*
ワルプルギスの夜襲来当日。
『----突発的異常気象に伴う避難指示が発令されました。
付近にお住まいの皆様は、速やかに指定の避難所への移動をお願いします。
こちらは----』
避難が完了し、人一人居ない街を、まどかは走る。
まだ昼前だというのに、辺りは日没後のごとく暗かった。
ふと、空を見上げる。
分厚く黒い雷雲が、切れ目無く流れていく。
不意に突風が吹いた。
髪がなびき、木々が大きく揺れ、窓ガラスがミシミシと音を立てる。
今はまだそれほどではないが、時が経てば、被害級の強風、落雷、豪雨、そして竜巻が発生し、街に甚大な被害が出るだろう。
それが一般的な認識であった。
実際には、結界を持たない大型魔女が大暴れするのだが、魔女を認識できない人々の目には、災害としてしか写らないのだ。
予報では、もう間もなくこの街はスーパーセルの降水域に突入する。
そこに居る筈だ。
超弩級の大型魔女、ワルプルギスの夜が。
「遅くなりました!」
そう言いながらまどかは、ほむらのアパートのドアを開けた。
「来たわね。では始めましょうか」
ほむらはそう言った。
部屋には、ほむら、マミ、杏子、ゆまの四人がちゃぶ台を囲っていた。
ちゃぶ台の上には見滝原の地図があり、ワルプルギスの夜の出現予想範囲と予想経路が書き込まれている。
これから最後の打ち合わせを始めるようだ。
まどかがちゃぶ台の前に座ったのを確認すると、ほむらは身を乗り出し、地図を指差しながら説明を始める。
「予想されるワルプルギスの夜の出現箇所はこの範囲。
この範囲のどこに出現してもいいように、私、マミ、杏子、ゆまはそれぞれこの地点で待機する」
ほむらはそう言いながら、円で示された出現予想範囲内にある四点を指し示す。
「まどかはここで待機。連絡を待ってちょうだい」
ほむらは四点から少し離れた、矢印で示された予想経路の先にある一点を指し示す。
まどかはうなずいた。
「各自、自分の近くにワルプルギスの夜が出現したら、すぐにテレパシーで連絡して。
その後は注意を引きつけて、できるだけ足止めをして、皆の到着を待っててちょうだい。
まどかは、出現場所が確定次第、予想経路の先に回りこんでから向かって。
まどかが最終防衛ラインよ。万が一抜かれたら、街や人への被害が大きくなるわ。
必ず進路の前に回り込んでから向かうこと。いいわね?
何か質問は?」
杏子が手をあげる。
「何でまどかが最終ラインなんだ?
てゆーかさ、フツーに出現予想範囲を五等分すればいいんじゃねえの?」
「それだと、出現箇所によってはまどかが間に合わない可能性があるからよ」
「……なんつーか、『まどかじゃないと勝てない』みたいな言い方だな」
「そうじゃないわ。
まどかの攻撃が一番ダメージを与えられるの。
それを踏まえたうえで、効率良く、且つ被害を最小限に抑えるための作戦よ」
「……まどかの攻撃が一番ダメージを与えられる?
その言い方はまるで、----」
杏子は鋭い目をほむらに向ける。
「----その様子を何度か見てきたみたいな言い方だな」
ほむらは一瞬だけ驚愕の表情になった。
「ええ、一度だけど、見てきたわよ。この前まどかが使い魔を倒したときの、凄まじい一撃を」
「……そうかい」
杏子は残念そうな表情で、ため息まじりにそう言った。
そして、急に静まり返った。
もう質問は無いようだ。
「それじゃあ行きましょうか。
相手は想像を遥かに超えた化け物よ。決して無理はしないように」
そう言いながら、ほむらは立ち上がる。
まどか、マミ、ゆまもそれに続く。
「…………」
少し遅れて杏子も立ち上がった。
*
結果だけ見れば、ワルプルギスの夜はあっけなく消滅した。
出発から十数分後。
ワルプルギスの夜はほむらの近くに出現し、ほむらはすぐさま応戦した。
軽機関銃。
手製爆弾。
対物ライフル。
手榴弾。
重機関銃。
持てる全ての武器を使った。
しかし、どれだけ撃ち込んでもダメージを受けている様子が見られない。
それどころか、盾の砂時計の砂が落ちきって時間停止が使えなくなり、ワルプルギスの夜の反撃を受け、重体に陥ってしまった。
ほむらを援護すべく急ぎ駆けつけたマミ、杏子、ゆまが到着するのと同時に、
「-----ほむらちゃん!!」
一番遠くに配置されたはずのまどかの声が響き渡った。
ビルの屋上に立ったまどかは、ワルプルギスの夜を正面に見据えると、弓を構え、弦を限界まで引き、ありったけの魔力を込めて撃ち放つ。
矢はワルプルギスの夜の中心に命中し、大穴を開ける。そして、その穴から外側に向かって徐々に崩壊していき、やがて完全に消滅した。
ワルプルギスの夜の崩壊を見届けたまどかは、急ぎほむらのもとへと駆る。
「ほむらちゃん! 私、やったよ!!」
到着するころには、ゆまによるほむらの治療は終わっていた。
ほむらはまどかに微笑みかけ、
「流石ね、まどか」
と、然もまどかならば倒すのは当然であるかのように言った。
街への被害といえるものは、ほむらが使用した武器の余波とワルプルギスの夜の数度の攻撃が主であった。
建物が数棟だけ、人的被害はゼロと、それほど大きな被害も無く、ワルプルギスの夜は終わりを迎えた。
避難指示も早々に解除され、夕方には既に街には日常が戻っていた。
*
ワルプルギスの夜を撃破した、その日の夜のこと。
まどかは風呂から上がり部屋へ戻ると、ベットへ飛び込んだ。
「うへへっ! てぃひひ!」
まどかはとても上機嫌だった。
ほむらを脅かしていたワルプルギスの夜をこの手で倒したのだという事実に酔いしれていた。
もう何も心配することはない。
何にも怯えることはない。
何も危険なものはない。
明日からずっと、笑い合える日々が続いていくだろう。
守れた。私は守ることができたんだ!
そうだ。明日はほむらちゃんと一緒に街を巡回しよう。
途中、一緒にお茶を飲んだり、クレープを食べたり、どこか店を回ったりしながら。
きっと、楽しいに違いない。
まどかは嬉しくなって、また笑い声を上げた。
そんな時だった。
『まどか。まだ起きてるかしら?』
突如、ほむらからテレパシーが届いた。
まどかはガバッ、と身を起こす。
『……! ほむらちゃん?! 今どこにいるの?』
『まどかの家の外よ』
まどかは急いで窓のカーテンを開ける。
すると、外に立つほむらが見えた。
上着を羽織り、まどかは外に出る。
「ほむらちゃん、こんな時間にどうしたの?」
「夜遅くにごめんなさい。
本当は誰にも会わないつもりだったのだけど、やっぱり、まどかにだけは一言言った方がいいと思って……その……」
ほむらは塞ぎ込み気味だった顔を上げ、一度大きく深呼吸する。
それが終わる頃には表情は凛々しいものに変わっていた。
そして、決意を込めた目をまどかに向ける。
「まどか、お別れを言いに来たわ」
「……え?」
一瞬、まどかの頭の中が真っ白になる。
お別れ? お別れって、何?
「それってどういうこと?
ほむらちゃん、どこかに行っちゃうの? ----まさか、転校?!」
「いえ、転校ではないわ。
事情があって、この街を離れることになったの」
「……その事情って何? 私にも何か手伝える?」
ほむらは首を横に振る。
「約束があるの」
「約束?」
「そう。友達と交わした、絶対に果たしたい、大切な約束。
だから私、そろそろ行くわね。
最後にまどかの顔が見れて良かったわ。
……それじゃあ、さよなら」
ほむらは踵を返し、立ち去ろうとする。
数瞬遅れてまどかが追いかけ、そして叫ぶ。
「待ってよほむらちゃん!!
いつ帰ってくるの?! また会えるんだよね?!!」
ほむらはピタッ、と足を止め、まどかに振り返る。
「……ええ。きっと、また会えるわ。
だから、それまでこの街の平和を守るって約束してくれるかしら?」
「……うん。絶対、守る。今度こそ絶対守るよ!
この街の平和も、ほむらちゃんとの約束も、絶対守ってみせる!」
まどかの力強い言葉に、ほむらは満足そうに微笑んだ。
そして不意にまどかの肩を掴むと、そっと頬に口付けをした。
突然の事に、まどかは驚く。
「……ふぇ?」
「ふふっ。驚いた顔のまどかも可愛いわ」
「んもうっ! ほむらちゃんのばか! スケベ! 変態!」
「あら、それは褒め言葉よ。まどかに言われる場合に限りね」
「えぇ~?!」
「……私は貴女のことが好きだったわ。
こんな私の友達になってくれて、どうもありがとう。」
「……私もほむらちゃんのこと、好きだよ。
ずっと、ずぅ~~っと、何時まで経っても友達だって思ってるからね」
「私もよ。----じゃあね、まどか。また会うその日まで。お元気で」
「ほむらちゃんも元気でね。----早く帰ってきてね」
ほむらは、まどかに一度笑みを見せると、背を向けて去っていく。
まどかは、見えなくなるまで、その背中をずっと見つめていた。
*
「……さて、と」
ほむらは誰も居ない公園につくと、魔法少女へと変身する。
そして、盾に手を掛け、回----
「よう、ほむら。こんな時間に何やってんだ?」
----しそこねた。
声の方を横目で見ると、杏子がスナック菓子を片手に歩み寄ってきているのが分かった。
ほむらは背を向けたまま聞く。
「貴女こそ、こんなところで何してるのよ。
……ゆまは一緒じゃないの?」
「ああ、あいつはもう寝てるよ。時間が時間だしな。
私はちょっと寝付けなくてね。お散歩の最中って訳だ」
そう言いながら杏子はポリポリと菓子を口に運ぶ。
「……寝る前にそんなに食べると、太るわよ」
「大丈夫だって。その分動いてるし。
----って、話をすりかえるなよ! 何をしてるか聞いてるのはこっちだっての。
まずはこっち向け!」
杏子はほむらの肩を掴み、強引に正面を向けさせる。
ほむらの顔を見た杏子は眉をしかめた。
「……おい。目ぇ赤いぞ? 大丈夫か?」
ほむらの目は、泣き腫らしたように赤かった。
ほむらは普段と変わらない口調で答える。
「ええ、問題ないわ」
「嘘つけ、このやろう。これが問題ないように見える奴は目が腐ってるぜ。
……何があったんだ? 全部話しな」
だが、ほむらの演技は直ぐに看破されてしまった。
ほむらは目を擦りながら少し考える。
「……そうね。貴女にはいろいろと世話になったことだし。
それに、終わったら全部話すって約束してたわよね。
いいわ。私が知ってること、全部話してあげる」
この返答は予想外だったようで、杏子は少し驚いた。
「ただ、他の皆には内緒よ?」
「ああ。分かった」
ほむらはベンチを見つけると、そこに座る。
それを見た杏子は、どうやら長い話になりそうだ、と思いながら隣に座った。
でもまあ、やっと話してくれる気になったんだから、ちゃんと最後まで聞こうじゃないか、とも思った。
「それじゃあ、何から話そうかしら。
……そうねぇ、じゃあ、ソウルジェムの秘密から----」
十数分後。
「----以上よ。これが私の知る全て」
「…………」
ほむらの説明が終わっても、杏子はしばらく動けなかった。
ソウルジェムが本体?
この体はただの外部装置?
魔女が魔法少女の成れの果て?
そんな……そんな馬鹿な!!
「……杏子? 大丈夫?」
「ん、ああ……。成る程ね。こりゃあ、お前が頑なに話そうとしない訳だ。
こんな話、誰にも話せないし、話しても信じてくれないわな。
未来から来たって言っても、証拠も何も無いから、証明できないもんな」
「貴女は、私の今の話を信じてくれるの?」
「言ったろ? 真意に話してさえくれれば、どんなぶっ飛んだ内容だろうがちゃんと聞くって。
私は信じるよ。今のお前の話に、嘘は一切感じなかった。
それに、お前の行動に関しても辻褄も合うしな」
ほむらは首を傾げる。
「……私の?」
「ああ」
杏子はポケットからチョコスティック菓子の箱を取り出すと、封を開け、ポリポリと食べながら話す。
「いろいろとボロを出してたぜ。
初対面なのにいきなり私の名前を言おうとしたり、教えてないのに私の名前の字を知ってたり、な。
細かいところを上げればまだあるが、特に気になったのがこの二つだ。
予め私の事を知ってるのに、何故かそれを隠そうとする。
こりゃあ何かある、って思ったんだよ」
「そうだったの……。それで私からいろいろと聞き出そうとしてたのね。
私の部屋に集まってワルプルギスの夜の説明したとき、グリーフシードはいらないから全部話せ、なんて言い出すから驚いたわ」
「まあ、結局聞けたのは最後の最後だけどな。
……そうか。私らは何度も会ったことがあるんだな。そりゃあ色々知ってる筈だぜ」
杏子の言葉に、ほむらは俯く。
「……ごめんなさい」
「お前が頭下げる必要はねぇよ。
なんだかんだ言っても、こうして話してくれたじゃないか。
むしろ、謝んなきゃならないのはこっちの方だ。
悪かったな、根掘り葉掘り聞いちまってよ」
「それこそ謝る必要は無いわ。隠し事ばかりだったのは事実ですもの」
「ははっ! ほむら、私が思うに、お前はもうちょっとオープンでもいいと思うんだ。----ただし、変態行動以外は、だけどな」
「そうね。『次』は少し自粛することにするわ」
その言葉を聞いた杏子の表情から笑みが消え、真剣なものへと変わる。
「……やっぱり、時間を巻き戻すのか?」
「ええ。だって、まどかと約束したんだもの。絶対に助けてみせる、って」
「この時間軸に残って、まどかを支えてやる、ってのはダメなのか?」
「……その必要は無いわ。
この時間軸のまどかはちゃんと目的を持って契約したみたいだし。
それに----」
ほむらは優しく微笑む。
「----まどかはとても幸せそうだったわ。
誰かのために戦えること、それが本当にうれしいのでしょうね。
もう私がいなくても大丈夫。
既に魔法少女として一人前になったのよ。
私が庇護する必要は、もう無いわ。
そういう意味では、もしかしたらこれまでの繰り返しの中で、一番安心して時間を巻き戻せるんじゃないかしら。
……でも、----」
表情は笑顔のまま、目から涙が零れる。
「----できれば魔法少女になんかならず人間のままで、幸せを掴んで欲しかった……
こんなものにならなくても、まどかは優しくて素晴しい人間だったのに……。
……次よ。『次』こそは、まどかとの約束を果たしてみせる。
契約なんて絶対にさせないわ!」
「……そうかい。止めるだけ無駄みてえだな。
『次』こそは約束果たせるといいな。
過去の私に会ったらよろしく」
「ええ」
ほむらは袖で涙を拭い、そしてベンチから立ち上がった。
「じゃあね杏子。一ヶ月前にまた会いましょ」
「おう。じゃあな」
ほむらが歩き出すと、杏子も立ち上がって別方向へと歩き出す。
ふと、数歩歩いたところで杏子の足が止まる。
「おっ! そうだ! おいほむら! 腹が減っては、って言うだろ?
つっても今の手持ち、菓子しかねぇんだけどな。
これでもよけりゃあ----」
杏子は菓子箱を手に振り返る。
「----食うかい?」
だが、そこにほむらの姿は無かった。
*
暁美ほむらが失踪して約三ヶ月が経過した。
季節は夏真っ盛り。
日が落ちて大分経つにも関わらず、気温はなかなか下がらない。
そんな熱帯夜の街中を、まどかとマミの二人は彷徨っていた。
目的は、魔女狩りの為の巡回だ。
だが、いくら歩き回っても、魔女はおろか、使い魔の反応すらない。
マミは額の汗を拭きながら、ふぅ、とため息をついた。
「ん~、どうやら今日も魔女はいないみたいね」
「そうみたいですね。
何だか、ワルプルギスの夜を倒してから、段々と魔女と遭遇する頻度が減っていってるような気がしません?」
「言われてみれば、たしかにそうね。でも、----」
マミはまどかに微笑みを向ける。
「----それはとても歓迎すべきことだわ。
魔女が減っているということは、それだけ被害者は減っているということなのだから」
まどかは一瞬遅れてから、マミに笑みを返す。
「そ、そうですよね。街が平和なのが一番ですよね」
「そのとおりよ」
マミは、まどかの笑顔が無理して作っているものに思えた。
「鹿目さんは、出番が無くて物足りないのかしら?」
「え?! ……あ、いや、そ、そんなことは無いですよ!」
「駄目よ、手段と目的を履き違えては。
魔法少女は人々を守るために戦うのであって、戦う為に人々を守るわけではないのよ」
「……分かってます。魔法は魔女を倒す手段であり、それを使うのが目的ではない、ですよね?」
「そうよ。魔法は便利だし、悪用しようと思えば大抵のことは出来る。
でも、そんな使い方をしていたら、すぐに魔力が尽きてしまうわ。
そして魔法を使いたいが為に、魔女を----グリーフシードを求めるようになる。
手段を行使するのが目的となり、本来の目的が手段へと変わってしまう典型的な例ね。
……私達も常に注意しないと。
これは、決して他人事じゃないわよ」
「……はい」
まどかは真剣な表情で答えた。
それを見たマミは、まどかに再度笑みを向ける。
「そんなに硬くならなくてもいいわよ。ただ、最後の確認をしたかっただけだから」
「最後……ですか?」
「そう、最後。
ここ最近、ずっと考えてたんだけど----私、引退しようかと思うの」
「え?! マミさん、魔法少女を辞めちゃうんですか?!」
「ええ。鹿目さんも立派になったし、魔女も減少している。
加えて私ももう三年の夏だし、ね。そろそろ受験の準備をしなくちゃ」
「じゃあマミさん、ソウルジェムは----」
「おそらく、もう浄化することは無いでしょうね。
このまま濁りきれば魔法が使えなくなる。
そしたら、変身も出来なくなって、完全に魔法少女としての能力を失うのでしょう。
こうして一緒に巡回するのも、今日で最後かもね」
まどかは、しゅん、と項垂れる。
「大丈夫よ。魔法が使えなくなったって、私は私。ずっと鹿目さんの味方よ。
今までどおり、遊びにでも相談にでも、いつ来てもらっても構わないわ」
「マミさん……」
「もう、そんな心配そうな顔しないの。
貴女はもう一人前の魔法少女なのよ。もっと自覚と自信を持ちなさい」
「……はい!!」
まどかは凛々しい表情で答えた。
*
「……ただいま」
マミが自宅の玄関を開けると、
「やあマミ、お帰り」
リビングからキュゥべえが出迎えた。マミは嬉しそうに表情を緩ませる。
「あら、キュゥべえ。今日も一日中家に居たのね」
マミは靴を脱ぎ、手を洗うと、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。
「そうだよ。ここが一番居心地が良いからね。
もしかして、迷惑だったかい?」
マミは首を横に振る。
「ううん、そんなことは無いわ。やっぱり、一人は寂しいもの。会いに来てくれて嬉しいわ。
----でも、何だか以前より頻度が増しているような気がするの。
以前の貴方は毎日のように、新しい魔法少女と契約しに行くとか、契約したばかりの子の様子を見に行くとか、サラリーマンの鑑みたいだったじゃない?
