1 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:16:21.55 f/LNJhPao 1/252

【思い出】

2 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:18:12.92 f/LNJhPao 2/252


唯先輩を盗んできた。
近所のデパート、2階、電化製品売り場。
大きな垂れ幕が階段の入り口にかかっていた。
『人工生命で素敵な夢を』
わたしは夢を見たかったんだろうか。
唯先輩で?


元スレ
梓「飴に唄えば」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1344626180/

3 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:19:40.78 f/LNJhPao 3/252


デパートを飛び出したのが夕暮のちょっと前。
誰にも見つからなかった。
心臓の高鳴りが後から追いかけてきて、わたしは逃げるように走り続けた。
気がつくと行き止まりにいた。
街が見下ろせる丘の上。
雨が降っていたように思う。
でも雨はずっと昔、火星から消えてしまったのだというから記憶違いだったんだろう。
呼吸が収まるまで2分待った。
そして唯先輩を見た。
まだ顔中が火照っていた。
唯先輩はわたしを抱きしめた。
ずっと昔から知っていたみたいな感触。
唯先輩は笑った、気がした。
そう思いたかっただけなのかもね。
まあでも、そんなわけで唯先輩が好きになった。
吊り橋効果、なんて言うのかもしれないな。
だとしたらちょっとさびしいけど。
それでも、笑わずにはいられなかったんだ。

雨が降った日、唯先輩の胸の中だった。


4 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:20:19.90 f/LNJhPao 4/252


【唯先輩で素敵な夢を】


5 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:21:02.56 f/LNJhPao 5/252


「どーも。ありがとーございましたー」

肩を寄せ合うカップルをわたしは見送っていた。
商店街の端っこ。
桜が丘もどきなんて呼ばれるこの街の片隅。
『たい焼き100円』の看板。
手書きのイラスト。
あんこの甘ったるい香り、鉄板の熱。
そんな日常が好きだった。
青い空が黒い絵の具で塗りつぶされた。
あんまり塗るのはうまくなくて。
そろそろ店じまいの時間だ。


6 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:21:30.02 f/LNJhPao 6/252


「あーずにんっ。見て見てっ」

「なんですか?」

「何か気づかない?」

「チョコついてますね口に」

「え? どこどこっ?」

「そこですよ」

口元のチョコを右手の人差し指でぬぐった。

「ん……あまい」

「あ」


7 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:22:15.69 f/LNJhPao 7/252


「ていうかサボらないでくださいっ」

「いやあ。でも、このチョコすっごくおいしいんだよ。あげるっ」

そう言って唯先輩はチョコレートをわたしに手渡した。
ビー玉大の白っぽいチョコレートだった。
わたしはそれを食べた。

「……あれ、ミルクじゃないんですね。おいしいですけど」

「でしょー」


8 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:23:42.23 f/LNJhPao 8/252


「これ、どうしたんですか?」

「隣のチョコ屋さんがくれたんだ」

「へえ、なんでまた?」

「売れなくなったやつなんだって。なんて言ってたかな……そうそうブルームーン現象だって」

「青い月?」

「うん」

「……ブルームだと思いますよ。ブルーム現象」

「ああっそれそれっ」

「だから白かったんですね」

「え?」

「ブルーム現象っていうのは粉吹き現象っていう意味ですよ。暑いとこにチョコをおいておくと白くなっちゃうんです」

「チョコレートの汗だねっ」

「まあそういえるかもですね」


9 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:24:09.67 f/LNJhPao 9/252


わたしは肯いた。
少しの間があって唯先輩がはっとする。

「って、違うよっ」

「へ?」

「わたしが見て欲しいのは違う部分だよっ」

「あ、もしかしてその頭の……タオルみたいなのですか?」

「ぴんぽーんっせいかい。おめでとうございますチョコもう一個どうぞ」

「どうも。で、そのタオルが?」

「いいでしょー。たこ焼き屋のおじさんみたいだよね」

「うちはたい焼き屋じゃないですか」

「でも、すっごく商売上手っぽくない?」

「そうですかね」

「そうだよっ。商店街戦隊たい焼きブルーっ」

「あーはいはい」

「商店街戦隊は日々商店街の平和を守るために活動しているのだ。あ、たい焼き大好き怪人あずにゃん発見っ。とうっ」

唯先輩が迫ってきたのでわたしはそっと押し返した。

「うわあーやられたあー」

「ちゃんちゃん。さ、もう遅いですし片付けましょう」


10 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:24:37.58 f/LNJhPao 10/252


返事なし。

「あれ……唯先輩」

「ほうすこしひたらねー」

ふと見ると、唯先輩は口いっぱいにたいやきを頬張っていた。
さっきまではチョコを食べていたくせに、目まぐるしくって付き合う方は疲れさせられる。

「あーっ。またつまみ食いして……」

「これはへーきなやつだよ」

「え?」

「ブルームーンたい焼きだから」

「はい?」

「失敗作ってことだよ」

「ああ」

作ったたいやきがすべて商品になるわけじゃなかった。
いろんな原因で形が崩れちゃったり、焦げすぎちゃったりする。そういうのがたまにできる。
それらは失敗作ってことで捨てられることになる。


11 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:25:44.59 f/LNJhPao 11/252


「どうせ売られないのを食べてるんだから逆にいいことだよっ」

「まあ、そうですけど……でも唯先輩はわざと失敗作作るじゃないですか、自分で食べるために」

「えへへ……ばれてた?」

「あたりまえです」

「あずにゃんも食べる?」

唯先輩が訊ねた。

「形はあれだけど味は同じだよっ」

「遠慮しておきます」

「なんだなんだー見た目がぐちゃぐちゃのは食えないっていうのかー」

「お腹いっぱいなんですよ」

その後、簡単に店じまいをした。
唯先輩がいちいちふざけるせいで時間がかかって終わった頃には夜もすっかり深くなっていた。
空は満天の星空だった。


12 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:26:12.53 f/LNJhPao 12/252


「せっかくだから散歩に行こうよあずにゃん」

「なんでまた」

「今日はね満月の日なんだって。天気予定でやってた」

唯先輩はそう言った。
決まって12時に31インチ壁掛け式テレビでお昼の天気予定を確認して、一日のお天候設計とそれにくっついた細々とした情報をわたしに自慢気に話す。
それが唯先輩の日課だった。

「だから、見に行こうよ」

「別にいいですけど」

「やったあ」

唯先輩は喜んだ。



13 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:27:19.00 f/LNJhPao 13/252


わたしたちは商店街を横切って歩いた。
見慣れた景色が現れては消えた。
美人の店員で有名な花屋、つぶれたたばこ屋、お掃除ロボット、駄菓子屋、そこではしゃいでる中学生、何もない公園、八百屋の前で行儀よく座ってる柴犬、ヤンキー(だって唯先輩は主張する)の猫たちの溜まり場。
たい焼きをよく買ってくれるおばさんがわたしたちの横を通って、唯先輩はぶんぶん手を振った。
わたしはこの場所が好きだった。
桜が丘商店街もどき。
桜が丘もどき町の商店街。だから、桜が丘商店街もどき。
だったら、桜が丘もどき商店街だろうとわたしは思うのだけれど、まあなんとなくそういうことになっている。

なんでこの街がそんなふうに呼ばれているのかはよくわかっていない。
第一、ここがどこにあるのかさえもわたしは記憶していなかった。
というよりこの街の人はみんなそうだ。
ここが火星の街で桜が丘もどきと呼ばれていることは知っていても、それがいったい何を意味しているのか、明確な答えを持ち合わせていない。
別に、それでも問題なく生きていくことはできる。
説明書を読まないでもゲームを進められるのと同じように。

ここは穴だという話を聞いたことがある。
正確に言うと穴を埋めるために間に合わせに作られた街。
実際に穴の中にあるわけじゃないから、概念としての穴。
だから、本当はこんな街存在しないのだと主張する人もいる。
ただ、何かを埋め合わせる必要があってあたかもそこに街があるかのように見せかけているだけだと。
何を埋め合わせているのか、残念だけどわたしにはわからない。
また、ある人はこんなふうに言った。
もともと、この惑星はまた別のどこかの惑星の植民地であって、その侵略者側の人々が自らの母星の土地を懐かしんでそのまるまるコピーの街を建設して本来の街にちなんで名前をつけた。その名残で侵略した者も侵略された者もごっちゃになった今もまだそんな名前で呼ばれているとかなんとか。
嘘だろうなあ。
だいたいどこの世界にもすぐ宇宙人とかその手のオカルト的なものに絡めたがる人間はいるものだ。
ただ、もどきなんていうからにはやっぱり、にせものだったり元の場所があったりするだろうし、その点では案外的外れでもないのかな。


14 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:27:47.02 f/LNJhPao 14/252


「ねえねえ、あずにゃん」

「なんですか?」

「お月様だよっ」

「わかってますよ」

「満月だねえ」

「まんまるですね」

「あっ……」

「どうしたんですか?」

「青い月だよあずにゃんっ」

「どこですか」

「ほらそこそこっ」

たしかに唯先輩の指差した先、月のすぐ隣には青い星が輝いていた。


15 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:28:18.66 f/LNJhPao 15/252


「あれは……地球じゃないですよ」

「あ……そっかあ。地球は月のお友達だもんね」

「そうですね」

「なあんだ。びっくりしちゃった」

「まったく」

もう一度、わたしは地球と月を見返した。
唯先輩がお友達だとか言うから地球と月はまるで寄り添い合っているかのように見えた。

「いつかわたしも地球人に出会ったりするかな」

「どうでしょうね。地球には文明痕が見つかったとかこの間テレビでやってなかったですっけ」

「ああ、そういえばそうだね」


16 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:28:51.44 f/LNJhPao 16/252


大きな工場を右手に見ながら、長い坂道をわたしたちは登る。
半分くらいでふたりとも疲れてぜいぜい言ってた。

「疲れたあー」

「なんで登ろうとか言い出したんですか」

「この上の景色はきれいなんだよ」

「それはわかりますけど」

「あ、そうだ……反重力マシーン作動っ。ういーんういーん」

「……ふざけてないで早く登りましょう」

「あれほしいねー」

「わたしたちの稼ぎじゃ無理ですってば」

「知ってる。言ってみただけだよ」


17 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:29:18.62 f/LNJhPao 17/252


それでもなんとかわたしたちは丘の上にたどり着いた。

「うわあー……やっほーっ」

右側で唯先輩が感嘆の声を上げた。
わたしたちは街の方に向かって並んで腰を下ろした。
遠くから夜風が吹いてきた。
髪が揺れた。

「あれわたしたちの店だよあずにゃんっ」

「ほんとですね」


18 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:30:12.35 f/LNJhPao 18/252


眼下にミニチュアみたいな街が広がっていた。
にせものだけどきれいなわたしたちの街が。
夜の暗闇の中で様々な家のあかりが灯って大きな光の渦をつくっている。
それはまるで鏡のようだった。地上に映るもう一つの満天の星空。
その明かりひとつひとつの中でそれぞれの人々が生活しているんだとわたしは思った。
ニセモノの街の中で生きる人はやっぱりニセモノなんだろうか。
わたしに関していえば、そう言えるのかもしれない。
わたしは自分についてほとんど知らなかった。
自分のことは自分がいちばんわからないものだなんて格言があるくらいだからそれはあたりまえのことなんだろうけど、それにしてもだ。
自分のことを考えようとするといつもぼんやりする。
わたしはいつの間にか、たい焼きを作っていてあの家で寝泊まりして中野梓なんて名前でどうやって知り合ったかもわからない何人かの友人と時々出会ったりしている。
あらゆる記憶は不透明で、いつでもどこかさびしい感じがした。
空っぽのペットボトルみたいに。
かろうじて思い出せる記憶といえば唯先輩を盗んできたあの日のことくらいだった。
でも、そういえば、唯先輩が現れてからはいろんなことをきちんと覚えていられるような気がするな。
それとも単にそうとわからないだけでたくさんのことを忘れてるのかも。


19 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:30:56.21 f/LNJhPao 19/252


遠くにこの街で一番大きな建物であるデパートがそびえ立っていた。営業時間は長かったからまだ煌々と輝きを放っている。
あそこから唯先輩を盗んできたんだ。
わたしは考えた。

「あずにゃん、なにぼうっとしてるの?」

「ちょっと考えごとをしてたんです」

「なになに?」

「いえ。なんていうか自分について」

ひゅうっ。
唯先輩は口笛を飛ばした。


20 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:31:24.59 f/LNJhPao 20/252


「そっかあ、わたしと同じだね。わたしもいつもあずにゃんのこと考えてるよ。まあ、考えるまでもなくあずにゃんはかわいいけどねっ」

「うわああっ。そういうことを考えていたわけじゃないんですっ」

「もうっ照れちゃってー」

「違いますからね」

「こんにちは。自他共にかわいさを認めるあずにゃんです」

「やめてください」

「にゃんにゃんですにゃん」

「なんですか」

「あずにゃんのものまね」

「怒りますよ」

「怒りますよ……にゃんにゃん」

「むう」

「ごめんごめん」

「……いいですけど」

「にゃん」

「ばあかばあかばあか」

「えへへ」


21 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:31:52.74 f/LNJhPao 21/252


唯先輩の左手がわたしのほっぺに触れた。
それはそのまま首の後ろを滑ってわたしの左の二の腕を捕まえた。前から右腕も伸びてきて、唯先輩はわたしを押しつぶそうとした。
柔らかい震動が伝わる。
完全につぶされちゃわないように、ほんのちょっとだけわたしは反発した。

「あずにゃん、甘い」

唯先輩が呟いた。
たい焼きの匂いがするよ。
わたしはなんだか気恥ずかしくなって街の光がにじむのを眺めていた。


22 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:32:30.94 f/LNJhPao 22/252


「あずにゃんは考えるのが好きなんだね」

「別に……ただ……」

「あずにゃんがさ、わたしの頭の中にいてわたしの分も考えてくれればいいのになあ」

「なんですかそれ」

「そしたらさ、わたしはずっとあずにゃんのこと考えてられるよね」

「そんなに考えてもらわなくてもいいです」

「そう?」

「そですよ」

「そっかあ……そういえばここであずにゃんとはじめて会ったんだよね」

そうだ。ここでわたしは唯先輩の電源を入れたんだ。
それは覚えていることだった。
唯先輩は起きてすぐわたしに言ったのだった。
ごめんね。
なんでそんなふうに唯先輩が言ったのかわたしは未だにわからない。
謝ったのはもしかしたら、わたしの方だったんじゃないかとさえ思えた。
だって、勝手に唯先輩を連れてきてしまったんだから。


23 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:33:00.30 f/LNJhPao 23/252


「あのときのあずにゃんはもっと素直だったのに」

「そんなことないです」

「うそだー。あんなに喜んでにこにこしてたんだよー」

「あれは……」

「ほらほらー初心忘るるべからずだよ」

「それは意味が違うような」

「そうかなあ」

「唯先輩はどんな感じだったんですかはじめてその生まれたときっていうか」

「えっとね……最初は暗くてね何も見えなかったんだ。でもねあずにゃんがずっと耳もとで唯先輩唯先輩言ってたのは聞こえたよ。だからそれがわたしの名前だってわかったんだ」

どうしてわたしは唯先輩の名前を知っていたんだっけ。


24 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:33:28.28 f/LNJhPao 24/252


「あの」

「何?」

「唯先輩、怒ってないんですか」

「なんで?」

「だって……勝手に連れてきたんだし」

「ううん。わたしはあずにゃん会えてよかったと思ってるよ。それにね……」

「それに?」

「やっぱ、なんでもない」

唯先輩はそれ以上黙ってしまった。
唯先輩に似つかわしくないむつかしい表情がわたしを少し不安にさせた。

「でもね」

ずっと後で唯先輩は誰に言うとでもなくそう言った。

「わたしがあずにゃんでもきっとそうしたよ」


25 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:33:55.95 f/LNJhPao 25/252


帰ろっか。
唯先輩が立ち上がった。
わたしたちの秘密基地に。
秘密基地って言い方はなんだかおかしかった。
まるで、わたしたちがなにか不思議な秘密を隠し持っているようなそんな。

家に帰って、お風呂に入って、ご飯を食べた。
唯先輩は1回おかわりをした。
お互い疲れていたのでもう寝てしまうことに決めた。
わたしたちが共同で住んでいる家はちっちゃくて部屋も寝室とリビングの2つしかないし、そういう事情でベットもひとつしかないから、わたしたちはいつもそこで一緒に寝ていた。


26 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:34:31.09 f/LNJhPao 26/252


「今日もくっつく?」

唯先輩が訊いた。
わたしは肯いた。
くっつくといったってホントに抱き合ったりするわけではない。
いや、まあ、結果的には肉体的にもくっつくわけなんだけどそれが目的じゃないっていうかそれは手段なんだ。
接着、というのがその行為の正式名称だった。
ずばり、接着こそがロボットにも人間にもない、人工生命特有のセールスポイントだったんだ。
人工生命が夢と現実の架け橋になって、その結果夢を共有する。
簡単に言ってしまえばそういうことだ。
『人工生命で素敵な夢を』
そんな風にCMなんかでも宣伝されている。
いやでも、夢とは少し違うのか。
だって、覚えているから。
起きたあと夢の記憶はだんだん薄れていくけど、接着して見た世界のことは忘れない。

唯先輩がわたしの方に寄ってきた。
わたしたちはおでこを合わせた。
唯先輩はくすくす笑ってた。
顔が近くてなんだかおかしいって。
わたしは恥ずかしいから視線を下にやっていた。
そうして、だんだん眠くなって、わたしたちは夢の中へと落ちていく。
わたしと唯先輩、同じひとつの夢の中に。

唯先輩で素敵な夢を――。


27 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:35:00.66 f/LNJhPao 27/252


【思い出2】


28 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:35:28.67 f/LNJhPao 28/252


波の音が聞こえた。
夏の日のことだった。
メロディ一が流れていた。
それをたどっていくとスタジオがあった。
唯先輩がいた。
ギターを弾いてた。
わたしは扉の丸窓ごしにその光景をぼうっと眺めていた。
あずにゃん?
唯先輩が言った。
わたしは適当な笑みを浮かべた。


29 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:36:00.46 f/LNJhPao 29/252


「そんなとこにいないでこっちにおいでよ」

「あ、はい」

「ほらほらここに座りなよ」

「はあ……何してたんですか?」

「秘密特訓だよっ。突然上手くなってあずにゃんを驚かせよーかなあって」

「失敗しちゃったじゃないですか」

「ふっふっふ……あずにゃんはまだここから生きて帰れると思ってるのかな?」

「へ?」

「とつげきーっ」

唯先輩が迫ってきたので押し返した。
先輩のギターを傷つけないように、そっと。

「やめてください」

「むう」


30 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:36:27.45 f/LNJhPao 30/252


「でも、そういうことなら一緒に練習しましょうか」

「ほんとにっ?」

「はい。ギターとってくるのでちょっと待っててください」

ギターはスタジオ内にあったのですぐに持ってくることができた。
その間、唯先輩がこっちをじっと見続けてきたから変な歩き方になった。
唯先輩と向い合うようにしてわたしは座った。
ギターを抱えた。


31 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:36:57.16 f/LNJhPao 31/252


「ごめんね。わたしの練習に付きあわせて」

「ぜんぜん気にしないでください。わたしも唯先輩ともっと一緒に練習したいと思ってたんです」

「ありがとー」

「いえ」

「そういえば。あずにゃんなんで布団巻いてるの?」

「寒いからです」

「夏だよ?」

「まあ、そうですけど。ちょっと風邪っぽくて」

「昼間、はしゃぎすぎ?」

「違います……たぶん」

「でも、布団は薄いやつですし、下は涼しいかっこうしてるんですよ」

「何も着てないとか?」

「どうでしょうか」

「へへへ」

「なんですか?」

「とつげきーっ」

唯先輩が近づいてきてわたしの布団を剥いだ。
わたしのギターを傷つけないように、そっと。


32 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:37:26.84 f/LNJhPao 32/252


「あれれ、パジャマ着てる」

「あたりまえですよ」

「ちぇー」

「じゃあ、いきますよ……えっと」

「そのかっこで弾けるの?」

「たぶん」


33 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:37:56.30 f/LNJhPao 33/252


ちゃちゃちゃちゃーんちゃらあん。
わたしはギターを弾いた。
筆ペンのイントロが流れる。

「わあーあずにゃんうまいねー」

「そんなことないですよ」

「じゃあ、次、わたしね」

ちゃちゃちゃととた……
唯先輩の演奏は途中でつまずいた。

「あー。ここが難しいんだよねー」


34 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:39:57.72 f/LNJhPao 34/252


