その夜、わたしは自分の部屋の窓から、星を眺めていました。
もう春ですが、夜ともなると、まだ結構風が冷たいです。
える「はぁ……」
今日は色々なことがありました。
摩耶花さんに、好きな人の話をしました。
折木さんと、ちょっとした言い合いをしました。
少し……、たくさん、泣きました。
そして……、そして……。
いけませんいけません! あのことを思うと、どうしても顔がにやけてしまいます。
誰も、見ていませんよね……?
元スレ
奉太郎「38度9分か……」
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わたしは、顔を横に振って、元の顔を取り戻します。
……だ、ダメです。にやけずにはいられないです。
……だって、だって折木さんが、わたしのことを好きだって……。
……わたしに、か、かの、彼女になって欲しいって……。
もっとも、そこに至るまでには、紆余曲折あったのですが……。
でも、もうそんなことは、どうでもいいんです。
改めて、わたしは折木さんのことが好きです。
わたしの胸の中には、折木さんへの想いが溢れて、穏やかで、幸せな気持ちでいっぱいでした。
今夜はよく眠れそうです。
える「おやすみなさい……」
わたしは、誰へともなく声を掛けると、布団をかぶりました。
夜。風呂から上がると、俺は自分の部屋で、今日のことを反芻していた。
今日、俺は千反田に自分の気持ちを伝え、千反田はそれを受け入れてくれた。
もっとも、最初に言ったのは千反田の方だったのだ。
俺の至らなさのせいで、千反田に言わせてしまった。
それを聞いて、俺だけ言わずにいることは出来なかった。
奉太郎「……彼女、か」
今日、俺と千反田の関係は、新たな局面を迎えた。
それはとりもなおさず、俺の省エネ生活に変化の節目が訪れている、ということでもあった。
今日の、千反田とのキス以来、俺を不思議な高翌揚感が包んでいる。
俺は、変わらなければならない。
奉太郎「ははっ」
変わる? 俺が?
そんなこと、出来るのだろうか。
この省エネ主義の権化たる、折木奉太郎が変わるだって?
だが千反田の為なら、あるいは、と思った。
こんな気持ちは、前にも感じたことがある。
そう、あれは千反田に傘を差した、生き雛まつりのときだったか……。
まぁ、焦る必要はないよな。必要とあらば、ゆっくりと変わっていけばいいんだ。
きっかけは訪れた。あとは俺と千反田次第だ。
喉が渇いたので、俺は何か飲み物を探しに、台所へ下りて行った。
次の日の朝、わたしは、いつもより少し早く登校して、正門前に立ちました。
もちろん、折木さんが来るのを待つためです。
特に用事があるわけではないのですが……。
一刻も早く、折木さんに会いたかったのです。
折木さんは、こういうこと嫌がるかな、とも思ったのですが、自分の気持ちを優先しちゃいました。
……少しくらいなら、許してくれますよね?
だんだんと、登校してくる生徒が増えてきました。
あっ、あれは摩耶花さんです。
摩耶花「おっはよー、ちーちゃん」
える「おはようございます、摩耶花さん」
摩耶花「ね、ね。昨日はあれから何か進展あった?」
える「ええ。そ、その……」
人目もあるので、言いよどんでしまいます。
摩耶花さんは、そんなわたしの様子で察してくれたのか。
摩耶花「うん。じゃ、また今度訊くから。絶対聞かせてよね!」
摩耶花さんには、昨日お世話になったので、是非お話ししたいです。あっ、もちろん福部さんにも。
える「はい、必ず」
摩耶花「折木の奴待ってるんでしょ。じゃあね!」
ズバリ言い当てられ、わたしは紅くなってしまいました。
始業10分前。折木さん、まだ来ません……。
もしかして、わたしより先に登校しているのでしょうか?
……いえ、今までの経験から言って、それは多分ないでしょう。
でも、もう来ていてもいい頃なんですが……。
始業5分前。流石にもう限界です。これ以上待っていたら、遅刻になってしまいます。
そう思って、靴箱に向かおうとしたとき、正門に向かって、走ってくる人影が見えました。
あれは……、福部さんです! 福部さんはわたしに気付くと、走るスピードをさらに上げました。
里志「おはよう、千反田さん。ハァ、ハァ、どうしたの? こんなところで。ハァ、ハァ……」
える「おはようございます、福部さん。その……」
福部さんは、ニンマリと笑みを浮かべると。
里志「ははあ、ホータローだね? あれ、まだ来てないの? 遅刻かな。しょうがないよね、ホータローもさ」
うう、福部さんまで……。
里志「さっ、千反田さん。僕たちまで遅刻しちゃ、シャレにならないよ」
そうでした。
える「急ぎましょう! 福部さん!」
こうしてわたしたちは、2年の教室へ走るのでした。
昼休み。わたしは、折木さんの教室を訪ねるべきか、少し悩んでいました。
あれから折木さん、学校へ来たのでしょうか? 気になります。
そうこうしていると、(千反田さん)。わたしを呼ぶ声が聴こえました。
教室の出入口を振り向くと、福部さんが立っていました。
える「どうしたんですか? 福部さん」
里志「うん、さっきホータローの教室に行って訊いてきたんだけどね。
ホータロー、今日は病欠みたいなんだ。なんでも、風邪を引いたらしい」
える「まあ」
里志「うん、用事はそれだけなんだけどね。千反田さん、ホータローのこと気にしてたみたいだったから。
える「うう……」
わたしの顔は、紅く染まりました。
里志「アッハハ、ホータローも果報者だよね。こんなに千反田さんに想われてさ」
える「も、もう、福部さん!」
里志「うんうん、それじゃあね。千反田さんも風邪には気を付けてね」
える「あっ、あの、福部さん。ありがとうございました」
わたしはお辞儀をして、お礼を言いました。
福部さんは、手をヒラヒラさせて去っていきました。
それにしても風邪、ですか。折木さん、大丈夫でしょうか?