それが最近、私の家に入り浸りになってる気がするのよ。
仕事の方は大丈夫なの?」
「ふむ。言われてみれば確かにボクはマミの家に居ることが増えたね。
だけど、心配は要らないよ。
さっきマミは、ボクのことをサラリーマンみたいだと言ったね。
それに例えるなら、今は休暇中なのさ」
「休暇?」
マミはガラスのコップを一つ用意し、麦茶を注ぐ。
「そうさ。仕事のノルマをクリアできそうな目処が立ったから、ちょっと休んでいるんだ。
今までずっと働きっぱなしだったからね。
キミのおかげさ、マミ」
「私の? ……何かした覚えは無いわよ」
「マミは、マミの信念の赴くままに行動した。
それが回りまわってボクの仕事の後押しをしてくれたのさ」
「そうなの……。よくは分からないけど----」
マミはコップをもう一つ用意し、それにも麦茶を注ぐ。
そして、
「----キュゥべえ、お疲れ様」
コップを一つキュゥべえの前に置くと、それに自分のコップを軽く当てる。
チンッ、と小気味良い音が響いた。
*
「え? まどか、行かないの?」
夏休みも半ばを過ぎた頃、海に行こうとまどかに誘いの電話したさやかは、意外な回答に思わず聞き返した。
ベットに寝そべっていた体を起こし、縁に腰掛ける。
『うん……。ごめんね、せっかく誘ってくれたのに……』
「いや、それはいいんだけど。
----もしかして都合悪い日だった? それともどこか具合が悪い?」
『ううん……。その、ほら、私が遊びに行ってる間に魔女が出ないとも限らないし……』
「泊りじゃなくて日帰りだよ? 一日ぐらい大丈夫だって!」
『でも、ほむらちゃんとの約束があるから……』
「ああ、街の平和を守るってやつ?
別にほむらはさ、休日返上で警備にあたれ、って言ったわけじゃないんでしょ?
遊びに行くくらいダーイジョーブだって!」
『…………』
まどかからの返答が無い。
さやかには、悩み顔のまどかが容易に想像できた。
『ごめん。やっぱり行けないや』
「そっか……。まあ、無理にとは言わないけどさ。
……約束に拘るのもいいけど、偶には息抜きしないと辛くなっちゃうよ?」
『うん、分かってる。大丈夫だよ』
「ならいいんだけどさ。----じゃあ、また今度ね」
『うん、じゃあね』
電話を切ると、さやかはまたベットの上に転がった。
「う~~ん、まどかは来れないのか。
どうしようかな……。
マミさん----はダメか。たしか、夏期講習がどうたら言ってたっけな。
杏子達はケータイが無いから連絡付かないし----いや、どうせゲーセンに居るだろうから、探してみますか!」
さやかはガバッ、と体を起こし、身支度を整えると、街のゲームセンター巡りへと出かけた。
*
「うぅぅ……。海、行きたかったなぁ……」
電話を切ると、まどかはそう呟いた。
ふと、まどかは自室の椅子から立ち上がり、シャツを脱いで、姿見の前に立つ。
露になった両肩に四本ずつ、傷痕があった。
それは、ほむらがまどかに残していった爪痕だった。
「う~ん……。これ、未だに消えないんだよね。
水着になったらこれ、思いっきり見えちゃうし。
やっぱ目立っちゃうよね……」
そっと爪痕に指を這わせ、そして撫でる。
しばらくそうしていると、まどかは何かに気づき、はっ、と口から声が漏れる。
「もしかしたらほむらちゃんが私に遊んでる暇は無いのよ、って言ってるのかもしれない!
よーし! 頑張らなくちゃ! 今すぐ行こう!」
まどかはシャツを着なおすと、街へ、魔女の探索へと出かけた。
まどかが街を一人で歩いていると、さまざまな人達とすれ違った。
プールで遊んだ帰りであろう親子。
山へキャンプに行った体験を語り合っている青年グループ。
海で日焼けしたらしい若い男女のカップル。
他にも夏を満喫している人達が多々目に付いた。
「…………」
まどかはすれ違うたびにじっと見つめていた。
皆、とても楽しそうに笑いあい、幸せそうだった。
まどかはそれらの光景を見て、羨ましいと感じていた。
そして同時に、何故自分は夏休みなのに何もしていないのだろう、と疑問に思った。
ソウルジェムが僅かに濁る。
「……っ!」
私ったら、何を考えてるの? 街の人々が笑って暮らせるよう願って、今の私になったんだよ。
そうだよ。これはいいことなんだよ。これからも皆が笑っていられるよう頑張らなくちゃ!
まどかは頭を振り、頬を叩いて気合を入れなおす。
そして自販機を見つけると、すぐさまジュースを買い、一気に飲み干す。
「ふぅ……。……よし!」
一息ついたとばかりに深く息を吐くと、碌な休憩も無いまま、再び魔女探索へと歩き出す。
それから数時間が経過した。
夜になり、辺りが暗くなっても探索を続けた。
にもかかわらず、魔女はおろか使い魔すら発見できなかった。
公園に入ったまどかは、ベンチを見つけ、腰掛ける。
見上げると、まだ青い銀杏の木があった。
「はぁ……。疲れたなぁ……」
ここ数日、まどかは、ただ歩き回ることしか出来ていなかった。
急に、自分のしていることが無意味なことに思えてきた。
私は、このままでいいのかなぁ?
もっと、家族とどこかに遊びに行ったり、友達と山や海に行ったり、素敵な誰かと恋愛したりするべきなんじゃないかな?
何故私は一日中、ただ歩き回っているの?
歩き回って、何かを得られたの?
何も、無い。あるのは疲労感だけ。
あれ? 私、何の為に魔女を探してるんだっけ?
----約束。
そうだ。私はほむらちゃんと約束したんだ。
理由なんて他に要らない。
それだけで十分。
今日はもう帰ろう。
きっと疲れてるんだよ。
だから変な考えが浮かぶんだ。
まどかは帰宅しようと立ち上がる。
ふと、もう一度空を見上げる。
木の隙間から、星が一つだけ見えた。
*
次の日もまどかは探索を行った。
成果はゼロだった。
*
それから数日が経ち、夏休みが終わった。
使い魔を一匹発見。これを難なく倒した。
*
さらに数日が経った。
成果はゼロだった。
*
さらに数日が経った。
成果はゼロだった。
公園のベンチに座って考え事をする時間が増えた。
銀杏の木を見上げる。
葉はまだ青かった。
*
さらに数日が経った。
魔女を一体倒した。
時間が深夜にもなると、気温は一気に冷え込んだ。
まだまだ続くと思っていた夏が、終わりを告げようとしていた。
*
さらに数日が経った。
成果はゼロだった。
*
さらに数日が経った。
まどかがマミの家に遊びに行くと、疲れた顔のマミが出迎えた。
どうやら勉強疲れのようだ。
話を聞くと、このままだと目標としている高校に上がることは難しい、と先生に言われたらしい。
それはそうだろう。
毎日の巡回のせいで碌に勉強も出来ず、部活動にも参加していないのだ。
魔法少女の活動で、学校の成績が上がる要素なんて一つも無い。
内申書は当てに出来ない。
完全に、自前の学力のみで勝負するしかない。
マミはまどかに、
「大した持て成しも出来ないで、ごめんなさい」
と謝った。
帰り際、まどかは、しばらくマミの家に遊びに行くのは止した方がいいな、と思った。
*
さらに数日が経った。
成果はゼロだった。
*
さらに数日が経った。
成果はゼロだった。
*
さらに数日が経った。
成果はゼロだった。
公園のベンチに腰掛け、銀杏の木を見上げる。
黄葉が、始まっていた。
*
「なんてゆーかさ、今のまどかを見てると、忠犬ハチ公が思い浮かぶんだよなぁ~」
バイキング方式の焼肉店で、杏子は向かいの席に座るさやかにそう言った。
網の上で美味しそうな音と匂いをさせる肉をひっくり返しながら、さやかは、はぁ?と返す。
両面がほどよく焼けたそのひっくり返した肉を、ゆまは箸で掴んでタレで食べる。
「ハチ公? ああ、あの飼い主の帰りをずっと待ってるってやつ?」
「そうそう、それ。
まどかは今、ほむらとの約束を守って、ひたすら魔女狩りしてるだろ?
なんかさ、留守を言いつけられた犬みたいに見えてさ」
さやかは首と箸を横に振る。
「いやいやいや、そりゃあないでしょ。
だってそれだと、ほむらはもう帰ってこないってことじゃん」
一瞬、杏子の箸が止まる。
「あ、ああ……。
まあ、それは置いといて、だ。
とにかくあたしは、約束にガッチガチに縛られて、他の事を考えられないまどかを何とかした方がいいんじゃねえかな、って思ったってことを言いたかったんだよ」
「あー……。それはまた難しそうだねぇ。
ほら、まどかは一回ほむらのとの約束破ってるじゃん。
負い目も感じてるだろうし、きっと、今度こそは絶対約束を守るぞ! なんて思ってるだろうなぁ。
----もう、あんなほむらは見たくないだろうし……」
「あんな、って、どんなだ?」
「もう、すっごい取り乱しちゃってさ。
まどかに、何で契約したの、って叫びながら肩を揺さぶったり、
まどかの目の前に自分のソウルジェムを置いて壊してくれって言ったり、銃を取り出して撃とうとしたり----」
杏子は眉を顰める。箸が完全に止まった。
「----そん時のほむらの様子を見ちゃったら、ほむらがいかに約束ってものを大切にしてるか、痛いほどに分かっちゃったからねぇ。
まあ、何でソウルジェムを壊そうとしたかは、あたしには未だによく分かんないんだけどね。
アンタは何でか分かる?」
杏子にはその理由が分かった。
だが、ほむらは自殺しようとしていたなどと言えるわけも無く、
「……いや、あたしにも分かんないな」
と答えた。
さやかはしばらく杏子の目を見つめた後、
「そっか……」
とだけ返した。
さやかは気を取り直して食べようと、網の上の肉に箸をのばす。
「それにしてもさ、さやかはよく覚えてたな。飯奢ってくれるって約束。
あたしはてっきり、もう忘れてると思ってたよ」
杏子の言葉にさやかは箸を止め、踏ん反り返る。
代わりにゆまの箸がのびて肉を掴み、塩をかけて食べる。
「ふふん、このさやかちゃんの記憶力を見くびってもらっちゃあ困るよ」
「へぇ」
「まあ実際にはゆまちゃんに、ご飯食べに行こうよ! って言われて思い出したんだけどね」
「ぷっ! なんだよ、そりゃ」
さやかは大皿から肉をトングで掴み、網に乗せていく。
肉が煙と焼ける音を出しながら焼けていく。
「そういうことって、ときどきない?
それまでは忘れてたんだけど、何かのきっかけで思い出すっていうの」
「ん~、どうだろうなぁ……
そもそも自分が今、何かを忘れてるかどうかなんて分からないからなぁ。
でも、偶に、こう、頭ん中がもやもやっとした、見たことあるんだけど、それが何か思い出せないってのはあるな」
さやかは網の上の肉をひっくり返す。
「そういうの、何て言うんだっけ? 既視感(デジャヴ)?」
「そんな名前だったっけか。
さやかはないか? デジャヴ」
さやかは考えながら網の上に視線を向ける。
ちょうど食べごろだった肉は、ゆまによってさらわれ、レモンをかけて食べられていた。
「ん……あたしはないなぁ。----杏子はあるの?」
杏子は咀嚼しながら少し考える。
「あったよ」
「……ん? 過去形?」
「あたしらが出会って間もない頃かな。
あれ、こいつの顔どこかで見たことあるな、でも名前とかまったく知らないし、っていうのが何度かあってさ。
ワルプルギスの夜以降はそういうのはまったく無くなったんだけど----」
杏子は心の中で、そうか、と呟いた。
さやかに話しながら、その既視感の正体がほむらの時間遡行にあるのでは、という考えに至ったのだ。
それならば何となく説明が付きそうだ。
ただ、具体的にどういう理屈なのかは分からないが。
「また話は変わるけど、マミは元気か? しばらく姿を見てないんだけど」
「ああ、マミさん? マミさんはね、魔法少女を引退したんだってさ」
「はあぁ?! 引退ぃぃ?!!」
杏子は思わず大声を出し、立ち上がってしまった。
周囲の目が杏子に集まる。
杏子は、すいませんと謝りながら静かに座り、小声でさやかと話す。
「何だよ引退って。そんな話、聞いたことねぇぞ」
「あたしに言われても困るよ。マミさんがそう言ってたんだもん。
受験で忙しいし、まどかも居るから、私は魔法少女を引退するわって」
「じゃあマミのソウルジェムは?! あいつ、ちゃんと浄化してんのか?!」
杏子の慌てぶりに疑問を持ちつつも、さやかは答える。
「さあ? たぶん、もう放置してるんじゃないかな?
----杏子、何をそんなに慌ててるのさ」
杏子は舌打ちする。
「マミは今家か?!」
「そうだと思うけど----後で電話してみる?」
「いいや! 今すぐ頼む!」
「……分かったわよ、もう」
いろいろ聞きたいことはあったが、杏子の気迫に圧され、素直にケータイを取り出してマミに電話を掛ける。
数回の呼び出し音の後、マミに繋がる。
「あ、マミさん? 忙しいところすいません。今、家に居ます?
……そうですか。いや、実はですね、何か杏子が急にマミさんと連絡を取りたいって言い出して----」
「貸せ!!」
杏子はさやかからケータイを奪い取る。
「おいマミ! お前、ちゃんと魔女を狩ってソウルジェムを浄化してるんだろうな!」
『何よ急に……。そんなことしてる暇があったら勉強よ、勉強。私の将来が掛かっているのよ』
「勉強だぁ?! そんなことしてる暇があったら魔女の一体でも狩って、ソウルジェムを浄化しろ!! テメエの将来が掛かってんだぞ!
いいか! 絶対にソウルジェムを濁らせるな! 今すぐ状態をチェックしろ!!」
『そんなこと言われたって、私、もう手持ちのグリーフシードは一個も無いわよ?
別に魔法が使えなくなったからって死ぬわけじゃ無いんだからいいじゃない。
----悪いけど、時間が惜しいわ。もう切るわよ』
「あ! おい待て!!」
そう叫ぶも、ツー、ツー、と電話が切れた音だけが返ってきた。
杏子の表情が引き攣る。
「あんのバカが!!」
そして杏子は急に立ち上がった。
「おい、いつまで食ってんだ! 急いでマミん家に行くぞ!!」
「えぇ? ちょっと待ってよ。あたし、ほとんどお肉食べてな----」
「いいから行くぞ! 急げ!」
杏子のただ事ではなさそうな雰囲気に、渋々といった感じでさやかも立ち上がる。
「ったく。着いたらちゃんと説明しなさいよね」
「……悪りいな、後で必ず詫びを入れるよ」
*
マミのマンションに着くや否や、杏子は呼び鈴も押さずに、
「マミ! どこだ!」
と叫びながら玄関を乱暴に開けた。
そして返事を待たずに靴を脱ぎ捨て、まずはリビングへと向かう。さやかとゆまも後に続く。
リビングには、渋い顔をしたマミが居た。
テーブルの前に座ったまま、顔だけを杏子に向ける。
「……ちょっと佐倉さん。貴女に常識というものは無いの?」
「常識ぃ? それならこの前、野良犬が喰ってんのを見たぜ。
それよりもマミ、ソウルジェム見せろ」
マミは怪訝そうな表情を見せる。
「さっきの電話でもソウルジェムについて言ってたわよね。一体どうしたのよ」
「グリーフシード一個やるから、まずは浄化しろ。話はそれからだ」
杏子はポケットからグリーフシードを一個取り出すと、マミに手渡す。
マミは渡されたグリーフシードと杏子の顔を、数度交互に見た。
怪訝そうな表情が、さらに深まった。
「貴女、本当に一体どうしちゃったの? 何か変なものでも食べた?」
「うっせーな。いいから早くしろよ」
「…………」
マミはソウルジェムを取り出す。その輝きは失われ、濁り切る寸前であった。
グリーフシードに穢れを移し終えると、マミは綺麗になったソウルジェムを杏子に見せる。
「ほら、これでいいのでしょう?」
「ああ。これからもちゃんと定期的に穢れを取っておけよ。絶対に濁らせるな。
あたしの用はそれだけだ。邪魔したな」
「ちょっと待ちなさい」
マミは、踵を返そうとする杏子の肩を掴んだ。
「一方的に捲し立てておいて、説明も無しに帰る気?」
肩を掴む力は強く、話すまで絶対に放さないという意思を感じさせた。
「…………」
杏子は、マミに話すべきか隠し通すべきか、迷っていた。
ほむらにはナイショにしろと言われている。
アイツの体験談を聞く限りでは、この話は隠し通すべきだ。
だが、このまま何も知らせなければ、マミは真剣にソウルジェムの浄化には取り組まないだろうな。
サボりがちになり、そのままソウルジェムは濁りきり、マミは魔女になっちまう。
それだけは何としても避けなきゃならねぇ。
見知ったヤツだったものを狩るなんて、したくない。
だからといって、安易に全部話してもいいのか?