「最初はスローテンポで弾いてみればいいんですよ」

「こう……」

ちゃちゃちゃちゃーんちゃらあん。

「あっできたあっ……えへへ。あずにゃんに出会えてよかったよーっ」

「え?」

唯先輩が抱きついてきた。
わたしを傷つけないように、そっと。
同じシャンプーの匂いがした。
それがなんだかおかしかった。
照れ隠しにわたしはそんなことを考えていた。



35 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:40:28.40 f/LNJhPao 35/252


「ねえねえ。外に行こうよ」

「まだ、ちょっとしかやってないじゃないですか」

「じゃあもう少しやったらね」

「はい」

その後30分くらい、唯先輩とギターの練習をした。
途中何度も唯先輩がちょっかいを出してきたので、成果はあまり芳しくなかった。
それでも唯先輩が満足気な顔でにこにこしていたので、まあいいかあなんてわたしも考えてしまった。
こんなんだからいつまでたっても唯先輩が甘いことばっかり言ってるんだろうなあ。



36 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:41:00.54 f/LNJhPao 36/252


ビーチサンダルを履いて外に抜けだした。
先に走りだした唯先輩を追いかけてわたしはのろのろと歩いた。
てけてけとんとん。
虫たちが鳴いていた。
はやくはやくと、砂浜から唯先輩が呼んでいた。
唯先輩がつけた足跡の上を踏んづけて前に進んだ。
空を見上げると無数の星が輝いていて、そうか今は深夜なんだと思い出して、思い出した瞬間眠いような気がしてあくびをした。
やっと唯先輩に追いついてその横に座り込む。

「いやあ。夜の海もきれいだねー」

「そうですね」


37 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:41:28.45 f/LNJhPao 37/252


「あ、クラゲっ」

「どこですか?」

「むっ」

「わたしですか?」

「うん」

「なんでですか?」

「火星人はクラゲみたいだって本で見たよ」

「火星人? 何言ってるんですか?」

「だってあずにゃんは地球人にしてはかわいすぎるよ」

「なんですかそれは」

「きっと地球の大気に弱いから布団なんて巻いてるんだよ」

「たまたま今日そうしてるだけじゃないですか」

「うわーあずにゃんの真の姿を知ってしまったー。触手にやられちゃうーっ」

「はいはい」


38 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:41:58.65 f/LNJhPao 38/252


「ねえあずにゃん」

「なんですか」

「あの星の中でどれが火星なのかな」

「今日は見えないんじゃないですか。少し赤っぽく見えるんですよ」

「そっか。あ、今日のお月様は満月だね」

「そういえばそうですね」

月の光が海に反射してきらきらと輝いていた。
あの月がやけに青っぽく見えたのは海のせいだろうか。
幽霊でも現われそうな妖しい月の日だった。


39 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:42:40.57 f/LNJhPao 39/252


「海は広いねー」

「何を今さら」

「お月様が浮かんでるよ」

「船の明かりですよ」

「船に乗って旅とかしたら楽しいよねきっと」

「どこに行くんですか?」

「そりゃあもちろん誰も知らない新大陸を……」

「いつの話してるんですか。そんなのもう地球にないですよ」

「えー。夢がないね」

「夢とかそういう問題じゃないですけど」

「じゃあ、宇宙だっ。宇宙ならまだ知らないところがいっぱいあるよ」

「唯先輩じゃあ無理ですよ」

「なんでさ?」

「宇宙飛行士は頭いいんですよ」

「む……それはつまり」

「戻りましょうか」

「あずにゃんめーっ」

「ひゃっ」

唯先輩がわたしを押した。
砂浜に人形のへこみができた。
視界が全部星空になったと思ったら、唯先輩の顔がひょっこり現れた。


40 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:43:15.19 f/LNJhPao 40/252


「火星人の身体調査」

「怖いです」

「じゃあ、やっつけちゃってもいい?」

「そっちのほうがまだマシです」

「ダーイブっ」

「うわっ」

唯先輩はわたしの隣に倒れた。

「楽しいねー」

「布団砂だらけになっちゃったんですけど」

「じゃあ、わたしの部屋で一緒に寝ようよ」

「……へえ」

「なに?」

「賢いじゃないですか」

「まあねー……ってどこが?」

「ばあか」


41 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:43:45.37 f/LNJhPao 41/252


唯先輩の部屋のベットに入った。
2人いるから狭かった。
唯先輩はもう熟睡しているみたいだった。
寝たふりをしていたわたしにくっついて離れない。
なんとか唯先輩を剥がして水道でコップ一杯、水を飲んだ。
夢の中にいる間に宇宙人が攻めてきても困らないように部屋の鍵を閉めて寝た。
すぐにまた唯先輩がひっついてきた。


42 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:44:12.93 f/LNJhPao 42/252


【20%あずにゃん】


43 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:45:10.24 f/LNJhPao 43/252


「わた」

「たこ」

「こい」

「鯉って食べられる?」

「たぶん」

「いか」

「かき」

「きび」

「びわ」

「わーわー……えーと、わ?」

「はい負けです」


44 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:45:38.30 f/LNJhPao 44/252


「……ああーまた負けたあーっ。あずにゃんは強いなあ。じゃあ、はい罰ゲームスタートっ」

「えと、開店準備をしてきてください」

「それはやったよ」

「じゃあ、コンロの掃除を」

「それもやった」

「えーと、えーと……なにもしないでください」

「はい……」

そのまま230秒。


45 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:46:15.79 f/LNJhPao 45/252


「ぷはーっ」

「え?息も止めてたんですかっ?」

「びっくりした? うそでしたーっ」

「べつに」

「ほんとー? えって言ったよー」

「ほんとですよ……。ていうか唯先輩負けすぎですって。どうしたらそんなに負けられるんですか」

「あずにゃん勝って嬉しくないの?」

「違います。ただですねこうも勝ちすぎるとこの『食べ物しりとりをして負けたほうが5分間相手の言うことを聞くゲーム』がつまらなくなるじゃないですか」

「あ、わかったよー。あずにゃんわたしに命令されたいんだ」

「違いますよ」



46 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:47:33.62 f/LNJhPao 46/252


「おすわりっ」

「しませんよっ」

「ほら、指舐めていいよ」

「なめないですっ」

「だきつけーっ」

「唯先輩が抱きついてきてどうするんですっ」

首もとにひっついた唯先輩をわたしは振りほどいた。
唯先輩はへなへなと床に座り込んだ。

「もうっ照れちゃって、かお、まっか、だよ」

「ちがいますから」


47 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:48:01.05 f/LNJhPao 47/252


「あーあ。あずにゃん分がないとわたし動けなくなっちゃうよー」

「だってどうせあれですよね」

「なに?」

「夜とか」

「うん?」

「接着しない日の夜とか」

「とか?」

「……いたずらしてるんですよね」

「その発想はなかったよ。ありがと」

「いえいえ」

「それにしてもお客さんこないねー」

「そうですねー」

「……へんたい」

「あぅ……」


48 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:48:28.35 f/LNJhPao 48/252


「へんたいのあずにゃんは唯先輩に抱かれる必要があるんではないでしょうか」

「わたしはへんたいではないのでその必要はないと思います」

「20%あずにゃんはもっと抱きつかれるべきだと思います」

「なんですか……その、20%あずにゃんって」

「20%あずにゃんっていうのはあずにゃん分が20%しか入っていないあずにゃんのことだよ」

「はあ」

「20%しかないからね、見える人にしか見えなくて、通常の5倍抱きつかないとまともにあずにゃん分を得られないんだよ」

「残りの80%は何なんですか?」

「それは……秘密だよ」

「決まってないんですね」

「とにかくだからまだあずにゃん分がぜんぜんたりてないんだ……だきつかないと……しん……じゃ……う……」

「あ、止まった」


49 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:49:03.17 f/LNJhPao 49/252


唯先輩はゆっくりと崩れ落ちた。
わたしは唯先輩の体を揺すってみた。

「おーい唯先輩っおーい……だめだ。最近メンテさぼってたからかなあ」

人工生命にはときどきメンテナンスが必要だった。
唯先輩の場合、展示品として置かれいたものをわたしが盗んできたという経緯があるので、購入証明書とか説明書とかそんなオプションがない。
だから、正規にメンテナンスしてもらうことができない。
まあ、友人のつてなんかを用いてなんとかメンテナンスしてもらうことはできるにはできるのだけど、やはりなんとなく気を使う。
それに唯先輩はメンテナンスに行きたがらない。
そんな理由があってメンテナンスに行きしぶっていたのが、まさかこんなふうに止まってしまうとは。
実は、はじめてのことじゃなかったりするんだけど。

とりあえず唯先輩のすみからすみまでを眺め回してみる。
やはり完全に停止していた。
これは工場まで連れて行くのに一苦労だなとわたしは思った。
いつものお返しに少しくらいいたずら――ほっぺになんか書くとかしようと思ったけれどやめた。
その発想が唯先輩みたいだったからだ。
唯先輩を背負った。
人工生命とはいっても重さは人間と同じだった。しかし、それが重い。
ふら、ふらふらふら。



50 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:49:40.91 f/LNJhPao 50/252


店を出る時に『営業中(唯先輩が描いたへんてこなイラスト)』の看板をひっくり返した。



『準備中(唯先輩が描いたへんてこなイラスト)』



51 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:50:10.11 f/LNJhPao 51/252


唯先輩を肩に商店街を歩く。
人々の視線が痛かった。
顔が赤くなった。
でも、歩く。
歩く。

そうしているうちに、なんとか工場に着いた。
あの丘のふもとの工場。
一度大きく息を吐いてから、敷地内に足を踏み入れた。
受付の前で立ち止まり取り付けられたベルを鳴らした。
少し後で足音がした。

「あ、梓、またなんだ」


52 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:50:39.99 f/LNJhPao 52/252


澪先輩は一目わたしを見るなり言った。
この工場ではわたしは有名なのだと澪先輩が前に言っていたのを思い出した。

「またですね」

「だから、メンテナンスはちゃんと来いって言ったのに」

「だって……」

「重くない?手伝おうか」

「大丈夫ですと言いたいところですけど手伝ってください」

「うん」

澪先輩は唯先輩の足の方を抱え上げた。
とても丁寧な動きだった。
澪先輩はわたしの友人であると同時に唯先輩の友人でもあるのだ。


53 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:51:07.87 f/LNJhPao 53/252


「なんかこの姿勢辛いですね」

「そうだな。はやく中に行こうか」

工場内に入った。
鉄とサビの匂いがした。
遠くで機械の動く音がしていた。
きいいいかああんきいいいかああんぷくぷくとうんぷくぷくとうん。
なぜか、その音がいつでも耳についてなかなか離れなかった。

小さな部屋に唯先輩を置いた後、応接間のようなところにわたしは通された。
ソファーに腰を下ろすと、もう少しで和先輩がやって来ると澪先輩が教えてくれた。

「はい、お菓子とお茶でも食べて待っててくれ」

「ありがとうございます」




54 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:51:36.80 f/LNJhPao 54/252


「ムギがいれるやつみたいにおいしくはないけど」

ムギ先輩はわたしたち共通の友人だった。

「いえいえ十分です。それにしても澪先輩はしっかりしてて羨ましいですよ。唯先輩にもみせてやりたいというか」

「あはは。まあ、唯は」

「まったく困りますよ」


55 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:52:06.92 f/LNJhPao 55/252


「どう商売の調子は?」

澪先輩がわたしに訊いた。

「いやそうですね。まあ、あんまり人は来ないですけど、こうして生活しているわけですし」

「そっか。なんとかやってるんだな。唯はどんな感じ?」

「どんなかんじで言われても……いつもぐうたらで仕事はしないしたぶん売れない原因の八割は唯先輩にありますよ」

「楽しそうだ」

「……まあ。澪先輩はどうです?」

「相変わらずかな」

「そうですか。あれ、唯先輩ってここで作られたんですよね」

「うん」

「澪先輩が作ったんですか?」

「ううん。流れ作業がほとんどだよ。でも中枢部分は和がやってるからそういう意味では和が生みの親って言えるのかもな。それにわたしは事務だし」

「わたしもけっこうここに来てるのにあんまり知らないですね」

「うんまあ普通にしてたらなかなかわかんないよね。そうだ唯を待ってる間工場見学でもしてみれば?」

「いいんですか?」

「和に聞いてみるよ」

澪先輩がそう言ったとき、部屋の扉が開いて和先輩が現れた。


56 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:52:35.18 f/LNJhPao 56/252


「こんにちは梓ちゃん」

「どうもいつもありがとございます」

「お礼なんていいわよ。それより唯はバッテリーが切れただけみたいだったわ。最後に交換したのはいつかしら?」

「まだ一度も」

「でしょうね。他のところに行くとは思えないし」

「はい」

「まあバッテリー交換はすぐに終わるけど一応メンテナンスもするから少し時間がかかるかもしれないわ。だからど悪いんだけどこかで時間をつぶしててくれないかしら?」

「あ、和そのことなんだけどさ梓工場内を見学したいんだって」

「別にいいけどこんな工場なんか見ても面白いものはなにもないわよ?」

「いえ、まあ」

「ならいいけど。はい、見学者は一応これをつける決まりになってるの」

そう言って和先輩はわたしの首にカードのついた赤い紐をかけた。
カードには『見学中』の文字、手書きのイラスト。


57 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:53:03.46 f/LNJhPao 57/252


「あのひとついいですか?」

「なに?」

「この絵誰が書いたんですか?」

「たしか澪よね?」

「うんそう」

唯先輩の絵に似ていたということは黙っておいた。


58 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:53:32.64 f/LNJhPao 58/252


みんな忙しいというのでひとりで適当に工場内を見て回ることになった。
なんというかアバウトすぎないだろうか。
まあ、いいけど。

工場内では機械の手が右へ左へ動き、得体もしれない物体が組み上げられていた。
そのどれもが物珍しくてわたしはいちいち立ち止まっては長い間そこから動かなかった。
そうして工場内をうろうろしていると、後ろから声をかけられた。
おーい梓っ。


59 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:54:00.45 f/LNJhPao 59/252


「あ、なんだ律先輩ですか」

「なんだとはなんだ」

「いえいえ」

「なにやってんだこんなとこで。あれか泥棒か」

確保ー。
律先輩に首根っこをとらえられる。
わたしはぱたぱたと手を振った。

「やめてくださいー」

「あ、このカード。工場見学?」

「そうです」

「じゃあさ、わたしが案内してやるよっ」

「えー」

「なんだその不満そうな顔は」

「それに律先輩仕事はいいんですか?」

「梓を案内するのがわたしの仕事だっ」

「要するにサボりたいんですよね」

「そうだっ」

「自慢気に言うことじゃないですよ」

「まあまあ、固いこと言うなって」

というわけでわたしは律先輩に連れて行かれることになった。


60 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:54:34.42 f/LNJhPao 60/252


「ていうかどこ向かってるんですか?」

「ほら、せっかくだから社員しか知らない特別な場所を見ておくのもいいだろ?」

「そんなとこわたしが行ってもいいんですか」

「へーきへーき」

その間にもいろんな目新しいものが右から左へと流れていった。

「あの、わたしが見た限りだと同じ形の人っていうか、同じ形の人工生命はないんですか?」

「そりゃあそうだろ。梓だって唯みたいな唯じゃないやつが道を歩いてたら困るだろ?」

「たしかにそうですね」


61 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:55:03.65 f/LNJhPao 61/252


たどり着いたのは小さな階段だった。
奥を見下ろしても真っ暗でなにも見えない。

「なんですかここ?」

「いいからいいから。ついてこいって」

かちり。
律先輩が懐中電灯のスイッチを入れた。
こつんこつん。
わたしたちの足音が狭い通路に反響した。


62 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:55:31.39 f/LNJhPao 62/252


「ここ、出るらしいんだよ」

「なにがです?」

「決まってるだろ幽霊だよ幽霊。ここ、少し行くと行き止まりで小さな部屋みたいになってるんだけどさ」

「そんなとこ行ってどうするんですか」」

「隠れ家だよ。仕事をサボるための」

「へえ、ひどいですね」

「まあねー。それでその部屋が死体を埋めるために作られたんじゃないかって噂なんだよ」

「死体?また物騒ですね」

「なんでもな、この工場を作るときにさ人柱って言うの? まあなんかそういうので死んじゃったらしんだよ」

「その幽霊?」

「そうそう。しかもだぞその幽霊な、決まった日に現れるらしいんだよ。13日の金曜日みたいにさ。きっと、そうすれば忘れられないとでも思ってるんだろうなあ、うんうん」

「なんで同情してるみたいに言うんですか」

「しかも今日がその日だ」

「幽霊の出る日?」

「怖いだろ?」

「よくある話じゃないですか」


63 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:56:00.83 f/LNJhPao 63/252


暗い通路をわたしたちは歩いている。
律先輩があんな話をするからちょっとだけ敏感になりながら。

「あのさ」

「はい」

「実はさ……」

「なんですか」

「うわあああああああああああっ」

「うわあああああああああああっ」


64 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:56:28.23 f/LNJhPao 64/252


「やっぱ、怖いんじゃーん梓も」

「だ、誰だっていきなりあんな大声出されたびっくりしますって」

「へええー」

「むむむ」

「まあ、幽霊なんていないんだけどな」

「知ってますよ」

「ちがうちがう。ここの噂はぜったいウソだってことだよ」

「どういうことですか?」

「あの幽霊な、わたしが作ったんだよ」

「はい?」

「だからな、最初は澪をおどかすために冗談でさ、ここには死体が埋められてるんだぜーっとか言ったらさ、いつの間にかあらぬ尾ひれがついっちゃって。幽霊だとか人柱とか、13日の金曜日リスペクトしてみたり。幽霊も大変だよな」

「それはまた。律先輩はろくなことしませんね」


65 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:56:56.50 f/LNJhPao 65/252


「でもちょっと気分いいよな」

「なにがですか」

「自分がくるくるの中心だと」

「くるくる?」

「だからさ、自分の話を中心にして物語がどんどん成長していくっていうかそんな感じだよ」

「そうですかね」

「そうだって、なにしろみんなこの話をこわ……」

「お前ら来るのをまっていたあああああああああああっ」

「ひゃああああああああああああああっ!」

「あーあ」


66 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:57:24.76 f/LNJhPao 66/252


さわ子「あんたたち、こんなところで何やってるのかしら」

「なんだ、さわちゃんかよーっ」

「ひゃあああでしたっけ……ぷっ」

「中野ーっ」

「いたいいたい」


67 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:57:51.32 f/LNJhPao 67/252


さわ子「りっちゃん、仕事はどうしたのよ?」

「ほら、工場案内だからさ、梓の」

さわ子「そう。持ち場に戻りなさい」

「ぶーぶー。梓かわいそー」

さわ子「じゃあ、いいわ」

「ほんと?」

さわ子「その分お給料は減らすけどねっ」

「ご勘弁をー」

「見苦しいですね」


68 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:58:18.49 f/LNJhPao 68/252


「ていうかここバレてのかよー」

さわ子「そうよ。りっちゃんのすることくらいなんでもお見通しよ」

「年季がはいってると違うなっ」

さわ子「あ?」

「じょーくじょーく」


69 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:58:46.28 f/LNJhPao 69/252


「そういえば、ここってなんのためにあるんですか」

さわ子「さあよくわからないけど、ほらでもどんなところでも空白部分は必要なのよ。コンピューターでも脳ミソでも何にも使わない空き部分があってはじめてまともに働くじゃない」

「それとこれは違うだろ」

さわ子「ここが工場を動かしてたりしてね」

「ポエジーなさわちゃん、変」

さわ子「あ?」

「じょーくじょーく」


70 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:59:13.58 f/LNJhPao 70/252


戻ると唯先輩のメンテナンスは終わっていた。
再び動き出した唯先輩は眠そうだった。

「ありがとうございます」

「今度からはちゃんとメンテナンスに来るのよ?」

「わかりました」

「来づらいとか気にしなくてもいいのよ。唯を連れてきた以上、ちゃんと唯の面倒見るのが梓ちゃんの役目なんだから」

「すいません」

「大丈夫だよっ、うちの自慢のあずにゃんだからね」

「唯は少し静かにしてて」

「むう。和ちゃんひどい」

「唯をよろしくね」


71 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 04:59:54.47 f/LNJhPao 71/252


工場の外は夕暮れだった。
目もくらむような赤い夕日。
唯先輩があくびをした。

「その、ごめんなさい」

「いいよー。わたしだってメンテナンス行きたがらなかったんだから」

「これからはちゃんと行きましょうね」

「そうだねー」

いつもよりずっと長く伸びた影を追いかけて歩いた。
追いつくことはできないだろうけど。
唯先輩は下を向いた。

「でも、ちょっと怖かったな」


72 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:00:21.94 f/LNJhPao 72/252


