えようとしてまどかは気づいた。
そういえば、寮では会うが、それ以外でアンシーを見かけたことがない。
普段どこにいるのだろうか。
グラウンドに居るウテナと違い、まどかはアンシーの姿は学園内では見かけたことがなかった。
話によれば中庭の薔薇園で世話をしているのがほとんどだそうだが、まどかがのぞいたときは、生憎姿は見えなかった。
学園生活を送るアンシー。
まどかは、何故かその姿がどうにもイメージできない。
ウテナとはまた違った個性を持つ人間、姫宮アンシー。
彼女は、学生生活や社会と言った俗世の出来事から浮き出たようなそんな存在感があった。
絵本のお姫様が、学校に来たり社会で働いたりしないように、アンシーがそのようなことするとは思えない。
そう思わせる雰囲気が、姫宮アンシーにはある。
現実にはそんなことはなく、アンシーはこの学園で学生生活を送っている。
しかし、そのような現実的な活動をアンシーがしている姿を、まどかは思い浮かべることができなかった。
自分と変わらない人間なのに、どうしてそんなことを思うのか。
まるで、自分はアンシーのことを人間と見ていないようだ。
自分がそんな差別するような人間とは思いたくないが、どうしてもアンシーに限って、まどかはそのような姿を想像することができない。
「よっ、と。できた! どう、まどかちゃん?」
まどかがそんなことを考えている内に、ウテナは作業を終えていた。
疲れたように肩を回すと、先生に提出する生徒のような面持ちで、まどかに刺繍を渡した。
「大丈夫…、だと思います」
本音を言えばいくつか気になる点はあるのだが、まどかは言わなかった。
布に描かれたのは、薔薇の刺繍だ。
白い布の真ん中に、大きく薔薇の花が描かれている。
手本に描かれた通りに糸を通したのなら、普通の薔薇が咲き誇るはずなのだが、ウテナの刺繍は所々で妙に独特な糸が入っている。
綺麗な薔薇に変わりないが、手本通りにと求められているなら、これはダメなものだ。
しかし、これを直すとなると大幅な手直しが必要になるし、それに授業の課題ならそこまで細かく言われることはないだろう。
何より、ここまでたどり着くまでの道も、決して平坦ではなかったのだ。
これ以上、困難な道を行くのは酷というものだろう。
まどかに可をもらい、ウテナはよかったぁ、と安心したように一息ついた。
「いつもは姫宮に教えてもらうんだけどね。今日はいないからさ、助かっちゃったよ」
「いえ、私もお役にたてたなら嬉しいです」
「そんなに、固くならないでよ。ボクって怖いかな?」
「い、いえ! そんなことないです」
怖いわけではない。
ウテナは優しい。学校で会えば気さくに話しかけてくれるし、学園性格を送るにあたっては、ウテナは色々なことを教えてくれた。
料理もおいしいし、寮に帰ってきてホッと安心できるのは、間違いなくウテナの人柄のおかげである。
それまで、先輩と呼べる上級生をまどかは持ったことはなかったが、
ウテナは間違いなく尊敬できる先輩だ。
固くなってしまうのは、そんなウテナがまぶしすぎるからである。
おそらく、自分は彼女のようにはなれないだろう。その事実が、まどかには重い。
「どうにも、手芸とか細かいのは上手くできなくてさ」
「苦手なことなんて誰にでもありますよ、天上先輩」
「これでも女の子なんだけどなぁ。まどかちゃんみたいにはなれそうもないよ」
ウテナの言葉を、まどかは思わず聞き返した。
「え…?」
わたしみたいになれそうにない。確かにそう言った。
しかし、そんなはずはない。ウテナは自分には無い物を持っているのだ。
そんな彼女が、自分をうらやむことなど何もないはずだ。
しかしウテナは、まどかちゃんを見習いたいよ、と言葉を続けた。
「カッコよく王子様みたいに生きたいけどさ、男になりたいわけじゃないんだよね。