悲観して、ソウルジェムが濁るのが早くなるだけじゃないのか?
いや、それよりも錯乱されるほうが厄介だ。
撃たれるなんてまっぴらゴメンだ。
でも、ほむらの時と今では状況が違う。
ほむらの話を聞く限りでは、当時は仲間内の関係がギクシャクしていて、酷い緊張状態にあったんだろう。
そこに魔女化の話が真実だと分かって、緊張の糸がプッツンしちまったんだ。
けれど、今は違う。
多少の混乱はあるだろうけど、きっと真実を受け入れられるんじゃないか?
今のあたしみたいに。
----そうだ。あたしだって大丈夫だったんだから、マミだってきっと大丈夫だ。
マミはそんなヤワじゃない。
キチンと話せば分かってくれるさ。
魔女さえ狩っていれば、この先生きていくうえで何の問題も無いってことを----
ほむら、悪りぃな。
杏子はそう心の中で呟くと、マミに向き直った。
*
夜の街を、まどかは一人歩いていた。
しばらく歩き回ったまどかは休憩しようと思い、公園のベンチに腰掛けた。
ふぅ、とため息が漏れる。吐く息は白かった。
「今日も魔女や使い魔は居なかった。街は平和だね。
もしかしたら、魔女はもう全部倒しちゃってて、どこにも居ないんじゃないかな?
もしそうなら、私が巡回する意味ってあるのかな?
……ほむらちゃんはいつ帰ってくるんだろ。今日? 明日? それとも----」
空を見上げる。
雲の隙間から、星が一つ見えた。
まどかは自分の頬を撫でて、ほむらのキスの感触を思い出しながら、こう思った。
この夜空の下のどこかにほむらちゃんが居て、同じ星を見上げているのかな。
ほむらちゃんに会いたいな。今、どこで何をしてるんだろう、と。
*
さらに数日が経った。
まどかがいつものように巡回していると、
「あれ? マミ、さん?」
人気の少ない路地裏で、マミの後姿を発見した。
マミはまどかに気づくと、
「……!! か、鹿目さん! こんなところで会うなんて、き、奇遇ね!」
一瞬戸惑いながらも、振り返りながら、しかめ面から一転して笑顔を形作る。そして、
「最近調子はどうかしら?! あれからどれくらい魔女を倒したの?!
たくさんグリーフシードをストックできてるかしら?!」
少し慌てて喋りだした。
そんなマミの様子に、まどかは首を傾げる。
「え、っと……。魔女と使い魔を一体ずつです。
最初の頃と比べると、めっきり魔女は出なくなりました。
今、この街は平和そのものですよ」
「そ、そのようね! 最近は原因不明の失踪や自殺なんて話は聞かないものね!
それにしても魔女を一体だけ?! じゃあ手持ちのグリーフシードは?!」
「えっと、その時の魔女が落とした一個だけです。
----ソウルジェムって、何も魔法を使ってなくても、少しずつ濁っていくんですね。
しばらく浄化してなかったら、けっこう穢れが溜まっててビックリしましたよ。
でもグリーフシードが手に入らないから、なかなか浄化できないんですよね」
そう言いながらまどかはソウルジェムを取り出す。
まどかのソウルジェムの穢れは、半分以上溜まっていた。
それを見たマミは目を見張った。
「だ、ダメよ!! 穢れを溜めたままにしては!!」
「え……?」
マミは思わず声を張ってしまった。
まどかは少し驚く。
「あ……、ごめんなさい。
でも、その、いつ魔女を発見できるとも限らないわ。
常に万全にしていないと危険よ」
「分かりました。これからは常に浄化しておくようにします」
マミは少し安堵したように表情を緩め、ため息をついた。だが、
「そういえば、マミさんはどうしてここに?
受験勉強の方は大丈夫なんですか?」
受験という言葉を聞いた途端に、その表情が固まる。
それを見たまどかは、聞いてはいけないことを聞いてしまったかな、と思った。
「……え、ええ、大丈夫よ。模試でもそれなりの結果が出たわ。
目処もついたし、久しぶりに巡回しようと思って歩いてたのよ。
私のことを心配してくれてありがとう。
私は大丈夫だから、鹿目さんはもっと自分のことを考えなさい。
それから、何か悩みごとがあったら、いつでも私に相談してちょうだい。
私はいつでも鹿目さんの力になるわ」
そう言いながらマミはニコッっと笑顔を向ける。
よかった。やっぱりいつものマミさんだ。
まどかは安堵する。
同時に、まどかの中に、話がしたいという欲求が沸き起こる。
マミさんなら、今の私の悩みを解決してくれるに違いない。
「あの、マミさん。その……」
「何かしら?」
「相談、したいことが……」
「……立ち話もなんだから、お茶でも飲みながら話しましょ?
近くに美味しい紅茶を淹れてくれる店があるの」
*
喫茶店に入り、まどかとマミは向かい合って座った。
ティーセットを注文し、紅茶とケーキが運ばれてきた後、
「私のしたことって、正しかったのでしょうか?」
まどかは若干俯きながら、話を切り出した。
マミは少し思案した後に尋ねる。
「……それは、魔法少女の契約のこと?」
「そうです」
「…………」
まどかからは見えないテーブルの下で、マミは自分の手を爪が食い込むほど強く握り締めた。
だが、表情からは微塵もそのような様子を窺わせることはなかった。
マミの変化に気づかないまま、まどかは語りだす。
「あの時は正しいって思ってて……。
これで守ることが出来るんだって……。
間違ってるかもなんて微塵も思って無くって……。
でも今は----何が正しいのか、何が正しかったのか、分からなくなっちゃったんです。
ほむらちゃんが言ってたことが----なんで契約しないでって言ってくれてたか、少しだけ----ほんの少しだけど、分かった気がするんです」
マミはカップを手に取り、紅茶を一口啜り、静かに戻す。
「何があったの?」
「…………」
「私は、あの時の貴女の願いに嘘は無いと思っているわ。
でも、今の貴女はそれに疑問を持っている。
そうよね?」
「…………はい」
「それが言いづらいことなら無理にとは言わないけど、もしよければ話してもらえないかしら?
私にできることなら、何でも力になるわよ」
まどかは俯いたまま思案しているようだ。
しばらくすると、ゆっくりと顔をあげ、マミと目を合わせる。
その表情はひどく陰鬱そうだった。
「先ほども言いましたけど、あれから今日までの間に私のした事って、魔女と使い魔を一体ずつ倒しただけなんです。
本当に、それだけなんです。他には何も出来てなくて……。
これなら私がやらなくても、マミさんや杏子ちゃん、ゆまちゃんなら簡単に----それこそ片手間に退治しちゃえるんじゃないかって……
守りたくて契約したのに、私、全然守れてないんじゃないかって……」
「…………」
「それと、これは私の勝手な想像なんですけど……私が契約しなかったら、ほむらちゃんはずっとこの街に居てくれてたんじゃないかなって思うんです。
私が……約束を守っていれさえいれば……」
「…………」
「それと、実は、その、他の街の……だと思うんですが……魔法少女に襲われまして……」
「……他の街の魔法少女に? 大丈夫? 怪我しなかった?」
「はい、大丈夫です。何とか追い返しました。
でも、驚きましたよ。背後からいきなりだったもので……」
「貴女が無事でよかったわ。
でも、貴女の願いは、悪い魔法少女からも守る、じゃなかったかしら?
これはまだ想定の範囲内のはずよ。
----まだ、何かあるのね?」
「……私が反撃したときに、その魔法少女が、死にたくないって呟いていたのが聞こえたんです。
そしたら何だか、私のしてることって、ただの暴力なんじゃないかって思えてきちゃって……
私、こんなことをするために魔法少女になったんじゃないのに……」
「それは違うわ。
だって、貴女は襲われたのでしょう? 殺されそうになったのでしょう?
暴力を振るったのは向こうの方。
鹿目さんは自分の身を守るために仕方なく戦っただけ。
これは正当防衛よ。
最悪、こちらの反撃が相手に当たってそれで死んだとしても、貴女は何も悪くないわ」
マミのはっきりとした、冷酷とも取れる言葉に、まどかは少したじろぐ。
「それにしても、背後からいきなり、ねぇ……
その襲ってきた魔法少女の、何か----顔や特徴は覚えてる?」
「……すいません。はっきりとは覚えてないです。
ただ、見たことのない人だったので、多分、他の街の魔法少女なんじゃないかな、と思います」
「他の街の、か……」
マミは一旦ケーキへと視線を落とし、それを一切れ口に運び、紅茶を啜った。
そしてカップを置くと、こう言った。
「もしまた襲ってきたら、その魔法少女を返り討ちにして、その子の持ってるグリーフシードを頂いちゃいましょう」
「…………え?」
まどかは自分の耳を疑った。
今、マミさんは何て言ったの?
グリーフシードを頂く?
それはつまり、相手の持ってるグリーフシードを奪うの?
いやいやまさか!
マミさんはそんなこと言わない!
何かの間違い----そうだ、私の聞き間違い、勘違いだ。
きっと私は、マミさんの言いたかったこととは違う意味で聞いてしまったに違いない。
ちゃんと確認しなくちゃ----
「え、えっと……マミさん?
その、私の聞き間違いでしょうけど、今、相手のグリーフシードを頂くって言いました?」
「……? ええ、言ったわよ」
まどかの表情が曇る。
一体どうして? 何を思ってマミさんはそんなことを……。
まどかのそれを見て察したマミは、慌てて、そうじゃないわ、と言った。
「私はグリーフシードを取り上げてしまえば大人しくなるだろうと思ってそう言ったの。決して私利私欲の為に奪うわけではないわ」
「そ、そうですよね!
すいませんでした。私ったら、早とちりしちゃって……」
まどかも慌ててマミに頭を下げる。
その時、
「いーや、それは全然早とちりじゃねぇよ。それであってる」
マミの背後から杏子の声が聞こえてきた。
マミは後ろを振り向く。
杏子は歩み寄って、そのままマミの隣の席に座る。
杏子の言葉に、まどかは少し眉を顰めていた。
「杏子ちゃん……? 早とちりじゃないって、どういうこと?」
「どうもこうも、そのままの意味さ。
その襲ってきた奴を見つけたら、グリーフシードをブン捕っちまえって言ったんだ。
もちろん全部だ。一個も残さずな」
「だ、ダメだよ! そんなの、強盗と一緒だよ!」
「さっきマミと、グリーフシードを取り上げるって話してたろ?」
「違うよ! グリーフシードを取り上げて、魔法を悪用できないように、って意味だよ!」
「そりゃあ、言ってることが違うだけで、やることは一緒だよ。
ソイツが魔法を使えないようにするには、全部取り上げなくちゃいけないわけだからな」
「魔法が使えなくなったら、その子が魔法少女を続けられなくなっちゃうよ!」
「いいんだよ、それで。続けられなくさせちまえ」
「そしたらその子の縄張りの魔女が野放しになっちゃう!」
「あたしらが代わりにソイツの縄張りで狩ればいい」
そこまで聞いて、まどかは思った。
それはもしかして----
「----その子の縄張りを、奪うの?」
「そういうことになるな」
「ダメだよ! そんなの、絶対にダメ!!
魔法少女は、魔女や使い魔から街の人達を守るために居るんだよ?!
そんなことしたら----悪い魔法少女と何も変わらないよ!!」
まどかはマミへと振り向く。
「そうですよねマミさん!」
マミさんなら同意してくれるはず----そう思ってまどかはマミに振ったのだが、
「…………」
「……マミ、さん?」
返ってきたのは沈黙だった。
マミは目を伏せ、歯を食い縛り、それでも笑顔を形作ろうと頬を吊り上げる。
それが不自然な笑顔として、マミの表情に表れた。
「さ、佐倉さん……? 貴女の言い分は分かるわ……。
でも、もっとこう、言い方ってものがあるでしょう?」
マミの声は、搾り出すかのようだった。
対照的に杏子は、業を煮やしたのか、声を荒げる。
「何言ってんだ。言い方もクソもねぇよ。
結局はそいつを潰して縄張りを頂いちまうことに変わりはねぇだろうが。
言ってることが違ったって、やってることは一緒なんだよ。
今更キレイごとぬかすな!
もう、そんなこと気にしてる場合じゃねぇんだって!!」
杏子の言葉は、まどかには余裕が無いように思えた。
「……なにがあったの?」
まどかの声が、低く、重く、発せられた。
マミと杏子の口論が止まる。
今度はまどかが尋ねる番であった。
「マミさんも杏子ちゃんも、なんか、いつもと違うよ。
一体どうしちゃったの?
どうしてそんなこと言うの?」
マミと杏子は、口を閉ざしたまま、答えない。
「私、こんなの嫌だよ。
いつものマミさんと杏子ちゃんに戻ってよ!」
そう言いながら、まどかはマミと杏子の目を真っ直ぐ見つめる。
マミは----耐えかねたのか、視線を逸らす。
杏子は----まどかの目を見つめ返し、正面から向き合う。
「じゃあ、本題に入ろうか」
「……本題?」
「ああ。そもそもあたしはアンタに話があって、ここへ来たんだ」
「私に?」
「そう。アンタにも知っておいてほしいことがあってな」
マミは、はっ、っとして杏子に詰め寄る。
「佐倉さん! それは----」
「うっせぇな。さっきも言ったろ?
もう、そんなこと気にしてる場合じゃねぇんだって。
早く何か手を打たないと、取り返しがつかなくなる」
マミのこの反応から、マミはもう知っていて、尚且つ重大な話であることが、まどかにも想像できた。
まどかは少し身構える。
杏子はまどかに向き直り、口を開いた。
*
「こんなの、絶対おかしいよ!!」
杏子からソウルジェムについての説明、そして魔女が極端に減少しているという話を聞き終わると、まどかは立ち上がり、そう叫んだ。
周囲の客から非難の目が向けられるも、気にする様子は無い。
いや、気にしている余裕など無かった。
まどかの目は見開かれ、固く握られた拳は小刻みに震えている。
「でも、これは本当のことだ」
「何か証拠でもあるの?!」
「証拠って呼べるほどのモンは無いね。
あたし自身も、実際に見たわけじゃないしな」
「じゃあ----」
「でもな、これはアイツから----ほむらから聞いた話だ」
「……ほむらちゃんから……?」
「そうだ」
ほむらの名が出た途端、まどかの脳裏に、ほむらと共に過ごした一ヶ月間が浮かび上がってきた。
転校初日の、意味の分からなかった忠告。
魔法少女、そして魔女のこと。
織莉子による襲撃。
契約時の、ほむらの慟哭。
それらの記憶と、今聞いたばかりのソウルジェムの秘密----魂はこの宝石に入れられてしまったということと、濁りきったら魔女になってしまうこと----が重なった。
そしてまどかは理解した。
契約したことを告げた、あの時のほむらの言葉の意味が。
『お願い……まどかの手で、私のソウルジェムを壊して……』
ほむらは、自分の命を絶とうとしていたのだ。
しかも、私が原因で、だ。
最後の望みとして私の手で死ぬことを選び、私はそれを拒否したためそれすら叶わず、失意の中で自決しようとしたのだ。
「……はぁ……はぁ…はぁ、はぁ、はぁはっはっはっはっはっ!!」
「鹿目さん……?」
「おい、どうした?」
突然、まどかの呼吸が荒くなってきた。
両手で顔を覆う。
体がふらつき、倒れるように席に座る。
だが一向に呼吸の苦しさは解消されない。
まどかは、過呼吸状態に陥っていた。
二人とも、どう対処していいか分からず、ただ見ていることしか出来なかった。
「……大丈夫、なの?」
「救急車、呼ぶか?」
「……はぁ……はぁ……う、ううん。だ、大丈夫----何でも、ない、です」
しばらくして呼吸が落ち着き始めると、まどかはまたしても立ち上がった。
そしてテーブルの上にお金を置くと、
「すいません……。今日はこれで失礼します……」
と言い残してまどかは店を出て行った。
「----はっ! ちょ、ちょっと待って!」
軽い放心状態だったマミが我に返ると、座ったままの杏子を置いて、まどかの後を追った。
だが、店を出て辺りを見渡しても、まどかの姿を見つけることは出来なかった。
マミは無意識に親指の爪を噛んでいた。
杏子は追いかけなかった。
例え追いついても何て声を掛ければいいか、分からなかったからだ。
それよりも目の前の問題をどうにかしなければと、まどかに説明している間も、ずっと思案していた。
甘かった----
マミから、最近キュゥべえは契約を取りに行っていないことと、魔女が減っているという話を聞いた杏子はそう思った。
魔女を狩ってさえいれば、何も問題は無いと思っていた。
だが、肝心の魔女が、どこにもいない。
使い魔さえいない。
魔女になりそうな、新規の魔法少女もいない。
どうすればいい?
どうすればこの状況を打開できる?
この数日間、必死になって考えたが、答えは出ない。
時間は待ってくれない。そうこうしている間にも、ソウルジェムは濁っていくのだ。
仕方なく、杏子はこの問題を保留することにした。
もちろん、解決策を考えることを完全にやめたわけではない。
だがこのままでは考えているだけで終わってしまう。
まずは今を凌がなくてはならない。
明日、生きる為に。
*
数日前のこと。
これは全て、悪い夢なのではないか----
マミは、杏子からソウルジェムの真実を告げられたとき、こう思った。
私達がいずれ魔女となり、人々を襲う?