「怖かったんですか?」

「電池が切れたとき夢を見てたんだ」

「どんな夢?」

「思い出せないけどね、もう。でも暗くて狭いところにいたような気がするんだ」

「暗くて狭い」

「それにね、あずにゃんがいなかった」

「わたし?」

「わたしね、接着しない日は絶対に夢を見ないんだよ。だから、夢を見るときは必ずあずにゃんと一緒なんだけど、その夢にはあずにゃんがいなかったんだ。それがすごく怖かった」

「その、あの、ごめんなさい。ちゃんとメンテナンスに……」

「謝らなくてもいいよー。ただねあずにゃんがいないのはこんなにも悲しいんだって思ったんだ」

「……そうですか」

「それに夢の中で考えてたんだよ」

「なにをですか?」

「20%あずにゃんの残りはなんなのかなって」

「なんでまたそんなことを」

「なにかあずにゃんのこと考えなくちゃって思って、そしたら朝に話してたの思い出してね」

「それで答えは見つかったんですか?」

「ううん、わかんなかったよ。暗い夢の中だからかな」

唯先輩は一度黙って、そして言った。

「ねえ、あずにゃんはホントにずっとあずにゃんでいてくれる?」


73 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:00:50.74 f/LNJhPao 73/252


わたしは何も言えなかった。
唯先輩の表情があまりに真剣だったから。
どんな夢を見てたんだろう?
唯先輩の手を握った。
何か言う代わりに。

「ひゃっ……いきなり手握ったらだめだよー」

唯先輩は照れたのだった。
ほっぺが真っ赤に染まっていた。
そんな表情は見たことなかったんだ。
だから、唯先輩は本当に遠いところまで行ってしまったのだと思った。
帰ってきたあとで、なにもかも元のままってわけにもいかないんだろうな。たぶん。
わたしはさらに手を強く握った。

「……あ」

74 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:01:18.51 f/LNJhPao 74/252


「そんなふうに照れる先輩なんて変ですよ」

「ちがうよ、バッテリ変えたばっかでまだちょっとおかしいんだよ。だから、照れたんじゃなくて、故障だよ」

「治ればいいんですけどね」

「ほんとだよ?いつもだったらあずにゃんから手握ってくれたらすごい嬉しくて仕方ないのに」

「今日は」

「……恥ずかしい」

唯先輩はさらにうつむいた。


75 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:01:49.16 f/LNJhPao 75/252


「……大丈夫です、今日だけですよ」

「何?」

「わたしが唯先輩の手握ったりするのも唯先輩が照れたりするのも今日だけですよ」

「そうかな」

「もう、怖い夢なんて見ませんよ」

「だったらいいなあ」

唯先輩は少しホッとした顔した。


76 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:02:16.91 f/LNJhPao 76/252


「あ、今思ったんですけど」

「何を?」

「20%の残りは空っぽなんじゃないですか」

「あずにゃんの話?」

「そうです」

「何もないの?」

「でも空っぽがあるから生きていけるんですよ」

それはあの工場の空き部屋みたいに。

「少なくとも、何かを隠しておくことはできますよ」

「たとえば?」

「幽霊とか」

「幽霊?」

「あとは、盗んできた先輩とかも」

「じゃあ、あずにゃんの残りの80%はわたしなんだ」

「そういうわけでもないですけどね」

後ろで夕日が沈もうとしていた。
手をつないだ二人分の影が揺れた。


77 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:02:46.41 f/LNJhPao 77/252


【どろどろ】


78 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:03:15.63 f/LNJhPao 78/252


「唯先輩……ゆーいせんぱーい」

唯先輩を呼んだ。
聞こえない。

「ゆーいーせーんーぱいっ」

返事なし。

「唯先輩っ!」

沈黙。

「……えっちしましょう」

「へんたい」

「聞こえてるじゃないですか」

「うん。聞こえてるよっ」


79 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:03:43.08 f/LNJhPao 79/252


「なにしてるんですか?」

「イヤホンでラジオ聞いてたんだ」

「ちょっと聞かせてください」

「はい」

唯先輩からイヤホンを受け取った。
耳の中で音が爆発した。

「うるさっ」

「え? 聞こえたの」

「あれ……消えた」

さっきまでの大音量はすでに聞こえなくなって、ささやかなメロディーとノイズだけが残った。

「じいぃぃ……見てるといつもハート……ざあああああっ………………」


80 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:04:09.97 f/LNJhPao 80/252


「こんな大きな音で聞いてたら脳みそとけちゃいますよ」

「脳みそが?」

「はい」

「どろどろに?」

「どろどろに」

「するとどうなるの?」

「頭をふるとぴちゃぴちゃ音がします」

「ひゃああこわいねー」


81 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:04:38.19 f/LNJhPao 81/252


「そうなんですよ。それよりなんですか、このラジオ」

「うん。よくわからないけどね適当にダイアル回してたらなんか入ってきたんだ」

「へえ。何でしょうね」

「なんだろねー。さっきから大きくなったり小さくなったり音がしてるんだけど。でもなんかいろんな歌みたいのがずっと流れてるんだよね」

「歌、ですか……」

「わたしはね宇宙からの電波なんじゃないかと思ってるんだ」

「はあ。宇宙ときましたか」

「うんだからさっきからがんばって宇宙人からのメッセージを傍受しようとしてるんだけどなかなかうまくいかないや」

「あれじゃないですか。どっか遠い街の電波を受信したり、個人用チャンネルだったりするんじゃないですか?」

「またあずにゃんは夢のないことをおっしゃる」

唯先輩はやれやれというふうに首を横に振った。
そう言いたいのはこっちだとわたしは思った。


82 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:05:06.84 f/LNJhPao 82/252


「だから、お願いっ」

「店番変わってくれとか言うんですか?」

「せいかいだよっ。さっすがあずにゃん」

「いやですよ」

「一生のお願いです」

「ダメですよ。前にもこんなことあったじゃないですか。たしかあれは……」

わたしはその時の記憶を引っ張りだそうとするが、後少しのところで思い出せない。
その記憶が脳みそのどこかにひっかかってるような感じ。


83 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:05:36.26 f/LNJhPao 83/252


「でも、あずにゃんだってわたしに一日中店番やらせたことあるじゃん」

「え。そんなことありましたっけ」

「うん。スッポンモドキを捕まえに行くんだとかいって」

ああ、そうだ。
たしかにそんなこともあった気がするな。
わたしは、ある時テレビで亀を見て、それが欲しくてたまらなくなったのだ。
そんなとき近くの水路にスッポンモドキ出るとかいう噂が出たものだから、わたしはすぐにでもそこへ向かおうとした。
スッポンモドキでも亀と同じようなものだと考えてのことだった。
唯先輩は休業日に一緒に行けばいいと提案した。
しかし、わたしはその噂を聞いた次の日に出かけるのを譲らなかった。
というわけでわたしは一日中唯先輩に店番を押し付けることになったのだ。
今にして思えば、どうしてそこまでしてスッポンモドキが欲しくなったのか不思議だ。
まるでスッポンモドキがわたしにとって何か重要な存在で、それが不当に失われているみたいに思えてしまったんだ。
そのときは、だけど。
実際、あの時を思い出すと他人の記憶を覗いているような気分になる。
わたしによく似た別の人間。
結局、スッポンモドキは見つけられなかった。
もしかしたらスッポンモドキは元あるべき場所、例えばわたしによく似た誰かのところに、帰ってしまったのかもしれない。
そんなふうにときどき思う。


84 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:06:04.16 f/LNJhPao 84/252


「そういえば、もうあずにゃんは亀さんどうでもよくなったの?」

「ええ、今は」

「わたしもどうしても欲しい!って思ったものが後々どうでもよくなることはよくあるよ」

唯先輩と同じとはなんだか悔しい。

「まあ、そういうことなら今日くらいはいいですよ。宇宙人と交信でもなんでもしてください」

いたい記憶をつかれてしまい恥ずかしくなって、唯先輩のお願いを許してしまう。
まあでもどうせお客さんなんてほとんどやってこないのだ。
心の中でぼやいた。


85 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:06:33.36 f/LNJhPao 85/252


こんにちは。
そんな声を聞いた時わたしは半分くらい夢の中にいて、その夢の中で大きなスッポンモドキの背中に乗って空を飛んでいた。
まぶたを開くと、どろどろとした人間の形をしたものがわたしの方を見つめ笑っていた。
だから、まだ夢を見ているんだと思った。
梓ちゃんっ。
今度は名前を呼ばれた。
その声の調子でやっとわかった。

「あ、ムギ先輩」


86 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:07:01.26 f/LNJhPao 86/252


「ふふっ寝てたのね」

「はい、お恥ずかしながら」

「たいやきひとついただけるかしら?」

「お持ち帰りで?ここで食べてきますか?」

わたしはいつもこう聞く。
すると、ムギ先輩は嬉しそうに答えるのだ。
うんたべてくっ。


87 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:07:29.19 f/LNJhPao 87/252


「ふたりのたいやきはいつもおいしいね」

「どうもです」

「今、唯ちゃんは?」

「なんでも、ラジオで宇宙人と交信してるとか」

「宇宙人っ?」

「どうせどっかの電波を盗んじゃったってだけだと思いますけどね」

「じゃあ、宇宙人はいないのね。ざんねん……」

「あ、いや。別になんていうかわたしはそう思ってるってだけですよ。それにほら、あの電波が宇宙人のものじゃなくてもどこかに宇宙人はいるかもです」

「そうだね。でも宇宙人がいたらこわいね」

「こわいんですか」

「いたらいいと思うけど、やっぱりこわいの」

「変、ですね」

「そうかしら」


88 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:07:59.03 f/LNJhPao 88/252


「あ、唯先輩呼んできましょうか」

「ううん。たまには梓ちゃんとふたりでお話するのもいいかなあって」

「そうですか」

店の内側のちょうど通りが臨める位置に、横並びになってわたしたちは座っていた。
ムギ先輩のおしりの端っこの部分が液状に溶け椅子からはみ出て、地面に向かってだらんと垂れ下がっていた。
じっと眺めていると、ときどき肌が水色に透けて見えた。
ムギ先輩はどろどろだった。
とはいっても完全な液体だっていうわけでもない。
それはどっちかというと、スライムとかゲルみたいなものだった。

「あ、気緩めてたからつい」

ムギ先輩のおしりは元のような、人間のそれと同じ形に戻った。


89 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:08:27.77 f/LNJhPao 89/252


「いえ。でも、滴らないのは不思議です。下手をする地面下までくっついちゃうんじゃないかと」

「こんなこともできるのよ」

そう言うと、ムギ先輩の下半身は一気に泥状になりそのまま椅子を包むようにして地面に流れ落ちた。
ゆらゆらと小さく波打っている。

「わあ」

「驚いた?」

「はいびっくりしました」

「すっごい力を緩めるとこうなっちゃうの。寝るときとか」

「へえ。大変なこととかあります?」

「ううんあんまり。頑張れば人間とおんなじようにもなれるもの」

「そうですか」

まあ、わたしたちにとっては変なことでも当の本人してみればそれが普通なんてことはよくあるものね。


90 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:08:55.45 f/LNJhPao 90/252


「そういえば、それって生まれつきなんですか」

そう聞いたのは今日が初めてだった。

「あ、言いたくないならいいんですよ別に」

「えっとね……」

ムギ先輩はなにか考えるようなそぶりをした。

「わたし、人工的に作られたの」

「それは人工生命ってことですか?」

「そうなるはずだったって言うべきかしら」

「だった?」

「うん。わたしは人工生命のなりそこないなの」


91 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:09:24.38 f/LNJhPao 91/252


わたしはムギ先輩の顔を盗み見た。
まずいことを聞いてしまったのかなという気がしたからだ。
でも、ムギ先輩は昨日見た夢でも話すようなそぶりで口を開いた。

「わたしのお父さまの会社が人工生命を開発したの」

「え、そうなんですか?」

「最初はね商品にするつもりもなくて、自分の子供を作ろうとしたの。お父さまは子供ができない体だったから。あ、でも別にロボットだったわけじゃないのよ。わかるよね?」

「だいじょうぶです」

「それでね、いろいろ研究してそれでやっと作ろうってことになって作ったんだけどね、失敗しちゃったらしいの。理由は聞いてもよくわかんなかったんだけど。でも、それでわたしが生まれたのね」

その失敗をもとに改良があってそして人工生命が生まれたということなんだろう。
そして、それらは人気商品となり店頭に並べられるようになった。
ムギ先輩がそのお父さんの子供になったのなら、その後はもう作らなくてもいいはずだけど、きっとそのへんには込み入ったいろいろがあるのかもしれない。
大人の事情ってやつが。


92 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:09:52.09 f/LNJhPao 92/252


「それでじゃあ仕方ないから子供にしようかってことになったの」

「仕方ないからなんですか?」

「うんお父さまはよくわたしに言って聞かせたわ。仕方なくお前を選んでやったんだって」

「あ、えっと……」

「でもね、へいきなの。お母さまが後でこっそり教えてくれたから。わたしが生まれたとき周りの人たち、研究者とか偉い人とかはみんな研究対象にしたいとかそんな意見だったのにね、お父さまだけが反対したらしいの。生まれたこどもは、どんなになったって私のこどもだって」

ムギ先輩は照れくさそうにしていた。
えへへ。
子どもっぽい表情になった。
いいお父さんですねって言ったら、さらに顔を赤らめた。
下を向いて、たいやきをかじった。


93 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:10:19.25 f/LNJhPao 93/252


それから、ムギ先輩は話題を変えるように言った。
そういえば。

「そういえば、梓ちゃん、この街の外に出たことある?」

「ないですね」

「わたしね、すごく気になるの。この街の外になにがあるのか」

たしかに、この街の外側に何があるかなんて考えてみもしなかったな。
わたしは思った。
他の街が広がっているのか、それとも海でも見えるのか、はたまた砂漠の中にいたなんてこともあるかもしれない。



94 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:10:49.31 f/LNJhPao 94/252


「じゃあ、行ってみますか」

気がつくとわたしは言っていた。

「え?」

「たしかめてみましょうよ。この目で」

「それ……すごくいいわっ」

ムギ先輩の手がわたしの手のひらを握り締めてぶんぶん振った。
なんだかさらさらして包み込まれるような感覚。
そして、暖かった。


95 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:11:20.12 f/LNJhPao 95/252


次の日、3人で街の外向かって出かけた。
わたしとムギ先輩と唯先輩。
話に参加してなかった唯先輩が一番はしゃいでいる。

「遠足だねー遠足っ」

「そんなたいしたものじゃ」

「なにがあるのかなあ。楽園があったりね」

「楽園ってなんですか」

「ユートピアだよ」


96 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:11:48.14 f/LNJhPao 96/252


そのままずっと歩いていくと壁にぶつかった。
わたしたちは左に折れて壁を右に見ながら歩き続けた。
この街は円状の高い壁で囲まれているが、どこかにひとつだけ門があるという。
だから壁にそって回っていけばいずれは外に出ることができるというわけだ。
事実、20分もしないうちに門の前にわたしたちはいた。
見張りのようなものはおらず実に簡素な門がぽつんと構えているだけだった。街の外に出てみようと考える人間はあまりいないのかもしれない。
門は手で押すと簡単に左右に開いた。
そこからは長い地平線が続いていた。
まったく平らで何一つない地平線。
一歩踏み出すと、人間の皮膚のようなぐにゃりとした感触があった。
お昼にする?とムギ先輩が訊いた。
わーいっ、と唯先輩。そうですね、とわたし。
果てしない地平線の前にわたしたちはすっかり戦意を削がれていたのだった。


97 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:12:15.56 f/LNJhPao 97/252


ムギ先輩が持ってきたサンドイッチと紅茶がお昼だった。
紅茶に口をつけてふぅっと唯先輩が一息ついた。

「これぞ遠足、ピクニックだねっ」

「唯先輩は食べることばっかり」

「あずにゃんもいっぱいたべてるじゃーん」

「だって……おいしいから」

「ふふっ。遠慮しないで食べてね」

「これムギ先輩が作ったんですか?」

「うん。朝にちょっとね」

「ムギちゃんすごいよっ」

「ありがとうございます」

「えへへ」


98 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:12:42.60 f/LNJhPao 98/252


「それにしても……」

わたしは広がる地平線を眺めながら言った。

「この先、行くんですか?」

「いくよっなにがあるか知りたいよっ」

「なにもないじゃないですか」

「きっとすごい財宝が……」

「そういう話でしたっけ」

「まあ、ちょっと行ってみるくらい、いいんじゃないかしら?」

「うんうん」

「少しなら……」

「いえいっ」

「いえいっ」

ハイタッチ。


99 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:13:10.92 f/LNJhPao 99/252


「そういえば唯ちゃん」

「んーなに?」

「宇宙人と交信はできたの?」

「おっ、その話ですかあ。あずにゃんは全然聞いてくれないんだよね」

「別にぜんぜん聞かないわけじゃ……」

「それで、昨日はね、よく聞こえたんだよ」

「へえー。どんなの?」

「歌、なんだけどね。いろいろあって、まあだいたいがじいいいってなってよくわかんないだけど、たとえばこんなのがあったなあ」

唯先輩は歌った。
ふでっぺんふっふー……。

「じゃんっ」

梓紬「おおー」

ぱちぱちと拍手。


100 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:13:40.27 f/LNJhPao 100/252


「どうかな」

「すごいっ。なんかイイ感じの歌だったよね」

「まあそれには同意しますけど、それ火星の言葉じゃないですか」

「あ」

「…………」

「どうなんですかそのへんは」

「そ、そう聞こえるだけなんだよ」

「はい?」

「だからね、ほんとは違う言葉なんだけどわたしたちは火星の言葉しか知らないからそう聞こえるんだよ」

「唯先輩の妄想ってことですね」

「なんでわかってくれないのさーっ」

「よしよし」


101 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:14:29.61 f/LNJhPao 101/252


しばらくお喋りをしたあと、じゃあそろそろ行きましょうかまだいいよじゃあもう帰りますよ分かった行く行く、みたいなやり取りがあってわたしたちはやっと歩き始めた。
しかし歩いても歩いても一向に景色が変わらない。景色が変わらないからまったく進んでないように思える。でもだんだんと疲れがますからやっぱりちゃんと進んでるんだろうな。というか進んでるって信じないとやっていけない。
そしてまた歩く。

「つかれた!」

「はい……」

「あ、ムギちゃん下半身溶けてる」

「こっちの方が歩きやすいのー。あんまり疲れないし」

「歩くというより這うですね」

「うん」

「ムギちゃんずるーいずるーい。わたしも溶けたいー。どろおお」

「ちょっ寄りかからないでくださいよ」

「だってえー」


102 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:14:56.98 f/LNJhPao 102/252


それでもやっぱり終わりはあるもので、わたしたちの場合それは看板だった。
なぜか遠くから見ているときには気がつかず、目と鼻の先というところで唯先輩があっ、と声を上げた。

「なんかあるよーほらほらーっ」

「看板ね……えっと……」

『工事中』

わたしたちがここまで体力と時間を削って得た発見はそれだけだった。
その先には、泥状になった地面がでこぼこを作っている。
深い溝が幾重にも刻まれており、色の具合もあって、そこは溶けかかった巨大な脳みその一部のように見えた。
どろどろ。
街の外のどろどろ。
あたりを見渡すと、どうやらその泥状の『工事中』部分は看板を境に円状になっているらしい。
その証拠に、よく見ると他にも看板があり、それらが一定間隔で並べられてゆるやかにカーブを描いていた。
その中心はやはりわたしたちのあの街なんだろう。


103 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:15:26.17 f/LNJhPao 103/252


「うーん。工事中かあ」

「工事中ね」

「工事が終わったら他の街にいけるのかな」

「今、つなげてるのかな。ここまではやけに平坦だったし」

「でも道にしてはなんていうか柔らかいですよね。今までの道も」

「不思議だね」


104 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:15:55.91 f/LNJhPao 104/252


頭上を飛行機が飛んでいった。
ぶるるう。
あたりがかすかに震動した。
果たしてあの飛行機はどこかにたどり着くことができるんだろうか。
そしてこのどろどろの向こう側に何かあるんだろうか。
外国にいきたいね、なんて唯先輩はのんきなことを言っている。
わあ外国!
ムギ先輩がそれに同調した。
二人がわたしに視線を向けてきたので仕方なく、そうですね料理のおいしいところがいいですよね、と話を合わせた。
だけどわたしにはこのどろどろの向こうに、形を持った場所があるとはどうしても思えないんだ。
いつの間にか飛行機はどこかに消えてしまって、透きとおった水色の空をひこうき雲が2つに分けていた。
たとえ空を飛んでいったとしてもどこにいけるだろう?