まどかちゃんみたいな、女の子な部分も忘れちゃいけないと思うんだ。
でも手先がこんなに不器用じゃなぁ…」
自分のようなウテナ。その姿を、まどかは想像する。
少女のままであり、何のとりえもないまま過ごす。
自分に自信がなく、友達を作るのにも他人の力がなければ作れない。
そんな少女は、学園で話題に上がることなどないだろう。
クラスメイトに名前を覚えられる程度で、その他大勢に含まれる存在だ。
いるのかいないのか、漠然としている存在。
知られていなくても、何も問題がなく、世界が回る存在。
「…止めたほうがいいです」
自分でも気づかないうちに、まどかは声を出していた。
「天上先輩は、天上先輩のままでいてください。私みたいになんてならないほうがいいです」
「いやいや。まどかちゃんには、ちょっと見習いたい部分があるよ」
「そんなことないです。私なんて何にもできないし……」
「今日だって、こうやってボクのこと助けてくれたじゃないか。
君がいなかったら、ボクは宿題ができずに大目玉をくらうところだったよ」
「そんなのたまたまです。姫宮先輩がいれば、私なんていなくても大丈夫だったはずです。結局、私なんか……」
いなくても、と言おうとしたところで、ウテナが言葉をかぶせた。
「あんまり、自分のことを悪く言うのは良くないよ」
気付くと、ウテナが自分のことを見つめていた。
その瞳は、何よりも真っ直ぐに世界を見つめているようだ。
その瞳が、今はまどかを捉えている。
「ボクは、自分のことを大事にしない奴が嫌いだ。だって、その子が自分のことを悪く言ったら、その子を大事にしている友達はどうなるんだ?
自分を大事にしないことは、その子の友達や家族、好きな人に対する裏切りだ」
「天上先輩…」
「まどかちゃんには、まどかちゃんの良いところがある。自信がないなら、ボクが保証する。
まどかちゃんは魅力的な女の子だよ」
「でも私、何のとりえもないです…。勉強だってよくできるわけないし、運動だってへたっぴだし。
天上先輩みたいに料理だって…」
そういうと、ウテナは首を振った。
「でも細かい気配りができるし、裁縫だってできる。手伝いだってしてくれる。
何より、君は優しい女の子じゃないか。他人に心から優しくできる人は、それだけで大きな人だよ」
「…」
そういわれても、まどかは自分に何かあるとは思えない。
優しいことなんて、誰にでもできることではないだろうか。
確かに、世の中には他人の心を踏みにじる人間もいる。
けどそれは、全体から見れば一部の存在で、多くの人は誰だってその気になれば優しくできるはずだ。
例えば、さやかだってそうだ。
さやかは、優しい人間だ。
転校してきて、さやかに出会わなかったら自分はどうなっていたかわからない。
きっと友達もできずに、自分は一人ぼっちで泣いていただろう。
さやかがいたから、自分はクラスに馴染むことができ、友達を作ることができたのだ。
もし自分が逆の立場だったら、どうなっていただろう。
きっと自分から話しかける勇気もなく、きっと何もできない。
転校してきたその子は一人ぼっちのままだ。
そんな自分が優しい人間と言えるのだろうか。
優しい人間というなら、それはさやかのことを言うのではないのではないだろうか。
「私、優しくなんて……」
「そう言えるのは、君が優しい子だからさ。
何も考えずに優しくできるのなら、ますます自分を大事にしたほうがいいよ」
そうではない、そうじゃない。まどかは叫びたくなる。
自分はそんな人間じゃない。
ウテナが憧れるような人間ではない。
優しいのは、ウテナやさやかのような人間のことを言うのだ。
自分の強さを他の人に分け与えるような人間が。
「君は、君のままでいればいいんだ。君の普通は、君だけのものだ。無くしちゃダメだよ」
しかしまどかは、そんな普通の、何もできない自分が――。
【後編】に続きます。