この街の人々の安全を守ってきた私が、この街の人々を脅かす存在になる?
そんな馬鹿な?!!
じゃあ、鹿目さんの契約を手助けした私は----魔女を増やすことに手を貸してしまったというのか?!
----そうか。そうだったんだ。今、はっきりと分かった。
暁美さんはこれを知っていたからこそ、鹿目さんが魔法少女になることに反対していたんだ。
私が暁美さんの意図に気づいていれば----
私が美樹さんの意見を聞いていれば----
私が鹿目さんの契約を止めていれば----
私が----
私は----鹿目さんに、人を『殺させる』ようなことは無かったんだ。
私は、魔女になる前に、責任を取る為に、死ぬべきなのだろうか……
----いいや、絶対にダメだ!
鹿目さんを魔女になんかにさせない!
私も魔女になんかならない!
死んでる場合じゃない!!
これは、私の責任だ。
鹿目さんを魔法少女にしてしまった、私の責任だ。
私が絶対に何とかしなければならない。
彼女を絶対に魔女にしてはならない。
そう、どんな手段を用いてもだ。
例え、この手を血で汚すことになったとしてもだ。
まずやることは、魔女狩りの縄張りの拡大だ。
今のままでは、グリーフシードが絶対的に足りない。
リスクはあるだろうが、他の街の縄張りを奪い、魔女を一体でも多く狩らなくてはならない。
だが、そうなってくると、もう勉強している時間なんて無い。
今のままでは、入試を通らない可能性が高い。
----こうなったら仕方が無い。
試験中に魔法を使うしかないだろう。
魔法を使えばカンニングでも何でも思いのままだろう。
それで何としても合格するのだ。
----奪う。
----カンニング。
再度マミの脳裏にその単語が浮かび上がった。
そして目が見開かれ、ギリリッと歯軋りが鳴り、胃が締め付けられるような感覚に襲われた。
正義の魔法少女だった私が、魔法を、不正に使うのか……。
でも、これは自業自得というものだ。絶対に----
----それを行わなければならない。
----責任は取らなければならない。
----償いはしなければならない。
たとえ犬畜生に成り下がったとしても、やり遂げなければならない。
いや、やり遂げるんだ! 絶対にッ!!
*
喫茶店を飛び出したまどかは、あても無く街を走っていた。
今、分かった。
やっと、分かった。
今更、分かった。
何故ほむらちゃんが忠告してくれていたのか、今になってようやく分かってきた。
私を、魔法少女のシステムという、負の----暴力の連鎖に巻き込まないように。
魔女を殺した私が、魔女になって殺されないように。
私なんかを守るために、そんなことのために、命を賭けてくれていたんだ----
いや、それだけじゃないかも知れない。
まだ何か理由があるかも知れない。
でも----それを確かめるには、ほむらちゃんから直接聞くしかない。
ほむらちゃんに会いたい。
会って、話がしたい。
それで----ん? あ、あれ?----
まどかは急に走るのをやめた。
呼吸は荒く、心臓もバクバクと脈打っている。
だが、その鼓動は走っていたときよりも早く、そして、ぶわっ、と全身の毛穴という毛穴から汗が出てきた。
この時のまどかは、一つ重大な過ちを犯していることに気がついた。
----そういえば、私、ほむらちゃんに約束破ったこと、謝ってないや……。
「……ぜぇ……ぜぇ…はぁ、はぁ、はぁはっはっはっはっ!」
まどかはまたしても息苦しさを覚え、足元がふらつきだす。
とにかく一旦どこかで休もうと思い、路地裏に入る。
そして人気のない場所まで何とか歩くと、壁にもたれかかった。
だが、一向に息苦しさは解消されない。
それどころか、頭がボーっとしてきて、さらに目眩が起こりだした。
まどかは体を支えていることすら困難になり、無意識に口を手で押さえ、その場に座り込む。
そこに、
「えいやッッ!」
まどか目掛けてポリバケツが二個、蹴り飛ばされてきた。
まどかはそれに気がつかず、一個がそのまま激突した。バランスを崩し、地に倒れる。
衝突の衝撃で、ポリバケツの中身が散乱した。
もう一個のポリバケツは空だったらしく、明後日の方向へと飛んでいくと、カランと軽い音を立てて転がっていった。
「……あれぇ?」
一人の少女が、頬を掻きながら姿を現した。
その少女は、黒くて鍔の広い帽子を被り、黒いマントを棚引かせ、杖を持っていた。どう見ても魔法少女だ。
この程度は軽く避けるだろうと思っていたポリバケツを蹴り飛ばしてきたこの魔法少女は、予想外の展開に、二の足を踏んだ。
もしかしたら人違いなんじゃないか。そう考え始めた時だった。
「…………」
まどかがゆら~っと立ち上がった。そして今しがた不意打ちを仕掛けてきた魔法少女を見る。
見覚えは無い。
やはりこの少女も、他の街の魔法少女なのだろうと判断した。
だが、この間の魔法少女ではない。この街に複数の魔法少女が侵入しているのだろうか。
まどかは魔法少女に変身する。
それを見た黒マントの魔法少女は、人違いではなかったことを確信し、臨戦態勢を取る。
まどかが尋ねる。
「……なんで、こんなこと、するの……?」
「えへっ。そんなの決まってるじゃん」
魔法少女は杖の先端をまどかに向ける。
「あんたをブッ殺して、この街をわたしのモンにするためさ!
最近、グリーフシードが手に入りにくくなっちゃったからねぇ!
こうなったら、縄張り広げるしかないじゃん?!
わたしはこのまま引退なんかする気はないよ!
もっともっと魔法を使っていたい! まだまだ欲しい物がある! 全然遊び足りない!」
「……魔法を、そんな事に使ってるの?」
「そんな事って……人聞きが悪いなぁ~。
わたしは自分の為に使ってるだけさ。そしてこれからもね。
魔法ってさ、便利だよね~。
かわいいヌイグルミも、おいしいお菓子も、たくさんのお金も、その気になれば学校の成績でさえ手に入る!
こんな便利な力、失くすわけにはいかないね!
あんたに恨みは無いけど、死んでもらうよ!!」
魔法少女はそう叫ぶと、まどかに襲い掛かるべく、駆けだす。
まどかは足元に転がっていたポリバケツを起こすと、歩みだす。
そして、まどかは転がったままのポリバケツの蓋を手に取って閉めると、中身の詰まったポリバケツ二個を所定の位置へと片付ける。
その間、ブツブツと呟いていた。
「ほむらちゃん、ほむらちゃん、ほむらちゃん----
どこ? 今、どこに居るの?
謝らなきゃ----私、ほむらちゃんに謝らなきゃ----」
薄暗い路地裏に、ポツポツと雨が降りだした。雨粒がまどかの顔を叩く。
だが、まどかは気にも留めず、当ても無くふらふらと歩き出した。
*
まどかは夢を見ていた。
それは、まるで童話の世界に迷い込んだかのような内容の夢でだった。
その夢の中では、何故かまどかは屋敷の末子で、灰を被り、使用人のごとく働いていた----のではなく、姿見の前で舞踏会へ着ていく為のドレスを選んでいた。
やがてドレスが決まると、身支度を整え、カボチャの馬車に乗って舞踏会へ行く。
そして、その容姿と装飾品と華麗な踊りにより、周りの注目を一身に集めた。
だが、肝心の王子様が----ほむらが、まどかを見ていなかった。
まどかはほむらに向かって言う。
----どう? 私、変われたかな? 灰を被ってた頃とは違ってキレイ?
すると、ほむらはまどかを一瞥し、
----ええ、そうね。キレイだわ。
とだけ言うと踵を返して歩き出した。
まどかは、ほむらの予想外の反応に驚き、慌てて追いかける。
----私を見てよ。こんなに立派で華麗でキレイになったんだよ。
まどかはそうせがんだ。
ほむらは、いつの間にか手に持っていたガラスの靴を見せながら言う。
----ごめんなさいね。私はそろそろ、もう一度このガラスの靴の持ち主を探しに行かなくちゃならないの。
ほむらは笑顔をまどかに向ける。そして、
----舞踏会はまだまだ続くから楽しんでいってね。
と言い残し、会場を後にした。
まどかは音楽が垂れ流されている誰一人居ない会場に、一人だけぽつんと取り残された。
だが諦めきれず、悪足掻きと分かっていてもなお、大声で叫ぶ。
*
「待ってよほむらちゃん!!」
まどかが目を開けると、そこには見慣れた自室の天井が映る。部屋は暗かった。
「……はぁ……夢、か……」
頭だけ横に動かして目覚まし時計を見る。
時計の針は時刻が深夜であることを示していた。
布団を被りなおして寝ようとするも、目が完全に覚めてしまっていて、眠れそうになかった。
「…………水……」
先ほどの夢のせいだろうか----
喉の渇きを感じたまどかは、布団から出て、台所へと向かう。
一階に降り、リビングへと入ると、
「どうしたまどか。何か怖い夢でも見たのか?」
そこには母親である鹿目詢子が、遅めの夕食を取っていた。
テーブルの上には、唐揚げや卵焼き等の、酒のツマミになりそうな料理とジョッキ一杯のトマトジュースがあった。
酒はもう飲み終わったのだろうか----ビールの空き缶とトマトジュースのパックが端に除けられていた。
「……うん、そんなとこ」
まどかは返事をしつつコップを手に取り、それに水を注ぐと、一気に飲み干す。
そしてそのまま自室に戻ろうとするまどかに、
「ちょいと待ちな」
詢子が背後から声を掛ける。
まどかはその声に、足を止める。
「ここんところずっと帰りが遅いらしいが、どこで何やってるんだ?
今日なんか、この雨の中ずぶ濡れで帰って来たらしいじゃねえか」
「…………」
「まあ、門限がどうとか言うつもりはないけどよ。
最近この街も物騒になってきたからな。
遅くなるなら家に連絡くらい入れろ」
「うん……。心配かけさせちゃってごめんなさい……」
「…………」
まどかのその言葉に、詢子は飲みかけていたジョッキを止め、ゆっくりテーブルに戻す。
「なあまどか。何に悩んでんだ?」
「……え?」
まどかは驚き、思わず振り返った。
今の会話の流れで、悩んでいることを悟られるような言動があっただろうか?
「もう中二にもなったんだ。悩みの一つや二つあるだろうし、それを恥ずかしくて話せないってのも分かる。
でもな、これでもあたしはテメェの親なんだ。
いつでもいい。遠慮なく頼ってくれ。もうどうしようもない、って事になる前にな」
「……うん。分かったよママ」
そうは言ったものの、魔法少女のことを相談するわけにはいかない。
まず信じないだろうし、仮に信じたとしても----いや、きっと信じてくれるんじゃないかな。
普通の人なら、何を馬鹿なこと言ってんだい、と言うだろうけど、ママなら笑い飛ばしたりはしないだろう。
だが、何から話せばいいのか、何を話せばいいのか----
----そうだ。魔法少女のことを直接じゃなくて----
「……ママ。一つだけ、聞いてもいいかな?」
「おう。何だ」
「あのね、もしも----もしもだよ?
もしも、他人を殺すか陥れるかしないと自分が死んじゃう、それも時間が経ったらまた他人を殺さないと死んじゃうって状況になったら、ママならどうする?」
「……ん~。そりゃあ、自分が助かるように行動するだろうな」
「じゃあさ。その他人がどんどん減っていったら?」
詢子は、ふっ、と小さく吹く。
「何だか、無人島で極限状態のサバイバルやってるみたいな話だな。
他人を攻撃する理由は食料の奪い合いかい?」
「……そうだね。そんなカンジ」
「それなら話は違ってくるな。
まずは生存者集めて、話し合って脱出を計る。
それが無理なら、協力し合って食料を増やす----野菜を育てたり漁をする。
とにかく、奪い合いなんてやってる場合じゃないってのをまず認識して----他のヤツにも認識してもらわないとダメだな。
そんなことやってたら、すぐに食料を食い尽くしちまって、あっという間に全滅だってな」
全滅。その言葉を聴いたまどかの脳裏に、地に伏す魔法少女達の姿が想像された。
首を引き裂かれたマミ。
剣で滅多刺しにされた杏子。
手足がおかしな方向に曲がっているゆま。
そして、何者かに長い黒髪をつかまれ、瞳には何も写してなく、口から血が垂れている、首から下がなくなった----
まどかは小さく頭を振り、嫌な想像を頭から追い出す。
「それじゃあ、もしその無人島が断崖絶壁の岩の上みたいなところだったら?」
詢子は首を傾げる。
「なんだい? やたらと食い下がるじゃないか」
まどかは、はっ、と我に返る。
軽く、それとなく聞くつもりが、かなり深く話してしまった気がする。
「まっ、もしそんな状況になったら、流石にどうしようもないな。なら----」
「……なら?」
詢子の話は続いている。
何か解決策があるのだろうか。この絶望的な状況をひっくり返す策が----
まどかはゴクリと唾を飲み、次の言葉を待つ。
そして詢子の答えは、
「そういう状況にならないようにするかな。
そんな、足を踏み入れたら詰みが確定している無人島には絶対に近づかない。
なったらアウトなんだから、ならないよう注意して予防するしかないだろうな」
まどかの期待するようなものではなかった。
今、まどかが置かれている状況は、詢子の言う『足を踏み入れたら詰みが確定している無人島』へ既に足を踏み入れてしまっている状態なのだ。
知りたいのは、そこでの対処方法であり、予防方法ではない。
「じゃあ、もしそういう状況になっちゃったら?」
詢子は一瞬だけ、目を見開いて唇の片端を引き攣らせた。そして手に持ったままのジョッキを半分まで呷る。
まどかはしつこく聞きすぎて不審がられてしまったかと思い、質問を撤回しようと口を開く。
だがそれより先に詢子がまどかの目を見て話し出す。
「そうなっちまったら----いや、そうなっても、考えることはやめないだろうな。そんで、自分を見失わないようにする。
例えくたばるのが確定してても、その時その瞬間までは自分でいられるように。
錯乱して暴れたり自殺なんてのは絶対ダメだ。
最後の時までするべきことをして、そして足掻いて足掻いて足掻き続けるんだ」
言い終わると詢子はまどかに笑みを向ける。
「あたしの考えとしてはこんなところかな。
まあ、まどかの期待してた答えじゃなかったかもしれないけど----」
「ううん、そんなことないよ。
ありがとう、ママ。こんな訳分かんない質問に答えてくれて」
まどかはおやすみなさいと言いながらリビングを後にしようとする。
「寝れそうかい?
もうパッチリ目が覚めちまってるんじゃないか?」
言われてみれば、確かに、このまま布団に入っても寝付けなさそうだった。
詢子はトマトジュースが半分残っているジョッキを持ち、
「こいつを一口だけ飲んでみな。少しは寝付きがよくなんだろ」
まどかの傍まで来て、ジョッキを渡す。
まどかは疑問に思いながらも一口飲む。
「それじゃ、おやすみなさい」
そして二階へ上がり、フラフラとした足取りで自室へ入ると、ベットの上へと倒れた。
朝になり、目覚ましが鳴るまで、気を失ったように眠っていた。
確かに寝付きは良くなった。
朝、疑問に思い聞いてみると、あのジョッキの中身は唯のトマトジュースではなく、ビールとのカクテルだったらしい。
子供に酒を飲ませるなんて! と、朝から詢子はまどかの父親である知久にこってり絞られたのであった。
*
その日の夕方。
まどかは街を巡回しながら考え事をしていた。
『----最後の時までするべきことをして----』
詢子の言葉が、頭から離れない。
思い起こされるたびに、自分のするべきこととは何かを考える。
真っ先に浮かんだのは、魔女や使い魔を狩ること。
これは間違いないはず。
何故なら、このために魔法少女になったのだから。
だがそう考えるたびに違和感が込みあがってくる。
もしかしたら違うんじゃないか。もっと別の答えがあるんじゃないか。
そう考え、また思考するのだが、結局同じ結論に行き着く。
そうして延々と同じことを考える、思考のループに嵌っていた。
----そうだ!
この時まどかに、思考のループを脱しそうな天啓が降りてきた。
----私ったら、いつの間にか死ぬことを前提で考えてたよ!!
ダメだよそんな後ろ向きじゃ! ママも言ってたじゃん! 最後まで足掻くんだ!!
そう自分に言い聞かせるように繰り返し思考する。
だが、まだ違和感は消えない。
これじゃない。まだ何か違う気がする。
これは違うんだ----でも無視もできない。というか、目の前に広がる最大の問題だ。
そう、無人島の例え話でいうところの、食料問題だ。
食料の栽培。
それは現実に置き換えると、グリーフシードの----いや、魔女の栽培にあたる。
使い魔に人々を差し出し、喰わせ、魔女になったら刈る。それしかない。
そこまで考えた時点で、まどかはこれ以上矛盾から目を背けることに、限界を感じた。
魔女を倒す私が、魔女を増やす?
街の人達を守るために、街の人達を犠牲にする?
こんなの、本末転倒じゃん!!