帰り道はなんとなく口数も減って静かだった。
無駄足だったというのも足を重たくする原因のひとつだったのかもしれない。
それなのに唯先輩だけはひとり、楽しそうにメロディーを口ずさんでいた。
これもあの宇宙人のラジオで知った曲なんだと、誰も聞いてないのに説明してくれた。
ぺちゃんっぺちゃんっぺちゃんっ。
お疲れモードのムギ先輩の下半身はほとんど溶けていた。
唯先輩は歌い続けていた。
それはどこかで聞いたような懐かしいメロディーだった。

きみをみてるといつもはーと………




105 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:16:27.29 f/LNJhPao 105/252


【DropOut】


106 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:17:14.32 f/LNJhPao 106/252


飴玉が降る。
わたしと唯先輩は傘を持っていった。
相合傘で歩いた。
あめがわたしたちの上で跳ねてぼこぼこ音を立てた。
赤青黄色緑紫ピンク。ありとあらゆる模様のビニールの袋に包まれたありとあらゆる色の飴。
空が1年で一番カラフルな日だった。
車が通って、飴が溜まった場所――飴溜まりなんていうのかもしれない、を壊すたびわたしはちょっと悲しくなった。
唯先輩は楽しそうに口笛を吹いていた。
わたしは口笛が下手だった。
だから、唯先輩に聞こえないくらいのか細い声で唄を歌っていた。
あめーふれーあめーふれー。


107 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:17:44.48 f/LNJhPao 107/252


「あずにゃん、きれいだね」

「まぶしすぎますけどね」

「そうかな」

「ちょっとだけ」

小さな公園の休憩所の屋根の下にわたしたちは座った。
公園にいたのはわたしたちだけだった。

「ちょっとはやかったかな」

「そうですね。でも遅刻するよりはいいですよ」

「それもそうだね……よしっ」

唯先輩が屋根の下から飛び出して、痛ったいなあ、なんて言いながら地面に落ちていた黄色い飴を2つをとってきた。
その1つをわたしにくれて、もうひとつをぱくりっ。食べた。
わたしもそれにならって包みを開き、薬指の爪くらい小さい飴玉を口の中に放り込む。
レモンの味がした。
甘くてすっぱかった。


108 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:18:12.51 f/LNJhPao 108/252


「これなめ終わる前にはみんな来るかな」

「どうでしょうね。律先輩とか遅刻しそうですけどね」

「だねー。おいしい?」

「まあ。普通のレモンドロップですけど」

「へえー。あずにゃんのはレモンだったのかあ。わたしのはバナナだったよ。交換する?」

「口の中にあるのに」

「口の中にあるけど」

「……いいです」


109 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:18:40.28 f/LNJhPao 109/252


「ざんねんだね」

「べつに。それにしてもいつやむんでしょうかね、飴」

「夕方にはやんじゃうんだって」

「よく覚えてますね」

「お天気予定で言ってたよ。だから、それまでにいっぱい飴を食べなきゃねっ」

「いやしいですね。飴なんてどこだって買えるじゃないですか」

「違うよっ。空から降った飴だからいいんだよっ。特別なんだよっ」

「そういうもんですかね」

「あずにゃんは何もわかってないんだねー」

唯先輩は嬉しそうな顔で、でもどこか寂しそうに言うのだった。


110 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:19:09.39 f/LNJhPao 110/252


二人で並んで飴が降るのを眺めていた。
唯先輩が寒そうに手をこすった。
わたしもその真似をした。
別に寒いわけでもなんでもなかったのに。
なんとなくわたしたちは黙っていた。
飴が跳ねる音を聞いていたかったのかもしれない。
唯先輩は遠くを見ていた。
わたしは唯先輩を見ていた。
その表情は今にも壊れてしまいそうだった。
飴の音はなんだかせつないね。
唯先輩が呟いた。

「だから、あめ降りの日はちょっとせつないよ」


111 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:19:36.21 f/LNJhPao 111/252


あのメンテナンス以来、唯先輩はときどきこんなふうに儚げな表情を見せることがあった。
わたしもそのたびにちょっとだけ心細くなった。
だけどそれもほんの一瞬のことで、すぐにいつもの唯先輩に戻るのだ。

「せつないからあずにゃんにあっためてほしいな?」

「ほしいなもなにも、もう勝手に抱きついてるじゃないですか」

「あったかーい、ねっ」

「……まあ」

こんなときにはどうしても唯先輩に対し甘い態度をとってしまう。
だからこの表情自体唯先輩のポーズじゃないかとも思える。
まあだとしたってわたしは結局、唯先輩に抱きつかれてしまうんだろうな。


112 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:20:04.07 f/LNJhPao 112/252


少しあとで律先輩、澪先輩、ムギ先輩の3人がやってきた。
カバンを傘のようにしてたたたっと歩いてくる。

「いやあ。けっこう降られちゃったよ」

「傘、持ってくればよかったじゃないですか」

「だってさ、壊れちゃったんだよ。どこ見ても売り切れだったし」

「律が振り回したりするからいけないんだ」

「なにをー。そんなこと言うならムギだってはしゃいでたぞー」

「だって、今日が飴降りなんて思わなかったもの。飴が降らない年も多いのに」

「だよねー。わたしも朝テレビで見てびっくりしちゃった」

「飴降りの日のティータイムもいいよなあ」

「ねー」


113 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:20:31.54 f/LNJhPao 113/252


休憩所の机の上にひと通りのティーセットが広げられる。
ムギ先輩が持ってきたものだ。
そして、それぞれが持ってきたお菓子。
ポテトチップスとかベルギーチョコレートとか拾ったあめとかたいやきとか。
わたしたち5人はよくこんなふうにみんなで集まってお茶会みたいなことをする。
それがいつどんなきっかけでどうしてこの5人ではじまったのかなんてことは思い出せもしないけど。


114 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:20:58.61 f/LNJhPao 114/252


「ふう……。いつムギのいれるお茶はおいしいな」

「そうそう。これがあるから毎日を乗りきれるよ」

「ありがと。それにしてもけっこう降ってるね、飴」

「こんなんだと飴屋さんは商売あがったりだな」

「そんな素敵な店があるのっ?」

「いやあ。わたしは知らないけどさ」

「なあんだ」

「駄菓子屋があるじゃないですか」

「梓の秘密基地だな」

「どういうことですか」

「ちっちゃいってことだよ」

「うるさいです」

「でもりっちゃんもいい勝負だよっ」

「その話じゃねーよ。ばかっ」

「ぷっ」

「お前が笑うかっ」

「きゃー」


115 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:21:26.55 f/LNJhPao 115/252


「どうしたの?」

「いや。さっきなめてた飴が中にぱちぱちがあるやつだったんだ」

「えーいいなあ。わたしもなめたい」

「梓、顔がこわいぞ」

「べつに」

「へえー」


116 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:21:53.90 f/LNJhPao 116/252


「そういえば、飴ってどうなっちゃうのかな」

「どうなっちゃうって?」

「降った飴は道に落ちるよね。それでそのうちなんでなくなるのかなって」

「たしかに次の日にはほとんどなくなってますもんね」

「そうそう」

「それはもちろんあれだろ。回収するんだろ」

「誰が?」

「宇宙人とか……なあ、澪っ」

「うん。そうかもな」

「あれ、いまいち怖がんないな」


117 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:22:28.94 f/LNJhPao 117/252


「だってそういうのはたいていアメクイの派生の話なんだよ」

「アメクイ?」

「うん。アメクイっていうのは動物でね、クマみたいな姿をしてるんだけど、両側の腰のあたりがぷっくり膨らんでるんだ」

「とうとう澪が恐怖現象にファンタジーで対抗し始めたぞ」

「でもわたしもそのアメクイの話聞いたことあるわ。たしか、2足歩行なんだけどゴリラみたいに手を前について歩くのよね」

「そうそう。群れを作らないで距離をとって歩くんだ。まあ、たまには組みを作ってるのもいるらしいけど」

「で、澪は見たことあるの?」

「いやないけど……でもそういう噂だし」

「へえ。じゃあ宇宙人や幽霊みたいなものじゃん」

「やめろ」

「今夜、澪が寝ているうちに、澪が拾った飴を奪いにくるかもよ」

「ひっ」

「飴捨てちゃうの?」

「だって……律のせいで飴持ってるのが怖くなった」

「じょーだんだって」

「ほんと?」

「うん」


118 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:22:57.19 f/LNJhPao 118/252


「澪ちゃん、アメクイの絵描いてよ」

唯先輩はどこから取り出したのか紙とペンを澪先輩に手渡す。

「えーと…………わたしが聞いたのはこんな感じかな。体毛は黄色なんだけど」

「あ、わたしが知ってるのもこんなのだった」

「わあっ。かわいいね」

「うん」

「やっぱり飴を拾うのはかわいい動物じゃなくちゃおかしいよ」

「だよなだよな」

「うんうん」

「梓、あれかわいいか?」

「それは……個人差はありますよ」

「そんなもんか」


119 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:23:23.91 f/LNJhPao 119/252


アメクイを見に行こう。
と、唯先輩が言い出しのは家に帰ってすぐのことだった。

「たしかめるんだよっ。わたしたちが」

「アメクイを」

「そうっ」

唯先輩はわたしのうでを掴んで走りだしている。
別に誰も同意したわけじゃないのに。
いつの間にか飴はやんでいた。

「この辺ならわかるかな」

そこは商店街の入り口のすぐ近くでちょっとした広場になっているところだった。
外はもうずいぶん暗くなっていて、街灯の黄色い光がぼんやりと円を描いていた。
夜の商店街というのは案外暗いものなんだなとわたしは思った。
自分の周囲しかよく見えなかった。
あのデパートができたせいで商店街から少なからず人が減ったせいもあるのかもしれない。


120 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:23:51.48 f/LNJhPao 120/252


「そろそろアメクイがでてもおかしくない時間だよね」

「もし、そんなものがいるならですけど」

もうだいぶ遅い時刻だった。
残念ながらアメクイらしき存在は現れない。
唯先輩はなにかしゃがんでごそごそやりはじめた。

「なにやってるんですか?」

「飴を拾ってるんだよ。よく考えたらアメクイが来ちゃったらもう飴を拾えないんだもんね」

「そんなに飴いいですか?」

「せっかくの日だもん」

「そうですかね」

わたしは立っているのに疲れて、ぱっぱっと2回地面を払って、そこに腰を下ろした。
ああ目がころころと転がっていった。
試しにひとつ手にとってみて、これがねえ、なんて呟いてポケットに入れた。


121 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:24:19.47 f/LNJhPao 121/252


しばらくあとで影がひとつ現れた。
わたしは飴拾いに熱中している唯先輩の肩をたたいた。

「ほら、先輩、誰か来ました」

「えっほんとだっ!」

影は、4足歩行に近い形で地面と背中を並行にして歩き、しきりに立ち止まってはその腕のような部分であめを拾う。
なるほど、たしかに澪先輩の絵のとおりだ。
遠いし暗いから色まではわからないけれど。

「あれがアメクイなんですかね」

「しっ。あずにゃん、小さな声で喋らなきゃ」

さっきあんな大声を上げたくせによく言うよ。


122 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:24:46.79 f/LNJhPao 122/252


そのうち影の数はどんどん増えていった。
そして影はお互いの間に一定の距離を保ちつつ徘徊を続ける。
ある一定のラインからは近づかないようにしてるみたいに。
これも話のとおりだ。
それでも、ときおりは2匹や3匹で組を作って行動しているものも発見できた。
たしか、そんな話もあったから驚きだ。

「アメクイだっ。アメクイだよあずにゃん」

「どうでしょうか」

そのまま地べたに座ってアメクイの徘徊を眺めていた。
わたしたちのすぐそばにはアメクイが寄って来なかったけど、その辺りの飴は唯先輩がみんな集めてしまっていた。
時がたつにつれ、アメクイがぽつり、ぽつり、と消えていつの間にか広場に残っているのはわたしたちだけになった。
帰り道、飴はほとんど落ちていなかった。


123 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:25:15.82 f/LNJhPao 123/252


「それにしてもホントにアメクイいたねっ」

「ちゃんと見てたんですか。自分の飴とることばっかに集中してたくせに」

「できる女はいっぺんにこなすのだ」

「なんですかそれ」

街灯の黄色をたどるようにして家を目指した。
唯先輩がポケットを叩いては、こんなにいっぱい食べきれないねーと嬉しそうに言う。
その姿を見てわたしは閃いた。
その考えを唯先輩に話してみた。

「もしかしてアメクイは無数の唯先輩なのかもしれないですね」

「何言ってんのさ。わたしは増えたりしないよー」


124 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:25:42.43 f/LNJhPao 124/252


「違いますよ。唯先輩がそうしたように、せっかくなんだから飴をたくさん集めておかなきゃってみんながみんな考えて、それでその人々がお互いの影を見てアメクイなんてものを想像したんじゃないでしょうか」

アメクイなんてものを考えつくのが、そもそもおかしい。
だって、もし他に飴を拾う影を見つければそれは自分と同じ理由で自分と同じ生き物がそうしているのだと普通は思うはずだ。
ただ、特別な瞬間――例えばあめ降りの日の夜なんかには、誰もが夢を見たくなる。
欲望に突き動かされた人々の群れなんていうのよりは、おとぎ話の中だけの動物の方がずっといい。
アメクイはそんな人々の願望が生み出したのかもしれないな。

「そんなのってないよー」

唯先輩が言った。


125 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:26:09.79 f/LNJhPao 125/252


「不思議な話なんてのはそんなものですよ」

「だって、あずにゃんもポケットいっぱいにしてるもんねー」

「……べ、別にいいじゃないですか」

「うん。特別な日だもんねっ」

「……ちえ」

「でも、わたしたちがアメクイだったなんてすてきだよね」

「そういうことが言いたいわけじゃないんですけど」

唯先輩はわたしのポケットを指差した。
今日のあずにゃんは何を言ってもダメダメだ、って笑った。
そうですねとわたしも苦笑いした。

ポケットをぱんぱんに膨らませた、2匹のアメクイが暗闇に消えていく。


126 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:27:16.43 f/LNJhPao 126/252


【くるくる】


127 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:27:56.58 f/LNJhPao 127/252


唯先輩が寝ていた。
半分だけ出たお腹が膨らんでは縮む。
口元から涎みたいなのが垂れててわたしは苦笑いした。

「ゆいせんぱいっ」

わたしは呼びかけた。
ぴくっ。
唯先輩は一瞬震えたけれど、それ以上の反応は示さなかった。
壁掛け時計を確認した。
11時。
ちゃんと唯先輩の起床時間ぴったりだ。
唯先輩を起こすのはわたしの、なんというか日課というか仕事みたいなものだった。
こうやってわたしがわざわざ出向いていかないと唯先輩は絶対に起きてこない。
人口生命がみんなそうなのかとも思ったけれど、和先輩に聞いたところ別にそんなこともないらしいからやはり唯先輩が怠け者だという他ないだろう。


128 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:28:25.07 f/LNJhPao 128/252


唯先輩は前にわたしにこんなふうに言った。
自分で起きるようわたしが文句した時だった。

「わたしはね、あずにゃんが起こしてくれなきゃぜったい起きないよ。あずにゃんがいなくなっちゃったらわたしずっと寝たままになっちゃうねー」

「なにがずっと寝たままになっちゃうねーですか」

「わたしを起こすのがあずにゃんの仕事だよ」

「……はあ」

わたしは照れたのだった。
だから、唯先輩を起こしに来るたび、わたしは唯先輩を甘やかしすぎてるんだろうなあっていつも思う。

唯先輩の耳もとにわたしは顔を寄せた。
ちょっとの間、その耳の形を見つめていた。


129 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:28:54.88 f/LNJhPao 129/252


「ゆいせんぱいっ」

「……ふぁ」

「ゆいせんぱいっ!」

「…ぅうん」

「はやく起きないとこのまま耳かじりますよ」

「もう一生起きないから……」

「うそです」

「すいっち」

「なんですか?」

「わたしの起動スイッチ耳のところにあるから……押して」

「はい」

唯先輩の耳たぶを指でつまんだ。

「だめだよ。あずにゃんのだえきに反応するんだから」

「そうですか」

ひっぱる。

「……いたいいたい」


130 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:29:22.12 f/LNJhPao 130/252


「おはようございます」

「……最悪の目覚めだよ」

「それはどうもです」

「朝シャンっ」

唯先輩が抱きついてきた。

「むう……30秒たちましたよ」

「今日は目覚めが悪いから1分ねっ」

「そんなルールはないです」

「まあまあ」

「だって最初は5秒だったじゃないですか」

「あずにゃんが死ぬ頃には24時間になってるよきっと」

「嬉しくないです」

「そんな話をしているうちにもう2分だよ」

「あ、ずるいです」

「寝覚めの悪い時は2分っ。はい、これ新ルールだからね」


131 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:29:49.88 f/LNJhPao 131/252


「はあ……。そんなことよりお客さんが来てますよ」

「それは待たせちゃだめだよあずにゃん」

「違いますそのお客さんじゃなくて……う」

「う?」

「おねーちゃんっ」

「あ、憂だっ、と純ちゃん」

「どうも」

「おねーちゃん久しぶりだねー」

「そうだねー憂。会いたかったよー」

二人は抱擁を交わした。

「3日前に会ったばっかりじゃないですか」

「嫉妬してるんだ?」

「違うから」


132 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:30:19.06 f/LNJhPao 132/252


かちかちくるりかちかちくるり。
ぜんまいの回る音がした。

「そうだ、たまにはお姉ちゃんが巻いてあげよう」

「ありがとー」

唯先輩が憂の背中側に移った。
ぜんまいの巻かれる音がした。
きいぃぃっちぃっきいぃぃっちぃっきいぃぃっちぃっ。
憂のぜんまいが左に回る。
ぜんまいを回されるというのはどんな気分がするものなんだろうなと、わたしは考えていた。

憂はロボットだった。
それもぜんまい式の。
ロボットといっても見た目は人間とまったく同じだった。そういう意味ではロボットも人工生命とほとんど変わらない。
違うのは素材くらいのものだ。
火星では多くのロボットが昼夜あらゆる役目をこなしている。この街でもよくロボットを見かけるし、後であの人は実はロボットだったのだと知って驚くこともまあまあよくあることだった。
ただ、ぜんまい式のロボットというのをわたしは憂の他に見たことがない。
それは憂が旧型からなのかもしれないし、またはどこか別の遠い場所で作られたからなのかもしれなかった。
そしてそれはあながち間違った話でもないのだろう。
憂はゴミ捨て場に捨てられていたのだ。

唯先輩が憂を拾ってきたのは、よく晴れた日の夜のことだった。
その日唯先輩はたい焼きのあんこを買いに近くの店に出かけていって、夜遅くになっても帰って来なかった。
心配になったわたしが迎えに行くと、そこには女の子を引きずって歩く唯先輩の姿があった。
わたしは唯先輩を手伝い、二人でそのロボットの女の子を家の中に招き入れた。
ロボットは完全に止まっていた。
死んでいる(ロボットだから壊れていると言うのかもれない)と、最初わたしは思った。
出し抜けに、唯先輩はぜんまいを左側に回しはじめた。
動くかな。動くといいよね。動くよね。
唯先輩は呟いていた。
わたしは大丈夫ですよって、唯先輩とそのロボットを励まし続けた。
あるところでかちり、という音。
ロボットはゆっくりと起動した。
わたしたちは顔を見合わせて、喜んだ。
ロボットがわたしたちに向かって照れくさそうにはにかんだ。
そのロボットの記憶に残っていたのは、憂という名前と自分が妹として作られたということだけだった。
というわけで、憂は唯先輩の妹になった。

今思えばひとつ不思議な事がある。
その時は気が付かなかったんだけど、あらゆるぜんまいは右巻きだった。


133 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:30:46.94 f/LNJhPao 133/252