そのとき、わたしの頭に閃くものがありました。
ピピピピッ ピピピピッ
奉太郎「37度7分か……」
朝に比べれば、熱はだいぶ下がった。気分も、ずいぶん楽になった気がする。
とは言え、まだ結構あるな。まあ、寝ていれば、夜までには治りそうだ。
喉が渇いた。何か冷たいものを飲もうと、ベッドから這い出して、階下に下りる。
スポーツドリンクを飲みながら、時計を見る。
奉太郎「もう4時半か……」
さて、もう一眠りするか。と思ったところで、『ピンポーン』。玄関のチャイムが鳴った。
何だ? 客か?
今、家には俺しかいない。出ないわけにもいかないだろう。
俺は玄関に向かい、
奉太郎「はい、どちら様ですか?」
そう言いながら、迂闊にもドアを開けた。
一瞬状況が飲み込めなかった。
ドアを開けると、千反田が立っていたのだ。
ん? 何で千反田が俺の家にいるんだ?
千反田はペコリとお辞儀をすると、言った。
える「こんにちは、折木さん。お加減いかがですか?
ちょっと心配だったので、お見舞いに伺いました」
奉太郎「ああ……」
そうか、見舞いに……。何だか嬉しかったが、そんなことはおくびにも出さない。
おっと、いかん。
奉太郎「そうだったか。まあ、せっかくだから上がっていってくれ。何も出せないけどな」
える「はい。それでは、少しお邪魔しますね」
とりあえず、千反田をリビングに招き入れる。
える「お家の方はいらっしゃらないんですか?」
奉太郎「姉貴は大学、親は仕事だ。さっきまでずっと寝てたところだ」
える「顔色は良さそうですね。……」
千反田の白い手が伸びてくる。不覚にもドキッとしてしまった。手はそのまま、俺の額に当てられた。
ひんやりして気持ちいい……。
える「……でもまだ少しありますね。安静にしていた方がいいでしょう」
奉太郎「少しくらい平気さ。これでも朝に比べれば、ずいぶん良くなったんだ」
える「でも、油断は大敵です。わたし、何かして上げられないかと思って来たんですけど……」
その気持ちだけでも嬉しい。もちろん口には出さなかったが。
える「そうです! 折木さん、お腹は空いていませんか?」
実は、朝から何も食べていないので、かなり空いている。だが……。
える「よろしければ、何かお作りします!」
近い、近いぞ千反田。風邪がうつったらどうするつもりだ。
俺は横を向いて咳払いし、言った。
奉太郎「実のところ、かなり空いているんだが……。その、いいのか?」
える「はい! そのために来たんですから!」
奉太郎「わかった。じゃあお願いする」
千反田は、パァッと顔を輝かせた。
俺は、簡単に食材や調理器具、食器の場所の説明をした。
える「それでは、折木さんはお布団で寝ていてください。出来上がったら、お持ちしますから」
奉太郎「ん、わかった」
それにしても、千反田はやたらと嬉しそうだ。
こちらとしても、千反田の機嫌がいいのなら、それに越したことはない。
俺は足取りも軽く、階段を上っていった。
ベッドに潜り込み、俺は少しまどろみながら、千反田のことを思っていた。
まさか千反田が、見舞いに来てくれるとは。おまけに飯まで作ってくれるなんて。
正直、ありがたさが身に染みる。彼女っていいものだ。
いや、千反田は彼女だからじゃなく、千反田だから見舞いに来てくれたのかも知れない。
同じ古典部仲間なのに、里志や伊原とはえらい違いだ。
もっとも里志が見舞いに来ても、あまり嬉しくはないな……。
トントントン……。
誰かが階段を上がってくる音が聞こえる……。
おっと。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
俺はベッドから抜け出して、部屋のドアを開ける。
奉太郎「千反田、こっちだ」
千反田は俺の姿を認めると、嬉しそうに駆け寄って……、は来なかった。
手にはお盆を持っている。駆けて来たら危ない。
える「失礼します……」
千反田は少し遠慮がちに、俺の部屋に入ってきた。
える「ここが折木さんのお部屋ですか……」
千反田は、物珍しそうにキョロキョロしている。
別に、見られて困るような物は置いていないが、あんまり見られると恥ずかしい。
奉太郎「な、なあ千反田……」
える「ああっ、すみません! ……えーと、お粥です。
お供も3種作りましたので、お好みでどうぞ」
奉太郎「ああ……、それじゃあ」
早速手をつけようとすると。
える「あの……、よかったら、わたしが食べさせてあげましょうか?」
奉太郎「……」
それはつまり。
奉太郎「い、いや、いい。大丈夫だ。自分で食う。断固辞退する。い、いただきます!」
える「そうですか……」
千反田は少し残念そうだった。
千反田のお粥は、たいそう美味いものだった。まさかお粥がこうも美味いとは。
千反田、侮り難し。流石農家の娘。
千反田は、さっきから俺の食べる様を、キラキラした瞳で見つめてくる。
奉太郎「……欲しいのか?」
える「いえ、そういう訳では」
俺は少し考えて、言った。
奉太郎「美味いよ。流石だな」
える「あ、ありがとうございます!」
千反田はホッとした表情を見せた。そういうことだったか。
奉太郎「ごちそうさま」
える「お粗末様でした。それじゃ、片付けてきますね」
奉太郎「ああ、そのままで構わないぞ?」
える「いいえ、そういうわけにはいきません。すぐ片付けてきますから」
そう言うと、千反田は食器を再びお盆に載せて、台所へ下りていった。
奉太郎「あーーー」