でも----それ以外に生き延びる術が、ない。
まどかは唇を噛む。
ああ、こんな時、ほむらちゃんが居てくれたなら----きっと、髪をかき上げながら「こんなの簡単よ」って言って、あっさりと解決してくれただろうな。
例えそうでなくても、一緒に居てくれるだけで、心強かっただろうな。
「ほむらちゃん……どこに居るの……?」
一旦足を止め、空を見上げながら、そう小さく呟く。
まどかはかつて、担任の教師にほむらの行方を尋ねたことがあった。
だが、返ってきたのは未だ行方不明ということだけだった。
警察にも失踪届け出がされ、捜索が行われているにもかかわらず、小さな手がかりすら見つけられずにいるらしい。
最近の見滝原では同年代の少女が行方不明になったり、死体で発見されたりといった事件が続いている為、ほむらも何かしらの事件に巻き込まれたのでは----というのが一般的な認識であった。
ほむらちゃんを探しに行きたい。でも、どこを探したらいいのか----
「……ん? あ、あれ? これって……」
まどかは、自身のソウルジェムが何かに反応していることに気づき、また足を止めた。
物思いに耽っていたせいか、それとも随分と間が開いてしまって勘が鈍っているのか----まどかは、ソウルジェムが魔女か使い魔の魔力を感知しているのだという考えへ至るのに、数秒かかった。
久しぶり。本当に久しぶりだ。不謹慎だが、心が躍る。
しばらく感じてなかった、『誰かの役に立てる』という感覚。
これだけしか取り柄の無い私が、唯一、誰かの為にできること。
----さあ、魔女狩りの時間だ。
「……あっちだね」
行こう。
すぐ行こう。
今すぐ行こう。
きっと、放置すれば魔女はどんどん増えて、グリーフシードをいっぱい落として、私はもう少しだけ生きることができるだろう。
でも----やっぱり、私に他人を犠牲にしてまで生きる価値は無い。
魔女や使い魔を倒すことは、そんな私に与えられた、唯一の役割なんだ。
私に出来ることは、これしかないんだから。
だから、やるんだ。
どんな結果になろうと、最後まで。
*
ソウルジェムの反応に従って歩いていくと、ショッピングモール内部の工事現場にたどり着いた。
人気は無く、ところどころ鉄骨がむき出しになっている。
そして目の前には、
「魔女の結界……あった……」
使い魔のものとは違い、安定した結界があった。
まどかは魔法少女に変身すると、手馴れた様子で結界に亀裂を入れ、中へと足を踏み入れる。
結界内部は、厳つい医療器具と甘い匂いのお菓子が混在する、奇妙な空間だった。
病院を思わせる通路には七色の錠剤と飴の雨が降り、巨大なホールケーキには赤い注射器と苺が刺さり、壁や何かの医療機器には白い包帯と生クリームがべっとりと垂れていた。
そして、
「……いっぱい、いるね……」
忙しそうに菓子を運ぶ、大量の使い魔たち。
まどかが一歩前に出る。すると足の裏に何か、ぶにゅ、としたものを踏んづけた感触が伝わってきた。
足元を見ると薬品のチューブがあり、踏んだはずみで中身が飛び出ていた。
中身は緑色で、メロンソーダの匂いを発していた。
「……!!」
その匂いをまどかが認識したのと同時に、使い魔たちが一斉にまどかへ振り返る。
おそらく、使い魔たちも匂いに反応したのだ。
まどかは左手に弓を、右手の指の間に三本の矢を、それぞれ持った。
そして弓を構え、一本目の矢を弦に掛けて引き、狙いを定める。
使い魔たちが集団で固まって襲い掛かってきた。
「えいっ!」
まどかは冷静に、撃ち放つ。
放たれた矢は分裂し、集団の前衛を撃ち抜く。
撃ち漏れた二匹が跳びかかって来た。
「やっ!」
まどかは慌てることなく、一匹目を左横蹴りで、二匹目を右後ろ回し蹴りで撃退する。
背後から使い魔たちの別集団が、正面から一瞬遅れて第二陣が、突進してくる。
まどかは蹴りの勢いそのままに、右足を軸にして深く腰を落としながら反転し、同時に二本目の矢を引き、照準と使い魔の集団が交わった瞬間に撃ち放つ。
矢は分裂し、背後からの集団を全て撃ち抜いた。
正面からの集団が、まどかの背後に跳びかかって来るのと同時に、
「とうっ!」
まどかは前へ宙返りする。
そして宙で三本目の矢を引くと、使い魔たちへと撃ち放つ。
上下反転した視界には、矢が全て命中する様子が映った。
キレイに着地を決めると、辺りを見渡す。
もうこの近辺には使い魔はいないようだ。
「……ふぅ……」
まどかは思わずため息をついた。
体は魔女が減少する以前のように動くことができた。
だが、当時のような、先ほどまで期待していた爽快感は、得ることができなかった。
得たのは何ともいえない疲労感だけ。
何だか胸の奥がモヤモヤする。
以前の私ならこう思った----楽しい。私、今、生きてる。生きてるんだ、と。
でも今は----何だかつまらない。見てほしい人に見てもらえていないのに、たった一人で浮かれて踊ってるのには、もう飽きた。
さっさと終わらそう。
私は早く、ほむらちゃんを探す術を考えなくちゃならないんだから。
余計なことで悩んでる暇なんてないんだから。
そう自分に言い聞かせることで気持ちを切り替え、結界の奥へと進んでいく。
最深部と思われる場所は、広場のように開けていた。
ケーキや菓子類の形をした、まどかの背よりも高い、巨大なオブジェが所狭しと転がっている。
そして広場の中央には足の長いテーブルとイスがあり、テーブルの上に小さなヌイグルミがあった。
しばらく見つめていると、そのヌイグルミの口がモグモグと動いていることに気がついた。
「もしかして、あれが魔女?」
魔女はまどかのことを気にすることなく、テーブルから飛び降りると、近くのケーキや菓子を手に取り、黙々と口に運ぶ。
見た目だけならとても弱そうだ。
だが、それだけで判断してはダメだ。
一瞬の油断が命取りだ。
強弱関係なく、どんな魔女が相手でも、そこは変わらない。
まどかは魔女との距離を保ったまま、弓を構え、狙いを定め、矢を放った。
矢は真っ直ぐ魔女へと飛んでいき、何の抵抗もなく終わる----はずだった。
突如、パァン、という銃声が聞こえたかと思うと、まどかの矢が軌道を変え、魔女の横を過ぎ、その背後の巨大ケーキを粉砕した。
「……え?……」
まどかは矢が『外された』ことに驚いた。
そんなはずは無い。だって、さっきの銃声----いや、マスケット銃の発砲音は----
「鹿目さん……。止めてちょうだい……」
まどかは発砲音の方へゆっくりと振り返る。
そこには銃口から煙を上げるマスケット銃を持った、マミがいた。マミは今しがた撃った銃を捨て、新しい銃を手に取る。
マミさんが、そんな----何で?! 何で魔女を庇うの?!!
「マミさん! 何でですか! 何で----」
「この魔女はね、私達が生きる為の、最後の希望なの」
……生きる為の? まさか----
「----まさかマミさん、わざと魔女を孵化させたんじゃ……」
マミは笑顔を向ける。ただし、今にも泣き出しそうな笑顔だった。
「ええ、そうよ。
最初は縄張りを広げようと思ってたのだけれど、それだとやっぱり効率が良くないのよね。
どうしたらいいか考えてたら、ふと以前佐倉さんから貰ったグリーフシードが目に入ったの。
その時にね、思い出したの。
グリーフシードに限界を超えて穢れを吸い取らせたら、魔女になることを。
孵化には成功したから、後はここの使い魔が成長して、魔女になるのを待つだけ。
……安心してちょうだい。魔女に、なったら、ちゃんと鹿目さんにも、か、狩らせてあげるから……」
マミの目尻に涙が溜まっていた。
本心から魔女を増やすことを良しと思っているわけではないことを、まどかは理解した。
「マミさん……もう止めてください……。
本当はこんな方法、納得いってないんですよね? 今のマミさん、とても辛そうです」
「…………」
「もっと別の方法を考えましょうよ!
さやかちゃんや杏子ちゃん、ゆまちゃんたちも呼んで、皆で考えれば何かいい案が浮かぶかもしれないじゃないですか!
こんなの、マミさんらしくないですよ!」
「……ダメなのよ……」
「え……?」
「何度も考えて、何度も話し合って、考えて、考えて、考えて出た答えがこれなの。
他に選択肢は無いの……」
「そんな……」
「私は、死にたくない。助かりたい。生きたい! それが私の最初の願い。
その為なら、どんな手段だって使うわ!」
マミはマスケット銃の銃口をまどかへ向ける。
まどかは、
「…………マミ、さん……」
少し俯き、悲しそうな表情を浮かべる。
そして、マミに背を向け、魔女の方へと歩みだす。
「……!! か、鹿目さん?! 一体何のつもり?!」
「あの魔女を、倒します」
「だ、ダメよ! 私の話を聞いてなかったの?!
あの子の使い魔がグリーフシードを孕むまで待って!!」
「でも、それまでに一体何人の犠牲者がでるんですか?
そんなの、私は見過ごせません」
まどかは歩みを止めない。
マミの、銃を持つ手が震える。
引き金に指が掛かった。その指先も震え、トリガーがチキ、チキ、と音を鳴らす。
「私達魔法少女は、グリーフシードが無いと生きられないのよ?!
し、仕方ないじゃない!!」
「私達魔法少女は、魔女の手から人々を守るのが使命。
……これは、マミさんが教えてくれたことです」
まどかは弓を構え、ヨタヨタと菓子を食べ歩いている魔女に狙いを定める。
「……やめて!!」
マスケット銃の引き金が引かれ、撃鉄が作動し、銃口から弾丸が飛び出した。
マミの放った弾丸は、まどかの髪の毛先を掠め、そのまま壁へ着弾した。
「鹿目さん、お願いだからやめて……私、まだ死にたくないの……」
マミは哀願するかのように言った。
「……マミさん----」
まどかは、
「----ごめんなさい」
と呟くと、矢を撃ち放った。
矢は魔女を貫き、消滅させる。
魔女の結界が崩壊し、空間が元の工事現場へと戻る。
「ひ、い、いやああぁぁぁ!!!」
マミの叫び声が響き渡る。
顔を両手で覆うも、指の間から涙があふれ出す。そして膝から崩れ落ちた。
まどかはそんなマミの元に歩み寄ると、そっと傍にグリーフシードを置く。
「……マミさん。これ、使ってください。私が持ってる、最後の一個です。
これでまだ時間は稼げるはずです。
諦めないでください。最後まで一緒に足掻きましょうよ……。
まだ生きてるのに諦めちゃうなんて、こ、こんなの----私の憧れていたマミさんじゃないです!」
まどかは涙声でそう叫ぶと、逃げるようにその場を後にした。
*
「はぁ、はぁ、はぁ……ここは……」
まどかはここを目的地に走ったというわけではないが、疲れを覚えて走るのを止めると、いつの間にかいつもの公園にいることに気がついた。
そしてすっかり指定席になったベンチに腰掛ける。
銀杏の黄葉した落ち葉が風にあおられて舞う。
「ここに居たのか」
「……杏子ちゃん……」
宙を乱舞する葉の向こうから、杏子がやってきた。
杏子は、隣りいいか? と聞くと、返事を待たずにまどかの隣りに腰掛ける。
しばらく沈黙が続き、耐え切れなくなったまどかが口を開こうとしたその時、
「マミが魔女を増やそうとしたのを、邪魔したんだってな」
まるで世間話でもするかのような口調で、杏子が言った。
まどかは、なぜそれを杏子が知っているのか疑問に思ったが、疑問に対する問いかけよりも先に、思ったことが口に出た。
「……間違ったことをしたとは思ってないよ。
私は魔法少女なんだから、魔女を倒して、街の平和を守らなきゃ」
「それ、ホントに、本心から言ってるのか?」
「……えっ?」
杏子からの思わぬ言葉に、まどかは驚いた。
「確かさ、ほむらと約束したんだったよな? だからやってんだよな」
「…………」
「でもな、もうその必要は----」
「そうだよ」
まどかははっきりと答えた。
「ほむらちゃんと約束したの。
ほむらちゃんが帰ってくるまで、この街を守るって。
私は、今度こそ、絶対にほむらちゃんとの約束を守り通すよ。
たとえ、それで私が死ぬことになっても!」
まどかの真っ直ぐな言葉に、杏子はバツが悪そうに返す。
「あ~~、違う違う。そうじゃない。あたしの言いたいことはそういうことじゃないんだ。
もうその約束を守る必要は無いってことが言いたかったんだ」
まどかは怪訝そうな表情を浮かべる。
約束を守る必要が無い? 一体どういうことだろう?
「何故かっつーとな----アイツは、ほむらは、もうこの地球上にはいないんだ」
一瞬、まどかの頭の中が真っ白になる。
まさか、ほむらちゃんが----そんな----
「……嘘、だよね……」
「あ~、言っとくが、別に死んだとかってわけじゃないからな。だけど----」
その言葉にまどかは、少しだけの安心と、
「----この地上のどこにも居ないことは確かだ」
大きな疑問を感じた。
「えっと----どういうこと、かな?」
杏子は少し思案した後、すっと立ち上がり、少し歩いてから振り返る。
「ワルプルギスの夜を倒した、あの日の夜。
ほむらは、ここで居なくなったんだ」
「ここで?」
「そうさ。あの日、アンタの座ってるそのベンチで、あたしはほむらから全てを聞いたんだ」
まどかはベンチへと視線を落とす。
ここにほむらちゃんが----
「ソウルジェムのこと。魔女のこと。ほむらの契約時の願いのことと時間を操る魔法のこと。
それと、アンタとの約束のこととかもな」
「私との約束って、街の平和を守る----」
「いや、それじゃねえ。
もっと前。もっともっと前。
アイツが時間を巻き戻す魔法で何度も何度も繰り返してきた別の時間軸で、アンタはほむらと約束してるらしいんだ。
アンタはほむらに『キュゥべえに騙される前の私を助けて』って言って、ほむらはアンタに『必ず助ける』って具合にな。
そんで、アイツはその約束を守るため、時間を巻き戻し、別の時間軸へと行っちまった」
「…………」
「ちょいと話が逸れちまったが----そんな訳で、もういいんだ。
もう、ほむらが帰ってくることはないんだ。
もう、そんな辛い思いしてまで、アンタが約束にこだわる必要は無くなったんだ。
だから----」
それまで下を向いていたまどかが、顔を上げる。
その表情を見た杏子は、言葉を失った。
感情のまったく読み取れない、無表情と表現するのが適切な表情なのだが、ただ一点、目だけが限界まで見開かれていた。
その瞳は瞳孔が大きく開かれており、目があった杏子は、その瞳に吸い込まれそうな感覚と酷い悪寒に襲われた。
ヤバイ! 離れろ!!
杏子の本能がそう告げる。
杏子は後ろへ飛び退く。
まどかは体を揺らすように立ち上がった。
そして、
「……ん?」
杏子に背を向けて、ゆらゆらと歩き出した。
「お、おい……どこ行くんだ?」
杏子の呼びかけに、まどかは半身で振り返り、横目遣いで杏子を見る。
「どこって……ほむらちゃんを探しに行くんだよ」
「……はぁ?! アンタ、ちゃんとあたしの話聞いてたのか?! ほむらは----」
「ほむらちゃんはいるよ」
「いるって、どこにだよ!
どこ探したって見つかりっこねえ!
アイツは隠れてるわけじゃねえんだぞ!」
「そうだよ。ほむらちゃんは隠れてるだけなんだよ。
以前キュゥべえが言ってたんだ。
ほむらちゃんは魔法少女としてあまり能力が高くないって」
まどかは再び杏子に背を向けて歩き出す。
「ほむらちゃん、大丈夫だよ。
私が傍に居るから。ずっと居るから。絶対に守るから。
怖いものなんて、もう何もないんだから。
だから、もう隠れてる必要なんてないんだよ。
お願いだから出てきてよ。
私の傍に居てよ。笑顔を見せてよ。
お願いだよ……ほむらちゃん……」
杏子は、またしてもまどかに掛ける言葉を見つけられず、立ち尽くすしかなかった。
*
例えるなら、微かな明かりすらない暗い道を一人で歩くようなものだ。
まどかにとってほむらとの約束は、真っ暗な道に一つだけ見えていた、指針とも言うべき星だった。
その星が見えていたから、どんなに暗くても歩いてこれた。
ところが、今まで見えていたものが、見えなくなってしまった。
もうまどかには、何を目指して歩けばいいのか、分からなくなっていた。
『----もう、ほむらが帰ってくることはないんだ----』
この言葉を、まどかは信じない。信じようとしない。
信じてしまったら、本当に二度と会えないような気がするから。
見えない星を探しながら、星のあった方角へとひたすら進むしかない。
自分が真っ直ぐ歩けているか分からない。
もしかしたら同じところをグルグル回っているだけかもしれない。
でも、立ち止まらない。歩みを止めない。
何故なら、まどかはまだ希望を信じていたから。
立ち止まると、ほむらが帰ってこないという絶望に呑みこまれてしまう気がしたから。
そうはならないよう、まどかはあてもなく歩き続ける。
「私ね、いっつも思ってたんだ、変わりたいって。
いつでも明るくって、誰にでも優しくって、どんな困難にも動じない----そんな風になれたらなぁって」
まどかは隣りを歩く人に話しかけるかのように呟く。
「今のままじゃダメだっていうのは分かってたんだけどね、どうやったら変われるのか分からなかったの。
こんなこと、誰にも相談できないしね。ずっと一人で考えてたんだ」
まどかの声は少しだけ高揚していた。
「そんなときに、ほむらちゃんが転校してきてすぐに私にこう言ったんだよね。
『変わろうと思ってはダメよ』ってさ。
私は変わりたいのに、変わってはダメって言われて、正直ショックだったんだからね」
まどかは、むぅ~、と頬を膨らませる。
「でもね、あの日----ほむらちゃんが私を庇って助けてくれたあの日、ほむらちゃんが私のことを本当に大切に思ってくれてるんだって分かったの。
それでね、もしかしたらほむらちゃんが言ってたことも、私のことを思って言ってくれてたんじゃないか、って思えてきて。
ひょっとして、私は変わらなくても----今のままでもいいんじゃないかな、とも思ったんだ」
まどかは両手の指を絡ませ、モジモジする。
「でもやっぱり、今のままの私はどうしようもなく卑怯で、弱くて、情けなくて、何にも出来なくって……。
このままじゃ胸を張ってほむらちゃんと対等な友達だよ、なんてとても言えないなって……」
まどかは若干うな垂れる。
「それにね、あの織莉子って人が死んだってテレビで流れたとき、私、自分のことばかり考えてたの」
『何でわたしは生きているの?』
『あの二人を殺してまで、わたしに生きる価値があるの?』
『わたしが世界を滅ぼすって言ってたけど、それはどうやって?』
わたし、ワタシ、私。
人が死んでるのに、自分のことしか頭になかったの。
やっぱり、このままで良いはずがない。
そう思ったら、居ても立ってもいられなかったの」
まどかは横に振り向きながら言う。
「ねえほむらちゃん。私の話、ちゃんと聞いてる?」
「ええ、ちゃんと聞いているわよ。それからどうなったの?」
「それでね、始めはとにかく、何か他人のことになることをしようと思ったの。
私に出来ることで、他人のことになることって何だろうって考えてたら----いつの間にかほむらちゃんのためになることを考えてることに気がついたの」
まどかは正面に向き直る。
「じゃあほむらちゃんのためになることって何かな? って考えてるときにね、ワルプルギスの夜のことを思い出したの。
ワルプルギスの夜の話をしているときのほむらちゃんって、すごく怯えた表情をしてたからさ、もし私がこの魔女を退治したらとっても喜んでくれるんじゃないかなって」
まどかは深くうな垂れる。
「そう考えだしたらもう他の事は考えられなくなっちゃってたの……。
頭からほむらちゃんの忠告がぬけちゃって----ううん、憶えてはいたんだけど、後で謝ったら許してくれるかなって」
「そう。契約したのは、私を守るためだったのね」
「うん……。
私は守りたかったの----街の人達を、友達を、ほむらちゃんを。
私はなりたかったの----ほむらちゃんに守ってもらう”わたし”じゃなく、ほむらちゃんを守れる”私”に。
『”わたし”は、変わりたい!