「相変わらずここのたいやきはいけるじゃん」

「あ、タダ食い禁止っ」

「まあまあそう固いこと言わないで」

「ただでさえ売れ行きが悪くて困ってるのに」

「そうなの?」

「なかなか世知辛い世の中なんだよ」

「もっと唯先輩がサボらずに働けばいいんですよ」

「むむう……それは無理だよ」

「ほら」

「あはは」

「まあ、梓と唯先輩じゃあしかたないんじゃない」

唯梓「なんだとー」

「だって、ほらメニューもひとつしかないし」

「失礼な。うちはたい焼き一筋で勝負してるんだよっ」

「そうじゃなくてですね。例えばあるじゃないですかほら、あんこだけじゃなくて」

「なにが?」

「クリームとか」

梓唯「あ」

「そうかその手があったか」

「気づいてなかったの? 梓ちゃんも」

「うん」


134 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:31:15.82 f/LNJhPao 134/252


「純ちゃんすごーいっ。天才っ」

唯先輩が純に飛びついて頭をわしゃわしゃ。

「どうせ純は食べることしか考えてないからそんなことが思いつくんだ」

「あ、嫉妬だ」

「だから、違うっ」


135 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:31:43.73 f/LNJhPao 135/252


「じゃあさっそくクリームを仲間入りさせよう」

「でも、クリームってどう作ればいいんでしょうね」

「デパートで買ってくればいいんじゃない?」

「だめでしょう」

「あ、わたし作り方知ってるよ」

「ほんとに?」

「うん。前に見たんだ」

「どうやるのでしょうっ憂先生」

「あ、でも材料がないかも」

「じゃあわたし買い行ってくるよ」

「でも、わたしがいかないと何買えばいいのかわかんなくなるよ、たぶん」

「あ、そうだね。唯先輩はどうします?」

「うーんでもそろそろ交信の時間だからなあ」

「交信?」

「宇宙人との交信だよっ」

「へえおもしろいね、なにそれ?」

「ラジオのこと。この時間になるとホントは放送がないダイアルから音楽が聞こえるんだって」

「そうなんだ」

「唯先輩っわたしもそれ聞きたいです」

「ただし、何を聞いちゃっても自己責任だよー」

「いえすっ」

「純は残ると」

「宇宙人との交信っ」


136 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:32:31.06 f/LNJhPao 136/252


わたしたちはゆっくりとしたペースで歩いていた。
デパートはこの街の端っこの方にあるからけっこう遠い。

「まさか憂にたいやきのクリームの作り方を教わるとは思わなかったよ」

「梓ちゃんも、売れないのになにも手を打ってないってのも驚きだよ」

「ある意味ね」

「えへへ」

「でも、憂はほんとになんでもできるね。炊事家事でしょ運動神経もいいし頭もいい」

「でもさ、せっかくわたしもロボットなんだからもっとすごいことができてもよかったと思うな」

「たとえば?」

「……空をとぶとか」

「空飛びたいの?」

「ロケットパンチとかでもいいかな」

「憂ってさ」

「うん」

「いつもそういうこと考えてるの?」

「たまにだよ。梓ちゃんもそういうこと考えない?」

「考えるかも。空飛びたいとか」

「でしょー」

「まあそうかもね。憂はすごいからなんでもできるような気がするけど空は飛ばないか」

「飛べたらね、いいね」


137 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:32:58.35 f/LNJhPao 137/252


憂が空を見上げたのでわたしもなんとなくそれに従った。
あ。
憂が声を上げた。

「梓ちゃんあそこ見て」

「どこ?」

「ほら、そこそこ……あの緑の」

「ああ、あれのこと?」

「うん」

空のなかほどあたりに、うっすら緑がかった円が見えた。
ぼやけていて今にも消えてしまいそうだった。

「あれは地球なんだよ」

「あれが、あの地球?」

「うん。地球はねときどき……そうだなあ、たまによりはよくあるけどしばしばよりは少ないくらいで緑に見えるんだよ。ほら、わたしたちの火星なんかと違って緑があるから」

「へえー。そうなんだ」


138 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:33:25.66 f/LNJhPao 138/252


「知らなかった?」

「うん。憂は天体とか好きなの?」

「別にそうじゃないんだけどね。前にテレビでやってたのを見たんだ」

「テレビはなんでも知ってるんだ」

「うんうん。それにあれだよ、地球に調査団が着陸したのがあったから特番やってたんだよ」

そんなこともあったね。
わたしは肯いた。
ずいぶん昔のことのようにも思えた。
結局、彼らは帰ってきたんだっけ。


139 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:33:55.76 f/LNJhPao 139/252


「すごいよねー。昔、地球に人間がいたんだって言うんだよ」

「それってほんとなのかな?」

「そうみたいだよ。テレビでは映像も写ってたよ」

まあ、ときどきテレビは嘘をつくんだよね、とわたしは思った。
観客を楽しませるためにジョークを言ったつもりなんだろう。たぶん。
そのせいで見ているわたしはときどき腹が立つ。

「梓ちゃんはテレビ見ないの?」

「けんかしちゃって」


140 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:34:23.17 f/LNJhPao 140/252


うちのテレビが一日にあまりに多くの嘘をつくせいでわたしはとうとう我慢が利かなくなって頭を叩いてやった。
すると、テレビのやつはすねて、それ以来なにも映さなくなった。
なのに唯先輩の前では嬉々としていろんな番組を流すんだ。
そういうところまた気に食わない。

「テレビにまで嫉妬?」

「そんなんじゃないって」

「梓ちゃん、おねーちゃんのことになるとすぐムキになるから」

「あれはわたしとテレビ、二人の問題だよ」

「そうかなあ」

「そうだって」

「はやく仲直りできるといいねー」

「まあがんばってはみるけど。いちおう」


141 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:34:51.57 f/LNJhPao 141/252


「それで、なんの話してたんだっけ?」

「地球の調査団の」

「そうだった。えとね、地球人は火星人にそっくりらしいんだって」

「でも地球人に会ったわけじゃないんでしょ」

「でも、なんかいろいろ科学はすごいんだよ。だから、地球人が火星人になったんだっていう人もいるみたいだよ」

「なんかおもしろい考えだ」

「だよねー。テレビが言うにはね、地球人が火星に移住したらしいの」

「へえ」

「でもみんながみんな移住したわけじゃなくて、きっと大変なことがあったんだと思うけど、地球から逃げ出した少しの人が地球のコピーを火星に作ったんだって言ってた」

前にもこんな話を聞いた気がするな。
あれはたしか、そう、この街の成り立ちについての話だったような。


142 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:35:20.57 f/LNJhPao 142/252


「くるくるなんだって」

「くるくる?」

「平行世界ってわかる?」

「うん。パラレルワールドってやつだよね」

「火星はそれなんだって地球の」

選ばれなかった未来の続きの話。
だとすると、彼らは地球では得ることのできなかった未来をこの星で描こうとしてたのだろうか。
というより、わたしがまさにそれなのかもしれない。
なんてね。

「でも、そのふたつが、こう、横に並んでるんじゃなくて、あ、違う。横には並んでるんだけどつながってるんだって。ちょうど渦巻きの隣の線どうしが平行に見えるみたいに」

「でも、結局は1本の線だってこと?」

「うん」

「ふうん。でも、おもしろい考えだけどやっぱ違うんじゃない?」

「そうだねー。わたしもそう思う」


143 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:35:48.99 f/LNJhPao 143/252


そうしているうちにデパートに着いた。
憂がさまざまものを買い物のカゴに放り込んでは、これはこうこうに使うだとか、このメーカーは安いけどあまり品質がよくないからあっちを買ったほうがいいとか、なんとかを使うのが一般的なんだけどなになにを使ったほうがよりいいのだとか、説明してくれたんだけど、残念なことにあまりわたしには理解できなかった。
後で紙にでもまとめてもらおう。
それにしても憂はいろんなことを知ってるんだね、とわたしは言った。
憂は、そうかなあそんなことないよ拾い物の知識ばっかりだよと照れた。

デパートから出た。
買い物袋をぶらさげたわたしに憂が持とうかと尋ねた。
わたしは遠慮した。


144 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:36:16.49 f/LNJhPao 144/252


「時間かかちゃったねー。おねーちゃんと純ちゃんはしっかりやってるかな」

「さあ。だめじゃない?」

「あれれ」

「はなから期待してないんだって」

「でも案外ちゃんとやってるかも」

「でも案外なんだ」

「あ」

「あはは」

「でも、二人はきっとやるときにはやるタイプだよ」

「やるときがくればいいんだけどね」


145 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:36:46.41 f/LNJhPao 145/252


外は暗くなりはじめていた。
だから、空に浮かぶ緑の星がさっきよりもずっと濃く見えた。
それがいつも見ている地球と違っていたからだろうか、わたしは急に空っぽの気持ちに襲われた。

「ねえ、憂」

「なに?」

「わたしって嫉妬深いのかなあ」

「そんなことないと思うよ。あれはじょうだんだよ」

「それはわかるけど。でもなんていうか嫉妬深くなれちゃうていうか」

「どういうこと?」

「さみしいって言えばいいのかな」

「さみしい」

「いつでも、頭の中にぽっかり穴が開いてるような感じがするんだ」

「穴?」

「うん」

「きっと、それは思い出が足りないからじゃないかな」


146 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:37:12.82 f/LNJhPao 146/252


「思い出?」

「実はねわたしもそんな時があるんだ。梓ちゃん、思い出せないでしょいろんなことが」

「うん。自分がなんなのかとか」

「その分さみしい気がするんじゃないかな。ほら、思い出ってあるだけですごく暖かいから」

「たしかに寒いのと寂しいのは似てる」

「たぶんわたしたち以外のみんなも同じだと思うな。人工生命なんかも売れてたり青春体験切符なんてのもあるから。あれだってきっと思い出を手に入れるために買うんだよ。接着して思い出を作るんだよ」

「言われてみれば」


147 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:38:30.99 f/LNJhPao 147/252


「梓ちゃんだって接着して見た景色はちゃんと覚えてるでしょ?」

たしかにその通りなのだった。
一番最近見た夢は先輩たちと夏合宿に行った夢で、それはまるでホントにあったかのように思い出せる。
海ではしゃぎあったこと、先輩たちとバーベキューをしたこと、花火をしたこと、唯先輩にギターを教えたこと、肝試しなんかもしたっけ。
どれも、もう確固たるわたし自身の経験になってしまっていた。

「憂は? 憂はどうするの、思い出」

「拾ってくるんだよ」

「拾う?」

「うん。もういらなくなった思い出がいっぱい溜まってる場所があるんだよ」

「そんなところが?」

「だから、ほら、言ったよね。拾い物の知識だって」

行ってみる?
憂が訊いた。
わたしは肯いた。

148 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:38:58.30 f/LNJhPao 148/252


そこにはすぐ着いた。
わたしたちは橋の上にいた。
すぐ下をカラフルなしゃぼん玉のようなものが流れている。
よく見るとそのひとつひとつで映像がきらめくのがわかる。
その流れは徐々に広さを増しながらずっと奥まで伸びていて、最終的には河口のようになったところへ流れつき、そして広大な海へと続いていた。
しゃぼん玉の海。
どこか遠くから波のような音がした。
その間にも、海は休みなくあらゆる色を乱反射させていた。

「おーい、梓ちゃんこっちこっちいいいー」

気がつくと憂がずいぶん遠くから叫んでいた。
その辺はごつごつした岩場で、わたしは慎重にそこまで歩いていった。


149 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:39:26.06 f/LNJhPao 149/252


「まさかこんなところがあったなんてね」

「すごいでしょー」

「うん。きれいだ」

「それでね、ここなんだ」

憂が指さしたのはしゃぼんの海のすぐそばの岩礁で流れがとどまったところ、本当の海なら潮溜まりなんて呼ばれる場所だった。
そこには海に混じれなかったしゃぼん玉たちがより集まっている。

「よかったあ。ちょうど干潮で。流れてるところだと思い出を拾えないから」

「そうなの?」

「思い出は案外繊細みたい。あ、しゃぼん玉みたいのが思い出だよ」

「そんな感じはしてた」

「純ちゃんなんか、雑に扱ってすぐ割っちゃうんだよ」

「純も知ってるんだ」

「うん。純ちゃんとはよく行くんだ。それで一緒の思い出を分けあったりするから、なんだかずっと昔から知り合いだったみたいに思えるよ」

「そうなんだ」

「梓ちゃんにも、もっとはやく教えてあげればよかったね」

「そんなことないよ。それにこうやってここに来るのだって十分な思い出だよ」

「それもそっか」

「うん」


150 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:40:08.81 f/LNJhPao 150/252


「梓ちゃんってさ、今を大事にしてるよね」

「そう?」

「おねーちゃんも言ってたよ。あずにゃんは接着してもぜったい先の未来とか遠い昔に行かないって」

「それはさ、ただ怖いだけだよ。未来も過去もわたしにはわかんないから、わかんないものをいじりたくないんだ。触らぬ神に祟りなしっていうのとは違うかな」

「そっかあ。でも、わたしたちが子どもの頃から知り合いだったなんていう思い出もおもしろかったのにな」

「たしかにそうかもね」


151 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:40:36.58 f/LNJhPao 151/252


憂は思い出のとり方を教えてくれた。
といってもそれは簡単で、そっと両手ですくうだけだ。
そのしゃぼん玉の思い出がどこから来ているのかはわからないらしい。誰かが忘れてしまった思い出なのか、それとももう死んでしまった人の思い出なのか。
わたしたちはその思い出を自分の世界にあてはめるようにちょっと変形させる。ちゃんと物事のつじつまが合うように。
だけど、あまり無理に変形を行うとしゃぼん玉自体が割れてしまうのだ。
だからこっそりとやるんだよ、と憂は言った。
思い出の中の誰かが傷ついてしまわないように、こっそりと。

「なんだか泥棒みたいだ」

わたしは言った。

「もういらなくなったやつだから、再利用だよ」

憂は笑った。
ロボットにしかできないような完璧な笑顔。
わたしはホッとした。


152 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:41:04.09 f/LNJhPao 152/252


「梓ちゃん、拾えた?」

「うん。これにしようかなって」

わたしの手のひらの中で、ひとつのしゃぼん玉が映像を映していた。

「どんな思い出?」

「友だちと映画を見に行くってやつ。たぶん、その友だちは憂だと思うんだけど」

「ちょっと見せて」

「うん」

「うんうん。たしかにこんなこともあったねー」

「もうわたしたちの思い出になったの?」

「うん。見るだけでいいんだよ」


153 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:41:54.22 f/LNJhPao 153/252


「憂は決まった?」

「うーん……まだ」

「姉妹のやつにすれば?」

「おねーちゃんの?」

「うん。わたしと憂はあの日知り合ったってことでもいいけど、お姉ちゃんとは昔の思い出があってもいいはずじゃない?」

「ああ、そうだねー。思いつかなかったよ」

「そう?」

「あ、でも。いきなりわたしが勝手に選んだ思い出を見せても大丈夫かな」

「大丈夫じゃない? 唯先輩だったら何もなくて、こんなことがあったねーって言ったってきっとそうだねって言うと思うよ。あ、そうだなんなら憂が作っちゃってもいいかもね」

「わたしが?」

「うん。楽しいやつを。きっと唯先輩だったら受け入れてくれるよ」

「それはレベル高いなあ」


154 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 05:42:21.28 f/LNJhPao 154/252


その辺のしゃぼん玉を手にとっては戻して、憂は姉妹の思い出を探しはじめた。
わたしはその間、海を眺めていた。
この思い出はどこから来てどこに行くんだろう。
どこにもいけないこの街で。
もしかしたら、ずっと同じところを回っているだけなのかもしれないな。
くるくる。
手についたしゃぼん玉の表面のぬるぬるの匂いを嗅いでみた。
塩の匂いがした。
それはまるでホンモノの海水のようだった。


157 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:25:25.09 2xq7eUE5o 155/252


「梓ちゃん右と左どっちが好き?」

「2つじゃダメなの?」

「別にだめじゃないけど、あんまり欲張っても仕方ないから」

「そっか。じゃあ、右っ」

「よしっこっちにしよう」

憂は残りの1つを海に戻した。

「ちなみどんなの?」

「ちっちゃい頃、おねーちゃんとのクリスマスの思い出だよ。おねーちゃんが雪を降らせようとして……」

憂はそんなふうに思い出の中身を話してくれた。
ホントにそれがあったみたいに話すんだ。
まあでも、わたしだってその話――憂がずっと昔から唯先輩の妹だったということを信じはじめていた。
 

158 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:25:52.76 2xq7eUE5o 156/252


「そろそろ、帰る?」

「そうだね」

「あ、そうだ。ちょっとトイレ行っていい?」

「うん。でも、梓ちゃんはよくトイレ行くね」

「そうだっけ」

「思い出を作ってみたんだ」

「そういうのはいらないんじゃない?」

「えへへ」

わたしたちは笑った。
かちかちくるりかちかちくるり。
ぜんまいの回る音がした。



159 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:27:43.08 2xq7eUE5o 157/252


【思い出3(2つのうちから選ばれなかった思い出の話)】



160 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:28:12.07 2xq7eUE5o 158/252


妹は笑っていた。
大学ノートに書かれた文字を読んでいた。
姉の部屋を掃除しているとき見つけて、そしてそのまま読んでいた。
がちゃり。
ドアが開いて姉が入ってきた。
熱中している妹はそれに気が付かない。
姉は妹の名前をよんだ。
わあっ、と妹は大げさに驚いてみせる。

「何してるのー?」

「掃除してたらね。おねーちゃんが昔作ってくれたお話があったんだよ」

「そんなことあったっけ?」

「ほら、まだ小学生に上がりたての頃、よく」

「うーん。そうだっけ」

「そうだよー。忘れちゃったの?」

ここで映像が滲む。
声にノイズが混ざる。
フィルムが傷ついた映画のように。

「……たとえば……じぃいいい……ここんななな話」

「……ぎちぃいい、んな……どんな?」

少しあとで映像は元に戻る。

「それはいらなくなっちゃった世界の話なんだけどね」

「うん」

「女の子、ぜんまい仕掛けのロボットが現れて、その世界を壊そうとするんだ」

「怪獣さん?」

「おねーちゃんほんとに覚えてないんだー。ちがうよ。そのロボットのぜんまいを回すと惑星がいつもよりずっとはやく回っちゃうんだよ。それだからすぐみんな壊れちゃうんだよ」

「ふむふむ。それで?」

「それである女の子がロボットを拾うんだけどね。間違ってぜんまいを逆向きに回しちゃうんだよ。だから、世界は壊れないし止まったままになっちゃうんだ」

「あ、思い出したっ。そのロボットって」

「うん」

「じぃいいっ……だよねっ」

姉が言った妹の名前にノイズがかぶる。

「そうだよ。それで女の子のモデルがおねーちゃんなんだよ」

「うん思い出したあ」

「ノートにはそこまでしかないんだけどその後はどうなるんだっけ?」

「その後はねー……」

消灯。


161 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:28:44.71 2xq7eUE5o 159/252


【思い出4】


162 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:29:12.40 2xq7eUE5o 160/252


「次の曲で我々放課後ティータイムは解散しますっ」

「わあああっ」

「終わらないでー」

「じゃあ行こうか、みんな」

「うん」

「梓ちゃん、泣いてるの?」

「えーと……」

「じっ」

「……ちょ、ちょっとだけ」

「そうだよ、わたしたちは別れるんじゃないんだよ。別々の道を行くんだよっ」

「それではラストソングっ。わんつーすりーっ」


163 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:29:39.72 2xq7eUE5o 161/252


「すぅっ…………君を見てるといつもはーとドキドキっ……」

「はい、かっとかっとー」

「あー歌うとこだったのに」

「なかなかいい出来だったよな」

「うんっ。もうこれで最後感がすごくでてたよねー」

「ねえねえ、わたしのアドリブどうだったかしら?」

「あれはすっごくよかった。なんかこう、最後って感じがよく出てた。ただなあ……梓が」

「だって、いきなりふられたってわかりませんよ。アドリブ苦手ですし。ていうかこんなことより……」

「あのさあのさ、わたしのもよかったよねー」

「ぜんぜんよくないです。別れるのと別々の道行くのとは同じじゃないですか」

「ちぇ。あずにゃんは自分は真剣にやらないくせにダメ出しばっかなんだもん」

「じゃあ唯先輩は真剣に練習してくださいー。ていうかなんですかデスデビルごっことかこれとか」

「ラストライブごっこね」

「いつかのラストライブのためのリハーサル、これも練習だよっ」


164 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:30:08.53 2xq7eUE5o 162/252