俺は伸びをした。退屈だ。千反田がいるのにいない時間がこうも退屈とは。
もはや俺は、千反田無しでは生きられない体になってしまったようだ。
などと、くだらないことを考えていると。
トントントン……。
お、来た来た。
カチャ……。
ドアが開き、千反田が少し控えめに顔を覗かせた。
える「折木さん、起きてます?」
奉太郎「ああ、起きてる。入れよ」
千反田は、部屋に入ってくると、ベッドの横にちょこんと腰掛けた。
える「折木さん……」
千反田が突然、神妙な面持ちになる。
なんだろう? 俺の背筋が自然と伸びる。
千反田は、そのまま顔を近づけてくる。おい、これは。
まさか。待て千反田。だが言葉が出ない。
その間にも千反田の顔はどんどん近づいてくる。
既に、千反田の狭いパーソナルスペースの内側に入っている。俺は反射的に目を閉じた。
次の瞬間。
額に冷たいものがピトッと触れた。
あ……、気持ちいい……。
える「うーん、やっぱりまだ少しありますね……」
千反田の声が、すぐ近くから聴こえる。
ほどなくして、千反田の額は、俺から離れていった。
奉太郎「あ……」
おっと。名残惜しさに、つい声が漏れてしまった。
える「では折木さん。熱が引くまで、安静にしていてくださいね」
奉太郎「あ、ああ」
千反田が首を傾げる。
える「今の折木さん、何だかずいぶん慌てていたように思います。どうしてですか?」
うっ、来たか。
奉太郎「ああ、時間も大分遅くなったな。そろそろ帰らないと、家の人が心配するんじゃないか」
える「話を逸らさないでください。どうしてですか? わたし、気になります」
奉太郎「気にするな。ちょっとした、若気の至りってやつだ」
える「若気の至り……。うーん……」
千反田は考え込んでいる。いいぞ。そのまま気付くな。―――だが。
千反田は、わかったと言うように、あっ、と顔を上げる。
そして、嬉しそうに言った。
える「もしかして……、キス、されるって思っちゃいました?」
ズバリ、言い当てられ、俺は顔が紅くなるのを感じた。くそー、千反田のくせに。
奉太郎「知らんっ。もう寝るっ」
俺は頭から布団を被った。千反田のクスクス笑う声が聞こえる。
える「あの、折木さん。……しますか?」
俺は飛び起きた。
奉太郎「何だって?」
える「ですから、その……、キス……、……しますか?」
今度は千反田が紅くなって俯いてしまう。
奉太郎「……いや、お前に風邪をうつすわけにはいかないしな」
える「少しくらいなら、大丈夫だと思います。それに……」
それに?
える「……それに、折木さんのなら、わたし、うつっても平気です……」
奉太郎「……」
こ、こいつは……。恥ずかしい台詞を臆面もなく……。俺の方が恥ずかしくなるじゃないか。
奉太郎「いや、やっぱり止めとこう。本当にうつしたくないんだ。
俺が治ったら、その、しようか」
千反田は少し残念そうに笑った。
える「はい、お気遣いありがとうございます」
える「それじゃ、わたしそろそろ帰ります」
奉太郎「ああ、玄関まで送るよ」
える「そんな、折木さんは寝ていてください」
奉太郎「いや、送る。少しくらい大丈夫だ」
える「でも……」
押し問答の末、千反田が折れた。
える「それじゃ、お邪魔しました」
奉太郎「ああ、気を付けて帰れよ」
える「折木さんもお大事に。では、失礼します」
千反田が、玄関のドアから門のところまで歩いてゆく。
その後姿に、俺は声を掛けた。
奉太郎「千反田!」
千反田が振り向く。
奉太郎「今日は来てくれて助かった。その、嬉しかったよ。ありがとう」
千反田はにっこり微笑んだ。
える「はい、明日は学校で会えるといいですね」
夕日に照らされたその笑顔に、俺は見とれていた。
次の日。俺はいつもの道を、いつものように歩いていた。
風邪は完治した。これも千反田のおかげだろうか。
突然、何者かに背中を思いっきり叩かれる。こんなことをするのは……。
奉太郎「里志か……」
里志「おっはよー、ホータロー!」
奉太郎「おはよう。やけにテンションが高いな」
里志「昨日はお楽しみでしたねぇ!」
奉太郎「何だそれは」
里志「あれ、千反田さんがお見舞いに行かなかったかい?」
知っていたのか。と言おうとして、千反田なら、来る前に部室に顔を出して、断るくらいするだろう。
里志や伊原が知っていても、何の不思議もない。そう思った。
奉太郎「ああ、来たな」
里志は一人でうんうん頷いている。
里志「そうだろうとも。で、何かあったかい?」
奉太郎「千反田が飯を作ってくれたな」
里志「そうかそうか。千反田さん、料理が上手いからね。いいなぁ」
俺は密かに笑う。こいつは俺から何を引き出したいのだろうか。
里志「ホータロー……。千反田さんは、ホータローのことが好きなんじゃないか、って思うよ」
奉太郎「そうかもな」
俺は曖昧な返事をする。こういう話をするってことは、こいつはまだ俺たちの事を知らないようだ。
まあ、いずれ話すこともあるだろう。今は多くを語らないことにした。
里志「ホータローは、彼女の気持ちに応える覚悟、あるのかい」
もちろんある。と言おうとして、俺は言葉を飲み込んだ。
果たして本当にそうなのだろうか。
確かに一昨日、俺は千反田と結ばれた。いい加減な気持ちで言ったつもりは毛頭ない。
あれは俺なりの精一杯だった。だが、俺は千反田に、自分の気持ちをぶつけただけではないのか。
なるほど千反田は俺の気持ちを受け入れてくれた。
だが俺は、真に千反田の気持ちを受け止めたと言えるのだろうか?