胸を張って、ほむらちゃんの隣りに立てる”私”になりたい!
ほむらちゃんが望む”私”に変わりたい!
ほむらちゃんに認められる”私”になりたい!!』
これが、キュゥべえに願った、”わたし”の最初の願い」
まどかは一旦沈黙する。
そして、
「ねえほむらちゃん……。
私、ちゃんと変われたのかな……それとも、変わっちゃったのかな……?」
まどかはそう呟きながら、再び横へと振り向く。
まどかの視線の先には、誰もいなかった。
「ほむらちゃん、どこに行っちゃったの……?
ねえ、どこ?
私が守ってみせるから。絶対に守るから。危険な目になんか絶対にあわせないから。
だから、もう隠れる必要なんてないんだよ。
大丈夫。今度こそ約束、絶対に守るよ。
どこに居るの? 姿を見せてよ。私の名前を呼んでよ。
もしかして、私が約束破った事、怒ってるの? それで隠れちゃったの?
……ほむらちゃん、本当にごめんなさい。
私が悪かったから。いくらでも謝るから。だから---
だから、お願いだから、帰ってきてよ。顔を見せてよ。約束破った私のこと、叱ってよ。
もう謝ることもできないなんて、そんなの嫌だよ……あんまりだよ……。
あああ、会いたい。会いたいよぉ。ほむらちゃん。ほむらちゃん。ほむらちゃん。
……ほむらちゃん、どこ?」
まどかの歩みが、止まった。
*
見晴らしの良い高所工事用クレーンの先端にいるキュゥべえが呟く。
「おめでとうまどか。今、キミはなれたよ。
この街を----いいや、この宇宙を救った英雄に」
*
見滝原だけでなく近隣の街にいる魔法少女とその素質をもつ全員が、一斉に空を見上げた。
そこには、雲を突き抜けるほど巨大で、遠くにいても気がつくほど強大な魔力を持った、夕陽の逆光で黒いシルエットに見える魔女が、突如出現していた。
「な、なに……あれ……」
さやかは自室の窓から乗り出し、魔女を見上げながらケータイを掛ける。
『只今電波の届かない所にいるか----』
何度もまどかのケータイに掛けるが、一向に繋がらない。
こんな肝心な時に、一体どこへ行ったのよ……。
埒があかない。
そう思ったさやかはまどかの家へと向かうべく、家を飛び出した。
走りながら再びまどかのケータイに掛ける。
聞こえてくるのは機械的なアナウンスのみだった。
「……ああもう!!」
短く悪態をつくと、さやかはケータイを握り締めて走ることに集中する。
まどかの家までもう少しというところで、さやかはこちらに背を向けて魔女を見上げている杏子を見つけた。
「杏子!」
杏子はさやかに振り返る。
「ねえ杏子、あれって魔女、だよね?
また誰か、魔法少女が魔女になっちゃったの?
つーかさ何かでかくない? あんなん倒せるわけ?」
「…………だ……」
「え?」
さやかは聞き返す。
いつもハキハキ喋る杏子が小声なんて珍しい。それだけあの魔女が----
「あの魔女は、まどかだ」
----ヤバ…イ…………えっ?
「……え? う、うそ……でしょ……ねぇ、杏子……?」
「…………」
杏子はさやかから目を逸らす。
それを見たさやかの表情から血の気が引いていく。
「……っ……」
しばらく思案していた杏子は拳を握り締め、さやかに向き直ってこう言った。
「おいさやか、まどかを助けにいくぞ」
「……助けられる方法があるの?」
「分かんねぇよ」
杏子の言葉に、さやかは肩を落とす。
「でもな----このまま指をくわえて見てるってのも、性に合わねぇんだ。
まだ助けられないって決まったわけじゃない。
あたしはまだ諦めない。どんなことでもいい。思いついたこと、全部試すぞ!
まずは呼びかけだ! 長年親友やってるアンタが呼びかければ何か反応があるかもしれない!」
さやかの表情に活力が戻る。
「……うん! 行こう!
まどかの目を覚まさせてやる!!」
*
マミは、まどかの置いていったグリーフシードを、じっと見つめていた。
脳裏に過ぎるのは、まどかの言い残していった、あの言葉。
『----まだ生きてるのに諦めちゃうなんて----』
私は、諦めてしまっていたのだろうか。
諦めたくないから、魔女を繁殖させようとしたのではなかったのか。
もしかして、私のアイディアは間違っていたのか----
分からない。もう、何も分からない。
窓の外を見る。そこには、巨大な魔女の姿があった。
鹿目さんが魔女になってしまった。
私の責任だ。
私なんかのためにグリーフシードを置いていったから、ソウルジェムを浄化できず、魔女になってしまったのだ。
マミは自分のソウルジェムを見る。
穢れが溜まり、限界に達しようとしていた。
このまま放っておけば、数時間と持たずにグリーフシードへと変化し、私も魔女に生まれ変わるのだろう。
そうなるくらいならいっそ……
マミはソウルジェムを床に置き、マスケット銃を向けた。
「ダメだよ、マミおねえちゃん」
だが、マミが引き金を引くより先に、マミのソウルジェムはゆまによって拾われていた。
「か、返して!」
「だって、今返したら壊すんでしょ?」
「そうよ! 魔女になるくらいなら、いっそ死んだほうがマシよ!!」
マミの答えに、ゆまは悲しそうな表情をした。
「ゆまはね、ママに虐められてたときいつも考えてたよ----死んじゃったほうがいいって。
でも魔女に襲われて死んじゃうってとき、ゆまは必死に生きようとしたんだ」
「いつか----いいえ、もうすぐ私達はその魔女になるのよ?!」
「でも、それは今じゃないよ。
魔法少女じゃなくったって、人はみんないつ死ぬかなんて分からないよ。
マミおねえちゃんは、本当に今死ぬの?
せっかく今生きてるのに、諦めちゃうの?」
ゆまの言葉に、マミはショックを受けた。思わず笑ってしまうほどに。
鹿目さんといい、ゆまちゃんといい、私は年下に説教されてばっかりだ。
可愛い後輩にこれ以上情けない姿を見せるわけにはいかない。
諦める? 何を馬鹿な。私は、まだ生きている!
生きている限り、私は正しいことをやり遂げるんだ。
何故なら、私は正義の魔法少女なのだから!
マミが顔を上げる。その表情は、光が戻ったように明るかった。
ゆまはその表情を見てマミが立ち直ったのを確信すると、マミのソウルジェムを返す。
「行こう! もうキョーコ達はまどかおねえちゃんを助けに行ってるよ!」
「ええ!」
マミはまどかから貰ったグリーフシードを拾い、ソウルジェムを浄化すると、ゆまの後を追って走り出した。
*
魔女となったまどかは、あてもなく歩き出した。
都市を。
町を。
村を。
森を。
湖を。
平地を。
山を。
海を。
砂漠を。
荒野を。
廃墟を。
地球上のあらゆる場所を、ただひたすらに歩いて回った。
もうこの世界のどこにも存在しないほむらを捜すために。
自身の結界内に、片っ端から動植物を取り込み、地球上から全ての生物が居なくなった後も、捜して、捜して、捜し続けた。
魔女は時折、低く大きな呻き声を上げた。
その姿はまるで、大事なものを失くしてしまい泣き叫びながら捜す子供のようであり、大切な家族と離ればなれになり遠吠えを繰り返す子犬のようでもあった。
*
もう、どれだけ歩いたのだろう。
暗くて何も見えない道を、未だまどかは歩き続けていた。
時間の感覚は既に無く、体の感覚も無い。
今どこを歩いているのか、場所も分からず、方向も分からない。
自分の意識があるのかすら分からない。
それでもまどかはほむらに会いたい一心で進み続ける。
ふと、暗い闇に間を置いて数回、一瞬だけ光が差した。
朦朧とした意識の中、時折閃光のように見える風景で、まどかは自分が見滝原に戻ってきていることに気がついた。
自分の家。
学校。
教室。
保健室。
先生。
さやか。
仁美。
クラスメイト。
公園。
そして、病院。
その病院を見たまどかは、はっ、とした。
この病院は確か、ほむらちゃんが入院していた病院だ。
そうだ、間違いない。以前ほむらちゃんに聞いた病院と同じ名称だ。
病室だ。ほむらちゃんの病室があるはず。探すんだ。
ふらふらと病院内を歩き、以前教えてもらったほむらの病室の前へと向かう。
病室の前にたどり着き、表札を見ると、そこには『暁美ほむら』とあった。
間違いない。ここは、ほむらちゃんの病室だ。
まどかは恐る恐る病室のドアを開ける。
部屋の中のベットには、ほむらが眠っていた。
見つけた。
やっと見つけた。
ようやく見つけられた。
まどかは居ても立っても居られなくなり、もう二度と失くさないように、ほむらにしっかりと抱きついた。
ほむらの温もりがまどかに伝わってくると、うれしくなって、目から涙がこぼれた。
そして、一言----どうしてもほむらに言いたかった一言を口にする。
「ほむらちゃん。約束破って、ごめんなさい」
*
ほむらが時間を巻き戻してから二日が経った。
ほむらの病室にて、ほむら、まどか、さやかの三人が談笑中、
「ほむらってさぁ、映画とかよく見る?」
ふと、さやかがそう聞いてきた。
その質問にほむらは、ん~~、と唸りながら数秒考えた後、
「いえ、あまり見ないわね」
と答えた。
「ん、そっかぁ……」
さやかは、ガクッ、と肩を落とす。
それを見たほむらは首を傾げる。
「随分と唐突ね。何か気になる映画でもあるの?」
「いや、気になるっていうか----いつだったか、見たはずなんだけど内容をほとんど覚えがないってヤツがあって。
しかも記憶にある内容が断片的でさ。
それを思い出せないのが気持ち悪いから、もう一度見直そうと思ったんだよ。
でもさ、肝心のタイトルが分かんなくって、探しようがないんだよねぇ。
たぶん、ここ最近のだと思うんだけど……」
「ちなみにそれ、どんな内容の映画なの?」
「……ん、っとね……ちょっとうろ覚えなんだけど……」
さやかは目を瞑ってこめかみに指を押し付けながら唸る。
「そう、たしかねぇ……犬のことを題材にした映画で……冒頭に『天使の歌声』ってカンジの回想があって……」
ほむらは眉を顰める。
「……天使の……歌声……?」
「そうそう、何かやたら神々しいカンジの。何か知らない?」
「…………」
ほむらには一つ、心当たりがあった。
それは、前の時間軸でまどか、さやか、マミ、杏子、ゆまの六人で行った、カラオケと映画のことだった。
映画を見る前にカラオケに行き、そこでまどかが歌った。
その姿は神々しく、まるで天使のようだった。
おそらくさやかはこの時のことを言っているのではないか?
だけど、これはあくまで前の時間軸での出来事だ。
さやかが----いや、ほむら以外の誰一人として覚えているはずがない。
だけど、微かにではあるが、覚えているとしか考えられないことをさやかは口にした。
----これは後で探る必要がありそうだ。ほむらはそう思った。
「残念だけど、心当たりは無いわね。
そもそも私は長い間入院してるから、あまりそういうのに詳しくないのよ」
「そういやそうだったね」
「じゃあさ----」
まどかが口を開く。
その途端に、ほむらの視線がまどかに向けられた。
まどかは病室を訪れた時から既に若干疲れたような顔をしていた。
発言も少なく----もしかして疲労困憊なのに無理して来てくれているのでは----と、ほむらは心配になっていた。
だが、そんなことはなかったようで、ほむらは安堵する。
「----退院したら、一緒に映画を観に行こうよ。
今、わたしも協力しててさ、いろいろ映画の情報を集めたり、観に行ったりしてるんだ。
それでね、やっぱ二人よりも三人で観に行ったほうがとっても楽しそうだなって」
まどかの提案に、一瞬、ほむらは返事をすることを戸惑った。
仮にさやかが前の時間軸の記憶を継いでいるとしたら、その記憶にある映画は偶然が重なってできた、絶対に見つからないものだ。
何とか、遠まわしに『そんな映画は実在しない』と悟らせられないだろうか。
----だけど、まどかからの頼みだ。
断るわけにはいかない。無碍にはできない。
それに、またまどか達と映画を観に行くのは楽しみでもある。
「私でよければ一緒に行かせてもらうわ」
「本当?!」
「ええ。約束するわ」
「……あっ……!!」
ほむらの口から約束という言葉が出た瞬間、さやかの表情が曇った。
「や……やく、そく……」
「……まどか?」
先ほどまで笑顔だったまどかの表情は苦渋に歪み、胸に手をあて、
「……はぁ、はぁ、はあ、はあ、はっ、はっ! はっ!」
息苦しそうに激しく呼吸を繰り返しだした。
「まどか?! どうしたの?!」
ほむらは、その明らかに異常な様子を見せるまどかの両肩を抱き、落ち着かせようとする。
「ごめん! ちょっとどいて!」
そこへ、さやかが紙袋のようなものを広げて、ほむらの前に割り込んできた。
事情も分からず、対処法も思いつかないほむらは、素直に一歩下がる。
さやかは紙袋を、まどかの鼻と口を覆うようにあてがった。
まどかは、紙袋の中に息を吐き、紙袋の中の空気を吸う。
「まどか、落ち着いて。
ゆっくり、ゆっくりと深呼吸して。
----そうそう。大丈夫だからね。誰もまどかを責めたりしてないからね」
その状態での呼吸を繰り返す。
すると、まどかの呼吸が徐々に落ち着き始めた。
「ふぅ……はぁ……ふぅ……」
さやかが紙袋を除ける頃には、まどかは落ち着き、ぐったりした様子で椅子にもたれかかった。そしてポケットから薬を取り出して飲む。
そのあまりの困憊ぶりに、ほむらの提案でしばらくベットに寝かせることとなった。
まどかは横になると強烈な眠気に襲われ、そのまま瞼を閉じ、眠りについた。
「……どういうことなのか、説明してもらってもいいかしら」
ほむらは、まどかにそっとタオルケットを掛けながら、さやかに尋ねた。
さやかの口は重かった。
「ん~~。なんというか……。
まどかはさ、『約束』って言葉に敏感なんだよね。
自分が約束を守れないんじゃないかっていつも心配してるってゆーか……」
「……約束を守れなかったことがあったの?」
「よくは知らないんだけど----何か、凄い罪悪感があるっていうの?