「そんな練習はしたくないですよ」

「梓は放課後ティータイムが大好きだもんなー」

「別にそんなんじゃ……」

「嫌いなの?」

「好き、ですけど」

「大丈夫だよっ。放課後ティータイムは解散なんかしないよ」

「そういうことじゃなくて」

「ほら、梓ちゃんの大好きなお茶よ」

「あ、どうも」

「おいしい?」

「はい」

「えへへーあずにゃんもすっかりこの空気の一部だねー」

「そんなこと……」

「たまにはこうやってお茶もいいだろ」

「……まあ。たまあああにはこういうのも……たまにはが多すぎですけど」

「やったな唯」

「うんやったねりっちゃん」

「なんですか?」

「ちょっといい話ふうに練習サボろう大作戦成功だねっ」

「うんっ」

「いえーいっ」

「いえーいっ」

ぱしんっ。


165 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:30:35.91 2xq7eUE5o 163/252


「あー、ひどいですよっ。ていうかムギ先輩まで一緒になって……」

「えへへ。面白そうだったからつい」

「やれやれ、そろそろほんとに練習するぞー」

「あら、澪さんずっと蚊帳の外でさびしいのかしら?」

「う、うるさいっ」

「いちっ」

5人で机を囲んで本日二度目のティータイム。
せっかく楽器まで用意してこれだから困ってしまう。

「でも、こんなに紅茶ばっかり飲んでるとわたしたちが紅茶になっちゃうって思うよねー」

「いや思わないって」

「朝起きたら体がどろどろのぐちゃぐちゃになってたりしてなあ」

「やめろ」

「澪ちゃんおかわりいる?」

「い、いらないっ」

「結局、今日も練習しないんですねー」

なんんとなくだらだらした空気。
わたしは今日はもう練習ないなあと諦めていた。


166 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:31:02.76 2xq7eUE5o 164/252


「なんか退屈だなあ」

「ねー」

「よく言うよ」

「あれでも作るか」

「なになにー?」

「活動記録」

「なんでまたそんなものが」

「ほらわたしたちそろそろ卒業じゃん。だからさ、なんーか残しておいたほうがいいのかなってさ」

「そういえばクラスの子も作るって言ってたね」

「あー言ってた言ってた」

「だからわたしたちもそういうの欲しくね」

「またはじまった」

「だいたいなんのためにそんなもの作るんですか」

「そりゃあわたしたちの輝かしい功績を後世に残すためだっ」

「そんなものがあるといいんですけどね。どうせわたしたちの活動記録なんてお茶お茶休憩お茶練習遊びお茶ですよ。そんなもの誰が見たがるんですか」

「やってるほうは楽しいのにね」


167 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:31:32.00 2xq7eUE5o 165/252


「あずにゃん、でもさでもさ」

「なんですか」

「宇宙人とかならわたしたちの活動記録でも知りたがるんじゃないかな」

梓澪「それはおこりえないっ」

「わわっ。澪ちゃんまで」

律先輩が何かささやいて、澪先輩が耳をふさいだ。
どこか楽しそうな顔。
ぱしゃっ。
シャッター音。
でも、もうあるよねえ。
そう言った唯先輩が携帯をぽちぽちやりはじめた。
みんながそれを覗きこんだ。
まずさっきの澪先輩が画面に映り、その後で様々な写真に切り替わっていく。
ちょっとしたけいおん部の活動記録。


168 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:32:01.12 2xq7eUE5o 166/252


「あ、りっちゃん変な顔ー」

「ぷっ」

「笑うなー」

「あ、澪ちゃん寝てるね」

「こんなのいつ撮ったんだっ」

「ヘヘへ」

「けしてー」

「だめだよー活動記録だもんっ」

「携帯よこしなさいっ。このー」

「ぼうりょくはんたーい」


169 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:32:29.27 2xq7eUE5o 167/252


いつの間にか、カーテンの開いた窓から西日が差し込んでいた。
そろそろ帰るか。
律先輩が言った。
そうだな、と澪先輩。
わたしが部室を最後に出た。
夕日に染まった部室はどこか欠けたような感じがした。
扉を閉める時の大きな音にわたしは少し震えた。


170 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:32:57.97 2xq7eUE5o 168/252


帰り道、律先輩澪先輩、ムギ先輩と順に別れ、唯先輩と二人になった。
頭上を飛行機が横切った。
わたしたちは顔を上げてそれが消えてしまうまで見守っていた。

「南極に行きたいねー」

「なんでよりによって南極なんですか」

「南極にいけばみんながわたしたちの毎日を、いいねってほめてくれるのになあ」

「南極に人は住んでませんよ」

「でも、ペンギンがいるよー」

「ペンギン?」


171 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:33:24.91 2xq7eUE5o 169/252


「ペンギンさんはこうていしてくれるんだよ」

「あ……こうていぺんぎん」

「ぴんぽーんっ」

「ダジャレじゃないですか」

「えーでもきっとペンギンさんならわたしたちのこともすごいって認めてくれるよ」

「ペンギンが」

「肯定ペンギンさんが」

「まあ、そうかもしれませんね」

「だって、ペンギンって鳥なのに空飛べないけどいつもあんなに楽しそうなんだよ?」

「自分たちで肯定しあってるからですか」

「うん絶対そうだよ」

「でもそういえば、にわとりも飛べない鳥ですけど、こくこくこくこくいつもうなずいて歩いてるようにも見えますよね」

「でしょー。みんな空飛べないのを自分たちでそれでもいいよって言い合ってるんだよ」

「でもそれってずるいじゃないですか。自分たちで肯定しあうのは」

「どうかなあ。そのとき励まされたらそれでいいんだよ、たぶん」

「そうですかね」

「それにきっとペンギンもにわとりもそんな難しいこと考えてないよ。あずにゃんは、ほら無駄に考えるのが好きだから」

「唯先輩なんて3歩歩けばみんな忘れちゃいますもんね」

「こけーこけー」

「つつかないでください」


172 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:33:51.48 2xq7eUE5o 170/252


「あ、せっかくだから動物園いこうよ」

「今からですか?」

「うん」

「いいですけど、ペンギンいるのは皇帝ペンギンじゃないですよたぶん」

「それでもいいよー」

わたしたちは動物園に行った。
残念なことに入り口の門は固く閉じられていた。
『本日は休園です』
いろんな動物の匂いが、ぐちゃぐちゃに混じった匂いがした。
なんだか落ち着く。
誰か鳴いた。


173 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:34:18.68 2xq7eUE5o 171/252


「休みですね」

「そうだねー」

「残念ですね」

「あずにゃんは動物園好き?」

「好きですよ匂いとか雰囲気とか。唯先輩だってそうじゃないんですか?」

「うん、いっぱい動物さん見れて楽しいよね。だから好きだったんだ」

「だった……今は?」

「今も好きだよもちろん。でも、最近たまに考えるんだ。動物園にいる動物さんたちはどんな気分なのかなって」

「そんなに悪い気もしないんじゃないですか。人気者ですし」

「ほんとに?」

「たぶん」

「檻の中でも悲しくならないかな?」

「でも、楽しいこともありますよ。きっと」

「それじゃあわたしたちとおんなじだ」

「そうですね」

「よかった」


174 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:34:45.13 2xq7eUE5o 172/252


「変です」

「そうかな」

「唯先輩らしくないです。そんな難しいこと考えるのは」

「えっへん。成長したんだよ」

「どうですかね」

「なんだとー。くらえー」

「あははっ、くすぐるのやめてくださいよっ」

「このこのー」

「はっひゃひゃっ」

「ほらほらーっ」

「あーひゃっひゃっひゃっ……ってやめてくださいっ」

「あんっ」

「はあはあ。疲れました」

「わたしも疲れた」

「それはずるいです」

「えへへ」

「くすぐってやりましょうか」

「それはかんべん」

「まったく」


175 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:35:30.07 2xq7eUE5o 173/252


「……でもさっ」

「はい?」

「もしわたしが難しいこと考えるとしたらそれはあずにゃんのことだと思うな」

「なんですかいきなり」

「なんでもなーい、よ」

「そうですか」

「帰ろうね」

「そうですね帰りましょうか」


176 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:35:57.62 2xq7eUE5o 174/252


夜が街に侵入しようとしていた。
唯先輩がぽつり呟いた。

「ペンギンになれたらいいのになあ」

「唯先輩が?」

「うん。ペンギンになって毎日海に潜って魚の代わりにたいやきを食べるんだよ」

「おかしいですね」

「そしたらあずにゃんはにわとりだねー」

「なんでそうなるんですか」

「決まった時間にわたしを起こしてくれるんだよ。こけーこけーって。それはあずにゃんの仕事だからね忘れちゃだめだよ」

「そうですね。忘れませんよ」

「よかったよかった。あ、そうだ帰りにたいやきでも買ってこうよ。なんか話してたらお腹空いちゃった」

「いいですよ」

「あずにゃんたいやき好きだもんねー」

「べつに……唯先輩だって好きじゃないですか」

「でもわたしはあずにゃんのほうが好きだよ。海に潜ってあずにゃんを食べる毎日っ。がぶりっ」

唯先輩が手でくちばしを作ってわたしのうでに噛み付いた。

「うわっ」

「がぶがぶーっ」

家に着くまで唯先輩はわたしのうでをそのまま掴んでいた。
手をつないでるみたいで、わたしはずっとそっぽを向いたままだった。



177 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:36:25.82 2xq7eUE5o 175/252


【青春18きっぷ】


178 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:36:53.77 2xq7eUE5o 176/252


『青春18きっぷで青春を取り戻そうっ!』

「な、取り戻すべきだって」

律先輩がたいやきから口を離して言った。
食べかけのその切り口から濃い紫色がのぞいた。
わたしたちはたいやき屋の入り口付近でティータイム中だった。
なんでわざわざここでティータイムしてるかといえば、唯先輩がこんな提案をしたからだ。
デモだよっデモ。はんたーいはんたーいっの方じゃないからね。わたしたちがここでたいやきを食べればお客さんがやってくるんだよ。あ、だけど、売れないことに反対してるっていえばそうともいえるよね。ダブルデモだねダブルデモっ。
そうですね、とだけわたしは答えた。
誰かやって来ないものかとわたしは通りを眺めていたが案の定誰も現れない。
諦めて机の上に視線を戻した。
たいやき、ティーカップの中の紅茶、そして問題の切符が5枚。


179 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:37:21.45 2xq7eUE5o 177/252


「青い春だねりっちゃんっ」

「そうだぜー。青春っていえばな、坂道を夕日に向かって走るんだ」

「へえー。青春っておもしろいのねー」

「いや、それは違うだろ」

「でも、やっぱうさんくさいっていうか、よくないんじゃないんないですか」

「なにが?」

「ほら、脳ミソをいろいろしたりするーなんて噂もあるくらいですし」

「え……そうなのか?」

「そうですよ。旅から帰ってきた人が狂ってしまったなんて話、聞いたことありません?」

「やっぱ、やめよう」

「おい梓怖い話で澪を買収するなんてずるいぞっ」

「別にそういうつもりじゃ」


180 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:37:49.59 2xq7eUE5o 178/252


「だいたいなあ梓はいいよ。唯とくっついていけるもんな」

「なんですか」

「あずにゃん、いっちゃったね」

「先輩はうるさいです」

「むー」

「だってあれだろ、ほらなんだっけあの夜の……」

「接着ですか」

「そうそう。あれで青春にいけるもんな」

「まあ、夢ですけどね」

「夢でもいいじゃんっ」

「ちょっと待ってっ……夜のとこもうちょーっとくわしく」

「いいですってば」

「あずにゃんがわたしに抱きついてねー唯せんぱーいってね」

「それでそれで?」

「うそやめっ」


181 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:38:18.66 2xq7eUE5o 179/252


「というかムギホントにいいの? たしかこの切符けっこう高価だったと思うんだけど」

「うん。お父様がもらったんだけど、いらないから好きに使ってくれって」

「へえー。やっぱすごいなあ、ムギんちは」

「というわけで行こうっ」

「なにがというわけですか」

「じゃあ、梓、留守番でいいのかー」

「それはやですけど」

「それにあずにゃん、この5人でいくのは初めてなんだよ」

「……そうですね。じゃあ行きましょうか」

「よっしゃーっ。じゃあ明日6時集合なー。遅れるなよ、唯」

「あずにゃんに起こしてもらうからへいきだよっ」


182 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:38:46.09 2xq7eUE5o 180/252


唯先輩とわたしの二人分の切符を渡された。
紫色のいかにも怪しげな見た目。
青春に戻れる切符、それが青春18きっぷだった。
といっても若返ったりするわけじゃないらしい。
仮想世界での青春を体験できるとかなんとか。
そんなふうに広告(主にCM)で紹介されている。
それだって怪しいものだ。
今までそんなのただの噂話やよくあるうますぎる話の類に思っていたのだ。
まあでもこうして実際切符を目の前にするとそういうことがあってもおかしくはないかなという気分になってくる。
結局は接着と似たようなものかもしれない。
だとしたって、それは夢とかいう怪しくてよくわからないものにすぎないんだけど。


183 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:39:15.70 2xq7eUE5o 181/252


次の日、わたしたちは電車に乗っていた。
もう廃線になってしまった駅には怪しげなおばあさんがいて、切符を渡すと次の電車に乗るよう告げられた。
次の電車と言ったってすでに電車は着いていたわけでそのまま電車に乗り込むほかなかった。
ドアが閉まる直前おばあさんが、いい旅を、と言った。

「わたしたちだけしか乗ってないんですね」

「まあでもそっちのほうが気楽でいいかな」

「おおっ景色が動くよっ」

「すごいな」

「景色ムービングっ」

「はしゃぎすぎですよ」


184 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:39:44.18 2xq7eUE5o 182/252


「あれね、電車って話には聞いてたけど乗るとなんだか不思議な感じね」

「がったんごっとん揺れてるよー」

「うあわっ倒れるー…………唯、今まで楽しかった……よ」

「りっちゃーんっ」

「電車内では他人に迷惑書けないようにって貼り紙ありますよ」

「わたしたちは他人じゃないっ」

「じゃないっ」

「仲間だっ」

「りっちゃんっ」

「ゆいっ」

「りっちゃーんっ」

「ゆーーいっ……あ、こけた」

「りっちゃん……今まで……」

「デジャヴ?」


185 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:40:13.06 2xq7eUE5o 183/252


「まったくお前らは……。でも、なんで電車なんだろうな。いや切符だから電車っていうのはわかるけど」

「わたしももっとハイテクっぽいなにかがあると思ったんですけど」

「電車の方が青春っぽいからじゃない?」

「そうなんですか」

「わからないけど」

「きっと、隠してるんだよ」

「なにをですか」

「技術をだよ。他の人に盗まれないように」

「電車の振りして?」

「カモフラージュっ」


186 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:40:42.97 2xq7eUE5o 184/252


そうこうしているうちに電車はどこかにたどり着いたみたいだった。
ぷしゅうううがちちぃぃ。
大げさな音をたてて電車が止まった。
一度、大きく揺れた。
扉が開いた。

「あ、部室」

気がつけばわたしはそう口に出していた。
言葉の方から勝手に飛び出してきた感じだった。
なんでそんなふうに言ったんだろう。


187 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:41:10.58 2xq7eUE5o 185/252


部屋の中央あたりに大きな机があった。
それを囲むように椅子が5つ。
前から知っていたみたいにそれぞれが迷わずに席についた。

「さあどうするか……あ」

他の4人も律先輩と同じところに視線を向けていた。
そこには薄っぺらい本が5冊あった。

「えーと……楽しい青春の過ごし方?」

「なにかしらこれ」

「わあ、なんかお話みたいになってるね」

「これ台本じゃないですか?」

「台本?」

「ああ、たしかにそんなふうにも見えるな」

「きっと、この通りにすればいいんだよ」

「これは、軽音楽部の物語です、だって」

「軽い音楽」

「カスタネットとか?」

「そんなわけないじゃないですか。ほら、あそこに楽器おいてありますし」

「ほんとだ」

「ま、とりあえずこれの通りにやってみようか」

「そうだね」


188 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:41:39.41 2xq7eUE5o 186/252


※  ※  ※ 

「先輩達真面目に練習してくださいっ。もっと上を目指すって約束したじゃないですかっ」

「あーあ、二言目にはそれか。約束たってお前が無理矢理決めさせたみたいものじゃん。それにさうちの部活は楽しいのが一番ってことになってんの。なあ澪?」

「え?」

「ほらここ、同意同意」

「ああ……おほんっ……そうだうちは楽しんでやってくって決まってるんだから梓もそれに従って……」

「そんな……澪先輩だけは信頼できると思ってたのにっ」

「ご、ごめん」

「だから梓もちゃんとそうしてくれなくちゃ。きょーちょーせー、わかる?」

「でも」

「でも、なんだよ」

「……あずにゃんの言うことも一理あるんじゃないかなあ……なあんて」

「へえ、そっかあ。唯は梓の味方するんだなあ」

「味方とかそういうんじゃなくて……」

「それにいつも一番ふざけてる唯がなんでそんなこと言う権利あるのかよ」

「それは……」

「……も、もういいですっ。こんなとこもう一生来ませんっ」

「待ってあずにゃんっ……行っちゃった」

「いいっていいってほっとけよ」

「でも……」

「なんだよそんなに梓が気になるのか。あーそっかそっかお前どっか梓にひかれてるとこあったもんなあ。ほら、行ってくれば。あずにゃーーんってさ」

「……うぅ」


189 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:42:06.53 2xq7eUE5o 187/252


「りっちゃん、悪役似合うね」

「悪役面だもんな」

「おい、そこっ。どこか悪役面だっ」

「こわーい、ね」

「うん」

「くそう……覚えとけよ」


190 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:43:04.95 2xq7eUE5o 188/252


「でも、りっちゃんだってホントはあずにゃんが嫌いじゃないんでしょ?」

「はあ?あんなやついなくてせいせいするよ」

「ホントはあずにゃんがいるのが一番いいくせに。ただ、あずにゃんに馬鹿にされそうで怖いんだ」

「そんなことねーし」

「にせわるものなんだっ」

「え?」

「唯ちゃんぎあくしゃ、よ。ぎあくしゃって読むの」

「……ぎあくしゃなんだっ」

「なんだとー。わたしはあんなやつ……」

「みんなっ」

「あ?」

「なに?」

「…………お茶にしましょっ」


191 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:43:44.61 2xq7eUE5o 189/252


「…………そうだな」

「やったお茶お茶ー」

「ぷっ。お前らそれセリフだぞ」

「えーまじかよっ」

「お茶できると思ったのにー」

「あ、でも実は、わたしティーセット持ってきたの。だからホントにお茶にしましょ」

「さっすがムギっ」

「準備いいな」


192 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:44:14.70 2xq7eUE5o 190/252


「そういや、あずにゃんあっち行きっぱだね」

「ほら、行ってくれば。あずにゃーーんってさ」

「うん……あーーずにゃんっ」

「わっ。やめてくださいよっ」

「あずにゃん、ずっとわたしの右側にいて欲しいな」

「なんですかいきなり」

「次のセリフの練習」

「そんなことだろうと思ってましたよ」

「仲のよろしいことで。まったくこっちは困るよなあ、な」

「え? うん、そうね」

「そ、そうそう」

「そこのふたりっ。目をそらすなっ」

「食べられちゃうのかしら」

「ひっ」

「食べねえよっ」


193 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:44:42.96 2xq7eUE5o 191/252


というわけでしばしの休憩、ティータイムになった。
音楽準備室という場所とティータイムはあまりにも不自然な組み合わせで、そのおかしさにわたしたちは笑ってしまう。

「つかさ……わたしってそんな悪人っぽいか?」

「違うの。名演技ってことよ」

「ホントかよ」

「よっ大女優」

「どもども……ってバカにすんなしっ」

「でも、今度はりっちゃんの役わたしやってみたいっ」

「ムギにはあわないんないんじゃないか?」

「そうかしら」

「ちょっとやってみてよ」

「ぐへへー食べちゃうわー…………みたいな?」

「それはぜんぜん違う悪役だろっ」

「えへへー」

194 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:45:11.24 2xq7eUE5o 192/252


「そういえば、どうやってここから出るんですかね」

「普通に入った場所から戻れるんじゃないのか」

「その扉はさっきの茶番の時、わたし開けて向こう側行ったじゃないですか」

「たしかにそうね」

「台本を全部終わらせないと帰れないんだよきっと」

「とはいってもこれ結構あるぞ」

「よしっ。ずるだ」

「ずる?」

「ラストシーンをやれば全部やったことになるだろ」

「そ、そうですかね?」

「たぶん」

「ラストシーンは……あった」

「なに?」

「もいちど1つにまとまった部員たちの心からの演奏、だって」

「楽器……ならあそこにありますけど」

「弾ける?」

「むり」


195 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:45:39.90 2xq7eUE5o 193/252


とにかくわたしたちはそれぞれ楽器を手にし位置をとった。
澪先輩がベース、律先輩がドラム、ムギ先輩がキーボード、わたしと唯先輩がギター。これはさきほどの役通りだった。