里志「あっ、あれ千反田さんじゃないか」
俺の考えは、里志の言葉にかき消されてしまった。
見ると正門のところに千反田が立っている。
里志「おっはよう! 千反田さん!」
里志が手を振る。
える「おはようございます、福部さん。折木さんも」
奉太郎「……朝の挨拶運動?」
える「違います。……折木さんを待っていたんです」
奉太郎「俺を?」
里志はニヤニヤしながら、『それじゃあ、僕は』と言って去ってしまった。
える「それはそうと、お加減はもう大丈夫ですか?」
奉太郎「ああ、おかげさまでもう何ともない。お前にもうつってないみたいで、よかった」
千反田は嬉しそうに笑った。
奉太郎「俺を待っていたって言ってたが、何か用だったか?」
える「いえ、用というのではないんです……。ただ……」
奉太郎「ただ?」
える「一刻も早く、折木さんにお会いしたかったんです……」
奉太郎「……」
こ、これはかなり恥ずかしいぞ。
誰かに聞かれていないだろうかと、周りを見回すが、俺たちに注意を払うそぶりの生徒はいない。
奉太郎「……とりあえず、行こうか」
える「はい」
俺と千反田は、並んで歩き出す。こうして俺たちは、短い距離ではあるが、一緒に登校した。
俺はといえば、千反田を抱きしめたくなる衝動を抑えるのに、必死だった。
放課後、古典部の部室に行くと、既に摩耶花さんが来ていました。
える「こんにちは、摩耶花さん」
摩耶花「あ、ちーちゃん」
摩耶花さんは、スケッチブックを開いて何か描いていたようですが、それを閉じると。
摩耶花「ね、ね、ちーちゃん。折木もいないことだしさ。折木とのこと聞かせてよ」
える「え、うーん、そうですねえ……」
摩耶花「えー、話してくれるって言ったじゃなーい」
える「ふふっ、そうですね。はい、……結論から言えば、わたしたち、お付き合いすることになりました」
摩耶花「ええぇーーー!? そ、それホント!?」
える「はい、恥ずかしながら。でも、摩耶花さんの言った通りでした」
摩耶花「そ、そりゃあ折木がちーちゃんのこと好きかも、とは言ったけど……。
うわー、そこまで話が進んでるなんて、完全に予想外だわ」
そしてわたしは、一昨日のことから話し始めました。
摩耶花「……何よ、あいつ結局、ちーちゃんのこと泣かしてるんじゃない。
まったく、あの朴念仁ときたら……」
える「いいんです、摩耶花さん。わたしも悪かったんです」
摩耶花「だとしても! いっぺん締めてやらないと気がすまないわ」
える「やめてください! 摩耶花さん! そんなことされたら、わたし……」
摩耶花「じょ、冗談だってば、ちーちゃん。わたしが言葉以外で折木を締め上げることなんてないから!」
える「はい……」
摩耶花「でも……」
摩耶花さんは、ふっと優しい顔になると、言いました
摩耶花「よかったね、ちーちゃん」
える「はいっ!」
ガラガラと戸が開きます。
里志「やあ、摩耶花、千反田さん。ご機嫌いかが?」
える「福部さん、こんにちは」
摩耶花「ふくちゃん! ちょっと聞いてよ」
摩耶花さんの剣幕に怯んだ様子で福部さんが答えます。
里志「な、何かな摩耶花……」
摩耶花「ちーちゃんと折木、付き合ってるって!」
福部さんは一瞬眼を見開くと、わたしと摩耶花さんの顔を、交互に見つめました。
里志「へぇ……、そりゃあたまげたなぁ。ふうん、ホータローがねえ。千反田さんとねえ……」
そう言いながらも、福部さんはあまり驚いた様子はありません。
里志「いや、ここ数日の千反田さんの、ホータローに対する態度は、何か違うなとは思ってたんだ。
だけどそこまで二人の仲が進んでるとは、びっくりだよ。
しかしホータローがねえ……。うん、こりゃめでたいなあ……」
摩耶花「こうなったら、何かお祝いしてあげなくちゃいけないかしらね」
える「そんな! お祝いなんて、大袈裟です! わたしは、お二人の言葉だけで十分です……」
里志「おめでとう、千反田さん。よかったね」
摩耶花「改めまして、おめでとう、ちーちゃん」
える「あ、ありがとうございます……」
改めて言われると、照れてしまいます。
それにしても、折木さんはまだでしょうか。毎日顔を出す方ではないので、絶対来るとは言えません。
来るならもう来ていてもいいはずです。
その、出来れば来て欲しいな、と。
わたしは心の中で、折木さんが来ることを願いました。
いかんいかん。すっかり遅くなってしまった。
昨日までに提出する宿題があったのだが、休んだことですっかり忘れていた。