誰かと交わした約束を破っちゃったんだかなんだかで、それで相手を物凄く怒らせちゃったことがあったらしいんだ。
あたしが思うに、まどかはそれ以来『約束』に対して酷く怯えてるんじゃないかな」
約束。まどかの異変の原因は、その約束なのか。
一体どのような約束なのか、相手は誰なのか、ほむらは気になりだした。
「で、その相手というのは?」
「それがさ、分かんないだってさ」
さやかの言葉に、ほむらは怪訝そうに眉を顰めた。
「……分からない?」
「そうなの。どこでいつ誰とどんなことを約束したのかを忘れちゃってるみたいでさ。
それがまたまどかの罪悪感に拍車をかけてて……」
「相手が誰か、そしてその内容も覚えてないのに、どうして相手が怒ってるって分かるの?」
「さあ……あたしもまどかから聞いただけだからねぇ。
でも、嘘を言っているようにも見えないし----まどかの話がホントかどうかはともかく、昔、何かあったのは確かだと思うよ」
「昔? 貴女達が出会ったときから、まどかは、その……こんな感じだったの?」
ほむらは横目で、横になっているまどかをチラッと見た。
さやかはそれを見て、ほむらの質問の意味を瞬時に理解した。
「うん。----と言ってもさ、分かったのは流石に会ってすぐって訳じゃなかったけどね。
何時だったか、あたしと次の日遊びに行くって約束をしてさ。
当日はあたし、珍しくちょっと早めに集合場所に着いたんだよ。
そしたら、まどかが既に居てね、でも何か違和感あるなぁと思ってよく見たらさ----前日と同じ格好だったんだよ」
「……それってもしかして……」
「そう。約束して別れた後、そのままの足で集合場所まで行って、一晩中そこで待ってたんだ。
なんでも、『集合時間に遅れないように』だってさ。
そん時かな。まどかが約束に対してもの凄く拘ってるって気づいたのは」
さやかは、あたしなんか集合時間に間に合ったことなんてほとんどないのにな~、と話を締めた。
ほむらは何も言えなかった。
さやかが語った以上の事態の重さを----時間遡行しているからこそ分かる、現在のまどかの異常な状態を、ほむらは感じとったのだ。
「……今更なんだけど、こんなに話してもらってよかったのかしら?」
「ん? ……あ~。そういやそうだね。
まどかのプライバシーに係わるし、普通は出会って間もない相手には話さないモンだよね。
でもさ、なんてゆーか、アンタなら大丈夫かなって思っちゃってたんだ。
話してもきっと、まどかのことを嫌ったり、変な目で見たりしないだろうって。
実際、アンタはまどかの心配はしてくれてるし、それでいて変な偏見を持ったりはしてないみたいだしね」
さやかは何でもないことのように言った。
その話しぶりはまるで親友に対するもののようであり、とても出会って三日しか経っていない間柄とは思えないほどであった。
ほむらがさやかから聞いた話を頭の中で整理していると、一つの疑問が浮かんできた。
「それにしてもさやか、貴女、随分と詳しいのね。
さっきのまどかへの対応も手馴れた様子だったし」
ほむらの質問に、さやかは腰に手を当てて胸を張って答えた。
「まあね。こんなふうに発作が起こることがたまーにあるからね。
最初はどうしたらいいか分かんなかったけど、暫くまどかと居るうちに覚えちゃったんだよ」
「それは、凄いわね……」
ほむらは素直に感心した。
「ふふん。もっと褒めてくれていいんだよ」
「ねえさやか。私にも教えてくれるかしら?」
「ん? いいけど、急にどしたのさ?」
「やっぱりまどかの友達として、何も出来ないのは嫌なのよ。
貴女もそうだったんでしょ?
だからこそ、対処法も調べがついていて、出来るだけまどかの近くに居るようにしているのではないかしら?」
さやかは少し驚いた表情を浮かべる。
「貴女達と初めて会った時、少し疑問に思っていたのよ。
診察を受けていたまどかはともかく、健康な貴女まで病院にいることに」
「あれ? 付き添いだって言わなかったっけ?」
「私は聞いた覚え無いし----仮にそうだとしても、普通はまどかの御両親が付き添うものではないかしら?
にも係わらず、付き添いには貴女が来た。
それはつまり、それだけ貴女はまどかの御両親に信用されているということね」
「まあ----そういうことになるのかな?」
「正直、貴女が羨ましいわ……」
「……はぁ?」
さやかは首を傾げる。
ほむらはそれを気にすることなく、目を見開いてこう言った。
「私もまどかの御両親に『娘をよろしく頼む』って言われたいわ!」
「…………」
さやかは開いた口が塞がらなかった。
そんなさやかの心情など露知らず、ほむらはさやかを指差しながら再度口を開く。
「美樹さやか。貴女にまどかは渡さない。まどかは私の嫁になるのよ!」
さやかの眉間に皺が寄った。
ほむらが何を言っているのか、理解出来なかった----いや、したくなかったのだ。
さやかは考えた。
あれ? 私達は今の今まで真面目な話をしていたんじゃなかったっけ?
なのに、突然、何?
まどかは私の嫁宣言?
コイツはあれか、もしかしなくとも空気が読めないのか?
----仕方ない。ここはこのさやかちゃんがほむらに合わせるか。
それと後で空気の読み方を教えてやるとするか。
「ふっふっふっ。なーにを言ってるんだか。
もうあたしとまどかは親公認の仲なんだからね。
まどかはあたしの嫁になるのだーー!」
そう言いながら、さやかは大げさな身振りで、まどかの方へ振り返った。
その視線の先、ベットへさやかとほむらの視線が注がれるのと同時に、まどかが、すぅ、と上半身を起こした。
「あら、まどか。もう大丈夫なの? 無理せず、まだ横になってたほうが----」
ほむらはそう声を掛ける。だが、まどかは
「……うん。もう大丈夫、だよ……」
とだけ言うと、ベットから降り、部屋のドアへフラフラと歩き出した。
「まどか? どこへ行くの?」
ほむらが再度呼びかけるも、まどかは一度若干苦そうな笑顔を向けると、
「ちょっと、ね。
心配掛けちゃって本当にごめんなさい。
今度お詫びに何か奢らせてもらうね。
今日はちょっとこの後用事があって帰らなきゃならないんだ。
また明日来るからね。
バイバイ」
慌てた様子で一気に喋りたてると、ドアを開け、出て行った。
「まどかったら、あんなに慌てて……一体どうしたのかしら?」
「そっか。もう、そんな時間か……」
さやかは壁に掛けてある時計を見ながらそう言った。
「……? 何か知ってるの? 何か習い事の時間なのかしら?」
ほむらの記憶が正しければ、まどかは習い事の類はやっていなかったはずだが。
「いや、そーいうんじゃないの。『散歩』だよ。大体この時間になると、まどかは街中を歩き回るんだ」
「決まった時間に散歩? 随分と健康的なのね。私も一緒に歩こうかしら」
ほむらの言葉に、さやかは首を振った。
「いやあ、やめといた方がいいよ。
まどかの『散歩』はけっこうな距離を歩くからねぇ」
「けっこう、ってどのくらい?」
「ん~、街を一周ぐらいかな」
「……え?」
思わず聞き返したほむらに、さやかは又しても何でもないことのように言った。
それほどまでにこの異常事態が日常化している証拠だろう。
「街を一周って……。
それはけっこうどころじゃない距離でしょ?! 一体何キロあるのよ?!」
「うん。だからやめといた方がいいよって言ったのさ。
距離もそうだけど、歩く早さもそうとうなもんでさ。
ほむらの病み上がりな足じゃ絶対無理----っていうか、あたしでさえまどかに付いていけないからねぇ」
付いていったことがあるのだろう。さやかはその時のことを思い出し、遠い目をしていた。
この様子を見たほむらは、さやかの話に嘘や誇張の類が一切無いことを感じ取った。
「……何がまどかをそうさせているのかしら」
「さあねぇ……まどかに直接聞いてみても、『健康のため』とか『単なる趣味』とかって答えしか返ってこないんだよ」
「聞けば一応答えが返ってくるのね」
「うん。でもさ、なーんか引っかかるんだよ。
嘘ついて誤魔化してるってカンジがするような、違うような……」
「ちなみに貴女は何故だと思う?」
「うーん……」
さやかは腕を組んで、しばらく考えてから口を開いた。
「きっと、理由は無いんじゃないかな。
まどかも何で自分がこんな事やってるんだか、分かってないんだよ。
もしくは、ジンクスや縁起担ぎみたいなもので、きっと特に深い意味はないんじゃないかな。
だから理由を聞いても、まどかはそれっぽい理由を答えるしかなかったんだと思う」
さやかの言葉に、ほむらは得心がいった。
なるほど、聞いてみればたしかにそういう考えもありだろう。やはり、さやかは鋭い感性を持っている。
しばらく雑談を続けた後、さやかは幼馴染の見舞いがあると言って帰っていった。
その帰り際に、
「まさか、病院をハシゴすることになるとは思わなかったよ」
と呟いた。
ほむらは思わず笑ってしまった。
*
翌日。
ほむらの病室を訪れたまどかは、やはり昨日と同じく若干疲れたような様子であった。
昨日のさやかの話を信じるなら、まどかは街を一周歩き通したのだから仕方ないのだろう。
入院患者に昼食を知らせるアナウンスが流れ、まどかとさやかもほむらと一緒に食べようと考え、さやかは昼食を買いに一旦部屋を出た。
二人きりになったほむらとまどかは、ベットに並んで腰掛ける。
「まどか? 何だか疲れてそうだけど、大丈夫?
無理してまで会いに来てくれなくてもいいのよ」
「……え? だ、大丈夫だよ! わたしってそんなに疲れてるように見える?」
「正直に言ってしまえば、とても疲れてそうに見えるわ」
「そ、そっか……。
でもね、無理はしてないから大丈夫だよ。
ごめんね、心配かけちゃって……」
まどかは俯き、申し訳なさそうにそう言った。
これは早急に何とかした方がいいのではないだろうか。
これ以上辛そうなまどかを見ているのは忍びない。
ほむらは意を決してまどかに尋ねる。
「……ねえまどか。何故そんなに辛い思いをしてまで歩き回るの?」
まどかは顔を上げ、大きく見開かれた目をほむらに向けた。
秘密にしていたのに何故それを知っているのかとまどかが問うより先に、ほむらが口を開く。
「貴女の様子を見れば、『健康のため』や『単なる趣味』でしているわけではないことは分かるわ。
それでもなお、貴女が歩き続ける理由って、なに?」
「……それは……その……」
「別に私は、それが悪いことだとか、おかしいとか、そういうことを言っているわけではないの。
ただ、本当に理由が無いのなら、そこまで辛い思いをしてまでやらないと思うの。
どんなに些細なことでもいい。話してくれないかしら。
決して笑い飛ばしたり、バカにしたりなんかしないわ。
私は、貴女の力になりたいの」
ほむらは真剣な表情でまどかにそう言った。
それを聞いたまどかは、迷った。
言っても、絶対に変なヤツだと思われるに違いない。まどかはこれまでそのように考えていた。
だが、ほむらなら----何故かほむらだけは、どんなにブッ飛んだ内容だろうが、仮に嘘を並べようが、ちゃんと聞いてくれる気がした。
「……本当に、笑ったり、バカにしたり、しない?」
「ええ、もちろんよ」
まどかは再度ほむらの目を見る。
その目は、さっき言った言葉に嘘は一切ないわ、と語っているように見えた。
まどかは恐る恐る口を開く。
「あのね、夢の話、なんだけどね。
その夢の中でわたし、友達との約束、破っちゃったの。
その友達は、約束を守る為に、必死になってがんばってくれてたのに……。
それでその友達は、さよなら、って言って、怒ってどこかに行っちゃうの。
わたし、後になってから自分のした事に気がついて……友達に謝んなきゃ、って思って。
でも、いくら探しても、どこを探しても、どれだけ探しても、どこにも居ないの。
それでもわたし、とにかく謝んなきゃ、謝んなきゃって……もうそれしか考えられなくなっちゃってて……。
何十年も、何百年も、何千年も、ずっと、ずっと、ずぅーーーーーっと、探し回るの」
「…………」
まどかの話は、自身の見た夢の内容から始まった。
ここからどのようにして、歩き回る理由に繋がるのだろうか?
それにこの夢の内容、もしかすると----
「それでね、その夢を見た後から、かな?
その夢の中に出てきた友達に謝りたいって気持ちになっちゃって……」
「……その夢に出てきた友達に、現実では何か謝らなくてはならないことをしてしまったのかしら?」
まどかは首を横に振る。
「ん~ん。その子とは、夢の中で会っただけなの」
「…………え?」
「実際には会ったこともないし、見たこともない。
でも、その子のことが頭から離れないの。
今までその子のことを忘れてて、夢がきっかけで思い出したカンジ……かな?」
「…………」
「それと一緒にね、わたし、とにかく歩かなきゃって気持ちになっちゃって……。
歩いてないと、押しつぶされそうなくらい、とても不安な気持ちになるの。
本当にね、自分でも理由とかは分からないの。
でも、その子のことを考えると、居ても経ってもいられなくなって……。
たぶん、だけどね----きっとわたしはその子と一緒に歩きたかったんだと思うの」
「…………」
まどかは目尻に涙を溜め、項垂れながら言う。
「……ごめんね、こんな夢の話で……。
訳分かんないよね。
気持ち悪いよね。
わたしと一緒に居るの、嫌だよね。
でも、それでも----わたしの気持ちを全部言わなくちゃダメだって声が、わたしの中から聴こえた気がして……」
今にも泣き出しそうなまどかを、ほむらは優しく抱きしめる。
まどかは突然の抱擁に驚いた。
「……ふぇ?」
「まどか、本当にごめんなさい。とても辛いことを話させてしまったわね。
大丈夫よ。私は絶対に貴女を嫌ったりしないわ」
「……ほむらちゃんは、わたしの話、信じてくれるの?」
「ええ、当たり前よ。だって----」
ほむらは体を離し、笑顔を浮かべ、まどかと視線を合わせる。
「----私達は、前世では恋人どうしだったんですもの」
まどかは一瞬目を丸くした。
そして、すぐに笑顔になる。
「ほむらちゃんったら、またそんなこと言って……。
そういうこと言ってると、せっかくの美人さんが台無しになっちゃうよ?」
「ふふっ。私の容姿なんて、まどかの愛らしさに比べれば大したことないわ。
それに、私はまどかさえ傍に居てくれれば、それでいいの」
「うんもう、ほむらちゃんったら……」
「あら、私は本気よ?
なんなら----今すぐ証明して見せるわ」
そう言うとほむらはまどかの肩を抱き、目を閉じて、そっと顔を近づけていく。
二人の唇があと数センチのところまで近づいた時だった。
「お待たせ~。このさやかちゃんが売店の弁当争奪戦を勝ち抜いて今帰って、来た、ぞ……」
さやかから見て二人の様子は、またしてもほむらによって、まどかが襲われているように見えた。
「こんのぉぉ!! まどかに変なことするんじゃなぁぁぁい!!」
ほむらはさやかの大声に反応し、ドアの方へと振り返った。
すると、ほむらの視線の先には、今まさに弁当を振り上げて投げつけようとしているさやかがいた。
弁当の中身はミートスパゲッティだった。
衣類に付着すれば、シミになるのは絶対に避けられない。
「ちょっ!! ま、待ちなさいさやか!! 流石にそれは洒落にならないわ!!」
「いいや待たないね!! 喰ら----って、うぉ!」
ほむらは慌てて立ち上がり、さやかに駆け寄ると、振り上げられた腕を掴む。
半分冗談のつもりだったさやかは、ほむらの突進に驚き、バランスを崩す。
さやかの手から弁当が零れ落ちる。
三人同時に「あっ!」と叫ぶ。
スパゲッティの蓋が開く。
三人の口が開きっぱなしになる。
スパゲッティが容器から離れ、宙を舞う。
三人の視線が徐々に下へと向けられる。
べちゃっ、と音を立てて、床に落ちた。
三人は床に落ちたそれを、しばらく呆然と見つめていた。
*
「まったく、食べ物で遊ぶからこうなるのよ」
ほむらはそう呟きながら、さやかと共に床をモップで拭く。
まどかは代わりの弁当とジュースを買いに行った。
「えっ? なに? これ、あたしだけの責任なの?
その前に、まどかに変なことしようとしてたのはアンタじゃん」
ほむらはため息をついた。
「さやか。貴女はもう少し空気を読みなさい。
あそこは気を利かせて、そっと立ち去る場面でしょ?」
ほむらの言葉にさやかは、うぬぬ、と唸った。
何、この状況。
何故あたしの方が空気を読めないヤツみたいな扱いをされているんだ?!
おかしい! こんなの絶対おかしいよ!
----いや待て、落ち着くんだ。
そうとも。真に空気を読めているのはこのさやかちゃんなんだから、ここで怒るのは良くない。
ここで怒鳴ろうものなら、あたしの貫禄がなくなってしまうではないか!
ここは一つ、あたしが大人になるんだ。
「……それでぇ?
空気を読めるほむらさんは、まどかに一体何をしようとしていたのかなぁ?
ほぉら、お姉さんに経緯を頭から話してごらん?」
さやかの怒りを抑えた、大人になりきれていない作った口調に、ほむらは鼻で笑ってから言う。
「私は、貴女でさえ知りえないまどかの秘密を、直接本人から聞いていたのよ」
「ほうほうほう、まどかの秘密とな」
「ええ。まどかが何故『散歩』をするのか、その理由が分かったわ」
「そっかー。理由が分かったの----って、ええええええ?!!!」
驚きのあまり、さやかは怒りも忘れて叫んだ。
「何で?! どうやって?! 一体まどかに何をしたのさ?!」
「ふっ。秘密よ」
そう言いながらほむらは髪をかき上げる。
その仕草に、さやかは再び腹を立てた。
さやかはほむらの肩を強く掴むと、
「いいじゃんかよぉー!! 意地悪しないでさぁー!! おーしーえーてーよー!!!」
その細い体を激しく揺さぶりだした。
ほむらは揺さぶられるまま、激しく首を振られる。
「ち、ちょっと、や、やめ、やめて、話す、話すから……うっ……」
あまりの気持ち悪さにほむらが口に手を当てたところで、ようやくさやかは手を離した。
ようやく開放されたほむらは、一度深呼吸し、ベットに腰掛けると、手短に説明を始めた。
さやかは椅子に座り、ほむらの話に耳を傾けた。
「ふうん……夢、ねぇ……。
こりゃあ、確かに他人には言えないよねぇ」
普通にこんな話されたら笑っちゃってたかもね、とさやかが言う。
もし笑ったら一生恨まれるでしょうね、とほむらが返す。
「なんでほむらには話してくれたんだろ? あたしにはそんな話、してくれなかったのになぁ……」
さやかは難しい顔で腕を組み、呟くようにそう言った。
「でも、実際に何の脈絡も無く、『夢を見ました。だから街を歩き回ります』なんて言われたら、『何この人、頭おかしいんじゃない?』と思うでしょうし、言ってる本人も『頭おかしい人だと思われるよね』と考えるでしょう。
その点私はまどかと出会ってすぐ、電波な女を演じていたから。
ああ、こんな電波入ったヤツになら、なに話しても大丈夫だな----と、まどかは考えたんだと思うわ」
「……もしかして、それ、分かっててやったの?」
さやかは驚愕の表情で聞いた。
ほむらは一瞬考えた後、ふっ、と笑いながら髪をかき上げてからこう言った。
「いいえ。さっぱり分かってなかったわ」
「なーんだ。やっぱ、ただの偶然かぁ」
「それも違うわ。やはり私とまどかは、運命の赤い糸で結ばれていたのよ!」
「も、もう……。ほむらちゃんってば……。
からかわないでよ……」
そう言いながらまどかが、弁当と三人分のリンゴジュースを手に、モジモジとしながら部屋に戻ってきた。
そのまどかの様子にさやかは、あれ? 満更でもないのかな? と思った。
「およ? もしかしてまどか、本気でほむらのこと----」
「ふぇ?! ち、違うよ~! も、もう……さやかちゃんったら、なに言っているの!」
まどかのこの発言に、ほむらは思わず背筋を伸ばしてまどかの言葉に耳を傾る。
まどかはベットの脇のサイドテーブルに買ってきた弁当とジュースを置くと、ほむらの隣りに座った。
「いやいや。なんというか、まどかはほむらに恋しちゃったのかなぁと思って」
「違うってば~」
まどかのこの発言に、ほむらは小さくため息をついて肩を落とした。
「でも----気にはなってる、かな?」
まどかのこの発言に、ほむらは再び背筋を伸ばした。
まどかが微笑みながらほむらの頭を撫でる。
ほむらは表情を緩ませ、鼻息を荒くした。
さやかは、ほむらのことを極力見ないようにしながら、まどかに尋ねる。
「へぇ。そりゃまた何で?」
「……んとね、夢の中で会ったことがあるような……」
「……何となく思ったのだけど、もしかしてさっき話してくれたあの子のこと? 私に似ているとかかしら?」
さやかはまどかの言葉を、笑い飛ばしたりはしなかった。
まどかから直接聞いてはいないが、ほむらのこの反応から、まどかの『散歩』の原因となった夢のことを言っていると察したのだ。
「……うん。見た目も、喋り方も、声のカンジも、全部。
まるで、夢の中から出てきたみたいにそっくりだよ」
「…………」
ほむらは考える。
まどかの夢に出てきた子と私がそっくりだと言ったけど、やはりというべきか、ただそっくりなのではなく、私本人なのではないか?