「ねえねえ。ギターってかっこいいねえ」

じゃぎぃぃいん。
唯先輩が適当に音を出した。

「あずにゃんもやってみなよ」

「こうですか」

じゃぎぃぃいん。

律先輩もドラムを叩き始める。
どんどこどんどこ。

「へえ。これはおもしろいな」

「あ、待ってわたしもやる」

ぽろろんぽろろん。

「こ、こうかな」

ぼーんぼん。


196 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:46:07.66 2xq7eUE5o 194/252


いけるかもな。
みんながそれなりの音を出すようになってきた頃、律先輩が言った。

「どこがいけるんだ」

「わたしギター弾ける気がしてきたよっ」

「そんなわけないじゃないですか」

「でもやってみようよ」

「じゃあ、いくぞー」

一呼吸間があった。
わーんつーすりーっ。
唯先輩のギターがすぐに聞こえた。
遅れてドラムの音が鳴り出す。
ときどきムギ先輩がキーボードを叩く。
わざと大きなため息をついた澪先輩と顔を見合わせてから、楽器に触れた。
適当に弾いた。


197 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:46:36.82 2xq7eUE5o 195/252


雑音が響く。
それはもちろん音楽なんてのとはぜんぜんかけ離れたもので、みんながみんな自分の好きなように楽器から音を出しているだけだった。
それでも、そこにいたわたしたちには、その姿がまるでステージの上で演奏しているかのように思えてしまったんだ。
途中で唯先輩が歌い出した。
ぐちゃぐちゃな演奏とは似ても似つかないきれいなメロディー。
それはあの宇宙人の歌だった。

ふわふわたいーむーふわふわたいーむー…………


198 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:47:03.85 2xq7eUE5o 196/252


どれくらいそんなふうにしていただろう。
気づくとわたしたちは、疲れきってへなへなと座り込んでいた。
まだ陶酔感が残っていてあたりがぼやけて見えた。
輝くステージみたいに。
かっこよかったね。
ぽつり、ムギ先輩が言った。

「うんっ。すごいよっまるでプロみたいだったよっ」

「それはいいすぎですよ」

「でもへったくそだったなあ」

「へたとかそういう以前の問題だったよ」

「でも、よかったよねー」

「まあ」

「それはな」

あっと澪先輩が声を上げた。
ほとんど同時に他のみんなもあっと言った。


199 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:47:31.08 2xq7eUE5o 197/252


「ここってさ……」

「駅だ……」

「最初にいたとこですね」

「やったよっ戻ってこれたんだよっ」

「でもおかしいよな」

「台本全部やったから戻れたんだよ」

「それはそうなのかもしれないけど」

「……もしかして、最初からずっとここにいたとか、ね」

「でもさ、みんなちゃんと覚えてるよ部室にいたことは」

「なんかしらの方法で戻ってきたとか」

「なんかしらってなにかな」

「それは……わからないですけど」


200 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:47:58.92 2xq7eUE5o 198/252


「あああっもうっ。なんでもいいよっ。とにかく帰ってきたんだからそれでよしっ」

「そんなテキトーでいいんですか」

「じゃあ、宇宙人のせいにしておこうっ。なんなら幽霊でもいいぞ」

「こんなときまで怖い話をしようとするなっ」

「わかんないことは幽霊か宇宙人のせいにしとけばいいんだよ」

「他のがいいっ」

「たとえば?」

「……たぬき、とか」

「うんじゃあそうしよう。わたしたちはたぬきに化かされたんだっ。これでいいか?」

「うん」

「そうね……りっちゃんの言う通り考えてもしかたないのかも」

「わかんないことは何も考えないっ」

「さすがにそれは行き過ぎだと思いますけど」

「帰ろっか。暗くなってきたし」

「たぬきが泣いたら帰りましょー♪」


201 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:48:31.90 2xq7eUE5o 199/252


たしかに暗闇が深くなっていた。
電灯がともるのが見えた。
わたしたちは5人で横に並びながら道を歩いた。

「それにしてもあれですね。ぐだぐだな青春でしたねー」

「だなー。いつもとおんなじ」

「でも思ったんだけどこれ、意味ないですよね」

「どういうことー?」

「結局は青春の思い出も作り物ってすぐにわかっちゃうじゃないですか。だから、それじゃあ思い出を手に入れられないじゃないですか」

「ちゃんとやればちゃんとした思い出になるんじゃないか?」

「そうなんですかね」

「きっとさ、それも含めて青春なんだよ。だからもうちゃーんとした思い出なんだよっ」

「なんだそれー」

「違うかな?」

「さあなあ」

頭上にはちょうど夕暮れと夜の間の紫色の空が広がっていた。
途中で逃げ出したからきっとうまくいかなかったんだよと律先輩が言った。
不意に、もしかしたら今もまだあの台本の続きをしているのかもしれないという考えが浮かんだ。

「でも、楽しかったよね」

唯先輩が言ってみんなが肯いた。


202 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:49:00.66 2xq7eUE5o 200/252


【CM】


203 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:49:28.72 2xq7eUE5o 201/252


ちゃっちゃっちゃっ。
一定のリズムでギターが鳴っていた。
わたしはその音を聞きながら通りを眺めていた。
ときどき誰かが現れてそしてどこかへ消えていった。
眼の前に並んだいくつものオレンジ色にわたしはため息をついた。
たい焼きは売れない。
いつものことだけど。


204 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:49:57.99 2xq7eUE5o 202/252


「あずにゃーん。シーマイナーってどうやるんだっけ?」

店の奥のほうから唯先輩の声がした。
メロディーは止まっていた。

「こうやるんですよ」

唯先輩の方を見ないでわたしは言った。

「こう?」

「そうですそうそう」

じぎぃんん。
何かひっかかるような音。

「って見てないのにわかるかっ! あずにゃんきてー」


205 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:50:33.95 2xq7eUE5o 203/252


わたしは立ち上がってギターを弾いてる唯先輩のところへ向かった。

「どう抑えるんだっけ?」

「ちょっとギター貸してください」

「ギー太ね」

「ギー太」

「わあーギー太がねとられるー」

「教えませんよ」

「じょーだんだよ」

わたしはシーマイナーのコードを抑えて弾いてみせた。
メジャーコードより切なくて縮こまった音が響いた。

「おおっ。すごいね」

「ていうかそろそろコードくらい覚えましょうよ」

「あずにゃんがすごすぎるんだよー」

「それにそうじゃないと他のみなさんに遅れをとりますよ」

「むむむ……それはやだ」

「じゃあ、がんばってください」

「はーい」


206 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:51:11.94 2xq7eUE5o 204/252


バンドをやろうっ、と言い出したのは律先輩だった。
青春に帰った翌日のことだ。
なんでもみんなでしたぐちゃぐちゃの演奏がすごく楽しくて忘れられなかったらしい。
悔しいけど、その気持ちにはとても共感できた。
他の先輩たちもそれは同じだったようで、その提案は満場一致で可決された。
わたしと唯先輩がギター、澪先輩がベース、律先輩はドラムで、ムギ先輩がキーボード。
これはあの台本通りだった。
わたしは、自分でも驚いたのだけれどギターの才能があるみたいで、すぐに弾けるようになってしまった。
唯先輩はわたしにこう言った。
あずにゃんずっと昔からギターやってたみたいだね。
もしかしたら欠けている幼い記憶の中にはそんな思い出もあったのかもしれないな、とちょっと思った。


207 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:52:27.55 2xq7eUE5o 205/252


「ねえ」

ギターを弾きながら唯先輩が訊いた。

「売れてる?」

「どう思います?」

「売れてないねー」

「あたりです」

「なにがいけないのかなあ。あんなにおいしいのに」

「まあでもクリームのおかげで売り上げも少しはあがりましたし」

「ういさまさまだねー」

「そうですね」

「みんな知らないのかな、この店のこと」

「どうでしょう。でもどうどうと看板も出してますしねー」


208 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:52:55.35 2xq7eUE5o 206/252


「うーん……そうだっ」

「なんですか」

「CMだよ」

「しーまいなー」

「こまーしゃる」

「どんなCMにするんですか?」

「そうだなあ。みんなで演奏するのとかどう? たいやきの歌、みたいなオリジナルの曲作ってさ」

「いいじゃないですか。ギターうまくなったらですけど」

「あずにゃん先生厳しい」

「唯先輩のためを思ってです」

「むー」



209 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:53:30.77 2xq7eUE5o 207/252


唯先輩は再びギターをがしゃがしゃ。
ぽろんぽろんぽろん。
しばらくしてまた顔をあげた

「そういえば、ちょっとえっちなのもいいんじゃないかな」

「はあ?」

「だから、やっぱり、そういうの方が覚えてもらいやすいよ」

「たいやきとえっちが結びつかないんですけど」

「こういうのだよっ」


210 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:54:30.72 2xq7eUE5o 208/252


真っ暗な部屋。
あらい息づかい。
えっちな声。
不意に点灯。
ベットの上には2匹のたいやき。
声が重なる。
「わたしたちが丹誠込めて作りましたっ!」


211 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:54:58.33 2xq7eUE5o 209/252


「みたいな?」

「ばかなんですか」

「ひどいっ」

「それに唯先輩のえっちな声を公共の電波にのせていいわけないじゃないですか」

「嫉妬しちゃうね」

「違いますっ。はしたないって意味ですよ」

「そうかそうかあ」

「嬉しそうに言わないでください」


212 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:55:25.94 2xq7eUE5o 210/252


すいませーん。
入り口の方から声が聞こえた。

「あ、お客さんだ」

「どうせ知り合いとかですよ」

「はーい、ただいまーいきまーす」

唯先輩が店の方に消えた。
わたしは押し付けられたギターを抱えながらそのまま突っ立ていた。

「えーはい。どうぞ。あ、それはおまけですよ。あはは」

唯先輩は愛想がいい。
常連さんとは仲がいいのはもちろんのこと、はじめてのお客さんともそのまま立ち話をしている時もある。
わたしにはできない芸当だなとは思う。
嫉妬しちゃうね。
さっきの唯先輩の言葉を思い出し、そんなんじゃないですとひとり呟いた。


213 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:55:54.63 2xq7eUE5o 211/252


少しして唯先輩が戻ってきた。
手に何かチラシのようなものを握っている。

「これだよっあずにゃん」

「なんですか?」

「CMだよCM」

「CM?」

「宣伝だよ」

「見せてください」

そのチラシにはこんなふうに書いてあった。
『商店街振興フェスタ。あなたも自分の店を出して見ませんか。一番人気のお店には豪華景品も』


214 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:56:22.62 2xq7eUE5o 212/252


「さっきのお客さんが言ってたんだけどね。デパートの前でやるんだって」

あのデパートの建設が決まった時、商店街の人々の反対は大きかったらしい。
それこそデモをやったりなんだり。
それで、たしかデパート側が地域振興に尽力するとかいうことで決着がついたのだ。
あんなもの口約束でどうせ守られないとみんな思っていたが、それがこんな形で一応は果たされたわけだ。

「ね、でようよっ」

「別にいいですけど、いつなんですかこれ?」

「明日だよ」

「……急ですね」


215 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:56:50.64 2xq7eUE5o 213/252


次の日、わたしたちはデパートの前の通りに仮設店舗を出して、その後ろでクーラーボックスを椅子にして座って店の前を通る人たちにたいやきを売っていた。
周りにも同じようにたくさんの店舗が出店していて、そこはちょっとした商店街のようになっていた。
魚屋、肉屋、饅頭屋、花屋、八百屋、その他いろいろ。
中には見知った顔もあって、時折唯先輩は声をかけに行ったりした。

「ねえねえ、あずにゃん、隣のチョコ屋さんもう用意してきたの全部売れちゃったんだって」

「へえー、すごいですね」

「わたしたちもがんばろうねー」

「そですね」

こういうイベントだから当然といえばそうなのだけれど、わたしたちのたいやきもいつもより多く売れた。
それでも、唯先輩の話からするとわたしたちは売れてない方なんだとか。
まあ、そういうのは慣れている。


216 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:57:19.41 2xq7eUE5o 214/252


「たいやきくださーい」

「はい。100円になりま……って純か」

「あーはいはい。100円くらいケチらないって。はい、どうぞ。憂の分もだから2つね」

「なんか腹立つ」

「どう調子は?」

「あんまりよくないかな」

「だと思った」

「むっ」

「まあまあ、アンケートにはいれといてあげるから。よかったって」

「アンケート式なんだ」

「知らなかったの?」

「だって……唯先輩が急に言い出したから」

「わたしも知らなかったよっ」

「こりゃだめだね」

「あはは」


217 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:57:47.08 2xq7eUE5o 215/252


そのうちして夕暮れがやってきた。
わたしたちはすでに出店をたたんでいた。

「デパート行かない?」

「いいですけど。夜ご飯でも買うんですか?」

「今日はあずにゃんの当番じゃん」

「あ、そうでしたね」

「傘買ってこうかなあって思ってね」

「傘?」

「うん。今日、夕方から飴がふる予定だから。にわか飴だけど」

「そうですか。でも、珍しいですね2回降る年なんて」

「そうだねー」

「前に拾ったのだってまだ残ってるのに」

「でも、残ってるのに降っちゃだめなんてこともないよ」

「まあそうですけど」


218 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:58:15.24 2xq7eUE5o 216/252


デパートの自動ドアが開いた。
わたしたちはその間に滑り込んだ。
傘が売っている雑貨の店は3階にあった。
唯先輩はオレンジ色の傘を選んだ。

「ねえ、これも買っていい?」

「なんですか」

「全自動卵割り機」

「ダメですよ」

「えー、じゃあこれは?」

「ペンチなんて何に使うんですか」

「ピンクでかわいいから」

「ダメです」

「あーじゃあこの船の模型は?」

「……ダメです」

「けち」

「けちでけっこうですよ」

「こけこっこー」

「……はあ」


219 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:58:43.37 2xq7eUE5o 217/252


2階へ降りるときあの垂れ幕が見えた。
人工生命の購入を促すあの広告。

「ここにわたしがいたんだよね」

「そうです」

「へえ。ちょっと見に行ってみようよ」

「別にいいですけど」

そこはたくさんの電化製品がところ狭しと並べられたフロアで、階段から一番遠い角のところに人工生命専用のコーナーが設けられていた。
展示用の人工生命が3台三角形に並べてあるだけで、あとはパンフレットの棚が延々と続いている。

「ここにわたしは立ってたんだ?」

展示用の人工生命のひとつを指差して唯先輩が言った。

「そうですね。一番右のあそこです」

「ふうん」

わたしたちはそのままパンフレットの棚の方まで歩いていく。


220 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:59:11.13 2xq7eUE5o 218/252


「あずにゃんはなんで3つあるうちの中からわたしを選んだの?」

「それは……別になんとなく……一番最初に目に入ったからです」

「そっかあ。でもなんとなくでも会えたからよかったねっ」

「まあ」

パンフレットの棚には目もくれず唯先輩はずんずん先に進んでいった。
何か目的があってそこに向かっているようにも思えた。

「どこ行くんですか。行き止まりですよ」

「行き止まりじゃないよ」

そう言って唯先輩が手をかけたのは『関係者以外立ち入り禁止』の扉だった。

「だめですよ」

「でも、わたしたちが関係者かもしれないよ?」

「ちょっと……」


221 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 15:59:43.11 2xq7eUE5o 219/252


唯先輩は扉を開いた。
そこには長く薄暗い廊下が続いていた。
ずっと向こうの方から明かりがもれてくるのがわかった。
唯先輩はそこまで歩いていく。
仕方なしにわたしはついていった。
少しすると広くなった場所に出た。
その中央で不思議な機械が動いていた。
明かりはその機械にいくつも取り付けてあるモニター部分から発せられたものだった。
その姿が蜂の巣を連想させた。

「これ、なんですか?」

「ほら、なにが映ってる?」

「えとそんなのわから……あ」

「わかった?」

「わたしたち」

「あたりー」

「でも、いつの映像……」

「覚えてない?」

わたしはひとつひとつの映像に目を凝らした。
海で合宿をしている。飛行機の中で寝ている唯先輩がわたしにもたれかかってくる。浴衣を来て観客の前で演奏している。初日の出に出かける。お祭りで唯先輩にとうもろこしを食べさせられる。軽音楽部に入部する。ホテルで唯先輩と朝食をとっている。二人で漫才の真似事をする。正月のテレビを憂と軽音楽部のみんなで見ている部室で勉強をしている楽器店ではしゃぎまわる風邪をひいた憂のお見舞いに行く山の中で遠くから聞こえる音楽に耳を澄ます。
そうだ、これは。

「思い出」


222 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:00:13.14 2xq7eUE5o 220/252


「そう。接着して作ったニセモノの思い出だよ」

「なんでそれがこんなところに」

「それはなんていえばいいんだろ……」

唯先輩は後ろめたそうな顔をした。

「説明のためだよ」

「説明?」

「ほら、動物園とかによくあるよね。こうこの動物はなになにですみたいな、あれだよ」

「意味がわかんないです」

「実はね、わたしもよくわかってないんだ。でも、わかってないうちに決まっちゃったことなんだ」

「なにが決まったんですか?」

「壊しちゃおうか?」

「え?」

「どんなきれいな思い出でも、あずにゃんがいなくなっちゃったらきっと意味ないよ」

そう言うと唯先輩は目の前の機械を蹴った。


223 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:00:43.22 2xq7eUE5o 221/252


「な、なにしてるんですかっ」

「ごめんね」

唯先輩は言った。

「ごめんね……ごめんね……」

唯先輩は狂ったように機械を蹴り続けていた。
がつんがつんという鈍い音が狭い部屋中に響き渡る。
ときどき、オレンジ色の火花がばちんっ。とんだ。
その姿は普段の唯先輩からはあまりにかけ離れたもので、わたしは怖くなった。
でも、いま目にしてる唯先輩こそがホントの唯先輩なんじゃないかと頭のどこかで考えてもいた。
なにしろわたしは唯先輩の説明書すら持っていないんだ。
あの日、デパートの3階に展示されていた唯先輩にはどんな説明書きがあっただろう。
もう思い出せなかった。


224 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:01:12.63 2xq7eUE5o 222/252


どれくらいたっただろう。
やっと唯先輩は落ち着いた。
無残な姿に変わり果てたあの機械が目の前に転がっていた。
唯先輩は言った。

「逃げようっ」

唯先輩がわたしに向かって手を出した。
少しの間が空いて、わたしはそれをとった。
階段を上がってデパートから飛び出した。
入り口のとこらにフェアの結果発表を待つ人の群れがあって唯先輩はそこに突っ込んでいった。
どこかでどおおんどおおんと号砲が上がっていた。
少なくとも、わたしたちが賞をもらうことはなかっただろう。

「今度は手離しちゃっだめだよ」

唯先輩が振り向いた。
それで、こんなことが前にもあったんだと思い出した。
たしか夏のお祭りかなんかで。
あの時は手を離しちゃったんだっけ。
唯先輩は人ごみの中に消えていってしまったんだ。
でも、そのときは別にたいしたことでもなかったような。


225 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:01:42.88 2xq7eUE5o 223/252


唯先輩はわたしの手をひいて走り続けた。
もう一方の手には傘を持っていた。
そういえば、今日は夕方から飴がふるって言ってたな。
商店街が後ろに流れていった。
坂の上のあの丘まで行って止まった。
呼吸が収まるまでそのままでいた。
夕日で街がきれいなオレンジ色に染まっていた。
唯先輩が肩に手を回してきた。
顔にはまだ赤みがさしていた。

「ごめんね……怖がらせちゃったよね」

「少し。でも別にいいですよそんなことくらい」

「思い出しちゃったんだ。いろんなことを。ううん、ホントはずっと知ってたんだけど……」

「どんなことですか?」

「知りたい?」

「それは……」

唯先輩の顔があまりに真剣だったのですぐには答えられなかった。
長い沈黙の後、わたしは答えた。

「……知りたいです」

「でも、もしかしたら傷つくかもしれないよ」

「傷つく?」

「きっとやな話だよ。それでも?」

「はい」

「ホントに……今のままでいられないかもしれないよ」

「だって唯先輩はもう知っちゃってるじゃないですか。そんな嫌な話を」

「そっか。わかったよ」

唯先輩がわたしの手をとった。
そのまま自分の方に引き寄せた。
わたしは唯先輩にもたれかかるみたいになって、おでこがぶつかった。
睡魔がやってきた。
溶けていく感じ。
欠伸がでた。
おやすみ。



226 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:02:23.58 2xq7eUE5o 224/252


【思い出5】


227 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:03:09.26 2xq7eUE5o 225/252


きいいいかああんきいいいかああんぷくぷくとうんぷくぷくとうん。
機械の動く音。液体が揺れる音。
懐かしいな、なんてぼうっと考えていた。
どこで聞いたんだっけ?