おかげで、今まで居残りをする羽目に陥っていたのだ。
俺は古典部の部室へ急いでいた。
……何を急いでいるんだ、俺は。
別に急ぎの用など、何もないはずだ。
やめた。ゆっくり行こう。俺のスタイルに合わない。
急いては事をし損じるとも言うしな。
だが、ゆっくり行くと決めたはずなのに、気持ちは何故か、先へ先へと行ってしまう。
俺は何を焦っているんだろう。
……いや、本当はわかっていた。
俺は千反田に、早く会いたいのだ。
だけどそのことに、何故か気後れを感じてしまっていた。
どうしてだろう。誰に遠慮することもないはずなのに。
今朝里志に言われたことが、尾を引いている。
俺に千反田の気持ちを受け止めることが出来るのだろうか。
千反田の気持ちを受け止めるとは、どういうことだろう。
具体的にどうすればいいんだろう。
そうこう考えているうちに、部室の前まで来てしまった。
ええい。考えても仕方ない。
俺は余計な考えを振り払うと、部室のドアを開けた。
千反田は、いた。
える「あ、折木さん」
千反田が嬉しそうに立ち上がる。
える「来てくれたんですね。今日はもう来ないかと思ってました」
奉太郎「ああ、来た」
える「あの、摩耶花さんと福部さんに、わたしたちのこと、お話ししました。よかったですよね?」
奉太郎「ん、ああ、まあいいんじゃないか」
そうか、話したのか……。いずれは知られてしまうことだ。
しかし今度会ったら何と言われるか……。
奉太郎「そういえば、里志と伊原は?」
える「お二人とも先ほどまでいらしたんですけど、ついさっき帰られました。
何でも今日は、お二人で買い物に行くとかで……」
奉太郎「そうか」
える「……それで福部さんったら、可笑しいんですよ。摩耶花さんに……」
千反田は先ほどから、楽しそうに話しかけてくる。
だが俺は、相槌もそこそこに、半ば別のことを考えていた。
こうしていると、千反田は実に楽しそうだ。
相手が俺だからだと思いたい。
だが、伊原や里志に向けられる笑顔と、今の千反田の笑顔。何か違いはあるのだろうか?
と言うより、俺はこいつを心から楽しませることが出来るのだろうか。
俺は話題の多い方ではない。
千反田は、そのうち俺に愛想を尽かしてしまうのではないだろうか。
そう思うと、胸が苦しくなる。
える「折木さん?」
千反田が顔をズイッと近づけてくる。
奉太郎「な、何だ」
える「……どうかしましたか?」
奉太郎「えっ」
どうかしたかとは、どういうことだろう。俺は少し考えた。
奉太郎「どうとは、どういうことだ?」
える「……今日の折木さん、何だか変です。わたしに対して、素っ気ない感じがします。
もしかして、何か考え事でもあるんじゃないですか?」
そこまで言われて、俺は気付いた。参ったな。態度に出ていたのか。
える「わたしでよければ、何かお力になれるかも知れません」
そうは言うが、一体どう言ったらいいものか。
奉太郎「あー、千反田。その、な……」
える「はい」
奉太郎「俺は……、何と言ったらいいのか……」
える「大丈夫ですよ。ゆっくり考えてください」
奉太郎「そうだな、俺は……、ぶっちゃけて言うと……」
える「言うと?」
奉太郎「千反田、お前とどう付き合っていいか、正直わからない」
える「……」
奉太郎「というより、どう向き合っていいか、わからない、と言った方が近いかな。
お前が俺のことを好きだと言ってくれて、嬉しかった。
それと、俺がお前を好きだって気持ちに、嘘偽りはない。これは確かなんだ。
だが……」
そこで俺は一旦息を吐いた。
奉太郎「だけど、俺はお前の気持ちにどう向き合ったらいいか、わからない。
どうやったらお前の気持ちに応えられるか、わからないんだ。
俺はお前を、抱きしめたいと思う。キスしたいと思う。繋がりたいと思う。
だけどそんなのは俺の勝手だ。
自分の欲望を満たすだけじゃ、相手の気持ちに応えるなんて、遠く及ばない」
える「折木さん……」
奉太郎「千反田は昨日、俺の見舞いに来てくれた。飯を作ってくれた。
嬉しかった。何より心が満たされる気がしたよ。
気持ちに応えるって、ああいうのを言うんだろうな。
だけど俺には、お前に同じ気持ちを味わわせてやれる自信がない。
……というか、その方法がわからないんだ。
……すまん千反田。俺には最初から、お前と向き合う真摯さが欠けていたのかも知れない。
覚悟がなかったんだ。好きって気持ちだけじゃ、どうにもならないこともあるよな」