まどかが夢だと思っていることは、実は前の時間軸での記憶じゃないだろうか。
そう考えると辻褄が合う気がする。
やはり、さやかの言っていた映画の記憶は、前の時間軸のものだったのだ。
正直なところ、どのような理由、どのような理屈なのかはさっぱり分からない。
でも、実際に目の前のまどかとさやかは、確かに前の時間軸の記憶を持っている。
それだけは確かのようだ。
ならば----
「そんなにそっくりなの? じゃあ----」
ほむらはまどかに微笑みを向ける。
「----私で、その子に謝る練習をしてみたら?」
「練習?」
まどかは首を傾げる。
ほむらは説明を始める。
「そうよ。夢の中のその子は、まどかが忘れているだけで現実にいるかもしれない。
例えそうでなくても、姿が似ている私に言うことで、少しはまどかの気が楽になるかもしれないわ」
さやかは、ほほぅ、と呟く。
「なるほどねぇ。
確かにほむらの言ったとおり、話せば楽になるってことはあると思うよ」
「そ、そうかな……」
ほむらは、不安そうなまどかを優しく諭す。
「大丈夫よまどか。これはあくまで練習。
ここには私達しかいないのだから、失敗したって笑う人はいないわ。
だから、そんなに不安がらなくてもいいのよ」
さやかもほむらに続く。
「そもそも、謝るのに失敗なんて無いと思うけどねぇ。
どんな言葉にしても、どんな行動にしても、思いが相手に伝わればいいんだからさ」
ほむらとさやかの説得に、まどかは頷いた。
「……うん。じゃあ、ちょっとだけやってみようかな……」
ほむらとまどかは立ち上がり、互いに向かい合う。
まどかは何か言わなくちゃ、何か言わなくちゃ! と思い、考える。だが、何も浮かんではこなかった。
でも、口は何かを言おうとして、モゴモゴと動く。何も思いつかないまどかは、口の動くままに任せることにした。
「……ほむらちゃん、えっと----」
まとかは俯き、上目遣いになる。そして、
「----や、やく、約束、わたし、ほむらちゃんとの約束守れなくって、その----ごめんなさい……」
と言いながら深々と頭を下げた。
ちゃんと言葉に出来ていた。
「ええ、まどか。私は----」
後はほむらが適当に返事をして、練習はあっという間に終わり----のはずだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……まどか?」
だが、ほむらの言葉が届いていないのか、まどかは謝罪の言葉を繰り返し発していた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「ちょっ、まどか?! どうしたのさ?!」
さやかもこの異様な事態に身を乗り出した。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
気がつけば、まどかは涙を流していた。
それはもはや演技や練習といったものを飛び越えた、本心からの謝罪の言葉であった。
とにかくやめさせなければ! ほむらとさやかは同時にそう思った。だがどうすればいいのか----
さやかは戸惑い、一瞬前に出るのが遅れた。
ほむらは迷うより先に一歩踏み出し、そして----
「まどか----もういいの。もう謝らなくていいのよ」
----正面からまどかを抱きしめた。
それでも謝り続けるまどかに、ほむらは優しく話しかける。
「まどかは何も悪くないわ。
だから、もう自分を責めるのは止めてちょうだい」
ほむらの言葉に、まどかはようやく謝るのを止める。そして、恐る恐る顔を上げる。
目が合うと、ほむらは再び優しく微笑みかけ、まどかの頭を撫でる。
「ねぇ、まどか。
毎日毎日、こんなクタクタになるまで歩き続けて……。
今まで、とても大変だったでしょう。
今まで、とても疲れたでしょう。
今まで、とても辛かったでしょう。
もう十分よ。貴女は、もう十分に罪を償ったわ。
例え『夢の中のあの子』が許さなくても、例えカミサマが許さなくても----私が、貴女を許すわ」
まどかは、体の奥底から瞳へと、何かが汲みあがってくるのを感じた。
頬を何かがつたう。
手で拭ってみると、それは涙だった。
まどかの瞳から、大粒の涙が零れ出ていたのだ。
まどかの意思とは関係なく、まどかの体は動いていた。
気がつけば、まどかの方からほむらを抱きしめていた。
「ああぁああ!!! うああぁぁああ!!! あああぁぁああぁぁあぁぁあ!!!」
同時に、まどかは泣いていた。
人目を憚ることなく泣いていた。
訳も分からず泣いていた。
ただ、自分の中から、うれしいでもなく、悲しいでもなく、果てしなく重い何かから開放されたような、何ともいえない感情が次から次へと湧いてくる。
そして涙が、感情が、今まで溜まりに溜まっていたものが、堰を切ったかのように溢れ出していた。
まどかは泣き続けた。
今まで抱えていた不安や焦燥感が、涙と一緒に流れ出るのを感じていた。
なぜかまどかの脳裏には、自分の中に居る内なるもう一人の自分が、満足そうな表情で消えていくイメージが浮かんでいた。
*
それから数分が経過した。
まどかの泣き声が止んだのを見計らい、ほむらが口を開く。
「……どう? 落ち着いたかしら?」
そう尋ねてくるほむらに、まどかは抱きしめる腕の力を緩めながら、
「うん……。ごめんね、心配かけちゃって……もう、大丈夫、だから……」
呟くような声で答える。
まどかは、声や表情とは裏腹に、とてもすっきりとした気分であった。
ほむらとまどかの体が少し離れる。
まどかの顔を覗き込むと、鼻水と涙で汚れ、目が真っ赤に腫れ上がっていた。
それを見たほむらが辺りをキョロキョロと見渡しだした。
さやかはほむらが何をしようとしているのかを察し、近くに積んであったタオルを手に取り、そしてほむらに渡す。
「ほら」
「あら、ありがとう」
ほむらはさやかからタオルを受け取ると、
「まどか。ちょっとだけ目を瞑っててちょうだい」
優しくまどかの顔を拭いた。
「ん……ふぁ……」
「あ、ごめんなさい……痛かったかしら?」
「そ、そんなことないよ!」
まどかの表情は、顔を拭かれるのが恥ずかしかったのか、赤みがかっていた。
さやかがそれを指摘すると、まどかの顔の赤みが増した。
ほむらはわけが分からず、首を傾げた。
さやかが思い出したように言う。
「そういえばまどか、今日はいいの?」
「……へ? 何が?」
まどかは、何のことか分からず、さやかに聞き返す。
「いや、いつもだったら『散歩』してる時間じゃん。
もうとっくに過ぎてるよ。
あんなに毎日やってたのに、今日はいいのかなって思ってさ」
まどかは壁に掛けてある時計を見る。
確かに『散歩』の時間を大分過ぎていた。
だが、いつもは感じる『歩かなきゃ』という不安感を、今日は感じない。
それどころか、ここを離れたくないという気持ちでいっぱいだった。
「……んっと……何だか今日はそんな気分じゃないなって。
それよりもここでお喋りしてるほうが楽しいし、大切なことのような気がするの」
「あら、そうなの?
せっかく外に出る許可を取ったのに」
「外? ほむらちゃん、外に出ても大丈夫なの?」
「ええ、病院の庭限定なのだけど。
でも、公園みたいになってて広くて開放感があって、気持ちいいらしいわ」
「わぁ! いいなぁ!
ねぇ、明日は外でお喋りしようよ!」
「ええ! まどかさえよければ、公園だろうと学校の屋上だろうと、地の果てまでだろうとついていくわ!」
ほむらの興奮した姿を見たさやかが呟く。
「……なんかほむらってさ、ホントにどこまでもまどかについていきそうだよね」
「ふっ。愚問ね。ついていくに決まってるじゃない」
ほむらは即答した。
さやかはため息交じりに言う。
「……ほむらってさ、なんてゆうか----犬みたいだよね。それも、よく飼いならされたヤツ。
飼い主のまどかにどこまでも尻尾振りながらついていって。
そんで撫でられれば喜んで。
きっとこの調子なら、外敵が来れば吠え立てるんだろうし----」
ここまで言ってさやかは、ほむらのとても驚いた表情に気がついた。
「----ああっ! 誤解しないで!
別に貶してる訳じゃないんだって!
なんか子犬みたいで可愛いなって思ったんだよ!
それだけなんだってば!」
自身の発言でほむらが傷ついたと思ったさやかは、慌てて弁解をする。
ほむらは、別に貶してるなんて思ってないわ、と返した。
事実、ほむらはそう思っていない。別の理由がある。
ほむらが驚いた表情を浮かべたのは、犬みたいと言われて、妙に納得している自分自身に対してであった。
さやかの言ったとおり、まどかに尻尾振りながらついていくだろうし、撫でられれば嬉しいし、外敵----特にキュゥべえが現れようものなら速やかに排除するだろう。
ほむらは思う。
犬みたい、か。
確かに、今までの自分の行動を振り返ってみると傍から見たら……まるで犬のようね……。
でも----
それでも----
そうだとしても----
----まどかは絶対に守る。守ってみせる。
犬畜生だろうが何だろうが構わない。
それでまどかを守れるのなら、喜んでなってやろうじゃないか。
犬は犬でも、まどかを守る番犬になってやる!
「……ほむらちゃん?」
「!! な、なにかしら?」
まどかの呼びかけで、ほむらは自分の世界から帰って来た。
まどかは不安そうな表情でほむらを見つめていた。
ほむらがさやかに対して怒っている、と思っているのかもしれない。
「ほむらちゃん、ちょっとそこに座って?」
まどかはベットを指差す。
「え? ええ。----これでいいかしら?」
ほむらは、言われたとおりベットに腰掛ける。
まどかはほむらの後ろ側に回ると、膝でベットの上に立ち、ほむらの肩を揉みだした。
「まどか?」
「ほら、リラックス、リラックス。
そんなに肩に力入れてると、凝っちゃうよ?」
「……私、そんなに緊張しているように見えたのかしら?」
「うん、もの凄く」
即答で言い切られてしまった。
それほどまでに分かりやすく、私は表に出してしまったのだろうか。
まどかは続けて話す。
「何かこう、重大な決心をしたカンジに見えたよ。何を考えてたの?」
「……犬になる決心をしていたのよ」
「……犬?」
脈絡無く出てきた言葉に、まどかは首を傾げる。
「そうよ。貴女を守る為なら、私は犬にだってなってみせるわ」
「……わたしを、守る……?
えっと、よくは分からないけど、ほむらちゃんは犬になるの?
じゃあね、とりあえず----」
まどかはほむらの肩を揉む手を離し、手のひらを向ける。
ほむらは振り返り、その手のひらを不思議そうに見る。
まどかは笑顔をほむらに向けた。
「----ほむらちゃん、お手!」
ほむらは差し出されたまどかの手のひらの上に軽く握った拳を乗せて、
「わん!」
と言った。
ほむらの行動には、迷いが一切無かった。
「うわぁ……」
一人、さやかがそう呟いた。
その後も繰り広げられるさまざまな芸に、さやかはその場に居づらくなった。
そっと音を立てないよう、静かに部屋を後にする。
ドアを閉める時だった。
「きゃっ! くすぐったいよ! あっ! そんなとこ舐めちゃダメ! ダメだってば! コラ! メッ!」
「わん! わん! わん!」
なにやら不穏な会話を聞いたような気がした。
さやかは、
「……あたしは何も聞いてない。何も聞いてないぞ。
聞いてないったら聞いてないんだからね……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、ドアを閉めた。
*
翌日。
病院の庭の木の下に、まどかとほむらが並んで座っていた。
天気は見事に晴れ渡っていた。
「ん~~。気持ちいいね~」
「ええ、本当にね」
「さやかちゃん、遅いね」
「きっと、もうすぐ来るわよ」
「ふぁぁ……何だか暖かくって、横になったら眠っちゃいそうだよ」
「実は私もよ。
----ねぇまどか。さやかが来るまでにどちらが起きていられるか、勝負してみない?」
「いいよ。えへへ、負けないよ~」
「じゃあ同時に横になるわよ。
----いい? せ~~のっ!」
ほむらの合図で、二人は仰向けになった。
木の隙間から見える青空は、とても綺麗であった。
風が優しく頬を撫で、鳥の囀りが聞こえ、葉っぱの隙間から差す太陽の光が二人を照らす。
このままではすぐに眠ってしまうと思ったほむらは、今後のことを考えることにした。
巴マミのこと。
佐倉杏子のこと。
千歳ゆまのこと。
呉キリカのこと。
美国織莉子のこと。
キュゥべえのこと。
魔法少女の契約のこと。
ソウルジェムの秘密のこと。
魔女の正体のこと。
ワルプルギスの夜のこと。
パッと思いつくものだけでも、これだけの考えなければならない事柄がある。
そしてこれらを全てを、一ヶ月以内に解決しなければならない。
これまでの時間軸では、立ちはだかる壁の高さに、時間を巻き戻すたびに気が遠くなる思いであった。
だが、今回は違った。
この時間軸は、いつもと違う。
どんなに高い壁も、飛び越えられる。
この辛く長い繰り返しの日々は今回で終わる----そんな予感がした。
明確な根拠があるわけではない。
不確定なものも多い。
越えるべき壁は相変わらずとても高い。
だが、不思議と不安には感じなかった。
*
ほむらとまどかは夢を見ていた。
それは、まるで童話の世界に迷い込んだかのような内容の夢であった。
まどかは舞踏会からの帰り道を、トボトボと歩いていた。
十二時が過ぎ、魔法が解けたまどかの姿は、灰を被ったみすぼらしい姿に戻っていた。
ようやく家に辿り着くと、膝を抱えて塞ぎこんだ。
何がいけなかったのだろうか。
どこが悪かったのだろうか。
”私”の容姿と佇まいは完璧だったはずなのに。
まどかは考えた。
ただひたすらに考えた。
今更何をしても遅いと分かっていても、考えた。
そして、ようやく気がついた。
最初から----魔法を掛けて貰う以前から、ほむらは自分を見ていてくれていたということに。
まどかは後悔した。
懺悔した。
絶対に謝罪をしようと心に決めた。
だが、どうしたら伝えられるかが分からなかった。
涙が出てきた。
罪を償うことすら許されないのかと絶望した。
気がつけば泣いていた。
声をあげて泣いていた。
涙が枯れ果てて、喉が潰れるほどに泣いていた。
果てしない時間が過ぎた。
未だ泣き続けるまどかの家の戸が叩く者がいた。
ほむらだった。
ほむらはまどかを抱きしめた。
涙を拭った。
そして、いつの間にか手に持っていたガラスの靴を差し出しながら、こう言った。
----ああ、まどか。このガラスの靴を履いてみてくれないかしら。
ほむらはまどかにせがんだ。すると、
----うん。”わたし”でよければ喜んで。
まどかはそれに応え、ガラスの靴を受け取り、そして履いた。
靴はまどかの足にピッタリだった。
----ようやく見つけたわ、まどか。
----えへへ。今までごめんね、ほむらちゃん。
二人は抱き合った。
いつまでも、いつまでも、抱き合っていた。
*
「いやぁ、完全に寝坊だわー。もう二人とも外に居るのかな?」
遅れてきたさやかが、ほむらとまどかの姿を見つけ、駆け寄ってきた。
「あっ! いたいた! お~~い! お待たせ----」
二人は、さやかが近づいても動く気配を見せなかった。
「----って、あれぇ、二人とも寝ちゃってる?
まったく、二人並んで気持ちよさそうに昼寝なんて、羨ましいねぇ。
おっ! そ~~だ! へへっ!」
さやかは何かを思いついたようで、木の枝を拾うと、笑顔で地面に落書きを始めた。
「出来たぁ! さあて、二人とも、起きたらどんな風に反応してくれるのかな~」
さやかはケータイを取り出すと、写真を一枚撮った。
向かい合って幸せそうに眠るほむらとまどかの背後には、大きな翼が描かれていた。
568 : 1[saga] - 2012/03/04 16:14:14.63 7s5pwasZ0 370/370
これにて投下終了となります。
今までこのSSを読んで、支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。
ではまた、どこかのSSスレッドで。