そこは四角い部屋だった。
光を灯した蛍光灯は今にも消えそうで室内はひどく薄暗く、薬品の鋭い匂いがした。
わけのわからない大小の機械類があちこちに散在していて、そこに貼っ付けられたランプが点滅し続けていた。。
赤、青、黄、緑、赤、青、黄……ちか、ちかちか。

そのうち、わたしはある気配を感じるようになった。誰かが部屋の中央あたりにいるような。
だけどそこには四角い箱が一つぽつんと置いてあるだけだった。ネズミでもいたのかもしれないなとわたしは考えた。

そのまま何かが起こるのを待っていた。相変わらずランプは一定のテンポ点いたり消えたりを繰り返し、時々上のほうで蛍光灯が静かなうめき声をあげるだけで、それ以外のすべては変わらないままだった。
とうとうわたしは何か行動を起こすために、体に力を入れようとした。
だけどうまくいかなかった。
ここにわたしはいないんだと理解する。
わたしはただの視点でしかなかった。
そんなに変な気分はしなかった。例えばそれは夢の中で自分で自分を発見するようなそんな感じ。
まあ、わたしが次に見つけたものといえば脳ミソだったんだけど。
円柱状のアクリルケースいっぱいに緑色の液体、その中の溶けかかった脳ミソ。
その脳ミソの後ろ側にはげんこつくらいの穴がぽっかり空いている。
そこからたくさんのコードが伸びていて、部屋の中心の小さな箱の中に繋がっていた。
ぷくんぷくん。
液体の中で脳みそは控えめに上下していた。ケースのなかで時々思い出したようにあぶくが上がった。
わたしはなんだか笑い出しそうになった。

あーずにゃんっ。

誰かがわたしを呼んだ。
唯先輩だってわたしはすぐにわかった。


228 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:03:54.10 2xq7eUE5o 226/252


「こっちだよ……じぃぃ……こっちっ」

唯先輩の声にノイズが交じる。
わたしはもう一度あの四角い箱に視線を戻した。

「そう、こっち……」

「はこ?」

「はこっ」

あ、笑った。

「なんでそんなとこにいるんですか」

「あずにゃんだってあそこにいるよ」

「あそこ?」

「のーみそ」

「ああ」

「もっと驚くと思ったのに……」

「なんとなくそんな気はしましたよ。あれがわたしだって」

「うそだー。あとだしっ」

「しかたないじゃないですか。わたしだって自分があんな脳ミソだって別に知りたかったわけじゃないですよ」

「むう」

唯先輩の表情が浮かんで脳裏に貼り付いた。ぷくっとほっぺを膨らましている。
箱でしかなかったのにね。
そんなこと言っちゃえばわたしはむき出しの脳ミソだったわけだけど。


229 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:04:20.80 2xq7eUE5o 227/252


「聞きたいことがいくつもあるんですけど」

「うん。わたしに答えられるかな?」

「どうでしょうか」

「よしっいいよ。かむおんっ」

「じゃあ、まずここはどこですか?」

「ここは地球だよ」

「地球?」

「うん。地球のなんていうのかな、基地だよ。調査基地」

「何を調査してるんですか?」

「地球に住んでた人間のことだよ」

「誰が?」

「火星人が」

「ちょっと待ってくださいよ。じゃあ、わたしたちは火星人だって言うんですか」

「わたしは機械だよ。あずにゃんは元、火星人」

「もと?」

「うん。あずにゃんは火星人だったんだ。でも悪いことをして火星人じゃなくなったんだ」

「わたしはどんなことをしたんですかね」

「待ってね思い出すよ」

唯先輩は黙ってしまう。
箱のランプの点滅がはやくなった気がした。
思考中、ということだろうか。


230 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:04:49.75 2xq7eUE5o 228/252


「思い出したよっ」

「なんですか?」

「盗みだよ」

「盗み?」

「うん。あずにゃんは飴玉を盗んだんだよ」

「それだけですか?」

「それだけ」

唯先輩が言うには、それはこんな話だった
火星人だった頃のわたしは飴玉を盗んだ。
駄菓子屋の入り口近くの飴玉をひとつとって逃げた。
残念ながらと言うべきかどうかはもう火星人じゃなくなったわたしにはもうわからないけど、わたしは捕まった。
火星では人工が増えすぎていて公には言えないけれど人を減らしたいらしいのだ。
だから、どんなちいさな犯罪もそれなりの刑が課せられる。
少なくとも、火星にいられなくなるくらいの罰が。
というわけでわたしは地球、もう滅びた惑星に送られることになった。
ただし駆動機械の指令部分、つまり脳ミソだけ。
だからもうわたしの体はなくなちゃったらしい。
かわいそうに。
わたしは昔のわたしに同情してみたりもする。


231 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:05:18.19 2xq7eUE5o 229/252


「なんであずにゃんはあめ玉なんか盗んだのかな?」

そんなのこっちが聞きたい、と言いたかったけど、黙っていた。
代わりに訊いた。

「わたしは、つまりわたしだったわたしの脳ミソはここで何をしてたんですか?」

「思い出を探してたんだよ」

「思い出……」

「あずにゃんは、あずにゃんの脳ミソはね、モグラみたいな機械の体の中に入れられてね。その機械は思い出を掘る機械でね。あ、でもほんとに穴を空けるんじゃいないんだよ。なんていうか、えと」

「比喩ですか?」

「そうっそれそれ。それで、そんなふうにして集めた地球の思い出というか歴史というか記憶とかまあそんなものを、みんなあずにゃんの脳ミソの中にしまっておくんだ」

「はあ」

「わかんないかな?」

「はい」

「わたしもだよ。一緒だね。データで見ただけだから」

「でも、じゃあ、なんであの脳ミソはあんなところにあるんですか?」

わたしは指差そうとして、それができないのを思い出す。
ガラスケースの中で脳ミソがぴくりと揺れた。


232 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:05:48.85 2xq7eUE5o 230/252


「いっぱいになっちゃったから」

「思い出でいっぱいってことですか」

「うん。だからね、もう役に立たないんだって」

唯先輩はそんなことを軽い口調で言った。
でもわたしも、まるで自分じゃない誰かの話を聞いてるみたいな気分でいる。

「どうなっちゃうんでしょう」

「動物園に行くはずだったんだ」

「動物園?」

「地球人の動物園なんだって」

「でも、わたしは火星人だったんじゃ」

「だからね、あずにゃんを地球人にするはずだったんだよ。ニセモノの思い出を作ってね。体はどうにでもなるから」

でも失敗だったよ、と唯先輩は言った。
わたしはいつも失敗ばっかりだよね。

「地球の思い出の中からね一人分の思い出を選んであずにゃんはその人になるはずだったんだよ」

つまり、中野梓に。


233 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:06:16.54 2xq7eUE5o 231/252


「もちろんやるのは簡単じゃないんだよ。だって、ほらあずにゃんの頭の中にはもちろん火星人だった頃のあずにゃんがいて、拾ったいろんな思い出があって、それがぐちゃぐちゃになって交じり合ってるから」

「それでどうしたんですか?」

「あずにゃんにくっついてね、頭の中でいらない記憶を捨てて空き場所をつくったりなんとか並べ替えたりしてちゃんと立派な一人の地球人の思い出にするんだ。それがわたしのお仕事だったんだ」

「でも、やっぱり、わたしは火星にいたようなそんな気がします」

「だから、失敗しちゃったんだよ」

「それはどんな失敗だったんですか?」

「その前にね、ひとつ」

「なんですか?」

「あずにゃんがいたところは実は火星じゃないんだ」

「じゃあ、どこなんですか」

「それはわたしにもわかんないけど」

「わかんないんですか」

「でも、好きだったんだ」

「好き?」

「火星と地球が、いろんな思い出がぐちゃぐちゃになってる、そこが。なんでかな?」

「わたしに聞かないでくださいよ」

「あずにゃんがいたからかな」

「知らないですよ」

「そうかな?」

「だから、知らないですってば」

「てれてるの?」

「違いますよ」

「でもとにかく、わたしはやめちゃったんだお仕事を。ニートになっちゃったんだよ、今度はほんとにね」

なにがおかしいのか唯先輩はくすくす笑った。


「だからあずにゃんも欠けちゃったままだね」

20%あずにゃん。
唯先輩は呟いた。



234 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:06:48.97 2xq7eUE5o 232/252


「でも、ばれないんですか、つまりそのお仕事さぼっちゃても。大変なことになったりしないんですか?」

「しないよー。だって火星人はみんなもうあずにゃんのこと忘れちゃってると思う。それにね、いっぱーいいーっぱいるんだよ、地球の思い出を集める脳ミソは。だから一個くらいこっそり消えても大丈夫っ」

「1個と1台」

「そうだね。1個と1台」

「これからどうなるんですか?」

「どうにもならないよ。ただいつもとおんなじ毎日が続くんだよ」

「いつまで?」

「脳ミソが腐っちゃうまで」

「それってどのくらいなんですか?」

「わかんないよ」

「明日かもしれないし100年後かもしれないってことですか」

「1万年とかだったりしてね」

「長いですね」

「長いよねえ」

不意に、視界が歪んだ。
だんだんと周囲がぼんやりしてきた。


235 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:07:16.26 2xq7eUE5o 233/252


「あ、終わる……」

「夢の終わりは唐突なんだ」

「そういえばもうひとつ聞きたいことがあったんですけど」

「何?」

「なんで唯先輩はこの思い出を、選んだんですか?」

「それはね、この思い出がわたしが見つけた思い出で一番きれいだったからだよ」

それは保存状態がよかったという意味なのか、それとも素敵な思い出だったという意味なのか、とうとうわたしは聞くことができなかった。
夢は急速に終わろうとしていた。
部屋中のいろんなものの輪郭が溶けた。
光の粒が拡大した。
そして、その夢の終わりにわたしは見ていた。
わたしだった脳ミソと唯先輩だった箱、その2つが短いコードで繋がっていたのを。
接着。
唯先輩で素敵な夢を――。



236 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:07:47.55 2xq7eUE5o 234/252


【DropOut2】


237 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:08:15.72 2xq7eUE5o 235/252


気がつくと、元の丘の上にいた。
わたしにもたれかかったまま唯先輩はまだ眠っていた。
ほっぺをひっぱった。
ぐにぃいんと伸びた。
ぷにぷにしてておもしろい。
もう、夜だった。
背中になにかがあたる感じがして上を向くと、飴が降っていた。
顔にひとつぶつかった。
唯先輩の手にある傘を奪おうとして肘があたった。
あずにゃん?
唯先輩が目を覚ました。

「ひゃあ。いたいいたいあめだあめ」

「かさ、開いてください」

「そうだ、そうだね」

大げさな音がして傘が開いた。


238 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:08:43.77 2xq7eUE5o 236/252


「……ふあああああ」

大きなあくび。

「ひぃぃああ」

わたしもそれにつられた。
唯先輩はこっちを見て、えへへと笑った。
わたしはそっぽを向いた。
少しあとで唯先輩が言った。

「ねえ、覚えてる?」

「はい」

「そっかあ。嫌な夢だったねー」

傘をくるくる。
そうじゃなくて、こっち側が夢なんじゃないかとわたしは思った。
思ったけど黙っていた。
どうせ、どっちが夢なのか、なんてわかりはしないんだ。


239 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:09:11.20 2xq7eUE5o 237/252


唯先輩は街を見ている。
どこか不安定な横顔。
飴の隙間からちらつく街。
たしかにどこかぼんやりとしていて、そして夢みたいだった。
わたしは、ずっと何をしたって一人ぼっちだって気がしていた。
誰かといても寂しかった。
それは間違ってなかったのかもしれない。
だって、わたしはホントに一人だったから。今もあの液体の中で孤独に揺れる脳みそでしかなかったから。
眼下の街にあめが降る。
カラフルな世界。モノクロだったならすぐにでもニセモノだって知って捨ててしまえたのにね。
眩しくて目を細めた。
滲んで見えた。
唯先輩が口笛を吹いていた。
乾いた音色が耳をくすぐった。
さみしいよ。
小さな声で呟いた。
傘の上で飴がはじけた。
さみしいね。
唯先輩がちょっと笑った。


240 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:09:38.36 2xq7eUE5o 238/252


「きれいです」

「そうだね」

「でもきっと忘れちゃうんですよ。すぐに」

「あずにゃんかなしいこと言うねー」

「……ま、いいんですけど」

「つよがり?」

「だって、忘れちゃえばなかったのと同じじゃないですか」

「そうかなあ」

「そうじゃないですか」

「でも、きっと忘れたんじゃなくてどこかにおいてあるんだよ」

「どこにですか」

「それは……忘れちゃったけど」

「それじゃあだめじゃないですか」

「だめかあ。ざんねん」


241 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:10:07.70 2xq7eUE5o 239/252


「そういえば、昔のわたしがなんで飴を盗んだのかわかった気がします」

「なんでなの?」

「さみしかったからなんですよ。たぶん」

「さみしい?」

「きっと昔のわたしも一人ぼっちで、だから誰かにかまって欲しくて、飴を盗んだんじゃないでしょうか」

それはちょうど夢の始まりの日、わたしが唯先輩を盗んできたのと同じように。

「そっかあ。飴があれば安心だもんね」

「そうじゃないですって」

「わたしがさ、こう……あずにゃんを寂しくなくしてあげられればよかったのに」

「別にいいですよ。そこまでしてもらわなくても」

「でも、さみしいのはつらいよ」

「ひとりも悪くないですよさみしいのも。みんなと、唯先輩といっしょなら」


242 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:10:36.60 2xq7eUE5o 240/252


そのうちして、ホンモノの、昔どこかで見たことあるような気がする雨が降った。
それはわたしの目からこぼれ落ち、膝の上でぴちゃんぴちゃんと音を立てた。
それは涙だった。
泣いていたのはわたしだったのかな。
それとも、もしかしたらこの涙は誰かも知れない、この世界――地球に落ちていた思い出、の持ち主のものだったりして。
ありもしなかった思い出についてのノスタルジーに。
改変された思い出を見てホンモノのわたしはなんて言うだろう。これが自分の思い出だったって、もう気づけないかもしれない。
だとしたら、やっぱりわたしが泣いてるのか。
別に悲しくはないのに。
唯先輩が涙をぬぐってくれた。
傘を持っていない方の手で優しくわたしに触れた。
涙はね、嬉しい時にもでるんだよ。
耳もとでそっとささやいた。
嬉しい、かあ。
なにがって聞かれてもよくわからないけど。


243 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:11:03.63 2xq7eUE5o 241/252


夜が迫ってきて、街に灯りがともされはじめた。
そこでは今も生活が続いていた。
24色クレパスをミキサーでぐちゃぐちゃにしたみたいなたくさんの感情がついたりきえたり。
そんなふうに、にせものたちが毎日をやりすごしている。くだらない冗談で生まれちゃった幽霊が行き場もなくさまよっている。
そんな街。
結局のところ、わたしにできることは生き続けることだけなのかもしれないな。
溶けかかったあめ玉みたいに張り付いて剥がれなくなったこの日々を。
火星でも地球でもないどこか別の舞台で――たとえば、そうだな、頭の中の穴っぽこで、とかね。
別に泣くほどのことでもないんだ。
ただ、そうだったというだけで。
ま、でも、こういうのもけっこう悪くないかもしれないよ。
それが唯先輩の選んだ、地球で一番きれいだった思い出の続きなら。


244 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:11:30.71 2xq7eUE5o 242/252


「でも、いろんな景色を思い出せなくてもへいきだよね」

唯先輩が不意に言った。

「だってほら、あずにゃんはずっとわたしのそばにいるもん」

「はあ」

「朝にね、あずにゃんを見るたびいつも思い出すんだよ。あずにゃんがわたしにキスしてくれたこととか、告白してきた時の真っ赤な顔とか、一緒に旅行したこととか」

「そんなことありましたっけ」

「そりゃあ……ちょっとは記憶違いもあるかもだけど」

「ちょっとじゃなくてほとんどじゃないですか」

「まあ、いいよね」

「よくないですよ」

「だって、どんな思い出も忘れちゃうんだよ。もし、ウソついても忘れちゃうから」

「から?」

「ウソついてもいいんだよ」

「ふうん」


245 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:11:57.68 2xq7eUE5o 243/252


「聞いてる?」

「聞いてますって。ただ、疲れすぎてて……帰りましょうか?」

「どこに?」

唯先輩が訊いた。
どこにもいけないけど帰る場所ならちゃんとある。
みんながいるあの街の、商店街の、片隅に。

「おうちにですよ。たい焼きを焼かないと」

「うん、そうだねっ。お腹空いちゃったよ」

唯先輩は笑った。

「じゃあ、行きましょうか」

相合傘が揺れた。
家につく頃には飴は止んでいた。
唯先輩が呟いた。

「あっ、虹だ。虹だよあずにゃん」

「虹?」


246 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:12:28.55 2xq7eUE5o 244/252


「ほら」

ぱっと手のひらを唯先輩が開いた。
その上には、赤色、水色、黄色、緑色、紫色、橙色、6つの飴玉。

「ひとつ足りないじゃないですか」

「それはあれだよ」

唯先輩が指差した先には青い星――地球があった。

「そんなんでいいんですか」

「どーせニセモノの虹なんだよ。細かいことは気にしないっ」

「はあ」

「いくよっ。虹ができるのは一瞬だからね見逃しちゃだめだよっ」

唯先輩は飴玉を空に向かって投げた。
6つの色が広がって遠く小さくなる。ちょうどここから見た地球と同じ大きさに。
そうして、虹がかかった。

「……わあ」

感嘆の声がこぼれた。
虹はいいよね、って唯先輩が言うのが聞こえた。
ばらばらで散り散りになった7つの星。
わたしたちにだけしかわからない虹。

すべての飴玉が下に落ちてしまった後もわたしは地球を眺めていた。
青い月。
わたしは今もあそこで夢を見てるんだ。


247 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:12:56.60 2xq7eUE5o 245/252


「あずにゃん、たい焼き食べる?」

唯先輩が訊いた。

「落ちこぼれちゃんだよ。さっき一個残ってたのをそこで見つけたんだ。半分こしようよ」

「いいですよ」

唯先輩は半分にしたたいやきをくれた。
焦げたような甘いようなそんな懐かしい匂い。

「おいしいよ、これも」

唯先輩が言った。
わたしはたいやきに口をつけた。
くしゃり。
粉々になった皮が足元に少し降った。
甘い味。ざらざらした感触。
みんな口の中でとけた。
わたしは言った。

「そんなことは前から知ってますよ」


248 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:13:24.50 2xq7eUE5o 246/252


「えへへ」

「なんですか?」

「あずにゃんがそうやって言ってくれるのを待ってたんだ。ずーっとずっとっ」

そうして唯先輩が飛びついてきた。
バランスを崩して後ろに倒れる。
でも、持っていた、たい焼きは落とさない。
ちゃんと握ってた。
空が一瞬見えて、あの青い星が降ってくるような気がした。
飴玉が降るようなそんな。
その瞬間、わたしはいろんなことを思い出せた気がした。
たぶん、それはぜんぶホントはなかったことなんだろうけど。
それならそれで、まとめて小さな箱の中にでも隠しておけばいい。
バレちゃわないように。失くさないように。
こっそりと。


249 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:13:51.88 2xq7eUE5o 247/252


きっとわたしはそうやって思い出せもしない思い出を大切に集めてきたんだ。
唯先輩の手を引っ張って盗んできたあの日から、ずっと。
なんのためにだろう。
たぶん。
わからなくてもきれいだからだ。
その中にある景色を思い出せなくても、その思い出のしゃぼん玉はきれいにきらめくから。

「さっき、なんて言ったんですか?」

「あずにゃんがいるのは嬉しいよね、って」

そっか。
だから、笑わずにはいられなかったんだ。

飴が降った日、唯先輩の胸の中だった。


250 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 16:14:20.59 2xq7eUE5o 248/252

おわり

252 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/11 21:54:42.93 X8Nfo9tmo 249/252

素敵。こう言う雰囲気好きです。

258 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/17 06:21:18.47 sjnJr8Vu0 250/252


切ないなぁこれ
でも好きだ

259 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/17 08:33:24.71 T8ioXzhIO 251/252


一気に読んじゃった

260 : VIPにかわりましてNIPPER... - 2012/08/17 17:07:54.20 cpbzf9jDO 252/252

しんみり優しい感じが良かった

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