一気にまくし立てて、息が苦しい。俺は大きく深呼吸した。
える「折木さん、そんなこと考えてたんですか……」
千反田は、深く息を吐くと話し始めた。
える「いいえ、折木さんは誰よりも真摯な人です。わたし、正直言って感動で胸が震えてしまいました。
この人は、そこまでわたしのことを考えてくれる。こんなにもわたしを思ってくれてるんだって。
わたしこそ、自分のことしか考えてなかったって、思い知らされました。
わたし、折木さんに告白されて、浮かれていました。それこそ折木さんしか見えなくなるくらいに。
昨日お見舞いに伺ったのだって、決して折木さんの為じゃないんです。
わたしが、したいことだったからしたんです」
奉太郎「千反田……」
える「でもね、折木さん。わたしは、折木さんがお見舞いが嬉しかったって言ってくれて、嬉しかったです。
そういうものじゃないでしょうか。
自分のためにしたことが、相手の感謝を呼んで、その気持ちが返ってくる。
素敵なことだと思います」
ううむ……。
える「わたしは、折木さんが自分勝手だとか、相手のことを考えないとは、思いません。
というか、折木さんはいつも他人のことばっかりです。
もっと自分にわがままになってください。その方がわたしも嬉しいんですから」
奉太郎「……そんなもんかな」
千反田は俺の頭を胸に抱いた。何か柔らかいものが顔に当たる。
える「そんなもんです。
わたしだって男の人とお付き合いするのは初めてですから、わからないことだらけです。
でも、折木さんとなら、色々なことをしたいなって思えます。
だから折木さんも……。わたしに色々求めて欲しいです。
折木さんの気持ちが、わたしの心を満たすんです」
俺はしばらく、その甘い感触に浸っていた。
奉太郎「ふあ~あ」
俺は大きく伸びをすると、向かいに座る千反田に声を掛けた。
奉太郎「ありがとう、千反田。何だかすっきりしたよ。憑き物が落ちた感じだ」
える「よかったです。わたし、いつ別れ話を切り出されるかと、ドキドキしてました」
奉太郎「実際半分くらい、そのつもりだったけどな」
える「も、もうっ! 折木さん!」
奉太郎「許してくれ。それだけ思い詰めてたってことだ」
俺たちはお互い笑い合う。
奉太郎「さっきお前に言われたことだが、俺なりに善処してみるつもりだ。
すぐには、結果は保証できないけど」
える「はいっ、十分です」
奉太郎「ときに千反田」
える「何ですか?」
奉太郎「キス、しようか」
える「え」
千反田の動きが止まる。
える「え、え、えええぇーーー!?」
千反田は真っ赤になってしまう。
なんだ、一昨日や昨日はそっちから提案してきたくせに。わからない奴だ。
奉太郎「嫌なら無理にとは言わん。ただ昨日約束したからな……」
える「え、あ、し、します、します。したいです!」
そうか、よかった。
奉太郎「千反田」
愛しい人の名前を呼ぶ。
える「あ、折木さん……」
俺は千反田の両肩に手を置き、千反田を引き寄せる。
そのまま俺と千反田の唇が触れ合った……。
俺は少し悪戯心を起こした。
ただ触れ合うだけのキスではつまらない。
有り体に言えば、千反田の口の中に、自分の舌を割り込ませたのだった。
える「! ん~っ、ん、~~~っ!」
千反田の驚きの声は、もちろん言葉にならない。
奉太郎「ん、むうん、ぴちゅ、ぺちゃ、んんっ」
千反田の拳が、俺の胸をポカポカ叩く。
俺は暴れる千反田の舌を、強引に自分の舌で押さえ込もうとする。
止めるわけにはいかない。こっちだって必死なのだ。
える「ん、ふ、んん~っ、ぴちゃ、ん、んん」
千反田がだんだんおとなしくなってきた。
やっと観念したか?
千反田の唾液は、ほのかに甘い味がした。
どちらのものとも知れない唾液が、二人の結合部の隙間から垂れていく。
そんなことが気にならないほど、俺は千反田の口内を舐めまわす行為に没頭していた。
美味しい。というか気持ちいい。キスがこんなに気持ちいいことだったなんて。
俺は千反田の上の歯茎を舐っていた。千反田はずいぶん歯並びがいいな。
千反田は、もう完全にされるがままになって、俺の行為を受け入れていた。
える「ん、ぱちゅっ、んちゅっ、んん、ぴちゅ」
だが流石に、疲れてきた。もういいだろうか?
名残惜しかったが、俺は千反田から唇を放した。
つーっと、二人の間に、糸が引いた。
える「あ……、折木……、さん……」
千反田は、ぽーっとした様子で俺を見つめている。大丈夫だろうか?
奉太郎「千反田大丈夫か。千反田? 千反田ーっ」
える「う……、うん……」
頬をペシペシ叩くが、芳しい反応はない。
俺はグデングデンになった千反田に肩を貸すと、椅子まで歩いていって座らせた。
少しやりすぎてしまったようだ。千反田には少々刺激が強すぎたかもしれない。
後で正気に戻ったら、ちょっと謝っておこう。
いつの間にか空には夕日が射している。
危うく破局を迎えそうになった(?)千反田と俺だが、今日は千反田に救われた。
俺は清々しい気分だった。これからの人生千反田に報いるためにも、頑張らなければ。
奉太郎「ははっ」
頑張るか……。実に俺らしくない言葉だ。だが今は。
少し。ほんの少しだけ、エネルギー消費の大きい人生に踏み出してみるのも悪くないかな、と思うのだった。
106 : ◆axh.jP1Twpjg[] - 2012/09/11 22:58:43.39 La4hkDje0 49/67お終い
書き始めは大真面目だったのだが、なんだかバカバカしい話になってしまった気がする…
ともあれ、お付き合いありがとうございました
以下、ちょっとしたおまけあり
おまけ
える「わたし、もうお嫁に行けまひぇん……」ビエーン
奉太郎(お嫁に行けないなら、婿を取ればいいじゃない。……とは言えないな)
奉太郎「なに、千反田なら、いくらでも嫁の貰い手は見つかるさ」
える「いやです」グスッ
奉太郎「え?」キョトン
える「折木さんじゃなきゃ、いやです」キラキラ
奉太郎「そ、それは光栄だ……」タジタジ
える「というわけで折木さんっ! 責任とってくださいね!」ギュッ
奉太郎「……///」
おまけ2
次の日―――
摩耶花「床に何か垂れてる」
摩耶花「こ、これはまさかえっちなお汁!?(注:よだれです)」カアア
摩耶花「じゃ、じゃあちーちゃんと折木、あの後……」モジモジ
里志「やあ摩耶花。どうしたの?」ガラッ
摩耶花「あっ、ふくちゃん! 実はこれこれしかじかの……」
里志「かくかくうまうまというわけか。へえぇ、やるねえ、ホータローも」
摩耶花「ねえ、ふくちゃん……。わたしたちも……///」シナッ
里志「まっ、摩耶花!? ここじゃまずい。そうだ! 今日は総務委員の仕事が……」
摩耶花「ふくちゃんってば、そうやっていっつも大事なときにはぐらかすんだから……」ウルッ
里志「ゴメン、摩耶花……。データベースは結論を出せないんだー!」ダダッ
摩耶花「ふくちゃん……」
おまけ3
える「折木さん。一緒に帰りましょう」
奉太郎「ああ、そうだな」
とは言っても、俺の家と千反田の家は、基本的に正反対の方向だ。
学校を出て、ちょっと歩いたらもう別れなければならない。
それでも。いや、だからこそ少しでも一緒にいたい。
俺と千反田は、連れ立って部室を後にする。
奉太郎「……」
える「……」
何だろう。話したいことはいくらでもあるはずなのに、何故か言葉が出てこない。
それは千反田も同じようだった。
千反田とふたり、夕焼けに染まる校舎を歩いてゆく。
今日も夕焼けは綺麗だった。
わたしと折木さんは、並んで歩きながら、昇降口に向かっていました。
折木さんは何も喋りません。わたしもつい、無言になってしまいます。
でも。
こうして歩くのも、何だか良いものです。言葉じゃなく、通じ合ってる気がして。
える「ふふっ」
奉太郎「どうした?」
える「こうしてると、何だか恋人同士みたいだなって」
奉太郎「……みたいじゃなく、実際そうだろ」
当たり前の反応かも知れませんが、わたしには嬉しい言葉でした。
える「はいっ」
笑顔で応えると、折木さんは向こうを向いてしまいました。
照れているようでした。照れる折木さんは、何だか可愛いです。
でも……。
何か足りないような気がしました。なんでしょう?
自分で言ったことなのに、照れてしまう。
それもこれも、千反田の笑顔のせいだ。
千反田の笑顔は、俺には眩しかった。
時折眩しすぎて、眼が眩みそうになる。
だが、それは決して不快なものではなく、むしろ心地よかった。
それでも俺のキャパシティに収まり切らないときは、こうして顔を背けてしまう。
悪い癖だ。
いつか千反田の笑顔を、正面から受け止められる男になりたい。いや、ならなければならない。
そう思いながらも、今はそっと顔を背けてしまう俺だった。
わかりました!
手です!
恋人同士なら、手を繋ぐものです。腕を組むのでもいいのですが……。
わたしはチラッと折木さんの手を見やります。
わたしのものより、大きな手。
男の人の手でした。
その手にわたしの手が包まれたら、と思うだけでドキドキしてしまいます。
でも……。
わたしの方から手を伸ばすのは、何だか躊躇われました。
わたしが女だから、というのを気にしているわけではありません。
ただ、折木さんの方から握って欲しい。そう思いました。
気付いてください。折木さん!
そうこう念じているうちに、昇降口に着いてしまいました。
俺と千反田は昇降口に到着した。
千反田とは、最もクラスが離れている。当然下駄箱も遠く離れていた。
ここで一旦別れなければならない。
千反田を見ると、彼女はどこか悲しげな眼を俺に向けた。
そんな顔をするな。何もここで今日は別れるわけじゃない。
奉太郎「じゃ、後でな」
える「はい……」
自惚れかも知れないが、声も悲しそうだった。
俺は後ろ髪を引かれる思いで、自分のクラスの下駄箱へと向かった。
ふう。
気にしているのは、俺の方かもな……。
折木さんの後姿を見送って、わたしは自分の靴箱へと向かいます。
結局校舎内では、手を繋ぐことは出来ませんでした。
ここから正門まで歩いて、そこからもう少し行けば、折木さんとはお別れです。
える「はぁ……」
わたしは靴箱から靴を取り出しながら、溜め息を吐きました。
元々折木さんは、こういうことに聡いほうではないと思います。
ですが……。
わたしは折木さんに言いました。わたしのことをもっと求めて欲しいと。
折木さんは、わたしと手を繋ぎたくないのでしょうか?
そうは思いたくないです。
折木さんのことですから、単にそんなこと思いも付かないだけなのでしょう。
でも……。
わたしは首を横に振って、その考えを振り払いました。
折木さんとは、先は長いのです。焦ることはありません。
わたしは、昇降口の前に立つ折木さんのところへ、駆け寄っていきました。
俺に少し遅れること、千反田がやってきた。
奉太郎「それじゃあ行くか」
える「はいっ」
その顔には、さっきの翳りは感じられない。
こいつはそんなに俺と一緒にいたいのか。
自惚れかも知れないが、何だか胸が熱くなる。
もちろん俺も、可能な限り千反田と一緒にいたい。
そうして俺たちは、正門に向かって歩き出す。
俺は千反田を抱き締めたい衝動に駆られていた。
だが、公衆の面前でそれは憚られる。
第一それでは歩けない。
それでも俺は、もっと千反田を感じたかった。
ふと、千反田の方を見る。千反田は鼻歌を歌っている。
手はブラブラさせている
俺より小さな手。柔らかそうな手。
奉太郎「そうか……、手か……」
折木さんが何か呟きました。
える「えっ? 何ですか?」
奉太郎「いや、何でもない……」
える「そうですか。わたし、自転車取ってきますね」
奉太郎「あ、ああ、じゃあここで待ってる」
える「はい、じゃあ行ってきます」
あまり待たせては悪いので、わたしは小走りで、駐輪場へ駆けていきました。
自転車を押していては、手を繋ぐことは出来ません。
残念ですが、手を繋ぐのは明日以降に持ち越しです。
わたしは鍵を解除すると、自転車を押して、折木さんのところへ戻っていきました。
失念していた。千反田は自転車通学だった。
これでは手は繋げない。もっと早く気付くべきだった。
千反田が自転車を押して、こちらに駆けてくる。
転ぶなよ、と内心念じる。
あっ、躓いた。だが自転車を押してるおかげで転ばずに済む。
える「ハァ、ハァ、恥ずかしいところを見られちゃいました……」
奉太郎「転ばなくて良かったよ。じゃあ行こう」
俺と千反田は、再び並んで歩き出した。
やっぱり俺たちは何も喋らなかった。
千反田の方を見る。
顔が紅く見えるのは、夕日だけのせいではないだろう。
そんな千反田に俺は……。
える「あっ……」
自転車のグリップを握るわたしの手に、何か温かくて大きいものが被さってきました。
それは折木さんの手でした。
驚いて、折木さんの方を見ます。
折木さんもこちらを見ていましたが、その顔はいつものぶっきらぼうな表情のままでした。
わたしの思いが通じたのでしょうか。わたしは嬉しくなって、笑顔を返しました。
あ。折木さん、そっぽを向いてしまいました。照れているようです。
うふふ、やっぱり照れる折木さんは可愛いです。
手を握り返せないのが、残念ですけれど。
でも今日はこれで十分な気がします。
何より、折木さんの方から手を握ってきてくれたことが嬉しくて、わたしの心は満たされるのでした。
千反田の手は、思ったとおり柔らかかった。
そして少しひんやりした。
千反田と繋がっている部分から、彼女への思いが湧いてくる気がした。
もう正門は過ぎてしまった。
ふたりの残りの距離は、どんどん縮んでいく。
気のせいかもしれないが、少し胸が苦しい。
こんな思いをするくらいなら、手など握らなければよかったとよほど思う。
……だが、それじゃいけないんだろうな。
千反田とは、明日も明後日も会える。
休みの日だって、会おうと思えば会えない距離では全然ない。
今生の別れではないというのに、何をそんなに嘆く必要がある?
そしてついにその時は来た。
いよいよ別れ道です。いえ、分かれ道、ですね。縁起でもないです。
わたしたちは立ち止まりましたが、折木さんの手はわたしの手に置かれたままです。
わたしは声を振り絞りました。
える「それじゃ、折木さん……。また明日」
奉太郎「ああ、そうだな……」
そう言う折木さんの手は、まだわたしの手の上に置かれたままでした。
える「あの、折木さん……」
奉太郎「あ、ああ、すまん」
折木さんの手が離れていきます。何だか悲しくなってしまいます。
える「あの、折木さん?」
奉太郎「どうした」
わたしは指先で、折木さんを招き寄せます。
奉太郎「?」
も、もうちょっと近くに……。
奉太郎「なんだ?」
今です!
奉太郎「!」
なんだ? 何が起こった?
俺の唇に柔らかいものが触れた。
今のは、キス、か……?
千反田は慌てた様子で自転車に跨ると、
える「さようなら、折木さん。また明日……、です」
急いで去っていってしまった。
俺はポカーンとして、千反田を見送る。
奉太郎「あ……」
俺はなんだか、可笑しくなってきた。
奉太郎「ふっ、くっくっくっ……」
ダメだ、笑いが止まらない。
奉太郎「あっ、はっはっはっはっはっ……」
俺は笑いながら、いつまでも千反田の後ろ姿を見送っていた。
うう……。
わたしは、急いで自転車を走らせます。
折木さんに、不意打ちのキスをしてしまいました。
自分でしたことなのに、顔から火が出そうです。
折木さん、どう思ったでしょう?
後ろを振り向く気には、なれませんでした。
でも……。
える「うふふ」
わたしは笑いました。
明日への活力が、充填されたような気がします。
える「ありがとう、折木さん」
わたしは夕暮れの中、家に向かって元気よく自転車を漕いでいきました。
123 : ◆axh.jP1Twpjg[] - 2012/09/11 23:20:19.88 La4hkDje0 66/67今度こそ、お終い
以上、駄文に付き合ってくださり、ありがとうございました
氷菓もいよいよ残すところ来週のみです
家はBS11なのでまだあと二話ありますが
また何か書けるといいな
124 : ◆Oe72InN3/k[] - 2012/09/11 23:31:51.36 MkGkV/2s0 67/67乙です。
次回作も、楽しみにしています。